貴方に捧げる死神の謳声 第零部 ―復讐の業怨―

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壱『宵闇の邂逅』


 足りない。まだ足りない。

 もっと欲しい。もっと喰いたい。

 あの肉を喰えば更なる高見に上り詰める事が出来る。至高の快楽を味わう事が出来る。

 あの肉を……喰えば……。

◆和解への道 ―炎将(えんしょう)―◆
「正気か龍閃!」
 深い谷間に横たわる渓流に面した岩壁。人外の力を持ってソコに穿たれた洞穴の中。
 分厚い岩盤で囲まれた薄暗い空間に、底知れぬ怒気を孕んだ叫声が響き渡った。
「もう決めた事だ。変えるつもりはない」
 湿気を含んだ冷たい夜気が舞い込む中、洞穴の一番奥で重々しく座っている大きな人影――龍閃は、静かにコチラを見据えながら言い切る。
 座してなお衰える事を知らない威厳と風格。立ち上がれば二メートルはゆうに越える長身。数本の蝋燭が放つ頼りない光ですら、鮮烈に浮かび上がる緋色の髪。蒼い肌着の上に羽織った白の陣羽織は、下から盛り上がる異様に発達した筋肉によって二回りは大きく見える。
「ふざけるな! 停戦だと!? 負けを認めるというのか!」
 しかし炎将も怯む事なく、龍閃の金色の双眸を真っ正面から見据えて言い返した。
「それが最強と謳われた魔人の言う事か! 見損なったぞ!」
 剣のように鋭く尖った白銀の短髪を振り乱しながら、炎将は顔を灼怒に染めて激昂する。
「なぜ戦わない! どうして人間共を喰らい尽くさない! 貴様には死んだ仲間の無念が聞こえんのか!」
「聞こえるからこそ、だ。炎将。我らは人間の力を侮りすぎた。残った魔人は四人。勝ち目は薄い」
 龍閃は腕組みしたまま、難しい顔つきで言った。
「何も真っ正面から戦う事が全てではない! 不意を突き、守りの弱い所を叩けば勝機は十分にある! これまで人間共がしてきたようにだ!」
 碧眼に殺気を乗せ、敵愾心を剥き出しにして炎将は叫ぶ。口の端から突き出した長い牙が、顎の肉を食い破らんばかりに皮膚にめり込んだ。
「炎将、お前の言い分もよく分かる。だがな、これ以上の戦いは無意味だ。十鬼神として身を捧げた仲間達も、魔人の血が絶える事など望んではいない」
「そんな事はない! 戦って死ぬのならば本望だ! 人間共に屈服するくらいならば!」
「屈服ではない。共生だ」
「同じ事だ! 今まで食料でしかなかったような奴らと馴れ合うなど、魔人としての誇りを捨てたも同然だ!」
 右手を真横に大きく突き出し、炎将は浅黒い肌を包み込む貫頭衣の袖を振り乱して声を荒げた。
 龍閃は間違っている。
 人間の陰陽師達が使役する強力な式神、十二神将に対抗すべく、魔人の心臓部である核を大量に集めて結晶化し、意思を持たせて生み出した存在、十鬼神。
 そこには同志達の強い想いが込められている。
 すなわち、人間共を喰らい尽くせという情念が。
 今、龍閃は彼らの気持ちを無視し、人間達と手を結ぼうとしている。それは十鬼神になった者達は勿論の事、陰陽師達の奸計にはまって殺されてしまった仲間の想いを踏みにじる事に他ならない。
「大体お前達もお前達だ! どうして反対しない! どうして何も言わない!」
 炎将は、龍閃の隣の岩肌にもたれている背の低い少女と、自分の横で瞑目して座っている男を睨み付けた。
「紫蓬(しほう)! お前はどうなんだ! まさか龍閃に賛同するわけではあるまいな!」
 紫蓬と呼ばれた少女は、縦長の円筒状に纏められた桃色の髪を揺らし、幼い体を申し訳程度に覆う羽衣を翻らせながら、岩から背中を離す。
「ワシは賛成ぞ。このまま戦いを続ければ負けるのはあきらか。龍閃の判断は極めて冷静ぞ」
「な……!?」
 きつくつり上がった瞳でコチラを見ながら、紫蓬は男性のように低い声で言った。
「冷静、だと!? 無様に敵に背を向ける事が冷静だというのか!」
「ヌシこそ頭を冷やせ。この二百年でワシら魔人は激減した。かつては千以上も居た仲間達も今ではたったの四人。なぜだか分かるか? 『死神』を早々に奪われたからぞ。治癒の要となる十鬼神を欠いては、いくら魔人とて肉体的に限度がある」
 十鬼神『死神』。彼女の持つ能力の一つ『復元』。致命的な傷口をも一瞬にして治す驚異的な回復力。その代償として要求されるのは術者の生命力。
 もし使用したのが人間ならば、たった一度でも命を掛けなければならないだろう。しかし魔人ならば話は別だ。
 人間よりも遙かに寿命が長く、身体能力が勝り、圧倒的な生命力を誇る魔人ならば、何度でも行使できる。何度でも致命傷から復活できる。
 だが十鬼神を生み出してほんの数年で、『死神』を保持していた魔人は人間に殺された。そして『死神』は陰陽師達の間で受け継がれる事となった。
「ならば奪い返せばいいだけの事だろう!」
「ソレが簡単に出来るのならとっくにやっている。だから頭を冷やして過去を顧みろと言うのだ」
 確かに――紫蓬の言う通り何度も『死神』を奪い返そうとした。だが出来なかった。
