貴方に捧げる死神の謳声 第二部 ―闇子が紡ぐ想いと因縁―

BACK NEXT TOP


弐『魔人の血を宿す者』


 ――貴方は、どうして生まれて来たのかしらね……。

 憔悴しきった顔で言う母親。ソレは蔑みでも怒りでも恨みでもない。ただただ純粋な疑問。

 ――可哀想に……。私が生まなかったら、こんな目にあうこともなかったのにね……。

 彼女は独り言のように続ける。

 ――本当は、貴方のためにもっと色々してあげたかったんだけど……。

 光を宿さない目を自分の方に向け、

 ――お母さん、もう……疲れたみたい……。

(大丈夫。大丈夫だよ。母さん。僕は、強くなったから)
 二階の自室から外を見ながら、彼は下唇をきつく噛み締めた。
(もぅ、一人で何でも出来るようになったから。僕は、強くなったから)
 冬摩とまともにやり合うのはさすがに無謀だった。しかし、やりようによっては何とかなるかもしれない。
 三日前、『死神』に施した怨行術『閻縛封呪環』。この毒が回りきれば、冬摩はもう『復元』を使えない。
 『復元』は唯一『死神』のみが行使できる最上級治癒術だ。具現体ではなく、自らの体に宿した時だけ使える特殊術。ソレを実質上、封じた。ならば勝機はある。
 だが、目的は冬摩を殺す事ではない。そんな事をすれば間違いなく自滅する。さすがにあれだけの数の使役神を受け入れる事は出来ない。
 ――自分の目的は、あくまでも使役神の記憶。
 九体もの使役神を宿して平気で居られるのは、もはやこの世には冬摩くらいだろう。それでも紅月の夜には想像を絶する苦痛と戦わなければならないようだが。
(動いたか……)
 冬摩の通う朝霧高校の方角に視線を向け、彼は神経を研ぎ澄ませた。『閻縛封呪環』は『死神』の位置を知らせる目印の役割も果たす。それでも冬摩が体に宿している時には、微弱な反応しか感じ取れず、大雑把な位置しか掴めないのだが。
(思ったよりも早いな)
 昨日の夜まで満身創痍だったというのに。さすがに魔人の回復力は驚異的だ。
 自分の方は完治にはまだ遠い。胸部の裂傷と左脚の骨折が酷く、なかなか治らない。昨日から『再生』を施してはいるが、もう少し時間が掛かる。それでも泣き言など言っていられない。
 刀をしまった大きなスポーツバッグを担ぎ上げ、部屋のドアノブに手を掛けようとした時、扉が勝手に開いた。
「兄貴起きろー! ……って、なんだ、起きてるじゃん。つまんないー」
 子供っぽく頬を膨らませ、扉の向こうに居たのは制服姿の快活そうな少女。
 肩に掛かったミディアムヘアーの襟足を外側に跳ねさせ、紅っぽく染めた髪全体に軽くパーマを掛けている。
 愛嬌のある大きな瞳でコチラを見上げながら、ピンクの唇を尖らせて握り拳をコチラの胸に押し当てた。
「朝ご飯、出来てるぞ。早く下りてこい」
「ああ。悪いけど用事があるから出かけてくる。僕の分まで食べて良いぞ」
 来年高校受験を控えた自分の妹――美柚梨みゆりの頭をくしゃくしゃと撫でてやりながら無愛想に言う。
「用事って何よ。こんな朝っぱらから」
「塾講のバイトのシフト決めがあるんだよ」
「大学は?」
「もう冬休み」
「はぁー、いいなぁー、大学生は暇そーでー。アタシは朝から晩までお勉強なのに」
 大袈裟に肩を落としながら、美柚梨は恨めしそうな視線を向けて来た。
「受験生だろ。帰って来たら勉強教えてやるから」
「ホント!? 絶対だよ! 約束だかんね! 嘘ついたらグーパンチだよ!」
 コチラをサンドバッグに見立ててジャブを放ちながら、美柚梨は朝からハイテンションでまくし立てる。
「何はしゃいでるんだ、お前は」
「だって有名進学塾のトップ教師様直々の御教鞭ですからー、期待も致しますわよオホホホホー」
 昂奮覚めやらぬ様子の美柚梨と一緒に、彼は階段を下りる。
(あの方角は……土御門財閥の洋館、か……)
 目を細め、冬摩の位置に意識を集中させる彼の瞳には、すでに剣呑な光が灯り始めていた。

