貴方に捧げる死神の謳声 第三部 ―黄泉路からの慟哭―

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十七『偽りの休息』


◆真の自分として ―真田玖音―◆
 白い陽差しが眩しく降り注ぐ初夏の陽気。微かに聞こえる蝉の啼き声。
 無数の葉を青々と生い茂らせた樹の間を、アスファルトで舗装された綺麗な道が上に向かって緩やかに伸びている。
 玖音はデニムパンツのポケットに手を入れたまま、カフェテリアへと続くその道を一人で歩いていた。その整った女性的な顔立ちに、すれ違う女性達から時折華やいだ声が上がる。
(一ヶ月、か……)
 ソレらを全く気にする事なく真っ直ぐ前を見つめ、玖音は鋭角的な視線をさらに鋭くした。そして大きめのスポーツバッグを担ぎ直し、蒼いハーフジャケットの前ボタンを外す。
 ――アレから、すでに一ヶ月が経っていた。
 水鏡魎の死体を処理し、荒神冬摩が龍閃との共生を初めてから、一ヶ月もの時間が過ぎ去ろうとしていた。
 そう、何事もなく。
 事件は起こらず、誰も傷付かず、そして相手からも何の動きも無いまま。
 まだ終わってはいない。
 ソレは皆分かっている。誰も楽観などしていない。
 しかし確実に薄れつつある。
 緊張感が。自分達がいつ死んでもおかしくない状況に置かれているという危機感が。
 致命的な程に損なわれつつある。
 ソレがどれだけ危険な事かを十分に理解している自分でさえも、時に甘く楽な思考に走りたくなってしまう。そして最近その傾向が特に顕著になってきた。
(やれやれだ……)
 胸中で溜息を付き、玖音はポケットから携帯を取り出す。そして二つ折りになったソレを開け、着信が無い事を確認してすぐに閉じた。
 だがそうなってしまうのは、ある意味当然の事だ。
 どんな人間であれ、二十四時間、三百六十五日、集中し続ける事など出来ない。生き物である以上、どうしても疲労というルールに縛られる事になる。
 だからそのルールの上で、いかに効率的に体力と精神力を使うかを考えなければならない。
 例えば――
「荒神冬摩」
 カフェテラスのオープンデッキ。大き目のビニールパラソルで日陰となった、柵寄りの丸いウッドテーブル。
 そこで賑やかに騒いでいる数人の男女に向かって、玖音は無愛想に声を掛けた。
「あぁん?」
 コチラに背を向けていた長い髪の男が、柄の悪い声を上げて面倒臭そうに顔を向ける。黒のタンクトップと同色のダメージジーンズに身を包み、厳つい体つきをしたその男は射殺すかのように睨み付けて来た。
「どうだ。何か変わった事は」
「ねーよ」
 そして素っ気なく言い、またすぐに首を戻して荒っぽく後ろ頭を掻く。
 もう髪に紅い色素は混ざっていない。元の黒髪だ。爪や目と違い、この髪だけは最後まで龍閃の余韻を残していたがソレもようやく消えた。だが、心の方は全く晴れていない。
 この一ヶ月、決着の付いていない中途半端な戦いに彼も苛立っているのだろう。その気持ちはよく分かる。
 今でこそかなり大人しくなっているが、最初の頃は全くと言って良いほど手が付けられなかった。少し間違えれば、自分達が殺されていたかも知れない程に。
 仁科朋華が目を覚ますのがもう少し遅ければ、ソレは恐らく現実になっていただろう。コレばかりは篠岡玲寺に感謝しなければならない。
「そうか」
 冬摩の答えに玖音は短く返して背中を向ける。そして元来た道を歩き始め、
「さな……芹沢さん、傷の具合はどうですか?」
 コチラの名字を言い直して続けられた明るい声に、玖音は足を止めた。
「確か、昨日も聞かれたと思うが」
 肩越しに声の主――仁科朋華の方を振り返り、どこか面倒臭そうに答える。
「え? あ、そ、そうでしたっけ?」
「ソレだけお主が足繁く通っておるという事よ」
 驚いたように目を大きくする朋華の隣で、『死神』が不満そうに腕組みしながら言った。
「足繁く、ってゆーよりは毎日だけどねー」
 ツインテールをテーブルの上に垂らし、御代が頬杖を付きながら怠そうに付け加える。
「じゃあな」
 ソレに玖音は適当に返して顔を戻し、少しだけ緊張感を解いて歩き出した。
 今日も、やはり何事も無かった。
 ――予想通りに。
 現状での課題は大きく二つ。
 水鏡魎の居場所の特定。そして龍閃の意識が眠っている『鬼蜘蛛』の処置だ。
 あの場所に水鏡魎の死体は残されていた。しかし魎はまだ死んでいない。アレは間違いなく『分身』。コレは確実だ。
 まず根拠の一つに、魎の保持していた使役神を冬摩が受け継いでいない事。そして大地に束縛されていない事。コレはまだ魎が生きていて使役神を保持している事を示している。
 そして二つ目として陣迂の生存。
 彼は魎の召鬼となって擬似的に黄泉還り、怨行術によってその生を安定化した。つまり
 魎が死ねば彼も死ぬ。逆に言えば彼が生きている事が魎の生きている証でもある。
 ではなぜ魎はわざわざ『分身』を残したのか。
 一つは恐らく、冬摩の怒りを鎮めるための道具として使ったんだ。事実、暴走し掛けた冬摩は魎の死体を一瞬で微塵にした。そしてその後で仁科朋華が止めに入り、何とか収まりがついた。
 もし順番が逆になっていれば、あるいはどちらかの要素が欠けていれば、自分は今頃こうして普通に歩いていなかったかも知れない。
 そして二つ目は……コレは正直あまり考えたくは無いのだが……戦いの終わりを告げる合図である可能性だ。
 魎の目的は冬摩の左腕の力について知る事ではなかった。さらにその先。左腕に力を与える原因となった『鬼蜘蛛』を手に入れる事。正確には『鬼蜘蛛』のみを手に入れる事。
 『死神』を始めとする龍閃の創った使役神には、裏の能力が隠されている可能性が高い。ソレを回避するために魎は色々と策を弄してきた。
 しかし篠岡玲寺の機転によってその作戦は失敗した。いや、魎本人もすでに失敗する事は分かっていた。そしてどう失敗するのかを楽しみにしていた。あの時はまだ、例え失敗しても強引に挽回する自信があったんだ。 
 冬摩を殺す事で。
 だが、その方法は龍閃によって妨げられた。
 そして水鏡魎の目論みは完全に封じられた。同じ手は通じない。
 ならばその後、彼が取る行動は何か。
 様子見だ。そして今回の事で失われた力の回復。
 水鏡魎は今、そのための時間が欲しい。だから死体を残し、冬摩の怒りを一端収めた。戦いに取り合えずの区切りを作った。
 また間を空け、コチラが忘れた頃に姿を表す。そしてまた引っかき回す。自分の新たな野望を叶えるために。
 水鏡魎とはそう言う人物だ。
 だが自分は絶対に忘れない。必ず見つけ出して――殺す。絶対に殺す。この先、何十年掛かろうと。
 美柚梨をあそこまで巻き込んだんだ。その償いは命をもってして貰わなければならない。
 だからこうして毎日のように荒神冬摩の元に通っている。何か体に変わった事がないか、常に意識するように仕向けている。
 水鏡魎が興味を持つとすれば、彼の中にあるアレを置いて他にないだろうから。
 ソレが二つ目の課題、『鬼蜘蛛』の処置だ。
 『鬼蜘蛛』に龍閃の意識が埋め込まれている事は分かった。そしてソレが冬摩からの精神的苦痛によって孵化寸前まで成長した事も。  
 そう。卵はまだ卵のまま孵化していない。もしかしたら孵化したのかも知れないが、今はまた卵に戻った。
 だから龍閃はあの時、短い間しか表に出て来られなかった。冬摩の精神に押し負け、内側に戻ってしまった。そしてより多くの『餌』を望んだ。
 完全に孵化するために。
 つまり、龍閃は冬摩が今後激しい精神苦痛を感じなければ表には出て来られない。冬摩が龍閃を押さえ込もうと平常心を保ち続けている限り、『鬼蜘蛛』に関して動きはない。
 ――水鏡魎の思惑通りに。
 魎が冬摩の怒りを一端鎮めたのはそのためだ。
 あのまま暴走し続けて、『鬼蜘蛛』を完全に孵化させないため。龍閃の思惑通りに事が運ばないようにするために。そのために『分身』を犠牲にした。
 だから今のところは何事も無く時が過ぎて居るんだ。
 魎が様子見に徹しているから。ソレ故に冬摩はあまり刺激されず、龍閃は表に出てこないから。龍閃を押さえ込もうと、冬摩は出来るだけ魎の事を考えないようにしているから。
 ソレはあまりに危うい均衡。
 ほんの僅かでも加減を間違えれば、たちまち崩れ去る。 
 そして崩壊の起点に最も近い人物。ソレはやはり水鏡魎だ。
 彼を抑圧する物は何もない。自分のタイミングでいつでも出てこられる。
 あの一瞬でココまで計算したのだとすれば、やはりとてつもない知謀の持ち主だ。あるいは『予知』かも知れないが、どちらにせよ厄介である事に変わりはない。
(孵化、ね……)
 スポーツバッグをもう一度背負い直し、玖音は軽く溜息をついて視線を上げる。 
 もし『鬼蜘蛛』が完全に孵化すれば、龍閃の意識が冬摩の体を乗っ取る。そして第二の龍閃が誕生する。だが、恐らく話はソレだけでは済まない。
 龍閃が最後に言っていた言葉。

