貴方に捧げる死神の謳声 第三部 ―黄泉路からの慟哭―

BACK NEXT TOP


十五『左腕、孵化、置きみやげ』


◆帰結 ―荒神冬摩―◆
 何だコレは。
 一体何が起こったというんだ。
 ついさっきまで玲寺と一緒に居て。胸クソの悪い提案を持ち掛けられて。訳が分からずに混乱して、苛立って、怒鳴り散らして。しかし途中で上手くすり替えられて、朋華にも説得されて、結局面倒臭くなって受け入れて。それから玲寺は別行動で魎を探すと一端離れて、また自分達だけで森の中を走り始めて。それから――
「あー、なかなか元気そうだなぁ冬摩。私が前に言った『仮説』に対する考察は終わったかな?」
 それから――

『お主もすでに気付いておるはずじゃ。水鏡魎は待っておる。紅月の夜が訪れるのをな』

「あー、どうした? そんな鳩がガトリング砲をダースで突きつけられたような顔をして」
 それから――

『ゆーてみたら冬摩は囮、実際に見つけんのは麻緒の方や』

「完全に不意を突かれた、か? 私が“紅月の前”に“自分から”出てくるなど、全く予想していなかったか? ん?」
 突然目の前に現れたダークコートの男は、腰まである長い黒髪を梳きながら片眉を吊り上げて――
「はっはっは。まだまだ青いな冬摩君。そんな事では立派なお嫁さんになれないぞ?」
 芝居が掛かった口調と仕草を見せて鷹揚に笑う。
「魎……」
 喉の奥から自然に漏れる呟き。
 一瞬の放心。しかしソレはすぐに灼怒へと昇華して――
「魎ォォォォォォォ!」
 気が付くと魎の顔が目の前にあった。そして無意識に振り上げていた右腕を力任せに振り下ろす。
「私が送ったあの三人の保持者はどうだった? なかなか良い動きをしていただろう。まぁお前にとっては物足りなかっただろうがな」
 空を切る右腕。そして横手から聞こえてくる忌々しい声。
「ブッ殺すぞコラァ!」
 『幻影』を振り払い、その腕の勢いに乗せて巨大な『真空刃』を声のした方に放つ。
「可哀想になぁ。みんなまだ若い身空だったのに。私が目を付けてしまったから……あんな凄惨な末路を。ちゃんと目に焼き付けたか? 冬摩。彼らの最期を。お前が殺したんだぞ?」
「フザけてんじゃねぇ!」
 鋭利な断面を晒してゆっくりと倒れ込んでいく十数本の大木。ソレらを後目に、冬摩は真上を見上げて左腕から『重力砕』を顕現させた。
「何を言ってるんだ冬摩。お前がもっと早く私を止めていればあんな事にはならなかった。一番最初に河原で『烈結界』を食らい、動きを止められたのは誰だ? 公園で私を仕留め損なったのは誰だ? 陣迂との戦いに夢中になってコチラの存在に気付かなかったのは誰だ? 全てお前の責任だよ、冬摩。あの三人も、それから他の沢山の一般人も。みんなお前が殺したんだ、冬摩」
「――の、ガキぃ!」
 重く鈍い音を立てて潰れ落ちてくる大樹。ソレを右腕の振り上げが生み出した風圧だけで消し飛ばし、冬摩は地面を蹴って跳躍する。
「辛いか? 冬摩。私が憎いか? 八つ裂きにして、臓腑を抉りだして、嬲り殺したいか?」
「ブッ殺す!」
「久しぶりに聞いた気がするぞ。お前が本気でそう言っているのを。だが――」
 空中で器用に体勢を変え、自在に動きまわる魎に冬摩の拳撃は掠りもしない。その事が更に苛立ちを積もらせ、焦燥を喚び起こして――
「まだ足りない」
 魎の姿が掻き消えた。
「お前はまだ苦しみ足りない。お前はまだ憎しみ足りない。ソレはお前の心の成長でもある。お前は周りの声に耳を貸し、少しは自制する事を覚えた。だが、私にとっては邪魔以外の何物でもない。お前風に言えば、気に入らない」
 そしてどんどん後ろへと遠ざかっていく魎の言葉。
「ちょろちょろしてんじゃ――」
 振り向きざま、冬摩はその回転の勢いに乗せて力の塊を――
『冬摩打つでない!』
「ねぇ!」
 地面に打ち放った。
「――ッ!」
 視界が映し出したのは驚愕の色に顔を染めている朋華。その腕に抱かれている夏那美。
 全身の細胞が氷結していくかのような錯覚。周りから音が止み、色が消え失せ――
「――も、か!」
 自分の物ではない自分の声が耳元で聞こえ――
「避け――」
 大きな球体が朋華の前に割って入った。
 ソレが力の塊を受け止め、その背後で猛獣にくわえられた朋華が跳び去り――
 世界が白一色で染め上げられた。 
 無音の爆風が辺りを蹂躙し、何十本もの木々を薙ぎ倒し、大気の断層が無数の同心円を描いて広がっていく。一瞬前にあった光景が別世界のように入れ替わり、大地が剥き出しの荒肌を晒していた。
 どうなった。一体どうなってしまったんだ。
 朋華は……朋華はどこだ。どこにいる。まさか――
「あー、まだリミッターがある状態だというのに凄まじい破壊力だな。その左腕は」
 真横からした声に、周囲の景色が急激に彩りを取り戻して行く。
「少し前のお前ならそんな力は絶対に出せなかった。コレも彼女がお前に与えてくれた優しさの賜物か。いや、思い出させてくれた、かな? 誰かを思い遣れる優しい心と、誰かを躊躇い無く殺せる非情さ。今のお前は相反するその二つを共存させる事に成功したという訳だ。実に興味深い」
 宙で静止し、腕組みした魎が不敵な笑みを浮かべていた。
「テ、メェ……」
「安心しろ冬摩。お前の大切な女は無事だ。まだ、な」
「テ――メェ!」
 怒声を上げ、冬摩は『飛翔』して魎に殴りかかる。
 魎は動かない。避ける気配も見せない。ただ不動のまま、彼の背中でダークコートが不気味に蠢いて――
「最初から本丸を落としてしまってはつまらんからなぁ。お前の事だ、彼女が死んでしまえば他の事などどうでも良くなるだろう? ソレではあまりに無愛想だ。もう少し、私のお遊びに付き合って貰わないとな」
 黒鎖で後ろ手に拘束した夏那美を盾のよう振りかざし、魎は口の端を吊り上げた。
「ソイツは関係ねーだろ! ブッ殺すぞ!」
「そうでもないさ。例えば今、お前はコレを見て完全に動きが止まった。関係ないのならコレごと私をブッ殺せば良いんじゃないのか?」
 夏那美の前で急停止して体を震わせる冬摩に、魎は涼しげな顔で挑発的に言う。
 あまりの怒りで頭がどうかなってしまいそうだ。
「さぁて、どこまで耐えられるかな? 冬摩」
 楽しそうに口元を緩め、魎は黒鎖の一本を夏那美の目の前に持ってくる。ソレは見る見る薄く、細くなっていき、そして刃物のように研ぎ澄まされた黒鎖は、そっと夏那美の頬に押し当てられて――
「い……や……」
 掠れた涙声が夏那美の口から漏れ――
「ち……」
 魎は舌打ちして鬱陶しそうに左腕を払った。甲高い音がして、下から飛んで来た何かが不可視の障壁によって弾かれる。ソレは漆黒の槍のようで――
「冬摩さん!」
 眼下からした声に、冬摩は反射的にソチラを向いた。ソコには『白虎』の背中に乗り、空中を駆け上がって来る朋華、そして彼女に抱えられた『獄閻』。
「そおおおぉぉぉぉぉぉれぃっ!」
 朋華は気合いの大声と共に、砲丸投げの要領で『獄閻』を投げ上げる。黒い瞼をVの字カットに下ろした『獄閻』は一気に魎の目の前まで躍り出ると、眼球の前に漆黒の槍を集結させた。
 アレはまさか『金剛盾』? 板状の『金剛盾』を棒のようにして、ソレで槍を……。
「あー、病人はもう少し大人しくしているものだがな……」
 興醒めといった様子で魎は怠そうに後ろ頭掻きながら、左手を『獄閻』の前に持って行き、
「お前はもう用済みだ」
 手の平から突き出された巨大な氷柱が、漆黒の槍を叩き割って『獄閻』の体を貫いた。
「『獄閻』……!」
 冬摩の目の前でゆっくり倒れ込み、地面に引かれていく『獄閻』。そして彼の生み出した槍の一本が夏那美を束縛する黒鎖に触れ――
 一瞬、『獄閻』が小さく笑ったような気がした。
「オッケェイ! 退散!」
 解放された夏那美を下で受け止め、朋華が声を張り上げて叫ぶ。ソレに応え、『白虎』はまた宙を蹴ってコチラへと近付いた。そして朋華は落下してくる『獄閻』に手を伸ばし――
「おっと」
 その指先が触れる前に、魎が黒鎖を伸ばして絡め取った。
「あ……」
「逃げろ!」
 冬摩の声に従い、『白虎』は朋華を乗せて急速な勢いで戦域を離れて行く。
「なかなか良いコンビネーションじゃないか。とてもブッツケ本番とは思えない」
 黒鎖で『獄閻』を弄びながら、魎は感心したように言った。
「こんな奴でもお前を苦しめる一因になってくれるという訳、か。最後の最後まで良い働きをしてくれる」
 魎は『獄閻』を片手に取り、無数の黒鎖の先端を鋭くして、
「な……」
 ソレらが一気に『獄閻』の体へと飲み込まれた。
 四方八方から串刺しにされ、『獄閻』の体内から狂振動が溢れ出す。
「そういえば昔、こういうゲームがあったなぁ。啼かした方の勝ちだったか? 負けだったか? ああ、アレは飛ばすんだったか。まぁどうでもいいなぁ、アッハハハハハ!」
「クタバレ!」
 大口を開けて笑い声を上げる魎に、冬摩は至近距離から右拳を放った。
「何をそんなに怒っているんだ冬摩。所詮は使役神じゃないか。死んだとしても擬似的なもの。お前の体の中で休めばすぐに元通りになる」
「テメーは喋んじゃねぇ!」
 『獄閻』と自分の位置を早い動きで入れ替え、魎は自ら生み出した死角に即座に回り込む。だが打っては来ない。コチラの拳撃を避けるだけで、手を出してくる気配は全くない。
 ソレが――無性にカンに障る!
「オラァ!」
 『獄閻』の背後で靡いた魎の長い髪目掛けて冬摩は拳を振り下ろし――
