『羅刹』『死神』の温泉ゆけむり大作戦

TOP



 『朋華、お前が欲しい』

 冬摩の中で彼の記憶の覗いた後、『死神』はあの場面についてずっと考えていた。
 自分が玖音の『閻縛封呪環』で体の自由が利かなくなっていた時、例の露天風呂で起きた一件だ。
 冬摩のストレートな言動は理解できる。彼は昔からああだった。いや、まだ何も言わずに押し倒さないだけ丸くなったと言える。千年前の恋人、未琴と二人きりの時はもっと強引だった。
 だから冬摩に関しては極々自然な行動と言える。
 しかし、朋華は違う。
 確かに朋華は最初の時よりも、言いたい事はハッキリ言うようになったし、気も強くなった。冬摩の召鬼になった事で身体能力も急激に増した。そのせいかやる事も大胆で大雑把になって来た。良く言えば勇気ある行動が多くなって来た。
 だが、真田家の屋敷に泊まった時の露天風呂での反応。あれはおかしい。
 冬摩に『欲しい』と囁かれ、その流れに身を任せればどうなるのか、まさか分かっていない訳ではないだろう。
 冬摩と口付けさえも数えるほどしかした事がないのに、一足飛びに最終地点まで行くなど、朋華の性格からして考えられない。ああいう真面目な性格の人間は、どんな事でも段階を踏んで行くはずだ。
 しかし、もしその認識が間違っていたとすれば?
「な、なんですか? 『死神』さん。ニヤニヤして」
 新幹線、最前車両にあるクロスシート。自分の正面に座っている朋華の顔を見ながら、『死神』は無意識に笑っていた。
 肩口で切り揃えた栗色の髪に、チェリーピンクのヘアバンド。輪郭のハッキリした目鼻に、柔らかそうな唇。服装は黒のタイトネックシャツの上に白いカシミヤ製のカーディガン。膝に掛かるくらいのプリーツスカートはラメ入り。そして胸元にはクロスのシルバーアクセサリー。
 かなり気合いの入った服装だ。まるで新婚旅行にでも着ていくような。 
「いや別に。何でもないぞ」
 意味深な笑みを残し、『死神』は窓の外に顔を向ける。
 外は一面の銀世界だった。もうすぐ四月だというのに東北地方ではまだ雪が降り積もっている。ハーフミラーとなった窓ガラスには、滝のように長く下ろした黒髪と、巫女装束に身を包んだ妙齢の女性、『死神』本人が映し出されていた。
 冬摩と朋華が向かっている場所。それは真田家の屋敷だった。
 土御門財閥の精力的な活動によって、屋敷の修復作業は僅か一ヶ月で完了していた。そのお礼も含めて、この前のお詫びをしたいと招待されたのだ。勿論、久里子や玖音の所にも話は行っているだろう。
 本来、朋華と二人でなければ納得行くはずのない冬摩だったが、この時ばかりは違った。
 例の事件以後、冬摩は毎日のように朋華を温泉に誘っていた。そして毎日のように断られ続けて来た。
 時間がない、お金がない、この時期泊まれる場所がない。
 様々な言い訳でのらりくらりとかわし続けてきた朋華だったが、無事大学にも合格し、向こうからの無料招待となればどの言い訳も通用しない。そしてついに冬摩の念願叶い、二人で卒業旅行も兼ねた温泉旅行に来たのだ。
(仁科朋華め……不安半分、期待半分と言ったところか)
 横目で朋華の方を盗み見ながら、『死神』は内心ほくそ笑む。
 朋華は朝から様子がおかしかった。
 何度も荷物の確認をしたり、髪型を整えたり、鏡の前で様々な表情を作ってみたり。
 冬摩と二人で温泉旅行。しかも真田家の屋敷で。
 否が応でも思い出さざるを得ない。あの時の事を。
「なぁ、朋華」
「ひゃぁう! な、なな、何でですかかか?」
 冬摩の声に朋華は飛び上がりそうになりながら、上擦った声を返す。
「朝から顔赤いけどよ、風邪か? やっぱ露天風呂はまずいか?」
「ろ、露て……だ、だいじょぶデスよ。ちょ、ちょっと、心の準備が、はは……」
「心の準備ねぇ。確かにちったあマシになったとは言え、あの性悪バーさんの屋敷だからなぁ。ま、変なちょっかい出して来たらすぐにブッ飛ばしてやっから安心しろよ」
「は、はぁ……」
 『死神』は必死に笑いを堪えながら、噛み合っていない二人のやり取りを見つめた。
(二人とも微笑ましいのぉ。しかしな……)
 扇子で口元を隠しながら、『死神』は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
(いつまでもその調子では、妾が面白くないのじゃ)
 す、と細めた『死神』の瞳の奥には、妖しい輝きが灯っていた。

 一ヶ月ぶりに訪れた真田家の屋敷は、あの大惨事など無かったかのように元の古風な武家屋敷に戻っていた。周りを囲む背の高い木々から、瓦一枚一枚に至るまで丁寧に修復されている。
「ようこそいらっしゃいました」
 そして樫の木で出来た門の前で冬摩達を出迎えてくれたのは、現真田家当主、真田阿樹本人だった。深い皺が多く刻まれた、背の低い老婆だ。しかし背筋はしっかりと伸び、腫れぼったい瞼の下から覗く瞳には、年齢を感じさせない活力が宿っている。
「よぉ、バーさん。来てやったぜ」
 龍の髭で縛り上げた長い黒髪をいじりながら、冬摩は不遜な態度で言った。
「これは荒神様。このような遠い所までご苦労様でした。仁科様も長旅、さぞお疲れになったでしょう」
 しかし阿樹は気にした様子もなく、丁寧な振る舞いで二人に頭を下げる。
「あ、こちらこそご招待に預かり、こ、光栄で御座いました」
 朋華はしどろもどろになりながら、慣れない敬語で阿樹に挨拶を返した。
「と、ところで嶋比良さんや真田さんはもう来てるんですか?」
 そして間髪入れずに阿樹に聞く。
 『死神』には朋華の気持ちが良く分かった。冬摩と二人きりになる事を恐れているのだ。また以前のように良い雰囲気になり、そのまま流されてしまうかも知れないから。
「……残念ながら、お二人にはこちらの申し出を受け入れて頂けませんでした」
「え……?」
 阿樹の言葉に、朋華の顔が引きつる。
「嶋比良様は他にやる事があってお忙しいと。玖音は、もう少し気持ちの整理に時間が欲しいと言って」
「そう、ですか……」
 いきなり頼みの綱が断たれてしまった。だが冬摩にとっては好都合だ。元々朋華と二人きりで旅行に来たかったのだから。
「ですから荒神様と仁科様は、お二人の分までゆっくりしていって下さいませ」
「おおよ。言われなくてもそのつもりだ。な、朋華」
 冬摩は嬉しそうに言いながら、朋華の肩を抱き寄せた。
「ひゃっ! は、はひ……」
 冬摩の手が触れた瞬間、朋華は電流でも流されたかのように大きく痙攣し、俯いて小さくなる。
(まったく、初よのぅ。まぁ、じゃからこそ妾もやり甲斐があるというもの)
 『死神』は冬摩の隣を浮遊しながら、口の端をつり上げた。
「『死神』様と『羅刹』様も具現化されているようですが、お二人のお部屋はいかがなさいますか。大部屋もご用意できますが」
 阿樹は『死神』と、さっきから置き石をひっくり返してダンゴムシを集めている白髪の少年――『羅刹』を見ながら言う。
 土御門の正統血縁である真田家の者は、例え覚醒者でなくとも使役神の姿が見える。勿論、はっきりと見えるわけではないのだが。
「別々だ」
「一緒でお願いします」
「別でよいぞ」
「…………」
 多数決の結果、二対一で別部屋になった。
 朋華が意外そうに目を丸くしてコチラを見てくる。当然だろう。『死神』も冬摩に多大な好意を寄せている事は、朋華も知っているのだから。
 冬摩の方を見ると、「気が利くじゃねーか」と目が言っていた。
「で、でも『死神』さん……」
「よーし、バーさん。そんじゃ早速部屋に案内して貰おうか」
 朋華の声を遮って、冬摩が阿樹に段取りを進めるように言う。
「かしこまりました。ではどうぞ、こちらに」
 阿樹はもう一度慇懃に礼をすると、屋敷の中に入って行った。それに続いて冬摩も屋敷へと足を踏み入れる。
「ほれ、何をしておる、仁科朋華。妾達も行くぞ」
 『羅刹』の首根っこをつまみ上げて浮遊しながら、『死神』は動かない朋華に声を掛けた。
「し、『死神』さん、本当にいいんですか? べ、別に遠慮する事なんてないんですよ?」
「遠慮などしておらん。妾とて冬摩と離れたい時もある。愛しき人を遠くから想い偲ぶのもまた一興と言うものよ」
「そ、そうなんですか……」
 朋華は『死神』の言葉に、肩を落として項垂れる。そしてどこか熱っぽい溜息をついた。
「時に仁科朋華よ。お主は冬摩の事をどう思っておるんじゃ」
「えっ!?」
 今更だが意地悪く質問する。ここでより強く冬摩の事を意識させれば、後々上手く事が運ぶようになると言うものだ。
「そ、そりゃあ、好き、ですよ……」
「そうか。ではどのくらい好きじゃ。身を捧げても良いと思うくらいにか」
 『死神』の言葉に、朋華は耳の先まで赤くなった。
「身、身って、そんな……まだ、早い……」
(『まだ』、か。まぁ将来的に結ばれる事くらいは意識しておるようじゃのぅ)
 だがそれでは遅い。朋華が自然と積極的になるまで待っていられるほど、自分は気が長くない。
「まぁ良い。とにかく行くぞ。冬摩を見失う」
 もう大分小さくなってしまった冬摩を追って、『死神』は屋敷の中に入った。
「あ、待って下さいよー!」
 後ろから追い掛けてくる朋華を肩越しに返り見ながら、『死神』は口元を弧月の形に曲げる。
(さぁて、作戦開始じゃ)

