死を招き旅館へようこそっ

第一話『やぁ、今日もいい暴風雨だなぁ』


【当旅館に泊まられたお客様において、宿泊期間内に何が起ころうとも、当旅館は一切の責任を負わないものと致します】

「ちょ……っ」
 十畳ほどの畳部屋。その中央にある漆塗りの座敷机の上。
 この旅館の約隷らしきものが書き記された、全体的に茶色く変色したA4サイズの紙。
 そこには達筆なポップ体の文字で、脳天気にそう書かれていた。
「ちょっとなぁにこれぇ! 責任丸ごと踏み倒しますみたいな文章はああぁぁぁぁぁ!」
 疲弊しきった体を引きずって、なんとか二階のこの部屋に通されたのが今から数分前。
 襲いかかる睡魔を見事に打破してくれたのは、何とも身勝手すぎる宿泊約隷だった。
「何が起ころうとも……!? 何が起ころうともぉ!? ぬぁんじゃそりゃああぁぁぁぁ!」
「落ち着けヘタレ」
「ほッぅぅ……!」
 みぞおちに突き刺さった小さな腕に苦悶の声を漏らし、雨虎 神人(あめふらし かみと)は体をくの字に曲げた。
「な、なにするんだよぉ……」
 ずり落ちそうになるフレームレスのメガネを何とか持ち上げ、神人は涙目で相手の顔を恨めしそうに見る。
「今年で成人を迎えるという男児が、この程度のことで取り乱すな」
「……やっとランドセルが体に馴染んできた女児が、こんな重鋭い突きをお見舞いする方がどうかと思う」
 かひゅー、かひゅー、と乾いた音を立てて息をしながら、憮然と唇を尖らせている少女の前で神人は膝を付いた。
 長い栗色の髪は頭の後ろで丸く纏められ、血色の良いうなじに遊び毛が数本流れている。赤みのさした頬はなだらかに盛り上がり、桃色の唇には瑞々しい生気が宿っていた。
「きっとあれのことだ」
 川蝉 伊紗那(かわせみ いざな)は赤いパーカーのポケットから手を出し、布団がしまわれているだろう押入の方を指さす。そこには先程の約隷と同じく、達筆なポップ体で書かれた紙が襖に貼られていた。

【当旅館に男女一組で泊まられた方は、五割の確率で結ばれますが、五割の確率で破局します】

「まったくもって下らない」
「それって当たるも八卦当たらぬも八卦ってことじゃないかあああぁああぁぁ! なーんの謳い文句にもなってないんですけどオオオォォォォォォおおぉおおぉ!」
「それは違うぞヘタレ」
「イッぉぅ……!」
 神人の足の甲を踵でぐりぐりやりながら、伊紗那は猫のように吊り上がった目で襖を見据えた。
「“何も起こらない”がない。天国か地獄のどちらか、というわけだ」
 そして高く幼い発声で、転がすように続ける。
「ま、確かに責任は持てんだろうが、別にそんなもの持つ必要もない。強気なのか、弱気なのかよく分からん文言だな」
 顎先に指を添え、伊紗那はふーむと細く長い眉を顰めた。
「あ、あのー、伊紗那さん……? そろそろー、その可愛らしいパンダ靴下を僕の足からどけていただけるとすごーく有り難いんですけええぇぇどおおぉぉぉおぉぉぉぉぉ!?」
 ゴリごりん! と自分の体内で響く不協和音に、神人は喉の奥から絶叫を上げる。
「ま、このヘタレと何かなるほど、この伊紗那、落ちぶれておらんわ。よってこの公約文は無為に終わるというわけだな」
「……そもそもまだ“女”には分類されてないしねええぇぇぇぇぇぇえ!?」
 メキめきぃ! 破砕音を奏でる左足に、神人は職務放棄しかける意識を必死に説得して繋ぎ止めた。
「とにかく、だ。今日はさっさと風呂にでも入って寝るぞ。明日の朝早くにここを出て、電波の届く場所に出れば、携帯でいくらでも助けを呼べるからな」
 嘆息しながら半眼になり、伊紗那は部屋の中を物色し始めた。恐らく着替えの浴衣でも探しているのだろう。
(くそぅ……。このお子様めぇ……。なんでこんな乱暴者が頭お花畑でカナヅチな叔母さんの娘さんでしかも知能指数204とかいう変態な天才様なんだよぉぅ……)
 ズっキンゴっキンする足の甲をさすりながら、神人は胸中で毒づいた。
 だが確かに伊紗那の言う通りだ。今日はもうとんでもなく疲れた。何せ山道を三時間も全力疾走だ。ここは明日に備えて体力回復に努めるのが吉というもの。たださっきの理不尽な仕打ちがどうしても納得いかな――
(いや待てよ)
 神人の脳裏に一瞬の閃き。
 例えば、不安な気持ちをあのような暴力行為で紛らせているとしたらどうだ?
(人は時として自分の内面を曝すことを極端に恐れ、本心とは全く逆の行動を取ってしまうことがある。これを心理学用語で『ツンデレ』と言う。かつて委員長属性とも呼ばれてきたその深層心理の本質は、平常時ではとても表現しきれない深い愛情。そうか、そういうことか) 
 ふ……と鼻から軽く息を漏らし、神人は眉に掛かるくらいで切り揃えた黒髪を揺らしながら立ち上がった。
(見切ったぞ。完全にな。けどごめんね伊紗那ちゃん。僕は九才の女の子に手を出すなんて犯罪行為、例え足の親指を深爪してもやらな――)
 ゴン!
「ほれ、神にぃ。浴衣があったぞ」
「……ハンガーごと投げないで」
 もの凄い勢いで飛んできた浴衣を額で受け止め、神人は涙目になりながら大胆な藍抜き柄の和装を見た。最近の物ではない。なにか浮世絵にでも出てきそうな奇抜なデザインだ。
「で、でもラッキーだったよね。こんな山奥に立派な旅館があるなんてさ。何かすごいよねここ。相当な老舗だよ? 百年くらい続いててもおかしくないよ? なのに一人一泊五千円とか破格だよねぇ。まぁ、これはこれで良い経験になあああぁぁぁぁ!?」
 直線的に飛来した湯飲みをすんでの所でかわし、大きな木彫りの熊に当たって落ちたそれを神人は拾い上げた。
「あーぁ……」
 さっきの衝撃か、熊の額が僅かに凹んでしまっている。湯飲みも口が少し欠けてしまったようだ。
(ん……?)
 だが今できた新しい傷よりも、昔からあるだろう傷みの方が遙かに多い。湯飲み、熊、どちらもだ。これなら見事にカムフラージュされて目立たない。
(木を隠すなら樹海の中、というわけだな)
 さすが老舗旅館。細やかなところまでフォローが行き届いている。
「神にぃがもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかった」
 お団子に結い上げた髪を解きながら、ぼそっと漏らす伊紗那。
「そうだねぇ……。ごめんねぇ……」
 ははは、と乾いた笑いを漏らし、神人は湯飲みを座敷机の上に戻しながら返す。
 そう。そもそものきっかけ。原因。
 こんな状況になってしまった事の発端。
 あれは神人と伊紗那、二つの家族が合同でキャンプに来たことから始まった――

