廃墟オタクは動じない

モドル | ススム | モクジ

  第十一話『告白を告げて白状します』  

   ――ねぇねぇ見た? 天草の顔。

     ――え? 何? 見てない。何かあったの?

   ――すっごい腫れてんのっ。左の顔っ。

     ――……『顔の左』、ね。あんたマジ国語力ヤバくない? 天草いつから阿修羅になったんだよ。

   ――あーもー! 細かいこといっつもいっつも! いいじゃん別に! 伝わったんならぁ!

     ――あー、ハイハイ。で? 天草の顔の左側がどうしたって?

   ――すっごい腫れてんの! ビックリするくらい! あとオデコにもでっかいバンソーコー貼ってて! 絶対ケンカだよケンカ! 調子乗りすぎて誰か男子にやられたんだよ! きっと!

     ――ふーん、まぁイイ気味なんだけど、さ。昨日、見ちゃったんだー。ガラの悪い人ら。もしアレ絡みだったら、ちょっと怖いかな……。無いと思うけどさ。

   ――あー、ヤクザみたいな……。アレかー。ちょいちょい見かけるよねー。学校何とかしてくんないのかなー。目ぇとか合っちゃったらどうすればいいのよって感じよねー。ねぇ?

 ――……うん?

   ――あー、今ぜったい話聞いてなかったでしょー。

 ――あ、ああ。ゴメン……。

     ――てか、大丈夫なの? まだ休んどいた方がいいんじゃないの?

 ――あ、あぁ……。ううん。大丈夫。もう金曜日だし。明日休みだし。別にどこも悪くないし……。

   ――あれ? 何か赤くない? 後ろの首のトコ。

 ――え?

     ――『首の後ろ』、ね。あー、でも確かに。虫刺され……?

   ――キスマーク!

 ――えぇっ?

     ――ああー。人知れず華麗にステップインしちゃってたのかー。そりゃーおととい、あんなこと言っちゃうわけだ。自信が付いたんだねー。納得。

 ――違うって!

    ――おおっとここでチャイムです。では続きは後ほどゆっくりと聞きましょー。

 ――だーかーらー!