『孵化した卵はその後どうなると思う?』

 おおよその検討は付いている。しかしまだソレを言うべき時ではない。
 確たる証拠はないし、いたずらに恐怖心を煽る事もない。冬摩に負の感情を抱かせないためにも。
 それに『鬼蜘蛛』は自分達と魎を繋げる唯一の要素。『鬼蜘蛛』が『鬼蜘蛛』であり続ける以上、魎は必ずまた現れる。そしてその時こそ……。
「玖音」
 低い声で本名を呼ばれ、玖音はまたその場に足を止めた。
「テメーの方こそ何かねーのかよ」
 そして続けられた言葉に玖音は顔だけ向ける。
 コチラに背中を見せたまま右肘を『獄閻』の上に置き、冬摩は横柄な態度で機嫌悪そうに構えていた。
「無い。残念ながらな」
 ソレに玖音は顔色一つ変える事無く返し、またすぐに前へと向き直る。
「本当だろーな。何か知ってんのに隠してんじゃねーだろな」
「ソレはない」
「何か分かったらすぐに教えろ。いいな。テメーは俺にデカい借りがあるんだからよ」
「分かった」
 互いに顔を合わせないままやり取りを終え、玖音は再び歩き出した。後ろから冬摩の不満そうな声がするが、ソレ以上は何も言ってこない。
 問い詰めても無駄だと悟っているのか、それとも――
(いや……有り得ないか)
 苦笑し、玖音はポケットから携帯を取り出した。そして二つ折りを解放してディスプレイを表示し、着信を確認する。
 冬摩への大きな借り。ソレは美柚梨の事だ。
 美柚梨はまだ冬摩の召鬼のままだ。自分がその状態を維持してくれるよう冬摩に頼んだ。
 水鏡魎の作戦上、すでに美柚梨と嶋比良久里子が彼の召鬼でない事は分かっている。だからもう冬摩の召鬼でなくなったとしても魎に操られる事はない。実際、嶋比良久里子の方は、本人からの非常に強い希望で召鬼化から解放されている。
 まぁ彼女の場合は元々『天空』の力があるし、何より今は強い味方が常にそばに居る。だから殆ど問題はない。
 しかし美柚梨はそうではない。
 あの有り余るバイタリティーを除けばごく普通の一般人だし、互いに学生でありそれぞれの社会を持っている以上、自分がずっと見張り続けている訳にもいかない。もっとも、必要とあらば躊躇わないが。
 美柚梨には出来るだけ普通の学生生活を謳歌して欲しい。この血生臭い世界に美柚梨は巻き込みたくない。
 ――かつて、そう心に誓っていた。
 だがこうなってしまってはしょうがない。もう綺麗事だけで済ませられる次元を遙かに越えてしまった。
 またいつ美柚梨が狙われてもおかしくない。こかれらはその前提の元、行動しなければならない。だから美柚梨にはどうしても力を持っていて貰う必要があった。
 自分で自分を守るために。最悪、誰か力のある者に助けを求められるように。
 このまま時間が経てば、美柚梨と冬摩は互いの位置を知覚でき合うくらいにはなるだろう。そうなってくれればより盤石だ。冬摩の所に逃げれば、取り合えず間違いないだろうから。
 しかし、出来ればその役目は自分が担いたい。いや、本来そうするべきなんだ。
 大切な身内の安全を他人の手に委ねてどうする。後悔と反省を繰り返すだけが能の、情けない兄のままでどうするというんだ。
 美柚梨は自分が護る。
 そしてそのためには――
(力……)
 どうしても力が必要だ。
 自分以外の護り手を長時間使役する力が。そして美柚梨に力を与え、常に彼女の事を把握出来る力が。
(魔人、か……)
 立ち止まり、玖音は思い詰めた表情で空を見つめる。どこまでも平和に澄み渡る蒼い空が、異様なまでに腹立たしい。
 もし魔人の力を手に入れれば……。
 使役神を具現化し続ける事も、美柚梨を自分の召鬼にする事も出来る。
 そして、魔人になる方法はすでに分かっている。問題はどうやって龍閃の死肉を大量に……。 
『玖音……』
 頭の中で『月詠』が心配そうに言った。
 分かってる。自分が今考えている事がどれだけ危険な事か、十分すぎる程理解している。
 篠岡玲寺のように上手く着床するとは限らないし、加減を間違えれば意識を呑まれる。そうなれば冬摩とは当然敵対する事になり、下手をすれば美柚梨をこの手に……。
 だが、ソレでも……。
『一人で何でも抱え込むのは貴方の悪い癖ですよ』
 分かってるさ、そんな事は……。
『ですからこーゆー時は――』
 けど、そうしなければ美柚梨が……。
『美柚梨さんのセクシーエロボイスでも聞いて元気出しましょう!』
 そう、美柚梨のセクシー……。
「……何?」
 玖音が聞き返すとほぼ同時に、持っていた携帯が振動を始めた。着信だ。ディスプレイを見る。相手は美柚梨。
『ッさぁ出て下さい! パァーッと一発!』
 何の一発だ……。
 病的な昂奮を見せる『月詠』に少し引きながらも、玖音は携帯を耳に当ててコールに応える。
「もしもし」
『あ・に・き……っ』
 そして吐息混じりの色っぽ……くしようと精一杯頑張っているが残念ながらキャラが違うので大きく外れているにも関わらず本人の自覚は全くない声。
「どうした。何か問題でもあったか」
 緊急ではない事が速行で分かってしまったので、玖音は必要以上に落ち着いた声で冷静に返す。
『さてココで唐突に問題です。美柚梨ちゃんは今どこにいるでしょうか』
 どこって……。
 言われて玖音は目線を上げ、電光掲示板の横に大きく表示されているデジタル時計を見る。まだ昼の一時を少し回ったところ。どこの高校でも普通は授業中だ。
「家か?」
 なら早退でもしたのだろうか。とすると病気? いや……。
『ブッブッー』
『ざーんねーんでしたー』
 美柚梨と『月詠』の声が続けて聞こえる。
 なんなんだこのノリは。突然過ぎて付いて行けんぞ。
『ではまず右を見てみましょー』
 美柚梨に言われて玖音は右を向く。何人もの学生が行き来している広いイベントスペース。その向こうには白い外壁を晒した五階建ての共通棟。
『次は左ー』
 ボート部が使っている湖のように広大な池。この縁に沿って進めば裏門に出られる。
『で、後ろー』
 街路樹に挟まれたなだらかな上り坂と、その先には冬摩達がいるカフェテラスが……。
「イェーイ! あーにきー!」
 紅い髪の毛が――
「さぁ! 今夜こそベッドエンドで! ラブフォーユー!」
『貴方の記憶にフォーリンハッピー!』
 黄色い声が――
「さぁ帰ろー! 今すぐ帰ろー!」
『清楚な愛の巣が待っているー!』
 果てしない毒電波が――
 ――って、オイ……!
「お前! なんでこんなトコに居る!?」
「いやですわー。私達の仲なら当然の事ですのにー。あ・な・た」
「違ああぁぁう! そうじゃない!」 
『玖音、女性をエスコートする時はもっと優しく肩を抱いてあげないと……』
「お前は黙ってろ!」
『まぁ私にまで“お前”だなんて。いけませんよ? 二股は。く・お・んっ』
「だからやめんかあああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 一際大きく叫び散らし、玖音はぜぃぜぃと肩で荒く息をする。『月詠』の場合、美柚梨と違って本当に色っぽいから困る。少し前まではこんな事をする女性ではなかったのに……。
「兄貴……」
 そして追い打ちを掛けるように、何か期待したような目で見つめ返す美柚梨。
 気が付けば周りからは批難の視線。無言の誹謗中傷プレッシャー。
 い、いかん……。ココは冷静にならなければ。でなければこの先ずっと『ギャルゲー電波受信局』のレッテルを貼られてしまう。たださえ裏では『シスコン刃物マニア』とか言われているのに……。
「美柚梨」
 玖音は咳払いを一つして平静を装い、いつの間にか掴んでいた美柚梨の肩から手を離して聞く。
「どうしてこの時間にココに居るんだ? 授業はどうした」
「サボタージュした」
 またかコイツ……。しかも最近は悪びれた様子もなく……。
「理由は?」
「兄貴に会いたくなったからー」
 にへへー、と明るく笑いながらいつものセフリを口にする美柚梨。そして周囲のざわめきが大きくなる。
「いいか美柚梨。何度も言うがココは大学、お前は高校生。つまり入ってはいけない。分かるか?」
「でも入れるよ?」
「ソレは侵入したというんだ」
「ちゃんと正門通って来たよ」
「警備員はどうした」
「はっ倒した」
「コラアアァァ!」
「あー、ウソウソ。今日は飛び越えてきた」
「“今日は”ってなんだ!」
 ざわめきの度合いに拍車が掛からなくなってきた。
 い、いかん……。完全に美柚梨のぺースだ。どうしよう、どうすればいい、どうすればこの状況を……。
「じゃあ行こっか」
 急に手が温かく包まれた。その温もりに引かれ、体が勝手に前に出る。
 自分達を揶揄する声は自然と遠くなって行き、かぐわしい香りを残して揺れる紅い髪だけが視界に映るようになった。
「なんかさ、いいよね。こーゆーのって」
 池の外周に沿って小走りに進みながら、美柚梨は楽しそうに言う。そこには先程までの軽く飄々とした雰囲気は無く、ただ純粋に今を楽しむ童女のように幼い横顔。
「ちょっとだけ、兄貴に近付けたって気がする」
 そして美柚梨は足を止め、コチラに振り返って満面の笑顔を向けた。白いノースリーブシャツの裾が、風に揺られてふわふわと舞う。
「近付け、た?」
 いつもとは少し違った様子の美柚梨に、玖音は言葉を詰まらせながら聞き返した。
「そ。やっと兄貴の目線に立てたって感じかな」
 言いながら美柚梨はコチラに近付き、背伸びをして顔を寄せる。
「どういう、意味だ?」
「兄貴がちゃんとアタシの事見てくれるようになったって事っ」
 少し距離を取ろうとする玖音に美柚梨は飛んで抱きつくと、両手を背中に回してしっかりと固定した。
 こ、ココがもう人気のない所だから良いようなものの……。
「あ、あのな。僕はいつだってお前の事をちゃんと見てる」
 辺りをせわしなく一通り見回した後、玖音は美柚梨の方を見て口を開く。
「うん。見てくれてるよ。芹沢雅哉としてね」
 美柚梨はコチラの胸に顔を埋めたまま、目線を上げて言った。
「でもこれからは真田玖音としてアタシの事見てくれるんでしょ? つまりそーゆー事っ」
 そしてまた頬をすり寄せてくる。
 芹沢雅哉としてではなく……真田玖音として……。
 美柚梨の言葉を頭の中で何度も繰り返しながら、玖音は明後日の方向を呆然と見つめた。
 まさか、美柚梨は喜んでいるのか? こうなった事を。完全に“コチラ側”へと巻き込まれてしまった事を。
 自分に近付けたから? 表面上の自分ではなく、本当の意味での自分と向き合う事が出来たから?
 もしそうだとすれば、自分の思っていた事は余りにも的外れで……。
『ね? 元気出たでしょう? 玖音。一人だけで全てを背負って、閉じた世界で考え込んでいるよりも、色んな人から色んな意見を聞いた方が視野が広がります』
 色んな意見……考え方。一人だけで導き出した物よりも……。
 他の誰にも相談出来ない事でも……せめて美柚梨には……。
『でないと美柚梨さん、哀しみますよ?』
 駄目だ。ソレは駄目だ。
 美柚梨を哀しませるような事は絶対にさせないし、ましてや自分がするなど――
「美柚梨」
 玖音は『月詠』の言葉に押されるようにして言葉を発し、美柚梨の瞳を正面から見つめた。そして真剣な声で、
「僕は、魔じ――」
「マジ!? マジなの!? マジで!? マジなのかよ!」
 言おうとして美柚梨マシンガンに銃殺された。
「ぃよっし! 兄貴がその気なら話は早い! まだ陽は高いけど愛があればそんなの関係ない!」
 そして自分の腕をひっ掴んでずりずりと裏門の方へと引きずって行く。
「ちょ……美柚……!」
 と、止められない……! コレが荒神冬摩の召鬼、芹沢美柚梨の真の力なのか!?
『いやー、玖音も意外と決める時は決めますねー。ホントびっくりですよー』
 『月詠』……! お前まで……!
「だーいじょーぶ、大丈夫。痛いのは最初だけだからさー」
「お前が言うな!」
「じゃー兄貴が言ってくれるのー?」
「誰が言うか!」
『我が儘はいけませんよ、玖音』
「噛み合っとらん!」
「もうトーマ君と朋華チンは経験済みだってさ?」
「なにぃ!?」
『じゃあそーゆー事で玖音』
「文脈読め!」
「さぁさぁレッツゴー、次世代王国へー」
『さようなら桜の実。こんにちはコウノトリさん』
「はーーーーーなーーーーーせーーーーー!」
 力だ……! 力が必要だ……! 何としてでも力を手に入れなければあああぁぁぁぁ!

