貴方に捧げる死神の謳声 第三部 ―黄泉路からの慟哭―

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八『解き放つ』


◆三番目の方法 ―仁科朋華―◆
「……っ」
 胸の奥に鈍い痛みを感じ、朋華は持っていたナイフとスプーンをテーブルに落とした。銀と陶器のぶつかり合う音が、冗談じみた広さを誇る大ホールに響き渡る。そして周りで食事をしていた全員の視線が朋華に集中した。
「どひたんトモはん。ほ腹れもイハなった?」
 大きなどんぶりに盛られた白米を掻き込む手を休め、久里子は口の中でモゴモゴと聞いてくる。余程お腹が減っていたのか、彼女の周りには肉、魚、野菜の飾り付けられた二十近くの皿が常に展開していた。この土御門財閥の館に戻って来てからというもの、ずっとこの調子だ。
「あ、いや……何だか、ちょっと……」
 掠れた声で言葉を返す朋華。と、その頬に熱い筋が引かれる。
「ア、レ……?」
 自分の意志とは関係無く、奥の方から溢れてくる大粒の涙。ソレは拭っても拭っても止めどなく零れ落ちて――
「ト、トモちゃん?」
 さすがにおかしいと感じたのか、正面に座っていた久里子は長テーブルを土足でまたいで自分の隣りに立った。
「どしたん。何か変なモン食べてもーたか? 医者呼ぼか? ココは腕利きの奴がぎょーさんおんで? しかもタダや。遠慮しなや」
 コチラの背中をさすりながら、久里子は優しい口調で言葉を掛けてくれる。
「だ、大丈夫。大丈夫ですから……」
 顔を上げて明るく返し、朋華は鼻を小さくすすった。
 コレは病気とかの類ではない。以前にも何度か感じた事がある。勿論、今回ほど酷くはなかったが、コレは……。
「冬摩か……」
 久里子が挟んできた言葉に、朋華は苦しそうに頷いた。
 魔人と召鬼の精神的な繋がり。ソレに乗って冬摩の心情が自分の元へと流れ込んで来ている。胸を抉られ、深い穴を穿たれる程の哀しみ、不安、恐怖……。
 一体、冬摩は何を……。
「落ち着いてやトモちゃん。トモちゃんが冬摩のトコ行っても何もならんで。アイツの戦いに混じったかて邪魔になるだけや。せやから冬摩が戻ってくるまでココでジッとしてるんが、今ウチらが取るべき行動なんや」
 朋華の体を後ろから抱きかかえ、久里子は諭すような口調で言った。
「ええ……分かってます。分かってますよ……嶋比良さん」
 そう。頭では十分過ぎる程に理解している。自分が冬摩の荒々しい戦いに付いて行ける訳がない。下手にノコノコと出ていって、向こうの人質にでもなってしまったら悔やんでも悔やみきれない。そのせいで冬摩を窮地に追い込んでしまったらと、考えただけで――
(でも……)
 それでも……冬摩の元に行きたい……。冬摩の顔が見たい。冬摩の体に触れたい。
 そして自分が冬摩の為に出来る事をしたい。少しでも……例えほんの少しでも彼の苦しみを取り除く事が出来るのであれば……。
「ウチはまだ冬摩の召鬼になりたてやから、トモちゃんみたいにハッキリ感じる事できへんけど……何となくは、分かる。アイツは今苦しんどる。けど、我慢や。ココは我慢のしどころやで、トモちゃん。アイツを信じたるんや。絶対に……ホンマもうじき、あの馬鹿デカイ扉蹴り開けてココ入ってくるからな」
「はぃ……」
 か細い声で返した朋華の目から、また涙が零れ出た。ソレは冬摩から伝わってくる痛々しい心情だけによるモノではなく……。
「アタシの兄貴ってさー、ホント一人でなーんでも出来ちゃうのよねー」
 隣りに座っていた美柚梨が背もたれに大きく体重を預け、椅子の前を少し浮かせながら独り言のように言った。
「美柚梨ちゃんとしては兄貴と一緒になってアレコレ悩んだり、考えたり、ウンガー! って発奮したりしたいよねーって、いっつも不満チックしてるんだけどさー、ウチの優秀な兄貴は勝手にパパーっとやっちゃう訳だ」
 二階の天井の高さに取り付けられたシャンデリアを見上げながら、美柚梨はおどけたように両腕を広げて続ける。
「まぁ身内のアタシが言うのも何だけど、頭脳グッ! 運動神経バッチ! ついでに容姿端麗生な兄貴ですからー、取り合えず任せておけば何とかしてくれる訳さー。でもね……」
 そこまで言って美柚梨はコチラに顔を向け、
「やっぱ、心配なんだよねー」
 少しぎこちない笑みを浮かべながら言った。
「この前さー。クー坊が逃げ出しちゃったのねー。あ、クー坊っていうのはウチで飼ってる小鳥の事ねー。結構前に巣から落ちちゃったのを助けてあげて、それからずっとアタシんチに居るんだけど。で、兄貴のもー一個の名前? の“クオン”から一文字取ってクー坊ね。まーそんな感じでさー。どんな感じ? 気にしない気にしない。兄貴ったら『自分のせいだー』って言ってずーっと探し回ってたの。丸一日。『朱雀』だっけ? 『瞬足』ってヤツで。まー、籠の鍵が外れてたんだけとさー、あのコ自分で簡単に外しちゃうから。アタシも何回が見てっからさー、捕まえる方法も知ってんのよ。まー、捕まえるって言うか、お腹空いたら勝手に帰ってくるだけなんだけどね。でも兄貴はソレ知らなかったらしくて、そんでクー坊が居なくなったのはアタシが学校の補習受けてる時で。兄貴の事だからきっと、アタシが悲しむーとか思って必死になって探してくれたんだと思うのよ。こー見えてケッコー愛されてます、アタシ。にへへ……」
 美柚梨は照れくさそうに鼻の頭を掻き、長い紅髪を両手で纏めたり梳いたりしながらまたシャンデリアを見上げる。
「結局さー、夕方ー。服ボロホロにして、顔ドロんこになってて、めっちゃヘトヘトでー。『すまん、美柚梨……』なんてヘコみながら言った兄貴に、アタシは餌箱に顔突っ込んでるクー坊を見せつけたのでしたー、メデシタメデシタ。やー、あん時の目んタマ飛び出た兄貴は写メモンだったなー。ホント、一言声掛けてくれればさー。そりゃー、兄貴みたいに何でもは出来ないけど、アタシにだって手伝える事くらいあるのにねー」
 浮かしていた椅子をガタン、と元に戻し、美柚梨はフォークの先で白身魚のソテーをつまみ上げた。ソレを口に放り込み、良く噛んで呑み込んだ後、げっぷと息を吐いて額をテーブルに付ける。
「兄貴は何でも一人で出来るから、最初から何でも一人でしようとするんだよ。周りが自分に期待してるって思ってるから、ソレに応えようと頑張ってる。ソレは良い事だし、一生懸命な兄貴は凄く好き。でもいつかパンクしちゃうんじゃないかって凄く心配。たがら美柚梨ちゃんはいっつも胃がキリキリ。今だってそう。もしこのまま兄貴とずっと離ればなれになっちゃったらってと思うと、食事も喉を通りませーん」
 言いながら美柚梨はスープ皿に直接口を付けて飲み干し、げぇっぷと息を吐いてまたコチラを向いた。そして目を大きくして顔を輝かせる。
