傷痕の思い出と鬼ごっこ、してくれますか?

【思い出編】

◆東雲昴(しののめ すばる)の『僕はおっぱいのしもべなのです!』◆
 おっぱいが好き。
 とにかくおっぱいが好き。
 大好き。大大大好き。
「ありがとうございましたー」
 東雲昴はレンタルDVDを客に渡しながら笑顔で頭を下げた。そしてすぐに真剣な顔に戻り、一点に集中する。
 おっぱい。
 ソレは女性のみが持ちし崇高なる器。神が与えたもうた美の魂。生命の根元。
 その魅力は人に希望を与え、夢を育み、未来を生きる糧となる。しかし時にその魔性は人を誘い、狂わし、精神を蹂躙する麻薬にもなる。
 だが、それでも人は――
「ちょっとー、スーちゃんっ。そんな顔してたらお客さんが変に思うでしょっ」
「店長……」
 返却されたビデオを山のように抱えながら近付いて来るバイト先の店長――住之江住吉(すみのえ すみよし)を横目に見ながら、昴はキザッぽく鼻を鳴らして黒髪を掻き上げた。
「僕はおっぱいに一生を捧げるつもりなのです」
 そして澄んだ鈍色の瞳を純粋に輝かせ、唇を優美に曲げて完璧な微笑を浮かべて見せる。口の端から小悪魔のような八重歯がひょっこりと顔を覗かせた。
「そ、そぉ……」
 よっこらしょ、とカウンターの上に十数本のビデオを置き、住吉は額に浮かんだ汗を拭う。よく働く初老の小男から視線を外し、昴はもう一度ターゲットをロックオンし直した。
(素晴らしいのです……)
 ニメートルほどの高さの黒いスチールラックは四段に分けられ、そこにはレンタル用のDVDがずらりと並べられている。夜の十時過ぎという時間帯のせいか、レンタルビデオ・ショップ『洋風屋』の店内は閑散としており、人が二人通るには窮屈な通路がやたらと広く見えた。
(最高なのです……)
 カウンターから一番離れたブロックにある洋画コーナー。
 天井からラブスートリーの宣伝ポスターが垂らされたその真下に、昴が求める楽園があった。
(まさに至福の一時なのです……)
 軽く波打ったダークブラウンの髪は腰まで長く伸び、淑女的な落ち着きを醸し出している。ぱっちりと大きく見開かれた二重の瞳は柔和な光を宿し、縁のない丸レンズ眼鏡が知的な雰囲気を演出していた。
 白い長袖のハイネックにチェック地のマフラー、そして足をスッポリと包み隠すのは黒いロングのフレアスカート。
 熱帯夜の続くこのクソ暑い中ごくろーさんと言いたくなるような服装だが、昴にとってはそんなもの全く関係ない。
 そう、昴にとって最も重要なのは――
(かつてない福乳なのです……) 
 おっぱいだ。
 カットソーの下で息づいている見事な曲線美を持ったふくらみ。
 ソコに昴の視線は鬼集中していた。
「ねぇ、スーちゃん。バーコード読み取るの、お願いしていいかしら」
「お前がやれ」
「あぁン!」
 視線を合わせることすらせずに冷たく言い放った昴に、住吉は頬を紅潮させて身をよじらせる。
「分かったわ、店長ガンバっちゃう!」
 制服の蝶ネクタイを両手でピンっと張り直し、住吉はカウンターの後ろに高く積み上げられたビデオやらDVDやらにダイブした。
 高級レストランのボーイをイメージしてデザインされた制服ではあるが、体の小さい住吉が着ると七五三の衣装ではしゃぐ『とっつぁんボーヤ』にしか見えない。
(左88.6、右88.6のE……完璧なバランスなのです)
 お荷物を適当にあしらい、昴は彼女を見る視線に更なる力を込めた。口元を引き締め、まばたき一つせず、まるで絵画の巨匠が奇跡の名画を見つめるかのように昴の表情は真剣そのものだった。 
(ようやく、あの人を越える福乳に出会えたのです……)
 そして昴の脳裏に、間延びした声が特徴の天然守護霊が浮かび上がる。
 今から十七年前。まだ五歳の時の正月。
 昴から見ていとこに当たる天深憂子という女性の家に遊び行った。ソコで厄介な事件に巻き込まれてしまったのだ。
 今では憂子の婿養子となったらしい九羅凪孔汰との入り替わり。
 立場が、ではない。精神が、だ。
 体は大人、頭脳は子供になってしまった昴は、一時的に魔王の元へと預けられた。常識の権威を鼻で笑い、この世のあらゆる法則を土足で踏み倒していくその男からは、凄まじい黒体験を強いられた。しかし、神は昴を見放さなかった。
 色葉楓。
 慈愛と母性に満ちた女神の生まれ変わり。
 そして何よりも特筆すべきはそのおっぱい。
 大きくも型くずれなど全くしていない光の恵みに、昴はすぐに夢中になった。自分の母親などは足元にも及ばない。いや、比較することすら無礼極まりない。
 楓のおっぱいを体験した後では、何もかもが虚しいだけだった……。
 元々早熟だった昴は、楓のおっぱいがキッカケで親離れした。
 ――初めてランドセルを背負った、六歳の春のことだった。
 楓のおっぱいを我が物にしたい。だが手を出せば確実に魔王の鉄槌が下る。
 邪魔者には死、あるのみ……。
 昴は楓のおっぱいを越えるおっぱいを探して東奔西走した。しかし地元九州では巡り会うことができず、中学時代に四国へと渡り、高校時代には中国と関西を制覇した。だがそれでも昴は、自分の心を満たしてくれるおっぱいと出会えなかった。
 そして大学二年生となった今、東京に望みを託してやって来たのだ。
 おっぱいに異常なまでの執着を見せる、この東雲昴という男の人格。
 ソレは楓のおっぱい、そして魔王から受けた『凶洗脳』の副作用によって構築されたと言っても過言ではない。
(来たのです……!)
 店内用の赤い小さなカゴを左手に持って、彼女は顔を少し俯かせながらカウンターの方に歩み寄ってくる。
 昴は自分が見ている場所を悟られぬよう僅かに目線を上げ、それでいて輪郭と“揺れ”はしっかりと視認できる位置で眼球をガン固定させた。
「あの、コレ……お願いします……」
 彼女は上目遣いでコチラを見ながら、この店のメンバーズカードとDVDが十本以上入れられたカゴをカウンターの上に置いた。
「かしこまりまし――」
「スーちゃんコッチ終わったわよー! ソレもアタシがヤッテあげちゃうっ!」
「床掃除」
「うはぁン!」
 店長は喜色に染まった声を上げると、後ろにあるモップ入れに頭から突っ込んだ。
「あの……」
「新作五本と一般七本ですね。新作の方は二泊三日となっておりますがよろしいでしょうか?」
「は、はい……」
 仕事が暇になってくるこの時間帯。彼女は必ず一人でやって来て沢山のDVDを借りて帰る。きっと将来の夢は映画監督に違いない。部屋に一人籠もって、日夜厳しい特訓に励んでいるんだろう。おお、何と健気な……。
 そうやって自分の好きなことに専念し尽くすことにより、彼女は自分の持つ極上のおっぱいを更なる高見へと導いているのだ。この暑い中、肌を全く露出させないのも全ては美白のためであり、引いてはおっぱいのため。
(素晴らしいことなのです!)
 心の中でグッ! と硬く拳を握り締めながら、昴は受け取ったメンバーズカードをレジのリーダーへと通す。ピ、という電子音がして、レジに接続された液晶ディスプレイに、累積ポイントと彼女の名前が表示された。
 