◆真の決意を ―穂坂御代―◆
 玖音の断末魔の叫び声を遠くの方で聞きながら、御代は微笑混じりに自慢のツインテールを撫でた。そしてウッドテーブルに頬杖を付き、白いインナーの上に羽織った紺のニットボレロの胸元をいじる。
「……何やってんだ、アイツは」
 ソチラにジト目を送りながら、冬摩が呆れたように溜息を付いた。
「平和、だよね」
 口元を緩めて微笑ましそうに漏らした御代を、冬摩は一瞬だけ剣呑な視線で見る。しかしすぐにまた溜息をついて表情を戻すと、『獄閻』の体を右肘でぐりぐりと押し潰した。
「あー、全くだ。ホントに平和過ぎて反吐が出る。コッチは頭がどうかなりそうだってのによー」
 『獄閻』を扁平な楕円にまでしたところで解放し、冬摩は渋面になって足を組み替える。
 どうやらかなり虫の居所が悪いようだ。しかもこの苛立ちの元凶であり、憎むべき相手の事を深く考える訳には行かないから余計にだ。
 水鏡魎への憎しみはすぐに絶大な殺意へと昇華する。そしていつまで経っても果たされぬ負の感情は、やがて精神的苦痛を冬摩の中に生み落とし、ソレが『鬼蜘蛛』に力を与えて龍閃を自分の中で黄泉還らせる事に繋がる。
 だから冬摩は魎の事を出来るだけ考えてはならない。憎んではならない。
 そのためにこうして彼らを具現化しているのだろう。何とかして場の空気を和ませ、自分の気持ちを誤魔化す為に。
 あまりにも悲痛な状況だ。自分なら一週間ともたずに発狂してしまうだろう。コレも冬摩が持つ精神力の成せる技なのか……。
 この煉獄の様な迷宮に終わりを見出すには、魎に対する考え方を改めるか、あるいは魎を見つけだして仕留めるしかない。しかし前者に望みはなく、後者に関してもどうしても受け身にならざるを得ない。つまり向こうから何か仕掛けてきてくれない限りは、居場所を特定するのは極めて困難という事だ。
 先の長い戦いになる……かといって時間が無限にある訳ではない。
 例え魎の事を考えなくとも……いや、考えまいとすればする程、冬摩の中で欲求不満は積もっていく。
 欲求不満、ソレは小さな精神苦痛。ほんの少しずつではあるが、確実に『鬼蜘蛛』に力を与えていく。そして小さな力の塊が龍閃を……。
 ――と、いう複雑で難解で厄介な思考を、さっきのシスコン刃物マニア先輩から一ヶ月前に聞かされた。
(大変だよね、荒神君もさ……)
 冬摩の方を横目に見ながら軽く息を吐き、御代はストローからメロンソーダをすすった。
 全く、彼に比べれば自分の悩み事など取るに足らない。馬鹿馬鹿しいくらい些細で、微妙な事だ。だが、ソレでも自分にとっては重大な問題な訳で……。
「なんだよ」
 不機嫌そうな声で言ってきた冬摩に、御代はハッとなって目を逸らした。どうやらいつの間にか彼の事を見つめてしまっていたらしい。
「あーいやー別にー」
 少し上擦った声で返しながら、御代は適当に視線を泳がせた。その先で『死神』と『獄閻』が、パフェ用スプーンの争奪戦を繰り広げているのが見える。
「今日もみんな元気だなーっと思ってー」
 言いながら御代はツインテールを胸の前で固結びし、顔だけをストローの方に近付けて、
「陣迂さんの、事……?」
 ブッ!
 ……鼻に入ってしまった。
「あぁ、またあの野郎の事か。テメーも物好きだなオイ」
 暴れる『獄閻』の上に踵を叩き込み、冬摩は小馬鹿にしたように鼻で笑う。
 ……朋華、恨むわよ。
「今頃何してるんでしょーね。嶋比良さんからも何の連絡もありませんし」
「さぁな。どっかで魎の馬鹿でも探してんだろ」
 フレアスカートの上に置いた『天冥』の毛並みを撫でながら言う朋華に、冬摩は興味なさそうに返す。だが少なからず気にしている事は明らかだ。その証拠に、左耳が痙攣するかのようにヒクヒクしている。冬摩が本音と違う事を口にした時の癖だそうだ。朋華に教えて貰った。
 ――あの後。陣迂はすぐにどこかへ行ってしまった。魎を探すために。自分の気持ちに決着を付けるために。

