廃墟オタクは動じない

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  第八話 『秘密を知る者、知られる者』  

 女霧が案内してくれたのは美術室だった。
 ――美術室。
 旧校舎では、中でふしだらな行為が行われていたとして、不名誉な閉鎖を余儀なくされてしまった部屋だ。一階にあったせいか変な匂いがこもり易く、違う意味でも空気が悪かったのを覚えている。
 それに比べて新校舎の最上階である五階にあるこの場所は、窓からの眺めが素晴らしい。
 眼下に広がっているのは、一周六百メートルはあるだろう巨大なトラックを内包するグランド。整備も完全に行き届き、外周には褐色の合成ゴムが敷かれ、内側には青々とした芝生が植えられている。まるで陸上競技場のような光景だ。
 その隣にはテニスコートが四面。さらに隣の一段高くなった場所には、十レーンの五十メートルプールが雨滴を受けていた。
 そしてこれらの豪華な屋外施設を囲む形で、背の低い樹々が生い茂っている。旧校舎ほどではないが、こちらも周囲には沢山の自然が残っている。晴天の日にはさぞかし鮮やかな緑が目に映えるんだろう。まぁ露化粧された雑木林というのも、これはこれで風情があるが。周りが住宅街だったらこうはいかなかたっだろう。
「……怖そうな連中と、ね」
 机が置かれていない広い教室。いるのは私と女霧の二人だけ。
「分かった」
 紫堂明良について一通り質問し終え、私は窓のそばにあったイーゼルに体重をかけながら息を吐いた。部屋の中央付近に置かれているモデル用の果実に視線を送り、情報を整理する。台にかけられた純白のシーツにイメージを投影し、一つ一つ頭に落とし込む作業を続けた。
 正直、期待していたような情報はあまり得られなかったが、しょうがない。あのオヤジが律儀に約束を守って、あまり生徒とは接触していなかったということか。くそ……。
「……で、先生」
 二年や三年の生徒に話を聞ければ、もっと有益な情報が手に入るかもしれんが、さすがにな……。校長に告げ口でもされれば、そこで終了だ。紫堂明良の扱いは慎重に行うに越したことはない。
「あの、先生」
 ん?
 不満そうな女霧の声に、私は思考を中断して顔を上げた。
「どうした」
「あの、私に聞きたかったことって、それですか?」
 壁際に置かれた胸像にもたれかかり、女霧は腕を組んだまま聞いてくる。
 私は言われた意味がすぐに分からず、
「ああ、そうだが」
 と端的に答えた。
「“お前を最高の『視える者』と見込んで、聞きたいことがある”。そう言いましたよね?」
 ……。
 ……ああ。
 そういえばそうだったか。
「言ったな」
「完全に忘れてましたよね」
 鋭い。なかなかやるな。
 いやだが待て。何かあったはずだ。私は他に聞きたいことがあったはずなんだ。
 今朝まではそれを覚えていた。だが突然、職員会議に呼ばれて、あの衝撃的な内容を受けて飛んでしまっていた。
 思い出せ。凄く重要なことだったはずだ。
「……もういいです」
 ふてくされ、蔑んだ声色で言いながら、女霧は黒板の上にある時計に目をやる。そして深々と溜息をつき、画材の詰め込まれた大箱の横を通り過ぎて出入り口へと向かった。
「待ってくれ」
 言いながら私は女霧の後を追う。
 まずいな。貴重な情報源を失うだけでなく、私の質問内容を吹聴されるかもしれないというリスクまで付きまとう。
 何とかしなければ。
「女霧、私が本当に君に聞きたかったのは――」
 頭の中がまとまらないまま、私は彼女の腕を掴む。急に歩調を乱された女霧は、半身を後ろに引かれながら前につんのめり、その反動で制服の袖先が僅かにめくれた。
 細く、白い左腕。まるで磨き上げられた彫刻のように。
 だがその表面には、まるで似つかわしくない傷跡が刻まれていた。それは何かに引っかかれたような――
「七ツ橋」
 言葉は自然と口から飛び出していた。
「は?」