 『死神』の保持者を一緒に襲った魔人達はいつの間にか数を減らし、気が付くとコチラが劣勢に立たされていた。まるで悪い幻覚でも見せられているかのように。
「お前の『六合』があるだろう! ソレの『治癒』や『再生』で……!」
「あれは人間の生み出した式神だ。人間を癒す事しか想定していない。ワシら魔人の傷を癒すには力不足だ」
「結局お前も腰抜けって訳か! その大所帯の使役神は単なる飾りだった訳だ!」
「ふん……。飾りかどうか、ヌシの体で試しても良いのだぞ?」
 紫蓬の纏う羽衣が不気味に揺れる。風ではない。彼女の放つ闘気が物理的な力を伴っているのだ。さっきまでは綺麗な空色だった紫蓬の両目は、殺戮の紅に染まりつつあった。
(く……)
 残念ながら勝てる相手ではない。
 紫蓬と自分の地力は変わらないとは言え、宿している使役神の数が違いすぎる。
 コチラは二体。そして向こうは五体だ。
 一対一で戦っては、それこそ勝ち目がない。
 だが、地力そのものが違う者ならば、保持している使役神の数は問題ではない。
「魎(りょう)! お前の意見を聞こう!」
 先程から自分の隣に座り込み、目を瞑ったまま微動だにしない男に炎将は声を掛けた。
 龍閃に次いで力を持つ彼がコチラに付いてくれれば、人間との和平など力ずくでも止めさせてみせる。
 しかし、魎は炎将の呼びかけには応えない。
 まるで煙のように不定型に揺らめく黒衣。背中に少し掛かる程度に伸ばした黒髪をすべて後ろに回し、額を大きく晒した髪型は鋼鉄のように固まっている。
「魎! 聞いているのか!」
 髪と同じく、全く動きを見せない魎に苛立ち、炎将は彼の前に立って耳元で叫んだ。
「……ん」
 そこまでしてようやく魎が動きを見せる。
 薄く開いた瞼の奥で息づく鈍色の瞳。長い髪の下から覗く耳を小刻みに震わせながら、魎は大口を開けて息を吸い込んだ。そして――
「ん……。悪い。寝てた」
 欠伸混じりの声を発する。
「ね……! 貴様、今がどういう時なのか分かってるのか!」
 炎将はこれ以上ない程に憤慨し、鋭い髪を逆立てて声を張り上げた。
 こんな奴が魔人の中でも二番目に強い力を持っているのかと思うと、情けなくなってくる。
「あー、紫蓬。で、どこまで話は進んだ? 龍閃が私達を集めて深刻な顔してたとこまでは覚えてるんだが……」
「人間との争いを止めようと龍閃が提案した。それに炎将が反対した。ヤツはワシに意見を聞いて拒絶され、ヌシに救いを求めているところぞ」
「あー、それで私を起こしたのか。せっかく気持ちよく……」
「魎!」
 緊張感のないやり取りをする二人の会話を遮り、炎将は魎の胸ぐらを掴み上げて叫んだ。
「よもや貴様まで魔人の誇りを捨てるなどと言い出すわけではあるまいな! 人間との和解を承諾するなどと考えてないだろうな!」
「あー、炎将……」
 魎は面倒臭そうに広い額を擦りながら、半眼になって炎将を見返す。
「その手、早く離さんと喰われるぞ」
「――!」
 一瞬、魎を掴んでいた指先に熱が走った。反射的に手を離すと、指が数本炭化して崩れ落ちている。
「運が良かったなぁ。もう少し遅ければ手首から先が無くなっていたところだ。感謝しろよ?」
 相変わらずのんびりとした口調で言う魎からは、僅かな殺気も感じない。今、自分の指を喰らったのは魎の意思ではない。
(怨行術か……)
 それは魔人の間で独自に磨き上げてきた呪術の一種。人間達の使う陰陽術や祈祷術などとは比べ物にならない程強力な。熟練者が行使すれば、何百人もの精神を一瞬にして縛り付けて傀儡と化し、天変地異を意図的に起こせる程の力を秘めている。
 魎は怨行術に関しては、魔人の中でも随一の使い手だ。それが龍閃に次ぐ力を持つと言われている所以でもあった。
 恐らく、あの黒衣は怨行術で構成した物なのだろう。
「あー、で。人間と仲良くしようって? 龍閃がそう言ったのか?」
「そうだ」
 気怠そうな魎の問い掛けに、紫蓬が低い声で答える。
「あー、じゃー。しょうがないんじゃないのか? いくら何でも龍閃の力無しじゃ勝てっこないだろ。あー、と、言うわけで私は龍閃に賛同する。これでいいか? 炎将」
 そして何も考えずに即答した。
「こ……! の……!」
 あまりの怒りに、炎将は意識が遠のきそうになる。
「炎将。そう言うわけだ。悪いが我の意見を通させ貰うぞ」
 黙って話を聞いていた龍閃は、その場に立ち上がって念を押すように確認の言葉を発した。いや、確認などではない。強制だ。
 これ以上反論するならば、力ずくでも言う事を聞かせる。
 高い視点からコチラを見下ろす龍閃の目はそう言っていた。
「俺は認めん! 認めんぞ! 人間共と馴れ合うくらいなら死んだ方がましだ!」
 捨て台詞のように吐き捨てると、炎将は洞穴を飛び出す。
 いくら龍閃の命令とはいえ、コレだけは聞けない。魔人としての誇りを失うわけには行かない。それならば自ら死を選ぶ。
 だが、ただでは死なない。どうせ死ぬなら、出来るだけ多くの人間共を道連れに。出来るだけ沢山の肉を胃袋に。
 女や子供の柔らかくて美味い肉を、喰って喰って喰らい尽くして、最高の気分で死んでやる!

