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ナイン・ゴッズ―秋降る雪は永遠に―

 ――On Line――
 彼は鬱蒼と生い茂る木々の合間を全力で走っていた。一瞬だけ視線を左足へと落とす。腿の肉が大きく抉られ、赤黒い体組織と骨が露出していた。本来ならば走ることはおろか、立ち上がることさえ出来ない程の傷だ。
 しかし表情から焦りの色は伺えるものの、苦痛に歪んでいるわけでも、疲労で困憊しているわけでもない。事実、額には一滴のもなく、左足からの出血は無かった。
(くそっ! ドジったな! まさかこんなところでプレイヤー・キラーに出会うなんて!)
 胸中で悪態を付きながら、彼は道無き道を疾駆していく。時折まとわりつく植物の蔦を忌々しげに払いのけながら、肩越しに後ろを振り返った。
 視界を埋めるようにして乱立する常緑樹。それらは、彼の走る速度に会わせて急速に小さくなっていく。枝葉の天蓋に遮られ、ここに日の光は殆ど届かない。
(まいたか……?)
 走るのを止め、視線を注意深く辺りに這わせる。周囲から聞こえてくるのは、草木のざわめき、虫の声。
(念のため……)
 彼は視線を左上に向ける。そこに浮かぶようにして存在しているのは、厚みを持たない半透明の黒いモニター。
【マジック・デバイスより周囲探索プログラム"Erea_Mapper"を読み込みました。
 索敵を開始します】
 モニターに白い文字の羅列が刻まれる。
 彼は茂みの中に腰を下ろして身を隠しながら、プログラムの処理が終えられるのを待った。
【周囲にプレイヤー反応はありません】
 モニターに記された文字を読み終えて、胸をなで下ろす。彼の周囲の張りつめた空気が徐々に弛緩し始めた。
「冗談じゃないぜ、ったく。このゲームを始めてたった二週間で、なんでプレイヤー・キラーなんかに襲われなきゃなんねーんだよ!」
 吐き捨てるように叫んだ後、小さな胎動を繰り返す自分の左腿を見つめる。
(とにかく今は傷の手当てが先決だな)
 彼は再びモニターに意識を集中させた。
【マジック・デバイスより治癒プログラム"Energy_Healing"を読み込みました。
 治癒範囲を選択してください】
 モニターから生み出された白い矢印のポインタを操作して左腿を選択する。
(とにかくこれから、一週間前に組んだパティーメンバーと合流して……それから……)
「あーら、瞑想中? お邪魔だったかしら?」
 突然、頭上から声が降って来た。彼は驚愕に目を見開き、信じられないといった顔つきで声の主を見上げる。
「どうして……」
「どうして? Fクラス程度の思考具現化端末デモンズ・グリッドを介した探索プログラムに私がひっかかるとでも思ったの?」
 彼の頭上に浮かんでいる黒い半透明のモニター――思考具現化端末デモンズ・グリッド――を指さしながら、彼女は溜息混じりにそう言った。
 腰まで伸びた漆黒の髪は軽いウェイブがかかり、宝石類の煌びやかな装飾で彩られている。薄紫色のアイシャドウで飾られた大きい目で彼の方を睥睨しながら、彼女は腰に手を当てた。
「もう、鬼ごっこはお終い?」
 真紅のルージュが引かれた厚い唇を妖艶に歪ませながら、胸元にある髑髏の首飾りをいじる。
「クソッ!」
 彼は叫んで腰のソードを抜き放ち、それを彼女の方に向かって投げつけた。
 黒のイブニングドレスを翻しながら、体をわずかに左へと傾斜させ、彼女は何事もなかったかのように避ける。
(間に合ってくれよ!)
【ログアウトまで、あと十五秒……十四秒……十三秒……】
 彼はすがるような気持ちで、思考具現化端末デモンズ・グリッドに映し出される文字を見つめた。
 それに気付いているのか、いないのか。彼女は相変わらず人を虚仮にしたような視線で、狼狽する彼を面白そうに見下ろしている。
(バカが! ログアウトしちまえばこっちのモンだ! 絶対に強力なパーティー組んで、ボコボコにしてやるからな!)
