廃墟オタクは動じない

モドル | ススム | モクジ

  第二話 『思い出は苛立ちながらやってくる』  

 座敷わらしの名前はすぐに分かった。
 七ツ橋(ななつばし) ひなた。
 教壇から見下ろすと、彼女のいる場所だけ頭一つ分へこんでいたから明白だった。
 どうやら今日の一限目に入った教室内にいたらしい。後ろから見ていたせいか、まったく視界に入らなかった。
「まぁつまり、この段落から読み取れる坊さんの心情というのは、より高みに上り詰めたいから、今の寺をさっさと破門にしてくれてというものなわけだが――」
 国語総合の教科書を片手に、私は生徒達の方を横目に見ながら話す。
 午後から本格的な実習が始まった。見学ではなく、教えなければならない。
 まぁ国語は問題の答えに合わせて適当な解釈をこねくり回せばいいだけだから楽だ。数学みたいに答えが一つではないから、いくらでも屁理屈をこねられるし。
「それはあくまでも表向きの理由だな。建前だ。もっとキャリアアップしたいから会社を辞めるのと同じだな。本音は人間関係の不具合にあるのに、だ」
 七ツ橋……実に言いにくい名前だ。もう一つ足して八ツ橋にしてくれれば、大好物だったのだが。昼食を食べたばかりだというのに、胃袋が反応してしまうではないか。この愚か者が。
 机の配置に合わせて生徒全員の名前が書かれた名簿を見ながら、私は胸中で悪態をつく。
 大体、“ひなた”ってなんだ。本人は力いっぱいの“ひかげ”の顔してるぞ。
 旧校舎で見かけたのと同様におかっぱの髪型。いや前髪が異様に長くて深い分、深化型おかっぱ頭と呼ぶべきか。髪が目に入って、見ているこっちかチクチクしてきそうだ。
 ……お前が言うなと言われそうだが。
 いやそれより何より、髪の下にある恨めしそうな目はどうなんだ。
 大きいは大きいし黒目の面積も広いのだが、いかんせん光がない。漆黒に塗りつぶされた瞳孔の先には何が映っているのか、全くうかがい知れない。目を開けながら眠っているようにさえ見える。さらに目の下のには濃いクマが敷かれているから、不気味さをより際立たせている。正直怖い。一週間くらい寝ないで黒魔術の儀式とかやったらこうなるのだろうかと、想像はよからぬ方向にしか飛びようがない。それも一方通行で。
 旧校舎でのあの一件を見ているせいか、先入観がえげつない勢いで押し寄せてくる。気がついたら般若心経で除霊を試みていそうだ。
「あー……つまりこの坊主の本音は別のところにある」
 とにかく落ち着け。今は授業中だ。二週間ここにいるためにも、まじめな実習生を装っていなければならない。
 幸い、嫌な気配はもう消えた。いつも通りだ。何も変わらない。いつも通りの私だ。
「それが何だか分かるか?」
 いつも通りの口調で言い終え、私は少し間を空ける。
 別に生徒を指名するつもりはない。今、そんな自分のペースを崩すような自殺行為はしない。
 これは単なる時間稼ぎだ。片道切符で七ツ橋に突撃している意識を引き戻すための。
 どうせ生徒に答えを求めたところで、応じるような奴がいるとは思え――
「金銭に固執する住職のやり方に不満を覚えたので、これ以上ここにいては我が身を穢すことになると思ったんですね」
 教室の真ん中あたりから声が上がった。
 そこには得意顔でこちらを真っ直ぐに見つめている一人の女子生徒。
「……あー」
 彼女の席と名簿を照らし合わせる。
 女霧 雪穂(めぎり ゆきほ)。
 女霧……聞き覚えがある。
「いかがですか? 先生?」
 ああ、今朝の騒動女か。思い出した。あれから帰ってきていたんだな。てっきり保健室にでもいるのかと思っていたが。
「そうだな――」
 この女。こっちが指名もしていないのに、勝手に手を上げて、勝手にべらべらと。
「――五十点ってところだ」
