モドル | ススム | モクジ

● 記憶の施術者 ◆第六話『決断! 目を逸らすのはもうやめだ!』◆ ●


刀w過去は美化される。不要な物は削ぎ落とされていく。
  ゆるんだ地盤は現在を脅かす。恐怖に駆られた未来は逃げていく』

「じゃあ始めるですよー」
 目撃者全員から話を聞き終え、アリュセウは担いだ釣り竿の先を軽く振りながら言った。
 もうその表情に曇りはない。蒼い瞳は深くも前向きな輝きを灯し、桜色の唇は軽く笑みの形に曲げられている。
 幼くあどけない表面の裏側に隠し持った、イラズラ好きな小悪魔の顔。
 いつものアリュセウだ。出会った時と同じ、普段通りのアリュセウだ。
(大丈夫、か……)
 木を横に倒しただけの簡易ベンチに腰掛け、真夜は長い前髪をいじりながら呻くように息を吐いた。
 昨日、帰りの新幹線の中からすでに様子がおかしかったが、その時はまだラミカフが原因だとは思わなかった。かつて二人の間でどんなトラブルがあったのかは知らないが、ラミカフをしばくことに関しては自分一人で何とかしなければならないようだ。
 アリュセウの軌跡が使えないとなると、向こうからコチラを狙ってきてくれるのを待つという極めて消極的な戦法を取るしかなさそうなのだが……。
「じっとしてるですよー。動くと大変なことになるですよー」
 訳も分からず横一列に整列させられた九人の目撃者達に向かって、アリュセウは明るい声で言った。リーダー格である眉なしの命令に従い大人しくしているが、心の中の不満が面白いくらいに伝わってくる。
 ま、普段やりたい放題暴れ回っているだろうコイツらが、こんな風に抑圧されれば無理もないだろうが……。
 結局、ラミカフとおぼしき人物を見たと言ったのは二人だけだった。後の証言は全員女だ。残念ながら内容は殆どバラバラだったが。
 ただ、一人だけ妙に気になることを言った奴がいた。
 今、列の一番左端にいるスキンヘッドだ。
 左目下の泣きぼくろ、茶髪のショートシャギー、黒紫色の分厚い唇。黒のノースリーブシャツ、深いスリットの入った同色のタイトカート、赤いハイヒール。
 そしてやたらとデカかったという胸。
(似てる……)
 というかソックリだ。昨日の帰り、コンコースで出会った運命のお姉様と。外見的な特徴を聞く限り、同一人物だと言ってもいいくらいに。
 まさかとは思うが……。
 それによくよく思い出してみるとサイズがピッタリなんだ。アリュセウに教えられたストロレイユのバストサイズと、自分で目視確認したお姉様のバストサイズが。
 102。
 果たしてこの数値にどれだけの信頼性があるのかは分からないが、少なくとも自分の方は間違いないと思う。自信がある。果てしなく黒いに近い赤の自信が燃え盛っている。だからあるいは……。
「せーぃりゃっ!」
 子供っぽい掛け声と共にアリュセウが釣り竿を振った。真っ直ぐに伸びた銀の釣り糸は、列の真ん中にいるマフィア・グラサンの胸に吸い込まれるようにして消える。
 とは言え、彼らには何も見えていない。一応眉なしには、犯人をできるだけ早く見つけるための願掛けのような物だとは言ってあるんだが……。
 ソレで取り合えず納得するあたり、彼らが犯人探しに掛ける思いも相当強いということ――
(出た!)
 アリュセウが釣り竿を引き、何かを釣り上げるような動作を取ったかと思った直後、マフィア・グラサンの中から橙の発光線が飛び出した。ソレは直線軌道を描き、自分のすぐ隣を抜けていく。
 アリュセウの方を見る。
 彼もコチラを見つめ、ロングブロンドを僅かに揺らして頷いた。
 もう少し待て。そういうアイコンタクトだ。
 今、軌跡は一人の女性に向かって飛んでいる。以前にアリュセウから受けた説明では、軌跡は彼女のところで一回跳ね返り――
(来た!)
 そして一旦マフィア・グラサンの元に戻って――
「な……」
 弾けた。
 まるで打ち上げ花火が頂点で火の粉を散らすように。マフィア・グラサンの元で橙の軌跡は幾本にも別れ、周りにいた他の目撃者の体に入り込む。そして半呼吸のうちにまた彼らの中から飛び出し、ソレら全てが自分の真横を通って彼方へと筋を伸ばした。
 中空に浮かび上がるようにして刻まれた光のアート。 
「もう間違いないですよー! アイツらに聞いたとおりの女の記憶が消えたですよー!」
 ソレを残し、アリュセウは喪服を翻して逆方向に走り始める。
「おい! コッチじゃねーのか!」
「車使うに決まってるですよー! 日が暮れて逃げられるですよー!」
「タクシーかよ!」
「来月は水だけで過ごせば何とかなるですよー!」
「他人事だと思いやがって!」
 鼻に大きく皺を寄せて叫びながら、真夜はアリュセウの後を追った。もう彼の姿はかなり小さくなり、自然公園を飛び出して車道にまで出ている。相変わらずのスピードだ。
 今、アリュセウはマフィア・グラサンの中からストロレイユに関する記憶を消した。ソレによって軌跡はストロレイユへと伸び、また戻ってくることでストロレイユの中からもマフィア・グラサンの記憶が消えた。そして“マフィア・グラサンがストロレイユを知っている”という事実を認知している他の目撃者の中からも、同じようにしてストロレイユに関する記憶が消えた。
 そのことを表したのが最後に伸びた大量の軌跡だ。
 残った八人分の軌跡が同一方向に走っていった。もし彼らの中にストロレイユ以外の犯人を目撃した者がいたとなれば、その人物からは軌跡は発生しない。しかし今回、そんな例外はなかった。さらにアリュセウは、さっきヒアリングした時に目星を付けた女性が“彼らの中から消えた”と言っていた。つまり、全くの別人に思えた犯人像が一人の人物に集約されたということだ。
 間違いない。
 ここまで完璧に条件が揃っていれば、この軌跡が示す先にストロレイユがいる。警察が躍起になって探していた凶悪な犯人を捕らえられる。
 一ヶ月水だけ? 上等じゃないか。
 やってやる。そんなヌルい減量いくらでもやってやるさ。
 ストロレイユをしばくことができれば。自分の周りでもう被害者が出ないことを確信できれば。
「オイ乗れ!」
 必死になってアリュセウの後を追い掛ける真夜の隣で、眉なしの声と耳障りな音が聞こえた。ソチラに顔を向ける。
 赤いボディーのレーサーレプリカ。排気量600ccを越える大型バイクだ。先端には鋭いエッジが取り付けられ、マフラーは歪に大きいチタンカーボン製。
(改造か……)
 爆音仕様にチューニングされた二輪を横目で見ながら、真夜は車道を走る速度を緩める。
「分かったのか!? 分かったんだな!? そうなんだな!?」
 バイクの上から早口でまくし立てる眉なしに、真夜は一瞬ためらいながらも小さく頷いた。
 ストロレイユの居場所が分かったのは彼らの功績だ。なのに黙っているというのは気が引ける。利用するだけ利用して後はもう無関係というのでは、どこかの悪徳政治家と変わらない。
「言え! 教えろ! どこでも連れてってやるからよ!」
 明確な殺気を孕んだ怒声。直情的で強制的な威迫。
 それ程ストロレイユのことが憎いのだ。当然だろう。アレだけ自分達の中に目撃者がいるということは、同時に被害者もいるということ。話を聞く限り、彼らが仲間と一緒にいる時にストロレイユは襲ってきたのだから。
 恐らく、わざと目撃されるために。
「前の奴も拾ってくれ。アイツなしじゃ多分最後まで追えない」
「っしゃあ!」
 バイクの後ろに飛び乗った真夜に気合いの声を返し、眉なしは右のグリップを大きく回す。胸から背中へと抜けていく重い加速度。内臓を引っ張られるような錯覚。
 車体全体が僅かに後傾したかと思うと、車通りの少ない周囲の景色が急速に後ろへと流れていった。
「アリュセウ!」
 顔に叩き付けられる空気の塊を辛うじて堪え、真夜は喪服の帯に手を伸ばす。そしてログブロンドを尻尾のように揺らす小柄な釣り人を掴み上げ、
「あ――」
 彼が単音を漏らしてコチラを振り向き、目を大きくして――
「え……」
 背後で感じた光の気配に真夜は顔だけを後ろに向ける。
(軌せ……!)
