モドル | ススム | モクジ

● 記憶の施術者 ◆第四話『到来! 猟銃しょったカモの群れ!』◆ ●


刀w腐女子は氏ね。
  そう思っていた時期が俺にもありました』

 午前十時三十五分。現場到着。
 辺りは閑静な住宅街。平屋の家が目立ち、一軒当たりの敷地面積は広い。庭にはほぼ例外なく沢山の緑。排水溝の被せ蓋やマンホールが全て石造りなところがレトロな感じで、雑踏に満ち満ちた東京の景観とは対極に位置すると言ってもいい。
 のどかで時間の流れが遅く感じてしまう程にゆったりとした空間。
 学校をサボって散歩がてらブラブラするにはなかなか良いところだ。
 ――警察が立っていなければ。
「おいおぃ……ホントに大丈夫なんだろーな」
「心配しなくても大丈夫ですよー。お前はちょっとフケ顔だから、暇な大学生で十分通じるですよー」
「まずはテメーの格好見て物言おうな」
 塀の影に隠れ、アリュセウのこめかみをグリグリと押さえつけながら真夜は笑顔で言った。
「こ、コレはオレのこだわりですよー、アイデンティティーですよー、否定することは許さな……あぃーたたたたたたっ!」
「ったく……」
 アリュセウを解放し、真夜は白地に黒の線が交差したフードシャツのポケットに手を突っ込んで、彼の爪先から頭の天辺までを改めて見る。
 ロングブロンド、喪服、高下駄、そして銀の釣り竿。
 まぁ釣り竿は他の奴等には見えないらしいが、それでもオツリが万札でくるほどの怪しさだ。事件の次の日である緊迫した空気の中、少しでも怪しい行動を見られれば速行で補導されてもおかしくない。
 とにかくさっさと用事を済ませて、ストロレイユを見つけ出す。ソレで万事完結だ。
「じゃあまずはどいつからだ。やっぱ警察か?」
「警察は可能性として薄いですよー。この辺りに住んでる一般人を狙うべきですよー」
「人いねーじゃん」
「事件の次の日なんだから警戒して当然ですよー。根気強く待つしかないですよー」
「そんじゃ別に今日じゃなくても次の日曜とかで良かったんじゃねーのかよ」
「一瞬だけ見た奴のことなんかすぐに忘れるですよー。記憶がフレッシュな間に目星を付けるですよー」
 きょろきょろと通行人を捜しながらアリュセウは早口で言う。
 ……ホントにコレでストロレイユに繋がるんだろうな。
 昨日、アリュセウが提案してきた作戦はこうだ。
 まず現場におもむき、ストロレイユの目撃者を探す。だが目撃者の情報は一般に公開されていない。ならばどうするか。

『ストロレイユは外見の認識を狂わせてるですよー。だから人物像を特定しにくいですよー。今回はソレを逆手に取るですよー』

 ストロレイユは目撃者の認識を操作し、顔の一部を本来の造形とは違ったように見せている。
 そう、変えられるのはあくまでも“一部”なんだ。男になったりのっぺらぼうになったり、全体を大きく変えられるわけではない。ならば顔の全体的なパーツは同じで、部分的に違った女性を記憶している人間が複数いれば、彼らはストロレイユの目撃者である可能性が高いということになる。
 アリュセウの目には、その人が記憶している人間や動物の顔が写っているらしい。きっと自分の体には三百くらいの顔が張り付いているんだろう。想像しただけでおぞましいが、この能力で一人一人確認していき、ある程度目星を付けたところで実際に声を掛けて本当に目撃者であるかどうかを調べる、というのが作戦の入口だ。
 しかしコレを遂行するには、少なくとも三人以上の目撃者がいるということが大前提になってくる。ソレ以下では全く関係のない情報の中に埋もれてしまって見分けが付かない。いくら狭い範囲内とはいえ、似たような顔の組合せがあってもおかしくはないだろうから。

『ストロレイユはきっとわざと目撃者を出しているですよー。今まで二十回以上も動いてて全然学習してないなんてことまずありえないですよー。取り合えず見られたくないなら夜動けばいいですよー。でもこの事件の被害者は全員昼にやられてるですよー。お前が学校行ってる間に色々と調べたですよー』

 操作の攪乱が目的か、単に警察との追い掛けゴッコを楽しんでいるだけなのかは知らないが、確かにストロレイユは故意に目撃されているような節がある。だからアリュセウは三人以上は見付かると踏んだんだが……。
(ホントかよ……)
 あまり期待はできない。だから最悪、警察の真似事をして一人一人聞き込む覚悟はしている。変なふうに見られて騒がれそうになったら、アリュセウに言って自分の記憶を消して貰えばいいわけだし……。
 ……できるよな、多分。
 ただ気になっていることが一つ。
 この作戦成功のためには、目撃者の数の確保は勿論のこと、目撃者と思われる者が記憶している人間の顔をアリュセウが全て覚えておかなければならない。それも曖昧にではなく細かいところまで明確に。でなければ顔のパーツの一部が違っているかどうかなど判断できない。
 その点をツッコんだ時にアリュセウが口にした言葉。

