廃墟オタクは動じない

モドル | ススム | モクジ

  第七話 『校長公認。我が校は呪われている』  

    ――昨日さ、色々大変だったらしいよ。

      ――え? 他にもまだあったの?

    ――『視える者』の一斉集会っていうか、一致団結っていうか。

      ――……あんた、国語力低くない?

    ――だーかーらー、みんなで盛り上がってたらしいの! 超儀式! みたいな感じで! だからセンセーも総動員!

      ――あー、それで職員室カラだったのかー……。何なんだろーね。たまーにあるよね。そーゆーの。ゲリラ発作的に。

    ――女霧さんが何かやってるのかな。

      ――あー、ありうる。でも最近ちょっとウザくない? 天草ヤバいんだから、じっとしてろっての。空気ヨメよ。女霧といい、あの子といいオカシイって。

    ――言えてる言えてる。でもさあの時、否定しなかったじゃん? 天草。ヒビってなんだろ。整形かな?

      ――うーん、実はオネエとか? 二面性の限界って意味でヒビなんじゃないの?

    ――あー、なるほどー。そういうの面白いねー。

      ――にしてもまた雨だよ雨。最近、ずっとこんなだよ。なんかヘコむわ。

    ――今日はいつものウサ晴らしできないしねー。

      ――明日に期待かねー。



 昨日の同時多発儀式は、想像以上に大規模なものだったらしい。一年生から三年生まで、全学年に渡って『視える者』が決起したようだ。まだ全クラスではなかったのが、不幸中の幸いだったそうだが。
 中でもひどかったのは一年生。
 止めに入った教師に奇声や暴言を吐き捨てるだけではなく、実力行使に出た生徒も少なくなかったとか。そのせいで数名の教師は、この職員会議の場に痛々しい姿で出席している。
「このように悪ふざけは酷くなる一方です! 自分は今後! もっと毅然とした態度で生徒と向き合うべきだと思います!」
 拳を握り締め、デブマッチョが熱く力説する。そして長机のちょうど向かいに座っている私に、「ねっ!」と怖気の走る目配せをしてきた。
 ……緊急の職員会議になぜ私が呼ばれたのかと思っていたが、こういうことか。お前は教育実習生に何を期待しているんだ。
 昨日は遅くまで考え事をしていたせいか、ちょっと気分が悪いんだ。それにオシャレ香の匂いが今日はキツくないか? 芳香を通り越して、薬品の嫌な香りが鼻の奥に突き刺さるんだが……。
「賛成です。我々は生徒になめられているように思います」
「校長のお考えも分かりますが、他の問題が大きすぎます」
「それに、何人かの生徒は旧校舎に忍び込んでいるとか。もうあまり効果はないのでは?」
 教師陣が次々と口にする意見が、だだっ広い会議室に響く。
 ゆうに教室二つ分の面積は持っていた。床には上質そうな起毛カーペットが敷かれ、白い壁には正十面体のウォールランプが照り輝く。天井では埋め込み式のシーリングライトが曇りの無い光を放ち、それを反射して黒光りしている0字型の会議机は、三十人ほどいる教師全員が座ってもまた余裕がある。他に物が一切置かれていないせいか、空間全体が冷厳とした機能美をかもし出していた。
「旧校舎への立ち入りをけん制するのが目的ならば、もっと直接的な方法を取ってはいかがでしょうか。柵で囲ってしまうとか」
 ああ、確かにその通りだな。
 誰かが出した意見に、私は思わず同意してしまう。
 まぁ、それでも入る奴は入るだろうが、今よりは多少ましになりそうではある。もっとも、財政的な事情が色々とあるんだろうが。
「このままエスカレートすれば、面白がって旧校舎に行こうとする生徒が出かねません」
「そもそも怪奇現象などという作り話を持ち出すこと事態、付け込む隙を与えているのではないですか?」
「おかしな話は全部、生徒達の妄想なんです。調子付かせているだけなんですよ」
