貴方に捧げる死神の謳声 第三部 ―黄泉路からの慟哭―

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壱『這い寄りし序幕』


 背の高い木々が数多に手を広げ、無数の枝葉が織りなす濃密な天蓋で覆われた樹海の中。まるで澱のように鎮座する冷気と、全身の感覚を奪い去るような静寂に身を委ね、男は頭上に浮かぶ真紅の満月を虚ろな視線で見つめていた。
(どうやら、終わったようですね……)
 先程、龍閃の断末魔の声が聞こえた。
 この世の物とは思えない、脳髄を浸食して喰らい尽くしてしまうかのような叫び声だった。膨大な負の感情を込めた怨嗟の念を撒き散らし、聞く者に絶望と恐怖を植え付ける大気の凶振動。
 だが、もう聞こえなくなった。
 ついに果てたのだ。
 最強にして最凶の魔人、龍閃がその何千年もに渡る長い生涯に幕を下ろした。
 これで完全に自分の役目は終わった。二体の使役神から古の記憶を受け継ぎ、退魔師となって討ち倒すべく追い続けた存在。ソレがたった今、消え去った。
 その息子、荒神冬摩の手によって。
(これから、どうしますかね……)
 男は薄ら笑いを浮かべながら息を吐く。
 白く染まり、空気に馴染むようにして熔け出す自分の呼気。
「あー、どうやら賭けは私の勝ちのようだな」
 その向こうから、やる気という物を全く感じさせない軽薄な声が聞こえてきた。
 腰まで真っ直ぐに伸びた髪は黒く艶やかで、絵画から抜け出して来たかのように整った顔立ちをしている。しかし身に纏っている胡乱気な雰囲気と、怠惰で横柄な気配が、どこか捕らえどころのない印象を与えていた。
「あー、で? どうだ? 気分は。満足か? 篠岡玲寺」
 地に付きそうなまでに長いダークコートの裾を翻し、芝居がかった仕草で男は付けていたサングラスを外す。そして地面に横たわっている満身創痍の男、篠岡玲寺の側に腰を下ろした。
「……ええ、それはもぅ。大満足ですよ。思い残す事など何も無いくらいに」
 ほんの一時間ほど前、自分は冬摩と戦っていた。より強い者と戦いたいという、実に子供じみた理由で。そのために龍閃の死を見送り、あまつさえ彼の召鬼となり、さらに今目の前で飄々としているもう一人の真性魔人、水鏡魎と取り引きをしたのだ。
 勝てると思っていた。
 龍閃と人間の血を引いた混血魔人、荒神冬摩は確かに強大な力を秘めている。召鬼になったとは言え人の身である以上、力だけでは劣るかも知れない。だが、知略と戦術を存分に用いればねじ伏せられると思っていた。
 しかし、その考えは甘かった。
 策略など所詮は小手先の技に過ぎなかった。
 そんな小賢しい物を丸ごと叩き潰す圧倒的な力で、自分は冬摩に押し負け、そして敗れた。さらに死すら与えて貰えず、無様に生き恥を晒す事となった。
「あー、縁起でもない事は言わない方が良い。死ぬにはまだお前は若すぎる」
「そりゃ……貴方から見れば誰だってそうですよ」
「ふ……何を馬鹿な。私は永遠の三十代前半だよ」
「微妙ですね……」
「男が最も熟す時期さ」
 サングラスを指先で弄びながら鼻を鳴らし、魎は玲寺と同じ場所に視線を向ける。
「良い月だ。やはり紅月の夜は最高だな。もう、三千年近く見続けているが未だに飽きない。一体何なんだろうな、あの月は」
「力の源、でしょう……」
「まぁ、ソレも一つの答えではあるな」
 言葉に含みを持たせて区切り、魎はコチラの体に手を置いた。
「あー、なかなか良い勝負だった。紙一重だったな」
 冬摩に潰された腕の感覚が戻り始める。何か癒しの術を施してくれているらしい。
「あー、残念ながら怨行術にお前が期待してるような物はないんだ。細胞の老化を加速させて擬似的に新陳代謝を早めているのさ」
「……ひょっとしてさっきの事、気にしてます?」
「何を馬鹿な。私は年齢の事に捕らわれるような小さな男ではないよ、ミスター玲寺」
 フ、とキザっぽく長い黒髪を掻き上げ、魎は玲寺から視線を逸らした。
「紙一重などではありませんよ。明白すぎる格の差でした」
 幾分余裕の戻った声で言いながら、玲寺は上体だけをその場に起こす。そして魎は玲寺の体から手を離した。
「そうでもないさ。少し前の冬摩なら、お前が勝っていたかもしれん」
「仁科朋華さん、ですか……」
「あいつは単純だからな。守るべき者が出来ればいくらでも熱くなれる」
「羨ましい限りですね……」
「全くだ」
 言い終えて魎は静かに立ち上がる。ソレに合わせ、玲寺も脚だけを使って魎の隣りに立った。両腕は骨が完全に粉砕されていて、しばらくは使えそうにない。
「で、どうしますか? 今なら、私を殺して使役神を手に入れる事くらい、簡単ですが」
「あー、最初に言った通り、お前には実験に付き合って貰う。いいな?」
 自虐的な笑みを浮かべて言う玲寺に、魎は怠そうに後ろ頭を掻きながら返した。そしてサングラスを掛け直し、長い後ろ髪を両手で軽く払う。絹糸のような光沢を持った黒髪が、紅月の光を反射して美しい線画を描いた。
「勿論。どうぞお好きに」
 迷う事なく即答し、玲寺は魎に続いて樹海の中を歩き始める。
 空っぽになった心を胸に抱いて。



 ――そして、三年の月日が流れた。



◆刹那の戦慄 ―荒神冬摩―◆
 今更ながらに疑問なのだが、自分は朋華と二人きりになれない呪いでも掛けられているのだろうか。
「っくぅー、美味いのぅ、ぱふぇは。もう妾は三食コレでよいぞ」
 最後に二人だけの時間を過ごしたのはいつの事だっただろうか。一年前……いや二年前か? 玖音とまだもめていた時、『死神』が何とかという怨行術で弱ったせいでアイツの実家に足止めを食らった事があった。
「ふわー、すごーい。手品みたーい。勝手になくなってくー」
 その時、夕食を二人で食べたのが最後のような気がする。 
 それからは何かにつけて『死神』やら『羅刹』やらが絡んできて、落ち着いて話せる時間など持てなかった。しかも最近では、
「御代ちゃんって、こういうの案外平気なんだね」
 穂坂御代という女がやたらと使役神鬼に興味を持ち始めて、余計賑やかになってしまった。朋華が何かの拍子に話してしまったらしいのだ。コレも『死神』や『羅刹』が日常生活に溶け込み過ぎているせいだ。
 しかも朋華にとっての親友らしいから、ぞんざいに扱えないのがまた面倒臭い。高校の時は同じクラスメイトで、しかもテロとやらから救ってやった事もあるらしいのだが……全く覚えていない。
 高校では朋華以外の女子生徒はみんな同じ顔に見えた。
「ほれ、『羅刹』。お主も一口どうじゃ。美味いぞー?」
「いらない」
「あ、『死神』さん。スプーンそんなに上げたらっ」
「おお! 空中浮遊! 怪奇現象!」
 ……全く、何やってんだか。
 冬摩は四人――二人と二匹の平和なやり取りを横目に見ながら、大袈裟に溜息をついた。
 三限目の講義が休講となり、昼休みが終わった後もこのカフェテリアにだらだらと居座り続けて早一時間。春のうららかな陽気に包まれて、時はただひたすら無駄に流れていく。この時間帯、他に生徒は殆ど居ない。今や貸し切り状態だ。
 次の講義開始まで後三十分。それまでの辛抱。それまでの我慢なのだが……。
(持つのか? 俺)
 思わず自問する冬摩。
 うなじの辺りでまとめた長い黒髪をいじりながら、丸テーブルの隅の方を指先でノックし始めた。擦りガラスで仕切られた空間に、華やぐ黄色い声と無機質な小音が響く。
 綺麗に磨き上げられた窓ガラスに映った自分の顔は見事なまでに渋面。髑髏が刺繍された赤のインナーの上に黒いカジュアルシャツ、デニム製のジーンズに紐靴という動きやすい服装だが、心の中は極めて窮屈。
 最初の頃……そう、三年前などよりは随分と我慢強くなったと思う。いや、個人的には病的なまでに忍耐強くなったと自負している。例え朋華と二人きりではなくとも、彼女の楽しそうな顔を見ているだけで心を満たせるようにまでなった。
 コレは快挙だ。偉業だ。奇跡だ! 歴史的進化だ!
