ススム | モクジ

● 記憶の施術者 ◆第一話『怪奇! 喪服金髪釣り竿美少女!』◆ ●


刀w最近、一つ発見したことがある。
  どうやら記憶喪失というのは感染するらしい』

「で? そろそろ思い出してくれたか? この突発性瞬間健忘症の大馬鹿野郎共が」
 空調の行き届いたファミリー・レストラン。曇りガラスのパーティションで仕切られた、店の一番奥にあるテーブル。
 果汁百パーセントのオレンジジュースをストローですすりながら、村雲 真夜(むらくも まよ)は鋭い眼光で目の前の二人を睨み付けた。
「……いや、だからお前誰だよ。大体、何で俺のジュース――」
 ピキ、とジュースの注がれているグラスに僅かな亀裂が走り、ダテ眼鏡を掛けた男の言葉がそこで止まる。代わりにフローリングの床を苛立たしげに小突く音が無機質に響き、天井に埋め込まれたシーリングライトからの光がどこか白々しくなった。
「あァん?」
 目に掛かるくらいに長く伸ばした黒髪をゆっくりと掻き上げ、真夜は声を低くして威圧的に言う。
 この野郎……本気で言ってるのか? さっきまであれだけ猥談で盛り上がってたクセに。ほんの一分……いや、三十秒前まで。
「オイ、出ようぜ。何かコイツヤバいって」
 ダテ眼鏡の隣に座ったくわえ禁煙パイポが、肘でつついて合図しながら小声で言う。ソレにダテ眼鏡は浅く頷き、黙って席を立って、
「まぁ待て。待て待て待て。待てよボウズ共。ここは一つクールダウンだ。静かに目を閉じてワン・トゥー。オーケイ? 今、俺達はココでじゅーだいな作戦会議を開いていたはずじゃないのか? ん? よく思い出せ。な? 今ならまだ怒らないでいてやるからさ」
 にぃー、とぎこちない笑みを顔に張り付かせ、真夜は二人が去ろうとするのに待ったを掛けた。そして白地に黒の線が交差したフードシャツの袖を肩まで捲り上げ、ひっひっふぅー、ひっひっふぅー、と深呼吸しながら目を瞑る。
 ああクソ。暑い。あつい。熱い。冷房が弱くなってるんじゃないのか? それか一気に真夏の気温に達したか。
 まぁこの異常現象のまっただ中だ。何が起きても不思議じゃないな。うん。そうだ。きっとそうに違いない。悪いのは全部地球のせいなんだ。最近エコだエコだとチヤホヤされてるモンだから甘ったれてるんだな。うん。慢心するのはいけないことだ。
「お前マジでキモいよ」
 蔑むダテ眼鏡。
「何なんだよコイツ」
 舌打ちする禁煙パイポ。
「しばき倒すぞコラアアアアアアァァァァァァ!」
 鼻先に大量の皺を寄せて席を蹴り立つ真夜。
「だから! テメーらは! 今ココで俺とナンパがどうのって話してたんじゃねーのかよ! 女はやっぱりボボボン・キュッ・ボボンだよねー、とか! 今年はお色気年下タイプを狙うのがツウってモンですよー、とか! 俺達もそろそろ高校卒業だし色々『ご卒業』したいよねー、とか! つーか何で俺の注文したミルクレモンが全然こねーんだよ!」
 切れ長で二重の瞳をカッと強く見開き、真夜は喉の奥を大きく晒して叫び散らした。高い鼻から大量に噴出する息が、木目調に彩られた楕円テーブルの上の伝票を吹き飛ばしていく。
「お……おぉ……?」
 フゥーッ! フゥーッ! と肩で荒く息をする真夜に向けられた、まるで汚物でも見るようなダテ眼鏡の視線。ソレが徐々に和らいだかと思うと、気まずそうな半笑いになり、
「な、何そんなに怒ってんだよ村雲ー。シャレだよシャ・レ」
 ははは、と口の端を緩めて繕いながら、椅子に座り直す。
「いや、だからさー。俺的には海よりも敢えて山を狙った方が良いと思うわけ」
 そして禁煙パイポの方も何事もなかったかのように先程の話題に戻って来る。が、額には大量の汗。
(……の野郎)
 真夜は眉間に小高い肉丘を築き上げ、凄絶な目つきで二人を見下ろす。凍てつき、突き刺さるような雰囲気。ダテ眼鏡と禁煙パイポは無言で顔を見合わせ、真夜から逃げるように視線を背けている。どうやら自分達が悪かったという自覚はあるようだ。
(ったく……) 
 真夜はヒビの入ったグラスを持ち上げ、オレンジジュースを一気に飲み干す。そして中の氷を手の平に出し、そのまま拳を握り込んでいとも簡単に粉砕した。
「次やったら今度こそシャレじゃすまさねーからな。全然笑えねーから。そこんとこよっく覚えとけよ。いいな」
 椅子に腰を下ろし、白無地のイージーパンツを履いた脚を組みながら真夜はドスを利かせた声で凄む。
 ダテ眼鏡と禁煙パイポが少し怯えながら「お、おお……」と頷いたのを確認し、真夜は鼻を鳴らしてダルそうに頬杖を付いた。
(三回目……いや四回目か……?)
 そして水を一気に飲み干し、半眼になって二人を見る。
 コイツらがさっきのようにケンカを売って来るのは、実は初めてではない。
 一番最初は一ヶ月くらい前か。ダテ眼鏡の方が予備校の宿題をしたいとか言ってきた。しかたなく付き合って図書館で美人物色していたら、いきなり一人で鞄持って出口の方に。
 呼び止めると「え? 誰?」。
 マジでブチ殺してやろうかと思った。
 まぁソレはすぐに治っていつも通り帰ったが……。その時はちょっとした冗談だと思っていたし。
 が、その三日後。
 今度は食堂で一緒に昼飯を食っていた時。ちょっとフザケて唐揚げを横取りしようとしたら、いきなりマジギレ。虫の居所が悪いのかとコッチが素直に謝ったら、「君の常識を疑うよ」。
 まるで赤の他人のような反応。
 でもその時もしばらくしたら元に戻って、向こうから謝ってくれたからあまり何とも思わなかった。
 しかしソレからまた二週間くらい後。
 コイツら二人と連れ立って合コンに行った時のことだ。
 駅前で待ち合わせ、ほぼ時間通りに女の子が来た時。禁煙パイポの奴がダテ眼鏡と女の子達を順番に見て、「あれ? 三人? 一人多くない?」。
 殴った。
 心の中で思いきりブン殴った。
 十回くらい輪廻転生するくらいにボコボコにしてやった。
 もし、あの場に女の子がいなければ、きっとその地獄絵図は現実の物となっていただろう。
 もし、禁煙パイポがその致命的な失言にワビを入れるのがあと一ナノ秒遅かったら、きっとリアル阿鼻叫喚図をお披露目するハメになっただろう。
 そのくらいギリギリのタイミングだった。
 あの時、間違いなく次はないと思った。
 で、今日。
 コイツらはまたしょー懲りもなく自分のことを、傍らに人なきが如く扱いやがって。しかも最高機密な軍事会議中に。全く、何たる教育の不行き届き。こんなことだから最近はニート予備軍が多発しているんだ。
「た、大変お待たせしました。ご注文のミルクレモンでございます」
 と、そこへようやく自分の頼んだ飲み物が。
 この脳味噌ハチの巣状態のボケ共もボケ共なら、店員も店員だ。どうして自分の注文した物だけがコイツらより十分以上も遅れて運ばれてこなくてはならんのだ。冷遇だ、差別だ、男尊女卑だ。
 ……まさか忘れてたんじゃないだろーな。
 でもまぁ運んでくれたウェイトレスさんの胸が大きかったから許す。
「じゃあ取り合えず、だ」
 レモンのスライスが浮かべられている乳白色の液体を一口含み、真夜は長く伸ばした前髪を指先でいじりながら二人に声を掛けた。
「今回、作戦が成功した場合のサイフは、お前らのどっちかということでいいな」
『えー……』
「い・い・な」
『はい……』
 真夜の眼光に二人はあっけなく屈服した。
 この自分に極めて不愉快な思いをさせたんだ。しかも一度ならず二度ならず三度ならず、次しやがったら今度こそ拳くらいに。この程度の報いは受けてしかるべき――
「……ん?」
 ダテ眼鏡の顔の前に何か光る物を見つけて、真夜は眼力を僅かに弱めた。
(糸……?)
