一緒に孤立、してくれますか?

◆春日亜美のトキメキ◆
 左手にした時計を見る。可愛らしい猫の基盤に、ハート形の針が時を刻んでいる。時刻は九時半。
 待ち合わせの時刻はすでに三十分も過ぎていた。しかし亜美の顔は弛んだままだ。
(いったいどんな方なのかしら)
 自分をこの場所に呼びだした相手を想像し、期待に胸を膨らませて、亜美はベンチに腰掛けたまま足を浮かせて前後左右に振る。そのたびに木製のベンチを補強した鉄のフレームが、ひんやりと足に当たって気持ちいい。両手を硬いフレームに当て、名前も知らない誰かがやって来たらすぐにでも立ち上がる準備をしていた。
 亜美は八時前からこの場所に着いていた。昂奮して自分の屋敷でじっとなどしていられなかったのだ。
 太郎の意味不明な発言ですっかり気落ちしていた亜美だったが、自宅に帰ってすぐに見つけた鞄の手紙で一気に最高潮になった。

『好きです。水比良公園の噴水前のベンチに、今日の九時に来てください。お願いします』
 
 質素な文面だった。何一つ飾られた言葉など無い。だがそれだけに亜美の心にストレートに響いた。いつの間に鞄に入れられたのかなど考え付きもしないくらいに。
(『好きです』、かぁ……)
 もう何十回と読み返した手紙を広げる。
 決して丁寧とは言えない文字は明らかに男の物だ。
(ワタクシと一緒のクラスの方かしら。それともよく行く恋愛占いの店で偶然見かけた人? たまたま通学路が同じ人って可能性もありえますわ)
 そんな妄想を膨らましているだけでも、亜美にとっては幸せだった。
 それもそのはず。亜美が告白されるのはコレが初めてなのだから。
 亜美の方から告白した事は数え切れないくらいあるが、その逆は全くなかった。皆、亜美とは距離を置こうとする。どこに行っても亜美は特別扱い。ソレを最初に味をわったのは小学三年生の時だった。
 休日、両親に連れられて遊園地に出かけた時のことだ。その日はよく晴れていて園内は大勢の人達で賑わっていた。それだけに乗り物待ちで並んでいる人達の数は想像を絶し、『一時間待ち』と書かれたプレートが当たり前の様にそこかしこで見られた。それでも亜美は、この遊園地の最大の目玉である巨大観覧車に乗りたかった。
 照りつける日差しの中、どの親も子供達を喜ばそうと汗を拭きながら立ち続けている。そして亜美が列の最後尾に並ぼうとした時、両親に手を引かれて先頭の方に向かわされた。戸惑いながらも亜美は黙って付いて行った。そして父親が係員と二言三言、言葉を交わした後した後、亜美はアッサリと観覧車の前に通されたのだ。
 この遊園地は春日財閥の傘下にある企業が経営していた。優遇されるのは当然だった。しかし亜美はどこか後ろめたさを感じていた。事情を知らない人達から見れば、不当な横入りに他ならない。事実、苦労して並んでいる人達から痛いほどの視線を感じた。そして亜美にとって最大の不幸だったのは、その中に同級生がいたことだった。
 次の日、遊園地での出来事はクラス中に広がっていた。
 羨望、畏怖、嫉妬。皆、ハッキリと口には出さないが、明らかにコレまでとは違った態度を取るようになっていた。以来、亜美は春日財閥のお嬢様というフィルターを通して見られることになる。
 その特別扱いは中学、高校になっても変わらなかった。大きな情報網を持った生徒がいるのか、それとも亜美に変な男が寄りつかないように親が吹聴しているのかは分からないが、どんなに隠していてもいつの間にか亜美は特別な存在に仕立て上げられていた。
 高校の時、一人だけ亜美に対して遠慮なく付き合ってくれるケンカ友達がいたが、大学で離れてしまった。彼女は今、北条一弥というバカ正直な男とめでたく結ばれ、幸せな日々を送っていることだろう。その光景を思い描くと、祝福したい気持ちと共に羨ましさも湧き上がってきていた。しかし――
(ようやく、ワタクシにも春が訪れますわ……)
 容姿や体型などはよほどのことがない限り目を瞑るつもりだった。亜美が男に求めているのは、お嬢様というフィルターを通さずに自分を見つめてくれることなのだ。最初はお金目当てでも良い。しかし少しずつで良いから、普通の女子大生としての自分を見て欲しい。好きな人のために着飾り、身を磨き、尽くす自分自身を。
 これまで亜美の方から告白して相手にソレを求めてきたが、今回は向こうから自分のことを好きだと言ってくれている。ならば最初から亜美自身を見てくれている可能性が高い。
(ワタクシのどんなところが良かったのかしら)
 安っぽいドラマでよく見かける、どこにでも転がっていそうな普通の幸せ。ソレが亜美の最も欲する物だった。
「あ……」
 背の低い男がコッチに向かって歩いてくるのが見えた。
(あ、あの人かしら……)