 『死神』と『羅刹』が通されたのは中庭に面した十五畳ほど和室だった。障子を介して聞こえてくる水の流れる音と獅子脅しの啼き声が、風流な佇まいを演出している。
「さて『羅刹』、今回はお主に協力して貰うぞ」
 肘置きの付いた座椅子に腰掛け、『死神』は脚を組みながら『羅刹』に声を掛けた。
 しかし『羅刹』はまるで反応する事なく、壺の中や掛け軸の裏を見て何かを探している。恐らく珍しい虫が居ないか調べているのだとは思うが。
「これ『羅刹』! 妾の話を聞かんか!」
 折り畳んだ扇子でビシィ! と『羅刹』を指し、『死神』は大きな声を上げる。
「何」
 『羅刹』は短く言って、興味なさ気な視線を向けて来た。緋色の双眸が心なしか濁って見える。
「『羅刹』、今回どうして妾が冬摩から離れたか分かるか」
「虫捕まえられないから」
「違う!」
 即答した『羅刹』に間髪入れずツッコム『死神』。
「仁科朋華を影から援助するためじゃ」
「影から虫捕まえるのか?」
「だから違う! 虫は関係ない!」
 コイツに遠回しな言い方をしていても話が進まないと悟った『死神』は、今回の作戦の核心部分から話し始める。
「妾の今回の目的は仁科朋華をもっと積極的にさせる事。冬摩に自分から言い寄り、激しく求愛するくらいにな」
「…………」
 『死神』の説明に、『羅刹』は意味が分からないと言った様子で小首を傾げた。ストレートの白い髪がさらさらと揺れる。
「確かに、仁科朋華は冬摩と初めて出会った頃よりずっと積極的になっておる。しかしまだまだ足りん。未琴という冬摩のかつての恋人の足下にもおよばん。それでは――」
 そこまで言って言葉を句切り、『死神』は大きく息を吸い込んだ。
「それでは妾としても張り合いがないのじゃよ」
 『死神』にすれば朋華は立派な恋敵。だが、今の自分にとっては役者不足。恋愛とは障害が大きければ大きいほど熱く燃え上がる物。切なさと愛おしさで胸が埋め尽くされ、この身を焦がすような大恋愛を体感するには、朋華から力ずくで冬摩を奪い取るくらいでなければならない。
 しかし、最近の朋華はどうもみんなで一緒に居る事に慣れ始めている傾向がある。冬摩と二人きりで居る事をそれ程強く望んでいない。『死神』や『羅刹』と一緒に、楽しく時間を過ごせればそれで良いと思っている。恐らく、『死神』と冬摩が二人きりで居るのを見たとしても、嫉妬心など湧かないだろう。もしかしたら気を利かせて、静かに席を外すかも知れない。
 それではだめだ。それでは面白くない。
 恋敵は恋敵同士、互いに切磋琢磨して女を磨き上げなければならない。それが恋愛の醍醐味という物ではないか。
「じゃからここは一つ、あえて敵に塩を送って……って、聞いておるのか! 『羅刹』!」
「聞いてない」
 漆塗りの木製テーブルの下を這いずり回りながら、『羅刹』は気のない声を返す。
「あ。ダニ」
「貴様ー!」
 テーブルを蹴り上げて『羅刹』を外に出させ、『死神』は荒い声を上げた。
「僕関係ない」
 しかし『羅刹』は全く気にした様子もなく、猫のように丸くなりながら畳の奥をじっと見ている。
「こ、コヤツ……」
 痙攣するこめかみを押さえつけ、『死神』は何度か深呼吸して自制心を取り戻した。
 最初から分かっていた事だ。『羅刹』がタダで協力するはずなどない。
「『羅刹』、もし妾に力を貸してくれたらなら、お主がまだ見た事もないような虫を進呈するぞ」
 『死神』の甘く囁くような言葉に、『羅刹』の白髪が猫耳の形に盛り上がり、ピクピクと反応する。いったいどういう構造になっているのだろう。
「ホントかっ?」
「ああ。勿論じゃ」
 会心の笑みを浮かべ、『死神』は優しい口調で言った。
「やる。何でもやるっ」
 『羅刹』はぴょんっと弾かれたように立ち上がると、好奇に満ち満ちた顔つきを向けてくる。
(ちょろい……)
 神々しい笑みの裏でイヤらしく笑いながら、『死神』は胸中で呟いた。
「では説明を続けるぞ」
 うんうん、と何度も頷く『羅刹』を確認して『死神』は口を開く。
「仁科朋華が冬摩を強く求めるようになるにはどうすれば良いか――」
「強い虫を食べる」
 『死神』の言葉を遮って『羅刹』が自発的に意見を述べた。
「い、いやそうではない。つまりじゃな、自分の本心に気付かせ――」
「傷付いた虫を食べる」
 さらに『死神』の喋りを中断させて言葉を挟む『羅刹』。
「じゃ、じゃから、仁科朋華に本当の気持ちを自覚――」
「自爆する虫を食べさせる」
「やかましぃぃぃぃぃぃ!」
 『死神』は怒声を上げて『羅刹』を睨み付けた。
(まったく、協力的になっても扱いの難しい奴じゃのぅ……)
 握り込んだ左拳をわななかせながら、『死神』は深呼吸を繰り返す。
 ここは冷静にならなければならない。『羅刹』は今回の作戦の要なのだから。
「結論から言おう。仁科朋華はずばり、『むっつりすけべ』じゃ」
 押し殺すようにして言った『死神』の言葉に、『羅刹』は不思議そうな顔になって小首を傾げる。
「カタツムリは叫ばない」
「『カタツムリ叫べ』ではない『むっつりすけべ』、まぁ好色という意味じゃ」
「ふーん」
 納得したのかしていないのか、よく分からない表情で『羅刹』は気の抜けたような声を出す。
 間違いない。仁科朋華はムッツリスケベだ。
 それはこの前の露天風呂での一件が如実に物語っている。
 他に誰も居ない二人だけの空間。何も身に付けていないに等しい互いの体。冬摩の逞しい腕、甘美な囁きの声。
 雰囲気に呑まれたせいもあるだろうが、それだけではない。それだけでは体を開こうとは思わない。朋華の中に眠るもう一つの淫乱な顔。それを『死神』は垣間見た。
 普段は強固な理性で押さえ付けているが、この前のように一度スイッチが入ってしまえば後は転げ落ちるだけだ。そして押さえの力が強ければ強いほど、そこから解き放たれた時の反動は大きい。
 つまり、朋華が一度でも自分の本心と向き合えば、放って置いても冬摩を求めるようになる。熱く、激しく。
 今回『死神』がやろうとしているのは、朋華に本当の自分を認識させる事だ。誤魔化しようがないくらいにはっきりと、鮮明に、そして永続的に。
「妾は仁科朋華のためにも、そして妾自身のためにも、あやつの本性を露呈させねばならない。そこで『羅刹』、お主の出番と言う訳じゃ」
「僕?」
 自分の顔を指さして、『羅刹』は少し眉を上げる。
「うむ。要はその外見じゃ。体の小さなお主であれば仁科朋華の守りも弱くなる。いわゆる子供の特権と言う奴じゃな。つまり妾がやれば怪しさ極まりない行動でも、お主ならば許容できるという寸法じゃ」
「よく分からない」
 『死神』の説明に、『羅刹』はまたも小首を傾げた。
「何が分からん?」
「『子供』ってなんだ」
「……そこからか」
 疲れた声で『死神』は呟く。
「あー、つまりじゃなー。子供というのはお主のように、体が小さくて幼い顔立ちの者の総称じゃな。分かったか?」
「じゃあ虫はみんな子供だ」
「……アヤツらの顔が幼いかは知らんが、まぁそんなもんじゃ」
 どこか投げやりに返す『死神』。
「で、どうすればいい」
 早く珍しい虫が欲しいのか、『羅刹』は紅い瞳をキラキラと輝かせながら言ってくる。
「まぁ理想を言えば、冬摩が朋華を抱く一歩手前まで持って行ければいいのじゃが……」
「『抱く』ってなんだ」
「……質問の多い奴じゃのう」
 深く溜息を付いて『死神』は分かり易い言葉を頭の中で探す。
「あー、そのー、つまりじゃなー。後世に子孫を残すための儀式じゃな」
「交尾か?」
「……ま、まぁ、平たく言えばそうじゃな」
 『羅刹』のストレート過ぎる物言いに、思わず言葉を詰まらせる『死神』。物を知らないと言うのは、こんなにも破壊力がある物なのか。
「分かった」
 短く言い残すと、『羅刹』は僅かに開いた障子の隙間から部屋の外に飛び出す。
「あ、こら『羅刹』! 話はまだ……!」
 しかし『死神』が声を掛けた時にはすでに、『羅刹』の気配はなくなっていた。恐るべき速さだ。
「ええぃクソ! 何をするつもりじゃ!」
 『死神』は舌打ちを一つすると、『羅刹』を追って廊下に出た。