 もし、ソレが服に掛かっていたのならそれほど気にしなかっただろう。テーブルに垂れていたのであれば意識にも止まらなかったかもしれない。
 しかし顔だった。
 その透明感のある糸状の物は、ダテ眼鏡の額から顎先にかけて一直線に走っていた。
 なのに当の本人は全く気付いた様子もない。苦笑を浮かべながら、コチラの様子をうかがっている。
 おかしい。誰がどう見てもおかしい。中指おっ立てて剛笑いするくらいに可笑しい。
 顔にあんな物が垂れ下がっていれば普通は払いのける。なのにダテ眼鏡は全くの無頓着。まさかそんなことに気を割いていられないほどの恐怖に包まれている? いや、いくらコイツの記憶力が爬虫類のウンチ以下だと言っても、そこまでチキン・ハート・ポークではないはず。
 なら一体どういうつもりなんだ。歪んだ趣味の一環か? 次世代のネガティブ・ファッションか? それとも新手の挑発か? 
 いや、そもそもこんな物さっきまであったか? コイツの顔はずっと睨んでいたから、あればすぐに気付くはずなんだが……。
「へ……?」
 訝しげな表情で真夜がじっと見つめる中、奇妙な事態はさらに進行していく。
 糸が天井のライトから受けた光を上へ上へと運んでいた。ダテ眼鏡の顎から唇、鼻先を通って眉間へと。
 いや、違う。光が動いているんじゃない。糸が移動してるんだ。だから光の反射具合が変わって、あたかも動いているかのように見える。
(おいおい……)
 無意識に真夜の視線は糸が動いていく先へと向けられ、自分達のテーブルを囲んでいるパーティションを越えて、
「なぁ村雲」
 ダテ眼鏡の声に視線をまた戻し――
「だから悪かったって言ってんじゃねーかよ……」
 申し訳なさそうな、それでいて不満そうな――
「な……!」
 ――彼の顔に起ころうとしている緊急事態に、真夜は思わず吃音を上げた。
 ソレは釣り針だった。
 百八十度の湾曲を描き、その先に凶悪な返しを持った針が牙を剥いている。釣り針は糸の動きに合わせてダテ眼鏡の顔を這い上がり、軌道上にある獲物に狙いをつけて――
「おいいぃぃぃぃ!」
 気が付けば手が出ていた。
 そしてダテ眼鏡の鼻の穴を今まさに抉ろうとしている釣り針をつまんで、
「あ……」
 すり抜けた。
 釣り針は何の抵抗もなく真夜の手の中に潜り込み、またすぐに抜け出してどこかへと逃げていく。
「おぃコラ待て!」
 真夜は慌てて席を立ち、釣り針の後を追おうとして、
「……むーらーくーもークーン」
 不気味な声と共に腕を掴まれた。
 必要以上に強く。そのまま握りつぶさんばかりに。
「はーい。コレはどーゆーことかなー?」
 声の方に顔を向ける。
 ダテ眼鏡が鼻血を垂らし、満面の殺気を浮かべてコチラを見下ろしていた。
 しまった……針がすっぽ抜けたから勢い余って……。
「ちょっと腕力あるからって調子こんてんじゃねーぞコラァ!」
「う、ルセー! 元はと言えばテメーが悪いんだろーが!」
「あァ!? 女逃げるくらいに顔面ボコボコにすんぞオラァ!」
「返り討ちじゃボケェ!」
 そして、不毛なケンカが始まった。

 昨日は酷い休日だった。本来なら今頃、軽くお知り合いになった女の子達と……できればそのままお尻合いになった素敵な女の子達と、メールで楽しい時間を過ごしているはずなのに……。
 何が悲しくて、一人体育倉庫裏でたそがれねばならんのだ。
 貴重な昼休みが……。まだ初々しい一年生鑑賞の時間が……くそぅ。
「っ……」
 シップをはがしたあとに指が触れ、真夜は僅かに顔を歪めた。
(ケッ……!)
 が、すぐに舌打ちして強気な顔に戻ると、黒い学生服のズボンのポケットから新しいシップを取り出す。ソレを青いアザになった左の脇腹に貼り付け、細く息を吐いた。
 冷たい感触が体の内側に広がり、鈍痛が和らいで行く気がする。上げていた白いカッターシャツを下ろし、続けて顔に張られた大きな絆創膏を剥がそうとして、
「おんや奇遇だねー。村雲ー」
 軽い口調で横手から話し掛けられた。
「相変わらず精の出ることで。保健室には行かないのかい?」
「……別に」
 顔を向けないまま冷たく返し、真夜は乱暴に取り去った絆創膏をポケットに突っ込んだ。
 クソ……なんでコイツなんだ……。どーせ来るなら、もっと可愛くて優しい女の子……はこんなジメジメした場所に来るわけねーか。
 はぁ……コレなら狭くて臭くて惨めでも、トイレを選ぶべきだったか……。
「ほっほーぅ。キミにしては大分やられたようだねー。して、相手は?」
 ソイツは嬉しそうな声で言いながら自分の隣であぐらを掻いた。
「やられてねーよ」
「時に、いつもキミと一緒にツルんでいるはずのダテ眼鏡君が今日は欠席なんだが、何か知らないかな」
「知らねー」
「そうか。なら体に聞くとしよう」
 目の前が白く染まった。
 続けて目の前を駆け抜ける紅い光、耳の奥で鳴り響く早鐘。
 体内を蹂躙する壮絶な吐き気、脳天を突く烈火の迸り。
 ソレはまるで内臓を潰されたような――
「お……おおぉぉ……」
 さっきシップを貼り替えたばかりの脇腹を押さえつけ、真夜は前のめりになって呻き声を漏らす。
「ウッハー! イッタそー! ねぇ痛い? 痛いイタイ痛い? どのくらい痛い? 小指ぶつけた時くらい? シャーペン逆に持ってるの気付かずに力一杯芯出そうとした時くらい? それとも固い場所に画鋲押し込んでたら途中でクルッって反転しちゃった時くらい?」
 そして隣で喜色にまみれた声が上がった。
「てンめえええええええぇぇぇぇぇぇぇ!」
 真夜は痛みを堪えて体を起こし、声の主の胸ぐらを掴み上げる。
「おお! その目は本気だね!? やる気だね! いいよいいよ村雲! さぁ私にもキミの痛みを味あわせて! 遠慮なくボッコボコのボコボコボコに!」
「く……!」
 が、奥歯をきつく噛み締めて真夜は拳を収めた。
「女殴るような悪趣味は持ち合わせてねー」
「中途半端に紳士だね、キミは。あーあー、もう少しだったのになぁ……」
 はぁ〜、と大きく肩を落とし、彼女は膝を抱え込むように座り直すと、地面の上に般若心経を書き始める。
(この変態女が……)
 達筆な文字で書き上がっていくお経を見下ろしながら、真夜は重い息を吐いた。
 五月雨 朝顔(さみだれ あさがお)。
 ドSかつドMのド変態。ついでに地毛が緑色というド奇抜。おまけに異常記憶力のド陰険。そして真夜が欲情しないド希少種。
 なぜ何も感じないか? 理由は極めて単純で明快。
「もう少しで痛いのが……“イタい”のが……“遺体”になるくらい、イタ……ぷっ、くぁはははははははははははははは!」
 色気がないからだ。
 一人SMなのは大目に見よう。ただでさえ気持ちの悪い緑色の髪の毛を、オカッパに仕上げているのは愛嬌だ。昔のことを細かく持ち出してネチネチ言ってくるのにももう慣れた。好物が生野菜だというのもまぁいい。
 胸は極端に大きくもなく、かといって抉れるように小さくもなく、極めて普通サイズであるが別にマイナス要素ではない。身長に関してもしかり。