 声を大きくしているのはいずれも怪我を負った教師達だ。今まで曖昧に済ませてきたが、実害をこうむって溜まっていた鬱憤が噴出しているんだろう。実に自然な反応だと思う。今ここでちゃんとした説明がない限り、こんな間接的な抑止方法の継続は誰も認めないだろう。
 ほぼ教師全員の視線が、校長の座る最奥の席に注がれる。
 整った白髪の男は、年齢を感じさせない精悍な態度でそれらを受け止めると、目だけを動かして全員を見据えた。そして細く息を吐き、口が僅かに開かれ――
「わ、わたしは、見、ましたよ……」
 出入り口に一番近い席から、おどおどとした声が聞こえてきた。
 みんな一斉にそちらを振り向く。
「えっ……と。ま、まぁ、見たというか……。聞こえたというか……。へ、変な声がね、聞こえた、ような……」
 たどたどしく、まるで自信の感じ取れない喋り方。
 案の定、他の教師陣からは、哀れみとも苛立ちとも取れる視線が送られてくる。
 ――どうしてそんな見え透いた嘘を。
 目から心の声が聞こえてきそうだ。
 だが少なくとも私はそうではない。引っかかりを覚える。十中八九でっち上げだろうが、一応確認しておく価値はある。初老の教師は、数少ない古参の教師の一人なんだ。何か情報を知っている可能性は否定できない。勿論、この場では質問しないが。
「ほっ、他にもいるんじゃないですか? 見たり聞いたりしたことのある先生が……。わたしの他にも……。ねぇ? 学校じゃよくある話じゃないですか……」
 声を震わせながら言い、助けを求めるかのように周りを見回す。
 だが誰も取り合わせない。初老の教師の職歴が他の誰よりも長いせいで、皆強い口調では言い返そうとはしないが、方々から聞こえてくる深いため息が全てを物語っていた。
「どう、ですかね……? みなさん……」
 それでも諦めることなく肯定的な意見を求めるが、その期待に応える者はいない。
 厳粛な会議室に白々しい雰囲気が漂い始め――
「放課後、遅くまで残ってデスクワークしているとね。たまーに見るんですよ。妙に大きな影を」
 校長のいる方から声がした。
 またも逆側からの発言に、全員の視線が一気に動く。
「誰かなって思って見るんですがね、誰もいないんですよ。でも代わりにね、水が落ちる音がするんですよ」
 声の主は教頭だった。校長の隣に座り、たこのように突き出した口を、ちゅぱちゅぱと鳴らしながら気持ちの悪い喋り方で続ける。
「音の方に行くんですがね、僕が近づくと音は離れていくんですよ。そのまま追っかけて行ったらね、外に出てしまって。その日は怖くなって帰ったんですがね」
 滑舌の悪い喋りで言い終え、教頭はふぅと息を吐いて校長の方をちらりと見た。
「我が校に怪奇現象は存在する」
 それに合わせる形で、校長が低い声を発した。
「皆、意識していないだけで、すでに目の当たりにしている」
 続けて口にした言葉に、小さなざわめきが広がった。
「昨日、生徒たちに起こった現象がそうだ。狐憑き、という呼び名は生徒たちが面白がってつけたものではない。実在する怪奇現象の一つだ」
 校長の言葉には、初老の教師のような曖昧さも、教頭のような胡散臭さもない。
 ただ確定した事実をありのまま述べている。
 それは聞く者を否応なく頷かせる、気迫すら感じる口調だった。
「憑かれた人間は、他の人間にも同様の症状を感染させる。昨日、どうしてああも大規模に狐憑きが広まったのかは分からない。だがすでに策は講じてある」
 ざわめきが大きくなり、明確な動揺となって伝播していく。
 当然だ。
 学校のトップが自校の怪奇現象を認めたんだ。女子高生が面白がって噂話をするのとは訳が違う。しかもすでに対処済みときてる。この急な事態を理解して受け入れろという方が無理な話だ。
「校内に散布されている香については皆も良く知っていることと思う。風水的に良いから、という説明を受けているはずだ。だがそれは表向きのものであって、本質とはかけ離れている」
 校長は一旦言葉を切り、僅かに目を細めて続けた。