 鼓動が早まっていくのが分かる。顔が熱くなり、目眩さえ感じるようになった。どんどん彼の姿が大きくなり、亜美の熱い視線に気付いたのか顔だけをこちらに向ける。目があった時には心臓が口から飛び出しそうになっていた。しかし、そのまま背の低い男は何事もなかったかのように亜美の前を過ぎ去って行く。単なる通行人のようだった。
「はぁ……」
 それでも亜美の昂奮は引かない。熱っぽい溜息をついて腕時計に目をやった。
 十時五分前。もうすぐ約束の時間から一時間が経過することになる。
(きっと服を選ぶのに時間が掛かってるんですわ。ワタクシも告白の日はそうですもの)
 待ち人が来ない理由を好意的に解釈すると、亜美は改めて自分の服装を見直した。
 ブラックレースのキャミソールの上に水色のVネックカーティガンを羽織り、胸元が寂しくならないように小さなバラを象ったシルバーアクセサリーを身につけている。
 下は黒い光沢のあるプリーツスカートに、同色のハイソックス、そしてコントラストを明確にした白のレザーパンプス。
 数ある勝負服の組み合わせの一つだった。
(お、お化粧落ちてませんわよね)
 突然不安に駆られ、亜美は紅いトートバッグからコンパクトを取り出して自分の顔を映し出した。
 ストレートの黒髪の毛先には軽くウェイブを掛けて厚みを持たせ、薄茶色のメッシュをあててアクセントを付けている。二重の瞼にはラメ入りの白いアイシャドウを施して目元を強調し、僅かに付けたグラデーションが大きな亜美の目をより大きく見せていた。
 パールマスカラで視線に力を持たせ、ファンデーションを縦に塗って顔を小さく見せ、チェリーピンクのチークで表情豊かに仕上げている。そして薄紅のグロスルージュで唇を彩り、柔らかさと瑞々しさを演出していた。
 一時間も掛けた化粧は、かつて無い気合いの入りようだ。初めて告白される立場になり、亜美は天にも昇る気持ちで鏡を見ながら微笑む。鏡の中の自分がニッコリと微笑み返してきてくれるのを見て、亜美は信じられないくらい浮かれていることを再確認した。
(早く来ないかしらっ)
 十時十分。
 一時間以上過ぎた頃になって初めて、亜美の胸中に陰りが差し始めた。そして、もしかしたらという考えが頭の中に生まれる。
(な、何考えてますの、ワタクシったら。相手の方に失礼ですわ)
 頭を振って邪推を追い払うと、亜美は辺りを見回した。
 さっきまでいた人影は全くない。広い公園で亜美はたった一人、手紙の差出人を待ち続けていた。
 十時三十分。
 亜美の顔から笑みが消えた。
 下唇をギュッと噛み締め、公園の入り口の方を見つめながら信じる思いにしがみついている。
 きっと来るはず。きっと後五分もすれば「遅れてスイマセン」って言いながら現れてくれるはず。
 まだ許せる。今姿を見せてくれれば「そんなに待っていませんわよ」と言える。そして告白してくれれば無かったことにさえ出来る。
 十時五十分。
 携帯に連絡が入った。親からだ。
 早く帰ってこいと言われたが、必死に明るい声を作って、今盛り上がっているところだからと言い訳した。
 物悲しさが倍増した。
 十一時五分。
 寂しさに耐えきれなくなった。いつもなら今頃テレビでも見ながら親と談笑しているのだろうと思うと、言いようのない孤独感が沸き上がって来た。
(一人、ですわ……)
 今更になって改めて思う。この公園どころか通りにも人の気配はない。亜美の視界が届く範囲で自分以外の人間を確認できなかった。
 誰か側にいて欲しい。誰かに喋り掛けて貰いたい。何でも良いから、この孤独を打ち消すだけの事が起こって欲しい。
 だが、深夜の閑散とした公園でソレはあまりに無茶な望みだった。
「帰ろう、かな……」
 台無しだ。せっかくした化粧も、お気に入りの洋服も。
 見せる相手が来ないのでは全く意味がない。
(きっと、からかわれたんですわ……)
 男達に恨みを買っている事は亜美自身よく分かっている。恐らく、彼らがした嫌がらせなのだろう。そうとは知らずに、はしゃいでいた自分がバカみたいだ。
 しかし――
(もしかしたら来る途中で事故にあったのかも……)
 来るかもしれないという思いを完全に消すことは出来なかった。それは初めて受ける告白への淡い期待であり、自分への意地でもあった。それにココまで待ったのだ。あと三十分くらい待っても同じ事。
 そう、自分に言い聞かせて亜美はいつまでも待ち続けた。

 結局、十二時近くまで待っても手紙の差出人は来なかった。
 携帯越しに聞こえる親の悲鳴混じりの声に背中を押されるようにして、亜美は渋々公園を後にしたのだ。
「はぁ……」
 いつもの大学のカフェテリア。今日は雨なので、屋内で昼食の野菜サラダをつつきながら、亜美は重い溜息をついた。白いフリルブラウスに茶色のカーディガン、グレーのロングスカートといった地味な服装で一人、頬杖を付きながら窓の外に目を向ける。
 屋外テラスにある十数個の丸テーブルは雨で濡れ、当然の事ながら人は誰もいない。しかしその光景を見ていると、昨日の公園での出来事をもう一度見せつけられているようだった。
