貴方に捧げる死神の謳声 第二部 ―闇子が紡ぐ想いと因縁―

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壱『闇子の喚び声』


 ――初めまして、赤ちゃん。私が貴方のお母さんよ。

 ぼやけた視界。揺らぐ音。微かな温もり。優しい声。

 ――でも、さようなら……ごめんな、さい。

 か細い腕。握られた刃物。閃く白光。温かい――涙。 

 ソレは拭い去れない過去の記憶。重くのし掛かる古の呪縛。そして自分が生きていくための――糧。 
「大丈夫。大丈夫だよ。母さん。僕は、強くなったから」
 暗い自室に一人籠もり、彼は自分の膝を抱きかかえて虚空を見つめていた。
 紅月が近くなったせいだろう。虫の声すら聞こえない静かな夜は、神経が異常に研ぎ澄まされる。
 見えなくて良い物が見えてしまう。聞かなくて良い音も聞こえてしまう。
 そして、思い出さなくて良い事も――
「大丈夫。大丈夫だよ。母さん。龍閃は死んだけど、使役神はみんなちゃんと残ってる。受け継いだのは適格者だから安心して」
 彼は誰も居ない空間に向かって呟き続ける。
「もうすぐ。もうすぐだよ。母さん。きっともうすぐ、分かるから……」
 彼はその後も一人で呟き続けた。
「アイツの召鬼を使えば、きっと分かるから……」
 まるで、自分に言い聞かせるように。

 ◆◇◆◇◆

◆呪われた者からのいざない ―仁科朋華―◆
 冬摩が居なくなって二日が過ぎた。
 朝霧高校。昼休み。
 午前中の授業から解放され、皆が賑わいを見せる時間帯。仁科朋華は今日も一人、窓際の自分の席でお弁当を食べていた。
(やっぱり、一人じゃつまんないな……)
 箸を弁当箱の上に置き、朋華は溜息をついて窓の外を見る。
 肩口で切りそろえた栗色のショートヘアーが僅かに揺れた。
 髪を止めているチェリーピンクのヘアバンドを外して、じっと見る。この前、冬摩が似合うと言って買ってくれた物だ。コレを付け始めた次の日、彼は朋華の前から姿を消した。
「やっはー、朋華っ。元気ないじゃない」
「……御代ちゃん」
 今やすっかり仲の良くなってしまった穂坂御代が、ツインテールに纏めた黒髪を揺らして近づいてくる。 
「どしたの? って、聞くまでもないか。旦那が居ないんじゃねー」
 御代の言葉に朋華は耳まで真っ赤になった。
「だ、ダンナって、ちょっと……」
「いいじゃん、いいじゃん。どーせ公認の仲なんだしさ」
 にひひっ、と下品な笑みを浮かべながら、御代は朋華をからかう。
「荒神君てさ、核爆発に巻き込まれても死にそうにないくらい丈夫な体してるのに、ポツポツ病気になったりするよね。不思議ー」
「核爆発って……」
 確かに冬摩なら『イテーな、コノヤロウ! ブッ飛ばすぞ!』とか言って、元気一杯反撃して来そうだが。
「冬摩さんだって体調崩す事くらいあるよ」
 実際には違うのだが。
「ふーん。じゃ、今日も早く帰って愛情こもった看病かー。いいなー、彼氏持ちは。羨ましー」
 あはは、と笑いながら御代は茶化した。
 本当にソレが出来ればどんなに幸せだろうと、朋華は心底思う。二ヶ月に五日間とはいえ、会えない日が続くのは気が滅入る。
「で、さ。今どこまで行ってるの?」
 落ち込む朋華をよそに御代はあいている前の席に座り、好奇に目を輝かせながら聞いてきた。
「どこまでって……何が?」
「とぼけちゃってー。関係よ、二人のカ・ン・ケ・イ。もうキスくらいはしたんでしょ?」
 大分落ち着いていた顔の血管が再び全開になる。もう冬だというのに、後から後から汗が湧き出て来た。
「どうなのっ。まさかまだとかっ?」
 そんな朋華の反応を楽しむように、御代は体を乗り出して来る。
 最近、冬摩と二人きりの時は大分言いたい事を言えるようになって来た。行動も徐々に大胆になって来ているのも分かる。それは冬摩が自分に対して何も包み隠す事なく接してくれているからであり、朋華自身も冬摩と一緒にいる時には飾らない自分を見て欲しいという思いの現れでもあった。
 ――だが、あくまでも冬摩と二人で居る時だけだ。
 やはり周りに視線があると恥ずかしいし、今みたいに面と向かってそういう事を聞かれると答え辛い。
「それは、その……」
 ゴニョゴニョと口ごもっていると、御代はますます調子に乗って顔を寄せてくる。
 異様な圧迫感から逃れようと朋華が御代の肩を掴み、引き剥がそうとした時、全身に鋭い戦慄が駆けめぐった。
「危ない!」
 叫び、反射的に御代を押し返す。
 手加減はしたつもりだったが、御代は派手な音を立てて後ろにひっくり返った。直後、窓ガラスの破砕音と共に、さっきまで御代の顔があった位置を何かが通り過ぎる。
(ボール……野球のボール?)
 もの凄いスピードで駆け抜けた物体を、朋華の動体視力は捕らえていた。
 御代の顔を狙って飛来した硬式のボールは、照明を割って天井にめり込み、ようやく勢いを止める。そして床に蛍光灯の破片が落ちた時、思い出したように教室内が騒然となった。
「な、何……何なのよ……」
 一体何が起こったのか分からず、御代は床に尻餅をついたまま目だけで天井のボールを追う。
 朋華はカッとなって割れた窓ガラスを開け、バットとグローブを持っている男子生徒二人に向かって叫んだ。
「コラー! 危ないじゃないのー! あんなのが当たったら怪我じゃすまないわよ! コッチ来て謝りなさい!」
 朋華の怒声に、教室内が一瞬で静まりかえる。まさか大人しい朋華が、あんなに声を張り上げるとは思わなかったのだろう。
 確かに、いつもならこんなに感情を剥き出しにする事はない。
 だが、紅月の日となると話は別だ。
 冬摩の召鬼となった朋華は、紅月の影響を受ける。体が活性化されて力が溢れ、攻撃的な性格になる。
 今、冬摩が朋華から離れている理由も紅月にあった。
 龍閃を倒し、冬摩は九匹もの使役神を体に宿した。式神は陰陽術で、神鬼は魔人の心臓部である核から作られた存在だ。当然、月の影響は多分に受ける。
 元々好戦的な冬摩だ。『鬼蜘蛛』一匹を宿していた時でさえ、紅月の夜にはじっとしていられないくらいの昂揚感に襲われた。
 それが一気に九匹に増えたのだ。彼らが冬摩にもたらす破壊衝動は想像を絶した。
 だからこそ冬摩は朋華から離れた。
 朋華を傷付けないために。
 一人、誰も居ない山奥に籠もって崩壊しそうになる自我と戦いながら、紅月の日が過ぎるのを待つ。紅月当日は勿論のこと、その前後二日間。殺戮の欲望に呑み込まれないように、冬摩は孤独な戦いを強いられた。
 そして今日は紅月。冬摩が最も苦しい時だ。
 なのに自分は何もしてやれない。遠くから無事帰って来るのを祈るだけ。
 魔人と召鬼は繋がっている。普段なら互いの位置も分かるし、気持ちも何となく伝わってくる。しかし、この時期になるとその感覚が麻痺してしまったかのように何も感じなくなるのだ。
 そのもどかしさが苛立ちに変わり、紅月の影響と相まって朋華は声を張り上げた。
(まったく……)
 眼下で自分達の失態に戸惑いつつも、校舎内に逃げ込んでいく男子生徒達。朋華の教室は五階にあるため顔は見られていないと思い込んでいるのだろう。
 しかし朋華の目にはハッキリと二人の顔が映っていた。
(召鬼の力を甘く見ないでよねっ)
 ふんっ、と怒りで鼻を鳴らして、未だに腰を抜かしている御代を見る。
「大丈夫?」
「あ、うん……なんとか……」
 足を震わせながらも、御代は何とか立ち上がった。
「こ、こんなのよりもっと凄いの経験してるからね。アレに比べたら大した事無いわ」
 言いながら引きつった笑みを浮かべる。
 恐らく昔、冬摩と『死神』の戦いに巻き込まれた時の事を言っているのだろう。
「でも、凄いよねー。良く知らないんだけど、野球のボールってあんなに飛ぶものなの?」
 天井に深くめり込んでいるボールを見ながら、御代はどこか感心したように言った。
 言われてみればそうだ。
 ここは五階。ボールは窓ガラスを突き破っている。
 にもかかわらず天井に埋まる程の勢いが残っていた。
「私もよく分からない。野球部の人とかだったら簡単に出来ちゃうものなのかな」
 どちらせよあの二人にはすぐに会うんだ。その時、ついでに聞いてみればいい。
 飛散したガラスを片付ける手伝いに加わりながら、朋華はとんだ昼休みになったと溜息をついた。