「七ツ橋ひなたにも似たような傷跡があった。彼女は、かまいたちのせいだと言っていた。『視える者』として、これをどう思う。本当だと思うか?」
「七ツ橋、さん……?」
「今日、彼女はちゃんと学校に来ているか? 午前中にD組の授業を受け持っていないから、はっきりしないんだ。昨日、A子は七ツ橋が今日はこないと言っていた。その通りなのか?」
「ちょ、ちょっと先生……?」
「七ツ橋は本当に霊の類が視えるらしい。彼女によると旧校舎には別に幽霊はいないそうだ。女霧、君はどう思う」
「落ち着いてください!」
「っ……」
 怒声にも似た女霧の大声で、私は我に返った。
 女霧自身も自分の声に驚いているのか、片手で口をふさいで室外の物音に耳を傾けている。
 そうだ。私達は今、この美術室を無断で使用しているんだった。昼休みにこんな場所に来る生徒はまずいない。だからこそ落ち着いて話すのにうってつけだと女霧が提案したのだ。つまりそれは、もし見つかればまずい事態に陥るということを指す。
「……?」
「……。――っ」
 私と女霧は目で会話しながら、近づいてくる足音が無いことを確認した。クラスルームのない五階であることが幸いだった。もしこれが人通りの多い一階だったら、見つかっていただろう。
 私達は一緒に安堵の息を吐き、
「……先生、そろそろ放してくれますか? 今度はセクハラで大声出しますよ」
 冷ややかに響く女霧の言葉に、私は慌てて彼女の左腕を解放した。
 むぅ、いかんな。私としたことが随分と取り乱してしまった。
 忘れていた大切なことが、女霧の傷を見たとたん一気にフラッシュバックしてきたせいだろう。考えるより先に口が動いていた。これが廃墟系女子の魔力というやつか……。
「で? 七ツ橋さんがどうかしたんですか?」
 掴まれていた左腕を軽く振ってほぐしながら、女霧は面倒くさそうに言ってくる。
「ああ、七ツ橋にもそういう傷があってな。包帯で処置していた。本人はかまいたちのせいだと言っていたんだが」
「かまいたち、ですか……」
 私の言葉を繰り返しながら、女霧はふむ、と一度うなづき、
「まぁあれは狐なんかよりずっと程度の低い徘徊霊に属する類ですが、意志力の弱い人間には十分脅威となる存在です。本体は鋭い鎌を持った妖怪で、三体が一つの塊となって行動していますが、現世界に本体が出てくることは極めてまれなケースです。普通は自分の存在核となっている鎌の部分だけを一瞬だけ霊現化して、対象の死角からきりつけてきます。ですが物質化された刃ではなく、あくまで精神的な刃であるため、無機物は勿論のこと意志力の強い者にも効果がありません。かまいたちは狡猾ではありますが臆病でもあり、こちらが弱みを見せない限り、むやみやたらに襲い掛かってくる霊ではないのです。つまり――」
「あー、丁寧に説明していただいているところ誠に申し訳ないのだがー。素人にも分かりやすく、要点を言っていただけないでしょうかー」
 垂れ流され始めた女霧の脳内設定に割って入り、私は結論を促した。
 昼休みもあとわずか。最後まで付き合っている時間も、根気もない。
「……まぁ、確かに素人にはまだ早いですね」
 僅かにむっとするが、すぐに納得した表情になると、女霧は澄ました声で続ける。
「私の個人的な見解ですと、七ツ橋さんの場合はかまいたちその物に取り憑かれている可能性があります」
「取り憑かれてる?」
「ええ。彼女の意志力の弱さは群を抜いてると言っても良いくらいですから。仮初めの依り代としてはうってつけでしょうね」
「七ツ橋の傷はそのせいで?」
「恐らくは。内側から鎌で斬られているはずですから、本人は全く自覚ないと思いますよ。例えば、寝て起きたら怪我をしていた、とか」
「そうか……」
 まぁ女霧に聞いたところで、こういう答えが返ってくるか。だが他に訊けそうな生徒もいないし。かといって本人をもう一度問い詰めるわけにもいかないしなぁ……。
「――と、言えば大抵の人は信じるでしょうね」
 どうす――
「……何?」
 想定外の言葉が聞こえた気がして、私は女霧の方を見た。