 ◆◇◆◇◆
 魔人達は人間の間では鬼と呼ばれ、古より邪悪な存在として忌み嫌われ続けていた。そのため陰陽師と呼ばれる特殊な力を持った者達がそれらの退治にあたり、都に住む人々に安息をもたらし続けていた。
 魔人と人間との争いは、陰陽師の権威、安倍清明の生誕した二百年も前から続けられていた。一進一退の攻防戦は、十二神将という安倍清明の生み出した強力な式神の力により、徐々に人間達に傾き始める。
 追いつめられた魔人達は少数精鋭で対抗すべく、仲間の命を犠牲にして十鬼神と呼ばれる使役神鬼を生み出した。
 これで十二神将に対抗できる。そう思った矢先、回復の要である『死神』を人間に奪われた。以降、魔人達は一気に劣勢に回る事になる。
 そして魔人の数を四人にまで減らした時、ついに龍閃が人間との和解を決断した。魔人の血を絶やさないために。
 人間側は思いの外すんなりとその提案を受け入れた。
 一見、優勢に見えていた陰陽師達だったが、最大の牙城である龍閃を打ち崩すには多大な被害が出ると踏んでいたのだ。
 龍閃には他の魔人達にはない、強力な龍変化の能力がある。二ヶ月に一度訪れる紅月の夜、龍閃は強大な龍に変貌する。
 手負いの獣程恐ろしいものはない。龍閃を追いつめるのは得策ではない。魔人の中でも龍閃だけは別格だ。
 だから魔人達の案を呑んだ。ある条件を課して。
 一つ目は魔人の力を封じるための法具を、全員常に身に付けている事。龍閃から離反した炎将に関しては、魔人と人間が協力して探し出す事になった。もしその間、彼からの被害が人間に及んだ場合、龍閃の命を持って償うという契約が交わされた。
 二つ目は、龍閃が人間の巫女をめとるというもの。
 人間と魔人との友好の印というのは当然建前で、いわば監視役だ。龍閃に不穏な動きがあればすぐに知らせるようにと、嫁いだ巫女は帝からの勅命を受けていた。
 しかし、人間側の予想に反して極めて平穏な日々が続いた。
 龍閃と彼に嫁いだ巫女――紗羅(さら)は仲睦まじくなり、やがて一人の子を成す。
 そして魔人と人間の血を継ぐ男児、冬摩が誕生した。

◆魔人としての本能 ―冬摩―◆
 魔人の成長は早い。
 約一年で成人の体格となり、そこからは肉体の老化が激的に遅くなる。
 生まれた時から戦場に身を置き、自分の身は自分で守らなければならないという魔人特有の成長の仕方だ。
 父親である龍閃からの血を濃く受け継いだ冬摩は、他の魔人同様一年余りで肉体が完成された。そして魔人の血が冬摩にもたらしたのはそれだけではない。
 魔人としての戦闘本能、殺戮衝動。血を求め、肉を喰らう原初よりの思考。
「オラァ!」
 粒の細かい砂利が敷き詰められた、都の北大路。
 白い漆喰の塗られた土塀を強く蹴って、冬摩は真横に跳躍した。その勢いに乗せて、右拳を目の前の男の鳩尾に食い込ませる。
「ご……!」
 低く、くぐもった声を上げて男は膝を折り、胃液を吐き出しながら苦悶の表情を浮かべた。
「おぃ、このくらいで参んなよ! っの雑魚が!」
 検非違使(けびいし)――平安時代の警察――を凶鳥のように鋭い目つきで見下ろしながら、冬摩は挑発的な言葉を言い捨てる。
 直衣(のうし)の袖口と袴の裾部分を破り捨てた身軽な格好で腕を組み、地面に這いつくばる検非違使の頭に足を掛ける。その拍子に落ちた彼の烏帽子(えぼし)を踏みつけながら、冬摩は落胆の息を吐いた。
「オラ立てよ。このまま死にてーのか」
 足りない。
 まだまだ暴れ足りない。
 こんな中途半端な状態では鬱憤が溜まるだけだ。
 もっと抵抗しろ。こっちを睨み付けて立ち上がれ。そして腰の刀剣で斬りかかってこい。
「ぐ……」
 しかし冬摩の思いも虚しく、追ってきた検非違使はあっさりと気を失った。
「あー! クソッタレ! なんでそんなに脆いんだよ! 人間は! 屑同然じゃねーか!」
 癖のある黒い短髪を掻きむしりながら、冬摩は苛立たしげに喚き散らす。
 事の発端は何という事はない。歩いていた検非違使の顔が気に入らなかったので、殺気を込めた視線で睨み付けただけだ。コチラに気付いた相手が『何の用だ』と聞いてきたので、素直に思った事を口にしたら口論になった。そして手が出た。
 ただそれだけだ。
 向こうも殴りかかってきたので応戦した。そして勝った。
 ただそれだけ。こちらに落ち度はない。弱すぎる向こうが悪いのだ。
 そう、弱すぎる相手が……。
(叩き起こすか)
 この昂ぶった気が収まるまでは付き合って貰わなければならない。
 冬摩は倒れた検非違使の隣りで片膝を着くと、彼の頭を鷲掴みにした。そして片手で持ち上げようとした時、
「その手を離せ!」
 馬蹄が地面を叩く音と怒声が同時に飛んでくる。
 見ると、黒い大きめの着物――束帯(そくたい)に身を包み、白い馬にまたがってコチラに駆けてくる男が居た。今掴み上げようとしている検非違使と同じ服装だ。どうやら仲間らしい。
 誰かが告げたのか、遠くから騒ぎを聞きつけたのかは知らないが丁度良い。獲物は活きが良いに越した事はない。
 好戦的な笑みを口の端に浮かべ、冬摩は気絶している検非違使から手を離して立ち上がった。そして首や肩の骨を鳴らして、相手が距離を詰めてくるのを待つ。
「龍閃の息子……また貴様か!」
 砂煙を巻き上げて冬摩の目の前で馬を止め、検非違使は躊躇う事なく腰の刀剣を抜き放った。
 それでいい。そうこなくては面白くない。
 訳の分からない法具で力を封じられているとは言え、魔人と人間との力の差は簡単には埋まらない。一対一で戦う以上、最初から武器を用いるのは賢明な判断だ。
「だったら?」
「斬り捨てる!」