「でもねっ、心配して心配して心配し尽くしてっ。トコトン心配マンになった後に見る兄貴の顔はまた格別なんだよー」
 にへらーと口元を緩ませ、美柚梨は心底嬉しそうに続けた。
「昨日なんかさっ。兄貴ってば十一時くらいに戻って来て。もーホント、ドコで何してるか心配で。ひょっとして悪い女にお持ち帰りされてないだろーなー、とかね。でもちゃんと帰って来てくれて『ただいま』って言われた時はもー爆発したね。夜中まで甘えまくりました、ハイ」
 昨日の夜、という事は夕薙病院に行く前日だ。
 確か玖音が、自分を守るために徹夜で家の周りを警護するとか言い出した……。
「で、最後は歯を磨きっこして大満足で寝たんだけどね。まー、一緒のベッドじゃなかったのが唯一の不満点かなー」
 は、歯を磨きっこ……新しい発想だ……。
「だからさっ、朋華さんもトーマ君の事、今はとにかく心配して心配しまくればいいいじゃんっ。そしたら帰って来てくれた時に、すんごくパッピーになれるから。ねっ」
 白い歯をコチラに向けて美柚梨は満面の笑みを浮かべる。見る者を自然と元気付けてくれる明るい笑顔だ。
 そうだ。今、辛いのは自分だけじゃない。
 美柚梨だって玖音の事が心配でたまらないんだ。なのにこんなにも気丈に振る舞っている。大切な人を心から出迎えるために、今はじっと我慢しているのだという素敵な考え方をして、玖音が無事で居てくれるのを願っている。
「有り難う、美柚梨さん……」
 朋華は美柚梨に微笑み返して、目尻に残っている涙を拭いた。もうそれ以上は溢れてこない。いつの間にか悲しい気持ちは収まっていた。
「うんうん、エエ話や。ホンマ、若いってエエなぁ……」
 テーブルの上からナプキンを取り、久里子はどこか芝居がかった仕草で目元を拭く。
「なーに言ってんですかー、嶋比良さーん。嶋比良さんだって全然若いじゃないですかー」
「ホンマ有り難う、トモちゃん……。その言葉が一番嬉しいわ……」
 と、今度は不自然さなど欠片も見せずに、久里子は眼鏡を外して涙を拭いた。
 ……ひょっとして、そろそろ年齢の気になるお年頃なのだろうか。
「クリっちだーいじょーぶだってー。まだゼーゼン二十代後半で通用するからー」
「……どーせもう三十過ぎたわ」
 フォローなのかイヤミなのか分からない美柚梨の言葉に、久里子は拗ねたように返してまた食べ始める。
 ……多分、今日が特別食欲旺盛なんだと思うのだが、それにしてもこの細身の体のどこにアレだけ入って行っているのだろうか。やっぱり……。
「おっ、朋華さーん。やっぱアレはウラヤマシーですかー?」
 後ろから掛かった美柚梨の言葉と、耳に吹きかけられた息に、朋華は体を大きく震わせる。
「え、いゃ……その……」
「だよなー、アタシもアレくらいあれば兄貴を悩殺できるのにー。まーでも、あそこまでになると可愛いデザインのが無くなるなら諸刃の剣! 刃の鎧! ミユリは69のダメージを受けたー! まーやらしい! ってトコなんザンスけどー」
 えと……最後の方はよく分からないんですけど……。
 朋華はオホン、と咳払いを一つして椅子に座り直し、ナイフとフォークを持って料理に手を付け始めた。
(でも……いいのかな……)
 本当にこんな事してて。いくら土御門財閥の館に居るとは言っても、水鏡魎にしてみればココの警備など無きに等しい。そしてソレは久里子自身、一番良く理解している。

『どーせドコおっても何してても絶対安全ー言い切れる場所なんか無い。せやったら今は体力蓄えて力温存しとくのが一番や』

 絶対に安全な場所は無い。
 ソレは玖音と全く同じ意見。そして今後の事をまだ何を話そうとしないのも、冬摩が居なければ進まないからなのだろう。
 なぜなら冬摩の力が及ぶ範囲がいわゆる安全域であり、その力無くしてはまともに対抗できないのだから。

『それからな。多分、ココには誰もけーへん思う』

 久里子が聞いた話だと、玲寺は麻緒の所に、魎と陣迂は玖音のところに行っているはずらしい。もし玖音の策に嵌められたと気付いて戻って来たとしても、魎か陣迂のどちらか一人だ。もう一人は玖音が逃がさないし、玲寺は麻緒が逃がさない。
 そして仮に戻って来たのが魎ならまず冬摩の所に行くはず。魎のそもそもの目的は冬摩であり、自分達にちょっかいを出してきたのは冬摩への支援を邪魔するためと、使役神を奪って自らの力を取り戻すためなのだから。
 支援に関しては、久里子が一人の時ならまだ出来たであろうが、今のように大勢となってしまっては機動力が格段に落ちて出来る援護も出来ない。だから戦力外と見なすはず。
 使役神に関しては、久里子が捕まっている時に『天空』を奪わなかった事からして、今更そのためにココに来るとは考えにくい。
 もう一つは魎ではなく陣迂が戻って来た場合だが、彼は冬摩か玖音との戦いをかなり強く望んでいるようだった。だから、まずココには来ない。
 よってこの館には、今敵対している三人は誰も来ない可能性が非常に高い。来たとしても魎の召鬼くらいだろう。それなら久里子だけでも十分対応できる。
 もっとも、冬摩、玖音、麻緒のウチ誰か一人でも崩れれば、その限りではないだろうが。
(だから、今は……)
 ただひたすら冬摩達が無事に戻って来てくれる事を祈っているしか……。
「……だモン」
「え?」
 右正面からした声に、朋華は手を休めて顔を上げた。
「あたしだって麻緒君の事心配だモン! すンごくすンごく心配してるだモン!」
 バンッ! と椅子を蹴って立ち上がり、夏那美はおさげの髪を振り乱しながら大声で叫ぶ。半分に捲り上げていた冬摩の黒シャツの袖が戻り、彼女の短い腕がスッポリと包み隠された。
「んーせやなー、心配やなー。けど大丈夫やでー、お姉ちゃんに任しときー。あの子は強いからー」
 ソコに久里子が猫なで声ですり寄って行く。
「ちょ、ちょっと何なのよ! 離しなさい! 気持ち悪い!」
「んー、ホンマちっちゃいなー、可愛らしー。その服、お父さんの趣味ー? 最高やわー」
 鼻に掛かった甘ったるい声で言いながら、久里子はその豊満なバストに夏那美の小さな顔を埋めた。
 ……どうやら、夏那美の小さな体に冬摩の大きな服を無理矢理着せていた事が、久里子の琴線を寸断したようだ。
 そう言えばこの館にある久里子の部屋、ぬいぐるみやら小物やらで埋め尽くされていて、やたらとメルヘンチックだった気がする。とにかく小さくて可愛い物に目が無いのだろう。
 ひょっとして、かつては麻緒も似たような目に遭っていたのだろうか。
(それに……)
 久里子の胸の中で呼吸困難に陥り掛けている夏那美を後目に見ながら、朋華は少し椅子を引いて後ろを見る。
 巨大な球状の体を上機嫌に揺すりながら、『獄閻』が『金剛盾』を器用に操ってナイフ、フォーク、スプーンでお手玉をしていた。
 ……どうやら、彼は光り物に目がないようだ。色が鴉と同じせいか、何か通じるモノでもあるのだろうか。
