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ナイン・ゴッズ―秋降る雪は永遠に―

 ――Off Line――  
■Viewer Name: 夜崎倖介 Place: A地区 総合病院 エントランス AM6:12■
「ほんで、どうやった? レノンザードの実力は?」
 A地区にある総合病院。一階の待合室で夜崎倖介は、一人の看護婦とガラステーブルを挟んで向かい合い、タバコを吹かしていた。
「院内は禁煙ですわ。そんな常識も知らないんですの?」
 清潔感溢れる白いナースキャップとナース服に身を包んだ看護婦は、溜息混じりに冷たく返す。彼女が着ている服は、埃や雑菌をはじく特殊シートでコーティングされたクリア・スーツ。この病院では極々当たり前の装備だ。
「へーへー、そりゃすまんのー」
 言いながら、壁に開いた半径三十センチほどのエア・ホールに吸い殻を投げ入れた。ゴミ箱として使用されているソレの出口は、直接ゴミ処理施設に繋がっている。これも院内を清潔に保つための器具だ。
「で、那緒。実際に手合わせしたんやろ?」
 重力緩和装置の内蔵されたソファーに体を預けながら、倖介は看護婦――葛城那緒――にもう一度最初の質問をした。
「まぁ、ほんの少しですけど」
 シャギーカットの紫がかった髪の毛を、片手で整え直しながら倖介から視線を外す。僅かにずれたフレームレスの眼鏡の位置をなおし、軽く嘆息した。
「で? で? 凶暴性は? ミュータント・キラーって言われるだけのことはあったんか?」
 まるで子供のように目を輝かせながら身を乗り出し、倖介は那緒の言葉を促す。
「ええ、こっちの話を聞く前にいきなり……。わたくしが管理者補佐システム・エージェントでなければ確実に死亡判定になっていましたわ」
 再び倖介に視線を戻し、少し顔をしかめた。左目の泣きボクロがそれに合わせて動く。
「そーか! やっぱりか! そーか、そーか!」
 うんうん、と何度も頷きながら、自分のことのように歓喜の声を上げた。
「貴方の方はどうなんですか?」
 薄くリップクリームを引いただけの化粧っ気の無い顔で、真っ正面から倖介を見据えながら、那緒は語調を微かに強めて言う。それを受けて倖介は片眉を上げて見せ、
「暗黒街でおもろい話聞いてきた。お前の話と合わせて『刃』と秋雪が同一人物やっちゅう可能性が高まってきたで」
 得意満面でそう答える。その答えに那緒は深い溜息をついた。
「貴方、それは最初から久遠様がおっしゃられたことじゃないですか」
「アホ。あんな根暗女の言うことなんか信用できるか。アイツは、俺らを駒としか思ってないような奴やぞ」
 ハンッ、と鼻を鳴らし、倖介は尊大な態度で半眼になる。
「久遠様はすばらしい御方ですわ。まぁ、貴方のような品性下劣な方には到底理解できかねますでしょうけど」
「なー、あの冷血、四角四面年増のどこがええんや」
 足を組み、あきれ顔になって倖介は聞き返した。
「すべてですわ。優雅な立ち振る舞い。どこか憂いを含んだ視線。引き締まったスレンダーなお体。センスのいい服装」
 胸元で両手を組み、恍惚の表情となって那緒は熱い吐息を吐く。
「地味で無愛想で貧相な体つきしたロボット女の間違いちゃうんか?」
「それでしたら貴方は、低能で愚鈍で滑稽な、本能のままに行動するフンコロガシですわね」
「ほぅ……」
 低い声で呟くようにして言いい、倖介は目をスッと細めた。
「ほんならオノレは、チビでまな板胸で寸胴なゾウリムシっちゅうところやな」
 那緒の体を頭の上からつま先まで、なめ回すようにねちっこい視線で観察ながら、負けじと倖介が返す。
 確かに、那緒の身長は平均女性よりは低く、バストも非常になだらかな丘陵でしかなかった。そして、それは那緒にとって一番のコンプレックスだったのだろう。顔を紅潮させて勢いよくソファーから立ち上がった。しかし急に冷めた顔つきになると立ったまま腕を組んで言い返す。
「あーら、貴方こそ、そーんなお綺麗なお顔してらっしゃるんですものー。コッチ系の方からお誘いが来るんじゃなくって?」
 右手の甲を左頬に添え、那緒は倖介を見下ろしながら言った。
「俺はゲイちゃうぞ!」
 力一杯叫んで立ち上がり、必死の形相で抗弁する。目尻に何か熱いモノが生まれた気がした。
「だ、誰も、そこまで言ってませんわ」
 予想外の激しい反応に那緒はたじろぎつつも、何とか言い返す。
「ま、まぁええわ。こんな事続けてても不毛なだけやし、そろそろ本題に入ろか」
「ええ、もっと建設的な議論をしましょう」
 二人はソファーに座り直し、同時に頷いた。
「で、秋雪はちゃんとこの病院に来る手はずになっとんのやな?」
 窓の外を見ながら倖介は那緒に問う。夜が明け、うっすらと明かりが差し込み始めていた。
「ちゃんとA地区在住のプレイヤーが残っていることは確認しました。致命傷にはほど遠いですが、自宅で放置できるほど軽い傷でもないでしょう。もうすぐ、運ばれてくると思いますわ」
 那緒の答えに、倖介はどこか釈然としない表情で、浅く頷く。
「何か不満でも?」
「いや、お前に対してやない。久遠に対してや」
 倖介はタバコに手を伸ばしかけたが、那緒の視線を感じて戻した。手持ちぶさたになった手で頬杖をつき、いつになく神妙な面もちで続ける。
「久遠の目的は秋雪を殺すこと、やろ?」
 視線だけを那緒に向け、確認するように聞いた。
「そうですが」
 早朝とはいえ当直の人間はいる。那緒は周囲を見回して、誰もいないことを確認した。
「それやったら、なんでこんな回りくどいことするんや? だいいち、秋雪を殺すことと『リバース・アピス計画』に何の関連があんねん」