 魔人が何か問題を起こした場合、どんな理由があろうと非は魔人側に帰属する。それは和平を結んだ時、明言せずとも暗黙の了解として浸透していた。
 争いを止めようと言いだしたのは魔人側。人間に対してある程度下手に出るのは当然の事だ。
「おもしれぇ! 来いオラァ!」
 だが冬摩にはそんな事関係ない。
 魔人の血がもたらす破壊欲に従って、暴れたい時に暴れる。気に入らない奴は殴り飛ばす。後の事など考えない。面倒臭い事も考えない。本能のままに生きる。自分のやりたいようにやる。ただそれだけ。
 馬から下りた検非違使に鋭い視線を向け、冬摩は身構えた。そして彼が刀剣を構えた時、
「あー、そこまで、そこまで。こんな昼間から体力を使うのは感心しないな」
 視界が黒く覆われた。
「美しい歌を詠んで女を口説き、夜這いに行く。そこにこそ男は力を注ぐべきだと私は思うが、どうかな?」
 この場にそぐわないのんびりとした喋り。
 縫い目のない黒衣に身を包んだ男が、芝居がかった仕草で両手を広げ、薄く開いた鈍色の瞳を冬摩と検非違使に一回ずつ向ける。
「お前は……!」
 検非違使は構えを解かぬまま、突然の闖入者に声を上げた。
「魎……またテメーか! 邪魔すんじゃねぇ!」
 熱くなっていた体が急速に冷やされていく感覚に怒りを覚え、冬摩は激しい口調で魎に叫ぶ。
「あー、まぁそう昂奮するな。ここで発情しても意味がないぞ」
「誰がだ!」
 しかし魎は全く調子を崩す事なく、なだめるような口調で言った。
「やれやれ仕方ないな。それでは私が直々に女性の口説き方を伝授してやろう」
「聞いてない!」
「一夜限りの逢瀬。それ故に熱く燃え上がる情事。ようこそ冬摩、秘密の花園へ」
「ソレしか頭にないのかテメーは!」
 コチラに左手を伸ばしながら微笑し、誘うような視線を向けてくる魎に、冬摩は顔を真っ赤に染め上げてまくし立てる。
「当然」
 広い額を撫で上げ、魎は何の臆面もなく自信満々といった様子で言い切った。
「いいからソコどけよ!」
 自分と検非違使の間に割って入るように立っている魎に、冬摩は全身から溢れ出す殺気をぶつける。だが魎はそれでも動じる事なく、おどけたように片眉を上げてみせた。
「あー、まぁ、そう言うな。私とお前の仲じゃないか」
 そして冬摩の肩を抱きかかえようと、伸ばした左腕をさらに近づけてくる。
「触るんじゃねぇ!」
 鬱陶しい物を拒絶するかのように、冬摩は魎の左手を払い落とした。それを見た魎が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「相変わらず古風な手に引っかかるな」
 魎の言葉と同時に、さっきまで煮えたぎっていた体の内側が、冷水を浴びせられたように静まりかえっていく。
「しまっ……」
 気付いた時にはもう手遅れ。
「あー、ここは私に任せろ。上手く話を付けてやる」
 言いながら検非違使の方に体を向ける魎。少し前まで殺気立っていたはずの検非違使も、いつの間にか冬摩同様穏やかな顔つきになっていた。

 都からは少し離れた場所にある雑木林。その中にひっそりと佇む寂れた神社。
 小さな鳥居と耳の欠けた狛犬、そして風が吹けば飛びそうなほどに老朽化した社。外観を形作る板は黒く変色し、蜘蛛の巣がいくつも張られていた。
 静かで人気のないこの場所は、冬摩が何もやる気の起きない時によく来る。
 丁度、今のように――
「何でお前まで付いてくんだよ……」
 社の屋根の上でやる気なさそうに寝そべり、冬摩は自分の隣で眠そうに欠伸をしている魎に話し掛けた。
「あー、そりゃ、まぁ。私はお前のお目付役だからな。お前が無茶をする前に止めるのが私の役目だ。龍閃からきつく言われている」
「けっ……」
 龍閃。
 その名前を出されて、冬摩は不機嫌そうに顔をしかめた。
「それにしても随分と力が有り余ってるじゃないか、冬摩。ここ二、三日で三回もの大立ち回り。新記録達成だな」
「紅月が近いんだよ。平然としてられるお前の方が信じらんねー」
 紅月とは二ヶ月に一度、紅く染まる満月の事。魔人の血を引く者にのみ紅く見え、甚大な破壊衝動と血と肉への渇望を喚び起こす。
「あー、まぁ。私はもぅ慣れてるからな。ま、まだ生まれたてのお前じゃ使役神に振り回されるのも無理ない。せいぜい体で覚えるんだな。どうしようもなくヤバくなったら、お前の強い強い父君が何とかしてくれるさ。力ずくでな」
 どこか皮肉るような喋りで、魎は広い額を軽く擦った。
 冬摩が生まれたのは約二年前。その時に龍閃から受け継いだ十鬼神『鬼蜘蛛』。ソコから流れ出した龍閃の戦いの記憶は、冬摩の中にある魔人の血を沸騰させ、果てしない戦闘意欲を湧き上がらせるには十分すぎた。
 生まれてすぐ、まだ体も小さい時に冬摩は実の父である龍閃に挑んだ。
 そして負けた。完膚なきまでに。
 以来、幾度となく龍閃に挑戦したが、足下にも及ばなかった。それは成人となり、体が完成しきった後でも同じ事だった。
 自分が強くなればなるほど、龍閃の力が分かってくる。追いつこうとすればするほど離される。力を法具で封じられているとは言え、龍閃が本気を出せば一瞬で何十もの人間の死体が積み上がるだろう。
 最強と言われた魔人の力は伊達ではない。
「クソッタレ……。こんな下んねーモン付けてなきゃよ……」
 自分の右腕にはめられた腕輪を見つめながら、冬摩は苦言を漏らす。薄い鋳鉄で出来た腕輪の表面には、朱色の複雑な紋字が書き込まれていた。
 人間達が魔人との和睦を受け入れる際、魔人側に着用する事を強要した法具だ。魔人の力を押さえる効力があるらしい。着けるのに特殊な儀式が必要なため実戦向きではないが、一度効果を発揮するとその拘束力は相当な物だ。