【……五秒……四秒……三秒……】
 モニターの中でカウントが進む。そして、そこに最後の数値が記されたのを確認すると、彼は勝ち誇ったように声を上げた。
「じゃーな! この、クソッタレのプレイヤー・キラーさんよ!」
 彼の声が虚しく森の中に木霊する。
 いつもならば、溶けるようにして意識が白んでいくログアウト時の感覚がいつまでたっても来ない。
【Error No. 08ff6e. 上位からのシステム介入によりログアウトを実行できませんでした】
 モニターに記された文字を読んで、彼の顔が青ざめていく。
「どうしたの? 何かするんじゃなかったの?」
 至福の一時とでも言うべき笑顔を浮かべて、彼女はゆっくりと近づいた。
「上位からのシステム介入……アンタ、ひょっとして管理者か?」
 何も言わず蠱惑的な微笑を浮かべ、彼女は指先で唇をなぞる。
「どーせ殺すんだろ! 好きにしろよ! 何がなんだかさっぱりわかんねー! 何で管理者がプレイヤー・キラーなんてやってんだよ! 俺は別にルール違反した覚えはねーぞ!」
 最後の望みの綱をたたれて緊張が切れたのだろう。彼は半ばやけになって、草むらのベッドに体を預けた。
「言っとくけどな! 俺を死亡判定にしたところでロクな戦利品手に入んねーからな! 金も少ないし、デバイスだって初心者用のばっかりだ! 管理者が欲しがる物なんて何も……」
 自暴自棄になって当たり散らしていた彼の言葉が尻窄みに消えて行く。その視線は今、彼女の手の中にある物に注がれていた。
「いいのよ、そんな物。別に興味はないわ」
 フフ、と小さく笑い、右手に顕現させた黒い剣をもてあそぶ。その表面は流動的で、まるでそれ自体が意志を持っているかのように脈打ち、蠢動している。異様なまでに禍々しく、どす黒い気配をその剣は発していた。
「な、なんだよ……べ、別にそんなモン出すこと無いだろ」
 彼の言葉に、彼女は笑みを絶やさぬまま無言で首を横に振る。
「これじゃないとダメなのよ。あなたを、現実死リアル・ロストさせるには、ね」
 柔らかい口調で言いながら、彼女は漆黒の剣を彼の右足に突き立てた。
「ッ! アアあぁぁぁぁぁぁぁ……っ!」
 脳天を灼く痛烈な衝撃。剣を突き立てられた箇所が膨大な熱量を帯び、彼の視界を白く染めていく。大きな体の震えと共に、猛烈な吐き気がこみ上げてきた。
「……ひっ、かぁ……はっ! な、なん、で……」
 一瞬で混乱の渦中に叩き落とされた彼の思考は現状を巧く把握することが出来ない。空気の抜けたような声を発して涎を垂れ流しながら、暗転しようとする意識を何とか繋ぎ止める。
「何故この仮想空間『ナイン・ゴッズ』の世界で痛みが……何て事考えてるんでしょ?」
 まるで彼の心の声を代弁するかのように彼女は言った。
 この『ナイン・ゴッズ』という名前の超巨大仮想空間には、現実世界からほぼすべての感覚を持ち越せる――痛覚を除いて。
「でもね、世の中何にでも例外って物があるのよ」
 暗い光を放つ剣を右足から引き抜き、彼の胸元に標準をあわせ直す。
 彼の目が恐怖に染まり、何かを叫ぼうと口を開きかけた。
「サヨウナラ」
 しかしその言葉が発せられる前に、彼女は短く言うと、自然な動作で黒い剣を彼の体に滑り
込ませた。重力に逆らうこともなく、途中何の抵抗感もなく、黒い墓標が生まれる。
 それがこの仮想世界、そして現実世界での彼の最期だった。

 ――Off Line――
■Viewer Name: 神薙秋雪みなぎあきゆき Place: マンション自室 PM2:54■
[またもアクセス中に死亡。『ナイン・ゴッズ』に熱中しすぎか?]