 屋敷の玄関口から紅い絨毯に乗り、真っ直ぐ進んだ場所にある広い待合室。天井に吊された電灯には和紙が巻かれ、柔らかい光を落としている。年代物の古時計が刻む時の音が、無音の静寂よりもなお深い静謐を醸し出していた。
 大きな窓に映った白い湯気の立ち上る露天風呂。その前に並べられた革張りのソファーに、一組の男女が仲睦まじく腰掛けていた。
 冬摩と朋華だ。
(おぉ……何か知らんが、いい雰囲気ではないか……)
 『羅刹』を探して屋敷の中を駆けずり回っていた『死神』は、肩を寄せ合う二人の背中を偶然目撃した。そして見つからないように気配を殺し、待合室の中央で正方形になるように置かれた長椅子に身を隠しながら、事の成り行きをじっと見守る。
「今回も貸し切りだってよ。この温泉」
 冬摩が低い声で朋華に話しかける。
「そ、そうなんですか……」
 少し照れたように返す朋華。
「あの、よ、朋華……。この前の事は俺なりに悪かったと思ってる。確かにお前の言う通り『でりかしー』ってヤツが足らなかった」
 冬摩はどこか遠慮がちに声を発した。
「だから、よ。今度はもっと気ぃ付けるから。今晩一緒に、入らないか?」
 しかし朋華はすぐには返さない。少し顔を俯かせて、押し黙ってしまった。
 古時計の振り子が奏でるの重厚な音だけが辺りを支配する。湯の流れる微かな音が、窓越しに聞こえてきた。
「……と、冬摩さんが、よければ……」
 どの位の時間が流れたのだろう。時が止まってしまったかのように切り取られた空間の中、朋華は掠れた声で言った。
「そっか、よかった……。俺、ひょっとしたらお前に嫌われたのかと思ってたからよ」
 冬摩の言葉が終わった直後、朋華の体がビクッと震える。ココからでは見えないが、恐らく冬摩が朋華の手を握ったのだろう。
「き、嫌いだなんて、そんな……。だ、大好き、ですから……」
「そっか」
 冬摩の右腕が朋華の右肩に伸び、体ごと抱き寄せる。朋華は抵抗する事なくソレを受け入れた。そしてまた、静寂が訪れる。
(おおー、良いではないか良いではないか。このまま行けばもうすぐ……)
 朋華のスイッチが入る。理性のタガが外れる。そうすればあとは冬摩のなすがまま。
「朋華……」
 冬摩は囁くように言いながら朋華に顔を向けた。すぐに何をしたいのか察した朋華は、何も言わずに顔を合わせて目を瞑る。そして二人の唇が近付き――
「交尾しろ」
 そう、交尾を……。
(……は?)
 『死神』は思わず自分の耳を疑った。
「冬摩交尾しろ。朋華と交尾しろ」
 下品な言葉の連呼で、儚くも濃密な雰囲気が甲高い破砕音を立てて崩れ去って行く。
「朋華、交尾。冬摩と交尾。交尾交尾」
「おま、『羅刹』……いつの間に……」
 冬摩が震える声で、無知なる暴君の名を呼んだ。
「……ぅ、ん……」
 朋華が気を失ってソファーに倒れ込む。
「もう終わったか、交尾。まだか。早くしろ」
 『死神』は疾風の如き勢いで『飛翔』し、『羅刹』を回収するとその場を後にした。

「こぉのうつけがああぁぁぁぁぁ!」
 『死神』は元の和室に『羅刹』を放り込むと、障子を激震させる勢いで叫んだ。
「何をやっとるんじゃあぁぁぁぁぁ!」
「交尾。したのか?」
「するか怒阿呆おおぉぉぉぉぉ!」
 ぜぃぜぃ、と肩で息をしながら、『死神』は座布団の上にあぐらをかいて座り込む。
「何故出て行った! 何故あのまま放っておかんかったんじゃ!」
 あのまま行けば確実に目的は達成できたというのに。
「交尾してなかった」
 どうして怒られているのか全く理解できないといった顔つきで、『羅刹』は白髪を揺らして小首を傾げた。
「あの状況でするか! いいか、男と女の愛の盛り上がりという物はじゃな、少しずつ……!」
 言いかけて『死神』はハッとする。
「時に『羅刹』。お主、男と女がどんな物か知っておるか?」
「知らない」
 『死神』は思わず頭を抱えてうずくまった。
 自分のやろうとしていた事は、筆を握った事もない子供に『鬱』と書かせようとしていた事に等しい。
「あー、そのー、つまりじゃな、あれじゃ。虫で言うところの雄が男で、雌が女じゃ」
「分かった」
 力強く何度も頷く『羅刹』。だんだん教育の仕方が分かってきた。
「では確認するぞ。冬摩は?」
「男」
「仁科朋華は?」
「女」
「妾は?」
「男」
「違ああぁぁぁぁぁう!」
 『羅刹』の両肩をわしっ! と掴み、何か言おうした『死神』の背中に悪寒が走った。
『しーにーがーみー……らーせーつー……』
 地獄の釜が開いたかのような声が、地鳴りのような振動と、冥府を想起させる殺気を伴って接近して来る。
 冬摩だ。
 このままココに居るのは危険だ。一端場所を変えなければ。
「鬼だ。鬼が来る」
 それは『羅刹』にも分かっているようだった。

 『羅刹』が先導してやって来たのは屋敷の裏にある古びた倉だった。雑木林に周りを囲まれ、屋敷からも大分離れている。ココなら少しくらい声を出しても冬摩には聞こえないだろう。
「さて、男と女については分かったな。では次に、どうすれば愛が盛り上がるかじゃ」
 『死神』は腕組みしながら、正座して耳を傾けている『羅刹』を見下ろす。
 先程の一件で、ますます人為的に手を加えなければならなくなった。もう生半可な事では、冬摩と朋華は良い雰囲気にならないだろう。多少、強引ではあっても力ずくでくっつける。
「この世には男と女しか居ない。二つの種族しか居ない以上、両者が惹かれ合うのは自然の摂理。じゃが、そうは言ってもすぐに結ばれるわけではない。何事も順序という物がある。例えばさっきの冬摩と朋華が良い例じゃ。最初は互いに遠慮しておったが、その場の雰囲気と適切な言葉選びで想いが深まり、最後には接吻を許すまでになった。つまりじゃな……」
 言いかけて『死神』は『羅刹』の目をじっと見る。
 どんよりと濁った紅になっていた。実に分かり易い。
「お主に理屈で説明しても無駄じゃな。仕方ない。実演で説明しよう」
 かなり時代遅れだが基本を叩き込むには丁度良いだろう。それに、今からやる事は即実戦に活かす事が出来る。
「よいか、妾が仁科朋華役をやる。お主は冬摩の役をやるんじゃ」
「何する」
「うむ。コレを順番に読み上げよ」
 言いながら『死神』は、袖長白衣の袂から一枚の和紙を取り出した。そこには達筆な文字でいくつかの動作指示とそれに伴うセリフが書き込まれている。
「習うより慣れよじゃ。では行くぞ」
「分かった」
 『死神』と『羅刹』は顔を見合わせて同時に頷くと、それぞれ倉の二隅に離れた。そして同時に走り出す。
「うわぁ」
「きゃぁ!」
 二人はわざとらしくぶつかり、抑揚のない声とピンクの悲鳴が交錯した。
「大丈夫ですか」
 と、無表情に『羅刹』。
「イタタタタタ……。う、うん、大丈夫」
 地面に尻餅を付き、本当に痛そうな顔で迫真の演技を見せる『死神』。
「おや足を擦りむいている」
 朴訥に言いながら『羅刹』はしゃがみ込んで『死神』の膝に視線を落とす。
「だ、大丈夫です、このくらい。何でも……イタッ」
 立ち上がろうとして顔を歪め、再び倒れ込む『死神』。
「これはいけない私が病院まで送りましょう」
 『羅刹』は独り言のようにボソボソと喋る。
「し、親切にどうも有り難うございます。あの……お名前は?」
 口元に手を当て、恥ずかしそうに上目遣いになって甘えた声を出す『死神』。
「…………」
 しかし『羅刹』は答えない。
「お、お名前は?」
 再度聞き返す『死神』。
「『死神』」
「なぁに?」
「気持ち悪い」
「なんじゃとぉぉぉぉぉぉ!」
 『死神』の怒声に倉が大きく揺れ、暗い天井から埃が舞い落ちてくる。
「ふ、ふん。まったく、人がせっかく親切に教えてやっているものを」
 少し顔を紅くしながら『死神』は立ち上がり、頭と朱袴に付いた埃を払い落とした。
「まぁ良い。これで何となく分かったじゃろ。さっきのような状況をなんとかして作り出し、冬摩の体と仁科朋華の体を密着させるんじゃ。さすれば後は自然と上手く行くはず」
「分かった」
 力強く何度も頷く『羅刹』。
(コヤツ、返事だけは良いからのぉ……)
 『死神』は半眼になりながら、走り出そうとした『羅刹』の首根っこを素早く摘み上げる。
「待て。この前のような失敗はもう許されん。妾も一緒に行く」
「分かった」
 両手両足をダラリと下げた体勢から、『羅刹』は顔だけをコクコクと上下に振って答えた。