「ちょっと、こんなところで……!」
 さすがに那緒は狼狽の色を浮かべて、倖介の言葉を収めようとする。それを無視して倖介は続けた。
「アイツが邪魔なんやったら、もっとストレートにやったらええんちゃうんか。俺やったら、そうするけどな」
「……あまり、よからぬ事はお考えにならない方がよろしいかと。久遠様には久遠様のご事情があるのでしょう」
「ま、お前は久遠の管理者補佐システム・エージェントやからな。それでも納得できるんやろ」
 倖介は視線を右上に上げ、しばらく思索に耽る。
 手を口元に持っていき、中空のどこかに焦点を絞って、穴でも開けんばかりに視線を強めた。
 那緒に不安げな表情で見守られながら、しばらくその状態でいた後、倖介は突然脱力したような声を上げる。
「まっ、えーわ」
 表情を一変させて嘆息した。まるで憑き物が落ちたかのように、胸のすく思いだった。
「ほんなら俺はそろそろ退散するわ。秋雪にはツラ割れてるからな。ほしたら後は任せるでー」
 那緒が何か声を掛けようとする前に、倖介は席を立ち、軽快な足取りで病院を出ていった。

■Viewer Name: 神薙秋雪 Place: A地区 総合病院 五〇四四号室 AM9:35■
「よかったよ、大したこと無くて」
 巨大なカプセルの上半分を切り取った様な形のベッド。その傍らに用意された椅子に座り、横になる少女を見ながら、秋雪は安堵の息を吐いた。今、彼女の体には医療用に強化されたヒーリング・レイが照射されている。コレによって、新陳代謝を大幅に増強し、怪我の治りを早めていた。
「スイマセンね、こんな事までして貰っちゃって」
 十五歳位の少女は、はにかんだ笑みを浮かべながら、丸みを帯びた頬を指で掻いた。頭に巻かれた治癒包帯が痛々しい。
「アタシ一人暮らしだったから……貴方が来てくれなかったらヤバかったかもしれないです。でも、よくアタシの部屋分かりましたね。『ナイン・ゴッズ』で助けて貰ったときにはろくに喋れなかったのに」
「まぁ、ちょっしたタレコミがあってね。君を襲った犯人の仲間と思われる人物から」
「アタシを襲った……」
 秋雪の言葉に少女の顔つきが変わる。パッチリとした二重の大きな目が、何かに怯えるように小さくなり、顔を俯かせて下唇をギュッと噛み締めた。ストレートのショートヘアーが、それにつられて小さく揺れる。
「つらいのはよく分かるよ。でも、良かったら聞かせてくれないかな。襲われたときのことを」
 秋雪は少女を極力気遣いながら柔和な笑みを浮かべ、優しい口調で語りかけた。
 少女は、しばらくの逡巡を見せた後、秋雪とは視線を合わせないまま力無く首肯する。
「ありがとう」
 ニッコリと微笑みかけ、秋雪は両手を組んでゆっくり口を開いた。
「えっと、それじゃあとりあえず君の名前を教えてくれるかな」
 その言葉に、少女は口を開けたまま顔を上げる。
「そ、そう言えば自己紹介がまだでしたよね。アタシ、九綾寺未玖っていいます」
「九綾、寺……?」
 聞き慣れた名字に秋雪は思わず聞き返した。
(まさか、な……)
 胸中で僅かに生じた嫌な予感を、咳払い一つして何とか頭から追いやり質問を続ける。
「あ、僕は神薙秋雪っていいます。よろしく」
「よろしくお願いします」
「それじゃあ、九綾寺さんの思考具現化端末デモンズ・グリッドのランクはどのくらいかな」
 言われて未玖は恥ずかしそうにほっぺたを掻き、苦笑混じりに答えた。
「Eですよ。あはは……低いでしょ?」
「え……?」
 予想とは反する答え。戸惑いを感じつつも、秋雪は次の質問に移った。
「じゃあ、九綾寺さんが襲われた状況は? 襲われた理由とか覚え有る?」
 未玖は人差し指を顎に当てながら視線を中に泳がせ、窓の外を見つめる。その時の記憶を掘り起こしているのだろう。そのままの状態でたっぷり二分は考えた後、秋雪の顔を見て答えた。
「理由は……ちょっと思い当たらないですね。アタシ達のパーティーは、後ろ暗いクエストを受けたこともありませんし、誰かに恨みを買うほどみんな強くないですしね」
「えーっと、ひょっとして君以外は全員……?」
「はい。Fランクです」
 未玖の言葉に秋雪は小さく唸る。
(やはり、Fランクが狙われてるのは間違いない。彼女はEランクだったから見逃したのか? けど、ヘタをすれば足が着くような危険を冒してまで遵守するほどの課題なのか?)
 腑に落ちない事が多すぎる。AとFランクのプレイヤーだけが狙われる理由すら分かっていないのに例外が生じてしまっては推論も難しい。仮説の上に仮説を立てることになりかねない。
「じゃあ、さ。別の質問なんだけど。襲われた時、ログアウトして逃げられたプレイヤーはどのくらい?」
 『ナイン・ゴッズ』からログアウトするためには三十秒の待機時間が必要になる。しかし被害にあったプレイヤーの数を見ると、何人かはログアウトで逃げられるだけの時間は確保できたはずだ。だが未玖はその質問に対して首を横に振り、
「みんなやられちゃいました。アタシもログアウトしようと思ったんですけど、『上位からのシステム介入によりログアウトを実行できませんでした』って言われて……」
(ログアウトの遮断……そんなことできるとしたら久遠くらいなものだぞ)
 秋雪の脳裏で久遠の像がほくそ笑む。
 ロゼが犯人であるにもかかわらず放置されていること。久遠しか知らないはずの秋雪の過去を複数の人間が知っていたこと。どう考えても裏で久遠が関与しているとか考えられない。
(だがなぜ? 『ナイン・ゴッズ』での不祥事は、一般プレイヤーに不安を抱かせるだけ。久遠にとって不利益しか生まないはず。それとも、その不利益の向こうに莫大なメリットが有るのか?)