 ◆◇◆◇◆

◆不透明な活路 ―荒神冬摩―◆
 朋華を抱きかかえたまま人目も気にせずに家の屋根を飛び越え、ビルの屋上を飛び越え、山を二つ越え、閑散とした村を横切り、強力な結界の張られた密林地帯を抜け、目的地である洋館にたどり着いたのは昼を少し回った時だった。
「ホンマ相変わらずいきなり来るやっちゃなー。ウチかてずっとココおる訳ちゃうんやで?」
 サングラスの位置を直しながら、久里子は不満げに口を曲げた。
 白いスーツの男に案内された大広間。相変わらず無駄に開けた空間が広がっている。その真ん中に置かれた白い縦長のテーブルに腰掛け、冬摩はイライラしながら言った。
「居たんだから別に良いじゃねーか。ソレよりお前、アイツの事何か知らねーか」
「アイツ? アイツって誰や」
「だからアイツつったらアイツだよ! ちょっと前に朋華に手ぇ出したやがったあの馬鹿だ!」
 冬摩の叫び声に久里子は大きく落胆して見せ、腰まで垂らした長いウェイブの黒髪をダルそうに手で梳く。
「トモちゃんスマン。このアホの言っとる事通訳してくれへんか?」
「え? あ、はい。えーっとですね……」
 朋華は自分を襲って来た男の事を、最初から順序立てて説明した。
 四回狙われた事。相手の目的が朋華の体の一部で、それを使って冬摩の使役神の記憶を引き出そうとしている事。そして能力は分からないが、恐らく『保持者』だろうという事。
 当事者のはずの冬摩も初めて聞く事が多い。中でも引っかかるのが――
「俺の持ってる使役神の記憶? そんなモンどーすんだ?」
「さぁ……?」
「なんやアンタら。打ち合わせも出来てへんのにココ来たんかい。どーせ冬摩が強引に連れて来たんやろ。このアホはトモちゃんの事になると、ただでさえゆるゆるの頭ネジ、全部取れてまうからなー。大変やなー、トモちゃんも。こんなゴツイ体した子供の面倒見なあかんねんから」
 豊満な胸の前で腕を組みながら、久里子は朋華に同情の視線を送る。
「ッだー! ルっセーな! そんな事より今ので何か分かったのかよ!?」
 図星を突かれた冬摩は誤魔化すようにテーブルをダン! と強く叩き、声を荒げた。
「まだ話の途中やんか。トモちゃんの方はよー分かった。で、冬摩。アンタの方は?」
 音もなく運ばれて来たティーカップに口を付けながら、久里子は静かに言う。
「あん?」
「せやからその男にまんまと誘い出された後、アンタは何してたんや。まーココ来た以上、勢い余って殺ってもーたゆー事はないんやろーけど」
 半眼になり、どこか馬鹿にしたような視線を送りながら久里子は片肘を突いた。
「そ……」
 思わず口ごもる。勿論、思い出したく無いからだ。そして言いたくも無い。
 結局、振り回されるだけ振り回され、紅月の影響が抜けたところでアッサリ逃げられたなどと。
「あー分かった分かった。もー分かった。『保持者』で暴走した冬摩から逃げられる脚ゆーたら多分『朱雀』やな。『朱雀』は岩代家が受け継いどるはずや。ちょっと待ってて。今手持ちにある住所持って来たるわ」
「ちょっと待て!」
 立ち上がろうとした久里子を冬摩は怒声を上げて押しとどめた。
「誰が逃げられたっつった!」
「なんや、ちゃうんかい。ほんなら、どないしたんや」
 後ろ頭を掻きながら、久里子は挑発的な視線を向けてくる。
 何か言い返そうとするが言葉が出てこない。もっとも、久里子の言っている事がそっくりそのまま事実なのだから反論の余地など無いのだが。
「き、きっと冬摩さんは相手の人の事を考えて、わざと逃がしてあげたんですよねっ。冬摩さん優しいから」
「お、おぅっ。その通りだ!」
 朋華からの助け船に便乗し、冬摩はぎこちなく頷いた。
 久里子は不満げな表情で見てきたが、「まぁええわ。トモちゃんの顔立てて、そういう事にしといたろ」と言って席に座り直す。
「で、それ以外に手がかりは? ま、ホンマに『朱雀』の保持者やったら一人に絞れたも同然なんやけどな」
 十鬼神は完全ではないが、十二神将ならば保持者の情報は全て土御門財閥に集まってくる。未覚醒であれ、使役神を保持している者を報告するのは受け継いだ家系の義務だ。
「だから違……!」
「あ、そ、そう言えば!」
 叫ぼうとした冬摩を遮って、朋華が声を上げた。
「あの人、『獄閻』さんの盾を割る時に言ってました“使役神鬼『月詠つきよみ』シュクライ”って……」
「『月詠』!? 『宿来』!? ちょ、ちょー待ってーなトモちゃん! 冬摩の馬鹿力やったらともかく、ソイツ『獄閻』に勝ったゆーんかい!? ホンマに!?」
「え、ええ……」
 さっきまでのどこか面倒臭そうな雰囲気が霧散し、久里子は眉を高く上げて、ありありと狼狽の色を浮かべる。朋華に大きく顔を近づけたかと思うと、急速に離して虚空を見上げ、一人でブツブツ呟き始めた。
「『月詠』……宿来、あの呪縛にうち勝てる奴……。そーゆー事か、ほんで召鬼使って記憶を……。まさかホンマにおるとはな……」
 久里子は完全に自分の世界に籠もりながら、眉間に皺を寄せる。
 その状態がしばらく続き、痺れを切らした冬摩が口を開きかけた時、久里子が突然こっちを向いた。サングラスをしているのに、まるで睨み付けられているような気迫を感じる。
「今、『月詠』を受け継いでるんは真田家や。岩代家やない。『朱雀』の方は推測やけど、『月詠』はホンマやろ。実際にトモちゃんが名前聞いたんやしな。ま、それやったら何とか納得行くわ。辛うじてやけどな」
 声のトーンを一つ落として真剣な表情で言う久里子。しかしあまりにも端折られすぎていて何を言っているのか全く分からない。
「真田家と『月詠』に関してはな、ちょっと曰く付きの話しが昔あったんや」
 その雰囲気を察してか、久里子はティーカップの紅茶を一気に飲み干し、強引に冷静さを取り戻して続けた。
「この洋館は言うたら退魔師の総本山みたいな所やら、情報は全部集まって来る。そのための連絡員をコッチから全国中に派遣してあるんや。でな、十年くらい前に変な報告して来た連絡員がおったらしいんや。“真田家に玖音くおんという男児が生まれ『月詠』を受け継いだ”ってな」
「それのどこが変なんだよ」
 フルーツバスケットから取り出した林檎にかぶりつきながら聞く冬摩に、久里子は呆れたような視線を向けた。
「アンタ千年以上生きてんねんやろ。なんで真田家の事知らんねん」
「う、うっせーな。別にンなモン知らなくても戦えるだろ」
「よーするに、なーんも考えんと生きて来たわけやな。まぁええわ」
 眉間の皺を揉みほぐしながら、久里子は続ける。
「真田家はな、女系家族なんや。真田の女からは女しか生まれへん。理由は分からんけど、『月詠』の呪いやゆー事になっとる」
「呪いって?」
 聞き返す冬摩に、久里子はお手上げと言わんばかりに両手を上げた。
「『月詠』は女しか保持でけへん神鬼なんや。そのくらい憶えとれ」
「あーもーいちいちウルセーな。で、結局どういう事なんだよ」
 話が頭の中でまとまらない冬摩は、イライラしながら先を促す。
「ドタマの悪いアンタのために結論から言うとやな。多分、トモちゃん襲ったんはその『真田玖音』って奴や」
「間違いないんだな」
 持っていた林檎を握りつぶし、冬摩は低い声で言いながら鋭い視線を久里子に向ける。具体的な名前を挙げられ、明らかに冬摩の顔つきが変わった。
「多分な。元々アンタとやりおーて無事で居られる奴なんか最初から数知れとんねん。ウチが知ってる中やったら玲寺さんくらいのモンや。けどな、『月詠』保持できる男やったら別や。多分、玲寺さんと同じくらいか、それ以上の力ある思ーといた方がええで。ウチも最初は、ソイツが覚醒したばっかしの保持者で、逃げ足だけが取り柄の奴がいちびってんねやろ思ーててんけど、『月詠』を宿来神鬼に出来るんやったら相当の手練れや。かなり年期入ってるで」
「あの……宿来って、何ですか?」
 横から朋華が久里子に質問する。
「『宿来』ゆーんは、霊力の高い武器とかに使役神を宿らせる技や。具現化と違って物に固定させるから使役神の力をそのまま引き出せる。そんで武器の威力は何十倍にも跳ね上がる訳や。けどな、誰にでも簡単に使えるわけやない。この技術は元々葛城家の初代当主が編み出したんやけど、今は分家の一つの真田家にしか――」
「っだー! 難しい話は良いから、とっととソイツの居場所教えろよ!」
 長々と講釈する久里子に業を煮やしたのか、冬摩は勢いよく立ち上がって叫んだ。
 冬摩にしてみれば相手の技術や強さなど関係ない。とにかく叩き潰す。問答無用でブッ飛ばす。朋華を傷付けた事を泣いて詫びるまでド突き倒す。
 ただそれだけ。ソレが出来れば後の事はどうだって良い。世界中を敵に回したところで何の問題も無い。文句がある奴は黙らせればいいだけだ。
「……冬摩、アンタ何そんな焦ってんねん」
「怒ってんだよ! 俺は!」
 拳をテーブルに叩き付け、真っ二つにしたところで朋華がなだめに入った。
「ま、まーまー冬摩さん。嶋比良さんがせっかく教えてくれてるんですから」
「いややわートモちゃん。『嶋比良さん』やなんて。『クリちゃん』でええのにー」
「お前は空気読めんのかー!」
 ちゃぶ台返しの要領で、冬摩は全長三十メートルは有る長テーブルをひっくり返す。轟音を立てながら無数の脚を上に向けて、長テーブルは腹を晒した。
「ショックやわー。ウチ今、ゴキブリに『清潔にせい!』言われたで」
 しかし久里子は全く慌てる事無く、空のティーカップ片手に後ろへと飛び退いていた。
「この……!」
「冬摩、その真田玖音って奴の居場所はウチも知らんねん。アンタらから話し聞かんかったら、実在せーへん奴や思ーとったからな」
「ど、どういう事ですか?」
 前に回りこんで冬摩を食い止める朋華。彼女を引き剥がそうとするが、さすがに手荒な真似は出来ない。ソレを熟知しているのか、久里子は涼しい顔で続けた。
「さっき話した連絡員の事やけどな。ホンマやったら決められた時に情報持って帰るはずやねん。けどな、その連絡員は今日のアンタらみたいにいきなり現れて――」
「テメー久里子! 分かんねーですむと思ってんのか!」
「――なんかに取り憑かれたみたいな感じやったらしい。ま、情報的にもありえん報告やったから、裏取るために後で別の連絡員行かせたんよ。ほしたら男なんか生まれてない言われたんやって。そん時はしゃーないから――」
「しょーがなくねーんだよ! 地平線の向こうまでブッ飛ばすぞテメー!」
「――最初の眉唾モンの情報を注釈ゆー形で残しといたらしいんやけど……今日アンタらの話し聞いてたら、注釈の方が合ってる気がしてきたわ。いや、もー合ってな納得行かへん」
「納得行かねーのはコッチなんだよ! テメーの『千里眼』は節穴かコラァ!」
「と、冬摩さん。落ち着いて、落ち着いて下さい」
 朋華は左脚を後ろにして踏ん張り、冬摩の前進を食い止める。
 押さえつけられた両肩を、何とか力を入れずに振り払おうともがいている冬摩の目の前で、久里子はジーンズのポケットから携帯を取り出し、慣れた手つきで操作し始めた。
 しばらくして白スーツの男が大ホールに現れ、久里子に何かを渡す。
「冬摩、ココ行ってもう一回確認してみ。えらい頑固そうなばーさんやから手こずる思うけど」
 久里子は渡された物の中身を確認して頷くと、冬摩の方に投げてよこした。ソレを苛立ちと共に冬摩がはたき落とす前に、朋華が受け止めて見せてくる。
 ソレは小さな筒だった。
 朋華の片手に収まるくらいの大きさだ。真ん中で折れる造りになっており、中には一枚の紙が丸められて入っていた。
「今の真田家仕切っとる当主がおる住所と地図や。上手い事やったら真田玖音の事聞き出せるかもな。連絡はウチの方からしといたる」
「わ、分かりました。どうも有り難うございます。それじゃ冬摩さん、早速行きましょうか」
 言いながら冬摩の体をポンポンと軽く叩き、何とか怒りを収めようとする朋華。鼻息を荒くして久里子を睨み付けるが、当の本人は全く気にした様子もなく、冬摩が壊したテーブルの撤去作業の準備に取りかかろうとしていた。
「……くそぅ」
 躰の芯が帯びた熱はまだまだ収まりそうになかったが、これ以上久里子に突っかかると余計イライラしてきそうだ。冬摩は何度か大きく深呼吸して取りあえず体の震えだけ抑えると、目の前にいる朋華をじっと見た。
「な、何ですか?」
 突然熱い視線を向けられて戸惑う朋華。顔を朱に染め始めた彼女を、冬摩はいきなり抱きしめた。
「ちょ、と、冬摩さん?」
「しばらくこのままで。お前とこうしてると落ち着くんだ」
 本当だった。
 朋華の顔を見ると優しい気持ちになれる。朋華の匂いを吸い込むと穏やかな気分になれる。そして朋華の温もりを感じるとこの上ない安心感に包まれる。
 それらはすべて、朋華に対する純粋な愛情から来る物。
「は、はぃ……」
 朋華は戸惑いつつも、冬摩の抱擁を何も抵抗せずに受け入れる。冬摩は全身で朋華を感じるために目を閉じ、肌を介して伝わってくる温もりだけに神経を集中させた。
 しばらくその状態で居続け、次に目を開けた時に視界に映ったのは、露骨に不愉快な顔をした久里子だった。テーブルの撤去作業のために呼んだ人達に指示するのも忘れて、抱き合う冬摩と朋華をじっと見ている。
 最初はその理由が分からなかったが、つい最近朋華が貸してくれた少女漫画の内容から思い当たる事があった。
 冬摩は口の端にイヤらしい笑みを浮かべ、
「へっ、うらやましーか」
 勝ち誇ったように言った。
 それに触発されて今度は久里子の体が震え出す。そして携帯をコチラに投げ付けて叫んだ。
「用事が済んだらとっとと出て行かんかー! っのッダァホー!」
 飛んで来た携帯を人差し指で弾き、久里子の怒声をまるで自分達を祝福する賛美歌のように聞きながら、
(勝った)
 と、冬摩は満足げな笑みを浮かべたのだった。