「おやおや。現代社会の救世主、春日亜美嬢では御座いませんか。今日も一人でもの凄い憂いを帯びてらっしゃる」
 そんな亜美の傷心も知らず、後ろから芝居がかった声が掛かる。大学でこんなにも軽々しく亜美に話しかけるのは一人しかいない。
「真宮寺……」
 呟くように言いながら、疲れた視線を太郎の方に向ける。相変わらずキャラクター物のTシャツを恥ずかし気もなく着、亜美とは滑稽なほどに対照的な明るい表情を浮かべていた。
「目の前、失礼してよろしいですか? マドモアゼール」
 胸に手を当て、慇懃(いんぎん)に礼をしながら太郎は低い声で訊ねる。
「勝手になさい」
 何か言い返す気力も無く、亜美は突き放すように言った。
「なんだよ、機嫌ワリーじゃねーか。なんか嫌なことでもあったのか?」
 亜美の目の前に席に座り、半眼になって言いながら太郎は紙袋から取り出したピンクの水筒の中身を飲み始めた。
「貴方には関係ありませんわ」
 憮然とした表情で言い、ドレッシングのついたレタスをフォークでつまみ上げて上品な動きで口に持って行く。幼い頃からの躾で体に染みついたものだ。
「まー、そりゃそーだ。お前が不幸ヅラしてても俺がハッピーなら何の問題もない。空気の成分が変わることもなければ、地球の自転が止まることもない。万事オーライ、ショギョームジョー、ダブリー一発ツモってとこか。わはははは」
 屈託無く笑う太郎を見て、亜美は何だか少しだけ心が軽くなった気がした。このふざけた男を目の前にしていると、真剣に悩んでいる自分が間抜けに思えてくる。太郎のようになりたいとは思わなかったが、少し羨ましくはあった。
「貴方って悩みなさそうですわね」
 溜息混じりに言いながら、バカにしたように少し鼻を鳴らす。
 他人に弱さを見せては行けない。春日亜美という女はそんな弱くない。弱みを見せればソコにつけ込まれる。そんなことで心を開いても相手の良いように扱われるだけだ。それは亜美の思い描く理想的な恋愛とはほど遠い。
「悩み? おいおい俺様には一生かけて向き合わなければならない悩み事があるぞ」
「へぇ、意外ですわ。何ですの?」
「『悩みがない』。ソレが俺の悩みだ」
 太郎は紅い短髪をキザっぽく掻き上げ、満足そうな笑みを浮かべる。
「……そーですの。それじゃ、せいぜい頑張ってくださいませ」
 呆れたような視線を向ける亜美に、太郎は思い出しように扇子で頭をポンッ、と叩いた。
「あ、そう言えば来週発売の『女子トイレ』の新曲が三枚しか予約できなくてなー。うーん、あれには参った」
「女子、トイレ……?」
「ああ、この前新しくできた女性ユニットの名前だよ。なんとアニメ世界限定活動。声以外は全てCGで構成されている。そのボーカルの女の子がちっちゃくてエロカワイイのなんの。まさにアキバ系住民の夢と希望を背負ったグループなわけよ」
 うんうんと何度も大きく頷きながら、『女子トイレ』とかいうアニメバンドグループの説明を続ける太郎。亜美にとっては毒電波以外の何物でもない。
「あーはいはい。も、もう分かりましたわ。貴方が博識だってことは十分に分かりましたから、その辺で止めてくださる?」
「そうか? うーん、後一時間は語れるのだが。残念だ」
 危なかった。
 自分はそんな危険に晒されるとこだったのかと思うと背筋に冷たい物が走る。
「貴方のその変な性格、いったいイツから始まったんですの?」
 軽い頭痛を感じながら、亜美は額に手を当てて呻くように聞いた。話題を変えることで、間違っても太郎に方向修正させないためだ。
「フッ、話せば長くなるんだが……今から四百年ほど前。秀吉のヤツが天下を統一したのは知ってるな?」
「……ええ」
 唐突に上がった歴史上の人物の名前に戸惑いながらも、亜美は首を小さく動かして頷いた。
「それから約三百年後。大日本帝國が誕生する」
「え、ええ」
「その間に、日露戦争が勃発した」
「……そうですわね」 
「そして現代、小泉内閣が幅を利かせている」
「……確かに」
 腕を組みながら口舌をふるう太郎。まさか日本の歴史に感化されたとでも言うつもりのなのだろうか。
「俺は一人っ子でね。いつも独りで遊んでいるうちに、その悦びを知り、今の性格に目覚めたってわけさ」
 と、自信満々に言って話を締めた。ここで一つの疑問が亜美の頭に浮かぶ。
「それって、さっきまで言ってた国の事情と関係ありますの?」
「全然ない」
 ダンッ! とテーブルを叩き付け、自分をからかった太郎を亜美は壮絶な視線で睨み付けた。しかし太郎は涼しげな表情で受け流し、ダルそうに耳の穴を小指でほじる。
「ちったぁ元気出てきたみてーじゃねーか」
 小指の先の耳垢に息を吹きかけて飛ばしながら太郎は面白そうに言った。その言葉に亜美はハッとなる。
(ひょっとして、元気付けてくれていましたの?)