 後ろから飛んできた橙色の筋が自分の体内へともぐり込み、そして――消えた。
 ソレ以上は何も起こらない。本来、一度はストロレイユの元に戻っていくはずの軌跡は自分の中に留まり、動こうとはしない。コレもアリュセウが言っていた、自分の特異体質が関与しているのだろうか。
「お前、ストロレイユと会ってるですよー」
 眉なしと自分との間に挟まるようにして収まったアリュセウが、コチラを見上げながら言ってくる。
「今のは連鎖ですよー。さっき聞いた話の中に、お前も心当たりのある女がいた。違いますかー」
 眉なしが後ろ手に渡してきたヘルメットを被り、アリュセウは表情を険しくして続けた。
 真夜は何も返さない。言われた言葉を頭の中で繰り返し、切れ長の目を更に鋭く細める。
「お前の知ってる女と全く同じ印象を犯人に感じた奴が、さっきの中にいた。だからソイツがその女を知らなくなったという不自然さを解消するために、お前の中からも女の記憶が消えるはずだった。けどお前は相変わらずの変態体質のおかげで忘れずにすんだ。軌跡は途切れて連鎖が続かなくなった」
 淡々とした口調で説明するアリュセウに、真夜は舌打ちしてそっぽを向いた。
 どうやら、もう間違いなさそうだ。
「まったく、つくづくおかしな奴ですよー。三人ものプラクティショナーに出会えるなんて、何かに取り憑かれてるとしか思えないですよー。嫌な御縁ですよー」
 言い終えて前を向き、アリュセウはコチラにもたれ掛かるように体を預けてくる。
 本当に、一体何の因果なのかね……。
「お二人さんよ! 喋るのは良いけどナビしっかり頼むぜ! コッチでいいんだろーな!」
「取り合えずUターンですよー」
「早く言え馬鹿野郎!」
 甲高い急ブレーキ音。車体が前のめりなったかと思うと、劇的な遠心力が脳を揺さぶる。そして気が付けば進行方向が逆転していた。
 荒っぽいが運転技術は確からしい。間違いなく酔いそうだが……。
(こんな形で再会、か……)
 また小さく舌打ちし、真夜は皮肉っぽく口元を歪めた。

 埼玉と東京の県境。荒川に渡された大きな橋。
 人の通りはない。車だけが無機質なエンジン音を響かせて過ぎ去っていく。
 彼女は一人、欄干に腰掛けて夜空を見上げていた。
 まるで――誰かを待っているかのように。
「少数精鋭、ってわけでもなさそうね」
 完全に暗い帳の落ちた夜闇の中、彼女は嘲るような声で言葉を発した。
 車のヘッドライトが刻む光の鎖を受け、宙に浮かぶようにして彼女は立ち上がる。そしてコチラに顔を向け、
(ビンゴ、か……)
 眉なしに続いてバイクから降り、真夜は顔をしかめた。
 彼女だった。新幹線のホームで会った。
 妖艶で大人びた雰囲気と、表面が濡れて見えるほどに研ぎ澄まされた刃物のような気配。その二つを同時に纏った美女。
 彼女がこの事件の犯人の一人――ストロレイユ。今ココで、なんとかしなければならない相手……。
 真夜は一度大きく深呼吸をし、気持ちをなんとか切り替えようとして――
「な……」
 ストロレイユが二重の大きな瞳を更に大きく見開き、驚嘆の声を漏らす。
「どうして、貴方が……」
 ゆっくりと動く黒紫色の唇。彼女の視線は真っ直ぐに自分の方へと向けられていた。突然に訪れた彼女の動揺。それもただ単に驚いたというだけのモノではなく、常識を根底から覆されたかのような……。
「平気、なの……? 意識なんて、ないはずなのに……」
 僅かに掠れた声。不規則に揺れる視線。
 何だ? 何のことだ? 一体何をそんなに狼狽している?
 まるでストロレイユの意識が感染したかのように、真夜も困惑の色を浮かべ―― 
「そーかい。テメーが犯人かい」
 眉なしが低く言って一歩前に出た。彼の両手には刃を剥き出しにしたバタフライナイフ。
「テメーが、アイツらを……!」
 真夜が何か声を掛けるより早く、眉なしは地面を蹴っていた。
「死ねコラァ!」 
 右のナイフを腰だめに固定し、左のナイフは下から振り上げるように薙ぐ。
 その一撃に何のためらいもない。最短距離で相手の命を奪いに行っている。無慈悲で無感情な凶刃。
 ソレはストロレイユの喉元と腹部に狙いを付け、
「あらあら」
 彼女の口から場違いに脳天気な言葉が漏れ出た。
「随分とお友達思いなこと」
 細くした視線を眉なしの方に向け、口の端に嘲笑を浮かべながら身を引いた。下から飛来したバタフライナイフはストロレイユの鼻先を通り抜け、もう片方の得物は――
「でも、アイツらはああなって当然の人間。普通に生きる価値なんてないのよ」
 折れていた。根元から完全に。鋭利な断面を晒して。
「貴方も確か、同類よね? 気まぐれで見逃してたんだけど……」
 ストロレイユは気怠そうに言いながら、指の間に挟んだナイフの刃を持ち上げ、
「頼まれたんじゃあしょうがないわね」
 差し込んだ。
 眉なしの眼窩に。刃の部分を半分ほど残して。
「――ッ!」
 彼の口から吃音が零れ、持っていたバタフライナイフを落として――
 絶叫が辺りに轟いた。
 倒れ込み、転げ回り、意味を成さない言葉を繰り返して、眉なしは刺された左眼を押さえ付けてのたうち回る。
「もう少し深く入れればすぐ楽になれるんでしょうけど、ソレだとつまらないからね。せいぜい苦しみなさい、クズ人間さん。今頃、貴方に犯された女の子達が高笑いしてるわ」
 胸の下で腕を組み、ストロレイユは酷薄な視線で眉なしを見下ろしながら言った。
(ヤバい……)
 そんな彼女をただじっと見つめながら、真夜は間断なく襲いかかってくる恐怖心を必死に押し返す。気を抜けばすぐに呑み込まれる。肉体も精神も射すくめられる。
 自覚が足らなかった。決定的に足らなかった。
 相手が警察でも手に負えない殺人鬼だという認識が、致命的なまでに欠けていた。
 今、目の前でその現場を目撃してようやく実感が湧いてきた。
 自分は命のやり取りをする場に足を踏み入れているのだということに。
 これまでは勢いで何とかやってこられた。
 犯人の顔も分からず、どんな性格なのかもよく知らず――いや、無理矢理目を逸らして、ひたすら体を動かして、見つけ出すことだけに専念して、絶対に自分の周りで被害者を出させないと頑張ってこられた。『犯人探し』に集中できた。
 しかし、その後のことは殆ど考えていなかった。力ずくで捕まえて犯行をやめさせてやるという意気込みだけで、具体的にどうするかまでは決めていなかった。
 まさか話し合いで何とかなるとでも思っていたのか? 小綺麗な言葉を並べ立てて説得できるとでも?