『大丈夫ですよー。オレは一度見たこと聞いたことは二度と忘れないですよー』

 朝顔と同じ異常記憶力の持ち主。
 【記憶の施術者】としての特性なのではなく、アリュセウ独自の特殊能力らしいのだが……。
(ホントかよ……)
 コレも怪しい。
 つまり、ハナからスムーズにことが運ぶとは思っていない。だから昼くらいまで頑張ってみて、もしできないようであれば……。
「あっ、早速ソレっぽいの発見ですよー」
 マジかよ……。
 銀の釣り竿でアリュセウが指した方に真夜は目を向ける。
 いかにもモテなさそうなガラの悪い男二人連れが、コチラに歩いて来ていた。立っている警察が気に入らないのか、片っ端からガンをくれている。逮捕されないのが不思議なくらいだ。
「ほら、行くですよー」
 アリュセウが両手でコチラの背中を押し、塀の影から出るように仕向けてくる。
「お、おぃ! 俺一人かよ!」
「当たり前ですよー。オレは頭脳労働担当ですよー。荒っぽいことはお前がヤレですよー」
「荒っぽいって……! ちょ……!」
「とぉ!」
 アリュセウの掛け声と同時に背中を強く押され、真夜は通りの中央まで突き出された。そして立っていた警察とヤンキー風の男二人の視線が集中する。
(ち……)
 クソ。ココで変に騒げば警戒されるだけか。ソレはあまりお利口な行動ではないな。
 まぁ別にケンカを売るわけじゃないんだ。ただちょっと話を聞くだけなんだから、普通に声を掛ければ問題ないはず。
 真夜は二人が近付いてくるのを待ち、
「あの、スイマセン」
 軽く頭を下げながら声を掛けた。
「あぁ?」
「何じゃコラ」
 そして極めて攻撃的な声が返ってくる。
 く……コイツら、ムカツク顔してやがる。本能の命じるままボコりてぇ……。
 だが今は抑えろ。優先すべきことが他にある。ストロレイユの目撃者かどうか。ソレを確認しなければ。
 目を瞑って大きく深呼吸。そして心の中でゆっくりとワン・トゥー。
 ……よし。
「ちょっと聞きたいんですけど。昨日、この辺りでまた例の事件あったじゃないですか。ひょっとして犯人の顔見たりしませんでした?」
「何でお前にンにこと聞かれなきゃなんねーの? どっかの高校生探偵気取り?」
 お、抑えろ。抑えるんだ。
 確かに向こうの言い分にも一理ある。赤の他人にいきなり犯人がどうとか言われても、素直に話す気になどなれない。
「えっと……父親が警官でして。僕もできる範囲で手伝えたらなーと思いまして」
「見え見えのウソつくなや。ボケ」
 ワン・トゥー、ワン・トゥー……。
「う、ウソなんかじゃないですよ。僕も将来は警察になりたいと思ってまして……」
「だったらよ、テメーがオヤジに頼んで俺の駐禁キップ取り消してくれたら考えてやるよ」
「ほんなら俺の方もや。万引きくらいでギャーギャー抜かすなゆーとけ」
「い、いや……ソレは、ちょっと……」
 ワン・トゥー、ワン・トゥー、ワン・トゥー……。
「あー、なんかスッゲー時間の無駄ー。こりゃ何かオゴってもらわねーとなー」
「ちょー自分サイフ見せてみ?」
「あぁいや、ダメです。無理です。ほら、本職の警察もあそこにいますし」
「最初に声掛けてきたのテメーだろ?」
「別に全部とろーゆーてへんやん」
 言いながら関西弁の男が真夜の腕を掴み上げ、
「や、やめましょうよ。で、でないと……」
「でないと、なんやぁ? ええから早よせーやボケ」
 巻き舌でドスを利かせて言い、
「ソレ以上……される、と……」
「安モンの服着とるのー自分。あんま金持って――」
 関西弁が後ろに吹っ飛んだ。
「調子乗ってんじゃねーぞコラァ!」
 続けて連れの男の体がくの字に曲がる。
「どぐされニートが上から目線で物言ってんじゃねぇよボケが!」
「ボケはお前ですよー」
 突然イージーパンツを後ろから引っ張られ、真夜は転びそうになりながらも何とか踏ん張った。
「離せよ! 全然殴りたりねぇ!」
「先に声掛けて先に手を出したお前の方が、どー見ても悪いですよー」
「テメーが行けっつったんだろーが!」
「ココまで単細胞だとは思わなかったですよー」
「るせぇ!」
 怒声と共にアリュセウの手を振りきり、真夜は倒れている関西弁に駆け寄って――
 顔の横を銀色の光が通り抜けた。無意識にソチラに目が行く。
 アリュセウの放った釣り針は真っ直ぐに飛来し、厳しい表情で走ってくる警官の中に吸い込まれた。
 直後、橙色の筋が警官の体から出てきたかと思うと、直線的な軌道を取って自分の内側へと消える。しかし筋はまたすぐに自分の中から飛び出し、警官の方に戻っていった。が、そこでも留まらず、橙の光は二つに分かれて一方が関西弁の中に潜り込む。
(コレ、は……)
 真夜の脳裏に思い浮かぶ一つのフレーズ。
 ソレは以前、アリュセウが説明してくれた――
「ぉわた!」
 後ろで悲鳴のような声が上がる。
 反射的にソチラを見ると、警官からもう一人の男に向かって伸びていた光の筋が、アリュセウの喪服の袂袖を貫通していた。ソレを大袈裟に避けようとして、アリュセウは大きくバランスを崩し、
「い、今のうちに逃げるですよー!」
 真夜のフードシャツの裾を掴んで辛うじて持ちこたえた。
「お、お……?」
 真夜は一瞬何が起こったのか分からず、アリュセウと他の三人の顔を交互に見比べて立ちつくし、
「早くするですよー! どーせお前との繋がりはすぐに戻るですよー! 思い出される前にとんずらですよー!」
「おおおおおおおぉぉぉぉぉ!?」
 予想外の力で後ろ向きのまま引っ張られた。
「ま、まままま待て待て待てマテマテ! 転ぶころぶコロブ!」
「最初から大失敗で転びまくってるんだから気にする必要ないですよー」
「そーゆーこっちゃねええええぇぇぇぇぇぇぇ!」
 何だコレは! コイツの力は何だ! プラクティショナーってのは足が速い上に怪力の持ち主なのか!? こんな、こんな女みたいなヒョロいオカマ野郎に!
 納得いかねぇ! 理不尽だ! 意味不明だ! 他力本願だ! 治外法権だああぁぁぁ!
 胸中で絶叫を上げなから後退していく真夜を、警官はただ不思議そうに見ているだけ。追い掛けてくる気配はない。そんな違和感山盛りな光景が、真夜の視界の中であっと言う間に小さくなっていった。