 犯人は一年生だった。
 放課後、シューズボックスの並ぶ校舎の出入り口で、朋華に呼び止められた二人は気まずそうに顔を見合わせながらも、素直に謝ってくれた。
「分かってくれればいいの。でも今度からは気を付けてね。あと、明日でいいから御代ちゃんにはちゃんと謝っておくこと。分かった?」
 腰に手を当て、朋華は少し語調を強めて言う。下校する生徒達の注目を集めながらも、朋華は毅然とした態度を崩さないまま答えを待った。
「わ、分かりました……」
 二人のうち、背の低い真面目そうな方が呟くように言う。その言葉を満足そうに聞きながら、朋華は大きく頷いた。
「あ、あの……」
 もう一人のつり上がった目をした男子生徒が遠慮がちに声を掛けて来る。
「ボール打ったの、自分なんですけど……」
「そうなの」
「言い訳するつもりじゃないんですけど、その……俺あの時の事、良く覚えてないんですよ……」
 彼の言葉に朋華は眉を顰めた。
「でも打ったのは貴方なんでしょ?」
「そ、それは。バット持ってたのは俺ですから、それは分かるんですけど、なんつーか、その……気が付いたら打ってた、みたいな……」
 歯切れ悪く言う彼を不審げに見つめながら、朋華は質問を続ける。
「気が付いたら打ってたって、どんな感じなの?」
「だから良く覚えてないんですけど……一瞬、眠くなって、目が覚めたらボールがバーン、みたいな……」
 言いたい事は分かる。分かるのだが、にわかに信じられる話ではない。彼が夢遊病者でもない限りは。
 朋華は困惑しながらも、別の質問をする。
「ねぇ、バットで打ったボールって、あんなに飛ぶものなの?」
 取りあえず自分の教室内での惨事を事細かに説明した。
 聞き終え、背の低い男子生徒が答える。
「あり得ないですよ。だって僕ら軽くボール投げて、適当にバット振ってただけですから。だから、まさかあんなに飛ぶなんて……」
 二人は再び顔を見合わせ、「なぁ?」と互いに同意を求めた。
 この二人が事前に口裏を合わせている、という可能性は十分考えられる。だが、それなら最初から罪を認めずに、もっと利口な言葉を並べて言い逃れするはずだ。そもそも『覚えていない』なんて言葉、普通は信じて貰えるはずがないのだ。高校一年生の言い訳にしてはあまりに稚拙すぎる。
「そぅ、分かったわ」
 信用した訳ではないが、これ以上二人を追及しても本当の事は分かりそうにない。だが、御代が大怪我をしそうになったことは事実。
 朋華はもう一度、明日御代に謝罪するように念を押して二人を解放した。
(『覚えてない』、か……)
 反省文にも今言ったのと同じ事を書くつもりだろうか。
 嫌な予感を残しつつも、朋華は自宅に戻る道を歩き始めた。

 いつもは冬摩と並んで歩く大通りに面した歩道。
 二人で居る時には、街行く人達がみんな幸せそうに見えたものだが、今は疲れている人の方が目立った。今更ながらに、自分がどれだけ浮かれていたのかを悲しいくらいに実感してしまう。
(つまんない……)
 項垂れ、少し口を尖らせながら朋華はとぼとぼと歩き続けた。
 ファーストフードの前で談笑する女子高生達。レンタルビデオ店から出てくるカップル。自分の子供を大事そうに抱えてスーパーに入って行く主婦。
 幸せそうな彼らの顔が、今の朋華には妙に辛かった。
 別に冬摩と五日間離れるのは今回が初めてではない。だが慣れる事など無い。そのたびに息苦しささえ覚える胸の締め付けに襲われる。しかしそれは同時に、冬摩への想いを再確認できる機会でもあった。そして冬摩が帰ってくるたびに、着実に距離が近づいて行くのを感じ取れた。
(キス、かぁ……)
 御代の言葉が脳裏をよぎる。
 正直言うと一度だけした事はあった。
 それは前回、冬摩が帰ってきた時。出迎えたのは夜で、誰も居ない公園だった。逢いたかったという想いが最高潮に達し、朋華の方から目を瞑って誘った。
 今でもまだその時の感触が唇に残っている。以来、冬摩は事あるごとに口付けを迫って来たが、何となく気恥ずかしくてはぐらかしてしまった。
 だが、もし今冬摩が目の前にいてくれたら……。
「――!」
 周囲に轟く甲高い叫声。
 悲鳴とタイヤのスリップする音で、朋華の思考は中断された。
 慌てて顔を上げると、車の激しく行き交う大通りに子供がフラフラと歩き出していた。誰も何も反応できず呆然と見守る中、子供に二トントラックが迫り――
(間に合え!)
 朋華は左足のバネを爆発させて跳躍する。視界の中で子供が劇的に大きさを増し、半呼吸もたたない内に両腕に収まっていた。歩道に戻ろうとアスファルトを蹴る。ガードレールを越え、子供の体がトラックの突進軌道から外れた直後、朋華の脚にトラックのフロントガラスが触れた。
「――く!」
 短く息を吐き出す朋華の視界が激しく揺れる。ハンドルを切り損ねたトラックの巨体が朋華の体を呑み込み、軽々とはじき飛ばした。まるで意思のない人形のように四肢を垂らしたまま中空に投げ捨てられ、朋華の体は重力に引かれて地面へと叩き付けられた。
 誰が見ても即死だ。
 ――普通ならば。
「い、たたた……」
 苦鳴を上げながらも朋華は両手でアスファルトを押し返し、四つん這いのまま顔を上げた。そして自分が助けた子供の無事を確認する。どうやらトラックに接触する前に子供を解放していたらしい。
 ほっと胸をなで下ろし、朋華は制服に付いた埃をはたきながら立ち上がった。
「あ、あの……! あ、有り難うございました! ほ、本当に、何てお礼を言ったらいいのか!」
 涙で顔をクシャクシャにしながら、さっき助けた子供の母親らしき人が朋華にお礼を言ってくる。ソレを皮切りに、周囲で大歓声が上がり始めた。
 「奇跡だ!」「信じられん!」「なんて頑丈なねーちゃんだ!」と口々に騒ぎ立てながら、朋華に詰め寄ってくる。
(やば……勢いで……)
 ははは、と苦笑で返しながら、朋華はトラックを見た。
 自分と派手にぶつかったせいで、トラックのフロント部分がかなり酷く凹んでいるが、運転手に大した怪我はないようだ。それよりも朋華を轢いてしまった事で、顔面を見事なまでに蒼白にしている。彼の方が可哀想に思えてしまうくらいに。
 最後に自分の体を見下ろす。
 スカートの裾が大きく破けてスリットのようになっている事以外は、至って普通の状態だった。見たところ外傷は無い。腕や脚を動かしてみるが、痛みは殆ど無い。
 今夜は紅月だ。召鬼の頑強性や回復力もある程度は増幅されているのだろう。
「あの、あの、早く病院に……!」
 母親が切羽詰まった表情でまくし立ててきた。
「あ、私は平気ですから。お子さんの方は大丈夫ですか?」
 言いながら彼女の腕の中で放心している子供を見る。
「は、はい! おかげさまで! でも貴女の方は……!」
 どうやら事故直後でかなり昂奮しているようだ。自分の子供が巻き込まれたのだから無理もないが。
「すぐに! すぐに救急車呼びますから! 座って待ってて下さい!」
 殆ど叫び上げながら、彼女は携帯を取り出した。
「あ、ホントに良いですから。私このまま帰れますから。それじゃ」
 面倒な事になる前に居なくなった方がいいなと考えながら、朋華は素早い身のこなしで人混みを駆け抜ける。そして誰かの呼び止めの声を遠くの方で聞きながら、朋華は家路へとついた。