 力を振るった時、頭の中で思い描いた結果と、現実に起こった結果に差がありすぎる。
 例えば、先程検非違使の腹を殴りつけた時も、体を貫通させるつもりで拳を振るった。しかし実際は気絶させただけ。
 コレを着けた今の自分よりも、何も着けていなかった生まれたての自分の方が強かった気さえする。
 何度も外そうとしたが、どうやっても出来ない。解呪にも何か儀式的な事が必要なのだろう。そして強引に引きちぎろうとすると、甚大な苦痛が肉体と言わず精神と言わず灼いていく。かなり厄介な代物だ。
「あー、コイツさえなければ龍閃に勝てる、と?」
 魎は自分の左腕と右脚にはめられた法具を見ながら呟いた。
「当たり前だろ。楽勝だ楽勝」
「あー、ま。口で言うだけなら自由だしな」
 くっく、と喉の奥で低く笑いながら魎は面白そうに言う。
「あぁん?」
 その軽薄な仕草が冬摩の神経を逆撫でした。
「何だテメェ……。ブッ殺されてーのか」
 両目を鋭く見開き、冬摩は剣呑な光を宿らせて魎を睨み付ける。
「あー、まーそんなにカリカリするな。『鬼蜘蛛』も魔人の力も使いこなせてないようじゃ、龍閃どころか私にすら遠く及ばないって事をしっかり分かって欲しかっただけなんだ。つまり、お前はまだ寝小便してる赤子同然ってわけだな。ようやく四つん這い歩きができ始めたところだ。だからそう焦るな。あー、言い忘れたが発言に悪意はないぞ」
「ブッ殺す!」
 魎の露骨な挑発に、冬摩は物理的な余波さえ撒き散らす殺意を身に纏って立ち上がった。
「あー、だから何度も言うがそういう体力は女に……」
「死ねオラァ!」
 叫び声と共に冬摩は右腕を魎の頭に叩き付ける。朽ち果てた木造の屋根に穴が開き、暗い社の中を晒した。
「あー、若いってのはそれだけで宝だな。大切にしろよ」
 感慨深げに言う魎の声が後ろから聞こえる。そして冬摩の首筋に彼の手が触れた。
「く……」
 直後、さっきまで頭に上りきっていた血が一気に下り、全身を生暖かい倦怠感が包み込む。それでも必死になって気持ちを奮い立たせようとするが、まばたきする間にその意欲ごと刈り取られた。
「テメーは……いつもそうやって……」
「あー、私は基本的に戦いが好きじゃないんだ。事なかれ主義でね。熱く滾る情熱は女性のためにある。あー、冬摩。お前も誰かを好きになれば分かるさ」
 面倒臭そうに言う魎の言葉を背中で聞きながら、冬摩はふてくされたような顔つきで社の天井にあぐらをかいた。
 検非違使とのもめ事を鎮め、冬摩の殺意をあっさり霧散させたのは、魎の宿す十鬼神『無幻』の能力だ。
 『情動制御』と呼ばれるその力は、対象の心情をある程度自由に変える事が出来る。
 魎の力の作用点は『左腕』と『右脚』。法具が掛けられている部分だ。
 人間のように抵抗力の弱い者なら力の作用点から離れていても効果があり、冬摩のような魔人であっても直接触れれば十分に効き目がある。
 龍閃が魎を冬摩の監視役として選んだ理由もここにあった。
 直情的で粗雑な性格の冬摩を言葉で説得する事はまず不可能。かといって力ずくで押さえ込めば、被害が人間に及ぶ可能性もある。
 だが魎の『情動制御』なら話は別だ。
 有無を言わさずに冬摩の闘意を萎えさせる事が出来る。
 検非違使と問題を起こしたとしても、相手を殺していなければ何とかうやむやに出来る。勿論、それも魎の人脈と話術があればこそなのだが。
(このガキはいつもヘラヘラと……)
 魎に対して怒る気力が湧いてこない自分に苛立ちながら、冬摩は肩越しに彼を見た。いつも通り薄ら笑いを浮かべて、軽薄そうな雰囲気を纏っている。
 この男はいつもこうだ。力はあるのに使おうとしない。魔人にとっては敵であり、食料でしかない人間達と進んで仲良くしようとする。その時も『情動制御』を使って好感を埋め込めば早いのに、なぜか会話だけで信頼関係を築こうとする。特に女性を口説く時は、こまめに歌を送ったり、貢ぎ物をしたりして、多大な労力を割く。
 あの検非違使も恐らくは魎の知り合いだ。相手を冷静にさせるくらいには使役神鬼の力を使ったかも知れないが、その先は完全な交渉だった。
 コチラの気持ち、立場を知って貰う事で、相手の理解を得る。そして事を丸く収める。そういう回りくどい方法を魎は好む。
(使役神鬼の力……魔人の力、ね……)
 それは魎の魔人としての力を磨くためなのだろうか。
 魎の力の発生点は『共感』。
 相手との気持ちが通じれば通じるほど、魔人の力を発揮できる。いざという時、その力を最大限に引き出せるよう下準備をしているのだろうか。
 一方、冬摩の力の発生点は『痛み』。作用点は『右腕』。そして保持神鬼は『鬼蜘蛛』。
 自分はまだ何一つとして使いこなせていない。力に振り回されているだけだ。
(メンドくせー)
 だが、努力で何とかしようという気は湧かない。
 龍閃は強すぎる。少し力を磨いたからといって差が埋まるわけではない。それどころか更に突き放される。かといって法具はどうやってもはずせない。
 人間は弱すぎる。検非違使くらいなら、どれだけ大勢で来られても負ける気がしない。
 そして魎はまともに取り合わない。いつも自分の調子に引き込んで、のらりくらりとかわす。
 結局、誰と戦っても不満が残る。
 今のままではどうやっても完全燃焼できない。
 冬摩にとって絶好の相手が居ない。
 龍閃のように圧倒的すぎる力を誇っているわけではなく、魎よりも闘争心に溢れる魔人。もしくは――
(やるしかねーな……)
 検非違使よりも遙かに力のある人間。
 そういう人種と戦うしかない。今の自分の鬱憤を晴らすには。
 これまでは辛うじて理性で抑えてきたがもう限界だ。次の紅月まで持ちそうにない。
(陰陽寮をブッ叩く!)
