モドル | モクジ

● 記憶の施術者 ◆最終話『開幕! 新生活は絶叫とともに!』◆ ●


刀wあらゆる挑戦にはチャンスが三回まで与えられている。
  一回目は失敗するために。二回目は後悔するために。そして三回目は絶望するため……オイ』

 目を覚ますと見慣れた天井が視界一杯に広がっていた。
 遮光性の低いカーテンを通り抜けて部屋に差し込んでくる光が、馴染みの室内をおぼろげに浮かび上がらせている。
「……ん」
 真夜はベッドの上に身を起こし、辺りを見回した。
 使い込んで表面が傷だらけになったガラステーブル。ブラウン管とCDラジカセの乗ったローデスク。扉が開けっ放しになったユニットバス。その隣でうんうん呻っている一人用の小型冷蔵庫。
 ソレはいつもの光景。この三年間、模様替えなど一度もしたことがない無愛想な部屋。しかしそれ故に落ち着く自分だけの城。
 だが――何かが足りない気がする。
 何かもう一つ、この部屋にあったような気がする。
(えーっ、と……?)
 真夜は長い前髪をいじりながら記憶の糸を手繰り寄せた。しかしその何かを思い出そうとした途端、モヤ掛かってしまう。
(あー、待て待て)
 まずは落ち着こう。こういうことは一足飛びにはできないんだ。一つずつステップを踏んでいかないと。
 目を瞑って、心の中でゆっくりとワン・トゥー。
 ……よし。
 じゃあまずは根本的なところからだ。
 そもそも自分はこんなところで何をしているんだ? 寝た記憶が全くない。ベッドに入ったことすら覚えていない。なんでだ? 泥酔者じゃあるまいし。
 確か昨日は、朝顔が急に部屋に遊びに来たいとか言って、他愛のない昔話を適当にして、それから……。
「あー……?」
 どうしてだろう。記憶がいまいち繋がらない。順番に追って行こうとしても、なぜか途中で切れてしまう。何かが足りない。
 にもかかわらず妙にスッキリしている。頭は霧に包まれたままなのに、心だけは晴れ渡っている。明確な方向性を持てている。コレで良いんだという自信がある。
 変な気分だ。本当に変な気分だ。今まで、こんな気持ち……。
「ま、いっか」
 自分に言い聞かせるように明るく言って、真夜はガラステーブルの上のリモコンに手を伸ばした。そしてテレビを付けながらカーテンを開く。力強い朝の日差しが、部屋を明るく照らし出した。
 どうせ一時的な物だ。今日一日ゆっくり休めば元に戻るさ。
 それにド忘れしてしまうような記憶に用はない。大したことじゃないから忘れるんだ。つまりはいらない記憶ってヤツだ。頑張ってほじくり返して、ただでさえ少ない頭のメモリーを圧迫する必要はない。
(けど、なぁ……)
 何かが引っかかる。やっぱり何かおかしい。
 明日、朝顔に聞いてみるか。アイツなら全部覚えてるだろ。何時何分何秒まで事細かに。
 ソレでいい。今無理して思い出す必要なんかない。
 そんなことよりも異様に疲れているんだ。地球の自転速度が変わったんじゃないかってくらいに体が重い。今日が休みで本当に良かった。久しぶりに一日中部屋でゴロゴロして、のんびりと――
『――容疑者の自首により、これまでの捜査は一旦打ち切られることとなりました。ただしこの事件に関しては容疑者がどのようにして被害者の意識を奪い去ったのか、いまだ謎の部分が多く、真相の究明にはまだ時間が掛かりそうな見通しです』
 耳に入ってきたテレビの声に、真夜は大きく息を吐きながら伸びをした。
「解決、か……」
 そしてベッドから立ち上がり、ユニットバスの方へと足を向ける。
 この数ヶ月、全国を震撼させてきた凶悪犯も最後は心が折れて御用。良かった良かった。コレで余計な心配をしなくてすむ。何せ自分達のすぐ近くまで来ていたらしいからな。その恐怖からも見事に解放されたわけだ。
(素晴らしい)
 最高の休日だ。こんなに胸がスッとしたのは初めてかもしれない。
 天気も良いし何だか部屋にいるのが勿体ないな。ブラブラとその辺を散策してみるのも良いかもしれない。
 よし決まった! 今日は一人で美人鑑賞会! そんでイイ娘がいたら速行で声を掛ける! 大丈夫だ! 今日は何だか行けそうな気がする! 今の自分は最高に輝いている気がす――
『はーいっ。それでは今日、二十三日っ。“月曜日”のお天気をお知らせしまっす』
 ――る?
「え……」
 ちょ……。
『今日っ、朝は晴れてますがお昼からは曇り空ーっ。ひょっとしたら激しい夕立になっちゃうかもしれないから傘は絶対に忘れないでねっ。でも“明日の火曜日”は絶好のプール日和っ。みんな気を付けて夏休み満喫してねっ』
 待っ……。

「納得いかん!」
 ダンッ! と教卓に拳を叩き付け、真夜は数学の教師を真っ向から睨み付けた。
「まぁ心配するな。遅刻、欠席回数うんぬんだけじゃなく、お前が定期考査で赤点まみれになることはすでに決定事項だ。補習の決定がちょっと早くなっただけじゃないか」
「お・の・れ・は! ソレが最後の甘酸っぱい夏を控えた生徒に対して言う言葉か!」
「辛い思い出から救ってやるのも教師の仕事だ」
 こ、イツ……!
「ほーら早く席に着け、村雲。授業始めるぞ」
 片手でシッシッとあしらわれ、真夜は視線に殺意を込めながらも自分の席に向かった。
 おかしい。絶対におかしいぞ。何で土曜日の次が月曜日なんだ? いつ暦の大改正が行われたんだ? どこの横暴な一夫多妻政治家の仕業だ?
 あまりに傲慢だ。邪道だ。理不尽だ。独善だ。偽善だ。空前だ。ビッグバンだ。
 くそぅ! クソクソクソクソ!
 俺の貴重な『目と心の保養デー』を返せよぅ!