 家に帰ってシャワーを浴び、母親と二人きりでの夕食。今日、父親は残業で遅くなるらしい。
 十畳ほどのダイニングキッチン。白いテーブルの上には、野菜を中心とした料理が所狭しと並べられている。花瓶の台の隣に置かれた二十インチ程のテレビからは、今日あった出来事がまとめて放送されていた。
 学校であった事や、もうすぐ始まる冬休みの予定を話していると、いきなり冬摩との関係について触れられた。
「で、最近どうなの? あの荒神君って子と進んでる?」
 思わずみそ汁を吹き出しそうになる。
 御代だけならまだしも、母親まで……。いや、母親だからこそなのだろうか。
「な、なによ。いきなり」
 少しむせながら、朋華は聞き返す。
「お父さんはあんまり乗り気じゃないみたいだけど、お母さんはアンタ達の事、応援してるからね。ちゃんとゲットとするのよ」
 グッ、と親指を立てながら母親は極上のスマイルを浮かべた。
 前に一度だけ、冬摩が家に来た事がある。休日の昼間だった。デートの時はいつも朋華の方から冬摩の部屋に行くのだが、あの時は何故か冬摩が家に来たのだ。
 理由は単純。
 『早くお前の顔が見たくなったから』
 もう三十分もすれば会えるのに、ソレが我慢できなかったらしい。
 朋華としてはソレはソレで嬉しいのだが、突然親しげな男の子が現れたものだから、両親にしてみれば晴天の霹靂もいいところだ。
 思った事はすべて包み隠す事なく喋る冬摩。
 『朋華に一生添い遂げる、死んでも離れるつもりはない』
 と、正直な気持ちを聞いた父親は四十度近い高熱を出して倒れるわ、母親は冬摩の素性を喜々として根ほり葉ほり聞きまくるわ、あの時は本当に大変だった。
「今時あんな真っ直ぐな子いないわよねー。お母さんもあと二十年若かったらなー」
 遠い目をしながら、視線を宙に泳がせる母親。
 頼むから娘の前で恋い焦がれる乙女の顔はしないで欲しい。しかもその娘の恋人に対して。
「で、いつ頃結婚する予定なの?」
 ひじきの煮物が鼻から飛び出そうになった。
「あ、あの……母さん。私達別にそこまで行ってる訳じゃ……」
「でも好きなんでしょ?」
「そ、そりゃあ……」
 好きだ。大好きだ。出来るなら今すぐにでも逢いたいくらいに。
 だが今は一緒に居るだけで十分で、結婚などは考えた事がない。夫婦よりも恋人として接していたいと言う気持ちもある。ゆくゆくは結婚すると思うのだが……。
「こーゆーのは気持ちが乗ってる時が一番なのよ。思い立ったが吉日って言うでしょ。お母さんも学生の時に結婚したかったんだけど、親に猛反対されて出来なかったのよー。だから朋華の歯がゆい気持ち、よーく分かるわ。お金の事なら何とかしてあげるから遠慮しないで進めちゃって良いのよ? お母さんも早く孫の顔が見たいから」
 自分を置いて、どんどん話が進んで行く。
 母親の暴走を止めようと朋華が口を開きかけた時、テレビのナレーターが家の近くの住所を読み上げた。思わず注意がそちらに逸れる。
 ニュースの内容は、二時間ほど前に朋華が助けた子供についてだった。
「この近くねぇ……。朋華、アンタの通学路じゃないの。いっぱい人来てた?」
「え? わ、私、知らない。今日は別の道通って帰って来たから」
「そう。でも、男の子助けた女子高生って……アンタにソックリじゃない?」
 見るとナレーターが朋華の特徴を読み上げている。
 茶色のショートヘアー、ピンクのヘアバンド、身長は百六十センチくらい、朝霧高校の制服。
「似たようなカッコした子ならいっぱい居るよ」
「まぁ、ねぇ……。獣みたいな動きって言ってるから、鈍くさいアンタじゃない事は確かだと思うんだけど」
 失礼ね、と朋華は苦笑しながらも、取りあえず安堵する。
『助けられた男の子は病院で精密検査を受けた結果、特に異常は無いと診断されましたが、事故当時の事を全く覚えていないと言っており、一種の記憶障害の可能性があるとされています。以上、現場からお伝えしました』
(覚えてない……?)
 最後に耳に入った男の子の症状に、朋華は眉間に皺を寄せた。
 確かにあれだけの大事故だ。記憶喪失になってしまってもおかしくはない。この事件だけ聞いたのであれば聞き流していただろう。だが、同じ言葉を学校でも耳にした。
(偶然?)
 胸中にわだかまる嫌な予感。ソレが徐々に大きさを増して行く。
 自分の周りで何かが起こっている?
(まさか、ね……)
 眉を軽く上げて変な考えを振り払い、朋華は箸を動かし始めた。

 やはり偶然ではないかも知れない。
 右手に刃渡り三十センチ程の刃物を持った男と対峙しながら、朋華は昨日で忘れようとしていた事を嫌でも思い出した。
 朝の通勤や通学者でごった返す歩道橋の上。幅が十メートル近くあり、八つの階段を地上に下ろしている。
 そこでいきなり後ろから斬りかかられた朋華は、咄嗟に身を捻ってかわしたが、持っていた革製のカバンが裂けて教科書をばらまいてしまった。恐ろしいほどの切れ味を持つ刃物だ。
(あーもー、お気に入りのカバンだったのにぃー!)
 目の据わった男に睨まれながらも、朋華は無惨にバラされたカバンをどうしようかと心配する。
「き、君! 早く逃げて!」
 スーツを着たサラリーマン風の男が、上擦った声を朋華に掛けた。
 出来ればそうしたいが、こんな危険人物を放って置くわけには行かない。自分が極々普通の女子高生なら別だが、この通り魔を押さえつけるだけの力があるのに逃げ出すなど朋華には出来ない。他の人達を襲う可能性も十分にあるのだから。
「ッシャアァァァァ!」
 通り魔は奇声を上げながら、刃物を振り上げて突っ込んで来る。そして目の前で、力一杯振り下ろした。周囲から上がる悲鳴。誰もが鮮血を撒き散らす朋華を想像したに違いない。
(遅い)
 しかし朋華は刃の軌道を冷静に見極め、体を横に流す。耳のすぐ隣で空を切る音を聞きながら、朋華は拳を男の鳩尾に叩き込んだ。
 くぐもった声を上げ、くの字の折れ曲がる男の体。しかし彼は倒れる事なく、刃物を下からすくい上げるように放って来た。
 鋭い一閃。朋華は身を引いて避けながら、違和感を覚えた。
 確かに今入れた拳は手加減をしたが、普通なら十分気絶させうる威力を込めた物だった。だが男はまるでそんな気配も見せず、最初より早い動きで刃物を振るってくる。まるで、訓練されたような――
「ああああああああ!」
 雄叫びを上げながら、男は朋華に詰め寄る。
 突きから薙ぎへ。半歩踏み込んで切り上げ、体ごとのし掛かりながら振り下ろす。
 まったく無駄のない動きだった。
(ゴメンナサイッ)
 それらを全て紙一重でかわしきり、朋華は胸中で謝罪しながら左の膝を男の腹にめり込ませる。鈍い音。内臓に損傷はないと思うが、骨にヒビくらいは入ったかも知れない。
「……ぁ、ぐ……」
 短く呻いて男は倒れ込み、白目を剥いて泡を吹き始めた。
「ふぅ……」
 息を吐き、肩の力を抜く朋華。一瞬、時が止まったかのような静寂が訪れ、すぐに歩道橋を揺らす程の大歓声が上がる。
 またやってしまったと内心後悔するが、それ以上に気になる事がある。
(何で私が……)
 通り魔が人を選ぶのに理由は必要ないかも知れないが、何となく最初から自分だけを狙っていた気がしてならない。
 理性など欠片も感じさせない瞳、だらしなく開ききった口からは涎が垂れ、まるで麻薬の中毒者を思わせた。そんな人間が、あれ程キレのある動きを出来るものなのだろうか。自分だけに狙いを絞って。
 どことなく作為的な匂いがする。
「すごいねー、君。何か拳術でも習ってるの?」
 掛けられた声にハッとして顔を上げ、朋華は思考を中断した。
 そうだ。今はこんな所でのんびり考え事などしている場合ではない。早く行かなければ遅刻してしてしまう。
 朋華は慌てて教科書を拾い集め、学校への道を急いだ。