 世の中……色んな嗜好があるものだ。
「っだー! 苦しいわね! いい加減離しなさいよ! このウシ年増!」
「う、し……ど……」
 夏那美の辛辣な言葉に、目に見えて枯れていく久里子。
 麻緒同様、彼女にも幼さ故の残酷性というモノが備わっているらしい。
「さっきから黙って聞いてたらみんなして自分の世界に浸ったちゃって! あたしだって……! あたしだって麻緒君の事……! 麻緒……! 君、の……事……」
 言葉尻を涙で濁しながら、夏那美は顔をくしゃくしゃにして椅子に座り込んだ。そして顔を俯かせて嗚咽を上げる。
「東宮、さん……」
 身も心も大きく崩れさせた夏那美を見て、朋華は小さく声を漏らした。
「東宮さん」
 もう一度彼女の名前を呼びながらゆっくりと立ち上がり、朋華はテーブルの向こう側に手を伸ばして夏那美の頭を優しく撫でる。
 無理もない。麻緒からこういう世界の事を少しは聞かされていたとはいえ、まだ中学一年生だ。今日一日で色んな事が有り過ぎた。
 病院の窓から飛び降りて、知らない部屋に連れてこられて、人質として狙われているかも知れないと宣告され、都内を連れ回されて、そしてこんな密林の奥にある洋館に連れて来られた。
 精神的に限界が来たとしても何も不思議な話ではない。そして仲間はずれにされたと感じた事が引き金となり、一気に内面を晒す事になった。
 多分今頃、夏那美の両親は必死になって彼女を探しているだろう。自分や玖音の事も含めて、病院についての警察関連は久里子が上手く立ち回ってくれているらしいのだが……。
(やっぱり、帰りたいよね……)
 両親の所へ。
 自分はもう、こういう事に慣れてしまったから殆ど何も感じないが、不安になったり、寂しくなったり、苛立ったりするのが普通だ。ソレは美柚梨についても同じ事。
 体を震わせる夏那美の方に移動しながら、朋華は横目に美柚梨を見る。彼女も食べる手を休めて、心配そうな眼差しを夏那美に向けていた。
 今はまだ他人を心配できる余裕がある。さっき自分を元気付けてくれた時のように、表面上はあっけらかんとしていて平気そうに見える。そして美柚梨も玖音から、使役神鬼や魔人などの世界の話を少しは聞いているだろう。二年前は実際に巻き込まれもした。
 だが、いつ夏那美のようになったとしてもおかしくない。
 美柚梨は一人で何でも溜め込む玖音の事を心配してたが、美柚梨自身もきっと、苦しい事をあまり表に出さずに周りを気遣うタイプの人間だ。だから、些細な変調でも気を付けて見ていないと……。
 そしてもう一人心配なのは御代だ。
 まだ眠りから覚めずに、『鬼蜘蛛』と『天冥』の守る奥の部屋で寝かされている。
 彼女も使役神には自ら興味を示し、冬摩のもつ人外の力は目の当たりにしているが、ここまで深く関わったのは初めてだ。
 さっき、自分の携帯に御代の母親から電話があった。一緒に遊んでいて、今は疲れて眠っているのでまた掛け直すと言っておいたが、ソレが今日中に実現するどうか。
 もう九時を回った。まさか、このまま起きないという事は無いと思うが……。
「ホンマ、そないに心配せんでも大丈夫やで」
 後ろから久里子の声が掛かった。
 そして自分の隣りに立ち、一緒になって夏那美の頭を撫でる。
「ウチがちゃーんとみんな守ったるからな。ほんで無事家に帰したる。麻緒も、玖音も、冬摩もな。ま、最後のアホはウチが何かするまでも無い思うけどなー」
 ケラケラと明るく笑いながら、久里子はテーブルに手を伸ばしてチェリーパイを口に放り込んだ。
「ど……こに、そんな保証があるのよ……。麻緒君が大丈夫って、なんで分かるのよ……」
 テーブルから顔を僅かに浮かせ、夏那美は鼻をすすらせて拗ねたような喋りで言う。
「あのコは天才やからな」
 ソレに久里子は自信満々といった様子で返した。
「普通、三年もブランクあったら体はいう事聞かんモンや。けど麻緒はあの水鏡魎とまともにやりおーた。トモちゃんの話やと冬摩ともやったらしいやんか。しかも結構本気で。まーどこまで食いついて行ったかは知らんけど、今ピンピンしてるーゆー話やから、そこそこは渡りおーたんやろな。でもな、三年前はあのコ、冬摩の足元にも及ばんかってん。コレ、どーゆー意味は分かるー?」
 夏那美の後頭部を胸で包み上げながら、久里子は眼鏡の奥の双眸をスッと細める。
「ど、どーゆー意味なのよ……っ」
「ガンガン成長してるーゆー事や。あのぬるい環境でそんだけ力伸ばせんねんから、今みたいな『本番』やったら、どんだけ急角度で突っ走ってるか分からんで。とにかく、あのコは才能の塊みたいな奴や。ウチは正直、麻緒がソレに気付く前にこんなんヤメさせたかってんけど……もー無理やな。今の麻緒は戦うんがオモローてオモローてしゃーないみたいな感じやで。実戦に勝る鍛錬は無い。麻緒は戦いながらどんどん力付けていく。いくら玲寺さんでも相当苦戦すんで。下手したら負けるかもな。『貴人』も水鏡魎に取られてもーたし。式神の数は互角や」
「え……?」
 久里子の言葉に、朋華は小さく声を漏らして彼女の顔を見た。
「取られたって……『貴人』……式神を……?」
 そして呟くように言った朋華に、久里子は神妙な顔付きで頷く。
「ああ、『貴人』だけやない。宗崎の『勾陣』も、繭森の『大陰』も、白原の『天后』も。水鏡魎は今、七体の使役神を持っとる」
「七、体……」
 冬摩が九体だからソレに近い数だ。しかし――
「で、でも、篠岡さんは生きてるん、ですよね……」
「ああ」
 ならおかしいではないか。
 使役神を受け継ぐには、第一子に継承させるか、保持者を殺して奪い取るしかない。なのに……。
「ホンマ、厄介な事な奴やで。あの水鏡魎ってのは……」
 渋面になって下唇を噛み締め、久里子は息を吐きながら眼鏡の位置を直した。

◆才気と狂気 ―九重麻緒―◆
 火照った頬を撫でていく冷たい海風が心地よい。か細く頼りない明かりに照らされた無数の倉庫が、腐食して赤茶けた外壁をコチラに向けていた。
 口の中に広がる鉄錆の味、過剰な力で断裂していく筋繊維、絶えず軋みを上げる関節。
 ソレらすべてが快楽となり、この上ない幸福感をもたらしてくれる。
 躰の最深から沸き上がる猛獣の咆吼。血の胎動。凶喜の調べ。
 ぶつけろと耳の奥で何かが喚き散らす。
 有り余るこの力が行き場を失って無駄になる前に、眼前で小賢しく動き回ってる敵にぶつけろと叫び声を上げている。
「オオオオオオオォォォォォォ!」
 悪魔の微笑みにも似た三日月を背に、麻緒は雄叫びを上げた。そして空中で左拳を引き、正六角形の白枠目掛けて叩き付ける。
 固く、冷たい手応え。
 玲寺の顔面に狙いを定めたはずの拳撃は僅かに逸れ、後ろの倉庫壁へとめり込んだ。
 一呼吸遅れて、二十メートル以上離れた場所から崩壊音が聞こえてくる。