◆闇子、真田玖音 ―嶋比良久里子―◆
(なんやねん! 何やっちゅーねん! なんでウチがあの直情単細胞に馬鹿にされなあかんねん!)
 テーブルの破片を白のパンプスで忌々しげに踏みつけながら、久里子は低い呻り声を発した。まるで猛獣が威嚇しているようにも聞こえる。
(ウチかて玲寺さんが帰って来たら――)
 ソコまで考えて、玲寺の特異体質を思い出した。
(アカン。そう言や玲寺さんは冬摩が好――待てよ、コレ使えるやんか!)
 久里子の中で悪魔的な思考が練り上げられようとした時、近くで何か重い物が落ちる音がする。そちらを見ると、撤去作業をしていた白いスーツの一人がうつぶせに倒れ込んでいた。
「アンタ、大丈――」
 声を掛けようとした久里子の目の前で、周りにいた十数人の男達が一斉に倒れ始める。
「な――」
「意外に脆いな、土御門財閥も」
 いつの間にか、背後に寒気を伴った気配が存在していた。血液が一瞬にして凍り付くような錯覚。首筋に死神の大鎌を添えられたのかとさえ思った。
 久里子は振り向く事なく前に飛び、距離を取って振り向く。
「アンタ、誰や」
 喉の奥から絞り出すようにして声を発した。周りを見る余裕など無い。だが直感で分かった。
 もうこの大ホールには、突然現れたこの男と自分しか立っていないと。
「察しは付いてるんじゃないのか?」
 切れ長の目を更に細め、男は試すような視線をコチラに向ける。
「真田、玖音――」
 自然とその言葉が口をついて出た。直感ですらない。まるで役者があらかじめ決められたセリフを喋るように、その名前は殆ど無意識に紡がれた。圧倒的な確証を持って。
 洋館以外の人間であの結界を抜け、ココにたどり着ける人物となれば、それだけでかなり限定される。しかもまばたきする間に十数人の人間の意識を断ち切る力を持った人物となるとなおさらだ。
「何しに……来たんや」
 自分でも相当間の抜けたセリフだと思う。
 この男は朋華を傷付け、冬摩が敵対視する人物。ならば当然、自分にとっても敵だ。その男が冬摩と朋華が出て行った直後、目の前に現れたと言う事は――
「やる気かい」
 細く息を吐きながら、久里子は玖音へと神経を集中させる。いつの間にか信じられないくらい落ち着いていた。さっきは完全に不意を突かれて焦ったが、真っ正面から対峙すれば別だ。
 だが玖音は臨戦態勢を取った久里子を見て嘆息し、ストレートの短い黒髪を掻き上げて穏やかな口調で言った。
「貴女も、あの感情剥き出し男のように、話も聞かずに僕を攻撃するつもりか?」
「アンタかてトモちゃんに似たような事したんちゃうん」
「一応、僕なりに話せる範囲までは話したつもりだが」
「それで相手が納得せぇへんかったら何も話してないんと同じや」
「なるほど」
 玖音はどこか面白そうに声を押し殺して笑い、両腕を組んで悠然と構える。
「悪いが、僕は貴女に勝つ自信はある。この屋敷の人間全員殺す事も必要ならやる」
「過剰な自意識は身ぃ滅ぼすで」
 不快そうに顔をしかめ、久里子は舌打ちした。
 確かに、この男なら出来るかも知れない。
 女系家族に生まれた『月詠』を使役できる男児。圧倒的な力を誇る冬摩に狙われたにもかかわらず、五体満足で生還できた人物。これだけの使い手だ。彼は間違いなく、龍閃が冬摩によって倒されるよりも前に覚醒していた。にもかかわらず、龍閃を倒すためこの洋館に来る事はなかった。
 保持者は覚醒と同時に使役神からの記憶の逆流によって、強制的な意志を植え付けられる。すなわち『龍閃を倒せ』、と。
 真田玖音はその意志に抗う事が出来た。
 それだけで驚嘆に値する。
 あの天才的な才能を秘めた麻緒でさえ、逆らえなかったというのに。
「出来なくもないさ。篠岡玲寺と九重麻緒が不在なら、な」
 カマ掛けだ。
 久里子は直感する。
 二人の名前やココに居た事を知っているのは、それ程驚く事ではない。玖音は冬摩と朋華の居場所、冬摩が不在になる期間、朋華の力の発生点まで調べ上げていた。恐らくかなり念入りな下準備を行ってきたのだろう。あの冬摩を相手にするのだから、むしろ当然と言える。
 だが、玲寺はともかく麻緒が居なくなったのは最近の事だ。
 玲寺はあの一件から未だ戻っていない。そして麻緒には普通の生活に戻って貰った。龍閃が死んだ以上、それほど強力な退魔師は必要ないからだ。それに家族を失った久里子と違い、麻緒にはまだ若い両親が居る。本人は大分ダダをこねたが、最後には久里子の説得に折れてくれた。
 だが、その事を知るはずがない。そんなにすぐに確証が持てる訳が――
(まさか!)
 冷たい物を感じて久里子は後ろに跳び、さらに玖音と距離を取った。
「どうかしたのか?」
 彼は馬鹿にしたような笑みを浮かべてくる。その顔を見て、久里子は自分の失態にほぞをかんだ。
 玖音の保持する十鬼神『月詠』の能力。数少ない昔の記録では『相手の心を読む』と言われている。だがソレには直接相手に触れる必要があるらしい。
 玖音が召鬼を介し、主の保持する使役神の記憶を探る方法。それは、『月詠』の能力を利用するのだと踏んでいた。召鬼と主の繋がりを利用し、召鬼の体の一部を媒介する事で主に触れた事にする物だと。
 『月詠』に関しては情報が少ない。それは『月詠』が十二神将ではなく十鬼神の一人であるという事もあるが、それ以上にその特異な能力のためだ。
 誰だって心を読める人間と一緒に居たいとは思わない。だから歴代の保持者達は覚醒したとしても、その事を隠している事が多かった。そして現代では血も薄まり、覚醒にすら至っていない。それ故に記録自体が殆ど無いのが現状だ。
 だからこそ、久里子は不安に駆られた。
 ――『月詠』は相手の心を読むのに、触れなくとも近くに居ればいいのではないかと。
 そして咄嗟に取った行動が証明してしまっている。
 ココには玲寺も麻緒も居ないと言う事を。
(このままやと、ずっと向こうのペースや)
 久里子は奥歯をギリ、と噛み締め、サングラスを外した。
 普段決して人前で晒す事のない、焦点を有さない瞳。久里子の保持する十二神将『天空』覚醒への代償。
「アンタがなんで今いきなり来たんか、よーやく分かったわ」
 サングラスをニットセーターの首周りに掛け、久里子は口の端をつり上げて言う。
「よーするに玲寺さんと麻緒がおらんのを確認したかったんや。推測を確証に変えるためにな。二人か、どっちかがおったらいざっちゅう時、実力行使に出にくい。つまり、ウチ一人に強がってられるんがアンタの限界や」
「だから?」
「もし、ウチの力がアンタの予想上回っとったら、この『話し合い』は成立せん訳や」
「僕に勝てる、とでも?」
「せやな。アンタ持ってんのが『月詠』と『朱雀』、それに『六合りくごう』の三体やったらうちの『天空』で何とかなるで」
 言いながら、玖音に向けた目線を針の先のように鋭くする。まるで、玖音の内面を見透かすかのように。
 玖音は朋華に言っていた。朋華を狙ってした事が他人に被害を及ぼしても何とかする自信はある、と。恐らく、何らかの回復のすべを持っているのだろう。『死神』の『復元』以外で久里子が知っている範囲となると『六合』の持つ『治癒』と『再生』しかない。
 そして『六合』は現在、有明家が保持している。
 真田、岩代、有明。
 これら三家はいずれも葛城家の分家に当たる。葛城家は土御門財閥の為した家系の一つだ。つまり、土御門と、真田、岩代、有明の三家には血の繋がりがある。一方、久里子の家系は千年前の魔人達との動乱期に、たまたま使役神を手に入れる事になっただけだ。土御門とは縁もゆかりもない。
 だが、土御門財閥を仕切る者は覚醒者でなければならない。そこで一番最初に覚醒者として洋館に来た久里子が、指導者として抜擢された。しかし、退魔師は血の繋がりも重んじる。
 それ故、土御門財閥は真田家からの情報を無条件で信頼するきらいがあった。
 だが、玖音の存在や彼が『月詠』を受け継いだという正式な報告は受けていない。
 そして久里子の目の前で、屋敷の者達を一瞬で気絶させた瞬足。もしあれが『朱雀』の力であったとすれば。さらに、もし玖音がなんかの理由で、三家全ての使役神を手に入れていたとすれば。
 先程の朋華からの情報と合わせると、可能性はゼロでは無い。
 だが、勿論確証など無い。
 コレはコチラからのカマ掛けだ。
 サングラスをこの距離で外せば、例え完全に使役神を抑え込んでいたとしても、『観える』と思わせるための。
「『天空』、か……。いよいよ欲しくなったな」
 玖音はしばらく押し黙った後、静かに答えた。
(認め、た……?)
 正直なところ、認めて欲しくはなかった。ハッキリ言って、魔人でもない玖音が三体もの使役神を宿すなど信じられないのだ。人の身で二体宿している玲寺ですら驚愕に値するのだから。
 だが、玖音が三体保持している事は不確定だが、もう一つはハッキリした。
(アイツはウチの心は読めてへん)
 少なくともこの距離では。
 もし久里子のハッタリが読めていたとすれば『天空』の能力の限界に気付くはず。サングラスを外したところで『観えない』と。ならばさっきの発言はおかしい。
(……発言?)
 おかしい。今、彼は何と言った? 『いよいよ』欲しくなった? 『天空』を? 玖音の狙いは冬摩の持つ使役神の記憶ではなかったのか? そのために朋華を傷付け、そして自分から冬摩達の行き先を聞き出すつもりではなかったのか?
「貴女は、あの仁科朋華という女よりも頭が切れそうだ。心理的な駆け引きもやり慣れている感がある。今貴女は、何故僕が自分を狙っているのかを考えているんだろうな。ソレはつまり、僕の真意を読み取れていないという事」
 玖音は本当にコチラの心中を見透かしたように、ゆっくりとした口調で確かめるように言った。彼の言葉に呼応して突然空気が重苦しくなり、自重が何倍にもなったかのように感じる。
「僕は十二神将と十鬼神、全ての記憶を手に入れる。当然、貴女が持つ『天空』の記憶も」
 怜悧な響きを伴って、玖音の発した声が久里子の鼓膜を揺さぶった。
 直感が告げる本能的な危険。
 この男はヤルと言ったらヤル。例えどんな手を使ってでも。相手に考える事を放棄させる圧倒的な説得力が、玖音の全身から放たれているようだった。
「ウチがそんな申し出、大人しく受ける思ってんのか?」
 それでも久里子は平静を保ち、目の前の怪物を睨み付ける。
「思っていないさ。だから最初はお願いする。勿論、タダでとは言わない。貴女の盲目を僕が治そう。『死神』の『復元』は強力だが、欠失した部分を補う事しか出来ない。元々ある物を、更に良い状態になるように修復する事は出来ないはずだ。だが、『六合』の『再生』なら可能だ。悪くない条件だと思うが?」
 やはり、玖音は『六合』を保持している。
(当たるのは悪い予感ばっかしやな……)
「アンタ、トモちゃんにもそないゆーて、指切り落とそうとしたんやって? 使役神の記憶見てどないするつもりや」
「貴女にそこまで言う義理はない」
「協力はせい、けど理由は言えん。エライ自分勝手な言いぐさやな」
「重々承知してるつもりだ」
 まったく動じる事なく、玖音は淡々と返す。
「……悪いけど。そーゆーお行儀の悪いヤツの言う事聞いたるほどウチもエエ子ちゃうねん」
「交渉決裂、か。だろうな。僕もココまで喋ったんだ。どちらにせよ、貴女をこのままにしておくつもりはない」
「へっ、腹黒い奴は長生きせぇへんで」
 久里子から目を離す事なく、玖音は持っていた大きめのスポーツバッグを床に下ろした。
「最後にもう一度確認する。貴女一人では僕には勝てない」
「冬摩に負けて命からがら逃げ延びた奴の言うセリフかい」
「僕は合理主義者なんでね」
 合理的に考えて――久里子一人ならどうにでもなる。
 玖音はそう言っている。
「ココでは、貴女は自分の力を使いたくても使えない」
 久里子の力の発生点は『目』。視界に映る物すべてが対象となる。つまり広範囲無差別攻撃だ。ココで使えば洋館のにいる人間全員を巻き込む事になる。
 だが――
「アンタ、ウチを舐め過ぎや」
 言い終わる直前、久里子の右手には小型の銃が握られ玖音の眉間に標準を合わせていた。銃身に直接弾を詰め込むタイプの小型銃だ。一発しか撃てないがその分、銃の大きさ自体が小さく、セーターの袖下にバネ仕掛けで隠し持てる。さらに改造銃であるため、弾丸速度や威力も極限まで引き上げられている。
「弾丸とアンタの脚。どっちが早いかな。ドタマ撃たれたら『復元』やないと間に合わへんで」
 この洋館は治外法権。一人くらい死者が出たところで、もみ消す事くらい訳無い。
 とにかくこの男は危険だ。龍閃とは違う種類の『恐さ』を持っている。放っておけば、この調子で他の保持者の所にも行くつもりだろう。
 例えば、麻緒の所にも。
 そうなれば被害は麻緒の小学校全体に及ぶ危険性がある。玖音は目的のためなら手段を選びそうにない。無関係の子供が殺される可能性だってある。
(ココで、ウチが止める!)
 強い決意を胸に、久里子はトリガーに手を掛けた。
「貴女は確かに仁科朋華より頭は切れる」
 しかし、玖音は静かに言った。
 その声は嘲るようで、そしてどこか悲しげで――
「だが、身体能力は――」
 玖音の姿が久里子の視界から消える。
「劣る」
 声は後ろからした。
 銃だけをそちらに向けようとした時、腹部に痛烈な衝撃が走る。
「貴女はその良く見える『眸』に頼りすぎている。仁科朋華なら反射的に跳んでいた。そして僕の拳を受けても、気を失わなかった」
 薄れ行く意識の中、玖音の声が耳鳴りに聞こえた。
 体に力が入らない。銃が手からこぼれ落ち、床に吸い込まれる自分の体を玖音が抱き留めた。
「覗かせて貰うぞ。『天空』の記憶」
 それが、久里子が最後に耳にした言葉だった。