 露天風呂の脱衣場前にある休憩スペース。湯冷めしないように空調が整えられ、火照った体を程良く冷ますための送風機も備え付けられている。薄く削った竹の皮で編み込まれた風通しの良いロングチェアーや、大の字になって横になれるセミダブルサイズの吸湿ベッド、さらに全身マッサージ機も完備されいた。
 これだけ揃っていれば全く持って不満はない。
 絶好の隠れ場所としても。
(そろそろ、じゃな……)
 吸湿ベッドの下に隠れながら、『死神』は柱に吊された時計に目をやった。
 午後二時五十八分。
 あと二分で朋華がココにやってくる。勿論、『死神』が呼び出したのだ。そして冬摩の方は『羅刹』が連れてくるはず。
「テメー、ヤロー! 『羅刹』! 待ちやがれ!」
 右手の方から冬摩の荒々しい叫び声が聞こえてくる。
『羅刹』は十鬼神の中でも最速の足を持つ。対抗するには玖音の持つ十二神将『朱雀』の『瞬足』でなければ不可能だ。一度体に戻し、再度召来し直しても同じ事。具現化と同時に逃げられるだけだ。つまり、今の冬摩に『羅刹』は捕まえられない。
 計画通りだ。順調に事は運んでいる。
 この休憩スペースの前の通路を右に折れてすぐの所はT字路になっている。その辺りには窓も何もない。つまり、向こうから来る者の位置をあらかじめ知る事は出来ない。あのT字路で冬摩と朋華を衝突させる。
 だが冬摩があれだけ大声を上げていれば、来ている事くらいは当然分かるだろう。しかしそれも計算済みだ。
(来た……)
 仁科朋華が姿を現した。朋華はまだ『死神』が来ていない事を知ると通路の壁にもたれ、スリッパを履いた爪先で床をトントンと叩き始める。
「『羅刹』! 止まれっつってんだろーが! ブッ飛ばすぞテメー!」
 冬摩の怒鳴り声に朋華が顔を上げ、そちらの方に顔を向けた。
 声の大きさからしてかなり近い。そして『死神』がベッドの下から少し這い出し、右の方を覗き見た時、『羅刹』が姿を現した。
 『羅刹』は勢いに乗ったまま床を蹴り、壁に着地すると、三角飛びの要領で進行方向を急転換する。そして朋華の目の前に降り立ち、またすぐに消えた。
「え? え?」
 一瞬、何が起こったのか分からない朋華はキョロキョロと辺りを見回す。そんな彼女の混乱をよそに『羅刹』は朋華の真後ろに高速移動すると、背中を思い切り突き飛ばした。
「きゃっ!」
 短い悲鳴を上げて前につんのめる朋華。
「俺から逃げられっと思ってんのかー!」
 そこに冬摩が猛烈な勢いで突進してくる。
「ひゃぃ!」
「うお!」
 そして絡み合う二人の悲鳴。
(よぉし!)
 『死神』は思わずベッドの下でガッツポーズを取った。
 冬摩と朋華は今、抱き合いながらその場に倒れ込んている。まさに計画通りだ。
「何しやがるテメ……!」
 憤怒の形相をして自分にぶつかって来た者を引き剥がそうとする冬摩。しかしその人物を確認して、顔の強ばりが急速に解けていく。
「あ、あの……その……」
 冬摩の胸に顔を埋め、気まずそうに視線を泳がせる朋華。
「ご、ゴメンナサイ……。私、ちゃんと前見てなくて……」
「ああ、いや。俺の方こそ、悪かった」
 朋華は冬摩に真っ正面から見つめられ、慌てて目を逸らす。
「あ、あの……さっきはいきなり倒れちゃって、スイマセンでした……。部屋まで運んでくれたのって、やっぱり冬摩さん、ですよね……」
「ああ。あのバカ共がやらかしてくれたからな。二度としねーよーに、身に染みて分からせてやるからよ。けどま、こういう倒れ方なら別に何回でもいいけどな」
「へ……?」
 そこまで言われ、朋華はようやく自分が冬摩の上に乗っているのだという事に気が付いた。
「わきゃぁ!」
 そして素っ頓狂な悲鳴を上げ、弾かれたようにして飛び退く。
「大丈夫だったか、朋華。どこも怪我とかしてないだろうな」
「だ、だだ、大ジョブジョブですから……! ぜーぜん問題ないですから! ピンピンしてますから!」
 冬摩から体ごと視線を逸らし、朋華は一息にまくし立てる。 
「そっか、良かった。怪我したまま風呂なんか入ったらしみるもんな」
 言われて朋華は顔を深く俯かせ、さらに冬摩から視線を離す。
 そう。ここは露天風呂出入り口の真ん前。冬摩の性格からして、『湯』ののれんを見ればこういう発言がポンポン飛び出すのは当然の事だ。
「なぁ朋華。俺はお前が良いって言うまで絶対に手は出さねーからよ。そこんとこは安心してくれ」
 冬摩は後ろから朋華の肩に両手を乗せ、諭すような口調で言った。
 朋華は何も返さずに、ただ黙って下を向いている。
「だからよ、温泉に来たかったのも別に変な意味じゃなくて、ただ単にお前と二人で居たかったんだ。アイツらもちゃんと言っとけば、風呂ん中までは来ねーだろーからよ」
 その言葉に朋華の表情が変わった。
 真っ赤だった顔が徐々に元に戻り、揺れていた瞳が安定してくる。
 恐らく、冬摩の純粋さに触れて、『温泉』に対して抱いていたイメージが変わりつつあるのだろう。
「あの……私の方こそ、スイマセンでした……。私の方が、変な事、ばっかり考えてて……」
 肩に置かれた冬摩の手に自分の手を重ね合わせ、朋華は熱っぽい息を吐きながら言う。瞳を潤ませ、唇を一度だけ固く結んだ後、意を決したように口を開いた。
「私、冬摩さんの事、好きですから……大好きですから……」
 それは何も包み隠す事のない朋華の本心、ありのままの姿。
「お、おぅ……。俺も大好きだぞ」
 急に積極的になり始めた朋華に、今度は冬摩の方がどもった声で返した。
(スイッチが入った、な……)
 冬摩の言葉を聞いた朋華の口元が嬉しさにほころぶ。冬摩の両手を上からぎゅっと握りしめ、朋華は途切れ途切れになりながらもハッキリと言葉を紡いだ。
「……その、今夜は、二人きりで、一緒に……お風呂に……」
「ああ。入ろうな」
 冬摩の力強い返答を受け、朋華は自分の背中を冬摩の逞しい胸板に預ける。冬摩は体を寄せて来た朋華の肩を両腕で抱きかかえ、さらに体を密着させた。
 そのまましばらく互いの温もりを確かめ合い、先に口を開いたのは朋華の方だった。
「冬摩、さん……私、冬摩さんが、望むなら……」
 蚊の啼くような小声で言って、朋華は再び頬を紅潮させて振り返る。
「私……」
 冬摩の正面に向き直り、何か言おうとした朋華の体が――固まった。
「ん?」
(なんじゃ?)
 冬摩と『死神』は殆ど同時に朋華の視線の先を追う。
 そこに居たのは、事の成り行きをじっと見つめている『羅刹』の姿。
「交尾、終わったか?」
 そしてポツリ、とトドメの一言を呟く。
「『羅刹』……テメェ一度ならず二度までも……」
「……ん、ぅ……」
 怒りに打ち震える冬摩。羞恥のあまり気を失う朋華。
 そして神速の勢いで『羅刹』を回収する『死神』だった。

