モドル | ススム | モクジ

● 記憶の施術者 ◆第三話『戦慄! 犯人接触!?』◆ ●


刀w子供の頃の嫌な思い出は、大人になると良い思い出になる。
  ドMなのかドSなのかはっきりしやがれ、この大馬鹿野郎』

 ストロレイユは捕まえる。そしてアヘアヘ言わせる。
 ここまではもう決定だ。誰が何と言おうと必ずやり遂げる。
 だが一つだけ大きな問題がある。
 ソレはどうやってストロレイユを見つけ出すか。
 無能とはいえ警察機構から数ヶ月も逃げ延びている奴だ。普通の方法で捕まえられるとは思えない。やはり彼女の【意識の施術者】としての能力は、コチラにとって大きなビハインドだ。

『【意識の施術者】が相手の意識に干渉する時は、当然オペレーション・ギアを使うですが、熟練者であればソレなしでも簡単な施術はできるですよー』

 例えば、自分に対する相手からの認識を変えるとか。
 ソレはほんの僅かな差でもいいんだ。目元が少し下がっているとか、口が大きめになっているだとか、顔の輪郭が細く見えるだとか。
 たったソレだけの差であっても、人は別人のように感じる。その時に写真でも撮っていたのならともかく、一瞬だけ見た人の顔を後から再現しようとすれば、おのずと印象的な部分のみを強調することになる。
 ソレがさらに似顔絵を書く人の中で少しだけ違ったモノへと変わり、似顔絵を見た捜査員の中でまた少しだけ変わり……。
 最初は小さかったひずみがどんどん大きくなっていく。
 だから捕まえられない。探している人達の中で、ストロレイユという女の人物像が共通となっていないから逃げられる。恐らく、この先ずっと。目撃情報が多くなればなるほど捜査線は混乱し、ストロレイユにとって絶好の環境ができ上がっていく。
 そしてストロレイユへの認識があやふやになってしまうのは、同じプラクティショナーであるアリュセウも例外ではない。
(なかなかやるなぁ……核兵器女め……)
 黒板に書き連ねられていく白い文字をじっと見つめながら、真夜は頬杖を付いて長い前髪をいじった。四限目の授業まで一睡もしないとは、自分にとっては奇跡に近い。いや奇跡だ。やはりヤリたいことに真っ直ぐ向かってる時は、気合の挿入の仕方が違う。
 とにかく、常識的なアプローチではストロレイユを捕まえられない。
 そこで登場するのがアリュセウの【記憶の施術者】としての力だ。
 昨日、あの女装変態オカマ野郎から一つの提案があった。
 
『被害者の記憶を片っ端から消してしまうですよー。被害者は多分ストロレイユを見ているですよー。だから記憶が消える時の“軌跡”を追って、ソレがたどり着いた人物を全員覚えておいて、他の被害者でも同じことをして、共通する人物を上げていけばかなり絞り込めるはずですよー』

 アリュセウが言うにはオペレーション・ギアで記憶を消した場合、その順番が糸のような軌跡となって見えるらしいのだ。勿論、アリュセウの目には、だが。
 だからまず被害者の記憶を全て消し去り、発生した軌跡を全部追い掛けて誰に行き着くかを調べる。同じことを他の被害者達でもやり、誰と知り合いなのかを片っ端から洗い出す。その中から皆に共通して面識のある人物のみを抽出すれば、ストロレイユに行き着ける……かもしれない。
 ただ――

『ま、ストロレイユに関する記憶ごと意識を消し飛ばされていたらどうしようもないですけどねー』

 座礁する可能性は特大だ。
 しかもこんな人海戦術のようなことを二人でやっていては埒が明かないし、僅かに残っている記憶を根こそぎ奪ってしまうような真似をしていては、ストロレイユと変わらない。立派な規則違反だ。
 ポイントを使用すればアリュセウが消した記憶に関しては確実に取り戻せるらしいが、そのためには消すことで得られるポイントよりも遙かに多くのポイントを費やさなければならず……。

『絶対いやですよー』

 という身勝手な言い分。
 だからこの乱暴な捜索法を、被害者には当然のこと目撃者にも適応するわけにはいかないのだが……。
「珍しいじゃねーか。お前が寝てねーなんてよ」
 真剣な表情で考え込む真夜の正面から、良く知った声が降ってきた。顔を上げる。三日ほど前に再起不能にしてやったはずのダテ眼鏡が、平然と立っていた。
 まぁ、あのくらいで参るようなヤワな野郎でないことは良く知っているが……。
「飯、食いに行こうぜ」 
 彼の声に真夜は辺りを見回す。
 机をくっつけて一箇所にかたまり始める女子達。ダルそうな顔付きで教室を出ていく二、三人の男子グループ。そして黒板を適当に消して教室から出ていく世界史の教師。
 どうやらいつの間にか授業が終わって、昼休みに突入していたらしい。我ながら大した集中力だ。
「急ごーぜ、学食。完全に出遅れてんぞ」
「あぁ、俺はいい」
 急かすダテ眼鏡の誘いを片手で断り、真夜は鞄に手を入れてナプキンに包まれた弁当箱を取り出した。
「何だよ、自炊かよ」
「今月はちょっとピンチでね」
 落胆した様子で漏らすダテ眼鏡に、真夜はどこか冷めた様子で返した。
 色々と事情があり、たまにこうして弁当を持ってくる時はある。その主な理由が金欠だったりするのだが……実は今月はまだ結構余裕があったりする。
 ではなぜ弁当持参なのか。
 答えは単純かつ明快にして奇怪。
 アリュセウの野郎が作りやがったからだ。
 ちょっと早くに目が覚めたから作ってみたですよー、とか言って喪服の上からエプロン付けて新妻ヨロシク手渡しやがった。
 コレが……コレが昨日の出来事だったらどんなに……。ブロンド、喪服、釣り竿、エプロン……。かつてコレ程までにエロい組合せがあっただろうか。
 否! 断じて否ぁ!
 そんな格好で手渡された弁当であれば、例え味がどうであれ、真・会心を笑みを浮かべて『美味しかったよハニー。じゃあ今夜は駅弁スタイルで君を美味しくいただきまっす!』とか言う自信が脳汁と一緒に流れ出していたのにぃ……! キィー! くやしいッ! なんてことなのかしら!
「……お前、何かいつにも増してヤバいぞ」
「うるさい! お前に大好物をゆっくり食べようと楽しみにしていたら中に大量のタバスコが盛られていて、しかも一見タバスコにみえた物体が実はバハネロだった時の気持ちが分かってたまるか!」
「分かんねーよ」
 くそぅ! クソクソクソクソクソ!
 お前ら全員アリュセウに記憶を消されて痴呆になってしまえばいいんだ! それでストロレイユに意識を抉られて社会不適合者の烙印を押されるがいい!
「じゃぁな。俺行くわ」
 呆れた表情で言い残すと、ダテ眼鏡はポケットに手を入れて去って行った。その後を飢えた狂犬のような目つきで睨み付けていたが、やがて大きく溜息をつくと、真夜は椅子に座り直して前を見る。
(ストロレイユに、か……)
 【意識の施術者】。相手の意識を自由にできる力を持った危険な存在。故に高い精神純度を求められる。
 一体どんな気持ちなんだろう。相手の意識を狩り取る時というのは……。
 アリュセウにしてもそうだ。その人の生活に致命的な支障が出ないよう、ちゃんと考えて消していると言っていたが、致命的かそうでないかなど誰が決めるというんだ。
 端から見ればつまらなくて大したことのない関係であっても、その人にとってみれば極めて重要だというのはよくあることだ。
 なのに、アリュセウは一方的に不要だと決めつけて消してしまう。その人の生命維持に特段の問題がなければ、例え十年来の友人との関係であっても、自分の命を救ってくれた恩人との大切な思い出であっても、消す対象に含めてしまう。むしろそういう深い繋がりの方がポイントが沢山得られ、プラクティショナー達の間では喜ばれるんだそうだ。
 だがそんなのあまりに勝手すぎる。横暴すぎる。一体、何の権利があってそんなことを……。