 先日、『ナイン・ゴッズ』で久遠と合った時に感じた違和感が再び秋雪を襲った。
 六年前に久遠を拒絶し、自分の意志で行動しているはずなのに、気がつけば久遠の掌で踊らされている。
「えーっと、神薙さんって管理者補佐システム・エージェントの方ですよね。例のプレイヤー・キラーを追ってるんですか?」
 今度は未玖の方から質問してきた。
 期待と好奇心に目を輝かせながら、ベッドから少し体を乗り出す。
「あ、ああ、まぁね」
 目線を泳がせながら秋雪は言葉を濁した。
「じゃあ、Aランクって事ですよね! 凄いです! 憧れちゃいます! 大尊敬です!」
「そ、そう?」
 傷口が開くのではないかと思うくらい上下に激しく頭をふりながら、未玖は目を大きく見開く。そこにはさっきまでの悲壮感はなく、目の前の希少人物に興味津々といった様子だ。
「だってAランクって言ったら、難しいタームコードとかバリバリ使ってオリジナルのコマンドラインを作成するんでしょ? アタシにはちょっと無理だなぁ。それに、管理者補佐システム・エージェントさん達が頑張ってくれているからこそ、アタシ達が安心して『ナイン・ゴッズ』をプレイ出来るんですもんねっ」
「えっ、でも、ほら。あんな事があったばかりじゃない。九綾寺さんもこの件が解決するまではログインしない方がいいと思うよ」
 至極当然の意見だ。一般プレイヤーが『ナイン・ゴッズ』に求める物はスリル。ただし、その本質は安全な恐怖と危険だ。現実世界で死ぬかもしれないというリスクを支払ってまで、誰がスリルを求めるだろう。
「どうしてですか?」
 しかし、未玖は意外そうに聞き返した。目を丸くして常識を覆されたような表情をしている。
「ど、どうしてって……。次は本当に殺されるかもしれないんだよ?」
「大丈夫ですよ。『ナイン・ゴッズ』に用意された大陸アピスは超巨大ですから。あんなプレイヤー・キラーと立て続けに出会う事なんて、ありませんって」
 リラックスしきった語調。それは単に楽観的と言うだけではなく、何か絶大な根拠に基づいた揺るぎない自信のようにすら見えた。
(あんな酷い目にあったのに……どうしそんな言葉が出るんだ?)
 腑に落ちない点がまた一つ増える。
「あの……」
 秋雪が何か言おうと口を開いたとき、突然真横の扉が音もなくスライドした。
「こちらが妹さんのお部屋です」
 紳士的な男性の声。
「未玖!」
 続いてヒステリックに響く女性の声。それは秋雪にとって非常に聞き慣れた声で……。
「や、やっぱり、そうですよね。珍しい名字ですもんね」
 完璧にコーディネートされた蒼のスーツ。見る者を圧倒する気品と風格。その一挙手一投足に完璧という文字がこれ程相応しい人物は他にそうはいない。
「神薙君!?」
「お、お邪魔してます……」
 驚嘆の声を上げてこちらを見つめる水鈴に、秋雪はただ申し訳なさそうに頭を掻くしかなかった。

■Viewer Name: 神薙秋雪 Place: A地区 総合病院 五階リフレッシュ・ルーム AM10:11■
 未玖の病室のすぐ前にある憩いのスペース。病院の建物自体からその場所だけが飛び出し、三方から光を取り込めるようになっていた。
「災難でしたね。こんなところで会社の上司に出くわすなんて」
 先程、水鈴を案内してきた医師は秋雪にカップを勧めながら顔を緩める。
 立体ホログラムが映し出す、恒久的な生を宿した観葉植物。それを囲むようにして配置された長椅子に腰掛け、秋雪は医師からカップを受け取った。中には燐光を放つ液体が注がれている。体内を浄化し、病気を予防する簡単なナノマシンが配合された医療用の飲み物だ。
「ハハ……まぁ、こういうこともありますよ」
 液体を少し口に含み、秋雪は疲れたような顔で返した。ミルクの味。喉を通るときに若干のザラツキが残るが、さほど気にならない。
「あ、挨拶がまだでしたね。私、先程の九綾寺未玖さんの担当医になりました、漣鏡一朗さざなみきょういちろうと申します。どうぞヨロシク」
 年上ウケしそうな低く甘い声で丁寧な礼をした後、鏡一朗は手を差し出した。
 短く切りそろえた黒髪。端正な顔つき。黒縁眼鏡の奥に息づく利発的な視線。すらりと伸びた背筋。およそ好青年という称号を得るに相応しい外見のパーツはすべて兼ね添えていた。
「あ、僕は神薙秋雪と言います。こちらこそヨロシク」
 その手を握り返し、秋雪は軽く頭を下げた。
「それで、あの。失礼ですが九綾寺さんとはどのようなご関係で?」
「……『ナイン・ゴッズ』で同じパーティーを組んでいた者です」
 正直に答える訳にはいかず、室内での会話を聞かれていないことを願って適当な嘘を返す。
「なるほど」
 その答えに鏡一朗は釈然としない表情を浮かべながらも、数回軽く頷いた。そして、クリア・スーツ仕様の白衣を邪魔にならない程度に太腿の辺りで緩め、秋雪の隣に腰を下ろす。
「と、言うことは九綾寺さんは、今話題のプレイヤー・キラーに?」
「ええ」
 秋雪の肯定に鏡一朗は何かを納得したのか、小さく何度も頷いて見せる。
「物騒ですよね、最近。でも、急にどうしちゃったんでしょうね。以前は、管理者補佐システム・エージェントがすぐに片を付けてくれた気がするんですが」
「そう、ですね」
 どこか気まずそうに答えながら、秋雪は鏡一朗の方を横目でのぞき見た。
(探られているのか? 病室での会話を聞かれていた?)
