死を招き旅館へようこそっ

第二話『ひとりぼっちは食べ物です』



【なかに はいった ぜったい でれません】

「まずはこれだ」
 二階の一番奥にある、自分達の宿泊部屋。
 厨房から引き返してきた神人と伊紗那は座敷机に肘を突き、謎の暗号が書かれた紙に目を落としていた。
「妙だと思わないか?」
 年代物の湯飲みで白湯を飲みながら、伊紗那は紙の端を指でトントンと小突く。
「全部ひらがなってこと?」
 腕組みし、眉間に皺を寄せて神人は眼鏡の位置を直した。
「それもある。だが他に何か違和感を覚えないか?」
「違和感……」
 言われて神人は紙に顔を近付ける。
 そこには流れるようなポップ体で書かれた丁寧な文字群。紙は見た目古そうなのに、四辺はパリッとしていて時代を感じさせない。それはあたかも、生まれた時から紫外線対策をし続けてきたような老婆を彷彿とさせて――
「分かった! 死んだおばあちゃんの遺言なんだよこれは! 確かに遺言書があんな場所に貼られているなんて違和感ありまく――」
「それが神にぃの遺言、と」
「目がぁ! 目があああぁぁぁぁぁあ!」
 眼球に直撃した伊紗那の髪留めに、神人は絶叫を上げながらもんどり打つ。
「最近の若者ではおかしいとも感じんようだな。嘆かわしいことだ」
「……ねぇ、伊紗那ちゃん。どうやったら眼鏡の上から当てられるの?」
「『ら』抜きだよ。『ら』抜き表現というやつだ。“でれません”じゃない。“でられません”が正解だ」
「……ねぇ、伊紗那ちゃん。今正面から打ってたよね。物理的におかしいよね」
「もっと言うなら、“はいった”も“はいったら”の方が分かり易い。『中に入ったら絶対出られません』。どうだ? 聞き取りやすいだろう?」
「……ねぇ、伊紗那ちゃん。なんで両目が痛いんだろう。髪留め一つしかないはずだよね? ありえないよね?」
「それをふまえて二つ目の紙を見てみろ。冷蔵庫に貼ってあったやつだ」
 会話の成立すら許してくれない伊紗那に諦め、神人は座敷机に置いてあるもう一枚の紙を引き寄せた。
「何て書いてある」
「涙でかすんで見えません」
「塩水と熱湯、どっちの屈折率が好みだ?」
「【ひらと とおり ではならい】と書かれてあります」
 湯飲みを握り直した伊紗那に、神人は紙に書かれた文字をすらすらと読み上げた。
「じゃあそれを『ら』抜きで読んでみろ」
「『ら』抜きで……?」
 この文字列から『ら』を抜くと……。
「【ひと とおり ではない】……『一通りではない』?」
「そう」
 いつの間にか手に持っていた髪留めでお団子に纏め直しながら、伊紗那は小鼻を鳴らして得意顔で続ける。
「一通りではない。つまり解釈が一種類ではないということだ。最初に神にぃも違和感を覚えたんだろう? 全てひらがなで書かれた文字。中に入ったら絶対に出られない、という意味以外にも捉え方があるということさ。『ここではきものをぬいでください』。聞いたことくらいあるだろう?」
 自分の理論を並べるのが楽しいのか、伊紗那は少し頬を紅潮させて早口にまくし立てた。
「別の意味っ、て……?」
「さぁな。そこまではまだ分からん。だが退屈しのぎにはなるだろう? どうせやることもないんだ」
 白湯を一すすりし、伊紗那は薄く開いた猫目を窓の外にやる。
 そこでは相変わらずの爆風雨劇が繰り広げられていた。伊紗那の予想に反して、この自然界の暴君は、未だその理不尽な猛威を収める気配は無さそうだった。
「退屈しのぎ……」
 神人は伊紗那の言葉を繰り返す。そして机の上に並べられた二枚の紙を交互に見て、