『残念ながら、お前に言われる筋合いはないですよー。じゃあお前ら人間は何の権利があって動物や魚を殺すですかー? 彼らにも彼らの社会がちゃんとあるですよー。でも人はそんなの関係なしに殺すですよー。どうしてか分かりますかー?』

 それは、食べていくため。人間が生きていくため……。

『その通りですよー。オレ達も同じことですよー。ポイントは生命の源ですよー。人間の輪廻転生だけじゃなくて、オレ達の生命維持にも使われているですよー。オレ達は人間の生まれ変わりを助ける報酬として、そのおこぼれを貰っているですよー。当然の権利ですよー。無差別に虐殺する人間と違って、ちゃんと取捨選択してるだけマシですよー』

 プラクティショナー達は、全ての生命の世代間の繋がりが途絶えぬよう手助けをしている。ポイントという生命の源を用いて新たな命を生み出している、らしい……。まだ完全に信じたわけではないが、子供は精子と卵子が合わさるだけでできるのではなく、そこにポイントが加わって初めて形になるんだとか。
 とてつもなく胡散臭い話ではあるが、アリュセウの力を実際に見た身としては、真っ向から否定できる材料もない。なにより自分が『忘れ子』であったことを考えると、記憶や意識というキーワードを軽く扱うわけにもいかない……。
 プラクティショナー達は種を存続させる見返りとしてポイントを搾取し、自分達は生かして貰っている礼として記憶や意識を献上する。
 一見、持ちつ持たれつの関係に見えるが、明らかにプラクティショナー達の方が立場が上だ。捧げる記憶や意識の選択権はコチラにはなく、向こうが一方的に吸い取っているのだから。
 言ってみれば人間を初めとする全ての生命体はプラクティショナー達の畑なんだ。収穫の時期を待ち、美味しいところから狩り取っていく。
 これまで、人間が他の生物にしてきたように……。

『今まではお前ら人間は、自分達が自然界の頂点だと思っていたですよー。でもソレは大きな勘違いですよー。まぁ知らぬが仏だったのに、お前は知ってしまったですよー。ご愁傷さまですよー』

 人間の上にはプラクティショナー達がいた。自分達は王者の座から転げ落ちていた。だから仕方のないこと。諦めるしかない。
 アリュセウの言う通り、理屈だけで行けばそういうことなんだろう。
 だが――
(納得いかねぇ!)
 確かに自分達が動物や魚にしてきたことを考えれば当然の報いということにもなる。
 しかしソレで素直に受け入れられるほど人間できていない。バカバカしい思い出を二つ返事でくれてやるほど大馬鹿野郎じゃない。
 幸か不幸か自分はこの裏事情を知ってしまった。だから少なくとも自分の見ている前では、アリュセウが他の奴らに手を出すようなことはさせないし、無差別に意識を狩り取っているボボボン・キュッ・ボボンな核兵器級のねーちゃんは絶対に手込めにしてくれる。一日、一分一秒を涙ながらに惜しんで!
 だから今すぐにでも閃きたい! 核ねーちゃんをアヘアヘできる方法を!
 何かないか! 何か何か何か!

『今一番可能性があるとすれば、やっぱり軌跡を上手く利用することだと思うですよー』

 アリュセウが言うには、軌跡は描く順番に決まりがあるらしい。
 例えばこの前のファミレスでの出来事を取り上げるとすると、まずダテ眼鏡の中から自分の記憶を消した時点で、彼からコチラに向かって線が伸びる。続けて線は再びダテ眼鏡の元へと戻り、コレで二人の間の関係はなかったことになるわけだ。
 次に、自分とダテ眼鏡が知り合いであることを知っている禁煙パイポの方に、ダテ眼鏡の中から線が伸びる。線は禁煙パイポを経由して自分の方にやって来た後、また反射して禁煙パイポへと戻る。
 コレで自分と禁煙パイポの関係はなかったことになる。
 ウェイトレスも同様。禁煙パイポからウェイトレスへ、ウェイトレスから自分へ、自分からウェイトレスへ。
 そしてさらに連鎖が起き、自分と禁煙パイポが知り合いであることを知っているYMCAと道祖神にも同じ現象が起きる。この場合は禁煙パイポからYMCAへ、YMCAから自分へ、自分からYMCAへ、の順番で線は伸びていく。
 線はアリュセウが消さない限り消えることはなく、物理的な距離が近い者から順に軌跡を描いていく。
 昨日、アリュセウに説明を受けながら書いた図を思い出すと、

       “YMCA”←“自分”←“YMCA”←┬→“道祖神”→“自分”→“道祖神”
                           │
 “ダテ眼鏡”→“自分”→“ダテ眼鏡”→“禁煙パイポ”→“自分”→“禁煙パイポ”
                  │
                  └→“ウェイトレス”→“自分”→“ウェイトレス”
                                                   』
 こういう感じになる。
 つまり、誰の中から自分に関する記憶を消す場合でも、軌跡は必ず自分を一回通って行くわけだ。この法則を上手く利用すればきっとストロレイユを見つけられる……とゆーかコレ以外のアプローチは多分無駄だとアリュセウは言うのだが……どうやって利用するんだ?

『残念ながらオレはストロレイユのことを人の話でしか聞いたことがないですよー。だから顔を見たことはないですよー。でも知っててもきっと認識を狂わされて意味ないですよー』

