貴方に捧げる死神の謳声 第三部 ―黄泉路からの慟哭―

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九『定められた敗北』


◆予知 ―水鏡魎―◆
 ウッドテーブルに片肘を付き、魎は長い足を組み替えて紙コップを口に運んだ。苦い汁が喉を通って行き、鼻から青臭い匂いが抜ける。
「マズ……!」
 一口飲んだ感想がソレだった。自然と顔に皺が寄ってくるのが分かる。
 興味があったので途中コンビニに寄って買ってきたのだが、そもそも人が口に入れる物ではない。玖音はコレを毎日、朝昼晩と愛飲しているらしいが正直信じられない。
 魎は口直しにと、肺一杯に空気を吸い込んだ。ヒノキ製のログハウスが内包した木の香りが、あのおぞましい緑色の汚物臭を洗い流してくれる。
(やれやれ……)
 二階の天窓から差し込む自然光を見上げながら、魎は一息ついた。そして顔を戻し、中二階に吊されたハンモックで眠っている玖音に目を向ける。
(やりすぎたかな……?)
 昨日の夜から眠り続けている玖音に心配そうな目を向けながら、魎は怠そうに後ろ頭を掻いた。
 玖音の動揺を誘い、一瞬の隙をついて放った黒鎖は彼の内臓を綺麗に避けて行ったはずだ。気絶するほどの激痛はあるが、取り合えず命に別状はないはず。陣迂から受けたダメージがまだ残っている事もあるが、玖音の回復力からしてそろそろ目を覚ましてもおかしくないはず……。
「く……」
「ほーらやっぱり」
 ハンモックから聞こえてきた呻き声に、魎は満足げな笑みを浮かべて頷いた。
「な……!? コレは……!?」
 そして予想通り声を上げる玖音に、魎はまた深く頷く。
「あー、心配するな。ちょっとキツ目の『烈結界』を両手両脚に施しているだけだ。じっとしていれば痛くも痒くもない」
「貴様……!」
 顔だけをコチラに向け、玖音は殺気に満ちた形相で睨み付けてきた。
「あー、そんなに恐い顔をするな。別にお前を喰おうという訳じゃないんだ」
「何のつもりだ」
「お前とお話がしたい」
「いつからお笑い志望になったんだ?」
「あー、私はいたって真面目なんだが」
「鏡は良く見た方がいい」
 ……やれやれ、寝起きだというのに頭の良く回る事だ。
「お前も私に聞きたい事が色々とあるだろう? まぁ、そーゆー事も含めてゆっくりお喋りしようというのだ。その間は別に、私の結界に抵抗して貰ってもいいし、何が狙いだとか、他の奴等はどうなっただとか、どうすれば脱出できるのかとか考えて貰っても構わない。私はお前が言いたくない事を無理矢理喋らせようとするつもりはないし、最初から無視して貰っても構わない。私は一人寂しく呟き続けるだけだ。……とはいえ、やはり相手をしてくれると非常に嬉しいのだが。上手くすれば貴重な情報を手に入れられるかも知れないしな」
 軽く肩をすくめて並べたコチラの言葉に、玖音は鋭く細めた険しい視線を向ける。
 きっとあの先では数多の思考が渦を巻いているのだろう。
 コチラが何を考えているのか、自分に何をさせるつもりなのか、何を喋らせたいのか。ココはドコなのか、どうすれば逃げ出せるのか。あれからどのくらい時間が経ったのか、冬摩は久里子を無事助けられただろうか、陣迂とはどうなっただろうか、玲寺と麻緒は? 朋華は? 夏那美は? 御代は? そして最も大切で愛おしい美柚梨は?
 玖音は頭がキレる。
 ひょっとするとすでに、さっき軽く思いついた疑問の半分くらいは解決しているのかも知れない。
 髭の伸び具合でおおよそ何日経ったかは分かるし、天窓に映った太陽の高さで大体の時間が分かる。ココに連れてこられたという事は冬摩がコチラの本拠点を探し当てたという事だし、そうなれば久里子の無事は確保できたんだろうと思い至る。
 現時点で冬摩が誰かに戦い負けるというのは考えにくいし、少なくとも久里子は冬摩の召鬼となって美柚梨達のそばに居るだろうから、麻緒さえちゃんと玲寺を引き付けてくれればひとまず安全だ。
 とまぁ、こんな具合で可能性を考えたり、確証を得たりしている真っ最中だろうな。
 更に言うなら『怒り』で『精神干渉』の範囲を広げているかも知れない。だがコチラの頭の中はどうしても覗けない。何故だ? 玖音はまたそこで考える。
 自分の『怒り』が足りていないのか、怨行術で防いでいるのか、それとも――繭森家が保持していた十二神将『大陰』を手に入れ、その能力『心無』で精神術を遮断しているのか。
 正解は一番最後なんだが、果たしてその結論にどうやって行き着くのか。実に楽しみだ。
 魎は紙コップの中身をもう一口すすって顔をしかめ、何気なく窓の外を見た。
 遠くの方にある林の近くまで、広大な人工芝が広がっている。ちょっとした競技場のような規模だ。そのすぐ横には澄み切った川が流れており、さっき確認したところ魚が沢山放流されていた。そして周りには半径一キロ以上に渡って似たような別荘は無い。このログハウスの主は相当の金持ちのようだ。
「あー、そろそろいいか? 玖音」
 魎は玖音の頭が整理できた頃を見計らって顔を戻し、声を掛けた。
「さーて、まずは何から話そうかなー。リクエストはあるか?」
 しかし玖音は答えない。相変わらず剣呑な視線でコチラを射抜いている。
 まぁ、そうだろうな。
「あー、じゃあ取り合えずお前にとって身近な話から行くか」
 魎は腰まである長い黒髪を両手で掻き上げながら脚を組み替え、
「お前の祖母、真田阿樹に渡した龍閃の死肉についてだが……」
 玖音を横目に見ながら試すような口調で言う。
 今少し、眉が動いた。
「アレはな、私からお前へのプレゼントなんだよ。まぁ試練と言っても良いがな。お前は私が六百年間も待ち望んだ男なんだよ。『月詠』に受け入れられた、な。だから試した。果たしてお前は、儀紅の生まれ変わりとなる資格があるのかどうかをな」
 また、玖音の眉が動く。
 その様子を楽しそうに見ながら魎は続けた。
「儀紅の事は知っているだろう。まぁさすがに実際に会った事はないだろうが。真田家初代当主。魔人にしか使えなかった怨行術を紐解き、人間でも扱えるよう弐の型以降を生み出した人物。そして『月詠』を生涯具現化させ続けた男。だが『月詠』への過剰な思い入れが、後の呪われた儀式を生み出した。『月詠』は儀紅に心を奪われてしまったばかりに、他の男に継承される事を嫌った。だから真田家は『月詠』を受け継いでいくために女系家族となった。生まれた男児を全員殺す事でな」
 魎は紙コップの中身をもう一口すする。嫌な苦味が舌の上で踊り始めた。
「儀紅……あの男は面白い奴だった。どうしてもう少し濃く紫蓬の血を受け継いでくれなかったのか……アイツが寿命で死んでからずっとその事ばかり考えていたよ。もっと長生きしてくれれば色んな話が出来たし、色んな騙し合いが出来た。私の考えている事を理解し、先読みし、付いて来ていたのはアイツだけだった。多分、邪魔しようと思えば出来たんだろうなぁ。だがアイツはそうしなかった。分かってながら黙って見ていた。ソコがまたアイツの面白い所だ。何を考えているのかよく分からないという所がな」
 過去を思い返すように目を細めながら、魎は細く息を吐く。