 瞬時に拳を引いて対角上の点に蹴撃を放った。
「辛いか? 冬摩。苦しいか? 冬摩」
 真後ろから声がする。
 高所からの失墜にも似た悪寒。しかしソレはすぐに怒りで上塗りされ、
「ッラァ!」
 背後に突き出した右肘に手応えは返って来なかった。
「本当は今すぐにでも具現化を解いて、『獄閻』を救ってやりたいんだろうなぁ。しかし私の『閻縛封呪環』は強力だぞ? 例えば、こんな風にな……」
 一端距離を取り、自分との間に『獄閻』を挟むように持ってきた魎は酷薄な笑みと共に眼を細める。直後、『獄閻』の体が大きく痙攣したかと思うと、全身を灰色に染めて行った。そして体の一部に亀裂が走り、風化したかのように脆く崩れ始める。
「テメェ……!」
「アッハハハハハ! 楽しいなぁ! 冬摩! いいぞ! その調子でもっと餌を与えてやってくれ! そうすれば孵化が進む!」
 ――殺す。
 意識が塗り固められていく。どす黒く、鋭利な物へと。
 心の奥底の黒い刃が鎌首をもたげ、内面を削ぎ落としていく。
 より純粋に。より強固に。
 より――兇悪に。
 頭の中に生み出した凍える彫刻は徐々に立体性を帯びて行き――
「コロ――ス」
 左腕に力を込める。
 内側から押し上げてくる熱い脈動が暴走を始め、視界に捕らえた獲物にその出口を見出した。
「ほぅ、大した力だ」
 目の前に現出した力の塊は白い奔流となって雄叫びを上げ、魎の体を呑み込まんと巨大な顎を開ける。
 ――『獄閻』ごと。 
「な――」
 声が漏れた。 
 自分の口から。
 頭の中のイメージとはあまりにかけ離れた光景に狼狽を隠せなかった。
 気が付けば打ち出していた。全てがどうでも良くなって、魎を殺す事しか頭になくて、もし――
「もし、『獄閻』が仁科朋華だったら。今、そう考えたな」
 直線的に急迫する破壊の力を魎は余裕を持ってかわし、左手に持った『獄閻』を弄びながら目を細める。
「まだ完全に吹っ切った訳では無さそうだ。安心したよ。ソレでいいんだ。お前のその甘さが良質の餌を生み出す」
 『獄閻』は、無事だ。
 いや、無事などではないが、取り合えず自分の力の直撃は避けた。辛うじて……“避けさせてくれた。”
「く……!」
 奥歯を噛み締め、両拳を固く握りしめ、冬摩は魎を睨み付ける。
 アイツは殺す。魎の野郎は絶対に殺す。間違いなく殺す。
 だが、他の奴は――
「どーした冬摩。急にしおらしくなってしまって。掛かってこないのか? ん? お前にその気が無いのなら出させてやろうか? 力ずくで」
 嘲るような口調で言い、魎は横目に左を見る。ソコには『白虎』の背中に乗り、コチラを心配そうに見つめる朋華の姿。ある程度の距離は開けているとはいえ、魎にとっては無きに等しい。
(どうして……)
 どうしてまだあんな所に。『白虎』が自分よりも朋華の命令を優先させたというのか……。まさか玲寺の言うとおり、本当に自分の支配力が弱まったせいで……。
「『獄閻』でなら例えお前が“失敗”してもやり直しがきく。だが、アッチはそうじゃない。お前も緊張感のある方が良いだろう?」
 言いながら魎は宙でバックステップを踏む。連続的に後ろへと下がり、朋華達の方へと急速に近付いて行って――
「ま――待てコラァ!」
 僅か一呼吸の遅れ。だがソレは致命的な空白。
 全力で『飛翔』するが魎の姿はどんどん小さくなっていく。顔に叩きつけられる膨大な空気の塊を押しのけ、冬摩は大きく目を見開いて手を伸ばした。
 しかし届かない。魎との距離は縮まない。
 どうする。どうすればいい。何か。何か方法は無いか。朋華を安全に助け出す方法。朋華を守り抜く方法……!
 耳元で啼き喚く風が鬱陶しい。体に纏わり付く大気が邪魔臭い。自分の無力さが腹立たしい!
 追いつけない。かといって飛び道具を使うわけにはいかない。今度こそ朋華に当たる。
 無様だ。何て無様なんだ。朋華にそばに居て欲しいんじゃなかったのか。朋華にずっと笑っていて欲しいんじゃなかったのか。そのために朋華と一緒にいて、何があっても護り通すんじゃなかったのか!
 なのに……! なのに!
「遅いな冬摩! あまり使い慣れていない力を急に使ったせいか? 使役神の力を十分に引き出せんようでは最強の魔人の通り名が泣いてしまうな!」
 フザケルナ……! もっと速く! もっと強く! もっと力を!
 あの下衆野郎を葬るための絶大な力を!
「朋華逃げろ!」
 こんな事しかできないのか。自分にはこんな事しか朋華にしてやれないのか。こんな、気休めにもならない……!
「楽しいなぁ冬摩! 童心に帰ったようだ!」
 クソッタレ……! 間に合わない! 『白虎』の脚でも魎から逃げ切れない!
 捕まる! 捕まってしまう! 朋華が……! 魎の……!
「さぁ――」
 魎の腕が『白虎』の尻尾へと伸び、
「――捕まえた」
 その腕を下から伸び上がって来た別の腕が掴んだ。
 ソレは自分によく似た外見の――
「お前が一番乗り、だな」
「景品はテメーの命で勘弁しといてやるぜ!」
 慌てる事も無く、魎は不意打ち同然に現れた陣迂に落ち着いた様子で言う。その体が一瞬ブレたかと思うと、後ろ側に“剥がれた”。直後、陣迂が掴んでいた魎の体に『凍刃』が伝播しきる。全身を氷結に包まれ、魎の『分身』は地面に吸い込まれるようにして落下して行った。
「アレの命では不満か?」
「分かってんだろ!」
 叫声と共に陣迂は右腕を突き上げ、凍らせた空気の塊で魎の核の位置を狙う。
「その右腕、使えるようになったのか。まぁ騙し騙しといった感じだが」
 魎は左腕に生み出した氷結の盾で体を庇い、鼻を鳴らして興味深そうに言った。
 確かに。自分が見た限り陣迂の右腕は二度と使い物にならない程の悲惨な状態だったはず。今も完治には程遠いが、それでも若干血色は良くなり、力の息吹を何とか感じさせるくらいには回復している。
「テメェブッ殺すには十分過ぎんだよ!」
 叫んで陣迂は右手から生み出した氷柱を薙ぎ払い、魎の氷の盾を強引に取り払う。その勢いに乗せて氷塊と自分の体を入れ替え、一気に魎の眼前へと躍り出た。
「オラァ!」
 裂帛の叫声に乗せ、陣迂は左拳を魎の鼻先に叩きつける。が、すぐに視線を右に向けるとそちらに蹴撃を放った。
「ほぉう。冬摩よりは分かっているようだな」
「おかげさまでな!」
 『幻影』を残し、右に移動していた魎は感心したように言いながら陣迂の右脚を紙一重でかわす。
「あぁそうかい。そいつは……」
 そして――冬摩の視界に映し出される魎の背中。
 追いついた。完全に捕らえた。コレで――
「悪かったな!」
 頭上で組んだ両腕を一気に振り下ろす。
 固い手応え。そして冷たい感触。
 また『貴人』の――いや、違う。コレは……!
「いいだろう? 貰ったんだ」
 二メートル近い刃渡りを持つ鍔の無い刀。表面は狂気的に磨き上げられ、まるで濡れたように妖しい輝きを放っている。自分の拳はその刀の腹で受け止められていた。
「テメェ……!」
「夜叉鴉、玖音愛用の霊刀だ」
 『獄閻』を無造作に手放し、夜叉鴉の両端を左右の手で支えながら魎は得意げに言う。
「チィ!」
 陣迂は『獄閻』の巨体を朋華達の居る方に払いのけ、脚の引きに合わせて右拳を突き上げた。魎は身をひねってソレをかわし、そのままコチラの拳と刀の接点を中心に半回転する。そして陣迂の拳が自分の目の前に突き出され――
「く……!」
 冬摩は自らその拳に頬を晒した。
「兄者!?」
 食いしばった歯の奥に重く響く鈍痛。口腔内に溢れかえる生温かい液体。冬摩はソレを嚥下し、体が流されないように首に力を込めて、
「オラァ!」
 頬の『痛み』を右拳の力に変え、掬い上げるように魎の体に狙いを定めた。ソレに合わせて魎はまた夜叉鴉の腹を前に出し――
「ブッ殺す!」
 絶大な破壊力を帯びた冬摩の拳撃が大気を焦げ付かせ――
「使役式神『天后』宿来」
 魎の声が静かに響く。
 そして拳が夜叉鴉に触れ、霊質素材の刀は内側にたわんで――
「――ッ!」
 右腕が灼痛を帯びた。腱が断ち切られ、骨が砕けたような錯覚。冬摩の拳は刀の腹で易々と弾き飛ばされ、内部破裂した毛細血管が腕を紅く染めて行く。
「ッざっテェ!」
 だが全く怯む事なく、冬摩は新たに生じた『痛み』に任せて右拳を繰り出した。
 叩き折るつもりだった。夜叉鴉を叩き折って魎の胸板に風穴を開けるつもりだった。そのくらい全力で打ち出したはずなのに――
「おいおい、あまり無茶するな冬摩。中の子供に毒だろう?」
「ブッ殺す!」
 何故だ。どうしてこんなにも簡単に防がれる。夜叉鴉とはそんなにも頑強な刀だったのか? 渾身の力を込めた自分の拳を、こうも簡単に跳ね返す程に。
「避けろ兄者!」
 自問しながら何度も挑みかかる冬摩の背後で陣迂の声が上がった。背中で生じた絶大な冷気に、冬摩は反射的に身を伏せる。直後、頭上を通り抜けて氷の塊が魎へと急迫した。ソレは正確な軌道で夜叉鴉に飛来し――
「ふん」
 鼻を鳴らして魎は夜叉鴉を横薙ぎに払う。凍える大気はその細長い刀身を呑み込み、
「な――」
 氷結の顎が眼前に立ち上がった。
 陣迂が放った『凍刃』とは比べ物にならない圧倒的な物質量。空の一部を覆いつくし、陽光を遮って、冷徹な凶刃がコチラに牙を向ける。
「兄者! 『天后』だ!」
 中空で横に飛びながら叫び、陣迂は覆いかぶさってくる巨大な影から身を逃した。
 『天后』……能力は、『全反射』……。
(そういう事か……)