 気が付けばさっきまでの暗い気分が嘘のように拭い去られている。
 太郎が話しかけてくれなければ、立ち直るまでに何日掛かっていたか分かったものではない。
 胸中で少しだけ感謝しながら、もう少しなら太郎と話しても良いかと思った。それに聞きたいことも一つ出てきた。
「貴方、一人っ子なんですの?」
 どこまでが冗談で、どこからが本気かは分からなかったが、太郎は一人っ子だったから今の様な性格になったと言っていた。亜美も一人っ子だ。しかし一人でいることを楽しいと考えたことなどコレまで一度もない。
「ああ、それがどうした」
「寂しくありませんでした? 兄弟が欲しいとか思いませんでしたの?」
 亜美はずっと思っていた。今もそうだ。家に帰れば自分と同世代の人間がいて、何でも話し合える。ケンカしたり、煩わしいと思うこともあるだろう。姉弟だからこそ話せない事もあると思う。それでも一人でいるよりはマシだ。なにより自分のことをよく理解してくれるに違いない。もしそんな存在が側にいてくれれば、亜美はこれ程恋人を欲しなかったかもしれない。
「寂しい、ねぇ……。残念ながら今の俺にはその感情が欠落していてサッパリ分からん」
 訝しげに眉を寄せた後、太郎は活舌(かつぜつ)良く言いきった。
 『寂しい』という感情が無い? それはつまり一人で居続けても平気だという事なのか。
「今じゃ世界で二番目に孤独を愛する男にまで上り詰めたぐらいだからな」
「それじゃ一番目は誰ですの?」
「スナフキン」
 この男に真面目な話題を振った自分がバカだった。
「昨日の夜も一人で暗い部屋に閉じ籠もって、我が師匠スナフキン様の勇姿を拝み続けていた。あのカバ共が冬眠した後に谷を去る師匠の背中が、今もハッキリと瞼に焼き付いている。あ、ちなみに俺がビデオを見る時は三角座りが基本な」
 得意そうな顔つきで聞いてもいない事をベラベラと喋り出す。
 自分が公園で待ちぼうけを食らっていた時に、そんなくだらないことをしていたのかと思うと、何だか無性に腹立たしくなってきた。
「ところで春日。お前は昨日の夜、何してたんだ?」
 まるで心の中を見透かしたような発言に思わず絶句する。動揺が顔に出てしまっていないか心配だった。
 太郎は片眉を上げ、試すような視線で亜美の顔を覗き見ている。彼の目にはこちらの反応を注意深く見定めようとしている光が込められていた。そんな目を向けられると、
(まさか……コイツが……)
 昨日の犯人ではないかと思えてきてしまう。
 太郎は自分でも言っていたが、進んで孤立しようとする傾向がある。今のように誰かに絡んで話をする性格ではないのだ。昨日だってそうだ。太郎が自分から声を掛けて来るなんて不自然すぎる。そして今の質問も。
(探ってみましょうか……)
 太郎が当事者なのであれば、断片的な言葉の羅列であっても自分の中で補完して意味が通じるはず。逆に無関係ならば何の反応も示さないはずだ。
 亜美は意を決して口を開いた。
「実は昨日……来なかったんですの」
 うつむき、悲しそうな表情を浮かべて亜美は小さな声で呟く。そして太郎の方を盗み見た。
 太郎は目を大きく見開き、片手を口にあてて驚愕も露わに硬直していた。この世の終焉を目の当たりにしたかの如き凄惨な顔つき。バックで無数の落雷が撒き起こっているようにすら見える。
(反応しましたわ!)
