貴方に捧げる死神の謳声 第三部 ―黄泉路からの慟哭―

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七『血で結ばれし猛き力』


◆三手の先読み ―荒神冬摩―◆
「あ! 冬摩さん! 見て下さい! きっとアレですよ! デパートのバルーンって!」
 白のロングパーカーを翻らせ、朋華がはしゃぎながら上の方を指さした。そちらに目をやり、冬摩は大きく頷いてその周りを見回す。
「見たまえトーマ君! きっとアレだよ! 我々の探し求めている十五階建てのマンションっちゅーのは!」
 大量のキーホルダーで覆われた七分丈のキュロットパンツをジャラジャラと鳴らしながら、美柚梨がポーズを決めて後ろを指さした。冬摩はすぐにソチラへと目を向け、手に持ったメモを確認する。
 デパートのバルーン。そしてその右側に十五階建てのマンションが見える位置は――
「アッチよ!」
 冬摩より早く進むべき方向を見つけ出した夏那美が、赤信号になりかけている横断歩道をダッシュで渡って行った。さすがに病院服のままでは目立つので、部屋にあった男物のジーンズと黒いTシャツを着せている。まぁ、袖と丈を半分くらいに織り込んでいるため、全体的にブカブカだが。
(久里子……!)
 冬摩はメモを握り込み、夏那美の後を追って車道を横切った。

『嶋比良久里子が軟禁されているだろう場所が、おおよそではあるが分かった』

 次に行くべき場所を自分達に伝えようと、最初に玖音が言った言葉がソレだった。一瞬、自分の耳を疑った。久里子に関する手掛かりは一つも無いと思っていたのに。何より、もう魎に食われてしまったものだと……。

『前にも言ったが嶋比良久里子は人質としての役割を果たさせるために生かされている可能性が非常に高い。それにもし水鏡魎が『天空』を保持しているのなら、九重麻緒に目印を付ける必要は無いし、付いている事をわざわざ知らせるような真似もしない』

 玖音は淡々とした口調で言い、これから言う事はまだ仮説の域を出ないがと付け加えて続けた。

『水鏡魎は美柚梨を自分の召鬼にしたにも関わらず、それほど効果的な操り方をしなかった。例えば、美柚梨に僕を刺し殺させる事だって出来たはずなんだ。かといって美柚梨の精神力はそれ程強いという訳でもない。二年前、僕の母の友人であった、沙楡という真田家の女性にさえ操られてしまったくらいだからな。まぁあえて支配力を弱め、普段のままの美柚梨を見せつける事で精神的なショックを狙ったとも考えられるが、あまりにお粗末だ。普段のまま居てくれたおかげで、大人しくお前の召鬼になってくれた。だからもしかすると、水鏡魎の支配力は例え本気を出したとしても、それ程強くはないのかも知れないな』

 ビル群の密集する都心部を、冬摩は夏那美を小脇に抱えながら駆け抜ける。下の方からギャーギャーとうるさく喚き散らされる声を聞き流し、大通りから一本裏道に入った。
 後ろを見る。人間離れした脚力で追い掛けてくる朋華と美柚梨。そして二人に置いて行かれないよう必死に飛んでくる『獄閻』。その更に後ろには、デパートのバルーン、右手には例の高層マンション。
 間違いない。こっちの方向だ。合っている。
 冬摩は確認を終えると前に向き直り、また走り始めた。

『だから思ったんだ。ひょっとしたら、嶋比良久里子は時間さえ掛ければ水鏡魎の束縛から抜け出せるのかもな。もしかしたら今は、召鬼として拘束されている“フリ”をしているだけなのかもな、ってな』

 久里子は魎の召鬼化に抵抗出来ているのかも知れない。全身を自由に動かす事は無理でも、指くらいなら何とかなっているのかも知れない。そして全力では無理にしろ、使役神の力を僅かに出せるくらいにはなっているのかもしない。

『だとすれば『天空』の『回帰爆』を使わないのは何故か。召鬼にされてしまっているから使えないのではなく、もっと別の理由で使えないのだとすれば。例えば、都心部付近に捕らわれていて、爆発などを起こせば沢山の一般人に被害が及んでしまうからかも知れないな。どれだけ力を加減しても、予期せぬ“落下物”が出来てしまうからかも知れないな』

 だから久里子は合図を送ろうにも送れない。自分が助かるために、何十人もの命を犠牲にしたのでは意味がない。

『あと、一番最初にお前が川沿いの土手で受けた『破結界』。それから九重麻緒が病室を抜けだした後とお前が公園で受けた、時間と空間を切り離す結界。いずれも有る程度成長させた呪針が必要になってくる。即席で作り上げた代物じゃない。そしてソレらの結界が確認されたのは全て都内。多分、至る所に前もって呪針を植え込んでいたんだろうな。だからもしかしたら、水鏡魎本人も都内に潜んでいるのかもな。遠く離れた場所に居ると思わせておいて、意外と近くに拠点を構えているのかも知れないな』

 かなり人気があり、そして地面から離れた高い場所にあり、自分達が住んでいる近くの都心部――

『例えば、建設が中止になったまま放置されているビルの最上階なんか、絶好の穴場スポットだとは思わないか?』

(あった!)
 塗装など何もされていない、鉄骨とコンクリートが剥き出しになった五階建てのビルが視界に映った。表通りから少し離れた場所にあるとは言え、人通りは決してまばらではない。
 陽がもう大分落ちているというのに、スーツ姿のサラリーマンや仲の良さそうなカップル、そして大勢で固まって歩いている女子高生などが、全く途切れる事なく行き来していた。
「冬摩さん! アレですか!?」
 後ろから追い付いて来た朋華に顔を向ける事なく頷き、冬摩はもう一度メモに記された文面と今の場所を照らし合わせる。ソコには点と横棒がいくつも並べられ、その下に文字が書かれていた。

『だが都心にある放置ビルというだけだとまだ候補は沢山ある。けど僕の考えが正しいとすれば、もうすぐ嶋比良久里子から何らかの連絡があるはずなんだ。多分、携帯で。でも見張りが居るだろうから、さすがに声は出せないだろう。仮に居なかったとしても何らかの形で聞かれているかも知れないから、多分彼女は声を出さない。向こうに自分の行動を知られてしまっては、ソレを逆に利用されるからな。もしかするとメールかも知れないが、体を無理矢理動かして打つんだから簡単な文面だと思う。だがコレももし向こうに見られた場合は、あまりに分かり易い手掛かりを残す事になる。電話同様、逆手に取られる可能性が高い。だから、例えばそうだな……僕が彼女の立場なら、モールス信号か何かを使うかな。まぁいつも使っている携帯は取り上げられているだろうから、緊急用のナンバーからだとは思うが』

