貴方に捧げる死神の謳声 第三部 ―黄泉路からの慟哭―

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十二『左の慟哭』


◆紅き可能性 ―荒神冬摩―◆
「……で、冬摩」
 高さ一メートルはある超特大パフェを完食した後、『死神』は白い長テーブルの向こうから訝しげな視線を向けてきた。
「どういう風の吹き回しじゃ」
 そして長く艶やかな黒髪を片手で梳き、袖長白衣の袂で口を隠しながら言う。
「何がだよ」
 ソレに冬摩は不機嫌そうに返し、厚さ十センチのステーキ肉にかぶりついた。コレでもう五枚目。さすがに腹もふくれてきた。
「お主の方から妾達を喚び出すなど。自分で言うのも何じゃが正直考えられん。まさかもう逃げられないと観念した訳ではあるまい?」
「まさかだな」
 肉を荒っぽく咀嚼して飲み込み、冬摩は目を細めて呟く。そしてグラスに注がれた鮮血のようなワインで、口に溜まった肉汁を一気に流し込んだ。
「では何故じゃ」
「餌だよ」
 使用人が運んできた六枚目のステーキ肉を手で止め、冬摩は短く返す。
「餌、とな?」
「魎の野郎がちょっかい出しやすいようにな」
 魎の目的は自分。自分から『死神』を奪い取り、『復元』と召鬼化を組み合わせて龍閃を黄泉還らせる。
 左腕の事を聞き出すために。
「アイツの目的はテメーだからよ」
 正確には『死神』“だけ”だ。『死神』のみに『閻縛封呪環』を施す事。
 玲寺が言っていた使役神を奪い取る三番目の方法。ソレを使えば保持者を殺す事なく、自分が目的とした使役神のみを取り出せる。
 だからあの時、魎は自分を殺さなかったんだ。陣迂との戦いで疲弊していた自分を敢えて見逃した。殺してしまえば『死神』以外も手に入れる事になってしまうから。
 今の魎では九体もの使役神を受け継げないのか、それとも他に何かの理由があるかは知らないが、そう考えれば一応筋は通る。
「ほぅ、そうか。ならば再度問おう」
 言いながら『死神』は、折り畳まれて置かれているナプキンを取り上げ、
「妾だけではなく、『羅刹』まで喚び出した理由はなんじゃ」
 隣りでお子様ランチを食べている『羅刹』の口元を拭いた。スプーンの使い方がよく分からないのか、グチャグチャにしたオムライスを手掴みで頬張っている。そのせいで、首から足元までをスッポリと覆い隠すグレーのロングトレーナーは汚れ放題だ。
「テメーだけだと『いかにも』って感じだろ? だからだよ」
 まぁコレは玖音のアドバイスをただ逆転させただけだが。
「なるほどのぅ……」
 『羅刹』の手を拭いてスプーンを握り直させ、『死神』は使い方を教えてやりながら頷く。
「冬摩……さっきから面妖に思っておったんじゃが……」
 そして顔を上げ、いつになく深刻な表情で続けた。
「お主、随分と冷静じゃのう。あの調子じゃとまたてっきり暴走するのかと思っておったが」
「あ! 私もソレ! 同じ事思ってました!」
 『死神』の言葉に続けて、隣で紅茶をすすっていた朋華が声を上げる。
「だから今度こそ絶対止めようって思っきり身構えてたんですけど……!」
「まぁ、冬摩もソレだけ成長したという事か……。何となく嬉しいようでもあり、寂しくもあるがなぁ……」
「ですよねー。何か私も、ちょっと調子が狂っちゃった、みたいな……」
「そうか! 天変地異の前触れか! いかんぞ仁科朋華! 冬摩のそばに居ては危ない!」
「あ、でも大丈夫ですよ。冬摩さんならきっと溶岩の中でも生きてられますから」
「そうか……言われてみればそうじゃのう」
「はい」
 コイツら……さっきから好き放題言いやがって……。
「あのな……。俺が大人しくしてるのがそんなに珍しいか」
「うむ」
「はい」
「……有り得ない」
 ぐ……何気に『羅刹』まで……。
 声を揃えて即答した三人に、冬摩は顔をしかめて言葉を詰まらせた。そしてすぐに目を逸らし、フルーツバスケットからリンゴを取り出して丸かじりする。
(クソ……)
 確かに、正直なところ今すぐにでも大暴れしたい気分だ。胸クソの悪くなるような事ばかり他人に仕掛けさせて、自分はどこかで高みの見物をきめこんでいる魎に思う存分拳を叩き込みたい。
 だが、肝心の居場所が分からない。
 最初、また単独行動に出て魎を引きずり出そうと思っていた。だが、すぐに朋華の顔がよぎった。その途端、全身が一気に冷たくなった。
 自分が暴走すれば朋華は必ず追い掛けてくる。恐らく、今回と同じようにたった一人で。
 そしてソレは魎にとって朋華を捕らえる最高のチャンスとなる。人質に取る絶好の機会を与えてしまう。
 そうなったらもうお終いだ。今回のような奇跡は二度と起こらない。もし朋華が魎に拘束されるような事になれば、自分は間違いなく周りが見えなくなってしまう。暴走して、魎にいいように扱われ、全てが向こうの思い通りに運び、そして最悪の結果がもたらされる。
 ソレだけは駄目だ。絶対に避けなければならない。
 だから今は抑える。
 久里子が戻って来るまで待つ。
 御代を追って行っただけなら、必ず帰ってくるはずなんだ。それに麻緒も一緒に居たと言っていた。だからこうやって待っていれば戻ってくるんだ。戻ってくるはずなんだ。
 そうすればきっと何か良い策を考えてくれる。自分では思いもつかないような奇策で魎を引きずり出してくれるはずなんだ。
 久里子が、無事に帰ってきてくれさえすれば……。
 だが、もし――
(クソッ……!)
 不意に浮かんだ嫌な考えを、冬摩は頭を振って強引に追い払った。
 少しでも気を抜けば獣欲が暴れ始める。甚大な破壊衝動が身を奮い立たせようとする。
 卑劣に歪む魎の顔を想像しただけで、気が狂ってしまいそうになる。
(抑えろ……!)
 朋華の顔に目をやり、冬摩は自分に強く言い聞かせる。
 魎を消し去る事よりも、彼女の安全を第一に考えるんだ。どうすれば朋華を護り抜けるのか。今はソレだけ考えていればいい。魎の事は取り合えず久里子に任せておくんだ。
 『死神』を餌にする? 『羅刹』の具現化は、そうだと気付かせないためのカムフラージュ?
