廃墟オタクは動じない
第十三話『真実の匂い』
痛い。
顔が痛い。
確かこんな感じだったか。高三の時にあいつと殴り合いになった時も。あの時は、血液が沸騰したように体が熱くて、目の奥が痺れるほどに乾いて。文字どおり周りが全く見えなくなっていた。
今だってそうだ。真っ暗で何も見えない。なのに痛みだけはハッキリと感じる。
左頬が痛い。額が痛い
この二箇所に集中して痛みが走り付けている。何だこれは。
ああ、そうか。思い出した。私は怪我をしていたんだ。あまりに自分が不甲斐なくて情けなくて、気合を入れるために自らを痛めつけて出来た傷。
そうだ。だんだん頭の中のもやが取れてきた。
私は確か、旧校舎で七ツ橋と――
「起きたみたいね」
重いまぶたを開けると同時に、女性の声が聞こえてきた。
だが七ツ橋のものではない。彼女はこんな滑舌よく喋らない。誰だ?
「先生、早くしてください。もう昼休み終わっちゃいますよ」
この声は……。
「先生」
「痛いぞ、女霧」
私は腹筋に力を入れてゆっくりと上体を起こし、声の主の顔を見た。
背中まで伸びた薄紅の髪に、切れ長の目。口元に柄物のハンカチを当て、なぜか怒りに満ちた視線でこちらを見下ろしている。
「怒ると太って見えるぞ」
なおも私の怪我の箇所を叩こうとする女霧の細腕を払いのけ、私はその場に立ちあがった。まだ少し目眩がする。だが平衡感覚を保てないほどではない。
周りを見る。
場所は変わっていなかった。私が気絶したのと同じ、旧校舎の音楽室だ。七ツ橋は私から少し離れた位置で、泣き出しそうになりながら事の成り行きを見守っている。他には誰もいない。私を含めて三人だけだ。
百均の腕時計を見る
昼休み終了五分前。気を失っていたのはせいぜい数分といったとろか。まぁ女霧が一方的な暴力行為を仕掛けてこなければ、もっと長く昏睡するハメになっていただろうが。
状況は大体分かった。
私は声を聞いた直後、気を失った。それを見て七ツ橋はひたすら焦る。そこになんと偶然にも女霧が登場。彼女は最も効率的に私の覚醒を促すべく、傷口に狙いを定めて打撃を繰り返した。その痛みで私は無事、現世に戻ってくることが出来ましたとさ。こんなところだろう。
だがこの流れで致命的に分からないことが一点。
「どうしてお前がここにいる」
再びぶり返してきた頬の痛みを我慢しながら、私は端的に聞いた。
「へっ……?」
女霧は表情を露骨に引きつらせ、長い睫毛を伏せて目を逸らす。
「そっ、そんなことよりっ! 早くしないとチャイム鳴っちゃいますよ!」
「七ツ橋、説明してくれ」
部屋の隅にいる七ツ橋に声をかけ、私は状況説明を求めた。
「えっ……、あ、ああ……あの、その……せ、せせ先生が、た、倒れて――」
「七ツ橋さん! あなたも早く戻らないと!」
「気にするな七ツ橋。続けてくれ」
女霧と七ツ橋の間に入る形で立ち、私は七ツ橋の言葉を促す。
「え、えっと……た、倒れて、わ、わわ、わたしが、あわっ、慌ててたらっ……め、め、め、女霧、さんが……はは、入ってきて。ど、ど、『どうしたの!?』……な、なな『何コレ!?』……って。そそ、それで、バシン、バシンっ……って」
七ツ橋の声を遮るべく、後ろで女霧が「わ゛ー!」「ぎゃー!」と騒がしいが、何とか七ツ橋は無事説明を終えた。内容は……まぁ、なんとなくだが伝わってきた。
要するに突然タイミングよく入ってきて、迷うことなく実力行使してきたというわけか。
つまりこれは――
遠くからチャイムの音。
『あ』
三人の声がはもる。
考えるのは後回しだ。急いで戻らなければ。五限目は私が授業を行わなければならない。
幸か不幸か、私が受け持つはずだった五限目の授業は前半半分が潰れた。
『視える者』が暴れたせいだ。それも二人。
「明日、校内でかまいたちが実体化する」だの「地下で死者の融合が始まった」だのと、好き放題に妄言を垂れ流し、クラス全体を煽っていた。校内放送で静かにするように言われたが効果はなく、結局力ずくで抑えこむことになった。
まぁ『視える者』がどちらも女子生徒だったおかけで、何とか収拾が付いたが、片方が男子生徒だったら五限目は丸々潰れていただろう。