 青い空。白い雲。
 そして黒い蜘蛛。
「わあああぁぁぁぁぁぁぁあ!」
 渓流のせせらぎ。遠くから聞こえる野鳥の声。
 そして近くから飛んでくる肥。
「ぎゃあああああぁぁぁぁぁぁぁあ!」
 鼻腔をくすぐる草花の匂い。心を落ち着かせる森林浴。
 そして伊紗那を掻き立てる侵躙欲。
「ぎえあええぇぇぇぇぇええぇええぇぇぇぇぇええ!」

「――って全部テメーのせいじゃねーか!」
「お前がヘタレなのが悪い」
「あんなモン投げ付けられたら誰だって逃げます! つか最後の方とか刃物混ざってたじゃん! 当たったら血が出ちゃうんだよ!? 痛いじゃすまないんだよ!?」
「心配ない。当たらないように計算してある。当たったらそこで終わってしまうからな」
 口元を三日月のように薄く曲げ、伊紗那は底意地悪くクックと嗤った。
「あの……伊紗那さん……? 一体、何が目的なんですか……?」
「さて風呂に行くかー。露天だといいなー」
 完全棒読み状態で投げやりに言うと、大きめの浴衣を肩で担ぎ上げる伊紗那。そしてグレイのショートパンツから覗く白い足を真っ直ぐ前に伸ばして、部屋を出ていく。
「はーぁ……」
 大きく肩を落とし、釣られてずり落ちそうになるメガネを元に位置に戻して神人は深く溜息を吐いた。
 とにかく、そうやって伊紗那と森の中で“遊んで”いる間に方向感覚を失って迷子になってしまい、気が付いたら日はとっぷりと暮れ、携帯の電波も届かず、途方に暮れているところにこの旅館に行き当たったのだ。
「あれ……?」
 そう言えばこの旅館の名前は何というんだったか。
 雨風をしのげる場所を格安で提供してくれたんだ。無事家に戻ったらネットか何かで少し調べて、改めてお礼でも言いたい。
「えーっと」
 さっきの妙な宿泊約隷を取り上げ、神人は隅の方に視線を這わし――