 玖音の読み通りだった。
 朋華の携帯に送られてきた見知らぬのナンバーからの着信。取る前に切れてしまったが、何時何分何秒に受けたのかは全て履歴に残った。後はソレらの間隔を紙に書き起こして、文字化すれば――

《テ゛ハ゜ート、アカ、ハ゛ルーン、ソノミキ゛、15カイタ゛テ、マンシヨン》

 久里子が今居る場所から見えている風景が記される。

『嶋比良久里子から連絡があるまでは、全く的外れの郊外をうろつくんだ。僕と九重麻緒には、恐らく篠岡玲寺と陣迂のどちらかが付くだろうから、僕らはなるべく都心から離れて敵を引き離す。とにかくコチラが気付いていないフリをして、嶋比良久里子に出来るだけ時間を与えるんだ。彼女の場所に水鏡魎が居た場合は……荒神冬摩、お前が何かとしてくれ』

(任せろよ……!)
 夏那美を地面に下ろし、冬摩は両手の骨をボキボキと鳴らしながら放置ビルに歩を進めた。体の奥底から熱い塊が吹き出してくるのが分かる。無意識に口元が緩み、目は自然と大きく見開かれていった。
(魎……!)
 今まで散々引っかき回されて来たが今度はコッチの番だ。相手の居場所さえ分かってしまえば、向こうが来るのを待つ必要も無い。コチラから好きなだけ攻め込める。
 冬摩は飾り気も何もない無愛想なビルの前まで来ると、大きく膝をたわめて地面を強く蹴った。
「――ま、さ――ん!」
 下から狼狽した朋華の声と、群衆達のざわめきが聞こえて来るが、冬摩は全く意にも介さない。髑髏の刺繍された赤のインナーと黒いシャツを風で激しく揺らし、冬摩は一気に五階部分へと飛び移った。
 まだ外壁すらまともに出来ていない、コンクリートの冷たい灰色で覆われた殺風景な部屋。
 しかし中には小型テレビや古いソファー、無数の傷が入ったマガジンラックが置かれ、妙に生活感がある。
 そして部屋の隅には無造作に積み上げられた木箱。
「よぉ、久里子。随分と無様な格好じゃねーか。ちったぁ日頃の偉そうな態度を改める気になったか? ん?」
 ジーンズのポケットに左手を突っ込み、うなじの辺りで纏めた黒髪を右手で触りながら、冬摩は足をゆっくりと前に出した。
「……へっ、誰が来るかー思ーて楽しみにしとったのに。よりによってアンタとはなー。ウチもとことん男運が無いわ」
 どこか諦めたような、それでいて無性に求めるような声。
 小さくうずくまり、項垂れていた顔を上げ、久里子は埃で少し曇った眼鏡の奥から疲れた視線を向ける。そしてどこか皮肉ったような笑みを浮かべて見せた。
「誰なら良かったんだ?」
「白馬に乗ったサンタさん、っちゅーとこやな」
「相変わらずの減らず口で安心した」
「なんや、心配してくれとったんたかい。アンタにそんなんされるよーになったら、ウチもいよいよ潮時やな」
 口の端をつり上げながら言う冬摩に、久里子はいつもの勝ち気な口調で返す。
「バカ抜かせ。テメーがくたばったら絶対に朋華が悲しむだろ。だからだよ。自惚れんな」
「へーへー、そーかいそーかい。ま、一応礼は言っとくわ。アリガトさん」
 ウェイブがかった茶色の髪を軽く前後に揺らしながら言い、久里子は浅く頭を下げた。
 どうやら本当に何でもなさそうだ。全く、下らない神経を使わせてくれた。慣れない事をすると本当に疲れる。
 だがソレももうお終いだ。取り合えず久里子を土御門の館に返して、コッチからガンガン魎の野郎に仕掛けていってブッ飛ばせば……。
「久里子。何だそりゃ」
 隣で寝息を立てている女が目に入って、冬摩は聞いた。
 コイツ……どっかで見た事がある……?
「トモちゃんの親友さん。穂坂御代。玲寺さんが連れて来た。人質にってな」
「玲寺が?」
「冬摩、詳しい話は後や。今はココ離れんで。いつ気付かれてもおかしない。玖音が上手い事してくれたんやろーけど、そろそろ限界や」
「へっ、ちょーどいいじゃねーか」
 冬摩は腕の肉を少し引きちぎり、久里子の首筋に貼り付ける。ソレはすぐに彼女の体内に姿を消すと、魎の波動を呑み込んで自分の物へと塗り替えていった。
「なるほどなー。アンタの支配力の方が上やから擬似的に召鬼化解除って訳かい。考えたやないか。まぁ、発案者は玖音やろーけどな」
 久里子は言いながら立ち上がり、首やら腕やら指やらの関節をゴキンゴキンと派手に鳴らしながら大きく伸びをする。
「この女連れて朋華達と一緒にちょっと離れてな。今、下に居るからよ。お前だけじゃ頼りねーから、一応コイツら付けといてやるよ」
 言いながら冬摩は両手で複雑な印を組み、床に強く押し当てた。
「使役神鬼『白虎』! 『鬼蜘蛛』! 『天冥』三重召来!」
 直後、局地的な突風が吹き荒れたかと思うと、白銀の獣毛に包まれた虎――『白虎』と、鰐の頭部を持った巨大な蜘蛛、『鬼蜘蛛』、そして三本の長い尻尾を生やした銀毛の猫、『天冥』が現出する。
 玖音には出来るだけ具現化は控えるようにと言われたばかりだが、ソレを気にして朋華を危険に晒したのでは何をやっているのか分からない。
「ウチもみくびられたもんやなー。まぁええわ。どーせ、今はやめとけゆーても聞かんやろーから別に止めんけど、間違ってもこの辺りで暴れるんやないで」
 全く起きる気配を見せない御代を両腕に抱きかかえ、久里子は通りに面した壁の無い場所に歩み寄った。
「わーってるよ」
 自分だって無関係の人間を巻き込みたいとは思わない。だが、向こうがどう出てくるか……。
「もー戦ったやろーから分かってる思うけど、水鏡魎は昔ほどの力は無い。今のアイツは『分身』出し尽くした、ただの抜け殻や。せやけどあのタチの悪さは昔以上やで。絶対油断すんなや」
「テメーの方こそ、これ以上間抜けな格好晒すんじゃねーぞ」
 冬摩の言葉に久里子は小さく鼻を鳴らす。
「館の方に戻っとる。終わったらソッチ来ぃや」
 ソレだけ言い残し、部屋から外に飛び降りた。そして二階部あたりの外壁を蹴って横に飛び、近くの街路樹を上手く使って落下の衝撃を弱める。そのまま地面へと着地して、朋華達の前に立った。
 拘束を解かれた直後にしては動きが切れている。まぁアイツも一応は保持者、そして今は自分の召鬼としての力もある。守りに専念していれば、勝てなくとも負ける事はないだろう。
 久里子に続いて『白虎』、『鬼蜘蛛』、『天冥』が眼下に吸い込まれて行くのを見ながら、冬摩は龍の髭を解いて軽く頭を振った。そしてもう一度手で束ね、新しい龍の髭で縛り直す。
「じゃあ、そろそろいいか? 兄者」
「――ッ!」
 扉の無い部屋の出入り口。
 さっきまで確かに誰も居なかったはずのその場所に、腕組みした男がもたれ掛かっていた。
「初めまして、だな。一応はよ」
「テメーが陣迂か……」
 コチラの言葉に男は満足げな笑みを浮かべ、扉の枠から体を離して顔を向けた。
 自分ソックリな顔を。
「待ってたぜぇ、兄者。この時をよぉ。テメーと心おきなく殴り合えるこの瞬間をなぁ」
 顔だけではない。背格好、体つき、喋り方、纏う雰囲気まで。
 まるで鏡の中から話し掛けられているようだった。 
「魎の野郎はどこだ」
「アイツなら今頃玖音と遊んでるだろーさ」
「で、テメーが使いっパシリって訳か」
「俺にとっちゃタナボタなんだけどな」
「朋華に手ぇ出したそうじゃねーか。覚悟は出来てんだろーな」
「あっさりこの距離まで近付かれた奴の言う台詞じゃねーな」
 狼のシルバーアクセサリーをいじりながら、陣迂は不敵な笑みを浮かべる。
 玖音の推測では、コイツの力は相手の認識レベルを操作できるたぐいの物らしい。だから気配を完全に感じさせなくする事も、別の場所に居るように勘違いさせるのも自由というわけだ。
 もしかすると、今こうして喋っている相手も陣迂が見せている自分の影かも知れない。
「場所、変えよーぜ。こんなトコじゃ思いきり暴れられねーしな」
「どっかアテでもあんのかよ」
 願っても無い向こうのからの提案に、冬摩は小さく笑いながら返した。
「例の川沿いの土手でどうだ。あそこなら人気もない。だだっ広いから派手に動ける」
「魎の野郎が結界の呪針だかを仕掛けてるとこじゃねーか」
「呪針は至る所に埋まってる。都内は殆ど全部な。俺は別にどっか遠くでもいいんだが、兄者の方が困るんじゃねーのか? 自分の女がヤバい時にすぐ行けねーからよ」
「けっ……」
 敵にそんな事を心配されるようになったらお終いだ。
 まぁいい。ハンデだと思えば。それにあの時は不意打ちだったからまともに食らったが、最初から警戒してれば反射的にかわす自信はある。
「そこでいい。行くぞ」
「あぁ」
 冬摩の言葉に陣迂は嬉しそうに頷き、先に部屋から飛び出した。