「こんなことして……何の意味があるんだろうね」
「さぁな」
 即答し、伊紗那はテレビもラジオもない簡素な作りの部屋をぐるりと見回す。そして浴衣の入っていた桐箪笥で視線を止め、跳ねるような動きで近付いていった。
「案外、本当に退屈しのぎに付き合ってくれていたりしてな」
 嘲笑を含ませて言い、伊紗那は桐箪笥を開ける。
「お客をもてなす一環ってこと?」
「冗談だ。真に受けるな」
 短く切り捨てたかと思うと、伊紗那は「おっ?」と高い声で呟き、そのまま中に入ってしまった。
「ちょ、ちょっと伊紗那ちゃん……?」
「開けるなよ。開けたらコロス」
 扉越しにくぐもった声が聞こえてくる。続けてガンゴンと何かがぶつかり合うような音が響き、程なくして静寂が訪れた。
「い、伊紗那、さん……?」
 得体の知れない不安に駆られ、神人は立ち上がって桐箪笥に近寄り、
「ブッ!」
 額への鈍痛と共に目の前が白くなった。
「開けたらコロスと言っただろう」
 扉を蹴破って出てきた伊紗那は、浴衣姿ではなく普段着だった。
 黒のチェックブラウス、その上には赤いパーカー。そしてグレーのショートパンツから伸びた細短い足の先には、パンダの刺繍された白い靴下。
「あ、あれ……? その服って……」
「昨日風呂の中で洗ったんだよ。羽織る物はともかく、下着類はさすがに清潔さを保たねばならんからな。で、この中で干していたわけだ」
 腰に手を当てて胸を張り、伊紗那は猫目を細めながら言った。
「下着って……」
 その言葉から連想される映像が神人の脳裏を横切り――
(ってことは今までノーパン……!)
 猛るマグマへと――
「はぁ……」
 一気に潮騒が引いていった。
「……いっくらなんでもお子様じゃぁねぇえええぇぇぇえぇぇぇえぇ!?」
「内の声は内に留めておけ。だからこそ価値がある」
 神人の脇腹に鋭い角度で突きを見舞い、伊紗那は冷めた声で吐き捨てた。
「しかし、なかなか良い乾き具合じゃないか。昨日の今日で。外はこんなにも土砂降りなのになぁ」
「……ま、まぁ、旅館とか……ホテルとかの部屋は……か、乾燥、してるからね……」
「乾燥、ねぇ……」
 掠れた声で言う神人に、伊紗那は面白がるような口調で言葉を被せる。そして視線を流すように動かし、出入り口の方を見据えて、
「ジジイ。この旅館にはNAHAが開発した最新鋭の除湿器でも入っているのか?」
 僅かに低くしたトーンで追及した。
「え……? ジジイ、って……?」
 状況がよく呑み込めず、間の抜けた声で呟く神人。まるでそれに反応するようにして、出入り口が音もなく開いた。
「盗み聞きとは感心しないな」
「昼食のご用意が出来ましたので、お呼びしようとしたところ、中から楽しげなお声が聞こえましたので様子お窺つておりました」
「五十丸はどうした。今日は一人か?」
「なにぶん人手が足りないもので。ご了承いただけると、幸いで御座います」
「次の知恵比べの準備中か?」
「おつしゃつてる意味が分かりかねます」
「ふん。場所は一階の広間か?」
「左様で」
 早口に言い終えると吠乃介は深々と頭を下げ、「お待ちしております」と残して去っていった。
「では行こうじゃないか、神にぃ。もてなしてくれるらしい」
「え? え、ぇ? ちょ、ちょっと待って。僕、完全に置いてけぼり状態なんだけど……」
「今に始まったことじゃないだろ」
「確かに」
 妙に説得力のある言葉で納得させられ、神人は眼鏡の位置を直しながら伊紗那の姿を目で追い――
「あっ待って! 置いてかないでっ! 一人にしないでっ!」
 部屋を出た。