 さっき何と言った? 私の鼓膜が廃墟化していなければ、こいつは――
「今の雰囲気では、例え嘘であったとしてもそういう答えが望ましいのは確かです。言う側にとっても、聞く側にとっても。気分を盛り上げるために、何の疑問も抱かずに受け入れるでしょう」
 言いながら女霧は大げさに肩をすくめて見せる。
「でもそんなの、本当は視えていないのに視えるフリをしている人間がやることです。何のプライドもない自称『視える者』がやる三流芝居。だからそんなのに惑わされないでくださいね、先生」
「女霧、つまりそれは――」
「七ツ橋さんの傷跡は、かまいたちなんかとは関係ありませんよ」
 広げた腕を組み直し、女霧は嘆息交じりに断言した。そして頭を軽く振って髪を揺らし、長い睫毛を伏せて憂鬱そうに続ける。
「あと一月もここにいれば、先生だって何らかの形で見ることになったかとは思いますが。そんな時間はありませんものね。別に教えてあげる義理はありませんが、黙っている義務もないですし……」
 説明するのが面倒くさい、というよりは、その内容にあまり触れたくないといった雰囲気で女霧はもう一度ため息をついた。
「七ツ橋さんの怪我は――」
 その後、女霧が口にした内容は、予想通りで、想像以上だった。

 午後五時。
 雨の勢いは少し強くなっていた。
 黒く分厚い雲が空を覆いつくし、この陰鬱な気持ちを加速させる。旧校舎の中から漂ってくるカビ臭いにおいも、いつもより分厚い気がした。
「……」
 紫堂明良との待ち合わせ場所である、旧校舎の正面入り口前。横手に視線を投げ出したまま、私は細く息を吐いた。濡れた校舎の外壁が浅黒く変色し、老朽化の度合いを一層酷く見せている。長く伸びた蔦が窓ガラスを侵食し、不気味な造詣を醸し出していた。
「よぉ、先生。待たせちまったか?」
 前から声がして、私はそちらに顔を向け直す。
 紫色のニット帽を目深にかぶり、大きなフラッシュライトを片手に持った男がこちらに歩いてきていた。
「今日は随分と堂々としてるんですね」
 出現位置の当てが外れ、私は嘆息交じりに言った。
「まぁ、もう知らねー仲じゃねーからな。コソコソしなくたっていいだろ」
 雨よけの下に入り、差した傘を片手で器用に折りたたみながら、紫堂明良は片眉を上げて言う。
 見知らぬ人間を相手にする時は、まず気配を断って背後から近づくのがこの男のポリシーのようだ。実にいい趣味をしている。
「こういうのは最初が肝心だからな」
 傘に付いた雨滴を払い、紫堂明良はフラッシュライトを小脇に抱えてタバコを取り出した。
 最初が肝心、ね。
 つまり私との勝負、まず初戦はもらったと言いたいんだろう。悔しいが実際その通りだ。ここでの待ち合わせを私の方から要求した時点で、すでに一本取られている。だからこそ正面から来たんだ。少し遅れ気味に。主導権は自分にあることを強調するために。
 紫堂茜の名前に過剰反応してしまったこと。あれが最大の敗因だ。あれで紫堂明良は確信したんだ。かかった、と。だから昨日はあっさり引き下がった。そして更に余裕を見せ、相手の焦りを誘いたかった。
 カプセルホテルで冷静になってすぐに分かった。
 自分の無様さと愚かさをかみ締めた。
 だから認めよう。初戦はお前の勝ちだ。だが――
「中に入りましょう。ここにいて見つかるとマズいんでね」
「心配しなさんな。俺と一緒いりゃ、おとがめ無しだ」
 言いながら紫堂明良はタバコをくわえ、慣れた手つきでジッポライターを振って火をつけた。
「まずは一服させろよ」
「ごゆっくり」
 言い残して私は正面入り口の扉を押し、中に入る。
 ――もう、この先一度だってお前のペースで事を運ばせはしない。

 今までで一番薄暗い旧校舎内。
 暗闇に少し目を慣らさないと、数歩歩くことすら危ぶまれる。
 私は目を閉じ、軽く深呼吸した。初日に入った時と同様、甘い匂いがかすかに鼻先をかすめ――すぐに消えた。
「せっかちな先生だな、おい」