 今日は本当に散々な一日だった。
 二限目の授業が始まってすぐ、職員室に呼び出された朋華はもの凄い勢いで担任の教師から叱られた。
 今朝の大立ち回り。あの観客の一人に、同じ朝霧高校の生徒が居たのだ。彼はご丁寧に携帯で朋華の写真まで撮って報告していた。動かぬ証拠と言うヤツだ。
 彼にしてみれば朋華を英雄にするくらいのつもりで言ったのだろう。しかし全くの逆効果だった。
 「何故すぐに逃げなかった」「あんな危ない真似二度とするんじゃないぞ」
 教師の立場からすれば、生徒の身の安全を第一に考えるのが当然だ。だから教師として正しい言動だとは思う。しかし何も悪い事をしていないのに怒られるのは、やはり腑に落ちなかった。
 その後も、色んな人から色んな事を聞かれた。
 この手の噂が広まるのは早い。さらに面白可笑しく脚色もされていく。中には、冬摩が学校に来ないのは朋華に浮気がバレてボコボコにされたからではないのかと言う生徒までいた。
(何で私が冬摩さんを……)
 冬の陽は短い。すでに暗くなり始めた街中を歩きながら、朋華は不平に口を尖らせた。
 まったく思い出すだけで腹が立ってくる。乱暴するどころか、逢いたくて逢いたくてしょうがないというのに。
 朋華は不機嫌そうな顔で、いつもの帰宅経路とは違う道を行く。
 カバンを売っている店を探すためだ。さすがに切り裂かれたカバンで帰るわけにはいかない。今朝の事は母親にも連絡が行っているだろう。少しでも心配を和らげるためには大きな気配りと多額の出費が必要だ。
 似たようなカバンがある事を祈りつつ、朋華は街灯の灯り始めた街の中を練り歩いた。
(あ、ここなら……)
 駅の近くにある大きな総合デパート。冬摩と一緒に何度か買い物に来た事がある。外壁が全て強化ガラスで出来ており、昼間は陽の光をそのまま取り入れ、夜は内側からの明るい照明が建物全体を白く浮かび上がらせる幻想的な造りになっている。
 小物や文房具から、宝石やネックレス、家電製品や大きな家具まで何でも取り揃えている十階建ての総合店だ。
 無い物を探す方が難しいくらいに何でも揃っており、アレがあったら、コレがあったらと色々想像しながら歩いているだけでも楽しかった。
 勿論、『冬摩が一緒にいる』という事が大前提なのだが。
(あと、二日……)
 明後日になれば冬摩が帰ってくる。
 いつもそのたびに二人だけでささやかなお祝いのパーティーを開くのだが、今回はプレゼントも用意したい気分だった。
 カバンと一緒に何か買おうと思いながら、朋華がデパートに入ろうとした時、大きな車道を挟んだ向こう側の歩道から誰かの叫び声が聞こえる。
 直後、朋華の全身を刺すような悪寒が駆け抜けた。
「――!」
 上に視線を向けると、デパートの明かりに照らされて銀色に輝く槍のような物が、何本も朋華めがけて落下して来る。殆ど反射的に左脚で地面を蹴り、朋華はその場を飛び退いた。次の瞬間、さっきまで朋華がいた場所に銀の槍が轟音を立てて突き刺さる。
(な、なに……!?)
 突然の飛来物はさらに朋華の着地地点を狙って立て続けに凶悪な牙を剥いた。槍が突き刺さるたびに飛び散るアスファルトの破片から顔を庇い、切っ先が体に触れるよりも一瞬早く飛び退いて避けて行く。いかに常人より頑強な召鬼の体とはいえ、少しでも気を抜けば体のどこかを削ぎ落とされそうだ。
 三本、四本と突き刺さっていく鋼鉄の墓標。六本目の槍を避け終えたところで、意思を持たない暗殺者は動きを止めた。
 なんとか銀の槍を全て避けきり、朋華は呼吸を整えながらその正体を見る。
(旗の棒?)
 それはデパートの屋上に取り付けられた、宣伝用の垂れ幕を下げるための棒だった。
 だが明らかにおかしい。地面に突き刺さった棒は、鋭利な断面を見せていた。
 まるで、何か鋭い刃物で切り取られたような――
「大丈夫か?」
 辺りが喧噪に包まれ、異様な熱気が広がり始めた時、朋華は後ろから声を掛けられた。
「え?」
 慌てて振り向いた朋華の視界に映ったのは一人の男だった。
 夜の街に満ち始めたネオンの光をバックに、線が細く、どこか女性的な顔立ちの男がコチラを見下ろしながら手を差し伸べていた。
 耳に掛かるくらいで切りそろえたストレートの黒髪。鋭い切れ長の目。彫像のように通った鼻筋と引き締まった唇。
 まるで全ての無駄が取り除かれたような鋭角的な顔立ちの男だった。刃物のような雰囲気を纏っているようにさえ見える。
「怪我はないようだな。いつまでもココにいると面倒な事になる。早く他の場所に移動した方がいい」
 確かに彼の言う通り、予期せぬ惨劇に周囲のざわめきは大きくなる一方だ。すぐに警察が来るだろう。事情聴取を受ける事になれば、聞かれたくない事まで答えなければならないかも知れない。
 例えば、どうして落下物をかわせたのか、とか。
「貴方は誰ですか?」
 朋華は男の手を頼らず自分で立ち上がり、警戒を強めて言った。
 さっきの朋華の常人離れした動きを見ても何の疑問も抱かず、平然と話しかけてくる男。もしかしたら、また何か落ちてくるかも知れないこの場所で、何故そんなに落ち着いていられる? 何故、他の人のように少しでも遠くに離れたいと思わない?
「貴女に頼みたい事がある」
 男は白いタートルネックセーターの上に羽織った、蒼いハーフジャケットの襟元を直し、首に巻いていたチェック生地のマフラーを取った。
「頼みたい事?」
 警戒信号が朋華の中でけたたましい音を上げ始める。
 ――この男は危険だ。
 そう、直感が朋華に告げてた。
「本当はこんな形ではなく、『偶然』手に入れられれば良かったんだが、残念ながらそうも言ってられなくなってね。直接話をしに来たというわけだ」
 下が地面に付きそうなほど異様に大きなスポーツバッグを背負いなおし、彼は淡々として口調で続ける。
「貴女の、体の一部を貰いたい」
 朋華は大きく後ろに飛び、男と距離を取った。
 いつの間にか握りしめた拳の内側が、じっとりと嫌な汗で湿っている。
「そんなに警戒しなくてもいい。別に命まで取ろうというわけではない。そうだな。指を一本。それだけで僕は二度と貴女の前に現れないと誓おう」
 柔和な笑みを浮かべて男はゆっくりと近づいて来た。
 指を一本貰う? 冗談ではない。何故こんな見ず知らずの男に。
「何が目的なんですか」
 震えそうになる声を辛うじて我慢しながら朋華は言葉を紡いだ。
 逃げ出したい。この男の前から逃げ出したい。
 だが出来ない。逃げてもすぐに追いつかれてしまうだろう。
 目を合わせただけで分かった。
 ――彼は、自分より強い。
「ソレを話せば、大人しくしてくれるか?」
「内容次第ですね」
 気力を振り絞り、朋華は不敵な笑みを浮かべながら強い口調で言い返した。
「……確かに。理由すら話さないまま、お願いだけと言うのはあんまりだな。分かった。貴女は当事者だ。聞く権利がある」
 彼は足を止め、目を僅かに細めて続ける。
「貴女の主、荒神冬摩の持つ使役神の記憶を引き出したいんだ」
「な――」
 一瞬、息が止まった。
 今、彼は何と言った?
 『貴女の主』? 『荒神冬摩』? 『使役神』?
 すでにココまで知っているこの男は一体誰なんだ。
 朋華は以前に会った事があるかと記憶をたぐり寄せてみるが、全く心当たりはない。
「貴女達の事はかなり調べた。あの荒神冬摩が相手だ。慎重になってなり過ぎると言う事はない。彼の力は余りに驚異的だからな。まともに戦えば恐らく負けるだろう。だから、彼が貴女の前から姿を消す紅月の前後に狙いを絞った」
 心臓の鼓動が急激に高まっていくのが分かった。
(紅月の事まで……)
 紅月とは二ヶ月に一度紅く染まる満月の事だが、限られた者にしか紅くは見えない。最後の魔人、龍閃が死んだ以上、自分以外に召鬼が居るとは考えにくい。
 つまり、恐らくこの男も――『保持者』だ。
「彼に直接頼んでも絶対に首を縦に振ってくれそうにないから、遠回しではあっても確実な方法を取った訳だ。話し合いが通じない場合、別の手段を取るという選択肢もあるしな。理解してもらえたか?」
 別の選択肢。ソレはすなわち『力ずくで』という事だろう。
 冬摩には勝てないかも知れないが、朋華なら問題ない。暗にそう言っていた。
「冬摩さんの使役神の記憶をどうやって引き出すつもりなんですか」
 朋華は更に詳しく聞く。別に興味があったわけではない。時間稼ぎだ。
 何とかして逃げなければならない。もうすぐすれば警察が来て、ゆっくり話などしていられなくなる。そのどさくさに紛れれば何とか……。だからソレまでの時間稼ぎをしなければ。
「神鬼や式神は力を手に入れるための道具、召鬼は使い魔。せいぜいその程度の認識しかないんだろう?」