 気に入らない。
「は?」
 言われた意味が良く分かっていないのか、女霧は眉をひそめて聞き返す。
「住職の金への執着。確かにそれもあっただろう。だがこの場合は、その金がどこから流れてきているのかという部分にまで着目すべきだ。本文内では不貞者と書かれているが、ようはヤクザだな。仏に仕える身であるにもかかわらず、そのような裏社会との人間関係を構築してしまった住職。ゆくゆくは自分もそういった輩と関係を結ばないといけないのかと怖くなってしまったから坊主は寺を出たかった。これが答えだ」
「で、ですが、住職と不貞者との関係は文章には書かれていないのでは……」
「確かに書かれていない。だが仮に無関係だった場合、このヤクザどもの存在理由が極めて薄くなる。寺の経営悪化をただ呟くだけの役回りなら、ヤクザである必要性がない。一般人でいいはずだ。ところが作者はわざわざヤクザを使い、おまけに坊主とも何度か絡めている。これは寺との何らかのつながりを視野に入れるべきだ」
「それは……」
 女霧は切れ長の目をそらし、何か思案するように柳眉を伏せた。
 納得いかないのだろう。
 それはそうだ。今の私の解答は完全なるこじ付けなのだから。むしろ最初の彼女の答えが模範解答だ。基本的に国語の問題は、想像を交えて答えてはいけないのだから。
 だが――
「まぁ、座りなさい。別に女霧さんの答えが間違いだと言っているわけではない。こういう解釈もあるのだというくらいに留めておいてくれればいい」
 いい気分だ。
 自信に満ち溢れた表情を崩すのは。
 彼女のように整った顔立ちが相手なら特に。ぬぇへへへ。
「じゃあ続きだ」
 悔しそうに席に座ろうとする女霧を横目に見ながら、私は教科書に視線を戻し――
「先生……」
 彼女が呟いて座るのをやめた。
 視線を女霧の方に戻す。反論がくるのかと思っていたが、そういう気配はない。ただじっと明後日の方を見つめている。
 やがて彼女の視線は徐々に焦点を結び、ゆっくりと真横に移動して私の顔を真正面から見据えた。
「いえ……」
 そのまま何かを続けるでもなく、赤みがかった長い髪を揺らして着席した。
「何か質問があったか?」
「別に……」
 独り言のようにつぶやき、女霧は私から視線をはずして教科書に目を落とす。
 何だよ。そんな言い方されると、二分くらい気になるだろう。
「そうか。じゃあ続けるぞ」
 訂正。五秒でどうでも良くなった。
 その代わり教室内がざわめき始める。一限目、彼女が保健室に行った後と同じだ。
 まぁそのうち校内放送が入って収まるだろう。
 そんなことよりも――
「……」
 私はなんとなく七ツ橋の方を見る。
 何がそんなに納得できたのか、顔をうずめるようにして教科書を熟読しながら、首を大きく縦に振って頷いていた。
 気になる!
 何だ! 何がそんなに理解できたというんだ! それは儀式の一環か何かなのか!
「で、では、次の段落についてだが……」
 七ツ橋はルーズリーフの紙と取っ組み合いでもするようにして、必死に何かを書き込んでいる。
 気になるぞ! 何だ! いったい何を書いているんだ! 呪文か!? それとも何かの暗号か!
「こ、ここは……あー、本来まとめの内容がくるべき箇所ではあるが――」
 目が、合った……。今、あのどんよりと落ち窪んだ、無限に続く虚空を彷彿とさせる瞳と。そして見てしまった。その奥にある、異様な輝きを帯びた何かを。
 呪われた。間違いなく呪われてしまった。百均の土鍋は一回使ったら壊れるのと同じくらい確実に呪われてしまったぞ。
「こ、ここでは……それを、あー、あえて省略して、いる。これは、さ、作者が……読者に解釈を、ゆゆ委ねたとも取れる……が――」
 見るな! こっちを見るな! もうその視線をどけてくれえええぇぇぇ!