 だがあのオヤジギャク。
 しかも自爆。
 そして大口。トドメはツバ飛ばし。
 許せない。
 許せる領域を遙かに逸脱している。
 恥じらいやお淑やかさとは無縁の不作法な振る舞い。女として性を受けた者としてあるまじき行為。
 ダメだ。違う。あまりに違いすぎる。自分の中で確立されている理想像からはあまりにかけ離れている。天と地ほどに。月とすっぽんくらいに。新幹線開通前の大阪東京間なみに。
 惜しい。実に惜しい……。せっかく顔のパーツはそれなりに整っているのに。
 この悪癖さえなければ。もう少し全体的にボリュームを落としてくれれば。いや、いっそのこと喋らなければ。口にボール・ギャグでもくわえて……。
 ああ……もうどうせなら記憶喪失にでもなってくれれば、自分が最初から調教してやるのに……。
「まぁ待ちなよ、村雲。別にキミをからかうために探していたんじゃないんだ」
 フラフラと立ち去ろうとする真夜の肩を掴み、朝顔は自分の方に振り向かせた。そして夏服であるブラウスの胸リボンを外し、胸元を大きく開けてコチラを正面から見る。
 ……この至近距離のおいしいポジションで、下に目をやろうという気が起きないのはある意味奇跡だぞ。
「今日の部活は? 今の時期、貴重な男性部員をキミが一人潰してくれたおかげで、部室がさらにスカスカな状況なワケなんだが」
 パッチリとした大きな瞳を片方だけ器用に瞑り、朝顔は試すような視線を向けてくる。
 ……つまり誘いに来たわけだ。あの静寂の空間に。あの超地味な時間に。息が詰まって窒息死しそうな世界に。
「ンなもん行くワケね……」
 目の前をビキニのババアが通り過ぎた。
「だからこうして腕を付いて頼んでるんじゃないか」 
「どこを突いとんだお前は!」
 脇腹を両手でかばって朝顔から身を離し、真夜は涙目になって叫ぶ。
「今のところ他の男性部員がことごとくパスなんだよ。だから帰りがちょっと不安というワケだ。そこでキミのように腕っ節のいいボディガードがいると非常に助かるということだな、うん」
「禁煙パイポは」
「彼なら今日はデートだそうだ」
 あの野郎……しっかり抜け駆けしやがって……。
「あんなモンが恐いんならさっさと帰りゃいいじゃねーか。なんか大会があるわけでもなし」
「残念ながらコンクールがあるのだよ。今度の夏休みにね。そこで出展する作品は一人でどーこーなる大きさじゃなくてね。招集はやむを得ないというワケだ」
「別にココじゃなくてもいいだろ」
「ドコでも同じさ。誰かの家に集まったところで結局何人かは送らなければならない。殺人鬼が潜んでいるかもしれない夜道をね」
 殺人鬼、ね……。
 朝顔の大袈裟な表現に、真夜は長い前髪を指先でいじりながら嘆息した。
 いや、もしかすると殺人鬼よりタチが悪いかもしれない。
 最近ニュースを賑わせている暗い話題。
 ソレはある日を境に突然意識が戻らなくなるという現象。植物人間のようになり、生きながらにして死んでしまう。そうなれば当然一人で生活などできるはずもなく、周りの人間は時間的にも金銭的にも、そして精神的にも多く物を失う。今のところ被害者の意識が戻ったという報告はない。
 だが別に病気などの類ではない。人為的な物だ。
 機械か、薬か、催眠術か、一体どんな手段を使っているのかは知らないが、その犯人を目撃した人も何人かいる。ただ全員の証言が違っていて人物像をはっきり割り出せず、いまだ捕まえるには至ってないのだが……。
「大分コッチに来てるんだったか」
「んむ。三日前のニュースで朝の八時十七分三十二秒に流れていた情報によると栃木は鹿沼市、旭が丘に出没したそうだ。ついに関東エリアまで足を伸ばしてきたというワケだな」
「そうか……」
 体育倉庫の壁に背中を預け、真夜は紺色のネクタイを緩めて天を仰いだ。
 余程逃げ切る自信があるのか、犯人の犯行ルートは非常に分かり易い。確か一番最初は青森あたりだったか。そこから南下しながら被害者を積み上げてきている。そしてついに自分達の住んでいる東京に近付いてきた。
 無能な警察のおかげで、日本の中枢部に侵入することを許してしまったわけだ。
 全く、もう少し頑張ってくれていれば、自分がこんな下らない誘いを受けることもなかったのに……。
「で、どうだろうかね。頼まれて貰えないかな」
 緑色の髪の毛を制服のリボンで後ろに結わえながら、朝顔は片眉を上げて言ってくる。
 自分以外に野郎がいない、か……。まぁ確かに、例の殺人鬼うんぬんの問題ではなく、夜道が危険なことに変わりはないな……。
「……わーったよ」
 真夜はしばらく考えた後、大きく溜息をついて了承した。
 こんなことならダテ眼鏡の腰を壊すんじゃなかったな……くそ……。
「助かるよ。じゃあ放課後、“部室”で待ってる。“ぶしつ”けなお願いで申し訳な……くっ、ぷはははははははははははははは!」
 ……やっぱやめようかな。

 真夜が所属しているクラブ。
 ソレは何を隠そう手芸部だ。
 刺繍やぬいぐるみ、小物にアクセサリーなどなど。およそ女の子が好んで集まりそうな部活内容だが、真夜の通う高校も例外ではない。
 部員の殆どが女子生徒だ。男子生徒は真夜とダテ眼鏡、そして禁煙パイポの三人だけ。まさに秘蜜の楽園。
 だからこそ入部した。
 たった一度しかない甘じょっぱい青春を、欲望の限り謳歌するため、真夜達三人は鼻息を荒くして楽園に乗り込んだ。
 女性部員達はみんな可愛かった。今すぐにも色々とお近付きになりたいくらいに。だが、一つだけ致命的な欠点があった。ソレは――
(真面目すぎんだよなー……)
 教室の隅に寄せられた机の上であぐらをかき、真夜はウサギのぬいぐるみを片手で弄びながら嘆息した。長い前髪が掛かった半眼の先には、ロの字型に集められた机。七人いる女子部員達は全員ミシンや針を睨み付けるようにして見ながら、五メートルはある巨大な敷布と格闘している。
 きっとアレがコンクールとやらに出す作品なんだろう。なるほど、確かに一人一人が家に持ち帰って作業するというわけにはいかない。こうして一箇所に集まる必要がある。
 うん。ソレはいいんだ。別に。
 こうやってみんなで協力し合い、一つの物を作り上げていくという作業は尊い物だし、きっといつまでも良い思い出として残るだろう。
 集中している女性の横顔は凛々しくて格好いいと思うし、見ているコチラまで何だか神経が研ぎ澄まされていくような気もする。
 だから作業すること自体、否定するつもりは毛頭ない。むしろ頑張ってくれと応援したくなる。
 そう。ソレはいいんだ。別に。ただ……。
(パーフェクトに無言、てのはな……)
 誰も一言も、何一つとして、完璧な無音空間を作り出すのはいかがなものかと思う。
 こういうのは『あ、ソレ可愛いー』『ねぇねぇ、私にもやり方教えてよー』『あ、今度さー、一緒にパフェ食べに行かない? 美味しい店見つけたんだー』とかワッキーアイアイと談笑しながら、おもしろ可笑しく楽しくやるモンなんじゃないのか?