「いやー、なかなか鋭いですねぇー。あと三センチ。実に惜しい。ちょっと見ない間に随分と成長したじゃありませんか、麻緒」
 毛先の巻いた柔らかそうな黒髪を掻き上げ、玲寺はにこやかな表情で言う。白いスーツの上に羽織った漆黒のオーバーコートが、誰も居ない夜の倉庫街に溶け込んでいた。
「そりゃあどーも。玲寺お兄ちゃんからそう言われると、ちょっと自信が付くよ」
 口の端から垂れた血の筋を舌先で舐め取り、麻緒は危ない笑みを張り付かせて返す。そして詰め襟を脱ぎ捨て、首の骨を鳴らしながら軽快なステップを踏み始めた。
「そろそろ止めませんか、麻緒。かつては一緒に戦った仲間。昔のよしみという事で、ここは一つ仲良く……」
「這いつくばってボクの靴の裏舐めるってんなら、特別に考えてあげるよ」
 休戦を持ち掛けてきた玲寺の言葉を遮り、麻緒は挑発的な口調で言い放った。
「……やれやれ、もう少し話の分かる人かと思っていたんですが」
「ソッチがケンカ売って来たんだろ」
「コレは不可抗力というものですよ」
「ゴメンネー、ボク難しい言葉良く分かんないん――だ!」
 言葉の最後に大きく叫び、麻緒は足元のコンクリートを蹴る。耳元で激しく渦を巻く風の音を聞きながら、低い弾道で突進した。
「ソレは残念」
 言い終えると同時にオーバーコートが意思を持ったかのように蠢き、玲寺の体を覆っていった。そして周囲の闇と同化する。
「ッラァ!」
 しかし麻緒は構わず突っ込み、力の任せに左拳を振るった。が、虚しく空を切って――
「左だけでは私には勝てませんよ?」
 頭上から降ってくる玲寺の声。
 流れた左腕を『次元葬』で包み込み、もう一対を上に出現させて玲寺の蹴撃を受け止める。『次元葬』から生えた麻緒の腕を足場にして更に上空へと舞う玲寺。ソレを追って麻緒も跳躍する。
「オラァ!」
 そして玲寺の腹目掛けて拳を突き出し、被弾する直前に『次元葬』を挟み込んで、
「ですから――」
 玲寺の後頭部を狙ったもう一対の『次元葬』からの拳撃はあっさり受け止められ――
「同じ事ですよ」
 意識が宙を泳ぐ。
 肩が抜けそうになるくらいの力で引かれ、麻緒は体ごと『次元葬』を通り抜けて“向こう側”へと飛び出した。
「がぅ……!」
 そして頬が灼熱を帯びる。玲寺からの拳撃を左頬に受け、麻緒はその勢いで地面に叩き付けられた。両腕でコンクリートを押し返して体を起こした直後、まるで思い出したかのように口腔に溢れ返る生暖かい液体。
 ソレを躊躇う事なく嚥下し、麻緒は楽しそうな表情を玲寺に向けた。
「まだやるんですか? もう勝負は見えていると思うんですが」
「馬鹿言うなよ。これからじゃん」
 立ち上がり、両の拳に力を込める。革手袋をはめた右拳が、きつく締め上げられる音を立てた。
「麻緒、頑張りと無茶は違いますよ」
「なに勘違いしてんだよ」
 鼻で小さく笑い。麻緒は大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出した。
 ――やっと、エンジンが掛かってきたんだ。
「最初から一方的になっちゃ面白くないじゃん。やっぱ戦いは接戦じゃないとね」
 ――この痛みで。
「……今まではわざと受けていたとでも?」
 ――この血の香りで。
「まぁ――」
 ――この、殺戮への昂揚で!
「そんなとこさ!」
 再び真っ正面から突っ込む。
 激的に増す空気抵抗。ソレを強引に押し返し、麻緒は一気に最高速へと上り詰めた。景色が急速に後ろへと流れ、視界一杯に玲寺の姿が映し出される。
「ほぅ、コレは……」
 そして玲寺の目の前で直角に軌道を変え、垂直に切り立つ倉庫の壁を走り抜けて上空へと躍り出た。
「ヒャッホオオオオォォォォウ!」
 甲高い声を夜闇に轟かせ、麻緒はクロスさせた両腕を解き放つ。両手の爪を介し、『司水』で空気中の水分を凝縮、凍結させて作った槍は、眼下の玲寺目掛けて飛来した。
「なるほど」
 感心したように言いながら、玲寺はオーバーコートの裾から黒鎖を伸ばして黒い障壁を作り出す。が、その前に白い六角形の枠が現れた。そしてもう一対が玲寺の側面に回り込み――
「またこのパターンですか」
 氷の槍は『次元葬』を避けるようにして不自然に軌道を変えると、真っ正面から降り注ぐ。
「ち……」
 舌打ちし、玲寺はソレらを素手で砕いていった。
 氷の破片が舞う。月光を反射し、煌びやかな輝きとなった氷は、更に自ら細分化して薄い膜となった。一瞬、玲寺が片目を瞑るのが見える。
「ほぉらコッチコッチぃ!」
 氷を追うようにして跳んだ麻緒は自分の腕を『次元葬』に滑り込ませ、真横から左拳を繰り出した。が、即座に上げられた玲寺の腕によって防がれる。
 ――予想通りに。
「オラァ!」
 左を引くと同時に打ち出した右の拳撃。ソレは玲寺のガードの隙間を通り抜け、顔面に直撃した。
「な――」
 驚愕の声を上げ、後ろに吹き飛ばされる玲寺。しかし空中で体勢を立て直すと、倉庫の壁に足を付いて勢いを殺した。
「いつまでも干涸らびたままだと思ったー? バッカじゃないの?」
 革手袋を投げ捨て、麻緒は包まれていた右手を見せびらかすように軽く振る。皺枯れ、老人のようだった手は、張りのある健康そうな皮膚を取り戻していた。
「今まで使わなかったのはわざと、ですか」
 手の甲で血を拭い、玲寺は眼鏡の位置を直しながら呟く。
「幼稚かと思ったけど見事に引っかかってくれちゃったねー」
 得意そうに笑い、麻緒は舌を伸ばして唇を舐め取った。
 魎との戦いで自ら傷付けてしまった右手。
 コレを何とかした時に、新しい『司水』の使い方を覚えた。今までは単にソコにある水分を操るだけかと思っていたがそうではない。操り、集め、さらにソレを爪から取り込む事が出来る。そして取り込む事が出来るという事は――
「出せるって事さ!」
 玲寺の方に突き出した麻緒の左爪から氷の鎖が放たれる。ソレは横に飛んだ玲寺を回りこむようにして急迫すると、両手両脚、そして首に巻き付いて強固に凍り付いた。
「そぉら!」
 放った氷を再び爪の先から吸収し、麻緒は玲寺の体を引き寄せる。同時に『次元葬』を展開させ、一対を身動きの取れない玲寺の鼻先に持っていって――
「オラァ!」
 右の踵を玲寺の鳩尾に食い込ませた。
 こぽっ、と玲寺の口から体液が溢れ出る。
「ッハハハハハ! なーんだよ! 全然大した事ないじゃん! とんだ期待はずれだ!」
 ソコから玲寺の顎を蹴り上げ、大きく仰け反った所に『次元葬』から伸ばした拳を上から叩き込んだ。そして地面に打ち下ろされた玲寺に馬乗りになり、麻緒は両拳を力任せに抉り込ませていく。
「アッハハハ! アハハハハハハ! アーッハハハハハハハハッ!」
 腹の底から哄笑を上げ、麻緒は拳の弾幕を繰り出し続けた。
 愉悦に顔を歪ませ、一撃ごとに鈍い音を立てる玲寺の感触を楽しみながら、麻緒の意識は際限無く昂まっていく。
 ――潰せ!