 放課後。
 私は職員室で実習日誌を書いていた。
 実習生が何人かいれば専用の控え室を貸し与えられるのだろうが、私一人だけなので職員室の空いた席を使わせてもらっている。向かいの席では、初老の教師が学級名簿に何かを書き込んでいた。
 ――結局。
 あの五限目の授業は、自分でも何を喋っているのか良く分からないまま終わった。七ツ橋の姿を視界から完全シャットアウトすることで、発狂だけはまぬがれたが、平静からは程遠い振る舞いになってしまった。
 まったく何なんだあいつは……。一体どんな特殊能力を使って、私の気持ちをかき乱すんだ。
 六限目が見学でよかった。あんな状態でまともな授業などできるはずがない。
「初日はあんなものですよ、天草先生」
 私がため息をついていると、前から初老の教師が声をかけてきた。
「場数を踏んで慣れてくれば、だんだん緊張しなくなりますから」
「はぁ……」
 どうやらあの動転の理由を緊張と勘違いされたらしいが、まぁいい。確かにある意味でものすごく緊張していたからな。おそらく産道を通った時以来の緊張ぶりだったと思う。
「というより、なかなか興味深い内容でしたよ。ああいう独自の解釈は聞いていて面白い。まぁ、ずっとあれだけでは困りますけどね」
 学級名簿を閉じ、脇によけていた湯のみを引き寄せて、初老の教師は笑いながら言った。
「それに女霧さんが起こした騒ぎにも動じなかった。これも若さゆえですかね。わたしは未だに苦手でして……」
 ははは、と苦笑しながら、初老の教師は白い髪を頭になでつける。
 ……他に気になる圧倒的存在がいたからな。
「まぁ今日は日誌を書いたら早く上がって、ゆっくり休んだ方がいい。お住まいはどちらに? ご実家ですか?」
「カプセルホテルです」
「それはまた……。でも最近のは、なかなか広くて居心地が良いと聞きますね」
「一泊八百円です。一畳弱くらいの広さです」
「……天草先生、身長、結構高いですよね?」
「いつも丸くなって寝ますので」
「そう、ですか……」
 それ以上は何も言ってこない。ずずず、と茶をすする音だけが前からする。どうやら向こうの質問は終わったようだ。
「そういえば、お聞きしたいことがあったんですが」
 実習日記を書き終え、私は初老の教師に声をかけた。
「はい、何でしょう」
 朝から一つだけ気になっていたことがあったのだ。
「私が在学していた頃の、他の先生はどうしたんですか?」
 改めて職員室をぐるりと見回しながら、私は彼にシンプルな疑問をぶつける。
 教室と同じく、白を基調とした明るい雰囲気の職員室。広々とし、一人でシステムデスクを二つ使えるほどのスペースがある。外のどんよりとした天候にもかかわらず、最新の空調設備により温湿度は快適に整えられていた。
 だがそこには馴染みの顔は一人もいない。
 最初はたまたま席をはずしているだけかと思っていた。しかし今日一日、職員室の出入りを何度か繰り返したが、学生時代に良く話した懐かしの顔ぶれとはまったく出会わなかった。
 もちろん全員の教師を知っていたわけではない。せいぜい六、七人だ。顔と名前が一致する教師は。
 だが顔だけならその倍はいる。
 この初老の教師もその一人だ。まぁ今朝初めて聞かされた名前は、残念ながらすでに忘れてしまったが。
「ひょっとして、みんな辞められたんですか?」
 彼一人を残して全員? 五年の間に?
 そんな馬鹿な。
「まぁ、わたしも詳しいことは知らないんですが……ほら。今ここはあまり、お金の周りがよろしくない場所ですから。他に引き抜かれたりする先生や、別の職を求める先生がいらっしゃって……」
 言いよどみながら、初老の教師は苦笑を浮かべた。
 新校舎建設の弊害というわけか。まぁそういうことならしょうがない。新校舎あっての旧校舎だからな。
 しかし少しアテが外れたな……。顔見知りがいれば旧校舎への特別措置を取ってもらおうと思っていたのに。特に生物の『ハゲ茂』がいれば、話は簡単だったのだが。
「皆さん、色々と事情がおありなんでしょう」
 小さな声でそう言って、初老の教師は席を立った。そして湯飲みを持ち、給茶機の方に移動する。
 これ以上の詮索はやめてくれ、ということなんだろう。
 まぁ彼を尋問したところで、私の廃墟探索が快適になるわけではない。それに変なことを聞いて、実習中止に追い込まれても困る。
 妙な引っかかりは拭えないが、ここは大人しく引き下がって――
「――っあ!」
 甲高い男の声。続けて何かが割れる音。
 反射的にそちらに目を向けると、茶を取りに行った初老の教師が尻餅をついていた。フローリングの床の上には、粉々になった湯のみの破片が散乱している。
「大丈夫ですか先生」
「どうかしましたか」
 近くにいた別の教師達が、一体何事かと彼の周りに集まってくる。
「あ、ああいや……。どうもすいません。ちょっと滑ってしまって……」
 決まり悪そうに笑いながら、初老の教師は立ち上がろうとして床に手をつき――
「ひっ!」
 その手の上を駆けていった何かを、悲鳴混じりに振り払った。小さな黒い物体は窓の近くに着地し、すぐに本棚の裏手へと逃げ隠れてしまう。
 一瞬の出来事。だが私の目はその姿を見逃さなかった。
 蜘蛛……。
 ゴキブリではなかった。あの瓢箪のようなシルエット。昆虫とは一線画する八本足。
 間違いない。
「せ、先生……?」
「立てますか……?」
 初老の教師のおびえっぷりに、他の教師は困惑しながらも手を差し伸ばす。
「す、すいませんね、皆さん」
 周りの助けを借り、何とか立ち上がる。腰を強く打ったのか、顔には汗がにじんでいた。
「ああいう、ちょこまかと動き回るのは、どうも苦手でして……」
 まぁ生理的に受付けないと言う人の方が多いだろう。ゴキブリ、蜘蛛、ムカデ、このあたりは定番だ。無論、私は平気だが。
 初老の教師は手伝ってもらいながら、割れた湯のみを片付け、頼りない足取りで私の前の席に戻ってくる。
「じゃ、じゃあ、わたしは……今日はもう帰るよ……」
 そしてPCの電源を落とし、隣の椅子に置いていた皮製の手提げバッグを持った。
「天草先生も、適当に切り上げてくださいね」
 一方的にそう言い残し、初老の教師は足早に職員室を出て行ってしまった。
 実習生の担当教師がそれでいいのかと思う反面、「じゃあこれから一杯どうですか?」なんて古典的な誘いを受けずに済んだことへの安堵感がこみ上げてくる。
 ――自由。
 思いもかけず、私はその二文字を手に入れてしまった。
 そして放課後。
 ならばやるべきことはただ一つ!