「こおおぉぉぉのたわけがあぁぁぁぁぁぁぁ!」
 例の倉に戻り、『死神』は悪鬼の如き形相で『羅刹』を怒鳴りつけた。
「ぬわぁぁぁぁぁんでいつまでもあそこにつっ立っておるんじゃ! せっかくの雰囲気が台無しじゃあぁぁぁぁぁぁ!」
「言われた通りやった」
 しかし『羅刹』は不思議そうな顔でコチラを見つめてくるだけだ。何が悪かったのか全く分かっていない様子だった。
「やり終えたらとっとと戻って来んかあぁぁぁぁぁ!」
「聞いてない」
「く……!」
 言われて『死神』は言葉を詰まらせる。
 確かに言っていない。言っていないのだが……。
(コヤツには一から百まで全部指示せねば分からんようじゃな……)
 だが全ての事を前もって予測し、細かく指示を出すなど不可能だ。その場その場で臨機応変に対応しなければならない。しかし『羅刹』にそれを求めるのは無理そうだ。
(コヤツの頭で理解できるくらい単純な状況。もしくは一度経験した事のあるような状況、か……)
 倉の隅に乱雑に積み上げられている米俵に腰掛け、『死神』は折り畳んだ扇子を顎下に添えて知恵を絞った。
(それにしても先程の作戦は少々強引かと思っておったが、なかなかに上手く行ったのぅ)
 『羅刹』が手早く引き上げていれば、朋華は冬摩に体を差し出すところだった。
 やはり自分の考えは間違っていない。朋華は冬摩と二人きりで良い雰囲気になってくるとスイッチが入る。そして普段では考えられないくらい大胆になる。まぁ、その姿を誰かに見られるとブレーカーが落ちてしまうようなのだが。
(これをもう少し自然に演出できれば……)
 誰も居ない場所。二人きりで。
 先程のように偶然を装って冬摩と朋華を密着させるか? 今度はしっかり『羅刹』に撤退命令を指示しておいて。
 いや、さすがにその発想は安直すぎるか。二人はすでに警戒している。ならばこれまでにない方法でくっつけるしか……。
(待てよ)
 これまでは殆ど冬摩の方から朋華に言い寄って来た。
 『好きだ』『愛してる』『お前が欲しい』等、ストレートな言葉をぶつけて朋華の理性を打ち砕いて来た。逆に朋華の方から冬摩に言い寄る事はまず無い。
 コレを演出できれば、二人は警戒心ゼロでこちらの術中に嵌るはず。
 朋華から冬摩に言い寄らせるには……。
「『羅刹』」
 一つの名案が浮かび、『死神』は『羅刹』の方に顔を向ける。
「世の中には『萌え』という言葉があるらしい」
「知らない」
 当然だろう。自分も最近知ったばかりなのだから。
「例えば、じゃ。体の小さな婦女子がネコミミを付けた姿。これに世の中の一部の男共は『萌え』を見出すらしい」
「分からない」
 同感だ。自分も理解しかねる。
「あとは、いつも厳しい事ばかり言っている者が、突然優しくなったりする現象。つまり普段の性格では考えられない事をして生み出された精神的な落差。コレにも『萌え』が見出されるらしいのじゃ」
「分からない」
 無理もない。自分もいまいち把握しきれていない物を言葉だけで説明されても、イメージが湧くはずもない。それが『羅刹』であればなおの事。
 ここはやはり具体的に実演して見せるしかないだろう。
「『羅刹』、今から妾が後ろを向くから、しばらくしたら呼んでくれ」
「分かった」
 『羅刹』がコクンと頷くのを見て『死神』は体を後ろに向けた。そして両手を使って表情を整えていく。
 普段使わない筋肉を総動員させ、『死神』は頭に描いた物と同じ顔を作り上げた。
 しばらく時間が経ち、
「『死神』」
「なんだピョンっ」
 猫なで声で言いながら、『死神』は『羅刹』の方に振り返った。
 目は可能な限り大きく見開き、媚びるような上目遣い。口元には、恥じらいつつも懸命に笑顔を作ろうとする健気さを乗せている。両腕は胸の前で折り畳み、軽く握り込んだ両拳を前に垂らして猫のポーズ。
 純粋な可愛らしさと、普段の『死神』からのギャップ。
 これで『萌え』の条件は完璧に盛り込んだはずだ。
「『死神』
「はにゃ?」
「痛い」
「貴様ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 『羅刹』の辛辣な評価に、『死神』は大地を鳴動させる叫び声を上げた。倉自体が大きく揺れ、壁からみしみしと悲鳴が聞こえてくる。
「人が恥を忍んで教えてやっておるのに何たる言い草じゃ! それに『痛い』のそんな使い方、どこで学んだ!」
「自然に出た」
「く……!」
 怒りと、恥ずかしさと、悔しさで『死神』は顔を紅く染め上げ、視線で射殺さんばかりに『羅刹』を睨み付けた。しかし『羅刹』はどこ吹く風。まるで意に介した様子もなく、平然としている。
(コヤツの相手をまともにしていても疲れるだけじゃ。今は利用しているだけ。ソレが終われば口をきかなくても良い。割り切って考えろ。でなければ身が持たん)
 自分に言い聞かせるように胸中で何度も繰り返し、『死神』は心を落ち着かせた。
「で、では次の作戦の説明じゃ。『羅刹』、お主は妾が合図したら頭に包帯を巻いて冬摩の前に行け」
「殺される」
 さすがの『羅刹』もそのくらいは察せるらしい。
「心配するな。冬摩は今、それ程怒ってはおらん」
「何故」
「考えてもみよ。冬摩が妾達に折檻したいのであれば、一度自分の体に戻して具現化し直せばいいだけじゃ。最初のように妾達の居る部屋が分かっているならまだしも、どこに居るのかも分からない今回は、面倒くさがり屋の冬摩の性格からして必ずそうするはずじゃ。しかしそれをせんという事は、何らかの理由で機嫌が戻ったという事」
 『死神』の説明を、『羅刹』は分かったような分からないような顔付きで聞いている。
「つまり、じゃ。今、冬摩の前に出て行っても大丈夫という訳じゃ」
「なら『死神』が行けばいい」
「う……」
 鋭い指摘に、『死神』は思わず口ごもった。
 冬摩の機嫌は恐らく直っているだろう。しかし確実ではない。単に気絶した朋華の世話が忙しくて、今は自分達の事などどうでも良いだけかも知れない。恐らく、一度目はそうだったはずだ。
 『死神』と『羅刹』が部屋に居ない事を知った冬摩は、取りあえず後回しにして朋華の看病に戻った。そう考えるのが妥当だろう。朋華の事は、冬摩の中で何よりも優先されるべき事のはずなのだから。
 だから確実に冬摩の機嫌が直っているとは言い切れない。いや、かなり危険な賭けだ。自分が出て行くわけにはいかない。
「『羅刹』。今回の作戦はお主のその外見が大切なんじゃ。お主しか出来ん」
「ヤダ」
「なら見た事もない虫の件は……」
「やる」
 即答した『羅刹』に、『死神』は顔の裏側でほくそ笑む。
「よし、では作戦開始じゃ」
「おー」
 そして、作戦其の二が開始された。

 冬摩と朋華の部屋は中庭に面した日当たりの良い場所にあった。雪が降り積もり、夕日の光を浴びて幻想的な輝を見せる大きな庭が一望できる。出入り口の障子の大きさからして、二十畳はあるだろうか。恐らく屋敷の中で一番良い部屋なのだろう。
 池のそばにある巨石の影に身を隠し、『死神』と『羅刹』は部屋の様子を窺っていた。すぐ隣には背の高い松の木や、石造りの灯籠もある。隠れるにはまさに打って付けの場所だ。
 『死神』が思いついた作戦はこうだ。
 まずトイレか何かで、朋華が一人で部屋を出るのを待つ。その隙に頭に包帯を巻いた『羅刹』が部屋の中に入る。恐らく冬摩は『羅刹』の怪我をなんとかしようとするだろう。
 冬摩は以前、玖音の使った怨行術『閻縛封呪環』にかかった自分を心配してくれた。つまり、冬摩は怪我人にはそれなりに優しいはずなのだ。だが自分がここにいる以上、『復元』は使えない。それに『復元』で治せるほどの大怪我でもない。あれは欠失した体の一部を元通りにするための術だ。逆に言えば切り傷などの小さな怪我には効果がない。
 冬摩は『羅刹』の怪我を、自分だけで治療してやろうとするはずだ。
 そこに朋華が戻って来る。
 彼女が見るのは、さっきまで怒鳴りつけていた『羅刹』をかいがいしく介抱する冬摩の姿。がさつな男が垣間見せる意外な一面。普段とのギャップ。
 そこに朋華は『萌え』を見出すはず。
 二人が良い雰囲気になったら出て来いと『羅刹』には指示してある。これでさっきのような失敗には繋がらないはずだ。
(む……)
 障子が静かに開いた。ここに隠れて五度目の事だった。
 一度目、二度目は冬摩だけ。三度目は二人一緒に。四度目はまた冬摩だけ。
 そして今回、ようやく朋華が一人で出て来た。機は――熟した。
「『羅刹』」
 朋華が廊下のつきあたりを折れ、完全に姿が消えたのを確認してから『死神』は合図を出す。ソレを受け、『羅刹』は素早い身のこなしで岩影から飛び出した。そして一呼吸のうちに部屋の前までたどり着く。
 一瞬、『羅刹』は躊躇ったような仕草を見せたが、すぐに意を決し、スパァン! と小気味良い音を立てて二枚の障子を左右に開けた。部屋が全開になったおかげで、ここからでも様子がよく見える。
「なんだよ、『羅刹』か。ビックリさせんな」
 中から聞こえてくる穏やかな冬摩の声。予想通り、あまり怒ってはいないようだ。
「運が良かったじゃねぇか。俺は今すげー機嫌がいいんだ」
 口元を緩め、冬摩は長い後ろ髪をいじりながら『羅刹』に歩み寄る。
「お、何だお前。その包帯。怪我でもしてんのか?」
 『羅刹』の頭をぽんぽんと軽く叩きながら、冬摩は屈んで視線を低くした。
「どーせまた変な虫でも追いかけ回してたんだろ。あんまチョコマカすんなよな。ま、たまにはソイツも役に立つんだけどよ」
 無言で立ちつくしている『羅刹』に、冬摩は上機嫌で話し掛け続ける。
 『死神』の作戦は成功だ。今の流れからすれば、冬摩は『羅刹』の傷を治療しようとするだろう。そこに朋華が戻って来る。そしていつもとは違う冬摩の一面を見た朋華は……。
(完璧! 完璧じゃ! さすが妾じゃ!)
 『死神』は順調に進む自分の計画を見て悦に浸る。
 冬摩は『羅刹』に優しい視線を投げ掛けながら、ゆっくりと立ち上がった。
「そんじゃ――」
(治療を)
「――しばらく戻ってろよ」
(なにいぃぃぃぃぃぃぃぃ!?)
 絶叫を上げそうになり、慌てて口を押さえつける『死神』の目の前で、『羅刹』の姿が黒い粒子となって消えていく。
(し、しまったあぁぁぁ! その手があったかぁぁぁぁぁ!)
 使役神はどれだけ深い傷を負おうとも、主の中でしばらく休めば何度でも復活できる。わざわざ民間療法などで治療するよりも、よほど効果的だ。どうしても具現体をそばに置いておきたいならともかく、普通はそちらを選択するだろう。それが面倒臭がり屋の冬摩であればなおの事。
(な、何て事じゃ……)
 そう言えば『閻縛封呪環』を施されて冬摩に介抱された時、『死神』は冬摩の体には戻れなかった。その前提条件をすっかり忘れていた。
 完璧だと思っていた自分の計画があっさり破綻し、『死神』はよろよろと後ずさる。
 背中にぶつかった太い松の木から、大量の雪が頭上に降り注いだ。 