 馬鹿な。相手は殺人鬼なんだぞ。何人もの意識を奪い続けた残忍な化け物。そんな奴を相手に言葉など何の武器にもならない。
 ひょっとして女だということで安心していたのか? いざとなれば腕力で勝る自分が有利だと思い込んでいたのか?
 とんでもない勘違いだ。どうやったのかは知らないが、相手は刃物の軌道を紙一重で見切り、金属をへし折れる力を持っている。そして人を殺すことに何の呵責も示さない、狂った心を持っている。
 勝てない。
 普通にしていては勝てない。
 そう。普通の心では同じ土俵に上がれない。だから狂人を相手にするにはコチラもどこか壊れていなければならない。
 死んでもいいと思えるほどの強い気持ちを抱いていなければならない。
(俺が何とかする!)
 犯人のことを知っていて、しかもその犯人を見つける手段も持っていて、なのに傍観者を決め込んでいたのでは見殺しだ。殺人鬼と変わらない。
 自分がストロレイユを止めるのは義務なんだ。
 周りで誰も失いたくないのなら、命を掛けてその義務を果たさなければならない。
 だから動け! 相手は女じゃない! 冷酷な犯罪者なんだ! 遠慮なく叩きのめせばいい!
 恐れるな! 傷付くことを恐れるな! いつまでも自分のことを可愛いがらずに、もっと――
「お前がストロレイユですねー。オレはアリュセウっていうですよー。知っての通り【記憶の施術者】ですよー」
 目の前をブロンドが横切る。
 華奢で小柄な喪服の少年が、ふてぶてしい口調で続けた。
「お前の集めたポイントを頂きに来たですよー、賞金首ー。覚悟するですよー」
 そして銀の釣り竿でストロレイユを指し、自信たっぷりに言う。
 なんだ……初めて見るぞコイツのこんな姿。何か秘策でもあるのか。
「討伐隊でもない貴女に用なんかないわ。さっさと消えなさい。見逃してあげるから」
 眉なしの絶叫を自分を讃える賛美歌のように聞きながら、ストロレイユは興味なさそうに言う。
「苦労して追いつめたんですよー。そう簡単には引き下がれないですよー」
「追いつめ、た……?」
 アリュセウの言葉にストロレイユの声色が変わる。暗い愉悦を孕んだ物から、不快感を露骨に示した危険な物へと。
「貴女、勘違いしてない? 私はココで貴女達を待っていたの。ようやく討伐隊が動いて、私を狩りに来てくれたって思ったからね」
 胸の下で組んだ腕を解き、ストロレイユは左手を真横にかざした。
「やっと仇を取れる。その時が近付いてくるのをココで何時間も待っていたの」
 彼女の左手から力が抜け、ダラリと下がる。そして手入れの行き届いた爪が真下を向き、
「でも来たのは貴女達だった」
 伸びた。
 真紅のマニキュアで彩られた爪が異常に伸び、ソレが眉なしの頭部へと吸い込まれて――
「分かる? 私の落胆が、苛立ちが、怒りが」
 そして彼は動かなくなった。さっきまで痛々しいほど暴れ回っていたのが嘘のように、静かに、まるで……死んだように……。
「どうやら貴女達もコイツと同じ、生きる価値のない存在みたいね」
 蛭のように這い出した舌が妖艶に唇を舐め取る。ストロレイユはまた腕を組み直し、体を真っ直ぐコチラに向けた。
 いつの間にか爪は元に戻っている。ひょっとして伸びたように見えたのは錯覚だったのか?
「まずは貴女から、殺してあげるわ」
 何の感情も含まない声で言い、ストロレイユはアリュセウの方に右手を向け、
「頭に血が上ると隙ができるですよー!」
 銀の釣り糸が眉なしの体に向かって飛んだ。
「ち……」
 ストロレイユは小さく舌打ちして腕を戻す。直後、眉なしの体から放たれた橙の光が、彼女に向かって急迫した。
「鬱陶しい」
 そしてまたストロレイユの爪が伸びる。紅い線はまるで意思を持ったかのように動き、彼女の細腕を覆っていった。
 瞬時にして形成される緋色のプロテクター。眉なしから出た橙の軌跡はその盾によって弾かれ、また彼の体へと帰っていく。
 錯覚などではない。ストロレイユは自分の爪を――いや、恐らくは付け爪を自在に伸縮できる。
 そしてアレが彼女のオペレーション・ギアなんだ。あの付け爪を使って意識を刈り取ってきたんだ。
 なら、眉なしが急に大人しくなったのは意識を奪われたからなのか? 自分が誰で、ココがどこかも分からなくされてしまったから? だから、あんな激痛の中でも、押し黙ってしまっ、た……?