『鮎平姫乃(あゆひら ひめの)』

 昴がこの十七年間、求めに求め続けてきた女性の名前だった。
「クレジットからの引き落としでよろしいのですか?」
「あ、はい……」
「かしこまりましたのです」
 昴は淡々と作業を続けながらも、視界の隅に姫乃のおっぱいを捕らえることを忘れていない。相手に気付かれないように、自分の黒妄想が漏れないように、たわわに実った美の結晶をじっくりと吟味する。
「それではコチラ、商品になります。新作は二泊三日、一般は四泊五日になりますので、お気をつけ下さいなのです」
 そしてこの瞬間こそが昴にとっての絶頂タイム。
 DVDの入った青いレンタル用パッケージを両手で持ち、頭を下げてソレを渡すフリをしながら視線を極限まで上げて、完全な死角から姫乃のおっぱいを――
「スーちゃん! フロアー終わったよー!」
「あ……」
 突然、真横から来た衝撃で昴の手元が狂い、レンタル用パッケージが宙を泳ぐ。ソレを掴もうと伸ばした昴と姫乃の手が――
「え……」
 落ちる音。
 昴の手は途中で止まり、そしてその反応を見た姫乃の手は自分の胸元へと引き戻されていた。
(今のは……)
 一瞬の思考停止状態。
(傷……?)
 そしてまばたき一回する間に、さっき目に映った光景が昴の脳裏で鮮明に描き出された。
 ソレはあまりに生々しい傷痕。
 手首あたりから深く抉られ、全く収束する気配も見せないままカットソーの袖口へと消えていく。
 昨日今日できたモノではない。もう何年も前。下手すれば十年以上も前に付けられたような古傷だった。
「ちょーっと! ちょっと! スーちゃん! 何やってんのよ! もぅ!」
 二人の硬直を破ったのは住吉のオネエ言葉だった。
「申し訳ありません、お客様。大丈夫かとは思いますが、今キズの具合を調べますので少々お待ち下さ――」
「結構です!」
 店内に響き渡る姫乃の叫声。
 その場に居合わせた誰もがカウンターの方に視線を向けた。
「さ、左様で御座いますか。これは大変失礼いたしました」
 床に落ちたレンタル用パッケージを拾い上げて軽くホコリを落とした後、住吉はソレを両手で持って差し出す。
「ではコチラ、商品に――」
 姫乃は顔を強ばらせたままひったくると、何も言わずに店を出て行ってしまった。
「あらら……」
 自動扉が音もなく閉まり、姫乃の背中が暗闇の中へと溶けていく。
 昴はソレをただ呆然と見つめ、
「って!」
 頭に鈍痛が走ったかと思うと、目の前にメンバーズカードが突きつけられた。
「忘れ物よ。ちゃんと責任持って届けてあげなさい。今日はもう上がっていいわ。あとはアタシ一人で大丈夫だから」
 住吉はカウンターの上から昴を叱りつけながら、姫乃のカードを指先でぷらぷらさせる。
「それから、チャンスはしっかりモノにしてくること。いいわね」
 そして人差し指を立てて皺の寄った顔の前まで持ってくると、軽くウィンクして見せた。
「店長……」
「うん」
「ゴミ捨て忘んなよ」
「ェほォん!」
 恍惚とした声を上げる住吉からカードを取り上げると、昴は姫乃を追って夜の街へと駆け出した。

 昴にとっておっぱいとは、人生の全てを賭して打ち込むべき神聖なる対象であり、性的な欲求を満たすエロスの象徴などでは決してない。
 ……と、断言できるかどうかは分からないが、少なくともおっぱいなら何でも良いというワケではない。
 この十七年間、培い、鍛え上げてきた自分のおっぱい利きによって厳選されたおっぱいの中のおっぱい、すなわち――『クイーン・オブ・おっぱい』の称号に相応しいおっぱいにしか興味を示さない。
 ……と、言い切れるかどうかは分からないが、ソレに近い感じだった。
 そのある意味自分の欲望に忠実で、そしてある意味純粋な心を持つが故に、昴は今激しい葛藤に身を苛まれていた。
(先客か……)
 大通りからはかなり奥まった場所にある、住宅街の中を通った細い一本道。等間隔に植えられた街路樹は青々と葉を茂らせ、夜の色を一層濃い物に仕立て上げていた。
 そんな人気のない道路を、何かから逃げるようにして小走りに抜けていく人影が一つ。
 姫乃だ。
 そして、その後ろにピッタリとくっついて後を付ける影が一つ。
(どうしませうか……)
 昴は更にその後ろから、闇と同化するようにして後を付けていた。
 完全に溶け込めないのが悔やまれる。こんなことなら魔王の拷問……いいやもとい、修業をもっと真面目に受けていれば良かったと思うが、もう後の盆踊りだ。
 とにかくどういう理由かは知らないが、姫乃の後を追っているのが自分の他にもう一人。
 ここで昴が取るべき行動は二つ考えられる。
 一つはソイツを半殺しにして黙らせる。
 そしてもう一つはソイツを全殺しの一歩手前まで追い込んで黙らせる。
(難問なのです……)
 昴は悩んでいた。
 そして思う。
 『力』を使えれば、と。
 かつて魔王と共に時間を過ごした昴は、その特異すぎる環境を生き抜くために、おのずと非常識な能力を身に付けてしまった。いや、身に付けざるを得なかった。
 獅子は仔を強く育て上げるため、生まれてすぐに千尋の谷へと突き落とすという。
 言ってみれば昴は物心を付いてすぐ、素っ裸で永久凍土へと放り出されてしまったのだ。
 普通は死ぬ。
 だから生き延びるためには常識を捨てなければならなかった。
 自分の命と楓のおっぱいへの執着。それらが渾然一体となり、昴に生きる『力』を与えたのだ。
 その『力』を使えば例えこの状況下であっても、邪魔者の目に触れることなく姫乃だけを連れ去って行けるかもしれない。
 だができない。
 『力』を使うにはチャージが必要だ。今はまだ足りない。『力』は使えない。
(しょうがないのですね……)
 昴は決心した。
 ――邪魔者には死、あるのみ。
 ソレは魔王から無言で烙印された教訓。
(消す――)
 昴は背中から釘バットを取り出し、
「のひえぉらはあえええぇぇぇ!?」
 意識は深い深い闇の中へと埋没した。