『アンタにはマジで迷惑掛けたな。悪かったと思ってる』

 冬摩と同じ顔で、しかし冬摩は決して見せないはにかんだような表情。今でもハッキリ覚えている。

『ま、この命アンタが救ってくれたようなモンだ。罪滅ぼしに捧げても良い――と、言いたいところだが……悪いな。今はじっとしてられる気分じゃねーんだ。だからよ……』

 助けようと思って助けた訳ではなかった。
 避暑地のログハウスで陣迂を束縛していた『烈結界』を解いたのは勿論の事、冬摩のために自らの命を絶とうとしたのを止めた事も。そして冬摩や魎、麻緒らが放つ力の余波から陣迂を庇ったのも。
 体が勝手にした事だ。
 何か考えた上での行動ではなく、気が付いたらそうしていた。そして結果として陣迂を助けていた。
 ……まぁ、おかけで全て終わった後、気絶してしまうくらいの疲労がのし掛かってきたが。今思い返してみると、かなり無茶をしていた気がする。
 しかしだからといってお礼を言われる程の事ではないし、ましてや謝られたりしたら逆に困る。別に何か見返りを求めていた訳ではないのだ。
 ただ、もう少しだけ色々とお話してみたかった。諦め切れなかった想いが別の形で実るような気がして、柄にもなく何か運命のような物を感じてしまったから。
 けど――

『またな』

 彼は自分の前から姿を消した。 
 わざわざ自分の召鬼化まで解いて。おかげで彼の居場所を知覚する事も出来なくなり、気持ちが伝わってくる事もなくなった。しかし……。
「でさ、御代ちゃん……」
 チェリーピンクのヘアバンドに触れながら躊躇いがちに聞いてくる朋華に、御代は考えを中断して顔をそちらに向けた。
「やっぱりアレ、本当なの……?」
 ブッ!
 そして口に含んでいたメロンソーダを盛大に吐き出した。
 ああ、ゴメンネ『羅刹』君。床で大人しくアリの観察してただけなのに……。でもまぁアリが寄ってきて嬉しそうだから良いか。
「な、なーに言ってるのよ。やっぱり違ってたわよ。気のせいだった。あの変な感じも最初の方だけ。今は綺麗サッパリってトコ」
 そう繕いながら御代は両手でツインテールを撫でつけ、
「嘘、だな……」
 からかうような冬摩の言葉に反応して力一杯ソチラを向いた。
「お前、陣迂が好きなんだろ?」
 そして「へっ」と得意げに笑い、冬摩は片眉を吊り上げて見せる。
 な……な……な……。
「ホント惚れっぽい女だよなー。あんなののドコが良いんだ」
「朋華言ったの!?」
 おどけたように肩をすくめる冬摩を無視し、御代は勢いよく立ち上がって朋華をきつく睨んだ。
「え? あ、うん……。ゴメン……。で、でも私は『御代ちゃんが気になってるみたい』としかー……」
「しっかり言ってんじゃない!」
「え、えーと……その。隠し事、よくないかなーって……。はははー」
「人との秘密までぶっちゃけるな!」
 『天冥』を顔の高さまで持ち上げて口元を隠す朋華に、御代は思わず彼女のコットンパーカーを掴み上げる。
 あーもー、ホントにこの子は……! 悪気は無いんだろーけど……でも悪気さえ無ければ何してもいいって訳じゃないわよ!
「あ、あはは。ゴメ、ゴメンね御代ちゃん。今度奈良漬けの美味しい店紹介するから」
「いらんわ!」
 御代は一際大きく叫び上げ、『天冥』の後ろに隠れようとする朋華に顔を近付けて、
「あ……」
「あ……」
 嫌な引き裂き音と共に朋華と御代の声がハモる。
 音のした方に目をやると、朋華のパーカーの襟部分が千切れて中の繊維をだらしなく晒していた。
「まだ慣れん力を思い切り使うからじゃ。最初のうちは意識して手加減せよと教えたじゃろうに」
 いつの間にか隣に来ていた『死神』が、勝ち取ったスプーンを鼻の前で誇らしげに揺らしながら言う。
「いいからもー止めとけよ。ンな事してたって気味悪がられるだけだぞ」
 さらに横手から冬摩の面倒臭そうな声が掛かった。
「……いいでしょ、そんなの。私の勝手じゃない」
 ソレに御代は不満げな声で返し、椅子に座り直した。かなり派手に騒いだせいで、周りから多くの視線が向けられているのが分かる。
 確かに『死神』の言うとおり、コレからは意識的にセーブしていかないと際限なくこういう状況を作り出してしまいそうだ。唯一の肉親である母親の前では特に気を付けないと。
「ったく、玲寺の野郎も人が良いのか面白がってんのかは知らねーけどよ。よくやるぜ」
 頭の後ろに両手を回し、冬摩は投げやりな口調で言ってウッドチェアーに体重を掛ける。そして潰れている『獄閻』を引き寄せてまた肘置き代わりにし、何か当てつけるような視線をコチラに向けてきた。
(そんな目で見ても、ダメなんだから……)
 冬摩と一瞬だけ目を合わせてまたすぐに朋華の方を向き、御代は所在なさげにツインテールの先をいじり始めた。
 自分は今、篠岡玲寺の召鬼になっている。
 だから冬摩の具現化した使役神も見えるし、人間離れした力も持っている。
 別に召鬼にしてくれと頼んだ訳ではない。ただ解かないでくれとお願いしただけだ。
 自分の体には元々三つの召鬼化媒体が入っていた。魎、玲寺、陣迂の血が。
 最初、その三人の中で最も支配力の高かった陣迂の召鬼になった。だが陣迂が召鬼化を解いたために自分は、その次に支配力の高い玲寺の召鬼となった。
 いや、すでに魎の召鬼化媒体はその効力を失っていたのだろう。ソレを知っていたから陣迂は自分の召鬼化を解いた。そして残った召鬼化媒体は玲寺の物だけ。

『まぁ、私も貴女には色々とご迷惑をお掛けしましたから。そのままにして欲しいというのなら別に構いませんが……ただ一つだけ。ソレは貴女自身、その意味をちゃんと理解していると受け取ってよろしいんですね?』