 過剰なまでに。だが何か違う気がする。
「春日……」
 太郎は声を震わせながら目元に何か輝く物を産み、どこから取り出したのか赤飯の入った透明のタッパーを亜美に握らせる。
「オメデタだな。これから体には気を付けろよ」
「アホかああぁぁぁぁぁぁぁ!」
 叫びながら太郎の顔面に赤飯を叩き付け、亜美は地響きを立てながらカフェテリアを後にした。

◆真宮寺太郎の苛立ち◆
 顔に付着した赤飯を綺麗に舐め終えた後、太郎はカフェテリアを出て近くの電話ボックスに入った。孤独を愛する太郎は携帯電話など持っていない。
(ったく、剛一狼の奴、何やってやがんだ)
 受話器を取って十円玉を入れ、記憶している剛一狼の携帯のナンバーをプッシュする。
 亜美の憔悴きしった表情は、剛一狼への拒絶によるものでない事はすぐ分かった。春日亜美はコレまで何人もの男をはねつけてきた。そんな彼女が先程のような顔になる断り方をするとは思えない。
 剛一狼の申し出を断るのであれば自分の中で納得して心の底から断る。春日亜美はそういうことが出来る強い女だと太郎は考えていた。
 それに『来なかった』というセフリ。もはや疑いようがない。剛一狼が亜美の前に姿を現さなかったのだ。
(せっかくこの俺様がお膳立てしてやったってのに、あのバカは)
 自分の労力を無下にする事は許さない。今日、亜美の姿を見て声を掛けた主な理由はそれだったが、純粋に亜美本人への興味もあった。
(自分を『卵子』と言い張る理由を聞き出したかったんだがな)
 しかし赤飯を渡して祝福の言葉を掛けたのに激しい抵抗にあった。勿論冗談だったのだが、『そんなもの中学の時にいくつも貰いましたわ』くらいの返答を期待していた太郎にとっては少々意外だった。
(まぁいい。この俺が二次元以外の女性に興味を持ったのは久しぶりだ。ゆっくりやるさ)
 そんなことを考えていると受話器の向こうから、くぐもった声が帰ってきた。
『もしもし?』
「俺様だ」
『真宮寺君ッスか?』
 不遜な物言いと低い声ですぐに分かったのか、剛一狼はすぐに太郎の名前を呼ぶ。
「お前昨日、何してた」
 可能な限り言葉の修飾を排除し、単刀直入に弾劾した。しかし電話の向こうから返事はない。琥珀色をした半透明の電話ボックスに叩き付ける雨音だけが、人一人ようやく入れるだけの狭い空間に響く。
「あの手紙には何て書いた」
 亜美をどこかに呼び出したと言うことは想像できるが、それ以上のことは分からない。
「お前、まさかとは思うが自分の名前、伏せたんじゃねーだろーな」
 何も言わない剛一狼に、太郎は苛立ちながら一方的に問いかける。
「十秒だけ待つ。このまま何も言わないなら俺は電話と、お前との縁を切る。十、九……」
 低い声を更に低くして、太郎は殆どケンカ腰の口調で言い切った。
 本気だった。元々こんな回りくどいやり方は嫌いだったのだ。ソレを旧友のよしみで手助けしてやったのに、剛一狼は全く活かせなかった。馬鹿にしているにも程がある。自分に対しても、そして亜美に対しても。
「六、五、四……」
 剛一狼の臆病な性格は知っている。だからといって仕方ないと割り切れる問題でもない。太郎の中に生まれた焦燥に似た怒りは、剛一狼の口から正当な理由を聞くまで収まりそうになかった。
「二、一……」
『僕、は……』
 カウントダウンが終わりかけた時、電話の向こうから剛一狼の消え入りそうな声が聞こえた。
「『僕は』なんだよ、先を言え」
 そしてゆっくりと、少しずつ剛一狼から懺悔の言葉が紡がれ始める。
 途中で何度も十円玉を追加し、たっぷり三十分は掛けて剛一狼が亜美の前に姿を見せなかった『理由』を太郎は聞き終えた。しかし、それは安っぽい『言い訳』にしか聞こえなかった。
「お前、バカだろ」
 友達を裏切れなかった? 出ていくタイミングを掴めなかった? 情けないにも程がある。
「他の奴らが帰った後もお前はずっといたんだろ? 絶好のチャンスじゃねーか。何で出ていかなかったんだよ」
 剛一狼の話では、友達とやらは九時半くらいで面倒臭くなって帰ったらしい。それから十二時近くまで剛一狼はずっと一人で亜美を遠くから見守っていたというのだ。
『それは……友達にバレたら……裏切ることに……』
 話にならない。馬鹿を通り越して滑稽だ。太郎ではあり得ない思考。そんなことで険悪になるような仲なら、さっさと縁を切った方がいい。そんな奴らは『友達』などでは断じてないのだから。しかしそのことを今の剛一狼に言ったところで無駄だろう。