 これ以上、今の話題を続けるのは危険だと秋雪の脳が警鐘を鳴らす。ヘタをすると自分が犯人にされかねない。
「ところで、九綾寺未玖さんの容態はどうですか? 完治までどのくらい掛かりそうです?」
 秋雪が強引に話を変えた事に対して嫌な顔一つせず、鏡一朗は笑顔さえ浮かべて答えた。
「二、三日もすれば元気になりますよ」
「そう……」
 『ですか』と続けようとした秋雪の言葉は、未玖の病室内から聞こえてきた叫び声によって呑み込まれた。秋雪と鏡一朗の目が、同時に部屋の扉に向けられる。
「わ、分かったわ。それじゃあ今日のところは帰るから」
 扉が無音のままスライドし、中から水鈴か追い出されるようにして姿を現す。
「もう二度と来ないで! それと、アタシを妹扱いするのはやめて!」
 悲鳴混じりの怒声。声の主は未玖しか考えられないが、ボーイッシュでさっぱりした先程のイメージとはあまりにもかけ離れていた。
 扉を閉め悲壮感と共に深い溜息をつく水鈴。力無く上げた彼女の視線と秋雪の目が偶然合う。
「あ……」
 秋雪の視線は水鈴に釘付けになり、体を硬直させた。
 堅くなったその体を後ろから軽く叩かれ、耳元で囁くような声がする。
「それじゃ、私は妹さんの方を看ますので。あなたはお姉さんの方をよろしくお願いします」
 悪戯っぽい口調で言いながら、鏡一朗は秋雪の隣をぬけて未玖の病室へと向かった。
 それと入れ替わるようにして、水鈴が近づいてくる。秋雪にしてみれば意外すぎる行動だった。てっきり無視されるものだと思いこんでいた。
「神薙君。こんな所であったのも何かの縁ね。ちょっと、話さない?」
 予想を遙かに超える展開。秋雪は惚けたまま、首を縦に振るしかなかった。

■Viewer Name: 神薙秋雪 Place: A地区 総合病院 エントランス AM10:35■
 病院、一階の待合室。清潔感漂う白で満たされた空間。その隅に並ぶソファーの一つに、秋雪と水鈴は二人並んで腰掛けていた。
「調査の方はどう? 順調?」
 光沢のある床を半球型のロボットが更に磨き上げていく様を、ぼーっと見ながら水鈴は秋雪に話しかけた。
「ええ、まぁ。接触はしました。ただ逃げられましたけど」
「そぅ……」
 気のない返事を返す水鈴。コレまでに秋雪が見たことの無い表情をした水鈴がそこにいた。いつも強気で自信にあふれ、的確な指示をとばしていた上司の姿は影もない。
 以前同僚に言われた言葉が秋雪の脳裏をかすめる。
『実はな。今、九綾寺さんがすっげートラブってんだよ』
(やっぱり……僕のせいなんだろうか……)
 自分が悩んだところで、どうしようもない事を頭では理解していても、そう簡単に割り切れる物ではない。
「九綾寺さんの方はどうですか?」
 殆ど無意識のうちに聞いていた。悪気があった訳でも、確認を取りたかったわけでもない。ただ、今の水鈴の姿があまりに痛々しく、少しでも吐き出すことでそれを軽減させてやりたかっただけだ。
 水鈴は秋雪の言葉にようやく顔をこちら向け、自嘲めいた笑みを浮かべて小さく言った。
「貴方に心配されるようになったらお終いね。私は大丈夫よ。問題ないわ。貴方一人くらい居なくても何とかなるって実感しているところ」
 いかにも水鈴らしい返答だと秋雪は思った。絶対に弱音は吐かない。まるで、何か果たさなければならない大きな使命を背負っているかのように。
「そうですか」
 微笑みながら秋雪は頷く。
(この人が大丈夫だって言ったんだ。なら、安心だ。強い人だから)
 少し、肩が軽くなったような気がした。
 それからしばらく、二人の間で沈黙が流れる。だがいつまで立っても、水鈴は次の言葉を発しようとしない。
 重苦しい空気が辺りを支配する。秋雪は所在なさげに、医師や看護婦が行き来するのを目で追って時間を潰すが、水鈴はいっこうに口を開く様子はない。
「あの……妹さんとは、あまり仲が良くないんですか?」
 ついに耐えられなくなり、秋雪は頭に浮かんだことを口にした。
 水鈴は秋雪の顔をちらりと横目に見たが、すぐに逸らして溜息をつく。秋雪の背筋に冷たい物が走った。聞いてはいけない質問だったかと、胸中で懸念する。
「あの子は、私の母親の再婚相手の男の娘」
 床に目をやったまま、水鈴は呟くようにして言った。
(えっ、えーっと……つまり……?)
「義理の妹よ」
 理解不能に陥っている秋雪を見透かしたように、水鈴は付け加える。
「仕事をクビになったまま何もしない私の父に母が愛想を尽かして離婚したわ。母は仕事先で、自分と同じ境遇の男に惹かれて再婚した。その男が連れていた子供が未玖ってわけ。あの子は父親が大好きでね。私や母に自分の父親を取られたって思ってる」
 悲しげに言ってこちらを向き、口元を少し弛ませる。
「とにかく、妹を助けてくれてありがと。一応、ちゃんとお礼を言っておきたかったの」
 水鈴は言い終えて立ち上がると秋雪の正面に移動し、くだけた口調で言った。
「貴方もさっさと終わらせて帰ってきなさい。そうすれば少しは私の雑務も減るでしょうから」
「あ……は、はいっ」
 秋雪の返事を確認して水鈴は踵を返すと、背筋を伸ばして胸を張り、堂々と病院を出て行く。その後ろ姿には、いつも通りの力溢れる雰囲気が見て取れた。
(元気付けるつもりが、逆に元気付けられたな)
「よし」
 左掌に右拳を叩き付けて気合いを入れると、秋雪はこれからやるべき事を頭の名が思い描く。
(まずはロゼの家を探さないとな。リアル体がどんな姿なのか知らないから、出来ればそれも調べられれば良いんだけど)
 管理者や管理者補佐システム・エージェント達の接点は基本的に『ナイン・ゴッズ』の中にしかない。現実世界でどこに住んでいて、どんな格好をしているかはお互いに知らないことの方が多い。理由は単純で、知る必要がないからだ。
 それに、いくら『ナイン・ゴッズ』内では絶大な力と権限を誇るとはいえ、現実世界では肉体的に一般人と何ら変わらない。となれば、悪意を持ったプレイヤー達が心ない行動に出る可能性も十分にあり得る。そういった不測の事態を回避するためにも、特別な事情がない限り個人情報は隠匿して置いた方が安全なのだ。
(久遠なら間違いなく知ってる。けど、彼女との接触は出来るだけ避けたい)
 管理者を管理する立場にある久遠であれば、ロゼの現実世界での情報もすべて握っているだろう。だが久遠が裏で暗躍していることは、ほぼ間違いない。目的が何なのかは分からないが、問いただしても秋雪が期待する答えは返ってこないだろう。ならば今は従順なフリをして、依頼を遂行しておいた方が得策だ。
(このまま久遠に恩を返して、管理者から抹消されればそれにこしたことはない。下手な好奇心で行動すると面倒なことになりそうだ)
 眼を薄く開き、打算を計算していく。
(メイン・サーバー『アピス』にハッキングするしかないな。どうせどこでやっても、見つかればすぐにバレる。なら、自宅でゆっくり腰を落ち着けて防衛策を弄するか)
 方針をまとめると秋雪はソファーから立ち上がり、病院を後にした。

■Viewer Name: 葛城那緒 Place: A地区 総合病院 五〇四四号室前 AM11:03■
 葛城那緒は九綾寺未玖の病室の前に立つと、二回扉をノックする。そして目線の高さに備え付けられたスリットにカードを通した。院内セキュリティのため、関係者以外は無断で病室内に入れないようにしてある。
「九綾寺さん、お薬の時間ですわ」
 言いながら那緒が中に入ると、そこにはすでに先客がいた。未玖の担当医、漣鏡一朗だ。ベッドで横になっている未玖と楽しそうに談笑していた。
「やぁ、葛城君」
 こちらに気付いた鏡一朗が片手を上げる。
「いらしたんですか、先生」
(貴方には他にやるべき事があるんじゃなくて?)