 丁寧な口調ではあったが、玲寺は言葉の端々に冷たい棘のような物を混ぜて言った。ソレは暗に止めておけという事。
 今回、御代が巻き込まれたのは玲寺の気まぐれに過ぎない。そこに魎の意思は関わっていなかった。夏那美や美柚梨と違い、保持者とそれ程深い関係ではなかったから。
 しかし召鬼としての力を持ったとなれば話は別だ。
 当然、次からは狙われる。勿論、召鬼でないからといって全く標的にされないという保証はどこにもないが、それでも可能性としては格段に低い。
 だがもうその段階は通り過ぎた。すでに引き返せないところまで足を踏み入れた。
 他の誰でもない、自分の責任で。
「ねぇ御代ちゃん。やっぱり……」
「ソレは無理ね」
 暗い声で何か言おうとする朋華に、御代は強い口調で言葉を被せた。
 朋華の言いたい事は分かる。本気で心配してくれている事も、本当はソレに沿うべきなんだという事も理解できる。
 自分はただの一般人。普通に学生生活を送って、普通に社会に出て、普通に結婚して、普通に家庭を持つ。贅沢などは余り言わず高望みもせず、何の変哲も無い極めて平凡な人生を歩むのが似合っている。自分でもそう思う。
 冬摩や朋華の住んでいる世界に手を出すべきではない。
 だが、少しだけ試したくなってしまった。
 没個的で平坦なレールの上に完全に乗ってしまう前に。ソレで良いんだと自分で本当に納得してしまう前に、確認したくなってしまった。
 今も胸の中にある、この妙な気持ちの正体。その真偽を。
 本当に、自分は――
 最初、陣迂の魎に対する荒っぽい感情が、魔人と召鬼の繋がりを介して自分の中に流れ込んできているのだと言われた。自分もそうだと思っていたし、全てが終わればまた元通りになるのだと思い込んでいた。
 だが違った。陣迂の召鬼でなくなっても、この気持ちは収まるどころかどんどん……。
 外見が冬摩に似ていたから? 喋り方や物の考え方も?
 勿論ソレもある。と言うより入口は間違いなくソコだ。
 だがソレだけではない。上手くは言えないが、冬摩にはなくて陣迂が持っている、ある種の儚さのような……。
「まー好きにしたら良いじゃねーか。やりてー事も出来ずにひたすら鬱憤溜め込んでるどこかの誰かさんよりはよっぽどマシだ」
 自虐的な笑みを零しながら、冬摩は息を吐いて面倒臭そうに言う。
「で、でも冬摩さん。それなら別に召鬼でなくたって……」
「ソレは難しいと思うぞ、仁科朋華よ。例えばお主が召鬼の力を失ったとして、果たして冬摩と今のような関係を保ち続けられると思うか?」
「それは……」
 スプーンを器用に回しながら言う『死神』に、朋華は少し俯いて口ごもった。
 『死神』の言うとおりだ。陣迂と関わりを持とうとする以上、いわゆる“普通”では話にならない。肉体的にも、そして精神的にも。
 だからこの力は必要だし、ちょっとした興奮状態で感覚が麻痺している間により深く入り込まなければならない。理性と常識で考え直してしまう前に、この世界の事をもっとよく知らなければならない。
 玲寺が気まぐれで巻き込んだというのなら、コッチだって気まぐれだ。気まぐれで行けるところまで行ってやる。
 そう、完全に開き直らなければならないのだ。
「ま、其奴(そやつ)の事を思うのであれば召鬼の先輩としてお主が色々と教えてやるんじゃな」
「先輩って、そんな……」
「うーむ、あの幼子かっぷるもなかなか趣があって良かったが、やはり色恋沙汰は成熟した男女に限るわ」
「……『死神』さん。完っ全っに面白がってますよね」
 どこからか取り出した扇子で口元を隠しながら言う『死神』を、朋華はジト目になって見据える。
 前々からずっと感じていた。
 冬摩と朋華の三人で一緒に喋っていても、自分だけカヤの外に残されているような疎外感、孤独感。
 冬摩と朋華にしか分からない会話、聞き取れない声、見えない存在。
 間近にいるのに霞んでしまうくらい遠くの方で話している。自分ではなく、自分の後ろを見て会話している。自分の知らない世界の言葉を喋っている。
 ソレまるで色の付いていない風景画の中に迷い込んだかのようで。自分がまだ、イジメを受けていた時のようで……。
 だが、今は――
「そろそろ行こうぜ。講義、始まるだろ」
 長い髪を龍の髭で縛り直しながら言い、冬摩は重そうに腰を上げた。
「え? あ、ああ、そうですね……。そっか……もうこんな時間……」
 腕時計に目を落としながら朋華もソレに続く。
 喋り込んでいたせいか、いつの間にか昼休みももう終わりだ。コレから睡魔と戦わなければならない。まぁ、今のところ全敗記録更新中だが……。
「しかしアレだな。玲寺の召鬼って事は少なからずあの野郎の性格を受け継ぐって事だ。ま、せいぜい女に興味持たねーよーに気を付けるんだな」
 『羅刹』の首根っこをひっ掴み、『獄閻』をリフティングしながら冬摩は半笑いになって言う。
「どういう意味よ」
「そのまんまの意味だよ」
 聞き返す御代に意地悪く言う冬摩。
 自分が女に興味を……? どういう事だ? あの人、一見紳士っぽいようで実は異常なまでの女好きとか?
「御代ちゃん」
 そして朋華は『天冥』を胸に抱きながら、いつになく神妙な顔付きで、
「私、ソッチの気はないからね」
 果てしなく強い意志を込めて言い切った。背後で阿修羅の如き強靱なオーラが立ち上っているようにさえ見える。
 なん、なんだ……? そんなにヤバいのか? 篠岡玲寺という人は……。