 アリュセウが誰かの記憶を消す時、彼の目に見えているのはターゲットが記憶している人間や動物の顔だという。つまりファミレスでは、ダテ眼鏡の中から自分の顔を見つけ出して釣り上げたわけだ。
 しかし例え同一人物であっても、被害者や目撃者の中で記憶している顔が違っていれば、アリュセウにも違うように見える。例えばAとBの両方がストロレイユの目撃者だとしても、Aが胸のデカいストロレイユ、Bが尻のデカいストロレイユを記憶していれば、アリュセウの目には別人に見えるということだ。
 つまりストロレイユが目撃者の認識を操作できる以上、アリュセウが彼らの記憶を覗いてもソレが本当にストロレイユなのかどうか分からない。しかし連鎖さえ起これば、ソチラは正確に認識してくれる。Aの中から巨乳のストロレイユが消えて、Aとストロレイユが知り合いであることをBが知っていればBの中からは巨尻のストロレイユが消える。
 そして軌跡はA→ストロレイユ→A→B→ストロレイユ→Bの順番で描かれる。だからその軌跡を追えば見事ストロレイユを特定できる! 完璧!
 ――が、この作戦には大きな欠陥が三つもある。
 一つは目撃者同士にまず面識がないだろうということ。
 二つ目は、ストロレイユにも当然軌跡は見えているのだから、こんな分かり易い方法を取ってしまうと、不意打ちができなくなるということ。
 そして三つ目。コレが最も致命的でアホな欠陥なのだが……この作戦が最初からストロレイユの顔を知っていること前提で立てられていること。
 目撃者は当然ストロレイユ以外の人間の顔を、ソレこそ百も二百も知っているわけで、その中からストロレイユの顔をピンポイントで選ぶのは奇跡に近いわけで、間違ったとしてもソレが間違いだとは分からず、厄介なことに彼らについても連鎖は勿論起こるわけで、そうなったら余計混乱するわけで……。
 全くどこのどいつだ。こんな荒っぽい作戦を鼻息荒くして女装趣味の変態ショタに得意顔で講釈していたのは……。
 ……くそぅ。
 大体、アリュセウもストロレイユのことを“人の話でしか聞いたことがない”ってのはなー。核兵器級とか戦慄するスリーサイズとか、一気に怪しくなってしまった……。いやそもそも女かどうかすらも怪しい。核爆発級の前例があるだけに。なんかまた上手く乗せられている気がしてならない。
 ……ただ、それでもその点に希望とテンションアップを見出してしまっているというのが悲しい現実なわけだが……。
 とにかくだ! 何かまた新しいアイディアを閃けばいいんだ! 別にアリュセウの力にこだわる必要なんかない!
 他に何か良いアイディアがあるはずなんだ! このピンク色の妄細胞をフルに動かしきれば外はふんわり中パッパってな具合に!
 何かないか! 何か何か何か何か何か何かぁ!
「お前食わねーの? ソレ」
 横手から声を掛けられ、真夜は思考を中断してソチラに顔を向けた。
「授業は寝ねーわ、飯は食わねーわ……テメーさては何かあったなー?」
 立っていたのはイヤラシく顔を歪めるダテ眼鏡。どうやらもう食堂から帰ってきたらしい。
 教室の時計を見る。彼が出て行ってからすでに二十分が経っていた。やはり集中して何かをしている時というのは時間が過ぎるのが早――
「まーさか女でも連れ込ん――」
「貴様あああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 真夜は反射的にダテ眼鏡の胸ぐらを掴み上げ、大声で叫びながら詰め寄った。
「それ以上言うな。絶対に言うな。死んでも言うな。生きてても言うな」
「じょ、じょーだんだよ。何も泣くこたねーだろ。独り身が淋しいからって……」
 独り身だったらどんなに楽しかったか……。
「では俺を不快にさせたバツとして貴様に課題を与える」
「はいぃ?」
「お前には今どーしても探したい犯罪者がいます。しかしその犯罪者は百面相の達人で、有力な目撃情報はありません。ただ確かなことは自分の近くにいるというだけです。さてこの状況下で犯罪者を見つけるにはどうすればいいでしょうか」
「何だそりゃ? 探偵ゴッコ?」
「ど・お・す・れ・ば・い・い・で・しょ・お・か!」
 切れ長の目をカッ! と大きく見開き、真夜は一言一言に殺気を込めて言い放つ。
「な、何だよ、その犯罪者ってのは。お前の仇かぁ?」
「そんなところだ」
「百面相の仇、ねぇ……」
 ダテ眼鏡は真夜から少し距離を置き、眼鏡の位置を中指で直しながら視線を宙に這わせる。
「こーゆーのは? お前がその犯罪者に狙われる立場になる。で、おびき寄せて御用」
 言われて真夜は椅子に腰を下ろし、長い前髪をいじりながら小さく呻いた。
 おびき寄せる、か……。自分がストロレイユから狙われる立場に……。だがそうするには彼女の犯行動機を知る必要がある。勿論そんな物は分からないし、そもそもあるのかどうかすらも怪しい。ただの愉快犯だという可能性だってある。
「無理。却下。次の案」
「……お前、今動機が分からなくておびき寄せられないから無理とか思ったろ」
「思った。次の案」
「あのなぁ……」
 キッパリと言い捨てた真夜にダテ眼鏡は疲れたように息を吐き、
「動機なんてコッチが考えるモンだろー? フツー」
「どうやって。次の案」
「例えばよー、他に被害者いたらソイツらの共通点を見つけるとかだなー、色々あんじゃねーか」
「共通点?」
 ダテ眼鏡の言葉を繰り返し、真夜はまた前髪を触りながら下を向く。
 共通点、ねぇ……。確かにストロレイユの被害者はもう二十人近くになる。彼らに共通する物が分かれば、自ずと次のターゲットも見えてくる、か。そして上手く閃けば動機も分かる……。
 なるほど。ソレは名案かもしれない。
 多分、警察でも同じことはもうやっているだろう。だが彼らの頭の中に、プラクティショナーという異星人が存在することはインプットされていない。
 もしストロレイユの目的がポイント集めだとすれば……。大量の連鎖を引き起こして効率よく集めたいのだとすれば……。
(交友関係の広い者を狙う、か……)
 例えば、自分のように。
 だがアリュセウが言うにはストロレイユはわざと連鎖を起こしていないらしい。そうすると狙いはポイントではない? やはり意識を奪うことだけが目的の愉快犯? しかしソレにしたってわざわざ連鎖を止める必要はない。わざと目撃者を生み出すなんて馬鹿げている。
 だがストロレイユが警察との追い掛けゴッコを楽しんでいるのだとすれば……。朝顔のように一人SMなんだとすれば……。サドっ気で相手の意識を奪い、マゾっ気で自分を追いつめているのであれば……次に狙われるのは――
(ドM!)
「コレだ!」
 ガタン! と椅子を蹴って立ち上がり、呆気にとられているダテ眼鏡を真夜は確信に満ちた瞳で見つめた。
 被害者の共通点はM男であること! コレしかない! 警察もこの発想はなかったはず! さっそく確認するべし!
「お、おぃ! 村雲!」
 こういう時に頼りになるのが朝顔! 異常記憶力と元祖一人SMの力を併せ持つアイツなら、被害者全員がMかどうかくらいすぐに判別が付くはず!
(きた! きたきたきたぁ!)
 ダテ眼鏡の声を背中で聞き流し、真夜は朝顔のいる隣の教室へと向かった。


『アーちゃん? 今日は休みーだね。朝から見てないし』

 放課後。駅前の繁華街を一人で歩きながら、真夜はいつになく難しい表情で口元を歪めていた。家電専門店の放つ毒々しいネオン電飾や、二十四時間営業の牛丼屋から流れ出る宣伝の声が鬱陶しい。十階建ての雑居ビルに取り付けられた色彩感覚のない看板や、中古ゲームショップの回転広告塔が目障りだ。
 ブランド物を扱う洋服店から出てくる、ファッションセンスのない中年夫婦。ようやく明かりが付き始めたばかりの居酒屋に入っていく馬鹿面下げた大学生達。
 なぜだろう。
 なぜ自分はこんなにも苛立っているんだろう。なぜこんなにも焦っているんだろう。

『ま、ああいう奴に刺されたら、どれほどの痛みがあるのかということに関しては興味があるがな』

 なぜ冗談半分に言った朝顔の言葉が、頭の中で鮮明に蘇るんだろう。
(クソ……!)
 どんどん早くなって行く自分の足に腹立たしさすら覚えながら、真夜は鼻に皺を寄せて舌打ちした。
 自分は今、朝顔に被害者の共通点を確認するために彼女の家に向かってるんだ。別に心配とかお見舞いとか、そういう偽善チックなことをしに行くわけではない。