『アンタは龍閃と組んでいる。アンタは機会を見定めている。自分の力を最大限に発揮できる絶好の機会を待っている』

 かつて東海道沿いの宿場で儀紅と飲んだ時、アイツは確信に満ち満ちた声でそう言った。そしてソコまで分かっていながらどうして何もしないのかと聞いた時、アイツは一言、

『面白いからさ』

 そう言っただけだった。
 コチラの最終目的がまだ分からないから。出来ればソレを知りたいから何もしない、と。
 自分の最終目的。
 ソレは龍閃の肉を喰う事。最強と謳われた魔人の肉をじっくりと味わう事。
 いくら儀紅でも、まさか何百年も掛けた大作戦の終結がそんな所にあるとは思わなかっただろう。
「アイツはな、魔人の長い生涯の中で私が唯一認めた男だった。敵でもなく味方でもなく、常に付かず離れずで、会話の全てに裏表を持たせて、考えの一つ先を読み、二つ読み、三つ読み……。狸と狐の化かし合いが延々と続く訳だ。まぁ要するに、だな。私は純粋に楽しかったんだ。アイツと一緒に遊ぶのがな」
 微笑を浮かべて言いながら魎は言葉を切り、
「だが、居なくなってしまった。人の身ゆえに、時の理に逆らえず」
 寂しそうな口調で言った。
「だから私は待ち望んだ。儀紅の血を濃く受け継いだ人物がまた生を受けるのをな。頭がキレて度胸もあって馬鹿話が出来て、あと贅沢を言うなら酒に強くて。お前の誕生を心待ちにしていたのは、何も『月詠』だけじゃなかったという事さ。だが、お前が生まれる前の真田家の有様は本当に酷い物だった。土御門の正当血縁か何か知らないが、『月詠』を保持する事に固執しすぎて、自分達がどれほどの愚行を犯しているのか気付いてなかった。本当にコレが儀紅の子孫かと思うと悲しくなったよ。だから、なんだろうなぁ。元々思い入れが強かったせいもあってか、私は柄にもなく同情してしまった」
 鼻を鳴らし、おどけたように肩をすくめて見せて、魎はまた紙コップの中身を口に含む。苦味が若干軽くなったような気がした。
「私は真田の女に言ったのさ。女を生ませてやろうか、とな。正直、見ていられなくなったんだよ。『月詠』に拒絶されたとはいえ、僅かながらに儀紅の面影を残す男児が母親の手で殺されていくのをな。魔人なら生まれてくる子供の性別くらいコントロールできる。魔人に男が多いのは戦闘に特化させるためさ。で、その時に交わった女の一人が、お前の祖母、真田阿樹という訳だ。まぁ今となっちゃ皺くちゃのバーさんだが、昔はなかなかいい女だった。真田の女に不思議な力が宿り始めたのもそれからさ。ほら、自分の命と引き換えに相手の肉体精神を操るっていうアレだよ。お前の母親、茅花はその力を使ってお前の存在を外部に知らせた。茅花は私の娘に当たる女だからなぁ。多分、召鬼化の力が変な形で伝わったんだろ。私も女児を孕ませたのは初めての事だったんでね。あとは沙楡って女も居たか。他にも何人か居たと思うが忘れたよ。私に抱かれれば百発百中で女が出来ると、一時期は大モテだったなぁ、いやぁっはっはっはっは。まぁひょっとすると、阿樹辺りは私の正体に気付いていたのかも知れないが、特に何も言われなかったぁ。これも色男の特権というヤツかぁ」
 前髪を掻き上げて広い額を晒し、ぺしぺしと打ちながら魎は愉快そうに言う。
「で、その茅花がお前を生んだ」
 だがすぐに真剣な顔付きになると、体を玖音の方に向けて言葉を並べた。
 胸の前で腕を組み、足を組み替えて魎は目を細める。
「闇子……どうだ? 懐かしい響きだろう? 男児であるにもかかわらず『月詠』に受け入れられ、真田家の当主である阿樹の孫故に情けを掛けられ、殺されぬまま、しかし地下の座敷牢へと幽閉されてソコでの生活を強いられた。そして死ぬために生まれたと周りから疎まれ、妬まれ、罵られて生きてきた。普通なら、気が触れてしまってもおかしくない実に過酷な環境だ。だが私はソレは無いと確信していたよ。お前は『月詠』に受け入れられた。つまり、儀紅の血を濃く引いているんだからな。まぁ仮に発狂していれば所詮はそれまでだったという事。儀紅の生まれ変わりは諦めるつもりで居た。悲しい事だがな」
 片眉を上げて見せ、魎は改めて玖音の顔を見る。
 耳元で切り揃えられた黒髪、女性のように秀麗で整った目鼻顔立ち。
 やはり、どこか儀紅の面影がある。見ているだけで気持ちが高揚してくるような、不思議な魔力を秘めている。
「しかしお前は強く生き続けた。そして茅花の死を知らされると同時に覚醒し、岩代と有明の保持者を殺して『朱雀』と『六合』を奪い――逃げた。素晴らしい戦闘力と行動力だった。ずっと見させて貰ったよ。孫の晴れ舞台をな。その後もお前の事は観察していた。儀紅と似通った考え方をするお前を見ているのは、ソレだけで楽しかったよ。そう言えば篠岡玲寺を釣った時もお前の家の近くだったなぁ。あの時は見つかったかと思って焦っただろう?」
 くっく、と喉を鳴らして低く笑いながら、魎はまた紙コップの中身を口に流し込んだ。もう殆ど違和感は無くなっていた。
「いつ声を掛けようかずっと迷っていた。どうやって登場しようかとかな。ばったり出くわした時のお前の顔を想像するだけで楽しかった。まぁそんな事をしながらのんびりしているうちに、もう一つの観察体が急展開を迎えてね。龍閃を倒してしまったのさ」
「……荒神冬摩か」
 ようやく口を開いた玖音に、魎は満足げな笑みを浮かべて続ける。
「そう。私はこの二百年、ずっと冬摩を見てきた」
「アイツの左腕か」
 確信めいた玖音の言葉に、魎は嬉しそうに深く頷いた。
「そう、その通りだ玖音。冬摩の左腕にある力の作用点。そしてソレに対応する『精神苦痛』という力の発生点。なぜ冬摩には力の発生点が二つもある? なぜ左腕の力はあれ程までに強力なんだ? なぜその力は過剰に追いつめられなければ発動しない? 知りたい事が沢山あった。龍閃の肉などよりずっと興味が湧いた。だから私は頭脳を振り絞って色々と考えた訳だ」
 口の端をつり上げて魎は立ち上がり、顎の下に手を沿えて考えるポーズを取りながらログハウスの中を歩き始める。
「例えば、冬摩が二重人格だという仮説はどうだろうか。常に表に出ている主人格の持つ力の発生点が『肉体的苦痛』で、精神的に追いつめられた時に交代する副人格の持つ力の発生点が『精神的苦痛』。そして副人格の力の方が圧倒的に強い。ほら、なんとなく少年漫画とかで出てくるような燃える展開じゃないか。陳腐だがな」
 鼻を鳴らして自分の述べた意見を笑い飛ばし、魎はログハウスの出入り口付近で折り返した。
「だが三年前に龍閃を殺した時、冬摩は左と右、両方の力の作用点を使っていた。もし二重人格なら片方しか表には出てこられない。よってこの仮説は成り立たない」
 玖音の寝ているハンモックの真下で円を描くように歩きながら、魎は何か閃いたような仕草を大袈裟にして見せる。
「ならこういうのはどうだ。冬摩は左腕の力を使う事を心のどこかで拒絶している。過去にトラウマか何かを背負った事が原因でな。冬摩にソコまで思い込ませるとすれば、まず真っ先に考えられるのは未琴の事だ。だが別に冬摩は左腕で未琴を殺した訳じゃないし、龍閃を倒すためにも強い力は欲していたはず。だからやはりこの仮説も成り立たない。他にも魔人と人間の混血児であった事が原因かとも考えたが、牙燕の力の発生点は一つだった。だが龍閃の血を引いている事が、何か特別な要因になっているというのは十分に考えられる。そこで思い出したのが陣迂だ」
 そこまで言って魎は脚を止め、玖音の更に後ろに視線を向けた。
 ログハウスの二階。今ソコで陣迂も自分達の会話を聞いているはずだ。玖音と同じく身動きが取れず、そして言葉すら出せない状態で。
「アイツは冬摩と同じく、正真正銘龍閃の息子。紗羅の腹の中から潰れている胎児を取り出して私の召鬼とし、黄泉還らせた後に怨行術で安定化させた。元々は龍閃を殺すための戦力になればと思って密かに育てていたんだが、使った怨行術の弊害か成長が非常に遅くてね。完全に成人となったのが今から百年前、そして二つ目の力の発生点に気付いたのは二年前だ」
 冬摩の左腕の秘密を知るための実験対象としか見なくなって、ようやく気付いた。
 それまでは分かり易い物理的な発生点にしか目が行かず、陣迂も他の魔人同様一つしか力の発生点を保有していないのだと思い込んでいた。
「あー、玖音。お前は陣迂と実際に戦ったんだろう? どうだった? アイツの力の発生点、そして作用点。それぞれ二つずつあるとすれば何だと思う? 是非、意見を聞かせて欲しいところなんだが」