 何を馬鹿な。自分が考える事など魎は全てお見通しだ。アイツはこんな露骨な囮に釣られるような奴じゃない。
 二人を喚び出した理由は単純。
 少しでも気を紛らせるためだ。
 いつもはただ鬱陶しいだけの二人の馬鹿なやり取り。だがソレは紛れもなく自分に取っての日常。腹立たしくも何故か落ち着く、自分の居場所。
 今は『死神』と『羅刹』から少しでも日常を感じて、冷静にならなければならない。
 いや、もう冷静なフリでもいい。大人しくしているのが得策なのだと、自分に言い聞かせられればソレでいい。
 そうする事が朋華の護る事に繋がるのなら何だって――
「あの、冬摩さん……?」
 戸惑ったような朋華の声に、冬摩は思考を中断した。
 いつの間にか朋華を見つめてしまっていた。
(ヤバい……)
 やはり恐い表情をしていたのだろうか。朋華に何か勘違いをさせていないだろうか。変な気を遣わせないだろうか。精神的な負担にならなかっただろうか。
 途端に心配事が堰を切って溢れ出て、一気に頭の中を埋め尽くす。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
 動揺を隠せない冬摩に、朋華は明るい笑顔を見せた。そして左手を取り、
「冬摩さんの方から離れて行かない限り、私はずっと冬摩さんのそばに居ますから」
 両手でそっと包み込んで言う。
「ですから、辛い時は辛いって言って下さい。私にも一緒に悩ませて下さい。その方がきっと、上手く行きますから。ね?」
 諭すような、そして子供をあやすような優しい声。
 左腕が持つ得体の知れない力のせいで、自分は朋華と距離を取った。彼女を傷付けないために離れようとした。この力の正体が分かるまでは近付かないつもりでいた。だが、その事が逆に朋華を苦しめていた。
 自分が朋華を追い込むなど、決してあってはならない事だ。
「あぁ、分かってる」
 だからそんな事はもう二度と――
「お前は俺の女で、俺はお前の男だからな」
「は、はいっ……」
 言い切った冬摩に、朋華は少し恥ずかしそうにしながらも嬉しそうに返した。
 そうだ。自分達は他の誰よりも強く結ばれている。だから全ての事を共有しなければならない。より強く、そして深く結ばれるために。
(にしても……)
 まさか咄嗟に口から出てしまった言葉で朋華が吹っ切れたとは。世の中何が起こるか分からないものだ。だがコレでようやく朋華と……。
「『羅刹』、虫ダンスじゃ」
「分かった」
 横手からした声に、冬摩と朋華は同時に振り向いた。
 テーブルの上で『羅刹』がブリッジの体勢となり、両手と両足の力だけで器用に飛び跳ねている。
「あ〜いやはら〜えぉ〜ほぇぃ〜。むっし、むっし、むっしっしー」
 そして甲高い裏声を上げながら、円を描くように動き始めた。
「『羅刹』クンやめてー!」
 金切り声を上げながら『羅刹』に飛びつく朋華。
「テメェ! 何のつもりだ!」
 そして冬摩はテーブルを飛び越え、『死神』の襟元を掴み上げて叫ぶ。
「なんじゃ。妾達の邪魔が無いと物足りんのではないのか」
 『死神』はどこからか取り出した扇子で口元を隠し、半眼になって嫌味っぽく言った。
 この野郎、ワザとやってやがるな……。
 森の中で朋華と抱き合った時、居るはずのない『死神』と『羅刹』に反応して体を離してしまった事を思い出す。
「次からは絶対にすんなよ」
 強く言い放ち、冬摩は『死神』を解放して椅子に座り直した。
(まぁいい……)
 そして舌打ちしながらも、納得したように数回頷いてリンゴにかぶりつく。
 今のところはこうやって馬鹿やっていればソレでいい。魎の事を少しでも頭から振り払う事が出来るなら、コイツら二匹の挑発は甘んじて受け入れる。元々そのために喚んだのだから。
 ……とは言え、その事を『死神』に悟られる訳にはいかないが。
「せ……せえええぇぇぇぇふー……」
 テーブルの上で『羅刹』を押し倒し、朋華は辺りに異変が無い事を確認して安堵の息を漏らした。
(む……)
 その二人の格好に冬摩は不愉快そうに眉を顰め、
「ぬ……」
 同じく柳眉を寄せている『死神』と目が合う。
(何だぁ……?)
 すぐに目を逸らした『死神』を不審そうに見つめながら、冬摩は芯だけになったリンゴをテーブルの上に置いた。
「はぁーもぉー……。私、アレ見るとぞわぞわぞわぁ! ってなってホントだめ何ですよぉー……。まったく……何であんなのがこの世に……」
 朋華は『羅刹』を解放し、ブツブツと零しながら席に戻る。いつになく表情がブラックだ。
 どうやらGが余程苦手らしい。あんなチョロチョロするだけしか能のない虫のどこがそんなに恐いのか、自分には全く分からないが。
 ――と、大広間の出入り口付近に掛けられた大きな振り子時計が、重厚な鐘の音を鳴らした。
 その数、十二。 
「子供はもう寝る時間じゃのぅ」
 『死神』が『羅刹』の首根っこをつまみ上げ、浮遊して席を立つ。そして窓の外を見ながら息を付いた。
「ココの主殿がどこまで行ったのかは知らんが、さすがに今日中に戻って来る事はなかったか。ま、気長に待つしかないな」
 夜の十二時。
 館の周りは深い真闇に包まれている。だが、久里子は戻って来なかった。
「冬摩、お主が待つと決めたんじゃ。ならばせめて、後一日くらいは辛抱せんとのぅ」
 『死神』は肩越しにコチラを振り返り見て、含みを持たせた笑みを浮かべる。
「わざわざテメーに言われるまでもねーんだよ」
 ソレに乱暴に返し、冬摩は席を立った。
 疲れなどは感じない。ずっと神経が昂ぶり続けていて、眠気など全く無い。
 だが客観的に見ればかなり消耗しているはずなんだ。
 陣迂と戦いが終わってからは、一睡もせずに魎を探し続けた。そして朋華と一緒にこの館に戻り、例の三人組との凄惨な戦いを強いられた。
「水鏡魎はまだ直接は仕掛けてこない。ま、休めるうちにしっかり休んでおくんじゃな」
 ソレだけ言い残し、『死神』は『羅刹』と一緒に大広間を出て行く。
「けっ……」
 二人の後ろ姿を見ながら、冬摩は小さく毒づいた。
 分かっている。そんな事は自分だって分かっている。
 直感だが確信に近い物がある。
 魎は待っているんだ。自分が最も動きやすい時を。コチラのアキレス腱が晒される時を虎視眈々と狙っている。
 だからその前に、何とかしなければ……。
「朋華」
 冬摩は朋華の名前を呼びながら、彼女の肩に手を乗せた。
 とにかく、あまり長く居てもしょうがない。ココで久里子の帰りを待ち続けていれば苛立ちは積もる。そして自覚の無い疲労がどんどん溜まって行き、いずれ獣欲と共に爆発する。
 そうなってしまっては元も子もない。『死神』の言うとおり、睡眠を取るのが一番正しい選択だ。
 冷静に。今は冷静にだ。冷静なフリをしているんだ。
 そうやって自分を騙して、暴発を抑え込んでおかないと……。
「あの、冬摩さん。一つだけ、聞いても良いですか?」
 朋華は茶色のセミロングを揺らしながら立ち上がり、少し躊躇いがちに口を開いた。
「何だ?」
「どちらと、戦ったんですか?」