 A地区、第五ブロックに乱立するマンションの一つ。その最上階にある自室で、端末のモニターに映し出されたフォントの大きな文字を見て、神薙秋雪は溜息をついた。
(また、か……)
 軽く伸びをして背中を反らし、革張りの椅子の背もたれに体重を預ける。体にフィットするように自動変形していくのを感じながら、秋雪は窓の外に視線を向けた。
 丸みを帯びた壁にはめ込まれた、曲線的なフォルムのガラスの向こうでは、叩き付けるような雨が降り続いている。
(これで、五人目か。いくらなんでも、ココまで続くと事故では済ませられないだろう。そろそろ、管理者補佐システム・エージェントが動いてもいいはず……)
 椅子から立ち上がり、窓際に近づく。眼下には煌びやかに輝き続ける極彩色の光。それらは暗い街を照らす灯りであり、エアカーのヘッドライトであり、そして特殊な生物の眼の光でもあった。
(しかしよく降るな。コレで三日目だ)
 視線を上げる。雲を模した人工浮遊粒子の塊からは、化学反応によって生み出された水が際限なく溢れ出ていた。
(政府もあんまりだよな。そろそろ晴れにしてくれてもいいのに。おかげで……)
「たーいーくーつーじゃー!」
 秋雪の背中に、気持ちのいいほど不満と不平を孕ませた声が届く。後ろをふり返り、その主を方に顔を向けた。
「秋雪ー、ワシはもー退屈で死にそうじゃー!」
 ボブカットにまとめた黒髪をブンブンと勢いよく左右に振りながら、高い地声を精一杯低くして、少女は駄々をこねている。続いてソファーの上で力一杯跳ね、現状打破をこれでもかと懇願していた。
「ああー、沙耶。そんなに跳ねると下の階の人に迷惑ですから。やめて下さい」
 うがー、と叫びながら、体全体で文句をまき散らしている沙耶の方に慌てて秋雪は駆け寄る。紅地に白の絹糸で、羽根の線画が刺繍された着物を押さえつけ、強引に沙耶の動きを止めた。
「秋雪ー、ワシは外に出たくてたまらんぞー」
 沙耶は眉間に皺を寄せて相変わらずの渋面を返す。
「こんな日に外に出たら、ドロドロになってしまいます。そんなに暇なら『ナイン・ゴッズ』でもしますか?」
「秋雪と一緒にアクセスできんのでは、つまらん」
 ぷいっ、とそっぽを向いて沙耶はほっぺたを膨らませる。実年齢はそこそこ有るのだが、この幼い仕草と、どう見ても子供の外見のせいで、せいぜい十歳くらいにしか見えない。
「でも、ココでじっとしているよりは、思いっきり体を動かせるようになりますよ?」
 秋雪は柔和な笑みを浮かべて、ソファーの背もたれに隣接しているスチールボードに手を伸ばす。そしてその上にあった、黒い輪を掴んで沙耶の目の前に差し出した。
「はい、アクセスバンド」
 それは現実世界と仮想世界を繋ぐ物。頭に装着することで、微弱な脳波をも読み取り、仮想世界のキャラクターへとアウトプットする。脳から発せられる電気信号のパターンをデジタル化し、リアルからバーチャルへ、そしてバーチャルからリアルへとフィードバックする事も出来る代物だ。アクセスした仮想世界で感じた、匂いや手触りといった感覚を大脳皮質を通じてダイレクトに体感できるようになっている。ただし、痛覚の信号だけは遮断される。
「うー……」
 どこか恨めしそうな顔つきで、アクセスバンドを睨みながら沙耶は唇をとがらせた。そしてしばらくの逡巡を見せた後、はぁーぁぁぁぁぁ、と大げさに溜息をついて見せ、
「仕方ないのぅ……」
 渋々と言った様子で沙耶がアクセスバンドに手を伸ばした時、部屋にチャイムの音が響いた。
《来客者です。男一名、女一名。心拍数正常。武器反応無し。音声を繋ぎます》
 続いて機械音声が来訪者のおおざっぱ情報を告げる。
『九綾寺です。神薙君、ちょっとお話があるんだけど、いいかしら?』
 何か遮蔽物を介して聞こえて来るような、くぐもった女性の声。その声と名前を聞いた瞬間、秋雪の心臓が跳ね上がった。
「誰じゃ?」
 少し引きつった秋雪の表情を面白そうに見ながら沙耶は聞く。