【死を招き旅館へようこそっ】

「伊紗那ちゃん伊紗那ちゃん伊紗那ちゃあああぁぁぁぁぁゃん! 僕を置いてかないでええええぇぇぇぇぇぇぇ!」
 得体の知れない恐怖に突き動かされたのだった。


 第一話『やぁ、今日もいい暴風雨だなぁ』


 風呂は露天どころか窓一つ無い巨大空間だった。高い天井の近くに換気口のような柵があるが、今は閉まっている。チェック地のタイルに、壁に描かれた富士山。木でできた桶に腰掛け。大分使い込まれているのか、全体的にくすんだ色ではあるが、それがまた良い雰囲気を醸し出している。
「“死を招き旅館”て……」
 死を連想させる雰囲気を。
(宿泊期間内に何が起ころうとも一切の責任を負わないってそういうこと!? 死ぬの!? 僕死んじゃうの!? やり残したことまだ沢山あるのに! 可愛い女の子とデートして手を繋いで美味しいもの一杯食べてじゃあデザートは私よウフフとか言われてそんな優しくしてください僕まだ初めてなんですだからホテルで縄とかムチとかはちょっとあああああ女王様あああああああぁぁぁぁ!)
「そんなのいやどぅあああああぁぁぁぁあああぁぁあぁぁぁ!」
「落ち着け童貞」
 ゴン!
 と、真上から落下してきた何かに妄想回路を寸断され、神人はくわんくわんと異音を立てる頭を振りながら足元に転がる木桶を拾い上げた。
「何すんだよ! 危ないじゃないか! 他の人にあたったらどうすんだよ!」
 壁一枚隔てた向こう側にある女湯。そちらを睨み付けながら神人は抗議の声をあげた。造りは温泉というより銭湯のそれに近い。
「心配するな。男湯の入口にスリッパが無かったことは確認済みだ」
「靴を履く習慣のない部族の人が泊まってたらどうするつもりだったのさぁ!」
「かのマサイ族もスリッパを履くご時世だ。ありえない」
「だったら履き物を頭にくくりつけて風呂に入る時代の――」
「というか、この旅館にはあたし達二人しかいない」
 神人の言葉を遮って断言する伊紗那。
「……え?」
「あたし達の部屋は二階の一番奥。そしてここは一階の一番奥。つまりここに来るまでに全部の部屋の前を横切ってるんだ。どの部屋も扉が開いていた。細長い外観からして、他に宿泊スペースがあるとは思えない。他に客はいない。あたし達だけだ」
 全力猛ダッシュでここまで来たので確認するヒマもなかったが、言われてみればそんな気もする。
(そ、そう言えば……)
 宿泊名簿。この旅館にチェックインする時に書いたリスト。
 日付を書く所から始まったから、自分達が今日初めての泊まり客……。
(てゆーか、そもそも何日ぶりの客なんだ? 僕達)
 その前の人達の日付までは覚えていないが、新しい感じの字ではなかったような気がする。少なくともここ二、三日といった雰囲気ではなかった……。
「それより脱衣場でこの温泉の効能を読んだか?」
 壁越しに聞こえた声に、神人は思考を一時中断する。
「いや……」
「二つあってな。一つは【肌が綺麗になります】」
「へぇ」
 まぁ、温泉とかだとよく謳われる効果だ。
「もう一つは【目が良くなる――」
「マジで!?」
 美肌と違って視力回復を謳った温泉など殆ど無い。そりゃあそうだ。角膜は新陳代謝を活性化させれば何とかなるって代物じゃない。
(これで生まれつきのメガネライフとも――!)
「――こともあります】だそうだ」
「ぬぁああああんじゃそりああぁぁぁぁぁああぁぁあああぁぁあぁ! だぁったら最初から書くんじゃねえぇぇぇぇぇ! せっかく目が良くなった暁にはメガネを取る仕草がとってもダンディボーイなロマンスイエローでシルバーシートがメタリックゴージャスに成り代わってお婆さん僕と共にこの三途の川を渡りませんかなーんてラリった口説き文句を連呼できるそういう物は私はなりた痛イイいいぃぃぃぃぃ!?」
「落ち着け童貞」
 脳天を直撃した木の腰掛けに座り直しながら、神人はうぅぅと低く呻いた。
「ツッコム所はそこじゃない。そもそもこんな効能、絶対に効果があるなんてまず言い切れない。個人差はあってしかるべきだ。しかし最初の【肌が綺麗になります】は断言しているのに対し、二つ目の【目が良くなることもあります】はかなり曖昧だ。相変わらず強気なのか弱気なのかよく分からん文章だが、こういうのは普通どちらかに統一して書く物だろう?」
「……確かに」
 そう言われればそんな気もしなくもないが、別にどうでも良い気もしなくもない。というかさっきから脳味噌を揺さぶられすぎて、頭がイマイチ働かない。耳からちょっとこぼれているんじゃないのかという気にさえさせられる。
 まぁ何にせよ今切に願うことは――
「早く帰りたい……」