「まー、そう落ち込むなって。俺もすぐに行くからさ」
 席に座った真夜の後ろから、禁煙パイポが脳天気な声を掛けてきた。
 慰めどころか挑発にしかなっていない。後で念入りにしばいておこう。
(ったく……)
 机に頬杖を付き、首に掛けただけのネクタイを触りながら真夜は窓の外に目を向けた。
 本当にどういうことだ。どうして日曜日がスッ飛ばされてる。なぜ今日が月曜日なんだ。
 極めて冷静に考えて導き出される答えはただ一つ。
 日曜日の間ずっと眠っていた。コレしかない。
(なんだそりゃ)
 もしソレが本当だったら冷静にしてる場合じゃないぞ。
 聞いたことがある。コレはきっとナルコレプシーという一種の病気だ。所構わずいきなり眠ってしまう怖ろしい病。
 どうしよう。病院に行くべきか。しかしまだ決まったわけではないし。疲れていたのは確かだから、丸一日熟睡してしまった可能性も捨てきれなくは……。
「おぃ、村雲」
 いやしかしなぁ。学校サボって群馬くんだりまで出向いて、一日中走り回っていた次の日だってちゃんと起きられたんだ。だから疲労の線は、ちょっと……。
「村雲ってば」
 そういや何で群馬に? 学校サボってまで……。ソレがなかったら補習だって免れていたかもしれないのに。自分はあんなトコまで何をしに……。
「村雲っ」
「ンだよウッセーな」
 しつこく後ろから声を掛けてくる禁煙パイポに、真夜は鬱陶しそうに返しながら顔を向けた。
「アレさ、何だと思う?」
 そして彼の視線の先を追って窓の外に視線をやる。
「さっきからずっとコッチ見てんだけどさ」
「あぁん?」
 怠そうな声を漏らしながらも、真夜の目はその人物をすぐに捕らえた。
 直射日光が容赦なく降り注ぎ、白く染め上げられたグラウンド。遮光物など何もない炎天下の中、黒い影が校門の向こう側からコチラを見つめていた。
(アレは……)
 中学生くらいだろうか。まだ少女とも呼べそうなほど幼い顔立ちの女の子だった。この暑いのに平気な顔をして立っている。朝顔と同じくドMなのか、あるいは余程の変わり者なのか……。
 いや、疑う余地もなく後者だ。ソレは彼女の格好が何よりも雄弁に物語っている。
 遠目にも分かるほど大きく見開かれた瞳は美しい蒼。肩まで伸びたセミロングヘアーは金色。そしてソレらの神々しい輝きを食らい尽くすかのような漆黒の喪服。
 なんというミスセレクション。コレでは台無――
(いや違う)
 前言撤回。全員撤退。性欲決壊。
(華憐だ)
 芸術だ。まさしく矛盾が生み出す美、その物だ。
 ブロンド少女の纏う喪服着物。かつてコレほどエロティックな組合せがあっただろうか。
 否! 断じて否ぁ!
 コレはまさしく前人未踏の開拓地。今世紀最大のデルタ地帯。未曾有の第三次フット大戦勃発!
(素晴らしい……)
 いやむしろ素っ裸欲しい……。ああでもやっぱり半裸の方が……。
「村雲、さっきから先生の目がな……」
 ――けど、どうしてだろう。
 何かもう一つ……足りない気がする。ソレが何なのかは分からないが、彼女の真の完成形はあの姿ではない気がするんだ。根拠はないが、なんとなく……。
「お前の方に突き刺さって――」
 そう、何かこう……突き刺すような得物を持って――
「村雲君。夏休みの宿題、バッチリ奮発してあげるよ」
 ちょ……。

(納得いかん!)
 昼休み。校舎の一階廊下。化学室から漂ってくる薬品の匂いと、窓の外から入り込んで来るアジサイの香りが混在しあう異様な通路。
 生徒でごった返す食堂への道を、真夜は肩を怒らせて歩いていた。ぶつかってくる相手に片っ端からガンを飛ばすが、すぐに目をそらしてしまう根性なしばかりで余計にストレスが溜まる。
(あークソ! クソクソクソクソクソクソ!)
 あの野郎! コッチが受験せずに就職希望だからって無茶苦茶しやがって! 高三にもなって読書感想文ってなどういう了見だ! しかも指定しやがった本が広辞苑ってな何の冗談だ!
 おかげで朝からずっとこの調子だ。ただでさえ入ってこない授業内容が、大挙して逃げて行きやがる。考えもろくにまとまらない。
 今朝からの妙な現象。断片的な記憶。そして何かが足りない気がする謎の喪服美少女。
 休み時間になったら声を掛けてみようかと思っていたのに、一限目の途中でいなくなってしまった。ああ、もったいない……。全くもって射程範囲内だったのに……。
(まぁいい)
 人の出会いなんて偶然の重なりだ。もしソレが必然に変わる可能性があるんなら、また会えるさ。無意味に固執する必要なんかない。
 ソレよりも今は腹の虫を抑えることが先だ。何か食べればこのイライラだって多少は和らぐかもしれない。そんで食欲が満たされたら屋上で睡眠欲を満たして、できればそのままの勢いで何とか合法的に性――
「おんや、珍しいね。一人で昼食かい?」
 後ろから肩を叩かれた。立ち止まって振り向く。
 キュウリのイボイボがガンを飛ばしていた。
「テメェか……」
 げんなりとした声を漏らし、真夜は声の主に体を向ける。
「何だよ」
 よりによってこのタイミングで色気のない女に出会ってしまうとは。おかげで最後の欲求が急速に萎えてしまった。
「んむ。今日はちょっと趣向を変えてみようかと思ってね。食堂にソースを求めてやって来たところ、奇遇にもキミと出会ってしまったというわけさ」
 緑色のオカッパを額に撫でつけ、朝顔は手に持ったキュウリを軽く振りながら不敵に笑った。
「“たま”に気分を転換しようと思ったら“たまたま”キミに遭遇して、おっ“たま”げられて、キミも“たま”ったもんじゃ……な……ジョア! じぇひぇへへへへへへへへへへへへ!」
「あー……」
 舞い飛んでくる唾を手の平で拭い取りながら、真夜は半眼になって朝顔を見つめた。
「まーいー……。ちょうどテメーに聞きたいことがあったんだよ」
「ほぅ、こりゃまた奇遇だね。私もキミに渡したい物があったんだ」
 言いながら朝顔は、生野菜の詰められたスーパーのビニール袋から紙切れを二枚取り出す。
「夏休みに手芸のコンクールが開催されるんだ。私達の部の作品もそこに出す。まぁもし時間があって、気が向いたら見に来てくれ」
 曼陀羅模様の描かれたチケットには『全国巨大物体博覧会〜大は小をかねる〜』と印字されていた。
 コレ、ひょっとして手芸関係なくね……?
「で? 二枚ってのは?」
「まあお誘い合わせの上、ということだな。色々と面白い物が出るから話題には事欠かないと思う。ただ残念ながら、お相手を斡旋するところまではサービスできないがね」
 腕組みし、難しい顔つきで「んーむ」と唸りながら朝顔は言う。
 この野郎、善意で言ってるのか、悪意を押し付けてるのかどっちなんだ。……まぁ、コイツのことだろうから大真面目に言ってるんだろうが。
「じゃあ誰もいなかったらテメーだな。出展者なんだからどーせずっと会場にいるんだろ? 見かけたら声掛けるよ」
「ほぅ……」
 真夜の言葉に、朝顔は訝しげに顔を歪め、
「ソレはイヤガラセの前触りと受け取っていいんだな?」
「嫌なのか?」
「大歓迎だ」
 恍惚とした表情で口元を緩めた。
 このドMが……。
「先に言っておくが、その行動を取った場合の時間的損失は補償できないぞ?」
「別にいいさ、ンなモン。暇が潰れりゃ何でもな」
 それに、子供の頃と違ってゆっくり話することもなくなったしな。いい機会だろ。
「まぁキミがソレでいいというんなら私は何も言わないさ。ただやはりちゃんとした女性を誘えるならソレに越したことはないと思うがね」
 一理ある。いや、五万里くらいある。可愛い女の子か、お色気ムンムンのお姉さまと一緒に過ごせれば、間違いなく心身ともに充実した時間となるだろう。
 ただ、まぁ何というか……別にコイツといてもそんなに悪くない気がする。過ごす時間の種類が違うというか質が違うというか……。上手くは言えないが、コイツにはコイツにしか出せない味のようなものがあって……。取り合えずソレさえ確保していればあとは何とでもなるというか……。
 ええぃクソ。やっぱり上手く表現できないな。
 とにかくどう転ぼうが別にいいってことだ。変に気張らずに自然体でいられればソレが一番なんだ。そしてそのことに“気付かせて”――
「――ッ!」
 一瞬、鈍い痛みが頭を駆け抜けた。しかしすぐに薄れて何も感じなくなる。
(何だ……?)