「え、えーと。僕の会社の上司です……」
 平静を装って言いながらも、悪い考えが頭の中を駆けめぐった。
「は、はい。少々お待ち下さい。すぐに開けますから」
 震える声で秋雪は答えた後、おぼつかない足取りで白い壁に近づき、吸い込まれるようにしてもたれかかった。そして内蔵されたパネルを操作する。壁に埋め込まれたディスプレイに映し出されたのは紛れもなく秋雪の上司、九綾寺水鈴くりょうじみすずだった。
 肩口で切り揃えられた茶色いストレートヘアーは、わずかに湿気を吸って濃さを増している。長く麗美な睫毛。強い意志を顕現させたような二重の大きな瞳。
 体に吸い付くようにフィットした蒼いスーツに身を包み、腕を組みながら悠然と構えるその格好は、無慈悲な断罪人すら彷彿とさせた。
《声紋確認。指紋確認。網膜パターン一致。マンション・エントランスの施錠を解除します》
 パネルに秋雪の個人情報を入力し、天井から機械音声でそう告げられたのを確認して待つこと一分。再び鳴ったチャイムに体を震わせつつも、秋雪は自室のエントランスへと足を運ぶ。
「ど、どうぞ」
 うわずった声で自信なさげに言い、自動ドアをスライドさせて上司を部屋へと招き入れた。
「有り難う。お邪魔するわ」
 口の端がわずかに動く程度の必要最低限の笑みを浮かべ、水鈴はヒールの高い靴を脱いで部屋へと上がる。柑橘系の香水の匂いをわずかにさせながら、秋雪の横を通り過ぎた。
「へぇ、良い部屋に住んでるじゃない。家賃高いんじゃないの?」
 そのまま無遠慮にリビングまで行くと、部屋の中を物色するかのように視線を這わせる。水鈴は眼を細めながら室内のインテリアを一つ一つ値踏みしていった。
 本来ならば不快感を露呈させても何の不思議もないのだが、今の秋雪にはそちらに神経を割くだけの余裕はない。
「そ、それで。どのようなご用でしょうか?」
 眼を泳がせながら腰を低くして、恐る恐る秋雪は訊ねる。
 その言葉には答えずに、水鈴は黒い革張りのソファーに腰を下ろした。無駄のない仕草で足を組み、秋雪に試すかのような視線を向けてくる。
「ねぇ、神薙君。貴方、今の仕事好き?」
 秋雪の心音が早鐘を打ち始めた。ただ、その場に立ちつくしたまま吃音のように意味を成さない言葉を紡ぐ。そんな様子を見かねたのか、水鈴は溜息を一つつき、
「別に深読みしなくて良いのよ。単純な質問として捕らえて」
 ニッコリ、と営業用の完璧な笑みを浮かべてみせた。
 しかしそうは言われても、秋雪としては言葉を額面通りに受け取ることは出来ない。これまでの自分仕事ぶりをふり返り、致命的なミスを犯していないかどうかを確認していく。
「もう一度聞くわよ? 貴方はこのまま、『ナイン・ゴッズ』にサービスを提供する仕事を続けていきたい?」
 秋雪の勤めている会社は、超巨大規模の仮想世界である『ナイン・ゴッズ』のプレイヤーに様々なサービスを行っている。現実世界では感じることの出来なくなった草木の匂い、虫の声、潮の香り、太陽の光。高度に発達した科学力の代償として失ってしまった、自然と言う名の『商品』に対するニーズは衰えることを知らなかった。それだけにライバル会社も多い。
 そんな中でも秋雪の会社は、単体で三分の一のシェアを占めるほどの大企業だった。
「も、勿論です!」
 体を硬直させたまま、秋雪は力一杯叫ぶ。それが、今秋雪に出来る精一杯の自己主張だった。
「そう……」
 水鈴はどこか残念そうに言って瞑目する。次に瞳が開かれるまでの時間が、悠久の如く感じられた。
「じゃあ、頑張らないとね」
 眼を開くと同時に挑発的な笑みを浮かべ、彫像のように立ちつくしている秋雪を見上げる。
「は、はい!」
 訳も分からぬまま、秋雪はただ大声で返事をするしかなかった。まるで生きた心地がしない。生殺与奪の権を握られ、ただ弄ばれているだけ。
(な、なんで、せっかくの休日にこんなにストレスを感じなければならないんだ?)