「当たれば何か景品でも貰えるのか?」
 挑発的な笑みを浮かべ、玖音は吐き捨てるように言った。
「景品、か……そうだな。青汁一年分ってのはどうだ? 無駄に買い込んでしまって扱いに困っていたところなんだ」
「お前と話していると頭が腐っていくようだ」
「そうか……残念だな。我ながら良い提案だと思ったんだが」
 ううむ、と呻りながら、魎はログハウスの隅に山積みとなった業務用のダンボールに目をやった。
「力の発生点は分からない。だが、作用点は恐らく『右腕』と『呼気』」
「ほぅ」
 玖音の答えに、魎は感嘆の声を上げた。
「素晴らしいっ。正解だ。たった一度の手合わせでソコまで見抜くとはな。ではサービスで残りの力も教えよう。もうあの馬鹿が自分から冬摩に種明かししてしまったからな」
 軽く手を叩きながら魎は上機嫌で言い、再び木の椅子に腰掛けて脚を組む。
「陣迂の力の発生点は『肉体的冷感』と『精神的冷感』。対応するのはそれぞれ『右腕』と『呼気』。『精神的冷感』というのは急に後ろに立たれて寒気がしたとかが当てはまる。何か心当たり、あるんじゃないか?」
 魎の言葉に玖音は黙ったまま視線を上げる。
 あの反応からすると身に覚え有りといったところだな。
「それから保持神鬼は『影狼』。能力は『凍刃』と『認識乱』。『認識乱』は分かるだろう? お前も苦労しただろうからな。それから『凍刃』はあらゆる物を超低温まで下げられる。用意された液体しか凍らせられない『玄武』の『司水』や、自ら水を生み出してソレを凍結する『貴人』の『創水晶』と違い、気体も凍り付かせる。まぁ範囲が広くなればなるほど硬度は落ちるがな」
「『影狼』……?」
「だろうなぁ。ソコは気になるよなぁ。コレはな、私が新しく創ったんだ。陣迂の力の発生点に合わせてな。材料となる魔人の核はどうやって調達したのかって? 簡単だよ。昔はそれこそ何百人という女を抱いてきたんだ。ソイツらが生んだ中で魔人の血を濃く引いた奴は極一握りだが、使役神鬼を一体創り上げるだけの核は何とか確保できた」
「仮にも、自分の子供を……」
「所詮仮でしかないさ。何か特別な思い入れでも無い以上、私にとっては百円ショップで売っているような安物の道具と何ら変わりない。道具は使われて初めて意味がある。私は利用できる物は何でも利用する。お互いにハッピーという訳だ、なぁ?」
「反吐が出る」
「利用するのが同種か異種かの差だけだ。お前だって動物を殺してソレを糧とするだろう?」
「僕は菜食主義者なんでね」
「ではニンジンさんやコボウさん、シラタキさんは噛み殺して胃に送り込む訳だ」
「生命維持に必要な活動と、お前の下衆な遊びを一緒にするな」
 忌々しそうに唾を吐き、玖音は嫌悪感も露わに言い捨てた。
 まぁこの辺りの価値観は、魔人と人間では歩み寄りようがない。生まれ育った環境に差が有りすぎる。そうする事が当たり前だと言われてきたからな。
 ……いや、そうでもないか。
 あの九重麻緒という少年なら、きっと自分と同じ考え方をする。深く分かり合えるはずだ。まぁだからこそ、次に戦う時はコチラが圧倒的に優位なんだが。
「とにかく、だ。陣迂にも力の発生点が二つあった。そうなると龍閃の血が原因だったという線がかなり濃厚だ。多分、龍閃自身も二つ、もしかするとそれ以上あったのかもな。例えばアイツが紅月時にのみ行える巨龍変化。アレは皮膚の細胞が『肉体的悦楽』を覚えて起こる現象なのかも知れないな。まぁ本人に聞かない限り、ハッキリした事は分からないが」
 そう、逆に言えば本人に聞けば分かる事なんだ。だから今は考える必要はない。
「なら陣迂の『精神的冷感』を力の源とした『呼気』は、冬摩の『精神的苦痛』を力の源とする『左腕』同様、凄まじい力を持っていたのか? 答えは残念ながらノーだ。もう一つの力の発生点と、本質的な部分は何ら変わらない。しかもほんの少しの『精神的冷感』であっても力は発動した。自らを極限まで追いつめるような凄まじい寒気は必要なかった。この二点がまだ冬摩とは異なっていた。では他に考えられる二人の違いは何だ? 母胎で成長出来なかった事か? なら紗羅に特別な血が? いやソレは有り得ない。紗羅は確かに巫女としての力は優れていたが、ソレ以上に秘めた物は無かった。では私の怨行術の副作用か何か? ソレもない。アレは細胞の成長を遅くするだけの単純な物だ。力の発生点に関与するとは到底考えられない。では何だ。後は何が残っているというんだ。私は考えた。冬摩をじっと観察しながらな。そんな時だ。お前が冬摩の使役神に狙いを付け、戦いを挑んでいったのは」
 両腕を派手に動かして芝居がかった様子で説明しながら、魎は一旦言葉を切って玖音の方を見た。
「自分の生きている意味を知るため、冬摩の使役神の記憶を読もうとした時の事だよ。まさか忘れた訳じゃないだろう?」
 玖音は何も返さない。ただ冷たい視線をじっとコチラに向けている。まぁいい。
「あの時、私はお前を試す事にしたんだ。まぁ一種の気分転換さ。行き詰まった時は、別の事をしてみるに限る。それに冬摩の左腕は逃げないが、お前が表立った動きを見せるのは、ひょっとすると最初で最後かも知れないからな。果たして本当に儀紅の生まれ変わりと称するに相応しいのかどうか、試練を与えて見極める事にした。ソレが龍閃の死肉だ」
 玖音の表情がより鮮明な怒りを帯びた物へと変わり、奥歯をきつく噛み締める音がかすかに聞こえてきた。
「阿樹はお前の死を望んでいた。お前を殺して、自分達が今までしてきた事を隠し通そうとした。真田家は女系家族なんだという一般の認識を守り通そうとした。私はその一部に荷担した訳だ」
 ある種の実験も踏まえて。
 龍閃の死肉を体に埋め込むと擬似的に召鬼の力を得る。しかし主はすでに居ないため、外的な束縛を受ける事はない。だが効果はそれ程長続きしない。二、三日もすれば召鬼としての力は薄れて来る。
 コレが少量の死肉しか用いなかった場合だ。
 もし大量に服用すれば、ソレに見合っただけの力が得られる。ただし、精神力が死肉からの侵蝕に耐えられればの話だが。
 龍閃が生きていた時、肉片はそれ自体が力の作用点となり、体に潜り込まれれば内側から壊された。ソレは二百年前、自分自身で体験した事だ。そしてあの時、体内にあった龍閃の肉は自分の精神をも蝕んでいった。
 龍閃が『悦び』の糧としていたものは、肉体的な苦痛よりも、どちらかというと精神的な苦痛だ。相手に絶望と恐怖を与え、体を内側から壊していく。そして例え肉片になったとしても、本体の力の源を貪欲に吸い取り続ける。その本質は死肉なったところで変わらない。勿論、生肉よりは劣るものの、常人であればあっという間に廃人と化す。
 ソレについての実験は何度も行った。
 だから今度は、少なくとも常人よりは精神力の勝る真田家の女達で試した。
 結果は予想通り、常人よりも遙かに多くの死肉を服用できた。その量は使役神の継承に無関係の女よりは、継承者候補の方が。継承者候補よりは、自分の血を宿した者の方が多くなっていった。
「儀紅が意図せずして生み出してしまった因縁をお前が振り払えるのなら、やはりお前は素晴らしい戦闘能力と精神力を持った男という事になる。そして実際、お前は見事乗り越えて見せた。他からの力を借りたので無ければより良かったのだがな。まぁとにかく、お前はソレによって多大なる幸せを得た。コレは私も予想できなかった事だが、お前が幸せそうな顔をしているのを見るのは悪い気分じゃない。一つを達成した事で二つもの実りを得たのは、さすが儀紅の生まれ変わりと言ったところか。私としても認めざるを得なかった」
「……自分で言っている事とやっている事に大きな隔たりがあるのを認識してない訳じゃないだろうな」
 握り込んだ両拳を震わせ、玖音は灼怒に顔を歪ませてコチラを睨み付けた。
「お前が美柚梨を巻き込んだのか! お前が……! 死肉など……!」
「あー、まぁ結果としてそうなった訳だが……阿樹は冬摩とお前をぶつけるために、何かしらの形で彼女を利用するつもりでいた。そこにたまたま龍閃の死肉があった。ただソレだけの事だ」
「ソレ、だけ……! だと……!」
「あー、『朱雀』の『空間跳躍』は『瞬足』の延長。実際に空間を転移できる訳ではなく、高速移動の軌跡を無かった事にするだけだから、その『烈結界』を解かない限り動けないぞ?」