 そしてコチラの瞳を真っ直ぐ見て聞いてくる。
「どちら……?」
「水鏡さんと……陣迂さん……」
「あぁ」
 一瞬、何の事か分からなかったが、付け足された朋華の言葉に冬摩は短く返して頷いた。
「陣迂だ」
 言われて朋華は少し驚いたような表情を見せた後、呼吸を整えるように息を吐いて、
「どう、でしたか……?」
 神妙な表情で聞く。
「どうとは?」
「やっぱり……悪い人、でしたか?」
「ワル……?」
 ああ、そういう事か。玖音に言われた事をずっと気にしていたんだな。
 冬摩は朋華を笑顔で見つめ返し、
「朋華、賭けはお前の勝ちだ」
 龍の髭を解きながら言った。
「え……?」
「お前の言った事の方が正しかったよ。陣迂は……アイツはなかなか面白い奴だった。少なくとも悪い奴には見えなかった。ま、俺個人の感想だけどな」
 冬摩の言葉に朋華はしばらく呆けたような表情を浮かべていたが、突然何かを閃いたかのようにハッとなると、急速に口元が緩み始める。
「ですよね!」
 そして大きな声を上げて破顔した。
 そう。陣迂は決して悪い奴ではなかった。仕方なく魎のそばに居るというだけで、アイツの言う事を無条件に聞いている訳ではなかった。ちゃんと自分の信念を持っていた。
(俺と戦う事を楽しみに、ね……)
 単純で、分かり易い信念を。
 そういう考えを持った奴に悪い奴は居ない。少なくとも自分が知る限りでは。
 牙燕もそうだったし、それに、玲寺の奴も……。
「私も! 私もそう思います! お揃いですね! 冬摩さん!」
 朋華は一人ではしゃぎながら、コチラの両手を取って上下に激しく振り回した。
(玲寺……)
 朋華と会う直前、玲寺は唐突に姿を現した。そして不可解な行動を取って去って行った。
 アイツも、多分悪い奴ではない。だが陣迂ほど単純でもない。何を基準にどう動いているのか、自分では分からない。
 敵なのか、味方なのか、そのどちらでもないのか……。
(……まぁいい)
 今は考えていてもしょうがない。悩めば悩むほど、思考が嫌な方向に進んでしまいそうだ。それに自分が頭脳労働に向いていない事は十分自覚している。だから今は――
「寝るか、朋華」
「はいっ」
 冬摩の言葉に朋華は明るく返し、
「はぃ……?」
 すぐに戸惑いの表情へと変わった。
 二重の大きな目をパチパチと早い間隔でまばたかせながら、チェリーピンクのヘアバンドを両手でいじり回し始める。
「眠れないのは分かるが、今は休んでおいた方が良い」
「い、や。えっと……そうじゃなくて……」
 自分自身に聞かせるように言った冬摩に、朋華は白のロングパーカーの裾を翻しながら挙動不審に辺りを見回した。
 しかし突然動きを止めたかと思うと、深呼吸をしながら「私は冬摩さんの女……私は冬摩さんの女……」と呪文のように呟き始める。
(あぁ、そうか……)
 その反応に、さすがの冬摩も察した。
「まぁ部屋は同じにして欲しいが、ベッドは別々……」
「だいぢょぶです!」
 そして声を掛けようとした時、ソレを遮って朋華が舌っ足らずに叫び上げる。
「大丈夫! 私! 大丈夫ですから!」
 握り込んだ両手を胸の前で大きく振り回し、まるで自分自身を奮い立たせるかのように朋華は大声で言った。両目の焦点はまるで定まっておらず、顔は熱病にでも浮かされたように上気している。足元もおぼつかず、上体も安定せずにフラフラとして、まるで空気の中を泳いでいるかのようだった。
「……ホントに大丈夫か?」
「大丈夫です! 私は冬摩さんの女ですから!」
 と、明後日の方向に向かって高らかに宣言する朋華。
 全くコチラが見えていない。どう見ても大丈夫ではなさそうだ。
「さぁ行きましょう!」
 と、長テーブルに掛けられたシルク製のクロスを引っ張る朋華。
 ソレに引きずられ、食器やら銀の燭台やらが派手な音を立てて床へと落下する。
「朋華、朋華」
「なんれすか!?」
 もはや呂律すら回っていない。今の朋華は泥酔者のソレと同じだ。
「あのな、何も無理に頑張る事は……」
「私わ冬摩さんの女れふから!」 
 ……どうやら、今の朋華を止める方法は無いようだ。

 で、結局。
 お互い別々に軽くシャワーを浴び、その後で同じベッドに入ったまでは良かったのだが……。
(取り合えず今はコレで良し、だな……)
 三階。部屋の外側に大きくせり出したバルコニー。
 複雑な意匠の施された金属枠に体を預けながら、冬摩は小さく息を吐いた。黒のタンクトップと綿製のロングパンツが、冷たい夜気を適温に調節してくれる。長居するには丁度良い。
 冬摩は苦笑しながら首を後ろに向け、ベッドの上で硬直したまま眠りに落ちている朋華に視線を向けた。
 自分がシャワーを終えて出てきてからというもの、ずっとあの調子だ。いくら声を掛けても、髪を撫でてみても、体を揺すってみても何の反応も示さない。そして最後には緊張し疲れて、あの体勢のまま眠ってしまった。器用なものだ。
(ま、時間は沢山あるさ)
 小さく笑みを漏らし、冬摩はまた顔を元に戻して、
「あまり気落ちはしてないようじゃのぅ」
 上下逆となった『死神』の顔が目の前にあった。
「何やってんだ、テメーは」
 真下にだらーんと黒髪を垂らし、足を上に伸ばして腕組みしている『死神』に半眼を向けながら、冬摩は鬱陶しそうに呟く。
「何、絶世の美女と二人きりで見上げる欠け月というのも、風情があって良いのではないかと思うてな」
「余計なお世話だ」
「まぁそう言うな。せっかく喚び出して貰ったからには、ソレに見合う働きをせねばのぅ」
 朱袴の裾を揺らして体の上下を反転させ、『死神』はバルコニーの外枠に腰を下ろして艶笑を浮かべた。
 コイツ……まさか気付いて……。
「ホレ。お主もどうじゃ、一杯」
 柳眉を軽く上げながら透き通った声で言い、『死神』は袖長白衣の袂から盃を取り出してコチラに差し出す。
 冬摩はしばらくソレを黙って見つめていたが、やがて小さく舌打ちして乱暴に取り上げた。
「仁科朋華が相手では、まだこういう付き合いはできんじゃろ」
 くっく、と意地悪く笑いながら、『死神』はどこからか取り出した徳利(とっくり)を傾けて酒を注ぐ。冬摩はソレを一気に飲み干し、熱い息を吐き出した。
「おー、良い飲みっぷりじゃ」
 空となった盃に『死神』は嬉しそうにまた酒を満たす。
「俺はもういい。後はテメーが飲めよ」
「ほぅ、では妾と関節きっすがしたいと申すか」
「具現化解くぞテメー」
「しかしソレでは水鏡魎が釣れなくなるのぅ」
 突き返された盃を受け取り、からかうような口調で言う『死神』。
 ……コイツ、また分かってて言ってやがんな。
「嶋比良久里子の事が心配か?」
 冬摩から目を逸らし、『死神』は半分に欠けた月を見上げながら呟いた。
「別に心配なんかしてねーよ。さっさと戻って来ねーから苛ついてるだけだ」
 突然振られた久里子の話題に、冬摩はぶっきらぼうに返す。
 そう。絶対にもうすぐ戻ってくるはずなんだ。戻って来ないなどという事は有り得ない。そんな事は、絶対に……。
 だが、明日一日待って戻ってこない時はコチラから探しに行くか? いや、しかしソレだとすれ違いになってしまうかも知れない。第一どこに行ったのかまるで見当も付かない。