◆北条千冬(ほうじょう ちふゆ)の『ちょっと、自虐的よね……』◆
 同じクラスメイトであり、親友でもある鮎平姫乃から相談を受けたのは一週間ほど前だった。
 ――いつも誰かから見られている気がする。
 夜一人で出歩く時に強く視線を感じる。
 昼休み。いつものように二人で食事をしていると、突然そんな話を持ち掛けられた。
 あまり不平や不満を零すことなく、自分の中で抱えたまま消化しきってしまう姫乃にしては珍しいことだった。だから千冬は深刻に捉えた。真剣に聞いた。
 そして聞き終えて、他の友達や先生に声を掛けることも考えた。しかし何も確かめないウチから手間を取らせるのは悪いと思ってやめた。ひょっとすると姫乃の思い過ごしかもしれないのだ。
 それにそんなことをすれば、姫乃がきっと嫌がる。自分に相談するのだって、あの子の性格を考えれば相当の勇気がいったはずなんだ。
 千冬はまず一人で何とかしてみようと考えた。
 やることは極めて単純で明快。
 姫乃を見張って、近くで怪しい行動をしている奴がいるかどうかを確かめる。
 ソレだけだ。
 最初は勿論不安だった。だがいざという時のために、痴漢対策用のスタンガンも買った。防刃ジャケットだって買った。コレで大丈夫だと自分に言い聞かせた。そしてなにより、姫乃が怯えている姿が千冬の背中を大きく後押ししてくれた。
 そして見張りについて六日目の夜。
 千冬は見事、犯人を捕まえたのだ。
 が――
「お……おっぱいが……いっぱい……おっぱいが……いっぱい……」
 気絶したまま卑猥な言葉をうわごとのように繰り返す目の前の男を見ながら、千冬は大きく溜息をついた。
 金に近い明るい茶色に染まったセミロングの髪が、項垂れた顔に合わせて小さく揺れる。深い藍色の双眸を半分伏せたまま、千冬は呆れたような視線を昴に向けた。
(何やってんだか……コイツは……)
 薄桃色のキャミソールにホットパンツという極めて無防備な格好であぐらを掻き、千冬は目の前の丸テーブルに頬杖を付く。
 ゼブラ模様のカーペットの上で横になった昴は一向に起きる気配がない。何かしらの手段で強引に起こしてやってもよかったのだが、千冬はしばらくこのまま見つめていることにした。
(もぅ一年、か……)
 それだけの歳月が流れてしまった。
 この東雲昴という男と別れてから。
 出会ったのは昴がバイトをしていたコンビニエンス・ストア。最初に声を掛けてきたのは昴の方だった。そして別れ話を持ち掛けてきたのも。
 まぁ千冬が昴を受け入れた理由もそれほど純粋な物ではなかったし、別れたからといって何か致命的な心傷を負うほどのめり込んではいなかったから、『よろしく』も『さよなら』も驚くほどあっけない物だった。
 けど昴といた時間はそれなりに楽しい物だった。だから恋人同士ではなくなってしまった今でも、たまに偶然会っては一緒に食事をしたり遊びに行ったりはしている。
 会話の内容はいつも似たりよったりなのだが、それでも飽きないのが不思議なところだ。
(……にしても、コンビニやめて『洋風屋』でバイトしてると思ったら……)
 まさかストーカーに身を落としているとは。
 昴がいつも熱く語る持論によれば、『僕の中の女神を越える福乳を何としてでも探し出さねばならない』らしい。定職に就かず、色んな場所を点々としているのはそのためだそうだが、ココまでエスカレートするともはや犯罪だ。
 早めに別れておいて一安心というか何というか……。
「まぁ……」
 千冬は息を吐いて立ち上がり、さっき昴に使ったスタンガンを取り上げる。そしてはぁー、と息を吹きかけ、専用の磨き布で優しく擦り始めた。 
 ともあれコレで事件は解決だ。
 昴は言動がこうだから誤解されやすいが、根は真面目なイイ奴だ。
 付き合っていた時は、デートをドタキャンされたことも時間に遅れたこともなかったし、いつもおっぱいおっぱい言ってても他の女に靡いたりすることはなかった。コチラがメールや電話をした時はちゃんと気の済むまで相手してくれたし、逆に嫌がるようなことは何一つとしてしなかった。
 ……まぁ、ソレが物足りなかったと言うのは贅沢なのかもしれないが。
 とにかく、話せばきっと分かってくれる男なんだ。
 女神のおっぱいとやらを越えるおっぱい見つけるのは、自分が生きていく上での目標なんだろうが、そのために相手を恐がらせてしまってはいけない。きっと昴自身も、そんなことは望んでいないはずだ。
 だからきっと――
『おっ――ぱああああぁぁぁぁい!』
 床からエコーがかった声が聞こえたかと思うと、昴の体が弾かれたように持ち上がった。
 もう慣れてしまったが、コイツはたまに非常識な挙動を示す。
 今のはきっと、長い時間ザコ寝していたために背中が疲れてしまったからなんだろう。魔王がどーとかという話をされたことがあるが、さっぱり理解できなかった。
「起きた?」
 千冬はスタンガンを静かに置き、壁際のセミダブル・ベッドに腰掛ける。そして大きく晒された白い素足を片方だけ抱きかかえ、健康そうなピンク色の唇で微笑んだ。
「ぬ……そのおっぱい色は千冬。久しぶりなのです」
「……そうね」
 人を見分けるのに、顔ではなくまず胸を目が行く。ソレがこの東雲昴という男の個性。どういう仕組みかは知らないが、人の胸を色で判別できるらしい。男は全て黒く塗りつぶされているそうだが……。
 まぁ、コレももう慣れた。
「相変わらず不思議なおっぱい色なのです」
「……どうもありがとう」
「やはり何度見てもそのおっぱい色は千冬だけなのです。そのおっぱい色は千冬だけなのです」
「……繰り返さなくていいから」
「ところで僕はどうしてこんな所に?」
「……やっとソレ?」
 四回目の質問にしてようやく千冬の胸元から視線を外し、自分の置かれている状況を確認し始める昴。千冬は嘆息して壁にもたれ掛かり、ベッドの上に両脚を投げ出した。
「ねぇ、スー。これ以上、ヒメを追いかけ回すのは止めて」
 そして低い声で言う。
 お願いではなく、命令に近い口調で。
「ヒメ……?」
「鮎平姫乃」
 千冬の言葉に昴は鈍色の両目をパチパチとしばたたかせ、耳に掛かるくらいで切り揃えた黒髪をボリボリと掻いた。
「どうして千冬が鮎平さんを知って……?」
「同じクラスだからよ」
「ふーむ……」
 昴は呻くような声を上げ、ふと何か思いついたように部屋の中を見回す。そして八畳ほどのワンルームをグルリと一回りした後、
「大体のことは分かったのです」
 何かに得心したように大きく頷いた。
「鮎平さんのクラスメイトである千冬は、彼女に何らかの相談を受けて護衛していた。そこに僕が不審者として現れたのでこの兵器で気絶させ、ココまで運んできた。そんなところなのですね?」
「まぁ、合ってるけど……『兵器』って何よ『兵器』って。スタンガンくらい、最近の女子高生なら誰だって持ってるわよ」
「いえ、ココまで来ると立派な兵器なのです」
「何よ。ちょっと余分に買っただけじゃない」
「コレは『意図的に買い揃えた』というべきなのでは?」
 言いながら昴は五十以上のスタンガンが綺麗に陳列されている、四段に分けられたガラスショーケースをビシィ! と指さした。
「それからコッチも!」
 続けて隣にある半開きになったクローゼットを解放する。中ではライトアップされた防刃ジャケットが、三十着以上も自己主張していた。
「千冬の収集癖は相変わらずなのですねぇ」
 昴は呆れたように言いながら、やれやれと肩をすくめて見せる。
「うっ、うっさいわね! 自分のお小遣いで買ってるんだから別にいいでしょ!」
「でもそのお小遣いは両親から貰った物なのです。自分で働いて稼いだわけじゃないのです」
「父さんも似たようなことしてるから別に良いのよ!」
「しかも高校生で一人暮らしは贅沢なのです」
「母さんだって一人妄想してるから別に良いのよ!」
「ワケが分からないのです」
「あーもー! うっさいなー! とにかく! ヒメを追いかけ回さないで! アタシが言いたかったのはコレだけ! 分かった!?」
「まぁ……分かったような、分からないような……」
「何なのよ!」
「僕はメンバーズカードを返そうとしただけなのです」
 昴は胸ポケットから赤地に黒のラインが入ったカードを取り出すと、コチラに投げて渡す。カードの表面には草書体で『洋風屋』という文字が浮き彫りにされていた。
 裏面を見る。