「ココまで来れば大丈夫ですよー」
 駅前にある総合デパート。その一階にある待合いスペース。
 筒状の灰皿の近くにあるロングソファーに座り、アリュセウはガラスの仕切り越しに外を見ながら呟いた。さっきの場所と違い、人通りがかなり多い。ココならすぐに見付かることはないだろう。
「もう今頃アイツら、お前のことを思い出してるはずですよー。次に戻る時は十分注意するですよー」
 ソファーに座り直し、アリュセウは銀色の釣り竿で肩を叩きながら言う。
(ああ、そうか……)
 その言葉に、ようやく真夜の頭の中でさっきの状況が整理できてきた。
 あの時アリュセウは警官の中から自分に関する記憶を消したんだ。そしてその場に居合わせ、自分と警官に面識ができたと知っているあの二人組からも記憶が消えた。
 だがその状態は長くは続かない。ファミレスでダテ眼鏡の中から自分の記憶を消した時のように、どういうわけか一定時間が経つと記憶が蘇る。つまり自分とさっきの警官、そしてガラの悪い二人組の間には、まだ因縁が残っているわけだ。
「大体お前はケンカっ早すぎですよー。もっとちゃんと自制するですよー」
 僅かに汗を掻いた額を喪服の袖で拭い、アリュセウは頬を上気させて上目遣いにコチラを見て言ってくる。
(可愛い)
「……この手は何ですかー?」
 気が付くと、アリュセウの両肩に自分の手が添えられていた。
(――は!)
 慌てて手を戻し、真夜は顔を大きく振って本能を排除する。
(違う! そうじゃねぇ!)
「この変態王」
「だからテメーに聞きたいことがあったんだよ!」
 ポツリ、と漏らしたアリュセウの一言に、真夜は目を血走らせて言い返した。
「……何ですかー?」
 アリュセウは半眼になり、真夜から距離を取りながら訝しげに呟く。
「さっきのオレンジの線のことだよ。アレが例の“軌跡”ってヤツなのか?」
 が、その言葉に目を大きくし、呆れたようにぽかん、と口を開けた。
「お前、見えたですかー?」
「ああ、まぁよ。ぼんやりとだったがな。橙色のヤツがあの警官から俺んとこ来て、また戻って、そんで二人のとこ行くのがよ」
「やっぱりお前……変態王ですよー」
「だから違うわ!」
 呆れを通り越し、もはや気持ち悪いといった様子で言ったアリュセウに、真夜はまた彼の体を掴んで顔を近付ける。
 そして鼻腔を優しくくすぐる甘い香り。ソレは女性特有のフェロモンのような……。
「で! だ!」
 怒声に近い声を上げてアリュセウを突き放し、真夜は複雑に入り交じる心情に顔を赤くしながら――
(ええと何だ。何を言えばいい。何を続ければ自然になる。俺は動揺してない。こんなショタホモ野郎に変な欲求を抱くほど追いつめられていない、不自由していない。だから極めて冷静に、当然の流となるような言葉を――)
「あのオレンジの線はレーザービームか!」
 涙が出そうになった。
(死のう……)
 そしてのし掛かって来る果てしない虚無感。
「……軌跡には殺傷能力があるですよー」
 が、アリュセウは不自然に感じることもなく食いついてくる。
「オレらプラクティショナー達に取って、軌跡はレーザービームみたいなモンですよー。触れれば火傷じゃ済まないですよー。だから他のプラクティショナーの流れ弾を食らわないように、担当区域は十分離れてるですよー。そういう意味でもこんな島国に三人もいるのはおかしいんですよー」
 今度はアリュセウから真夜の方に近付き、まじまじと見つめながら説明した。
(あ、ああ、それで……)
 あの時、アリュセウは大慌てで軌跡を避けていたのか。喪服に穴が空いていないところを見ると、体以外の部分は関係ないようだが。
「お前、マジに何者ですかー? コレはもう特異体質の一言で片付けられないレベルに達してきてるですよー」
 アリュセウはソファーの上で膝立ちになり、更に顔を寄せてくる。そして漂う女性的な香り。華奢でしなやかな肢体。もしあの時コイツの体を見ていなければ、絶対に男などとは思わない。
(くそ……)
 油断すれば書き変わりそうになる、真夜の心の辞書に記された『ノーマル』の意味。
 ノーマルとは普通。普通とは正常。正常とは政治用。政治用とは性字用。
 性字――すなわち性に関する文字、熟語のことで、性字家とは辞書の中からソレらをピックアップする者の――
「あー! ま、まぁー! さっきと同じ要領でこなしていけばいいわけだなー! よーし、分かったぞー。もう次からは失敗しないからなー。ガンバロー。えいえいおー」
 抑揚のない喋りで独り言のように言うと、真夜はソファーから立ち上がって明々後日の方向に拳を突き出した。
 そして背後から感じる冷たい視線。周りから注がれる好奇と侮蔑の眼差し。
 そのまましばらく白々しい時間が流れ、
「ま、いいですよー。オレはソレを突き止めるためにお前のそばにいるんですからねー。ゆっくりやるですよー」
 アリュセウが諦めたように言いながら立ち上がる気配を感じた。
「さっきの二人の顔、しっかり覚えておくですよー。大事な候補であることに変わりはないですよー。お前が記憶していれば、また軌跡を使っていつでも追えるですよー」
「お、おぅー」
「じゃ、次を探しにいくですよー」
「任せろー」
 操り人形のようにカクカクカクーと手足を動かし、真夜はアリュセウと共にデパートを後にした。
(頼むぜ、俺……)