 まさかこんなことになるとは。完全に想定外だった。
「あの、天草先生……。本当に大丈夫ですか?」
 一限目開始まであと二分。
 職員室からD組へ続く廊下を歩きながら、私は初老の教師に目線だけを向けて頷いた。
 口の中が腫れて上手く喋れない。強引に何か言おうとすると、歯が患部に直撃して痛みが走る。
 くそぅ、何ということだ。
 昨日、ふがいない自分への活のために行ったことが、こんな形で面倒なことになってしまうとは。少し全力を出しすぎたか……。
 美術室から図書室に行く前、私は思い切り自分の左頬を殴った。さらに額を二度ほど壁に打ち付けた。痛みをもって、失われかけた冷静さを取り戻すつもりだった。事実、平静を保ち続けられた。
 だがしかし、このような代償を支払う羽目になろうとは。
 昨日は特に異常はなかったんだ。シャワーを浴びている時も、歯を磨いている時も、百均の手鏡に映し出された私の顔に問題はなかった。廃墟臭漂う立派な紳士だった。
 なのに……! 今朝起きてみたら……!
 おかげで想定外の出費が発生してしまったではないか!
 しかもまだ百均ショップが開いてなかったから、コンビニでこんな高価な絆創膏を買うハメに……! 三日分の昼食代に匹敵する、巨大な支出だ。こうなったら傷口をさらに広げて、痛みで食欲をなくす作戦に出るしかない。
「やっぱり保健室で診てもらった方が……」
 心配そうな声で言ってくる初老の教師に、私はゆっくりと首を横に振る。
 もし一限目の授業がD組でなかったら、そういう手もあっただろう。そうすれば治療費も浮くし、少し休んだ方がということになれば、その授業時間は丸々考え事にあてられる。
 しかし今はそんな悠長なことを言っている場合ではない。
 七ツ橋ひなた。
 彼女の存在を確かめなくては。
 今日はちゃんと来ているのか。体の調子は。目の輝きは。精神状態は。廃墟具合は。
 初日からやたらと気になる存在ではあったが、女霧からあんな話をされた後だと余計にだ。
 頼むからきていてくれ、七ツ橋。私はお前に聞きたいことがあるんだ。私はもっとお前と話がしたい。
「……」
 D組の教室前。私は祈る気持ちを乗せて扉に手をかけた。
 中は妙に静まり返っている。全く話し声が聞こえてこない。明らかにいつもとは違った雰囲気。
 嫌な予感しかしない。
 まさか――いやしかし――だがありうる――
 数々の負の思いを胸に、私は扉を横にスライドさせた。
 前から二列目、窓側から三列目。そこが七ツ橋ひなたの席だ。
 私が真っ先に叩きつけたその場所には――
「ぃた……」
 思わず声が漏れてしまった。
 目に深くかかるまで伸びた前髪。魂が抜け落ちたかのような漆黒の双眸。そこだけ落ち窪んでいるのではないかと思わせるほど濃く敷かれたクマ。座っていても立っていても高さの変わらない百四十センチ弱の低身長。
 もはやどこから見ても疑う余地のない、日本を代表する廃墟系女子。
 七ツ橋ひなたの姿がそこにあった。彼女はぎこちなく体を揺すりながら、なぜか申し訳なさそうな表情でこちらを見ている。
「……ふぅ」
 よかった……。とにかくよかった。
 これでまずは一安心だ。彼女が学校に来てくれていたなら、いくらでもやりようはある。今日は全力で七ツ橋と喋る時間を確保する。他のことは全て後回しだ。正直もう授業とかどうでもいい。上手く喋れないし、この場は初老の教師にでも任しておくか。
「ぉぃぉぃ、マジだよ……」
 ……ん?
 どこからか囁くような小声が聞こえたような気がして、無意識に目で声の主を探る。
「あたってんじゃん……」
「大怪我するって……」
「……一週間以内、だね……」
 今度は複数の声。後ろの方からだ。
 そちらへと視線を向ける。どこかで見たような気がする生徒たちが、いぶかしげな様子で私の顔をうかがっていた。が、その中の一人と目が合うと彼はすぐに横を向き、それに触発される形で他の生徒たちも机に視線を落とした。
 なんだ……? 私に対する畏怖や恐怖とはまた少し違う、何か驚愕にも似たバツの悪そうな雰囲気。
「えー、天草先生は少しお怪我をされているようですが、授業を行う上では特に問題ないとのことでしたので、普通どおり進めさせていただくことにしました」
 ああ、そういうことか。七ツ橋に意識が行き過ぎて、すでに傷のことに考えが回らなかった。
 確かに、昨日まで何ともなかった教師が、次の日突然顔を腫らしてきたらビックリもするか。何かを勘ぐりたくなる気持ちもうなづける。だが『自分で殴った』などと、変態ドM宣言をするわけにもいかない。まぁ別に事情を取り繕う必要もないんだが、影で色々と言われるのも鬱陶しい。ただでさえ良からぬ噂が定着してしまっているというのに、これ以上は教育実習の継続に支障をきたすかもしれない。
 ここはまぁ適当に――
「朝起きたら、こうなっていたんだ。私はカプセルホテルっ、で、寝泊りしている。狭いから多分、ね、寝ている間にどこかに……打ちつけたんだろう」
 こんなところか。
 少々無理がある感は否めないが、何も説明しないよりはいいだろう。ああ、にしてもやはり上手く喋れないな。この授業が終わったら保健室で薬を貰おう。
「『朝起きたら』って……」
「気付くだろ、フツー……」
「なんか嘘っぽくない?」
 まぁこんなところだろう。“嘘っぽい”ということは、“本当っぽい”部分も多少はあるということだ。全否定されなければそれでいい。
 さて、と。じゃあ七ツ橋の調子でもチラ見しながら、さっさと授業を進めますか。
 私は教壇に教科書を置き、油性マーカーを手にホワイトボードの方を向く。
「……狐のお告げ大当たりかよ」
 ポツリ、と誰かが漏らした独り言が背中から聞こえる。だがそれを最後に、一切の私語が鳴り止んだ。
 天井から降り注ぐ明るい光の下、淡々と教科書の内容を意訳していく。
 今日も晴れ間は拝めそうになかった。