 今、また何か思い出しそうに……。
「で? キミが私に聞きたいことというのは?」
 チケットを改めてコチラに手渡しながら、朝顔は器用に片目だけを瞑って聞いてきた。
「ああ……」
 ソレを受け取って学生ズボンのポケットにしまい込み、真夜は視線を上げながら今朝の記憶を手繰り寄せる。
「実はな……ひょっとすると俺、突発性瞬間健忘症になったかもしれない」
「今に始まったことではないじゃないか」
 即答する朝顔。
「……まぁな」
 納得する真夜。
 確かに、言われてみればそんな気もしなくはないが……。
「いや違う。そうじゃないんだ。何かおかしいんだよ。土曜の夜の次がいきなり月曜の朝だったりとか……」
「日曜はぐっすり寝ていたんだろう」
 即答する朝顔。
「……まぁな」
 納得する真夜。
「あぁいやだから、そういうことじゃなくてだな。例えば、だ。お前、土曜に俺の部屋来たよな」
「マジで!?」
 突然後ろから声が上がる。真夜は拳を固く握り締め、眉間に皺を寄せながらソチラを向いた。
「大丈夫かよ!? 浮気!? 修羅場!?」
 ダテ眼鏡と道祖神とモンチッチが、ガン首そろえてコチラを覗き込んでいた。
「村雲のくせに二股とかありえな――」
 一人沈んだ。
「で?」
 残ったダテ眼鏡と道祖神を、真夜は冷徹な表情で見下ろす。
「どっちからがいい? どこからがいい?」
 そしてボキバキと両手の骨を鳴らしながら、口の端を凶悪に釣り上げた。
「い、いやー。まぁ男の子だもんなぁ……ありあまる情熱が複数の女性に向けられたとしても別におかしくはねーか、はははー」
 床にめり込んだモンチッチを二人掛かりで剥がしながら、ダテ眼鏡と道祖神は引きつった笑みを浮かべる。もうあの不愉快なワードを口にするような気配はない。
 ったく、このボケ共は……。こうなることが分かってんなら最初からやるな――
(二股?)
 待て。マテマテマテ。
 二股ってのはどういうことだ? 二股ってのは確か同時に二人の女性と特別な関係になることであって、股の間のモノが二つあるとかいう意味では断じてないはず……。
 まぁココは一身上の都合で情状酌量の余地を残しつつ、五万歩相手に譲って朝顔を女性だと捉えるとして……もう一人は? もう一人は誰のことを言ってるんだ?
「なぁ」
 真夜は道祖神にずぃっと顔を寄せ、
「お前、俺がモテそうな顔に見えるか?」
「見えない」
 沈んだ。
 いや、うん。確かにその通りなんだ。生まれてこの方、女にチヤホヤされたことなど一度もない。男にはモテ期が二度あると言われているが、悲しいことに二回とも前世の奴が前借りしやがった。なのに――
「ズバリ聞く。コレ以外にもう一人ってな誰のことだ」
 親指で朝顔の方を指しながら、真夜はダテ眼鏡に詰め寄った。
「え? じゃあやっぱお前、五月雨と――」
「だ・れ・の・こ・と・だ」
 道祖神とモンチッチを床に押しつけながら真夜は目を血走らせる。
「いや、えっと、だから……」
 凄まじい剣幕に口ごもるダテ眼鏡。だが真夜の視線はますます強くなる。
 コレは重要なことなんだ。もしかしたら自分では気付いていないところで幸せが訪れているのかもしれない。高校生活最後の年になってようやく春が……! 夏休み直前だけど春が……!
「えーっ、と……?」
「早く言えよ! その軽そうなドタマ折り曲げてケツの穴にブチ込むぞ!」
「いや、だから、な……?」
「おぃ!」
 曖昧なダテ眼鏡の反応に真夜の苛立ちは雪だるま式に積もっていく。
「あれ……? っかしーなー……」
「だから何なんだよ!」
 あーもー! イライラする! もしこれで知りませんとかヌカしやがったら……!
「誰だっけ?」
 砕け散った。

 放課後。
 いまだに腹の虫の治まらない真夜は、露骨に殺気を撒き散らせながら席を立った。そして大股で教室の出入り口へと向かう。
 結局、ダテ眼鏡をバラバラにするのが忙しくて朝顔から話を聞けなかった。その後も神経が昂ぶりまくっていて話どころではなかった。アイツなら間違いなく土曜日のことを知っているはずなのに……。
 いや別にいい! この際過ぎ去った日のことなどどうだっていい! 何の価値もない! ソレよりも今は身に覚えのない二股疑惑! コレをいかに解決するかだ!
 ……ただ残念ながら、詳しい事情を知っている者達は全員重傷だ。だから彼らの回復を待つしかないのだが……。
(あぁ! じれったい! 自衛隊! チンしたい! あくまでも電子レンジ的な意味で!)
 この溢れみなぎり内部爆発せんばかりの血潮を! 聖の精たる性の脈動を! ど・こ・に・ぶつければいいんだああぁぁぁぁぁ!