「とっとと観念した方がお互いのためですよー!」
「【記憶】風情が」
 鼻で笑って言いながらストロレイユは右手の爪を伸ばす。一本の紅い筋は直線的な軌道を取ってアリュセウに肉薄し、
「そんなモン当たらないですよー!」
 身を低くした彼の頭上を通り抜けた。が、そのすぐ後ろから四本の爪が追撃を仕掛けてくる。タイミングも着弾点も全てバラバラに。
「くっ……」
 半身を引き、左肩を狙った爪を避ける。が、半呼吸ずらして別の爪が眉間に迫る。首を強引に捻り、辛うじてソレをやり過ごす。が――
「っぁ……!」
 両サイドから同時に斬り込んできた二本が、アリュセウの胸元を切り裂いた。喪服の破片が闇夜に舞う。
「アリュ……!」
 真夜は途中まで声を上げて地面を蹴った。
 だが動かない。ビクともしない。
 まるで、体の中心に鉄の杭でも打ち込まれたように――ソレは明らかに恐怖から来る……。
「お前は来なくていいですよー!」
 アリュセウは倒れ込みそうになりながらもなんとか体勢を立て直し、真夜に向かって叫び上げる。
「お前は動くなですよー」 
 そしてストロレイユから視線を逸らさずに続けた。
「こんなオバサン、オレ一人で十分ですよー」
 口の端に嘲るような笑みを浮かべ、挑発的な口調で。
「余裕ね。でもそんな物、すぐになくなるわ」
 ストロレイユは両腕を軽く広げ、アリュセウを迎え入れるかのようなポーズで――
 何かが立ち上がった。
 一瞬、ストロレイユ自身が巨大化したかのようにさえ映る。だが違う。
 爪だ。十本の爪が湾曲しながら天を突き、大気を割って飛来してくる。
 ソレはまるで、アリュセウを噛み殺さんと開かれた巨大な顎だった。
 あんなに、伸びる物なのか……。コレでは逃げ場などドコにも……。
「アリュセウ!」
「動くな!」
 ようやく出た声。しかしアリュセウはソレを拒絶し――
「はあああああああぁぁぁぁぁぁぁ!」
 釣り竿を頭上で高速回転させ始めた。月光を反射し、見惚れるほどの銀円が闇に浮かび上がる。そして連続的に響く硬質的な音。
 アリュセウの真上から降り注いだ紅い雨はことごとく軌道を変え、あらぬ方向へと消えていった。
「馬鹿ね」
 冷たく響くストロレイユの声。
 アリュセウは今両手が塞がっている。確かに上からの攻撃には鉄壁かもしれないが、真横からは――
「あ……」
 自分の口から声が漏れると同時に、線が水平に駆け抜ける。ソレは正確にアリュセウの胸を狙って――
 橙の閃光が走り抜けた。
 眉なしの体から自分の方に目掛けて放たれた軌跡は、アリュセウを守るようにしてストロレイユの爪を弾き飛ばす。
(なんで……)
 一瞬、完全な空白で覆われる思考。だが刹那的な閃きと共に彩りが戻る。
 最初にアリュセウは眉なしの中からストロレイユに関する記憶を消した。そのことによって発生した軌跡は、ストロレイユから眉なしに戻り、そして次は自分の方に向かってくる。
 眉なしがストロレイユを知らないという不自然さを解消するために。自分の中からストロレイユに関する記憶を消すために。
 アリュセウは今までその軌跡を止めていたんだ。そして今、期を見計らって発動させた。そのために自分はこの場所にいる必要があった。
 アリュセウは待っていたんだ。
 ストロレイユの爪を全て引き寄せられるのを。ストロレイユが自分自分をガードできなくなるのを。
 そう。眉なしから自分の元に来た軌跡が次に行くのは――
「え……」
 だが動かない。何も起こらない。
 本来ストロレイユに向かって放たれるはずの軌跡は、自分の中に収まったまま出てくる気配はない。
「クソ!」
 悔しそうな声を上げてアリュセウが地面を蹴る。彼の姿が一気に大きさを増し、手にもっていた釣り竿がコチラの脳天に振り下ろされて――
「んな……」
 体内から一際眩い軌跡が放たれた。
 先程よりも明らかに太い橙の発光線は、ストロレイユ目掛けて正確に飛んでいく。
 が、十本の爪を交差させ、彼女はいとも簡単に弾き飛ばした。
「残念、だったわね」
 空気に溶けるようにして消え去る軌跡。横目でその様を見つめ、艶笑を浮かべながらストロレイユはまた胸の下で腕を組む。
「そう……。そういう、ことだったの……」
 そしてどこか満足げな、それでいて果てしない憎悪を内包させたような声で呟き、
「あの時、意識を根こそぎ消してあげたと思っていたのに……。まともに動けるはずなんてないのに……」
 弧月のような笑みを張り付かせた。
「びっくりしたわ。だって初めてですもの。誰だって初体験は胸が高鳴るものでしょ? ねぇ? ぼーや。どーりで目立つと思ったわぁ」
 ソレは不気味で、壊れた人形のように不自然な顔付き。口が裂けたようにすら見える。
 蠱惑的な言葉遣いが、今はただ純粋に怖ろしい。
「さっきからの反応。貴方、見えてるのねぇ。軌跡も、私の爪も」
 ゆっくりとした、コチラの精神を嬲るかのように緩慢な喋り方。空気が異常な色に染まりつつある。自分の周りの景色だけが歪に切り取られていく。
「貴方、だったのねぇ……。『個』を望む者って」
 ――『個』を望む者。
 以前、ラミカフからも言われた言葉。自分の内面を大きく揺さぶる嫌な響き。
 ソレがストロレイユの口からも……。
「でも、今は反転したからそうやってのうのうと生きていられる。プラクティショナー達にとって、貴方は美味しい美味しい餌だものねぇ……」
 餌……何だソレ。どういう、ことだ……。
「違う? そうねぇ。ひょっとすると違うかもしれないわねぇ。今、私が言ってることは完全な的外れで、貴方は何の関係もないただの一般人。そういうことも考えられるわよねぇ」
 また、彼女の纏う雰囲気が変わった。
 茫漠と渦巻いていた危うい憎しみから、鮮明な輪郭を帯びた強い殺意へと。
「でも、そんなことどうでもいいのよ。人違いなら人違いで。今重要なのは、貴方の命が必要ないということ。私がそう決めたこと」
 ストロレイユがコチラに向かって一歩踏み出す。
「貴方だって、一度は思ったことがあるでしょ? 犯罪者なんて、みんな死んでしまえばいい。罪の大小に関わらず、見せしめに殺してしまえばいい。そうすれば世の中はきっと良くなる。全く、その通りだと思うわ。ねぇ?」
 自分の言葉に陶酔しているかのように、ストロレイユは独白しながら少しずつ近寄って来る。 
「理由のない突発的で偶発的な殺人、己の劣情をただ力任せに叩き付けるだけの性交、自分より力の劣る者への暴力。年齢、老若男女に関係なく振るい、振るわれる理不尽な仕打ち。全部なくすにはどうすればいいと思う?」
 ソレはまるで自分自身に言い聞かせているかのようで――
「簡単なことよ。ソイツら全員殺せばいい。生きることを苦痛にしてやればいい。害虫が消えれば、残った人達は暮らしやすくなる。単純で分かり易い図式でしょ?」
 双眸に狂気的な光を宿し、ストロレイユは爪を伸ばす。
「そして、貴方も“ソチラ側”の人間になった。だから殺す」
 刃物のように研ぎ澄まされた真紅の光が揺れて――
(ヤバい……!)