「これは狐憑きのような怪奇現象を抑えるためのものだ」
 もはや全員が黙っていられない。自然と口を突いて出る言葉を、周りの人間と交換し合っている。不安に包まれて退職の意思を述べる者や、だから今日は香の匂いが強いのかと得心する者まで。完全に学級崩壊状態だ。
「だがこれは一時しのぎでしかない」
 怒声ではない。金切り上げるわけでもない。
 腹の底から送り出された、聞く者を圧倒する声――これは烈声だ。
「根本的な解決にはならない」
 場は静まり返っていた。
 皆、校長に視線を集め、その口から紡がれる言葉にただただ傾注していた。
「全ての元凶は旧校舎だ」
 ひときわ力をこめて言い放ち、そして二呼吸ほどの間を空ける。
「旧校舎を取り壊さなければ根本的な解決にはならない。この狐憑きは、旧校舎の時からすでに存在していた」
 一片の淀みもなく、すでに仕上がった台本を朗読するかのような流れる言葉運び。
 と、それまで不動だった校長の顔が、ゆっくりとした動作で横に動き、
「なぁ天草君」
 私の方を見て固定された。
「ここの卒業生の君なら知っているだろう。かつての、あの雰囲気を」
 目が合う。
 理性的な光を宿した瞳の奥に、一瞬ある種の激情が浮かび――そしてすぐに消えた。
「ええ、まぁ」
 他の教師の視線を浴びながら、私は短い言葉で返す。
「旧校舎の取り壊しは決定事項だ。だが厄介なことに、ただ壊せばいいというものではないらしい。取り壊しには手順がある。今まで長い時間をかけてその段取りを踏んで来た。それはもうすぐ終わる。近いうちに旧校舎は取り壊す。だからもう少しだけ協力して欲しい。今まで通りに」
 喋る速度を上げ、校長は畳み掛けるように言い切る。
「無駄に混乱させるだけだと思い、今まで隠していたことを許してくれ」
 申し訳なさそうに言い、校長は立ち上がって深々と頭を下げた。その体勢を十秒ほども保ち続け、そして静かに顔を上げる。
「今回、怪我をした方には特別労災金を出す。後で個別に面談を行う。呼ばれた者から校長室に来てくれ」
 その言葉に会議室内がまたざわつき始めた。飛び交う会話の中心は『特別労災金』だ。
 単純で古典的なやり方だが、騒ぎ抑える方法としてこれほど効果的なものはないだろう。世の中、金で買えない物もあるだろうが、金で買える物がほとんどなのもまた事実。
 それに――
「言うまでもないことだが、ここでの内容は絶対に他言無用だ。いいな」
 口封じにもなる。
 これは言ってみれば賄賂金。もし事が公になった時、知っていて口外しなかった理由が金となれば、マスコミが騒ぎ立てるのは目に見えている。
 さすがに校長ともなると、腹黒い知恵の一つや二つはお手の物だな。
「会議は以上だ」
 一方的な口調で言い切り、校長は席を立つ。そして出入り口へと向かい――
 ――ん?
 今、“また”睨まれた?
 私の疑問をよそに、校長は無言のまま会議室を出て行ってしまう。
 そして扉が閉まったのを合図として、室内が一気に喧騒の渦と化した。
「聞きましたか先生!? 本気ですよ校長は! 本気で幽霊を信じてますよ!」
「いやそれより特災の件でしょう! どのくらいなんでしょうな!」
「ようやく旧校舎も本格的に取り壊しですか。私、苦手だったんで助かりますよー」
「しかしこの匂いはそういう意味だったんですか。にしても段取りとは何なんでしょうな」
「いやー、特別ボーナスですよこれは。まさに怪我の功名ってやつで」
「あの、アタシそういうオカルトとか苦手なんですけど……。本当なんですか? アタシ達もなる可能性はあるんですか……?」
「狐憑き、ねぇ。本当かなぁ? 胡散臭いんですけど」
 こうなると教師も生徒も変わらない。怪しげな集団儀式の始まりだ。
 私は嘆息して席を立ち、
「そういえば旧校舎の時の雰囲気はどうだったんでしょうね。知ってますか?」
「いや、私は。あっ、そうだ天草先生――」
 捕まる前に部屋を出た。