『物理、精神を問わずあらゆる力を何倍にもして相手に返す。敵の攻撃をわざと受けて、その力で相手を倒していたらしいが、当然コチラも傷を負う。ソレで死にかけた保持者も居たらしい』

 そういう事か……。
 そいつを夜叉鴉に宿来させて、『全反射』力を……。
 なるほど、なら――
「お、おぃ!?」
 横手から聞こえる狼狽した陣迂の声。冬摩はソチラを一瞥して薄ら笑いを浮かべ、見上げる程の氷壁を睨み付けて、
(ようは……)
 右拳をめり込ませた。
 夜叉鴉からの『全反射』で皮膚や肉は削げ落ち、骨さえ露出させ始めていた右腕が肩まで埋め込まれる。
(足りなかった訳だ……)
 そして冬摩は右腕に力を込め――
(覚悟ってヤツが!)
 甲高い破砕音が森林に轟いた。
「オオオオオオオォォォォォォォ!」
 咆吼を上げ、冬摩は氷壁を真正面から突っ切って魎に肉薄した。
 『全反射』は受けた側も傷を負う。その傷を増幅して跳ね返す。
 夜叉鴉の強度が極めて高いのではない。自分が拳の力を緩めていただけだ。『全反射』からの痛みを受けて、無意識に拳を引いていただけだ。
 なら、ソレを乗り越えれば。痛みを痛みからの力で押し返せば……!
「お前はその気になれば、この手の痛みならいくらでも耐えられそうだなぁ」
 眉を上げ、魎は呆れたような感心したような声を漏らす。そして夜叉鴉を鞘に収め、口の端をつけ上げた。
 何を企んでいるのかなど知らない。何をしようと関係ない。
 今はこの右腕を殺意と共に叩きつけるだけだ。この最低の下衆野郎に!
「クタバレ!」
 大きく目を見開き、冬摩は魎の頭上から拳を振り下ろす。
 だが手応えは無い。まるで磁石の同極同士が反発し合うように、魎は流れる動きで冬摩の拳撃を避け、
「だが、こういう痛みは苦手だろう?」
 耳のすぐそばで声がした。突き上げるような寒気。
「――く!」
 魎の背中で苦鳴が漏れる。いつの間にか後ろに回りこんでいた陣迂が、顔を大きく歪めて胸を押さえていた。
「ッはぁ!」
 魎の喜声。後ろを向く回転に乗せて放たれた蹴撃は、無防備となった陣迂の側頭部に突き刺さった。そして大きく体勢を崩したところに魎は夜叉鴉を居合い抜き――
「陣……!」
 陣迂の右腕が血飛沫と共に舞った。直後、その瞳から光が消える。
「忘れたか陣迂! お前の命、私が握っている事を!」
 宙でとどまることもせず、引き寄せられるようにして落下して行く陣迂。その後を追いながら、魎は楽しそうに叫んだ。
「テ……メェ!」
 そして一瞬遅れ、冬摩は魎を視界に収めなおす。
 同じだ。さっきと全く同じだ。朋華の時と全く同じ。
 またなのか。また自分は捕まえられないのか。あの黒い男を。どす黒い心を持った糞野郎を。
 魎の背中に大きく手を伸ばしながら、冬摩は喉の奥から雄叫びを上げる。
 縮まらない。あの黒い奴の姿が大きくならない。こんなに求めているのに。こんなに渇望しているのに。こんなに――殺してやりたいのに……!
「無様だなぁ! 冬摩!」
 陣迂の左脚が跳ね跳ぶ。飛び散った鮮血が頬を掠め、紅い筋を引いて――
『オオオオオオオオォォォォォォ!』
 獣吼が轟き、冬摩の左腕から『真空刃』が放たれる。細く長く伸びた不可視の刃は魎の背後を捕らえ、そして――すり抜けた。
(『幻影』……!?)
 すぐに視線を横に投げる。生み出した氷の足場を蹴り、魎は左に飛んでいた。そして眼下に映し出されたのは、『真空刃』に左肩を貫かれ、地面に縫い止められた陣迂。
「く……!」
 僅かな逡巡。
 無意識に魎へと伸びていた左腕を強引に引き戻し、冬摩は舌打ちして体を真下に向け直した。
「陣迂!」
 そして陣迂のそばにしゃがみ込み、右腕を体にかざして『復元』を施す。刹那、全身を襲う壮絶な疲労感、脱力感。精神の一部を抜き去られ、意識が遠のきそうになる。ソレを気力で繋ぎ直し、冬摩は激しく頭を振って陣迂を見た。
 右腕も左脚も完全に元通りになっている。脈動する血管、皮膚の下から力強く押し上げる筋肉。ソレらは隆々としていて生命力に満ち溢れ、力が奏でる胎動すら聞こえてきそうだ。
「甘いぜ、兄者……何、やってんだ……」
 しかし、陣迂は苦悶の表情を浮かべたままだった。
 血が滲む程にきつく胸元を掴み、凄まじい激痛に顔を歪めている。
 なんだコレは……一体どうして急に……。
「後、ろだ……!」
 噛み締めた歯の間から掠れた声で陣迂は叫び、コチラの体を強く押し返した。反射的にその場を飛び退き、冬摩は後ろに目をやる。
 自分達から少し距離を置き、魎が夜叉鴉の背で肩を叩きながら皮肉めいた笑みを浮かべていた。
 攻撃の気配を全く見せず、ただじっと観察するかのように。
「ん? どうした冬摩。兄弟が本音で語り合う感動的なシーンじゃないか。私に気など遣わなくて良いから、遠慮なく涙ものの寸劇を見せてくれ、なぁ?」
 片眉を吊り上げ、挑発的に言う魎を睨み付けて冬摩は舌打ちし、
「フザッ――」
 左腕を魎の方に向けて、 
「――けんなコラァ!」
 『重力砕』を放った。
 球径ゆうに百メートルを越える超巨大規模の。
「ほぉ、こーれは凄い。かなりきてるなぁ冬摩。良いぞ。その調子だ」
 薄暗いドーム状になった超重力の中、魎は束縛される事もなく自由に動き回りながら手を叩く。
「だが、まだまだ技が荒いな」
 『超知覚』……。ソレで重力と重力の隙間を縫って……。
 なら、『真空刃』で動きそのものを制限して――
「――ッ、あああああああぁぁぁぁぁぁ!」
 すぐに後ろで激声が上がった。自分の意思とは関係なく顔がソチラを向く。
「陣迂……!」
「ガゥアアアアァァァ――ッ! ァ――ァァアアア……!」
 胸を掻きむしり、喉を押さえ付けて、陣迂は狂ったように全身を痙攣させていた。口から大量の血と唾液を吐き出し、白目を剥いて叫び続ける。自分で自分の体を傷付け、まるで内側からせり上がってくる兇悪な何かに抗っているかのように――
「冬摩、お前は知らないだろうが陣迂は私が黄泉還らせたんだよ。お前の母、紗羅の腹の中にいた子供を召鬼化して、その上から怨行術を施す事で擬似的な生命を与えたんだ」
 魎が後ろで静かに語る。
 冬摩はソレをどこか遠くの方で聞きながら――
「つまり、私が陣迂の召鬼化を解けばアイツは死ぬという事さ。ただの肉塊と化してな」
 声は出なかった。腹の奥から込み上げて来る、あまりに凄絶な感情に。あまり絶望的な意識の疾走に――
 無表情だった。自分でも驚くほど表情を殺したまま後ろを向き、そしてゆっくりと左腕を振るった。
「――ッ!?」
 初めて魎の顔に狼狽らしき色が浮かぶ。五メートル以上の間合いがあるにも関わらず魎は慌ててその場を飛び退き、そして――胸が爆ぜた。
 派手に鮮血を撒き散らせながら魎は後ろに吹き飛ばされ、辛うじて着地してコチラを見る。その口元は嬉しそうに緩み――
「――ク、ッハハハハッ! 良いぞ冬摩! ソレで良い! その力! 左腕の力! ソレでいいんだ!」
 昂奮気味にまくし立て、魎は精神が破綻したかのような危ない笑みを張り付かせた。
 ――殺す。
「陣迂を選んだのは正解だったよ! 出来損ないだったがココまで育てた甲斐があった!」
 殺す。
「私が憎いだろう冬摩! 私を殺して陣迂を苦しみから解放してやりたいだろう! だがな!」
 コロス。
「私を殺せば当然召鬼化は解ける! つまり陣迂は死ぬ! さぁどうする冬摩!」
 殺ス……!
「――ッ!」
 目の前で哄笑を上げる魎に叩き付けられる左拳。しかしソレは火線を外し、魎の顔面から遠い中空にねじ込まれた。
「ッハハハハハ! 情けないなぁ冬摩! 龍閃を憎んでいた頃のお前はどうした! 誰彼構わず、気に入らない奴を片っ端から消していたお前はどこに行ったんだ! んん!?」
 裂けた胸から溢れかえる血を掬い取って舐めながら、魎は目を狂気的に見開いて叫び散らす。
「――コ……の……!」
「この隙はもはや致命的だぞ冬摩! 夜叉鴉で丁寧に狙いを定めて、お前の核を貫けばソレでお終いだ! お前はもう誰も護れない! 誰も救えない! 誰も! 大切な女もな!」
 体が動かない。全く言う事を聞かない。
 魎が上げる罵声を聞きながら、数トンの重りでも付けられたかのように動きの鈍くなった左腕を冬摩は無理矢理振るう。だが当たらない。
 もう一度突き出す。しかし空虚な手応えしか返って来ない。更に拳を前に出す。当たらない。
 出す。外れる。出す、外れる。出す外れる、出す外れる出す外れる! 出す! 外れる!
 その間抜けな繰り返しが魎を一層悦ばせる。そして自分の中で際限なく苛立ちと殺意が積もっていき――
「血の繋がった弟! 愛する女! 自分の願望! 選べ冬摩! お前が一番欲しいのは何だ!」
 殺す。
 コイツは殺す。絶対に殺す。ソレはもう決めた事だ。心に固く縛り付けた誓い。
 だが、ソレでは陣迂が……。自分と下らない喧嘩をするために生き抜いてきた大馬鹿野郎が……。
 殺したくない。失いたくない。アイツは何も悪くない。ただ運が無かっただけだ。たまたまそばに居た下衆野郎に良いように利用されて、その上命を弄ばれて。
 アイツは悪くない。悪い奴じゃないんだ。自分をさらけ出して、本音で語り合える奴なんだ。だから生きるべきなんだ。何にも縛られる事無く、もっとありのままに。
 しかし――
(朋華……)
 その事が……この躊躇いが、彼女の死に繋がるのなら……。
「どうする冬摩!」
 どうすればいい。
「いつまでこんなぬるい拳を出し続けるつもりだ!」
 どうすれば止められる。
「我慢強い私にも限界があるがなぁ!」
 この鬱陶しい笑い声を。この、忌々しい男の命を――