 コイツは友情を重んじているのではなく、ただソレが壊れることに怯えているだけなのだから。
「じゃー春日の事は諦めるってんだな。春日よりもソイツらを取るんだな」
 しかし剛一狼は答えない。
「お前さー。もし仮に告白が成功したら大学で春日と一緒にいるんだろ? そん時もソイツらから隠れて付き合うつもりかよ」
 受話器の向こうからは何か言おうと口を開く気配は伝わってくるものの、実際に言葉として聞こえることはなかった。
「せーぜー頭冷やして考えるんだな。俺はもー手ぇ出さねーからよ」
 剛一狼の煮え切らない態度に嫌気が差し、太郎は受話器を乱暴に叩き付けて通話を切る。そして紙袋から百均で買った折り畳み傘を取り出し、勢いよく広げた。
(ガキの頃はもーちょっとマシな奴だったのによー)
 雨の中、レンガの敷き詰められたキャンパスの大通りを歩きながら弱々しい剛一狼の姿を思い描く。
 確かに小学校の頃から引っ込み思案でオドオドとした雰囲気は持っていたが、今のように湿っぽい性格では無かった。あのガッシリとした体格だ。同世代の者達より力や体力はあり、皆がやりたがらない机運びやゴミ捨て、図書の棚卸しなど率先してやっていた気がする。
 ところが高校に入った辺りから、やたらと周囲の視線を気にしだすようになった。まるで決定権は最初から自分には無いかの如く振る舞い、何をするにも他人の真似ばかり。太郎も良く相談を持ち掛けられた。
 試験勉強のやり方ならともかく、初対面の人への第一声や、あだ名や下の名前で呼んでも良いのは友達になってどれくらい立ってから等、およそ個人差が大きい事まで事細かく聞いてくるのだ。
(ま、人が変わるのはしょーがねーけどな)
 馬鹿にしたような笑みを浮かべ、太郎は昭和初期の学校を思わせる古い造りの共通棟に入った。木張りの床が歩くたびにギシギシと不満を漏らす。薄暗い棟内を切れかけた電球が、明滅を繰り返しながら頼りなく照らしていた。
 ――もう自分には関係ない。
 塗装が剥げ、鉄が剥き出しになった階段の手すりを、畳んだ傘でテンポよく叩きながら太郎は二階へと歩を進める。不気味に静まりかえった廊下を歩き、唯一明かりが漏れている教室を見つける。立て付けの悪い扉を大きな音と共に横にスライドさせ、太郎は室内に入った。
 中にはすでに共通の科目であるドイツ語を受講する生徒達が何人か集まっている。剛一狼と亜美の姿も見受けられた。
 亜美はいつものように一人離れて最前列の隅に、そして剛一狼は何人かの取り巻きに囲まれて中央に陣取っている。
(ま、せーぜー頑張ンな)
 二人を面白そうに見比べた後、太郎は一番後ろの目立たない席に腰掛けたのだった。

 ドイツ語の授業が終わり、本日最後の講義である線形代数。文系の太郎達には選択科目であり、他に生物系や化学系の講義も受講できる。
 太郎と亜美は同じ線形代数を選んでおり、教室もこのままだ。
 十分の休憩時間。
 太郎は先程のドイツ語の単語をもう一度見直していた。
(ドイ公の考えやがる事は分かんねーな。男性名詞とか女性名詞とか、何で区別する必要があんのかねー)
 名詞の種類によってそれに続く冠詞も変化してくる。穴埋め問題は、まるでパズルのような物だった。
(まー、『鉛筆』が男性名詞で『鉛筆削り』は女性名詞ってのは、なるほどと思うんだが……)
 妙なところで感心しながら、何気なく剛一狼の方に目をやる。剛一狼は太郎とは違い、別の科目を選択しているため移動しなければならなかった。しかし未だに動こうとはしない。他の友人達は「先に行く」と言い残して、教室を出ていってしまった。
(珍しいじゃねーか)
 そう言えば剛一狼が一人でいるところを最近見たことがない。いつも金魚のフンのように誰かの後を付けていたのに、どういう風の吹き回しなのだろうか。
 今、教室には殆ど人がいない。移動の必要が無い者達も、トイレや気分転換のため外に出て行っている。亜美も姿を消していた。
「お……」
 思わず声が漏れる。
 剛一狼は必死に平静を装おうとしているが、明らかに挙動不審な仕草で辺りを見回しながら亜美の座っていた席へと近づいて行った。一瞬、太郎と視線が合いそうになるが、慌てて教科書に目を落とし、気付かないフリを続ける。
(何やる気だアイツ)
 顔を伏せ、目だけを上げながら太郎は剛一狼の行動を見守った。