 そして『村雲君、ソレ違うよー。ほらかして、アタシが教えてあげるから』『もーいつまでたっても上達しないんだからー』『あ、もうこんな時間。じゃあ続きはアタシ部屋でやろっか』『うまいうまい。じゃーあー、“ご褒美”とかあげちゃおっかなー』とか言って最初はキスだけだったのに勢い余ってガバーッ! アーッ! とか!
 オイシイ! オイシすぎるぞこの展開! こういうのを待ち焦がれ渇望し貪欲に求め散らかしていたのに! 散らかしていたのに……! いたのに……! いた、のに……。
(……何なんだ)
 このまばたきする音すら排除してしまいそうな凍結空間は。
 お前ら日本刀でも研いでんのかとツッコミたくなるような殺伐とした空気は。
 色気も何もあったものじゃない。こんなことならバスケ部にでも入って、隣のコートの女子部員を鑑賞していた方がまだマシだった。
 しかし原則として退部、部の掛け持ちは不可というのがこの高校のルール。石の上にも三年をモットーにしている校長の方針。
 自分のポリシーを他人に押しつけるエゴイストのせいで、貴重な青春の時間はこんな穴蔵の中で――
(……ん?)
 一人悲嘆にくれる中、真夜は何か光る物を視界の隅で見つけてそちらに目を向けた。
 茜色の夕日を採り入れている窓の近く。外からの風に揺らめく青地の遮光カーテン。その下にある棚に飾られたぬいぐるみの一つに、光の筋が縦に走っていた。
 いや、アレは……。
(釣り糸!)
 昨日、ファミレスで見た物と全く同じだ。
 透明感のある糸が窓の外から入って来て、教室の中まで伸びている。そして釣り針が付けられているであろう糸の先は――
「おぃ!」
 真夜は思わず大声を上げて机から飛び降りた。
「大丈夫か!」
 ウサギのぬいぐるみを投げ捨て、女子部員の一人に詰め寄る。
 ――糸は彼女の中に消えていた。
 比喩でも何でもなく、文字どおり彼女に体内に入り込んでいた。
 しかも抜けない。いや、触れない。
 昨日、ダテ眼鏡にしたのと同様、釣り糸は自分の手をすり抜けてしまう。
 どういうことだ。一体どうなっている。どんなトリックを使えばこんなこと……。
「ちょっと……」
 真夜に肩を掴まれた女子部員が不愉快そうな表情でコチラを見た。そして体を揺すって自分の手を振りほどく。
 まぁせっかく集中していたのに邪魔されたんだ。確かにしょうがないと言えばしょうがないが……。
「アンタ誰?」
「へ……?」
 素っ頓狂な裏声が口から勝手に飛び出した。
「入部したいの? 言っとくけどアイツらみたいにスケベ心丸出しじゃ相手にされないわよ?」
 何だ。何だナンダなんだ。自分はそんなにやってはいけないことをやってしまったのか? そりゃあ体に触ったのは悪かったと思う。作業を中断してしまったのは確かに申し訳なかった。
 しかし釣り糸が体の中に入っているのを見たら誰だってビックリするじゃないか。心配するのが当然じゃないか。なのにこの仕打ち……。
 でも、何ともないのか? 痛くないのか?
「ちょっとシーちゃん。悪いよ。いくら何でも。せっかく来てくれたのに」
 釣り糸が生えている子の隣に座っていた女子部員が、申し訳なさそうな顔でフォローを入れてくれる。
 うんうん。そうだそうだ。自分は頼まれてわざわざボディーガードの真似事をしてやってるんだ。感謝はされても、邪険に扱われるいわれは全く……。
「……誰でしたっけ」
 おいおい……。
「あーあー、二人ともひっどーい。……ってアレ? 誰だろ?」
 ちょ……。
「知ってる?」
「アタシ知らない」
「私もー。ってゆーかイツからいたっけ?」
 お前ら……。
 何だ。本当に何なんだ。自分が何をしたって言うんだ。
 そりゃあ確かに、頭の中でみんなのキャラを変えたり、裸を妄想したり、脳内ハーレムを築いてみたりしたさ!
 だがそのくらい別にいいじゃないか!
 思想の自由だ! 主義主張の自由だ! ペンは剣より強いんだ!
 ……だから何も、イヤガラセまで昨日と同じじゃなくていいじゃないか。
「おんや、みんなどうした。コレは何の祭りなワケだ? ぜひ私も入れてくれ」
 そしてトドメはやっぱりコイツか、五月雨。
「言っておくが村雲をからかうことに関して、私に勝る者はそういないぞ」
 はいはい。どーせ昔からお前は性悪ド変態の色気皆無女ですよ。
 ……まぁ、他の奴等みたいに自分のことを知らないフリしないだけマシか。
「例えば、だ。コイツの尻には星形のホクロがある」
「カンケーねーだろーが!」
 朝顔の爆弾発言に、真夜はダン! と机を強く叩いて抗議の声を上げた。
『あー!』
 そして六つの非難の声が同時に上がる。
「ちょっと何すんのよ!」
「ウッソー信じられなーい!」
「そこ破れてない!? 伸びてない!?」
「邪魔するなら帰ってよ!」
「大体高三にもなって宿題写させてとかやめてよね!」
「あとその前髪何とかならないの! 前からずっと思ってたんだけどウザイ!」
 こ、コイツら……好きでこんな場所にいるんじゃねーってのに……。しかも最後の方は何の関係もないし……。いつも無口君のクセに一端口を開くと止まりやがらねぇ……。
「まぁまぁ、コイツだって“わざ”とやったワケじゃないだろう。だが村雲、コレで口は“ワザ”ワイの元だということが……ぶっ、ぶへははははははははははははははは!」
 このアマ……もう本気で帰るぞ。
 六つの罵詈雑言と一つの壊れた笑いに押され、真夜は刺繍の入った敷布から手をどけてそっぽを向いた。
「……で? 何が『大丈夫か』なんだ?」
 ひとしきり笑い終えた後、朝顔は目尻に溜まった涙を指で拭きながら聞いてくる。
「何がだよ」
「四分二十三秒前にキミが言ってたじゃないか。血相変えて『大丈夫か!』って。一体何をそんなに心配してたんだ?」
 心配って……。
「あー!」
 そうだ! 忘れるところだった! 元はと言えば全部コイツが……!
(どこだ!)
 どこに行きやがった! あの糸! 釣り糸!