 ――『殺せ』

 頭の中で、何かが言った。
 殺す。そうだ。やはりソレしかない。
 この戦いを終わらせるには。この苦しみから解放されるには。
 コイツを……水鏡魎を……!

『殺せ! 喰い殺せ!』

 コロス!
「お兄ちゃんが殺らないんならボクが貰っちゃうよ!」
 耳元でするまだ幼さを残した声。長目に伸ばした黒髪を水平に靡かせ、学生服姿の少年が魎に向かって拳を突き出した。
「次は君が相手か! なかなか飽きさせないな!」
「ソッチこそ退屈なのは勘弁してよ!」
 拳を避ける事なく魎は片手で受け止め、
「オラァ!」
 麻緒は気合いと共に振り切る。そのまま体重を預けるようにして全身で乗り掛かり、
「アアアアアアアァァァァァァァッ!」
 麻緒の両手から放たれる拳の弾幕。ソコには僅かな迷いも無く、一切の躊躇いも無い。自分の中にある激情を力に変えて、ただひたすら純粋にぶつけている。
 相手を殺すために。
「どうした少年! 『玄武』の力は! 『司水』は! 『次元葬』は使わないのか!」
「テメーなんざコレで十分なんだよ!」
 正面から叩き付けられる拳撃を紙一重でかわしながら、魎はからかうような口調で叫ぶ。しかし麻緒は取り合わない。余程自信があるのか一切の小細工をせず、拳だけで魎に挑み掛かっている。
「どないしたんや冬摩! ぼさっとしてんな!」
 後ろでした声に、冬摩は小さく体を震わせて振り向いた。
「久里子……」
 ソコには暴れる美柚梨を羽交い締めにし、鋭い視線をコチラに向けている久里子の姿。
「離せー! クリっちー! アタシもやる! アタシがやるー! 兄貴のコト聞くー!」
「冬摩! カタ付けるんちゃうんかい! 向こうから来てビビっとんかい!」
「今……お前が言ったのか……?」
 放心し、生気を感じさせない表情で冬摩は呟いた。
「あぁん?」
「今の、お前が言ったのか……? 『殺せ』って……」
 『喰い殺せ』って……。
 そのせいでまた歯止めが利かなくなりかけた。あの時と同じように。魎を『獄閻』ごと消し去ろうとした時と同じように。
 もし麻緒が現れていなければ、自分は間違いなくあのまま魎を……そして、陣迂を……。
「はぁ!? さっから何ゆーとんねん! ええから早よ行けや! 押されとる!」
 久里子は半狂乱になって叫びながら自分の後ろに視線を向けた。
 魎の麻緒の一騎打ち。そして戦いを優勢に進めているのは麻緒……いや――
「麻緒! 手ぇ抜いとる場合かボケェ!」
 一見、魎が押されているように見える。だが麻緒の拳は一発も魎に当たっていない。ことごとく外されている。
 完全に見切られている。途中で方向を変え、フェイントを掛け、あらゆる角度から打ち出される麻緒の拳を、魎は全て読み切っている。
 ソレはまるで、予め麻緒の拳の出所が分かっているかのような……。
 魎は遊んでいるんだ。やろうと思えばいつでも反撃できると言いながら。研ぎ澄まされた凶気を目の奥でチラつかせながら。
 いずれ麻緒は一気に押され始める。そして下手をすれば殺される。だからその前に魎を……しかし……。
「冬摩!」
「殺せ……」
 荒々しい久里子の言葉の後に、小風で掻き消されそうな程の弱々しい声が聞こえる。
「殺して、くれ……兄者……頼むよ……アイツを……」
 御代に後ろから支えられ、上半身だけを何とか起こして陣迂がコチラを見ていた。もう右眼しか開いていない。左目があった場所には昏い穴が開き、鮮血が涙のように滴っている。『復元』したはずの右腕はボロボロにささくれ立ち、中の組織を露わにしていた。腹部は萎縮しきり、女性の腰のように細く痩けている。
「な……兄者……。アンタなら、分かるだろ……? 俺はもう、どー考えたって無理、だ……」
 水分を失った唇を小さく動かして言いながら、陣迂は力無く笑った。
「たった一回だけだった、けどよ……楽しかった、ぜ……」
 そして陣迂は左腕を振り上げ、
「な――」
 自分の左胸に突き刺――
「何のつもりか知らないけど馬鹿な事はするモンじゃないわ」
「テメェ……」
 止めていた。自分の核を抉り取ろうとした陣迂の腕を、御代が後ろから止めていた。 
「貴方が死んだら私は残った二人、どっちかの召鬼になるんでしょ? そんなの冗談じゃないわ。それに貴方が召鬼なんかにしてくれたせいでおかしくなっちゃった気持ち、ちゃんと何とかしてくれるんでしょうね」
 切れ長の目を大きく釣り上げ、御代は気丈な態度で言葉を繋げる。
「冬摩……どーゆー事や」
 さすがに何かおかしいと思ったのか、久里子が神妙な顔付きで聞いた。
「アイツを殺せば……陣迂は死ぬ……」
「死ぬ……」
 ソレだけ言って久里子は陣迂を見下ろした後、踊るようなステップで麻緒の拳を避け続けている魎を睨み付ける。
 何故、とは言わない。嘘だとも否定しない。
 コチラの言葉をそのまま受け止めて、そして真剣に考えている。この状況の打開策を。今どうするのが最善なのかを。
「全部な……アイツのせーやねん……」
 そして視線を逸らさないまま久里子は静かに呟く。凍て付き、雰囲気を氷らせる口調で。その余りの温度差に、暴れていた美柚梨が急に大人しくなった。
「玲寺さんおらんよーになったんも、麻緒が戻って来てもーたんも、カナちゃんが恐い目ぇおーたんも、保持者が三人死んだんも、無関係の奴ら大勢死んだんも、ほんで……陣迂の命がオモチャにされてんのも。全部、アイツが悪いんや。せやからウチは、水鏡魎を許されへん。絶対このまま放っとかれへん」
 美柚梨への拘束を解き、久里子は眼鏡を外して鋭角的な視線でコチラを射抜く。
「半殺しみたいな器用な真似はでけへん。そんなヌルい事考えとったらコッチがやられる。せやからウチは、アイツを殺すつもりで行く」
 明確な決意を乗せて、久里子は言い切った。自分が進むべき道を、ほんの僅かな時間で見出した。
「冬摩、アンタがココでどないしよーとウチは怨み事は何も言わん。せやけどな、最後にコレだけは言っとくで」
 ソコで久里子は言葉を切り、
「トモちゃんだけは絶対守ったりや」
 眼鏡を投げ捨てて魎に突っ込んだ。
 視界が無意識に久里子の背中を追う。烈声を上げ、麻緒の拳撃の隙間を埋めるようにして蹴撃を繰り出す久里子。そして上がる魎の喜声。まるで新しい玩具を手に入れた子供のように。