「よぉ村雲」
「お前か!」
 クワッ! とまなじりが裂けんばかりに見開いた視界に映ったのは禁煙パイポだった。
「悪いがそういう趣味はない」
 冷たく言って片手でシッシッとあしらいながら、真夜は教室を出る。
「ナンパ、行かねーか?」
 が、禁煙パイポは気にした様子もなく、真夜と並んで廊下を歩きながら喋り掛けてきた。
「行かねーよ」
 ソレににべなく返し、真夜は歩幅を大きくする。今はそんな気分じゃない。
「なーんで。実はさー、いい店見つけたんだー。そこの店員の女の子、スッゲー可愛いの。ノリもいいし。今は彼氏いないっトコまでは調査済み」
「一人で行けよ」
 二段飛ばしで階段を下りながら、真夜は声を低くして言った。
「やっぱ二人くらいで行った方が話ハズむじゃん? いやマジぜってー後悔させねーって」
「今日はもう帰るんだよ」
「あっ、そぅ。そっか……」
 交渉の余地すらない真夜に、ようやく禁煙パイポが折れる。まったく、しつこい野郎だ。
「前なら絶対断んなかったのになー」
 が、まだ未練があるのか、大袈裟に溜息を付きながら独り言のように言った。
「お前、最近ちょっと付き合い悪くね?」
 そして何気ない口調で発せられた言葉に、真夜の足が止まる。
 一瞬、心の中に生まれる妙な罪悪感。が、すぐに霧散し、代わって言いようのない自信が胸中を埋め尽くした。
「じゃあ何か? もしココで俺がお前の誘いを断ったら、俺とお前で何かおかしくなるってのか?」
「まさか」
「だろ?」
 即答した禁煙パイポに、真夜も微笑を浮かべて即返す。
「今更そんな浅い付き合いじゃねーだろ?」
「だよな」
 短く言って真夜はまた階段を下り始める。一段ずつ。ゆっくりと。
「じゃあまた声掛けるわ。気ぃ付けて帰れよ」
「ああ」
 いつの間にか、気分は気持ち悪いくらいに落ち着いていた。

 校舎から出てグラウンドを横切り、真夜は一人で校門へと向かう。陸上部やサッカー部らの掛け声を遠くの方で聞き、真夜は長い前髪をいじりながら溜息を付いた。
 何だろう。今日は朝から本当におかしい。日曜日のつもりが月曜日だったというのもあるが、気持ちの変化が異常だ。
 すぐに頭に来たかと思えば男の欲望剥き出しになるし。またカッとなったかと思えば、呆れて消沈するし、おまけに朝顔がいつもと違って見えるし。で、また殺意が湧いたかと思えば、すぐに清々しくなる……。
(溜まってんのかな……色々と)
 怒りすぎだな。マジで。なぜか妙にイライラするんだ。理由は分からないが。というかその理由が漠然とし過ぎているから苛立つんだ。
 何かきっかけでもあればすぐに思い出す。しかしソレが掴めないから分からない。そしてそのことがまた憤りへと繋がる。
 まさに悪循環。
(クソっ……)
 考えていたらまたムカツキがせり上がってきた。吐き出せそうで吐き出せない。呑み込めそうで呑み込めない。そんなもどかしい感情。
 自分は何かを忘れている。大切な何かを。何としてでもソレを思い出さなければならない。絶対に“気付かなければならない”。なのに……。
 やっぱり朝顔に聞こう。禁煙パイポと話していて変にスッキリしてしまったから明日でもいいかと思っていたが、やっぱりダメだ。多分、部室に行けば会えるだろう。それで土曜日のことを詳しく――
「聞……」
 こうと思ったが別にどうでもいい。
「やぁ、そこのお嬢さん。誰かと待ち合わせですか?」
 今この場でやらなければならないことができた。
「待ってたですよー」
 ミドルブロンドを揺らして校門から体を離し、喪服美少女は子供のように高い声で言ってきた。大きくパッチリと見開かれた蒼い瞳。張りがあって血色のいい頬。健康そうなピンク色の唇。
(可愛い)
 今朝、教室から遠目に見て妄想していた以上にキュートだ。少しでも気を抜けば、抱き締めてしまいそうな程の愛くるしさを持っている。
「ほぅ、誰を? しかし貴女を待たせるなんてとんでもない奴だ。もしよろしければココは一つ、ワタクシめがお相手を……」
「お前を待ってたんですよー。村雲真夜」
 しばしの思考停止時間。
 何? ナニナニナニ? 今、何と言った? 待っていた? 自分を? ドウシテ? ナニユエニ? アッタコトモナイノニ?
 ま、まぁ落ち着け。落ち着くんだ俺。目を瞑ってゆっくり、ワン・トゥー。
 ……よし。
「ソレは奇遇ですね。実は私も前世より貴女をお待ち申し上げておりました」
「オレのこと、こうやって目の前にしても思い出さないですかー?」
「そうですね。前世よりの記憶を掘り起こすにはまだ少々お時間が。ですが心配ありません。愛とはゆっくり育んでいくもの。とりあえずこれから一緒に……」
「オレはラミカフみたいにちまちま刺激するつもりはないですよー。お前には強引にでも思い出して貰わないと困るですよー」
「随分と積極的ですね、お嬢さん。まずはお名前を教えていただけませんか?」
「アリュセウ」
「ありゅ……せう」
 彼女が言った名前に、頭のどこかが妙な引っかかりを覚える。
(何だ……)
 この感じは。懐かしさではなく愛おしさでもなく、やけにすんなりと頭に入ってくる親しみのある響き。やはり、自分は彼女のことを知っている……?
「お前のポイントに目を付けた【記憶の施術者】ですよー。けどお前が『個』を望む者から『繋ぐ』者に反転していたおかげで作戦は大失敗ですよー」
 下から睨み付けるようにしてコチラを見上げ、アリュセウは右手で何かを振り回すような仕草をする。
「それどこかストロレイユやラミカフとも真っ正面からやり合うことになって、お前は色々と面倒事をオレに押しつけてくれたですよー。覚えてないですかー? 新幹線に乗って群馬まで行った時のことー」
 覚えている。確かに自分はわざわざ学校を休んでまで……なけなしの貯金をはたいてまで群馬に行った。そこまで必死になって、一体何をしていたんだ? あの時、誰かと一緒に……。
「そこからストロレイユに行き着いたですよー。今は犯人が自首したとかで解決したことになってるですが、アレはストロレイユがその辺の気に入らない犯罪者をでっち上げただけですよー。あの事件の真犯人はストロレイユと、あともう一人ラミカフっていうイカレた破滅思考者ですよー」
 ストロレイユにラミカフ……。初めて聞く名前なのに、なぜこんなにも違和感なく……。
「ストロレイユとはお前も戦ったですよー。それで運よく勝ったですよー。その後でラミカフともやり合ったですよー。お前はそこで……馬鹿で無謀で無茶苦茶なことをしたですよー……」
 アリュセウの声が沈んでいく。顔を僅かに俯かせながら手を伸ばし、コチラのカッターシャツの裾をぎゅっと握り締めた。
「お前は勝つために、自分の記憶を……繋がりを差し出したですよー。それでも『繋ぐ』者の力で何とか堪えてたですが……お前の中のポイントがなくなったら、もうどうしようもないですよー……」
 まるでむずがる赤ん坊のように頼りなく儚げで、今にも消えてしまいそうなほど希薄な存在感。彼女の言葉、そして所作の一つ一つが自分の中の何かを刺激し、懸命に表面化しようとしている。
「オレは……何とかしてお前をまた繋げようとしたですよー……。でも、オレのポイントだけじゃ足らなかったですよー……。ストロレイユが持って行った分までは……完全に戻せなかったですよー……」
 何だろう……もう少しなんだ。もう少しで何かが繋がるんだ。
 アリュセウ……『繋ぐ』者……ストロレイユ……ポイント……【記憶の施術者】……ラミカフ……『個』を望む者……。
 聞いたこともない単語ばかりなのに全部知っている。ちゃんと意味を理解できる。
 アリュセウは【記憶の施術者】。ポイントという魂のようなものを操ることができて、人と人との繋がりを消したり作ったりできる。そしてその時に使う物が――
「オペレーション・ギア……」
 口が勝手に喋っていた。
「お前……」
 その言葉にアリュセウが顔を上げる。期待と不安が複雑に入り交じった表情。口で笑いながら目では泣いている。そんな一種の混乱状態。
「釣り……が、趣味だった、か……?」
「思い出したですかー!?」
 破顔し、アリュセウは両目を輝かせて飛び跳ねる。そんな見た目以上に子供っぽい仕草に――
「……何してるですかー」
「え? あ、ああ……つい反射的に、な……」
 無意識に抱き締めていたアリュセウから体を離し、真夜は視線を泳がせながら長い前髪をいじった。
「相手がオレじゃなかったら犯罪ですよー」
「るっせーなー。細かいことをイチイチ……」
 クソ……もう少しで何か閃きそうだったのに一気に萎えてしまった。
 それにしても釣り? 釣りが趣味? なんでいきなりそんなことを……。
「オレのオペレーション・ギアはこの釣り竿ですよー。見えてるですかー?」
 考え込む真夜の前で、アリュセウは何も持っていない右手を大きく振り回して見せた。
「何、やってんだ?」
 が、真夜の反応に肩を深く落として落胆する。そして唇を尖らせて頭を軽く振り――ソレがまた可愛くて――
「は……!」
「ココでオレが声上げたら性犯罪者の烙印はお前の物ですよー」
 冷ややかな声で言ってくるアリュセウの肩から手を離した。
 い、いかん……。コイツの魔性に引き寄せられてしまう。この小さな肢体から発せられる濃厚なフェロモンに脳髄が侵蝕されてしまう。そして無意識に――
(ん……?)