 陰陽寮とはいわば陰陽師達の総本山。少し前まで激しい戦いを繰り広げていた宿敵の住処。恐らく十二神将や、魔人から奪った十鬼神を保持している者も居るだろう。
 彼らならば自分を満足させてくれる。血で血を洗う凄絶な死闘を体感できる。
 自分の仕業だと発覚すれば、今結ばれている和平は当然破棄されるだろう。そうなれば龍閃に殺されるかもしない。
 だがその時はその時だ。このまま不満だけを積もらせて、気が触れてしまうよりはよほど良い。
(問題はコイツ、だな……)
 魎の顔を険しい表情で見ながら、冬摩は目を細めた。

 深夜。子の刻。
 都の住人が寝静まり、闇の帳が重く下ろされ切った時刻。
 冬摩は完全に気配を絶ち、都の中央を走る朱雀大路を北に向かって走っていた。それに対して直角に横たわる三条大路にさしかかったところで右へと曲がり、左京地区へと向きを変える。
 視界の中で徐々に大きくなる、白い土塀で囲われた一画。その中に黒い石瓦の屋根を持つコの字形の建物が見えた。夜の見張りで誰か起きているのか、離殿の覗き窓に垂れた御簾(みす)からは薄い明かりが漏れている。
(よーし……)
 ココが目的の場所。陰陽寮だ。
 鼻腔を突くケシの香り。低級妖魔の嫌がる匂いだが、魔人には何の効果もない。
 冬摩は狂喜に顔を染め、音も立てずに跳躍した。そして土塀の上に飛び乗る。
 本当はこんな下らない真似はしたくない。出来れば昼間に正門から押し入って、正面から思いきりぶつかりたい。
 しかしそんな事をすれば間違いなく魎に見つかる。そして本格的な戦いを始める前に、沈静化される。昼間のように。
 だが取り返しの付かないくらいに事を大きくしてしまった後なら、魎がいくら話術や人脈を駆使しようとも無駄だろう。そうなるまでの我慢だ。
 今、魎は恐らく人間の女と一緒に居る。素早い対応は出来ないはずだ。
 お目付役とはいえ、四六時中見張っているわけではない。冬摩の性格を読み、コソコソした事を嫌うと予想した上での監視だ。だから今回はその裏を付いた。
(大体、人間と仲良しこよしってのが、どーかしてんだよ)
 冬摩は陰陽寮の敷地内に降り立ち、粘土質を多く含んだ土の上を駆けて、明かりのついた離殿へと向かった。
 魔人と人間は生まれた時から敵対関係。戦い合うのが宿命だ。ソレを拒めば肉体的にも精神的にも負担が生じる。
 解消しなければならない。自分に最も合った方法で。
 陰陽寮の本殿からは外れ、四角い敷地内の角にある社のような造りの離殿。板敷きの廊下に冬摩は草履のまま上がり込み、大きな音を立てて障子を開け放った。
「誰だ!」
 いっそう強いケシの香りが立ちこめる部屋の中に、巫女装束に身を包んだ女が一人で居た。部屋には調度品など何もない。ただ板で囲まれただけの空間には、申し訳程度に蝋燭の明かりが灯っている。女は部屋の中央で正座して、書物を読んでいた。
 腰まである長い黒髪は、磨き上げられた黒曜石のように輝き、コチラを睨み付ける大きな二重の瞳には意思の強そうな光が宿っていた。彫りが深く、通った鼻筋。引き締まった桃色の唇。鋭角的な顔の輪郭。白磁のように透き通った肌。
 魎が見れば跳んで大喜びしそうな程の美しい女性だ。だが、そんな外見など今の冬摩には全く関係ない。何の興味も湧かない。
「何だよ。女か……」
 落胆したような表情になって、冬摩は短い黒髪を乱暴に掻きながら呟く。
 今、求めているのは強い相手だ。自分と対等に渡り合え、かつ好戦的な。巫女などでは話にならない。
 魔人と和平を結んだ事である程度は油断しているだろうとは思っていたが、まさかここまで警護が手薄だとは思わなかった。
 寝起きの陰陽師を相手にしても仕方ないだろうと思って、わざわざ明かりのついている離殿に来たのだが、期待はずれも良いところだ。
「貴様は……冬摩。魔人、龍閃の息子か」
 女は静かに言って立ち上がり、袖長白衣の合わせ目から霊符を取り出す。
「何の用だ」
「ココの連中をブッ殺しに来た」
 馬鹿にしたような笑みを浮かべて、冬摩は返した。
「戦いは終わったはずだ」
「知らねーよ。そんな俺が生まれる前の話なんざ。それより教えろ。ここで一番強いのはどいつだ」
 女は何も答える事なく、霊符を構えたまま少しずつ冬摩と距離を取っていく。
「言いたくないなら別にいい。自分で探すからよ」
 面倒臭そうに言って冬摩が女に背を向けた時、背後で急激に闘気が立ち上った。
「救急如律令! 霊符よ結界となりで魔の者を拒め!」
 淡い燐光を纏った霊符は部屋の八角に飛んで静止し、胎動するかのように明滅する。次の瞬間、部屋の空気が一変した。
 冷たい夜気が鋭さを増し、肌を刺すかのような痛みを覚える。自重が何倍にもなったかのような錯覚。一気に低下した外気とは裏腹に、冬摩の中で何か熱い塊が蠢動し始めた。
「逃がさねーってか。おもしれぇ……」
 好戦的な表情を浮かべて振り向き、冬摩は口の端をつり上げる。
「死んで後悔しろ!」
 そして叫び声と共に女に飛びかかった。
「オラァ!」
 跳躍の勢いに乗せて右腕を突き出す。
 女は体を僅かに横にずらして火線上から身を外し、両腕で抱え込むように冬摩の右腕を捉えた。そのまま後ろに倒れ込んで身を沈め、上げた膝を冬摩の腹に食い込ませる。
「ぐ……!」
 下からの力で体を押し上げられ、固定された腕を中心に弧を描いて冬摩の体が持ち上がった。
「はあぁぁぁぁぁ!」
 空いた隙間に滑り込ませるようにして、女は立て続けに膝を叩き込んでいく。同時に、冬摩の腕をへし折らんばかりに、逆関節へと捻り上げた。
「……の、ガキィ!」