 浴衣に着替え、部屋に戻った神人達を出迎えてくれたのは、湯気の立つ料理の芳香と、畳に額を付けて頭を下げる少年と老人だった。
「お湯加減、いかがでしたでしょうか?」
 そう言いながら最初に頭を上げたのは少年の方だった。
 年は伊紗那と同じくらいか。丸い輪郭の面立ちで、旅館の名前が背中に書かれたはっぴを着こなしている。笑顔も完璧でこちらを心からもてなそうという気持ちが伝わってくるし、指の伸ばし方、肘の曲げ具合、膝の角度など、姿勢の一つ一つが教科書のように整っている。
 ただ唯一謎なのは……。
(何でちょんまげなんだ……)
 ごく一部から力強く放たれる異彩に、神人は後ずさりしながらも引きつった笑みを張り付かせた。
「あ、はい。凄く気持ちよかったです」
「それわそれわなによりなにより。本日は山の幸をふんだんに使つた料理おご用意いたしましたので、どうぞごゆるりとしていつてくだされ」
 神人の言葉に被せるようにして早口で言ってきたのは、老人の方だった。少年と同じく旅館の名前を書いたはっぴに身を包み、丁寧な物腰で座っている。齢にして九十前後と言ったところだろうか。手はしわがれ、やせ細り、微妙な痙攣を繰り返していることから、かなりの高齢だということが窺える。
 ただ唯一違和感があるのは……。
(なんで三白眼なんだ……)
 やんちゃな盛りの十代を彷彿とさせるギラギラとした眼光。それに綺麗に禿げ上がったスキンヘッドが相まって、極道のような風格を醸し出している。
「そ、それはご丁寧にドウモ……」
 神人はさらに後ずさりながらも、乾いた声を絞り出した。
 チェックインの時も二人のオーラは異様だったが、こうしてローアングルから来られるとまたその時とは違った迫力が――
「ってご飯まで出るのおおおおぉぉぉおおおおぉぉおぉぉ!?」
 座敷机の上に並べられた皿には、山菜を中心とした料理が綺麗に盛りつけられていた。天麩羅、汁物、和え物など種類も豊富だ。
「はい、勿論。当旅館の周りにはこれらの山菜が沢山生えておりますので。お客様がご到着されてから摘み取った新鮮な食材を、こちらの潮招 吠乃介(しおまねき ほえのすけ)が調理いたしました」
 少年に紹介され、ドギツい眼光の老人が軽く会釈した。
「こちらわ向かつて左から順に、タラノメの天麩羅、ウドの酢味噌和え、オオバキボウシの煮物、セリのおひたし、ゼンマイの赤出汁味噌汁、タケノコの刺身、ハルシメジの炒め物となつております」
「すっごい……」
 吠乃介という老人の説明に、神人は目を丸くしてメガネを掛け直した。
「この山菜は誰が取った?」
「私で御座いますが」
 風呂で温まった顔から湯気を上げながら聞く伊紗那に、ちょんまげ少年が柔和な笑みで返した。
「なかなかいい腕だ。名前を聞いておこうか」
「有り難うございます。私、潮招 五十丸(いそまる)と申します」
「覚えておこう」
 高圧的な伊紗那の言い方にも嫌な顔ひとつせず、五十丸というちょんまげ少年は一礼して立ち上がる。そして畳の隅を踏まないように出入り口へと移動し、その後ろに吠乃介が続いた。
「では、お食事がお済みになられた頃にまた参上いたします。もしそれまでに何か御座いましたら、こちらのブザーをお押し下さい」
 言いながら五十丸は、壁近くに置かれているブザーを手で指し示す。薄桃色の台の上に白いボタンがついた、古風で飾り気のない代物だ。電話は置いてないらしい。まぁ、それがあればこんな所には泊まっていないのだが。
「では、どうぞごゆっくり」
 そして出入り口近くで吠乃介と共に一礼すると、五十丸は部屋から出ていった。音も立てずに閉まる扉。木の廊下を踏みしめる足音が徐々に離れていき、やがて外からは何も聞こえなくなった。
 だが今度は内側から、喉を低く震わせる薄ら笑い声と、ずるずると何かを引きずるような音が……。
「この赤出汁味噌汁、なかなか美味いぞ」
「やめて! お願い恐いからやめて! そんな邪悪な顔付きで美味しいとか言うのホント恐いからやめて!」
「落ち着けヘタレ。それよりこの料理、妙だぞ」
 タケノコの刺身を箸で器用に飛ばしながら、伊紗那はゼンマイの赤出汁味噌汁をもう一すすりした。
「な、何……? まさか、毒、とか……?」
 額に張り付いたタケノコの一片を恐る恐る取りながら、神人は声を震わせて聞く。
「それなら一口含んだ時点で分かる」
(どんなお子様なんだよ)
 胸中でツッコミを入れ、神人は刺身を口に運んで伊紗那の前に座った。
「例えばそれだ。タケノコの刺身というのはな、まだ土の中に埋まっている若いタケノコを取り出して、その先端をスライスした物なんだよ」
「へぇ。マメ知識」
 タラノメの天麩羅に皿の隅に盛られた塩を少し付け、それをゆっくりと咀嚼する神人。シャキシャキとした歯応えと、甘くもほろ苦い味覚が絶妙なマッチングを見せている。
「タラノメはタラノキの新しい枝の先端についた芽だ。ただし枝が成長しすぎて、周りのとげが固くなるともう食べられない」
「ほぅほぅ」
 伊紗那が絶賛したゼンマイの赤出汁味噌汁を一口。いつも食べていたクニュクニュとした食感ではなく、タラノメ同様かなりの噛み応えがあり、そこに赤味噌の濃厚な味わいが加わって、とても汁物とは思えない満足感を与えてくれる。
「ゼンマイはな、若い物ほど身がしまっているんだ。だが年を取ると柔らかくなり、そして先の渦巻きは崩れてくる。それはどうだ? 実に綺麗な平面螺旋を描いているだろう?」
「うんうん」
「つまり、だ――」
 間違った持ち方をした箸でこちらを指しながら、伊紗那は猫目を得意げに吊り上がらせた。
「全部新芽なんだよ。それもほぼ最高の状態の。これがどういうことか分かるか?」
「すっげーラッキー」
「有り得ないんだよ。あたし達がここに来て、どの位の時間が経ったというんだ。この量と種類の新芽をあの短時間で集めるなんて不可能だ」
「じゃあウソを言ってるってこと?」
「いや……冷凍していたわけでも、干物を戻したわけでもない。そんなことをしたらこの味と食感は出せない。正真正銘、取ったばかりの山菜だ。あの、潮招五十丸とかいう小僧……一体どうやって」
「小僧って……」
 自分だって小娘じゃないか、という言葉を神人は生唾と共に呑み込んだ。
「……面白い」
 何かが憑依しているとしか思えなかった。
 引き裂かれたかのように薄く開かれた口から漏れる黒い笑み。爛々と邪悪な輝きを灯す双眸。頭の後ろで纏めたお団子から立ち上る漆黒のオーラ。
「あの五十丸とかいう小僧、あたしと同じ匂いがする」
 まるで飢えた肉食獣の目の前に、血の滴る極厚の肉を置いたかのように。大好物な何かに舌なめずりする伊紗那の残像が、神人の視界にはハッキリと映っていた。

 次の日。
 窓の外は見事なまでの暴風雨だった。
 低く唸り声を上げる爆風。窓を壊さんばかりに叩き付ける大雨。視界を皆無にまで押し狭める濃霧。そして遠くの方で轟音を撒き散らす雷。
「えぇー……?」
 窓の前でがっくりと肩を落としながら、神人は大きく息を付いた。こんな中、外に出て電波の届く場所を探すなど自殺行為だ。体ごと吹き飛ばされかねない。
 昨日はあんなに良い天気だったのに。寝る時までそんな予兆など微塵もなかったのに。朝起きてみたらご覧の有様。

【当旅館に泊まられたお客様において、宿泊期間内に何が起ころうとも、当旅館は一切の責任を負わないものと致します】

 不吉な約隷が神人の頭の中で蘇る。
(まさか……ここからが悲劇の始まり……?)