 第二話『ひとりぼっちは食べ物です』


 広間、とは言っても、客間を二周りほど大きくした程度の畳敷きの間。六人掛けの座敷机が二つ並び、奥の壁には『諸行無情』と書かれた掛け軸がかざられている。
 勿論窓はない。正確には古めかしいガラス戸はあるのだが、外側から雨戸でしっかりと塞がれている。
 白熱灯の生み出す頼りない光の元、神人と伊紗那は口数少なく箸を進めていた。
「ね、ねぇ、伊紗那ちゃん……。相変わらず美味しいよねぇ、このご飯。え、栄養バランスも考えられてるみたいだしさ」
 神人は少し震えた声で言いながら、分厚い鮭の切り身を口に運ぶ。
「あ、雨やまないなー。早く帰りたいよねー、みんなの所に。心配してるだろーしさ。へたしたら警察とかに連絡が行ってたりして」
 山菜の天麩羅丼を箸ですくうが、途中で丼の中に落としてしまう。
「そ、そう言えば、あの冷蔵庫にあった肉って出てないよねー。ひょっとして今晩のおかずだったりするのかなー」
「考えろ」
 今まで独り言のように神人の言葉だけが響いていたが、初めて伊紗那が反応した。
「……え?」
「神にぃも考えろ。あの暗号の意味を。あれを解かなければ、あたし達はここから出られない」
「ぇ……えぇ?」
 いつになく真剣な表情で喋る伊紗那に、神人は震えが全身に伝播していくのをはっきりと感じ取った。
「こ、恐いこと言わないでよ……。ま、まぁーたまたぁ。伊紗那ちゃんだって言ってたじゃないかー。山の天候は変わりやすいけど、戻るのも早いって。今はゴロゴロバシャバシャいってるけど、すぐに晴れるんでしょ?」
「そう思うか?」
 木綿の冷や奴を器用に小分けして食べながら、伊紗那は目を合わせもせずに言った。その言葉終わりに合わせるようにして雷鳴が轟く。
「どうもこの旅館の雰囲気がおかしい。常識では考えられないようなことが平気で起こる。あたしの知識がいかに豊富だろうが、人生経験が浅い以上、こういった不測の事態までには対処できない。成る程。これは確かに何が起ころうとも、旅館側は責任を負えないわけだ」
 宿泊約隷を思い出しているのか、伊紗那はなぜか楽しそうに言った。
「で、でもー……。偶然って可能性もー……?」
「神にぃも分かってるんじゃないのか?」
 タケノコの甘辛煮に箸を突き刺し、伊紗那はようやく視線をこちらに向ける。
「雨は今日中にはやまない」
「え、そ、そんなこと……」
「さっき晩ご飯の話をしただろう? 無意識的に今夜もここに泊まることを察している証拠だ。そしてその勘は当たってる」
 断定的な口調で言い切り、伊紗那は山菜丼を一気にかき込んだ。が、すぐにむせて涙目になる。
(雨が止まない……ここから出られない……暗号を解かない、と……? そんな馬鹿な。そんなことが……)
「お食事はお口に合っていますでしょうか?」
 絶望的な思考回路に入り込もうとした時、横手から掛かった幼い声で神人は現実に引き戻された。
「ああ、実に美味だ。が、次からは子供用の食器で出してくれると大変有り難い」
 咳を受け止めた手を畳に擦りつけながら、伊紗那はご飯粒のついた口元をにぃ、と喜色に染める。
「それは気が回らずに失礼しました。ですが申し訳ございません。当旅館には子供用の食器類はご用意してないのです」
 畳に膝を付き、五十丸はちょんまげを揺らしながら頭を下げた。
「そうか。ならいい。ところで五十丸、さっきまでどこにいた?」
「客間を掃除して回っておりました」
「客間……ね」
 即答した五十丸に、伊紗那はどこか試すような目線を向ける。そして彼の体を一通り観察し終えた後、脱いでいたパーカーを持って立ち上がった。
「なかなか面白いヒントだ」
「はて? 何のことやら?」
 顔を上げ、惚けた様子で返す五十丸。しかしその表情には愉悦の色がはっきりと見て取れる。そしてそれは伊紗那も同じだった。
「行くぞ神にぃ。手伝ってくれ」
「お粗末様で御座いました」
 また頭を下げる五十丸の横を通り、広間を出ていってしまう伊紗那。
「ぅえ!? ちょ、待って! 待ってよ伊紗那ちゃ――」
「雨虎様」
 慌てて立ち上がり、伊紗那を追おうとする神人に下から声が掛かった。浴衣に足を取られそうになりながらも、何とかその場に踏ん張る。
「え……? 僕……?」
「川蝉様から目を離さないことをお勧めします」
 膝の上で手を揃え、五十丸は口角を引いて持ち上げながら言った。
(え……)
 違和感。
 それは極めて自然な笑みだった。人ができうる最高の笑顔。自然に見えるように作られた不自然な笑い。それだけに子供がやると引っかかりを覚える。幼さが生み出す純心無垢。それら全てを否定する無機質な雰囲気。