 切れ長の目を大きく見開き、真夜はさっきまで目の前の女子部員から生えていた糸を探す。だがない。もう彼女の体には付いていない。いつの間にかなくなっている。
 逃げられたか。いや、アレは確か窓から伸びていたはず。なら――
「いた!」
 窓枠の上に銀色の釣り針が乗っていた。しかしソレは外に吸い込まれるようにして消える。
「逃がすか!」
 釣り針を追って床を蹴る真夜。そして窓枠に足を掛け、部室の外へと飛び出した。
「おい! 二階だぞ!」
 絶対に捕まえてしばく!

 持ち主とおぼしき人物はすぐに見つかった。
 校門のすぐそばにいて、自分の姿を見るなり逃げ出しやがったからだ。アレでは『私が犯人です。どうぞ捕まえて下さい、ご主人様』と言っているようなもの。
(ああ捕まえてやるさ!)
 そしてキッチリ礼をしなければならない。昨日の分まで含めて。
「待てオラー!」
 長い前髪を後ろになびかせ、真夜は叫び上げながら街の中をひた走る。
 ケーキ屋に洋服店、本屋やファーストフードが立ち並ぶ歩道を抜け、アーケードの備え付けられた商店街へ。買い物に賑わう主婦達の群を押しのけながら進み、車通りの多い幹線道路へと出た。
(クソ! 速えぇ!)
 だが距離は一向に縮まらない。それどころか開いているようにすら感じる。
 見た目は中学生か、下手をすれば小学生くらいなのにやたらと足が速い。あんな動きにくそうな格好で……。
 長い金髪が邪魔なはずなのに。無駄にデカい釣り竿に振り回されてもいいはずなのに。そもそも着物の喪服に一本歯の高下駄なんぞでまともに走れるはずがないのに!
 しかもぺースが落ちない! コッチはだんだん息が苦しくなってきたってのに!
 このままでは逃げられる。
 どうする。どうすればいい。
 せめて顔。顔を見せろ。そうすれば次に会ったら問答無用で襲いかかってやる。そして押し倒して、全身を荒縄で縛り上げて、ムチとロウソクで責め立てて、痛いのがだんだん気持ちよくなって、朱に染まった傷跡に口付けを……。
 ――気が付けば、距離は半分くらいになっていた。 
 金髪喪服女の背中が随分と大きく見える。
(行ける!)
 性欲という名の邪なエネルギーが、マグマの如き灼熱を帯び、真夜の全身を駆け巡った。脳内で吹き荒れるドーパミン、アドレナリン、リビドミン。体が軽くなり、足に羽根でも生えたかのように前へ前へと進んでいく。
(加速装置!)
 そうだ。何を弱気になっている。
 自分には最大最強の武器があるじゃないか! 誰にも負けないと胸を張って自慢できる兵器があるじゃないか!
 エロスへの飽くなき探求心!
 そして妄想を頭の中で鮮明に浮かび上がらせる想像力!
 想像とはすなわち創造! 無から有を生み出す神が授けし力!
 ソレを最大限に発揮し、物理的な力にさえ変えることができる!
 俺は今! 更なる高見に上り詰めた!
 さぁ妄想しろ! あの金髪喪服女を捕まえた後のことを!
 押し倒し! 圧し掛かり! 内なる本能の気の向くままに! そして着を剥くままに!
「む……!」
 凄まじい勢いで景色が後ろに流れていく中、真夜の視界がロックオンした人物の首が捻られる。コチラとの距離を確認しようとしているのか、そのまま横顔が後ろに向けられて――
 可愛い。
 頭の中をピンク色の文字が埋め尽くした。
 細く整えられた眉毛。子供っぽくクリクリと大きく、それでいて神秘的な輝きを宿した蒼い瞳。まるで突起のような小鼻は愛らしく、瑞々しい唇は健康そうな桃色。そして僅かに上気した紅い頬と驚いた表情が、彼女の魅力を何倍にも引き上げていた。
 顔立ちからするにやはり中学生くらいか。やや年の差はありそうだが……全くもって射程圏内! イッツ・オッケー! ノー・プロブレム! オール・オア・ナッシング!
「いただきまっす!」
 手を伸ばせば触れられる距離まで追い付いたところで、真夜は地面を大きく蹴った。そして前の少女に覆い被さるようにして掴みかかる。
「ぅひゃぁ!」
 幼い声を上げ、少女は前のめりになってバランスを崩した。そのまま彼女の顔がアスファルトに接近し――触れる直前、真夜の腕が間に差し込まれる。半袖のシャツから伸びた太い腕は少女を庇い、クッションになって彼女の全身を受け止めた。
「つ・か・ま・え・た・ぜー……」
 地面を両手で押し返して少女から体を離し、真夜は血走った目でじぃぃっと見つめる。ソレはまるで野獣が獲物を見定めるかのような――
「な、何するですかー」
 少女は苦しそうに顔をしかめ、呻くように小さな声を漏らす。
「そんなモン『大人のお医者さんゴッコ』に決まってんじゃねーか」
「こ、腰の動きが卑猥ですよー」
「コレはね、俺が本気な証拠なんだよ黒ずきん」
「で、でもみんなが見てるですよー」
「アレはね、俺達に嫉妬しているのさ黒ずきん」
「こ、こんな所で突っ走ったら確実にお巡りさん行きですよー」
「ソレはね、刑務所プレイをするための……」
 ……は!
 刑務所。
 自分で言ったその言葉に、真夜はようやく理性を取り戻した。頭から血が一気に雪崩れ落ちてくるのが分かる。
 立ち上がり、辺りを見回す。
 ロータリーだった。バスが沢山停まっているところを見ると、終着停留所か……?
 近くには大きなデパートかあり、何十という人の目がコチラに注ぎ倒されていた。そして全ての瞳には同じ光が灯されている。
 アレは――犯罪者を見る目つきだ。
(い、いかん……)
 いつの間にか自分の方が悪者になっている。ロータリーでロリータを押し倒したモンだから、『おっ、上手いねっ』とか言って汚物を見るような座布団が一気に全部持って行かれ、俺の名誉は瞬時にして泥沼。鼻から入ったこんにゃくが喉に詰まって、『ねぇ奥さん。いかがですこのネジ。今ならお安くしておきますよ』とか、サブちゃんが皿回ししながら言ったと言わないとか――
 ……は!
 挙動不審に蠢いていた視線を前に戻す。
 いない。
 さっきのあの金髪喪服女がいない。慌てて周りを探す。
 いた!
 人混みに紛れて逃げようとしている。だが長い銀色の釣り竿が上に付き出し、目立って目立ってしょうがない。
「待てコラー!」
 そして真夜は再び走り出し、
「あーもー! しつこいですよー!」
 少女の方からコチラに飛び出して来た。
 諦めたか? いや――アイツ、釣り竿を振って、コッチに……。
「そいやー!」
 銀色の釣り針が飛んできた。ソレは直線的な軌道を取り、自分の胸に狙いを定めて――
「へ……?」
 ――弾かれた。
 食い込むでも落ちるでもなく、まるで金属同士がぶつかったように勢いよく弾かれた。
「何でですかー!」
 そしてロータリーに響く少女の驚愕の声。
 何でって……ソレはこっちが聞きたい。自分はいつから超合金ロボになったんだ? 確かに鋼の肉体には憧れていたが……。
「納得いかない! 納得いかないですよー!」
 銀色の釣り竿をブンブンと振り回しながら少女は喚き立てる。
 周りの人間はそんな彼女を避けるようにして離れて行き、
「ま、詳しい話は部屋でゆっくり聞こうか」
 真夜は少女の腕を掴んだ。
 絶対に逃がさないように。がっちりと。
「し、しまったですよー!」
 大きな目を更に大きくして、少女は狼狽の声を上げる。
「人さらいー! ドスケベ・ロリオター! 鬼畜ー! せーよくの権化ー!」
 そして釣り竿を何度もコチラに振り下ろしながらタダをこねるように叫んだ。
「おわっ! あ、ぶねーだろ!」
 が、真夜の言葉に少女の動きがピタリと止まる。
 まるで硬直したかのように。顔からは一切の表情が消え、深い蒼を宿した双眸でじっとコチラを見上げている。
「……やっぱり、見えてるですねー?」
 訝しがるような、それでいてどこか試すような声。先程までの子供っぽい雰囲気はなりを潜め、何か殺気にも似た威圧感を感じる。
 何だ? 急に……。どうしたってんだ?