 窓際のテーブルに薬を乗せたトレイを置き、胸中で苦言を呈した。
「うん、九綾寺さんとのお話が楽しくてね」
 爽やかな笑みを返しながら、鏡一朗は白衣の下のネクタイを少し緩める。しばらくは居座るつもりのようだ。
(まぁ、好きにすればいいわ)
 再び会話に戻る二人を後目に、那緒は慣れた手つきで薬を調合していく。容器に数種類の白い粉をあけ、少量の水を加えてかき回した後、しばらく待った。那緒の見ている中で、混合薬は徐々に黄色くなって行く。
(あら)
 変色を見守る那緒の視界の隅に、よく知った人物が映った。
 腰まで伸びた長い黒髪。地肌を露出させたラフな格好。怠惰で横柄な雰囲気。夜崎倖介だ。
(あんなところで何をして……)
 窓から見下ろした場所にいる倖介は辺りを警戒しながら、物陰に隠れて移動している。どうやら誰かを尾行しているようだ。
(怪しさ大爆発ですわね)
 そう心の中でツッコんだ次の瞬間、高所からの失墜に似た悪寒が那緒の全身を駆け抜ける。尾行している相手に思いあたったのだ。
(あの単細胞、神薙秋雪に何かする気ですわ!)
「ねぇ、看護婦さん! どう思う?」
 那緒が慌てて病室を出ようと扉の方にふり返った時、唐突に未玖から声を掛けられた。
 出鼻をくじかれ、体を前傾させたままその場にとどまる。
「え……え?」
 未玖と鏡一朗。二人の視線が那緒に集中していた。
「『老魔導師の罠』ってクエストでね、謎掛けがあったんだー。それがどーしても解けなくて」
 未玖は那緒が話を聞いていなかったことを察したのか、さっきまで鏡一郎と話していたであろう会話をかいつまんで話し始めた。
 那緒はソレを聞き流しながら、もう一度窓の外を見る。すでに倖介の姿は消えていた。
(……まぁ、しょうがないですわ。別にわたくしがアイツの姿を見かけたのも偶然ですし、見なかったことにすれば責任問題にはならないでしょう)
 未玖の話しに適当に相づちを打ちながら、那緒は薬を置いた場所に戻った。変色はすでに完了しており、僅かに光沢を持っている。ソレを容器ごと未玖の前に持って行った。
「わー、キレー」
 とても薬とは思えない輝きに、未玖は目を光らせる。
(それに……アイツの言うことにも一理ありますわ。確かに神薙秋雪を殺すだけなら、こんな回りくどい方法を採る必要はありませんもの)
「あっ、おいしー。コレおいしいよ、先生」
「ハハハ、でも食べ過ぎちゃダメだよ?」
 殆ど上の空で未玖と鏡一朗の会話を聞きながら、那緒は更に思考を巡らせた。
(久遠様の真意は図りかねますけど、アイツの勝手な行動でヒントが見つかるかもしれない)
「そう言えば、先生ってどうしてお医者さんになろうと思ったの? やっぱりお父さんがお医者さんだったから?」
「……いや両親はね、私が小さいときに死んだんだ」
(ただ、仮にもミュータント・キラーと呼ばれた男。そう簡単に殺せるとは思えませんわ。多分、久遠様が直接手を出さない理由はこの辺りに……)
「そぅ、なんだ……。それじゃあ、やっぱりお父さんやお母さんみたいな人を一人でも少なくするためにお医者さんに?」
「いや、そんなに深い理由はないよ。それに私の両親は病死ではなく、殺されたんだ」
(それに、あの単細胞が死んだところでわたくしに何の不利益もない。むしろ久遠様を冒涜する輩が減ってくれるんですから大歓迎ですわ)
「あの……ごめんなさい」
「あ、ははは。いいよ、そんなに気を遣わなくても。別に悪気があったわけじゃないしね」
(どちらにしろ、わたくしの手は汚れずに面白い結果を見られそうですわね)
 思考を終え、那緒が目線を上げたその先に未玖の顔があった。なにやら神妙な顔つきでこちらを見つめ、すがるような目を向けてくる。
「え、えーっと……」
 状況がまるで把握できず、那緒は思いついたことをそのまま言った。
「わ、わたしくも先生みたいな生き方、憧れますわ」
 重々しい空気が病室に満ちた。

■Viewer Name: 夜崎倖介 Place: A地区 ライフスペース・ブロック PM0:56■
 可能な限り直線を排除し、丸みを帯びたフォルムで建造されたマンション。あらゆるの扉の開閉にバイオ・メトリクスが採用され、住人以外は入ることが出来ない。
 それ自体が淡い光を放つエメラルド・グリーンの蛍光塗料で覆われた、五十五階建ての建物。その最上階に秋雪の部屋はあった。
(ココまでは久遠の筋書き通りやな)
 秋雪の住むマンションの隣の建物から、倖介はコンタクトレンズ・タイプの双眼鏡で部屋の中をのぞき見ていた。
(秋雪はロゼが犯人やゆーことを突き止めた。突き止めるべくしてな。けど久遠を疑っとる。せやから、自分の力だけで何とかロゼの個人情報を探り出そうとする)
 視力を拡大する。秋雪はまだ部屋に入ってこないが、エントランスをくぐるところまでは確認した。すぐに部屋に現れるだろうが、今居るのは、猫と戯れている沙耶とかいう少女だけだ。
(メイン・サーバー『アピス』へのハッキング。アイツやったら何とかなるやろ。ま、何とかなるよーに、なっとるはずやなねんけどな)
 秋雪が部屋に返ってきた。沙耶は嬉しそうに飛びつき、猫も巻き込んで秋雪の体に頬ずりをしている。
(これで秋雪はロゼのリアル体とご対面。そこで衝撃の事実を知った後、『ナイン・ゴッズ』内で久遠に会おう思ったら、ロゼに遭遇。第二回戦の開始や)
 倖介は秋雪がアクセスバンドを頭に付けたことを確認すると、コンタクトレンズを外して裸眼に戻り、非常用のエアホースから地上へと降りた。垂直に設置された透明の円柱は、一定間隔毎に重力反転装置を内蔵している。ソレによって、どの高さから下りても地上に着く時には、階段を一段飛び降りるくらいの衝撃にまで緩和されていた。
(ところが、や。ここで予期せぬ事態っちゅうやつが発生するやなー)