◆真の気持ちは ―篠岡玲寺―◆ 
「――ッ!」
 苦悶に顔を歪め、玲寺は体を硬直させた。
「ど、どないしたん? 玲寺さん」
 向かいに座っていた久里子がノート型PCのモニターから顔を上げ、驚いた表情でコチラを見て来る。
「ああ、いや……。ちょっと腰が、急に……」
 ハーブティーの注がれたカップを樫の木製の机の上に置き、玲寺は背中を丸めて腰の辺りをさすった。
 今一瞬、鋭利な痛みが……。もう感じないが……。
「その年でギックリ腰ですかー? もー、ヤメテや玲寺さん」
「……どうやら誰かが私のよからぬ噂をしているようです」
 カラカラと明るく笑いながら言う久里子に、玲寺は溜息混じりに返す。
 全く一体ドコの誰が。
 ……まぁ、大体の予想は付くが。
「にしてもアレやなー。もー殆ど元通りっちゅー感じですなー」
 両手を高く上げて伸びをし、久里子は僅かにウェイブ掛かった茶色い髪を梳いた。そしてPCの横に置かれたティーカップを取る。
 ココは土御門財閥の館の中庭。若々しい夏草の生えそろった広大な敷地の真ん中にある、憩いのスペース。釘を使わず上質の木だけで組み上げられたオープンコテージ。
 日陰が生み出す程良い涼しさと時折聞こえてくる野鳥のさえずりが、何とも言えない季節感を醸し出している。体を包み込む木の香りと土の匂いが、森林浴でもしているかのようなリラックス感をもたらしてくれた。
「元通り?」
 眼鏡の位置を直しながら、玲寺は低い声で聞き返した。
「ん? あぁ。まぁ大体、やな。そりゃまだ魎の事とか龍閃の事とか、デカイ問題はぎょーさんあるでー。せやけど玲寺さんもこーやって帰って来てくれたし、麻緒も大人しく学校行ってくれてるし、冬摩とトモちゃんは相変わらずみたいやし、メンドい事後処理も大分片付いたし。取り合えずは一段落、っちゅー感じじゃないですか?」
「まぁ、そうですね」
 V字ネックシャツの上に羽織ったニットカーディガンを脱ぎながら言う久里子に、玲寺はにこやかに笑いながら言う。
(表向きは、ね……)
 そして胸中で短く付け加えた。
 元通り? ソレは違う。何も元になど戻っていない。
 宗崎、繭森、白原の保持者が死んだ。彼らの保持していた使役神は魎に奪われた。
 麻緒は誰の目に見ても明らかに消沈していたし、御代は自分の召鬼で居る事を望んだ。玖音はまた美柚梨を巻き込んでしまった事を過剰に反省して早急に何か手を打とうとするだろうし、冬摩はいつ爆発するか分からない鬱憤を自分の中に溜め込む事を強いられた。
 特に冬摩の危うさは、これから紅月を迎えるたび確実に増して行く。例え平時であっても、破壊衝動が理性を上回る危険性が飛躍的に高くなっていく。
 それに自分が戻って来た理由だって必ずしも純粋な物ではない。
 館の事を久里子一人に任せるのは忍びなかった? 色々と迷惑を掛けてしまったからその罪滅ぼしをしたかった?
 確かにソレもあるだろう。自分は二度も裏切ってしまった。もしその上で受け入れて貰えるのであれば、是非とも贖罪をさせて欲しい。そういう気持ちは勿論ある。
 だが所詮は些細な動機付けだ。単なる建前だと言ってもいい。
 ココに腰を落ち着かせた理由は単純。情報を仕入れ易いからだ。
 全国に散らばっている血縁者達とのネットワークだけに留まらず、政界にすら顔の利く土御門の情報力は凄まじい物がある。
 スピード、規模、鮮度、信頼性。どれを取っても超一流だ。
 だから魎に関する情報を真っ先に知りたいのであれば、ココに居るのが最良の選択である事は間違いない。
 魎の居場所を知り、彼を出し抜き、冬摩と龍閃との問題に決着を付けたいのであれば。そして自分が最も望んでいる事を成し遂げたいのであれば――
「後は麻緒が派手にやってくれた器物損壊の件やねんけどなー。ったく……。まぁなんとか捕まるような事だけはないようにしたったけど、新地にするんはしんどいでー」
 独り言のようにブツブツと呟きながら、久里子はまたモニターとの睨めっこを再開した。
 久里子は頭がいい。だから認識していないはずがないんだ。
 今はただの途中休憩。大きな事件が起こる前の不気味な静けさでしかないという事を。
 自分が今考えている事だっておおよその見当くらいは付いているだろう。ソレを知った上で明るく迎え入れ、今を『元に戻った』と表現している。
 ――ひょっとしたらこのまま何事もなく平和に過ごせるのではないか。
 恐らく、久里子の頭の中にはそんな甘い考えがある。
 現状を冷静に把握し、その中から有用な情報だけを抽出して最善の行動をはじき出せる思考を持っていながら、どこかで楽観的な感情が入り交じる。
 玖音のように自分にも周りにも厳しく、そしてある意味冷徹で酷薄な考え方が出来ない。
 まぁソレは久里子の優しさであり、いわゆる彼女らしさであり、悲観し過ぎないという事は決して悪い事ではないのだが……。
 ただ一つ。どうしても気になっているのが――
「久里子」
「ん?」
 組んでいた足を解き、真っ正面から見つめて言う玲寺に、久里子はキーボードを打つ手を止めて顔を上げた。
「今の私の事、どう思いますか?」
「へっ?」
 久里子は一瞬驚いたような戸惑ったような表情を浮かべた後、ずり落ちた眼鏡の奥を少し朱に染めて――
「魔人となった私を、どう思いますか?」
 付け加えた玲寺に、久里子の顔が強ばった。
 自分は龍閃の死肉を長く体に宿したせいで、ソレが完全に着床して魔人に転生した。コレは魎ですら予見できなかった意外な現象。
 外見的には何一つとして変化はない。だが内面は人間だった頃の自分とは大きく違う。
 物理的な力は勿論の事、回復力、使役力、紅月からの影響力、そして召鬼化の力。
 さらに麻緒のおかげで吹っ切れたせいか、それとも血がそうさせるのか、考え方も魔人のソレに近く――
「玲寺さんは、どない思われてる思いますか?」
 悲しそうな表情からは一転し、久里子は悪戯っぽい笑みを浮かべて逆に聞いてきた。
「私が自分で、ですか……」
 予想外の返答に玲寺は少し考え、
「得体が知れず不気味……」
 自分が自分に抱いている印象をそのまま述べた。
 今でこそ魔人に転生した事を受け入れているが、その事を最初に知った時にはまさに不気味だった。だが自分にはお似合いだとも思っていた。