 耳の奥でまた誰かが叫ぶ。
 ――壊せ!
 その声はどんどん大きくなり、
 ――殺せ!
「ブッ殺す!」
 固く握り込んだ拳を大きく振り上げて、
「な……」
 視界が大きく揺れた。
 脳に直接振動を送られたような錯覚。平衡感覚が失せ、振り下ろした拳が玲寺の顔の横を穿って――
「が……!」
 鼻先が灼熱を帯びた。目の前に鮮血が舞う。
 波打つ周囲の景色。掴み所の無い意識。
 自分の身に起こった出来事を、どこか遠くの方で見つめながら、麻緒は背中から地面に叩き付けられた。
「……今のは、自分への戒めです。まぁ、貴方が最初にやっていたのと同じ事ですよ」
 玲寺の声が耳鳴りに聞こえる。
 何だコレは。力は入るのに、ソレを持って行く方向が全く掴めない。
 どこが上なんだ。どちらに力を込めれば立てるんだ。まるで、暗い深海の中へと放り込まれたような……。
「自分の馬鹿声に掻き消されて私の『声』は全く聞こえなかったようですね」
 『声』……玲寺の力の発生点……。
「昔、冬摩も貴方と同じように接近戦に持ち込んできました。そして同じように三半規管を麻痺させられました」
 三半規管……。そうか、ソレで平衡感覚が……。
「あの時は冬摩の回復力に驚かされましたよ。まさかあんなに早く感覚を取り戻すとは。ですが、アレは彼が魔人であり、かつ『鬼蜘蛛』を保持していたからこそ出来た離れ業。麻緒、貴方ならこの窮地、どう乗り越えますか?」
「ぅぁ……!」
 玲寺の爪先が鳩尾にめり込んだ。その衝撃で麻緒の体はゴムボールのように跳ね跳び、地面を転がる。
「ほら、早く何とかしないとこのまま海に突き落としてしまいますよ? まぁもしかすると、そのショックで感覚が元通りになるかも知れませんが」
(――の、ガキ!)
 歯を食いしばり、麻緒は玲寺が蹴りを打ってくるタイミングを見計らって爪を突き出す。が、ソレを読んでいたかのように玲寺は一旦足を引くと、テンポをずらして再び蹴撃を放った。
「いやー、反撃の仕方が冬摩と全く同じですね。コレは面白い。さすがは冬摩を師匠として仰ぐだけの事はある」
 愉快そうに言いながら、玲寺は無様に転がり続ける麻緒の体で遊び続けた。
(ク……)
 両腕と両脚を折り畳み、顔と腹を庇いながら麻緒は耐える。
(ククク……) 
 そして口の端から薄ら笑いを零し、
(同じ、か……お兄ちゃんと……)
 鈍い痛みはやがて心地よい快痛へと昇華して、
(でも、こういう事は出来なかったでしょ?)
 麻緒は中空に伸ばした左の爪に、頭の中で描いたイメージを送り込んだ。
 直後、腕の近くで膨大な熱が爆ぜたかと思うと、目を灼く閃光が辺りを包む。
「な――」
 吃音のように届く玲寺の声。ソレをあっさり呑み込み、そのまま体を覆い尽くし、鼓膜を激震させて、爪の先から生み出された暴君は周囲を無慈悲に蹂躙して行った。
 局地的な超爆発はコンクリートを抉り、溶かし、港の形を変えてようやくその怒りを静める。
「ッラァ!」
 麻緒は間髪入れず、爆煙の向こう側へと右の爪から氷の鎖を放った。指先に伝わってくる確かな手応え。
 ――捕らえた。
 玲寺の体を捕らえた。もう絶対に離さない。
 コチラから向こうに行けないのであれば、向こうからコチラに来て貰えば良いだけの事だ。平衡感覚とかはもう関係ない。常に至近距離を保っていれば。
「信じられない……」
 驚愕に満ちた玲寺の声。そこには僅かに畏れの色も混じっている。
「麻緒、自分が何をしたか……分かっているのですか……」
 煙が晴れてくる。五本の氷の鎖に体の自由を奪われ、熱で左半身を爛れさせた玲寺がコチラを見ていた。白いスーツは無惨に炭化し、その下にあった皮膚は筋組織の一部を剥き出しにしている。眼鏡は完全に溶け落ち、左の瞼は閉ざされたままで開く気配はなかった。
(まぁ、こんなモンか……)
 恐らく、あのオーバーコートからの黒鎖で咄嗟に庇ったのだろう。なかなかいい反射神経だ。
「そりゃ勿論。爆発ってのは下の方には意外と来ないモンなんだよ。おかげでダメージはトントンってトコだよね」
「……左腕がそんな状態なのに、よくもそんな軽口が叩ける物だ」
「まぁ、あのまま滅多打ちよりはましさ」
 言いながら麻緒は左腕を目線の高さまで持ち上げる。
 肘から先が無くなっていた。
 先端は溶けて固まり、出血は無い。ついでに言えば痛みも無い。神経もろとも見事に潰れてしまっている。
 まぁ爪の先で水分子を原子にまで分解し、更にその原子を崩壊させたのだ。ソコから発生する膨大な熱量に晒されたにしては随分とマシな方だと思う。体の方への飛び火は殆ど無い。
 正直、ぶっつけ本番だった。
 出来るかどうかなんて、実際にやってみるまで分からなかった。と言うより出来ない可能性の方が高いと思っていた。
(ま、無事成功したし結果オーライって事で)
 麻緒は口の端を不敵につり上げながら短くなった左腕を下ろす。そしてゆっくりと立ち上がった。
 さっきの爆発で耳が聞こえにくくなり、視界も大半が白く染め上がってしまったせいか、頭の中のイメージと現実とのズレがあまり無い。まさにショック療法というヤツだ。たまには五感を捨ててみるのも良い。
(にしても……)
 指一本から干渉した爆発であの威力とは……。五本同時にやったらどうなるか興味があるところだが、ソレはまた次の機会だ。
 とにかく完全に体勢は立て直した。なら――
「ココからはまたボクの番だよ!」
 右手の爪にイメージを送り込み、麻緒は氷の鎖を縮めて玲寺の体を引き寄せる。抵抗らしい抵抗も出来ぬまま、玲寺は隙だらけとなった全身を麻緒の前に晒し――
「オラァ!」
 その鼻先に左脚の爪先が食い込んだ。
「ぐ……」
 低く籠もった声と共に玲寺は大きくのけ反る。そしてがら空きとなった喉元に、右脚の爪先を突き入れた。そのまま麻緒は更に力を込め、
「ッシャァ!」
 喉笛を掻き切らんばかりの勢いで振り切った。
 が、玲寺の体が僅かに後ろへと流れる。力は途中で行き場を失って分散し、麻緒の右脚は大振りに払われた。
 宙を泳いだ麻緒の体に、間髪入れず玲寺の肘が打ち下ろされる。しかし『次元葬』が麻緒を庇うようにして間に割って入ると、玲寺の腕を丸呑みにした。
 肘が出現した先は玲寺の頭上。
 だが今度は黒鎖が玲寺の盾となって展開し、重い一撃を受け止める。
「なるほど。確かに、爪があるのは手だけではない」