◆玖音の軌跡 ―荒神冬摩―◆
 自分の脚を使っていないのに、景色がもの凄い速さで後ろに流れて行く。
 その事に冬摩は純粋な感動を覚えていた。
「すげー! すげーぞ朋華! コイツこんなに馬鹿デカイのに俺よりはえー!」
 上機嫌で窓の外を見ながら、冬摩は子供のようにはしゃぐ。
「はい、冬摩さん。ミカンむけましたよ」
 窓から目を離す事なくミカンを受け取り、冬摩はソレを一口で胃に送り込んだ。
「あまりはしゃぐでない冬摩。みっともないぞ」
 前の席に座ってる『死神』が、扇子で口元を隠しながら半眼になって言ってくる。いつもならムキになって言い返しているところだが、今はそれどころではない。
 確か朋華はこの乗り物を『新幹線』と言っていたか。『電車』とソックリなのに速さが全く違う。
 久里子から渡された住所。それは東北地方の山の中。
 洋館に来た時同様、朋華を抱きかかえて走ろうとした冬摩だったが、彼女から別の提案があった。それが『新幹線』に乗るというもの。
 最初、冬摩は『電車』の事だと思って断った。アレなら自分で走った方が早いからだ。しかしソレとは違うと言う朋華に説得され、渋々乗る事になった。自分の体の疲れを心配してくれる彼女の心遣いを、無下に扱う訳には行かない。それに久里子を馬鹿に出来て、少し気分が良かったせいもある。
「どうですか? 冬摩さん。乗って良かったでしょ?」
「おぅ!」
 ホームに入って来た新幹線は遅かった。乗り込み、走り始めた時も遅かった。
 しかし徐々にスピードが上がり、そして最終的にココまで加速するとは思わなかった。
 全車指定の東北新幹線『はやて』。平日と言う事もあり、席はガラガラだった。貸し切りとまでは行かなくとも、冬摩達の乗っている車両には他に四、五人しか居ない。普通は見えない『死神』と喋っていても、おかしな顔を向ける人は誰も居なかった。
「なぁ朋華。この『しんかんせん』って奴、ホントに『せんろ』の上走ってんだよな」
「勿論ですよ」
「ふーん、外と中じゃあ、結構違うモンなんだな」
 中に入ってみると、ホームで見ていた時よりもずっと広く感じる。もう少しで隣の線路にまで、またがりそうに見えた。対向する新幹線が通過するたびに、いつ衝突してもおかしくないとさえ思う。
(人間の作るモンはスゲーな)
 一通り感心し終えた後、冬摩はようやく窓から顔を離して席に座り直した。
「ようやく落ち着いたか。まったくいつまで立っても子供よのぅ」
 クロスシートの正面に座った『死神』が小馬鹿にしたように話しかけてくる。
「なんだよ。お前も乗った事無いだろ、『しんかんせん』。素直に喜べよ」
「妾は乗り物には興味が無い」
「ったく、ノリワリーな」
 頭の後ろで手を組み、『死神』の悪態にも冬摩は平然と返した。
 体力も使わずに目的地に早く着け、しかも朋華が隣に居てくれる。その事が冬摩に余裕をもたらしていた。
 勿論、『死神』が出て来たがらなければもっと良かったのだが。
「冬摩、スマンが妾は少し眠る。着いたら起こしてくれ」
「何だよ。だったら俺の中で寝てればいいじゃねーか」
 元々『死神』を喚び出したのは、彼女が外に出してくれと言って来たからだ。てっきり、冬摩にちょっかいを出すつもりなのかと思っていたのだが。
「今は外に居たい気分なんじゃ。ではな」
 それだけ言い残すと『死神』は浮かび上がり、頭上にせり出している荷物棚に体を横たえた。
「なんだ、アイツ」
「やっぱり、怨行術って言うのが何かしてるんでしょうか」
「怨行術、ねぇ……」
 朋華から『死神』が受けたという術の事は聞いている。
「怨行術ってなんだっけ?」
 ソレが何なのかは知らないのだが。
「え? と、冬摩さんの方が詳しいんじゃないんですか?」
 朋華は少し面食らったような顔をしながら、何かを思い出すように視線を上げた。
「確か……元々は魔人が使ってた術だった気がします」
 『死神』は以前、朋華が保持していた。覚醒した時に『死神』の記憶は朋華に移行される。どこまで受け渡すかは『死神』の気まぐれなのだが。
「でもアイツは魔人じゃなかったぞ」
 それは少しでも戦えば分かる。魔人の体はあんなに脆くない。
「そう、ですよね……。私にもそれ以上はちょっと。あ、嶋比良さんだったら詳しいかも」
 言いながら朋華はスカートのポケットから携帯を取り出し、細い指でボタンをいくつか押す。耳に当て、久里子と繋がるのを待った。
「……出ませんね」
 しばらくして、『留守番電話サービスに接続します』という音声案内が聞こえてきた。
「あ、仁科です。ちょっと聞きたい事があって電話しました。また掛け直します」
 伝言を残して朋華は電話を切る。
「何やってんだ、あの馬鹿」
「きっと忙しいんですよ。殆ど一人で屋敷を切り盛りしてるようなものですからね。そう言えば九重君居ませんでしたね。篠岡さんもまだ帰って来てないんでしょうか」
「玲寺はまだ見つからねーって言ってたな。麻緒はどっか遊びに行ってんじゃねーのか?」
 二人の事に関しては興味が無い事はないが、今はもっと重要な事が目の前にある。
(真田、玖音……)
 朋華を傷付けた男。襲った理由が何であれ、絶対に許す事は出来ない。
 この前はまだ、打ち身と左脚の傷くらいで跡も残らずに完治したから、なんとか落ち着いていられる。相手の骨を折って、脚を二度と使えなくしてやれば気分も晴れる。
 だが――
「なぁ朋華……」
 もし――
「お前に万が一の事があったら、俺は絶対にあのヤローをブッ殺す」
 殺す。
 朋華に惹かれて以来、二度としないでおこうと誓った行為。しかし、あの男が朋華に取り返しのつかない事をすれば、その時は躊躇などしない。跡形も残さず、この世から消し去る。どんな手を使おうとも。どれだけ周りを巻き込もうとも。
「大丈夫ですよ。絶対にそんな事にはなりませんから」
 朋華は無垢な笑みを浮かべて言い切った。
「ああ。俺が付いてるうちは絶対にさせねー。だから何があっても俺から離れるなよ」
 ――絶対に。そう、絶対にだ。
 もう二度と、未琴を失った時のような思いはしたくない。
(この女だけは、朋華だけは、絶対に守る)
 強く自分に言い聞かせ、冬摩は朋華の肩を抱き寄せた。