 あの時。まだ今のように気持ちの整理が出来ておらず、ただ周りで起こっている事に身を委ねていたあの時。とにかく自分への嫌悪感で一杯だった。
 冬摩と戦いたいという一時的で自分勝手な欲望に流され、許されない裏切り行為をはたらいてしまった自分自身をひたすら責め続けていた。
 帰る事など出来ず、どうすれば良いのかも分からず、心は当てもなく彷徨い歩いていた。冬摩に負け、龍閃が死んでしまった以上、自分の居場所は魎のそばしかなかった。
 ソレがどれだけ意味が無く愚かしい行為であるかは分かっていたが、何とかしようという気にはなれなかった。気持ちを奮い立たせる事など出来なかった。
 ――どうでもいい……。
 そんな空虚な思いだけが躯を支配していた。
 だから自分が魔人に転生し、内側から何かに侵蝕されている事が分かっても、ソレをどうにかしようとは思わなかった。むしろこのまま全て呑み込まれて、何も考えず何も感じない木偶になってしまえば良いとさえ思っていた。
 心を宿さない操り人形。
 しかしまるで生き物のように振る舞うソレを見て、不気味だと思わない人間は居ないだろう。
「うーん、ちょっとちゃうな」
 コチラの言葉に久里子は腕組みし、大袈裟に考える仕草をしながら唸った。
(ちょっと、ですか……)
 つまりは少なからずそういう思いはあったという事か。
 口の端に小さく自嘲めいた笑みを張り付かせ、玲寺は久里子の言葉を待つ。
「例えば、や。深い深い森に入り込んだとするやろ?」
 そしていきなり訳の分からない例え話が飛び出した。
「しかもその森がまた底意地の悪い森でなー。歩きやすい道選んで進んどったら確実に迷ってまうんや。そっから出るには敢えて獣道選ばなあかん。けどその決断するには勇気が要る」
「はぁ……」
 何故か得意げな口調で続けられる久里子の話に、玲寺はただ曖昧な声を返すしかない。
「ほんでどないしょーか考え込んどるウチにしんどなってきて、当然邪魔くさい道は行きとーなくなって、どんどんドツボに嵌っていくわけや。腹は減るし、辺りは暗なってくるし、出口は見えんし。ホンマどないせっちゅーねん! って言いたなってくる訳やなー」
 えーっと……? コレは何かの心理テストか?
「けどな、ある瞬間閃く訳や」
 久里子はまた芝居がかった仕草で手の平を打ち、
「出られへんねんやったらココに住めばええんや」
 目を輝かせてある種の確信に満ちた視線をコチラに向けた。
「ま、いわゆる発想の転換ゆーやっちゃ。気付いたモン勝ち吹っ切れたモン勝ち。そっからは楽や。木の実がぎょーさんあってまず食いモンと水分には困らんかった。草原の上はふかふかのベッドみたいなモンやったし、落ち葉かき集めて被ったら上等な掛け布団や。動物相手に遊んどったら退屈もせんし、森さまよっとっても散歩や思ーとったら苦痛やない。ええ運動や」
 まぁ、吹っ切れるというのは往々にしてそう言う物なのかも知れないが……。
「で、実はその森が寂しがり屋の森でなー。迷い込んだ奴と友達になりとーて外に出したなかったんや。せやからソイツが居座るって決めたら森は大喜びや。森の方からソイツの身の回りの世話するよーになって、めでたしめでたしゆー訳やな」
 うんうん、と満足したように頷き、久里子はまたキーボードを打ち始めた。
 それ以上はもう何も言おうとはしない。話は終了したようなのだが……。
「あのー……もしもし?」
「ん?」
 申し訳なさそうに声を掛け直した玲寺に、久里子は視線だけをコチラに向ける。
「それで、貴女が私の事をどう思っているかという事に関しては?」
「うーん。あの変なクセさえなかったらエエ男なんやけどなー」
「いや、ですからその次の質問なんですが……」
「せやから今ゆーたやん」
 コチラの問い掛けにあっけらかんと返す久里子。
「あの例え話が?」
「そう」
 そして再びモニターに目を戻した。
「複雑な乙女心を言葉にするんはなかなか難しいモンなんですよ」
「乙女……ですか……」
 上機嫌に言う久里子に、玲寺は彼女の言葉の一部を抜粋して口にし、
「なんや」
「あぁ! いえいぇ! 別に何も! 深い意味は!」
 壮絶な殺気の放たれる冷たい視線から慌てて目を逸らした。
 んーと? つまりどういう事だ?
 さっきの例え話の中に答えがあるのだとすれば、登場人物の中に久里子と自分が居る訳で……。まぁ普通に考えるのであれば、久里子は森に迷い込んだ旅人か? なら自分は……。
「あぁ! 玲寺さん!」
 突然上がった大声に玲寺は体を大きく震わせ、怯えた視線で久里子を見た。
「スイカ狩り格安パックツアーやて!」
「……は?」
 そして間の抜けた声を漏らす。
「『夏を先取り! 取り放題食べ放題! いまならお一人様二千円でご招待』やて!」
「はぁ……」
「再来週の週末! お! 土日のお泊まりコースとかもあるやん! こらカナちゃん誘って行っとかなあんやろ! ああー、楽しみやわー。どんな服用意しよー」
 組んだ両手を胸の前に持ってきて天を仰ぎ、目の中に無数の星を煌めかせる久里子。
 ……確かに、乙女は乙女なのだが……何か三十歩くらい踏み外しているような気が……。
 とゆーか、さっきからそんな事を調べていたのか?
 大体、金なんか有り余ってんだからスイカくらい好きなだけ食えよ。変なところで貧乏性だなオイ。
 ああいやいや、そーゆー問題じゃなくて……。
「カナちゃん誘うとなると、ついでに麻緒もかー。うーん……。まぁあの子も結構懲りたみたいな顔しとったし、今は大人しいし……この前の事は大目に見たってもええかなー。玖音も今は別に気にしてへんくらいやしー」
 久里子は眉間に深い皺を寄せ、何やら真剣に考え込んでいる。
 頭の中はすでにスイカと着せ替え少女、そして悩める少年で一杯といった様子だ。多分、今どんな質問をしようとまともな答えは返って来ないだろう。
(麻緒、ね……)
 玲寺は細く息を吐き、白スーツの内側に来たカッターシャツの第一ボタン外した。
 麻緒……異常なまでの才気を持った天才児。あの水鏡魎とまともに渡り合えた唯一の存在。それ故に彼の心に巣喰った闇は深く、そう簡単に振り払える物ではなかった。
 