『へー、ソレはきっとストロレイユがやったですよー。まぁ確かに、栃木から一気に東京っていうのは気になるですけどねー』

 ストロレイユはもう東京にいる。しかも自分達のすぐに近くに。
 周りでいつ新しい被害者が出てもおかしくない。一昨日、朝顔が目撃したという危ない男はまだニュースには上がっていないが、きっと時間の問題だろう。
 そう、時間の問題なんだ。
 被害者が報じられるのも、被害者が人知れずに増えるのも。
 ソレが朝顔という可能性だって十分に……。
(風邪だ。そんなもん風邪だ。単なる風邪に決まってる)
 自分に言い聞かせるように真夜は心の中で繰り返す。だが不安は晴れない。それどころかどんどん大きくなっていく。
 昔はよく彼女の家に遊びに行ったりもしたが、こんなにも遠い道のりだっただろうか。
 ああそうか。色気のない女にわざわざ会いに行こうとしているから長く感じるんだな。体感距離というのは厄介な物だ。やはり何か楽しみがないと。
 例えば、寝込んでいるアイツを思い切りからかってやるとか。
 昔の恥ずかしい思い出を引っ張り出してきてやるか。それともあらぬ陰口を突きつけてやるか。
 ……いや、ダメだな。ドMのアイツにとっては最高の手みやげだ。今まで散々言ってきた『色気がない』発言に感銘を受けていたくらいだからな。
 となれば、この前考えたように嫌味なくらいに褒めちぎって、怖気地獄を見せてやるしかない。
 美人で優しくてナイスバディーだと拝み奉れば、さすがにヘコむだろう。
 コレだ! コレしかない! アイツの青くなる顔が目に浮かぶ!
 よーしやる気が出てきた! コレで一気に体感距離が……!
「ん……」
 少しだけ気が晴れ、いつの間にか俯いていた顔を上げた時――目があった。
 広い横断歩道の真ん中に立ち、人の流れに取り残されたように浮いている。いや、信号を渡ろうとしている人達全員が、彼を大きく避けているんだ。
 それ程、異質な雰囲気を纏っていた。
 秀麗な顔立ちをした男だった。少し長目に伸ばした黒髪は艶やかで、僅かに掛かったウェイブが線の細い容姿と相まって、どこか不気味な影を落としている。
 薄く見開かれた目には金色のカラーコンタクト。その上にフレームのない眼鏡。小さめの口には酷薄な笑みが浮かび、肌は病的なまでに白い。
 そして何より目を引くのがその服装だ。
 腕や足に薄茶色のラインが入った琥珀色の詰め襟。ボタンはなく、軍服のようにも見える。両手にはめられた白い手袋が、軍人の印象をより強くしていた。
 どちらも体に張り付くようにフィットしており、彼の華奢な体つきを明確に浮かび上がらせている。
(やべぇな……)
 直感が真夜に告げた。
 目を合わせるべきではないと。関わり合いになるべきではないと。
 横断歩道のド真ん中で仁王立ちというだけでも危ないのに、あの底冷えするような空気と、高い位置から降ってくる威圧的な視線。
 喧嘩して勝てる勝てないの問題ではなく、とにかく近寄りたくない。見られたくない。
 真夜はすぐさま彼から目線を外し、他の通行人同様大きく避けて横断歩道を渡る。そして何事もなく彼の隣を通り抜け、
「ようやくお会いできましたね」
 一瞬、体温が氷点下にまで下がったような気がした。
「『個』を望む者」
 鼓膜の内側から囁かれているような錯覚。
「繋がり合っている生活は楽しんでいますか?」
 足が勝手に止まる――なぜ。
「その様子だと、かなり安定してしまっているようですね」
 鼓動が痛いほどに激しくなる――なぜ。
「ですが均衡というのはほんの些細なショックで崩れてしまうもの」
 振り向くことすらできない――なぜ。
「貴方もよくご存じでしょう? 人の記憶というのはひどく曖昧なもの。強く願い、激しく念じれば、ソレが例え偽りだったとしても真実となって心に根付く。かつての忌まわしい記憶も、幸せな現実によって取って代わる」
 決して大きくはなく、優しく諭すような声。
 なのになぜ……なぜ、こんなにも鮮明に、周りの音が全く聞こえなくなってしまうくらい、異様に……。
「ですがソレは全く意味のないことです。成すべきことから目を逸らし、欺瞞と怠惰に満ちた無意味な時間をただ漫然と過ごしているだけにすぎない。自らに課せられた使命を放棄し、類い希な才能を泥の中に埋めている。ソレが今の貴方ですよ」
 体が動かない。指一本、唇を数ミリ動かすことさえ叶わない。
 完全に硬直している。射すくめられている。
「真に新しい物を生み出すには、他の全てを捨て去るしかない。コレは真理です。疑う余地など何一つとしてない、ね」
 まるで氷中に押し込められたかのように。まるで時間そのものが凍結してしまったかのように。
「あの大規模な記憶の錯乱は事故などではない。意志なんですよ。貴方自身の。貴方自身が望んだこと。よく思い出してください。貴方がどうして生まれ、なぜ今のようになってしまったのかを」
 大規模な記憶の錯乱。
 その言葉に、絶望的な何かが真夜の背中を通り抜けていく。そして脳裏に閃く。
 白いシーツの上で、誰にも話し掛けられることなく、誰にも目を向けられることもなく、誰にも知られることなく。ただ一人、じっと見つめていた先には、恐い顔をした沢山の――
「――ッ!」
 痺れるような鈍痛。吐き気すらもよおす意識の狭窄。
 脳の一部が腐食し、緩慢な変遷を経て壊死していくような……。
「少し、刺激が強すぎましたかね。今日はこのくらいにしておきましょう」
 知っている。自分はコイツを知っている。
「このまま何事もなく嵐が過ぎ去ることを心よりお祈りしていますよ。施術者殺し様」
 ――施術者殺し。
 なんだ。この響き。悪寒と怖気が同時に走るほどの嫌なフレーズなのに、なぜか驚くほど簡単に受け入れられる……。
「では、ごきげんよう」
「……ッの!」
 彼の別れの言葉と同時に硬直が解け、真夜は灼怒に染まった顔を後ろに向けて――
「――ッ!?」
 耳をつんざくクラクション音が鼓膜に突き刺さった。
 真夜は体を大きく震わせて反射的にソチラを向き、ドライバーを睨み付ける。が、
「あ……」
 信号は青だった。
 車道側の。つまり――
(ヤベっ!)
 赤い色を煌々と放つ正面の信号を見ながら、真夜は横断歩道を一気に渡りきる。そして歩道に入ったところで後ろを向き、
「クソッ……」
 あの男の姿はどこにもなかった。視界の中はすでに車で埋め尽くされている。マフラーから吐き出される生ぬるい排気ガスが、不快感と苛立ちを力一杯煽っていった。
(あの野郎……)
 横断歩道の向こうがわに視線を向けながら、真夜は呻くように息を漏らす。
 自分は知っている。あの男を知っている。
 勿論、悪者として。ソレも超弩級の。
 施術者殺し。
 アイツは自分のことをそう呼んでいた。偶然ではないだろう。“医者殺し”を洒落た言い方にしたわけではないのだろう。
 つまりアイツもアリュセウと同じ、プラクティショナーなんだ。そしてあの危ない雰囲気。人を殺すことに何の感慨も呵責も示すことのなさそうな冷徹な瞳。もう間違いない。
 見つけた。見つけてしまった。いや、向こうからわざわざ接触して来てくれた。
(ストロレイユ……!) 
 今、世間を震撼させている犯罪者を。 
 人の意識を奪い去り、廃人同然の体にしてしまう力を持った【意識の施術者】を。
 記憶した。網膜と脳細胞に焼き付けた。アイツの顔を。体つきを。冷酷な雰囲気を。
 もうややこしい作戦を考える必要はない。アリュセウの力だとか軌跡だとか、そんな物はもうどうでもいい。
 似顔絵なり何なりを作成して、知り合いに協力を呼び掛けて、人海戦術で見つけ出してしまえばいいのだ。そして見つけたら自分に連絡をくれるように言っておけばいい。コレなら他の奴等が危険に晒されることはない。
 アイツは……ストロレイユは自分のすぐ近くにいる。
 テレビの中で他人事のように眺めていた事件が、身近で起ころうとしている。
 数日後? 数時間後? 数分後? そとれも――数秒後?
 いけない。こんな所で呆けている場合ではない。今すぐにでも行動を起こさなければ。でなければ自分の知り合いに危害がおよんでしまう。
 犯人の顔をハッキリ見てしまった以上、アイツを止めるのはもはや義務だ。ココで見過してまた新しい被害者の名前がニュースで発表されれば、ソレは自分が間接的に殺したようなものだ。
 まずは警察か。今見た男の人物像を警察に知らせるべきか。
 だが信じてくれるか? たださえ食い違った目撃情報の多い中、彼らは自分の言葉を信用してくれるのか?
 ましてや今回は男だ。
 これまでに上がっている数々の犯人情報。人相や体型は様々だったが、女性であるという点だけは一致していた。恐らく警察の中でも、犯人の性別が女であるということは揺らがないだろう。
 そこに自分が得たこの情報を持っていったとして、警察は重大なこととして取り上げてくれるのか?
 無理だ。もし自分が警察の立場だったとしたら聞き流す。今までしてきた捜索を根本から覆すような情報、一応調書を取るだけで無視するに決まっている。
 だとしたら彼らに頼ろうとするのは時間の無駄だ。やはり自分の力で何とかするしかない。
 ならまずこのことを言うべきは……アリュセウか?
 せいぜい百人足らずしかいない施術者だ。高校のクラスたった三つ分の人数。自分の知り合いの三分の一にも満たない。
 そのくらいなら、顔さえ詳しく分かれば何か手はあるか? 知り合いの施術者に聞くとか。自分の中にあるストロレイユの顔の記憶を元に追えるとか。そして実はアリュセウの目から見れば、ストロレイユがどれだけ認識を狂わせようと関係ないとか。
 いや、でもなぁ……。アリュセウが見えるのは“その人が見たままの顔”だって言ってたしなぁ……。
(ん……?)
 待て。待て待てマテ。
 今、自分はストロレイユについての記憶を得た。ならアリュセウに頼んで自分の中から彼に関する記憶を消して貰えば軌跡が発生する。自分→ストロレイユ→自分、という順番で。
 追える。追えるじゃないか。
 わざわざ人海戦術など取らなくても
 アリュセウは他の人間の中から自分の記憶を消すことは難しいと言っていたが、その逆――自分の中から他の人の記憶を消すことは可能かもしれない。試してみる価値は十分にある。
(よし!)
 やるべきことは決まった。なら早速……!
「……って」
 どこだ? ココ。
 走り出そうとしてすぐに止まり、真夜は前のめりになりながら辺りを見回す。そして青信号になった横断歩道を渡っていく人の群を見つめながら、眉間に深い皺を寄せた。
 明らかに自分の通学路ではない。いつも通っている道はこんなにも混雑していない。もっと閑散とした郊外の高台に……。
(んん?)
 真夜は曖昧になった記憶の糸をたぐり寄せ、
「んん?」
 さらにたぐり寄せ、
「おぉー」
 ぽん、と手を打って切れ長の目を大きく見開いた。