◆漆黒の勝者 ―荒神冬摩―◆
 陽が西の空へと身を沈めて行く。昼と夜を分かつ刹那の時。
 そう言えば最初に襲われた時もこの場所、そしてこの時間だった。
「夕焼けは綺麗だよなぁ。俺は紅月なんかよりコッチの方が好きだな」
 草背が膝下辺りまで伸びた河原で仁王立ちとなり、陣迂は西日に流し目を送った。
「余裕ぬかしてんじゃねーよ。オラ、とっとと掛かってこい」
「兄者はゆとりの無い人生送ってきたんだろうなぁ。俺はよ、ずっとこの時を楽しみにして生きて来た。千年以上もな。今まさに夢が叶った瞬間って訳だ。ようやく力一杯暴れられる。やっと生き続けてきた意味を見出せる。だからもっとゆっくり味わいてーんだよ。今のこの気持ちをよ」
「ケッ!」
 吐き捨てるように叫び、冬摩は大地を強く蹴った。
「コッチはンな暇――」
 そして一息に陣迂との間合いを詰め、
「ねぇんだよ!」
 渾身の膂力を持って、陣迂の顔面に右拳を叩き付ける。
「……っ!」
 両腕を交差させ、冬摩の拳撃を真っ正面から受け止める陣迂。固い手応えと共に勢いは殺され――
「オラァ!」
 裂帛の叫声を上げて強引に振り切った。
 拳の力に押されて陣迂の体が僅かに沈み、後退する。が、片足を後ろに出して踏ん張り、その動きと連動させた拳撃が真下から伸び上がって来た。
「シッ!」
 短く強く息を吐き、冬摩は顔を下げる。自分の顎先を狙った拳を額で受け止め、首筋に力を込めた。
 脳を激しく揺さぶる振動。目眩にも似た浮遊感を気合いで振り払い、冬摩は陣迂と体を密着させる。そして間髪入れず、左拳を横から突き入れた。
「……っぁ!」
 頭上から聞こえる空気の漏れたような声。
 陣迂の右脇腹に刺さった拳は筋肉の鎧を突き破り、骨を粉砕していった。
「オラァ!」
 苦しげに顔を歪め、後ろへと体勢を崩した陣迂の顔面に冬摩は右の拳を叩き込む。肩まで鈍く重く伝わってくる勝利への感触。ガードする事も受け流す事も出来ず、直撃を食らった陣迂は体ごと後ろに跳ね飛ばされた。
「どーしたオイ。この程度か。話になんねーぞ」
 左右に揺れてまるで定まる気配のない視点を陣迂の方に向け、冬摩は威圧的な口調で言った。
(この馬鹿力が……)
 頭で受けたのは少し強引すぎたか。だが相手のダメージの方が遙かに上のはず。
「へっ、へへへっ……」
 陣迂が倒れ込んだ地面の辺りから、薄ら笑いが聞こえてくる。
「さすがだぜ、兄者……。やっぱアンタしかいねぇよ。今まで楽しみにしてた甲斐があった。生きてきて良かった……」
 草の擦り合わさる音が聞こえたかと思うと、陣迂は何事もなかったかのように立ち上がった。そして口の端から垂れた鮮血を舌で舐め取って嚥下する。
「やっぱりいいモンだよなぁ。拳で語り合うってのはよ!」
 喜々とした表情で叫び、陣迂は長い後ろ髪を水平に靡かせて真っ正面から突っ込んで来た。
「下らねぇ事言ってんじゃねーぞコラァ!」
 冬摩はソレを避けようともせず、腰を深く落として両腕を前に出す。
「オオオオォォォッラァ!」
 遠い間合いからの跳躍。突き出される陣迂の拳。
 冬摩はソレを両手で包み込むようにして受け止めた。
(ッく……!)
 肩が外れたような感覚。まるで腕が自分の物では無くなったような錯覚。
 血の通わないただの物体となり、体に付属しているだけの存在。陣迂の拳を受け止めた両腕から、一瞬にして感覚という物が無くなっていた。
「テメーのは――」
 拳の勢いを遮断した両手をそのまま後ろに引き、ソレに合わせて冬摩は仰向けに身を沈める。力の緩急に翻弄され、コチラに覆い被さるように前へと流れた陣迂の腹が無防備に晒された。
「ヌルいんだよ!」
 そして頭の落下とは逆に持ち上がってくる膝を突き上げ、陣迂の鳩尾へと抉り込ませる。
「が……ぁ!」
 口腔から紅い飛沫を迸らせ、陣迂の全身が宙に浮かんだ。その隙間に逆の脚を潜り込ませ、冬摩は膝と同じ箇所に踵を叩き込む。
 おびただしい量の鮮血を躰の内側から吐き出し、陣迂は冬摩の頭上に跳ね飛ばされた。
 両手で地面を押し返し、冬摩はブリッジの要領で体を起こす。そして大きく膝をたわめ、陣迂を追って高く飛んだ。
 視界の映し出す景色が一呼吸のうちに入れ替わる。雑草の繁茂する川縁から、茜色に染め上げられた街の光景へと。
 陣迂の真横に躍り出た冬摩は組んだ両拳を高々と振り上げ、
「オラァ!」
 力任せに後頭部へと叩き付けた。
 陣迂の頭が落ちる。
 脚を上に向け、何十倍にもなった重力に引かれて、陣迂は草原の奥深くへとめり込んだ。
「ちっ」
 冬摩は舌打ちして地面に降り立ち、陣迂のそばに立って睥睨する。
「力使えよ」
 そして苛立った声で言った。
 陣迂はまだ使役神の力を使っていない。ただ肉体で勝負しに来ているだけだ。つまり、全く実力を出していない。
「……そりゃお互い様だろーがよ」
 地面から低くくぐもった声が聞こえる。
 陣迂はよろめきながら体を起こし、その場に尻餅を付いてコチラを見上げた。
「兄者の方こそ、何で使わねーんだ? 腐るほど居るんだろ? 体の中によ……」