『鮎平姫乃』

 白く引かれたラインの上にボールペンで姫乃のフルネームが書かれていた。クセも姫乃の字にソックリだ。まず間違いなく本人が書いたものだろう。
「じゃあ何? スーがあそこにいたのは単なる偶然ってワケ?」
「まぁ……偶然のような、必然のような……」
「どっちなのよ!」
「どっちだと思うのですか?」
「アタシの胸に手を当てて聞くな!」
「ま、まぁ、スタンガンはやめてくれなのです。わ、分かりました。では順を追って話すのです」
 千冬の剣幕に気圧されたのか、昴は首元の蝶ネクタイを正してその場に正座した。そして細かい指芝居を交えながら、事の経緯をかいつまんで説明する。
「……なるほど」
 全てを聞き終え、千冬は自分の頭の中で整理しながら軽く頷いた。
 確かに、そういうことなら昴は犯人じゃない。
 姫乃はもう随分前から視線を感じていたと言っていた。しかし今話を聞いた限り、昴が姫乃の後を付けたのは今回が初めて。だとすれば本当に単なる偶然……。
「そうそう」
 まぁ、この男の行動が不審なのは今に始まったことではないし、コレで紳士的な所もあるから女の子を恐がらせるようなマネはしないか……。
「その通り」
 あーあ、せっかく姫乃に喜んで貰えると思ったのに。残念……。
「僕も残念なのです」
「……スー、さっきから独り言多くない?」
「お互い様なのです」
 ……?
 まぁ、このくらい本当に今さらという感じなのだが――
(……ん? でも待って)
「ねぇ、スー。じゃああの時、釘バットは何のために?」
 そうだ。昴は確か物騒な凶器を持っていた。アレは……。
「当然、邪魔者を消し去るためなのです」
「邪魔者って?」
「僕の前に先客がいましてな。彼もまた鮎平さんを付けていたのです。恐らくこれまでの会話から察するに、千冬が探してる犯人なのでしょうな」
「コラー!」
 千冬はベッドのクッションを最大限に活かして飛び上がると、ダン! と床に着地して昴に詰め寄った。
「どーして捕まえないのよ!」
「千冬に邪魔されたからなのです」
 く……。
 確かにそうだ。自分が何もしなければ昴はきっとあのまま……。
 まぁ、ソレがどういう結末になったのかは知らないが、少なくとも姫乃が悲しむようなことにはならなかっただろう。
「とにかく過ぎてしまったことはしょうがないのです。また見つければいいだけなのです。ただ、今までよりは確実に難しくなるのでしょうが」
 昴の言うとおりだ。
 スタンガンで気絶させた時、アレだけの大声を辺りにまき散らせてしまったのだ。それも犯人のすぐそばで。コレではどうか警戒してくださいと言っているようなもの。
 完全に自分の失態だった……。
「ところで千冬。僕もぜひ、その話に一枚かませて欲しいのですが」
「……ヒメのおっぱいがスーのお眼鏡にかなったってワケね」
「そういうことなのです」
 八重歯をひょっこりと覗かせ、愛嬌のある表情で昴は屈託なく笑った。
 全く、行動理由がワンパターンというか単純というか……。
 しかし願ってもないことだ。スーなら気兼ねなく色々と頼めるし、同じクラスメイトではなく完全な部外者に頼むのなら、協力し合っていることはバレにくい。そして学生ではないから時間に拘束されることもない。
 何より――
「僕の『力』を使えばきっとすぐに捕まえられるのです」
 昴が魔王から授かったという特殊な『力』。具体的に何をするつもりかは知らないが、大きな助けになることは間違いない。
「じゃあ早速明日から――」
「その前に」
 千冬の言葉を途中で遮って、昴がいつになく真剣な声で聞いてきた。
「コレは極めて個人的な興味なので勿論強制などではなく、もしかしたら千冬も知らないことかもしれないので無理に答えることなど全くないのですが、一応事の発端なのでできれば知っておきたく思うワケなのでして……」
 もう奥歯に頑固な油汚れがベットリといった感じで、昴は言葉を遠回しに濁らせる。
「何よ」
「鮎平さんの腕の傷、なのですが……」
 げ……。
 千冬は一瞬硬直した後、昴から数歩後ずさった。
(い、いけない……)
 こんな分かり易い反応。何か知っているからツッコんでくださいと、全国紙の一面で主張しているようなものだ。ココは冷静に、冷静に。何も知らないフリをして、スッとぼけるしかない。
「あの傷……かなり前に付けられた物だと思うのです。それに、店長が偶然言った『キズ』という言葉……。アレは勿論鮎平さんの傷ではなく、DVDにキズが付かなかったかを調べるという意味だったのですが、やたら敏感に反応にしたように僕には見えたのです……」
 それは……反応する。仕方ない……。腕の傷を見られた後ならなおさら。
「コレは推測というより単なる邪推でしかないのですが……もしかしたら鮎平さんが今の季節にあんな格好をしているのは、他にも似たような傷痕があるのですか?」
 す、鋭い……。
 と、いうより殆ど昴の言うとおりだ。
 千冬と姫乃は小学生からの付き合いだった。
 姫乃はスポーツも勉強も料理も工作も何でも上手くできて、誰よりも沢山友達がいた。まさに自分達の学年のアイドル的な存在だった。姫乃の行くところには、必ず人だかりができていた。
 しかし二年生のある時期、姫乃は何ヶ月も学校に来なくなった。大人に聞いても誰も何も教えてくれなかった。そして三年生に上がる一ヶ月前、姫乃はようやくみんなの前に姿を見せた。
 分厚いコートを羽織って大きめのマフラーをして、足の付け根まで届きそうなくらいの長いソックスをはいていた。
 春も近いとは言えまだ寒い季節だったから、不自然なことは何もなかった。似たような格好をしている生徒は沢山いた。そしてみんな、何も言わずに姫乃を迎え入れた。
 しかし姫乃は以前のように笑わなくなった。
 授業中はずっと俯いたままで、体育はいつも見学していた。レクリエーションにも参加せず、一人図書室で本を読んでいた。マフラーは付けたままだった。
 みんな最初の頃は何とかして姫乃と一緒に遊ぼうと何回も誘っていた。千冬もその一人だった。しかし姫乃が首を縦に振ることはなかった。
 そして学年も上がり、だんだん暖かくなり始めても、姫乃はまだ冬の服装のままだった。
 男子の一人がふざけ半分に言った。

『汗かいて汗もができると、そっからクサっちゃうぞー。お母さんが言ってたぞー』

 姫乃は周りから明らかに浮いていたから、そうやってからかわれることも珍しくなかった。しかしその時はソレだけでは終わらなかった。
 彼は仲間達とはしゃぎながら姫乃の座っている席を取り囲み、そしてマフラーを引っ張ったのだ。多分、ちょっと姫乃を困らせてみたかったとか、そういう下らない理由なんだろう。
 姫乃の反応を見て明るく賑わうはずだった教室内。
 しかし訪れたのは重苦しい沈黙だった。
 マフラーの下にあった物。ソレはまだ痛々しさの残る生傷だった。
 カッターや画鋲でちょっと切ったなんていう軽い物ではない。ソレは恐ろしく切れ味の鋭い、何か大きな刃物で切り刻まれた痕だった。
 近くにいた女子の一人が、姫乃の傷を見て泣き始めた。さらに二人泣き、四人泣き、七人泣き……。
 教室の異変に気付いた先生が飛び込んできて、すぐに何が原因かを察した。そして姫乃の元に駆け寄ってきて、どこかに連れて行ってしまった。
 先生は知っていたのだ。どうして姫乃が長い間休んでいたのか、どうして冬服のままなのかを。ソレをみんなには言い出せず、ずっと隠し通してきた。
 当然だ。そんなこと、知りたくないし知られたくもない。
 それから姫乃の扱いは百八十度転換した。
 脆いガラス細工作品でも見るかのように、誰もが姫乃から距離を置いた。肉体的にも、精神的にも。
 同情、憐憫、悲哀、諦観。
 沢山の冷たい感情が姫乃に向けられた。そしてソコには少なからず、汚物を見るような悪意を持った視線も混じっていた。
 しかし千冬は違った。
 決して褒められたことではなかったが、みんなとは全く違う感情を抱いていた。
 ――チャンスだ。
 今まで姫乃には沢山の友達がいて近づけなかったけど……近付いたとしても大勢の中の一人としてしか見て貰えなかったけど、今は違う。
 今、姫乃と仲良くなれば唯一の親友になれる。特別な存在になれる。
 千冬はこれまで以上に姫乃との距離を縮めていった。ただし姫乃の心を傷付けないよう、細心の注意を払って。不自然にならないように最初は少しずつ、徐々に大胆に。
 まずは毎朝挨拶をすることから始め、教科書を見せ合い、給食を一緒に食べて、休み時間にテレビの話をし、帰りはいつも一緒で、校則では禁止されている買い食いをしたり、二人で映画を見に行ったり、姫乃の家に泊まりに行ったり。
 その甲斐あってか、姫乃は千冬に対してかなり心を開いてくれるようになった。
 その分クラスのみんなとは距離が開いた気がしたが、別に気にしなかった。なにより先生全員が千冬の味方で、姫乃との仲をどんどん応援してくれたから毎日が凄く楽しかった。
 ソレは中学に行っても高校に行っても変わらなかった。
 先生の誰か一人は必ず、姫乃の体のことを知っていた。多分、姫乃の両親が話して、特別な措置を取ってくれるようにお願いしているのだろう。そしてそんな先生は全員、千冬の味方だった。
 高校まで来ると、姫乃と小学生の時から付き合っている人は殆どいない。その中でも姫乃とここまで仲がいいのは千冬ただ一人だけだ。
 何となく、自分は選ばれた人間のような気がして妙に誇らしかった。
 高校に入ってすぐ、姫乃が男生徒にちょっかいを掛けられているのを見つけた。やはり服装のことだった。
 どうして姫乃だけみんなと制服が違うのか。
 姫乃の制服は袖部分が普通よりも長く、手首の所が紐で締め上げられるデザインになっていた。
 ソレはからかうと言うよりは単に疑問に思ったことを聞いているだけに見えたが、姫乃はつらそうに顔を俯かせて何も言わなかった。
 当然助けた。