 彼は少し肩をすくめ、溜息混じりに言う。
「違うんですか?」
「違わない。だが、それは本質的な使い方じゃない。魔人と召鬼は繋がっている。その繋がりを利用すれば、記憶の授受が可能なんだよ。使役神の記憶のね」
「そのために私の体が必要なんですか」
「そう。理解して貰えたか?」
 少し声を低くして、彼はコチラに試すような視線を向けて来た。
「さっぱり分かりませんね。具体的にどうするつもりなんですか」
「ソレを貴女が知ったところで意味は無い。貴女が知るべき事は、僕がそういう事を出来るという事実だけで十分のはずだ」
 時間稼ぎを見抜かれている?
 極力平静を装いながら朋華は別の質問をする。
「じゃあ、事故は……コレまでのおかしな事故は全部貴方の仕業なんですか?」
 最初、彼は『偶然』手に入れられればと言っていた。昨日からの異様な現象。アレもやはり彼が絡んでいるのだろうか。
「そう、だな。コチラの誠意を見せるには話すべきか。最初のボールは貴女を狙ったつもりだった。気を失って保健室にでも運ばれてくれるのを期待してた。だが別の女に邪魔された。学校帰り、あのタイミングで交通事故を起こせば必ず貴女が助けに入ると思っていた。けど、殆ど無傷で助けられた。貴女は僕の予想よりも優れた身体能力を持っていた。だからより直接的な方法を取った。通り魔をけしかけたり、さっきみたいに鉄柱を降らせたりして。どれも不発に終わったが」
 口の端をつり上げ、男はどこか面白そうに言った。
「誰か死んだらどうするつもりだったんですか」
 彼が起こしたという四つの事件は、どれも他の人が巻き込まれれば最悪、死に繋がるような物ばかりだ。
「それはない。死人が出るのは僕の望むところではない。その辺りはちゃんと考えている。万が一、そうなりかけたとしても何とかする方法もある」
 よほど自分の能力に自信があるのだろう。
 それにしても気に入らない。身勝手な悪事を自白する事を『誠意を見せる』と言い換え、他人の命をまるで道具か何かのように扱う目の前の男が。
「貴方の使役神の能力は何なんですか? 怪我を治せるんですか? 他の人を操れたりするんですか?」
 紅月の影響が残っているのか、だんだん腹が立ってきた。いざとなったら戦うしかないだろう。その為にも相手を知らなければならない。
 一体どうやって不測の事態に対処するつもりだったのか。どうやってあんなタチの悪い事件を引き起こしたのか。
「そこまで教える必要はない」
 しかし、彼は高圧的な視線でコチラを居抜きながら説明を拒否した。まるで話はコレで終わりだと言わんばかりに。
「……考える時間は貰えるんですか?」
 ダメ元で聞いてみる。
「ソレは出来ない。荒神冬摩が戻ってくるのは明後日のはずだが、一日くらいずれるかも知れない。それに短期に決着を付けたいんだ。出来るだけ証拠を残さないためにもな」
 言われてみれば自分はこの男の名前すら知らない。コレまでの話しの中でも、この男の素性に直接繋がるような情報は無い。能力だってコチラの推測でしかない。分かったのはせいぜい『保持者』だろうという事くらいだ。どんな使役神を保持しているのかも分からない。
「今すぐ聞かせてくれないか。貴女が僕の話を聞いて出した結論を」
「それなら……言わなくても分かってるんじゃないですか?」
 話を聞いてますます協力したくなくなった。もしかしたら彼もそうなるように仕向けたのかも知れない。朋華が拒絶し、力ずくで何とかするしかないという選択肢を納得して選ぶために。
「そうか。出来るだけ痛い思いはさせたくなかったんだが。仕方ないな……」
 彼が静かに言って錐のように目を細めた時、遠くの方からサイレンの音が聞こえた。ようやく警察が来たらしい。コレまでの時間稼ぎも無駄ではなかった。
「ち……」
 彼が舌打ちしたその一瞬、僅かに朋華から注意が逸れる。
 ほんのコンマ何秒かという微少な時間に活路を見いだし、朋華は左脚で大きく地面を蹴った。耳元で風が呻りを上げ、視界が急激に上昇していく。
 デパートの隣にあるファミリーレストランの屋根に飛び移り、朋華は更に足場を蹴って高く跳躍した。周りに居た人が驚愕の声を上げるが、そんな物に構っている余裕はない。
 もし逃げられるのなら逃げる。ソレが出来なくとも人気のない場所まで行く。
 こんな所で戦いを始めては、どれだけの被害が出るか分かった物ではない。
「貴女の力の発生点が『左脚』だと言う事は分かっている」
 すぐ後ろで声がした。
 だが振り返ること無く朋華は全力で逃げる。
 雑居ビルの外壁を蹴り、三角飛びの要領でその隣にあったマンションの屋上まで駆け上る。そのまま空中へと身を投げ出し、背の低いビルの屋上に着地。さらに一端地上まで下りて、停車していたバスの影に身を隠した後、再び商店街のアーケードの上まで跳ぶ。湾曲した天井の上を全力で駆け抜け、細い脇道へと下りてさらに疾駆する。そして建設途中の高架に面した、人気のない駐車場まで来たところで、右腕を後ろから掴まれた。
「なかなか速いな」
 彼は短く声を発して、そのまま朋華の腕を捻り上げる。
 その流れに逆らうことなく体を浮かせ、左の回し蹴りを彼の側頭部めがけて放った。が、読まれていたのか身を低くした彼の頭上を抜けて蹴撃は空を切る。
 余った勢いを利用され、朋華は彼に腕を掴まれたまま体を大回転させられた。そしてかなり遠心力が付いたところで、視界が一気に降下する。
 一瞬の無重力感の直後、背中に火箸を突き刺されたような激痛と吐き気すら催す圧迫感が襲いかかった。
「――ぁは!」
 肺の空気を無理矢理外に押し出され、朋華は地面に体を埋める。
「抵抗すると痛みが増すだけだ。じっとしてるんだな」
 彼は朋華に馬乗りになり、いつの間にか左手にナイフを持っていた。その刃を捻り上げた朋華の指の付け根に添える。
「じっとなんて出来る訳ないでしょ!」
 叫びながら、彼の背中を狙って左脚を蹴り上げた。
 が、当たる直前、左の太腿が甚大な熱を帯びる。
「暴れなければすぐに終わる」
 後ろを見ることもなく、正確に朋華の太腿に突き刺したナイフを抜き取り、彼は冷淡な口調で言った。
(ダメ……やっぱり勝てない……)
 実力が違いすぎる。
 しかも彼はまだ使役神も何も使っていない。このままでは本当に証拠も手がかりも残さないまま、自分の指だけ持って行かれてしまう。
 もっと力があれば。もっと強大な力があれば。冬摩のように強力無比な力が。
(冬摩さん……!)
「ちぃ!」
 突然、何の前触れもなく体が軽くなる。それが自分の上から彼が飛び退いたのだと理解した時、空気の断層がすぐ隣を駆け抜けた。地面に着弾した真空刃は、アスファルトを深々と抉って霧散する。
「情けないのぅ、仁科朋華。あまり冬摩に手間を掛けさせるでない」
 頭上でする懐かしく、そして頼りがいのある声。
 口元に蠱惑的な笑みを浮かべた、巫女服姿の妖艶な女性。
 冬摩の使役神鬼の一人、『死神』だ。
「『死神』さん! それじゃ冬摩さんも……!」
 上半身だけ起こし、喜々とした声を上げる朋華。
「この、ガァキィ……」
 背後からする低い声。冬摩の声に反応して振り返った朋華は、視界に映った人物を見て表情を失った。
「冬摩……さん?」
「飛ぶぞ、仁科朋華。しっかり捕まっておれ」
 『死神』は一方的に言うと、朋華を肩に抱きかかえて冬摩から離れた場所に着地した。高架の真下にある空き地に等しいスペース。ココからなら冬摩とあの男の姿がよく見える。
「『死神』さん、冬摩さんは……」
「殆ど理性を失っておる。まだ紅月の影響が抜けきっておらんからな」
 『死神』の言葉に朋華は改めてさっき見た冬摩の顔を思い出した。
 月光に照らされ、自らの血で紅く染まった全身。ほつれた長い黒髪。歯を剥きだして、きつく噛み締めた口元から滴る唾液。
 ――そして、狂気に染まり爛々と危ない光を宿す双眸。
 誰が見ても普通の状態ではない。
『ガアアアァァァァァ!』
 両腕を広げ、大地と水平になるくらいにまで胸を仰け反り返らせ、冬摩は天を仰ぎながら獣吼を上げた。
『ブッ……コロスぞこのガキイイィィィ!』
 そして両手を力一杯アスファルトに叩き付ける。
 轟音と共に屹立する力の奔流。まるで地面から土石流が舞い上がったかのように見えた。
(『コロス』……)
 冬摩の発した言葉に、朋華は肺を鷲掴まれたような閉塞感を覚える。
 ――殺す。
 それは久しく冬摩が使わなかった言葉。『ブッ飛ばす』とは言っても『ブッ殺す』とは言わなかった。恐らく、冬摩自身意識して言わないようにしていたのだと思う。
「もう少し下がるぞ。いつ冬摩がコッチを攻撃して来てもおかしくない」
「え? 私達を、ですか?」
「冬摩が紅月の夜、お主から離れるのは何故じゃ」