 口に溜まった血を吐き出し、陣迂はフラつきながらも両脚でしっかりと地面を捕らえる。
 あれだけ殴ってやったのにまだ余裕がありやがる。タフな野郎だ。
「使おうと思うほど切羽詰まってないんでね」
「また随分と見下げられたモンだ……。そんじゃこのまま使役神を使わねーってのは失礼ってヤツだな」
「出せるモンあるなら出しとけよ。くたばっちまう前によ」
「じゃあそーするか」
 微笑を浮かべて陣迂は楽しそうに言い、後ろに跳んで一旦距離を取った。
「まぁ気ぃ悪くしねーでくれよ、兄者。ちょっと普通の兄弟喧嘩ってヤツに憧れててよ。ややこしい力抜きでやり合ってみたかったんだ」
「普通、ね……」
 小さく鼻で笑い、冬摩は腕組みして皮肉っぽく返した。
(何だ……)
 この昂揚感は。体の奥底から沸き上がって来る得体の知れない昂ぶりは。
 こんな気持ち、もう何百年も味わってないような気がする。最後に感じたのは一体いつだったか。
「俺は兄者の力の事を魎から聞いてんのに、コッチだけ秘密のままってのは不公平だな。戦う前に種明かししとくぜ。俺の力の発生点は『肉体的冷感』と『精神的冷感』。それぞれに対応した力の作用点は『右腕』と『呼気』。そんで保持している神鬼が――」
 言いながら陣迂は両手で印を組み、
「使役神鬼『影狼』召来!」
 胸を大きく仰け反らせて叫んだ。
 刹那、夕日を浴びて長く伸びた影が突然盛り上がったかと思うと、漆黒の狼を形取った。大きさは普通の狼と殆ど変わらない。だが特徴的なのは、目も鼻も耳も全て黒く塗りつぶされているという事。体の僅かな陰影も無いため立体感がまるで無い。
「この『影狼』だ。一体だけだから安心しろ」
「へっ、聞いた事のねー使役神だな。補欠か?」
「魎が新しく生み出したんだとよ。俺の力に合わせてな。コイツの能力は『認識乱』と『凍刃』。どっちも読んで字の如くってヤツだ。『認識乱』は相手の認識を狂わせる。さっきビルでやって見せたようにな。『凍刃』はどんな物でも氷に出来る。例えば、こんな風にな」
 『影狼』の頭が僅かに下がったかと思ったその瞬間、額に冷たい輝きを持った氷の角が出現した。
「空気でも何でも、ソコに物があれば一瞬で氷り漬けだ」
「なるほど。ソレがさっき言ったテメーの力の発生点の一つと繋がるって訳か」
「そーゆー事だ。ま、自分で自分の力を強く出来るってのは兄者も同じだろ? そんでコッチもやりすぎると、動きが鈍って力そのものを振るいにくくなる。その点も同じだよなぁ?」
 『影狼』から取り上げた氷の角を投げ捨て、陣迂は楽しそうに笑う。
「テメーに自己紹介させただけじゃ面白くねぇ。コッチも何か贈り物しねーとなぁ」
 そして、気が付けば自分も笑っていた。
 ああ、そうだ。思い出した。
 最後にこうやって笑った時の事を。
「俺は『死神』の『復元』を使わねぇ。使役神は具現化して使わねぇ。体一つで戦ってやるよ」
「へっ、じゃあ俺も兄者の真似してそうすっかな」
 陣迂は口の端を軽く上げて言うと、短く指笛を吹く。その合図に応え、『影狼』は地面と一体化するようにして消え去った。
「じゃあそろそろ始めるか。第二ラウンド」
「あぁ。そうだな」 
 好戦的な笑みを陣迂に向けたまま返し、冬摩は身を低くして構える。
 そう。アレはあの単細胞の筋肉馬鹿とやり合っていた時だ。
 ――青天鳳凰丸牙燕。
 自分で格好良いと思って付けたんだろう、無駄に長ったらしい名前の奴だった。
 無駄に体が大きくて、無駄に声がデカくて、無駄に子供に人気があって、そして無駄に熱い奴だった。
 龍閃への復讐に全てを掛けていたあの時、アイツと殴り合いをしている時だけは全てを忘れられた。純粋に戦いに没頭できた。
 頭の後ろで固め、良くしなる鞭のように飛び出した紫色の髪。途中で二股に分かれた長く太い眉。常に表に晒され、異常に発達した筋肉に覆われた上半身。
 今でもアイツの外見はハッキリと思い出せる。そして顔を合わせるたびに『尋常に勝負! 勝負!』と鼻息を荒くしていた事も。
(アレは、楽しかったなぁ……)
 実際に戦っていた時はそんな事全く思わなかった。しかし、アイツを失ってから―― 
 もう出来ないと思っていた。
 大切な者を護るために死力を尽くす戦いは出来ても、戦いそのものを楽しめる戦いは出来ないと思い込んでいた。だが――
「本気で行くぜ。陣迂」
「当然、そう来ないとな」
 ココに――
『オラァ!』
 二人は同時に間合いを詰め、そして同時に拳撃を繰り出す。
 陣迂の右拳を冬摩は左手で、冬摩の右拳を陣迂は左手で受け止めた。直後、冬摩の左腕に鋭利な痛みが走る。凍り付いた血液が真紅の槍となり、皮膚を内側から貫いていた。
「フン」
 ソレをどこか嬉しそうな視線で見つめ、冬摩は右拳に力を込める。左腕からの『痛み』を乗せ、肩の筋肉を一回り大きく膨れ上がらせて、冬摩は強引に押し込んでいった。そして拳の先が陣迂の眼前まで接近した時、それまで込めていた力を一気に解放する。
「――っと」
 突然支えを失い、前のめりにバランスを崩した陣迂は冬摩の方に吸い寄せられ、