 ――人里離れた山奥の旅館。

    ――道に迷い辿り着いた男女。

       しかしそこには一切の通信手段がなく――

            ――悪天候により完全に外界と隔離されてしまったのだった。

「ちょおおぉぉぉっとなに!? 何この使い古されたミステリーの煽り文句みたいなの! いやあぁぁぁぁぁ! 何がどーなってんのおおおおぉぉぉぉぉぉ!」
(おかしいと思ってたんだこんな都合良く旅館があって破格で老舗で三食昼寝付きで冷静に考えてみれば完全にトラップじゃんハトとパンとザルと棒じゃんきっとどこかで誰かがドッキリの仕掛け人ヨロシクふひひとかイヤらしい笑い浮かべながら見てるんだそうさドッキリだこれはドッキリ本当の僕はいつも通り日の当たらないキモオタ部屋で山積みのエロゲと愛おしいフィギュア達に囲まれながら家族全員から生温かい視線を送られて幸せに過ごしてるんだよだからこんな畳と襖の古風な部屋に閉じ込められて窓の外で吹き荒れる風にガタガタカダカダと怯えさせられるような何コノ我慢大会みたいな目に遭っているはずがないんだほらさっきからガタガタって音がだんだんだんだん大きくなってまるで部屋全体が悲鳴でも上げているような軋み音を――)
「ってちょおおおおぉぉぉおぉッとおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ! 伊紗那さん!? 伊紗那様!? やめて! 窓開けるなんてやめてえええぇぇぇぇぇ!」
「だめだ。開かない。はめ殺しになってるみたいだな」
 窓を強引に開けようとする伊紗那を後ろから必死に羽交い締め、神人は血走った両目で懇願の意を表明した。
「ねぇどうしよう伊紗那ちゃん……僕達閉じ込められちゃったよぉ……きっとこれから食べられるんだぁ……」
「落ち着けヘタレ。こんな天気どうせ一時的なものだ。山の天候が変わりやすいのは平地で吹いている風が上昇気流になって、下の水蒸気を上まで運んでくるからだ。これだけの大雨で吐き出せば、すぐに落ち着くさ」
 猫目を細めて窓の外を見ながら、伊紗那は嘲るような声で言った。
「……じゃあ、あと一分以内で?」
「いくらなんでもそれは無理だろ。しかしま、一時間もあれば十分だ」
「それが、さ……。あの……もうすぐ……」
「おはよう御座います。雨虎様、川蝉様。出発のお時間になってもいらっしゃらないので、失礼ながら様子を拝見に上がりました。どうかなさいましたか?」
 歯切れ悪くぼそぼそと言う神人の後ろで、滑舌の良い幼声が響いた。
「五十丸か。生憎とこの天気でね。もう少しだけ待って欲しい」
「いや、しかし。昨日、宿泊名簿にご署名時にもご説明いたしましたが、明朝九時のご出立ということでご了承頂いております」
「固いことを言うな。あと一時間程でいい」
「では宿泊期間の延長ということで、よろしいですか?」
「チッ。融通の利かん奴だ」
 あくまでも温和に言ってくる五十丸に、伊紗那は舌打ちして神人の方に顔を向ける。
「神にぃ。払ってくれ」
 そして投げやりな声で続けた。
「いや、それが……」
「何だ? まぁ払いたくない気持ちも分かるが、ここはしょうがない。さすがにこの天気では外に出られんからな」
「無い、んだ……」
 まくし立てるように言ってくる伊紗那に、神人は彼女から目を逸らして呟く。
「何?」
「もぅ、無いんだよ、お金ぇ……。二人分であともう一万円なんて、持ってないんだよぉ……」
 そう。そうなのだ。まだ大学生の身の神人がそんな大金を持ち歩いているわけはない。
 だがそれでもキャンプに来るということで、いつもよりは多めに持ち歩いていた。二万五千円くらいは財布に詰めたはずだった。だから二日目の宿代を払うことも可能だった。
 しかし、今の神人の財布にはなぜか五千円しか入っていない。今朝、確認して初めて発覚したのだ。
 昨日、宿代を払った時には確かにもう一枚一万円札があったはずなのに……。一体どうして……。
(僕が財布を手放したのは……)
 入浴中。
 その時しかない。あとはずっと肌身離さず持っていたし、就寝中に誰か部屋に入ってきたのだとすれば伊紗那なら間違いなく気付くはず。
(コイツら……)
 無垢な表情で営業スマイルを向けてくる五十丸。その後ろで従者のように従っている野性の極道、吠乃介。この二人のどちらかが脱衣場に忍び込んで、神人の財布から一万円を抜き取った。 
 それしか考えられない。
(けど証拠がない……)
 口で言っても水掛け論になるだけ。泥沼なのは目に見えている。
「神にぃ……。本当なのか?」
 それよりも現実を見ろ。確かに一万円はない。だが五千円はある。
 そう。一人分の宿泊料金なら残っている。
「取り合えず、この子の分を払います」
 伊紗那は言っていた。あと一時間もすればこの暴風雨は収まると。
「神にぃは……?」
「僕は、大自然と語り合ってくるよ。思う存分」
 ならその間、自分が外で待っていればいいんだ。その一時間を凌ぎきれば、何事もなかったかのように下山できる。
(伊紗那ちゃんを信じる!)
「いやぁ素晴らしい。この五十丸、不覚にも心を動かされましたよ」
 神人の決意に合わせるようにして、五十丸はちょんまげを揺らして頷いた。
「ではこうしましょう。どうやらお一人分はお支払い可能なようですから、それを前金として不足金に関してはまた後日、日を改めて支払っていただくということで。勿論、その時は免許証か何か、失って困る物を預けて頂きますが。ない場合はどちらか片方がここに残るということでも結構です。何だか人質のようで誠に恐縮ですが」
 そして流れるような言葉運びで続ける。
「え……? いいんですか? それで?」
 突然舞い降りた妥協案に、神人は拍子抜けの表情で声を裏返しながら返した。
 取れるだけ取る腹づもりなのかも知れないが、今はここにいられるだけでも有り難い。
「はい、構いません」
「いや、でも……ここのオーナーさんとかに相談した方が……」
 いくらしっかりしているとはいえ、この子供にそこまでの決定権があるとは思えない。
「ああ、その点はご心配なさらずに。私が当旅館の当主ですから」
「へ……?」
 間髪入れずに言い切った五十丸に、神人は口を半開きにして素っ頓狂な声を上げる。
「申し遅れました。私、この死を招き旅館の現当主を務めさせていただいております、潮招五十丸で御座います。大変短い間では御座いますが、どうぞお見知り置きを」
 両腕を真っ直ぐに伸ばした気を付けの姿勢から、上体をきっちり45度倒して頭を下げ、そのまま二、三秒静止した後に顔を上げる。まさに見本とでも言うべき、理想的なお辞儀だ。
(当、主……?)
 五十丸の口から出た言葉を胸中で反芻し、神人はずり落ちそうになるメガネを戻して少年を見つめた。
(どういうことなんだ? こんな小さな子が当主? 旅館のオーナー? 最高責任者? CEO? ChottoちょっとEcchi_naエッチなOneesanおねえさん? 女の子? いや男の娘? いやいや両性具有という可能性も。だとすれば人魚の生まれ変わり? そうか人魚か。だったら仕方ないな)
「うーん、納得」
「他の従業員は?」
 大きく頷く神人の隣で、伊紗那が険しい顔付きで言葉を被せる。
「当旅館の従業員は私と吠乃介の二名のみです。ご覧の通り流行らない旅館でして。人を雇う余裕などないのですよ」
「山菜以外の食材の仕入れ、老朽化した建造部の補修、消耗品の買い足し、宣伝費用、こういった経理関係のことも全てお前がやっていると?」
「左様で」
「大したものだな」
「恐れ入ります」
 若干苛立ちにも似た感情を孕ませながら、伊紗那はまくし立てるように言った。
(伊紗那ちゃん……何をそんなムキになっ――)