 見回り。
 部活以外でまだ校内に生徒が残っていないかを確認する作業。
 喜び勇んで旧校舎に行こうとした矢先、体育教師らしきデブマッチョに捕まった。いい経験だということで、彼と二人で放課後の見回りをやるハメになってしまった。
「くそ……」
 今週は初老の教師が担当だったはずなんだが、小さな小さな害虫にビビってしまったので、私の方に白羽の矢が飛んできた。
「なんという時間の無駄遣いだ」
 こともあろうに絶好の機会を、こんな意味のない雑務で潰してしまうとは。
 棚からボタ餅、の形をした鉄アレイが降ってきた気分だ。
 ……まぁいい。さっさと終わらせて、僅かでも日の光が届いているうちに、旧校舎探索にいそしまなくては。ライトの人工的な光は無粋だし、なにより暗闇でこちらの存在を知らせているようなものだから嫌いなんだ。
「ふぅ」
 五階建てになっている新校舎の一階と二階が私の担当だ。
 一階には一年生の教室の他に、職員室、食堂、語学演習室などがある。教室以外の部屋を重点的に見てくれといわれた。生徒が残って集まっているのは、そういう場所であることが多いらしい。
 きっと生徒側からすれば、裏をかいたつもりなんだろう。だがその考えがあだとなる。私たちの時は、一つの教室がまるまる封鎖されてしまった。未だにあれはやりすぎだったんじゃないかと思う。
 まぁ、それはともかくとして……。
「はい発見、と」
 小声で言いながら、私は一年D組の教室内を扉の隙間からうかがった。
 中には五、六の男女が何かを囲むようにして床に座り込んでいる。机は適当に移動させられて、彼らがいる場所だけぽっかりとスペースができていた。
 にしても、まさか教室で堂々と密会開いているとはな。何も考えていないのか、裏の裏をかいたつもりなのか。まぁ別にどちらでもいい。
 ここは力いっぱい見て見ぬフリをして立ち去るだけだ。
 最初から生徒を注意する気などさらさらない。そんなことをすれば、彼らを職員室に呼びだして、反省文を書き終わるまでずっと見ていなければならないからだ。また面倒な規則を作ってくれた……。
 もしデブマッチョ教師が後で彼らを見つけたとしても、私が見回った時はいなかったとシラを切れば良い。仮にデブマッチョが「いつからいた」と生徒に聞いたとしても、まさかその時間を長く申告する奴はいないだろう。見つかった直前の時間を言うはずだ。つまり私の見回りの後に彼らはやってきたことになる。
 それはしょうがない。同じ教室を二度も見て回れとは言われていないからな。
「さて、と」
 教室の中からは柑橘系の匂いが漂ってくる。しかしこの新校舎でなら、見逃したとしてもそれほど不思議ではない。風水的に良いとかいう理由で、校舎全体がオシャレな香の匂いで覆われているからな。どうせすぐにマスキングされる。
 ひとまずユーターンして、ここを離れ――
「天草終一朗」
 突然、教室内から呼ばれた自分の名前に、心拍数が五パーセントほど上昇するのを覚えた。
 まさか、気づかれた……?
「彼がここにいるわ」
 まずいな。ひとまずウシガエルの声マネでもしてやり過ごすか。
 しかしこの声、どこかで……。
「そして、見えてきたわ。生命のラインよ。今は円環を描いてるわ」
 ……いや、こちらに気づいたわけではなさそうだ。声は積極的に外に出てくるわけではなく、中から漏れ出している感じだ。