 剛一狼は亜美の席の前まで歩き、そして通り過ぎる直前、コレまで鞄の影に隠していた手をそっと亜美の机の中に入れる。その手を素早く引く抜くと、何事もなかったかのように教室を出ていった。
「フン」
 小さく鼻を鳴らして太郎は顔を上げる。
(ま、ちったぁヤル気になったってトコか)
 一瞬だが確かに見えた。白い物が。
 恐らくは手紙なのだろう。最初と同じで芸はないが、自分でやっただけ一歩前進したと言える。それに二度も亜美に待ちぼうけさせるような事はさすがにしないだろう。問題は亜美がもう一度来てくれるかどうかだが……。
 と、教室の外が騒がしくなり始めた。この線形代数が必須科目である理系の連中が来たのだろう。が、それに混じって無関係のはずの男も入ってくる。
(アイツは……)
 大分前に出ていったはずの剛一狼の友達。その中の一人だ。
 ソイツは足早に亜美の席に近づくと、何の遠慮もなく机の中を物色し始める。そして目的の物――白い手紙を見つけて内容を読み始めた。
 こういうことに慣れているのだろうか。焦った様子は微塵もない。まるで自分の物を確認しているかのようだ。ここまで堂々とされると逆に怪しさは消える。さっきの剛一狼とは対照的だった。
 彼は数秒で手紙を読み終え、机の中にしまう。そして狡猾そうな笑みを浮かべると教室を出ていった。
(さて、と……どうするかな……)
 これから起こるであろう事を予想しながら、太郎は目を細めたのだった。

◆黒岩剛一狼の過去◆
 目の前がクラクラする。さっきから心臓の音が鳴りやまない。
(やってしまったッス……)
 細胞生理学の講義がある理学部棟へ向かっている間、剛一狼はずっと上の空だった。友達に言われて初めて、自分が傘も差さずに雨の中を歩いていた事を知ったくらいだ。
 先程の自分の行動は、その位大事件だった。
 太郎の言葉を自分の中で咀嚼し切れたわけではない。コレまでの考えを覆すような事。それをすぐに出来るほど剛一狼は利口な人間ではない。
 友達は大切だ。だが亜美の事も好きだ。告白が成功するかは分からないが、太郎に迷惑を掛け、呆れられたままでは終われない。
 昨日の夜。亜美を遠くからずっと見つめながらも、茂みから出られずにいた自分。昔と全く変わらない自分。しかし太郎のおかげでほんの少しだけ背中を押された。
 自分が亜美に最低の事をしたのは分かっている。だから今回は全てを話すつもりだった。
 フラれてもいい。亜美の気が済まないのなら殴られても良い。そうされて当然の事を自分はした。
 だがもし成功した時は……。
(き、きっと話し合えばみんな分かってくれるッス)
 根拠など無い。彼らは亜美のことを憎んでいる。だから剛一狼から離れていくかもしれない。その時、例え孤立したとしても亜美と一緒にいられるのだろうか?
(ま、まだ告白もしていないのに……皮算用はやめるッス!)
 そうだ。そんなことを考える前にしなければならないことがある。
 今回の手紙にはハッキリと『黒岩剛一狼より』と書き記しておいた。もう絶対に逃げられない。玉砕覚悟で告白するしかない。
 ――あの時もそうしたように。
 中学二年の時だった。クラスに、もの凄く気の強い女の子がいた。ボーイッシュなショートカットがよく似合う快活な子だった。運動神経は抜群で背が高く、腕力も並の男より強かったのかもしれない。しかも正義感が強くて、女子の間ではちょっとしたリーダー的な存在だった。
 しかしあまりに口うるさく注意するため、男子からは疎まれ敬遠されていた。そして事あるごとに嫌がらせのようなモノを受けていた。
 授業中に問題を間違えれば筋肉バカと罵られ、忘れ物をすれば走って帰って持ってこいと揶揄され、不正を教師に言いつければ所詮は女かと蔑(さげす)まれていた。
 剛一狼は優等生ではなかったが、問題児でもなかった。だから彼女との接点はそれ程多くなかった。それに彼女は非常に強い女性で、周囲からの非難の声など歯牙にも掛けず、いつも平然としていたのでクラスの風物詩として気楽な視線を向けていた。
 しかし彼女にだんだんと変化が出始めた。いつもの元気がなくなり、以前のように大声を上げて言い返すことも無くなっていった。そしてついには涙さえ浮かべる日も出てきたのだ。
 ここに来てようやく察する。彼女は確かに強かった。だがそれは単に我慢強かっただけであり、強靱な精神力や自分の信念を持っていたわけではなかったのだ。しかし、男子の中傷は止むどころか加速した。敵が弱って来たのを見て調子に乗り始めたのだ。