取り合えず、私の遅刻はなかったことになった。そして二人の『視える者』は厳重注意のみ。反省文すらなし。実に素晴らしい学校方針だ。
そんなこんなで放課後。
週末の休みに胸を躍らせ、心を弾ませる時間帯。
私は実習日誌を書き終え、紫堂明良と会うためにこっそり旧校舎へと向かう――フリをしてD組の教室へ。まだ残っている生徒が数人。
まず七ツ橋の席を見る。鞄はない。今日はもう帰ったらしい。まぁ「さっそく質問に来ちゃいました」的なキャラではないからな。
で、女霧の席。
まだ鞄がある。
私は教室を後にして食堂に向かう。誰もいない。
自販機でこしあん入りおしる粉ジュースを一パック購入し、適当な席に腰を下ろした。そして溜息を一つつき、
「女霧」
誰もいない空間に向かって名前を呼んだ。背後から僅かな物音と、激しい動揺の気配が伝わってくる。分かり易い奴。
「私に何か用か」
しばしの沈黙。反応は無い。
「お前、昼休みの時も後をつけてたよな」
私を暴力的に叩き起こした時、どういうわけか女霧は私達のやり取りを見ていた。だからあのタイミングで出てこられた。最初からあの場所で待機していたとは考えにくいから、私か七ツ橋を尾行したと考えるのが妥当だ。そして仮に七ツ橋をつけていた場合、非常口から入ることになる。非常階段は足音が聞こえやすいし、非常口は音楽室のすぐ横にあるから誰かが入ってくればすぐに気付く。
つまり女霧は私の後をつけてきた。何が目的なのかは知らないが。
当然、私が図書室で声の発生源を探していたのも見ているだろう。あるいは、もっと前から――
「別に怒っているわけじゃない。むしろ感謝している。あの時、お前が起こしてくれなかったら七ツ橋は誰か他の先生を呼んでいたかもしれない。それを避けられて助かった」
七ツ橋の性格からして強引に起こそうとはしないだろう。だが、ただ待っていれば昼休みが終わる。焦った七ツ橋は誰か助けを呼ぶかもしれない。たとえ自分の立場が悪くなろうとも。
その点、女霧は自分の保身を優先させた。立ち入り禁止の場所に踏み込んだことが、他にバレないような行動を取った。眠ったなら起こせばいい。実に単純で素晴らしい発想だ。
まぁ、自分だけ立ち去ってしまうというのが、一番簡単で確実な方法なんだが……。
「ま、まぁ、別に先生を助けようと思ってしたわけじゃないですけど……。私、嫌いですし。先生のこと……」
「そうか」
胸中で失笑しながら、私は誰も座っていない隣の席にこしあん入りおしる粉ジュースを置く。しばらく躊躇うような気配があったが、やがて足音がしたかと思うと、女霧がその席の前に立つ。そして長い髪を揺らしながら、椅子を引いてゆっくりと腰掛けた。
「で、何か用なのか?」
私の問いかけには答えず、女霧は黙ってパックにストローを差すと、無言で一口吸った。そしてむせる。
「……その傷」
けほけほっ、と軽く咳き込みながら、女霧は少し上ずった声で続けた。
「それ、本当はどうしたんですか?」
聞きながら女霧は、隣からこちらを覗き込んでくる。少し怒っているように聞こえるのは気のせいか。
「ん? だから今朝言っただろ? 起きたらこうなってたんだよ」
「嘘」
即座に否定。
「本当のことを言ってください」
両目に明確な意思を宿し、強い語調で言ってくる。
「なぜ嘘だと思う」
「どうして騙せると思うんですか」
相手に有無を言わせない一方的な物言い。
何だ。いつもと様子が違うぞ。高飛車で無駄に自信満々なのは女霧のキャラなんだろうが、それとはまた少し違ったものを感じる。強気というよりは、何か焦りのような……。
しかし本当のことを言うわけにはいかんしなぁ……。かといって無理にごまかしても、徹底的に追及してくるだけだろうし。
どうすれば彼女が納得のいく説明になるのか。言われた相手がどのように感じるかもちゃんと考慮しないと、紫堂明良の時のような致命的なミスにつながるぞ。そうなったらまた傷が増えてしまうではないか。うぅむ……。
「……話せないことなんですか」
いかん。タイムアウトだ。
「そうやって知らん顔で人助けみたいな真似をして、格好つけてるつもりですか」
ん?