 ――あたしと同じ匂いがする。

 伊紗那も同じ……?
(違う)
 伊紗那はこんな風には笑わない。
 もっと好奇心旺盛で、悪意はあるけど純粋で、極めてたちが悪いけど後ろ向きに一生懸命な黒い嘲笑――
「君は、真っ直ぐに育つんだよ?」
「はい?」
 五十丸の小さな肩に手を置き、神人は鼻をすすりながら伊紗那を追った。

(――で)
 神人は今。
(いきなり離れてるんですけど……)
 一人で二階の客間を順番に回っていた。

『五十丸のはっぴから僅かだが土の匂いがした』

 相変わらず誰も居ないロビーの前で、伊紗那は神人に言った。

『この土砂降りの中、外に出たら全身濡れねずみだ。だからどこかにあるんだよ。“中庭”が』

 ――中庭。

【なかに はいった ぜったい でれません】

『一通りではない』

【中庭行った ぜったい でれません】

 伊紗那の中では確信めいた物があったらしい。

『多分、山菜もそこで栽培してるんだ。客間は客間でも山菜専用の客間というわけだな』

 だから二手に分かれて客間をしらみ潰しに探している。
 もし本当にそうなら、昨日あれだけの量と種類の山菜を、どうやって短時間で集められたのかの説明が付く。新芽ばかりだった理由は分からないが、中庭を見付ければそれもおのずと分かるはず。
 興奮気味にまくし立てる伊紗那は、年相応の子供に見えた。やはりどれだけ大人ぶって見せても、自分の好奇心を抑えきれずにいる姿からは、幼さがありありと滲み出ている。どこまでも落ち着き払った五十丸とは全く――
(――って、何でこんなことしてるんだ……?)
 はた、と我に返り、神人は誰もいない客間に腰を下ろして溜息を付いた。
(ちょっと雨宿りできれば良かったのに……)
 それが何か厄介な方向に暴進しすぎているような気がしてならない。
(暗号を解かないと出られないとか……あの時は伊紗那ちゃんの気迫に圧されたけど、冷静に考えたらそんな訳ないじゃん。一体どこのご都合主義推理小説漫画ですかーって話ですよ。そりゃここにコナソでも現れれば死亡フラグビンビンに立ちまくりですけど、密室殺人乱立しまくりですけど、『殺人鬼なんかと一緒にいられるか! 俺は一人で隠れてるからな!』とか言った瞬間、次の日死亡なのは目に見えてますけど、たかが山奥の人気のない怪しい雰囲気出しまくりの老舗旅館でしょう?)
「そんなんじゃ今時キャッチコピーにもならないよー」
 呟きながら立ち上がり、神人は部屋の電気を消して外に出た。 
(まだ見てない部屋もあるけど……もう、いいよね?)
 気持ちが一旦萎えてしまうと、この作業は辛い物がある。いつ五十丸か吠乃介に見付かってもおかしくないという重圧。そこから解放されるのは、神人にとって願ってもないことだった。
(変なことして宿代上乗せされても困るしね……)
 止めることを決断し、神人は一階へと下りる。
 一階の客間を回っている伊紗那と合流するためだ。さすがに大声で呼ぶなどという真似はできないが、出入り口付近にスリッパがあるかどうかを確認すればいいだけだから、楽と言えば楽だ。
 階段を下りてすぐにある手前側の部屋から、浴場近くにある奥の方まで。左右両側に部屋が続いているとはいえ、大した数ではない。それに少し中を見て次に行けばいいだけだから、作業としては五分もあれば終わる。
 五分かけて全部の部屋を確認すれば、すぐに伊紗那と出会えるはず……。
(だったんだけどなぁ……)
 なかった。
 伊紗那の履いていた、旅館のスリッパがどの部屋にも。
(……ああ、そうか)
 大胆かつ用心深い彼女のことだ。きっとすぐに見付からないように、スリッパを持って部屋の中を探しているんだろう。
 となると結局二階でやっていたことをまた繰り返さなければならなくなる。
(しょうがないなぁ……)
 はぁ、と大きく溜息をつき、神人は最初から部屋を回り始めた。あるかどうかも分からない、ちょんまげか極道の視線にビクビクしながら、神人は三十分以上もかけて一階の部屋を調べ終えた。
 だが伊紗那は見あたらない。
(なんで……)
 確かに彼女は一階を探すと言っていたはずなのに。
 一瞬、神人の脳裏に嫌な予感が明滅する。
(あ……)
 が、次の瞬間、多大な脱力感と共に思い当たった。
(すれ、違い……?)
 自分が部屋の中を探している間に、伊紗那は全てを周り終えて二階に戻ってしまったのではないか? 二階一番奥の自分達の宿泊部屋に。
(えぇー……?)
 こんなことなら最初から二階で待っていれば良かった。あるいは真面目に探し続けていれば、伊紗那の方から来てくれたかもしれない。
(何してんのよ、僕……ホントに……)
 間の悪さを嘆きながら、二階へと重い脚を運ぶ神人。きっと部屋に入った瞬間ケリかコブシ、あるいは鈍器か凶器か拷問器、はたまた自分では想像もできない何かに襲われることは間違いない。直感――いや本能――いや経験――いや常識がそう告げている。
「はぁ……」
 肩と共にずり落ちる眼鏡をなおそうともせずに、神人は木の廊下を軋ませながら二階奥へと進む。
(まぁ、別に今に始まったことじゃないんだけどさ……)
 間の悪さ。理解の遅さ。勘の鈍さ。
 どれを取っても伊紗那には到底かなわない。
 それを最初に痛感したのは、生まれて間もない伊紗那を初めて抱きかかえた十二の夏だった。
 叔母の手から自分の腕の中に収まってしばらく。少し前まで不機嫌そうにしていた伊紗那が急に楽しそうな表情になった。周りからは、あやすの上手ねーと褒められた。自分でも意外な才能がと驚いていた。