 喉の奥から込み上げてくる物を強引に呑み込み、冬摩は右腕に力を込める。自分の腕にしがみついた女の体を軽々と持ち上げ、壁に叩き付けようと腕を振り回した。しかし女は一瞬早く冬摩の腕から離れると、身を低くして足払いを放つ。
「きかねーんだよ!」
 冬摩は力強く足を踏ん張り、眼下の女に右拳を振り下ろした。女は横に転がってかわすと、床に突き刺さった冬摩の腕に霊符を貼り付けて体を起こす。そして大きく後ろに跳んで距離を取った。
「救急如律令! 霊符よ爆炎となりて魔の者を呑み込め!」
 女の詞に応えるようにして、冬摩の右腕を業火が包む。
「けっ!」
 しかし全く意に介する事なく、冬摩は腕を抜いて床を蹴った。僅か半呼吸で女との間合いを詰め、彼女の首を持ち上げる。
「な……」
 まさか怯む事なく攻撃に転じてくるとは思わなかったのだろう。女の顔にありありと狼狽の色が浮かぶ。
「じゃあな」
 短く言うと、冬摩は女の首を掴んだ手に力を込めた。
 しかし彼女は苦悶の表情の中に不敵な笑みを混ぜ、冬摩の体に別の霊符を貼り付ける。今までの白い色ではなく、鮮血を思わせる紅だ。
「救急、如律令……。霊符よ、爆ぜて虚無へと帰せ……」
 途切れ途切れに詞を言い終えた直後、冬摩の胸部を甚大な熱量が襲った。爆風で跳ね飛ばされ、背中から壁に叩き付けられる。
「や、ろう……」
 霊符を張られた胸に手を当てると、そこの肉がごっそりと抉り取られ、紅い断面を晒していた。腕の炎はその余波で消えてしまっている。それ程強烈な爆発だった。
 しかし、その力を浴びたのは冬摩だけではない。
「ふ、ふん……。魔人も、大した事はない、な……」
 あの爆発を至近距離で受けたのは女も同じ事だ。冬摩ほどではないとは言え、彼女の巫女服はぼろ着のようになり、体の方々が炭のように黒くなっている。背中を壁に押しつけて何とか立ち上がるが、足下はおぼつかない。
(自爆覚悟で……)
 まさか死地をあんな手段で脱するとは思わなかった。首を締め上げられ、呼吸もままならないような状況に追い込まれれば普通は諦める。少し腹を殴ればあっさり気絶する検非違使などとは、比べ物にならない精神力をこの女は持っている。
「おもしれぇ」
 所詮は巫女だと侮っていたがそうではないらしい。それなりに強い力を持っている。
 だが――相手が悪かった。
 冬摩は抉られた胸から手を離し、両足でしっかりと床を捉えて立ち上がった。
 冬摩の保持する十鬼神『鬼蜘蛛』。能力は攻撃範囲の拡大と、回復力の増強。さっきまであれだけ酷かった出血は、徐々に収まりの気配を見せていた。
「魔人が大した事ない? 負け犬の遠吠えだな」
 そして悠然とした足取りで女の元に歩み寄る。
「く……」
 さすがに力の差を感じたのか、女は悔しそうに眉間に皺を寄せた。だが、目の力は衰えていない。何とか活路を見出そうと、弱った体を支えながらも力強い輝きを宿している。
「なかなか良かったぜ。そこそこ満足できた」
 だからせめてもの情けだ。苦しまないように一撃で殺してやる。そしてもっと強い者を探し出す。
 巫女でこれだけの力を持っているのだ。相手が陰陽師ならば、さぞかし満足の行く戦いが出来るに違いない。
 冬摩は凶悪な笑みを浮かべて女の前に立った。そして右腕を彼女の心臓めがけて突き出す。しかし女は体を横に流し、辛うじて直撃を免れた。だが、冬摩の指先が彼女の脇の肉を掠め取っていく。骨も何本か折れただろう。
「止めとけよ。苦しむだけだ」
 肩で息をしながらコチラを睨み付ける女を睥睨し、冬摩は首だけを彼女の方に向けた。
「貴様は……ここから出さぬ……」
 もはや言う事を聞かなくなっただろう体を引きずり、女は障子の前まで移動した。そして仁王立ちになって両手を広げる。
(コイツ……)
 一体どこにそんな力が残っているのか。爆風を浴びた時点で瀕死だったはずだ。
「できねー事は言うモンじゃねーな」
 今度は女の頭部を狙い拳撃を放った。『痛み』によって破壊力を増した右拳は、彼女の頭をあっけなく粉砕――する事なく後ろの障子に突き刺さる。
 首の筋が伸びきるくらい横に倒した彼女の顔には、幾筋もの紅い線が引かれている。例え拳自体をかわしきったとしても、『鬼蜘蛛』の力で攻撃範囲の拡大した拳撃全てを避けきれるわけではない。
「貴様は……私が殺す……」
 肩にも傷を負ったのか、片腕をだらりと下げながら女は言った。
(なんだ……)
 なぜ闘志が衰えない。なぜ戦意を喪失しない。
 それどころか傷を負えば負うほど、追いつめられれば追いつめられるほど、彼女の目の輝きは増していく。
 何がそこまでこの女を駆り立てる。立っているのがやっとの体なのに、何がまだ戦おうという気を起こさせる。一体何が。
「そこまでにしておくんだな、冬摩。これ以上は取り返しが付かんぞ」
 突然した低い女性の声と共に障子が開いた。
「お前……」
 女の後ろに立っていたのは自分の背丈の半分ほどしかない少女。首には力を封じるための法具。一枚の長い布を体に巻き付けて必要最低限の部分を覆い、露出度の高い羽衣のように着こなしている。
「紫蓬! なんでテメーがココに……!」
 高く伸びた円筒形の桃色髪を揺らしながら、紫蓬は女と冬摩の間に立った。そして腕組みしたまま、狐のようにつり上がった目で鋭い眼光を飛ばしてくる。
「ヌシには関係のない事ぞ。それより何故こんなを事をした」
「俺が何しよーが、それこそお前に関係ないだろ!」
「やれやれ。どうやら灸を据えねばならんようだな」
 紫蓬は呆れたような視線をコチラに向けたかと思うと、一瞬にして冬摩の顔の高さまで飛び上がった。そして空中で体を回転させ、蹴撃を見舞う。