 『朱雀』の力は完全に封じた。『月詠』の力も自分には意味がない。『六合』に攻撃力は無い。今の玖音は、大人しく話相手になっているしかないという訳だ。
「お前はあの時もそんな顔をしていたなぁ、玖音。高架下で冬摩と戦った時だよ。妹を巻き込んでしまった自分を責め、ソレを怒りに変えて冬摩を良いところまで追いつめた。特に『月詠』の具現体を使った直接的な『精神干渉』は良かったぞ。まさに命を削った一撃だった。まぁ残念ながら冬摩の機転で吸い出されてしまったがなぁ。だが――」
 言いながら魎はまた立ち上がり、ハンモックの真下に入って見上げる。視線だけで射殺さんばかりに、玖音は壮絶な憎悪をぶつけてきた。いつも冷静な玖音があっと言う間に別人に早変わりだ。美柚梨への想いは相当な物のようだな。
「私にとっては最高の刺激になった。閃きというのは、きっとああいうのを言うんだろうな」
「ハッ! ああそうかい! ソレでまた下らないちょっかいを思いついた訳だ!」
「そう。まさにその通りだよ、玖音。私の中で確証めいた一つの仮説が成り立った。もしコレが本当なら、私はとんでもない力を手に入れる事になる。あの時は年甲斐もなく昂奮してしまったよ。謎が明かとなっただけではなく、未知なる領域に踏み出すキッカケが見つかったんだからな」
「その仮説とやらが正しければの話だろ!」
「そう、ソレもまさにその通り。そしてどうやら私の仮説は正しという事がほぼ証明された。昨日の冬摩と陣迂の戦いのおかげでな」
 計画の第一段階はもう殆ど完了したと言っていい。九重麻緒はもはや敵ではないし、玖音はこうして無事捕らえられた。嶋比良久里子は今やあの大所帯。戦力には到底ならない。第二段階が終了した時点で彼女と芹沢美柚梨の召鬼化は解くが、特に問題は無いだろう。
 そしてこの計画の行うに当たっての根幹となっていた第四段階はアッサリと終了してしまった。自分の仮説が限りなく真である事を示して。これでもう無理に仁科朋華を連れ去る必要はない。
 あとは、飼っている保持者共を使って第二段階を終わらせる事と、その時に冬摩を挑発して第三段階を同時に終えてしまえば、計画は完遂したも同然だ。
 孵化寸前のアレが手に入れば、未知の力、そして知識を――
「気に入らない。そんな顔してるぞ、玖音。不満がありありと表れている。龍閃が見たら悦びそうだ」
 楽しそうに言いながら魎はログハウスの隅に歩み寄り、山積みにされているダンボールの中から紙パック容器を一つ取り出した。そしてストローを差し、そのまま一気に飲み干す。
「なかなか美味い。お前とお喋りしながら飲むのであれば続けられそうだ」
「青汁は今日限りで止めだ。お前と同じ物なんか飲みたくないからな」
「あー、それは残念。そして寂しい発言だ」
 ふぅ、と溜息をついて紙パックをダンボールに戻し、魎は腕組みして壁にもたれ掛かった。 
「あー、心配するな。もう、お前の大切な女には手出ししない。約束してやる。ただし、お前がココで大人しくしていれば、の話だがな」
 玖音が動けないなら人質などは要らないし、美柚梨の代わりに久里子という別の指標が手に入ったからな。
「とても信じる気にはなれないな」
「ソレで良い。私が本当は何を考えているのか、お前にはじっくりと考えて貰いたいからな。最初から信じられては面白くない。付かず離れず、馴れ合わず、かといって真っ正面からはいがみ合わず、皮肉とユーモアを交えた関係。ソレが理想的だ」
「素面で語る夢物語ほど滑稽な物はない」
「人の心は思いもよらない事がキッカケで変わるものさ」
「明らかに例外の話だな」
「例外のない決まり事はない」
 コチラの言葉に玖音は舌打ちして顔を逸らす。
 どうやら言い負かしてしまったようだ。変に機嫌を損ねなければいいのだが。
「あー、何だが私の方から一方的に喋ってしまったようだが、お前の方から聞きたい事は無いか? 答えられる範囲で答えてやろう」
「最終目的は何だ」
「随分と直球だな。お前らしくもない」
「じゃあ聞き方を変えてやる。『死神』を使って何を企んでいる」
「ほぅ……」
 玖音の言葉に、魎は面白そうに目を細めた。
 まぁ、こうして相手のカマ掛けに引っかかったフリをしてやるのも一興というものだ。久里子を助け出した時のように、コチラの予想を超えた読みを期待していたんだが……。
「なぜ『死神』だと?」
 魎はまたゆっくりと玖音の真下に向かい、面白がるような口調で聞き返す。
「直感だと言ったら信じるか?」
「勿論。直感とは過去の演繹に基づいて導き出された論理体型。当て勘とは似て非なる物。お前ほどの切れ者が言う直感なら、弁護士の下らない屁理屈なんかより余程信じる価値がある」
「ああそうかい。過分なお褒めの言葉、光栄の極みだね。なら、直感ついでに聞かせて貰うが――」
 ソコまで言って玖音は不敵に笑い、
「荒神冬摩に使う龍閃の死肉の量の目処は立ったのか?」
 ――ッ。
 不覚にも、今表情に出てしまったかも知れない。
「早い段階からお前の最終目的は荒神冬摩一人だという事は分かってたんだ。だから龍閃の死肉もひょっとしたらと思ってたんだが……どうやら的中したようだな」
「あー、そうだな。正直、敢闘賞くらいは送りたいところだ」
「僕に試練を与えるために龍閃の死肉を祖母に渡した? またお得意の回りくどい戦術か? 馬鹿馬鹿しい。ま、嘘じゃなかったとしても、最低もう一つは目的があったんだろうな。例えば、龍閃の死肉の有効量を知るため、あるいは召鬼化以外に隠された効果が無いかを調べるため。とっくに一般人には試したんだろうな。真田家はソレより沢山の死肉を服用できる事を確認した。で、今回は草壁の三分家の保持者でも同じ事を試して、より精神力の高い者の方が効果的に使える事が分かった。更に言うなら彼らはまだ生かされていて、別の効果を見出す為に使われてるってところか」
 鋭い。さすがだ。さすが儀紅の生まれ変わり。こうでなければ面白くない。
「なるほど。興味深いな。続けてくれ」
「お前は最初、三人のうち宗崎だけを連れ去った。一人だけを使ってゆっくりと龍閃の死肉を試すためにな。三人を一度にさらってしまえば、その事が発覚した時点でアウト。当然異常事態だと見なされるが、一人ならそういう事もあるかで済まされる。自分の期待に沿わない効果が得られた場合は、保持者を返して宣戦布告を見送ればいい。だが、結果は思った通りだった。お前の思った通り、宗崎家の保持者は質の良い“龍閃の死肉の培地”となってくれた訳だ」
「なかなか過激な発想だ」
 ヒューゥと口笛を吹き、魎は何も言わずに玖音の言葉に耳を傾ける。
「真田の女の殆どに行き渡るくらいの死肉を祖母に渡して、何十人もの一般人に使って冬摩にけしかけて、その上で当然まだ隠し持っている。それだけの量の肉を腐らせる事なく持ち続けているなんて、普通に考えれば出来るはずないんだよ。どこかから補充でもしない限りはな。まぁ一般人でも培地にはなったんだろうな。死肉を維持する事は出来た。しかし向上は出来なかった。望んだ質の物は出来なかった。だがさすがは保持者。期待通りの働きをしてくれた。ソレが分かったから残りの二人、繭森と白原を連れ去った。そこでお前は当然考えるわけだ。保持者ではなく、覚醒者ならもっと質の良い肉が出来るだろうとな。精神を突き崩すには大量の肉が必要になるかも知れないが、さらった保持者の肉を使えば出来ない事はないだろうと。嶋比良久里子と九重麻緒、それから僕に手を出してきたのは荒神冬摩を孤立させるだけじゃなく、そういう意味合いもあったんだろう?」
 素晴らしい。ココまでで九割以上は正解だ。
 まぁ細かい所を指摘するのであれば、龍閃の死肉はそう簡単には腐らない。
 死してなお、アイツの生命力は凄まじい物がある。だが、確かに少しずつは劣化する。そして効力も落ちる。
 しかしそんなのは些細な事だ。一番の問題点は、死肉その物といった露骨な状態では使い物にならないという事。冬摩に警戒心を持たせないようにするためにはもっと工夫する必要があった。だから“培地”の状態にする必要があった。
 あと、覚醒者の培地化はいわば保険だったんだが、途中からその必要も無い事が分かった。あそこで『分身』を使えたのは大きかった。まぁ正直、嶋比良久里子でも色々と実験はしてみたかったのだが、今更言っても仕方がない。アレは完全に自分のミス、そして玖音の功績だ。