「オラァ!」
 氷結した左拳が頬に突き刺さった。
「無茶すんなぁ……」
 いや、違う。
 瞬時に戻していた右腕を、顔の横で折り畳んで受け止めている。
「チ……」
(コレが『認識乱』か……)
 拳から陣迂の顔面までの距離、腕の角度、速さ。どれも完璧だったはずだ。絶対に決まる間合いとタイミングだった。しかし、自分の頭の中にあった陣迂の頬の位置と、実際に手応えを感じた点には数センチのズレがあった。
「兄者はよ!」 
 腹部が甚大な熱を帯びる。
 左腕を鳩尾に突き立てられ、冬摩は肺に溜まった空気を吐き出した。よろめくように一歩後ろに下がり、膝を僅かに落としながらも踏ん張って、
「っせェ!」
 右腕を大振りに振るう。円弧の軌道を取って払われた黒シャツが空気の断層を生み出したかと思うと、無数の『真空刃』が陣迂に降り注ぐ。
「っひゅぅ! 良い感じだ! ノッテ来たぜ!」
 至近距離から放たれた不可視の刃を上体の動きだけで回避し、陣迂は左に大きく跳んだ。ソレを追って冬摩も拳を構えながら跳び――
「が……ッ!」
 背後から強い衝撃が打ち込まれた。背中から胸に掛けて不快な振動が貫いて行く。口からまた息が漏れそうになるのを何とか堪え、冬摩は振り向きざま左の肘を放った。
 手応えは無い。が、構わず手を伸ばし、その先で『重力砕』を顕現させる。
 直後、地面が大きく陥没し、自分の足元さえも呑み込む巨大なクレーターが出現した。ソレが川の水を取り込み、瞬時に巨大な池へと成長していく。
「コッチだ兄者ぁ!」
 右後ろからの声。
「チ……」
 舌打ちして、冬摩は反射的に身を低くした。頭上を過ぎ去って行く空気の塊。さっきまで頭のあった位置を陣迂の拳撃が抉り抜けて行く。冬摩は間髪入れず右拳を真上へと突き出し、相手の体を狙って、
「オラァ!」
 直感に身を任せて左肘を後ろに打ち込んだ。
「ご……!」
 固い手応え。
 さっきまで何もなかったはずの左の脇腹辺りに、陣迂の頬が突き出されていた。まるで最初からソコを狙ったかのように、冬摩の繰り出した肘が陣迂の顔面を完全に捕らえる。
 たまらず崩れる陣迂の体勢。
「喰らぇ!」
 その期を逃す事無く、冬摩は振り上げていた右拳を真下に叩き付ける。
「へ……!」
 しかし穿ったのは陣迂の頭部ではなく、即席の池へと沈み込んだ地面だった。
「逃がすか!」
 不意の攻撃を食らい、一旦距離を取る陣迂。ソレを追おうと冬摩は膝をたわめた。が、足の出が半呼吸遅れる。見るといつの間にか張った氷の根が、足首辺りまでを包み込んでいた。
 いや、足元だけではない。『重力砕』で作られた池全体が氷の湖と化している。
「ケッ!」
 『呼気』か『右腕』でかは知らないが、『凍刃』ってのはこんな下らない芸をするしか能がないのか……!
 冬摩は構わず真上へと跳び、足に絡みついた氷を引き剥がす。そして空中で静止すると、氷湖の中央でコチラを見上げている陣迂目掛けて『飛翔』した。
「オオオオオオォォォォォォ!」
 黄昏の空に咆吼を轟かせ、冬摩は拳を構える。
 この距離なら『呼気』は届かない。『認識乱』は使えない。一気に――
「――ッラァ!」
 決める!
 渾身の力と重力加速度、それに『飛翔』の勢いを付加した冬摩の拳撃。大気さえも焦げ付かせ、触れる物を確実に抹消する莫大な力。ソレを大きく前に突き出し、冬摩は急迫する。
「フン……」
 陣迂の右腕に空気を凍結させた氷の剣が出現した。冷たい輝きを宿す剣は自分を迎え撃つように飛来し――
「邪魔くせぇ!」
 冬摩は構わずそのまま突っ込む。拳に剣が触れ、先端が肉を喰い破って中へと入り込み、
「アアアァァ!」
 その『痛み』を即座に力へと変えて剣を蒸発させて行った。
「オラァ!」
 そして未だに不動の陣迂目掛けて拳撃を繰り出す。
 が、拳が触れる直前で身を横に流した陣迂の胸元を掠め、力の塊は足元の氷湖へと突き刺さった。
「チィ!」
 『認識乱』ではない。あの鬱陶しい剣で僅かに火線をずらされた。
 耳をつんざく爆音と共に上空へと舞った無数の氷片の中、冬摩は陣迂が逃れた方に裏拳を放つ。しかし手応えは無く、力は行き場を失って虚空へと消え去る。
(どこだ!?)
 陣迂の気配を探る。だが何も感じない。いや、感じなくさせられている。
 今度こそ『認識乱』だ。だとすれば息の掛かる距離に。しかしドコだ。
 氷が西日を反射して、鏡のように自分の姿をいくつも映し出している。
 まるでミラーハウスにでも迷い込んだかのような――
「――!」
 視界の隅。
 一瞬、白いカッターシャツが映った。
「ソコだ!」
 叫んで拳を打ち出すが、返って来たのは冷たく固い氷の感触。
「さっきみたいなラッキーパンチはもう勘弁だぜ」
 真上から陣迂の声が届く。反射的に拳を突き上げるが手応えは無い。
「ぐぁ……!」
 空振りし、開いた脇腹に痛烈な圧迫感が走る。そして体が少し泳いだところに足払いが入り、冬摩は地面に手を突いた。続けて鼻先が爆発する。声も上げられぬ程の凶打。
「クソッタレ!」