 新幹線を降りて在来線に乗り換え、無人駅で下りてからは徒歩だった。
 真田家の家の前まで電車が通っていればと心から思った。
 新幹線に魅せられ、冬摩はすっかり電車という物が気に入ってしまっていた。
「随分と辺鄙なトコだな、おぃ……」
 久里子に渡された地図を頼りに歩くこと一時間。
 大きな朱の鳥居をくぐり、千段近くある石階段を上り着いた先に目的の建物があった。
 周りを背の高い木々で囲まれた武家屋敷。山の一角を切り開いて建てられた、広大な敷地面積を誇る古風な建物は、歴史の深い物が放つ独特の威厳と風格を感じさせる。
「取りあえず来ちゃいましたけど、どうやって入るんでしょうか」
 黒い瓦屋根を持つ背の高い塀を見上げなから、朋華が呟いた。
「そんなモン、こーやってだな……」
 樫の木で出来た固そうな門を蹴り破ろうと、冬摩が上げた右脚がピタリと止まる。隣で朋華が安堵の息を付くのが聞こえた。
「なんだよ、こんな時に」
 面倒臭そうに言いながら冬摩は両手で複雑な印を組み、地面に押し当てる。
「使役神鬼『羅刹』召来」
 やる気のない声と共に目の前の空間が歪んで行く。まるで水面に雫を落としたような歪な景色の中から一人の少年が現れた。
 目に掛かるくらいにまで伸ばした、光沢のあるストレートの白髪。初雪のように一切の色素が抜け落ちた純白の肌。鮮血を思わせる緋色の双眸。真一文字に結ばれた真紅の唇。
 幼い顔立ちの少年は、橙のフリースとポケットの沢山付いたキッズズボンに身を包み、内面を消したような無表情でコチラを見つめていた。
 冬摩の保持する十鬼神の一人、『羅刹』だ。
「なんだよ」
 彼が突然外に出たいと言うから出してやったのだが……。
「虫」
「は?」
「知らない虫。沢山いる。取ってくる」
 抑揚のない声で一方的に言い残すと、『羅刹』は疾風を巻き上げて林の中へと消え去って行った。
「なんなんだよ、アイツ……」
 『羅刹』の消えていった方を呆然と見ながら、冬摩は疲れた表情で言う。
「かわいー『羅刹』クン」
 隣で朋華が微笑ましそうな視線を送っている。
「可愛いって……言っとくけどアイツは――」
 そこまで言って冬摩は言葉を止めた。何もわざわざ朋華の笑顔を曇らせるような事を口にする必要はない。
「じゃ、行くか」
 再び冬摩が脚を振り上げた時、門がひとりでに内側へと開いた。
「荒神冬摩様と仁科朋華様、ですね。お待ちしておりました」
 門の向こうに立っていたのは着物を着た女性だった。体の前で手を合わせ、深々と頭を下げている。
「おぅ、久里子の奴から話し聞いてるよな。真田玖音って奴の居場所、聞きに来たんだけどよ」
 冬摩はいきなり本題を切り出した。
「お尋ねの件に関してましては、当主様がお答えになられると思います。どうぞ、こちらに」
 彼女は落ち着いた口調で言いながら半身を引き、中に入るように促す。
「しゃーねーな」
「な、何だか緊張しちゃいますね」
 不満そうに顔をしかめる冬摩と、相手に畏まられて身を固くした朋華は、着物の女性に案内されて屋敷の中へと足を踏み入れた。