 そう断言できる。
 だから、
(いいよな、そろそろ)
 ココまで成長した自分が無理だと判断したんだ。誰にも文句は言わせない。力ずくでも言わせない。力の発生点ずくでも言わせない! 言った奴は片っ端からブッ飛ばす! そう! だから……!
「なぁ……!」
「はい、もしもし」
 携帯を取り出して喋り始めた朋華に、冬摩は喉の奥で荒れ狂っている言葉を何とか呑み込んだ。一瞬の硬直後、また椅子に座り直して朋華を横目に見る。
(クソったれ!)
 とんでもないタイミングで掛かってきやがる。一体どこのどいつだ。きっと性格がひねくり曲がって、他人を陥れる事に快楽を見出すような底意地の悪い奴に決まってる。
「ああ、嶋比良さん。どうもお久しぶりです」
(久里子!)
 ギン! と携帯を睨み付けるが、朋華が驚いた顔をしたので慌ててそっぽを向いた。
 あのクソ女! お前まで朋華との間を邪魔する気か!
 テーブルの下で握り締めた拳に自然と力が入っていく。大きな窓ガラスから燦々と降り注ぐ温かな陽光が、全神経を逆撫でして引き裂いて蹂躙していくのが分かった。
「なんじゃ冬摩。随分とご機嫌斜めじゃのう。もう腹が減ってしまったのか?」
 『死神』が巫女装束の袖で口元を隠しながら、長い睫毛を少し伏せて聞いてくる。
 冬摩は何も返さない。今口を開くと大声で怒鳴りつけてしまいそうだ。
「どしたの? 荒神君。そう言えばさっきから完全に無口君になっちゃってるけど」
 頭の両サイドでツインテールにまとめた黒髪を撫でながら、御代はカフェオレ片手に不思議そうな顔で言った。
 どいつもこいつも……どうしてこんなに自覚がないんだ!
「やれやれ、しょうがないのぅ冬摩。『羅刹』、“虫ダンス”じゃ。アレで場を和ませよ」
「分かった」
「や、め、ろ……」
 コクン、と人形の様に頷いた白髪緋眸の少年に、冬摩は絞り出すような声で待ったを掛ける。固く食いしばった歯を少しでも緩めた途端、自分の意思とは無関係に拳が飛んでいきそうだ。
 ――虫ダンス。
 『死神』が勝手に命名したその踊りは、『羅刹』が編み出した虫寄せホイホイ。どういう原理かは知らないが、前に一度部屋で初披露目した時、あまりの惨状に朋華が失神してしまった。
 今ココでソレをやらせるわけにはいかない。
「お前、ら……戻り、た、く……なきゃ……ジッと、し、て、ろ……」
 獣が威嚇するような呻き声。そこには明確な殺意が込められている。直接言われた訳ではないのに、御代はそんな冬摩を見て表情を固まらせた。春らしい藤色のチュニックブラウスが小刻みに震えている。
 しかし当の『死神』はもう慣れてしまったのか、自慢の黒髪を片手で梳きながら再びパフェにスプーンを付け、『羅刹』は元々何も感じていないのか、迷彩模様のつなぎが汚れるのも構わずに床へ這いつくばって何かの観察を始める。
(こ、コイツら、ぁ……)
 舐められている。完全に舐められている。
 いや、すでに理解しているのだろう。そう簡単には具現化を解けないという事を。
 理由は簡単。朋華が寂しがるから。
 別に本人がそう言った訳ではない。落ち込んだ表情を見せた訳でもない。しかし、この二人が居なくなると何故か態度がよそよそしくなるのだ。他人行儀というか、緊張しているというか……。
 それに朋華にはまだ例の『病気』が残っている。二人きりである事を強く意識し過ぎると、気絶してしまうというあの厄介な『病気』が……。
 朋華と二人きりになりたい。しかしそのためには朋華に苦しい思いを強いる事になる。そんな事は絶対にしたくない。
 朋華への強い愛情故の苦悩。
 そしてその上にあぐらを掻く『死神』、『羅刹』コンビ。
(どうすれば……!)
 どうすればいい!? この試練を乗り越えるにはどうするのが最良の方法なんだ!?
「あ、はい。分かりました。私の方でも気を付けてみます。それじゃ冬摩さんに……え? いや、でも……あ、はぁ……そうですか?」
 自分の名前を呼ばれてギィン! と朋華の携帯を睨み付け、冬摩はソレを強引にふんだくった。
「久里子テメェ! どーゆーつもりだ! ふざけた事ぬかしやがったらブッ飛ば……!」
 切れていた。
「ああああああぁぁぁぁぁぁぁ!」
 両手で頭を抱えて雄叫びを上げる冬摩。
 限界だ! もう限界だ! 一度溢れ出したら止まらない! 苛々がイライラを呼んで、更にいらいらいらいらいらいらあああアアアああアアあぁぁァァぁ!
「と、冬摩さん……」
 もうこうなったら!
「え……?」
 朋華に抱きつくしか……!
「あの……」
 抱きつく、しか……!