 それから玖音をこんな下世話な実験に付き合わせるつもりはハナから無い。この男とはこうしてお喋りをして、色んな駆け引きを楽しんで、自分の計画にアラがないかを確認していかなければならないからな。玖音に気付かれていなければ、他の奴らが知りうるはずもないという事だ。
 それに、九重麻緒、嶋比良久里子、そして玖音、この三人に手を出した大きな理由はもっと他にある。
「宗崎と残りの二人をさらう時期に間を空ける事で、お前は分かり易い形で宣戦布告を仕掛けた。コチラにわざと警戒させ、足止めを行った。更に狙いは保持者なのだと思い込ませ、その使役神を奪い取る事が目的なんだと考えさせる事で、死肉の本当の効果からは目を逸らさせた。せいぜい持ち駒を増やすためだろうくらいの印象しか与えなかった」
 大正解。
 冬摩はソレに見事に嵌ってくれた。
「お前は自分が望んだ龍閃の死肉を手に入れるために、三人の保持者は殺さないでおく事にした。だが彼らが持っている使役神は奪い取りたい。いずれ冬摩と戦うための力を手に入れたい。質の良い龍閃の死肉と使役神の力、お前はどちらも手に入れたかった」
「まぁあまり欲をかくと痛い目を見るがな」
「もし二百年も前からお前が冬摩を見続けていたとしたら、こういう状況をある段階で十分想定できたはずだ。遅くとも、三年前に荒神冬摩が龍閃を倒した時にはな。理屈では無理だったとしても、『虹孔雀』の『超知覚』でなら出来なくもない」
 魎は壁から体を離し、後ろを向いて窓の外に向けた。
「ずっと疑問だった事がある。二百年前、お前はどうして『分身』を置き去りにして、『本体』だけを逃がそうと考えたのか。明らかに劣勢だったあの状況下で。龍閃を何とかしなければ自分の命が危うい中で。だが、もしお前が冬摩の勝利を『予知』していたのなら話は別だ」
 玖音の言葉に魎は鼻を鳴らし、静かに目を閉じる。
「『超知覚』の力を『予知』にまで高めていたのなら、お前が逃げ出したのも頷ける。死んだと思い込ませておけば、後々動きやすいからな」
「あー、せめて戦術的撤退と言って欲しいな」
 茶化すような口調で言いながら、魎は青汁の紙パックをもう一つ取ってウッドテーブルの方に戻った。
 この男の考える事はやはり普通ではない。頭の中で完璧に情報を整理しきり、なおかつ並はずれた洞察力と、曖昧な推理を確信に変えられる自信を持っていなければココまではたどり着けない。単なる理詰めだけではこうはいかない。
「あの時は気が動転していたからなー。私だって命は惜しい。まだまだやりたい事が沢山あるからな」
「何千年も生きているのに図々しい奴だ」
「少年の心をいつまでも持ち続けていると言って欲しいな」
 軽い調子で言いながら、魎はウッドテーブルに両脚を乗せて椅子に腰掛けた。
 玖音の推測通り、自分は『超知覚』の力を更に引き出して『予知』にまで高める事が出来た。その力で冬摩の勝利はあらかじめ分かっていた。
 二百年前も、そして三年前も。
 だが決して万能という訳ではない。何かしら『共感』を覚えなければ『予知』は使えない。そして知りたい事象が込み入った物になればなるほど、先取りできる時間は短くなる。
 例えば、嶋比良久里子を連れ去った時から予備の携帯電話を“何らかの形で使うんだろう”という事までは分かっていた。しかし具体的にいつどこでどのように使うのかまでは分からなかった。勿論、『共感』出来る点が極めて少なかったというのも原因としてあるのだが。
 その点、龍閃や冬摩には大いに『共感』できる。冬摩に至っては我が子のような存在だから、ちょっとやそっとでブレる事はない。例え価値観は違っていても、彼がそう考えるようになっていった経緯を全て見てきたから、何を考えているのかは心を直接覗いているように分かる。
 とはいえ、何年も先まで読める訳ではない。長くて一ヶ月。それも《傷を負う》とか、《落ち込む》とかの極めて曖昧なレベルだ。そして短ければせいぜい数秒先しか読めない。
 後はソレを手掛かりに自分で予測する。どれだけ先まで読めるかは腕の見せ所だ。玖音は数年先まで『予知』できると勘違いしているようだが。
 最初に分かったのは《『死神』が継承される》という事だけだった。まぁ『死神』は龍閃が自分の肉欲のためだけに創った使役神だから、あの種の『共感』が出来たんだろう。
 『死神』が誰かに継承されれば土御門財閥は当然その保持者を確保しようとする。そして保持者は冬摩と接触する。保持者は龍閃が『死神』に込めた力によって、未琴そっくりと外見と気質を持つようになる。冬摩はその影響によって心を動かされ、いずれは保持者を守ろうとするようになるだろう。龍閃は『死神』を欲していたから、必ず表に出て保持者を奪おうとする。
 そして冬摩は危機に晒された保持者を見て絶大な『精神的苦痛』を覚え、二百年前同様その力で龍閃を殺す。
 ここまでは八割以上の確信を持って推測できる。
 だからその後、自分が冬摩に対してどう動いていけばいいのかを考える時間はたっぷりあった。そして玖音の推察通り、こういう状況は十分すぎるほど想定できた。
 だから玲寺に取り引きを持ち掛けた。
 もし冬摩に負けたら、お前の体で『実験』させてくれと。
 龍閃が殺される以上、玲寺が冬摩に敗れるのは明白だったから。
 そしてその『実験』というのが――
「お前は相手を殺さずに使役神だけを取り出す方法を思いついたんだ」
 使役神を継承する三番目の方法。
 第一子に受け継がせるでもなく、殺して奪い取るでもなく。
 別に何か裏付けが取れていた訳ではなかった。精神的な繋がりを介せば、“そういう事が出来るかも知れない”と閃いただけだ。
(ま、アレも一種の『予知』だったのかもな)
 青汁を美味しそうに飲みながら、魎は意味ありげな笑いを漏らした。
「最初に篠岡玲寺と戦った時からおかしいと思っていたんだ。なぜコチラの『朱雀』に対して最も効果的な『貴人』を使ってこないのか。どうして『精神干渉』でお前の心が読めないのか。これだけの『怒り』をぶつけているにも関わらず。『貴人』も『大陰』も、すでにお前が保持しているんだな。『勾陣』と『天后』も。その辺りの手法が完全に確立できた事と、龍閃の死肉に対する新しい知見を見出せたから、お前は表に出て来る気になったんだ」
「ご明察」
 怒気を孕んだ玖音の言葉に、魎は拍手を送りながら返す。
 もうすでに、自分が保持している使役神は久里子の『千里眼』で見抜かれている。だから種明かしをしても別に問題ないだろう。
 それにコレは自分への戒めだ。嶋比良久里子の抵抗力を見誤った愚かしい失態への。
「つまり、お前は『死神』“だけ”を荒神冬摩から奪い取りたいんだ。『獄閻』に仕掛けた『閻縛封呪環』を『死神』から目を逸らせるための囮としてな」
 うーむ、ソコは五十点だな。
「あー、それで私は『死神』を使って何をするんだと思う?」
「龍閃を黄泉還らせる」
「ほぉぅ」
 即答した玖音に、魎は感嘆の声を漏らす。
「そのための龍閃の死肉だ。その質を高めてより完全な状態での復活をするつもりなんだろう。そして荒神冬摩の左腕の事を聞き出す」
 なかなか興味深い意見だ。
「あー、『復元』で黄泉還った龍閃は私の召鬼だから、聞き出すのは容易という訳か」
「断言してやる。お前の作戦は絶対に上手く行かない」
「その根拠は?」
「直感さ」
 皮肉るような口調でいう玖音。
 ココでその言葉を使ってきたか……。
「あー、よし。じゃあ賭けをしよう。もし私の作戦が失敗したら……あー、そうだな。お前の言う事を一つだけ何でも聞いてやろう」
「賭け事に興味はない」
「……連れない奴だなぁ」
 冷たく言った玖音に、魎は大袈裟に溜息を付いて肩を落とした。
(まぁいい)
 断言はしたものの自分の発言に自信が持ちきれないんだろう。コチラの考えているだろう事をわざわざ口に出して説明したのが何よりの証拠。確信があるのなら黙っていればいい。しかしソレが無いから、会話の中でコチラの反応を見ながらどこまでが正しいのかを見極めようとしている。
 玖音はまだまだ読み切れてはいない。最終目的に関してもそうだが、龍閃の死肉についても。
 召鬼化や寄生者の肉の変質以外に“何か”はあるとは分かっていても、ソレが何なのかまでは考えが及んでいない。
 まだまだこれからだ。これからは二人でゆっくり会話できる。色々と用意している楽しいイベントでも見ながら、玖音にはじっくり考えて悩んで貰いたい。
 アレを孵化寸前まで持っていくにはまだ時間がある。それまで少し遊んでみるのも一興か。