『何をしている』

 また、頭の中で声が――
「何、やってんだ……兄者……」
 いや、今のは……陣迂?
「あの女の方が……分かって、やがる……。とっとと、行けよ……」
 ああ、分かってる。分かってるさ。最後は魎を何とかしなければならない。アイツを殺さなければこの戦いは終わらない。何より自分の中で納得がいかない。
 そんな事は十分過ぎるほどに分かっている。
 魎は殺す。ソレはもう心の中で決めた事だ。固く誓った事だ。絶対に覆らない。そう思っていた。いや、思い込んでいた。
 あの三人の保持者が無惨に散っていくのを見せつけられて、皮肉にも魎から学んだ非情さを取り戻したと思い込んでいた。
 だが、まだ足りなかった。魎への憎しみが。憎しみへの決意が。決意への想いが。
 ソレを支える、最も重要な部分が致命的に欠如していた。
 もし――朋華に言えていれば、きっと迷う事など無かった。
 もし――朋華がそれでいいと言ってくれたのなら、きっと考える事など無かった。
 もし――朋華が背中を押してくれたなら、きっと悩む事など無かった。
 もし――朋華が。もし、朋華が。もし朋華が。もし朋華が……!
 朋華だけは、絶対に……!
 もっと憎め! もっと怒れ! 最愛の女性を護り抜くために……!
「――ッガァ!」
 目の前の大樹がへし折れ、誰かの苦鳴が埋め込まれた。しかし声の主はすぐに立ち上がると、口の中から乱暴に血を吐き出して狂笑を浮かべる。
「ブッ殺す! 拳だけでブッ殺す! テメーは拳だけでブッ殺す!」
 麻緒は呪詛でも吐くかのように何度も繰り返し唱えると、低い弾道で再び魎に突進した。コチラの姿などまったく目に入っていない。完全に戦いに没頭していた。
 そうだ。今は麻緒のようにしていればいい。
 何も考えず。何にも注意を払わず。ただ心の中にある殺意を相手にぶつけていればソレでいい。ソレで、魎を――

『殺せ。アイツを殺せ!』

 殺せばいい。そうすれば――

『冬摩!』

「ッハァ! そろそろ頃合いだなぁ! 冬摩!」
 魎の狂声が、押しつぶされそうに鬱蒼な森の中に響く。
 口元を凶悪に歪め、両腕を高く広げた魎が恍惚とした表情でコチラを見ていた。
「魎……」
 冬摩は幽鬼の如く立ちつくし、弾き飛ばされた麻緒と久里子を放心したまま見つめ、
「吹っ切れたか!? 心の整理は付いたか!? お楽しみはこれからだぞ!」
 舞うように流麗な動きで、魎は次々と複雑な印を組み上げていき、
「リョオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォォォォ!」
 冬摩は胸を大きく仰け反らせ、獣吼を上げて全身の力を――
「使役神鬼! 六重召来!」
 魎を中心とした六芒星が浮かび上がった。
 昏く朧な光の筋で描かれた三角と逆三角は、六つの頂点を闇色に迸らせたかと思うと、その中から六体の使役神鬼を生み落とす。
 剣、槍、斧、鎌、棍、弓、鞭、浮遊する七種の武器を体に纏い、胡乱気な顔付きで妖しく立つ艶女、『虹孔雀』。身の丈と同等の高さを誇る巨大な楕円鏡を携えた黒いワンピース姿の童女、『天后』。毛足の長い金色の獣毛を持つ手の平サイズの狐、『勾陣』。肩に諸刃の大鎌を担ぎ、直角に背中の曲がった老婆、『大陰』。巨大な熊手のような鉤爪を両手にはめ、般若面と真紅の狩衣を身に着けた矮躯、『紅蓮』。水だけで構成されたエイのような造形を持つ浮遊魚、『貴人』。
「さぁ冬摩! お前一人で守りきれるかな!?」
 叫びながら魎が手を真横に振るう。ソレに応え、具現化した六体の使役神は同時に散開した。
 『虹孔雀』は陣迂と御代の元へ、『天后』は麻緒、『勾陣』は久里子、そして『大陰』は美柚梨に、『紅蓮』と『貴人』は全く別の場所に――
 あの方向は……。
「決断は迅速かつ臨機応変にだ! 冬摩! でなければお前の女は死ぬぞ!」
 嘲笑うかのような魎の声。
『冬摩! 何をしておる! さっささと妾達を出せ!』
 頭の中で木霊する『死神』の叫声。
「朋華!」
 冬摩は『紅蓮』と『貴人』の背中を追って地面を蹴り、
「どうした冬摩! 隙だらけだぞ!」
 魎の放った蹴りが右脇腹に突き刺さった。
「どけオラァ!」
 腹の底から込み上げてくる物を何とか押さえ込み、冬摩は右腕を大振りに薙ぎ払う。しかしソレはあっけなく空を切り、また新たな隙を生み出した。
「――ぐッ!」
『冬摩! 無理じゃ! お主一人では!』
 鳩尾への追撃を歯を食いしばって堪え、冬摩は魎を睨み付ける。
 朋華を! 早く朋華を……! 早く朋華の元へ行かなければならないのに……!
 もっと力が! 力を! 力……! 『痛み』……! 想像を絶する苦痛!
 コイツか! コイツのせいか!
 コイツが居るから! コイツが体の中に居るから、痛みが……!
「そろそろ死ぬんじゃないのか? 冬摩。お前の女が腹を貫かれて。――未琴の時のようにな」
 コイツがぁ!
「いや、ソレは無い」
 静かで落ち着き払った声が聞こえた。
 次の瞬間、薄氷を叩き割ったかのような高く澄んだ音がする。直後、さっきまで何も無かった空間に漆黒の巨鳥が現出した。ソレは四枚の翼を大きく羽ばたかせて低空飛来すると、下に反り返った嘴で『大陰』を背中から貫く。
「これで邪魔者は居なくなった」
 黒い粒子を残して姿を消していく老婆を横目に見ながら、女性のように秀麗な顔立ちの男は魎に左手をかざした。
「兄貴ぃ!」
 久里子の背中に守られるようにしていた美柚梨が叫んで玖音に駆け寄って行く。しかし玖音はソレを逆の手で制し、そしてゆっくりと詞を紡いだ。
「使役神鬼、『月詠』、『朱雀』、二重宿来」
「ほぅ……!」
 コチラの胸板を蹴ってその反動で後ろに跳び、魎は感嘆の声を上げて、
「堕ちろ」
 全身が獄炎に呑み込まれた。
 だが『朱雀』の『火焔』ではない。炎の色は赤黒い中に、鮮やかな藤色が混ざっていて――
「行ってこい、荒神冬摩。この戦い、僕達の勝ちだ」
 荒れ狂う炎を巨大な繭のように変えて安定させ、玖音は冷静な口調で言う。彼の口の端が僅かに持ち上がり、一瞬少し笑ったように――
「玖音、お前は何も分かっていない」
 玖音の脇腹から小さな腕が生えた。
「私の事も――」
 彼の背後には、まるで何かに憑かれたかのように危ない表情をした――
「やめてよ、ココまで来て。邪魔しないでよ。せっかく楽しくなってきたのに」
「九重麻緒の事もな」
 そして霧散するように掻き消えた炎の塊の中から、黒鎖を纏った魎が現れた。
「なかなか良かったぞ、玖音。自力で私の『烈結界』を破って千載一遇のチャンスを狙っていたという訳だなぁ。お前の狙いは『精神干渉』での私の支配。だが私には『大陰』がある。『心無』の力があれば『精神干渉』は通じない。だから待った。私がこうして手持ちの使役神を放出する時を。つまりお前は分かっていたんだなぁ。私の目的が『死神』などではないという事を。あの時の言葉は嘘という訳か。まだ読み切れていないと私に思い込ませるための。やられたよ。さすがだ」
 長く伸びた黒鎖をダークコートの中に収め、魎は玖音の方ではなくコチラに顔を向ける。
 牽制するように。朋華の元へは行かせないと言っているかのように。
(コ……の……!)
「野郎!」
「『無幻』を『精神干渉』で操り、その羽根で作った呪針を壊して『歪結界』を破る。そして『大陰』を葬って芹沢美柚梨の安全を確保した。更に自分の腕に埋め込んでおいた夜叉鴉の側刃に二体もの使役神を宿した。素晴らしいぞ玖音。そこまで成長しているとはな。しかもそうする事で『両手』だけしかなかった力の作用点を、『朱雀』の『火焔』全体にまで広げた訳だ。あの『火焔』全てに『精神干渉』の力が宿っていた。驚嘆する発想だ、玖音」
 淡々とした口調で説明しながら、魎はコチラの行く先をことごとく阻んでいく。
 拳を振るっても当たらない。向きを変えてもすぐに回りこまれる。そして気が付けば方向感覚を狂わされ、元の位置に戻っている。
 なぜ……! ドウシテ……! どうすれば……!
 自分の体が自分の物では無いかのような錯覚にすら陥り、憎悪と殺意を苛立ちと焦りが上塗りしていく。
 速く、もっと速くと思えば思うほど動きは歪になり、もっと力をという意識は際限なく膨れ上がり――
「だが惜しかったな。『月詠』を創ったのは私。強点も弱点も十分に心得ている。『大陰』が無くとも、ある程度は『精神干渉』から逃げられる。とはいえ、もう少し九重麻緒が遅ければ……あるいはお前の勝ちだったかもな」
 『痛み』を……! 傷を……! 