 やはり、ココで待つしか……。
「魔人とは言え、変われば変わるもんじゃのぅ」
 『死神』は盃を軽く傾けながら独り言のように言った。
「何がだよ」
「仁科朋華の力は偉大よ。妾ではとても真似など出来そうもない」
「だからさっきから何なんだよ」
「水鏡魎を、殺すんじゃな?」
 その言葉に、冬摩の全身に冷たい物が走り抜ける。だがソレはすぐに灼熱へと昇華し、鋭い炎となって本能を突き上げた。
「……ああ」
 そして冬摩は絞り出すような声で低く返す。
「いつ、仁科朋華に言うつもりじゃ?」
「……さぁな」
 魎は殺す。ソレはもう決めた事だ。絶対に揺るがすつもりはない。
 だが、まだ朋華には言えていない。言い出すキッカケさえ掴めていない。
 怯えているのか? 朋華に止められてしまうかも知れないと。もしかしたら拒絶されるのではないかと。

『私は……冬摩さんがそう思ったんなら、ソレで良いんだと思います』

 少し前に、朋華自身の口からそう言って貰えたのに。自分が殺したいくらいに相手を憎んでしまったのなら、ソレはしょうがないと言ってくれたのに。
 あの時はまだ辛うじて仮の話だった。しかし、今こうして決心してしまった後では……。
「そんな大事な事を隠すでない。お主が真剣に考えて、真剣に悩み抜いて、そして真剣に導き出した結論じゃ。仁科朋華がソレを否定するはずがなかろう」
 『死神』はコチラに顔を向け、口の端を吊り上げて微笑した。
「今のお主が抱いておる殺したいという強い思いは、かつてのお主が徒(いたずら)に振りかざしていた暴力とは全く異質な物。昔のお主はただ自分の気に入らない物に対して幼稚な破壊願望を叩き付けていただけじゃが、今のお主が胸に秘めているのは優しさ故の怒り。大切な物を護るために掲げた勇気じゃ。人の生き死には綺麗事では語れん。生きるために殺すのは決して悪い事ではない。向こうには向こうの正義がある。コチラにはコチラの正義がある。共存叶わず互いの正義が反目し合う以上、どちらかが潰れるのは自然の摂理よ。じゃから冬摩、もっと自分に自信を持て。仁科朋華を失いたくないのならばな」
 夜闇に溶け込む、凛と張った美しい声。
 ソレはまるで、弦楽器の奏でる音色のようで――
「『死神』……」
「大丈夫じゃ。仁科朋華は強い。お主と共に過ごしたこの三年で精神的に随分と成長しおった。あの三人の保持者の死を目の当たりにしても、ちゃんと自制できておるではないか。お主同様、怒りを感じておるじゃろう、哀しみも受けたじゃろう。じゃが、ああして平静を保っておる。自分の中で消化して押さえつける術を心得ておる。じゃからお主の決意を聞いても、間違いなくソレを正面から受け止めてくれるわ。いや、もしかするとすでに悟っておるのかも知れんな。お主の考えを」
 徐々に声を明るくして言いながら、『死神』は盃の中身を一気に飲み干した。そしてその秀麗で大人びた横顔に、童女のような子供っぽい笑みが浮かぶ。
「へっ……まさかお前にそんな事言われるなんてな。ビックリだぜ」
「ソレだけお主が追いつめられておるという事じゃ。しっかり自覚せい」
 長く艶やかな黒髪を片手で梳いた後、『死神』は溜息混じりに言って再び盃を満たした。
「水鏡魎が差し向けてきたあの三人、アレはただお主の怒りを煽るだけの物ではないぞ」
 そして盃の中に半月を落とし込んだまま、『死神』は険しい顔付きで目を細める。
「嶋比良久里子とお主を間違えたといった感じでもなかった。宗崎、繭森、白原の保持者三人は、間違いなくお主を狙っておった」
 戦いを見ていた館の使用人が零した言葉。
 ソレはあの短髪の少年が宗崎家の、口髭の男が繭森家の、そして細身の女が白原家の保持者であったという事実。魎によって連れ去られ、行方不明となっていた草壁の三分家。
 その三人が、龍閃の波動を纏って自分の前に現れた。
 確かにコレまでの駒よりは強かった。はっきりと力の差を感じた。
 だがそれでも、自分を仕留めるには明らかに力不足だった。
「あの三人、恐らく最初から死ぬために送られてきたんじゃ」
「死ぬためだぁ……?」
 『死神』の言葉に冬摩は剣呑な物を声に混ぜて返す。
「自爆が目的という事よ」
「自爆して俺の力を弱めようってか? あんなちゃちな呪符程度で?」
「さぁな。じゃがあの水鏡魎がその辺りの加減を読み間違えるとも思えん。挑発が目的なら別にあの三人でなくても構わん。じゃから他に何らかの理由が有るはずなんじゃ。わざわざ保持者を捨て駒に使わなければならなかった、重大な理由がな」
「例えば」
「例えば、そうじゃな……」
 言いながら『死神』は顔を上げ、 
「紅月がお主にもたらす影響が少なくなる、とかな」
 半月を見ながら呟いた。
 紅月の影響が弱まる? 本来、魔人や召鬼が得られる絶大な力が無くなってしまう?
「そんな突拍子もねぇ……」
「本当にそう思っておるのか?」
 冬摩の言葉に被せるようにして、『死神』は鋭く言い放った。
「お主もすでに気付いておるはずじゃ。水鏡魎は待っておる。紅月の夜が訪れるのをな」
 魎は紅月の日を待っている。
 ソレは、薄々感じていた。いや、直感的には確信に近かった。
 紅月時には自分の体に激的な変調が訪れる。
 魔人の血が覚醒し、九体の使役神によって殺戮衝動が異常に高められ、自我が崩壊する寸前まで追い込まれる。全く周りが見えなくなり、自分の意思とは関係なく破壊をばら撒き続ける。
 だからこれまでは、紅月当日とその前後二日間、つまり五日間は朋華の元から離れていた。彼女をこの無慈悲で冷徹な力に巻き込まないために。最悪の悲劇を回避するために。
 自分の理性が失われる。自分と朋華が離れ離れになる。
 コレらはどちらも、魎にとって攻め入る絶好の理由となる。
 『死神』の考えが正しかろうと間違っていようと、魎が決めに来るとすれば紅月の日しかない。
 そう考えていた。
「今まではお主の力が圧倒的すぎて手を出せなかったが、この数日で向こうから仕掛けられた“何か”によってその力が弱められておるとすれば?」
 『何か』……?
 今までに魎が自分にけしかけてきた物。龍閃の波動を放つ駒、麻緒、陣迂、玲寺、そして魎自身……。
 その中で自分の力を弱めるような『何か』が……?
「あの三人は式神を持ってはおらんかった。自爆したにもかかわらず、かつての妾のように式神が大地に留まった気配は皆無じゃった。つまり、篠岡玲寺の言っていた事は本当だったと言う訳じゃ」
 玲寺の言っていた事。使役神を受け渡す三番目の方法。召鬼化と『閻縛封呪環』を組み合わせて……。
「もし水鏡魎の狙いが妾じゃとすれば、アイツは妾に怨行術を施して、お主を自分の召鬼にせねばならん。しかし芹沢美柚梨や嶋比良久里子の件で、水鏡魎の支配力はお主より下じゃという事はすでに明白。ならばどすればよいか」
「紅月の時に自分の力だけ高めて、俺の方はそのままにしておけば」
「お主は混血魔人、水鏡魎は真性魔人。受ける影響力にも差はあるじゃろうしな」
 ソレが魎の狙い……?