 強い光が暗闇の一部を晴らし、野太い声が無遠慮に押し入ってきた。
「あんまりツッパリ過ぎると早死にすんぞ?」
 呆れたような声で言いながら、紫堂明良は私の隣に立ってタバコをふかす。
「それは刑事さんの価値基準で、ですか? だったら長生きできそうですね」
「一般論だよ」
「なおさらです」
 即答されて紫堂明良は軽く吹き出し、やれやれといった様子でニット帽をとった。白髪混じりの短髪、そして深く刻まれた額の傷が顔を見せる。
「こん中でちっとも怖がらねぇわ、俺の風体見ても動じねぇわ。随分と度胸のある野郎だねぇ。他の先生方とはエラい違いだよ、まったく」
 丸みを帯びた目でこちらを見ながら、紫堂明良は感心したように笑う。
「ま、だからこそ気に入ったんだけどな」
 そして付け加えるように言った。
 迷惑な話だ。
「ああ、そうそう。気に入ったついでに教えといてやるとな。前に言った、ここが軍事病院だったって話。ありゃ嘘だ。大嘘っぱちだよ」
 はっは、と鷹揚に笑いながら、紫堂明良はタバコを携帯灰皿でもみ消す。そしてすぐに新しい一本を取り出し、火をつけて紫煙をくゆらせた。
「お前さんの反応が見たくてな。校長からの受け売り話をそのまましてみた。しかしビビるどころか、逆に噛み付いてくるとは予想できなかったなぁ」
 吸い込んだ煙を細く吐き出し、紫堂明良は続ける。
「神社だったらしいぞ、ここ。円網(えんもう)神社、って名前の。この件に首突っ込んでからは色々と調べててね。警察の情報力も馬鹿にしたモンじゃねぇだろ? まぁ軍事病院ってのは、生徒よけのために校長が作った与太話なんだろうよ。くっだらねぇ」
 ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、紫堂明良は楽しそうに口元を緩めた。
 神社、か……。七ツ橋が言っていたことと同じだな。
 殆ど接点が無いであろう二人が同様のことを口にしているんだ。この話はほぼ間違いないと見ていいな。
「ところが、だ。お前さんは旧校舎に怪奇現象なんざ存在しないって速攻で断言しただろ? 校長の思惑露知らずって顔で。なかなかできねぇよ。ここの卒業生で。誰かしら死んでるって知ってりゃ、そういうことの一つや二つ、起きてもおかしくないって考えるのが普通だからなぁ」
 フラッシュライトの光を手元に戻し、紫堂明良はトレンチコートの内ポケットから何かを取り出した。手帳のようだ。皮の装丁だが端がボロボロになっている。相当使い込んでいるようだった。
「一人目は新坂康介。当時三十二歳。二年生の化学を担当した教師。独身。七年前の七月二十五日、二階階段の踊り場で死んでいるのを、朝来た生徒が発見。死因は後頭部の強打。死亡推定時刻は午後六時から七時。状況からして、階段を踏み外し落下したものと思われる。誰かと争ったような形跡はなく、また新坂康介がその日最後まで校内に残っていたと、複数の教師が証言したため、他殺の線は消えて事件性はなし。新坂康介は放課後、翌日の授業の準備のために、一人で化学準備室で作業をしていたらしい。その後の帰宅時、誤って転落したものと推定」
 まるで何度も練習したかのように、詰まることなく一気に言い切る。そしてさらにページをめくり、どこか得意げに続けた。
「二人目は上村真治。当時十六歳。二年の男子生徒。六年前の八月二日、野球部での部活動中、突然グラウンドで倒れて病院に搬送。一時間後に死亡。直腸温度の高値、血液凝固の異常性が認められたことから、熱中症と診断。野球部顧問はその後辞職。当然、事件性はなし。補足事項、上村真治は決してまじめな部員ではなく、部活を欠席することが多かった。また出席時も遅れてくることが殆どであった。事故当日の気温は確かに高温ではあったが、他の部員たちに致命的な異常は見られず、上村真治の基礎体力の低さが不幸に繋がったのではないかと推測される」
 言い終えて手帳を閉じ、紫堂明良は黙ってこちらを見据えてくる。
 ――覚えているか? 当時の気持ちは? 今これを聞いた感想は?