「冬摩、さん……?」
 抱き……ついたら、きっとまた朋華は気絶する。ソレはダメだ。
 冬摩は肩で荒く呼吸しながら、朋華に触れる数ミリ前で体を止めていた。ガクガクと両手両脚を痙攣させ、体を突き上げてくる禁断症状を精神力で抑え込みながら、『死神』をクワッ! と睨み付けて、
「おおおおお!? な、何じゃ冬摩!? こんな所でするのか!? 妾にもソレなりに心の準備というものが……!」
 袖長白衣の胸ぐらを無言で掴み上げて、鬼面をグイィッ! と押しつける。
「と、冬摩さん……! 落ち着いて下さい!」
 そして背中に当たる朋華の温もり。
「い、今の電話は嶋比良さんからで、何か宗崎家の保持者が行方不明だって……!」
 この感触、この匂い、そして――この安心感。
 体の震えが嘘のように止まる。あれだけ荒ぶっていた心が穏やかになっていく。
 コレだ。コレが今の自分に必要な物だ。
「そ、それで嶋比良さんの方で探してるけど、一応私にも連絡をって……! 何かそれらしい物を感じたら教えてくれって……!」
 やはり朋華の力は偉大だ。自分をココまで変えただけの事はある。導いてくれただけの事はある。
 そして改めて確認する。自分はこの女の為ならどんな事でも出来ると。何にでもなれると。愛おしい者が側で笑ってくれて、幸せな毎日を過ごす為にはいかなる労力をも惜しまないと。
「あの、私は冬摩さんにも話をって思ってかわろうとしたんですけど! 嶋比良さんが別にいいって!」
「朋華」
 冬摩は早朝の清々しい空気を肺一杯に吸い込んだような満たされた表情になり、ゆっくりと体を半回転させて朋華の方に顔を向ける。そして彼女の目をジッと見つめた。
 肩口で切り揃えたセミロングの髪は綺麗な栗色に染まり、冬摩がプレゼントしたチェリーピンクのヘアバンドで止めている。愛嬌のある二重の大きな瞳に、柔らかそうな唇、血色の良い頬、あどけなさの残る丸みを帯びた顔立ち。
 白いルーズネックシャツの上に、薄手のカットソーを羽織り、下は動きやすいワインレッドのプリーツスカート。
 冬摩の召鬼となった朋華の外見は三年前と変わらないが、どこか落ち着いて大人っぽくなったように感じる。自然と気付かされるその女性的な魅力が、冬摩をより強く惹き付けていった。
「で、ですから! 私は別に冬摩さんを仲間外れにしようとか、そういうのじゃなくて……!」
「愛してる」
 短く言って冬摩は朋華を胸の中に抱き入れた。
 さっきよりも強く感じる朋華の香り、鼓動、息づかい。ソレらを更に求めて冬摩は腕に力を込める。
「は、い……?」
 吃音の様に紡がれる朋華の甲高い声。
 辺りは静まりかえり、掠れた音が朋華の口から漏れ出して、
「とう、ま、さ……」
 急に腕が重くなった。
「あ……」
 思い出したかのように呟いて冬摩は朋華から身を離す。
「やっちまった……」
 糸の切れた操り人形のように脱力した彼女を見つめながら、冬摩は反省の息を大きく付いたのだった。

 朋華の意識は割とすぐに戻った。徐々に耐性ができ始めているのかも知れない。もしそうならコレを続けていれば……とも一瞬思ったがやはり駄目だ。そんな荒療治のような真似、朋華にはしたくないし、慣れる事で気絶しなくなるというのは何か違う気がする。朋華に対する想いはそんな陳腐な物じゃない。
 それに時間たっぷりあるんだ。焦る事など無い。これから沢山、二人きりの時間を持っていって、願わくば朋華の方から抱擁を求めるくらいになってくれれば……。
「――って、いう話だったんですよ。だから冬摩さんには言わなくていいって……」
 御代が買って来てくれたアイスコーヒーを一口すすりながら、朋華は窺うような視線をコチラに向けた。
 先程と変わらぬカフェテリアの中。いや、完全に人気が無くなってしまったという点が唯一にして最大の違いか。心なしか、カウンターの奥にいる店員の気配まで無くなってしまったように感じる。
「そうか」
 冬摩は微笑を浮かべながら頷き、朋華の方に手を差し出した。
「で、立てるか? 体の方は大丈夫か?」
「え? あ、はい。私は別に何とも……」
「そうか。良かった」
 今、冬摩にとって重要なのはその一点だけだ。他の事はどうだっていい。
「冬摩、お主全然聞いておらんかったじゃろ」
 丸テーブルに片肘を付き、口先でスプーンを弄びながら『死神』が半眼になって言ってくる。
「荒神君、朋華の事ばっか考えてたでしょ」
 『死神』の声は聞こえていないはずなのに、御代が絶妙のタイミングで言葉を重ねた。
「じゃあ行くか、遅れないうちにな」
 ソレらの言葉を無視して冬摩は朋華の手を引き、席を立つ。
 今から行けば四限目の講義には間に合うだろう。
 授業はいい。二人きりとはいかないまでも、朋華と並んで静かに座っていられる。ココでうるさい外野に付きまとわれるよりは万倍いい。
「あの、でも冬摩さん。私達に出来る事があればやっぱり協力した方が……あ!」
 自分に向けられていた朋華の視線が僅かに横へとずれ、後ろの方で何かを見つけたように声を上げた。つられて冬摩も振り返り、朋華の視線の先を追う。
 丸テーブルを五つほど間に挟み、三段ほど高くなった出入り口近くのフロア。
「……珍しく人が居ないと思って来てみれば、か」 
 女性的で秀麗な顔立ちの男が、大失態を犯してしまったかのように深い溜息をついていた。
「真田さん!」
 耳元で切りそろえたストレートの黒髪。威圧的で冷たい輝きを宿した双眸。鋭角的な顔立ち。身に纏うのは刃物のように鋭く、排他的な雰囲気。
「玖音……」
 また一人、邪魔者が現れやがった……。
 朋華と一緒にこの大学に入って、一番最初に驚いたのがこの事実だ。
 すなわち、玖音が自分達の二つ上の先輩になってしまったという事。幸い学部は違うので、この広いキャンパス内で鉢合わせする事はそうそう無いのだが、たまにこういう衝突事故が発生する。
「丁度会いたいって思ってたんですよー!」
「な……!?」
 玖音の方に走り寄っていく朋華の後ろ姿を見つめながら、冬摩は信じられないといった風に目を見開いた。
 ど、どういう事だ!? まさか自分の知らない間に……!? いや! 朋華に限ってそんな事!
「あーあー、ついに取られてしまったのー。哀れな事よ。どうじゃ。コレで妾に乗り換える決心が付いたか?」
 どこからか取り出した扇子で口元を隠しながら、『死神』は冬摩の肩にしなだれ掛かった。
「玖音テメェ! 俺の女に……!」
 ソレを片手で引き剥がし、冬摩は爪先がめり込む程に床を強く蹴って玖音に肉薄する。
「オラァ!」
 その勢いに乗せ、血が滲むくらいに固く握り込んだ拳を玖音の顔面目掛けて突き出した。
 が、軽く後ろに身を引いた玖音の目の前を通り過ぎ、拳撃は虚しく空を切る。
「少し腕が落ちたんじゃないのか? 平和ぼけし過ぎだな」
 蒼いハーフジャケットの襟元を正しながら冷めた口調で言う玖音。
「この……!」
「止めて下さい! 冬摩さん! 全然そういうのじゃないですから! 単なる情報交換ですから!」
「情報……交換?」
 玖音との間に割って入った朋華に、冬摩は拳を振り上げたまま聞き返した。
「無駄じゃ無駄じゃ、仁科朋華。この阿呆はお主の話を全く聞いておらん」
 浮遊霊のようにふよふよと飛んできて、『死神』は冬摩の首筋に両腕を回しながら言う。
 なんだコイツら、自分を置いて勝手に話を進めやがって。
「置いて行かれたんじゃなくて、最初から付いて来る気が無かっただけだろ?」
 身の丈程もあるスポーツバッグを背負い直し、玖音はコチラの胸中を見透かしたかのように言った。
(『月詠』か……)
 舌打ちして玖音を睨み付ける冬摩。
 この野郎、『精神干渉』でコチラの心を……。
「今は相手の体に触れないと力は使えない。けどそんな物無くてもお前の考えてる事くらいすぐに分かる」
 小さく鼻を鳴らし、玖音は挑発的に言って口の端をつり上げた。
 玖音の力の発生点は『怒り』、そして力の作用点は『両手』。『怒り』があれば力の効果範囲が拡大されて、例え触れていなくとも『精神干渉』が使えるが、そんな状態からは程遠い平時では『両手』を介してしか『月詠』の力は発揮出来ない。
「けっ! で、何の用なんだよ」
「用があるのはソッチなんじゃないのか?」
 玖音は近くにあった椅子に腰掛け、スポーツバッグを床に置いて朋華の方に視線を向けた。
「あの、さっき嶋比良さんからお聞きしたんですけど。宗崎家の保持者が行方不明とか……」
「あぁ、らしいな。僕も三日くらい前に聞いたばかりなんだが」
「それで真田さんの方は何か分かりましたか?」
「芹沢だ」
 朋華を見上げ、玖音は言葉を被せるように言った。
「え?」
「芹沢雅哉(まさや)。ソレが僕の本名という事になっている。ココではソッチの名前で呼んでくれ」
 玖音は真田家から逃げるために芹沢という家に身を隠した。『月詠』の『精神干渉』でその家族の記憶を書き換え、長男だという事にして。だから一般的には芹沢雅哉で通っているらしい。
「あ、はい。分かりました。えと……芹沢さん」
「正直言ってまだ何も掴めていない。ま、嶋比良久里子が私兵や警察を使って人海戦術で探し回っているらしいから、多分ソッチの方が早く見つかるんじゃないのか? コレがごく普通の失踪事件ならな」
「普通じゃないって、真……芹沢さんは考えてるんですか?」
「まずは最悪の事態を想定するのが僕の癖でね」
「どーせ反抗期のガキの家出なんじゃねーのかよ」