 午後四時三十分。精も根も尽き果てる。
(いや、精は無尽蔵だが……)
 人気のない自然公園。樹の切り株をそのまま利用して作られた椅子に腰掛け、真夜は大きく肩を落として息を吐いた。
「この狭い場所で似たような顔の奴ら、実は結構いるですよー」
 高さ三メートルほどの場所にある木の枝に腰掛け、アリュセウは足を落ち着きなく振りながら不満そうに言った。
 プラクティショナーの体力が無限なのか、あるいはあまり労力を割いていないからなのか、アリュセウの表情に疲れは見られない。
(くそ……)
 アレから十組近い候補者と話をした。
 仲良しガキンチョ三人組みから、自分と年の近いカップル、耳元で怒鳴らないと聞こえないような老人達とも会話した。
 だが誰一人として、その現場に居合わせたとは答えなかった。
 本当に知らないのか、それともコチラを警戒してわざと隠しているのか、あるいはただ単にボケているだけなのか。理由は分からないが、収穫がまるでないことは確かだ。
 せっかく学校をズル休みしてまで来たというのに……。まさか明日もこの調子でやるとか言わないだろうな。ソレだけは絶対にゴメンだ。もう少しいい方法を考えないと。
 例えば警察のデータバンクにハッキングして目撃者の情報を……無理か。こっちが捕まってしまう。なら他には……。
「あと五分休憩したら次に行くですよー」
 木の上からアリュセウの声が降ってくる。
 この野郎……。自分は当たりを付けるだけだからいい気なもんだ。コッチは初対面の人間に気を遣いながら、色々とツッコんだことを聞かなければならないのに。途中からは大分慣れてきたがソレでも疲れる。
 大体ホントにいるんだろーな、その目撃者ってのは。ソコから怪しくなってきたぞ。それに怪しいと言えばもう一つ。
「おぃ、テメーの記憶力。マジで信じていいんだろーな」
 足元に落ちていた小石を誰もいない砂場の方に投げ飛ばし、真夜は前を向いたまま言う。小石は砂場を囲っている木の枠にぶつかり、乾いた音を立ててまた真夜の近くに戻って来た。
 ……なんかムカツク。
「どういう意味ですかー?」
「ホントに一回見たら全部覚えてて、漏れねーで照らし合わせられてんだろーな」
「最初にそう言ったはずですよー」
「テメーが自分で言っただけだ」
 ぶっきらぼうに言う真夜の頭上で溜息を付くのが聞こえ、
「何でも聞いてみるといいですよー。お前がオレの記憶力を信じられることを。どんな細かいことでもいいですよー」
 すぐ横に降り立ったかと思うと、アリュセウは試すような視線を向けてくる。
「何でもいいんだな」
「いいですよー」
 格子状に編まれた縄の掛けられている巨大な石に腰掛け、アリュセウは自信に満ちた笑みを浮かべた。
(なら……)
 真夜は視線を斜め上に這わせ、アリュセウと出会ってからのことを頭の中に思い浮かべて、
「俺達が最初に会ったのはどこだ!」
「武浦ヶ丘バス停のロータリーですよー。お前に押し倒されたですよー」
「その次の日に俺が朝一で言った言葉は!」
「『キミの寝顔は百億の死に勝る』。キモすぎてホントに死ぬかと思ったですよー」
「じゃあその夜! 寝る直前にお前に聞いたことは!」
「ストロレイユの性感帯ですよー。知るワケないですよー」
「寝た後の俺の寝言は!」
「『ハーレム・酒池肉林・自宅キャバクラ・何でも言うこと聞く半裸のネーチャン、うへへへへへ……』。てゆーかお前、自分の寝言なんか覚えてるですかー?」
 ……覚えてない。
「簡単過ぎですよー。拍子抜けですよー。こんなので納得できるですかー?」
 言いながらアリュセウは大口を開けてあくびをし、怠そうに銀の釣り竿で肩を叩いた。
 くそぅ、馬鹿にしやがって……。何か、何かないのか。コイツをぎゃふんと言わせられるような、ハイパーでミラクルでエキゾチックな質問は。例えば、あの朝顔に細かいことを聞くとしたら……。
(そうだ……)
 突如として脳裏で閃く名案。降り立つ天啓。
 勢いよく立ち上がり、真夜は鼻息を荒くしてアリュセウの方を指さして、
「俺が昨日昼飯を食べ始めたのは何時何分何秒だ!」
「食ってないですよー。お前はせっかくオレが作ってやった弁当を他の奴にあげたですよー」
 面倒臭そうな声で即答された。
 く……引っかけ問題まで……。絶対に勝てると思ったのに……。
 ――って、オイ。
「何で知ってんだ。部屋にいたんじゃねーのか」
「あ……」
 真夜の言葉にアリュセウの顔から余裕が消えた。分かり易いくらいに狼狽の色を浮かべ、蒼色の双眸をわたわたと泳がせる。
「お、オレの目的はお前の特異体質の謎を暴くことですよー。日々の観察はかかせないですよー」
 この野郎……ようはストーカーか……。そういえば記憶を消した後に大量連鎖させるため、ターゲットの身辺調査は念入りにやるとか言ってたな。今も似たようなことを別の名目で続けてるってわけか……。
 どこまで調べ上げているのかは知らないが……コレが、アリュセウが女だったら……。
 奇抜な格好の美少女にストーキングされ、知らない世界へと足を踏み入れることになってしまった普通の男子高校生。やがて強大な敵が現れ、二人は力を合わせてソレを打ち砕き、そして芽生えるトゥルー・ラヴ。その夜は勿論ガバーッ! アーッ! ってな感じで!
 おいしい! おいしすぎるぞこのシチュエーション! どうしてコイツが男なんだ! こんな女みたいな声なのに! 女みたいな顔なのに! 女みたいな体つきなのに! 何で……! 下に……! 付いて……!
「……そんな血の涙まで流して地面に風穴あけて、お前が何を考えているかはバカバカしてくらい筒抜けに分かるですが……まぁしょうがないと思って諦めるですよー」
「ショタがないと思って諦められるかああああああぁぁぁぁぁぁ!」
 絶叫を上げながらアリュセウの両肩を強く掴み、真夜は長い前髪を振り乱して顔を近付ける。
「なんでお前なんだ! どーして俺なんだ! なぜ他のムチムチボインボインなプラクティショナーが来ない! どーゆー経緯で! いきさつで! 当てつけでお前は俺に目を付けたんだああああぁぁぁぁ!」
 そして八つ当たり気味に怒声を叩き付けた。
 そんな真夜の顔を片手で押し返し、アリュセウは視線を横に向けて息を吐き、
「……なんかお前はやたら気になったですよー」
 自分でもよく分からないといった複雑な表情で呟く。
「へ……?」
「目立つ、というか。何か惹かれるものがあった、というか……」
 小声でボソボソと……。
 ま、まさかコイツ……。女装とかしてるだけあって、身も心も……とか。
「今日にしてもそうですよー。オレも正直ここまで候補者が出てくるとは思わなかったですよー。あんな人のいなさそうな場所で。何かお前の周りには自然と人が集まるようにできてるみたいな気がするですよー」
 ソコまで言って視線を戻し、アリュセウはコチラをじっと見つめて続ける。
「きっとお前は無駄に交友関係を広める才能とかが備わってるですよー。お前に関する記憶を消してもまたすぐ元通りになる特異体質の原因は、そこにあるかもしれないですよー」
 深い色をたたえた二つの瞳には、真剣で真摯な光。