『アンタ、姫乃のこと好きなの?』

 そんな風に言ってやれば、相手は全力で否定して別の話に持っていこうとする。
 男なんていくつになっても根幹の部分は少年のままだ。小学生と変わらない。あしらうのも手慣れたものだ。
 ソレは千冬にとって、今までして来たことと何ら変わらない日常的な光景。しかしその時ばかりは違った。
 休み時間。千冬は姫乃に、校内庭園の奥の方まで連れてこられた。いたのは自分達だけだった。

『ありがとう……』

 姫乃の方から喋り出した。

『いつも、感謝してる……』

 少し照れくさそうに俯き加減で言う姫乃は、どこか思い詰めたような表情をしていた。

『千冬ちゃんには、いつかちゃんと言おうと思ってたの……』

 そして姫乃は付けていたマフラーを取った。
 露わになった白い首筋には、昔見た時よりくすんだ色をした傷痕が二本、縦に走っていた。じっくり見るのは初めてだった。

『私の体、ね……。全部、なの……』

 最初、言われた意味がよく分からなかった。

『全部、こうなの……』

 全部……? 何が……?
 ……ううん、何を今さら。ずっと前から想像していたじゃないか。もしかしたらそうなんじゃないかって、思い続けてきたことじゃないか。
 傷痕は――姫乃の全身にあるんじゃないかって。

『それでも……』

 それでも――

『今まで通り、してくれる……?』

 ずっと友達だって。大親友だって。そんなこと関係ないって。
 ずっとずっと前から思ってきた。
 だから――

『ありがとう、千冬ちゃん。大好き』

 そう言った姫乃の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
(このことは、二人だけの秘密なんだ)
「このことは、二人だけの秘密なんだ」
「そう、だったのですか……」
「へ……?」
 正座したまま深刻な表情で頷く昴に、千冬は間の抜けた声を上げた。
「あの完璧なおっぱいの中のおっぱい――クイーン・オブ・おっぱいを持つ鮎平さんにそんな暗い過去が……。知らなかったのです……」
「ちょ、ちょっと! スー! 何言ってんのよ!」
「何、とは……?」
「だからヒメの……! その……」
「ええ、千冬の懇切丁寧な説明のおかげでバッチリ分かりましたなのです。僕が成すべきことが。どうあっても鮎平さんを傷付けた犯人を、この手で懲らしめなければなりません。今回のストーカー犯はその後なのです」
「ちょおおおおぉぉぉぉぉっと!」
 一人勝手に盛り上がる昴に、千冬は声を荒げて詰め寄った。そしてワシッ! と両肩を鷲掴みにすると息が掛かるほどに顔を近づける。
「そんないきなり発情されても困るのです。僕には鮎平さんというおっぱいが……」
「誰がそんなモンしとるか! それよりどうしてヒメのことを!? イツ!? ドコで!? 誰から!?」
「今、ココで、千冬から」
 コキーンと冷たい音がして、体の中で何かが固まった。
「……ひょっとしてアタシ、考えてること口に出てた?」
「ダダ漏れ」
「まさか……今までもずっと……? スーと付き合ってる時から……?」
 昴は極上の営業スマイルを浮かべて、グッと親指を突き立てる。
「どうして言ってくんないのよ!」
「僕も人のことを言えた義理ではないので。まぁ良いじゃないですか、妄想癖を持つ者同士これからも仲良く……」
「よくない!」
 ああ、恨みます母さん……。あなたの背中を毎日見て育ってきた娘さんは、こんなにも立派に荒廃していってますよ……。
「ま、取り合えず今その犯人がいる留置場がドコかの特定ですね。千冬、こっそり鮎平さんに聞いていただくわけにはいかないのでしょうか?」
 おまけに勝手に話進んでるし……。
「……まぁ、無理でしょうねぇ。僕としてもそんな昔の古傷を抉るようなマネはしたくありませんなのです。ここはやはり『力』を使って何とかするしか……」
「言っとくけど捕まってないわよ」
「へ……?」
 千冬の言葉に、今度は昴が素っ頓狂な声を上げた。
「ヒメをあんな目に遭わせた犯人、捕まってないわ。それにもう時効が成立。ちょうど今年の春で十年なのよ」
 千冬は溜息混じりに言ってベッドに座り直し、軽く眉を上げて見せる。
「に、日本の警察は一体なにを!」
「捜査したわよ。全国的にね。何せこの犯人、ヒメにしたようなこと、あちこちでやってたみたいだから」
「あちこち、で……?」
「そ。極めて残酷で冷徹、そして狡猾な猟奇犯。けど殺したわけじゃないから時効まで長くて十年。ヒメが最後だったみたいで、今は大手を振って街中を闊歩してるってわけ」
「信じられない……」
「図書館にでも行って昔の新聞記事見てみたら。詳しく書いてあるわよ」
「……分かりましたなのです。早速明日、行ってみるのです」
 確かな決意を宿した表情で、昴は何か考え事でもするかのように部屋の隅を見つめながら頷いた。
(全く……さっきまで名前くらいしか知らなかったクセに……)
 よくもコレだけ気合いを入れられるモノだ。姫乃のおっぱいは昴にとって、それ程までに特別な物なのだろうか。
 自分と姫乃の違い。ソレは昴本人にしか分からない。
(ま、今さらよね……)
 今さら何を考えているのだろう。
 昴とは今もこうして仲良く痴話話のできるお友達。ソレでいいではないか。ソレでいいからこそ、あんなにもサッパリと別れられたのだ。
 ――何かが違う。
 自分自身、そう思ったのは確かなことなんだから……。
「千冬」
「へぁ!?」
 突然、昴の顔が目の前に現れて、千冬は体を大きく震わせながら甲高い声を上げた。
「な、なななななにナニ何!? またなんか口に出てた!?」
「うーむ、出てたような出てないような……」
「どっちよ!」
「ま、ソレはともかく。コレを返しておいて欲しいのです」
「ともかくじゃない!」
 くっそー、この扱いの差は何なんだ……。
 心の中でぶちぶちと不満を零しながらも、千冬は昴から『洋風屋』のメンバーズカードを受け取る。
「それと、できれば謝っておいて欲しいのです」
「……そんなの、自分でやればいいじゃない」
「まぁ、ソレは、そう、なのですが……」
「アタシ、ヒメとは毎日一緒に帰ってるから。その時になったら携帯で連絡するわ。桜空高校。場所は分かるわよね。校門のそばで待ってなさい」
「え!? あ、明日なのですか!? ちょ、まだ心の準備が!」
 コイツ……おっぱいおっぱい言ってるクセに変なところで純真なんだから……。
 まぁ、姫乃の過去を知ってしまった直後で、どう接していいのか分からないのかもしれないが。
「つべこべ言わないの。好きなんでしょ、ヒメのこと。このままだとマズくない? ひょっとしたらコレ、解約なんて話になるかもよ?」
 言いながら千冬は姫乃のメンバーズカードを指先でもてあそぶ。
「そ、ソレはヒジョーにマズいのです!」
「だったらちゃーんと自分の口から謝っておくのね。『洋風屋』の店員として。一人の男として」
「うう……分かりましたなのです」
「よろしい」
 やれやれ……我ながら随分と自虐的なことをするモンだ。
 千冬は苦笑しながらメンバーズカードを昴に投げて返した。
「ま、できる限りのお膳立てはしといてあげるわよ。せいぜい嫌われないようにガンバんなさい」
「頑張るのです……」
 素直でよろしい。
「で、今夜はどうする? 久しぶりに泊まってく?」
 昴は少し考えた後、
「ふーむ、ソレもいいでありまするなぁ」
 明るい声で返す。
「じゃあ一晩中――」
 千冬は声にタメを作り、
「オッケーなのです!」
 昴がソレにガッツポーズで応えた。