 ――《冬摩は負ける》

 そう。コレはもう確実だ。確実に『予知』した。
 どんな形かまでは分からないが、冬摩は必ず敗北する。
 そしてその敗北によって、龍閃の置きみやげは自分の物となる。
 ――残念な事だが。
(結果が分かってしまうというのは、案外退屈なものだ……)
 どこか遠い目をしながら、魎はまた新しい青汁を取りに席を立った。

◆夜更けと共に ―仁科朋華―◆
 結局、冬摩は土御門の館に帰って来なかった。
 ずっと悲しい気持ちを抱いたまま、当てもなく彷徨い続けている。
 何を思ってそんな事をしているのかは分からない。しかし、まるで何かに助けを求めているような、苦しみの中でただひたすらもがいているような、そんなやり切れない想いだけが伝わってくる。
 昨日の夜から、ずっと……。

『玲寺さんといっしょやな』

 大広間で冬摩の帰りを待ち続けていた朋華に、久里子は深夜までずっと話し相手になってくれた。自分だって辛いはずなのに。もの凄く疲れているはずなのに。それでもずっと明るい表情で笑いかけてくれた。

『ホンマ久しぶりにおーたのに、まともな会話なーんも出来へんかったわ。けどまぁ、水鏡魎の操り人形になってるーゆー感じやなかったから、ソコは素直に安心したけどなー』

 久里子が魎の召鬼となり建設途中のビルに軟禁されていた時、逃げ出す方法を思案しながらもずっと玲寺の事を考えていた。どうしてこんな事をしているのか。何故こんな形で自分達の前に現れたのか。
 口では取り引きだ約束だと言っていたが、ソレが単なる建前である事は久里子にはすぐに分かった。だから余計辛かった。自分にそう言い聞かせて、必死に何かから目を逸らそうとしている玲寺が痛々しくて見ていられなかった。
 きっと久里子には、玲寺が苦悩する声がずっと聞こえていたのだろう。