 人が集まる……? 人を惹き付ける……? ソレが、特異体質の……?
「例えば――」
 突然の言葉に困惑する真夜をよそに、アリュセウは左腕を真横に出して指を伸ばした。真夜は何も考えずにソチラを見る。
 背の低い木を何本も植えて作られた自然公園の丸い囲い。ソレが僅かに途切れた場所にある簡素な出入り口。ソコからガラの悪そうな男達がぞろぞろと入ってきていた。
 七色髪、口ピアス、スキンヘッド、眉なし、頬傷。
 個性豊かな面々が十人ほど。そしてその中には、朝方に出会った関西弁とその連れの姿。
「こーゆー楽しいイベントにも事欠かないですよー」
「へっ……」
 鼻を鳴らして小さく笑い、真夜はアリュセウを解放して彼らの方に体を向けた。
 どう見ても報復が目的だ。やられたらやり返すの精神は評価するが、多対一というのは感心しない。まぁ、この頭の悪そうな連中には、太陽が燃え尽きるまで待っても理解できそうにないが。
(さすがに多いな……)
 近付いてくる連中を睨み付け、真夜はアリュセウを庇うように前に出て仁王立ちになる。
 三人くらいまでならどうとでもなるんだが、この数はちょっとな……。ヘッドがいればまずソイツを潰して士気を落とすってのは常套手段なんだが……。
「どうするつもりですかー?」
 後ろから全く動じた様子もないアリュセウの声。
「あぁ――」
 彼に何か返し掛けた時、真夜の脳細胞が閃きを告げる。
 そうだ。何もまともにやることはない。コイツがいるじゃないか。
 アリュセウの釣り竿を使ってアイツら全員他人同士にすれば、連携どころかなぜケンカをしなければならないのかすら分からなくなる。その混乱に乗じれば逃げるのは簡単だ。
(冴えてる! 冴えてるぜ俺!)
 自分の考えに感銘さえ覚え、真夜は首だけ後ろに向けて、
「アリュ――」
 いなかった。
 ついさっき声がしたはずの場所には誰もいなかった。
「テメー!」
 体ごと後ろに向けて真夜は叫ぶ。自然公園の外側にある木の枝に腰掛け、アリュセウは満面の笑みを浮かべて手を振っていた。
(あンの野郎!)
 公園の囲い代わりになっている木は、背が低いとはいえ飛び越えられる高さではない。かといってスムーズに下から這い出せるほど木と木の間隔は開いていない。
 アリュセウがどうやって出たのかは知らないが、自分に同じ真似ができそうもないことだけは確かだ。
(くそ……!)
 こうなったら腹をくくって――
「よぉ、随分カッコいいことしてくれたそうじゃねーか」
 眉なしの顔が目の前にあった。アリュセウに気を取られている隙に、距離を詰められている。
「テメー。何か犯人、探してるんだって?」
 剣呑なモノを乗せた声。漲る殺気。
 いつ殴りかかってきてもおかしくない雰囲気だ。
「警察の息子、ねぇ。おもしれーじゃねーか」
 眉なしの口の端が不敵に持ち上げられた。そして下からねめ上げるように鋭い眼光を飛ばし、ポケットに突っ込んでいた両手を出して――
(来る……!)
「ぜひ協力させてくれ」
「ケッ……! ……ぇ?」
 コチラの手を握り締めながら眉なしは頭を下げた。それに合わせて周りにいた他の奴等も深々と礼をする。
「コイツらから話は聞いた。最初はデタラメこいてんじゃねーかって思ったんだが……マジみてーだな。かなり頑張ってんじゃねーか。その様子だと収穫はないみてーだけどよ」
 真夜から手を離し、眉なしは一歩下がって続けた。
「実はな、今回の被害者ってのがウチんトコの奴でね。それなりに遊び仲間の多い奴だったから、多分周りに誰かはいたと思うんだ。今、俺らの中でも情報を集めてる。そのせいで最近ちょっとピリピリしててね。アンタに世話んなった二人もそんな感じだ。悪かったな」
 関西弁と彼の連れを横目に見ながら、眉なしは薄ら笑いを浮かべる。
「ホントは警察に言いに行きたいんだが、コッチも色々と訳ありでね。探られると痛い腹もある」
 過去に警察と何かあったのか、現在進行形でそうなのかは知らないが……まぁ叩けば叩いただけ埃は出てきそうだ。 
「そこでアンタの出番って訳だ。俺らはアンタにできるだけ情報を集める。アンタは自分のオヤジ使って警察に動いてもらう。目的はお互いに犯人を捕まえること。分かり易い取り引きだと思うんだが」
 どうやら見た目ほど頭が悪いわけではないらしい。
 もっとも、即席のウソを信じ込んでいるあたり、別に良いというわけでもなさそうだが。
「どうだ? 手ぇ組むか? ま、アンタに断る理由なんかないと思うんだが」
 言いながら眉なしは片手をコチラに差し出してくる。
 コレを握り返せば交渉成立、ということなんだろう。
 確かに、この申し出は自分にとって願ったりだ。先の見えなかった目撃者探しが終了するだけではなく、“複数の目撃者同士に面識を持たせる”という次のステップまで、上手くすれば一気に解決できる。
 できるだけ沢山の連鎖を引き起こし、確実にストロレイユを特定するために。
 だから眉なしの言う通り、断る理由などはない。
 しかし――
「ちょっと考えさせ……」
「オッケーですよー! ガンガン情報をよこすですよー! そうすればみんなハッピーですよー! これからはどうぞヨロシクですよー!」
 横から出てきた小さな手が、自分と眉なしの腕を掴んで引き合わせた。
「へ……?」
「よぉし、じゃあコレでアンタは俺達の仲間だ。ま、頼りにしてるぜぇ。警視総監の息子さんよ」
 呆気にとられている真夜を無視して、眉なしは茶化した口調で言いながら手を離す。
「そんじゃ携帯のナンバー教えてくれ。何か分かったらすぐに知らせる」
「コレですよー。この番号ですよー」
 イージーパンツの尻ポケットに手を突っ込んで自分の携帯を取り出したかと思うと、アリュセウは慣れた手つきで操作し、ディスプレイを眉なしに突き付けた。ソレを見ながら眉なしは自分の携帯にナンバーを登録する。
 ちょ……。
「じゃあな。今日の夜か……遅くても明日中には何か連絡できると思う」
「バイバーイですよー」
 去っていくガラの悪い団体さんに、元気よく手を振るアリュセウ。そんな彼を唖然と見つめたまま、真夜は返された携帯を元の尻ポケットに戻し――
「ってオイコラァ! なんてことしやがる!」
「どうして断る必要があるですかー」
 まるでそうされることを予想していたかのように、アリュセウは胸ぐらを掴み上げられながらも冷静に返した。
「コレでオレ達は何もしなくても貴重な情報が得られるですよー。ストロレイユを捕まえられるですよー。核兵器級のネーチャンがお前の物ですよー。嬉しくないですかー?」
「くっ……」
 言われて真夜は顔をしかめ、アリュセウを解放して視線を逸らした。
 嬉しくないわけがない。核兵器級というのはまぁいいとして、ストロレイユを捕まえれば大きな危機が去る。自分の周りで被害者が出るという最悪の事態を避けられる。
 それに核兵器級というのはまぁいいとして、アリュセウだって彼女の集めている大量のポイントを得られるし、そうなれば取り合えず満足して自分に付きまとうのを止めてくれるかもしない。
 だから核兵器級というのはまぁいいとして、あの顔面ファンタスティックな連中からストロレイユの目撃者情報を仕入れられるのは、まさに渡りに巨大空母。