「でもほら、だんだんと……」
 胸ポケットから取り出した百均手鏡に教室内を映し出す。
 円形に並んだ生徒たち。その中で得意げにご高説を説いているのは、女霧とかいう優等生タイプの女子生徒だった。周りにいるのは同じD組の生徒だ。多分……。よく覚えてないが……。
「あっ!」
「消えてきた……」
「これってどういう意味……」
 かすかに水同士がぶつかり合うような音が聞こえる。雨の音ではない。あの円陣の中心に水を使った何かがあるようだが、生徒たちの背中で隠れてここからでは見えない。
「薄くはなったけど切れてはいない……。死ぬことはないけど、何か大きな怪我をする。これはそういう意味よ」
 顔を少し上げ、赤みがかった髪を派手にかき上げながら続ける。
「見て。これは今朝、狐に会ってきた時の傷なんだけど」
 両目を大きく見開き、女霧は自分の言葉に酔いしれるかのように舌先で唇をなめた。
「狐のお告げでは一週間以内よ」
 雷鳴を背中に浴び、彼女は左の腕をまくり上げて宣言した。
 白く細い腕には、何かに引っかかれたような傷跡がある。他の生徒はそれを食い入るように見ながら、感嘆の声を上げた。
「すげー! また狐に勝ったんだ、お前!」
「あたしも、あたしも憑かれたことあるけど、全然動けなかった……」
「俺もある! でもあれヤバくね? 下手に抵抗したら食い殺されそうじゃん。かまいたちと違って」
「だから女霧さんは凄いんじゃないっ!」
 何か異様な雰囲気だ。こいつら、騒いだら教師に見つかるかもとか考えないのか? 授業中もそうだが、まるで何かに取り憑かれている様な――
「負の息吹は他の人間を誘い込もうとするわ。いい? 最低一週間、あの男には近づかないこと。さもないとみんなが怪我することになるわ」
「おお!」
「ハブっときゃいいんだな!」
「じゃあ全員にメールで一斉配信決定ぃ!」
 何の疑問も抱くことなく、普通では考えられないような行動に出る――
「ねぇねぇ! 女霧さん見て! 私のかまいたちの痕! また増えちゃって!」
「おぅ! 俺も昨日やられた! 足と手の甲!」
「なかなか治んねーんだよなー、これ!」
「なぁ俺たちのクラスに絞って視れねぇのかよ、女霧! 普通にイテーんだけどさ!」
 ――狐憑き。
 嫌な気分に襲われると同時に、その単語が頭に浮かんだ。
 私が彼らと同じくらいの年齢だった頃、突然起り始めた怪事件。
 それはこんな馬鹿騒ぎするだけの馴れ合いではなく、もっと陰惨で、もっと底冷えするような内容だった。
 だからなるべく真面目に考えないようにしてきたんだが――
「そうねー」
 駄目だな。こんなオママゴトでも結構思い出させてくれるもんなんだな。あれから五年も経ってるってのに。
「じゃあ少しだけ、視てみましょうか?」
 女霧の一言に、他の奴らのテンションがまた一つ上がる。
 いやー、イラつくわ。これはもームリだわ。
「クソ餓鬼共」
 舌打ち一つして、教室の扉を力一杯真横に叩き付ける。
 枠から外れたかと思うくらい強烈な音を立て、扉は空気を震わせながら開いた。
「よぉ」
 ネクタイをむしり取って外し、高い位置から餓鬼共を見下ろす。
「楽しそーだな」
 口を真横に引き裂く感じで笑みを浮かべ、そのまま顔に張り付かせて近づいた。
「混ぜてくれよ」