 嬉しそうに顔を歪めながら、倖介は秋雪のマンションのエントランスまで来る。最初訪れたときに入手した秋雪の生体情報を記録したエンコーダーを、バイオ・メトリクスのセンサー部分に当て、本人になりすました。
 『お帰りなさいませ』という機械音声と共に、扉はいとも簡単に開く。
 このエンコーダーは勿論非売品。倖介が管理者になった時に、行使できる強制力の一つして支給された物だ。とはいえ実際に使うには久遠の許可が必要なのだが、そのプロテクトはすでに外されていた。
(ま、何でもお前の思い通りにはいかんちゅーこっちゃ)
 クック、と声を押し殺して笑いながら、倖介はエントランスをくぐり、エレベータに乗る。約十秒後、倖介は五十五階に到着した。秋雪の部屋の前へと移動し、マンション・エントランスと同じ要領で扉を開く。短い廊下を抜け、リビングに入ってすぐ沙耶と目があった。
 『ナイン・ゴッズ』にログイン中の秋雪の膝の上で、猫と戯れている。
「お、お前は! どうやって入った!」
 敵意を剥き出しにし、沙耶は膝の上から飛び降りた。クリクリとした大きな目を更に大きく見開いて倖介の方を睨み付ける。
「よー、嬢ちゃん。元気やったか? ちょっと側まで来たもんやからな、遊びに来たでー」
 いつもと変わらない飄々とした態度のまま、倖介は沙耶に向かって軽く手を挙げた。
「どうやって入ったかと聞いておる!」
「そりゃ、まぁ。玄関からやけど」
「ロックされているはずじゃ!」
「まぁ、世の中『絶対』は無いっちゅーこっちゃ」
 おどけた仕草を見せながら、倖介は沙耶に近づいた。
「あ、秋雪!」
 沙耶は切羽詰まった表情になると、秋雪の体をよじ登り、アクセスバンドに手を伸ばす。
「おーっと、ソイツにはもーちょっと寝ててもらわなあかんねん。嬢ちゃんも一緒にな」
 沙耶に向かって右手をかざし、手首に巻いたリストバンド型の麻酔銃で首筋を撃った。
「あ、き……ゆき……」
 上に伸ばした手をそのままに、沙耶は崩れるように眠りに落ちた。主人の危機を悟ったのか、近くにいた猫が総毛を逆立てて倖介に甲高い声で吼える。
「猫は寝る子やから”ねこ”っちゅうんやで?」
 講釈しながら沙耶と同じく、麻酔銃で猫の動きを止めた。
「さて、と」
 倖介は悠然と秋雪に近寄る。アクセスバンドを頭に巻き、眠ったようにピクリともしない。
「隙だらけやで、ミュータント・キラー」
 楽しそうに独りごち、倖介はポケットから小型の銃を取り出す。
 トリガー部で空気中の水分を凝固させて氷を作り、それを圧縮空気で打ち出すという非常にシンプルな物だが、至近距離で撃てば十分な殺傷能力を生む。
 勿論音は出ないし、弾が氷なため証拠も残らない。何発撃とうと、ジェネレーターのバッテリーが切れない限り弾切れも無い。暗殺から広野戦まで非常に汎用性の高い銃だ。
「さぁて、どうなるか……」
 銃口を秋雪の眉間に当て、倖介は暗黒街で聞き出したミュータント達の情報を思い返した。
 ――アイツの周りにはいつも黒い影が――殺すときにはソレが光って――
 どのミュータント達も『刃』の事を喋る時は、恐怖に顔を歪める。
 ――蜂の巣にしてやったのに平然と立ち上がって――その時にも黒い影が――
 ミュータント達だって馬鹿じゃない。そう何度も何度も簡単にはやられない。しかし、どれだけ策を弄して罠にはめても、原形をとどめないほどに銃弾を撃ち込んでも、『刃』は生きていた。そして、数え切れないほどのミュータント達を殺してきた。
 ――アイツは不死身の悪魔だ――
(おもろいやないか。これでアッサリ死んだらそれで良し。久遠に大手振って報告するだけや。けど、もし死なんかったら……)
 体が震えた。恐怖からではない。期待と昂揚から来る奮えだ。
 大きく息を吸い込んで肺に新鮮な空気を送り込み、それを数秒かけてゆっくりと吐き出す。そして――
「バン」
 躊躇うこと無く引き金を引いた。
 秋雪の皮膚に接触するくらいにまで密着させた銃口。そこから放たれた氷の塊は音もなく、秋雪の頭に吸い込まれた。皮膚を喰い破り、肉を割き、頭蓋を割って脳内に到達する。
 力に押されて秋雪の体が後ろに大きく傾き、座っていた椅子ごと床にたたきつけられた。その後で思い出したように眉間から赤黒い血が溢れてくる。こぶこぶと、くぐもった音を立てながら、壊れた蛇口のように止めどなく紅い液体は湧き出てきた。
 白いカーペットが緋色に染まっていく様を警戒の目で見つめながら、倖介は注意深く秋雪を見守る。何かが窓を叩いた。雨が降ってきたらしい。耳が痛くなるほどの静寂を破った闖入者を一瞥して、倖介は膝をついた。秋雪の首筋に手を当てる。
 ――脈はない。
 目を閉じ、呼吸をやめ、秋雪は絶命していた。
 倖介はそれを確認して立ち上がると、深い溜息をつく。
「なんや、それ」
 まるで子供が遊び飽きた玩具に接するように、冷めた表情になり、大きく肩を落とした。
「『終わりはいつも突然にー』か……、アホくさ」
 大昔の歌の歌詞を口ずさみながら、倖介は胸ポケットからフォト・メモリーを取り出す。久遠に持っていく証拠写真を撮るためだ。
 フレームを合わせ、シャッターを切ろうとした瞬間、部屋の空気が一変した。
 重油を流し込んだような粘性を帯びた雰囲気。物理的な抵抗さえ伴って、倖介の体の周りに顕現する。
「っ!」
 心臓が早い間隔で鼓動する。頭の中で警鐘が鳴り響き、体の最深から濃厚な悪寒と恐怖が吹き出した。今すぐにでもこの場を逃げ出して、安息を約束してくれる場所へと駆け込みたいと渇望する。
 しかし、体が動かない。足は根を張ったように床に固定され、視線は縫いつけられたように秋雪の体を凝視している。頭と体が連動していない。
(こ、これは……!)