 腕組みしてそっぽを向いたまま、冬摩は不機嫌そうに声を挟む。
「かもな。まぁ、今までに無かった事だから敏感になっているだけかも知れない。保持者と十二神将の動向は、土御門財閥が一応全て把握していたみたいだからな。杞憂に終わるのならソレに越した事はないさ」
「芹沢さんが考えてる最悪の事態って?」
 朋華に言われて玖音は何か考えるように視線を少し上げ、二呼吸ほど間を空けた後、
「いくら何でも僕の考え過ぎだ。気にしなくていい」
 首を軽く左右に振りながら言った。
「けっ。本当は何か掴んでて手柄を独り占めしたいだけなんじゃねーのか?」
「そんな事をして僕に何のメリットがある」
「知らねーよ。テメーの考える姑息な事なんかよ。ま、どーせ久里子に取り入って裏から土御門操るとかそんなトコだろーよ」
「宗崎は保持者ではあっても覚醒者ではないから式神の気配で探るのは難しい。けどもし少しでも覚醒の予兆があるとすれば、微弱ながら漏れ出るはずだ。僕や君はソレを感じ取る事が出来る。嶋比良久里子も多分、そこに期待してるんだろう」
 拗ねたように言う冬摩を無視して、玖音は淡々とした口調で朋華に説明を始める。
「その保持者が何を思って家を飛び出したのか分からないからハッキリした事は言えないけど、普通に考えれば土御門の網に引っかからないはずはないんだ。覚醒者ではない以上、普通の人間と変わらないからね。だから食事や寝泊まりする場所は確保しなければならない。そしてそれだけ痕跡を残せば、二週間も逃げ切れるはずがないんだ。あの嶋比良久里子相手に」
「じゃあ覚醒してるって事ですか……?」
「いや、ソレはない。覚醒したとすればつい最近だ。そんな人間が式神を使いこなせるとは思えない。だから力をまともに制御なんて出来ない。嶋比良久里子の持つ『天空』の能力、『千里眼』で簡単に見つけられる」
「でも芹沢さんは昔、制御出来たんですよね、三体も。それで嶋比良さんの目からも逃れられた……」
「僕には魔人の血が流れてる。そのおかげだよ」
「じゃあ、宗崎家の保持者も芹沢さんと同じように流れていたとしたら……」
 朋華の言葉に玖音は口を閉ざし、目を細めて床の一点を思慮深げな表情で見つめた。そして顔に片手を沿え、独り言のようにブツブツと何かを呟き始める。
「それに、何か似てるんです……」
「似てる?」
「少し前に篠岡さんって凄く強い人が居たんですけど」
 急に玲寺の名前を出され、冬摩の全身に壮絶な悪寒が駆けめぐった。
 篠岡玲寺。『青龍』と『貴人』、二体もの十二神将を宿した人間の覚醒者。普段は柔らかい物腰で、非常に紳士的な男だが、冬摩を視界に収めると……。
(とっ、トラウマがッ! 消し去りたい俺の記憶が……!)
「あぁ知ってる。直接話した事は無いがな」
「篠岡さんも、ずっと行方不明なんです。冬摩さんが龍閃を倒した時からずっと」
「彼は相当な熟練者だ。『千里眼』から逃れて身を隠し続ける事くらいやってのけるだろうな」
「でも三年間も、ですよ? 紅月の日だって沢山あったのに……。ソレに凄い傷だったって聞いてますし……」
「つまり君は、今回の宗崎と失踪と篠岡玲寺の失踪に何か繋がりがあるんじゃないかって踏んでる訳か」
「あ、まぁ……あくまでも勘ですけど」
「いや、案外的を得てるのかもな。手掛かりがあまりない状況では、そういう直感が物を言うんだ」
 玖音は感心したように何度か軽く頷くと、スポーツバッグを持って椅子から立ち上がった。
「変な場所に来てしまったと思っていたが、思いの他有意義な時間を過ごせた。また何か分かったら相談させて貰うよ」
 そしてココに入って来た時の表情からはうって変わって、優しそうな好青年の笑みを朋華に向ける。
「あ、い、いえ。コチラこそ。色々と教えていただいてどうも有り難う御座いました」
 ソレに深々と頭を下げる朋華。
(気にいらねぇ……)
 冬摩はそんな二人を鋭い視線で見比べながら、苛立たしげに足で床を叩いた。
「そういきり立つでない、冬摩。裏口入学なんぞをしたお主の頭では、二人の会話に付いていけないのは必定。極めて自然な流れよ」
「ブッ飛ばすぞ、テメェ……」
 ずっと首に抱きついていた『死神』をゴミのように投げ捨て、冬摩が朋華に何か声を掛けようとした時、
「ところで、君達はまだ二年だろ? そろそろ次の講義が始まるんじゃないのか?」
「えっ? ……あ!」
 言われて朋華は腕時計に目を落とし、今日一番の大声を上げた。
「せ、芹沢さんは大丈夫なんですか!?」
「僕は研究室に配属になったからね。そういう時間的な束縛はもう無い」
「そ、そうですか! それじゃ私達はこれで! と、冬摩さん! 急ぎましょう! 御代ちゃんも!」
「お、おぅ」
 ……何か、釈然としない。

 今回失踪した宗崎は三つある草壁の分家の内の一つだ。
 千年前。安倍清明の血縁である土御門家の当主と、真性魔人である紫蓬が交わり、三人の子を成した。
 一人は紫蓬の血を濃く受け継いだ牙燕という名の混血魔人。
 残りの二人は土御門の血を濃く受け継いだ葛城、草壁という名の人間。
 葛城はその後、隔世遺伝によって魔人の血を身に宿した儀紅の出現を期に、真田、岩代、有明の三家に分かれた。
 そして草壁も同じく、宗崎と繭森(まゆもり)の二家に血を分け、さらに繭森からは白原(しらはら)という派家が生まれた。
 ……と、いう話をさっき『死神』から聞いた。
「嶋比良久里子がお主に助力を仰がんはずじゃ。歴史のただ中を生き続けておいてコレだけ綺麗に忘れられては、説明する方の身が持たんからのぅ」
「うっせーなー……」
 階段状に長机が並べられた少し広目の講義室。
 遅れて入ってきたせいて一番前に座るしかなかった冬摩の目の前を、『死神』は浮遊しながら小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
 いや、事実しているのだろう。扇子の向こうにある朱色の唇は、三日月の形に曲げられているに違いない。
(クソッ……)
 『死神』から視線を外して隣を見る。
 黒板とノートを交互に見ながら真面目に講義を聴く朋華。その向こうでは眠そうな顔をしている御代。
 で、何故か朋華と御代の間の机に正座し、紅い瞳をパッチリと見開いてしきりに頷いている『羅刹』。内容が昆虫の生態系についてだから興味津々なのだろうか。
(宗崎、ねぇ……)
 十二神将『勾陣』を宿した保持者。その祖先はかつて、牙燕と共に龍閃と戦った事があるらしい。能力は『天雷』。
 朋華と久里子の会話を聞いていた『死神』によれば、宗崎が居なくなったのは今から一ヶ月程前。最初の二週間は宗崎家だけで探そうとしたが見つけ出せず、やむなく土御門財閥に報告して捜査範囲を広げた。しかし明るい結果は出ていない。
 そこで他の保持者であり、覚醒者でもある玖音に白刃の矢が立った。玖音なら何か良い知恵を貸してくれるのではないかと期待して。
 ソレが今から三日前の事だ。
 そして今日。ついに朋華にも連絡が入った。久里子も大分焦りが出始めているのだろう。
 保持者が消えてから一ヶ月間、何の音沙汰もない。コレだけ手を伸ばして探しているのに見つからない。
 彼の身に何かあったと考えるのが自然だろう。
 誰かに殺されて不適格者に使役神が移行し、その人間が発狂死してしまったか。保持者自身が自殺してしまったのか。
 どちらにせよ、受け継ぐ者が居なくなった使役神は大地に束縛される。そして次の適格者が現れるまで眠ったままとなる。
 『死神』がその状態になって、朋華に継承されるまで二百年掛かった。十二神将も本質的には十鬼神と変わらないとすれば、同じくらいの期間は覚悟しなければならないだろう。
 だが、『死神』の場合と大きく違うのは『勾陣』がどこで眠ったのか分からないという事。これでは適格者が現れたとしても、すぐに再継承出来ない。
 『死神』は微弱な地霊の力を吸って生き延びていたらしいが、『勾陣』も同じ事をしてどれだけ命を繋ぎ止めていられるのだろうか。二百年前より間違いなく地霊の力も落ちてしまっている現代で。
 つまり、もしこのまま宗崎の保持者が見つからない場合、『勾陣』は消滅してしまう可能性が高い。現代には使役神を創る方法も伝わっていなければ、そんな事が出来る能力を持った者も居ない。
 千年以上も前より受け継いできた十二神将が一体死んでしまう。
 ソレは不名誉などという言葉では片付けられないくらいの大惨事だ。
(ま、どーでもいいな……)
 が、冬摩にとってはそんな土御門の事情など知った事ではない。自分の知らない所で大騒ぎする分には何の問題もない。
 仮に朋華の言う通り、宗崎も玖音同様、魔人の血が隔世遺伝していて、力を制御した状態でどこかに潜んでいたとしても関係ない。
 何か悪巧みを画策していて、ソレが自分に降りかかって来るというのなら話は別だが。
 まぁ、その時は叩き潰せばいいだけだ。圧倒的な力で。
(朋華……)
 隣でノートを取っている朋華の顔を見る。
 一生懸命な表情で講義に取り組んでいる彼女の横顔は、いつもとはまた違った魅力に溢れている。ソレを誰にも邪魔されずに見ていられるこの時間はまさに至福の一時だ。
 コレだ。コレが今の自分に必要で不可欠な物だ。
 こうして朋華と一緒に居られれば、他の事はどうでも――
「――ッ!」
 無意識に机へと引き寄せられていた体が、突然跳ね上がった。
(気の、せいか……?) 