 だが体は動かない。
 ストロレイユの毒気に当てられてしまったように、魅入られて――銀色の光が目の前を――
「素晴らしい。実に素晴らしい考え方だ」
 背後から声がした。そして何かを叩く音。
「貴女のその崇高なる思考。私は非常に高く評価しますよ」
 軽く拍手しながら現れたのは――
「ラミカフ!」
 体の硬直が一気に解けた。
 そして振り向く勢いに乗せて、真夜は裏拳を繰り出す。
「ですがストロレイユ。彼は貴女の探している人物ではない。残念ながらね」
 手応えはない。代わりに横手から低い声が聞こえる。
「テメェ!」
 反射的にソチラに跳び、真夜は固く握り込んだ拳を突き出した。
「ですからまぁ、ココは一つ引いていただけませんかね。私の顔に免じて」
 ソレを片手で受け止め、ラミカフはにこやかな笑みを浮かべて平然と言う。全身に力を込めてもまるで動かない。この華奢で細長い体のどこにそんな力が……。
「ようやく、執行部様のお出まし、ね」
 喜悦を孕んだストロレイユの声。だが危うさは急な斜面を転がり続ける。
「私を止めに来た。そうでしょう? お待ちしておりましたわ。この数ヶ月、貴方様のように高貴なお方がいらっしゃるのを。ずっと、待ち焦がれておりました」
 必要以上に丁寧な口調。不気味な威圧感を内包させた。
「それはそれは」
 右手で眼鏡の位置を直し、ラミカフは柔和に言う。
「教えてくださる? 私の探している人が誰なのか。そうすれば今すぐにでもこんな馬鹿な真似は止めますわ」
「その必要はありませんよ。先程も申し上げました通り、私は貴女の行動を高く評価しています。ですからこのまま続けていただいて結構。ただ、彼からは手を引いていただきたいというだけで、ね」
 体に強い衝撃。一瞬、肩が外れてしまったのかとさえ思った。
 ラミカフに受け止められていた拳を押し返され、真夜はアッサリ後ろに押しやられる。
「――っの野郎!」
 しかしまたすぐに地面を蹴り返し、ラミカフに殴りかかろうとして、
「待つですよー!」
 後ろから羽交い絞めにされた。自分より二周りも小さな手には銀の釣り竿。
「放せよ!」
 力ずくで止めようとするアリュセウを引きずり、真夜は強引に前に進んで――
「二人が潰し合ってくれるチャンスですよー。ココは見ていた方がいいですよー」
 耳元でささやくような声。
「くっ……」
 真夜は奥歯をきつく噛み締め、コチラに流し目を送ってくるラミカフを睨み付けた。
 確かに、アリュセウの言葉にも一理ある。彼の予想通り、この二人が一連の事件の犯人だとすれば互いに疲弊してもらうのが理想的だ。そして残った方を叩けばいい。
 姑息で面倒くさい方法だが確実性はある。
 ……いや、そうしなければ勝てない。アリュセウですら簡単に引き剥がせないようでは、ラミカフやストロレイユとまともにやって勝ち目があるとは思えない。
(情けねぇ……)
 本当に、さっきから何の役にも立っていない。勢いだけでココまで来て、いざという時にすくんだかと思えば、今は我が身可愛さに消極的な戦法に甘んじている。
 何だ。一体何の冗談なんだコレは。こんな低次元の決意で、凶悪な犯人を何とかできると本気で考えていたのか。
「素直なのはいいことですよ」
「――ッ!」
 神経を逆なでするラミカフの言葉。
「真夜っ!」
 が、アリュセウに下の名前で呼ばれ、辛うじて堪える。
 今は静観する時。そんなことは分かっている。分かってはいるが……。
「……ソレは、私が貴方にとっての絶好の隠れ蓑だから、かしら?」
 声を低くし、ストロレイユは忌々しそうな喋りで言った。
「さて、何のことやら」
「貴方は執行部ではあっても【記憶の施術者】。私は【意識の施術者】。この二つの決定的な差、知らないわけじゃないでしょう?」
「そりゃあ勿論」
 僅かにウェイブ掛かった黒髪を掻き上げ、ラミカフはおどけたような仕草で返す。
「【意識の施術者】は一度に意識全てを消し去れる。けど【記憶の施術者】は記憶を一つずつしか消せない。だから【記憶の施術者】が【意識の施術者】の真似事をしようとしても完全には無理。どうしても“ムラ”ができる。時間を掛ければソレを無くすこともできるんでしょうけど、残念ながら今回そんな余裕はなかった。貴方は私と違って周りからの認識を狂わせることなんてできないから」
「つまり、貴女はこう言いたいわけですね? 私が影でコソコソと人の記憶を奪い取って、ソレを貴女がしているように見せかけている、と」
「違うのかしら?」
「ええ、違いますね」
 ラミカフは口の端を悪戯っぽく持ち上げ、
「私は別にコソコソなんてしていませんし、貴女になすりつけるような真似をするつもりもない。付け加えるなら、誰かの記憶を全部消すことなんてあっと言う間にできますよ。やろうと思えば、ね」
 半身引いて横目にストロレイユを見ながら続ける。
「でも、それじゃあつまらないでしょう? 記憶を断片的に残し、生かさず殺さずの状態で放置して、そこからどうあがくのかを観察するのが面白いんじゃないですか。いつぞやは栃木から東京までちゃんと電車に乗って帰れた人もいましたねぇ。まぁその後で車に跳ねられて病院に運ばれたようですが。あっははっ」
 まるで何の穢れも知らない少年のように屈託のない笑み。
 ――虫酸が走るほどの。
「ま、私が執行部であるにも関わらず、【命の施術者】にならないで【記憶の施術者】に留まっている理由はそういうところにあるんですよ」
「……下らない」
 舌打ちしてラミカフを睨み付けるストロレイユ。今だけは、彼女の意見に心の底から同意できる。
「下る下らないの価値判断は万人にあり、一様に纏めることなんて到底できませんよ。だから貴女が忌み嫌う人間が沢山いる。きっと彼らの中には彼らなりの正義と信念があって、ソレに沿って行動してるんでしょうねぇ。例えば、ソコに転がっている強面の彼なんかは、女性を抱いた数で男としての評価が決まると思っていたようですが。若い人の考えること理解できませんねぇ」
 ラミカフは肩をすくめて言いながら、ピクリともしない眉なしの方を一瞥する。
「貴方の考え方なんてどうでもいいわ。私が聞きたいのは、貴方が取り引きに応じるか応じないかということだけ」
「取り引き? 取り引きとは?」
 とぼけた様子で聞き返すラミカフに、ストロレイユは大きく舌打ちして爪を伸ばし始めた。
「討伐する側から討伐される側に立つか、私に『個』を望む者のことを教えるか選べって言ってるのよ」
 語調を荒げ、剣呑なモノを言葉に含ませてストロレイユは言い放つ。
 ストロレイユはプラクティショナーとしてのルールを破った賞金首。ならば彼女と同じことをしていたラミカフも当然、狙われる立場になる。
 もし、彼のしていることが発覚すれば。
 だからストロレイユは黙っている代わりに、自分の欲しい情報を引き出そうとしている。
 『個』を望む者の、ことを……。