 しかし、一瞬だけ伊紗那の声が止んだ……ような気がした。そして次の瞬間、僅かに伊紗那の重みが増した……気がした。更に次の瞬間、意識が白くなった。危うく伊紗那を落としそうになったところで視界が戻った。
 その時は何が起こったのか分からなかった。いや、分かりうるはずもなかった。
 だってしょうがないだろう。
 まさかゼロ歳児に首の椎骨動脈を圧迫されて、脳が酸素欠乏症に陥りかけているなんて、一体誰が想像できようか。
 そのことに気付くまでの約五年間。
 数々の臨死体験を始め、無数の恐怖体験や絶望体験を強いられてきた。
 コップ一杯の水でも溺死しうること。階段二段分の高さがあれば転落死できること。昨日までの親友が今日の殺人鬼になりうること。人の顔がこの世で最も不気味な造形だということ。
 毎週月曜日の午後九時頃に起こる身の回りの怪奇現象が、人為的な物だともう少し早く気付いていれば、自分はもっと幸せな人生を送ることができたのは間違いない。
 しかし全てが遅すぎた。
 伊紗那が自分のことを奇跡のバカモルモットだと認識するには十分すぎるほどの時間が流れていたのだ。
 今思えば、伊紗那は最初から直感していたのだろう。
 あの、縄なし首吊り自殺に見せかけた完全犯罪を遂行した時から。
 ゼロ歳児の時から。
 こいつなら大丈夫だろうと。
 多少、じゃれたムチャしたところで、簡単には怒らないコワレないだろうと。
 出会った時から主従関係は決まっていたのだ。
 そうとは意識しない間に深層心理ごと絡め取られ、いつの間にか伊紗那の手中。
 この九年間、何度も何度も確認してきた。それこそ数えるのが楽しくなってくるほど、何度も何度も何度も。
(だから今回も……! またデカいのがくる……!)
 覚悟は決まった。
 好きにするがいい。
(行くぞぅ!)
 気合いを入れ直し、神人は宿泊部屋の前に立つ。そしてノブを握る手に力を込め――
「(伊紗那ちゃん……!)」
 心の声で叫びながら、恐る恐る扉を開けた。
「ひぃ!」
 室内の明かりが目に飛び込んできた瞬間、反射的に身を守る神人。刹那、甚大な殺気を纏い、悪鬼羅刹の形相をした伊紗那が――
「……あれ?」
 衝撃は来ない。意識が朦朧としていくわけでもない。
「へ……?」
 痛みもなく斬られたわけではない。出血はどこにもない。
「なん……で……?」
 呟きながら神人は部屋に足を踏み入れ、
「ぉわ!」
 激しく視界を上下させながら壁に背中を強打した。
「御免なさいごめんなさいゴメンナサイいぃぃぃぃい! 悪気があった訳じゃないんですううううぅぅうう! サボタジュろうとしたわけでもないんですううぅぅううぅぅ! ちょっ小悪魔が差しただけなんですううぅうぅうぅぅぅぅぅ! だから動脈注射だけは勘弁して下さいぃ! 今日は止血剤そんなに持ってないんですううぅぅぅぅ!」
 そして起きあがり土下座の状態で、猛烈に謝罪の意を叫びまくる。
 しばしの沈黙。
 窓の外から相変わらず聞こえる土砂降り音が虚しく響き、雷鳴が三回ほど轟いた後、
「……伊紗那さん?」
 神人は視線だけを持ち上げて前を見た。
 そこには伊紗那が履いていたパンダ柄の靴下が仁王立ちで――
「あれ……?」
 いない。
「伊紗那、ちゃん……?」
 伊紗那の姿はどこにもない。
 ただ一人には広すぎる和室が、がらんと口を開けているだけだ。
「ねぇ、伊紗那ちゃん……?」
 立ち上がり、神人は室内を見て回る。押入や桐箪笥の中、洗面所、トイレもノックしたが返事はない。開けても勿論誰もいない。
 色々と見て回っている間に、さっき激しく転んだのは、自分が一人で敷居に足を引っかけただけだと分かった。よほど気が動転していたのだろう。
「まだ、探してるのかな……」
 壮絶な肩すかしを食らい、神人は後ろ頭を軽く掻きながら座布団の上に腰を下ろした。
(待つか……)
 ここでまた自分が下手に動いてすれ違いになったら馬鹿馬鹿しいことこの上ない。伊紗那が諦めて帰ってきてくれるのを待つのが賢明というものだ。
 電気ポットで湯を沸かし、鈍色に光る急須に茶葉と共に注ぐ。数分待ち、急須を軽く振って年代物の湯飲みに注いだ。立ち上がる湯気が、豊潤な草の香りを運んできてくれる。
「ふぅ……」
 神人は茶を一口含み、ゆっくりと喉を通して一息ついた。
 何か凄く久しぶりに落ち着いた気がする。昨日からずっと伊紗那と一緒にドタバタしてきて、気の休まるヒマが全くなかった。
 どうせ長くはないだろうが、せっかくの機会だ。少しは英気を養わせて貰うことにしよう。この状況はまだしばらく続くだろうから、今の内に心の体力を蓄えておかないと。
「いつ、やんでくれるんだろうね……」
 畳の上にゴロンと横になり、神人は窓の外をぼーっと見つめる。激しい雨が生み出す濃い霧のせいで、山中の風景は殆ど見えない。ぼぅと浮かび上がるようにして存在している樹木もどこか平らげで、遠近感が狂ってしまったような錯覚に陥る。
 腕時計に目をやる。
 午後二時五十分。
 オヤツ時とは思えない薄暗さだ。
(みんな心配してるんだろーなー……)
 家族の顔を一人一人思い浮かべながら神人は目を閉じる。
 家族想いで服従心の強い父。いつも芯が通っていて優しく微笑みながら支配する母。イジメられっ子だということを誇りに思っている底抜けに明るい弟。そんな弟従わせて、毎日悠然と五時間の散歩をこなす飼い犬ユンケル(♀)。
(会いたいなー……)
 そして次の家族を思い浮かべた時、伊紗那の顔が暗い視界を占有した。
(帰ってこないな……)
 ここで待ち始めてどの位の時間が経ったのかは分からない。だが妙に長く感じる。
 心の休息はもう十分で、今すぐに大暴れしたいと思わせてくれるほどに。
「まだ探してるのかな……」