 何か……前にも似たようなことで悩んだ記憶が……。
「ま、完全には忘れてないみたいで安心したですよー。今日はソレが分かっただけでも収穫ですよー」
 アリュセウは溜息混じりに言い、少し表情を明るくして一歩下がる。
「また……会いに来るですよー。やっぱり一気にやるのは無理があるみたいですよー。オレもちょっと焦ってたですよー」
 そして力なく笑いながら背中を向けた。ソレが何だか妙に寂しくて――
「待てよ」
 真夜はアリュセウの肩を後ろから掴んだ。
「行くな。もうちょっとなんだ」
 もう少しで思い出せるんだ。それまでコイツを行かせてはダメだ。いや、もうずっと行かせてはダメなんだ。だってコイツは――
「あー、もう少し周りの視線というのを気にした方が良いと思うんだが、いかがなものだろうか」
 突然、後ろから掛けられた声に真夜は体を大きく震わせる。
「キミ達がココで話し始めのたが十六時十三分二十三秒からだから、実に十五分三十五秒もの間、仲睦まじく怪しげな行為をしていることになるな」
 肩越しに顔だけ向ける。緑色のオカッパを額に撫でつけ、朝顔が呆れた顔付きで立っていた。
「いやね。本当はもう少し早く声を掛けようと思っていたんだが、二人とも真剣なんだかフザけているのか分からない素振りだったんで、取り合えず様子見に徹していたんだ。しかしまぁそろそろ止めた方がいいかと思って、こうして出て来たわけなんだが……やはりお邪魔だったかな?」
 周りを見る。下校に賑わう大勢の生徒達が、脱皮に失敗した珍獣を見るような生温かい視線をコチラに向けていた。
 こ、コイツらいつの間に……全然気付かなかった……。
「それにしてもキミは本当に目立つな。どこにいてもすぐに分かる。食堂に向かう時の人混みでも簡単に見つけられたよ」
 悪かったな……周りから浮きまくっ――

『何かお前は目立つですよー』『目立つ、というか。何か惹かれるものがあった、というか……』『不思議だわ。初対面なのにね。ぼーやが妙に目立つからかしら?』『ぼーや。どうりで目立つと思ったわぁ』

「――ッ!?」
 何だ。今のは。頭の中で聞こえた声は。最初のはコイツで、後のは――
「で? コチラの可愛らしい男の子が、キミを新しい世界に誘い出してくれているというわけかい?」
「ち、違うぞ! 俺はまだやましいことは一つも……!」
 ン……?
「少年、何を血迷ったかは知らないが彼だけはやめておいた方がいい。決して悪い奴じゃないんだが……その、色々と異常なんだ」
「知ってるですよー」
 オイ……イマ、ナンテ……。
「そうか。ならば私も敢えて止めまい。愛には色んな形があってしかるべきだと思うんだ。その辺りのことはよく理解しているつもりだ。別に同性同士だからといって、結ばれてはいけない理屈が――」
「ちょおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっとマッタあああああああぁぁぁぁぁぁ!」
 何度も頷きながら得心している朝顔の肩を掴み、真夜は顔を近付けて詰め寄る。
「テメェ今何つった! コイツが何だって!?」
「なかなか可愛らしい子じゃないか」
「“可愛らしい”の後だ!」
「男、ですよー」
 全く動じることなく涼しげに返した朝顔の下で、アリュセウが付け加えた。
「オレは“男”ですよー。残念ですよー」
 男……男……男……おとこ……ヲトコ……オノコ……。
 真夜の頭の中で同じワードが無限ループする。一回繰り返されるたびに世界の揺れが酷くなっていった。
 馬鹿な……そんな馬鹿なことがあるか……。こんなに可愛いのに……どう見ても女の子なのに……見た目だって、声だって、仕草だって、服装だって、うぶ毛だって、内臓だって……。
 なのに、男……? 自分と同じ……下に付いてる……。
 嘘だ。ウソだウソだウソだウソだ! そんなわけあるか! そんな虚言妄想癖など! そんなしっかり者のうっかり八兵衛など! そんな有史始まって以来の大茶番劇などあって――
「たまるかああああぁぁぁぁぁぁ!」
 そして真夜の腕がアリュセウの喪服に伸び――

 思い出した。
 全て思い出した。
 まさか、この絶望を二度も味わうことになるなんて……。
「お前、さっきから何で被害者面してるですかー」
 リモコンでテレビのチャンネルを適当に変えながら、アリュセウは音を立ててソフトクリームのコーンにかぶりついていた。帰りがけ、駅前の車屋台でたい焼きと一緒に買わされた物だ。
「もう、お婿に行けない……」
「ソレはオレの台詞ですよー」
 部屋の隅で三角座りになり、声を震わせながら言う真夜にアリュセウは嘆息して返す。
「白昼堂々信じられないですよー。さすがにあそこまで異常だとは思わなかったですよー」
 女だと思っていたのに……絶対に女だと思っていたのに……最初で最後のモテ期が到来したと思っていたのに……。
「とにかく落ち着いたら言うですよー。それまで待っててやるから感謝しろですよー」
「テメェコノヤロウ! 何しに来やがった! 俺の純情を再起不能にするつもか! 心身共に干涸らびさせるのが目的か! 俺の! 俺の男を返せ!」
 自室でくつろぎきっているアリュセウの胸ぐらを掴み上げ、真夜は魂の底から叫び上げる。
「黒い涙なんて初めて見たですよー」
 しかしやはりアリュセウは平然と返し、平手で真夜の手を弾いて襟元を直した。そしてたい焼きを一つくわえながら、パイプベッドの上に座り直す。
「あの後どうなったか、知りたくないですかー?」
 片手でミドルブロンドを軽く梳き、アリュセウは目を細くして試すような視線を向けてきた。
「あの後、だぁ?」
「お前が気を失った後のことですよー。ラミカフとやり合った後、どうなったか興味ないですかー?」
 胡散臭そうな声で聞く真夜に、アリュセウは小さく鼻を鳴らして返す。
 あの後……。ラミカフを倒すためにストロレイユの“施術”をわざとくらい、意識のほぼ全てを軌跡に変えた、あの後……。
 気が付いたらベッドで寝ていた。そしてなぜか月曜日になっていて、アリュセウ達のことは全て忘れていた。そこに至るまでの経緯。
「知りたい」
 真夜は真顔で言ってカーペットの上に座った。ソレにアリュセウは満足げに頷き、
「ラミカフは消えたですよー。ストロレイユが消し去ったですよー」
 きっぱりと言い切った。
「お前の中から大量の軌跡を生み出して、ソレでラミカフの体を貫いて、アイツは消え去ったですよー」
 そして嬉しそうに繰り返す。