 深夜。
 皆が寝静まり、虫の鈴声だけが辺りに響く薄暗い空間。明かりと言えば、屋敷の方から微かに届く常夜灯の光のみ。
「むぅ〜……」
 『死神』は一人、誰も居ない露天風呂につかりながら盃を傾けていた。
 もうすでに小一時間ほど考え込んでいるが、名案は浮かんでこない。
 小さな水音を立てながら湯の中で足を動かし、白くすらりとした美脚を組みかえる。水面みなもに墨をたらし込んだように、ゆらゆらと淫蕩たゆたう長い黒髪を触りながら、『死神』は空になった盃に酒を満たした。
「難儀よのぅ〜……」
 呟くような声で言いながら、『死神』は盃に映り込んだ三日月を朧気な視線で見つめる。
 もう少し。いつも、もう少しと言うところで上手く行かない。
 必ず何かしら不備がある。最初の二回は『羅刹』の不手際。そして最後の一回は自分の計画ミス。どうしても詰めが甘い。隙が出来る。しかも切り札の『羅刹』を戻されてしまった。少々強引でも「まぁ『羅刹』だから」の一言で済ませられた事が出来なくなってしまった。
 あの後、冬摩と朋華が離れたりくっついたりする機会は何度かあった。別に二人の関係が悪くなったわけではない。確かにどこかぎこちないが、一緒に居たくないと言うよりは、互いに相手を強く意識しすぎて直視できないといった雰囲気だ。
 何があったかは良く知らないが、あともう一押し。あともう一押しで一線を越えそうなのだが、それを手助けする手段が思い浮かばない。
 露天風呂で甘美な空気でも演出しようと思ったが、冬摩と朋華が一緒に入る事はなかった。いっその事、二人の部屋に媚薬でも撒いてやろうかと思ったが、何故か別々の部屋で寝ている。
(いったい何があったというんじゃ……)
 盃の中身を一気に開け、『死神』は熱い息を吐いた。
 冬摩と朋華は、ここに来る前よりも物理的な距離は広がっている。しかし精神的な距離は縮まったように見える。冬摩の機嫌が良いのだ。何かしらの進展はあったと思うのだが、ソレが何なのか分からない。
 ソレさえ分かれば、上手い後押しの方法も考えようがあるというのに。
(いったん冬摩の体に戻るか?)
 そうすれば冬摩の記憶を知る事が出来る。
 記憶を覗けるか否かは、どれだけ強固な精神的防護壁を主が築けるかどうかに掛かっているが、冬摩の場合そんな物は無きに等しい。
 精神的防護壁とは、端的に言えば自分を知られたくないと言う気持ち。
 あけすけな冬摩のソレは、まさにザルのような物だ。冬摩が以前、この露天風呂で朋華に迫った一件を、いとも簡単に引き出せた事がなによりの証拠。隠し事などとは、ほど遠い位置にいる。それが荒神冬摩という男だ。
「じゃがなぁ〜……」
 『死神』は頭の上に盃を乗せ、とっくりの乗せられた盆が湯の上を滑っていく様をじっと見つめた。
 戻るのは別に良い。冬摩としてもうるさいのが一人減るのは大歓迎だろう。しかし再び出て来られる保証はどこにもない。冬摩と朋華の邪魔をした自分の姿を、すでに二度も見られてしまっている。
 今、冬摩の機嫌が良くなければ、いつ戻されてもおかしくない状況なのだ。出来れば他の手段を使って、冬摩と朋華に何があったのかを知りたい。
「何か良い手は……」
 ゆっくりと言いながら、ほんのり紅く染まった頬をそばにあった岩肌に押しつける。肌に直接伝わる心地よい冷たさを味わいながら、『死神』は瞳を閉じた。
 温泉と酔いから来る暖かさが体をめぐり、夜空から舞い降りる雪がのぼせない程度に微かな意識を保ってくれる。思わずこのまま眠ってしまいたくなる誘惑と戦いながら、『死神』は考えを巡らせた。
「む……!」
 もたれ掛かっていた岩から滑りそうになった『死神』の両目が、突然大きく見開かれる。そして殆ど反射的に後ろに飛び退いた。
 直後、さっきまで『死神』の居た位置に何か小さな塊が落下する。天を突かんばかりに湯を屹立させ、激しい爆音を辺りに撒き散らせた。
「何奴じゃ!」
 胸元を腕で隠し、『死神』は湯壁の向こう側に居る闖入者に向かって叫ぶ。
「虫」
 それだけで十分だった。
 暴れていた湯が収まり、姿を現したのは白髪、紅眼の少年――『羅刹』だった。
「虫。珍しい虫。くれ。今すぐくれ」
 『羅刹』はびしょ濡れになった白のヨットパーカーを引きずるようにして近寄り、両手を何度も突き出して来る。
「何を言っとる。まだ終わっとらんじゃろ。おあずけじゃ」
 相手が『羅刹』だと分かり、『死神』は前を隠していた両腕を腰に当てて言った。
「もう虫分ない。死にそう。虫くれ。虫」
「虫分?」
 『羅刹』にとっては栄養分の一種なのだろうか?
 よく見ると何やら禁断症状でも起こしたかのように、コチラに差し出した両手が震えている。
「しょーがない奴じゃのー」
 この中毒症が起こったせいで冬摩を叩き起こし、具現化させたのだろうか。冬摩の機嫌が悪くならなければいいが……。
「他の虫ならそこら辺に……ん?」
 言いかけて『死神』は重大な事に気付く。
 今、『羅刹』は冬摩の中から再び出て来た。とすれば、冬摩の記憶を覗いている可能性がある。どうして冬摩と朋華が今のようになってしまったのか、知っているかも知れない。
「『羅刹』、もう一踏ん張りじゃ。お主、冬摩の中でアヤツの記憶を見て来んかったか?」
「知らない。虫。虫」
「ええぃ、ちゃんと考えて思い出さんか。大切な事なんじゃ」
「虫。虫。虫。虫っ」
 だんだん『羅刹』の双眸が血走ってくる。元々紅い瞳を真紅に染め上げ、『羅刹』は爛々と輝く視線をコチラに向けて来た。もう、どこかに探しに行くという思考すら働かないらしい。
「『羅刹』落ち着け。お主が思い出せば、全てが解決する」
「虫虫虫虫虫虫虫」
「ら、『羅刹』?」
「虫蟲ムシむし虫……あ」
 連呼していた言葉を突然止め、『羅刹』はどこか遠くの方を見つめながら短く呟いた。まるでどこかの線が何本か切れてしまったかのように。
「どうした、思い出したか」
「テントウムシ」
「は?」
 あまりに的外れな『羅刹』の答え。そして――
「テントウムシィィィィィ!」
 叫びながら『羅刹』は『死神』に飛びついた。そして両腕両足で体をガッチリと捕らえ、『死神』の胸元に顔を埋める。
「ちょ、『羅刹』! それは妾のち……! コ、コラ! くすぐったいではないか! 変なトコを……!」
「虫! 虫! 虫! 虫ぃぃぃぃ!」
「なにぃ!? コレのドコが虫なんじゃ! おのれ無礼な! 不届き千万! そこになおれええぇぇぇぇぇ!」
 不毛な争いは夜明け近くまで続いた。