 通されたのは百畳以上あろうかと思われる、縦長の部屋だった。敷き詰められた畳からは、藺草いぐさの香りが漂っている。部屋の上座は一段高くなっており、分厚い座布団の上に小柄な老婆が座っていた。
 頭の上で纏めた髪は完全に白くなり、顔には深い皺が刻まれている。瞼は腫れぼったく瞳に掛かり、目を瞑っているようにさえ見えた。だが背中は垂直に伸び、老衰を微塵も感じさせない。それどころか琥珀の着物を完璧に着こなしている姿からは、底知れない活力を感じる。
 コレが真田家当主の貫禄という物なのだろうか。
「ようこそ。遠路はるばるご苦労様でした。土御門から連絡は受けております。私の名は阿樹あき。お答えできる事であればなんなりと」
 阿樹と名乗った老婆は、小さいが良く耳に届く声で申し出た。
「真田玖音って奴が昔居ただろ。ソイツが今どこにいるのか教えてくれ」
「と、冬摩さん。もっと丁寧に言った方が……」
 不遜な態度で喋る冬摩を、朋華が慌てて止める。
「よろしいのですよ。あの龍閃を倒した荒神様は、我ら退魔師の家系にとって英雄そのもの。そして荒神様の召鬼である貴女も。ですからもっと楽にして頂いて結構ですよ」
 柔和な浮かべながら、阿樹は朋華に優しく言ってくれた。
「だってよ、朋華。俺ら有名人らしいから遠慮すんなって」
「は、はぁ……」
 あぐらを掻いて完全にリラックスして言う冬摩に、朋華は恐る恐る正座を崩す。
「で、玖音って奴は?」
 阿樹の方に顔を向け直し、冬摩は最初の質問をした。
「残念ながら、そのような者は我々の家系にはおりませぬ。名前からして男児の様子。真田家は昔から女系で御座います故に」
「すっとぼけんなよ。じゃあ今『月詠』を持ってる奴はどこに居んだ」
「『月詠』は今、沙楡さゆと言う者が保持しております。先程、貴方達を案内して参った者で御座います」
「嘘付け。全然それらしい力は感じなかったぞ」
「沙楡は保持者でありますが覚醒しておりませぬ故。お恥ずかしい話では御座いますが真田家も血が薄まり、保持するのがやっと。龍閃討伐に参戦出来なかったのは、土御門の正統家系として非常に不名誉な事で御座いました」
「ンなこたもうどーだっていいんだよ。とにかく玖音ってガキを出せ! お前が知ってんのは分かったんだよ!」
 前に進まない話しに苛立ち、冬摩は声を荒げて叫ぶ。
「そう申されましても……」
 阿樹は困ったように顔の皺を深くした。
「と、冬摩さん。あまり無茶言ったら悪いですよ……」
「そうは言うけどよー。コイツが知らなかったら探しようがねーじゃねーか」
 口を尖らせて不満を言う冬摩に、朋華は少し考えて、
「じゃあ、私が囮になるとか……」
「絶対駄目だ」
 朋華には指一本触れさせない。それはもう決めた事だ。
 即答され、朋華ははにかんだような笑みを浮かべる。そして他に何か思いついたのか、阿樹の方に体を向け直した。
「あ、じゃあ、怨行術を使える人って、どなたかご存じないですか?」
「怨行術、で御座いますか……」
 怨行術は魔人にしか使えなかった術。ソレを人の身で使えたとなると、それだけでかなり限定される。もしかしたら玖音一人だけかも知れない。
「怨行術なら、この屋敷に居る者は殆ど使えますが」
「へ?」
 予想外の返答に朋華は高い声を上げた。
「で、でもあれは確か魔人しか……」
「確かに、怨行術は魔人のみが使えた技。しかし真田家の初代当主が術の構成を読み解き、人間でも使えるようにしたのが現代に伝わっている怨行術で御座います。ただし、人間が使えるのは弐の型以降。未熟な者であれば参の型以降しか扱えませぬ」
 まるで台本でも読むかのように、阿樹は淀みなく説明してくれる。
「じゃ、じゃあ壱の型が使えたとすれば……?」
「それは不可能で御座います。壱の型と呼ばれているのは読み解く前の怨行術。すなわち魔人にのみ扱えたとされる術です」
「私が見た男の人は壱の型を使ってました。まぁ、その……聞いただけですけど……。『エンバクフウジュカン』とかって」
「『閻縛封呪環』……で御座いますか。それは確かに壱の型……」
 阿樹は何か考え込むように顔をうつむかせた後、朋華の隣りに視線をやった。
「なるほど。そこに居る使役神の顔色がすぐれないのは、『閻縛封呪環』のためですか」
「見えるんですか!?」
 思わず大声を上げてしまった。
 朋華の隣には具合悪そうに横になっている『死神』が居る。だが彼女の姿は、覚醒者でなければ見えないはずだ。
「うっすらと、ですが。先程も申しましたように、我々は土御門の血を引く正統な家系。使役神を保持していなくとも、辛うじて見る事が出来ます」
 陰陽道の権威である安倍清明の家系は、その後土御門へと名前を変えた。そして土御門は葛城、草壁の二家に血を分け、さらに葛城は真田、岩代、有明の三家に血を分けたのだ。
「あ、あの。『死神』さんが掛けられたエンバク何とかって術、解けないんですか?」
「分かりません。試みてみない事には……」
「あの……やって頂く事は可能ですか?」
「それは勿論。せっかくこんな場所まで足を運んで頂いたのに、手ぶらでお帰しするのはこちらとしても心苦しいと思っておりました故」
「おいおい、そんな悠長な事言ってる時間ねーぞ」
 思わぬ展開に冬摩が横から口を挟む。
 ココに来た目的は玖音の居場所を聞き出す事だ。なのに彼に関する情報は何一つとして得られていない。それどころか話をすり替えられて、別方向に持って行かれている気さえする。
「でも、いつまでも『死神』さんをこのままには出来ないでしょ?」
「ほっときゃ治るだろ」
「いえ、『閻縛封呪環』は自然治癒出来ません」
 阿樹の言葉に冬摩は鼻に皺を寄せ、髪の毛を乱暴に掻きむしった。
「くそ! 大体こういうのは掛けた奴ブッ飛ばせば消えるモンだろ? ソレが出来りゃ話は早いのによー! あーもーイライラする! お前絶対知ってるはずだろ!」
 唾を飛ばして声を荒げる冬摩に、阿樹は申し訳なさそうに項垂れる。
「まーまー冬摩さん。気長にやりましょうよ。また向こうから来てくれるかも知れませんし」
「俺は今すぐにブッ飛ばしたいんだよ! 大体朋華! お前も悔しくないのか!? いきなり襲われて、指ちょん切られそうになって、脚刺されて! 仕返ししようとか思わねーのか!?」
 苛立ちが爆発し、冬摩は朋華の肩を揺すりながら叫んだ。
「そ、そりゃ最初はそんな事ちょっとは思ったりもしましたけど……。何だか、あの人ってそんなに悪い人じゃない気がして……」
「悪くねーわけねーだろ! ヘタすりゃ殺されてたんだぞ!? 俺は絶対にアイツを許さん! 何千年掛かっても見つけだして、グチャグチャのボコボコにしてやる!」
「問題は相手が長生きしてくれるかってトコですね」
「そうなんだよ……ってちがーう! ソコじゃねー!」
 思わずノリツッコミしてしまう程、冬摩は怒りと焦りで自分を失いそうになっていた。
「荒神様」
 夫婦漫才を繰り広げる冬摩と朋華に、阿樹は少し低い声で話し掛けて来る。どことなく様子が違って見えた。
「その真田玖音と言う男を見つけたとして、荒神様はどうされるおつもりですか?」
「あぁん? だから何度も言ってんだろーがよ。ブッ飛ばすって」
「『ブッ飛ばす』とは具体的にはどういう行為を指すのですか?」
「ブッ飛ばすっつったらブッ飛ばすんだよ。顔の形変わるまでブン殴って、一人じゃ何も出来ないくらいに足腰立たないようにしてやんだよ」
「……ソレは『殺す』という意味合いではないのですね?」
 静かに、だが明確な意志を持って阿樹は言葉を紡ぐ。一言一言に重い感情を乗せて。
「あの、やっぱり何か知ってるんですか?」
 口を開き、何か言い返そうとした冬摩を遮って朋華が聞いた。
 阿樹の薄く開かれた双眸が朋華を鋭く射抜く。さっきまでの和やかな雰囲気は霧散し、息苦しささえ覚える粘着質な空気が体にまとわりついているようだった。
「大変失礼いたしました。荒神様が真田玖音にどのような思いを抱いて探しておられるのか。そして荒神様の仰られる人物が本当に真田玖音なのか。それらをはかりかねました故、真実を口にする事を躊躇っておりました」
 言い終えて、阿樹は土下座でもするかのように深々と頭を下げる。
「知ってんだな。玖音って奴の事」
「はい」
 冬摩の問いに阿樹ははっきりと答えた。
「これからお話しする事は、我が真田家、そして岩代家、有明家にとって非常に不名誉な事で御座います。土御門にはご報告なさらないと、約束してくれますか?」
「不名誉不名誉、ね。やたら人の目気にするババアだな。いいぜ、そのくらい。久里子に言わなきゃいいんだろ」
「有り難うございます」
 もう一度頭を下げ、阿樹は口を開いた。
「真田玖音は、私の孫に当たります」
 玖音が生まれたのは今から二十年前。
 丁度、紅月の夜の事だった。
 女しか生まれないはずの真田家。それは代々受け継いできた十鬼神の一人、『月詠』の呪いだとされていた。だが、そこに男児が生まれる。
 『真田家に男児が生を受けた時、真田、岩代、有明の三家は闇に包まれる』
 いつからか囁かれていた呪いの言葉。
 だがそれは迷信。
 男であったにも関わらず、玖音は母親から無事『月詠』を受け継ぎ、真田の名を継ぐ者として恥じない一流の陰陽師として育って行った。
「ところが、玖音が十二歳になった時の事です。あの日も紅月の晩でした。玖音は『月詠』に覚醒したのです。そして――」
 ――そして凶暴性を露呈させた。
 玖音はたった一人で近くにいた人間を次々と殺し、それだけでは飽きたらず岩代と有明の家も襲撃した。当時の保持者を殺し、岩代家が受け継いで来た『朱雀』と有明家が受け継いで来た『六合』は玖音の物になった。
「それじゃあ、玖音って人は三体もの使役神を保持出来ているんですか?」
「そうです。恐ろしい才能でした。まさかあれほどまでとは……」
 今の真田家では覚醒どころか一体保持するのがやっと。それを玖音は三体も覚醒させているという。
「言い伝えは本当でした。玖音は、我ら三家を滅ぼすために生まれて来た『闇子』。もし使役神が全て『闇子』に奪われた事が土御門の知るところとなれば、我々の威信は地に落ちます。その前に何としても奪い返さなければなりませんでした」
 しかし玖音は強かった。
 覚醒したとは言えまだ十二歳の少年に、手練れの陰陽師が束になってもかなわなかった。
 『朱雀』の能力によって炎を自在に操り、脚力が異常に向上した玖音は神がかりの速さ死体を積み上げて行った。少しくらいの傷を負わせても、『六合』の能力である『治癒』か『再生』で癒されてしまう。
 そして最も恐ろしいのが『月詠』の『精神干渉』。
 力の弱い者は玖音に触れられただけで操り人形と化し、同士討ちを始めて戦線を乱す。『精神干渉』の力を上げれば相手の心を読む事も出来る。
 戦いの場に置いてこれ程有利な能力はない。相手の出方が筒抜けなのだ。どれだけ策を弄して罠に嵌めようとしても、無為に終わってしまう。
「玖音はすでに力を使いこなせていました。『月詠』の力で使役神の記憶を全て吸い出し、千年という長い年月蓄積されて来た技術を一瞬で身につけたのでしょう。怨行術も、その中にあったのだと思います。玖音は最初から壱の型を使えました。魔人の血を引いていなければ使えないはずの術を」
「でも、玖音って人は人間なんじゃ……」
「玖音には魔人の血も流れているのです。それが『闇子』と呼ばれる真のゆえん」
 玖音と戦っていて判明した驚愕の事実。それは力の発生点と作用点が別になっているという事。
 それは魔人の血がもたらす決定的な特徴。冬摩や龍閃のように。
 冬摩の力の発生点は『痛み』、作用点は『右腕』。龍閃の力の発生点は『悦び』、作用点は『全身』。対して久里子の力の発生点は『目』、麻緒は『爪』、玲寺は『声』、そして朋華は『左脚』。
 魔人の血を引いていなければ発生点も作用点も同じになる。だが、玖音は別々。
「そんな事、起こり得るんですか?」
「真田家の初代当主も男でした。彼にも魔人の血が混じっていたと言われています。しかし二代目以降は全員女性で、魔人の血は受け継がれなかったと聞いています。これが『月詠』の呪いと言われています。つまり――」
 『月詠』に選ばれた者は男児となり、魔人の血を宿して『闇子』となる。繁栄しすぎた土御門の血筋を断つために。
「じゃあ初代当主も乱暴な人だったんですか?」
「初代は『月詠』の呪縛から逃れるため、次世代に受け継がれるまで具現化させ続けたらしいのです。まだ葛城から受け継いだ真田の血が濃かった時代だからこそ出来た荒技だと言われています。玖音には出来ないでしょう」
「あのよ」
 長々と続く阿樹の話しに、冬摩はダルそうに頭を掻きながら入って来た。
「結局玖音って奴はどこに居るんだよ。それさっさと教えてくんねーかな」
 冬摩にしてみればそれ以外の事には興味がない。玖音の力は十分に分かっている。明らかに自分より格下だ。この前は『朱雀』の能力で逃げられてしまったが、今はこっちにも『羅刹』がいる。あの時は『餓鬼王』に喰われてしまい、吐き出させるまで『羅刹』の能力を使えなかったが……。
「残念ながら、玖音の居場所は私どもにも分かりませぬ」
「あぁん?」
 下からねめ上げるように睨み付けながら、冬摩は不愉快そうに顔を歪める。
「ですか、荒神様になら分かるかも知れません」
「どーゆーこった。俺が知ってたらこんなとこ来ねーよ」
「荒神様は『白虎』をお持ちですね」
 冬摩からの威圧にも全く動じる事なく、阿樹は淡々と続ける。
「玖音は『朱雀』を保持しています。『朱雀』『白虎』『玄武』『青龍』は十二神将の中でも四神獣と呼ばれ、密接な繋がりを持っています。『白虎』を具現化させ、玖音の近くで咆吼させれば『朱雀』と共鳴するはずです」
「近くって、どの位だよ」
「恐らく一キロ圏内であれば……」
「おぃ!」
 冬摩や玖音にしてみれば、一キロなど無きに等しい距離だ。玖音が何もせず、冬摩をそんなに近くまで寄せ付けるとは思えない。
「他にねーのかよ! アイツと戦ったんだろ!? 目印とか付けなかったのかよ!」
「さすがにソコまでは……」
「ま、まーまー冬摩さん。『白虎』さんで探せる事が分かっただけでも大きな前進じゃないですか」
 立ち上がり、阿樹に食ってかかろうとする冬摩を、朋華が後ろから羽交い締めにして押さえ込む。背中越しに伝わってくる朋華の温もりが冬摩の頭を急速に冷やして行った。
「ったく……」
 拗ねたようにそっぽを向き、冬摩はうなじの辺りで縛った髪の毛を解く。冬摩が大人しくなったのを確認して、朋華は体を離した。
「よし、じゃあ帰るか。電車に乗るぞ」
 もう一度髪の毛をきつく縛り直し、冬摩は後ろを向いて朋華に目配せする。
「え、でも『死神』さんが……」
 完全に忘れていた。
 『死神』の方を見ると横になって眠っている。額には脂汗が浮かんでいた。かなり辛そうだ。
「で、コイツ治すのにどの位かかんだ? 十分くらいか?」
「いえ。丸二日は見ていただかないと……」
「はぁ!?」
「と、冬摩さーん。落ち着いて、落ち着いてー」
 冬摩が暴れ出す前に朋華が再び体ごと冬摩を止める。
「治療の間、この屋敷に泊まっていかれると良いでしょう。部屋をご用意いたします」
 具現化させた使役神は、主から無限に離れる事が可能というわけではない。かなり距離を開けても全く問題なのだが、ココから東京までとなるとさすがに無理がある。つまり『死神』をココで治癒する二日間、冬摩達は足止めを食らう事になる。
「しょうがないですね」
「しょーがなく……!」
 『ない!』と叫ぼうとした冬摩の言葉が、『死神』の顔を見て止まった。
 いつも高飛車で気の強い『死神』の、あんなに辛そうな顔は初めて見る。息も荒く、全身の力が抜けてグッタリしていた。『死神』がこうなってしまったのは、朋華を守ろうとしたからだ。それに自分にも責任がある。あの時ちゃんと理性を保ち、自分で玖音を追い払っていれば『死神』に被害は及ばなかった。
「……ったく。ホントしょーがねー奴だな」
 不満そうな顔つきになりながらも、冬摩は『死神』を抱きかかえる。その拍子に『死神』が目を覚まし、薄く目を開けた。
「なんじゃ、冬摩……妾を抱いてくれる気になったのか?」
 口の端に勝ち気な笑みを浮かべてはいるが、声はか細い。どこか遠くの方から聞こえてくるようにすら感じる。
「くだんねー事言ってないで、とっとと元気になれよ。迷惑だ」
「……相変わらずつれない奴じゃな。こんな時くらい『そうだ』と言わんか」
 それだけ言い残すと、『死神』は目を瞑った。
「その使役神はこちらに運んで下さい」
 阿樹は音もなく立ち上がり、冬摩を案内するためにふすまを開ける。外はすでに茜色に染まりつつあった。