 肉の抉れた喉元を軽くさすりながら、玲寺はどこか冷めたような口調で言った。さっきまで四肢と首筋を拘束していたはずの氷の鎖は、跡形も無く叩き割られている。
「おしいっ。あと一秒あれば勝ってたのにねー」
 先が無惨に破れ、もはや原形を留めていない右のスポーツシューズを見下ろしながら、麻緒は明るい調子で返す。
 もうあと一秒、いやコンマ五秒あれば、足の爪が完全に入っていたはずだった。そして玲寺の喉の水分を蒸発させられていた。そうなれば呼吸などまともに出来ないだろうし、『声』などは到底出せない。勝ったも同然だった。
「あのさ、玲寺兄ちゃん。まだ何か力隠してるんならさっさと出した方がいいよ? でなきゃアッサリ死んじゃうよ?」
 両脚のスポーツシューズを脱ぎ捨てて裸足になり、麻緒は軽くステップを踏みながら挑発的に言った。
「楽しそうですねぇ、麻緒。これでも一応、三年前までは仲間同士だったのですが、その辺りについて躊躇いとか戸惑いとかは無いんですか?」
「無いよ」
 塞がっていた左目を開け、静かに聞く玲寺に麻緒は即答する。
「そんなややこしい事考えてたら面倒臭いだけじゃん。要は――」
 首の骨をコキコキと小気味良く鳴らし、麻緒は口の端を不敵に吊り上げて、
「今面白けりゃ何だって良いんだよ!」
 低い弾道で突っ込んだ。
『なるほど』
 玲寺の声質が変わる。低く重みのある声から、躰の内側に直接届く異様に存在感のある物へと。
「く……!」
 突然何かに体を押し返され、突進の勢いが削がれる。反射的に両腕を上げ、麻緒は顔を庇った。
『まぁ、こういう命のやり取りをする場では……貴方のそのシンプルな思考は正しいんでしょうねぇ』
 左胸、鳩尾、脇腹、両太腿、脛部と、激しい打撃が連続的に通り過ぎていく。
『羨ましいですよ、麻緒。私も貴方のように割り切って考えられれば……。もっと早く冬摩と知り合っていれば、貴方のようになれたかも知れないですねぇ』
 体中に降り注ぐ鈍痛に混じって、刃物で切り裂かれたような鋭利な痛みが走った。千切れ飛んだカーターシャツが上空に舞い上げられ、更に細切れとなって空気に溶け込んだ。
(『無刃烈風』……)
 やっと一つ目を使ってきた。
 玲寺が保持している二体の式神のうち一体、『青龍』の力をようやく出してきた。
 だが――
「ガッカリさせないでよ!」
 突風に煽られ、頬を真横に伝って流れる血を舐め取りながら麻緒は大きく跳躍する。
 まだまだこんなモンじゃない。『青龍』の『無刃烈風』はこの程度の切れ味じゃないんだ。その気になれば自分の首を削ぎ落とす事だって出来るはずなんだ。
 まだ手加減をしているのか。
 さっき自分で言っていた、『三年前までは仲間同士だった』という下らない理由がそうさせているのか。
『上に飛ぶのは自殺行為ですよ』
 真下から不可視の力が押し上がってくる。
 だが麻緒は避けようとしない。『次元葬』を目一杯広げ、正面から来る玲寺の声を呑み込んでいく。
『私の声は指向性を伴う事をお忘れなく』
 頭上、そして横手からの風圧。
 ソレが着弾する前に、麻緒は体を丸くして『次元葬』の中に飛び込んだ。
『まさに愚行ですねぇ』
 そしてもう一対の『次元葬』から顔を出した時、麻緒の眼前には束となった黒鎖が突き出されていた。
 『次元葬』はその面積を広げれば広げるほど、二つの枠が取れる距離は短くなる。つまり、次の出現地点を予測する事が容易になる。小柄とは言え、麻緒の全身が収まるほどに『次元葬』は大きくなった。だから――
『少し痛いですよ?』
 潜り込んだ『次元葬』から、僅か二メートル足らずの位置に麻緒は現れ――玲寺の放った黒鎖がソレを迎え撃ち――
『――ッ!?』
 瞬時にしてまた姿を消した。
 麻緒の出現地点で待っていたのは黒鎖だけではない。『次元葬』の白い枠も大きく口を開けていた。
『もう一組……!?』
 “三枚目”の『次元葬』が。
「ッハァ! どーだ!」
 そして“四枚目”から喜声を上げて飛び出し、麻緒は両脚の爪から氷の鎖を放つ。十本の冷たい綱は地面に張り付くと、急激に収縮して麻緒の体を下へと引っ張った。
「く……!」
 玲寺の反応が大きく遅れる。
「オオオォォォォォッッラァッ!」
 重力の導きを無視して大地に降り立った麻緒は、アスファルトを強く蹴り上げ、伸び上がりざま渾身の右拳を玲寺の腹に叩き込んだ。
「ッあアぁッ……!」
 体をくの字に曲げ、玲寺の口から苦鳴と共に鮮血が溢れ出る。
「まだまだァっ!」
 埋め込んだ拳を更に深く突き入れ、炭化した玲寺のスーツを突き破って皮膚に爪を立てた。そのまま肉を引き裂き、臓腑を掴み上げると『司水』を発動させる。
「――!」
 ガクンッ! と玲寺の全身が大きく痙攣し、跳ね上がり、
『ガアアアアアアァァァァァァ!』
 獣吼が辺りに轟いた。その凄まじい声に乗り、玲寺の力が一気に解き放たれる。
 吐き気を伴う脳への壮絶な激痛。
 視界が眩み、目の前が反転し、自分の意志とは無関係に膝が落ちる。喉の奥から熱い物が込み上げ、耳の奥で小さな破裂音が聞こえ始めた。
 だが右手に込める力は緩めない。
 筋肉を引き裂かれても、脚の腱を断ち切られそうになっても、骨をねじ曲げられても。
「ク……」
 麻緒は薄ら笑いさえ浮かべ、
「クハハハ……」
 虚空を危うい視線で見つめ、
「ハ、ハハ……ハハ……!」
 腕の感覚が無くなり始めて、
「ギャぅ……!」 
 大きく後ろに跳ね飛ばされた。背中に伝わって来る熱い衝撃。肺に残った空気と、口に溜まった血を吐き出しつつも、麻緒は殆ど無意識に体を起こした。
「大した、力ですね……。若さの賜物……というヤツでしょうか」
 まるで力の籠もっていない玲寺の声が前から聞こえる。
「ソッチこそ……そろそろ寝たら?」
 玲寺が居るだろう方向を、麻緒は両腕をだらりと下げながら虚ろな目で見た。
 さすがに今のは効いた。多分、アレは掛け値無しに玲寺の本気だろう。龍閃の召鬼としての力なのか、玲寺自身の底力なのかは知らないが、死んでいてもおかしくなかった。
 だが、まだ生きている。
 指は動く、脚にもまだ力は入る。眼はもう見えないが、体力は僅かに残っている。何よりまだ精神の昂ぶりが消えていない。
 ――楽しい。
 こんなに楽しい気持ちになったのは本当に久しぶりだ。
 自分を死の直前まで追いつめてくれたのは、ただ唯一――龍閃だけだった。