 喉がカラカラに乾ききり、声が出ない。
 絶望と後悔、そして昂奮と狂喜の渦中に叩き落とされた中で、倖介は秋雪の体から黒い影が現れるのを見た。
「あっ……! れ、は!」
 吃音の様な声を発しながら、倖介は驚愕に目を見開く。
 秋雪の体から現れた黒い影。厚みを持たない半透明の長方形。すなわち――
思考具現化端末デモンズ・グリッド!)
 『ナイン・ゴッズ』でプレイヤー達が『魔法』を行使する際に使用する、バーチャル端末。それが、この現実世界で現れていた。
(そうか……! コレがコイツの『欠陥』か!)
 倖介は直感で悟った。久遠から聞かされていた秋雪の『病気』の正体。久遠が高く評価していた『暴走』。
 ――秋雪は現実世界でも『魔法』を使うことが出来る。
(暗黒街のミュータント共が、コレ見てもピンとけーへん訳や。あいつらはIDとパスワード持ってへんからな)
 ドームで暮らす”人間”全員に無料で支給される『ナイン・ゴッズ』へのパスチケット。だがミュータントは例外だった。ミュータントにはIDやパスワード、アクセスバンド等は与えられない。したがって『ナイン・ゴッズ』でのみ使用可能なバーチャル端末、思考具現化端末デモンズ・グリッドは見たことが無い。
(けど……信じられんで、こんなモン)
「まさか、こんな形でまた俺が表に出てくることになるとはな。世の中巧く行かないもんだ」
 頭の整理が着かない倖介を後目に、眉間を打ち抜かれ、即死だったはずの秋雪が声を発した。
 声そのものに変化はないのに、以前は感じなかった威圧感が内包されている。
「やれやれ、俺はもう必要ないのにな」
 倖介の見ている前で、秋雪の体が浮き上がるようにゆっくりと持ち上がった。スローモーションを見ているかのような錯覚にとらわれる中、秋雪は完全に立ち上がり、額の辺りを乱暴にこすりながら倖介の方に顔を向ける。
「犯人はお前か……」
 綺麗な銀色だった髪の毛は前部が朱に染まり、べったりと額に張り付いていた。薄く開いた目線には黒い影が落ち、生気を感じさせない。
「お前が……『刃』か……」
 言葉は無意識のうちに発せられていた。口元が震えているのがハッキリと分かる。武者震いを伴う戦慄。これは畏怖の念だ。
「よく知ってんじゃねーか」
 口の端をつり上げ、刃は寒気すら感じさせる笑みを浮かべた。
「ミュータント……キラー……」
 倖介の言葉に刃が感心したように口笛を吹く。
 刃は両手をポケットに突っ込み、背中を曲げて幽鬼の如く立ちながら興味深げに目を細めた。
「古い話をよく覚えてるな。そんな風に言われた時もあった。それもすべては秋雪のため。俺は秋雪を救うために生み出された人格だからな」
「なるほど、二重人格かい。よーやく納得いったわ。今の貴様は目ぇ見ただけで確信できる。間違いない。正真正銘のミュータント・キラー、刃や」
「ずいぶんと、嬉しそうだな」
 言われて初めて気がつく。
 倖介は笑っていた。知らぬ間に口元の筋肉が弛緩し、笑みの形に曲がっている。
「ああ、そうやな。嬉しいで。ようやく会えたんやからな」
「お前もミュータントだからか?」
 言われて倖介は体を小さく震わせた。
 二呼吸ほどの間、放心していたが、すぐに元の笑みを浮かべた表情に戻る。
「なんで、わかったんや。目は紅くならんように気ぃつけてたはずやねんけどな」
「匂いさ。過去に数え切れないくらいのミュータントを狩ってきた。人間との区別くらいすぐに付く」
 事も無げにそう言い、刃は微笑した。
「さて、寝起きの運動だ。久しぶりにあの感触を思い出させて貰うか。ま、久遠に逆らったんだ。殺されるのが、ほんのちょっと早まっただけさ。気にするな」
 それは極めて日常的な口調。まるでコンサートにでも行く時のように、『殺す』という言葉が当然のように発せられた。
(……なるほど、そーゆーことかい)
 倖介は五年前を思い出しながら一人納得する。
(ずっと疑問やったんや。何で俺なんかを、久遠が管理者に使命したんか……)
 ミュータントにIDやパスワードが与えられない理由。それは至って単純。
 久遠がミュータントを嫌っているからだ。
 しかし五年前。暗黒街にいた倖介の前に現れた久遠は、突然管理者にならないかと声を掛けた。当時は意味不明だったが、今になればその理由もハッキリ分かる。
(つまり、俺は捨て駒として拾われたんや。六年前に秋雪が管理者を辞めた直後から、コイツを殺す計画は練られとった。その一環として俺を管理者にした)
 秋雪を殺す計画は極秘だ。倖介以外の管理者は知らないし、おそらく那緒以外の管理者補佐システム・エージェントも知らない。水鈴には計画の骨子は全くと言っていいほど話していなかった。極限まで形骸化し、ただ秋雪を監視しろと命令しただけ。
(この一件が無事完了したら、『リバース・アピス計画』のために久遠は俺を殺して口封じするんやろうな。俺は久遠が大嫌いなミュータントや。あの冷血女が躊躇うとも思えん。ほんで、俺が今回みたいなイレギュラー起こしても刃に殺される。なんせ相手はミュータント・キラーやからな)