 講義室の前の方にある出入り口を睨み付けながら、冬摩は全身を緊張させる。いつの間にか握り込んでいた拳には、嫌な汗が滲んでいた。
 今、確かに……。
「ど、どうかしたんですか? 冬摩さん……」
 自分の突然の行動に驚いたのか、朋華が小声で話し掛けてくる。御代も目を丸くしてコチラを見ていた。いや、二人だけではない。講義を行っている教授も周りの学生も、何事かと自分の方に視線を向けている。
「あ、ああ……ちょっと、な……」
 朋華は気付かなかった。さっきの気配に何の反応も示さなかった。
 自分の気のせいか? 久里子や玖音が妙な話を持って来たものだから、変に神経が昂ぶっているのか?
 『死神』を見る。目を細めての怪訝そうな表情。『羅刹』は微動だにせずに黒板を見つめたままだ。
 やはり勘違いなのか? 二年間のブランクが響いているのかも知れない。ココは確認しに行――
(メンドくせ……)
 思考を途中で切り、冬摩は龍の髭で束ねた長い黒髪を解いて机に突っ伏した。

◆裏切り者の波動 ―真田玖音―◆
 間違いない。
 今、確かに感じた。極めて微弱で一瞬の事だったが、あの気配は忘れない。
(龍閃……!)
 三年前に冬摩が葬ったはずの龍閃の波動だ。だが黄泉還ったとは考えにくい。龍閃は微塵になって死んだはずだ。
 しかし、龍閃と全く同じ波動を放つ方法がもう一つある。
 ――龍閃の死肉。
 二年前、祖母である真田阿樹はソレを使って自分と冬摩を戦わせた。妹の美柚梨の体に龍閃の死肉を埋め込み、一時的に龍閃の召鬼として操ったのだ。
 龍閃ほどの魔人となれば、死してなおその力を現世に繋ぎ止めておく事が出来る。ソレをこの身で痛い程に思い知らされた。
 まさかと思った。だからすぐに確認した。
 答えは否定だった。
 阿樹はあの日以来、保管していた龍閃の死肉を全て焼き払ったと言っていた。
 今更彼女が嘘を付くとは思えない。また騙しているのだとも思いたくない。
 なら一体誰が。どうやって。
 いや、考える必要など無い。今はただ確認すればいいだけだ。
 龍閃の波動を感じたのはほんの僅かな時間だったが、おおよその場所は特定できた。
 工学部棟、旧館の裏手にある全く手入れのされていない雑木林。この広いキャンパス内でも特に寂れた場所。そこはいつしか黒と黄色であざなわれたビニール製の縄が張り巡らされ、人の立ち入りを拒み続けていた。
(確か、この辺りで……)
 五感全てを極限まで研ぎ澄ませる。自分の周りに気の結界でも張るかのように。
 膝の高さまで伸びきった雑草の海をかきわけ、玖音は薄暗い中を用心深く進んでいった。
『玖音、分かっているとは思いますが、貴方は今おびき出されていますよ?』
「ああ」
 頭の中で聞こえた『月詠』の声に短く返す。
 勿論分かってるさ。そんな事はとっくにな。
 あの龍閃の波動を感じ取れたのは、自分か荒神冬摩くらいのものだろう。そして冬摩は恐らく動かない。自分に火の粉が降りかかってくるまで放置するつもりなのか、気のせいで済ませるつもりなのかは知らないが、朋華との時間を最優先するあの男の腰は重い。
 だから最初から期待などしていない。期待などせずとも、自分一人で何とかする自信がある。
 とにかく許せないんだ。あの悪夢を引き起こした忌まわしい肉片をまだ誰かが持っていて、ソレを使って自分を挑発している奴が居るという事実が。
(今度こそ……)
 叩き潰す。
 スポーツバッグの中から霊刀『夜叉鴉』を取り出し、空になった入れ物を適当な藪に放り捨てる。鞘を左手に、柄部を右手に持って構えながら、玖音は体の重心を低くして滑るように足を運んでいった。
 そして――
(上か!)
 反射的に夜叉鴉を居合い抜き、玖音は頭上に向けて鋭い一撃を放つ。刀の切っ先が真空を生み出し、何本もの木の枝を巻き込んで大気を斬り裂いた。
(まだだ!)
 強く息を吐き、玖音は大地を蹴って大きく跳躍する。そして空中で体勢を立て直し、真横に向かって逆袈裟に刀を振り上げた。
 硬い手応え。何かに弾かれて刀の軌道が大きく変わると、狙いを外れて空を切る。瞬時に刃を返して振り下ろすが、すでに標的は刀の間合いから逃れた後だった。
「いやー、さすがにお強いですねー。やはり舐めて掛かれる相手ではなさそうだ」
 着地し、夜叉鴉を構え直した玖音の眼前から、間延びした男の声が聞こえる。
「どうも初めまして真田玖音さん。まさか貴方とこんな形で対面する事になろうとは思いませんでしたよ」
「悪いがコッチは初めてじゃない。お前の事はよく覚えている」
 一度、自分を探しに家の側まで来た事があったから。そしてその時に、龍閃の波動を放っていたから。
「篠岡玲寺、何のつもりだ」
 木々の作り出す分厚い陰影が人型を取ったかと思うと、そこから生まれるようにして長身の男が現れた。
 灰色のカッターシャツに藍色のネクタイ、そして皺一つない白のスーツ。
 もう春先だというのに黒いオーバーコートを羽織ったその男は、毛先の軽く巻いた黒髪を整えながら柔和な笑み浮かべる。そして指先で眼鏡を少し上げ、鈍色の双眸を不敵に輝かせた。
 ――篠岡玲寺。
 三年前、龍閃の召鬼として味方を欺き、そして冬摩に倒された男。保持式神は『青龍』と『貴人』。力の発生点は『声』。魔人である冬摩とほぼ対等に渡り合えた人間。
「これはこれは、とんだ失礼を。貴方の方はすでに面識がありましたか。いやー、私も有名人になったものですねー。あっはははー」
 彫像のように整った目鼻を崩して朗らかに笑い、玲寺は口から白い歯を覗かせた。
「何のつもりだ」
 玖音は夜叉鴉を居合いに構えたまま、鋭い視線で玲寺を射抜きながら同じ質問をする。
 かつて龍閃の召鬼だったこの男の体の中には龍閃の死肉がある。だから龍閃と同じ波動を放てる。ソレは分かる。十分理解できる。
 だが、何故自分を呼び寄せるような真似をする。自分は玲寺の事は知っていても直接顔を合わせるのはコレが初めてだ。だとすれば個人的な理由ではない? いや、自分が持っている使役神が狙いだとすれば……冬摩との再戦のため、より大きな力を欲している?