 アリュセウは一度ラミカフに殺されそうになっているんだ。どんな形であれ、脅威がいなくなった喜びは大きいのだろう。
「あのよ、プラクティショナーが消えるってのは、つまりどういうことなんだ?」
 あぐらを掻いて腕組みし、真夜は少し考え込みながら聞き返す。
「ポイントに戻るってことですよー。オレ達の体はポイントだけでできてるですよー。ただしフリーになったポイントは殆どストロレイユが持って行ったですよー」
「で、別のプラクティショナー生むのに使ったり、人間が生まれる時に使ったりすんのか」
「ですよー」
 なるほど。まさしく輪廻転生というわけだ。またいずれ何らかの形で生まれ変わるかもしれない。ソレはある意味望ましくないことだが、ある意味――
「“俺が消した”っていう意識も少しは軽くなるってことだ」
 真夜の言葉にアリュセウは少し目を大きくした後、どこか気まずそうに視線を逸らした。
 ラミカフを消したのはストロレイユじゃない。自分だ。そこまではハッキリ覚えている。
 自分と朝顔との繋がりを試すように、何度も何度も切って軌跡を生んだ。繋がりは決して切れることなく、何度も何度もラミカフを貫いた。そして消した。いや、殺した。
 ラミカフを、この手で。
「変な気ぃ使うなよ。なんにも感じてねーって言ったら嘘になるけどよ、アイツはああなって当然のことをしたんだ。むしろスッキリしてる」
 全ての元凶はラミカフだったんだ。アリュセウが心に闇を抱えたのも、ストロレイユが狂ってしまったのも、そして朝顔が巻き込まれたのも。全部アイツが発端だった。
 だから、自分は間違っていない。絶対に、間違ったことはしてない……。
「無理せず少しずつ受け止めていくですよー。お前は自分で思ってるほど強い人間じゃないですよー」
「へっ……」
 コチラの胸中を見透かしたようなアリュセウの言葉に、真夜は軽く笑い、
「……だな」
 はぁーぁ、と声に出して息を吐いた。
 まぁ、今は昔みたいに一人じゃないし、かといって過剰に繋がりがあるわけじゃない。助けの手がなさすぎてふさぎ込むこともなければ、道標が多すぎて迷うこともない。
 “偶然”がいつの間にか“必然”に変わっていたから。そのことにちゃんと“気付けた”から。キッカケをくれた繋がりを大切に持てているから。
 その筆頭が朝顔だ。
 アイツはまさしく自分の半身。最悪、アイツ一人で事足りる。アイツがいれば大体の悩み事は解消される。アイツは一番の家族だし、一番の親友だし、一番の……恋人……じゃねぇな。コレ違う。うん。ソレは絶対にない。
 最後のは勢いで咄嗟に出ただけだ。あんな色気のない女となんて想像もできない。
「そういや前にさ、お前なんかエライ怒った時あったろ」
「いつですかー?」
「えーっとな、ほら、次は俺がストロレイユと戦うって言って……」
 いらない記憶やいらない繋がりは沢山あると言った時。
「土曜日ですよー。まだ一昨日のことですよー」
「あー、そーだったか?」
 何だかもう随分と前のことのように感じる。
「今になってやっと分かったよ。お前があんなムキになった理由」
 パイプベッドの縁に背中を預け、真夜はアリュセウの隣で大きく伸びをしながら言った。
「……そんなにムキになってたですかー?」
「あー、ビックリした。マジでキレてるって思ったね。お前のあんな顔、初めて見たよ。別人かと思った」
 苦笑しながら体を起こし、真夜はガラステーブルの上のたい焼きを一つつまみ上げて続ける。
「確かに、あん時は俺らしくなかった。自分から“いらない”なんてな」
 無駄に手を広げる必要はないが、最初から拒絶する必要もない。
 初めの出会いは全部“偶然”だ。だからソレは取り合えず全て受け入れればいい。そして本当に必要な繋がりはそこから“必然”に発展する。そしてそのことに“気付く”。間違いなく必要なんだと自覚する。
 そういう繋がりにはとことんこだわり続ければいい。どんどん自分の血肉にしていけばいい。そうやって自分を大きくしていけばいい。
 ソレが『俺らしさ』って奴だ。
 今までは全ての繋がりにこだわり続けていた。全てを均等に保とうとしていた。ソレが繋がり合っている者としての礼儀だと思っていた。
 だがそうじゃない。ちゃんと“濃度差”を付けなければならない。他と比較して区別しなければならない。ソレこそが本当の礼儀だ。真に相手を思うということだ。
 いつか朝顔が言っていた。周りも含めて自分なんだと。周りとの繋がりが自分という人格を形成しているのだと。まったくその通りだと思う。だからこそ選ばなければならないいんだ。
 アリュセウのおかげでそのことに“気付けた”。
「まーなんつの? 無理せず自然な流れに沿ってダラダラやってるのが性に合ってんだよ、きっと」
 ははは、と乾いた笑いを漏らしながら、真夜はたい焼きを半分口に放り込む。
 それに繋がりにだって色々あるんだ。
 一瞬でトップスピードに乗ってしまうやつから、大器晩成型のやつまで。長い間“偶然”だったとしてもある日突然“必然”になることだってある。色んなタイプの繋がりがあるから、また別のタイプの繋がりが生まれる。そうやって自分の人格が少しずつできていくんだ。
 人間だってそうだ。良い奴や悪い奴、沢山いるから色んな発想が出てくる、色んな物が生まれてくる。
 だからある意味、ラミカフのような奴が出てきたのは“必然”だったのかもしれない。そして――
「これからは尚更ですよー。お前に近寄ってくる奴はきっと激減するですよー。ポイントが足りないからお前は普通の人間と変わらないですよー」
 ――自分も。
 『個』を望む者とし生を受け、『繋ぐ』者に反転した自分もまた、“必然”の流れの中にいたのかもしれない。
 
『どのような事情も一定の方向に力が掛かりすぎれば、やがてソレを押し返そうとする力が加わる。そうすることで均衡が保たれる』

 ラミカフのしたことは間違いだったが、あの言葉は当を得ていた。そうやって栄枯盛衰を繰り返して大きくなってきたのが人間の歴史だ。『繋がり』の歴史だ。
 だからもしかすると自分は今、逆流の中にいるのかもしれない……。
「ま、今まで以上に女の尻追い掛けまくって頑張ることですよー」
「だな」
 ……まぁ、難しいことを考えるのは自分らしくない。ソレこそ流れに反する。ただ男の欲望が突き動かすままに行動していればいいんだ。
 それに『繋ぐ』者としての力は結局、最初の“偶然”までしか世話してくれない。そこから先は自分の力だ。“気付く”くらいの“必然”にまで育て上げるのは自分自身の力だ。