 結局、授業は二限目から開始された。
 全学年全クラスで一限目が自習となった理由を皆知っているのか、授業中はどこも落ち着かない雰囲気だった。そして休み時間に職員室に戻れば、私が現役時代の狐憑きについての質問攻め。
 あまりにしつこいので軽く睨み返したら、それ以降誰も私に近寄らなくなってしまった。
 恐らくまた凄まじい形相をしてしまったのだろう。女霧のグループを説教した時と同様に。変な評判が立つかもしれないが、別にこちらに落ち度はない。人のトラウマを無遠慮にほじくり返すあいつらが悪いんだ。
 全く、こっちはただでさえ放課後に紫堂明良との化かし合いを控えているというのに……。下らないことで神経を費やしてしまった。
 ……いや。
「下らなくはない、か……」
 小声で呟き、私は天かすを頬張って咀嚼した。
 食堂。
 カフェテリア型式の清潔感あふれる空間。高い天井を持ち、壁はほぼガラス張りの大ホール。昼休みの今は、生徒たちでごった返している。
 私は隅の方にある二人がけの席に一人で座り、窓ガラスに叩きつける雨を見ながら食事していた。

 ――我が校に怪奇現象は存在する。

 断言した。
 それが真実であれ虚偽であれ、学校のトップがそう言ったんだ。他の教師はそれを前提として身を振るしかない。たとえ科学絶対主義者だとしても、今後はオカルト面を意識せざるを得ない。
 おまけに新校舎の狐憑きと絡めて旧校舎のことを言及されてしまった。こちらが動きにくくなった感は否めない。とりあえず今日は控えておいたほうが無難だな。見つかったら一発アウトだ。旧校舎での狐憑きを知る者として、少なからず注目されているだろうしな。
「くそ……」
 校長め。やってくれる。
 意図したものかどうかは分からないが、しっかりと牽制されてしまった。
 ……いや、当然少しは私を意識したんだろう。なにせ会議中に二度も睨まれたのだ。特に一度目。声をかけてきた時の眼光。
 確かに私は教授のコネで強引に押し込んでもらった身だが、あれはそれに対する嫌悪感だけではない。もっと根源的な何か由来している気がする。
 多忙期の邪魔になること以外に、私がいると何か不都合がことがあるのか?
 例えば、校内の雰囲気を乱される、とか。
 現に私は生徒の儀式を強く叱り飛ばした。そのせいで教師陣の間で少なからず意識改革が起った。今までは旧校舎への抑止力として、新校舎での怪奇現象騒ぎをほぼ黙認していたが、それではいけないという空気が発生した。特に、感化されやすいデブマッチョなどは……。
 ひょっとしたら、今回のような職員会議は以前の雰囲気では起りえなかった?
 生徒の暴動に誰も疑問を抱かなかった?
 つまり私がもたらした不具合は、教師の洗脳を解いてしまったこと……?
 ――洗脳?
 頭をよぎったその単語を、私はもう一度反芻する。
 洗脳。言葉は悪いかもしれないが、その表現が一番しっくり来る気がする。生徒たちの異常な雰囲気を容認するように、知らず知らず仕向けられていた。
 では洗脳の手段は?
 例えば香だ。
 香の匂いで洗脳をしているとしたら? 今日匂いが強いのは、洗脳をかけなおすため?
 香の効果は、風水でもなければ除霊用でもなく、実は洗脳だった。そしてせっかく数年かけて洗脳を施して来たのに、たった一つの外部因子によって壊されそうになっている。それを防ぐためにここ数年、教育実習生を受け入れなかった。だが私が来てしまった。
 ……一応、説明はつく、か。
「ふーむ……」
「こんなところで一人寂しくお食事ですか」
 突然前から声をかけられ、私は思考を中断して顔を上げた。
 呆れ顔でこちらを見下ろしていたのは女霧だった。赤み掛かった長い髪を梳き上げ、切れ長の目を僅かに伏せて睥睨してくる。
 他に連れはいない。どうやら一人のようだが。
「うわっ、なんなんですか。このひどい食事」
 柳眉をひそめ、女霧は少しだけ前かがみになって私の昼食をのぞき込む。
「七十円でこのボリュームと栄養価だ。素晴らしいだろう」