 ただ――
(あの目だ……)
 アイツらの目つき。
 表裏を器用に使い分け、その奥に潜んでいる狂気を上手く隠し込んでいるような目の輝き。相手を傷付けることに何のためらいも呵責も感じなさそうな……。人を人とは思わず、自分達の中だけで世界を構築しきり、逆恨みを果たすことで歪んだ仲間意識を強くして行く。
 同じなんだ。
 自分が五歳の時までいた児童養護施設。そこの職員が向けてきた目と全く同じ目をしている。
 プライバシーも何もなく。自分が部屋にいてもいなくても好き勝手に荒らされ。少し反抗すれば食事を抜かれ、睡眠を奪われ。教育と称して、男女関係なく暴行される。
 まるで実験動物のように扱われる日々の中、学び取る物といえば相手の顔色を窺うことと、どんな理不尽にも耐えられる我慢強さだけ。
 そこはまさしく職員達が敷いた絶対王政の場であり、自分達は人権を奪われて服従を強いられた家畜だった。
 人間が動物を殺しても大きく罰せられないのと同じように、職員が児童にアザを作ろうが骨を折ろうが誰も何も言わない。ただ薄笑いを浮かべて、児童同士の喧嘩が原因だという報告を上げ、今までと全く変わらない生活を送っている。
 さっきの奴等も彼らと同じような雰囲気を感じた。自分達は何をしても許されると思っている。どんな非社会的なことをしても大丈夫なんだと根拠もなく思い込んでいる。
 ソレが常識だから。周りがみんなそうだから。
 だから何の疑問も持たずに、自分のことだけを考えて好き勝手できるんだ。
 そんな人間性を持っているかもしれない奴等と手を組むなど……。
「お前に昔何があったかは知らないですが、あまり難しく考えない方がいいですよー。利用できるものは利用する。利害が合わなくなったら離れる。そうやって割り切った方が楽ですよー」
 いつの間にか自分の目の前に回りこんでいたアリュセウが、銀の釣り竿の先をクルクルと回しながら言う。
「プラクティショナーのオレが言うのも何ですが、人は人に依存しすぎですよー。不要な繋がりを増やして、ソレを無駄に保とうとするですよー。だから余計なことで悩むですよー。例えば今の奴等との繋がりなんて、コレが終わったらもうどうでもいいですよー。消しても問題ないですよー。そう思わないですかー?」
 ……思う。
 借りができたとか貸しができたとか言って、そのままズルズルと付き合い続けたくはない。今回限りでキッパリ手を切りたい。
「いらない記憶、いらない繋がりは沢山あるですよー。ただ惰性で交友関係を広いままにしている奴は大勢いるですよー。特にお前はそういうのが多そうですよー。将来きっと困るですよー。だから今のうちにオレが綺麗サッパリ清算してやるですよー。素直に消されるといいですよー」
 言いながらアリュセウは、まるで催眠術でも掛けるかのようにクルクル、クルクルと……。
 確かに、アリュセウの言うことにも一理ある。今回、実際に我が身に降りかかってきたから分かり易い。ただ――
「じゃあお前は自分の記憶を消したことはあるのか?」
 真夜の言葉に、アリュセウは一瞬訝しげに眉を顰め、
「あるわけないですよー。自分で自分の記憶を施術することはできないですよー」
「なら他の奴に頼めばいい」
「そう簡単に会えないですよー。会ったとしてもプラクティショナー同士で協力し合うなんてこと、まず考えられないですよー。オレ達はクールな関係ですよー」
「つまりお前は抜群の記憶力で、四、五年前からのことをずっと覚えているワケだ」
「……何が言いたいですかー?」
 さっぱり理解できないといった様子で、アリュセウはロングブロンドを片手で梳きながら返した。
「お前と同じでな、一回見たり聞いたりした物は忘れないって女がいるんだよ」
「知ってるですよー。五月雨朝顔ですよー。お前とは腐れ縁ですよー」
「けどアイツはちゃんと受け入れてる。辛いって言うことはあっても、もう嫌だって自棄になることはない。つまりソレなりに前向きにはやっていけるワケだ」
「そんなの分からないですよー。ソイツが自分の記憶を消せるって知ったら、消して欲しい記憶はきっと山のように出てくるはずですよー」
「でもお前は消さないんだろ?」
「だからさっきも言ったように――」
「ようはそのくらいなワケだ。一つ残さず覚えてたとしても、必死になって消したいような記憶はないってことだ」
 言われてアリュセウは言葉を詰まらせ、不機嫌そうに口を尖らせる。
「なら古いのはドンドン忘れていく俺の中には、なおさらいらない記憶なんかないってことになるな」
 うー、と小さく呻き声を漏らし、アリュセウは恨めしそうに真夜を見上げて、
「……いらない記憶は沢山あるですよー。オレは今までずっとソレを消してきたですよー。きっとソレで救われた奴もいるはずですよー」
「かもな。けどみんながみんなそうじゃないってことだ。だからいらない記憶が沢山あるなんて、最初から決めつけて掛かるのは良くないってことだ」
 そうだ。やはり決めつけはよくない。
 アイツらだって一見悪そうに見えて、根は良い奴らかも知れないんだ。
 児童養護施設で五年間過ごし、完全に人間不信に陥っていた自分をあの老夫婦が救ってくれた。朝顔の伯父の両親が自分を変えてくれた。
 引き取られた直後は、大人は全員悪い奴等ばかりだと思い込んでいた。せっかく育てる決心をしてくれた二人からも距離を取り、会話することなど殆どなかった。とにかく失敗して相手の機嫌を損ねることだけは避けようと必死になっていた。自分の身の回りのことはできるだけ自分でやった。
 アレは小学校に入ってすぐの夏休み。汚れた自分の服を洗濯しようとした時。
 同じ洗濯カゴに二人の分の衣類も入っていたので、一緒に洗濯機の中に入れてスイッチを押した。回り始めてすぐにカラカラという異音が聞こえた。何か詰まったのかと思ってすぐに止め、中の物を出そうと手を入れた時、指先に痛みが走った。
 洗濯液から手を出すと指から血が出ていた。
 嫌な予感がした。
 ソレから無我夢中で洗濯物を取り出した。半分くらい出し終えて、ようやく異音の正体が分かった。
 老眼鏡だった。
 義父のシャツのポケットに入ったままになっていたんだろう。ソレを知らずに洗濯機の中に入れて、そして壊してしまった。
 フレームは大きく歪み、レンズは割れ散って使い物にならなかった。
 ――怒られる。殴られる。蹴られる。
 ――閉め出される。帰れなくなる。飢え死にする。
 沢山の絶望的な思いが全身を駆け抜けた。 
 隠さなければと思った。でもどうやって? もう眼鏡は戻らない。ましてや新しい眼鏡を買うお金などない。どこに売っているのかすら分からない。
 とにかく片付けなければ。今このままにしておけばすぐにバレる。ソレはダメだ。
 隠して、言い逃れして、何とか誤魔化さなければ。
 しかし、願いは届かなかった。
 義母が買い物から帰ってくるとすぐに見付かった。見付かって大声を上げられた。
 もうダメだと思った。ゲンコツが飛んでくるのを覚悟して顔を庇った。しかし凄い力で腕を掴み上げられ、