「まぁ、全くの的外れかもしれんがな。嶋比良久里子が戻ってくれば、もう少し明確な事実に基づいた推論をしてくれるやも知れん」
 言いながら『死神』は盃の中身を一気に飲み干し、熱っぽい息を吐いた。
 久里子が戻ってくれば、か……。
 確かにそうだ。アイツさえ戻って来てくれれば、今の鬱屈とした気分がもっと晴れるかも知れない。もしかしたら魎の居場所を的確に言い当ててくれるかも知れない。だが――
「アリガトよ」
 今は取り合えずコレで十分だ。
「少し、すっきりしたぜ」
 魎の考えている事が朧気ながらも掴めたような気がした。何が狙いなのか、少しだけ明らかになったような気がした。だから、もう一晩くらいはココで我慢していられる余裕が出てきた。
「よもやお主に礼を言われる日が来るとはのぅ。全く、長生きはしてみるもんじゃ」
 座っている金属枠の上に盃を置き、『死神』はどこからか取りだした扇子で口元を隠しながら上機嫌に笑う。
「では妾もそろそろ寝るとしよう。お主も早く仁科朋華の元に行ってやると良い」 
 ――と、ココで違和感。
「『死神』」
 飛び上がり、四階部分に行こうとした『死神』を冬摩は呼び止めた。
「何じゃ?」
「お前、何か一言忘れてないか?」
「一言、とな?」
 そう、少し前までの『死神』ならば、
『ならば冬摩、妾と一夜限りの逢瀬を重ねようぞ』
 という感じに迫って来てもおかしくない。まぁソレがどこまで本気なのかは置いておくとして。
 なのにどうして……。
(いや……)
 よく考えてみれば今回だけではない。確かに自分と朋華の邪魔をするのは相変わらずだが、何かにつけて肉体関係を迫ってきていた『死神』はいつの間にか居なくなってしまった。
「何か、言い忘れた事があったか?」
 アレはいつ頃からだったか……。もうよく思い出せないが……。
「いや、何でもない。勘違いだ」
「そうか……。ではな」
 不思議そうに言って、『死神』は真上へと飛び去った。
(まぁ、いいか)
 自分への被害が減る分には何の問題も無い。ただちょっとひっかかりが残るだけで……。
(ひっかかり……)
 そう言えばちょっと前も似たような違和感があったような気がするのだが……。確か『死神』を体に戻してから……。
「いや。別にいい。うん、いい、いい」
 冬摩は自己暗示でも掛けるかのように繰り返し、部屋の中へと戻った。そしてベッドの方へと歩み寄り、布団の中へと潜り込む。
 そんな大した事でなかったような気がする。少なくとも今気にするような問題ではない。
(おやすみ、朋華)
 胸中で就寝の言葉を呟き、冬摩は朋華の隣りで細く息を吐きながら目を瞑った。

◆血塗れの来訪者 ―荒神冬摩―◆
 心地よい浮遊感が次第に薄れ始め、曖昧だった体の感覚が戻り始める。茫漠としていた思考が次第に鮮明な物へと移り変わり、不自然に途切れていた記憶の糸が少しずつ繋がって行った。
 瞼越しに感じる陽の光。すぐそばで聞こえる誰かの息遣い。
(ぁあっ、と……?)
 冬摩は薄く目を開け、視界に映る物を確認した。
 太い梁の渡された漆塗りの天井。琥珀色のワードローブ。バルコニーへと通じる背の高い扉ガラス。
 どこだココは。どうして自分はこんな知らない場所で。いつもなら真っ白か壁紙が真っ先に見えるはずなのに……。
(そっか……)
 確か昨日は久里子を待っていて、結局帰って来なかったからそのまま……。
「っく……」
 冬摩はベッドの上に上体を起こし、大きく伸びをした。首やら背中やら腰やらからボキボキと小気味良い音が聞こえる。
「んー……」
 そして後ろ頭を乱暴に掻きながら、ヘッドを出ようとして――
「――ッ!」
 突然、意識が明確な輪郭を帯びた。
「朋華!?」
 そして冬摩は自分の隣に視線を落として、
「はぁーぁ〜……」
 大きく脱力した。
 ソコには口に真一文字に結び、表情を強ばらせたまま眠っている朋華の姿。
 良かった。無事だった。額に大量の汗を掻いているが、ソレを除けばいつもの朋華だ。
 軽く仮眠を取る程度にしておこうと思っていたのだが、いつの間にか熟睡してしまっていたらしい。どうやら思っていた以上に疲れが溜まっていたようだ。
 壁に掛けられた時計を見る。五時半過ぎ。
 正直、まだ寝足りないが、そう自分を甘やかす訳にも行かない。
 冬摩は欠伸を噛み殺し、ベッドから這い出ようとして――
「――ぁぁぁ……いぃぃぃ……!」
 遠くの方から誰かの声が聞こえてくる。
「あぁぁぁ――きぃぃぃぃ……!」
 ソレは次第に大きくなっていき、
「ああああぁぁぁぁにきいいいいぃぃぃぃぃ……!」
 バッタン、ドッカンという破壊音がソコに混じり、
「兄貴ぃ!」
 蝶番の壊された樫の木製の扉が飛んできた。
「うおおぉぉぉぉぉ!?」
 冬摩はソレを反射的に腕で叩き壊し、向こう側に居た人物に目をやる。
「て、テメェ……! 何のつもりだ!」
 ソコに立っていたのは肩で荒く息をしている美柚梨だった。
 しかし明らかに様子がおかしい。愛嬌のあった目は鋭角的に見開かれ、肉食獣のように血走っている。綺麗に手入れされていた背中まである紅髪は、今や泥と埃で薄汚れて見る影もない。
 ファー付きの黒いウールジャケットも、黄色と青のストライプが引かれたTシャツも、方々を何かに引っかけて破れ去り、七分丈のキュロットパンツに付けられていた無数のキーホルダーは全て無くなってしまっていた。
「な、何だ……オイ、何が……」
 美柚梨から発せられるただ事ではない殺気に冬摩は思わず気圧され、
「うぅ〜ん……ん……?」
 隣で朋華が眠そうな声を上げて、
「何やっとんじゃオドレらはああああぁぁぁぁぁぁ!」
 美柚梨のドロップキックが飛んで来た。

「とまぁ、ウチらの方はこんな感じや」
 早朝の大広間。白いテーブルクロスの掛けられた長テーブルを挟み、自分の向かい側に腰掛けた久里子は疲れた表情で言い終えた。
 美柚梨ほどではないがベージュのカットソージャケットも、黒のストレートパンツも、所々に解れが見られる。夜中に森の中を全速力で駆け抜けたのだから、当然と言えば当然なのだが。
(陣迂と、麻緒が……)
 久里子から最後に言われた事を頭の中でもう一度繰り返し、冬摩は鋭く眼を細めた。
 あの二人が本気で戦えば……いったいどうなるんだ?