「私、そういうこと平然とする人って最高に嫌いですから」
何の話だ?
「はっきり言いますけど、そんなことしても何の意味も無いですよ。現に私は先生にこれっぽっちも感謝なんてしてませんから」
私の方こそ感謝されるようなことをした覚えなどないのだが……。
「そうやってとぼけた顔して。そういう斜に構えた感じが凄く嫌いです」
いや、こういう表情になってしまうのは不可抗力だと思うんだ。本当に分からないのだから。
「分かりました。あくまで何も知らないというスタンスなんでしたら、はっきりと申し上げます」
ああ、そうしてくれると助かる。
「私、先生のおかげで『視える者』としての最高地位がほぼ不動になりました」
だんっ、と右手をテーブルに叩きつけ、女霧はふてくされたように言う。手にこしあん入りお汁粉ジュースを持ったままだったので、中身が激しくテーブルに噴出した。
きゃーっ、と小さく悲鳴を上げながら、自前のハンカチでそれを拭き取る女霧。備え付けの紙ナプキンを使えばいいのに、と思いながら私はしばし無言で彼女の作業を見守り、
「……オメデトウ」
おおかた綺麗になったところで、ボソっとこぼした。
それがまた気に食わなかったのか、女霧はキッ! とこちらを睨みつけてくる。
「先生のおかげなんですよ! 先生がそんな大きな傷作ってくるから! 顔なんていう分かりやすい場所に! ちゃんと一週間以内に! だから私のでまかせ予言が当たったことになって、みんな尊敬の眼差しなんです! 『あの天草に勝った』って! 『女霧さんの敵じゃなかった』って! 先生がみんなから危険人物認定されてた分、私の評判は急激上昇なんです! 先生が来る前よりももっと高く認められました! ありがとうございます!」
目端を尖らせ、まさに鬼のような形相と怒声で感謝の言葉をまくし立てる女霧。
……器用なヤツ。
「自分がやったこと、分かりましたか?」
はーっ、はーっ、と肩で息をしながら、女霧は確認してくる。
「ああ、大体な。あとお前、手」
それに端的に返し、私は女霧の右手を指差した。
さっきの熱弁中ずっとハンカチを握り締めていたものだから、せっかく拭き取ったこしあん入りお汁粉ジュースが女霧の手を侵食していた。
きゃーっ、きゃーっ、とドタバタしながら水周りを探し求める女霧を尻目に、私は数日前の記憶をたぐる。
あれは初日の放課後だ。デブマッチョに言われて校内に生徒が残っていないか見回っていた時のこと。女霧を中心としたグループが教室で儀式を行っていた。その中で女霧が狐から予言を聞いてきたとか言って、私が一週間以内に大怪我をすると宣言していたような気がする。
そこに私がこんな傷を作ってきたものだから、その予言を聞いていた生徒達は『当たった!』と女霧に心酔し直し、全クラスに評判を広げた、と。
おまけに私はD組では完全な悪者。女霧の評判を貶めるきっかけを作ったのも私だ。クラスの連中からすれば、女霧が反撃して勝利を収めたように見えたんだろう。一度落ちた信頼を再び勝ち取れば、それはより強固なものとなる、か。手のひら返しが得意な奴らのやりそうなことだな。
まぁようやく、女霧の様子がおかしかった理由が分かった。確かに、『朝起きたらこうなっていた』はまずかったか。そういう前情報があれば、いかにもオカルトっぽく聞こえてしまうな。女霧にすれば露骨に助けられたように感じて、受け入れがたかったんだろう。
……面倒くさいヤツ。