「なかなか愉快な勘違いをされているようですね」
 ラミカフの言葉に触発されたかのように、ストロレイユの爪が一気に伸びる。だがラミカフは首を横に倒してソレをかわし、顔色一つ変えず落ち着き払った様子で続けた。
「私は別に貴女を討伐するために派遣されたのでありませんし、貴女と同じことをしたからといって討伐されることもありません。なぜなら私のしていることも貴女のしていることも、一部では容認されていることですからね。魂の浄化として。おおっと、このことはトップシークレットだったかな? まぁ良いでしょう。言ってしまったものはしょうがありませんしね。あっははっ」
 そしてまた場違いに明るく笑い、ラミカフは白い手袋をはめ直してストロレイユの方を見る。
「……下らない」
「自分の受け入れられないことを人は皆そう言います」
 連続的に飛来する爪を素手で弾きながら、ラミカフはからかうような口調で返した。
「どうしてもアイツのことは言えないってわけ」
「貴女はこうしてプラクティショナー達にとって不都合と思われることを続け、目立っていれば、いずれ討伐隊が組まれると思った。そして彼らに要求するつもりだった。“止めて欲しければ彼のことを教えろ”とね。とんだ思い上がりでしたね。貴女のような小者、誰も相手になんかしませんよ」
「黙れ!」
 ストロレイユの十本の爪が空気を切り裂く。
 何十メートルにも伸びた爪は互いに絡み合い、太さを増し、ラミカフの背後から襲いかかった。
「まぁそう怒らずに。私達は言ってみれば同志じゃないですか」
 微笑をたたえたままラミカフは地面を蹴り、足元を抉っていく爪の上に乗る。束なっていた爪は再び身を分けて細くなると、ラミカフを落としてその四方を取り囲んだ。瞬時にして逃げ場を奪い取り、爪はラミカフを串刺しにせんと牙を剥く。
 体勢を崩してうずくまったままのラミカフ。その体に真紅の爪が――
 橙の奔流が立ち上った。
 太い光の筋はまるでラミカフを守護するようにして螺旋を描き、ストロレイユの爪を弾いて天を突く。
「私くらいになれば軌跡をこういう風に扱うこともできますよ?」
 地面から生まれた光の龍は高い位置で方向を変え、ストロレイユに向かって落下し始めた。
「だから何だっていうの?」
 戻した爪でラミカフの軌跡を両断し、ストロレイユは酷薄な笑みを浮かべる。その微笑に応えるようにして爪の一本が方向を変え、眉なしの体を貫いた。
「え……」
 真夜の口から声が漏れる。
 鮮血を飛散させながら宙に持ち上げられる眉なし。それがゴミクズのようにラミカフの前に放り捨てられたかと思うと、彼の体から無数の発光線が全方位に撒き散らされた。ソレはまるで閃光弾のようで――
「クッ……!」
 後ろでアリュセウの声が聞こえる。そして煌めく銀色の光。
 コチラにも飛び火してくる橙の線を、アリュセウは釣り竿を振り回して叩き落としていた。
 アレ全部、軌跡……。コレがストロレイユの力……。【意識の施術者】としての……。
 あの一瞬で、眉なしは全ての意識を奪われ、他から完全に孤立した……? だが彼は、もう……。
「随分と乱暴な真似をしますね」
 目の前で激しく散った軌跡にも全く動じることなく、ラミカフは涼しげな喋りで言う。
 平然と立っているその姿からは、避けた様子は感じられない。まさかあの至近距離で全部打ち落としたというのか。
 アイツのオペレーション・ギア……両手にしている白い手袋で……。
「思いきり暴れるのは爽快だわ!」
「ヒステリー女は嫌われますよ?」
「ッハ! お前に何が分かる!」
「今の貴女を見て死んだ恋人さんがどう思っているか」
「黙れ!」
 右手の五本の爪が、ラミカフの正面と後ろから迫る。そしてストロレイユは残った左手をコチラにかざし、
「な……」
 紅い筋が目の前を通り抜けて、
「危……!」
 真夜は反射的にアリュセウを突き飛ばした。直後、さっきまで彼の頭があった位置を、爪が通り抜けて行く。
「ボサッとすんな!」
「あ、アリガトですよー!」
 尻もちを付いた体勢からすぐに起きあがり、アリュセウは銀の釣り竿を構える。
 あのクソ女! アリュセウを眉なしみたいにして使おうと……!
「て、メェ……!」
 脳天に突き抜けた熱い感情が恐怖を打ち消し、真夜は両拳を握り込んで地面を蹴った。後ろでアリュセウが何か叫ぶのが聞こえるがもうそんなもの関係ない。とにかく一発入れないと気が済まない。アイツの顔面に一発ブチ込まないと……!
「今のに反応できた……?」
 呟くようなストロレイユの声。
「おおおおおぉぉぉぉぉぉッラァッ!」
 喉の奥から雄叫びを上げ、真夜は正面からストロレイユに突進する。
「ふん……」
 そして彼女は小さく鼻を鳴らし、
「貴方の方こそ気を付けましょうね」
 後ろから苦笑まじりの声が聞こえた。
「私がいなければ今頃脳味噌がはみ出ていましたよ?」
(ラミカフ……!)
 顔が勝手に声のした方へと向けられる。
 いつの間に回りこんだのか、ラミカフが薄ら笑いを浮かべて五本の爪を片手で握り止めていた。そして爪の先は真っ直ぐに自分の頭部へと伸びていて……。
「そんなにその子のことが大事?」
 嘲るようなストロレイユの声。ラミカフが掴んでいた爪が途中で折れたかと思うと、ストロレイユの手の中へと戻っていく。
「執行部様が直々に守るくらいだから、さぞかし重要な人物なんでしょうねぇ」
 静かに言い、ストロレイユは面白そうに眼を細めた。
「興味深いわね。その子も、なぜかその子を守ろうとする貴方も、ね」
 そして一歩後ろに下がり、口の端に艶笑を浮かべる。
「さすがに執行部とまともにやることになると、私も相応の覚悟をしなければならなかったけど……案外楽に済みそうだわ」
 ストロレイユの爪がまた伸びた。ソレは車道を走るミニバンのバンパーに絡み付き、軽く足を浮かせた彼女の体を後ろに引っ張って――
「せいぜい見張ってることね」
 シャギーカットの黒髪を靡かせ、ストロレイユは暗闇の中に消えていく。
 勝利を確信したような表情を張り付かせて。
「取り合えず追い払えましたが……なかなか厄介な状況になってしまいましたね」
 すぐ隣でした声に向かって、真夜は無言で拳を放った。
「おやおや、命の恩人にコレはないんじゃないですか?」
「ウルセェ!」
 軽くかわしたラミカフに、真夜は怒声を上げて詰め寄る。
「いい加減ムカツいてんだよ! チョロチョロチョロチョロチョロチョロチョロチョロと! 言えよ! テメーの狙いは何だ! 何で俺に付きまとう! ストロレイユは何であんなことしてる! 『個』をってな何だ! 記憶の錯乱……! 施術者殺しってのは……!」
「そんな一度に聞かれましても、ねぇ」
 連続で繰り出す真夜の拳撃を上体の体重移動だけでさばきながら、ラミカフは半笑いで返した。
「言えよ! とっとと言え!」
「あまり直接的な表現はしたくないんですよ。貴方の心に多大な負担が掛かるかもしれませんから。こういうのは結構デリケートな問題でしてねぇ」