 顔面を直撃した陣迂の拳で仰け反りながらも、冬摩は無理な体勢から蹴りを放った。が、叩き割ったのは陣迂の姿を映し出した氷。
(――!)
 背筋を突き抜ける悪寒。
「じゃあな!」
 後ろから振り下ろされる組まれた両手。ソレは冬摩の脳天へと吸い込まれ――
「……!?」
 頭上で交差させた両腕で辛うじて受け止めた。その勢いに逆らう事無く身を沈め、冬摩は蹴上がりの要領で両脚を陣迂に叩き付ける。
(ッシ!)
 足の裏に確かな手応え。冬摩は両手で地面を押し返すと、その反動だけで体を起こした。そして上体を捻って後ろを向き、足を下げると同時に拳を突き出す。が、そこに何も無かった。
「まさか防がれるとはな。しかもあんな体勢から反撃してくるとは思わなかったぜ」
 拳の遙か向こう。
 二十メートルほど間合いを開け、陣迂は口の端から垂れる血を乱暴に拭いながら不敵な笑みを浮かべていた。
「地形を利用するなんざ魎みたいな戦い方すんじゃねーか」
「一応は育ての親なんでね。知らず知らず似るところもあるさ。不本意ながらな」
「ソレを聞いて安心したよ。テメーもあのクソッタレみたいに姑息な事狙ってんのかと思ったからよ」
 思い出したかのように落下してくる氷片を適当にあしらいながら、冬摩は首の骨を小気味良く鳴らす。
 随分ときいた。目の前がクラクラする。遠近感がいまいち掴めない。
 多分、『認識乱』の効果ではない。打撃によるものだ。一発一発が異常に重く、例え防いだとしてもダメージを殺しきれない。凄まじい破壊力だ。
(魔人……俺の弟、か……)
 陣迂の方を見ながら、冬摩は楽しそうな笑みを浮かべる。
 あながち間違いではないかもしれない。人間や召鬼が出せる力ではない。それにアイツが見せた『影狼』という十一番目の神鬼。
(おもしれぇ……) 
 口の中に溜まった血を舌で味わい、呑み込み、冬摩は右腕を大きく真横に広げる。
 久しぶりだ。こんなにも気持ちが昂ぶるのは。
 本当に久しぶりだ。こんなにも『痛み』に酔えるのは。これ程までに血が騒ぐのは……!
『ッシャアアアァァァァァ!』
 獣吼を上げ、冬摩は真っ直ぐに陣迂へと突進する。何の小細工も考えず、ただひたすら力を打ち付ける事だけを頭に描いて。
「いいねぇ、兄者。いい感じだ……」
 恍惚とした表情で言いながら、陣迂は右腕を横薙ぎに振るった。その軌道を辿るようにして、氷の壁が形成される。
「オオォォラァ!」
 しかし冬摩は止まらない。自分を阻むようにして現れた透明の障壁に拳を埋め、その向こうに居る陣迂目掛けて振り切った。
 手応えは無い。
 だが――ソレは分かっていた事だ!
「そこだぁ!」
 右腕に力を込めて氷を叩き割り、冬摩は全身を捻って体を半回転させる。その勢いに乗せ、背後に回し蹴りを放った。
「ぐ……!」
 踵に固い感触。
 両腕を左に寄せ、陣迂が苦々しい顔付きでコチラの蹴りを受け止めていた。ソコを起点として冬摩は体を浮かせ、もう片方の足を真横から振り抜く。が、蹴撃は空を切った。
「チィ!」
 その勢いに体を持って行かれ、そのまま逆方向へと泳いで――
「――ァッ!」
 強制的に呼気が吐き出される。
 胸板に陣迂の肘が突き刺さり、そのまま地面へと叩き付けられた。
 背中が灼熱を帯びる。
 下は柔らかい土ではない。さっき、自分が割って破片となった氷が刃のように突き立って――
「どーした兄者ぁ!」
 陣迂の拳が振り下ろされる。反射的に両腕で顔を庇う冬摩。だがそのガードを避ける事なく、まるで突き崩すのを楽しむかのように陣迂は拳の段幕を繰り出した。
(へっ……)
 ガード下で冬摩は笑う。相手の一撃を喰らうたびにより深く身を沈めながら、冬摩は薄ら笑いを浮かべていた。
(楽しいなぁ……)
 骨の髄にまで響く重い拳を受け止め続けながら、冬摩の脳裏にあの無邪気な天才児の顔が浮かんだ。
 きっと麻緒は、どんな戦いでもこんな気持ちなんだろう。敵だとか味方だとか、ややこしい事など何一つとして考えず、ただひたすら戦う事だけに没頭し続けていられるのだろう。
 正直、羨ましいと思う。
 そういう意味では、やはり自分は“ソッチ側”の住人なんだろう。そして気を抜いて一歩間違えれば、たちまち奥へと引きずり込まれてしまう。
 だが――
「――!」
 冬摩は大きく開眼して両手を伸ばす。
「な……!?」
 狼狽した陣迂の声。
 ほんのまばたき一回の間に、冬摩は陣迂の両腕を捕らえていた。
「オラァ!」
 そしてガラ空きになった相手の腹に両脚をめり込ませる。
「が……」
 低く籠もった苦悶の声。骨が砕け、内臓が潰れて行く感触。そして冬摩は手を離した。
 コチラに顔を突き出し、くの時に体を折り曲げたまま陣迂は後方に吹っ飛ぶ。そして『重力砕』で抉られたクレーターの中へと放り込まれた。
 全身を弓なりにたわめて体を起こし、冬摩は大地を蹴って陣迂を追う。穴の中央で仰向けになり、陣迂はぐったりとした体勢のまま虚空を見上げていた。
「こんなモンかよ! テメーはよ!」
 叫んで冬摩は、剥き出しに陣迂の腹に拳を叩き込む。そして肩までめり込み――