「単なる風邪だよ」
 オカッパの緑髪を額に撫でつけながら、朝顔は苦笑してコチラを見た。熱があるのか、頬が僅かに上気している。
 結局、コチラに来てしまった。どうするべきか小一時間考え抜いた結果、朝顔の様子を見るという選択をしてしまった。
 まぁ最初からそのつもりだったし、聞きたいこともあったし、途中で決心を変えるのは男らしくないし、なんというかまぁ……。
「しかしビックリしたよ。まさかキミがお見舞いとはな。私のように色気のない女の所になど来ても、キミが望むような物は全くないぞ?」
 無事でよかった。
 コイツが自分の身の回りの被害者第一号にならなくて……。
「なーに、そーんなことはないさ五月雨朝顔君。熱病に浮かされた君の顔はとっても魅力的で扇情的だよ」
 い草の香りが立つ畳の上であぐらを掻き、真夜は両腕を大きく広げておどけたような口調で言った。
 隣にはシブい湯飲みが乗った年代物のちゃぶ台。目の前には敷き布団に横になった朝顔。押入れの扉は当然襖で、部屋の仕切りは障子だ。明かりは部屋の中央から無愛想に吊された裸電球のみで、おまけに壁には般若心経の記された掛け軸。その下には総桐の小箪笥。
 部屋の主に色気がなければ、部屋自体にも色気は全くない。普通、女子高生の部屋という響きだけでも十分すぎるほどの魔力を秘めているのに、ココにはソレが全く感じられない。皆無。いや絶無だ。
「……キミは私をからかうために来たのか?」
「その通りだと言ったら?」
「とても嬉しいよ」
 嬉しそうに聞く真夜に、朝顔は快楽に身悶えしながら返した。
 ……むぅ。褒めてやれば少しは嫌そうな顔をするかと思ったんだが、コレも逆効果か……。だがこの前やった、フルネームに君付けは嫌がっていたから……。
 そうか。つまり『精神的嫌悪感』はダメなんだな。しかし行き過ぎて『精神的苦痛』になると喜ばせてしまう、と。
 なかなか加減が難しいな。まぁいい。ソレはまたの機会ということで。今は他に聞きたいことがある。
「で? なーにしてたんだよ。風呂から上がって素っ裸でうろついてたのか?」
「ああ、していたな。だがソレはいつものことだから風邪の原因にはならない」
 何の恥じらいもなく、しれっと言う朝顔。
 いつものことって……仮にも年頃の女がそんなことを……。
 思わず想像して……も何も感じないな。所詮は仮でしかないか。
 思うに、だな。きっと全裸というのが良くないんだ。やはり何でも障害があるからこそソレを乗り越えて先に進みたくなる。見えそうで見えないから、妄想力をフル回転させて“観”ようとする。
 例え同じ百円でも、お小遣いとして貰うのと、見知らぬ街で帰るための電車賃があと百円足りなくて自販機の隙間から苦労して手に入れた百円とは違うんだ。
 もう見るからにエロそうなネーチャンが「ホラホラ」とか言ってスカート捲り上げるのよりも、清純そうな女子高生が春風のイタズラに会って顔を赤らめている方が何億倍ものエロスを感じるのはそういうことなんだ。
 つまり半裸だ。
 風呂上がり。体に巻いたタオル。ほのかに香る石鹸の匂い。うなじから立ち上る湯気。アップに纏めた髪から僅かに零れ落ちる後れ毛。
 この女体の黄金律こそが日本男児の求める究極の女性像であり、有り余る情熱をぶつける至高の対象となりうるわけだ。
 そもそもだな、人というのは原始時代から……。
「キミのその百面相は本当に見ていて飽きないんだが、今は遠慮して貰えるかな。長居させて風邪をうつすのは気が引ける」
 小さく笑いながら言った朝顔に、真夜は妄想を中断した。
「私なら大丈夫だ。明日には回復するだろう。今日は来てくれてありがとう。特に用がないのなら早めに帰ることをオススメするよ」
 朝顔は呟くように言い、天井を見つめながら息を吐く。
 ひょっとして、見た目より病状が重いのだろうか。なら無駄に喋らせて体力を浪費させるというのはよくない。
「じゃあ、よ。コレ。色々と見繕ってみたんだが……」
 言いながら真夜は学生鞄の横に置いていたスーパーの袋を取り上げる。そして朝顔の顔の横で中を広げて見せた。
「ほぅ。キュウリにニンジン、キャベツにズッキーニか。なかなか品のあるセレクションじゃないか。この色つやからして、スーパー『エッグマッシャー』のタイムセールスで購入してきた物だな」
 朝顔は布団の上に体を起こし、袋の中身を一つ一つ手に取って見ながら興味深そうに言う。
 ……ホントどーでもいいことばっか覚えてやがるよな、コイツは。
「んむ。美味い。この虫の食った跡の微妙な甘味が何とも言えないな。少し体が楽になった気がするよ」
 キャベツの葉を一枚捲ってそのまま口に放り込み、じっくりと咀嚼しながら朝顔は感想を述べる。
 まぁ生野菜だとビタミンとかがそのまま摂れるから体にはいいんだろうが……。
 やはり色気がない。
「ま、夏風邪は治りにくいって言うからよ。クーラーなんか……はココにはねぇか。とにかく薬飲んで、しっかり食って、部屋あったかくしてガッツリ寝てるんだな」
「心配ない。私が風邪を引いた原因はハッキリしている。だからソレを止めた今、体調は順調に快方へと向かっているはずさ」
 髪と同じ緑色のパジャマの襟元を緩めながら、朝顔はニンジン片手に続ける。
「実は昨日、少々雨に打たれてね。ソレで体が冷えてしまったんだろう。夕食を食べ終わった後くらいからだんだん体が重くなって、関節が痛くなり始めて、でもソレが気持ちよくって、いつも通り風呂上がりに真っ裸で過ごしていたらこの通りだ。ま、おかげで健康体の有り難みがよく分かった。やはり自分をいじめ抜くにしても健全に行わなければならないな」
 はっはっは、と鷹揚に笑いながら、朝顔はニンジンを皮ごと頬張った。
 ……この馬鹿。何考えてんだ。ドMなのにもほどがあるぞ。
「置き傘くらい持っとけよ……。誰も使ってなさそーなのパクるとかよー。汚いのならいくらでもあったろーによー」
「んむ。その日の天気予報で午後から雨だと言っていたので一応傘は用意していたんだがな。残念ながら誰かに持って行かれていた」
 朝顔は布団の上であぐらを掻き、目を瞑って腕を組みながら難しい表情で言った。
「誰だよ、ったく。くだらねーことしやがって」
「実は犯人に心当たりがあったりするんだがね」
「マジで? 言えよ。軽くボコってきてやっからよ」
「だが彼にMの属性が備わっているわけでもないしな」
「カンケーねーよ。因果応報、自業自得、我田引水。お前の風邪うつしてやりゃいいんだよ」
「なるほどなぁ。ひょっとすると、そのやり返しはすでに成し遂げたかもしれないな」
「そんで? 誰なんだよ。腕力には自信あるぞ」
「ほぅ、随分とお優しいことだな。私が病人だからか? それとも単に暴れたいからかい?」
「いいから言ってみろって」
「ではキミの鞄に刺さっているその傘、一体どこから持ち出した物なのか聞いておこうか」
 言いながら朝顔は薄く眼を開き、左の人差し指を持ち上げて真夜の学生鞄を指さした。
 鞄、と言っても小型のリュックサック状のソレには、黄色い小振りの傘が一本刺さっていた。昨日、帰る時に拝借した、錆びだらけのボロくて汚い傘だ。今日返そうと思って持ってきたはいいが、そのまま忘れて鞄に入れっぱなしなってしまった、のだ、が……?
「実は大変言いにくいことに、その傘。私が小学校の頃から愛用している物にそっくりなんだよ。どういうことなんだろうな」
 頭を軽く降って緑のオカッパをさらさらと揺らし、朝顔はどこか面白そうに目元を歪めた。