「まぁ貴方には別に怨みなど無いのですが、コチラにも色々と事情が有りましてね。少し動けなくなって頂こうかと思いまして」
「やってみろ」
 身を低くし、玖音は細く息を吐きながら集中力を極限まで高めていく。周りの音と色が抜け落ち、玲寺の体だけが鮮明なコントラストを持って浮かび上がった。
 逃がしてはくれないだろうし、コチラも逃げる気など無い。あの不愉快な波動の源を断つために、わざわざおびき出されたのだから。今の自分の実力がどこまで通用するかは分からないが、勝機は十分にある。
 玲寺は自分の力の発生点である『声』を最大限に活かすために『貴人』で氷のドームを築こうとするだろう。だがこちらには『朱雀』がある。炎で氷を相殺してしまえば、相手の力は半減する。
 それにこの雑木林という地形。向こうもこういった場所を利用するのは得意そうだが、『朱雀』の『瞬足』があるコチラが僅かに有利。後は『月詠』を夜叉鴉に宿来させて、切りつけた場所から思考を読む事が出来ればより盤石だ。
「貴方は冬摩と違って頭が良い。きっと今、必勝パターンを何通りも思い描いてるんでしょうねぇ」
 玲寺はおどけたように肩をすくめて見せ、嘲笑を浮かべる。
「そして同時に自分の作戦の欠点も見抜く。貴方は今、きっと不安になってる事でしょう。私の力の中に未知の物がある、と」
「だから?」
 玲寺の言葉に玖音は短く返した。
 確かに不安要素はある。さっき夜叉鴉をはじき返した物の正体。ソレが分からない。式神を召来したような気配も、『声』を発したような様子も無かった。
 だが、分からない力を相手が持っていたとしても別に問題はない。そんな物は戦いながら見抜いていけばいい。そしてその中で対処法を練っていけば良いだけの事だ。
「貴方は今まで事前準備を実に周到に行ってきた。今回のような戦いは例外と言っても良い。だから心の中ではその不安を隠すべく、自分に強がりを言い聞かせている。そうでしょう?」
「下らない心理作戦だな。僕に通用するとでも?」
「ええー、勿論。思ってますよ。だって現に――嵌ってるじゃないですか!」
 突然、玲寺の声質が変わる。
 人間の物から召鬼の物へと。その『声』に乗って放たれた力の塊は玖音の足元を狙って飛来した。
「ふん」
 不可視の凶器を上に跳んでかわし、玖音は鞘から夜叉鴉を鋭く居合い抜いて――
『後ろです!』
「な――」
 『月詠』の声に体が反応し、玖音は無理な体勢から強引に身をひねった。
「がっ!」
 直後、漆黒の槍が脇腹を後ろから抉って前方へと抜ける。真紅の飛沫が眼前に待った。
(コレは……!)
「おやおや! 期待はずれですねぇ!」
 そして連続的に急迫してくる力を持った『声』。
「クソ!」
 顔をしかめ、舌打ちしながら夜叉鴉の腹で弾いていく。その反動に身を乗せて落下の軌道を変え、玖音は真横になった状態で樹の幹に着地した。間髪入れず『瞬足』を爆発させ、太い幹をへし折る勢いで足場を蹴る。
「はあああぁぁぁぁぁ!」
 夜叉鴉を寝かせて構え、玖音は直線的な軌道で玲寺との間合いを一気に詰めた。が、ソレを阻むようにして、無数の黒い槍が壁のように立ち上がる。
「使役神鬼『月詠』宿来!」
 しかし全く動揺する事なく、玖音は待ち構えていたかのように詞を放った。
 紫色の淡い光を帯び、弧月の線を描いて横薙ぎに振るわれる夜叉鴉。主刀から側刀が連鎖的に生まれ、凶刃の輝きを灯す刀華が開かれた。
 瞬時にして線から面へと形態を変え、夜叉鴉は黒い壁を呑み込みながら通り過ぎる。しかし、大きく上下に分かたれた漆黒の向こう側には、ただ土と草の風景が広がっているだけだった。
(また上!? いや――)
「ソコだ!」
 玖音は右手だけを後ろにかざし、十数発の『火焔』を打ち出す。
「ッほぅ!」
 が、ソレは突然出現した爆風によって巻き上げられ、上空で火の粉を散らして消滅した。
(『青龍』の『無刃烈風』)
 いつの間にか背後に回っていた玲寺から距離を取り、玖音は夜叉鴉を正眼に構えて目を細める。
「不意をつけたのは最初だけですか……。やれやれ、必殺技の出し所を間違えましたかね」
 髪を掻き上げながら落ち着いた口調で言い、玲寺はネクタイの位置を直した。
「なぁに、まだストックは有るんだろ?」
「さぁどうでしょう」
「お前が怨行術の使い手だとは知らなかった」
 玲寺の纏っている黒いオーバーコートに視線を向けながら、玖音は静かに言う。
「まぁ火事には巻き込まれたくありませんからね」
「氷漬けもごめんだな」
 どこかからかうような口調で言い、玖音は強く大地を蹴った。

◆狂宴への招待状 ―九重麻緒―◆
 のっぺりと広がる空、だらだら浮かんでいる雲、たるみきった教室の雰囲気、そして思わず漏れてしまう自分の溜息。
「退、屈……」
 朝のホームルームが始まる前の自由時間。
 麻緒は自分の机に突っ伏し、全身を弛緩させきって窓の外をただぼーっと眺めていた。
 また、今日という日が始まってしまう。
 どうしようもなく退屈で、救いようの無いくらい無意味な一日が。
 中学に入れば少しは変わってくれるかと思ったが大間違いだった。平和という名の毒が蔓延したこのご時世、学校を裏から支配する番長も居なければ、縄張りを争って繰り広げられる学校同士の抗争もない。
 ……まぁ、どこの時代遅れのオッサンだと言われればソレまでなのだが、せめて何かしらの変化は欲しかった。
 別に激的な何かでなくてもいい。
 例えば、一日に一人は因縁を付けてくるようになるだとか、一見気弱で大人しそうな自分をイジメようとする集団が現れるだとか、突然後ろから火炎瓶を投げ付けて来るだとかっ、家にバイクで突っ込んで来るだとか!