「テメェ……!」
 渾身の膂力を持って繰り出した一撃が、ラミカフの鼻先を掠める。が、彼はまるで動じた様子もなく、後ろに大きく飛んで橋の欄干に着地した。
「逃がすか!」
「貴方自身、すでに気付いているんじゃないですか?」
 朴訥な響きを伴ったラミカフの言葉。追撃を掛けようとした真夜の足が、地面に沈み込んだように止まる。
「自分の正体に。自分の持つ力に。貴方が本来成すべきことに」
 ソレは鼓膜の奥に直接伝わってくるかのような、ある種独特の韻を踏んだ……。
「もっとも、全てを理解するにはまだ早いでしょう。ですが断片的には思い出しているはずだ。軌跡が見えたり、ストロレイユの動きに付いていけるようになっているのが何よりの証拠。貴方は確実に“コチラ側”に歩み寄ってきている」
 強烈な目眩にも似た脱力感。
 絡め取られる。肉体が、精神が、ソレらを統べてなお奥に存在する生命の根元が。
「人の記憶とは曖昧な物。自分にとって都合の良い部分しか残そうとしない。嫌な過去、忌まわしい思い出から目を背けようとする。そのあまりに身勝手で自堕落な行為が、己の価値を際限なく貶めていく。ではなぜ人がそのようなことをするのか、考えたことはありますか?」
 目の前が霞んでいく。意識が茫漠とした物になっていく。
 平衡感覚が奪われる。吐き気を催す浮遊感に包まれる。
「ソレは人と人が依存し合っているからですよ。互いに補完し合える環境にあるから、例え一部を捨てたとしても問題なく進んでいける。進んでいけると思い込んでいる。ですが、ソレは大きな誤りです。重大なことから意識を逸らし、課題の解決を先送りしているに過ぎない。ソレでは強くなれない。ソレでは魂を穢しているに過ぎない。いつまで経っても同じ場所を堂々巡りしているだけだ。この負の連鎖は断ち切らねばらない。だから貴方が生まれた」
 自分が……生まれた……。
 そのために……自分は、生まれた……。
 断ち切るために、負の連鎖を……。
「例えば、どうして貴方は一人暮らしを望んだのですか? 身よりのない自分を引き取って育ててくれた老夫婦。男の方が交通事故で死に、女の方は一気に痴呆が進んだ。一人での生活などできなくなった女は自分の息子、すなわち五月雨朝顔の伯父の家に招かれた。しかしその時、貴方が下した決断は彼らとの別離。たった一人での生活。なぜ? 育ての母親に恩を返すため、同じ家に住んで彼女の面倒を見るという選択肢もあったはずなのに。相手からもそうした方がいいと誘われていたのに。貴方はソレを拒絶して一人になることを選んだ。どうしてそんなことを? 貴方の性格からして恩義に感じていないはずはない。母親の助けになるなら何でもしたはずだ。しかし口から出た答えは正反対の物だった」
 自分が高校に上がる前まで育ててくれた、血の繋がりのない両親。
 勿論、いつか恩返ししたいと思っていた。いや、必ずするつもりだった。
 だからこそ、コレ以上迷惑を掛けるなどもっての他だと思ったんだ。
 二人に世話になっておいて、その二人が自分の面倒を見られなくなったら、次はその息子に寄りかかる。
 そんな図々しい選択はできなかった。コレ以上、恩を受けるだけの立場に甘んじていたくなかった。
 それに自分はもう五歳の子供ではない。自分のことはちゃんと自分で判断してやって行けるくらいまでには成長した。
 だから一人での生活を望んだ。
 朝顔の伯父の家に遊びに行くことはあっても、そこで生活するようなことはできない。
 そう心に決めたから。
 ……しかし、どうしても顔を出しづらくて。行けばまた誘われそうで……ソレに、心が負けてしまいそうで……。結局、あれから一度も会いに行けていなくて……。
「ソレが『個』を望む者としての性質ですよ」
 頭部に痛烈な熱が走った。熱は染み渡るようにして全身に伝播していき、あっと言う間に心を呑み込んでいく。
「貴方は忘れているわけではない。ただ見ないようにしているだけだ。だから何かの拍子に、本当の顔が表に出てくる。周りとの繋がりを疎ましく思い、消し去りたくなる」
 違う。 
「ひょっとすると、貴方の義理の父親が交通事故で亡くなったのも、貴方自身が望んだことかもしれませんねぇ」
 違う!
「よく思い出してご覧なさい。貴方が父親の葬式の席で、何を考えていたのかを。意外な発見があるかも知れませんよ」
「テ……メ!」
 真夜は歯を食いしばり、目を大きく見開いてラミカフの方に足を出す。
 だが、滑稽なほどに体は言うことを聞かない。まるで神経がでたらめに繋がっているかのように、頭の中のイメージと実際の動作が連動していない。
「貴方は私にとっての救世主です。強い心を生み出すには、貴方の力が――」
「いい加減にするですよー、このイカレ宗教かぶれの変態野郎」
 自分のすぐ隣でか細い声がする。
「これはこれは、少し話し過ぎましたね。かなり強い刺激になってしまったようです。気分が乗ってくると語りが長くなってしまうのは私の悪いクセですね。あっははっ」
「この……!」
 風を切って振るわれる銀の色の光。その一撃ごとにラミカフの姿は小さくなって行き――
「ですが状況が状況なだけにもうのんびりとも構えてはいられなくなってきましてねぇ。ストロレイユは、貴方を殺されたくなけば『個』を望む者の情報を教えろと言ってきている。まぁ彼女なりにある程度確信があって持ち掛けてきたんでしょうが……困ったものです」
 そして完全に見えなくなった。
「次はもう少し強く行きますので。楽しみにしていて下さい。では、ごきげんよう」
 闇の中から声だけを響かせ、ラミカフの気配はどんどん遠ざかっていく。
 ソレに呼応するかのように頭に掛かっていた靄が晴れ始め、揺れていた世界が元の落ち着きを取り戻していった。
「……大丈夫ですかー?」
 心配そうなアリュセウの声。
「……ぁあ」
 掠れた声で返し、真夜は痛む頭を手で押さえつける。
「色々とややこしくなって来たですよー……」
 橋の欄干に腰掛け、アリュセウは大きく息を吐いて項垂れた。
「……ぁあ」
 真夜はまた力なく返し、地面の上にへたり込む。
「取り合えずハッキリしたのは、ストロレイユは討伐隊を呼び寄せるために動いていたということですよー。それで討伐隊から『個』を望む者の情報を……」
「俺だよ」
 アリュセウの言葉を遮って真夜は短く言った。そして自虐的な薄ら笑いを浮かべ、
「俺のことだよ。その『個』を望む者ってのは」
「……何言っているですかー? あの変態の戯言なんて無視するですよー」
「多分、アイツの言ってたことが正しいんだ。アイツは俺よりも俺のことを良く知ってる。昔に何かあったんだろーな、アイツと。俺が忘れてるだけでよ。情けねー話だ」
「考え過ぎですよー」
「きっと俺は生まれてすぐラミカフに殺されたんだ。邪魔だったから。理由は知んねーけど。そんでアイツの都合の良いように作り替えられた。けど俺がアイツの言うこと聞かねーモンだから、ムカついてちゃちゃ入れに来た。こんなところだろ」