 今、私の目の前にあるのは五十円の小ライスと二十円の味噌汁、そして大皿に山盛りとなった無料の天かすだ。会計時に嫌な顔をされたが、こちらが笑顔で返すと向こうも微笑んでくれた。
 ……まぁ、ちょっと目の端に水滴がついていた気がするが。
「……先生、ひょっとして貧乏だったんですか?」
「倹約家と言ってくれるか。格調高く」
 昨日の夕食をダウングレードする予定だったのを、もやし追加で豪華にしてしまったから、ここで帳尻を合わせてるんだよ。文句あるか、ちくしょう。
「それは大変失礼しました。貯金にいそしんでいらっしゃる苦学生様に、このような高価なものを頂いてしまって」
 額に手を当てて軽く頭を振りながら、女霧は何かを机の上に置いた。
 それはこしあん入りおしる粉ジュースのパックだった。昨日、私が女霧におごったやつだ。
「お返ししますよ。昨日はどうも」
 ふんっ、と拗ねたように言いながら、女霧はプリーツスカートのポケットから財布を取り出す。皮製の、いかにも高そうな外見だ。どこぞのブランドものなんだろう。私の愛用している、百均のナイロン財布とは大違いだ。
「それから、これ」
 その中から札を一枚取り出すと、机の上にそっと置いた。
「私からのささやかな同情心です。何かの足しにしてください」
 ふふん、と得意げに鼻先で笑い、女霧は満足そうに言った。
 紙幣には福沢諭吉が描かれている。
「これで貸し借りはなしです。いいですね?」
「女霧……」
 ふぅ、と息を吐き、私は百均ネクタイを僅かに緩めて続ける。
「君がこのお金をどうやって得たのかは知らない。しかしな、この大金を実際に稼ぐためには相当の対価を支払わなければならないんだよ。体力、知力、心力、そういった労力を多く費やして初めて得られるのが、この金銭という名の結果だ。無論、君はまだ若い。だからこの紙幣の価値が十分に分かっていないのも頷ける。ただ親から与えられたもの。そのくらいの認識しかないんだろう。無理もない。だからこそ私が言おう。この諭吉は人の心すら飲み込む魔性を秘めていると。扱いを間違えると大変なことになるんだ」
「……先生を見ていると良く分かります」
 女霧の蔑んだ視線が行き着く先には、私の左腕。その手には万札。諭吉は胸ポケットへとダイブ――
「はっ」
 慌てて手を引き抜き、私は紙幣を机に戻す。
「とにかく、こんな物は受け取れない」
「……先生、ゼロが一つ減ってる気がするのですが」
「えっ」
 紙幣を確認する。
 ……本当だ。諭吉が漱石に整形している。
「と、とにかく、だ。これは受け取れない。ジュースだけで十分だ」
 無意識にすり替えていた一万円札を戻し、私は咳払いをして女霧を見据える。
「……先生、ガン泣きはやめてください。みっともないんで」
「なっ」
 目元を確認する。
 ……濡れている。いやすでに口の中がしょっぱい。
「せっ、セルフドライアイ予防だ。気にするな」
 言いながら机の上にあった紙ナプキンで涙と鼻水を拭い去っていると、頭上から深いため息が降りかかってきた。
「私、先生のことがさらに嫌いになりました」
 そして冷たい言葉が後に続く。
 くそっ。こんな奴に好き放題言われてしまうとは。ただでさえ旧校舎探索の邪魔が多くてイライラしているというのにっ。
「……で、用は済んだのか?」
 ならとっととどこかに行ってくれ。私は考えることが多くて忙しいんだ。
「ええ、取り合えず当初の予定は。ですが一つ、確認しなければならないことを思い出しました」
 何だよ……。
「先生、私の言ったこと、嘘だと思ってるでしょう」
「は?」
 言われた意味が良く分からず、私は甲高い声で聞き返す。そのリアクションに女霧はムッ、と唇を尖らせ、
「顔のヒビのことです。私が昨日、授業中に言った」
 ヒビ? あー、あれか。女霧がクラス全員から無視された時の。
「あれ、本当ですから。私、ちゃんと視ましたから。先生の顔に亀裂が走るの」
「そうか。じゃあ気をつけておくよ」