 陣迂は強い。自分と戦った時はまだ力を出し切っていない感じがあった。アイツが持っている『影狼』の力はまだまだあんな物ではない。しかし、アイツは魎の放った雷をまともに受けて……。
 いや、それなら麻緒だって同じ事だ。麻緒だって玲寺との戦いの後。しかも久里子の話では左腕を半分失っていたらしい。そんな状態で突っかかっていくところが麻緒らしいと言えば麻緒らしいのだが……。
「でもホンマよかったわー。アンタがココおってくれて。まーたすれ違いになったらどないしょー思ーてたからなー」
 使用人が持ってきたアイスティーを一口含み、久里子は安堵の息を付いて背もたれに体を預けた。
「あぁ、そりゃ悪かったな。テメーが俺追って来てるとは思わなかったからよ」
 ぼさぼさの髪の毛を荒っぽく掻き上げ、冬摩はフルーツバスケットに手を伸ばす。
「……なぁトモちゃん。コイツ、何か拾い食いでもしたん?」
 そしてすぐに久里子のジト目と疑うような声が飛んできた。
「いえ、別に。ただ昨日から妙に大人しいというか……変に冷静というか……」
「分かった! アンタ冬摩やのーて陣迂やろ! 大体あの直情単細胞がウチ待っとるとか、素直に謝るとか有り得へんねん!」
「あのな……」
 ガタン! と椅子を蹴って立ち上がり、一気にまくし立てる久里子に冬摩は震える声で返す。 
 コイツは……人の気も知らないで……。
「……同意」
 『羅刹』……後でシメる。
「あ、あの。それで嶋比良さん。私達はこれからどうするべきだと思いますか?」
 隣で朋華が御代と夏那美の方をチラチラと見やりながら心配そうに言った。
 久里子が背負ってきた御代と、『獄閻』が『金剛盾』の即席のベッドに乗せて運んできた夏那美は、一言も喋らずに俯いたままだ。夏那美の右頬にある小さな傷以外、目立った外傷は無さそうだが、精神的にはかなり参っているだろう。
「せやなぁ……やっぱウチが気になるんは――」
「兄貴ぃ!」
 椅子に座り直し、唸るように絞り出された久里子の言葉を遮って、美柚梨が突然大声を上げた。
「兄貴! 兄貴のトコ行くの! ねぇドコ! クリっち兄貴ドコ! ドコにいんのよぉ!」
 そして久里子の胸ぐらを掴み上げ、激しく振りながら叫び続ける。
「ぢょ……! み、ミーだん……! 待ち……!」
「兄貴兄貴兄貴兄貴兄貴兄貴兄貴兄貴兄貴兄貴兄貴兄貴兄貴兄貴兄貴兄貴ぃぃぃぃぃぃ!」
 顔色を青白くしていく久里子が目に入っていないのか、美柚梨の締め上げる力は見る見る増して行った。
「み、美柚梨さん。そ、ソレ以上は……!」
 さすがに見かねたのか、朋華が立ち上がって止めに入ろうとする。
「何よ! 自分だけ! アタシだって兄貴と一緒に寝たいのにぃ!」
「い、一緒に、寝……って」
 金切り声で叫び上げる美柚梨に、朋華は耳まで紅くして脱力した。そして白いブラウスの胸元をギュッと握り締め、顔を深く俯かせる。
「兄貴に会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたいぃぃぃぃぃぃぃ!」
 目尻にうっすらと涙を浮かべ、久里子を盛大な勢いで振り回しながら叫び続ける美柚梨。
(ダメだな、コレは……)
 完全に理性のタガが外れている。
 人のこういう姿を見ると自分は逆に冷静になるというが……実に名言だと思う。
(玖音、か……)
 冬摩は溜息をついて美柚梨から顔を背け、目を細くした。
 彼は陣迂と一緒に魎が連れて行ってしまった。美柚梨が居るからその事はまだ久里子にも話していないが、絶対に生きているはずだ。アイツのしぶとさは半端ではない。きっと久里子と同じように、拘束されたフリをして魎から情報を聞き出そうとしているんだ。そうに違いない。
 だから心配なんかしない。アイツは誰かの助けなど借りなくとも、いざとなれば一人で逃げられるはずなんだ。ソレだけの力を持っている。だから心配は……しない。
「時に嶋比良久里子、芹沢美柚梨。お主ら二人は冬摩の召鬼じゃが、同時に水鏡魎の召鬼でもある」
 話が前に進まない事に業を煮やしたのか、頭上に浮かんでいた『死神』が少し苛立った声で言った。
「ならばアヤツの居場所を感じ取る事はできんのか?」
 『死神』のその言葉に冬摩は目を大きくし、
「ソレだ!」
 椅子を蹴り壊して立ち上がった。
 どうして今まで気付かなかったんだ。敵の召鬼の事しか頭になくて、極めて身近に居る人物の事をすっかり忘れていた。
「あ……あがん、あかん……。そんなモンとっくの昔、に……試しとるわ……」
 八つ当たりして少しは気が晴れたのか、ようやく美柚梨から解放された久里子は咳き込みながら椅子に腰掛ける。
「ウチらはまだそんな器用なできひん。トモちゃんみたいに年季入っとる訳ちゃうから、冬摩のおる位置もまともに分からんしな。それに水鏡魎は『大陰』持っとる。『心無』の力でそういう繋がりは全部シャットアウトや。玖音もソレはもう試しと……」
「兄貴ぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
 また暴走が始まった。
 どうやら今の美柚梨の前で玖音の名前を出す事は自殺行為のようだ。
「じゃろうなぁ」
 舌打ちして隣の椅子に座り直す冬摩の上で、『死神』はそんな事は知っていたとばかりに言って続ける。
「ならば何故、例の三分家はあのような末路を取ったのじゃと思う? ただの挑発でもなく、召鬼化出来ないくらいに微塵としたのでもないとすれば、水鏡魎は何を考えてあのような事をしたのじゃと思う?」
 昨日の夜も『死神』はその事について引っかかりを感じていた。
 そして“何か”によって自分が紅月から受ける影響を少なくしているのではないかと推測していた。
「せ……せや、なぁ……」
 二度目の解放を迎え、久里子は足元をふらつかせながらも何とか椅子に着地する。
「まぁ、普通に考えたら冬摩を自分の召鬼にするための布石、やろなぁ……。玲寺さんのゆーた事がホンマやったとしたら、やけど」
「そこは真実じゃろう。実際、あの三人は式神を抜かれておった」
「使役神受け渡す三つ目の方法がある、ゆートコまではホンマなんやろーな。せやけどソレが召鬼化と『閻縛封呪環』の組合せでできるかどうかは分からん。……とは言え、あの状況で玲寺さんが嘘言うとも思えんけどな。何があったんかは知らんけど、多分玲寺さんはもー水鏡魎の駒やない。元々、無理矢理自分に言い聞かせて、水鏡魎のそばにおったゆー感じやったからなー」
 カットソージャケットの襟元を整えながら、久里子はどこか嬉しそうに言った。
 確かに、直感でしかないが何となく嘘は言ってなさそうに見えた。だとすれば、魎の目的は『死神』の言うとおり、紅月による自分の力の増大を妨げる事……。勝負は紅月の時。その時になれば、向こうからやってくる……。
 いや――
「で、久里子。魎の居場所は分かりそうか。大雑把でもいいからよ」
 声を低くして、冬摩は久里子を睨み付けるように見ながら聞いた。
 その選択はない。向こうの出方を待つなど有り得ない。