「何言ってるかさっぱり分かんないですよー」
「テメーが言ったんだろーが! 討伐隊が組まれたって! お前みたいな奴等が五十人くくらい殺されたってよ! そんで殺した奴も殺されたって! ソレが俺なんじゃねーのか!」
 真夜は叫びながら勢いよく立ち上がり、アリュセウの胸ぐらを掴み上げて怒鳴り散らす。
 遠くの方から聞こえてくる虫の声、ソレを掻き消す車の音。
 頼りない月明かりの中、真夜はアリュセウの蒼い双眸を真っ正面から睨み付けて、
「……ワリ。俺、自分で何言ってるか分かんねーわ」
 溜息混じりに呟いてアリュセウから手を離した。そしてまた地面に座り、欄干に背中を預けて天を仰ぐ。
「混乱するのは仕方のないことですよー。ラミカフの奴がそうなるように仕向けたんですからー。だからお前がそうやって色々とぐちゃぐちゃ考えるのは、ラミカフにとって望むところというヤツですよー」
「そっか……」
 アリュセウの言葉に真夜は小さく頷いた。
「そりゃあ、シャクだな。ちっとは、冷静にならねーとな……」
 そして自嘲めいた笑いを零しながら返す。
 混乱するのはラミカフの思うつぼ、か……。確かにその通りかもしれない。
 だが、今すぐに落ち着いて的確な思考を巡らせろというのは無理だ。今日は早く帰って寝て、気分を鎮めて、そんで明日アリュセウに色々と聞こう。明日は土曜日だから授業も昼までだしな。
 今までは本当のことを知るのが恐くて聞けなかったけど、ココまで来たらもうそんなことは言ってられない。プラクティショナーとして知っていることを全部話して貰おう。それでソイツとちゃんと向き合って、これからどうするかってことを考えないとな。
「帰るか……」
 真夜は小さく言って立ち上がり、改めて辺りを見回す。
 ココは太い川に掛けられた橋の上。人通りは皆無で、車もたまにしか走っていない。
 さて、どうやって帰ろうか……。
「あ……」
 と、乗り捨てられたバイクが目に入った。
 赤いボディーのレーサーレプリカ。眉なしが乗っていた……。
「なぁ、アリュセウ……」
 真夜はバイクのすぐそばで倒れている人影に目を落とし、呟くような声で言う。
「アイツ、死んだのか?」
 その言葉は驚くほどあっさり出た。
 何の抵抗もなく。何の躊躇いもなく。まるで用意されていた台本を読み上げるかのように。
 アリュセウは真夜の問い掛けに浅く頷き、
「そっか……」
 ソレだけだった。
 自分の口が発したのはたったその一言だった。
 悲しむでもなく、かといって困惑するでもなく。ただ目の前の事実をそのまま受け入れている。驚くほど冷静に。驚くほど冷淡に。
 きっと今は思考回路が麻痺していて常識的なことを考えられないんだ。人として当たり前のことができなくなってしまっている。
 だから何も思わない。何の感慨も感情も湧かない。
「警察、呼ぶわ」
 それとも、自分は望んでいたのか? こうなることを。
 頼りにしつつも、心のどこかでは毛嫌いしていたコイツがこうなることを。
 ソレは、『個』を、望む者……だから……。

 昨日は警察に連絡を入れるだけ入れて、すぐにその場から立ち去った。
 事情聴取など受けてもまともなことを話せるとは思えなかったし、例え話せたとしてもあの異常な状況を理解などして貰えなかっただろう。
 アレから覚えていることと言えば、公衆電話を探すのに苦労したということくらいだ。警察と何を話したのかも、その後どうやって帰ってきたのかも頭に残っていない。
 ただ、アリュセウが動けないとかで、背負ってやったような記憶はあるのだが……。
 まぁ、アイツも色々と無理して頑張っていたんだろう。帰りにケーキでも買って行ってやるかな。
 授業の終鈴をぼーっと聞きながら、真夜はそんなことを頭に浮かべて席を立った。
 本日の授業はコレにて終了。実に平和な一日だった。
 もっとも、昨日アレだけ派手に騒いだ後なら、どんなことだって平和に感じるだろうが。
「ぅいーっス、村雲ー。今日どするー?」
 まだ明るい午後の日差しが差し込む教室。チョークの粉が舞っている黒板の前を通りかかった時、正面から声を掛けられた。
 ダテ眼鏡だ。
 昨日、一番最初に保健室送りにしてやっただけあって、回復も一等賞か。おめでとう。
「何がだよ」
 真夜は長い前髪を掻き上げながら、ダルそうに言う。
「今日、どーせ暇なんだろ? 帰りにさ、どっか行かねー? ファミレスとかゲーセンとか」
「あー……」
 ダテ眼鏡から視線を外し、真夜は紺色のネクタイを緩めながら半眼になって呻いた。
 そう言えば週末は大抵コイツらとツルんでいたからな。今はもう一週間前とは生活スタイルが一変してしまって、何だか懐かしいくらいだ。
「ワリ、パス。俺帰るわ」
 元気のない声で言い、真夜はダテ眼鏡の横を通り抜けた。
 とてもではないが遊ぶ気になどなれない。他にやること、考えることが山のようにあるんだ。心の整理もいまいちできていないしな。
 とにかく、今日はさっさと帰ってアリュセウと作戦会議を……。
「お前さ、何か最近付き合い悪くない?」
 後ろから掛けられたダテ眼鏡の言葉に真夜は足を止めた。
 普段なら気にも止めないような何気ない言葉。だが今は、耳の奥に張り付いて離れない。

『貴方は確実に“コチラ側”に歩み寄ってきている』

 そしてラミカフの昨日の台詞が頭の中で蘇り、
「いーよなー、やっぱ喪服少女ってのはそんなに……」
 沈んだ。
 完膚無きまでに沈んだ。
 全く学習しない奴だ。
「じゃあな」
 返事などできるはずもないダテ眼鏡にそう言い残し、真夜は教室を出る。白いリノリウム張りの廊下を左に折れ、三階の窓の外をぼーっと見ながら歩いて、
(ん……)
 隣の教室の前で足を止めた。
(何だ?)
 妙に騒がしい。
 普通にはしゃいでいるといった感じではない。人の出入りが異様だ。そして彼らの表情は皆切羽詰まっていて、中には悲鳴混じりの声を上げている者まで……。
 ココは……朝顔のクラス。
 嫌な、予感がする。とてつもなく嫌な感じがする。
 単なる勘だが、殆ど確信に近い――
「おぃ!」
 真夜は教室から出てくる男子生徒を一人捕まえ、凄まじい剣幕で睨み付けた。
「何があった!」
「な、何だよ……お前……」
「いいから! 何があった!」
「放せよ!」
 彼は真夜の束縛を強引に振りほどき、
「大変……! 大変なんだよ!」 
 少しでも早く教室から離れようと走り出す。しかしその腕を真夜は強く掴み上げて止め、
「みんな……! いきなり倒れて……! 意識……! 意識が……! 何だよ! 何なんだよコレ!」
 教室の中に飛び込んだ。
モドル | ススム | モクジ





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