 それは紅月の影響で凶暴化した冬摩が、近くにいる朋華を傷付けてしまう恐れがあるから。
「冬摩はお主に危険が及んでいるのを感じて、強引に体をココまで持ってきた。紅月が過ぎ、僅かに戻って来た脆弱な理性でな」
 朋華を担ぎ上げ、更に遠くへと飛翔しながら『死神』は言う。
 魔人と召鬼は繋がっている。だから互いにどこにいるのかも分かるし、繋がりが深まれば心情を共有化する事も出来る。紅月前後の時期、朋華の方から冬摩を感じ取れなくても、その逆は可能なのだろう。冬摩はソレを頼りにココまでやって来た。
「妾が喚び出されたのはお主を守る為じゃ」
「じゃ、じゃあ冬摩さんの邪魔にならないように、もっと遠くに……!」
「そうしたいのは山々なんじゃが……あの馬鹿、他の人間共にも被害が出ないようにとヌカしおった。お主だけ逃がしてもあの男に襲われては意味が無いしのぅ」
 面倒臭そうな、それでいてどこか嬉しそうな表情で『死神』は言う。
「見届けるぞ。この戦い」
 力強い『死神』の言葉に、朋華も頷いた。
 冬摩の巻き上げた土煙がようやく晴れてくる。そして中から現れたのは冬摩だけではなかった。
「こ、これは……」
 離れて様子を見守っていた男が驚愕の声を上げる。
「こんなに、沢山の……」
 冬摩は更に多くの使役神を召喚していた。その数四体。うち二体が空を舞って、朋華のそばに着地した。
 黒く巨大な一つ目だけが宙に浮かぶ神鬼、『獄閻』。色素の抜け落ちたような白い髪と肌、そして緋色の瞳を持つ人型の神鬼、『羅刹』。
「冬摩め、妾だけでは役不足と見える……」
 不満げな声を漏らす『死神』。
 三体もの神鬼に囲まれ、朋華はコレから始まる戦いの激しさを想像して身を震わせた。
『オオオォォォォォォォ!』
 再び冬摩が吼える。
 それが、戦闘開始の合図だった。
 冬摩が自分の周りに残した二体の使役神の片割れ、純白の獣毛を針のように逆立てた巨大な虎、『白虎』が男に襲いかかる。
「くそ!」
 悪態を付きながらも、男は『白虎』のスピードを更に上回る速さで横に飛んでかわした。が、男が体勢を立て直す前に『白虎』の体から白銀の針が乱射される。針は空中で方向性を変えると、男に集中して降り注いだ。
 それでも朋華の方まで何本か流れ針が飛んで来る。それを『羅刹』が素手で受け止めた。
「やはり、アイツも相当頭に血が上っておるのぅ……」
 紅月の影響は使役神達にも及ぶ。いつもなら『白虎』があの針を標的以外に放つという事はないのだろう。だが、今はそれすら正確にコントロール出来ないほどにいきり立っている。
「『死神』さん達は大丈夫なんですか……?」
 不安になって朋華は聞いてみた。
「まぁ、出来るなら妾も戦いに加わりたいがなぁ……。妾やコヤツらはまだ比較的攻撃性が低いからましなんじゃよ」
 『獄閻』の能力は強固な盾を生み出す事だ。攻撃どころか防御に特化した神鬼と言える。『羅刹』の能力はまだ見た事がないが、それに近い何かなのだろうか。
 朋華にすれば『死神』ですら十分攻撃的だとは思うのだが、『白虎』や未だに冬摩のそばで不動のまま構える無貌の黒い巨人『餓鬼王』は、更に高い戦闘力を持っているのだろうか。
「……出し惜しみをしているとやられるな」
 針の五月雨が止み、中から男の声が聞こえた。その質は今までよりも明らかに異なっている。良く通る、稟と張った声。冷厳な雰囲気を纏い、男は一振りの長刀を抜きはなって構えていた。
 それは刃渡り二メートル近くある鍔の無い刀だった。表面は寒気を感じるほど磨き上げられ、月光を反射して濡れたような輝きを放っている。
 恐らく、あの刀でデパートにあった垂れ幕の支え棒を斬ったのだ。
 持っていたスポーツバッグは針で引き裂かれて原形を留めていなかった。あの中に隠していたのだろう。
 刀を寝かせ、重心を低く構える男。彼に白虎が吼えて跳びかかった。金色の双眸に殺戮の輝きを閃かせて牙を剥く『白虎』。男の刀が真横に薙ぎ払われ、白い巨体に滑り込む直前、『白虎』は何も無い空間を蹴って更に高く跳躍した。
 男の剣閃を綺麗にかわし、『白虎』は彼の頭上で体を丸くする。そして先程よりもさらに狭い範囲に集中して白銀の針を放った。
 避けられる間合いではない。
 男は刀を上にかざし、無造作に振り抜いた。だが刀の軌道はあくまでも『線』だ、狭いとは言え『面』で降り注ぐ針を弾き落とす事は出来ない。
「え……」
 思わず朋華の口から声が漏れる。
 月弧を描いて振るわれる刀。刀の腹から数本の小さな刃が飛び出し、新しく生まれた刃から更に小さな刃が現出した。
 連鎖的に、そして加速度的に増していく刃の数。まるで傘でも広げたように、『線』でしかなかった刀はあっと言う間に『面』となって、白い針を弾く。最初の時もこうやって防ぎきったのだろう。
「仕込み刃か……面白い武器を持っておる」
 小さく鼻を鳴らし、『死神』は愉快そうに笑った。
「はぁぁぁぁぁ!」
 男が裂帛の気合いと共に刀を構え直す。一呼吸の内に刀は元の『線』に戻っていた。
 そして下から振り上げるように、がら空きの『白虎』の腹めがけて刀を放つ。
 が、刀が振りきられる直前、男は後ろに大きく跳んで距離を取った。直後、さっきまで男がいた場所が一瞬でクレーター状に抉れる。
 何が起こったのか全く分からない。ただ悪夢のような光景だけが視界に広がっている。
「『餓鬼王』か。相変わらず節操のない……」
 『死神』が呟く。
 見ると、冬摩の隣で構えていた『餓鬼王』の黒い巨体の上で無数の口が開き、それぞれが小さな牙を蠢かせて湿り気を帯びた叫声を発していた。
「アヤツは何でも“喰う”からのぅ」
 よく分からないが、離れた位置から『餓鬼王』は男を喰おうとしたのだろうか。
 素早い身のこなしで逃げ回る男を追尾して、『餓鬼王』は次々と空間を喰らっていく。ソレはまるで周りの風景ごと丸呑みしているかのように、地面や建物がまばたきしている間に削り取られて行った。
 過程は無い。ただ異常な結果だけが立て続けに生み出されていく。
「く……」
 男から苦鳴が漏れる。
 『餓鬼王』が逃げ場を制限し、『白虎』が男の次に飛ぶ場所に先回りして牙と爪の斬撃を繰り出す。男は確実に追いつめられて行った。
 だが、朋華には男がまだ何か狙っている気がしてならなかった。
 逃げようと思えば最初にその機会はあったはずだ。冬摩との実力差も自覚していた。彼は無謀な戦いをするような人間ではない。
 だとすれば――
 突然、男の動きが変わった。
 コレまでの素早い動きを更に増して、神速とも呼ぶべき光のような瞬足へと。
 そして向かった先は――
「『獄閻』! 『羅刹』!」
 『死神』が声を張り上げて叫ぶ。
 男は一瞬にして朋華達の目の前まで来ていた。そして接触する直前、鋭角的に軌道を変えて再び離れる。次の瞬間、朋華の体に目眩を伴った怖気が走った。内臓に直接手を這わされたかのような悪寒。魂の瓦解すら感じさせる崩壊の序曲が、朋華の頭の中で鳴り響いた。
「この、馬鹿者が……!」
 見ると『死神』も片目を瞑り、何かに耐えるように顔を歪めている。『獄閻』が漆黒の盾を生み出し、ソレを広げて朋華達を覆い隠そうとするが、それが展開し終わるまで意識を保つ自信はなかった。
 そんな中『羅刹』だけが無表情で、しかし緩慢な動きで手を伸ばし、自分以外の三人を突き飛ばす。直後、『羅刹』と一緒に周りの風景が呑まれ、姿を消した。残ったのはクレーター状に窪んだ地面だけ。
 『餓鬼王』だ。
 男を呑み込もうと開いた『餓鬼王』の“口”が、朋華達を巻き込んだ。そして『羅刹』が庇って――呑み込まれた。
 『餓鬼王』は何でも喰う。
 物でも人でも、使役神すらも。
「朋華! 前じゃ!」
 放心している朋華に『死神』の声が掛かる。
 慌てて顔を上げると刀を振り上げた男が目の前まで迫っていた。
(殺られる――)
 頼みの左脚は男に刺されたせいで動かない。動けたとしてもかわせる間合いではない。
 覚悟を決めた朋華の視界が黒く覆われた。
 さっき展開しようとしてしきれ無かった『獄閻』の盾が、凝縮して朋華と男の間に割って入る。
 そして甲高い音を響かせて、漆黒の盾は見事に男の刀を受け止めた。
「使役神鬼! 『月詠』宿来!」
 刀を盾に打ち付けた状態で男が叫ぶ。
 その喚び声に呼応して、刀が薄紫色の燐光に包まれた。
「うおおおぉぉぉぉぉ!」
 男は刀を持つ手に力を込め、強引に押し切る。そして漆黒の盾に僅かな亀裂が走ったかと思った時、朋華の体は『獄閻』の本体に体当たりされて横に押し出された。
 直後、硬質のガラスを叩き割ったかのような高い音域が鳴り響き、男の刀は『獄閻』の眼球に埋め込まれる。