 目の奥が好奇で満たされているのが、容易に見て取れた。
「いいんですか? そんなこと外部の人間に漏らして」
「三人目のもいこうか?」
 ――紫堂茜。
 今、恐らく表情がこわばった。そしてこいつに見られた。いや、確認された。
「知っての通り茜は病弱でね。家と学校を往復するのが精一杯。そいつが茜の世界の全て。何とか広げてやりてぇと思ってたもんだが、今は逆にありがたいねぇ。茜と接触した奴の候補が絞られるからなぁ。取り合えずこの学校の卒業名簿見て、在学時期が茜と同じ奴らの名前と顔は全部叩き込んだつもりだったんだが……五年も経つとあやふやになってくるもんだなぁ。まさか同級生の名前がすぐ出てこねぇとはなぁ」
 言い終えて体ごとこちらに向き直り、紫堂明良はタバコをくわえたままニッ、と笑ってみせる。
「紫堂茜は殺された、でしたっけ?」
 その目を真正面から見据え返し、私は可能な限り声を低くして言った。
「あん?」
「この前の続き。確か話はそこで中座してましたよね」
 視線を細く絞り込み、神経を研ぎ上げていく。
 自分に会話の主導権があるにもかかわらず、紫堂明良は強行してこなかった。本質的な質問をせず、いまだ様子を見ながらこちらの反応をうかがっている。
 これの意味するところは、恐らくまだ確信が持てていないんだ。私から情報を聞き出すためには、紫堂明良も秘密を打ち明けねばならない。しかしその秘密を晒すのに値する人間かどうか、まだ確証がない。だからテストを続けている。
 それほどリスクの大きな話なんだろう。紫堂茜を冒涜することになるかもしれない程の。だが――
「何か根拠はあるんですか?」
 ぬるい。
 その考え方は甘すぎる。
 ここまできたら行くべきなんだ。多少のリスクは背負ってでも、リターンを強引にもぎ取るくらいの気構えでないと。
 少なくとも私はその覚悟で来た。
 紛いなりにも警察を相手にしてるんだ。当然、今の会話は録音されているだろう。となると、その内容について法的な強制力を行使してくるかもしれない。最悪、自分が紫堂茜を殺した犯人に仕立て上げられる可能性だってある。
「仮に本当だとして、犯人の目星は付いてるんですか?」
 とにかく、この男はヤバいんだ。
 女霧から聞いた話を抜きにしてもヤバい。
 最初の直感は当たっていた。どんな手を使ってでも、関わり合いになるべきでは無かった。
 だがもう遅い。はっきりと目をつけられた。
 今ここで背を向けるのは自殺行為に等しい。痛くもない腹を痛くなるまで探り続けられるだけだ。
 なら――
「五年もの間ほとんど進展がなかったのに、本当に解決できると思ってるんですか?」
 打って出るのみだ。リスクを増大させたとしても。
「あぁン……?」
 紫堂明良の声に不穏なものが混じる。目には剣呑な光が宿り、首を傾けてこちらをねめ上げてくる。
 さぁ怒れ。感情的になれ。そしてペースを崩せ。不利な発言をしろ。
 それを起点にして一気に突き崩してやる。
「お前さん――」
 まだ長いタバコをもみ消し、紫堂明良は眉間に力をこめた。それに連動する形で、額の傷が深さを増す。
 世の中には言って良いことと悪いことがある。今の私の言葉は後者だ。
 当然、憤る。少なくとも私が逆の立場なら、ただでは済まさない。何らかの形で償わせる。
 そして紫堂明良の場合は――
「さすがに鋭いじゃねぇか」
 笑った。
「こいつぁ飛び切り優秀な先生様だ。俺の五年間の成果、たったの一言でまとめちまった」
 両手でトレンチコートを軽く叩きながら、紫堂明良は声を上げて笑った。