『ボクは、ボクのやりたい事してるだけだから』

 だが、彼のそんな闇の部分が自分に活力を与えてくれたのもまた事実。今こうして普通にしていられるのも、麻緒との戦いがあったからだ。その点に関して自分は麻緒の事を非常に高く評価している。正直、麻緒はあのまま変わらず、どこまでも純心でどこまでも純粋であって欲しかった。そして彼独自の強さに磨きを掛けていって欲しかった。例えソレが異質な方向に大きく傾いていたとしても。
 しかし久里子はソレを許さなかった。久里子だけではなく陣迂も、冬摩も。そして恐らく朋華も、御代も、美柚梨も。特に美柚梨に関しては大切な兄を傷付けられたのだから絶対に許せないだろう。
 つまり自分以外ほぼ全員、麻緒の素行を快く思っていない。
 そんな彼らの考えを逆に受け入れられず、あまり理解も出来ないのは、やはり自分が魔人になったからなのだろうか。それとも……。
「よっしゃ! 決まり! 再来週の土日は泊まりでスイカ狩り! メンバーはウチと玲寺さんとカナちゃんと麻緒! この四人!」
「え……」
 高らかに叫びながら素早くマウスを操作する久里子。
 まさか今……予約した? 自分はまだ行くとは一言も……。
「ウッハー! 何か久しぶりにテンション上がって来たで! ンな雑務チャッチャと片付けて衣装選びや!」
 そしてキーボードを叩き割らんばかり勢いで久里子はタイプを始める。
(まぁ、いいか……)
 諦めたように溜息をつき、玲寺は投げやりな視線をあさっての方向に向けたのだった。





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