 魎が紅月の時に何を企んでいようと負けるつもりはないが、やはりコチラから攻めなければならない。ドコまでもアイツの思い通りなど、絶対に許さない。
「直接は無理やな。『千里眼』でも見えへん。せやけど今アイツのそばには彼がおるやろ」
 彼……玖音の事か。 
「その人が何とかしてウチらに教えてくれるの待つか、それとも――」
 突然、外から激しい音が響いた。
 続けて何人もの足音。飛び交う怒号。そして銃声。
 久里子が緊張した表情をソチラに向けて立ち上がった時、
「よぉ、お揃いだな」
 大広間の巨大な扉が蹴り上げられた。
「あ、アンタ……!」
 叫んで身構える久里子。
 ソコに立っていたのは冬摩と全く同じ外見をした男。長い髪は束ねられる事なく後ろに垂らされ、履いているレザーパンツは方々が黒く焦げている。上半身は何も身に付けておらず、筋肉質な体をそのまま晒していた。
「よぉ陣迂。随分と情けねー格好じゃねーか。あん時、魎の野郎にやられたままか」
 入ってきた陣迂に余裕の笑みで返しながら、冬摩は座ったまま腕組みする。
「まぁソレだけじゃねーんだけどよ」
 口の端を吊り上げて返し、陣迂は後ろを一瞥して歩み寄って来た。ソレを追って大広間の中に雪崩れ込んで来る使用人達。久里子は彼らを片手で制して浅く頷くと、外に出るように合図する。
「なかなか躾の行き届いた事で」
「このメンツとやり合うつもりかい」
 美柚梨、夏那美そして御代を庇うように前に出、久里子は鋭い視線を陣迂に向けた。
「麻緒はどないしたんや」
「あぁ、だからよ。わざわざ届けに来てやったって訳だ」
 久里子の言葉に陣迂は茶化した口調で返し、左手に持っていた物を高く掲げる。ソレはまるで擦り切れ果てた古着を固めたようで……。
「麻緒君!」
 夏那美の悲鳴混じりの叫声が大広間に響く。
「か、カナちゃ……!」
 そして久里子が止めようとするよりも早く、夏那美は陣迂の方に駆け出した。
「麻緒君! 麻緒君を離しなさい! このバカ!」
「やれやれ、せっかく運んでやったのによ。まぁいい。ほらよ、勇敢なお嬢ちゃん」
 眉を上げて苦笑しながら言い、陣迂は手に持っていた物を夏那美に手渡す。
「ま、麻緒君! 麻緒君! 麻緒君!」
「心配すんな。死んじゃいねーからよ。なかなか優秀なガキみてーだから意識はすぐに戻んだろ」
 麻緒の体を揺すりながら狂ったように泣き叫ぶ夏那美に、陣迂は髪を荒っぽく掻きながら言った。
「陣迂……アンタが、やったんやな……」
「あぁ、勿論」
「麻緒は、生きてんねんな……?」
「そう言ったろ?」
「変な仕掛けしてんちゃうやろな」
「するならもっと分かりにくくするわな」
 固い表情で聞いた後、久里子は重く息を吐きながら夏那美と麻緒に目を向けた。
 久里子も分かったのだろう。陣迂がどういう人物なのか。どういう物の見方をして、どのような考え方をするのかが。
 陣迂がただ単に魎の駒なのであれば、生きたまま麻緒を返したりはしない。人質として持っているか、あるいは――
「お前の……お前のせいで!」
 憎悪に満ちた夏那美の声。傷だけの麻緒を抱きかかえたまま、夏那美は下から陣迂を睨み付けた。
「お前が……! お前が! お前がぁ!」
 そして普段の夏那美からは想像も出来ないような低くしゃがれた声で叫ぶと、麻緒を背中で守るようにして立ち上がる。
「お前がぁッ!」
 一際大きな怒声を放ち、夏那美は握り締めた拳を陣迂の脚に叩き付けた。
 全身の怒りをぶつけるかのように、何度も、何度も、何度も。
「あん時より、さらに成長したって訳だ」
 そんな夏那美を見下ろしながら、陣迂は静かに呟く。
「ならその坊主にもしっかり見せつけるんだな。自分がどんだけ想ってるかをよ。コイツが嫌がるくらいにな。そーすりゃきっと坊主も成長するさ」
 ソレだけ言い残し、陣迂は背中を向けて出入り口の方に向かった。支えを無くした夏那美は大きく前につんのめり、床に突っ伏す。しかしすぐに立ち上がって陣迂を追おうとするが、脚がもつれてまた転ぶ。震える手で床を押し返し、顔を上げて陣迂を睨み付けたところで久里子に後ろから抱きしめられた。
「待ち、陣迂」
 短く低い声で、久里子はそのまま去ろうとする陣迂を呼び止める。
「水鏡魎の居場所、知ってんねんやろ?」
 そして嗚咽する夏那美を胸の中へと抱き入れながら、射抜くような声で聞いた。
 久里子の言葉に陣迂は足を取め、
「だったら?」
「教えろ」
 コチラを振り向かぬまま言った陣迂に、冬摩は椅子から立ち上がって言う。
「もしテメーが魎の野郎の居場所知ってんなら帰す訳にはいかねぇ。力ずくって事になる」
「力ずく、ねぇ……」
 面白がるような声で言って、陣迂は体を半分だけコチラに向けた。そして小さく鼻を鳴らして続ける。
「いいねぇ、そーゆーの。出来れば受けたいんだが、俺も魎の野郎を先に潰したいんでね。そのガキの事もあるし、今はスカッとした戦いは出来そうにねぇ。悪いがまた今度、だな」
「知ってんのか、どっちだ」
 声に殺気を込め、冬摩は陣迂の言葉に被せて言った。
「残念だが知らねぇ。けど何となくは分かる」
「ドコだ」
「アイツ性格よく考えてみろよ。一皮剥けば龍閃と変わんねぇ。頭が良いフリして意外と単純だぜ? アイツのやってる事はよ」
「だからドコだ!」
「冬摩の近く、ゆー事やな」
 激情を剥き出しにして叫ぶ冬摩の前で、久里子が冷静な声で返す。ソレに陣迂は片眉を上げながら小さく頷いた。
「水鏡魎の目的はアンタや。アンタを精神的に追いつめる事や。せやからウラらにちょっかい出したり、玲寺さんとか陣迂とか使いづらい駒をあえて使こーた。ほんで時間掛けて回りくどく攻めて来とる。多分、アンタの『左腕』の事を知る上でソレが必要なんや。水鏡魎が言っとった『仮説』を証明する上でな」
 『精神的苦痛』、『左腕』、『仮説』……。
 魎は自分の『左腕』に宿る力の事を知るために、コレだけ大がかりな事をして『精神的苦痛』を。そのために玖音をさらい、陣迂を目の前で……。

『どうやら私の仮説は正しかったらしい』
 
 一体何を知っていると言うんだ。自分の左腕について。
 だが、ソレが分からないから魎は龍閃を黄泉還らせるのだと玲寺は言っていた。
 ならばハッタリなのか? 自分をこうして混乱させ、また精神的に追い込むための。それとも、玲寺の言葉が偽り……。
 分からない……。自分はまた、魎の手の上で踊らされているだけなのか……。
「ほんでアンタを苦しめる以上、どっかでソレを見てなあかん。ちゃんと自分の思惑に嵌っとるかどーか確認しとかなあかん。せやから水鏡魎は必然的にアンタのそばにおるゆー事や」
「どっちが先に見つけられるか競争って訳だな、兄者」
 久里子の言葉に続けて陣迂は茶化した様子で言い、背中を向ける。そして大広間から出て行こうとして、
「ああそうそう」
 何かを思い出して、また半身をコチラに向けた。
「『龍閃の置きみやげ』がどうとかって、言ってた事があったな。魎はソイツがどうしても欲しいんだとよ」
 軽く肩をすくめた後、陣迂は後ろ髪を荒っぽく掻き上げながら言う。
 龍閃の、置きみやげ……?