 伝わって来たのは硬く、そして冷たい感触。
 ソコにあったのは陣迂の体ではなく、ただの氷の塊だった。
「――ッ!」
 あの時だ。拳の段幕を叩き付けていたあの時。
 右腕から『認識乱』を連続的に送り込んで、より長い時間コチラの感覚を狂わせた。そして陣迂の狙いは恐らく――
 地面に深々と埋め込まれ、クレーターをより巨大な物へ変えていく冬摩の拳撃。全身からの『痛み』を乗せ、爆発的に威力を増した力の塊は大地へと呑み込まれる。が、全てを吸収しきれず、余剰の力は堰を切り、奔流となって外へ溢れ出た。
 爆音と爆風を巻き起こし、地面が捲り上がり、土砂と氷片が上空へと舞い飛ぶ。
 そして視界の隅で見え隠れする白いカッターシャツ。
 コレが陣迂の狙いだ。
 最初に氷湖を叩き割った時同様、隠れ蓑を作り、自分の虚像を氷に生み出し、更に『認識乱』で攪乱する。そしてコチラの死角へと回り込み、一気に喉笛を掻き切る。
 自分の能力と地形を最大限に活かした戦法。
(ドコだ……!)
 冬摩は拳を腰溜めに構え、目だけを動かして陣迂を追った。
 見えては消え、消えては別の場所に現れる陣迂の体の一部。
 また直感に身を任せるか。視界を捨て、気配を感じる事も止め、野性の勘で打ち抜く。だが外れた場合は致命的な隙を作り出す。
(いや――)
 ソレで良い。野性の勘だ。ソレで良いはずだ。
 冬摩は四方八方からコチラを監視する冷たい塊だけを見つめ、ソコに映し出された陣迂の姿を頭の中に描き出し、
「オラァ!」
 前を向いたまま左の裏拳を後ろに放った。
「あ……」
 掠れた声。重い物が落ちる音。
 鼻先に冬摩の渾身の一撃を受けた陣迂は、全身を脱力させて地面に崩れ落ちた。
 そして止まっていた時が動き出したかのように、土砂と氷片がその後に続く。
「ふん……」
 小さく鼻を鳴らし、冬摩は陣迂の方に振り向いた。
「なかなか良かったぜ。楽しめた」
 冬摩は皮肉った笑みを浮かべてしゃがみ込み、
「けど、もっと真正面から来りゃもっと楽しめたかもなぁ。ま、次に取っとくけどよ」
 陣迂の腕を引いて体を起こす。
 楽しい戦いは心から楽しむ。だが、ソレが終われば別の余韻を楽しむ。加減を知らない昂ぶりに、いつまでも身を任せている訳ではない。
 自分は麻緒とは違う。
 気に入らない奴には容赦しないが、そうでない奴にはそれなりの礼儀を払う。
 勝ったからといって相手を見下さず、罵らず、ましてや命を奪う事などせず、再戦を願って別れる。
 一時の休息を取るために。
 そう。牙燕の奴と戦った後も、こんな清々しい気分だった。
「何、でだ……。何で、分かった……。まさかまたラッキーパンチか……?」
 地面に座り込んで後ろ手に体を支え、陣迂は納得のいかない表情で言った。
「氷だよ、氷。直接見ても当たらねぇ。気配を探っても的外れ。けど、氷に映ったテメーの姿だけは本物だった」
 ソレは二度、確認した。
 一回目はラッキーパンチの直後だ。無茶苦茶に放った蹴りが氷に当たった時、陣迂は真後ろに居た。そして割る前の氷には陣迂の姿が映っていた。
 二回目は一旦大きく間合いを開けられた後だ。コチラの突進に対して、陣迂は氷の壁を生み出した。その時もやはりソコに陣迂が映っていたから、後ろに回りこんだ事が分かった。だからすぐに反応できた。
 つまり姿にしろ気配にしろ、陣迂の『認識乱』で乱す事が出来るのはあくまでも主観だけなのだ。ソコに鏡像という客観が入ると途端に効果が失われる。
「けっ、下らねぇ……」
「手品のタネってのは明かせば大体そんなモンだな」
「手品、ねぇ……言ってくれるじゃねーか」
 茶化すように言った冬摩に、陣迂は怠そうに後ろ頭を掻きながら返した。
「ま、おかげで一つ利口になった訳だ。次は同じ手は通用しねーぞ」
「あぁ、“次”はな」
 そう。また次がある。どういう状況になるかは分からないが、形の上では敵対している以上、また戦う時が来る。ソレが今から楽しみでしょうがない。
「よぉ、何で魎なんかの言う事聞いてんだよ」
「俺には俺なりの事情ってヤツがあってね。知りたいんなら別に教えてやっても良いぜ」
「興味ねーよ。聞くだけ面倒だ」
「そう言うと思ったぜ」
 冬摩の答えに陣迂は苦笑する。
 ややこしい話なんざどうでもいい。コイツと戦う理由があればソレでいい。ただソレだけで満足だ。
 もし、こんな事を久里子の前で言えばアイツはきっと怒るだろう。コッチは命懸けなのだと。今やってるのは遊びではないのだと。
 玖音は呆れて何も言わないと思う。そして黙したまま冷ややかな視線を向けてくるに違いない。そういう奴だ。
 だが朋華は。
 朋華は一体何と言うだろう。
 どうして? と聞いてくるだろうか。それとも、ソレが正解だと言い切ってくれるだろうか。
 分からない。ソレは本人に聞いてみないと分からない。
 だが、何も言わずに笑い掛けてくれるような気がする。
 正しいとか間違っているとかではなく、ソレが自分らしいと受け入れてくれる気がするのだ。そして一言、『お疲れさま』、と……。