 どちらにしろ、久遠の敷いたレール上を未だ走り続けていることは、間違いなさそうだった。
(気に食わん……)
 刃の眼前に思考具現化端末デモンズ・グリッドが姿を現す。その黒い枠の中で白い光を放つ文字が書き込まれていった。
 刃はおもむろに右手を顔の高さまで上げる。そして指を鉤状に曲げ、力を込めた。次の瞬間、右腕全体が淡く冷たい光を放ったかと思うと、それ自体が篭手のようにまとわりつき、猛獣が持つ鋭い爪の形で安定した。
「最期に言い残す事は?」
 猛禽類を連想させる鋭い眼光で倖介を射抜き、冷たく言い放つ。瞳孔が縦に開き、ケモノの気配が息づいていた。
「久遠のホンマの目的はお前を殺すことや」
 刃の目を真っ正面から見据え、堂々とした口調で言う。刃は訝しげに眉間に皺を寄せた。
「詳しい理由は聞かされてへん。ただ、お前に直接手ぇ出してええんはロゼだけっちゅーことになっとる。そのためにお前はロゼの前に誘導された。お前の電子トラップにロゼが引っかかった時、たまたま近くにあった共用型固定端末ターミナル・ボックスでログインしたらロゼも近くにおった? 『ナイン・ゴッズ』に用意された大陸アピスは巨大や。偶然にしたらできすぎやろ。全部、久遠が仕組んだことや。で、ロゼを取り逃がしたお前はリアル体の方を探そうとする。久遠に内緒でな。お前は『ナイン・ゴッズ』でメイン・サーバー『アピス』にハッキング。まぁ、ロゼのリアル体の情報は手に入るわ。久遠がその部分のプロテクトを薄くしとるはずやからな。ロゼの現実世界での居場所を突き止めたお前は、そこに行く。けどな――」
 一息にまくし立てた倖介は、そこでいったん言葉を句切り、息継ぎをして続ける。
「リアル体はもう死んどる。久遠に殺されたんや。多分この計画のためにな。今、ロゼのIDをつかってんのは別の奴や。久遠は最終的にそいつと組んでお前を殺す、ゆーとった。で、俺はお前がちゃんと久遠の思惑通り動くように監視、誘導するように言われただけや。けどな、アイツの言いなりになるんが気にくわんかってな。こうやって裏切ってみたんや。お前への個人的な興味もあったしな。ところが、や。それすらも久遠の予想の範疇やったみたいでなー。ホンマ、つくづく食えん女やで」
 言い終えて倖介はカラカラと笑った。
 どこか達観した様な笑み。まるで大業を成し遂げ後のようにその顔は明るい。
「何故、そんなことを話す? 命乞いのつもりか?」
「いやー、別に。俺はもう満足やで。俺が管理者に選ばれた理由も、久遠がお前に手ぇ出すなゆーた理由も分かったからな。まぁ、なんで久遠がお前を殺したがるんか、とか、なんでお前がリアル体で思考具現化端末デモンズ・グリッドを使えるんか、とか。疑問は残るけど、最後にミュータント・キラー様に殺されるんやったら、その分も帳消しやな。いや、ツリがくるわ。こうやってベラベラ喋ったんは、久遠の仮面みたいな顔を崩してみたかっただけや。ま、俺が喋ることすらも久遠の筋書きには含まれとるんかもしれんけどな」
 晴れ晴れとした表情のまま、倖介は軽快なリズムで口舌をふるう。
 笑いが一通り収まった後、倖介は急に真剣な顔つきになって言った。
「俺はお前を殺そうとしたんやで? 殺される覚悟も出来とるわ。人を殺すゆーのは、そんなモンやろ?」
 倖介の言葉に刃は瞠目し、「ほぅ」と感嘆の声を上げた。
 そして一瞬、刃の視線が倖介から外れ、さらに後ろに向けられる。その場所を倖介が確認する前に刃は言葉を発した。
「なかなか面白い奴だ。久遠の奴に対する考え方も共感できる。ただ、もう少し早く会って話が出来ていれば……」
 刃の右手の輝きが増す。明確な殺意がその一点に凝縮されていくように。
「犯人の正体は聞かんでええんか?」
「お前の話を聞いて大体分かった。後はこっちで何とかするさ」
「そーか……」
 倖介は静かに目を閉じる。
 ミュータントとして生まれた自分。他から疎まれ、虐げられ、暗黒街に追いやられ、自分の存在意義を見失った。そこに久遠から差し出された光の道筋。だが、管理者になった後も心は晴れない。いつもどこかで何かがくすぶっている。体が底のない泥土に埋まり、徐々に浸食されていく。しかし、そこから這い上がる気力はなかった。
 ここは自分の居場所ではない。
 そう思い続けて五年がたった時、ミュータント・キラーの名前が出た。都市伝説にまでなった者の通り名。ソレを聞いた瞬間、何かが弾けた。そして確信した。
(俺は死に場所を探しとったんや)
 このドームという閉鎖空間で、人間とミュータントとの格差は大きい。
 間違いなくミュータントは排除される方向にある。それが久遠の意志だから。
 ならば、どうせ散るなら華々しく――
(満足や)
 倖介の体を強い衝撃が襲う。そのまま意識は闇の中に埋没していった。




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