 龍閃だけが、自分の人生に価値を与えてくれた。生きているのだという実感をくれた。
 死を感じるからこそ生を感じられる。ソレは表裏一体なのではなく、同じ方向性を持った同種の存在。逆に言えば、死から縁遠い日常は生からも程遠い。ただ死んでいないというだけで、生きてもいない。
 レーサーや冬山の登山家、バンジージャンパー。
 程度の差こそあれ、みんな自分と同じ人種だ。
 死地に生の悦びを見出し、ほんの一瞬だが最高の快楽を求める者達。
 だから、もっと死に近付けば、もっともっと上り詰められる。死の淵を見る事が、自分にとって生きている意味なんだ。
「麻緒……もう止めましょう。さすがに今度ばかりは貴方の負けです。周りをよく見て下さい」
 苦痛に言葉を詰まらせながら言う玲寺に、麻緒は怠そうに頭を見回した。
 一面の黒い世界。きっとさっきのショックで視神経がイカれてしまったんだ。だから何も……。
(いや……)
 違う。そうじゃない。
 覆われているんだ。玲寺の怨行術で。あの黒鎖が繭のようになって。
 臓物を干上がらされながらも、玲寺はこの黒いドームを作り上げていた。
 完全な閉鎖空間。つまり、自分の力の発生点を最も有効に使える舞台を。
「かつて龍閃はコレで私に敗れました。冬摩もかなり際どいところまで追いつめました。貴方が屈する事は何も恥ずかしい事ではありません」
 龍閃はやられた。しかし、冬摩は……。
「そっか……お兄ちゃんは、やったんだ……」
 まるで一人言のように呟き、麻緒は大きく息を吐いた。
『麻緒、どうして貴方はそうまでして戦うのですか?』
 玲寺の声質がまた重苦しい物へと変貌する。
「さっき言ったじゃん、面白いからだって……」
 左脚を玲寺の力が掠め、麻緒はバランスを崩して倒れ込んだ。しかしまたすぐに起きあがる。
『どうして面白いのですか? そんなに苦しい思いをしてまで、どうして貴方は楽しいと思えるのですか?』
「うるさいなぁ……」
 しつこく聞いてくる玲寺に麻緒は面倒臭そうに呟き、右拳に力を込めた。
「そのくらい……自分で考えろよ!」
 そして力任せに黒鎖のドームへと叩き付ける。壁に小さな穴が開き、薄い月明かりが差し込む。しかしすぐに別の黒鎖がその穴を補修すると、また視界は闇に包まれた。
『日常生活は退屈、だから非日常に悦びを見出す。ソレは分かります。ですが死んでしまっては意味がない。それとも、退屈するくらいなら死を選ぶとでも言うのですか?』
「聞いてどーすんだよ、ンな事よぉ」
 背中から叩き付ちられた力で前のめりになるが、なんとか脚を前に出して麻緒は踏ん張る。
『……さぁ、どうするんでしょうねぇ』
「ハァ?」
 ソレはからかいや挑発といった類の物ではなく、ただただ戸惑い、そして困惑。
『……麻緒、私は今……どこで何をしてるんでしょうか……』
「さっきから――」
 まるで要領を得ない玲寺の言葉に、麻緒は顔を歪めて右手に力を込め、
「ッザってーんだよ! テメーはよ!」
 長い黒髪を振り乱して怒声を上げる。
 右の爪から大量の蒸気が立ち上り、周囲の温度を激的に上げて行った。続けて地面に敷いた二組の『次元葬』に両脚を入れ、対になった『次元葬』から足首だけを出す。ソレをドーム内の隅に飛ばし、そこからも蒸気を吹き上げ始めた。
『蒸し焼きにでも、するつもりですか?』
 覇気のない玲寺の声。嘲るでもなく、警戒するでもなく。
(気にいらねぇ……!)
 自分の知っていた篠岡玲寺という男は奴ではなかった。
 人の身でありながら二体もの式神を宿し、実の兄として尊敬する冬摩と対等以上に戦える存在。自分の力を過信せず、かといって自信や思い切りに欠ける訳でもなく、常に冷静沈着に戦況を見極めて、最良の選択を行う。
 だが、時として強引な力勝負に出る事もあった。理にかなわない行動を取る事もあった。
 そしてそんな幼い心を龍閃に付け入られた。
 しかしだからこそ、自分は玲寺をますます好きになった。自分や冬摩とは全くの対極に位置する人間なのかと思っていた玲寺が、実は延長線上にいたという事実が嬉しかった。
 ――仲間。
 そう。玲寺の言葉を借りるとすれば仲間意識だ。ソレがより深まった。
 だから何も考えずに素直に現れてくれれば良かったんだ。
 やぁどうも三年ぶりですねとか言いながら、普通に出てきてくれれば良かったんだ。
 そうすれば歓迎した。少なくとも自分は笑顔で迎え入れた。多分、久里子だって今更変に咎めるような事はしないはずだ。いや、むしろ自分なんかよりずっと喜んで受け入れるかも知れない。
 なのに――
「テメーが今やってんのはガキが拗ねてダダこねてるだけなんだよ! つまんねー事でウジウジウジウジしやがって! ややこしい事考えてねーで先に体動かせよ! 何か気に入らねー事あんなら――」
 荒ぶる麻緒の声に呼応して、黒いドーム内の水蒸気が沸点近くまで達する。麻緒は歯を剥きながら再び右拳を握り締め、
「ブッ潰しゃいいだろーがよ!」
 壁に拳大の穴を穿った。
 そして――周囲の空気が一変する。
 熱で限界まで膨張した大気は小さな逃げ場へと殺到し、奔流となって外に吐き出され始めた。激烈な吸引に体を持って行かれながらも、麻緒は爪に力を込め続ける。
「水鏡魎だかクソ詐欺師だか知ンねーけどよ! 下らねー野郎とツルんでンじゃねーよ! コソコソしてんの見るとムカツクんだよ!」
 外気の侵入を全く許さない程に麻緒は温度を上げ続け、閉じようとする壁に何度も拳を叩き付けた。
「そのくせ変な余裕かましやがって! まともに喧嘩も出来ねーくせにスカしてんじゃねーよ! ブッ殺すぞテメー!」
 玲寺が居るだろう場所を睨み付けながら叫び散らし、麻緒は拳を収める。
 もう、聞こえていないかも知れない。
 麻緒は閉じきったドームを確認して、気分悪そうに舌打ちした。そしてゆっくりと右の爪をかざす。
「玲寺兄ちゃん……」
 麻緒は小声で呟くように漏らし、
「ボクは、ボクのやりたい事してるだけだから」
 別のイメージを爪へと送り込んだ。
 直後、ドーム内に充満していた高温蒸気が一気に冷却され始める。気体で存在していた水は液体となり、その体積を急激に圧縮していった。だがこの密閉空間には外部から空気が入ってくる隙間はない。開いた隙間を満たす事は出来ない。
 何も無いの空間――すなわち擬似真空。
 そして真空空間では振動が発生しない。よって音は伝わらない。
(勝負……!)