 義理の両親の愛情を感じられたことや、朝顔を始めとする大勢のバカな友人共、そしてアリュセウとのこともすべて『繋ぐ』者の力のおかげだなんて思いたくはない。
「あー、なんか話が本筋から逸れたな。で? ラミカフを片付けた後のことは? そういやストロレイユは?」
 残りのたい焼きを胃に流し込み、真夜は息を吐きながら聞く。
「お前のポイント殆ど奪って元気ピンピンになったですよー。またすぐにどっか行っちゃったですよー」
「行ったって……どこに?」
「そんなの知らないですよー。でも言ってたですよー。『このこと、せいぜい利用させて貰うわ』って」
「利用……? 何を……?」
 聞き返す真夜に、アリュセウは唇に付いた粒あんを舐め取り、
「多分、アイツは自分がラミカフを消したって言いふらすつもりですよー。執行部への反逆は重罪ですよー。間違いなく討伐隊が組まれるですよー」
「けど、もう仇は取ったんだろ?」
「覚えてるですかー。橋の上でようやくストロレイユを見つけた時、ラミカフが言った言葉」
「橋の上……」
 確か、眉なしのバイクで軌跡を追い掛けて行った時の……。
「ストロレイユのしていたことは一部で容認されてるって言ってたですよー。例の意識を奪い取る行為が、プラクティショナーの一部では認められていたってことですよー。それによく考えてみたらラミカフが自由に動けるのはおかしな話ですよー。アイツは一回、討伐隊と正面から戦ってるですよー。生まれた直後のお前を守るためにー。いくら執行部でもそんなことしたら、他の執行部や上層部に目を付けられてもおかしくないですよー」
「つまり、だ。そん中にラミカフとグルの奴がいて揉み消してると。で、ストロレイユはソイツらをいぶり出しに行ったと」
「多分そうですよー」
 アリュセウの肯定に、真夜も軽く頷きながら納得の声を漏らした。
 ソイツら全員消さない限りストロレイユの仇討ちは終わらないってことか……。
(いや……)
 最悪、この先ずっと終わらない可能性も……。ずっと探し続けてきたラミカフのトドメを自分に譲ったことがそもそもおかしい。やはり、すでに彼女の中では目的と手段が逆に……。
 ただどこかで、アイツが“一人”ではなくなれば、あるいは……。
「ま、おかげでお前は狙われずに済むってことですよー。ラッキーですよー」
 そうか。そうだよな。何を勝手に決めつけているんだ。
 ストロレイユが自分を庇ってくれた可能性だってあるじゃないか。アリュセウの話だってただの推測だ。全くの的外れかもしれない。本当はどこかに隠れてひっそりと暮らしているかもしれないんだ。
 『このことを利用』ってのは……そう! コレをきっかけに暗い道からは足を洗って、真っ直ぐに生きるってことだ! うん。きっとそうだ。間違いない。
 何となくだが、また会えるような気がする。なぜなら彼女との出会いは最初から“必然”だったから。だからその時に聞いてみればいい。
 そして、コイツとの出会いも――
「そーいやさ。なーんでお前は俺のこと覚えてたんだ? 一旦全部なくなったはずだろ? 俺の周りはよ」
 天井を見上げ、真夜は長い前髪をいじりながら聞いた。
 そう。自分と周りとの繋がりはストロレイユに全て断たれたはずなんだ。【意識の施術者】の力によって。そしてそのことが不自然にならないよう、周りも自分のことを忘れる。だが最低限の繋がりはアリュセウが頑張って修復してくれた。しかしアリュセウ本人はどうして自分のことを……?
「オレは記憶力抜群ですよー」
 たい焼きを食べ終え、けぷっと喉を鳴らしてアリュセウは答えた。
 ああそうか。コイツも異常記憶力の持ち主だったな……。そういや朝顔も忘れなかったか。
 手芸部の部室で他の奴等が自分のことを忘れてもアイツだけは覚えていたし、この前だってラミカフに念入りに記憶を消されたにもかかわらず、何かは残っているような感じだった。ならアリュセウが自分のことを覚えていたとしても不思議じゃないか。
「でもソレだけじゃ足らなかったから施術したですよー」
 ま、完全じゃないにしても、ちょっとだけ残っていれば自分で繋げられるんだったな。ポイントを使って。
(でも、よ……)
「お前、前に言ってなかったっけか。自分で自分を施術はできねー、みたいなこと」
 確か以前、そんなことを言っていたような言ってないような。
「言ったですよー。でもアレは嘘ですよー。そんな決まりどこにもないですよー」
「うそ……? 何で?」
 どうしてそんなことをする必要がある? そんなことを自分に隠していたところで何のメリットもないような……。
「多分……恐かったんですよー。すぐにラミカフのことを思い出してしまうのが。オレもお前と同じで、自分の昔のこと薄々は気付いてたですよー。けど知らないフリしてたんですよー。ずっと逃げてたですよー。ポイントいっぱい溜めて出世して、それから思い出すなんてもっともらしい理由を付けて、先送りしてたですよー」
 目の前に持って来たミドルブロンドの毛先をじっと見つめながらアリュセウは言う。
「けど、乗り越えられたですよー。……お前の、おかげですよー」
 最後の方は尻窄みに、そしてまるで不満でも漏らすかのような顔付きで言葉を並べた。
「上手く言えないですが、あの時……。ラミカフに、たった一人でどうするとか言われた時、“オレは一人じゃない”って、思えたですよー」
 照れたような、怒ったような、拗ねたような。そんなどこか捕らえ所のない複雑な表情。
「ありがとう、ですよー……」
 恥ずかしそうに顔を俯かせ、上目遣いになりながらアリュセウは言う。
 何の飾り気もない、そのままの気持ちを。
 ソレはどんなに洗練された言葉よりも強く、そして深く心に染み渡り――
「ずっとコレを言いたかったんですよー。討伐隊だった時も、この前の時も、オレが生きてられるのはお前のおかげですよー。やっと言えてスッキリですよー」
 ようやく肩の荷が下りたといった様子で大きく深呼吸し、アリュセウは最後のたい焼きを掴み上げた。
「だからお前には絶対にオレのこと思い出して欲しかったんですよー。けどポイントが足りなくて……無理矢理お前との繋がりを修復しようとしたら頭がぼーっとしてきて……気が付いたら公園で寝てて。それでお前に会うのが一日遅れたですよー」
 たい焼きを口一杯に頬張り、アリュセウは明るい声で言う。そのまるでハムスターのような仕草が――
(ああイカン!)