 午後六時半。
 寝床であるカプセルホテルまでの帰り道。深くため息をつきながら空を見上げる。
 分厚い雨雲により、日の光はすっかり遮られてしまった。雨足自体は弱まってきているが、煌々とした月の光などまるで期待できない。
 本日の旧校舎探索は終了だ。
「やれやれ……」
 我ながらやってしまったと思う。
 もう少し感情をコントロールできていれば、こんな惨めな気分で帰路につくこともなかったろうに。徒歩二時間の道のりが、果てしなく遠く感じる。
 ――あれから。
 教室に堂々と乗り込んだ私は、女霧たち五人の生徒を職員室に連行。少し説教した後、隅にある打ち合わせスペースに座らせて反省文を書かせた。
 書き終わったのが五時半。まさか一緒に帰るわけにはいかないから、適当に時間をおいて私も帰宅。で、今に至る。
「くそ……」
 なんということだ。貴重な二週間のうちの一日が、もう終わってしまった。
 まだ一時間足らずしか堪能してないというのに!
 あんな木桶やら食紅やらを使った子供だましの儀式に、心乱されてしまったせいで!
 私もまだまだ、あいつらと変わらない子供ということか……。
「ただ、まぁ……」
 収穫はあった。
 思いのほか、その時居合わせた教師達に絶賛された。
 教育実習生が初日から立派だと。他人をしかるのは簡単そうに見えて難しいものだと。そして最後に、我々も同じように厳しく取り締まるべきだと。
 どうやらここの教師たちは、生徒の異様な行為を半ば意図的に見逃しているようだった。
 理由は旧校舎立ち入りの抑止力となるため。
 新校舎の怪奇話で盛り上がってくれれば、それよりも危険な噂のある旧校舎へは近づきにくくなるだろうと。
 いつの頃からか、そういう雰囲気が出来上がっていたらしい。
 確かに、効果はそれなりに上がっているようだった。
 一限目に見た、『旧校舎』というワードへの生徒の怯えっぷりを思い出す。