『どうしたのこの手! この血! 痛くない!? 大丈夫!? 大丈夫じゃないわよね! ちょ、ちょっと待っててね! すぐにお薬持ってくるから!』

 最初、何を言われたのかよく分からなかった。
 義母がバタバタと大慌てで洗濯機の部屋から出て行って、またすぐに戻って来て手に何かを塗ってくれた。その時の痺れるような痛みで、ようやく自分の手の惨状に気が付いた。
 血だらけになっていた。
 洗濯物を取り出していた時、割れた老眼鏡のレンズで切ってしまったんだろう。あの時は自分の傷になど構っていられる余裕はなかった。だから全く痛みなど感じなかった。

『どうしたの!? 何してたの!? こういうのは危ないから勝手に触ったらダメって言ったでしょ!?』

 手当を受けながら物凄い剣幕で怒られた。きっとこの後また酷い目にあわされると思った。そう思うと恐くて、寒くて、悲しくて……。
 泣いたらもっと酷いことをされるって分かっていたけど、どうしても涙を止めることができなかった。自分の意思とは関係なく溢れてくる生温かいモノが、邪魔で、鬱陶しくて、憎たらしくて……。そう思うとまた余計に涙が出てきた。

『あ、い、痛い? ごめんなさいね。こういうの慣れてなくて。お、お医者さん行きましょう。良く知ってる先生いるから。さ、早く早く』

 義母に引かれるままに医者に連れて行かれて、ちゃんとした手当を受けて、痛み止めの苦い薬を飲まされて。
 家に帰る時、このまま置き去りにされるのではないかという考えが離れなくて、義母の手をずっと握っていた。傷が痛んでしょうがなかったけど、それよりも見捨てられたくないという思いの方が上回った。
 そのまま無事に家に戻って来ても恐怖心は消えず、次の日になっても落ち込んだままだった。
 そして三日目。朝のラジオ体操に行こうとした時。自分より先に起きて朝食をすませていた義父が新聞を読んでいた。
 彼の目には新しい老眼鏡が掛けられていた。

『おはよう。もう大分よくなった?』

 そして人なつっこい笑顔で話し掛けてくれた。
 その時だ。これまでずっと心の奥底で鬱屈としていたモノが、途端に消えていくように感じたのは。体が軽くなった気さえしたのは。 
 怒られなった。殴られることも蹴られることも。放り出されることも、ひもじい思いをすることもなかった。
 普段と変わらないまま、いや普段以上に優しく。
 この時になってようやく理解できた。義母が怒っていた理由が。怒られたのに乱暴されなかった理由が。
 生まれて初めての感覚だった。こんなに気持ちが温かくなるのは初めてだった。
 価値観が百八十度変わった。大人に対する見方や接し方が一変した。
 それからは顔色を窺うことも機嫌を取ることもなくなった。生活が急に楽しくなり、家でも学校でも明るく振る舞えるようになった。二人が自分を丁寧に育ててくれたおかげで沢山の人と知り合い、沢山の思い出を作ることができた。自分の中ですでに決まり切っていた固定観念を覆してくれた。
 どんな悪い記憶でも、何かのキッカケでソレを塗り替ることはできるんだ。
 だから何でも最初から決めてかかるのは良くない。記憶にしろ、人柄にしろ。
「……オレは、【記憶の施術者】ですよー。自分の存在意義を否定することはできないですよー」
 真夜から目を逸らし、アリュセウは不満げな表情で独り言のように小さく言う。
「別に否定してるワケじゃないさ。ただもうちょっと柔軟な考え方を持ってもいいんじゃないかって言ってるだけだ」
 言いながら真夜は自然な動きで手を伸ばし、自分の胸くらいの高さにあるアリュセウの頭を軽く撫でた。ソレにアリュセウはまた唇を尖らせ、「うー……」と不機嫌そうに呻き声を漏らす。
(可愛い)
「……とにかく今はストロレイユを捕まえることを考えるですよー。お前の記憶はその後でいいですよー。今日はもう帰るですよー」
 真夜に両肩を抱き寄せられた体勢のまま、アリュセウは半眼になって釣り竿の先を突きつけてくる。
(い、いかん……)
 何か前よりも発作が起こりやすくなっている気がする。このままではあと一週間もすれば……。
(ダメだ! ダメだダメだダメだ! 俺はノーマルだ! 一般人だ! 普通の高校生だ! 極めて正常で異常な性欲の持ち主なんだ! ソレをこんな所で棒を振り回すワケにはいかん!)
 見つけなければ。一刻も早くストロレイユを。そしてそのふくよかな胸の谷間に顔を埋めて――
「……何するつもりですかー」
「うェおらワああァぁ!?」
 気が付けばアリュセウの胸元に顔を寄せていた真夜は意味を成さない大声を上げ、彼の体を突き飛ばすようにして離れる。
「心配しなくてもきっとすぐに会えるですよー。アイツらからの連絡を待つのがお利口ですよー」
 ロングブロンドを翻して真夜に背を向け、アリュセウは釣り竿を肩で支えて歩き始めた。真夜は彼の後ろ姿を見つめたまましばらく硬直していたが、やがて何かに誘われるにようにしてフラフラと歩き始める。
 ……まさかとは思うが、今夜当たりアイツが女体化とかして夢に出てこないだろうな。

 群馬から電車に乗って埼玉との県境まで戻り、新幹線に乗り換えるための待ち時間。
 駅の売店でアリュセウが欲しがった缶のお汁粉を二本買ってやり、真夜はホームの待合室で時間を潰していた。
「そーいや、さ。お前らっていつもドコにいんだ?」
 強化ガラス壁で狭く仕切られた、他に誰もいない部屋の隅。向かいのホームに車輌が勢いよく入ってくるのをぼーっと見ながら、真夜は隣に座っているアリュセウに聞く。
「どういう意味ですかー?」
「プラクティショナーってのはさ、やっぱこう……ゲームみたいにそいつらだけが住んでる世界みたいなのがあって、そこと地球は異空間トンネルみたいなので繋がってんのか?」
「お前がそう思いたいんなら別にソレでもいいですよー」
「……あのな」
 疲れた声で呟いて、真夜は横目にアリュセウを見る。缶が熱いのか手を喪服の袂袖の中に入れ、黒い布を間に挟んで持っていた。ソレがまた妙にそそ……。
(男! コイツは男! 付いてる男!)
「お前らと一緒に住んでるですよー。極々普通に生活してるですよー」
 お汁粉をチビチビと飲みながら、アリュセウはパタパタと足を動かして言う。
「あ、あー、つまりなんだ。宇宙人みたいなもんだ。人知れず社会に溶け込んで、夜な夜な怪しげな実験を繰り返してるワケだな」
「夜やるかどうかは個人の自由ですよー。ストロレイユみたいに昼にやるのを好む奴もいるですよー」
「……ストロレイユもお前みたいにどっかで居候してんのか?」
「まぁアイツは【意識の施術者】ですからー。知らない奴の認識を改変して、そこの家族として寝床を確保してるかもしれないですよー」
「ふー、ん……」
 家族として、ね……。多分、アリュセウも記憶をいじったりして同じようなことはできるんだろうな。昨日会ったばかりなのに、十年来の付き合いにしてしまう、とか……。
 冷静に考えたらホント恐ろしい能力だよな。コレまで積み上げてきたモノを一瞬で崩すこともできれば、その逆も可能なんだ。繋がりを太くすることも、なくしてしまうことも……。
 けど、さ……。人と人との関係ってそんなモノじゃないだろ? 記憶とか思い出とかって、そんな軽いモノじゃないだろ? やっぱ、納得いかねぇわな……。
「でもそんなことでポイントを使うより、自分の体の維持に当てた方がよっぽど建設的ですよー」
「つまり胸とか尻とか太もも、か……」
「……お前の頭の中はそーゆーので一杯過ぎですよー」
 うん、コレは納得しやすいよな。
 ポイントはプラクティショナーの肉体維持に使われる。それから新しい人間の生命を誕生させるためにも使われる、らしい。ということは自分が生まれてくる時もやはり、そのポイントとやらが使われたわけで……。
「ポイントってよ。赤ちゃん産む時に使う量とかって決まってんのか?」
「決まってないですよー。担当者の自由ですよー」
「お前はどのくらい使うんだ?」
「必要最低限ですよー。残りは全部オレのモンですよー、出世コースまっしぐらですよー」
 ……だろうな。
 二本目のお汁粉を開けるアリュセウを見ながら、真夜は長い前髪を揺らして嘆息する。
「例えば、よ。過剰のポイントを使ったら、その赤ちゃんは他と違ってくるってことはあんのか?」
「知らないですよー」
「例えば、例えばよ。髪の毛が緑色になったり、異常記憶力の持ち主になったり、そーゆーことは起こりうるのか?」
「五月雨朝顔のことですかー? その時はまだオレがココの担当じゃなかったから分からないですよー」
「そっか……」
 アリュセウから目線を外し、真夜は椅子に座り直して顔を僅かに俯けた。待合室の冷房が効きすぎているせいかやけに寒い。こんなことなら自分も何か温かい飲み物を買っておくんだった。
「彼女のことが心配なんですかー? ひょっとして好きなんですかー?」
「いや……」
 そうじゃない。心配なのは自分のことだ。とっさに朝顔のことが口から出てしまったが、本当に聞きたかったのは自分のことなんだ。
 また誤魔化している。本当のことを知るのが恐くて肝心なところを曖昧にしてしまっている。記憶や思い出はどれも大切な物だなんて言っておきながら、自分でないがしろにしてるではないか。コレでは言葉に説得力がない。お笑いだ。
 ――『『個』を望む者』、『施術者殺し』、『大規模な記憶の錯乱』。
(ラミカフ……)
 あの軍服に身を包んだ長身痩躯の男。
 アイツは間違いなく知っている。自分の過去を。出生を。