 ――あたしと同じ匂いがする。

 昨日、伊紗那が食事中に漏らした言葉。
 伊紗那と同じ匂い。同種の人間。
(天才……?)
 外見からは想像も出来ない、知識量と行動力の持ち主。
 その恵まれすぎた才気故に、周囲から疎まれ、妬まれ、蔑まれ、いつも一人ぼっちで……。
「では、どうぞごゆっくり。一刻でも早く天候が回復することを願っておりますよ」
 笑顔で言って五十丸はまた丁寧にお辞儀すると、ちょんまげをピコピコと揺らして部屋を出て行った。
「前金、よろしいでしようか」
 一呼吸置き、吠乃介が神人の前に出てひざまずき、両手を揃えて持ち上げる。ここに金を置け、ということなんだろう。
「あ、あぁ、はい……」
 いまいち状況が把握できないまま、神人は催促された通りに五千円札を吠乃介に渡す。
「簡単にでわありますが、ご朝食おご用意いたします。十分後くらいに、一階の広間までおこしくださいませ」
 早口で言い終えると吠乃介は立ち上がり、五十丸の後に続く。そして神人の視界に、彼が着ているはっぴの背中が映り――
「あの……!」
 殆ど無意識に神人は声を掛けていた。
「……何か?」
「その……この旅館の名前……死を招き旅館、って……。何で、そんな名前……?」
「さて……」
 聞かれた吠乃介は何か考え込むように中空へと鋭い視線を投げ出し、
「私も詳しくわ存じませんが。当初わ潮招旅館だったのお、泊まり客の誰かが不幸に見舞われて以来、今のように呼ばれるようになつたとか。いやはや、悪い噂というのわ広がるのが早い早い」
 まるで他人事のように軽い口調で言い、吠乃介はぺちぺちと自分のスキンヘッドを叩きながら扉の向こうに消えていった。
「ど、どどどどどドドドドどうしよう伊紗那ちゃん! やっぱりここヤバイよ! ヤバイヤバイヤバイいいいぃぃぃ! 不幸だって不幸うぅぅぅぅ! やっぱり死んだのかな! 誰か死んじゃったのかなあぁぁあ!?」
「落ち着けヘタレ」
 吠乃介が出ていった扉を軽蔑するような視線で見ながら、伊紗那は落ち着いた口調で言う。
「そんなわけがあるか。ホラーテイストを混ぜるにしても、もう少しリアリティを持たせるべきだな。客の広めた噂で旅館の名前が変わる? 愚にも付かない三文芝居だ。人を馬鹿にするにも程がある。あのジジイは典型的な凡夫だ。年相応だな。五十丸が当主だというのにも合点がいく」
 なぜか得意顔で言葉を次々と繋げていく伊紗那。五十丸と喋っていた時の険悪さはどこにもなく、余裕を持って人を見下すいつもの伊紗那の姿がそこにあった。
(同じ匂い……)
 同族嫌悪というやつなのだろうか? 平々凡々な自分にはよく分からない心境だが……。
(ま、とにかく。伊紗那ちゃんの機嫌が治ったみたいでよかったよかった。うんうん)
「いやー、にしても朝ご飯も用意してくれるみたいでよかったねー。あのお爺さんの作った料理美味しいもんねー。外で待ってたら、僕ありつけなかったよー」
 はっはっはー、と意味もなく胸を張って陽気に言う神人。が、突然着ている浴衣の帯が外れたかと思うと、鞭のようなしなりを利かせて顔面に飛来した。
「な、何するんだよぉ……」
「チッ」
 大きく舌打ちしてつまらそうに帯を放り出すと、伊紗那は一人で部屋を出ていってしまった。
(あ、あのー、伊紗那さん? どうして……そんな急に不機嫌なんですか……?)
「ま、待ってよぉー」
 そしてやはり状況が把握できぬまま、神人は浴衣を着直しながら伊紗那を追ったのだった。