「で、結局何なんですか? その傷」
洗ってきたハンカチをしかめっ面で見ながら、女霧は適当な口調で言う。
「正直に答えてください」
そして軽くため息をついて、正面の席に腰掛け直した。
結果として助けられてしまったという事実がよほど不満らしい。今彼女が求めている答えは、私のこの傷が偶然できたものであり、女霧を助けようという意思はなかったという内容だ。
……。
……まぁいいか。ここで変に考えても、また怪しまれるだけだしな。正直に話すか。紫堂明良の関与を伏せておけば別に問題ないだろう。男ならむしゃくしゃして、こういうことをやることがある、とでも付け加えておけばいい。
「これはな、実は――」
「自分で殴って出来たなんて言わないで下さいね。絶対に信じませんから」
このヤロウ。
こいつたまに滅茶苦茶鋭い時があるな。本当に『視える者』なんじゃないかと思ってしまいそうだ。
「で、『実は――』の後は何なんですか」
「女霧、お前はもう少し人を信じることを覚えたほうがいい」
「何なんですか?」
逃げられない。
「分かった分かった。ちゃんと言うからその前に一つに教えてくれ。もし私が怪我をしなかった場合、お前はどうしようと思ってたんだ?」
こうなったら他の話題で時間を稼ぎながら、その間に説得力のある言い訳を考える。
「それは……」
口ごもる女霧。ここで一旦引くあたり、妙に真面目なところがあるんだよなぁ。
「ぜ、絶対に、怪我をするのは間違いなかったんです。だって、狐がそう言ってたんだから……。ただ、ちょっと怪我の仕方が予想外で……」
「さっき自分で『でまかせ予言』とか言わなかったか?」
「い、言ってません!」
「下剤か」
女霧の表情がこわばる。
予言の次の日、女霧が私の飲み物に下剤を仕込んでいたのは間違いない。多分、あれで私の怪我を演出しようと思っていたんだろう。下剤で体調不良ということになれば、言い方しだいで大怪我をしたようにも持っていける。例えば、足に怪我を負ってそれを隠そうとしている、とか。腹の具合が悪ければ歩き方にも変調が出るからな。その怪我をかまいたちの仕業ということにでもすれば、クラスの連中は疑わないだろう。
まぁあいにくと私が便秘体質だったせいで、重篤な症状には陥らなかったわけだが。
「昨日、ヤクザみたいな奴らに絡まれたんだよ。ほら、お前も言ってたろ? 昨日、美術室で。学校に出入りしてる刑事と、怖そうな連中が話してるのを見たことがあるって。帰るのが遅かったんで、それと鉢合わせしたのかもな。そいつらから半泣きで逃げてきたとか、正直に言えるわけないだろ。格好悪い」
女霧が押し黙ったので考える時間が取れた。普通に『ガラの悪い連中に〜』と言っても説得力がなかったかもしれないが、この情報は彼女自身の口から得たものだ。まあ信じるだろう。
「……刑事さんと何かあったんですか?」
しばらく無言でいた後、女霧は神妙な面持ちで聞いてくる。
「刑事さんのこととか、あと七ツ橋さんのこととか……。二人で旧校舎でコソコソしてるし……。先生、何をしているんですか? 何者なんですか? 普通の実習生じゃないんですか?」
そして何かスイッチでも入ったように質問をまくし立ててきた。
しまったな。余計に面倒なことになったか。だが全ての質問に答えてやる義理は――
「昨日、私も色々と教えましたよね」
義理は――
「今度は先生が教えてくれる番なんじゃないですか?」
義理は、あるな。