「さ、さてぇ……どういうことなんだろうなぁ」
「ココにいらっしゃる腕っ節のいい親切な方は、私のために仇を討ってくれるそうじゃないか。今時珍しい、なかなかに気持ちのいい若者だと思うよ。さ、て――」
 口の端を釣り上げ、冷たく笑いながら言う朝顔の双眸に恍惚とした輝きが灯る。
 い、いかん……ドSのスイッチが入った……。コレはマズい……。
「そう言えばキミ――」
 朝顔はキュウリを一本袋から取り出し、
「あの時の怪我はもういいのかい?」
 か……、と自分の口から乾いた音が漏れた。
「おやおや、その調子だと完治には程遠かったみたいだねぇ。いけないよ。怪我でも病気でも初期の処置が大切なんだ」
 続けて左の脇腹が灼熱を帯び、一瞬にして半身を呑み込んでいく。一呼吸遅れて脳が告げる激痛の信号。視神経の爆ぜ飛ぶ光景。
「テ、メェ……!」
 患部に突き刺さったキュウリを掴み取り、真夜は朝顔を睨み付ける。
「おぉーや、恐い顔だ。ヤル気満々と言ったところかな。ならば私も“カブト”の緒を締めてしっかり“被っと”か、ない、と……ぶべっ! ではははははははははははははは!」
「あああああああああああああああ!」
 オヤジギャクに自爆し、ズッキーニを真夜の脇腹に叩き付ける朝顔。真夜は体の奥から突き上げてくる灼痛に、割れ散りそうになる意識を必死に集めることしかできない。
「痛い!? ねぇイタイ!? どのくらい!? どのくらい痛いの!? 渾身のギャクをスベった時くらい!? 混浴にバアさんしかいなかった時くらい!? それとも口説こうとしてた女の子が実は男の子だったと分かった時くらい!?」
「何で知ってる!」
「知らないさ! でも知ってるんだよ! いくらキミが隠そうとしてもお見通し! “オミット”しても“お見通”、し……げへっ! どぁはははははははははははははははは!」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
 果てしなく暴走を続ける朝顔に、真夜は白目を剥いて叫び上げた。
 が、辛うじて繋がっていた神経が無意識に左腕を動かし、高速の突撃運動を繰り返す朝顔の右腕を掴んだ。
「き、気はすんだか……。テメ、ぇ……」
 まるで肺から空気が漏れているかのように、真夜は抜けた声で力なく言う。
「んむ。なかなかいい汗を掻いた。おかげで熱が下がったような気がするよ」
「そ、りゃあ……に、よりだ……」
 かはぁ……、と息を吐き、真夜は額を冷や汗で大洪水にして畳に手を付いた。
「しかし何だな。キミとこうしていると昔を思い出すよ。小さい頃は色々とバカなことをしたものだ」
 ばりばりと音を立ててキュウリを食べながら、朝顔はあぐらを掻き直して感慨深そうに言う。
「キミとは本当の家族のように……と言っても本当の家族のようなものなんだから妙な表現なんだが」
 丸ごと一本胃の中に流し終え、朝顔は「げぇっぷ」と下品な音を出して苦笑した。
「どうだい? 気ままな一人暮らしは。さすがにもう慣れたかい?」
 布団から出てちゃぶ台の前に正座し、真夜に出されたほうじ茶をすすりながら聞いてくる。
「そりゃ三年近くしてりゃあな」
 大分痛みの引いてきた脇腹から手を離し、真夜は朝顔を恨めしそうに見ながら返した。
「今だから言うが、あの時私は絶対にキミが非行に走ると思っていたよ。伯父も薄情な人だと思った。せめて成人するまで面倒をみてやってもいいのにってね」
 湯飲みを置き、朝顔はどこか遠くの方を見ながら言う。
「まぁ残された自分の母親のことで頭が一杯だという気持ちもよく分かるし、まだ親に養われている身の私にはそんなことを言う権利もないんだがね」
「俺が断ったんだ」
 切れ長の目を更に細くし、真夜は朝顔の言葉に声を被せた。
「……何?」
「お前の伯父さんからはちゃんと誘われたよ。自分の家に来ないかってな。けど俺がいいって言ったんだ。後は自分一人で何とかするからって大丈夫だってな。ま、結局高校入学手続きやら奨学金やらはしっかり面倒見てくれたけどよ」
 漆喰の塗り込められた壁に背中を預け、真夜は組んだ両手を頭の後ろに回してとぼけたような口調で言う。
「ソレは初耳だ」
「俺もお前が知らなかったってのは初耳だ」
「伯父は寡黙な人だからな」
「子供のお前が難しい事情を知る必要はないって気ぃ遣ってくれたのかもな」
「可能性としてはあるな」
 真剣な表情で目を大きくし、朝顔はちゃぶ台の前から立ち上がった。そして自分の正面に正座し、背筋を伸ばして口を開く。
「なぜ断った」
「迷惑掛けすぎたからな。もう十二分に世話になった。こんだけ丈夫に育ててくれたんだ。あとは一人で何とかするって考えるのが普通だろ」
「まだ中学三年生だぞ」
「もう十五だ。戦国時代なら立派な成人だ」
「そんな大昔の話をしてるんじゃない」
「俺は運が良かったんだよ。今でも児童養護施設で誰か迎えに来んの待ってる奴らはごまんといる。あんな刑務所以下のトコでな。ソレに比べたら中坊で一人暮らしなんざ軽いモンだ。贅沢言わなきゃ取り合えず普通の生活ができる。実際満喫してるしな。青学は大したもんだよ。バイトもなしで何とかなるんだからよ」
 茶化すように言った真夜に、朝顔はしばらく何を言わずに見つめていたが、
「精神の幼い成人が大勢いる現代で、随分と肝の据わったことだな」
 正座を崩して軽い調子で言った。
「一人でも何とかする自信はあったんでね」
「根拠は?」
「ない」
 即答した真夜に朝顔は呆れたような息を吐き、四つん這い体勢でのそのそと布団に戻る。
「私にキミの真似は到底できそうもないよ」
「しない方がいいし、する必要もないだろ」
 真夜の言葉に「全くだ」と返して、朝顔は横になった。
「私とキミは同じ病院で生まれたらしい。産後は部屋まで同じだったそうだ」
 そして天井を見上げながら独り言のように続ける。
「きっと何かの縁なんだと思ったよ。伯父の両親がキミを引き取ったと母から聞いた時、なぜか他人のような気がしなかった。キミはこの緑色の髪を見ても気味悪がらなかったし、私の妙な趣向にも拒否反応を示さなかった。両親でさえ最初は私から距離を置いている気配があったのにな。あの時の、何か恐い物でも見るような顔。今でもはっきり覚えているよ。いつまで経っても記憶が薄れないというのは、勉学に関しては大きなアドバンテージなんだが、こういう時はなかなかに辛いね」
 自嘲めいた儚げな笑み。
 朝顔の異常記憶力は過去の出来事をいつまで経っても鮮明に繋ぎ止めている。全く色褪せることなく、明確な輪郭を保持したまま。
 普通、自分にとって都合の悪いことは忘れ去り、良い思い出だけを美化して残そうとする。ソレが人間の記憶の本質だ。例え自分の人生を左右するほどの大きなことでも、精神が拒絶すれば頭の奥底へと押しやられる。
 辛いことから目を背けるために。
 ストロレイユの言ったとおり、本当に人の記憶というのはいい加減な物だ。しかしソレで良いんだと思う。精神の健全性を保つためにはしょうがないことだ。いつまでも暗い過去に縛られていては前に進めない。
 だが朝顔には許されない。過去は一生付きまとう。当時に見た光景、聞いた言葉、嗅いだ匂い。全てが記憶の中に残っている。
 だからひょっとすると知っているのかもしれない。
 自分の過去を。一番最初の出来事を。
 自分が忘れ子となった理由を。
 あの時同じ病室にいた朝顔なら記憶しているかもしれない。