◆鮎平姫乃の『私に関わらないで下さい』◆
 最後列真ん中にある自分の席で一限目の準備をしながら、鮎平姫乃は気落ちした表情で溜息をついた。ホームルーム前の教室はにぎやかだ。教壇や机に座って他愛もない話題で盛り上がっている。
 一階にあるこの教室は校内庭園に面しており、窓からは桔梗や牡丹といった夏の花が綺麗に咲いているのが見えた。
 中も外も声や色で華やぐなか、姫乃の周りだけ空気が沈んでいた。
(何、やってんだろ、私……)
 もう常連になってしまったレンタルビデオ・ショップ。家のすぐ近くにあって便利だから重宝していたのに……きっと変な子だと思われたに違いない。もう、行けない……。
 それにメンバーズカードも置いてきてしまった。クレジット機能も付いていたのに、どうしよう……。

『今“キズ”の具合を調べますので――』

 あの言葉。店員が何気なく言ったあの『傷』という言葉に、つい反応してしまった。
 姫乃は何か息苦しさのようなモノを覚え、チェック地のマフラーの上から首周りの傷を押さえた。
 十年前、まだ姫乃が小学二年生の時に付けられた傷痕。
 凶器はナイフ。よく切れる大振りのジャックナイフだ。
 ソレが犯人に繋がる唯一の手掛かり。それ以外のことは何一つとして分からなかった。
 犯人の顔も、年齢も、身長も、性別さえも。
 姫乃が覚えているのは眩しいくらいの白色電球と、全裸にされた自分の体を滑る冷たい感触、そして恐怖さえ呑み込んでいく真っ黒な痛み。
 手足を縛られ、口に布を押し込まれ、何も抵抗できないまま、姫乃はただひたすら待つことしかできなかった。
 今怖い目に遭っているのは自分ではないのだと言い聞かせ、苦痛から逃避して、この悪夢が過ぎ去ってくれるのを待つしかなかった。
 そして気が付いた時、姫乃は白い天井を見上げていた。
 病院のベッドの上だった。
 正面扉の目の前で倒れていたのを、見回りの警備員が見つけて中に運んでくれたのだと聞かされた。病院まで連れてきたのは、犯人以外に考えられなかった。
 幸い、姫乃の命に別状はなかった。ナイフで切られた痕が丁寧に止血されていたためだった。しかし傷は一生消えないと言われた。
 連続的な愉快犯。
 姫乃以外にも、同じような犯行に見舞われた人達は何人もいた。そしていずれも病院で適切な治療を受け、普通の社会生活を送っていた。
 消えない傷痕を抱えたまま。
 犯人の目的が殺人ではないことは明白だった。
 凶器のナイフで人を切り刻み、ソレによって被害者が苦しむ様を想像して愉しむ異常嗜好者。精神科医の分析では、犯人は不遇な家庭で育てられた十代後半の青年と診断されたが、確定的なことは何も分からなかった。
 姫乃が連れ去られた状況。発見時の様子。傷の治療のしかた。ナイフの種類。
 警察はあらゆる面から犯人を追ったが、手掛かりらしい手掛かりは何一つとして浮上してこなかった。
 そして今年の春。時効という下らない決まり事によって、犯人の捜索が打ち切られた。
 悔しい。
 勿論、その思いはあった。だがそれ以上に、どこかホッとしていた。
 もう犯人はいなくなった。
 姫乃への犯行を最後に、犯人は十年間も誰にも見つからないまま過ごしてきたのだ。きっとどこか遠いところに行ってしまったに違いない。
 根拠などないが、そう考えると少しだけ救われた。
 もう二度とあんな恐い思いをせずにすむ。誰も痛い思いをしなくてすむ。
 そんなふうに考えていれば、あの事件のことをいつか忘れさせてくれるのではないか。今すぐには勿論無理でも、これから先何十年と過ごしていれば、いつか必ず、きっと……。
 ちっぽけで儚くとも、希望を捨てなければ救いは訪れるはず。
 そう思って過ごし始めた矢先の出来事だった。
 