 彼女を庇う女子もいたが、殆ど影響力はなかった。
 別のクラスだった太郎に相談すると、即答でそんなくだらないことヤメさせろと言われた。そして自分でもその通りだと思った。だから実行に移した。
 金を盗まれたと言いがかりを付けられて、数人の男子に囲まれているところに割って入った。
 その時、彼女が見せた明るい表情。思いもよらない救世主に心底安堵したという顔だった。毎日のように続く嫌がらせに、彼女の精神は殆ど限界だったのだろう。
『お前、ソイツの肩もつのかよ』
 だが彼女にとっての救世主は、男子にしてみれば闖入者に他ならない。矛先はすぐに剛一狼に向けられた。剛一狼の厳つい体つき故に、実力行使に出ることはさすがにはなかったが、言葉の暴力は凄まじかった。
 敵の味方は敵。
 簡単な図式だ。例え同じ男子であっても容赦はしない。むしろ裏切り者のように扱われ、一際激しい罵声を浴びせられた。
『なんだよ、お前ら付きあってんのか?』
 その中の一言。茶化したように言った誰かの言葉で剛一狼の頭に血が上った。そういうことに興味がある盛りの多感な年頃だ。冷静な判断力は一瞬にして消え失せた。
 そして火の出るような勢いで否定。
『そ、そんなわけ無いッス! こんな女、全然興味無いッス!』
 気が付けば、いつの間にか自分の口から辛辣な言葉が飛び出していた。
 あの時の彼女の、泣いたような笑ったような顔が今でも忘れられない。
 結局、彼女が自閉症となり別の中学に転校していくまでの間、一言も喋ることは無かった。
 だが、剛一狼の中に残ったのは罪悪感などではなかった。もし意地を張って彼女を庇っていたら、自分がああなっていたかもしれない。最後に生まれたのは、そうならなかった事への安堵感だった。
 以来、剛一狼は一人や二人で判断することを極端に怖がるようになった。
 同じ仲間が欲しい。例え将来的に間違った道だったとしても、その時に同じ選択をした仲間が沢山欲しい。そうすれば少なくともその時には孤立しないし、周囲に溶け込むことが出来る。特異な存在と成らなければ打たれることもない。
 心の病を患った、彼女のように。
(けど……)
 今になって思う。
 もしあの時、太郎の言う通りあんなくだらないことをヤメさせていれば、彼女を救う事が出来たのではないか。もし、ヤメさせるという信念を貫く勇気があれば。
 昨日だってそうだ。亜美に絶対に告白すると心に決める事が出来れば、あんな最低なことをせずにすんだ。
「なー、シロイワー。今日の帰りゲーセン寄ってこーぜ」
 だが、その決断を下せない理由は側にある。自分を取り巻いてくれる多くの友達。彼らは言ってみれば中学の時の男子達と同類だ。自分達と違う存在を許せない。今、剛一狼の足を引っ張っているのは間違いなく彼らだと言うことは分かる。
 しかし剛一狼から孤独を取り去ってくれたのもまた、彼らなのだ。
「ご、ごめんッス。今日は、ちょっと……」
 たったこれだけを言うのでも汗が出そうになる。彼らに拒絶されたくない。
 だが今夜の約束を反故にする訳にはいかないのだ。それは剛一狼に残された最後の意地だった。
「ふーん、そっか。ま、いーや」
 アッサリと引き下がってくれた事に心底ホッとする。いつの間にか拳を力一杯握りしめていた。ゆっくり開くと汗が滲み出て、不快な冷たさを掌に落としていく。
「じゃ、俺今日は別の用事あっから。代返ヨロシク!」
「あ、俺も」
 友達の二人が早口でまくし立てると、剛一狼の返事も待たずに今来た道を引き返していった。
「ど、どこ行くんスかね」
「だからゲーセンだろ。ほら、俺達はさっさと次の教室行こうぜ」 
 何か嫌な予感がしたが、残った友達の一人が剛一狼をせかすので無理矢理その考えを外に押しやる。それに今は他の重大な事を考えなければならない。
(春日さん……)
 亜美との会話を頭の中でイメージしながら、剛一狼は理学部棟へと入る。先程の共通棟と同じく予算があまり回ってこないのか、薄暗く湿気を含んだ空気が体にまとわりついた。
 コンクリートが剥き出しになった一階の野外廊下。一応天井は設けられているものの、風に乗って横から多量の雨が舞い込んでくる。
 突き当たりの教室に入って席に着いた数分後に授業が始まった。
 しかし剛一狼の頭の中は亜美のことで一杯になり、教師の声は耳に届いていなかった。




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