 大気を鳴動させる断末魔の叫びを残し、『獄閻』は黒い燐光となって消失した。
 男は朋華の方に顔を向け、そして真上に跳躍する。男が飛び退いたその場所で膨大な粉塵が上がり、視界を覆い隠した。
 一瞬、また『餓鬼王』の攻撃が来たのかと思ったが、ソレとは明らかに異質だった。
 朋華の皮膚の表面に物理的な振動さえ生じさせるほどの圧倒的な殺気が、砂煙の中で膨れあがっていく。
『コ……ロス! ブッコロスぞテメえぇぇぇぇぇ!』
 しゃがれ、二重に聞こえたのは冬摩の声。
 これまで使役神達に戦いを任せていた冬摩が、ついに自ら攻撃を始めた。
「よせ冬摩! 止めろ! 取り返しがつかんぞ!」
 近くまで来た『死神』が悲鳴に近い声を上げる。
 理由は朋華にも分かった。今まで冬摩が戦わなかったのは、最後の理性で自分の殺戮衝動を押さえつけるのに手一杯だったため。だからわざわざ使役神を沢山召喚して戦わせていた。
 しかし朋華が狙われるのを見て、その歯止めが利かなくなった。
 さっきまで居た『白虎』と『餓鬼王』もいつの間にか姿を消している。冬摩が戻したのだろう。使役神は具現化するよりも、自らの体に宿して戦闘力を高めるのが本来の使い方なのだ。
 だが『死神』だけは戻っていない。
 冬摩が最後の理性で言っている。
 ――止めてくれ、と。
「はああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 男が冬摩の頭上に刀を突き立てようと落下してくる。『獄閻』の盾すら叩き割った斬撃。薄紫に染まった刀身は冬摩が真上に掲げた左腕に吸い込まれ、肩を貫いたところで動きを止めた。
「な――」
 まさか避けもせず、こんな方法で刀を止められるとは思っていなかったのだろう。男はありありと狼狽の色を顔に浮かべながらも、即座に刀を手放す。空中で身を捻り、体が少し後ろへと流れた男の胸に冬摩の右腕が掠めた。
「ぐぁ!」
 だがそれだけで男は口から血を撒き散らし、胸板を鮮血に染めて高架を支える太いコンクリートの柱に叩き付けられた。
 見る者を震撼させる破壊力。いや、もはや破壊力などと呼ぶ事すら生ぬるい。コレはすでに抹消力の域に達している。掠っただけであの威力だ。まともに食らえば、一瞬で肉片と化す。
「さすがに、まともにやっても勝てんか……」
 男は柱に背中を預けて立ち上がり、口の端を不敵につり上げた。
 そして体を前傾させ、神速の動きで朋華の方に迫る。
(また……!)
 さっき『餓鬼王』の力を逆に利用して見せたようにギリギリで横に飛ぶ気だ。
 男が自分から朋華を狙えば冬摩の攻撃が来るが、冬摩が朋華を攻撃するように仕向ければ別だ。朋華は微塵となり、男は目的だった朋華の体の一部を手に入れる。
「させるか!」
 しかし『死神』が朋華と男の軌道に割って入った。そして両手を前に突き出す。
 男にすれば完全な不意打ち。完全にスピードに乗った体では正面からの真空刃を避けられない。
「そう来ると思った」
 だが、短く言って『死神』の直前で真上に軌道を変える男。『死神』の放った真空刃は空を切り、風に熔けて消えた。
 舌打ちする『死神』の細く白い首筋を、着地した男の腕が掴み上げる。
「怨行術、壱の型、『閻縛封呪環えんばくふうじゅかん』!」
「貴様!」
 一瞬、無数の白い紋字が積層型に展開したかと思うと、すぐに『死神』の体に吸い込まれるようにして消えた。
「離せ!」
 叫びながら放たれる真空刃。ソレを男は横に飛んでかわし、冬摩の方を見る。しかしすでにさっきまでの場所には居なかった。
 彼の顔が一瞬、青ざめたように見える。直後、耳をつんざく轟音と共に彼の背後の空間が爆ぜ上がった。
 暴風に体ごと巻き込まれ、彼の体は高く舞い上がる。まるでゴミクズのように飛んでいく男を追って冬摩も高く跳躍した。
『ガアアァァァァァァァ!』
 上空から冬摩の怪吼が上がる。男に突き刺された刀を未だ埋め込んだまま、冬摩は左腕を彼の体に振り下ろした。男はその拳を狙って蹴り上げ、反動で更に高く舞い上がる。そして逆さになって高架の裏面に着地し、たわませた脚を一気に解放した。
 上空で冬摩とすれ違いざま、左肩に埋め込まれた刀を抜いて着地する。
「……引き時、か」
 男は苦悶に顔を歪めながら呟いた。
 いくら直撃を避けるためとは言え、冬摩の渾身の左拳に触れたのだ。普通なら脚の骨が粉々になっていてもおかしくない。
(左拳……?)
 朋華はハッとした。
 冬摩の力の発生点は『痛み』、そして作用点は『右腕』だ。
 今も彼を本気で殺すつもりなら右拳を振るったはず。だがソレをしなかった。
 理性が戻りつつあるのか、それとも無意識のうちに朋華との約束を守っているのか。
「冬摩さん!」
 気付けば声を上げていた。それに反応して、男に追撃をかけようとした冬摩の動きが一瞬鈍る。
 その隙に険しい表情で朋華は男に叫んだ。
「早く逃げなさい! 二度と私達の前に現れないで!」
 気丈に言った朋華に、男は含み笑いで返す。
『ニガ、スと思ってんのか! コノガキィィィィィイ!』
 まるで朋華の呼びかけを振り払うように冬摩は咆吼する。
 右手を鉤状に曲げ、男に襲いかかる冬摩の背後で乾いた音が響いた。その音で冬摩の動きが完全に止まる。
「あ、ば、化け……化け物……」
 後ろにいたのは拳銃を構えた警察官だった。いくら人気がないとは言えこれだけの騒ぎだ。誰かが通報していたとしてもおかしくない。そしてこの常軌を逸した惨状。鬼のような形相の冬摩。
 常人が恐慌をきたすには十分すぎる。
『テ、メェ……』
 弾丸を撃ち込まれた冬摩が、警察官の方に顔を向ける。
 完全に殺戮の対象が目の前の男から警察官へと変わっていた。
「ひ、く、来る、来るなああぁぁぁぁ!」
 半狂乱になりながら警察官は拳銃を乱射する。そして流れ弾が朋華の方に飛来した。
 だが、その弾丸を男が抜いた刀で弾き落とす。
「面倒な事になった」
 男はそう言い残すと、警察官に向かって駆け始めた。
 僅かな放心から立ち直り、朋華は冬摩を探して警察官の方を見る。冬摩はいつの間にか警察官の前に立ち、高々と右腕を振り上げていた。
「と、冬摩さん! 殺しちゃダメェェェェェ!」
 喉を振り絞っての絶叫に、冬摩の動きがまたも鈍る。その隙をついて男は警察官を抱え上げ、冬摩の凶撃の軌道から移動させた。適当な場所に警察官を放り投げ、男は刀を冬摩に向かって振るう。
 それは攻撃と言うよりは、「お前の相手は僕だ」と宣言しているかのように見えた。
『ブッ殺す、ブッコロス! ブッコロス!』
 底知れない殺戮の眼差しを男に向け、冬摩は吐き捨てるように言って右手を振るった。が、男は後ろに大跳躍してかわす。そして冬摩が追い付くのを待ち、攻撃の間合いに入ったところで再び大きく跳んで距離を取った。
 戦う意志など全く見せない。完全に回避だけに集中している。
(まさか、冬摩さんを引き付けて……?)
 気づけば、男と冬摩の姿は見えなくなるくらいに小さくなっていた。しかもあの方向は港に続いている。ココよりも、より人気のない場所に。
「あ、アヤツ。冬摩相手に持久戦に持ち込むつもりか……」
 後ろから『死神』が苦しそうな声で言ってくる。
「だ、大丈夫ですか!? 『死神』さん! 何されたんですか!?」
 『死神』はあの男に首を掴まれて何か呪術のような物を掛けられていた。
「怨行術、か。小賢しい真似を……」
「ど、どうすれば良いんですか!? どうすれば治るんですか!?」
「騒ぐな。馬鹿者。大した事はない。二、三日休養を取れば何とかなる。ソレよりも心配なのは冬摩じゃ。あの男の誘導に引っかかっておるうちは良いが、下手をすれば街の形が変わるぞ」
 もし冬摩が今の調子で街中に行き、全力で暴れたりすればソレこそ数え切れないくらいの死者が出るだろう。それに冬摩から紅月の影響が抜けるまで、あの男が振り回したとしても、その後冬摩が大人しく戻って来るとは思えない。
(大丈夫。きっと冬摩さんは誰も殺したりなんかしない)
 それは一年前の約束事。以来、冬摩はその約束を守り通して来た。
 だからきっと、敵ではあってもあの男を殺したりはしない。そして朋華の中でも、最初彼に抱いていた最悪なイメージとは少し違って来ていた。
(あの人、私を助けて……)
 拳銃の弾が朋華に当たる直前、彼はソレを弾いてくれた。
 あの男にとっては朋華が死のうとどうなろうと体の一部が手に入れば良いはずだ。なのに朋華を庇い、警察官を助け、冬摩の引き付け役までかって出た。
 指を切られるのは嫌だが、もう少しくらい話を聞いてみても良いかも知れない。ソレで解決できるのならば。
 もう、冬摩の負担になりたくないから。あんな苦しそうな冬摩は、見たくないから。