 新校舎一階の奥手にある保健室。
 一限目終了後、D組の教室から直接やってきた。
 私が現役の時は、薬品独特の嫌な匂いと、人の侵入を拒絶するかのような冷厳とした雰囲気がどうも肌に合わなかった。
 だが最新の高校はそのあたりのフォローも完璧に行き届いているらしい。匂いは例のオシャレ香で完璧にかき消され、室内にはクラシック音楽が流れている。滑らかに湾曲した診察台はカウンター式になっており、普通に対面するより保健医との距離が近い。耐震装備の施された薬品棚は観音開きではなく、総プラスチック製の小箱がいくつも収納されている。さながら透明のタンスといった外観だ。
 カーテンで仕切られたベッドの数は六つ。それも高さや背もたれ角度が調整できる、介護用の電動ベッドだ。しかも壁には酸素供給口まで完備されており、一流病院の入院病棟のような佇まいを見せていた。
「まぁ、打撲ですねー。ちょっと強く打っているようですが、すぐに引きますよー。一応痛み止めの薬、出しときますねー」
 カウンターの向こうでテキパキと作業しながら、白衣を纏った女性の保健医は間延びした声で言った。
「どうしたんですかー? 誰かとケンカでもしたんですかー?」
「いや、寝ている間にぶつけたみたいで」
 出されたカプセルを受け取り、私は教室でしたのと同じ説明をする。
「教育実習も今日で折り返しですねー。どうですかー? 上手くいってますかー?」
「ええ、まぁ」
 何をもって上手くいっていると定義するのかわらないが、とりあえず適当に返す。
「昨日の校長先生の話どう思いますかー? お化けとかって信じますかー?」
「驚きはしましたけど、別にそれ以上は」
 あの発言の真意はまだ分からないが、何かを隠そうとしているはずなんだ。それが紫堂茜に関与しているかどうかは分からないが。
「最近虫が多いんですがー。何とかなりませんかねー」
「はぁ……なら私の担当教師に相談してみては? 得意だと思うので」
 初老の教師は数少ない旧校舎時代からの人間だ。昔は虫くらいいくらでもいたから、扱いには慣れているはず。
 ――って言うか、さっきから何の話なんだ? いや会話というか、一方的な質問だが。
「最近ずっとお日様が出ないんですけどー。何とかなりませんかねー」
 暇なのか。
 そういうことなのか。
 なら話は早い。さっさと切り上げて――