(まったく『羅刹』の奴め。誰にも許した事のない乙女の柔肌を好き勝手に弄びおって……。子供じゃと思っておったら、仁科朋華以上のむっつりすけべじゃわい)
 朋華の居る部屋に続く廊下の上を浮遊しながら、『死神』は胸中で愚痴を零した。
 あれから数時間に渡る壮絶な戦いが繰り広げられた。『羅刹』は普段より数段速い動きで『死神』の体の一部を狙って疾走し、『死神』は『飛翔』でそれをかわしつつ『真空刃』で迎撃。しかし際限なく加速し続ける『羅刹』に戦況が傾き始め、押し倒されそうになった時、偶然近くを飛びかかった本物の真っ赤なテントウムシのおかげで事なきを得た。
(あんな物と見間違えられるとはのぅ。妾もまだまだ躰に磨きが足りんという事か。それにしても……)
 まさか虫分の枯渇した『羅刹』があれほどの力を発揮するとは思わなかった。吸血状態に匹敵する強さだ。もしあの時、テントウムシが通りかからなければ……。
(あやうく母性に目覚めるところじゃったわい)
 少し怒ったような表情で顔を赤らめながら、『死神』は朋華が居るはずの部屋の前までやって来た。
 危険な目には遭った。しかし得る物もあった。
 それは落ち着いた『羅刹』から聞き出した、冬摩と朋華の関係が変化した理由。思わず納得させられた。それなら二人が今別々の部屋に居る事も、冬摩の機嫌が良い事も理解できる。
 そして何より、『羅刹』の力を借りなくても朋華の背中を容易に後押しできる。
「仁科朋華、妾じゃ。居るか? 入るぞ」
 障子越しに声を掛け、『死神』は反応が返って来るのを待った。
「え? あ、はい。どうぞ」
 少し驚いたような朋華の声を聞いて、『死神』は障子を開ける。
 中に居たのは朋華一人だけだった。『死神』が最初に通された部屋と全く同じ造りの室内で、朋華は静かに座布団に座っていた。
「何じゃ、冬摩と一緒ではないのか」
 『死神』は朋華の向かい座布団に腰を下ろし、何も知らないフリをして話し掛ける。
「え? は、はぁ……ちょっと、今は……」
「喧嘩でもしたのか」
「い、いいえ! 全然そんな事ないです!」
 意地悪く聞いた『死神』に、朋華は全力で否定した。
「ならどうした。いつもべったりのお主達が珍しいではないか」
「べ、べったりってほどでも、ないんですけど……」
 顔を紅潮させて、尻窄みに声を小さくしていく朋華。このタイミングだと思い、『死神』は顔を引き締めて言葉を発した。
「妾でよければ相談に乗るぞ」
 朋華の目を真っ正面から射抜き、座布団の上で正座する。
 普段の『死神』らしからぬ真摯な態度。それを見た朋華は何か迷うように視線を乱して少し俯く。そして思い詰めた表情をした後、小さく頷いて顔を上げた。
「そう、ですね……。『死神』さんなら恋愛経験も、私なんかよりずっと多いですもんね」
「まぁな」
 本当は冬摩以外の男に惚れた事はないのだが、『死神』は自信満々の顔で言い切る。
「あの……私、何か変な病気になっちゃったみたいなんです」
「ほぅ。どんな?」
「その……冬摩さんの事、意識し過ぎちゃうと、気絶する、みたいなんです……」
 小さな声で途切れ途切れに言葉を紡ぐ朋華。
 そう。冬摩と朋華が離れている理由はそれだった。
 朋華はこの屋敷に来てすでに二度、恥ずかしさのあまり気絶している。意識が途絶えるという強い衝撃を短時間の間に繰り返してしまったため、体がその反応を覚えてしまったのだろう。
「で、でも、私……冬摩さんの事、好きだし、そばに居たいし、でも……」
 朋華は冬摩と一緒に居る事が当たり前だと思っていた。しかし離れざるを得ない状況に陥り、その当たり前の事の重大さを再認識した。そして冬摩のそばに居たいという気持ちをより強く感じた。
 本人に自覚はないかも知れないが、朋華は以前よりもさらに積極的になりつつある。この病気をなんとかして、冬摩のそばに居たいと強く思っている。
 朋華と離れているにもかかわらず、冬摩の機嫌がいい理由がそれだ。
「有る物の大切さは、失ってから初めて分かる。仁科朋華。お主の気持ち、よく分かるぞ」
 『死神』は瞑目し、鷹揚に頷く。
「あの、『死神』さん。この病気……すぐに治せないでしょうか」
「治せる」
 不安げな表情で聞いてくる朋華に、『死神』は即答した。
「ほ、本当ですか!?」
「ああ。今まで妾が嘘を付いた事があったか」
「…………。いいえ!」
「なんじゃその間は」
 ゆうに二呼吸ほどの間を空けて否定した朋華に、『死神』は眉を顰める。
「まぁよい。とにかくお主のその奇病は過度な羞恥心から来る物じゃ。冬摩を想う強い気持ちと、周りからの視線に対する過剰な自意識が、悪い具合にぶつかり合っておる。コレを永続的に落ち着いた物にするには、それ相応の時間を掛けねばならんじゃろうな」
「……やっぱり、すぐには無理なんですね……」
 『死神』の結論に、朋華は大きく肩を落とした。
「話は最後まで聞け。確かに“永続的に”はすぐには不可能じゃ。しかし“一時的に”なら、四半刻……まぁ三十分もあれば可能じゃ」
「ホントですか!? どうすればいいんですか!?」
 冬摩のそばに居たくても居られないもどかしさがよほど強いのか、朋華は目を輝かせて『死神』に詰め寄る。
「なぁに。この魔法の水を使えばアッという間よ」
 悪戯っぽい笑みを浮かべながら、『死神』は袖長白衣の袂から日本酒の瓶を取り出した。

 午後八時。
 まぐろのフルコースを完食し、冬摩は露天風呂で一人くつろいでいた。
 『死神』は岩影に身を隠し、少しの邪魔も入らないように『羅刹』を押さえつけながら様子を窺っている。予定ではもうすぐ朋華が入って来るはずだ。今まだ、外で少し酔いを冷ましているのだろう。
(ある程度予想はしておったが、あそこまで弱いとはのぅ……)
 昼間、朋華の酒に対する強さを調べるために少し飲ませてみた。
 一口。いや、唇を僅かに濡らす程度に含んだだけで顔は上気し、目は潤み、体中の力が抜けていった。そして夕食の直前まで熟睡する事となった。
 目が覚めた時にはすっかり酒は抜けきっていたが、これでは飲ませ所を誤るわけにはいかない。失敗して何時間も待たされたくないのは勿論の事、一日中朋華が寝ていたのではさすがに冬摩に怪しまれる。
 最も効果的なところで飲ませ、一回で決めなければならない。
(となればやはりココしかないのぅ……)
 『死神』はイヤらしく目を細めながら、脱衣場の方を見る。まだ朋華が来る気配はない。
 朋華が日本酒を飲んだのはつい先程。冬摩、朋華、『死神』、『羅刹』の四人で夕食を食べ終えた直後だ。
 朋華は冬摩と二人きりではなく、他の誰かと居る時には気絶しない。食事くらいは一緒に取りたいと冬摩が自分達を呼び出したのだが、『死神』にとってはまさに渡りに船。
 冬摩が食べ終わるタイミング、朋華に酒を飲ませるタイミング、その二つを同時に計る事が出来るからだ。
 冬摩は一時間掛けて、刺身、鍋、おすい物、焼き魚、寿司などに調理されたまぐろ一匹を食べ尽くし、ゼラチン質から作ったまぐろゼリーで夕食を締めくくった。そしてすでに食べ終わっていた朋華と一緒に席を立ち、その足で露天風呂へと向かった。
 まさに絶好のタイミング。
 ためらう朋華に半ば強引に酒を飲ませ、崩れ落ちる前に外へと連れ出した。熱く火照った体を少し冷ました後、露天風呂に来るようにと言い含めて。そして冬摩を押し倒せと付け加えて。
(もうすぐ。もうすぐ来るはずじゃ……)
 数分後に起こるだろう光景を頭の中に思い描きながら、『死神』は楽しそうに口元を緩める。
 外に連れて行った朋華は、焦点の合わない目で『死神』を見つめながらも首を縦に振った。もう複雑な事など考えられないだろう。言われた事を言われたままに実行するだけだ。
 そう。朋華はすでに『死神』の傀儡。迷う事なくあの脱衣場から全裸で――
(来おった!)
 ついに脱衣場の方から一人の人影が姿を現した。
 ふらつく足取り、湯けむりに映る小柄な女性のシルエット。
「とーまひゃ〜ん」
 そしてろれつの回っていない声。
 間違いない。仁科朋華だ。
 仁科朋華が冬摩の居る露天風呂に入って来た。
「と、朋華? お前何やってんだ」
 湯船の中から動揺した声を上げる冬摩。
 それはそうだろう。昼間は長い時間一緒に居る事すら出来なかった朋華が、冬摩しか居ない露天風呂に一人で入って来たのだ。
 ――服を着たまま。しかも土足で。
(しまったぁぁぁぁ! アヤツも一から百まで教えんといかんようになってしまったかぁぁぁぁ!)
 『羅刹』の頭を両手でギリギリと締め付けながら、『死神』は内心ほぞを噛む。
「何って決まってルじゃなーいでーすカー。とーまひゃんに、会いに来たんれフよ〜」
 へらへらと幸せそうに笑いながら、朋華は一気に跳躍した。そして温泉の中に尻からダイブする。
「とーまひゃん、好きれフ〜」
「お、お前酔ってんな?」
 冬摩の首筋に腕を回し、しなだれかかる朋華。冬摩は戸惑いながらも、朋華が湯に溺れないようにしっかりと支える。
「嬉しくないんれフか〜? あんラに一緒に入りたがってたのに〜」
 冬摩の首を抱きよせ、大きく顔を近づけながら朋華は熱っぽく言った。
「い、いや。嬉しいけどよ、お前酔ってんじゃねーか。危ねーって。早く上がった方がいい」
「酔っぱらいは嫌いれフか〜?」
 冬摩の言葉に朋華は泣き出しそうな顔になって目を潤ませる。
「いや、だから、嫌いとかそういうんじゃなくてよ……」
「じゃあ好きれフか?」
 今度は太陽のように眩しい笑顔になって、期待に満ちた視線を冬摩に向けた。
「ま、まぁ、そりゃあ、よ。好きだぜ」
「私も大好きれフー!」
 叫びながら朋華は、冬摩を湯船に押し倒さんばかりの勢いで抱きつく。
(おおー、これがあの仁科朋華か。まるで別人じゃな)
 あの冬摩さえも翻弄する朋華の手腕に、『死神』は思わず感嘆の声を上げた。
 服のまま入って来て失敗かと思ったら、見事に冬摩を自分のペースに引きずり込んでいる。しかも服は湯で濡れて透けてしまい、ある意味裸よりも色っぽく肢体を浮かび上がらせていた。
「とーまひゃん、この前の続き……しますか?」
(よーし来たー!)
 冬摩から少し顔を離し、屈託の無い笑みを浮かべながら言い寄る朋華に、『死神』は胸中で快哉を上げた。
 長かった。色んな障害があった。様々な苦労を強いられて来た。
 だがようやく報われる時が来たのだ。