『欲しろ! 力を!』

 『左腕』の、力を……!
「それからもう一つ。お前は冬摩の事もまだ分かっていない」
「使役神鬼――」
「よせ! 荒神……!」
「『鬼蜘蛛』召来!」

『解放しろ!』

「出た!」
 魎の口から発せられる歓喜の声。
 ダークコートの裾を舞い上がらせ、『鬼蜘蛛』との距離を瞬時に無にして魎は口を三日月状に曲げる。
「怨行術 壱の型! 『閻縛封呪環』!」
 そして左手で『鬼蜘蛛』の頭を鷲掴みにし、韻の込められた詞を叫んだ。直後、『鬼蜘蛛』の体が大きく跳ね上がったかと思うと、重圧に負けたかのように地面にうずくまる。
「ッはぁ!」
 喜声を上げながら後ろに跳び、魎は一端大きく距離を取る。そして長い黒髪を片手で梳きながら勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
(何だ……)
 今コイツは何をした?
 さっきまでと気配が全く違う。もう事を全て終えてしまったかのように、狂気も殺気も感じない。あの毒に当てられたかのような雰囲気が微塵も無い。
 静かだ。気が狂いそうなくらい静かだ。どうして自分はこんなにも落ち着いているんだ? 突然の事に驚いている? ただ呆気にとられている? 
 いや、コレはまるで……。
 気が付けば、魎が具現化させていた使役神は全て消えいた。陣迂と御代を威嚇するようにただ見下ろしていた『虹孔雀』も、麻緒が遊びを楽しむように戦っていた『天后』と『勾陣』も、玖音に操られていた『無幻』も。なら――
「全て戻した。『紅蓮』も『貴人』もな。安心したか? 冬摩」
 コチラの心を読んだかのように魎は言う。
 戻した? 何故。どうして急に。馬鹿な。そんな言葉を信じろとでもいうのか。
「コレがその証拠だ」
 直後、魎の姿が二つに分かれる。その背後から急迫する麻緒の姿が視界に映り――
「オラァ!」
 片方の魎の頭部を拳で叩き潰した。
「ヒャアッハァッ!」
 返り血を浴び、甲高い奇声を上げる麻緒。だがソレで終わらない。両手の爪を抉り込ませ、倒れ込んだ魎の体に馬乗りになり、弄ぶかのように蹂躙し続ける。心のどこかが壊れてしまったように、哄笑を撒き散らしながら、終わりを感じさせる事なく。
「いい顔だ。私の若い頃を思い出す」
 懐かしむように言って、もう片方の魎が麻緒の首を掴み上げる。次の瞬間、麻緒の小さな体が氷結で覆われていった。
「っへぇ……」
 それでも麻緒は薄ら笑いさえ浮かべながら氷の中で爪を立てる。そこから水分が急激に蒸発し、
「とまぁ、こんな感じだ」
 麻緒の顔から突然力が抜けたかと思うと、目から光が消えた。
 魎が手を離す。麻緒は氷に抱かれたまま地面に落下し、動かなくなった。大地に張る冷たい根に身を委ね、魂を抜かれたかのように全身を脱力させている。
「彼には実に『共感』できる。おかげでコチラの調子も良い」
 片眉を吊り上げて鼻を鳴らしながら、魎は感心したように言った。 
 アレは『紅蓮』の『分身』と『貴人』の『創水晶』。そして、『無幻』の『情動制御』……。
 なら、今の自分もそうなのか? 魎の力で……?
「なぁ冬摩、“強さ”とは何だと思う?」
 弾かれたように麻緒の元に駆け寄る久里子、そして半狂乱になって玖音に泣きつく美柚梨を後目に、魎は脈絡もない事を口にした。
「お前が持っているような絶大な力か? 龍閃のような揺るぎない非情さか? 違うな」
 両手を大きく広げ、芝居がかった仕草で。
「知識だよ」
 自分の足元で無様に這いつくばっている『鬼蜘蛛』に視線を落とし、魎は目を細めた。
「世を統べる力を有していながら、未だ誰にも活用される事なく利用される事なく眠り続けている知識。そしてその知識に基づいた鋭い洞察力。この世の全ての原理を認知する掌握力。ソレが本当の強さだ。私はソレを手に入れたい」
「フザ……! ケルナ……!」
 後ろから聞こえる玖音の叫声。ソレに応えて、業炎の使者が魎を呑み込まんと顎を開ける。
「無理するな。私の『烈結界』を強引に破ったんだ。ソレだけでもかなり消耗しているはず。後でまたゆっくりお喋りしような、玖音」
 しかしソレは魎を守るようにして立ち上がった氷の壁によって、あっさり勢いを殺された。
「そんな都合のええモンあるかぃ!」
 久里子の怒声と共に魎の背後が爆ぜ飛ぶ。巻き起こった爆風は大量の土を上空に跳ね上げ、周囲を暗く覆い尽くして行った。
「それがあるんだよ」
「黙らんかいボケェ!」
 砂塵の隠れ蓑から飛び出し、久里子は魎の横手から突進する。
「目の前にな」
「が……っ、ぁ……」
 しかしその行動を予見していたかのように黒鎖が伸びると、久里子の両手足を貫いて体ごと後ろの樹に張り付けた。
 なんだコレは。本当に、自分はどうしてしまったというんだ。
 何故何も感じない。どして怒りが湧かない。この滑稽な程に清々しい気分は何なんだ。場違いに大らかな気持ちは一体どこから来るんだ。
「冬摩、例えばこういうのはどうだ。お前が生まれた時から保持していたその『鬼蜘蛛』。実はソレは、龍閃が“自分の力を受け渡す為に生み出した卵”だとすれば」
 魎の言葉に体が無意識に反応し、冬摩は自分の足元に目を落とす。ソコでは全身を小刻みに痙攣させて丸くなっている巨大な蜘蛛の姿。
 コレがどうした。コイツが何だと言うんだ。
 コレは自分を縛るもの。傷を癒し、『痛み』を無くし、自分から力を奪う者。こんなの物が、卵……? 龍閃の生み出した?
「いや、受け渡すなどといった生ぬるい物ではないな。より正確には“乗っ取る”だ。龍閃は何千年も使ってきた自分の体に見切りを付け、新しいお前の体を自分の物にするつもりでいた。その為の『鬼蜘蛛』だ」
 得意げな笑みを浮かべ、魎はダークコートからサングラスを取り出して続ける。
「使役神の役割は力の譲渡と記憶の移行。無論、この場合の力というのは使役神自体の力であり保持者の力ではない。しかしな、特別なんだよ龍閃が創り出した神鬼は。色々と得体の知れない隠し能力が備わっている。例えばお前が保持している『死神』。彼女には『飛翔』、『真空刃』、『復元』以外にも、保持者の肉質を龍閃の嗜好に合わせるという能力がある。知っていたか? 言ってみれば龍閃は、自分の食欲を満たすために『死神』を創ったという事だ。だから『死神』を受け継いできた者は未琴と顔や声が似ていた。お前と龍閃は親子。動機は違っていても、同じような女性に惹かれたのだろうなぁ。お前は愛するために、龍閃は胃に流し込むために。まぁどちらも『食う』という意味では同じだがなぁ」
 下品な笑い声を上げ、魎はサングラスを片手で弄んだ。
 『死神』に別の力……? 朋華と未琴は偶然ではなく……?
『冬摩! 下らん妄想じゃ! 耳を貸すでない! ソレよりも早く奴を討て! さっきから何を放心しておるか!』
 動かないんだ。どうしても相手を殺す気になれない。
 元々、出来ればそんな事はしたくなかった。朋華が哀しむだろうから……。