『あの大規模な記憶の錯乱は事故などではない。意志なんですよ。貴方自身の』

 自分は何か重大なことを忘れている。ソレがあまりに辛くて苦しいことだったから。
 ――施術者殺し。
 自分はストロレイユを知っている。多分、アリュセウのことも知っている。
 今はソレを心の最深に閉じ込めているだけで。
 知るべきなのかもしれない。記憶の扉を開けるべきなのかもしれない。
 彼らが自分に関わってきた以上、知っておかなければならないことなのかもしれない。
 だが知ればきっともう戻れない。
 今まで通り、友達とバカ騒ぎして、女の尻を追い掛けて、下世話な話で盛り上がったり、殴り合いのケンカをしたり、それでも結局はまた分かり合えたり。
 そういうことができなくなってしまうかもしれない。
 しかし、それでも――
「やれやれ、どうしてこんな話になったのかな。風邪で少し弱気になっているせいかもしれないな」
 力なく紡がれた朝顔の言葉に、真夜は俯かせていた顔を上げた。
「すっかり話し込んでしまったな。頑丈なキミのことだから大丈夫だとは思うが、一応風邪薬は飲んでおいた方が良い。掛け軸の下の小箪笥に入っているから好きなだけ持って行きなよ」
「なぁ、朝顔」
 目の下まですっぽりと覆うほどに掛かった長い前髪をどけようともせず、真夜は低い声で朴訥に言う。
「どうした。珍しく下の名前で」
「一つ……聞きたいことがあるんだ」
 そして立ち上がり、布団で寝ている朝顔を見下ろす形で話し掛けた。
 しかし真夜はそこで言葉を止め、思い詰めた表情でじっと朝顔を見つめる。
「何だ」
 不思議そうな顔で聞き返し、朝顔はまた上半身だけを布団の上に起こして真夜の言葉を待った。
 分かるかもしれない。自分が今の環境に置かれた理由が。ストロレイユの言葉の意味が。そしてアリュセウの言っていた特異体質のわけが。
 自分とプラクティショナー達との繋がり。施術者殺しの真意。
 ソレが。今。朝顔に聞けば。
「朝顔」
 真夜はもう一度彼女の名前を呼び、
「だから何だ」
 両の拳を固く握りしめ、
「被害者は全員ドMなのか?」

 ……聞けなかった。
 ――俺が生まれた時、何があった?
 その一言が言い出せなかった。
 逃げている?
 いやそうじゃない。別に今でなくてもいいと思っただけだ。
 要するにさっさとストロレイユを捕まえて、警察なりアリュセウなりに突き出せば解決する話なんだ。
 もしソレがすぐにできるのであれば、こんなところで無理する必要はない。取り返しが付かなくなるかもしれないような、危ない橋を渡ることはない。だから――
(逃げてるな……)
 つまりは自信がないんだ。
 封印した記憶を持ち出して、またソレを忘れ去る自信がない。
 結局、自分が可愛いんだろう。周りから被害者を出さないために、犯人の顔も正体も知っている自分がやらなければならないなんて鼻息荒くしても、いざ重大な決断を迫られると後込みしてしまう。
 誰も被害にあって欲しくない。傷付いて欲しくない。その気持ちに変わりはない。
 でもそこには当然自分も含まれていて、優先順位は多分一番上なんだ。
 まぁ仕方がないと言えば仕方がないのだが、なんだかなぁ……。
「はぁ〜ぁ……」
 溜息が出る。今日は疲れた。
 が、そんな悠長なことは言ってられない。ストロレイユがすぐ近くに潜んでいるんだ。このことをアリュセウに伝えて、すぐにでも捜索を開始しないと。
「ただいま〜……」
 部屋の扉のカギを開け、真夜は中に一歩入って、
「おかえりですよー。遅かったですよー。ご飯とお風呂どっちにするですかー。両方オッケーですよー」
 アリュセウが声を弾ませて出迎えてくれた。
 黒い喪服の上には自分が愛用しているエプロン。長いブロンドはアップに纏められ、石鹸の良い香りが煩悩を逆撫でしていく。そして白いうなじから見え隠れする後れ毛が理性を根こそぎ奪い去り――
「――は!」
 気が付くと、喪服の合わせ目に両手が掛かっていた。そして視界には露わになったアリュセウの鎖骨。
「テメェ気色悪いことすんじゃねええええええぇぇぇぇぇぇ!」
 渾身の拳でアリュセウを床に沈め、真夜は目を血走らせて怒声を上げた。
「……痛いですよー。あんまりですよー」
 弱々しい声を出しながら体を起こし、アリュセウは涙目になって殴られた頭をさすりながら――
(可愛い)
「――は!」 
 気が付くと、アリュセウに馬乗りになっていた。そして視界には胸元を大きくはだけさせたアリュセウの姿。
「やめんかこのショタホモ同性愛者がああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 ソレを完璧な一本背負いで部屋の隅のパイプベッドまで投げ飛ばす。
「……自爆ですよー。オレは悪くないですよー」
 うう……と苦悶の声を漏らしながらアリュセウは顔を上げ、しかし力尽きてベッドに倒れ込む。
(――は!)
 と、ココでようやく我に返る真夜。
「だ、大丈夫か! しっかりしろ!」
 すぐさまアリュセウの元に駆け寄り、肩を大きく揺さぶる。
「……お、お前といると疲れるですよー」
「あ、アレはテメーがワケの分からん出迎えをするからだなー……」
「変態」
 真夜の精神が固まった。
「男だと知ってて欲情する大変態」
 続けて目から光が消える。
「欲望を満たせればもう何でも良い節操なし色魔」
「うわああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 髪を掻きむしり、絶叫を上げ、真夜は白いカーペットの上をゴロンガランと転げ回った。
「違う! 違うんだ! 俺が好きなのは女! できればムッチムチぷりんっぷりんの女! 胸の谷間に顔を埋めて力一杯頬ずりしてそのまま窒息死できるくらいの女! 更に理想を言うなら例え仰向けになっても谷間ができていて、指で触れれば温かい弾力が押し返してきて、肌質は絹のようにきめ細かく滑らかで、ガラス細工のように透明感があり、指に吸い付いてくるほどの保湿性を備えていればまさにベスト! そこに女がいるから口説きたくなる! 一緒になりたいと思う! 女思う故に我あり! 人は女を考える葦である! 女の女による女のための性欲! ソレが俺! つまり世界中の女は俺のモンなんじゃあああああぁぁぁぁぁぁ!」
 真夜は力強く立ち上がり、胸を大きく反り返らせて天に向かって吼える。その高らかなる宣言は、窓が開け放たれたままの部屋から見事に流出しまくり――
「……もういつ捕まってもおかしくないですよー」
 アリュセウがポツリと付け加えた。
「そぉだ! ソレ! 話は逸れたがストロレイユを捕まえる話!」
「……逸れすぎですよー」
「見た! 見たんだよ! ストロレイユ! テメー! アレのどこが102・61・93だ! 核兵器級ボディーだ! 全然違うじゃねーか! 俺のモチベーション返せよ!」
「……また逸れてるですよー」
 肩をわしぃ! と掴まれて、前後にガックンガックンと揺すられながらも、アリュセウは半眼になって冷静にツッコム。
「そうだ! 記憶を消せ! 今すぐに! ストロレイユの記憶を俺の中から消せ! そんで追え! そーすれば全て完了だ!」
「……ちゃんと順を追って説明するですよー」
 額に手を添えて軽く頭を振りながら、アリュセウは疲れた声で言った。