 目を開けて上体だけ起こし、神人は再びその言葉を呟いた。
 眼鏡の位置を直し、軽く伸びをして――
(まだ探している、だって……?)
 自分の発言に寒気を覚える。いや、これは吐き気か。
 何を言ってるんだ。いくら何でも長すぎる。『中庭』とやらを探し初めて二時間近くになるぞ。この狭い旅館を一人で隈無く探したって、そんなに掛からない。
(おかしい)
 何かに突き上げられるようにして神人は立ち上がった。
(おかしい。絶対におかしい)
 早足で出入り口に駆け寄ると、音も気にせず扉を乱暴に開け放つ。
「伊紗那ちゃん!」
 そして何の躊躇いもなく、大声で伊紗那の名前を叫び上げた。
「伊紗那ちゃんどこ!? 伊紗那ちゃん! 伊紗那ちゃん!」
 何度も何度も呼ぶ。こんなにも声が出せたんだと自分で驚くくらいに。
「伊紗那ちゃん! 伊紗那ちゃんどこ!?」
 しかしその驚きもすぐにどうでも良くなるくらいに。何度も何度も。
「伊紗那ちゃん!」
「どうかされましたか?」
 不意に下から声を掛けられ、神人は前に大きくつんのめりながらも足を止めた。
「伊紗那――!」
「川蝉様がどうかなされましたか?」
 そこには伊紗那と似た背格好の、しかし全くの別人が立っていた。
 大きめのはっぴを完璧に着こなし、体の前で手を揃えて柔和な笑みを浮かべている男児。
「い、五十丸さん……」
 自分より遙かに年下であるにも関わらず、神人は何故か自然とその言葉を発していた。
「あ、あの! 伊紗那ちゃん見ませんでしたか!? 僕と一緒にいたこのくらいの女の子で……!」
 自分の腹くらいの高さを手で示しながら、神人は焦りを隠そうともせずに詰め寄った。
「おや、はぐれてしまわれたのですか。困りましたね」
 しかし五十丸は慌てる様子もなく、ちょんまげを触りながら息を吐いた。やや困惑したような表情。しかしそれは計算され尽くした精密な3D画像のようで、本心ではないことを如実に物語っている。
「あれ程目を離さないようにと忠告しておいたのに」
「忠告……」
 ボソリと呟いた五十丸の言葉に、広間でのやり取りが神人の脳裏にフラッシュバックする。
「そういえば、あの時どうしてあんなことを……」
 なぜ伊紗那から目を離さないようになどと釘刺しを。
 小さい子供だから? 迷子になったり怪我をしたりしたら大変だから、ちゃんと気に掛けていなさいよと?
(違う)
 そうじゃない。そんなありふれたニュアンスじゃない。
 あれはそんな平凡な物ではなく、もっと現状に危機感を持てという――
「何が目的なんだ!」 
 気が付けば五十丸の顔が正面にあった。
「どうしてこんなことをしている!」
 彼の肩を掴み、言い寄っているのだと理解したのは二言目を発した後だった。
「伊紗那ちゃんをどこに隠した!」
 頭に血が上る。眼球が一気に乾いていく。
「僕達をどうするつもりだ!」
 耳鳴りがする。喉はカラカラで――
「落ち着いて下さい雨虎様」
 右肩に激痛が走り、神人は低く呻いて五十丸を解放した。
「当旅館内での暴力行為わ、決して許されるものでわございません」
 背後からの声。神人の右腕を後ろに捻り上げ、スキンヘッドの老人が威圧的な視線でこちらを見下ろしていた。
「吠乃介、止めなさい。お客様に失礼だ」
「は」
 五十丸の声にすぐさま反応し、吠乃介は神人を解放する。
「く……」
 痛む右肩を庇うようにして抱え込みながら、神人は二人から距離をとった。
「川蝉様に関しましては私達も全力で探させていただきます。これ以上大切なお客様に失礼を働くわけにはいきませんので」
 五十丸は神妙な顔付きでそれだけ言い残すと、吠乃介を連れて一階廊下奥へと去っていった。
「クソ……!」
 顔を歪ませ、歯ぎしりする神人。
(白々しい。絶対に探す気なんかないクセに! 電話さえ……! 電話さえ繋がれば!)
 浴衣の帯に挟んでおいた携帯を取り出し、神人はディスプレイを凝視する。しかし期待は一瞬で裏切られ、左上には『圏外』の二文字が映し出されていた。
(何か……! 何かないか……!)
 方法。伊紗那を探す方法。伊紗那がどこにいるのかを――
(まさか……!)
 外に出た? 業を煮やして強引に出ていってしまった? この雨の中を……。
(伊紗那ちゃん!)
 すぐそばにある玄関口まで走り、蜂の巣のような棚段になっている靴置き場を確認する。
(ある……)
 猫のマスコットキャラがプリントされた伊紗那の靴は、自分のスニーカーの真上の棚に置かれている。伊紗那はまだこの旅館にいる。
(いやいや待て待て……!)
 靴があるからといって旅館にいるとは限らない。どこかからスリッパでも調達して、裏口から出ていったのかも知れない。靴がなくなってしまってはすぐにバレるから、そうならないためのカムフラージュとして……。
(ああ! 違う違う!)
 どうして伊紗那が外に行くこと前提なんだ。そもそも『中庭』とやらを手分けして探すのが当初の目的だったはず。旅館の中にあるから中庭なんだ。それがどうして外に――
(“中庭”……“一通りではない”……)
 別の解釈がある? 外にある中庭? 伊紗那はそれを見付けて……?
「クソッ……!」
 階段の手すりを拳を打ち付け、神人は声を荒げる。
 考えが纏まらない。沢山の思考が降って湧いてくるが、どれもこれも役に立たない。それどころか混乱と不安が募るばかりだ。自分で自分の首を絞めている。
(とにかく探そう……)
 じっとしててもしょうがない。今は考えるよりも動かなければ。動いていれば解決するかも知れないし、何より気が紛れる。
(無事でいてくれ……)
 次々に雪崩れ込んでくる嫌な思いを振り払うように、神人は足早にその場から離れた。