『私、あの人が悪い人には見えないんです』

 ああ、そうだな。俺もそう思うよ。
 コイツは悪い奴じゃない。ただちょっと不器用なだけだ。そして偏屈で意地っ張りなだけなんだ。
 だがソレが良い。そういう性格だからこそ、真っ直ぐに来てくれる。コッチも気兼ねなくやり合える。そして難しい事を考えずに戦いに没頭できるんだ。
「で? 何か罰ゲームは?」
「罰ゲーム?」
「今回は俺の負けだ。悔しいけどな。普通なら殺されててもおかしくねぇ。けど兄者はどーせンな事しねーだろ。自分の女にも止められてるしよ。だから何かペナルティ受けてやるって言ってんだよ」
「は……」
 全く、コイツはどこまでも面白い事を。
 おかげでますます気に入りそうじゃねーか。
「別にいらねーよ、ンなモン」
「いやソレは良くない」
 声は後ろから聞こえた。
「敗者には相応の罰が必要だ。でなければ成長しないからな」
 直後、目の前が白く染め上げられる。肌を引き裂くような痺れ、身を焦がす程の熱。
 さっきまで陣迂が座り込んでいた場所が、どす黒く炭化していた。
「何のつもりだテメェ!」
「何のつもり? そうだな。教育の一環とでも言っておこうか」
「ふざけんじゃねぇ!」
 突然の落雷を横に跳んでかわした陣迂は、地面を蹴って自分の背後の人物に飛び掛かる。が、空中で不自然に勢いを削がれると、まるで硬直したかのように体を強ばらせて顔から不時着した。
「お前もよく知っているだろう。この辺りが私の“遊び場”である事を」
「魎……!」
 冬摩は後ろを向いて構え、不敵に笑う長髪黒衣の男を見て、
「な――」
 その肩に担がれている人物に視線が集中する。
「玖音……!」
「良い子だ、冬摩」
 顎先が土の中に埋め込まれた。潰れた蛙のように無様に両手を突き、冬摩は体を持ち上げようとするがまるで力が入らない。
「お前といい玖音といい、こういう不測の事態を突きつけられると案外脆いな。修業が足りてない証拠だ。ま、ソレが可愛いところでもあるんだが」
 魎は満足そうに頷きながら、コチラにゆっくりと歩み寄る。そして目の前に立ち、冷徹な視線で睥睨した。
「テ、メェ……!」
「無駄だ冬摩。今のお前の力で抜け出せるほど私の『破結界』はヌルくない」
 嘲るような声で言いながら、魎はどこか面白そうに目を細める。 
 さっきの戦いのダメージが、まだありありと残っている。多分、陣迂の方は自分以上に。
「だが『左腕』の力を使えば別かもなぁ。あの力は凄まじいからなぁ」
 粘着質な声で言葉を並べ、魎はコチラを品定めでもするかのようにじっくりと見た。
 左腕――ソレはもう一つの力の発生点と連動した二つ目の力の作用点。絶大な精神苦痛を感じた時にのみ発揮される――
「見させて貰ったよ。さっきの戦い。随分と苦戦していたじゃないか。それとも余裕か? そう言えば自分で色々と制限を付けていたものなぁ。『死神』の『復元』を使う事が前提なら、もっと無茶な戦い方も出来た。まぁ、お前にそこまで入れ込ませた陣迂の功績を褒め称えたいところではあるが……」
 酷薄な笑みを浮かべて魎は左腕を陣迂の方にかざし、
「負けは負けだ」
 目を灼く閃光が辺りを包んだ。
「テ――」
 そして視界が回復した時、冬摩が目にしたのは全身を黒く染めた――
『――メエエエエエェェェェェェ!』
 大気を激震させる獣吼が轟く。草葉が微塵となり、土が爆ぜ、川が大波となった。
 冬摩は言う事を聞かない体を気力で奮い立たせ、両脚で大地を押し返し、左腕を持ち上げる。
「ほぅ、大したモンだ。まさに気合いと根性というヤツだな」
 そして血管が裂ける程に拳を固く握り締め、
「ブッ殺す!」
 力任せに振るった。
 顔面を狙った渾身の拳撃は、首を傾けた魎の後ろへと力を逃し、そして――河原の地形を変えて行く。
 土手は平地となり、河川は途中で寸断され、空は濃密な粉塵で覆われた。大地は小さくひび割れ、傷口から出血でもするかのように水が噴き出す。
「な……」
 ソレを放った冬摩自身から驚愕の声が吃音となって漏れた。
(何だ……)
 そして壮絶な脱力感。
 力を出し切ったからだけではない。『破結界』の力によるものだけではない。
 コレは、戸惑いと――恐怖。制御できず、暴走する自分自身への怯え。まるで、紅月の夜のように……。
 ずっと不安だった。いつか朋華を、この手で……。
 そんな力が、まだ他にも……。しかも常に付き纏って……。
「まぁ、こんな物か。どうやら私の仮説は正しかったらしい」
 その様子を魎は相変わらず冷ややかに見ながら呟き、そして背を向けた。
「あー、今日は機嫌が良い。だから見逃してやるよ、冬摩」
 凄惨な姿となり、気を失った陣迂の体を片手で持ち上げ、魎は肩越しにコチラを振り返り見る。
「せっかく新しい情報と頭脳を手に入れたんだ。せいぜい考える事だな」
 意味ありげな笑みと共に言葉を残し、魎は地面を蹴った。
(何なんだ……)
 闇色に染まり始めた空へと消えていく魎と陣迂、そして玖音。
 未だ放心から解けず、冬摩はその背中をただ見つめていた。
(何、なんだ……)
 さっきのあの力は。どうして玖音は捕らわれて……。魎の目的は、仮説とは何だ……。一体、何なんだ……。
 『破結界』に体を押さえ込まれ、懺悔でもするかのような体勢のまま、冬摩は喉の奥から咆吼を上げた。
 何度も、何度も。
 決して晴れる事のない靄を振り払うように。際限なく覆い被さってくる不安から逃げるように……。





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