 ――そして十分後。
 朝顔の家に見舞いに行く間に起こった出来事を大雑把に話し終え、真夜は麦茶を一気に飲み干した。伝えたのはあの男の外見、そして自分の過去には関係なさそうなことだけ。やはり危険な記憶の扉を開ける勇気は起きなかった。
「んー、お前の稚拙な表現力ではいまいちイメージが湧かないですが……お前が会ったのは多分、ラミカフ様ですよー」
 テレビから目を離さないまま味噌汁をずずぃっ、とすすり、アリュセウはどこか冷めた口調で言う。
「ラミ、カフ……様?」
 コップをガラステーブルの上に置き、真夜はハンバーグを適当に切って口の中に放り込んだ。歯で少し潰した途端、熱い肉汁の旨味が口全体に広がっていく。なかなか……いやかなり美味い。
「オレ達プラクティショナーの執行部の一人ですよー。お偉いさんですよー。でもオレは生理的に受け付けないから嫌いですよー」
 不快そうに眉を顰め、アリュセウは里芋の煮付けを口に運んだ。
「執行、部? お偉いさん? 何だそりゃ。じゃあストロレイユとは別人?」
「前も言ったですがストロレイユは女ですよー。いくら認識を変えられるからって男にはなれないですよー」
 アイツは、ストロレイユじゃない……? ストロレイユはあくまでも女?
「じゃあ、今回の事件とは無関係……?」
「多分そうですよー」
「い、いや。でもそりゃねーだろ。あんだけ俺のこと何か知ってるみたいで、アホほど意味深なセリフ垂れ流してよー」
「ラミカフ様がお前に接触することと、ストロレイユが事件を起こすのとは全く関係ないですよー。何言ってるですかー」
 う……。まぁ、ソレはそうだが……。
「でも、ちょっとおかしいことはおかしいですよー。この狭いエリアにプラクティショナー三人は多すぎですよー。しかも一人は執行部……。ラミカフ様がストロレイユを討伐に来たとも思えないですよー。まだまだ小者の犯罪ですよー。それにラミカフ様がどうしてお前に声を掛けたのかも気になるですよー。お前に最初に目を付けたのはオレですよー。執行部が横取りなんて意地汚いですよー」
 箸の先を口に添え、アリュセウはテレビから外した視線を上げて何か考え込むように唸った。
 プラクティショナー達の執行部。アリュセウよりも遙かに上の階級であるラミカフという男。
 アリュセウが自分に興味を示したように、そいつが自分に接触してきたこと自体は不思議なことではない? そして理由はやはりこの特異体質のせい?
 だが、絶対にソレだけではない。アイツは間違いなく自分の過去を知っている。そして自分に何かをさせたがっている。昔の記憶を喚び起こして、少なくとも自分にとってプラスにはならないことをさせようとしている。
 ……とはいえ、アリュセウの言うとおり今問題になっている事件とは直接関係なさそうだ。ラミカフという男が自分に用があるのなら、放って置いても向こうからまた現れるだろう。その時こそ思いきりぶん殴ってやればいい。
 アリュセウを見る限り、プラクティショナーとは言っても肉体構造が自分達と大きくかけ離れているというわけではなさそうだ。なら一対一のケンカに持ち込めば、あんな細い体つきの奴など一分以内にケリを付けられる自信がある。
 ……まぁアリュセウの場合は逃げ足がやたらと早かったから、油断はできないが。
 ソレよりも今はストロレイユの方だ。
 朝顔に被害者のことを聞いてみたが、残念ながら予想は外れていた。全員が全員ドMではなかった。彼女が言うには四割らしい。……もぅどうでもいいが。
 そして自分がストロレイユだと思い込んでいたプラクティショナーは全くの別人だった。だからまた何か新しい方法を……。
「……なぁ、アリュセウ」
「何ですかー?」
 真夜の言葉にアリュセウは上げていた視線を元に戻し、蒼色の瞳をコチラに向けてくる。
「さっき言ってた討伐ってのはよ、どーゆー時に実行されるんだ? お前が前に言ってた『余程のこと』ってのはどのくらいのレベルなんだ?」
「余程のことは余程のことですよー」
「だーから具体的にだよ。何か基準があんだろ? 被害者の人数とか、ポイントの損失量とか」
「執行部が決めることだからオレは知らないですよー」
 我関せず、といった様子で言うと、アリュセウはハンバーグの脇にある千切りキャベツをつまみ上げた。
 こんの野郎……。
「そんじゃ仮に討伐隊が組まれたとして、ソイツら犯人をどうやって見つけるんだよ」
「ソレこそ知らないですよー。極秘情報ですよー。オレらが知ってたら問題ですよー」
 ……まぁ、そりゃそうか。探査システムが知れれば、ソレをかいくぐる手段を開発する奴が必ず現れるからな。
「オレが知っているのは、わりと最近あったことくらいですよー。その討伐が」
「最近って、いつだよ」
「十年か二十年くらい前らしいですよー」
「大昔じゃねーか」
「オレらはポイントさえあれば半永久的に生きられるから、そのくらい全然最近ですよー」
 半永久的にて……。そんじゃここ四、五年の記憶しかないコイツは赤ん坊みたいなモンじゃねーか。
「犯人はかなりのプラクティショナーを殺したらしいですよー。五十人くらい、だったかな……? 大犯罪ですよー」
「ふーん……。そんで今は百くらい、か。じゃあ三分の一がやられたんだな。そりゃ討伐されてもおかしくねーか」
「死んで当然ですよー」
 物騒なことをサラッと言い、アリュセウは白米をかき込みながら横目でテレビを見る。ブラウン管の中では、売れない芸人の痛々しいギャグが見事なまでに空振りしていた。
 とにかく、討伐隊の活躍が期待できないことはよく分かった。多分、自分達に直接被害が及ばないと動かないとか、そんな判断基準なんだろう。どこの世界もお偉いさんは保身しか考えてない。
 ……まぁ、自分も人のことを言えた義理ではないが。
(ほんじゃやっぱ……)
 何か良い作戦を考えて自分の力で――
(……ん?)
 待て。待て待てマテマテ。
 今コイツは何と言った? プラクティショナーを五十人、殺した?
 プラクティショナー……施術者を、五十人? 討伐……殺され……? え?
 人の記憶は曖昧で……都合の良いように作れ変えられて……? え……?
「おぉ」
 少し驚いたように声を発したアリュセウに、真夜は体を大きく震わせてソチラを見た。
「ど、どどっ、どシった……?」
「ニュース速報ですよー。ストロレイユの新しい被害者ですよー」
「何!?」
 体温が一気に下がる。頭の中の思考は全て消えてなくなり、真夜はテレビを睨み付けるように凝視した。
 画面の上部には白い帯が現れ、その上をテロップが流れている。そしてソコに映し出された文字は……。
「群、馬……?」
「戻ったですねー。とゆーよりお前の友人の目撃情報がそもそも曖昧ですよー。ストロレイユに意識を奪われて、まともに動けるはずないですよー」
 落胆とも取れる表情で言い、アリュセウは再び箸を動かし始めた。
 どういうことなんだ。東京に入って群馬に戻るだと? 今までのパターンと違う。
 いや、正確には戻る距離が大きすぎる。朝顔の記憶だと、これまでにも何度か逆戻りすることはあった。しかし県をまたぐようなことはなかった。だが今回は――
 アリュセウの言うとおり、朝顔の目撃した人物がストロレイユの被害者ではなかったのか、それとも他に何か……。
「明日ココに行くですよー」
 空になった茶碗を置き、アリュセウはアップに纏めていたブロンドを解きながら言った。
「へ?」
「ストロレイユを待ってるばかりじゃダメですよー。コッチから出迎えるですよー。攻撃は最大の防御なりですよー」
「な、何とかなりそうなのか!?」
「やってみないと分からないですよー」
 カーペットの上に置いていた銀の釣り竿を取り上げ、アリュセウは釣り糸をいじりながら言った。
「よ、よし! そんじゃ明日は速行で帰ってくるから! すぐ行くぞ!」
「何言ってるですかー。そんなモン休むですよー」
「へ……?」
 間の抜けた声が真夜の口から漏れ出し、
「被害者、お前の周りで出てもいいですかー?」
「お、おし! 行くぞ! いっそ始発で!」
 気合いを入れ直して目に力を込める。
「睡眠はしっかりとっておくですよー。明日は体力使うですよー」
「お、おぅ……」
 自分の食器を片付け始めたアリュセウに、真夜は訝しげな表情で返した。
モドル | ススム | モクジ





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