 と、銀の光が目の前に急迫し、
「――ってぇ!?」
 反射的に横に倒した顔を掠めて釣り竿の切っ先が通り過ぎた。
「ふーぬ……。コレで確定的ですよー……」
「テメぇは殺す気か!」
「分かったですよー。オレもお前に聞きたいことや言いたいことが沢山あるですよー。お前の部屋とやらに行くですよー」
「人の話を聞け!」
「だからこれからゆっくり聞いてやると言ってるですよー。早く案内するといいですよー」
 こ、コイツ……。
 勝手に話を進めていく金髪喪服女を、真夜は目元をヒクつかせかせながら見下ろす。
 い、いや待て……。落ち着け、ココは落ち着いて大人の対応だ。深呼吸しながら目を瞑り、心の中でゆっくりとワン・トゥー。
 …………。
 ……よし。
「ケーキ。ケーキを買っていくですよー。あと紅茶もですよー。あ、心配しなくてもお前の予算に合わせてやるから大丈夫ですよー」
 ……ワン・トゥー……ワン・トゥー……ワン・トゥー……。

 高校から電車で五駅ほど離れた場所にあるワンルーム・マンション。三階建ての質素な作り。築十五年以上で色々とガタは来ているが、家賃が管理費込みで月六万というのはこの辺りでは破格だ。
「なかなか綺麗な部屋ですよー」
 六畳ほどの部屋の真ん中に置かれたガラステーブルの前に座り、金髪喪服女はケーキを頬張りながら言った。下が白いカーペットなせいか、黒い着物がやたらと目立つ。やはりこの喪服というやつは異様だ。
「聞きたいこと、ツッコミどころは山のようにあるが……まずは名前だ」
 青いクッションの敷かれたパイプベッドに腰掛け、真夜は疲れた顔付きで漏らした。
「アリュセウですよー」
 ソレに素直に返す金髪喪服女。
 アリュセウ……外国人か。まぁ髪の色といい瞳の色といい、日本人ではないとは思っていたが……。にしてもやたらと流暢に話すな。ハーフか? いや、今はそんなことはどうでもいい。
「昨日今日と俺の周りでチョロチョロしてやがったのはお前だな」
「そうですよー」
 湯気の立つ紅茶をティーカップからズズズッとすすり、アリュセウは悪びれた様子もなく言う。
「何してやがった。そんなモン使って」
「ポイント稼ぎですよー」
「ポイントぉ?」
 真夜は灰色のローデスクの上に置かれた釣り竿に手を伸ばし――やはりすっぽ抜けて聞き返した。
「プラクティショナーにとってのお金ですよー。食べ物でもあるですよー。ポイントが沢山あれば色んな物が作れるし、元気一杯だし、上級職にも就けるですよー」
「あ? あ? あァ?」
 待て。待て待て待て。何だって? プラクティショナー? 上級職?
「えーっとつまり何か? お前は日本に何かの修業に来てて、ポイントを溜めるとレベルアップできるって、か……?」
「まぁそんなモンですよー」
 コチラを見ないままひたすらケーキを食うことだけに集中し、アリュセウは幸せそうな表情で頷く。
 異国から単身留学で武者修行、か……。まぁ料理や絵画の世界ではよく聞く話だが……。
 ああ、そうか。コイツ日本の文化を間違った解釈したんだな。それでこんな妙な格好してんのか。いかんな。ココは一つお近づきの印に、自分が手取り足取り寝取り教えてやらねば。
 ……いや待て。ロングブロンドのロリータに着物の喪服……そして銀色の釣り竿、か……。
 …………。
 ……良いんじゃないのか?
 このアンバランスさかなんとも男心をくすぐるというか、類い希な色気を感じるというか、むしろかつてない猛りを覚えるというか。
 そして今、この部屋には自分たち以外誰もおらず、完全なる二人きり……。
 オイシイ……オイシ過ぎるぞこのシチュエーション! 絶対に有効活用せねば!
「何か目が血走ってるですよー」
 ……はっ!
 アリュセウの声に、真夜の意識は現実世界へと引き戻された。
 い、いかん。本能のイタズラのせいで思考があらぬ方向へ。
 そう、イタズラだ。こんな無垢でいたいけな少女に、イタズラ……。何と甘美な……。
「ゴチソウサマですよー」
 ましてや美味しく召し上がってゴチソウサマなどと……。
 ……はっ!
 い、いかん。どうしてもソッチの方向へ進んでしまう。
 落ち着け。落ち着くんだ。クール・ダウンだ。目を瞑って、ワン・トゥー。
 ……よし。
「さて、そろそろコチラからも聞くですよー」
 買ってきた五個のショートケーキを全て食べ終え、アリュセウは満足そうに顔を上げる。そしてローデスクの上から銀の釣り竿を取り上げ、糸を長く垂らして、
「どうしてお前は記憶を失わないですかー?」
 釣り針をコチラに投げ付けながら言った。
「記憶、を……?」
 自分の胸板で弾かれてカーペットの上に落ちた釣り針を見つめ、真夜は独り言のように漏らす。
「お前のおかげでこの一ヶ月、完全に無駄骨ですよー。ちっとも連鎖してくれないですよー。忘れてもまたすぐに戻るですよー。何でですかー」
 記憶……この一ヶ月……。
 断片的な二つの言葉が合わさり、真夜の中で一つの仮想物語ができ上がる。
 ソレはあまりに突飛で、あまりに馬鹿馬鹿しいおとぎ話。絶対にそんなことできるはずがないと思いつつも、聞かずにはいられない。
「あー、ひょっとすると俺は今からとんでもないことを口走るかもしれんが別に構わんか?」
「いいですよー」
「つまり、何か……?」
 長い前髪を指先でいじりながら俯き加減に呟き、真夜は切れ長の目を更に細くして下からねめ上げた。
「周りの連中がいきなり俺のことド忘れしたりしやがったのは、お前が何かしてたからってワケか?」
「なかなか呑み込みが早いですよー」
「貴様ー!」
 パイプベッドを蹴り、真夜はアリュセウに詰め寄って喪服の胸元を掴み上げる。
 が、すぐに顔を紅くして手を離すと、部屋の隅にある小型冷蔵庫の上に座り直した。
「思ったより純情ですよー」
 アリュセウはそんな真夜に横目を向け、喪服の着付けを直しながらイヤらしく言う。
「……もし仮に、ソレが本当だったとして。どーやったんだ、ンなモン。薬か。電波か」
「コレですよー」
 居心地悪そうに後ろ頭を掻く真夜に、アリュセウは例の釣り竿を高く上げた。
「コレで消したい記憶を釣り上げればオッケーですよー。その後に連鎖が起きてみんなの頭の中からも消えるですよー」
「あぁ……?」
「例えば昨日のファミレスですよー」
 眉間に皺を寄せて聞き返す真夜に、アリュセウは得意げな顔で続ける。
「オレはあの眼鏡君からお前の記憶を消したですよー。でもそのままだと眼鏡君だけが浮いてしまうですよー。周りから変に思われるですよー」
 ……まぁ、な。
「だから“眼鏡君がお前の知り合いである”ということを知っている人の中からもお前に関する記憶は消えるですよー」
 ……何?