 言いながら、分かった分かったと軽く手を振る。だがそんな私の適当な態度が余計に神経を逆なでしたのか、女霧は細い眉を高く持ち上げて目を見開いた。
「本当ですから! 本当にビッキビキだったんですから!」
 そしてキーッ! と歯を剥いて声の刃で噛み付いてくる。食堂という場所がら、ある程度の声量はかき消されるが、それでも今の女霧の大声は目立つ。
「よーし分かった。まずは落ち着け。取り合えずこれでも飲んで」
 女霧が持ってきてくれた、こしあん入りおしる粉ジュースを彼女の前に差し出し、私は向かいの席を引いて座るように促した。
 ふんっ、と鼻息を荒くして乱暴に腰を下ろし、女霧はパックジュースにストローを突き刺した。そして一気に吸い上げ――やはり咳き込む。
「大丈夫だ女霧、私はお前の力を信じてるぞ。だいたいあの時、私は肯定したじゃないか。だからこそ、あの場でそれ以上言わないでくれと申し出た。違うか?」
「あれは私に話を合わせただけでしょ」
 ……くそ、なんでそこだけ冷静なんだ。
「だったらどうすればいい」
「別に、どうもしなくて結構です」
「は?」
 むせないように気をつけて飲みながら言う女霧に、私はまたも甲高い声で返す。
「私のあの発言で、すでに先生の顔のヒビに関する噂は広まっています。そのうち自然と耳にするでしょうが……今知りたいですか?」
「……はい」
 多分こう言って欲しいんだろうなという言葉を返す。そして予想通り、女霧は満面の笑みで頷いた。
 くそぅ、どうして私はこいつのご機嫌とりみたいな真似をしてるんだ。さっさと話を終わらせたかっただけなのに、いつの間にかとんでもない方向に進んでるぞ。
「実は少々残念なことに、私の意に反した形となっていまして」
 はいはい。そりゃーそーだ。あんな適当で曖昧な話が、まともな内容になるかっての。
「先生がズラだという噂がまことしやかに広まっています」
「何てことするんだ!」
 ダン! と机に手を叩きつけて立ち上がる。
「先生、落ち着いてください」
 が、静かな声で女霧に言われ、私はしぶしぶ腰を下ろした。そして周囲から視線が一通り落ち着くのを待ち、少し身を乗り出して女霧に詰め寄る。
「私のは地毛だ」
「でも証明はできませんよね? 最近のカツラって地毛と見分けがつかないらしいですから」
「なら触ってみろ」
「お断りします」
「いいからっ」
「セクハラ発言になりますよ? それ以上は」
 『どう? 悔しかったらひざまずきなさい』と言わんばかりの表情でこちらを流し見ながら、女霧は勝ち誇ったように言った。
 ……くそぅ。このヤロウ。
 何なんだ。一体、何がしたんだ。私にジュースの借りを返しに来ただけじゃないのか? こんな挑発めいたことして、何が目的になんだ。大体、噂ってなんだ。こいつは噂が流れてくれれば満足なのか? 自分の力を周りに思い知らせたいんじゃないのか? まさかここでストレスをためさせて、一気にハゲさせようという魂胆ではなかろうな。あと一週間ほどの短期間で、絶望的なまでに髪の後退を進ませる方法。そんな恐ろしいことを、こいつは実行しようとしているというのか。
 それだけは阻止せねばならん。髪は一生のお友達だ。そう簡単に友情を崩されてたまるか。
 何か。何ないか。落ち着いて。考えるんだ。
 こいつを小バカにできて、鼻で笑ってやれるような話題を。会話のペースを一気に略奪する秘策を。
「どうしました? 先生。もうおしまいですか?」
 早く言い返してこいよと、女霧は鼻から抜けるような声であおってくる。
 くそ! 何かないか! 次の言葉! 次の名ゼリフ! この不利な状況をひっくり返せるような何か! 何か……!
 ……。
 ……待てよ。おかしいぞ。
 まぁおかしいというか、違和感のようなものなんだが。
「せーんせぃ?」
 どうしてこいつは“一人”なんだ?
 教師陣の話だと、女霧は『視える者』としてトップクラスの大物なんだろう? だったら取り巻きが何人かいてもおかしくないはずだ。こいつが望まなくとも、周りがそうするだろう。力に群がろうとする輩は、どこの社会にでもいるものだ。