『まー、あのアホは玲寺さんと違ーて、何か深い考えある訳ちゃう思うから、気ぃ晴れたらすぐ帰ってくる思うで。トモちゃん一筋やしなー』

 カラカラと陽気に笑いながら言ってくれる久里子の気遣いが心苦しくて、朋華はぎこちなく笑って返す事しかできなかった。
 辛いのは自分だけじゃないという事は分かっていても、なかなか気持ちを強く持てない。
 久里子は今、麻緒が起こした器物損壊事件の対応に追われている。まだ昨日の今日だというのに、精神的にも肉体的にもタフな人だ。
 夏那美はまだ部屋から出てこない。昨日は一度堰を切ってしまった感情を抑える事が出来ず、泣き疲れてそのまま眠ってしまった。きっとまだベッドの中に籠もっているのだろう。
 そして御代もまだ目が覚めない。久里子が言うにはやはり魎に何かをされていたらしいのだが、ソレが何なのかまでは分からなかった。結局、霊符での応急措置を施して様子を見るしかない。多分、玖音が戻って来れば何かは分かると思うのだが。今のところ他に異常が見られないのが唯一の救いだ。
 そして美柚梨は――
「きゃあっッホオオぉぉぉォィッ!」
 背後を凄まじい奇声と突風が駆け抜けていく。
「イイイィィィィィイイイイイェッフーーー!」
 白い風の塊は、朋華が今居る大広間を縦横無尽に暴れ回った。シャンデリアを大きく揺らし、テーブルクロスを巻き上げ、銀の燭台に灯された炎を片っ端から消し去って、それでも飽きたらずに窓ガラスを激しく振動させる。
「いいね白ちゃん! そんじゃまココでギャワッ! と空中三回転半!」
 風は美柚梨の命令通り大広間の真ん中で三回転半すると、天井に爪を食い込ませて着天した。一呼吸遅れて暴風はようやく収まり、純白の獣毛に包まれた巨大な虎が姿を現す。
「っとわーーー! 落ちるっつの! テメー! ブッ飛ばすぞー!」
 美柚梨は両脚をバタつかせてその巨体にブラ下がりながら、理不尽な不満を『白虎』にぶつけた。『白虎』は不思議そうに小首を傾げながら喉を低く鳴らすと、天井を蹴る。
「ぃぃッッぃぃぃいいいいいはぁぁぁぁぁぁぁ!」
 そして絶叫を上げる美柚梨をよそに空中で半回転すると、彼女をしっかりと背負い直して大理石の床に降り立った。
「っあーーー……。死ぬかと思ったぜーーー……」
 『白虎』の背中でゲッソリ、と全身を脱力させ、美柚梨は半眼になって虚空を見つめる。
「くそぅ、オラちっともワクワクしねぇぞ……」
 独り言のようにブツブツと言いながら美柚梨は『白虎』の背中から下り、「あー、よっこらしょ」と疲れた声で言って自分の隣りに腰掛けた。
「ほ、ホント元気ですね……美柚梨さん……」
 朝、この大広間に入って来た時からずっとこの調子だ。そんな美柚梨を恐る恐る見ながら、朋華は両手で持ったマグカップを口元に寄せる。
「自分、不器用ですから……」
 渋い顔と低い声になり、美柚梨は芝居がかった様子で言った。
 と、後ろの方で鈴の音がする。
「やーん、にゃーちゃーん!」
 次の瞬間、美柚梨が椅子を蹴って大きく舞った。そして宙で華麗な伸身ムーンサルトを披露すると、紅髪の円弧を描きながら鈴の音の方に近寄っていく。
「ゲエェェェェェッッとぉ!」
 逆立ちの状態で銀毛の猫を掴み取った美柚梨は、両脚を勢いよく振って体を起こした。
「ふわふわ〜」
 『天冥』の体に頬をすり寄せながら甲高い声を発し、美柚梨は三股に分かれた尻尾を優しく撫でる。『天冥』は彼女に身を任せ、気持ちよさそうな声で喉を震わせて、
「おっし、今日は柔軟剤使おうぜ!」
 フギャー! と獣声を上げながら暴れ出した。昨日、美柚梨が付けてあげた首の鈴が、狂ったような音色を奏で始める。
「ッハハー。じょーだんだよーテンテン君。今のは君がワシの言葉を理解しているかのテスト。そして君は無事合格した。実に優秀な猫じゃないか。なぁ?」
 誰に問うでもなく上機嫌で言い、美柚梨は鷹揚に笑いながら『天冥』の顎下をくすぐった。が、『天冥』は縦に開いた碧色の瞳孔を険しい色に染め、警戒心も露わに美柚梨を睨み付けている。
「ほらほら、そんな顔しないで。ねっ。仲直りの握手ー」
 猫なで声で言いながら美柚梨は『天冥』を胸で抱き、開いた右手で『天冥 』の前脚を掴んで、
「おおー、肉キュー。気持ちいいー。美味しそ〜」
 フンギャー! と高い叫声を上げて『天冥』は美柚梨の胸から脱出した。そして窓を割って大広間から出ていってしまう。
「あーあ、嫌われちゃったー……」
 大袈裟に肩を落として溜息を付き、美柚梨は自分で「とぼとぼ」と言いながら席に戻った。
「あの、なんでそんなにハイパーなんですか?」
 そして朋華は極めて自然にその言葉を口にする。
「そうだねぇ……。そこに山があるから――崩したくなる。強い奴がいるから――ハメ技使いたくなる。つまりはまぁ、そういう事さ……朋華チン」
 背中まである長い紅髪をキザっぽく掻き上げ、美柚梨は遠い目で虚空を見つめながら呟いた。
 何というか、不適切な表現かも知れないが、さっきまで真剣に落ち込んでいた自分が酷く哀れに思えてきた。自己憐憫とかそういうレベルではなく、赤信号、みんなで壊せば俺ルール、みたいな……。
「あー、一通りはしゃいだらお腹すいちゃったー。そろそろお昼だよねー。実は昨日リクエストしといたんだー。ちゃんと出てくるかなー、楽しみー」
 椅子の背もたれに体を預け、大きく伸びをする美柚梨を横目に見ながら、朋華はあまりの逞しさにただ息を吐くしか出来なかった。そんな気配に気付いたのか、美柚梨は顔をコチラに向け、
「どうしてそんなに脳天気で居られるんだろう、真田さんの事、心配じゃないのかな。君は多分、今そんな事を考えていたんだろうな」
 シニカルな笑みを浮かべて静かな口調で言った。
「どうどう? 今の。兄貴に似てた?」
「え? あ、はい……」
 聞かれて朋華は素直に頷く。確かに似ていた。顔付きも仕草もソックリだった。
「で、当たってたっしょ? 朋華チンの考えてた事」
「あ、はぁ……でも私、さっき自分で半分くらい言いましたし……」
「アーッ、しまつた! さういやそうだった!」
 額をぺしぺしっと平手で叩きながら、美柚梨は顔をしかめた。
「んーまー、アタシの方も昨日言ったけどさー。すんごく心配だよ。兄貴の事。心配して心配して、心配が溜まりきったところで兄貴が帰ってきてくれれば、あっと言う間に幸せになっちゃうけど……帰ってこない時は、やっぱ辛いんだよねー。昨日、何回も携帯に掛けようって思ったけど、やっぱし出来なかった。もし今掛けたら凄く邪魔になるんじゃないかとかさ、もし何回掛けても出なかったら……とかさ、色々考えちゃって結局ねー」
 ハハハ、と乾いた笑みを漏らしながら、美柚梨は両肘をテーブルの上に付いて顎を乗せる。七分丈のキュロットパンツに付けられたキーホルダーが、どこかもの悲しい音を立てた。
「他にもさー、きっと母さんと父さんは心配してるんだろーなー、とか、クー坊の奴またどっか逃げ出してないかなー、とかさー。クラスのみんな今頃何してるかなー、アタシ一人くらい居なくったって別にいつもと変わらないんだろーなー、とか。兄貴ホントに大丈夫なのかなとか、今日は絶対に帰ってきてくれるよねとか、普通に笑ってくれるよねとか、また頭なでなでしてくれるよねとか、もぅ……会えないとかそんなの有り得ないよね……とか……」
 言いながらどんどん声を沈ませて行き、美柚梨は何か痛みでも堪えるかのように渋面になる。そして「どっはぁ〜!」と盛大に息を吐き、 ファー付きの黒いウールジャケットを勢い良く翻してコチラを見た。
「っとまぁーこんな感じでさー。アタシ、こー見えて実はケッコー後ろ向きな性格してるのねー。心配して心配して、色んな事いーっぱい心配しまくって、そんでモリモリ暗くなって行っちゃうの。でもね、もう決めてるんだ。心配はするけど、心配そうにはしないって」
 強い意志の込められた純粋な瞳。
 そこには一点の曇りも無く、自分の行動に絶対の自信をもって真っ直ぐに前を見つめている。とても後ろ向きなどとは思えない。
「心配な時に心配そうにするのは簡単なのよ。でもさ、アタシが兄貴の事、心配そうに見てたらまーたあの完璧お兄様は一人で背負おうとするに決まってんのよ。だからアタシは心配はしても心配そうにはしない。絶対にね」
 言い終えて美柚梨はまた表情を崩し、人なつっこい笑みを浮かべて続けた。
「まー、なんての? アタシが兄貴に楽させてあげられる事ってったらコレくらいじゃん? いつもいつもお世話になりっぱなしじゃ悪いから……今回だって、アタシが気を付けてれば何とかなったかも知れないのにさ……まーたドデカイ借り作っちゃった。ホント、いつになったら恩返しさせてくれるのかしらねー、あの完璧超人はー」
 やれやれ、と肩をすくめて見せながら、美柚梨は小さく苦笑する。
 心配はしても心配そうにはしない。玖音のために。玖音の負担とならないために。
 美柚梨は本当に玖音の事が好きなんだ。玖音の事が大好きだから、こんなにも気を強く持っていられる。まだ高校生なのに……。
 自分が美柚梨と同じくらいの頃は、ただ周りに振り回されてばかりだった。
 周りから言われる事に怯えて、周りの視線ばかり気にして、自分という物を全くと言って良いほど持っていなかった。なのに美柚梨は……。
 やはり好きな人がそばに居ると、どこまでも強くなれるものなのだろうか。自分が、冬摩の事を気にし始めてから変わって行ったように。
「なーんちてねー。そんなご立派な大義めーぶんカマしてるけどさーぁー。けーっきょくのトコ誤魔化してるだけなのよ。バカ騒ぎして心配してないフリでもしてないと、身が持たないんだなーコレが、あははー」
 長い髪を胸の前に持ってきてイジリながら、美柚梨は少しわざとらしく笑った。
「やっぱ同じ人生過ごすんならブラック・ビターよりストロベリー・キッスでしょー。朋華チンはもーどのくらいした?」
「はへ……?」
 唐突すぎる質問に朋華は間の抜けた声を返す。
「キッスよキッス。口付け。接吻。男と女の唇で繰り広げられる、甘くて切ないラブストーリー……。ソレは身を熱く火照らせ、互いの想いはより高見へと……そして二人は体と体を重ね合い……」
 自分の体を抱き締めながら熱っぽく語る美柚梨に、朋華は顔に血液が集中してくるのがハッキリと分かった。
「しまくってんでしょー? 良いなー。だって同じ大学でずっと一緒なんだもんなー。アタシなんて、まだ両手で足りちゃうよー」
「へっ……?」
 美柚梨の言葉に朋華は軽く硬直する。
 両手で、足り、る……?
「あん時とー、あん時でしょー。あ、それから一応アレもカウントか……」
 そして目の前で折り曲げられていく美柚梨の指に、視線は自ずと集中し、
「まだこんだけかー。時間も場所もバッチ思い出せちゃうよー。少なーい」
 両手が“グー”の状態で嘆き声を上げる美柚梨を呆然と見つめた。
「え……ちょ……キス、って……真田、さん……と?」
「そだよ」
 掠れた声で呟くように言う朋華に、美柚梨はあっけらかんと答える。
「おはようのキスに、おやすみなさいのキス。まー、不意打ちの成功率は朝の方が断然多いんだけどねー。あ、でも一回だけ出会い頭にキッスってのもあったよ」
 にへへー、と幸せそうに顔をほころばせながら、美柚梨は自慢げに説明した。
「えと……じゃあ双方同意の上で、という訳では無いという事で御座りまするな?」
「何でタイムスリッてんの?」
「ですな?」
「……ん、まぁ……今のところアタシから一方的にって感じだけど……」
 ッシャア!
「……そのガッツポーズ、何かムカツクんだけど」
 全く、一瞬ヒヤッとした……。危うく先を越されるところだった。
 この前、冬摩の部屋でしたのでようやく六回目だなどと唇が裂けても言えない。
「で、朋華チンは実際のトコ何回なのー?」
 イヤらしく目を細め、美柚梨は試すような視線で下から見てくる。
「そ、そりゃあ、もぅ……か、数え切れない、くらい……」
「ほーんとにー? 実はアタシより少ないとかだったりしてー?」
 や、ヤバい……。動揺が間抜けなくらい顔に出ている。ノリツッコミを自分でボケ潰すくらい頭がゆだっている。このままでは見破られてしまう。
 何とか……何とかせんと!
「アタシさー、兄貴の事ずっと見てるから、人のウソ見抜くの得意なんだよねー」
 美柚梨のねちっっっっこい言葉と視線が舌先に絡みつく。まるで適当に誤魔化そうとするのを遮るかのように。
「んー? ホントのトコはどーなんだー? 八回かー? 七回かなー? それともー……」
 コチラの反応を楽しむかのように、美柚梨はゆっくりと言葉を並べていく。
 く……この雌狐め。玖音から一体何を学び取っているんだ。
 朋華はその陰湿な重圧に息苦しささえ覚え始め、
「六か……」
 ついにガタンッ! と大きく音を立てて立ち上がり、
「あー! アレは何だ!」
 明後日の方向を指さしながら叫んだ。
 そしてタイミングでも計っていたかのように、絶妙の間で大広間横の扉が開く。入ってきたのは料理長らしき、大きなコック帽を被った男性。両手に持った一人用の鍋の中では、緑色の液体がゴポンゴポンと煮立っている。
 ……アレは何だ。
 そして彼の後ろからは、何十個もの銀食器をたてがみのように纏った巨大な黒目玉。
 ……アレは何なんだ。
 更に正面の扉が勢いよく開いたかと思うと、
「ちょぉぉぉぉぉっと! いい加減にしなさいよ! あたしはアンタの着せ替え人形じゃないのよ!」
「まーまー、そんな連れん事言わんとー。今度はコッチのヘビメタ服試してみーひんかー?」
 子供用の紋付袴を着せられた夏那美と、奇抜な男物の衣装を山のように抱えた久里子が雪崩れ込んできた。
 ……アレはいったい何事だというんだ。
 目の前で繰り広げられる惨事に呆然となり、朋華は指さし体勢のまま固まった。
「良かったじゃん、あの子。元気出たみたいで。クリっちもやるねー。他の事で忙しいのにさ。面倒見の良い事で」
 ……ただ自分の欲望のまま暴走しているのようにしか見えないのは気のせいだろうか。
「オーッス、『ゴッくん』。君も一緒にお昼ご飯食べるかーい」
 言いながら美柚梨は、運ばれてきた緑のゲルゲルを、銀枠で囲われて無駄に目立つ『獄閻』に差し出す。
 ひょっとして、アレが美柚梨のリクエスト……?
「あの、何なんですか? ソレ……」
 栗色のセミロングを揺らしながら、朋華はぎこちなく座り直して恐る恐る聞いた。
「シラタキの青汁鍋」
 そして後悔した。
「……誰が考案した創作料理スか? ソレ……?」
「ん? 兄貴の大好物詰め合わせ。アタシが一回作ってあげたら、すっごい美味しそうに食べてたよ。もー、汗とかだーらだら掻いちゃって、寒い日にはコレしかないねって感じだったねー」
 汗の出所が明らかに違うような……。
 美柚梨の笑顔のため、命を削る玖音の姿がありありと思い浮かぶ……。
「とにかくさ、クリっちが言うにはトーマ君が戻ってくるまでは動かない方が良いって事らしーから、もう少しソレで様子見るしかないんじゃないかな。アタシ達が変な罠に嵌ったらソッチの方が兄貴達に迷惑掛かる訳だし」
 シラタキの青汁鍋とやらを音を立ててすすりながら、美柚梨は落ち着き払った口調で言う。
「アタシの兄貴は『行ってきます』して『ただいま』しなかった事、今まで一回も無かったよ? トーマ君だってそうでしょ? 絶対に、朋華チンのトコに戻って来たでしょ?」
 そして諭すような喋りで続けた。
 確かに美柚梨の言う通りだ。
 大学の帰り道で生まれる小さな別れから、紅月の前後に出来る五日間の大きな空白まで。
 これまで離れる機会は何度もあったが、冬摩は必ず自分の元に戻って来てくれた。いつもと変わらない表情で微笑みかけてくれた。
 だから、きっと今回だって……。
「ま、男を信じて待つのもいい女の条件の一つって事だよ」
 あははははっ、と屈託無く笑いながら、美柚梨は『獄閻』から銀のフォークを一本取り上げる。すぐ取り替えそうと『獄閻』は『金剛盾』の破片を伸ばすが、美柚梨はソレら全てを箸で丁寧に挟み落とした。
 今は、待つ時……。
 美柚梨の言葉をもう一度心の中で反芻する。