「二日、か……」
 窓から欠けた月を見上げながら、冬摩は一人ごちる。何としても次の紅月までに決着を付けなければならない。
「もうご馳走様ですか? 冬摩さん」
 浴衣姿の朋華が、茶碗を置いて話しかけてくる。良く暖房が効いているため、薄着でも全く問題ない。冬摩も同じ格好だ。
 冬摩達が案内された部屋は十畳ほどの畳敷きの部屋だった。中央に置かれた木製のテーブルは丁寧に塗られた漆で黒光りし、壁に掛けられた滝の掛け軸の下には木彫りの大きな熊が置かれている。障子で仕切られた向こう側はちょっとした小部屋になっており、琉金の泳ぐ水槽が置かれていた。
 まるで高級老舗旅館の一室のような佇まいをもつ落ち着いた部屋で、冬摩と朋華は晩ご飯を食べていた。振る舞われたのは毛ガニのフルコース。冬摩はあのガリガリという固い歯応えが気に入っていた。なぜか朋華はその部分を捨ててしまうのだが。
「あぁ、ちょっと食欲がないんでな」
 言いながら冬摩は、空になった三つ目のおひつを床に置く。
「『死神』さんの事ですか?」
「いや、まぁソレもあるが……。玖音の事だな」
 あまり役には立たないと思うが、取りあえず見つける方法を一つ手に入れた。あとは自分で足を使って探すしかない。与えられた時間は二ヶ月足らず。もう一日も無駄に出来ない。『死神』の治療が終わったら、すぐに探し始めなければ。
「冬摩さん……真田さんって、どうして使役神の記憶が欲しいんでしょうか」
「さぁな。どーせくだらねー事たくらんでんだろーよ。興味ない」
 今興味があるのは、どうすれば早く玖音を見つけだせるか。それだけ。
「私、やっぱり真田さんってそんなに悪い人じゃない気がするんです」
「またその話しかよ。アイツのどこをどう見れば、そんな事が言えるんだ?」
 納得のいかない表情で、冬摩は朋華がお椀に捨てたカニの甲羅を口に入れる。
「そりゃあ、いきなり乱暴な事して来た時は『このー!』って思いましたよ? けど私を追いかけて来た時も、私が誰も居ない所に行くまでわざと放って置いた感じがしましたし、あの人がちょっと本気を出せば、私なんかあっと言う間に殺されてたと思います。体のどこかが欲しいんなら、そうした方が手っ取り早いのに……」
「おいおいー、頼むから縁起でもない事言うなよー」
 バリボリと乱暴に甲羅を噛み砕いて嚥下しながら、冬摩は眉をハの字に曲げた。
「あ、ご、ゴメンナサイ。そうですよね。私がこんな事言っちゃダメですよね」
 アハハ、と朋華は誤魔化し笑いを浮かべる。
 しばらく黙々とカニを食べた後、朋華は思い出したかのようにポツリと呟いた。
「ねぇ、冬摩さん」
「ん?」
 カニの目の部分を舌先で転がしながら、冬摩は気落ちした顔を上げる。
「あの阿樹ってお婆さん……あの人言う事、ちょっとおかしいと思いませんか?」
「おかしい? どこが?」
「だって、最初はあんなに知らない知らないって言ってたのに、急にペラペラと……」
「だからあのバーサンも言ってたじゃねーか。俺達が玖音をどうしたいのかよく分からなかったんだろ。大方、命までは取られないって知って安心したんじゃねーのか? 自分の孫らしいしな」
 後ろ手を床に着き、冬摩は脚を組んで気楽に言った。
「阿樹さんは多分、真田さんを連れて帰って欲しいんです、よね?」
「だろーな」
 玖音によって奪われた三体の使役神。それは真田、岩代、有明の三家の威信を守るためには必要な物。出来れば力で玖音をねじ伏せ、取り戻したい。しかし玖音の力の方が圧倒的に上回る。そこで仕方なく冬摩にその役を頼んだ。真実を口にする事と引き替えに。
「でも阿樹さんの話だと真田さんに自分の仲間が沢山殺されてる訳だし……それに言ってましたよね。『何としても奪い返さねばならない』って。アレってどういう意味なんでしょう」
「力ずくでも何でも良いから、とにかく連れて来いって事だろ」
「……だと良いんですけど」
 朋華はどこか腑に落ちない表情で視線を落とした。
「あと……真田さんを『闇子』なんて呼んで、滅ぼされるって言ってたわりに、ココって凄く静かじゃないですか。潰れそうだなんて、全然思えないんですけど」
「パッと見そうなだけかもしんねーぜ? あのバーサン、異常に人目気にするみたいだからよ」
「そうなんでしょうか……」
 阿樹が『不名誉』という単語を何回か口にしていた事を思い出す。当主なだけあって、外部からの目には敏感なのだろう。余所者二人の目を誤魔化す事くらい訳ないのかも知れない。
「一番気になってたのが、真田さんの力の発生点なんですけど」
「『怒り』っつってたな」
 阿樹があの後で教えてくれた玖音の力の発生点。
 それは『怒り』。そして作用点は『両手』。
 冬摩が『痛み』が大きければ大きいほど、より強い力を発揮できるように、玖音は『怒り』が強ければ強いほど、両手に籠もる力は強大なる。
「ま、玖音って奴には向かないな。あんまギャーギャー言うタイプには見えねーからよ」
 玖音は冷静で計算高い男だ。すぐに感情を剥き出しにする冬摩ならともかく、玖音に合った発生点とは考えにくい。
「そうなんですよ。だからおかしいんですよ。真田さんは十二歳で覚醒してすぐに暴れて出て行ったって言ってましたよね。だとすると力の発生点を阿樹さんが知ったのは、その暴れた時って事になります。あの真田さんが何に怒ってたんでしょう」
「覚醒したら異常に興奮するモンなんだよ。ちょっと触られたくらいでキレてもおかしくねー」
 少なくとも冬摩が初めて『鬼蜘蛛』に覚醒した時はそうだった。まぁ、龍閃にあっけなく押さえつけられたが。
「……そう言う物なんですか」
 朋華はまたしばらく口を閉じ、カニをつつきながら思索に耽る。
「真田さん、今どこで何してるんでしょうね」
 顔を上げて少し笑いながら、朋華は言った。
「だからソレをコレから探すんじゃねーか」
 阿樹の推測では玖音は一般家庭に紛れ込んでいるらしい。恐らく『月詠』の『精神干渉』を使って、家族の一員になりすましているのだという。そうして真田、岩代、有明の三家を潰す絶好の機会を窺っていると言うのだが……。
(アイツの力がありゃこんなショボイ家、一瞬で潰せると思うんだけどよ……)
 一通り回った限り、この屋敷に保持者は居なかった。
 確かに朋華の言う通り、あの阿樹という老婆の話は胡散臭いところがある。だが、それはどうでも良い事だ。玖音さえ見つけて叩きのめし、二度と朋華の前に現れないと誓わせる事が出来れば他はどうでも良い。
「もぅやーめようぜ、玖音の話はよ。考えてても埒あかねーよ。本人に会った時に聞きゃ良いじゃねーか」
 投げやりな口調で言って、冬摩は床に寝そべった。
 分からない事を分からないまま議論し続けるのも嫌だが、それ以上に朋華が玖音の事を深く考えて理解しようとしているところがまた気にくわない。
 朋華が貸してくれた少女漫画からの情報によると、コレは『嫉妬』という物らしい。そんな感情は未琴と居た時にはまったく湧かなかったものだが……。
「ああ!」
 朋華が上げた大声に、冬摩は自分の心を見透かされたかと体を震わせる。
「ど、どうした!?」
「家に連絡するの……忘れてました……」
 呆然とした表情で言った後、朋華は壁に掛けられた自分の学生服のポケットを大慌てで探り始めた。そして携帯を取り出した時、タイミング良く『ダースベイダー』の着信音が鳴り響く。
「あ、あれ……? 嶋比良さんからだ」
 戸惑いながらも朋華は通話ボタンを押して電話に出た。
「あ、はい、仁科です。……え? ええ。いや別に……。そんなとんでもないです。はい、ちゃんと無事に着けました。今、色々あってコチラでご厄介になってるんですけど……あ、その事でしたら大丈夫です。怨行術についてお聞きしたかったんですけど、コチラの当主さんに直接聞きましたから」
 昼間コチラから掛けて出なかったので向こうから掛けて来たのだろう。
「はい、はい……。スイマセンどうも、わざわざ。……そうですね、真田玖音って人は……その……やっぱり居ないみたいです」
 そう言えば阿樹が玖音の事は話すなと言っていた。冬摩はすっかり忘れていたが。
「……え? 冬摩さんですか? ええ、それりゃもう暴れましたよ。もう少しで真田家滅亡させちゃうところでした、あははっ」
(『あははっ』じゃねーだろ。大袈裟に言いすぎだ)
 もっとも、玖音の事を阿樹が話さなければそのくらいしていたかも知れないが。
「ええ、ええ。それじゃ……。またすぐに帰りますので。はい、どうも……失礼します」
 朋華は通話を切り、またすぐに掛け直す。今度は親に連絡しているのだろう。
 もめるのかと思ったが意外にもアッサリ承諾が下りたらしく、話はものの数分で終わった。
「よく許して貰ったな」
 感心したように冬摩が言う。やはり親から信頼されているのだろうか。
「御代ちゃんの家に泊まるって言ったら許して貰えました。冬摩さんと一緒って知ったら、母さんはともかく、父さんは卒倒するでしょうね」
 そう言えば一度だけ朋華の両親と会った事があるが、なかなか個性的な二人だった。母親には朋華のスリーサイズとか弱い言葉とかを教えられるし、父親の方は龍閃に匹敵するくらいの殺気を感じた。かなりの手練れである事は間違いない。
「ま、早く帰って来いって言われなくて良かったよ」
 その場合『死神』か朋華、どちらかを取らなければならない。間違いなく朋華を選択すると思うが、『死神』を見捨てるのは少し心が痛む。
「さて、と。風呂入って寝るか」
「そうですね」