 サラリーマンの哀愁を漂わせながらも、内心毒づく。
「もう、ええやないか。そのくらいにしたれや」
 水鈴の次の言葉を待っていると、別の所から知らない声がした。
 部屋の隅。滝の流れを七色の光で再現したオブジェにもたれかかりながら、声の主は面白そうに微笑していた。
「お前の気持ち分からんでもないけどな、そんな言い方やったら話し進めへんで」
 特徴的な喋り方をする男は、気怠そうに髪をかき上げ、水鈴の座っているソファーに近づく。歩くたびに腰まである長髪が揺れた。
「お前、誰だ。いつの間に上がり込んだ」
 警戒の色を強め、秋雪は男を睨み付ける。
 肌の上に直接纏った白いシャツ。ズボンは所々に穴が開き、地肌を露出させている。首に掛けた銀製のクロスをいじりながら、男はさも意外そうな顔つきで返した。
「何ゆーとんねん。俺は最初からおったで。お前が気付いとらんかっただけや。よっぽど恐かったんやなー、水鈴の事が」
 くっく、と声を押し殺して笑いながら、水鈴の隣に大仰な振る舞いで腰掛けた。その拍子にシャツの胸元がわずかにはだけ、下にある白い肌が見え隠れする。
 男は、その怠惰で横柄な雰囲気とは裏腹に、驚くほど体の線が細い。喋らなければ、女性と見間違えられてもおかしくはない程だ。
「九綾寺さんの知り合いですか?」
 秋雪は男から目をそらせないまま、水鈴に話をふった。しかし水鈴は答えない。男が隣に座ったとたん唇を横一文字にきつく結び、押し黙ってしまっていた。
「コイツは俺の管理者補佐システム・エージェント。で、俺は『ナイン・ゴッズ』の管理者の一人、夜崎倖介やざきこうすけや。リアル体で会うんは初めてやな、レノンザード。随分さがしたで」
 水鈴の代わりに発した男の言葉が秋雪に戦慄をもたらす。
「『ナイン・ゴッズ』の管理者……お前が……?」
 仮想世界『ナイン・ゴッズ』は九人の管理者によって統治、運営されている。そして、各管理者の下には、実働部隊として十人前後の管理者補佐システム・エージェントがつく。『ナイン・ゴッズ』内では、管理者補佐システム・エージェントの力はほぼ絶対的であり、一般プレイヤーに倒されることはない。それ故に、ステータスを改算する不正者や、一般プレイヤーを殺す事を目的としているプレイヤー・キラー等の『犯罪者』の始末屋として動くことが多い。
「そうや、俺のハンドルネームは『マオル』。前任者が辞めて、俺に代替わりしたんや」
 言いながら胸ポケットからタバコを取り出して火をつけた。黒いフィルター。わずかに麻薬性の物質が含まれていることを示している。当然、非合法物だ。
「九綾寺さん。本当なんですか?」
「なーんや、疑り深い奴やなー」
 紫煙をくゆらせながら、倖介は今の状況を面白そうに見守っている。隣にいる水鈴は、黙ったまま秋雪の声に首肯した。その表情はどこか悔しそうに見える。
「そうか……お前が今の『マオル』……」
「水鈴の言うことやったら素直に信じんねんなー。まー、直属の上司の言うことやしな」
 目の前のガラステーブルに置かれた、水晶の水差しを灰皿代わりにしてタバコをもみ消すと、倖介はおもむろに立ち上がった。
「で、こっからが本題なんやけどな、レノンザード」
「誰のことだ?」
 秋雪は真剣な表情で返す。その答えを半ば予測していたのか、倖介は動じることなく続けた。
「とぼけても無駄や。管理者IDってのは特殊でな。それ使って『ナイン・ゴッズ』にログインしたら最高管理者の久遠には分かる仕組みになっとる。あとは、その反応を追ってログアウト時の現実世界住所ホームアドレス分かったら、そっからお前の居住場所も割り出せるっちゅーこっちゃ。ま、当然久遠の最高管理者権限が必要なんやけどな」
 説明しながら、ソファーの後ろのスチールボードに置かれた球体のスイッチを入れる。直径五十センチメートルほどの蒼い球体は、淡い光を発しながら、わずかに浮かび上がった。
「なかなかシャレとる」
 インテリアの一つを満足げにいじりながらね倖介は秋雪の方に向き直る。
「なるほど、僕が管理者を抜けたときにIDを剥奪されなかった理由がようやく分かったよ。つまり、まだ僕は久遠の手中なわけだ」
「そーゆーな。久遠はお前にまだ未練があるんや。お前に戻ってきて欲しいんや」