『水鏡魎は今ウチが把握しとるだけで三回ミスっとる』

 そして、昨日聞かされた久里子の言葉が脳裏に蘇った。

『一個目はウチの抵抗力を見誤った事。そのせいで自分が持っとる使役神の事をウチに知られてもーた。ほんで、使役神受け渡す三つ目の方法が何かあるゆー事を知られた。二個目はウチを連れ戻された事。水鏡魎はウチの前でホンマよーベラベラ喋っとった。誰と誰戦わせて、誰人質に取って、誰んトコに先回りすんのか。多分、ウチ逃がさん自信あったんやろな。せやから何も気にせんと喋った。でも結果はこうや。そのせいでウチに情報持って帰られた。ま、もしかしたらあえて聞かせたんかも知れんけど……。で、三個目は麻緒の力読み違えとるーゆー事や。多分玖音は、水鏡魎が麻緒とド派手な戦いしたんはワザとで、目印か何か付けるためやろ思ーてんねんやろな。ま、甘い読みせんよーにしてたら、そー考えるんが自然や。けどな、アレはきっぱり水鏡魎のミスや。アイツは本気で麻緒を捕まえに行っとった。けど実際には出来へんかった。戦いが派手になってもーたんは、単純にあんま余裕が無かったからや。ウチが仕入れたんはこの三つ。一個目の情報もデカいけど、最後のが一番デカい。水鏡魎は多分、麻緒みたいな奴と戦い慣れしてへんのや。よーするに、戦いながらドンドン力付けていくタイプやな。ベースがガンガン上がっていくから、お得意の先読みがきかんのや。せやから麻緒は水鏡魎とごっつ相性がええ。冬摩と玖音よりもな。まぁ……あの子を“コッチ側”に引き戻したないウチがこんな事言うんも何か変な話やけどな……。こーなってもーたらしゃーない。とにかく今は麻緒の力が必要なんや。冬摩が戻って来たらウチらも一緒に動いてまずは麻緒と合流する。ソコで玲寺さんの情報聞く。ほしたら一回、ウチは別行動や。玲寺さんの事はウチが何とかして引き留めとく。絶対にな。で、次は玖音や。上手い事コッチとも合流できたら、陣迂と水鏡魎がそばにおるはずや。で、陣迂の方は冬摩に任せる。冬摩の動きは水鏡魎に完全に読まれとるからな。いくら馬鹿力でも当たらんかったら意味無い。ほんで水鏡魎に麻緒と玖音が付いて貰う。玖音は麻緒の補助的な位置付けでな。こん時はもう、トモちゃん達も別行動や。玖音と合流した時点でな。はっきりゆーて足手まといになってまう。水鏡魎の召鬼とかいう持ち駒が出てくるかもしれんけど、ソコは何とかさばいたってくれ。玖音にこんな事ゆーたら怒るやろーけど、美柚梨ちゃんも今は冬摩の召鬼。戦う力は十分にある。夏那美ちゃんを二人で守りながら何とか堪えたってくれ。冬摩の使役神もなんぼかはおるやろーしな。とまぁ作戦とは呼べん大雑把な流れだけやけど、この組み合わせで多分勝てるはずや』

 なるほど、と思った。
 麻緒、玖音との合流が果たしてドコまで上手く行くかは分からないが、やる価値は十分にあると思った。
 久里子はちゃんと考えてくれている。だから冬摩が戻って来るまでココで待っている。
 ソレは分かる。十分に理解できる。
 今は待つ時。美柚梨の言うとおり、冬摩を信じて……。
 だが――

 夜。
 辺りは静寂と暗闇に包まれ、澄み切った冷たい空気が玲瓏な雰囲気を生み出している。眼下を占有する広大な密林は果てなく伸び渡り、さながら黒い海のように重く鎮座していた。
 朋華は口を真一文字に結び、暗天を切り取って浮かぶ三日月を上げる。そしてチェリーピンクのヘアバンドの位置を直し、黒無地のTシャツの上に白のロングパーカーを羽織った。
(よし……)
 心の中で気合いを入れ直し、朋華はシーンズを履いた脚で窓枠をまたいだ。余り着慣れてはいないが、大きな動きに気を遣わなくても良いのは有り難い。
「……っと」
 そのまま三階から飛び降り、朋華は音も無く着地する。そして少し乱れた栗色のセミロングを整え、朋華は密林の中へと走り込んだ。
 ――結局、今日も冬摩は戻って来なかった。
 痛みを伴う程の辛い思いを抱いたまま、何かを求めて彷徨い続けている。

『トモちゃん、気持ちは分かるけどな……もうちょっとだけ辛抱しててな。今は大人しく待ってなあかん』
 
 分かっている。そんな事は。
 美柚梨だって夏那美だって、そして久里子だって自分と同じ気持ちなんだ。不安を抱えたまま、ただじっと耐え続けている。
 冬摩が帰って来て、コチラから動き出せる時を待ち望んでいるはずなんだ。
 しかし、冬摩は現れない。
 これだけ待っても戻ってこない。
 冬摩の気持ちがこれ程までに生々しく伝わって来なければ……もっと楽しい気分で居てくれたのであれば……あるいは我慢出来たかも知れない。
 だがもう限界だ。
 冬摩が苦しんでいるのを分かってながら、ただ遠くから見ているのはもう無理だ。
 会いたい。会って話をしたい。苦しんでいる理由を聞きたい。そしてソレを取り除きたい。
 単なる我が儘だとは思う。極めて自分勝手な行動だという事は分かっている。周りに迷惑を掛けているという事は十分承知している。
 魎に見つかるかも知れない。捕まって人質にされて、今よりも冬摩を苦しめてしまうかも知れない。
 しかし――ソレでも。
 その危険を冒してでも、今は冬摩の所に行きたい。
 じっとなんてしていられない。頭の中が冬摩の事で一杯になって、他の事が何も考えられなくなって、作戦だとか、魎の狙いだとか、そんな事どうでも良くなって。今はとにかく――
(冬摩さん……!)
 目を大きく見開き、睨み付けるように前を強く見つめ、朋華は冬摩の居る場所へと疾駆する。
 耳元で呻り声を上げる風の音を聞きながら、下唇をきつく噛み締めて体を前傾させた。





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