 それにこいつだって、こんな話を私に直接するよりは、もっと仲の良いクラスメイトとネタにして盛り上がった方が楽しいだろうに。少なくとも女子と話した方が共感し合える部分は多いと思う。
 机に腰掛け、全方位に男子女子生徒をはべらせながら、ひたすら自慢話と陰口に華を咲かせている。
 そういうイメージが実にしっくりと来るキャラクターなんだ。なのに今は……。
 私の勘違いか、あるいは――
「お前、ひょっとして相手にしてもらえなくなったのか?」
「なっ……!」
 私のその一言に、女霧の顔色が一変する。
 満面の余裕は綺麗さっぱり消え去り、代わりに羞恥と焦燥にまみれた赤面が出現した。
「そっ、そんな訳ないでしょう!」
 ふぅ、やっぱりそういうことか。
 いや、そもそも変だったんだよ。特別親しい間柄でもないのに、こんなにも馴れ馴れしくしていること事態が。
 だがそういうことなら納得もいく。
「違いますから! そんなの絶対に違いますから!」
 要は構って欲しかったんだ。
 今までずっとチヤホヤしてくれていたクラスの連中が、突然自分をのけ者にし始めて困惑していたんだ。それでも何とかせねばと徘徊していたら、私の姿を見つけた。私はクラスの連中から危ない存在とされているし、何より自分を今の立場に追いやった張本人だ。そんな輩を手なずけることができれば、大きく返り咲けるのは間違いなく、さらに気分も晴れる。実際に話してみたら、何ともからかい甲斐のある阿呆だった。そして上機嫌で会話を続けた。
 こんなところだろう。
「今はたまたま一人になりたい気分だっただけですから!」
 女霧の歪んだ自己顕示欲も問題だが、恐るべきはクラスの連中の豹変っぷりだな。あの一件だけで、ここまでするものか。そして私がいなくなれば、何事も無かったかのようにまた女霧を崇拝し始めるのだろうか。こういうを集団心理というのか? それとも洗脳の弊害? いや洗脳はまだ仮説だったか。
 何にせよ最近の若者の思考は理解不能な部分が多すぎるな。
 まぁ、その点において――
「先生聞いてますか!?」
 こいつの場合は至極分かりやすいのが救いだな。
「あー、聞いてる。ちゃんと聞いてる。たまには一人の時間を大切にしないとな」
「……先生、馬鹿にしてますよね?」
「とんでもない。というより、お前に少し聞きたいことがあるんだ。ぜひお前の口から意見を聞きたい。時間、ちょっといいいか?」
 私は女霧の目を真正面から見つめ、表情を引き締めて言った。
「な、何の話ですか?」
 よし乗ってきた。
 誰かに構って欲しい人間は、理由が何であれ自分を必要としてくれる存在には弱い。それに上手く持ち上げれば、こちらが聞いていないことまで喋ってくれる可能性もある。加えて女霧は嘘をつけない。ついたとしてもすぐ顔に出る。
 込み入った事情を聞く相手として、これほど最適な人材は他にいないだろう。ぬぇへへへ。
「お前を最高の『視える者』と見込んで、聞きたいことがあるんだ」
 その言葉が完全にとどめだった。
 女霧の表情ははっきりと明るくなり、唇を僅かに湾曲させてこぼす笑みからは、ありありと自負の念が読み取れる。
 ここまで扱いやすいと妙な罪悪感にとらわれるが、今は考えないでおこう。
 紫堂明良と会話するには、まだ武器が足りないんだ。
 前回の流れで主導権は全て持っていかれてしまった。このまま順当にいけば、良いように利用されるのは目に見えている。
 何か、いざという時の切り札を用意しなければならないんだ。
 女霧が何を知っているかは分からないが、紫堂明良のことを聞き出せそうな人間は今のところ彼女くらいしかしない。
 昼休みはまだ半分近く残っている。
 もっと静かな場所で、慎重に質問しよう。
「よし。場所を――」
 ――変えよう。
 そう言おうとした時、胸ポケットから砂嵐音が聞こえた。携帯を取り出し確認する。女霧が「何その着信音……」といった様子で半眼を向けてくるが気にしない。
 くそ、何なんだこんな時に。