「ああ、話が少し脱線したなぁ。要するにだ、『鬼蜘蛛』に“その手の能力”があったとしても何ら不思議はない訳だ。しかし今言ったのあくまでも結論に過ぎない。では私に『鬼蜘蛛』が特別だと考えるきっかけを与えてくれた事件は何か。さぁ、誰か分かる人。手を上げてから答えるように。んー……いないか。しょうがないな。では冬摩君。分かるかな? ……ん? なになに? 自分と玖音との戦い? オゥ! ワンッダホー! まさしくその通りだよ冬摩君。なかなか優秀じゃないか」
 一人芝居を続けながら、魎は気取った様子でサングラスを掛けた。
「覚えているか? 冬摩。阿樹の奸計によってお前と玖音が戦うハメになった時の事を。まぁアレは私が玖音に与えた試練だった訳だが……アレの最後だ。いよいよ大詰めといったところだ。『月詠』による直接的な『精神干渉』。冬摩、お前はアレをどうやってしのいだ?」
 『月詠』の直接的な『精神干渉』。玖音が『月詠』を具現化させて、自分の体の中に……。あの時は、確か……。
「はーい時間切れー。残念でしたー。答えは『餓鬼王』だよ。アイツの『大喰い』で体の中から『月詠』を吸い出したんだ。自分の持っていた使役神もろともな。だが、一体だけ最後まで残った奴が居ただろう? お前はソイツのおかげで助けられた。さぁ、その命の恩人はだーれだ」
 『鬼蜘蛛』……。
「その通り! 今の『閃いた!』って顔、なかなか良かったぞ。そういう成功体験の積み重ねで勉学は面白くなっていくんだ。そう、『鬼蜘蛛』だよ。何故かアイツだけ『餓鬼王』に喰われなかった。単なる偶然。その一言で片付けても良かった。だがお前の左腕の秘密について行き詰まっていた私の頭は全く別の発想をした訳だ。仮説だよ仮説。お前も気になっていただろう? 仮に『鬼蜘蛛』を特別な神鬼だと考えた場合、だ。私の灰色の脳細胞はこう考えたんだ」
 サングラスを僅かに下へとずらし、魎は俯いて上目遣いでコチラを見る。そして、
「『鬼蜘蛛』はお前の左腕の力のリミッターなのかも知れない、とな」
 面白がるように唇を歪めてサングラスの位置を直した。
「おっとまた少し飛躍してしまったな。よし、丁寧に説明しよう。まずは根拠其の壱。『鬼蜘蛛』は龍閃が創った神鬼である。根拠其の弐。龍閃が死ぬまでの千年間、お前はずっと保持していた。コレはお前の中での条件がその間不変だったという事だな。そして根拠其の参。陣迂にも力の発生点と作用点が二つずつあり、ソレらは何の制限もなく使う事が出来る。陣迂は間違いなくお前と血を分けた兄弟。比較する上でこれ程の好対象はない。さぁどうだ? 私が描いた理論の筋道は見えたかな? 冬摩君」
 『鬼蜘蛛』は龍閃が創って、自分が最初からずっと持っていた神鬼。『餓鬼王』にも喰われない、特別で、特殊な神鬼。そして、陣迂の力の発生点は二つ。力の作用点も二つ……。
「よーし、じゃあ最後の大ヒントだ。根拠其の四。お前の『左腕』の力の発生点は『精神的苦痛』。そして龍閃の力の発生点は『悦び』……言い換えると、相手の『精神的苦痛』だなぁ。コレでどうだ? 何かピンとこないか?」
 自分の左腕の力の発生点と、龍閃の力の発生点が……同じ……?
「あー、つまりこういう話だ」
 持論に酔い始めているのか、魎は殆ど間を開けずに少し昂奮気味で続ける。
「お前は元々、陣迂と同じように二つの力の発生点と二つの力の作用点を自在に使う事が出来た。しかし『鬼蜘蛛』を体に宿してしまったせいでその片方が潰された。『精神的苦痛』と『左腕』の組合せの方がな。理由は『鬼蜘蛛』が、お前の感じた『精神的苦痛』を“喰っている”から。そうして力を蓄え、“孵化”する為の力を蓄えていたんだ。言ってみればタチの悪い貯金箱のような物さ。しかしお前の感じる『精神的苦痛』が限界を越えると、箱から溢れて外に出てしまう。ソレが龍閃を殺した時にお前が見せた壮絶な力の正体だ」
「下らない……」
 苦しそうに片目を瞑り、体を美柚梨に支えて貰いながら玖音が掠れた声で言う。
「根拠が根拠になっていない……仮説を何重にも立てているだけだ……」
「そう、その通り。相変わらず良いツッコミだ、玖音君。冴えてるな。だが強い思い込みというのは時として虚構を真実に変える力を持つ。とは言え、確かに頭で考えているだけでは仮説止まり。だから私は実証して見せた。覚えているか? 冬摩。土手沿いの河原で、陣迂と熱い熱い戦いをした時の事を」
 陣迂との、戦い……。アレは今のように気持ち良くて、胸がすくような戦いで……。
「あの戦いの最後。横から邪魔した私に向けられたお前の憎悪。河原の地形をあっさりと変えた左腕の力。お前はソレに恐怖したはずだ。どうして自分にこんな力があるのか。今までは無かったのに、突然どうして。このままでは朋華を傷付けてしまう。だからその前に何としてでも聞き出さなければならない。魎に『仮説』の意味を。そしてその力の制御の仕方を。お前はこう考えて、暴走を始めた。私をおびき出すためにな。今ならその答えが分かるだろう。『鬼蜘蛛』だよ。あの時お前は『鬼蜘蛛』を宿していなかった。ソレが『左腕』に力を与えた。リミッターが外れて、ほんの少しの『精神的苦痛』でも力を使えるようになった。納得できたかな? 冬摩君」
 あの力は『鬼蜘蛛』が居なかったから……? では本当に『鬼蜘蛛』は――
「あの時はお前が自分から『鬼蜘蛛』を具現化させてくれて助かったよ。かなりの手間が省けた。本当は仁科朋華を利用したり、紅月の時を狙ったりするつもりだったんでね。おかげで玖音との楽しい楽しい会話に興じる事が出来た。有り難う」
 『左腕』の力の発生点を喰って……? 『精神的苦痛』によって、成長を……?
「龍閃もなかなか凄い事を考えるよなぁ。やはりアイツも普通ではない。だが、一つだけ誤算があった」
 声を少し低くし、魎は髪を掻き上げて続ける。
「こういう話を知っているか。筋肉を鍛える上で最も効果的なのは、重い負荷を短時間掛けるのではなく、例えどんなに軽くても長時間掛け続ける事だそうだ。つまり、負荷のある状態を“当たり前”にしてしまえば、ソレを取り除いた時に発揮される力は想像を超えるという訳だなぁ。龍閃にとっては実に残念な事に、お前の『左腕』についてもその法則が見事に当てはまってしまった。だからお前は陣迂と違い、『左腕』からは『右腕』よりも遙かに凄まじい力を発揮できる。だんだん自分の体について分かって来た感想はどうだ? 楽しくないか? 昂奮しないか? 知識欲を刺激されないか? 隠された秘密をもっともっと知りたいと思わないか? 例えば、お前は今かつて無い程にすっきりしているだろう? 誰かを憎む気になどとてもなれないだろう? ソレはお前の中に溜まった負の要素を『鬼蜘蛛』が喰っていて、その『鬼蜘蛛』が外に出たからだよ。さっきまで爆発寸前だったから、あまりに激しいギャップに戸惑っただろう? もしこういう未知の知識が目の前に転がっていたとしたらどうする。何が何でも手に入れたくならないか? ん? 龍閃はお前が生まれる前から力の発生点の事を知っていたのか? それとも『鬼蜘蛛』を受け継がせたからこういう発生点になってしまったのか? そもそもどうしてお前と陣迂には力の発生点が二つある? 龍閃の起源とは一体なんだ? 疑問は山積みだ」
 そういう、事か……。この変な気持ちは……。
 頭では憎い事は分かっているのに。果てしない殺意を抱いていたはずなのに。ソレに体付いていかないのは。精神と肉体が切り離されたように感じるのは。