 そこは満天の星空に見下ろされた、広大な露天風呂だった。
 大小様々な丸い岩をコンクリートで固めて囲いが造られており、湧いてくる温水を循環させる事なく、使い捨てで注ぎ続けて湯浴を生み出している。周りに植えられた常緑樹が舞い込む風を程良く加減し、遠くから聞こえる獅子おどしの音が情緒ある赴きを醸し出していた。
「ふー……」
 肩までドップリとつかりながら、冬摩は細く長く息を吐く。長い黒髪が湯に泳ぎ、首筋の辺りをくすぐった。今日一日の疲れが湯に溶け込み、新たな活力を注ぎ込んでくれているようだ。
 冬摩達に気を遣ってか他の人間は誰も居ない。プールほどの広さを持つ天然温泉を独占状態だった。
(二日、か……)
 あと二日動けないのは痛いが、少しくらいココで朋華と羽を休めるのも良いかも知れない。
 そんな思いが頭をよぎった時、湯気の向こうに人影が現れた。自分の他に誰か入って来たのだろう。
(なんだよ、貸し切りじゃ――)
 不満そうにその人影を睨み付けた冬摩の目が、大きく見開かれた。
「おお……」
「と、冬摩、さん……?」
 近寄って来たのは朋華だった。
「え、ちょ、だ、だって、ココ女湯じゃ……!」
 入り口は違うが中は同じ。混浴によくある造りだ。それに真田家は女系家族。男は外部から招き入れるだけなので、数が圧倒的に少ない。男湯と女湯を別々にするくらいなら、と考えたのだろう。
「まぁ取りあえず入れよ。風邪ひくぞ」
 顔を真っ赤にしてバスタオルを強く引き寄せ、前を隠す朋華に、冬摩は無造作に手招きする。
「で、でも……その……」
 朋華は何故かキョロキョロと周りを見回すだけで、その場を動かない。
「なんだよ、しょーがねーな」
 いつまで立っても入って来そうにないので、冬摩は立ち上がって朋華へと近づいた。
「ちょ、キャ……キャアァァァァァァ!」
 朋華は両手で顔を隠し、叫び声を上げてうずくまる。
「あん? どした?」
「前! 冬摩さん前!」
「前?」
「隠して! 隠して下さい!」
 ああそうか。気が回らなかった。
 元々そう言う習慣がないので全く気付かなかった。普通はタオルか何かで隠すものらしい。
(となると……今日寝る時も全裸はまずいよな……)
 いつもそうしているだけに調子が狂うが仕方ない。
「ほらよ、もう大丈夫だぜ」
 岩肌に置いてあったタオルを腰に巻き、冬摩は朋華に声を掛けた。
「ほ、本当、ですか……?」
 目の部分を隠していた指を少し開き、そこから覗き込むようにして冬摩の方を見る。そしてちゃんと隠れている事を確認すると、安堵の息をつきながら立ち上がった。
「もぅ、デリカシーがないんですからっ」
 ほっぺたを膨らませながら、朋華は冬摩の横を足早に通り過ぎて湯につかる。
 白く細いうなじが、湿り気を帯びた髪の間から見え隠れし、妙な色香を漂わせていた。いつもしているチェリーピンクのヘアバンドを外しているせいか、どことなく雰囲気が違って見える。
「悪かったよ。次からは気を付ける」
 朋華のすぐ隣りの湯につかり、冬摩はすまなそうに言った。
「絶対ですよ。どうせ、明日も、その……一緒に……」
 ゴニョゴニョと口ごもりながら、朋華は紅い顔を更に紅くして顔を半分ほど湯に沈める。
「ああ、ちゃんと一緒に入ろうな」
「だっ、だからハッキリ言わないでくださいよっ、そう言うところがデリカシーに欠けるって……」
 コチラを見る事なく、朋華は冬摩に背中を向けて言った。
「そうか。なかなか難しいな。その『照り菓子』って奴は」
 言いながら冬摩は、朋華の華奢な肩に両手を乗せる。朋華はビクッと体を震わせるが、逃げる気配はない。
「ちょっとずつ、お前に合わせて行くからよ。色々教えてくれ」
 そして両腕で朋華の肩を抱き、彼女の背中を自分の方に抱き寄せた。
「と、冬摩、さん……」
 朋華は僅かに抵抗するが、本気で嫌がっている訳ではないようだ。
 冬摩は更に強く抱きしめ、朋華の耳元に口を寄せて囁いた。
「朋華、お前が欲しい」
 朋華からの返事はない。
 湯が流れていく音、風が通り過ぎていく音、木々の葉が擦れ合う音。
 自然の静寂が辺りを包み込み、互いの息づかいだけが鮮明に聞こえる。
 朋華の手が冬摩の腕に触れ、恥ずかしそうに何か言おうと口を開いて――
「あん?」
 いつの間にか、顔を泥だらけにした無表情の少年が冬摩と朋華の前に鎮座していた。湯につからないように少年が両手で持ち上げてるのは、木の枝で編んだ籠。そこにはテントウムシやマイマイカブリ、キチョウといった冬の昆虫から、冬眠しているところを叩き起こしたのか、コクワガタやキリギリス、日本には居ないはずのヘラクレスオオカブトムシといった虫達も集結していた。
「虫。取って来た。いっぱい。おすそ分け」
 その少年――『羅刹』は言いながら、編み籠をぐいと朋華に差し出す。
「……ぅ」
 朋華の体がガタガタと震えだし、
「……ぁ、ぁ……ぅ……」
 何かを否定するかのように首をゆっくりと左右に振り、
「……ぃ、ぃぃ、や、ぁ……」
 大きく息を吸い込んで、
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 耳をつんざく叫声を上げた。生じた振動波で水面が波打ち、木々が悲鳴を上げ、岩に亀裂が走る。
「お、落ち着け、落ち着け、朋華、な、な?」
「いやあぁぁぁぁ! いやいやいやいやいやあぁぁぁぁぁ! もぅこんなのいやああぁぁぁぁ! 冬摩さんのバカバカバカあぁぁぁぁぁぁぁ!」
 涙目になって叫び散らしながら、朋華は『羅刹』を越える速さで脱衣場へと逃げ込んで行った。
 今冬摩の前に居るのは、感情の読めない顔でコチラを見上げている『羅刹』だけ。
「虫。いらないのか?」
「お、ま、え、なぁ……」
 冬摩は怒りで体を震わせ、『羅刹』を睨み付ける。もう少しで朋華をもっと強く感じる事が出来たというのに。
「なーんでわざわざこのタイミングで出て来んだよ……」
 返答次第では、自分の使役神鬼とは言え血祭りに上げなければならない。
「血の匂い」
「は?」
「変な血の匂い。魔人みたいな血の匂いあった。近く」
 魔人。
 その言葉に冬摩の頭に上っていた血が一気に下りてくる。自分はココに来て怪我などしていない。となれば――
「案内しろ」
 鋭い視線を『羅刹』に向け、冬摩は低い声で言った。

 脱衣場で浴衣を羽織り直し、『羅刹』に案内されてやって来た場所は、屋敷の裏手にある雑木林の中だった。
 無数の樹が織りなす深い闇の中に紛れるようにしてソレは建っていた。
「倉、か……」
 漆喰で塗り固められた外壁は方々がひび割れ、屋根に敷き詰められている瓦は半分以上剥がれ落ちてしまっている。鉄製の頑丈そうな扉に付けられた南京錠は茶色く錆び、役目を放棄してから随分な年月が経っているように見えた。
「ココ。中から」
 『羅刹』は倉を指さしながら言う。
 冬摩は南京錠を強引にむしり取ると、倉の扉を開けた。軋んだ音と共に扉は中の闇に吸い込まれ、堆積していた冷たくカビ臭い空気が外に溢れ出してくる。
 冬摩は『羅刹』と共に倉に足を踏み入れ、目を瞑って視界が闇に慣れるのを待った。しばらくして目を開けた時、周りに散らばっていたのは俵やすきくわといった農具だった。
「その変な血の匂いはどっちだ」
「こっち」
 『羅刹』が指したのは米の入った俵が一際高く積まれた場所。冬摩はそれらを軽々と蹴飛ばしてどかせる。下から現れたのは床に埋め込まれた扉だった。太い鎖が何重にも掛けられている。この奥に何か隠したい物が眠っているのは明白だった。
 冬摩は鎖を引きちぎり、観音開きの扉を開ける。
「地下室、ね……」
 面白そうに口の端をつり上げ、冬摩はぽっかりと口を開けた地下室への扉をくぐった。
 ギシギシと悲鳴を上げる木製の階段を下り、たどり着いた先にあったのは一つの座敷牢だった。
 鉄骨を上下左右に何本も渡して目の細かい編み目を作り、要所要所に結界の用の呪符が張られている。かつて誰か強大な力をもった人物を、この中に閉じこめていた事は想像に難くない。
「この中。この中、一番強い」
「そうか」
 『羅刹』の言葉通り、牢の中に敷かれた申し訳程度の藁の上は、何か濃い色に染まっている部分が散見される。
「魔人みたいな匂いがするんだな?」
 冬摩の問いに『羅刹』が頷く。
 『羅刹』の能力――それは吸血だ。今はまだ血を吸っていないから大人しくしているが、一度血を口にすれば哄笑を上げ、血と肉と悲鳴を貪る悪鬼へと変貌する。
 そうなっていない今の状態は防御に秀で、大抵の呪術も生身で無効化できる。『白虎』の放つ針も素手で難なく掴めるし、『餓鬼王』の大喰いにも有る程度は耐えられる。
 そして何より、血を吸っていない『羅刹』は周囲からする血の匂いに異常に敏感だった。
「人間の匂い、沢山。魔人みたいな匂い、一つ」
 玖音だ。
 玖音しか居ない。
 『闇子』と呼ばれ、強大な力を有する玖音。彼の体には魔人の血が流れているという。怨行術、壱の型を使えるのがその証拠。真田家の初代当主もそうだったらしいが、その時からある血ならさすがに『羅刹』でも嗅ぎ分けられない。せいぜい、ここ十年か二十年の間だ。
 どうしてこんな所に玖音の血があるのか。ソレは分からない。恐らく朋華の読み通り、阿樹の言っていた事に嘘が混じっているのだろう。
「『羅刹』、コレと同じ血の匂い、嗅げるか?」
「…………」
 言われて『羅刹』はヒクヒクと小鼻を動かし、地下室の出入り口へと向かう。冬摩も後を追い、倉の外に出たところで『羅刹』がコチラを見ていた。そしてコクン、と小さく頷く。
「捕まえた、な……」
 月光の冴え渡る夜空の下、冬摩は拳を握りしめて不敵な笑みを浮かべたのだった。




空メールでも送れますが、一言添えていただけると大変嬉しいです。

BACK NEXT TOP


Copyright(c) 2006 all rights reserved.

-Powered by 小説HTMLの小人さん-

inserted by FC2 system