 ――誰かに見られている。

 いつからなんだろう。ハッキリとは覚えていない。怖いと感じ始めたのは春くらいからだとは思うが、見られていたのはもっと前からかもしれない。それ以前は、犯人からの恐怖に隠れてしまって、そうだと認識できていなかったのかもしれない……。
 特に夜、なんだか後を付けられているような感じさえするのだ。
 これまで夜は、姫乃にとって安らぎの時間と空間だった。
 辺りの闇が自然と自分の体を隠してくれるから。少し気を緩めても、傷痕を誰かに見られることがないから。
 だから姫乃は夜が大好きだった。
 沢山のビデオやDVDを借りて、一人でいる学校帰りの夕方や休みの昼間をソレで潰し、そして夜は街の中を当てもなく徘徊する。そこそこ人通りがあって、それでいて薄暗い闇が集まっている、安全で安心できる場所を何回も。
 しかし、その安らぎさえも壊され始めた。
 なんとかしなければと思った。
 だから相談したんだ。小学校からの大親友で、唯一心を許せる――
「おっはよー、ヒメ……」
 頭の上から振ってきた声に、姫乃は救いを見つけたかのように顔を上げた。
「千冬ちゃんっ。おはようっ」
「あー、もー……限界……」
 しかし何だか元気がないようだ。
 千冬はすぐ隣の席に腰掛けると、机に突っ伏して「はあああぁぁぁぁぁぁ……」と重い息を吐いた。何だか魂が抜けていっているようにも見える。明るい栗色の髪の毛が、勝手気ままにハネ回っていた。
「ど、どうかしたの?」
「フラれちゃったー……」
「フラ、れ……?」
 そう言えば男の人と付き合っていたとは聞いていたが……確か五つくらい年上の……。でも大分前に別れたんじゃ……。もしかすると新しい人なんだろうか。
「三時間も掛けたのに……」
 三時間?
「このルートで行けば間違いないって書いてあったのに……」
 ルート?
「あのおっぱいバカの女体化妄想で気が散って気が散って……」
 おっ……ぱ……?
「『やっぱり、男同士は良くないと思うんだ』ってBLゲー主人公のお前が言うなー!」
 ダン! と机に両手を叩き付けて立ち上がった千冬に、クラス中の生徒の視線が集中した。
「あによ」
 しかし強烈な殺気を宿した三白眼に、全員そそくさと目を逸らしていく。
 が、そんな中。果敢にも千冬を真っ正面から見据え、肩で風を滅多斬りにしながらツカツカと歩み寄ってくる猛者が一人。
「北条千冬。今の大声は百デシベルを越えている。コレは生徒会則第三条四項『デカい声出すんじゃねぇボケが!』に違反している。今回は厳重注意のみとするが、次から相応のペナルティを課すからそのつもりでいるように」
 生徒会長だった。
 重量感のあるロングストレートの黒髪を両手でばっさぁと掻き上げ、胸ポケットから取り出した縁なしのザーマス眼鏡を優美に掛ける。
 女性なのに女にモテる。美人ではあるが性格ブス。声は綺麗だか字は汚い。
 その他諸々のギャップやら矛盾やらで、それなりの支持率を獲得しているらしい、姫乃と千冬のクラスメイトだ。
「はーいはいはい。分かりましたよ。気を付ければいいんでしょ、超会長」
「生徒会長だ」
「それより褒めたつもりなんですけどねぇ」
「町会長ではない」
「自覚あるんですねぇ、あら意外」
「君の挑発にはもう慣れたよ」
「自分の超髪にではなくて?」
「とにかく気を付けるように」
 生徒会長はあくまで冷静な表情で言い残すと、背筋をピシィ! と伸ばしたまま自分の席へと戻った。
「ち、千冬ちゃんっ……」
「へーきよへーき。いつものことじゃん」
 まぁ、ソレは確かにそうなのだが……。
「そんなワケで寝不足中ー……。徹夜でゲームなんて、昔はどーってことなかったのに。アタシも年ねー……」
「そんなオバンくさい……」
 姫乃はハハハ、と苦笑しながら、再び机に顔を埋めた千冬を見つめる。
 千冬はいつも明るくて元気だ。彼女を見ていると暗い気持ちもすぐに吹っ飛んでしまう。エネルギーを分けて貰っているみたいだ。
「あの、千冬ちゃん。また、相談があるんだけど……」
 だからといってすぐに千冬を頼ってしまうのは自分の悪いクセなのだが……。 
「あ、ごっめーん。まだ例の犯人、捕まえてないんだー」
 『犯人』というフレーズに心臓が握りつぶされるような閉塞感を覚えるが、姫乃はマフラーの位置を上げながらなんとか作り笑顔を浮かべた。
「ううん、ソレとはまた別件で……ダメ?」
「そーんなワケないじゃない。アタシ、ヒメのタメなら何だってヤッテあげちゃうわよ」
「ありがとー」
 うん。コレだ。この感じだ。
 言葉では表せない安心感、充実感、開放感。
 千冬になら何でも打ち明けられる。
「じゃあまたお昼休みに、ね」
「オッケー。あ、それからアタシの方もちょっとお願いあるんだけど、いいかな?」
「うん……そりゃあ勿論……」
 珍しい。千冬が自分に頼み事など。何でも一人でパワフルにこなしてしまうのに。特に執念としか言いようのないあのコレクター魂は、姫乃も常々見習わなければならないと思っているのだ。
 けど逆に楽しみでもある。今までずっとお世話になりっぱなしだったから、ソレの恩返しができるというなら嬉しい限りだ。
「はーい、みなさーん。席について下さーい。ホームルーム始めまーす」
 そんなことを考えていると、教室の出入り口の方から柔和な男性の声が聞こえてきた。
(あれ……?)
 おかしい。自分達の担任の先生じゃない。
 百八十は下らない長身に、均整の取れた体つき。少し長めの茶髪はワックスでボリュームを持たせて固め、顔はうっすらとフェイスクリームが塗られてツヤがある。
 切れ長の優しそうな目に整えられた細い眉。服装はベージュを基調にしたシックで落ち着いたスタイル。
 女子生徒に絶大な人気を誇るこの先生は、隣りのクラス担任だ。
「えー、御堂筋先生が体調不良でお休みのため、しばらくはボクが二つのクラスを掛け持ちすることになりました。みなさん、どうかヨロシクお願いします」
 教室の一角から黄色い歓声が巻き起こった。
(ふぅ、ん……)
 何の病気だろうと思いながら、姫乃は体を前に向けて椅子に座り直した。

 昼休み。
 校内庭園の中にある木製のベンチの一つ。ベンチとは言っても、太い幹を真ん中から半分に割って横に寝かし、ソレに足を付けただけの簡素な物だ。だから飾り気も何もない不格好な姿だが、その分周囲の自然と調和し合って完全に溶け込んでいる。
 だんだん暑くなってきて昼休みを教室で過ごす人が多くなってきたここ最近、この場所は姫乃と千冬の指定席になりつつあった。
「え? ホントに?」
 箸を動かしていた手を止め、姫乃は少し目を大きくして隣りに座った千冬を見つめる。
「うん。向こうから持ってきてくれるってさ。ヒメのカード」
 千冬はおかずやらご飯やらが入った口をモガモガと動かしながら、前を向いたまま首を大きく縦に振った。
「でも……どうして、わざわざ……」
 姫乃の相談事。ソレは『洋風屋』に忘れてきたメンバーズカードをどうやって取りに行くか。
 何となく一人で行くのは気まずかったので、千冬に付いてきて貰おうかと思っていたのだが……。
「向こうもヒメに何か用があるみたいよ。そのついでというか、絶好のチャンスというか」
「私、に……?」
 何だろう。ポイントも沢山たまっているから、ソレで何か特典でもあるのだろうか。けど向こうから出向いてくれるようなことでも……。
「ヒメのことが気に入ったんだって」
「え……」
 一瞬、体から力が抜けて危うくお弁当箱を落としそうになった。
「ソレって、どういう……?」
「だからさー」
 千冬はさっきから一度も自分と目を合わせてくれない。ずっとご飯を口の中にかき込み続けながら、どこか自棄気味に喋っている。
「ヒメのことが好きってことなんでしょ」
 そしてようやくお弁当を顔から離し、乱暴に咀嚼して強引に胃へと流し込んだ。するはずもないのに、ごっくんという効果音が聞こえてきそうなほど勢いよく。
「え……でも……」
 どうして? あそこの店員とは、レンタルする時に二言三言決まった文言を交わすだけで、特に親しくした覚えは誰とも……。
「うん。まぁ、つまりそーゆーことなの。ひょっとしたら今日いきなり愛の告白とかあるかもしれないから、その辺覚悟しておいてってこと」
 ナハハ、と明らかに無理矢理作った笑顔をコチラに向けて、千冬は箸で指してきた。
 さっきから様子がおかしい。顔で笑って心で悲しんでる。そんな感じがする。
「その人、千冬ちゃんの知り合いなんでしょ? どんな人なの?」
 姫乃の言葉に千冬は上を向いて「んー」と何かを思い浮かべるような仕草をした後、
「知り合いっつーか、元カレ、かな……」
「も……」
 やっと分かった。千冬の様子がおかしな理由が。
「私、断るから」
 姫乃は千冬から顔を逸らして前を向き、キッパリと言い切った。
 コレですっきりした。すっきりしたら、急にお腹が空いてきた。
「ちょ、ちょっとヒメ! まだ会ってもないのに!」
「私は千冬ちゃんより男の人を取るような薄情な女じゃありませんから。ご安心あそばせ」
 マフラーを大きくズラして口の周りを広く開け、姫乃は千冬のマネをしてお弁当の中身をかき込む。しかしすぐにむせて、まだ味わってすらいないタコさんウインナーが地面に落ちてしまった。
 もったいない……。
「だ、大丈夫!?」
「とにかく断るから」
 一度大きく咳払いをして呼吸を整えると、姫乃はもう一度強い口調で言い切った。
「あ、あのねー。別にヒメがアタシの元カレと付き合ったからって、どうかなっちゃうほどヤワな関係じゃないでしょ、アタシ達は」
「ウソツキ」
 姫乃は千冬の言葉に被せるようにして言う。
「千冬ちゃん、その人とヨリ戻したいんでしょ?」
「え!?」
「顔に書いてあるモン。何年付き合ってると思ってるの?」
「そ、そんなことない! 誰があんなおっぱい星人なんかと……!」
「ちょ……千冬ちゃんっ……」
 いきなり何を言い出すんだ。教室の窓が開いていたら確実に聞こえている。
 姫乃は思わず顔を俯かせてマフラーの中に鼻の辺りまで沈めた。
「ああー、やっちゃったー……。スーと一緒にいると自然な感じで使ってくるから感覚が麻痺してきてるのよねー。アイツが言うと全く違和感ないし。おっぱい……だっておっぱいよ? 普通は使わないわよねぇ。せめて胸とかにしておいて欲しいモンだわ」
「千冬、ちゃん……」
 何やら一人で勝手にベラベラと喋り始めた千冬を、姫乃は恐る恐る見つめる。
「あー、でもどうしようかしら。せっかくココでスーの株上げて、ヒメと上手く行くように仲を取り持つつもりだったのにぃー。アタシがとちっちゃったせいで、ヒメに変な気を遣わせるは、スーの変態癖がバレちゃうわ最悪だわ。リカバるにはどうすればいいのかしら。やっぱりアタシがスーをののしり倒して全ッ然興味ないことを猛アピールするしかないんだろうけど……そんなことしたらスーの変態度が余計に加速してヒメに嫌われちゃうのは目に見えてるし……。ああっ! どうすればいいのよ! この矛盾から解放されるには! アタシはどうすれば!」
「あ、あのー……」
 頭を抱えてうずくまる千冬に、姫乃はそっと手を伸ばし……。
「そうだ! ヒメとくっついてくれた方がアタシも綺麗サッパリ諦めがついてグッジョブって方向に持っていけば良いのよ! アタシのためにスーと付き合ってー、みたいな。コレよ! コレしかないわ! そうよ! コレだわ! この路線で攻めるのよ!」
 突然ガバッと力一杯立ち上がったかと思うと、藍色の双眸を爛々と輝かせてコチラを睨み付けた。
「ヒメ! アタシ……!」
「却下」
 そして口から何か飛び出す前に、冷たく切り捨てる。
「私とスーって人をくっつけて自分に諦めさせようなんて後ろ向きな考え、千冬ちゃんらしくないよ」
「ど、どうしてソレを……!」
「だから全部顔に書いてあるって」
「え!? えェ!? スーの名前までも!? ウソ!? ホント!?」
 顔を押さえてあわてふためく千冬を見ながら、姫乃はマフラーの上から口を押さえて笑いをこらえた。その仕草があまりに子供っぽくて可愛かったからだ。
 千冬がさっきたみたいにトランスするのは珍しくない。ちょっと頭に血が上って自分の世界に入ってしまうと、考えていることが全部口に出てしまう。
 だから千冬は肝心なところで隠し事ができないし、コチラも千冬に対して何か隠すつもりもない。
 この体の傷のことだってさらけ出したのだから。
 ソレが二人でずっと仲良くやっていられる理由だと、姫乃は考えていた。
「とにかく、私がそのスーって人と付き合うのはありえないから」
「ヒメェ〜……」
「それに、千冬ちゃんが平気でも私はきっと断ってるよ」
 男の人に告白されるのは実は初めてではない。過去に何度か経験がある。しかし、その全てを断ってきた。
「どうして?」
「だって……」
 小声で呟きながら姫乃は自分の体を寂しそうな表情で見下ろす。
(この体じゃ……)
「ソレだったら全くもって問題ナイ!」
 千冬は急に元気になって大威張りで叫んだかと思うと、
「ソイツ、ヒメのおっぱいしか見てないから!」
 グッ! と親指を突き立てて会心の笑みを浮かべた。
「サイテー……」
 侮蔑にまみれた姫乃の低い声が、涼やかな木陰の中に白々しく溶け込んだ。