くそぅ、こういう駆け引きは紫堂明良とだけでおなか一杯なんだがな……。
「女霧、あまり私と長く喋っているのはまずいんじゃないのか?」
「え?」
私は意味あり気に女霧から視線を逸らし、彼女の後ろを見つめる。
「私を退治して支持率を回復させたんだろう? だがもし、こんなところを人に見られたら、私達がグルではないかと疑われるぞ?」
女霧は焦った様子で後ろを確認し、続けて全方位をチェックする。
「時の人となって返り咲いた最強の『視える者』。ちょっとした校内のアイドルだな。追っかけがどこから見ていても不思議ではないなぁ」
ゆっくりと、言い聞かせるように、芝居がかった口調で言う。
女霧が再びこちらを振り向いた時、彼女の額には変な汗が無数の珠となって出現していた。
……単純なヤツ。
「きょっ、今日のところはこのくらいで勘弁してあげます!」
お前は前時代の悪党か。
「わ、私、先生のことが大嫌いですから! 絶対に嫌がらせみたいなこと沢山聞きますから!」
叫ぶように言いながら、女霧はこしあん入りお汁粉ジュースのパックを手にとって立ち上がった。
「これもまた返しに来ますから! 絶対に! 絶対にっ!」
後ずさりながらジュースをストローからすすり、お約束通り激しく咳き込む。
……何をやってるんだこいつは。ひょっとして気に入ったのか? それ。
「明日また来ますから!」
明日は休みだぞ。
心の中でツッコんだ時、女霧はすでに走り去っていた。その後が見えなくなるまで眺めた後、私は静かに息を吐いて席を立つ。
「さて」
そろそろ行きますか。
旧校舎正面入り口に着いた時、紫堂明良はすでに来ていた。
携帯灰皿にタバコを無理やり押し込んでいるところを見ると、大分待たせてしまったようだ。
「よぉ」
だがさほど気にした様子もなく、むしろ機嫌良さそうに片手を上げて私を出迎える。
「おぉ? 随分とまた男前になったじゃねぇか」
そしてこちらの顔を見るなり、子供のように破顔してゲラゲラと下品に笑った。
「何だオイ、どうした。ひょっとして遅れてきた理由ってそれか?」
目の端に涙すら浮かべながら、紫堂明良は体を折り曲げて笑う。何が彼の琴線に触れたのかは知らないが、腫れあがった私の顔が相当気に入ったらしい。いい趣味の持ち主だ。近く、同僚につるし上げられることを切に願う。
「……さっそく本題に移りましょうか。実は今日、音楽室で――」
「ああー、待った待った待った。ちょっと待ってくれーぃ」
左手を前に出して私の発言を止め、紫堂明良は呼吸を整えながら続ける。
「悪りぃけどよ、俺が先でいいか? 最初にお前さんに言わなきゃなんねぇことがあるんだよ」
そしてかぶっていたニットキャップを取り、いつになく真剣な視線を向けてきた。
「……どうぞ」
嫌な予感しかしなかったが、拒否する気力もわかなかったので取り合えず譲る。
紫堂明良は口元をきつく引き締めると、姿勢を正し、体全体をこちらに向けた。そして細く息を吸い込み、丸みを帯びた双眸を大きく見開く。
「今まですまなかった!」
突き刺さるような鋭い声。
同時に上体を腰から直角に折り曲げ、紫堂明良はその姿勢のまま固まった。
……。
……何だ?
これは何の冗談なんだ? ひょっとしてこいつは今、私に向かって恭しく頭を下げ、謝罪の言葉を伸べているのか?
今までずっとこちらを見下し、見透かし、挑発し、嘲弄し、人を食ったような態度で接し続けてきたこいつが?