 ……ああ、ダメだ。何故か思考がすぐにソッチの方向に向かってしまう。
 そういう事に関しては入学式の日に諦めていたのに。三年のゴツそうな先輩に靴を舐めさせた時、もう無理だと悟ったはずなのに……。
 やはり、諦めきれないのか……。
(ボクが番長になっちゃおっかなー)
 にへらっ、と顔をほころばし、麻緒は危ない計画を頭の中で立て始めた。
(取り合えず三年の奴等全員シメてー、舎弟増やしてー、ソイツらに手当たり次第他のガッコにケンカ売らせてー、反感買いまくってー、大抗争起こしてー、警察巻き込んでー、自衛隊巻き込んでー、網走監獄崩壊させてー、極悪犯罪人ブチまけてー、国会潰してー、海外遠征してー、FBI潰してー、CIA潰してー、NASA乗っ取ってー、宇宙行ってー、火星に攻め込んでー……)
 そこまで楽しそうに考えていた麻緒の顔から急に笑みが消える。
「メンドくさ……」
 そして冷め切った声で呟くと、また大きく溜息をついた。
 何故自分がそこまでしなければならないんだ。戦い以外で疲れたくない。
 それにトラブルというのは突然降って湧いてくるから面白いのに。だいたい昔は何もしなくても、毎日のように悪霊だ怨霊だ自縛霊だと楽しい事が舞い降りてきた。ソレが今となっては……。
(まぁ……)
 それでも退魔師を止めさせられた最初の一年よりは、少しだけましになったのだが。
「っハァイ、麻緒君。相変わらず朝から冴えない顔してるねー」
 後ろから掛けられた明るい声に、麻緒はゆっくりと体を起こした。そして大分伸びた黒髪をうなじの辺りに撫でつけ、気怠そうな視線を声の主に向ける。
「低血圧なんでね……」
「よーし、じゃあこの夏那美ちゃんがオメメパッチリになる魔法の呪文を掛けてあげよー」
 体を少し前のめりにして人差し指を立て、元気良くまくし立てる少女はセーラー服のポケットから古びたお守りを取り出した。
「ナニソレ」
「恋愛成就のお守り」
「どうするの?」
「そりゃあやっぱり――」
 彼女の前は東宮夏那美。
「麻緒君の――」
「自称」
「――彼女として……ってちょっとおおおぉぉぉぉ!」
 ……らしい。
「どーせ例の骨董品店で見つけて来たんでしょ? で? 今度は何が憑いてるの?」
 目に深く掛かった前髪を左右に避けながら言い、麻緒は詰め襟のカラーを外して首周りを楽にした。僅かだが頭に掛かっていたモヤが晴れてくる。血流が脈打ち、ようやく心臓が動き始めたような錯覚さえ覚えた。
 ――二年前。まだ小学五年生の頃。麻緒は初めて夏那美と知り合った。
 いや、本当はもっと前から顔を合わせていたはずなのだが、全く興味無かったので覚えていなかったのだ。同じクラスだったというのに。
 しかし、彼女と他数名の生徒達と一緒に行った『こっくりさん』がきっかけで、麻緒と夏那美の距離は縮まった。
 こっくりさんを呼び出すための紙。ソコには低級な妖魔が封じられていたのだ。ソレを夏那美が未熟な黒魔術で喚び出し、麻緒はその妖魔と“遊ぶ”事で鬱憤を晴らした。
 半年間、日常という名の牢獄に閉じ込められていた麻緒にとって、楽しくて狂いそうになるくらいの時間だった。
 平和で退屈で無意味で無価値で、まるで拷問のようだった毎日が、一気に殺伐とした桃源郷へと早変わりした。
 それからも麻緒は何度も夏那美の黒魔術もどきに付き合い、失敗して貰い、思う存分遊んだ。そして、二人の距離はより近くなっていった。
 ……と、思われているらしい。向こうから一方的に。
 正直、コチラとしてはタダで飴玉をくれる近所の女の子くらいにしか考えていないのだが……。
「ふっふーん、教えて欲しい?」
 夏那美はおさげにまとめた髪を尻尾のように振り、お守りを指の間に挟んで得意げな表情で麻緒を見下ろした。
「……別にいい」
 ソレに冷たく返して、麻緒はまた机に伏せる。
「ちょーっとぉ! 少しはつられなさいよね! コッチだって張り合い無いでしょ!」
「……で? やるの? やらないの?」
 枕代わりにした自分の腕から目だけを覗かせ、麻緒は意地の悪い笑みを浮かべて聞く。
 夏那美は自分がやりたいから、少ないお小遣いをはたいて怪しげな骨董品を買い、こうして意気揚々と持ってくるのだ。つまり、最初から立場はコチラが上。下らない駆け引きになど付き合ってやる義理は無い。
 ……とはいえ。楽しみなのは自分も同じだ。だからこうして顔を隠してないと、ニヤけているのがバレてしまう。頭で腕を押さえてないと、喜びで震えているのが分かってしまう。
 ソレはダメだ。絶対に夏那美を調子付かせてしまう。そうなったら彼女の性格からして、また面倒臭い追加条件を乗せてくるに決まっているのだ。
 買い物に付き合えだとか、家に遊びに行かせろだとか、遊園地に行こうだとか。
 その手の誘いは今まで散々押し付けられてきた。そして苦労して全部断ってきた。
 面倒臭いの一点張りで通すのもなかなか骨が折れる。そろそろ別の言い訳を考えなければ……。
「むー……っ」
 口を尖らせ、夏那美は不満げに顔を歪める。
 ほら、早く折れてくれ。じゃないと震えが足にまで伝わってしまう。
「……やる」
「いつ?」
「……放課後」
「おっけー」 
 そういう事になった。

 今日は本当に充実した一日だった。
 夏那美から例のお守りに付けられた胡散臭い曰くとやらを聞き、どんな悪霊が憑いているのかを想像し、ソレをどうやってブチのめそうか空想しているだけで幸せだった。
 相手は何体だろうか。大きいのが少しか、小さいのが沢山か。それとも細長いのが無数か。
 どんな呪符で追いつめようか。苦痛系か圧迫系か、久しぶりに発狂系がいいか。
 最後は何でしめようか。武器を使おうか、罠を仕掛けておこうか、やはり素手で殴り倒すのが一番か。
(たまらないっ、たまらないっ)
 気を抜けば鼻歌を歌いながらスキップでもしそうになるのをグッと堪え、麻緒は夏那美と一緒に校舎の出入り口に向かっていた。灰色のピータイルが敷かれた安っぽい廊下が、窓から差し込む夕日の光を浴びて、徐々に茜色へと染まっていく。
 今日はグラウンドに結界を張って遊ぶ事にした。広い場所で思いきり暴れたくなったからだ。まぁ、自分の結界術など呪符に頼っただけのお粗末な物だが、その辺の妖魔や悪霊なら問題ないだろう。結界自体に殺傷力は無くても、閉じ込める事くらいは出来る。
「麻緒君、ひょっとして……ハイになってない?」
「えっ……?」
 シューズボックスの前でスポーツシューズに履き替えていた麻緒に、夏那美はジト目を向けながら声を掛けてきた。
「なーんか、楽しみで楽しみでしょうがないって顔してる……」
 そして麻緒の方に顔を寄せながら、訝しげな視線を投げ掛けてくる。
「ば、バカ言わないでよ、まったくー。ボクはキミがやってくれって言うから仕方なくだねー……」
 組んだ両手を頭の後ろに回して胸を張り、麻緒は履き替えた靴の先をとんとんと床に打ち付けながら返した。
「ソコ……廊下」
「うわっち!」
 慌ててコンクリートの方に飛び降り、麻緒はそっぽを向いて口笛を吹き始めた。
「あやしー」
「考え過ぎだよ。正直言ってボクはもう飽きてきてるんだモン」
「最初の頃はあんなに乗り気だったじゃないのよ」
「最初は最初。今は今。人とはうつろいゆく生き物なんですよ」
「ッふっーん……」
 信じてないな、この女……。
 まぁ、小五の時は少しはしゃぎ過ぎたのかも知れない。思わぬ所からの救いの手だったから。でも夏那美に主導権を握られてもつまらない。だから少しずつ抑えて行ったのだが……。
「ほら、行くよ」
 麻緒は何事も無かったかのように言うと、夏那美を置いて第三グラウンドの方に足を向けた。
「あ、コラ! 逃げるなー!」