 結局、伊紗那は見付からなかった。
 あれから三時間。狭い旅館を何度も何度も往復して探し回ったが、伊紗那の姿はどこにもなかった。誰とも出会わなかった。
(僕のせいだ……)
 宿泊部屋で座布団に正座し、神人は焦点の合わない瞳で畳を見つめる。肩は落ち、顔は虚ろげで生気がない。
「僕のせいで……」
 伊紗那がいなくなってしまった。自分が目を離したから。自分が伊紗那の警告を軽く聞き流してしまったから。

 ――あれを解かなければ、あたし達はここから出られない
 ――雨は今日中にはやまない。

 あの時もっと危機感を持っていれば。伊紗那の直感を信じて、この旅館がおかしいのだと認識していれば。こんなことには……。
「伊紗那ちゃん……」
 そう呟いた時、部屋の扉が小さく軋み音を立てた。
「伊紗那ちゃん!?」
 弾かれるように姿勢を戻し、神人は飛ぶ勢いで出入り口まで駆け寄る。
 しかしそこには誰もいなかった。半開きのまま放置された扉が、ただ小さく揺れているだけだった。
「なんだ……」
 別人のように表情を変え、神人は扉を閉め直して部屋に戻――
(え……)
 何か引っかかった。それが何かは分からないが、何かが……。
(何だ……何か変だ……)
 さっき扉を閉めて――ノブに手を掛け――力を軽く入れ――
(鍵……)
 鍵が掛かっていなかった。
 今入ってきた時も、その前も。昼食に呼ばれて部屋を出た時、確かに鍵は掛けておいた。人が寝ている間に財布をあさるような旅館だ。取られて困る物は持ち歩いているが、それでも部屋に鍵を掛けるのは当然のこと。絶対に施錠した。間違いない。
 そしてその鍵は伊紗那が持っている。
(ならどうして開いた……?)
 マスターキー? 勿論あるだろう。自分達がいない間に、五十丸と吠乃介がマスターキーを使って部屋に出入りしたとしても不思議ではない。
 だがもしそうなら、なぜ鍵を閉め直さない? 自分達が昼食から戻って来て、部屋の鍵が開いていれば普通はおかしいと思う。よほど慌てていない限りは。
 彼らがそんな分かり易い証拠を残すとは思えない。
 だから鍵を開けたのはあの二人ではない。
 となると――
(伊紗那ちゃんだ)
 それしか考えられない。伊紗那本人が部屋の鍵を開けた。やはりどこかですれ違ったんだろう。伊紗那の方が先に部屋に戻って来ていた。
 ならどうして今はいないのか。鍵を開けたままどこかに行くとは考えにくい。押入の中も桐箪笥の中も、部屋の中は隅々まで探し尽くした。この部屋だけではなく、全ての部屋を。
 なら残る可能性は――
「『中庭』……」
 見付けたんだ。
 伊紗那は“この部屋で”『中庭』を見付けた。そしてその場所に行って戻れなくなった。
 この旅館は隅々まで探し尽くした。だがそれは伊紗那の姿を追っていただけで、隠し部屋のような物を見付けようとしていたわけではない。
(この部屋のどこかに……!)
 『中庭』が。伊紗那がそこにいる。
 きっと今頃助けが来るのを待っている。いくら天才とは言っても、まだ九才の女の子だ。精神的な部分はまだ幼い。
(早く見付けないと……!)
 一分でも、一秒でも早く。『中庭』への入口を。仕掛けを。
 何だ。何が考えられる。
(押す。動かす。ショックを与える。それから、それから……)
 畳を一枚一枚ひっくり返しながら、神人は頭に思い付く限りの方策を並べ立てる。
「光を当てる。熱をかける。鍵をはめる。あとは、あとは……合い言葉を言う?」
 押入の奥を携帯電話の明かりで照らし、何かスイッチのような物がないか探しながら早口でまくし立てる。
(どこだ。どこにある。『中庭』、『中庭』は……!)
 座敷机の裏を調べ、桐箪笥の中のハンガー一つ一つに目を凝らし、木彫りの熊をマジマジと見つめて――
「……ん?」
 ある部分で目が止まった。
 何か確証があった訳ではない。さっきの鍵と同様、違和感のような物。
(何か、変だぞ……この熊……)
 木彫りの熊。部屋のインテリアとして溶け込んでいる置物。一抱えもある大きな彫刻。
 方々に痛みが見られ、相当な年代物だと思わせられる――
「傷……!」
 閃きと同時に声を上げていた。
「ない! 傷がない!」
 古い傷ではなく、昨日できたばかりの真新しい傷。
 伊紗那が投げ付けた湯飲みが直撃して、額の箇所が少しだけ凹んだはずなのにそれがない。
「違う……この熊は違う……」
 昨日まで部屋にあった木彫りの熊とは違う。
 取り替えた? 新しい物と?
(そんなはずない)
 目立たない傷なんだ。自分で付けた物だと知らなければ絶対に気付かない程の。周りの傷で完全にカムフラージュされてしまうくらいの些細な――
「じゃあ……」
 何だ? これは何だ? どういうことなんだ? なぜ熊の置物が……。
「違う、部屋……?」
 今いる部屋は最初の部屋とは違う?
「は、はいぃ……?」
 何を言っている。自分は今何を考えて何を口にしたんだ? 部屋が違う? もし本当にそうだとして誰が何のために、どうやって……?
(誰が? 当然、あの二人。五十丸と吠乃介だ。それ以外考えられない。じゃあ……)
 何のために?
 旅館中に妙な張り紙をして、謎解きみたいなことさせて、伊紗那を隠して――
(分からない)
 どうやって?
 部屋ごと変えるなんてまね。ここは確かに自分達の宿泊部屋だ。二階の一番奥にある、最初に通された部屋。
(分からない)
 分からない分からない分からない。何も、何も何も何も何も!
「なーんにも分かりませんッ!」
 叫んで立ち上がり、神人は部屋を飛び出す。そして階段に向かって全力疾走した。