 コッ、コッ

 出入り口の方から申し訳なさそうにノック音が聞こえた。
「……し、し、しし、失礼……し、ます」
 そして特徴的な喋り方で消え入りそうな声が続く。
「はーいー、どうぞー」
 能天気な保健医の返事に合わせるようにして、扉が音も無く横にスライドした。誰かはすでに分かっていた。
「どうした七ツ橋」
 おどおどとした様子で扉の敷居の向こう側に立っている小さな女子生徒に、私は短く声をかける。
 まさか怪我を……? 
「あ、あのっ……あ、あ天草先生が、こっ、ここっ、こここにいると聞いて来ましたっ」
 僅かにうつむき、目を落ち着き無く動かし続けながら、七ツ橋は勇気を振り絞るようにして言い切った。
「ああ、目の前にいるが」
「ひぇっ……!?」
 まるで今初めて気付いたかのように、七ツ橋は私の言葉に顔を赤くしてたじろぐ。
「あっ、あっ、あっ、あの……っ」
 そして大きな目をさらに大きくして口をパクパクと開閉し、
「すすすすすいませんでひ、た……!」
 絞り出すような声で言い切った。
 が、途中で舌をかんでしまったのか、痛そうに口を両手で押さえている。
「先生、目の前で怪我人が」
「ですねー」
 言いながら保健医は、椅子に座ったままカウンターの後ろの方へスライドする。
「で、どうした七ツ橋」
「あっ、ぁのっ、すいまひぇんれした、おほといわ……」
 雰囲気的に『すいませんでした一昨日は』と言っているようだ。ただでさえ言葉を詰まらせた喋り方なのに、口内を怪我した今はセリフがさらに潰れてしまっている。まぁ、それでも聞き取れないことはないのだが。
「いや、謝るのは私の方だ。こちらから約束を取り付けておきながら、行くのが遅れてしまった。申し訳ない」
 七ツ橋が言っているのは一昨日の放課後のこと。あれは私の失態だ。七ツ橋に非はない。
「体調の方はもう大丈夫なのか? 昨日は欠席だったようだが」
 それよりもこちらの方が気になる。A子の言葉通りになったわけだが……。
「わっ、わらひっ、わっ、別にっ……」
 涙目になりながらも七ツ橋は必死になって言葉を紡ぐ。喋るたびに口が痛むんだろう。
「せっ、先せひ、こそ、だ、だっ、……らい丈夫っ、でふかっ……」
 そこまでが限界だったのか、七ツ橋は口を真一文字に結んで顔をしかめた。
 なんか可愛いのでもう少し喋ってもらいたい気もするが、ここはグッと我慢だ。
「私のことは気にしなくていい。ちょっと自己整形を試みて失敗しただけだ」
「いっ、いひぇ……、そっ、それっではなく、いひぇ、もひろん、それもっ、なな、なんですが……」
「整形ですかー。いいですよねー、整形はー。夢があってー」
 七ツ橋との会話に割り込むようにして、保健医が椅子をスライドさせて戻ってきた。
「飲み薬なんでー、すぐ効きますよー」
 そしてのんびりと言いながら、香水のような小瓶に入った薬を七ツ橋に手渡す。
「あっ、ありがとふ、ございます……」
 それを受け取り、七ツ橋が頭を下げたところでチャイムが鳴った。授業の合間の十分休憩だ。こんなものだろう。
「よし、戻るか」
 保健医に一言礼を言って、私は席を立つ。
 七ツ橋はD組へ、私は職員室へ。
 今回はそれぞれ戻る場所が違う。前のように変な想像をあおるような真似はしない。今後、絶対に。