「僕には重大な『欠陥』が有る。お前だってソレを知らない訳じゃないだろう?」
「久遠はその『欠陥』を高く評価しとる」
 即答した倖介に、秋雪はどこか自嘲的な笑みを浮かべながら、窓際のサイドボードに腰掛けた。両端に備え付けられたセンサーが秋雪を認識して、局地的に重力を緩和し、不可視のクッションを生み出す。
「で、何をして欲しいんだ?」
「話しが早くて助かるわ」
 もう一本タバコを取り出し、火をつけながら倖介はサイドボード横の椅子に座り直した。
「例のプレイヤー・キラーの事は知っとるやろ」
「ああ、有名だからな。『ナイン・ゴッズ』を介して、リアル体を殺してるんだろ?」
「ご明察。流石やな」
 相変わらず降り続く、窓の外の雨にぼんやりと視線をやり、倖介は続ける。
「仕事の内容は単純や。そのプレイヤー・キラーを何とかして欲しい。手段は問わん。IDを使用不可能にしようが、キャラクターをデリートしようが、リアル体を殺そうが何でもええ。とにかく、このまま放置し取ったら客がビビって逃げてまうからな」
 人が『ナイン・ゴッズ』に求める物は、安全の保証された危険。致命的なリスクを支払うことなく、圧倒的なスリルを味わう事。現実世界では、実現不可能なことをアッサリ可能にしてくれる『ナイン・ゴッズ』は、今の人々の最大の娯楽と言って良かった。
 しかし、その仮想世界が実は死と隣り合わせだとしたら、プレイヤーはかなりのリスクを背負うことになる。
 それに『ナイン・ゴッズ』は民間ではなく、政府の運営する超体感ネットゲームだ。『ナイン・ゴッズ』での不祥事は、政府の威信に直接響く。
「まぁ、俺らも躍起になって探してるんやけどな、なかなか尻尾つかめんのや。痕跡も残さんよーに巧いことやっとる。結局の所、人海戦術で攻めて、現場押さえるしかない。で、お前に白羽の矢が立ったわけや」
 首だけを秋雪の方に向けて、倖介は悪戯っぽい笑みを浮かべてみせる。
「『電子トラップ』、お前の得意技やろ。あれやったら、何とかなるんちゃうか思ーてな」
 腕を組んで黙したまま、秋雪は倖介の言葉を聞いている。いっさいの感情を押し殺し、錐のように眼を細めながら、足下の絨毯に視線を落とした。
「報酬は管理者IDの剥奪。これで晴れて自由の身って訳や。もー、久遠はいっさい干渉はせえへんらしい。どうや、悪い条件やないやろ」
 倖介はズボンのポケットから取り出した紐で、長い髪をうなじの辺りで纏め上げる。女性的で端麗な貌が露わになった。
「僕が拒否したら?」
「まー、その場合はコッカケンリョクのランヨウも考えんとな」
 そう言って、楽しそうに笑う。
 政府の運営する『ナイン・ゴッズ』。その管理者からの直々の依頼だ。殆ど強制に等しい。
「それに、お前は久遠に借りが有るはずなんやろ? ソレ返すええ機会ちゃうんか?」
 紅坂久遠こうさかくおん――実質上、管理者の中でトップに立つ人物。そして、秋雪の『欠陥』を解消できた唯一の女性。暴走していた秋雪が、今こうやって普通に暮らせているのは久遠の功績だ。
「分かった」
 過去を回想しながら、秋雪はぽつり、と呟くようにして言った。
(報酬の件はともかく、僕が久遠に借りを返さなければならないのは事実だ)
 鋭い視線の先に、複雑な思念が入り混じらせる。
「よっしゃ決まりやな。ほしたら、しばらくは会社休んでこっちの仕事に精出して貰うで」
 出窓に置かれた光彩色を放つ水槽にタバコの吸い殻を投げ入れると、倖介は水鈴の方を見た。
「聞いとったやろ、水鈴。こーゆー事情でコイツは会社の方しばらく行かれへんから、お前が巧いことやったってくれ」
 倖介に話を振られ、コレまで黙って二人の会話を聞いていた水鈴が、何か思い詰めたような表情で顔を上げた。そして、怜悧な視線で倖介を射抜く。
「夜崎さん。試させて下さい」
「へ?」
 あまりにも鋭い水鈴の視線にたじろぎながら、倖介は素っ頓狂な声を上げる。
「彼が、神薙君が本当に管理者の一人、レノンザードかどうか。私に試させてください」
 水鈴は今まで溜めていた力を一気に放出させたかのように、勢いよく立ち上がった。
「た、試すって、お前……何する気や……」
 話は終わった物だと思いこんでいたのだろう。倖介は秀麗な顔立ちを面白いくらいに崩しながら、水鈴を見上げた。