(もうヤダ! ヤダヤダヤダヤダ! こんなの僕一人じゃどうしようもないよ! 雨とか関係ない! 雷とか関係ない! とにかく外に出る! 出て助けを呼ぶ! 警察とか消防とか自衛隊とかFBIとか連合国軍とか連れてきてこの旅館をブッ潰す! それで伊紗那ちゃんを見付ける! これだ! もーこれしかない! そうと決まったらとっとと玄関口ブチ破って外に……! ってあれ?)
 階段が遠い。まだ着かない。
(おかしいな。ここの廊下ってそんなに長かったっけ)
 もう三十秒くらい全速力で――
「ってゥエええぇぇぇえぇぇぇえぇぇぇぇぇえ!?」
 動いている。
「廊下がああぁぁぁぁぁああぁぁあぁぁあ!」
 後ろに向かって流れている。平面エスカレーターのように。
「ウッソおおおおおおおぉぉぉぉおおぉぉおぉぉぉぉぉぉン!」
 両腕を激しく前後に振り、脚を腹まで上げて必死に抗う神人。だがそれに合わせるかのように、廊下の動きも速さを増す。
「負っける、くわああぁぁぁぁああああぁぁあぁぁぁぁぁああぁ!」
 ヤバい。
 直感だが確信に近いものがある。
 今この流れに逆らわなかったら死ぬ。絶対に死ぬ。自信を持ってそう言いきれる。
(ヤバい! この旅館絶対ヤバい! ヤバすぎる!)
「命をオオオオォォおぉぉぉぉぉ!」
 目を大きく見開く。全身の神経を極限まで緊張させる。
「燃やッせエエエエェェええええぇえぇえぇぇぇぇえぇぇぇぇ!」
 かつてない昂揚感。心なしか周囲が光り輝いているようにも見える。
(これがランナーズハイ……!)
 脳内で過剰分泌されるドーパミン、アドレナリン、エンドルフィン。興奮性の神経伝達物質が、末梢まで駆けめぐる錯覚にさえ襲われる。
「おオオオぉぉぉぉぉぉぉおおおおおぉぉおおぉォォォォぉぉぉぉぉおおおおお!」
 あと五メートル、四メートル――
「行っけえええぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
 三メートル、二メートル――
「ゴオオオォォォォォルぅうううぅぅぅぅぅぅぅ!」
 一メートル――
 もう手を伸ばせば階段の手すりに――
(と……)
 手すりに――
「届いた……」
 掴んだ。確かに掴んだ。もう離さない。
 もう動かない。自分の体も、そして廊下も。
「や、やった……助、かった……」
 全身から力が抜ける。妙な達成感。そして同時に込み上げてくる激情。
「ちょっと! 五十丸さん! 吠乃介さん!」
 言わないと気が済まない。とても収まる物ではない。
 分かっている。本当は恐い。凄く恐い。これは恐怖を怒りで抑え込んでいるだけだ。理解不能な事態を受け入れたくなくて。考えたくなくて。それで手近にあった強い感情に身を任せているだけだ。
「五十丸さん! 吠乃介さん!」
 だがずっと続く訳じゃない。強い感情ほど持続時間が短い。どうせすぐに恐怖がぶり返してくる。しかも何倍にもなって。まるで利子でも支払わされるかのように。分かっている。そんなことは。
「五十丸! 吠乃介ぇ!」
 分かってはいるが、もう少しだけ。もう少しだけ目を瞑っていたい。現実逃避をしていたい。だから早く出てきてくれ。そして怒りのぶつけ所を用意してくれ。
「おい! 出てこい! 五十丸! 吠乃介! 潮招ぃ!」
 一人でいたくない。一人になりたくない。
 もう押し潰されそうなんだ。訳の分からないことが立て続けに起こりすぎて、もう限界なんだ。もう呑み込めない。もう食べられない。お腹が一杯だ。心が張り裂けそうなんだ。
 敵だと分かっていてもいい。それでも。いや敵だからこそ。おかしなまねができないように見張るという意味合いも込めて。早く……!
「どこだ! どこにいる! 二人とも……!」
 早く……! 早く出てきてくれ!
「二人、とも……」
 ヤバい。
 また嫌な考えが浮かんだ。
「おーぃ……」
 そうだ。おかしいじゃないか。
 例え形式上ではあっても、あの二人は伊紗那を探すと言っていた。なのにどうして、三時間も探し回っている間に一度も会わない? この狭い旅館を何度も何度も行き来していたのに、一度もすれ違わないなどということがあり得るだろうか。
「五十丸さーん……」
 二人のどちらとも会わないなんて……そんなこと……。
「吠乃介さーん……」
 そんなこと――
「有り得ない」
 自分の声でここまで鼓動が跳ね上がったのは、きっと生涯でこの一度だけだろう。
「は……はは……」
 何だ。これは何だ。どうしてこんなことに。  
「ハハハハ……」
 一体何の冗談なんだ。
「ちょおおおぉぉぉおぉぉぉと! 何これえええええぇぇぇぇえぇぇえぇ!」
 掠れてしまうくらいに声を張り上げる。
 浴場の方からエコーがかった自分の声が、山彦のように戻って来た。
「随分と広い旅館じゃないか……」
 狭い狭いと思っていたが、一人で使うには十分すぎるくらい広い。広すぎる。あまりに広すぎて涙が出てきそうだ。
「ふ……フフフ……」
 涙とか冷や汗とか鼻水とか、全身の水分が出血大放出だ。
「よ、よーし落ち着け、僕。こんな時こそ逆立ちヨガのポーズで大好きなアニソンを熱唱して周囲をドン引かせるのだ。さんー、にー……ピコピコー♪ ぼっくらのアイドルー♪ 今日も電子のセカイで絶対りょういきー♪ そーよーわたしはー……」
 バツン! という音がして周囲が真っ暗になった。

 絶叫が轟いた。








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