「確かに確かにその通り。あいつが死んでから五年、ね……。そんなになるのに、何一つとして突破口になるようなモン掴めてねぇ。時間がたつほど迷宮入り率は高くなるってのに、当の本人はのんびり廃校探索ツアーで骨休め。最近じゃ愛着わきすぎて、ここに引っ越そうかって気分にまでなる始末。手に負えねぇなぁ、こりゃあよ」
 こちらの肩を叩きながら、紫堂明良はフラッシュライトを軽く振り回す。その光で連続的に表情を変える暗闇が、視界の安寧を根こそぎさらっていった。
「そうだなぁ。この五年間、分かったことといえば、校長がムシケラ級のビビリだってことと、図書室の雰囲気も存外悪いもんじゃねぇってこと。あとは美術室に秘密の地下室見つけたってことくらいか」
 美術室の、地下室……?
 一瞬、最後の言葉が引っかかった。
「おっ、どうした先生? 知らなかったのかい?」
 そしてこちらの僅かな変化を、目ざとくすくい上げられた。
「何か妙な小部屋があったんだよ。薄気味の悪い。取り合えず行ってみるか、なぁ?」
 言いながら紫堂明良は私の背中を押し、歩くように強制してくる。
 ――まずい。
 直感が告げる。
 このまま行くのは――
「来た方がいいんじゃねぇのか?」
 耳の裏で冷たい声がした。同時にフラッシュライトが消え、辺りは黒で埋め尽くされる。
「先制パンチはくれてやったんだ。だったら次はお行儀よくする番だろ?」
 背中に硬いものが押し付けられた。続けて小さく鳴る金属音。
「お前さんの質問にも答えてやる。けど、その前にちょっとくらいご機嫌とっておいてもバチはあたらねぇと思うぞ?」
「バチは積極的に避ける主義でね」
 言いながら胸ポットに忍ばせておいたLEDライトを取り出し、紫堂明良の手元を照らす。
 昨日、帰りに百均で仕入れたキーホルダータイプの小型ライトだ。だが出力は十分にある。
「……バチってのはそういうモンじゃねぇぞ?」
「古いですよ、その考え方」
 首をひねって後ろをのぞくと、背中にフラッシュライトの柄が当たっていた。それを持つのとは逆の手にジッポライター。大方トレンチコートのボタンにでもぶつけて、音を出したんだろう。
 LEDライトを体の前に戻し、私はゆっくりと紫堂明良から離れる。
 銃を持っていないことなど最初から分かっている。向こうだってお遊びレベルの脅しだ。つまりこの行為の意味は、こういうことをしてでも話を強引に進めるぞという、くだらない意思表示。
 だったらこっちも牽制するまでだ。
 今後、そんな陳腐なはったりは絶対に通用しないと。
「食えねぇガキだねぇ……」
 やれやれ、と大げさに肩を落として見せながら、紫堂明良は新しいタバコを取り出して火をつけた。
「分かった分かった。じゃあいいよ、お前が先で。で、何が聞きたい? って、そんなモン決まってるか」
「えぇ」
 渋い顔つきでタバコを上下に動かしながら言う紫堂明良に、私は即答する。
「じゃあ美術室に行きますか」
 タバコが赤い軌跡を描いて床に落ちた。
「火の不始末には気をつけて下さいね」
 それだけ言い残し、私はLEDライトの光を美術室の方向に向けて歩き出す。
 中で明りなど使っていたら、外の人間に存在をアピールしているようなものだが、この暗闇ではしょうがない。できるだけ気をつけ、もし見つかったら紫堂明良に全責任を押し付けよう。
「ホント、食えねぇガキだねぇ……」
 後ろから怨めしそうな声が聞こえてきた。
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