「昨日の場合は一番近くにいた煙草君のことですよー。煙草君は眼鏡君がお前の知り合いであるということを知っているですよー。だから煙草君の中からもお前の記憶はなくなるですよー」
 ……あー、つまり?
「つまり、“眼鏡君がお前を知らない”という状況が誰の目から見ても不自然でなくなる状態になろうとするですよー。そうなるまで記憶の消去は続くですよー」
 ……ダテ眼鏡が自分のことを知らないという状況が当たり前になるまで?
「当然、店にいたウェイトレスも巻き込まれるですよー。眼鏡とお前が一緒に話しているのを見れば、眼鏡がお前の知り合いであるということは明白ですよー」
 ……それで自分が注文した飲み物はなかなか来なかった?
「分かってきたですかー?」
 ……じゃあさっきの部室はどうなんだ?
 コイツが釣り針で窓の近くにいた女子部員の記憶……自分に関する記憶を消し去ったとすれば……。まぁ本当にそんなことができるかどうかは、ひとまず置いておくとして。
 まず彼女は自分のことを忘れる。そしてその状況が不自然にならないように、他の奴等も自分のことを忘れる。“彼女が自分と知り合いである”という情報を持っている奴等全員の頭から自分はいなくなってしまう……。
 ……マジで?
 けど、そういうことなら今までのド忘れ事件は一応の説明が付くわけだが……。
「さて飲み込めてきたところで応用編ですよー」
 ローデスクに置かれたブラウン管テレビの上で脚を組み、アリュセウはロングブロンドを片手で梳きながら楽しそうな口調で続けた。
「さっきの“眼鏡君がお前のことを知らない”という状況を当たり前にするために煙草君の記憶からもお前は消えたですよー。す・る・と、今度は“煙草君がお前のことを知らない”という新たな不自然状況が生まれるですよー」
 銀の釣り竿の先をぴ、ぴ、ぴ、と動かしながら、アリュセウは小鼻をひくひくと動かす。
「当然、コレも解消しなければならないわけだから、さっきと同じように色んな人の記憶が色んなところで消えるですよー。コレが“連鎖”ですよー。連鎖が長くなればなるほど、ゲットできるポイントは加速度的に増えていくですよー」
 ……紙に書いて整理しよう。
 真夜は小型冷蔵庫から腰を上げ、ローデスクの引き出しからメモ用紙とペンを取り出してガラステーブルの前に座り直した。
 まず、アリュセウがダテ眼鏡から自分の記憶を消す。すると自分とダテ眼鏡の関係を知っている禁煙パイポの中からも自分の記憶は消える。同じようにしてウェイトレスの中からも消える。


 “ダテ眼鏡” ――知らない―→ “俺” ←―知らない―― “禁煙パイポ(眼鏡由来)”
                      ↑
 “ウェイトレス”――知らない―――┘                   
  (眼鏡由来)                                            』

 こうなる。
 コレによって少なくともあのファミレスの中では、“ダテ眼鏡が自分のことを知らない”という状況に関する不自然さは解消される。
 が、今度はソレによってまた新たに二つの不自然さが生まれる。
 “禁煙パイポが自分のことを知らない”という状況と“ウェイトレスが自分のことを知らない”という状況だ。コレを解消するために“禁煙パイポと自分が知り合いである”という情報を持っている者の記憶の中から自分のことは消え、“ウェイトレスと自分が知り合いである”という情報を持っている者の記憶の中からも自分のことは消える。
 ただ後者はあまり考えなくていい。元々ただの客と店員でしかないワケだし、彼女が自分のことを知らなかったとしても、ソレが他人の目から見て不自然に映るとは思えない。
 問題は禁煙パイポの方だ。
 自分と禁煙パイポの関係を知っている他の友人、例えばYMCAや道祖神の頭の中からも自分のことは消えるわけだから、

『(パイポ由来)
 “YMCA” ――知らない――――┬――――知らない―― “道祖神(パイポ由来)” 
                      ↓
 “ダテ眼鏡” ――知らない―→ “俺” ←―知らない―― “禁煙パイポ(眼鏡由来)”
                      ↑
 “ウェイトレス”――知らない―――┘                   
  (眼鏡由来)                                              』

 このようになる。
 するとまたYMCAと道祖神に関しても、同じように不自然さを解消するために……。
 こうやって最初にあった“自分とダテ眼鏡の関係”とは全く無関係のところで間接的に記憶の喪失が巻き起こっていく。ソレが“連鎖”……。
「なかなか理解が早いですよー」
 真夜の後ろから覗き込むようにしてアリュセウが言ってくる。
「じゃあ何か……?」
 真夜は手の中で震えるペンをテーブルの上に置き、ぎぎぎと軋んだ音を立てながら後ろを振り向き、
「もしお前がその気になれば……俺の友達全員を一瞬で奪えるってことか!?」
 両肩をわしぃっ! と強く掴んで顔を寄せた。
「全員でもないし一瞬でもないですよー。連鎖にはそれなりに時間が掛かるし、知り合いのグループが完全に別なら連鎖はしないです。例えば、お前に学校での知り合いと、エロ専門の知り合いがいた場合、二つのグループに接点がなければ連鎖は学校の中だけで終わるですよー。同じ学校の中だって、覗き魔チームと痴漢チームを独立して持っていれば片方は無傷ですむですしねー。つまり連鎖を起こすためには、“お前と他の人”の繋がりだけじゃなく、“他の人同士”の繋がりも必要になってくるですよー」
 ……むぅ、説明の一部に多大な不満はあるが、理屈上ではその通りか。
 つまり他の学校の文化祭で知り合った女子生徒に被害は及ばないというわけだな。いや待て、確かあの時ダテ眼鏡と禁煙パイポも一緒だったから……。
「ところがお前に関する連鎖は起こらなかったですよー」
 真夜の手から身を離し、アリュセウは眼を細めてどこか冷たい語調で言った。
「何回やっても何回やっても途中で弾かれるですよー。すぐに記憶の網が再構築されるですよー。コレはもうオレのミスだけでは片付けられない異常事態ですよー」
 釣り竿を壁に立てかけ、アリュセウは腕組みしてコチラを見据える。
「しかもお前の中からは周りの人間の記憶が全く消えない。眼鏡君がお前のことを忘れたらお前は眼鏡君のことを、煙草君がお前のことを忘れたらお前は煙草君のことを即座に忘れるはずですよー」
 ……確かに。そうでなければ不自然さは解消されない。
 この一ヶ月、他から忘れられたことはあっても、自分が他を忘れたことは一度たりともない。だからこそ底知れない疎外感を味わうハメになった。
 ならばコレはどういうことなのか。
「どういうことですかー。ちゃんと理由を説明してオレのこの一ヶ月を返すですよー。それで綺麗サッパリ消えてなくなるですよー」
 たった一つだけ、この事態を説明できる言葉がある。  
 ソレは単純かつ明快にして自明。
「つまり、だ」
 真夜は長い前髪を掻き上げ、哀れみを込めた視線をアリュセウの方に向けて、
「お前が妄想少女だということだな」
 溜息混じりに言い切った。
「は……?」
 そして目を点にするアリュセウ。
 ふん、そうだ。そうじゃないか。こんな馬鹿げた話、どうして真に受ける必要がある。いつの間にかコイツのペースに嵌っていた。釣り竿で記憶を消す? そこから連鎖が起こって周りの人間の記憶が消える? 馬鹿馬鹿しい。
 朝顔の自爆オヤジギャク以上に笑えない。
 現に自分の周りには何も起こっていないじゃないか。誰も自分のことを忘れてなどいないし、自分だって誰も忘れていない。
 ただちょっとの間だけド忘れされていただけなんだ。そんなこと往々にして起こりうる。
 それに朝顔はそのド忘れさえしなかった。さすがは異常記憶力の持ち主。こんな時ばかりは心強い。
 大体コレだけ例外が揃っていて、今アリュセウが長々と説明したことを受け入れるなど無理な話だ。
 コイツは極度の妄想癖がある外国人留学生。日本に何かの武者修行の旅に来て、文化を間違って解釈してしまった。それで釣り竿に魔法ステッキみたいな力があるんだと思い込んだんだな。
 よし、コレで決まりだ。なんだ。随分スッキリしたじゃないか。コッチの方が断然分かり易いぞ。
「大丈夫。そんなに気にすることはない。いや、むしろそういう突っ走った考え方は大好物だ。そこでどうだろう。俺に日本を案内させてくれないか。色々と面白い場所を紹介できると思うんだが」
 真夜はパイプベッドに腰掛け、柔和な笑みを浮かべてアリュセウを見る。
 コレも何かの御縁だ。きっと神様が与えてくださったチャンスなんだ。
 モノにしろ、と。
 ええ分かってますよ、隊長。今のうちにとことん親睦を深めて、抉って、掘り下げまくって。そして下げて掘って下げて掘って下げて掘って掘って掘って掘れと。
 そういうことですね! 了解しました! 玉砕……したら男廃業で掘れないんで、そうならない程度に頑張……!