「だがな今の理論では、『鬼蜘蛛』がリミッターの役割を果たしているだろうという事は分かっても、ソレが龍閃の卵かどうかはハッキリしない。私の体で孵化させたからといって、龍閃の力の知識が手に入るかは分からない。それ以前に私の中で孵化してくれるかどうかすら分からない。だからソレをこれから実証する訳だ。お前から実際に『鬼蜘蛛』を奪ってな。そのために私はこれからお前を召鬼とする。召鬼化と『閻縛封呪環』。この二つを組み合わせる事で、相手を殺す事なく使役神を取り出せる事は知っているだろう? 今からまさにソレを実行に移す訳だ。ここまではいいかな? 何か質問はあるか? 例えば、私の支配力の方が低いんじゃないかとかな。それともその辺りの事情はすでに聞いているか? この成り行きを影でじっと覗いているオカマ仮面紳士に」
 説明的な口調でゆっくりと言って、魎はサングラスを外した。ソレを胸ポケットに入れ、別のポケットから紙パックジュースを一つ取り出してストローで一気に飲み干す。そして大きく息を吐き、紙パックを適当に放り捨てて、
「さてココで問題です。どうして私はこんなにも丁寧に解説したのでしょうか」
 軽く両手を広げて子供のように無邪気な笑みを浮かべて見せた。
「悪役の務めだから? んー、おしいなー。私が世界征服でも目論んでいれば当たりだったかもしれんがなー」
 前髪を掻き上げて広い額を晒し、小気味良い音を立てて叩きながら魎は楽しそうに言う。
「まぁ、コレばかりはいくらヒントを出しても分からんだろうから正解を言うとしよう」
 前髪の位置を元に戻し、魎は悪戯っぽく笑って続けた。 
「あー、正直玖音だと思っていたんだ。私を出し抜いてくれるのは。嶋比良久里子を助け出した事といい、さっきの二重宿来といい、もし私を騙せるとすれば玖音しか居ないだろうと思っていた。しかしどうやらそうではないらしい。なぁ、ミスター玲寺。そろそろ出てきたらどうだ? とっくにバレているぞ」
 少し声を大きくして言い、魎は首を横に向ける。
 玲寺、だと……? アイツが……。
「やー、これはこれは。参りましたね。完全に気配を絶ったつもりだったのですが」
 茂みが揺れた訳ではない。樹がざわめいた訳でもない。  
 何の合図も予兆もなく、ただ最初からそこに居たかのように、黒いオーバーコートを羽織った白スーツの男が魎の隣りに立っていた。
「私の前でソレをやろうなど、三千と七百年は早いな」
「随分とご苦労なさったのですね」
「永遠の三十代後半だと言っただろう」
「前半、ではなく?」
「……時の移り変わりとは早いものだ」
「ご愁傷様で」
 眼鏡の位置を直しながら、玲寺は柔和な表情で口元を僅かに緩める。
「私の計画の全容が知れて満足か? オカ魔ノゾキ魔紳士」
「ええー、ソレはもう。陰険若作り道化師さん」
 腕組みして言う魎に、玲寺は穏やかな物腰で頭を下げながら返した。
「……仁科朋華を冬摩の代わりに守って、という手みやげを作れなくて残念だったな、ゲイ達者百面相」
「……まぁ、貴方の話をゆっくり聞く建前が出来て丁度よかったですよ、精神没落語家さん」
「華麗で巧みな咄し家と言って欲しいな」
「私が興味あるのは冬摩だけですから」
 最初、やり取り楽しんでいた二人はやがて険悪な雰囲気になると、互いに睨み合って同時に溜息を付いた。
 そして先に魎が口を開く。
「私の計画は失敗する。必ずな」
 嘲り、突き放したような口調。だがどこかに期待を孕んだような……。
「私は冬摩を殺さなければならない。殺して『鬼蜘蛛』を奪い取らなければならない。不本意ながら、コレはもう確実だ。もしココで私が冬摩を召鬼化できれば計画は成功する事になる。だがソレは無い。絶対に何らかの邪魔が入るはずなんだ。一体誰がどのようにして行うのか。私はソレをずっと考え、ずっと待っていた。暇つぶしに色々と説明しながらな」
 計画が失敗……? そして自分を殺す……? 確実に……。
 何の事だ。コイツは一体何を言っている。さっきから自分を置いて話がどんどん進んでいく。
 考えろ。考えるんだ。感情にまかせて体が動かない以上、考えるしかない。自分は今何をすべきなのか。目の前のこの男をどうするべきなのか。
「だが説明の方はもう終わってしまった。そして『誰が』に関してはもう分かった。あと残っているのは『どのようにして』、だ。さぁ玲寺、どうするもりだ?」
「御自分で確認されてみては?」
 言われて魎は表情を冷たくし、鋭い視線で玲寺を射抜いて、
「それもそうだ」
 呆れたように鼻を鳴らしてコチラに歩み寄ってくる。
 一歩、また一歩と。確かめるように。気が遠くなりそうなくらいにゆっくりと。
 考えろ。考えるんだ。
 コイツは誰だ。何をしたいんだ。自分に何をするつもりなんだ。
「魎、一つだけ聞かせて下さい。もし『鬼蜘蛛』が本当に龍閃の卵だった場合、ソレを自分の体内で孵化させるという事は、貴方自身、龍閃に意識を乗っ取られてしまう危険性があるのでは?」
「かもな」
 どうすればいい。どうすれば納得できる。どうすれば間違いないと言い切れる。
「ソレは貴方の望むところでは無いのでは?」
「そうなったらそうなったさ。一度は意識を明け渡したとしても、またソレを取り戻す方法を考えるさ。そして私が第二の龍閃となる」
 間違っていないと思える道。絶対に正しいと確信できる道。
 あったはずだ。自分はその拠り所を持っていたはずだ。行くべき先を指し示してくれた何かが……。
「第二の……龍閃」
 誰かが……。
「良い子だ冬摩。すぐ終わる」
 いつも……。
「冬摩さん!」
 すぐそばで……!
「――オラァ!」
 だらりと垂らしていた右腕に力を込め、冬摩は下から掬い上げるようにして拳撃を放つ。魎はソレを読んでいたかのように一呼吸早くバックステップを踏み、着地と同時にコチラに何かを投げ付けた。
「ブッ殺す!」
 ソレを左の拳で弾き、冬摩は魎を睨み付けて叫ぶ。
「テメーは絶対に殺す!」
 そしてもう一度吼えた。
 自分に言い聞かせるように。朋華に宣告するように。
 樹と樹の間から飛び出して来たのを玲寺に止められた朋華を見ながら、冬摩は全身の筋肉を緊張させていく。ついさっきまで空虚なだけだった内側に、躰の最深を灼き尽くすかのような業炎がくべられていった。
 護る。何が何でもあの女だけは護り通す。二度と後悔しないためにも。二度とあんな悲劇を生まないためにも。
 そのために一番確実で、最も簡単な方法。
 ソレが朋華と魎の顔を同時に見た瞬間、頭の中で弾け飛んだ。
「ようやく目が覚めたか冬摩! そうだ! それでいい! そう来なくては殺し甲斐がない! 召鬼にもならないようで安心したよ! 理由はお前を殺した後でゆっくり考えるとしよう!」
「できねぇ事ホザいてんな!」
 左拳に付着した魎の肉片を剥ぎ取りながら叫び、冬摩は大地を強く蹴った。





空メールでも送れますが、一言添えていただけると大変嬉しいです。

BACK NEXT TOP


Copyright(c) 2008 飛乃剣弥 all rights reserved.

-Powered by 小説HTMLの小人さん-

inserted by FC2 system