 それから三日後、ようやく冬摩は学校に姿を現した。
 野性味溢れる顔立ち。不敵につり上がった瞳に、どこか機嫌悪そうに曲げられた口元。背が高く、筋肉質な体つき。長い黒髪は背中まで垂らし、うなじの辺りで無造作に龍の髭で縛っている。
 どこから見ても冬摩本人だ。
 仏頂面をしてはいるが怪我はどこにもない。魔人の回復力なのか、『死神』の『復元』なのかは分からないが、そんな事どうでもいい。朋華にとっては冬摩が無事帰って来てくれただけで至福の瞬間だった。
「冬摩さんっ!」
 朝礼の始まる五分前。誰も席に着いていない賑やかな教室内で、朋華は人目もはばからずに冬摩に抱きついた。
 この三日間。毎日ニュースに釘付けだった。
 殺人事件が起きたと聞けば心臓が止まりそうになり、死体が見つかったと聞けば気を失いそうになった。だがそれらのどれも一般凶器によるものや自殺体などで、冬摩が関わった形跡はなかった。
 朋華の方も、デパートの一件は完全に顔を見られていたので色々聞かれたりはしたが、その後の高架下での出来事は誰も何も知らなかった。警察官が一人見たはずだが、何も覚えていないとニュースで言っていた。
 大惨事を見た事によって錯乱状態になり、記憶を失ってしまったと報道されたが、朋華にはあの男が何かしたとしか思えなかった。
 脚の怪我はすでに完治していた。魔人ほどではないが、召鬼の回復力も人間の物とは比較にならない。
 『死神』は例の事件の日は具現化し続けていたが、次の日には居なくなっていた。本人が言っていたように休養を取るため冬摩の体に戻ったのだろう。
「とーもーかー。朝からおあつい事デスネー」
 いつの間にか隣りに来ていた御代が、目をイヤらしく曲げて茶化す。
「あっ、あのっ、これは……!」
 慌てて離れようとする朋華の体を、今度は冬摩の方から抱きしめて来た。
「悪かったな、朋華。恐い目に遭わせてよ」
「あ……」
 心の底から安堵できる冬摩の抱擁。彼の言葉に朋華は涙が出そうになった。
 冬摩はしばらくそうしていたが、やがて朋華を解放し、肩に両手を置いて言う。
「と、言うわけで行くぞ」
「へ?」
 あまりに説明不足な冬摩の言葉に、素っ頓狂な声が出てしまう。
「行くって、どこにですか?」
「久里子んトコだよ。アイツに聞きゃ何か分かるだろ。とにかく俺の女に手ぇ出したヤローは絶対にブッ飛ばす! 何が何でも見つけだしてボコボコにしてやる! 一生分の後悔を一瞬で味あわせてやる!」
 冬摩は龍の髭を解き、髪を振り乱して怒りを露わにした。
 だが、その顔には前のような危うさはない。いつもの冬摩らしい、直情的で単純で純粋な怒り。それにちゃんと『ブッ飛ばす』と言ってくれている。
「じゃあ、明後日から捜索開始ですね。ちょうど冬休みですし」
 久里子に会うのも何だが久しぶりだ。冬摩と一緒にいるのが楽しくて全然遊びに行っていなかった。麻緒は居るだろうか、玲寺は帰って来たんだろうかと、殆ど遠足気分で浮かれていると、冬摩が意外そうに声をかけ直してくる。
「何言ってんだ。今から行くに決まってんだろーが」
「え? でも、授業が……」
「ンなモンどーだっていいんだよ! じっとしてたら頭おかしくなっちまいそーだ! とにかく行くぞ!」
 一気にまくし立てた後、冬摩は朋華を抱き上げて窓際に行く。
 朋華をお姫様だっこした状態で開いていた窓の枠に左脚をかけ、右脚で床を蹴って外に躍り出た。
「荒神君ココ五階……!」
 無重力感に包まれる中、御代の叫び声が聞こえる。
(ま、いっかー……)
 後の事はまた暇な時にでもゆっくり考えよう。
 最近、本当に似て来たなと思いながら、朋華は冬摩の胸に顔を埋めたのだった。




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