 麻緒は右の爪を構え、最後の力を込めて地面を蹴った。
 玲寺の声は完全に封じた。だがこの場の異変には当然気付いているだろう。しかし玲寺はドームを解放しなかった。
 間違いなく、自分の裏を掻く策を用意してるんだろう。真っ正面から突っ込めば確実にソレを食らう。
 分かっている。そんな事は百も承知だ。だが取るべき行動はコレしかない。
 もう力が残っていないというのもある。小細工を仕掛けられるだけの気力も体力も無い。さっき出し尽くして空っぽ寸前だ。
 しかしそんな事よりも、最後は真っ直ぐ行かなければならないと確信してしまったのだ。
 理屈や理由がある訳ではなく、単なる直感に身を委ねただけだが。
 強いて言うなら血がそう知らせたのだ。
 コレで駄目ならしょうがない。自分は全力を出した。それで死ぬのなら満足だ。
 玲寺がさっき言った事は当たっている。退屈な日常にまた戻るくらいなら、戦いの中で死んだ方が遙かに――
「え……」
 手に伝わる柔らかい感触。腕を伝わり、肘までゆっくりと這っていく生温かい液体。
「玲寺……兄ちゃん……?」
 そして、ドームが解放された。
 直後、真空空間に空気が押し入り、冷たい夜気に麻緒の髪を巻き上げる。ソレに混じって潮の香りが漂って来た。
 朧な三日月の下、麻緒の手首までが玲寺の腹に埋まっていた。臓腑に爪を立てて出来た傷痕がさらに深く抉れ、赤黒い内容物を外に晒している。
「お……おやおや、コレは……参りましたね……」
 まるで他人事のように言いながら自分の腹を見下ろし、玲寺はこぽ、と口から濃い物を吐き出した。
「わ……たしとした事が……」
 地面に両膝を付き、玲寺は天を仰いで薄ら笑いを浮かべる。
「何でだよ……何やってんだよテメーは! フザけんじゃねーぞコラァ!」
 玲寺から手を引き抜き、麻緒は両目を大きく見開いて激昂した。支えを失い、地面に引かれて崩れ落ちていく玲寺の体。
「まぁ……ちょっと考え事を……して、いまして、ね……」
 震え、弱々しい口調で言いながら、玲寺は目だけをコチラに向けた。
「なに寝てんだよ! 立てオラ! こんなんで納得出来ると思ってんのかテメーは! もう一回やり直しだ! 台無しにしやがってコノボケが! いいトコだったのによ!」
 片膝を付き、玲寺の胸ぐらを掴み上げながら麻緒は凄む。
 考え事? 考え事だと!? フザけるな! 戦いの最中に! どーせクソ程の価値もない下らない事なんだ! 今考えるような事じゃねーんだ! なのに……! なのにこの野郎は……!
「……本当に、貴方は、冬摩……ソックリですね……。いや、冬摩より……遙かに凶暴だ……。私が、冬……摩に負けた時、彼はもっと……優し、くしてくれましたよ……?」
「知るかンなモン! 俺は俺のしたい事するっつったろーが! つべこべ言わずに立てよ! オラ立て! さっさと立て! 今すぐ立て! ブッ殺すぞテメー!」
「……まぁ、そうして……いただいても、一向に、構わないのですが……」
 麻緒の拳が玲寺の顔のすぐ横に打ち込まれた。
「マジで胸クソ悪いヤローだな! テメーはよ! 最後の最後までスカしやがって! 何で本気出さねーんだよ! 何でもっと手ぇ出さねぇんだよ! なんで『貴人』使わねーんだよ! こんな傷とっとと凍らせて血ぃ止めろ!」
「私にも……色々と事情……が、ありましてね。無い袖では……振れないんですよ……」
「もういい!」
 大きく舌打ちし、麻緒は立ち上がってそっぽを向いた。
 この勝負、まともにやれば負けていた。玲寺が最初から本気で来ていれば、もっと早くに決着が付いていた。なのに、まるで情けでも掛けているみたいに……。
 惨敗した方が余程スッキリする。龍閃の時のように、どう逆立ちしても敵わないのだと思い知らされた方がずっと良い。自分はまだまだ弱いのだと身に染みて理解できた方が、次の強さに繋がる。
(どうする……)
 殺すか。こんなクソ野郎は本当にブッ殺してしまうか。こんなにも不愉快で後味の悪い戦い方をしやがったクソ野郎にトドメをさすか。
(いや……)
 逆だ。
 コイツには責任を取ってもらわなければならない。この鬱憤の吐け口を見つけてもらわなければならない。
 再戦によって全力を出し合う戦いを提供するか、もっと別の強い奴を連れてくるか。どちらにしろコイツには義務がある。自分を納得させて満足させる義務が。それまでは殺さない。ココで殺してしまったら完全に一人負けだ。
(なら……)
 一旦、冬摩の部屋に戻るか。あの真田玖音という男の作戦が成功していれば、もう久里子を無事助け出しているはずだ。自分がしていたのはそのための時間稼ぎなのだから。 
 だが、こんな不完全燃焼の状態でまた小難しい話でも聞かされたりしたら……。特に久里子からは何を言われるか分かったもんじゃない。彼女が先頭に立って、自分をこの世界から遠ざけたのだから。
 説教でもされようものなら……最悪、久里子と本気の喧嘩をするハメに……。だが、
(女は駄目だ)
 女は殴れない。女に手を出してはいけない。
 朋華と出会う前の冬摩だって、どれだけ暴れでも女にだけは力を振るわなかった。だからどんなに我を忘れても、女に手を上げてはならない。
(となれば……)
 野宿しかない。ソレで少し休んで傷を癒そう。今は頭に血が上っていて何とも思わないが、改めて体を見下ろすとびっくりするくらい凄い事になっている。やはり左腕が無いと、何だがバランスが取りづらい。
 まぁ焦る事はない。まだ自分を愉しませてくれそうな奴が二人もいるんだ。
 ……下手するともう冬摩がどちらかを倒してしまっているかも知れないが。最悪、玖音がもう一人も……。
「あぁクソ!」
 麻緒はもう一度叫んで地面に拳をめり込ませた。
 とにかく、今晩は公園かドコかでゆっくり養生しよう。だんだん血が頭から下りて来た。そろそろヤバい。もしイライラが限界に来たら、適当に自然破壊でもして憂さ晴らしすればいいだろう。で、一日寝て落ち着いたら冬摩の部屋に戻る。コレで完璧だ。
 ……水鏡魎も陣迂もまだ元気で居てくれると良いのだが。
「麻緒……これから……どうするつもりですか……?」
 倉庫街を立ち去ろうとした麻緒の背中に、玲寺の声が掛かる。
「そんなの玲寺兄ちゃんには関係ないでしょ」
「……魎の目的は『死神』の……『復元』で、龍閃を……蘇らせる事……。そして……龍閃から、直接、冬摩の……左腕の秘……密を聞き出す事……。私は、彼にそう……言われました……」
 言葉を途中で何度も途切れさせながら、玲寺は苦しげな口調で言った。
「何ソレ、いきなり」
 体を半分だけ玲寺の方に向け、麻緒は訝しげに眉を寄せる。
「いや、何……貴方、の言うとおり、独り立ち……してみようかと思いましてね……」
「ソレと今言った事と何の関係があるの?」
「ええ……ですから、私は単に……自分のしたいと思った、事を……した、だけです」
 言い終えて、玲寺はどこか満足そうに微笑した。まるで何か吹っ切れたように。
「ふぅ、ん。ま、一応伝えとくよ。正直、ボクはそーゆーのどーでも良いんだけどさ」
「ええ……でしょうねぇ……。今が楽しければ、ですものね……」
 玲寺は全身の力を抜き、仰向けに寝ころんで三日月を見上げた。
「あの時は、紅月でした……。あの時も……こうして月を見て……色々と考えていました」
 そして穏やかな口調で呟く。
「じゃあ、ボク行くから。傷が治って本気でやってくれる気になったら、今日の事は水に流してあげるよ」
「ええ……またいつか。その時は、きっと観客を卒業していますよ……」
「観客……?」
「ハハ……コチラの、事です」
 聞き返す麻緒に、玲寺は誤魔化し笑いを浮かべて大きく深呼吸した。
 全く、最後の最後まで訳の分からない男だ。
 麻緒は玲寺に背中を向け、今度こそ倉庫街を後にする。
 重くなり始めた体と、くすぶり続ける戦いへの炎を抱いて。





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