――……
【送信者】:光トカゲ
【件名】:お元気ですか?
【本文】:
 体調はいかがですか? 古い建物には変なバイ菌がいることもありますから、十分気をつけて下さい。特に最近はお天気に恵まれないので、悪い菌が沢山いるかもしれません。ひどい時は思い切って中断した方がいいですよ?
 今回の実習が終わったら、色々と感想を聞かせてくださいね。沢山おしゃべりしましょう。楽しみにしています。
……――

 また体調の話か。
 それに今回は、妙に旧校舎への立ち入りを遠慮させたがっているような……。
 というか送られてくるタイミングも変だな。いつもはもっと遅い時間に来るのに。何か理由でもあるのか?
 今朝、校長から狐憑きの元凶が旧校舎であると言われた。
 今日の放課後、紫堂明良と話をする。私からの要望で。
 ……。
 ……考えすぎか。
 最近、腹の探りあいみたいなことが立て続けに起っているせいか、こういう思考パターンが癖になってきてるんだな。いかんいかん。もっと純粋に旧校舎を愛でなければならないというのに。初心を大切にしないとな。
「先生?」
 女霧からの声で私は我に返った。
「ああ、すまん」
 光トカゲは優秀な情報提供者。それ以上のことは知らないし、知りたいとも思わない。
 それでこの話はおしまいなんだ。
「どこか落ち着いて話ができる場所はあるか?」
 携帯をしまい、私は天カス定食を一気に書き込む。取り合えずカロリーの確保はできた。あとは情報力の強化だ。
「んー……じゃあ、付いて来て下さい」
 目線を斜め上に投げだし、思案げに返す女霧。
 行ってみないと分からないが、心当たりはあるということか。
「よし、行こう」
 メールを無視するのはやや心苦しいが今は時間が惜しい。
 私はトレイをカウンターに戻し、女霧とともに食堂を出た。
モドル | ススム | モクジ





空メールでも送れますが、一言添えていただけると大変嬉しいです。
Copyright (c) 2013 飛乃剣弥 All rights reserved.
 

-Powered by 小説HTMLの小人さん-

inserted by FC2 system