 昼休み。
 天カス定食をかきこんだ後、私は旧校舎の図書室に来ていた。例の声の発生源を探るためだ。
 あるとすれば、ここの可能性が最も高い。
 声は音楽室でも聞こえたが、声質は悪くて内容も聞き取りづらかった。しかし図書室では鮮明に聞こえた。つまり音楽室で聞こえたのは、図書室から漏れ出た声であると考えるのが妥当。
 放送室に細工の可能性もあるが、その場合は図書室以外のスピーカーを壊さなければ、ああいう聞こえ方はしない。電気系統の検証もしなければならないので、一人では手が足りない。紫堂明良に手伝わせた方がいい。
「クソ……ないな……」
 本棚の上から飛び降り、私は息を吐いて汗をぬぐった。
 天候は曇りだが、昨日とは比べ物にならないくらい見通しがいい。にもかかわらず全く手がかりが得られないというのは……。少し認識を改めた方がいいか? 見つかりにくいのは小型の物だからかと思っていたが、実は逆かもしれない。例えばこの部屋自体が発声機の役割をしている、とか。
 そういえば声の聞こえ方は、耳元で鳴り響いているような感じだった。まぁ目眩とセットだったからそう聞こえたのかもしれないが……。
 一応、初老の教師に、彼が聞いたらしい声のことを聞いてみたが、あいまいな答えしか返ってこなかった。多分、あの場で適当にでっち上げたんだろう。数少ない古参が真面目に校長の方針にのっとったということか。使えない……。
 とりあえず、壁全体に埋め込まれているという可能性もありか。
 なら――
「ん……?」
 外から非常階段を駆け上がる音が聞こえた気がして、私は握りこんだ拳をいったん緩めた。
 どうやら来たようだ。
 美術室の地下も気になったが、彼女が来た時すぐ分かるようにまずは図書室を選んだんだ。
「七ツ橋」
 私は隣の音楽室に移動し、そこにいた小さなシルエットに声をかけた。
「あっ、せっ、せっ先生」
 こちらに気付いたのか、七ツ橋はきょろきょろと目を動かしながら見返してくる。向こうも私が来ることがすでに分かっていたのか、そんなに驚いたような素振りはない。
「こっ、こん、にちは……っ」
 体を綺麗に折り、七ツ橋は丁寧なお辞儀をする。保健医にもらった薬が効いたのか、空気を噛んだような発音ではない。たどたどしさは相変わらずだが。
「口の中は良くなったようだな」
 私が貰った薬はいまいち効きが悪かったぞ。一錠では足りなかったのか? まさか薬を間違えたわけではないだろうな。やれやれ……。
 そんなことを考えながら、私は胸ポケットからカプセルを取り出し、
「あぁっ!」
 どこからか聞こえた大声に、私は慌てて辺りを見回した。
 おかしいな。ここには私と七ツ橋しかいないはずだが。もしかして誰かにつけられているとか? ありうる。校長が怪奇現象を容認した後だ。旧校舎に監視がついていたとしても……。
「せっ、先生っ、そっ、その、おっ、お薬は……っ」
「ん?」
 どうやら七ツ橋はさっきの声よりも私の薬が気になるらしい。なかなかのマイペースっぷりだ。いや待て。私しか聞こえていないという可能性もあるな。例の紫堂茜の声と同じように。七ツ橋に確認しなければならないことの一つだ。とりあえず薬を飲んで、
「ああぁっ!」
 おおぅ、こんなにも鮮明に。しかも声の発生源がまるで七ツ橋であるかのように――
「……ひょっとして七ツ橋。さっきから声を上げているのは君か?」
 私の問い掛けに、無言でこくこくこくっ、と首を縦に振る七ツ橋。
 マイガッ。まさかそんな可能性があったとは……。思索の範疇外だった。
「七ツ橋、そんな大声が出せるんだな」
「え……っ?」
 感心の声で言う私に七ツ橋は戸惑いの色を見せながらも、ふらふらと揺れ動く指先でカプセルを指してきた。
「そ、それっ……な、何のお薬、ですか……?」
 さっきからやたらとこのカプセルを気にしているようだが。
「痛み止めだよ。保健医が出してくれた。君が保健室に入ってくるちょっと前に貰ったんだ」
「あ、ああ……そっ、そう、だったんですか……」
 私の返答に安心したのか、七ツ橋は胸に手を当てて息を吐いた。
「何か気になったか?」
「えっ……? あ、ああっ、そのっ……。せっ、先生が、前にフラフラしたり、とっ、とと、図書室で、気を、うっ、失ってたり、したから……」
「ああ」
 声が聞こえた時のことだな。七ツ橋の目の前で立ちくらみに襲われたり、いつの間かに気絶していたり。これにも何かトリックがあることは間違いないんだ。声の演出と合わせることで、怪奇現象としての効果を倍加させている。
 こちらに関してもやはり憶測の域を出ないのだが、普通に考えれば――
「この薬の副作用か何かと思ったわけか」
 薬物投与。
 この説明が一番しっくり来る。