『朋華、お前が欲しい』

 以前、この場所で冬摩が言った言葉。あの時はもう少しと言うところで邪魔が入った。しかしその邪魔者は今自分がしっかりと押さえつけている。
 二人だけの露天風呂。朋華の方からの誘い。冬摩が拒絶するはずもないだろう。
 『死神』は勝利を確信していた。だが――
「朋華、こういうのはやめようぜ」
 朋華の両肩に手を置き、冬摩は体を引き離した。
「俺はよ、お前の事凄く好きだ。愛してる。世界中で一番大切な存在だ。お前のためなら何だって出来る。だからいつかお前と結ばれたいと思ってる。けど、こういうのはなしだ」
 冬摩は微笑しながら、諭すような口調で続ける。
「俺だって女に恥じかかせるような真似はしたくないんだけどよ、初めてが酔った勢いってのはちょっとな……。やっぱ、俺はいつも通りのお前がいいな」
「とうまひゃん……」
(冬摩、お主……)
 意外な反応に、朋華も『死神』も言葉を失って冬摩の顔を見つめた。
「時間はいくらでもあるんだからよ。焦らずにゆっくりやってけばいいんじゃねーのか? 恥ずかしがり屋でもいいじゃねーか、気絶したっていいじゃねーか。俺はずっとお前のそば居て、ずっと待ってるからよ。だから、そういう言葉は素面の時にもう一回掛けてくれ。な?」
 最後に朋華の頭に軽く手を乗せ、冬摩は言葉を締めくくる。
 冷たい風に乗って、さっきまでやんでいた雪が二人の間に舞い込んだ。雪は冬摩の体、朋華の頭に降りおり、熱に溶かされて姿を消す。温泉から立ち上る湯けむりが濃くなり、二人の体を包み込むように覆った。
(ま、今回はコレでよしとするか……)
 二人から目を逸らして背を向け、『死神』は眉を上げながら溜息混じりに息を吐いた。
「とうまひゃん……」
 朋華が冬摩を呼ぶ声が後ろから聞こえてくる。そして――
「ダメれフー! 今するんれフー!」
 キャハハハ! とひょうきんな笑い声と共に何かが湯の中に落ちる音が上がった。
「と、朋華! ちょ、溺れ……!」
 水音混じりの冬摩の叫び声。慌てて振り返ると、朋華が冬摩に馬乗りになって押し倒しているのが目に入った。
(おおー! 今の朋華は誰にも止められん! そのまま行けー!)
 『死神』は大きく目を見開いて、さらに暴走する朋華を心の中で応援した。
 冬摩は朋華を強くは拒絶できない。ましてや手を上げるなどもっての他。このまま強引に突き進めば、朋華の方から冬摩を抱く事になるのは間違いない。
 そう、これで確実に二人は結ばれるのだ。
 確実に――
(……ん?)
 そこまで考えて、『死神』は何か重大な間違いを犯している事に気付く。
 自分の目的はあくまでも朋華を積極的にさせる事。冬摩を奪い合う良きライバルとして、成長させるのが今回の作戦の主旨だ。
 その方法の一つとして、冬摩が朋華を抱く“寸前まで”行くように仕向けて来た。
 なのに今、“最後まで”突っ走ろうとしている。これでは何をしているのか分からない。
「ちょぉぉぉぉぉっと待ったあああぁぁぁぁ!」
 気が付けば大声を上げて岩影から飛び出していた。そして抱き合う冬摩と朋華の間に割って入り、二人を引き剥がす。
「なにするんれフか〜。『ちりがみ』さんがやれっていっラのにぃ〜」
 『死神』に押し倒され、朋華は湯船に尻餅を付きながら不平顔で見上げて言った。
「『ちり紙』ではない『死神』じゃ! ああいや、そんな事よりここまでやれとは言っておらん!」
「ほぉー。何かおかしいと思ったら、やっぱりお前の仕業か」
 背後から、ボキボキと小気味いい音が聞こえた。同時に『死神』の全身から血の気が引いて行く。恐る恐る振り向くと、長い黒髪を総毛立たせ、殺意の光を宿した双眸でこちらを見下ろす冬摩が拳の骨を鳴らしていた。
「ああいや、これはじゃな。色々と事情が……」
「虫」
 言い訳しようとする『死神』の下で、いつの間にか来ていた『羅刹』が手を伸ばして言ってくる。
「交尾終わった。虫くれ。交尾終わった。虫くれ」
 冬摩の目の前で、『交尾、交尾』と連呼する『羅刹』。一回言うたびに、冬摩のこめかみに浮き出た血管の数が増して行った。
「ば、バカ……! 『羅刹』、後でやるから今は……!」
『しーにーがーみー』
 二重に聞こえる冬摩の低い声が、頭上から降り注ぐ。
 もう終わりだ。何もかも。
 積み上げて来た物が全てなくなると、逆にすがすがしい気持ちになる。討ち死に。大いに結構。本望だ。だがせめて、最後にもう一花。
「『羅刹』、分かった」
 『死神』は自嘲めいた笑みを浮かべながら、眠そうに瞼を下げる朋華の足に手を伸ばした。そして履いていた靴を脱がせる。
「コレが、世にも珍しい虫じゃ」
 朋華の靴を『羅刹』に渡しながら、『死神』は爽やかに笑い掛けて言った。
「違う。コレ靴」
「何を言っとる。『靴は虫(クツワムシ)』と言うではないか」
 親指をグッ! と力強く立てて、『死神』は会心の笑顔を披露する。
「キャハハハハハ! チーン、鐘ひとーつ! 座布団全部もってちゃってー!」
 甲高く響き渡る朋華の叫び声。
「……殺す」
 確固たる決意の視線を向け、短く言う『羅刹』。
「もぅ思い残す事はないな」
 凶悪な笑みを口の端に張り付かせ、野太い声を発する冬摩。
「散らば無用の桜の花びら! 一片の悔いなあああああぁぁぁぁぁぁし!」
 『死神』の絶叫が、星々の煌めく暗天に吸い込まれる。
 こうして、温泉旅行に乗じた『死神』の大作戦は幕を下ろしたのだった。

 そして数日後。
 『死神』は冬摩の中で、彼の視界が映し出す物を見ていた。
 隣りには普段着の朋華の姿。そして朋華の後ろを付いて歩くのは『羅刹』。場所はいつものデートコースである川沿いの土手。
 温泉旅行から戻っても、朋華の『病気』は相変わらず健在だった。冬摩を意識し過ぎるあまり、頭に過剰な血が上ると気を失う。だからこうして『羅刹』と三人で歩いている。
 それでも冬摩と朋華は幸せそうだった。
(元の木阿弥どころか、一歩後ろに下がってしまったのぅ……)
 ううむ、と唸り声を上げながら『死神』は考えを巡らす。
 あの露天風呂での一件以来、『死神』は一度も外に出して貰っていなかった。謹慎一ヶ月を言い渡されてしまったからだ。だがせめてもの救いは、朋華が酔っていた時の事を全く覚えていなかった事か。
 もし覚えていれは朋華は冬摩と顔を合わせる事すら出来なかっただろう。そうなれば当然、『死神』への罰は一層重い物になる。
(まぁよいわ。一ヶ月、ゆっくりと策を練る時間を与えられたと思えばいい)
 そんな事を思いながら、冬摩の中で待機する他の使役神達に目を向ける。
(使えそうなのは……)
 一人一人品定めでもするかのように、ゆっくりと視線を這わした。そして三本の長い尻尾を持つ銀毛の猫、『天冥』で目を止める。
(子供の次は動物、じゃな)
 全く反省していない『死神』だった。

 【終】





空メールでも送れますが、一言添えていただけると大変嬉しいです。

TOP


Copyright(c) 2006 all rights reserved.

-Powered by 小説HTMLの小人さん-

inserted by FC2 system