「じゃあコレはどう説明するですかー?」
 ぐぐぅ! と握り拳を高く掲げる真夜に、アリュセウは銀色の釣り竿を軽く振った。鋭い色を宿した釣り針が自分の体にあたり、大きく弾かれてカーペットに落ちる。
 明らかに物理法則を無視した異常現象。
「コレはどう説明するですかー?」
 アリュセウは二メートル近くある釣り竿を横薙ぎに振るった。
 ソレは真夜の右肩に触れ――そのまま体に埋め込まれて何の抵抗もなく左脇から抜け出す。
「このオペレーション・ギアは普通は見えないですよー。だからオレ達プラクティショナーは誰にも見付かることなく、人間の精神に干渉できるですよー。記憶を消したり、意識を消したり、命そのものを消したり。でもお前にはハッキリ見えている。触れることはできないみたいですけどねー。かといってプラクティショナーじゃない。じゃあ何者? 当然の疑問ですよー」
 半眼になり、アリュセウは嘲るような、それでいてどこか楽しそうな口調で言いながらコチラに近付いてくる。
「見てるですよ」
 そしてパイプベッドに乗り、ソコから出窓の出っ張りスペースに這い上がって窓を開けた。四つん這いの体勢から頭を外に出し、キョロキョロと辺りを見回して、
「アレがいいですよー」
 何かを見つけて手招きで呼び寄せる。
 真夜はまるで催眠術にでも掛かったかのようにアリュセウの後ろに付き、彼女が見ている方に視線を向けた。
 マンションの斜め向かいある一戸建て。広い庭には二匹の犬が放し飼いにされている。いつも夕方のこの時間に吠えるせいで鬱陶しいことこの上ない奴等だ。
「あの白に黒ブチの犬から、茶色い犬の記憶を消すですよー」
 言いながらアリュセウは釣り竿の真ん中あたりを持ち、数回振って釣り針を打ち出す。針は正確な軌道で一直線に伸び、激しく動き回るダルメシアンの頭部に食い込んだ。
「ほぃっと」
 アリュセウが短く声を発する。
 だが何の変化もない。釣り竿が光るワケでも、うるさい鳴き声が収まるわけでもない。
 ただ――
「ケンカが始まったですよー」
 犬達の様子がおかしくなっていた。
 さっきまで仲良く庭の中を吠え回り、主が散歩に連れ出してくれるのを待っていたのに、ダルメシアンとコーギーは互い距離を取り、攻撃的な声を上げて相手を威嚇している。
「知らない奴がいきなり目の前に現れたら誰だってああなるですよー」
 蒼い瞳で肩越しにコチラを見ながら、アリュセウはおどけたような口調で言った。
 消え、たのか……? 本当に。ダルメシアンの中からコーギーの記憶が……。あの一瞬で……? まさか……。
「決定的瞬間の到来ですよー」
 いつの間にかまた外を見ていたアリュセウが弾んだ声を出す。
 飼い主とおぼしき男性が庭に出てきていた。きっと犬が吠えているのに気付いたのだろう。いつもならここで彼は苦笑しながら二匹を散歩に連れ出すはずだが……。
「あ……」
 追い払っている。
 顔を厳つくして手に持っているバットを振り回し、コーギーを庭から追い出そうとしている。
「黒ブチの頭の中から茶色が消えたから、“黒ブチと茶色が知り合いである”ということを知っているあのオッサンの頭の中からも茶色の記憶がなくなったんですよー」
 さっきアリュセウが説明したルールが見事に適応されていた。
 人間だけでなく、動物にも。
「普通、お前の頭からもあの茶色のことは消えてなくなるはずなんですよー。でもお前はしっかり覚えたままですよねー。だから不思議なんですよー」
 じゃあアリュセウが正しいのか?
 この一ヶ月の妙な出来事はみんなコイツのせいで、釣り竿で人の記憶を操れて、普通は見えなくて、何故か俺だけは例外で……。
「その顔だと本当に何も知らないみたいですねー。何か隠してて反応してくれるかと期待していたんですが……どうやら違ったみたいですよー」
 釣り糸を戻して窓を閉じ、アリュセウは大袈裟に溜息をついてカーペットの上に座った。
「でも、逆に興味そそられてきたですよー」
 そして好奇に満ち満ちた瞳を向けてくる。
「決めたですよー。しばらくお前に付きまとうですよー。正体を暴くですよー」
「へ……?」
 あまりに唐突な提案。一瞬の戸惑い。
 が、本当にごく一瞬で、すぐに黒い欲望が上塗りしていく。
「そっか。なら……ココで一緒に住むか?」
 アリュセウから目を逸らし、真夜はダメもとでうそぶくようにして言い、
「勿論そのつもりですよー」
 ッシャァ!
 目の耳から何か出ているのではないかと錯覚するほどに、真夜は胸中で裂帛の快哉を上げた。
 もうさっきまでのややこしい話はどうでもいい。この独特の雰囲気を持った美少女との同棲生活が始まるという事実さえあれば。
「そう言えばまだ名乗ってなかったな! 俺は村雲真夜! 青蓮学園高校! 通称・青学の三年生! 手芸部所属! よろしくな!」
 キラーン、と虫歯一つない磨き上げられた歯を輝かせ、真夜はアリュセウに手を差し出す。
「オレはアリュセウ。ポイントを稼ぐためにお前に目を付けた【記憶の施術者】ですよー」
 アリュセウも改めて自己紹介し、真夜の手を握り返す。
 あ、温かい……。そして小さくて柔らかい……。
 ああ、幸せだ……。脳汁が沸騰しそうなほどに……。
「ま、よろしく頼むですよー」
「おぅ!」
 こうして、二人の同居生活が幕を上げた。
ススム | モクジ





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