 音響反射などで物理的に誘発できなくもないだろうが、そんな設備が果たして仕掛けられているのかどうか。だが薬物だった場合も、『誰』が『どうやって』という疑問は当然残る。そこで、だ。
「七ツ橋、君はいつごろからここに通っている?」
「ぅえっ……? えっ、えーっと……」
 顔ごと視線を動かし、七ツ橋は天井を見上げながら少し考え、
「さっ、三ヶ月、く、くらい、前から……」
 怒られると思ったのか、元々小さな声をさらに小さくして七ツ橋はボソボソと返した。
「三ヶ月、か。なるほど。その間、君がここで変な症状に襲われたことは? 気分が悪くなったとか、目眩がしたとか」
 が、無言で首を横に振る七ツ橋。
「では、変な声が聞こえたとか」
 しかし同じように首を振って否定する。
「三日前、私とここで一緒だった時も?」
 やはり否定。
「そうか」
 予想はしていたが、あの変調は私だけに起きたもの。七ツ橋には全く効果なし。となると無差別ではなく、何らかの方法でターゲットを絞っていると考えるのが妥当か。
 つまり『誰』は、私と接点のある人物。『どうやって』は個人を狙い打てる方法、と。
 ……まだかなり広いな。
 声の方はどうなる。一応、音の周波数によっては、年齢で聞こえたり聞こえなかったりする物があるらしいが――
 薬物による幻聴。
 こちらの方が可能性としては高いか。まぁそうなってくると、『誰』が『どうやって』以外に、『入手法』も気になるところだな。目眩や気絶だけなら睡眠薬で演出できそうだが、幻聴となると麻薬の類を使わないと……。
 ――麻薬?
 なんだ。
 何かが引っかかる。
 麻薬、ドラッグ……そんなワードをどこかで耳にしたことがあるようような……。
「あ、あの……っ」
 下から聞こえた七ツ橋の声に、私は思考を中断した。
 いかんな。つい考え込んでしまった。こんな尋問まがいの会話がしたかったわけではないのに。
「せ、先生は、なっ、な何かの病気ってわけじゃ、ないんですよね……?」
 持病か。
 なるほど。その可能性はまったくのノータッチだったな。
 私独自の病気なら、私だけに現象が起こるのは必然。ふむ。
「七ツ橋。君はなかなか面白いな」
「ふぇ……っ?」
 言われて七ツ橋は、口を半開きにして間の抜けた声を漏らす。
「君のことをますます知りたくなった」
 思いもよらない視点を提示してくれた、廃墟系女子の『視える者』。実に興味深い。
「そういえば前に言っていた大きな岩。確かに鳥居だった。凄いな。本当に分かるんだな。そういうことが」
 旧校舎の裏口から出た場所にある、少し開けたスペース。かつてはグラウンドへの近道として使っていた。そこを囲う柵を越える時に、踏み台として使っていた岩があった。
 図書室に行く前に、少しだけ掘り返してみたんだ。地面から突き出していたのは、鳥居の端にある反り返りの部分だった。それが少し傾いた状態で顔を出していた。
 かつてここが神社だったというのはもう疑いようがない。紫堂明良が言うには円網神社というらしいが。
 軍事病院などでっち上げず、これをそのまま使えば少しは信憑性が増したのに。病院でも神社でも、霊験あらたかな場所であることに変わりはないのだから。
 この高校を建てた校長が、神社のことを知らないはずないんだがな。病院の方が怖がらせられると思ったのか?
 まぁいいか。そんなことより、初日にあの場所に置き去りにした長靴が見つからなかったんだが……。
 っと、いかん。また自分の世界に入り込んでいたぞ。悪い癖だ。七ツ橋はさぞかし退屈そうにして――
「ん?」
 と思ったが違う。様子がおかしい。
 目の焦点は完全になくなり、顔は病的なまでに紅潮している。さらに過呼吸に陥ったかのように肩で息をしていた。
「おい、七ツ橋」
 まさかこれは。私に起った怪現象が彼女にも――
「せっ、せせせ先生ぃ!」
 と思ったが違うな。
「おっ、おはっ、おはぁ……!」
 『おは』? ようごさいますか?
「お話……っ! しましょう!」
 ……。
「あぁ」 
「えっ!?」
 どうしてそこで驚く。
「そっ、そそそっ、そんな……っ!」
 どうしてたじろぐ。
「わっ、わっ、わたしっ、な、七ツ橋、ひひひなたって言います……っ!」
「知ってる」
「えぇっ!?」
 だからどうして驚く。
「いっ、いつも、おっ、お昼休みにっ! ここここここに来てます……!」
「知ってる」
「ええぇっ!?」
 いやだから……。
「こ、こここでっ! ひゃっ、しゃっ、しゃ喋る練習をしてます……っ!」
「知ってる」
「ええええええぇぇぇぇぇーーーーーーっ!?」
 ああ、これは驚くか。
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