『あたしは、そっちはいいや……。ガチだから……。いいゃ……』

 ホラー映画のように安全の保障された恐怖を感じるのは好きだが、それ以上は勘弁してくれという心理なんだろう。事故とはいえ、確かにあそこでは死人が出ているからな。
 誰の発案かは知らないか、見事に功を奏したわけだ。
 今日から崩れ始めるかもしれないが。
 とにかくこれで仮に旧校舎で見つかったとしても、「ここに生徒が立ち入っていないか見回っておりました!」「ご苦労様です!」という展開に持っていける。
 ……まぁ、『旧校舎へは立ち入り禁止』という根本的な理念は無視している気がするが。
 根本的といえば、さっさと壊してしまえばいいんじゃないと普通は思うが、何か事情があるようだし。金銭トラブルか何かは知らないが、私にとってはありがたい事情が。
 とにかく、今すべきは明日晴れることを祈るだけだな。雨の演出を楽しむのは一日で十分だ。
 あと一時間ほどで寝床だ。途中でカップラーメンでも食べて――
「ん?」
 何味にしようかと思案し始めた時、胸元からテレビの砂嵐音が聞こえてきた。
 携帯にメールが届いたようだ。
 どうせ迷惑メールだろうと思いながら、二つ折りの携帯を開いて内容を確認する。
 メールは『光トカゲ』からだった。

――……
【送信者】:光トカゲ
【件名】:教育実習初日はいかがでしたか?
【本文】:
 今日からいよいよ実習開始ですね。旧校舎めぐりは無事できましたか? あいにくのお天気でしたが、そのぶん雰囲気は出ましたね。楽しめましたか? 学校生活の方も、初日ですからきっと緊張したんでしょう。肩の力を抜いてがんばってください。
……――

 当たり障りのない文面。こんな感じで一年間、彼(仮)とのやり取りは続けている。メール友達など持つ趣味はないのだか、彼の場合は貴重な情報源だ。ぞんざいに扱うわけにはいかない。
 だから彼にはこちらの目的や動機をきちんと伝えてある。不振に思われて音信不通になったり、虚偽の情報をつかまされても困るからな。
 それに仮に嘘をついたとしても、すぐに見破られていただろう。そのくらい鋭い洞察力の持ち主だ。こちらの趣味や好きな食べ物、休日の過ごし方といったありふれた情報から、あっという間に私の人間関係を言い当てられてしまった。
 友人が一人もいないことなど、誰にも知られたことはなかったのに。まったくもって恐ろしい能力だ。実に頭が切れる。さぞかし知的な人物なのだろう。
 逆に私の方は、向こうの情報を殆ど引き出せていない。生徒なのか教師なのか、はたまた業者なのか。あるいは学校の関係者ではないのか。いやそれどころか、性別や年齢すらも。
 このメールの向こう側はまったくのブラックボックスなのである。
 まぁ旧校舎を堪能できさえすれば、別に誰だろうとかまわないのだが。
 ――『光トカゲ』は夕霧高校旧校舎の情報をくれる。
 その事実さえあれば、他のことには興味がない。だから今回の教育実習が終わったら、今後はメールでのやり取りは丁重にお断りしようと思っている。
「ん?」
 こちらも当たり障りのない定型文で返そうと、彼からのメールを再読していた時、文章に違和感を覚えた。
「ここ、変じゃないか?」
 小声でつぶやきながら、私はその部分をもう一度目でなぞる。

『初日ですから、きっと緊張したんでょう』

 「緊張した“ん”でしょう」? 「緊張したでしょう」ではなくて?
 『ん』が有るか無いかの違いだけだが、ニュアンスは大きく違ってくる。『ん』が無ければ単なる推測でしかないが、『ん』が入ることで体験になる。
 まるで『光トカゲ』本人がどこかで見ていたかのような……。
「……入力ミスか」
 適当に納得して、私は携帯の操作を続ける。
 まぁ打ち間違いくらい誰にでもある。特にこんな、一文字一文字よく読まないと気づかないような微妙な間違いは。それが今回たまたま私の目に留まったというだけのことだ。

――……
【送信者】:廃墟定食
【件名】:Re:教育実習初日はいかがでしたか?
【本文】:
 きょうはとてもたのしかったです。
……――

 送信、と……。
「ふぅ」
 と、息を吐き、私は携帯を閉じる。
 カップラーメンの味はミソ塩しょうゆに決めた。
モドル | ススム | モクジ





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