「何だソレは」
「さぁ? ソレ以上は知らねーよ。アイツは基本的に秘密主義だからな。最終的に何をやりたいのかなんてのはアイツしか知らねーのさ。ま、俺は別にどーでもいいけどな。取り合えずぶん殴れればよ」
 不機嫌に言う冬摩に、陣迂はどこか飄々とした様子で返した。まるでコチラが困惑する様を楽しんでいるようにも見える。
(……この野郎)
 しっかり魎の特技を受け継いでやがる。
 冬摩は大きく舌打ちし、両の拳を固く握り締めて、
「陣迂、もう一個や。もう一個確認させてくれ」
 軽く鬱憤を晴らそうとした時、ソレを久里子の声が遮った。
「あぁん? 何だよ」
「アンタの力の発生点と作用点、二個ずつ。ソレ、どっちも普通に使えんねんな。何かおかしな制限要素は無いんやな。冬摩みたいに、極限まで追いつめられんとアカンとかそーゆー事はないんやな」
 夏那美から体を離して陣迂に一歩近寄り、久里子は説明的な言葉遣いで確認する。
「あぁ。別に、な」
 ソレに陣迂は短く返した。
「で? 何か重要な情報になったか? 名探偵さんよ」
「玖音には負けるけどな」
 久里子の言葉に陣迂は微笑すると、大広間の出入り口へと向かう。
「ま、せーぜー、あの陰険野郎の裏掻いてやってくれよ。で、ソッチが片付いたらまた仕切り直しだ」
 ソレだけ言い残すと、陣迂は館から出ていった。
 捕らえ所のない、ある種奇妙な雰囲気が霧散し始め、疑念と不安、そして悲哀の入り交じった空気が漂い始める。
「あー、やーれやれ、やなぁ」
 そして久里子は明るい声でわざとらしく言いながら、肩を落としてコチラを振り向き、
「冬……」
「オラァ!」
 自分の名前を呼ぼうとして、ソレを叫声と爆音が呑み込んだ。
 大理石製の床に右腕を深々と埋め込み、冬摩は凄絶な視線で陣迂の出ていった後を睨み付ける。
(あの野郎……)
 思わせぶりな事ばっかり言いやがって。本当は魎の居場所知ってるんじゃないのか。それでコチラを攪乱するためにわざわざ……。
(いや……)
 違う。そういう奴じゃない。陣迂という男はそういう男ではないんだ。その事は実際に拳をかわした自分が一番良く知っている。肝心なところでふざけた考え方をするような奴ではないんだ。
 アイツは間違いなく魎を憎んでいる。だからこんな事を――
「……で、ちったぁ気ぃ晴れたか?」
 頭の上から冷め切った言葉が降ってくる。目線を上げると久里子が腕組みし、半眼になってコチラを見下ろしていた。
「テメーの目ンたま腐ってんのかよ」
「アンタのドタマよりはマシや」
「この館ブッ壊されてーのか」
「ンな事したらゴッツ悲しむやろなぁー」
 挑発するかのように眉を上げて言い、久里子は細めた視線を自分の後ろに向ける。振り向くとソコでは、朋華が不安げな表情で成り行きを見守っていた。 
「……ケッ、後は魎の野郎で晴らしてやるよ」
 冬摩は投げやりに言って腕を床から引き抜き、荒っぽく椅子に座り直す。
「ああー、是非そないしてくれ。この館の補修費、どんだけかかっとるか今度明細見せたるわ」
 嫌味ったらしく言う久里子に、冬摩はフルーツバスケットからリンゴを取り上げてかぶりついた。
 取り合えず、暴れるのは少しだけ抑えておいてやる。悔しいが久里子の言うとおり、今やると朋華まで巻き込みそうだ。そんな事をするくらいなら死んだ方がましだ。命を掛けてでも自分を押し殺す。
 それにコチラから魎を探せる事が分かったのは大きい。アイツはこの近くに居る。そして玖音も。なら、『白虎』と『朱雀』の共鳴で――
 だが他にも、自分をやむなく抑え込んでいる理由はある。
 一つは麻緒が負った傷、そしてもう一つは陣迂のあの右腕だ。
 暴れようにも、暴れる相手があんなに不完全では逆に鬱憤が溜まるだけだ。
 麻緒の『司水』でああなったんだとは思うが、ソレだけではない。まるで重度の凍傷に蝕まれたかのように、真っ黒に煤けて……。
 多分、あの右腕はもう使い物にならない。あのままでは二度と振るう事は出来ない。最早ただの付属物でしかない。
 しかしそれでも陣迂は魎に向かっていくだろう。力の作用点を一つ失おうとも、千年間も切望し続けた真剣勝負に横槍を入れた魎の罪は重い。自分が陣迂の立場なら、絶対に許さない。何が何でも叩き潰す。
 例えソレが命と引き換えだったとしても。
 一旦切り落とせば『復元』で元通りになるだろう。玖音の『再生』ならそのまま回復するかも知れない。
 だが、陣迂の方からそんな処置を望むとは思えない。妙な意地が他人から助けを拒絶させる。コレは自分と魎の問題だという固い思考が、外からの干渉を排除する。
 それに陣迂は麻緒と戦った。左腕を使えぬまま、麻緒は陣迂と互角以上の戦いを繰り広げた。
 なのに自分だけ右腕を元に戻すなど、魔人としてのプライドが許さない。自分自身の力に掛ける誇りが許さない。
 その気持ちはよく分かる。同じ魔人として。そしてなにより同じ血を分けた兄弟として。
 理屈などでは説明できない、本能的な思考が呼び起こす無頼の信念。だから出来れば陣迂の好きにさせてやりたい。
 しかし、あのままでは確実に――
「ああクソ!」
 リンゴを右手で握り潰し、冬摩は勢いよく立ち上がった。
 駄目だ。もう限界だ。
 こんな所でじっとなどして居られない。今すぐにでも陣迂を追って、魎の野郎を――
「冬摩、アンタまた同じ間違いする気かい」
 前に出した脚が、久里子の言葉で嘘のように固まった。
「また、トモちゃんにあんな危険なマネさせるつもりかい」
 あんな、危険なマネ……。
 頭の中で繰り返される久里子の言葉。そして脳裏に惹起される朋華の姿。
 ソレはたった一人で、自分の後を追って――
「せめて麻緒が目ぇ覚ますまで待つんや。水鏡魎相手やったら、探すんも戦うんもこの子の方がアンタより向いとる。アンタは力もあって動きも鋭いけど、ウチらには見えてへんクセがどっかにある。水鏡魎はソレを全部知り尽くしとる」
「俺が、負けるってのか……」
「そうは言ってへん。暴れるなとも言わん。けど不利なんをもっとしっかり自覚せぇゆーとんねん。今んトコ、ハッキリゆーて向こうの思い通りになっとる事の方が多い。そんだけコッチは追い込まれとる訳や。水鏡魎がどーゆー奴か、アンタが一番よー知っとるやろ。そんな血ぃ上った頭やったら自分でも気付かんウチに相手の手中や」
 研ぎ澄まされた眼光を眼鏡の奥からコチラに向け、久里子は断定的な口調で言いきる。
 分かっている。そんな事は。
 魎がどれほど狡猾かという事も、自分の暴走が相手を喜ばせてしまう事も、そしてソレが朋華を危険に晒してしまう事も。
 そんな事は言われなくても十分に理解している。
 だが、どうしろというのだ……。こんな中途半端な状態で、いつまで我慢していろと……!
「幸い、ちょっとはコッチが水鏡魎の裏掻いとる。ウチが水鏡魎の情報を持ち帰った事と、さっき陣迂から聞かされた事がそうや。いくら水鏡魎でも陣迂と麻緒が戦う事までは読めてへんはずや。あの子がウチと会ったんはラッキーアクシデントみたいなモンやからな。ましてやその陣迂が麻緒をココまで連れてきて色々教えてくれてるなんて事、絶対に分からんはずなんや」
 何か、奥の方に含みを持たせたような久里子の言葉。
「……テメェ、何か分かったのかよ」
 殺気立った視線のまま久里子を見返し、冬摩は低く言った。
「ええか、あくまで仮説や。はっきりゆーてあんま確かな根拠はない。そこんトコはええな」
 久里子は重く息を吐きながらしゃがみ込み、麻緒のそばで肩を震わせている夏那美の頭を優しく撫でる。
「魎のクソ野郎みたいな事言ってんな。いいからとっとと言えよ」
 冬摩は苛立ちも露わに、目元を病的に痙攣させて――
「冬摩、アンタの左腕の力。ソレ、龍閃の力かも知れん」





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