『オレが知っているのは、わりと最近あったことくらいですよー。その討伐が』

 あの時からずっと考えていたんだ。

『死んで当然ですよー』

 もしかして自分は、その時に――
「ど、どうした……?」
 突然立ち上がったアリュセウに、真夜は切れ長の目を大きくしてソチラを見る。
「悲鳴、ですよー」
 いつになく緊張した表情で低く言い、アリュセウは持っていた缶を椅子に置いて――
「コッチですよー!」
 待合室の出入り口を乱暴にスライドさせて飛び出した。
「ぇ、お……おぃ!」
 真夜は一瞬呆気にとられながらも、すぐに彼の後を追おうと走り出して、
(え……)
 視界の隅に映った人影の方に、顔が無意識に向けられる。
「あ……」
 線路を四つ隔てた向かいのホーム。丁度真っ正面に当たる位置。
 軽くウェイブの掛かった長目の黒髪。金のカラーコンタクト。フレームのない眼鏡。腕と足に薄茶色のラインが入った、ボタンのない琥珀色の詰め襟。白い手袋。
 華奢な体つきをした色の白い男は、冷たい笑みを浮かべて――
(ラミカフ……!)
 凍えるような悪寒と、体を突き上げるような激情が同時に駆け抜けた。
 見つけた。下らないことを吹き込んでくれたあのクソ野郎を見つけた。
 逃がさない。もう逃がさない。絶対に捕まえて――
(捕まえて……!)
 捕まえて……捕まえ、て……。
 ――どうするんだ?
 聞くのか? 自分について知っていることを。
 聞けるのか? 所詮は自分が一番可愛い臆病者に。
「クソ……!」
 難しいことを考えるのはやめだ! もう成り行き任せの出たとこ勝負!
 まずはアイツの顔面を一発ブン殴る!
 自分にそう言い聞かせ、真夜は待合室から出て、
「な……!?」
 眼前を暖色の発光体が通り過ぎた。反射的に体を仰け反らせて何とかやり過ごす。が、体勢を大きく崩し、その場にうずくまった。
 何だ! 今のは! 一体どこから……! いや……!
(考えるまでもねぇ……!)
 次が来ないうちに真夜は部屋から飛び出し、ホームの向こう側を睨み付ける。
 コチラに右手をかざし、ラミカフは不敵な笑みを浮かべていた。その口が更に深く曲げられたかと思うと、彼の手の中から幾筋もの発光線が放たれる。
(コレは……!)
 顔をラミカフの方に固定したまま、真夜は光を避け続けながらホームを真っ直ぐに走り抜ける。
(軌跡……!?)
 今朝、アリュセウが釣り竿を使った時にも同じ物が見えた。
 だとすればあの白い手袋がラミカフのオペレーション・ギアってヤツか……!
 ならばアイツの目的は自分の中の記憶を消すこと!? しかし最初に会った時、アイツは自分に『思い出せ』って!
 訳が分からない。訳が分からない、が……!
(絶対しばく!)
 ホームの階段を駆け下り、真夜は憤怒の形相で線路下の通路を渡りきる。そして反対側の階段を三段飛ばしで駆け上がり、向かいのホームに出て――
「クソ……!」
 いない。どこだ。どこに行った!
 あんな目立つ格好をした軍ヲタのドタマパー子さんを、そうそう見失うはずは……!
「な……!」
 いた! いやがった!
 また向こう側のホームに!
 別の渡り通路を使いやがったか! だが通路は下で全て繋がっている! 自分に見られることなくあんなに早く移動できるわけが……!
(まさか……)
 おかしい。ラミカフを見る周りの視線が明らかにおかしい。
 軍服の男を見たからといって、あんな人外の物を目の当たりにしたかのような反応はしないはず。そして軌跡は普通の人には見えない。
 ならまさか――このホームを飛び越えたのか?
 軽く二十メートルはありそうなこの幅を?
 コレがプラクティショナーの身体能力? さっきアリュセウが自然公園の囲いを飛び越えたように?
 ラミカフは小馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、ポケットに入れていた手を出す。そして人差し指で眼鏡の位置を直し、慇懃に頭を下げた。
 その無意味に丁寧な仕草が余計に真夜の神経を逆撫でする。
(しばく! しばき倒す!)
 そして感情にまかせてまた渡り通路に下りようとした時、通過の新幹線が轟音と強風を巻き散らしてホームに入ってきた。二十両近くあった車輌はものの数秒で抜け去り、再び静寂が訪れた後には――
「逃が――すか!」
 完全に姿を消したラミカフを追い、真夜は転げ落ちるようにして階段を下りていった。
モドル | ススム | モクジ





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