 不意に沸き上がってきた欲望を、真夜は理性をかき集めて抑え付けた。
 コイツは男! そう! 男なんだ! どー見ても女だが男なんだ! ソレはちゃんとこの目で確認した!
(し、しかし……!)
 さっきの素直すぎる『ありがとう』。そして自分のために気を失うまで頑張ってくれた献身。
(なんでだ! なんでコイツが男なんだ! 今のこのフインキ! 間違いなくベッドインルートなのに……!)
 漆黒の涙がこぼれ落ちそうになるのを真夜は気合いで堪え、
「そ、そういヤーお前を公園まデ運んだのハ誰なんダー? それかラ俺をこの部屋ニ連レてきたノもー」
 抑揚のない口調で必死に話題を逸らせて一線を踏みとどまる。
「多分ストロレイユですよー。てゆーかソレ以外に考えられないですよー。まぁストロレイユの行動自体も考えられないですが」
「ふーン、そっカー。わざわざ戻っテ来てお世話シてくれたンだねー。やっパ根は良い奴なんダなぁー」
「簡単にアイツに気を許すのは感心しないですが……まぁそっちの方がお前らしいからソレで別にいいですよー」
 にっこりと太陽の笑顔。
「あ、朝顔ー! ソウー! アイツにもちゃんト事情を説明シないとナァー! そういやコレダケ巻き込ンどいて何にも詳しいコと言っテないもんなぁー!」
「ま、好きにするといいですよー。信じて貰えるかどうかは分からないですがー」
「あ、朝顔といえばホラー! こんなモノ貰ったンだー!」
 ギ、ガガガガガと油の切れた機械人形のように手を動かし、真夜は朝顔から受け取った二枚のチケットをポケットから取り出す。
「なんですかー? ソレ」
「コレはネー! コンクールのチケットサー! ココに行けバ色んナ面白い物が見れるンだヨー!」
「ほー、面白い物、ですかー」
 と、四つん這いの姿勢で近寄り、興味ありげにコチラを覗き込んでくるアリュセウ。
 待て! マテマテマテマテ! その格好は待て! コイツを誘うのは待て! とにかく色々待て!
「来週から一週間、ずっトやってルみたいだねー! どうすルー!?」
「まぁそりゃ行ってみたいですが……イツまでもココに居座るわけにも……」
 顎先に人差し指をあてて、アリュセウは考え込み、
「何言ってるんだイ! 好きなだケいれはイイじゃないカ! だってキミはボクのためにポイントを使って今ハ空っポなんだロ!? ならボクがまた返スのは当然の義務じゃなイカ!」
 ってオイ! 何言ってんだ俺は!
「んー、そう言われればそうですねー。お前、たまには良いこと言うですよー」
「ドントこいデスヨー!」
 親指立ててんじゃねぇ!
「まぁでも、ただで居候っていうのも悪いですから家事全般はオレが全部やってやるですよー。こう見えて料理の腕には結構自身あるですよー」
「ソウダネー! 前にキミが作ってクレたはんばーくマタ食べたいなァ!」
「あのくらいお安いごようですよー」
 男の手料理なんて食いたくねぇ!
「いやあ楽シミだなぁ!」
「お前も随分と変わったですよー」
 変わりすぎだろ! おかしいだろ! 気持ち悪いだろ! 気付けよ! いや気付いてください! 頼むから!
「じゃーまずは部屋の掃除からやってやるですよー。ピカピカですよー」
 ああああああ! ヤメロ! ヤメテくれ! オレの性域を犯さないでくれ!
 大体! 何が悲しゅーて男と同棲せにゃならんのじゃ! まだそこまで不自由しとらんぞ! そこまでプライドを捨て去ってない!
 女! 女なんだ! 俺が今欲しいの女! ボボボン・キュッ・ボボンのお姉様! そう! ストロレイユみたいな!
 ああああああああああ! コイツがストロレイユだったら! イヤあそこまでのナイスバディーは望まないからせめて女だったら!
 ええぃクソ! 性転換くらいパパッとできねーのかよ! プラクティショナーなんだろ! 人間じゃないんだろ! 体の構造が違ってて運動神経抜群でポイントをピンハネしまくってて自分もポイントだけでできていて……! ポイントを……! ポイントだけで……! できて、いて……?
(待てよ……)
 待て。マテマテマテテマテマテマテマテ。
 よく思い出すんだ。まずは落ち着こう。目を瞑って、ゆっくりワン・トゥー。
 ……よし。
 そうだ。前に一度考えたよな。
 『ポイント』という言葉を自分達のよく知っている表現に変換するとすれば、『魂』が最も近いと。そしてプラクティショナーの体は『ポイント』だけでできている。『魂』だけの存在。
 つまり、だ。
 『プラクティショナー』という言葉を自分達のよく知っている表現に変換するとすれば、それは『神』、あるいは『天使』。そういった形而上の存在。超自然的な生命体。
 人の輪廻転生を司ることからしても、この考え方は間違っていないはず。
 そしてそういった者達というのは、一説によると“両方付いている”らしい。
 そうだ。そうだよ。だから百人そこそこしかいない奴等がずっと生き長らえているんだ。
 相手を選ばないから。
 確率二分の一ではないから。
 間違いない。この考えで間違いない。
 とすればアリュセウも当然――今までは最初に目に入った物に釘付けになって気付かなかったが――
(確認しなければ)
「アリュセウ」
 声を低くして真夜はその場に立ち上がり、
「なんですかー?」
「三度目の正直いいいいいいぃぃぃぃぃぃぃ!」
 クローゼットから掃除機を引っ張り出そうとしているアリュセウに飛びかかった。
 そして神速の動きで喪服に手を掛け――
 ――二度あることは三度ある。
「テメェやっぱり男じゃねぇかぁぁぁぁ!」
「だから何回もそう言ってるですよー!」
「こんちくしょおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!」
 断末魔の叫び声が狭い室内に響き渡った。
 ……なんかもぅ、朝顔でよくなってきた。
 いや、むしろ――

 《おわり》
モドル | モクジ





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