……ははぁん。読めたぞ。こいつ今、笑いを必死でこらえてるんだな? そうやって私から死角になったところで、いつ大笑いブチかましてやろうかと、タイミングを計ってるんだな? そうなんだな? ならこっちもそれなりの対応を――
「今まで、お前さんをずっと見定めてきたんだ。こいつで大丈夫なのか、こいつに話す価値があるのかどうか。そのために色々とムカツクことを言ったと思う。悪かった。許してくれとは言わない。だがこっちもそれなりに必死だということを分かって欲しい」
低く、地を這うように低く。紫堂明良は凄みを利かせた声で言って頭を上げた。
半笑いになっているわけでも、冗談めいた顔つきをしているわけでもなく、ただ真っ直ぐにこちらを見据えている。いつものおどけたような気配はまるで感じられない。
「度胸はある、頭も良い、回転も速い、勘も鋭い。正直、こんな大物だとは思ってなかった。それに茜のことに関しても、それなりに気に掛けてくれているようで全くもって申し分ない。あんたになら全部話せる。俺はそう判断したよ、天草終一朗さん」
何だ、この居心地の悪さは。
元々他人から褒められるのは苦手だったが、こいつから両手放しで賞賛されると、薄ら寒さすら感じる。しかも最後にフルネームでさん付けって……。
「娘を殺した奴を探したいんだが、なかなかに事はデリケートでね。何でもいいから聞いて回って情報収集って訳にはいかないんだよ」
言いながら紫堂明良は新しいタバコに火をつけ、旧校舎へと歩を進める。
ここから先が本題だ。
そういう意思表示だろう。
「娘さんの名誉に関わることだからですか?」
「さすがに鋭い」
のどを鳴らして小さく笑い、紫堂明良は煙を吐き出した。
「娘の死は事故ってことになってる。外傷なし、争った形跡なし、目撃者なし、心臓に疾患あり。まぁ妥当だわな。事件性がないって判断された遺体は、ちょっと警察で預かった後、検視なしでそのまま家族に引き渡されるんだよ。で、普通なら坊主呼んで、葬儀にお通夜って流れなんだが……俺は納得できなかったんだ」
紫堂茜の死に。
心臓に重篤な症状を抱えていたんだ。ある時、突然何かのきっかけで死に至っても不思議ではない。可能性としては十分ありうる。
だがそんな一般論や確率論で納得して受け入れられるほど、たやすい事実ではない。
どうして? なぜ? このタイミングで? この場所で?
疑問ばかりが頭を埋め尽くしただろう。
「あいつが死ぬ前の日は普通だったんだよ。普通に一言二言話して、普通に一緒に飯食って、さっさと風呂入るようにせかされて、で結局俺が風呂掃除して。フツーにあいつが作った朝飯食って家出たんだが……昼過ぎに携帯鳴ってなぁ……」
娘の死を告げられた。
持病がもたらした事故死だと。
「だからよ、調べてくれって頼んだんだ。ちゃんと検視してくれって。司法解剖してよ。遺族の要望があればやってくれるんだよ。さらに俺の場合は司法解剖記録を全部閲覧できるってワケだ。こん時ほど警察の中にいてよかったと思ったことはないねぇ。隠される心配がないからな」
はっは、と自嘲気味に笑って紫堂明良は煙をくゆらした。
「けどまぁ、俺が調べるまでもなく全部言ってくれたよ。解剖医の方も分かってたのかねぇ。隠しても無駄だって。確かに、死因は虚血性心疾患発作だったよ。ああ、要するに心臓発作な。けどな、冠動脈は綺麗なモンだったんだよ。周辺細胞の壊死も見られなかった。血管に異常はなかったんだ」
心疾患に関する専門的な知識はないが、つまり典型的な理由が原因で死に至ったわけではないようだ。
「で、解剖医がもう一つの可能性ってヤツを調べたんだ。そしたらドンピシャ」
吸いかけのタバコを忌々しそうに吐き出し、革靴で押しつぶしながら紫堂明良は続けた。
「薬物反応陽性。あいつの体から見つかったんだよ。ドラッグの痕跡が」
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