 やれやれ……どうやら自分は人を騙すのは苦手らしい。
 第三グラウンドは校舎の丁度反対側にある。メインで使用されている第一、第二とは違って格段に狭いが、その分人の出入りは少ない。こういうイベントにはもってこいだ。おかげで結界は誰にも邪魔されずに張れた。これで結界内での出来事は外からは見えないはず――
「あれ……?」
 周りを錆びたフェンスで囲われた十五メートル四方程度の小さなグラウンド。
 その中央に人が居た。
 首には狼を象ったシルバーアクセサリー。胸元を大きく開け、地肌に直接纏った白いカッターシャツ。ロングのレザーパンツをラフに履きこなし、革靴でしっかりと大地を捕らえている。
(まさか……)
 長く伸ばした黒髪をうなじの辺りで縛り上げ、攻撃的な視線でコチラを見ている男に麻緒は心当たりがあった。
 いや、心当たりなんて物じゃない。良く知っているという表現も生ぬるい。
 なぜなら自分はずっと、その人の背中を追い続けて来たのだから。
「お兄ちゃん!」
 麻緒は大声で叫ぶと、文字通り飛び跳ねながら彼の元に駆け寄った。
「よぉ、麻緒。相変わらず元気そうじゃねーか」
 彼はどこか皮肉っぽい笑みを浮かべると、狼のアクセサリーを指先で弄びながらコチラに体を向ける。
 この声。この喋り方。この目つき。この体躯。
 間違いない。自分が尊敬し、目標としてきた男、荒神冬摩だ。
「なに何ナニ!? どーしてココに!? 久里子お姉ちゃんに聞いたの!? 他の人は!? 一人!? ひょっとして何かあった!? ボクの力が必要なった!? 玲寺兄ちゃんは!? もう戻って来てるの!?」
 麻緒は頭に思い浮かんだ言葉を、心底楽しそうな声で手当たり次第羅列していった。
 何だろうこの感じ。もう何十年間も前に忘れ去った物が突然蘇ったような、ひどく懐かしい気持ち。そしてその中に息づく果てしない昂揚感。まるで自分の居場所をようやく見つけた時のように……。
「いっぺんに言うなよ。聞くだけで疲れてくる。ゆっくり喋れ」
「ああっ、ゴメンっ。ゴメンねお兄ちゃん。超久しぶりだったからもー、昂奮しまくっちゃって! で? で!? 今日はどうしたの!? こんなトコで!?」
 冬摩に言われてもやはり自分を抑えきる事ができず、麻緒は最初と同じように早口でまくし立てた。
「ぁあ、お前にちょっと用があってな」
 そして冬摩の言葉に麻緒は破顔する。
 やっぱり。やっぱりだ。やっと自分を迎えに来てくれたんだ。ようやく自分の力が必要だと思い直してくれたんだ。
 いったいどんな楽しいトラブルが待ってるんだろう。考えただけで、さっきまでとは比べ物にならない血の昂ぶりが全身を呑み込んでいく。
「しかし、なかなか立派な結界じゃねーか」
 冬摩は両手をポケットに突っ込み、中空をぐるりと見回した。
「こんなの大したモンじゃないよ。呪符でちょちょいって作った即席結界だもん」
「けど、周りから空間を隔離するっていう基本的な力は備わってんな」
「まーね」
 へへっ、と自慢気に笑って鼻の頭を掻きながら、麻緒は少し照れたような表情を浮かべる。
「で、あの女は?」
 言われて麻緒は冬摩が向けた視線の先を見て、
「あぁ、ただのクラスメイト。でも別に気にする事ないよ。彼女、ボクらがやってる事に関しては結構寛大だから。ちょっとやそっとじゃ驚かないって」
 軽い口調で返しながら冬摩の方に顔を戻した。 
「って事はちょっとやそっと以上だと、厄介な事になりかねないって訳か」
「で? で? 何なの? ボクに用って。早く教えてよ。お兄ちゃんらしくもないっ」
「……まぁ、別にいいか。多分何とかなるだろ」
 冬摩は少し目線を上げ、何か考えた後また夏那美の方を見る。
「居ない方がいいならそう言ってこようか? そーだよね。ソッチの方がお兄ちゃんも話しやすいモンね」
 麻緒は弾んだ声で言い、一端冬摩から離れて夏那美に近寄った。しかし彼女はコチラを見る事なく、不審感を露わにした視線で冬摩の方を見つめている。
「誰、なの? あの柄の悪い人」
 まぁ、そう思われてもしょうがないか。いや、そういう印象を抱くのが普通か。
「詳しい事はまた明日話すよ。それで悪いんだけどさ、今日は先に帰ってて貰って良い? ボクこれからあの人と超重要な話あるんだ」
「イヤ」
 しかし夏那美は半眼になって即否定する。
「頼むよー。じゃー今度買い物に付き合うからさっ。今日のところはお願いっ、ねっ?」
「……嘘っぽい」
 更に目を細くして胡散臭げに言う夏那美。
「なんか明日になったら『えー? そんな事言ったっけー』とか言われそうな気がする」
 ……やはり、自分には人を騙す才能が無いらしい。
「ホントホントっ、絶対にホントだから今日は頼むよー」
「イヤ」
 ……クソ、何かメンドくなってきたな。こうなったら力ずくで――
「別にいいぜ。観客が一人くらい居てもよ。それに、時間も無くなってきちまったしな」
 麻緒の背後から冬摩の影と声が掛かった。
「玲寺の野郎が始めやがった。コッチもさっさと片づけねぇとな」
 言葉に何か冷たい物が混じる。
「玲寺兄ちゃん?」
 聞き返し、後ろを向いた麻緒の腹部を壮絶な圧迫感が襲った。
「あ――」
 口から漏れる吃音。
 一瞬、体が軽くなったかと思うと両足が地面から離れ、喉の奥から込み上げて来た熱い塊が眼前に舞う。視界の隅で揺らぐ呆けた表情の夏那美。ソレが一瞬にして消えたかと思うと、背中に激烈な衝撃が走った。
「な……」
 何が……。今、いったい何が起こったんだ……?
 麻緒は自分の身に起こった事を理解する前に立ち上がり、真横に跳んで冬摩から距離を取った。ソレは体に染みついた、覚醒者としての戦闘本能。
「ふん、さすがは天才児様。不意打ちでもこの程度じゃピンピンしてるって訳か」
 冬摩は馬鹿にしたような口調で言いながら、長い後ろ髪を梳くように手で触った。
「こ、の……」
 足が震えている。焦点が定まらない。気分が悪い。体中が痛い。
 今、自分は冬摩の拳を腹に受けた。そして後ろに跳ばされ、フェンスに背中を打ち付けた。その後反射的に跳んで間合いを開け、今この位置にいる。
「何、するんだよ……」
 思考がようやく追い付き、頭が突然理解した痛みが一気に襲い掛かって来た。
 口の中一杯に広がる鉄錆びの味。奥歯をきつく噛み締めて何とか意識を繋ぎ止め、麻緒は冬摩を睨み付ける。
「さぁて、何だと思う?」
 余裕の笑みを浮かべて言い、冬摩は大地を蹴った。視界が茫漠としつつある麻緒には消えたようにすら見える。
(どっちだ――)
 見極めろ。冬摩の動きを。気配を。殺気を……!
(左!)
 胸中で叫んで両腕のガードを上げる麻緒。
「が……!」
 しかし拳撃が突き刺さったのは右頬だった。
 脳を激しく揺さぶられ、気力で保っていたモノがあっけなく寸断される。
(どうして……)
 視界が地面に引き寄せられる中、麻緒の脳裏にあるのはただだだ疑問。
 確かに左から気配を感じたのに……どうして冬摩はこんな事を……冬摩は一体何をしにココまで……。
 分からない。何一つとして。
 目の前が暗くなって行く。気持ちの悪い浮遊感に身を任せながら、麻緒を視線だけを上げて冬摩を見た。
 見下し、馬鹿にしたような表情。自信に満ち溢れ、その双眸にはどこか狡猾な光が――
(ク……)
 氷解する疑問。 
(ククク……)
 不意に沸き上がる異質な感情。
(そういう、事か……)
 躰の最深から漏れ出す獰猛な獣の呻り声。
(楽しいパーティの、幕開けだ……)
 口の笑みの形に曲げ、麻緒は自分の意識を手放した。





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