「簡単ですよ。彼と一緒に『ナイン・ゴッズ』にログインして、戦うんです」
「へー!?」
 開いた口が塞がらない表情とはこのことを言うのだろう。倖介は予想だにしなかった展開にただただ、唖然として水鈴を見つめている。
「このままじゃ納得行きませんよ。いままで、自分より下だと思っていた人間が、実際は遙か上にいただなんて。会社で彼を擁護するという夜崎さんの命令はちゃんとこなします。ただし、その前に私自身に納得させてください。彼が本当に、私の労力を費やして保護するべき人材なのかどうかを」
 瞳に強い意志を宿して、水鈴は倖介を見下ろしながら早口で告げる。こうなってしまっては、管理者と管理者補佐システム・エージェント、どっちの権限が本当に上なのかすら疑問に感じてしまう。
「あー、こいつは一度言い出すと聞かへんからなー。優秀な奴なんやけど……」
 疲れた顔つきで頭を掻きながら、倖介は秋雪の方を見る。
「お前はええか?」
「は、はぁ……」
 秋雪も予想外だったのか、気のない返事を返すだけ。さっきまでの張りつめた空気が、霧散してしまっていた。
(まぁ、ある意味当然か……。プライドの塊みたいな人だからな)
 政府公認の『ナイン・ゴッズ』での権限はある種の資格的な要素も孕み、現実社会の地位にすら影響を及ぼす場合もある。特に、秋雪の会社のように『ナイン・ゴッズ』にサービスを提供することを主目的としている様な場合はなおさらだ。
 権限が高ければ高いほど、行動範囲は広がり、行使可能デバイスのランクも上がる。そうなれば、不満要素も見つけやすくなり、そこに新たなサービスを導入することによって会社に貢献できるようになる。
「まぁ、ほしたら後は任すわ。ちゃんと手加減したれやー」
 面倒臭そうに言うと、倖介はエントランスとは逆にあるリビングのドアを開け、姿を消した。
「さぁ、始めましょうか」
 両眼に爛々と妖しい輝きを滾らせて、水鈴はバッグから自分のアクセスバンドを取り出し、頭に装着する。
「えーっと、それじゃお手柔らかに頼みますよ」
 秋雪は本心から言っているのだが、水鈴にとっては極上の挑発としか受け取れないのだろう。
「喋ってないで早く用意しなさい!」
「は、はいぃ!」
 水鈴の恫喝に怯えた声を上げながら、秋雪は急いでスチールボードからアクセスバンドを取り上げる。
「それじゃ、行くわよ!」
 いつの間にかバッグから取り出した携帯型ログイン端末を起動させ、目の前のガラステーブルに置いた。端末のモニターが自動的に『ナイン・ゴッズ』へのアクセス画面を表示する。水鈴は手慣れた手つきで、その画面に自分のIDとパスワードを打ち込んだ。そして目をつぶり、ソファーに深く腰掛ける。
「く、九綾寺さーん?」
 秋雪は恐る恐る声を掛けるが、返事は帰ってこない。どうやら、ログインしたようだ。
(どうしてこうなるんだ?)
 溜息をつきながらアクセスバンドを頭に着け、秋雪は水鈴と並んでソファーに座る。そして、同じアクセス画面に十六桁のIDを打ち込んだ。いつも会社で使っている物ではない。
 管理者、レノンザードのIDだ。
《管理者IDを確認しました。五秒以内に第一パスワードを入力してください》
 端末から突然、音声案内が告げられる。それに動じることなく、秋雪は十桁のパスワードを打ち込んだ。
《第一パスワード確認。五秒以内に第二パスワードを入力してください》
 続けて、十二桁の第二パスワード、そして二十桁の第三パスワードを打ちこむ。
《マスターキーを入力してください》
 秋雪は端末の右端に備え付けられた、小型センサーに右手の人差し指を添えた。
《……照合完了。ようこそ、管理者レノンザード様》
 機械音声がそう告げると同時に、意識レベルが徐々に下降して行く。アクセスバンドがわずかに締まり、秋雪の頭の大きさにピッタリとフィットした。痺れるような感覚を脳内に感じ、現実世界と仮想世界とのリンクが終了したことを認識する。
 もう、指先を動かすことも出来ない。睡魔にも似た、心地よい混濁感に襲われ、秋雪はゆっくりと眼を閉じた。




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