 白熱灯の淡い光が落とす濃い陰影。黒光りする年代物の柱は異様な存在感を持ち、まるで神人達を監視するかのように高い位置から見下ろしている。ぎしぎしと軋む床は地中からの慟哭のようで、時折響く雷鳴音は天が灼烈し怒号を上げているようですらあった。
「部屋に戻ろうよぉー……怒られるよぉー……」
「客が旅館を歩き回って何が悪いというのだ」
 何度目かの玄関口。誰も居ないカウンター。
 まだ昼前だというのに、すでに夕暮れような薄暗さに包まれているのは、何も頼りない光源だけが理由ではない。
「何だこれは。牢獄じゃあるまいし」
 恐ろしい言葉で比喩する伊紗那だが、あながちその例えも間違いではない。むしろ的を射た表現というべきかも知れない。
「ないぞ。どこにもない。どこも開いてない!」
 苛立ちを隠そうともせず、伊紗那は声を張り上げて不平をばらまく。そのたびに、子供用ではあるが大きめのサイズの浴衣の袖がピンピンと跳ねた。
「しょ、しょうがないよ。だって外がこんなだもん。建物が古いんだから、このくらいはしないと……」
「過ぎたるは及ばざるが如しよ。一時的な悪天候で、ここまで分厚く板打ちする奴がどこにいる。たった二人で、これを外すのにどれだけの手間と労力がかかると思っているんだ」
「それは、まぁ……」
 さほど広くはない旅館の中を何往復もしながら、外の様子を知ることのできる場所を探しているのだが、驚いたことに未だ一つも見あたらない。
 窓は勿論のこと玄関口まで、内側から何枚もの板が打ち付けられて、激しい風雨への対策が講じられている。
「外敵から身を守るというよりは、捕獲した獲物を外に出さないための代物と解釈した方がしっくりくるぞ。この念の入った有様では」
 廊下や広間、そして他の客室の一つ一つに至るまで。窓には厳重な補強板が施され、軽々しくは外れないように強く固定されていた。
「大人しく部屋で待ってようよー。あそこなら窓があるし……」
「あとまだ行ってないのは……」
 不安げに声を震わせる神人をよそに、伊紗那は猫目を上の方でくるくると動かし、
「調理スペースと、五十丸達が寝泊まりしている所くらい、か……」
 呟きながら半眼になった。
「ちょ、チョーっと伊紗那さん!? 本気!? マジ本気スか!? 本気ホンキほんき!?」
「本気は基本? なんだ。珍しく意見が合うじゃないか」
「ちょおおおぉぉぉおぉっとォッ! そうじゃなくてええエエェェェェ!」
「なら神にぃは一人で部屋に戻っていればいい」
「ダメだよ。伊紗那ちゃん」
 どこか投げヤリな伊紗那の言葉に、神人は珍しく表情を引き締めて伊紗那の前に立ちふさがる。
「伊紗那ちゃん。何でも限度ってものがある。やって良いことと悪いことがある。君はまだ幼いからその線引きができていない」
「ほぅ、なら神にぃにはできていると?」
「そうは思わない。けど少なくとも、今の伊紗那ちゃんよりはできている自信はある」
「その根拠は」
「根拠はない。けどこれ以上の行動はやりすぎだよ。僕の常識がそういってる」
「常識というのは時代と共にうつろう実に曖昧な基準だ。神にぃの考えているような絶対的判断材料にはなりえない。まして今は分刻みでその常識とやらが塗り替えられているといってもいい状況だ。警戒心が薄すぎるんだよ、神にぃは。現状を客観的に見てみろ」
「外と連絡が取れない、外に出ることもできない、天候が回復する様子もない、お金もない、情報もない」
「そう。ついでに言うなら、あたし達と同じ境遇の人もいない、だから助け合うこともできない。この旅館の構造も正確には把握していない、だから地の利もない。本当に相手が二人かの保証もない。食事にいつ毒を盛られてもおかしくない、風呂で溺れさせられてもおかしくない、寝ている間にサックリやられてもおかしくない。どうだ?」
「厨房はどこだ!?」
「後ろだよ」
「へ……?」
 言われて肩越しに振り返ると、二枚のガラス戸が門番のようにして立ちふさがっていた。
 どうやら伊紗那の気迫に圧されて、無意識に後ずさりしていたようだ。
「張り紙……?」
 下の方の木枠は黒く変色しており、年代物の風格を醸し出しているガラス木戸の真ん中辺り。茶色くくすんだ紙に、相変わらず達筆なポップ体でこう書かれていた。

【なかに はいった ぜったい でれません】

「な……」
 またもや不吉過ぎる文字の羅列に、神人は目元を痙攣させながらガラス木戸から離れる。
「張り紙?」
 そして入れ替わるようにして伊紗那が戸の前に立った。
「妙だな。昨日来た時にはこんな物なかったのに……」
「じゃあいつから……ってぇ!? 昨日来たの!? イツぅ!? いつの間にィ!?」
「神にぃが寝入った後だ。どうしてもあの食材のことが気になってな」
「で、でも……明かり、とかは……」
「あたしは天才だからな。夜目が利く」
(天才関係ないじゃん……)
 まだ猫目だからといってくれた方が説得力があるようなないような……。
「まぁいい。下らない脅しだ」
 伊紗那は強気に言って張り紙を破り捨てると、無遠慮に木戸を開けて真っ暗な厨房へと足を踏み入れた。
「ちょぁあッ!? い、伊紗那さーん……!」
 破り捨てられた張り紙を慌てて拾い上げ、伊紗那に続く神人。
 中は真っ暗だった。廊下からの弱い光では、せいぜい入口辺りを照らすのが精一杯だ。水の音や機械のモーター音が闇の中から聞こえてくるだけで、どこに何があるのかさっぱり分からない。
(こ、恐いよぉ……)
 どれだけ目を凝らしても見えるはずもない辺りを、それでも何とか見通そうとキョロキョロし、神人は後ろ手に木戸は閉めようとして――
(い、いかん……!)
 左手に持った張り紙の内容を思い出し、慌てて手を止めて――
「これでド近眼にも見えるだろう」
「どぅわあああぁぁあぁぁ!?」
 突然明るくなったと同時に、背後からピシャーン! という小気味良い音が響いた。
「あ……」
 僅かな空白。
「ああああぁあぁぁ阿亜吾亞蛙アァァアァぁぁぁぉぁぁおあぬぁぁぁぁめあ!?」
 そして弾かれたように叫び声を上げ、木戸を再び開けようとする。が、
「あ、開かない! 開かないよぉ!? 伊紗那ちゃん!? 伊紗那さん!? 本当に開きませんのことよぉ!?」
「落ち着けヘタレ」
 何とか強引にこじ開けようとする神人の横に立ち、伊紗那は木戸を前後に揺らし始める。
「腕のいい職人が削った木というのはな、その表面が超精密平面というマイクロ、あるいはナノレベルの凹凸しかない極めて平らな面になるんだよ。そして超精密平面同士が強い力で合わさってしまったら、ちょっとやそっとでは離れなくなる。科学の実験でやったことはないか? 二つの半球体同士を繋げて閉鎖空間を作り、その中を真空にすると人力では離れなくなるだろう? あれと同じ原理だ。しかしまぁ削った直後ならともかく、月日を経て水気を吸った木は当然凹凸が大きくなる。だから接触面に対して直角の方向に振動を加えてやれば、そのうち――」
 伊紗那の解説が終わろうとした直前、シュッという空気が入るような音がして、一瞬木戸が浮いたように見えた。
「ほらこの通り」
 そして伊紗那が軽く力を入れただけで、戸は何の抵抗もなく横にスライドした。
「まったく気を付けろよ神にぃ。無闇にその辺の物に触るな」
「ご、ごめんよー……」
 お団子に纏めた髪を揺らしながら厨房の奥へと行く伊紗那の背中に、神人は腰を低くして頭を下げ――
「――って! 伊紗那ちゃんが急に電気付けるから!」
「おい見ろ。また張り紙だ」
 当然のように苦言を無視される。
「これも昨日はなかったぞ」
 伊紗那が立っている前。業務用の大きな冷蔵庫には、その観音開きの扉を封印するかのようにまた茶色くくすんだ紙が貼られていた。