 そして放課後。
 結局、会うだけは会うことになった。
 例え断ることが前提だとしても千冬の顔はちゃんと立てなければならないし、メンバーズカードも返して貰わなければならない。
 でもソレで終わりだ。申し訳ないが相手の希望に沿うことはできない。『洋風屋』にはその店員がいる時は顔を出せなくなるかもしれないが、仕方のないことだ。
(千冬ちゃんが、最優先だモン……)
 姫乃は千冬と一緒に校門を出てすぐ左に曲がり、舗装された歩道を二、三歩進んだところで足を止めた。隣で千冬も立ち止まっている。
 すぐに分かった。彼が千冬に『スー』と呼ばれていた人なのだと。
「やぁ」
 彼はもたれていた学校の外壁から体を離し、軽く片手を上げて微笑んだ。
 ちょっとえくぼができて、愛嬌のある八重歯が中から覗いた。
「こうしてちゃんと話すのは初めてなのです」
 知っていた。覚えていた。
 妙な丁寧語が特徴的な人だったから。何よりあの日、店のカウンターにいた人だったから。
 ――東雲昴。
 確かネームプレートにはそう書かれていた。
「一応、自己紹介しておくのです。レンタルビデオ・ショップ『洋風屋』でアルバイトをしています東雲昴です。どうかよろしくなのです」
 耳の辺りで切り揃えた黒髪。くもりのない鈍色の瞳。少し丸みを帯びた、柔らかそうな顔の輪郭。
 そんなまだあどけなさの残る顔立ちに反して、服装はタロットカードのプリントされた白いティーシャツの上に、黒革のジャンパー。そしてデニム製のジーンズ。
 『洋風屋』の制服を着ている時には全く違和感なかったが、こうして私服姿の昴を見ると、子供が必死に背伸びしているようにも見える。
 千冬から話を聞いてふくらませていたイメージからはあまりにかけ離れてた。
(てっきり、小太りのオタク青年かと……)
 偏見が入りすぎたのだろうか。
「え、えとっ。は、初めましてっ……! ……で、ではないですよね。あの、鮎平姫乃と言いますっ。きょ、今日はどのようなご用件でしょうか」
 思わず声が裏返ってしまいそうになる。顔が熱い。マフラーなんか取ってしまいたい。
(ど、どうして……!?)
 いや、理由は分かっている。
 極めて単純な理由だ。
 千冬といい昴といい、どうやら自分は『子供っぽい』というのがツボらしい。この条件が入ると体が勝手に反応してしまうようだ。
 だがダメだ。昴の申し出を受け入れるわけにはいかない。自分には千冬という生涯の大親友が……。
「鮎平さん、落ち着いて聞いて欲しいことがあるのです」
「は、はいっ」
 全身が熱い。真夏にこんな格好しているだけでも限界なのに、追い打ちを掛けるように……!
「あなたの傷痕を、もう一度だけじっくり見せて欲しいのです」
 体温が一気に下がっていくのが分かった。
「え……」
 自分の声がどこか遠くの方から聞こえてくる。
「鮎平さん、無理を承知でお願いするのです。あなたの……」
「やめて!」
 乾いた音。手の平にわだかまった熱。
「二度と、言わないで……」
 頭が真っ白になっていく中、ソレだけを喉の奥から絞り出して姫乃は駆け出した。
「ヒメ!」
 どうして……どうして、どうして! どうしてどうしてどうしてどうして!?
 まるで別世界のように変わってしまったいつもの通学路を、姫乃は俯いたまま走り続けた。

 △▼△▼△▼△▼△▼

「ヒメ!」
 叫び声を上げ、姫乃の後を追おうとする千冬の肩を昴が掴んだ。
「離せバカ!」
「千冬」
 ソレを振りほどこうと暴れる千冬に、昴は苦痛に耐えるかのような重苦しい表情を向ける。
「スー……?」
「千冬にも、落ち着いて聞いて欲しいことがあるのです」
 それはまるで血でも吐きそうなほど険しく、悲惨な顔付きだった。
「な、なに……?」
「鮎平さんを、傷付けた犯人……」
 そして昴は両の拳を固く握りしめ、奥歯をきつく噛み締める。
「犯人、が……? どうしたの?」
「この、桜空高校の中に、いるのです……」
 茜色に染まっていく四階建ての校舎。
 下校に賑わう生徒達。
 長く伸びた影。
 ソレは何の変哲もない日常的な風景。
「え……」
 そんな中、昴と千冬の周りだけに異質な空気が這い寄り始めていた。




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