【ひらと とおり ではならい】

「何……? これ……」
 今度はさっきのと違い、一見しただけでは意味が分からない。
 大きなステンレス製の台に触れないようにしながら、神人は伊紗那の隣りに立って紙を見た。
「平戸 通り では習い……? 平戸っていう通りがあるのかな……? そこで何かを習うってこと……?」
 よく分からない。
(いや、まてよ……)
 これもさっきと同じく、何かの警告文だとしたら……。
(ひらと……ひら、と……ひらくと、“開くと”? とおり……“この、とおり”……? ではならい……では、ならい……ではさよーならい……ではさよーならぃ……)
「分かったぁ! “開くとほーらこの通り ではサヨーナラー”だから、この扉は絶対に開けちゃダメってことなんじゃ――」
「ふんっ!」
「ってぅうぉえええぇぇぇぇぇぇええぇえええぇぇ!?」
 ためらいなく張り紙ごと冷蔵庫を開け放った伊紗那に、眼球がメガネを突き破って飛び出たような衝撃に神人は駆られた。
 中から溢れ出てくる冷気。薄暗い白熱灯の元に晒されたのは、袋に小分けにされた――
「血塗れの臓物に豚の礫死体、あとは首のない鳥、か……」
「牛レバーにポークミンチ! 七面鳥の薫製でしょ! 恐い言い方しないで! お願いだからなまら恐い表現やんめてちょうだい!」
「冷凍食材を緩慢解凍中といったところだな。ゆっくり解凍すれば細胞膜からの水分流出も少なくなり、風味は元より衛生的にも良い状態で肉がさばけるからな。面倒だが、こういう細かい気配りができる料理人は腕もいい」
 感心したように言いながら、伊紗那はうんうんと頷き、
(料、理……?)
「ヤバ……!」
 神人は伊紗那を抱き上げて大慌てで引き返すと、厨房の電気を消して外へ出――
『なぁ爺……。これでい……? 本……いい…か?』
『……今更。臆びょ…………吹……』
 遠くの方から誰かの声が聞こえてきた。
(遅かった……!)
 当然、五十丸と吠乃介だ。
 昼食の準備に来たんだ。ここに来るのが昼前だったから、今はもう昼すぎ。いつ二人が足を運んでもおかしくない。
(隠れる場所……! どこか隠れる場所……!)
『……爺さん。これ……間違…ら…………だろ?』
『大じょ…夫、そう…らな……うに最後は………する』
(ヤバイヤバイヤバイ! どんどん近付いてくる!)
「何をコソコソしている神にぃ」
(何って! 何ってぇ! ナニってえぇぇぇ! ナニしてえぇぇぇ!)
「落ち着け童貞」
『……かしつて……誰も信じんだろ』
『ワシの…がたこそが証拠だ』
(もう無理もう無理もう無理いぃぃぃぃぃ! 生まれルウうぅぅぅぅ!)
『待て』
(あああぁぁぁああぁあ!?)
『どうやらお取り込み中らしい』
(オおおぉおぉぉぉぉワタぁ……!)
『戻るぞ』
(……え?)
 声はそれだけ残すと、床を踏みしめる軋み音を遠ざけていった。
 しばしの静寂。何も聞こえない。
 声、足音、気配。全て跡形もなく消え去ってしまった。
「ど、どゆこと……?」
「入口の張り紙がなくなっているんだ。一目瞭然だろう」
「ってああああぁぁァァァァアぁぁあああぁあぁ!」
 いつの間にか握りつぶしていた張り紙を元通りに開き直し、神人は両手をわななかせながら文字に目を這わす。

【なかに はいった ぜったい でれません】

「バレた! バレちゃったよぉ! 早く! 早く出ないと! 今度こそ本当に閉じ込められるうううぅぅぅう!」
「落ち着けヘタレ」
 伊紗那はわずかに喜色を混ぜた声で言うと、神人の腕の中から抜け出す。そして彼が持っている張り紙を取り上げると、厨房の電気を付け直した。
「何だか色々と面白いことになってきた。これがこの旅館なりの歓迎式というやつらしい」
 それは戦闘体勢に入った猫、というよりは豹を彷彿とさせた。
 鋭い猫目は炯々と輝き、桃色の口元は乳歯を覗かせて吊り上がり、少し乱れたお団子は遊び毛を髭の如く撒き散らす。
「招待された以上は受けねばなぁ? 神人」
「は、はひ……」
 何か最初と目的が大幅にずれてきている気が全身をまんべんなく駆けめぐるが、とてもそんなことを口にできない神人だった。








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