「テ、メェ!」
 頬に生じた鈍痛で怒りを惹起され、冬摩は首を戻して紫蓬を睨み付けた。そして小さな体に右拳を叩き付ける。
 紫蓬は片手で拳撃を受け止めると、その勢いに体を乗せて後ろに跳んだ。
「オラァ!」
 追撃を仕掛けようと身を低くする冬摩。
「まだまだ未熟だな」
 頭の後ろで紫蓬の声がした。
「な――」
 確かに自分の前には紫蓬が居る。しかし耳元でしたのは――
「ワシの二割の『分身』相手でもその程度か」
 首筋に走る鋭痛。
 目だけを動かし、紫蓬が自分の首に噛み付いている姿を見た時には、意識がかなり遠のいてしまった後だった。
「ワシは魎と違って器用ではないからな。どんな処遇を受けるかは分からんぞ」
「クソッ、タレ……」
 視界が狭まり、目に映る物全てが黒く塗りつぶされていく。
「どれ傷を見せてみろ。ワシが何とかしてやろう、未琴」
(未琴……)
 それがあの女の名前。
 紫蓬のその言葉を最後に、冬摩の意識は完全に闇に呑み込まれた。

 冬摩が住む家は都の北西。帝が居を構える平安宮の内裏からよく見える場所に位置していた。
 勿論、監視のために。
「どうだ冬摩。少しは『痛み』の使い方を覚えたか?」
 家の前に走る一条大路。幅が広く、いつもなら大勢の人の往来があるはずのその場所は、哀愁を漂わせるまでに閑散としていた。
「ちっ、たぁ……手加減しやがれ……」
 体を半分以上地面に埋め込んだ体勢のまま、冬摩は呻くように言う。
「何を奇異な事を。我は軽く叩き付けただけだぞ。お前が勝手に潜り込んでいるのではないか」
 頭上で平然と言ってのける長い紅髪を持った大男――龍閃を下から睨みながら、冬摩は奥歯をきつく噛み締めた。
「いっその事……殺せ、よ……父さん」
 口の中に溜まった血を唾液と共に吐き出しながら、冬摩は声を絞り出す。もうこうして喋っている事すら辛い。首を上げているのが億劫だ。
「それではお前の教育にならんだろう。我の言いつけ破り、紫蓬にまで手間を掛けた罰をとくと味わえ。そして早く力の使い方を覚えろ。そうすれば我相手でも鬱憤を解消できるようになる」
「出来、るか……」
 龍閃の力は余りに大きすぎる。相手はまだ左腕一本しか使ってないというのにこの様だ。
(大体、力の作用点が『全身』ってのは反則だろ……)
 地面に顔を横たえ、細く呼吸しながら冬摩は胸中で毒づいた。
 龍閃の力の発生点は『悦び』、そして作用点は『全身』だ。体のどこからでも魔人としての力を発揮できる。
「何だ冬摩。随分と簡単に諦めるのだな。我から見ると今のお前はまさに屑同然だぞ」
 龍閃の嘲るような言葉。ソレを聞いて、茫漠としていた意識が鮮明な輪郭を伴って浮かび上がって来た。
「なん、だ、と……!」
 屑同然。
 それは今まで自分が人間達に言ってきた言葉。力が弱く、すぐに音を上げる者の代名詞。今自分はソレと同じ扱いを受けている。
「テ、メェ……!」
 少し動かすだけで悲鳴を上げる腕の関節を強引に曲げ、冬摩は地面に手を付いた。そして力を入れて自分の体を持ち上げていく。
 冬摩の力の発生点は『痛み』。それは十分すぎるほどに蓄積されている。ならばあとはソレを龍閃にぶつけるだけだ。
「おお、いいぞ冬摩。もう少しだ。もう少しで赤子のような四つん這いから脱せられるな」
「ブッ、殺すぞ!」
 右腕だけで全身を宙に舞わせ、冬摩は龍閃の真上へと跳躍した。
「死ねオラアアァァァァ!」
 腕を振り下ろす勢いに自重を乗せ、龍閃の眉間めがけて拳撃を打ち出す。
「ほぅ、大した物だ。その根性に免じて楽にしてやろう」
 しかし冬摩の拳が当たる前に、龍閃の長く太い腕が冬摩の頭を掴んだ。
「何、お前なら二、三日で目が覚める」
 その言葉を聞いた次に見た物は、焦点が合わないほどに拡大された地面だった。

 冬摩が陰陽寮を襲撃した事により、魔人側が和平を破棄したという情報が流れ回るかと思っていた。
 しかし、その予想は大きく外れた。
 紫蓬が上手く立ち回ってくれたのか、それとも他の事情があるのか、詳しい理由はよく分からないが都はいつも通りの平和を見せていた。そしてそれは十畳ほどの広さを持った木造の建物である、冬摩の家の中も同じだった。
「ホント、魔人の回復力っていつ見ても信じられないわね」
 ご飯をおひつごと口にかき込む冬摩を見ながら、龍閃の妻――紗羅は感心したような声を上げた。
 肩口で切り揃えた黒髪は少しクセがかかり、軽く波うっている。伏せれば影が落ちそうなほど長い睫毛に、人の良さそうな下がり気味の目。口元には常に柔和な笑みを浮かべていた。着物の下で息づく肢体はすでに成熟しきった女性そのものだが、顔つきはどこか童女のような幼さを残している。
「我の血を濃く受け継いでいるのだ。そのくらい当然の事」
 囲炉裏の前であぐらをかき、龍閃は厳かな口調で言った。
「でもあんまり無茶な事はしないでね。魔人の丈夫さは分かってるつもりだけど、体中の骨がバラバラで、出血多量で、虫の息っていうのはさすがに心配するわ」
(そこまでなんねーと心配しねーのか、テメーは!)
 魔人への理解が深い母親に、冬摩は胸中で苦言を呈する。
「分かってる。死ぬ一歩手前では止めているつもりだ」
「そう……ならいいんだけど」
(いいのかよっ!)
 あっさり返した母親に、冬摩は驚愕の眼差しを向けた。
「それにしても、元気で丈夫な冬摩も良いけど、やっぱり小さくて可愛い冬摩が良かったな」
「けっ。悪かったな。勝手に育っちまってよ」
 拗ねたような顔つきで言いながら、冬摩は空になったおひつを床に置く。
 生まれてたった一年余りで冬摩が成長しきってしまったために、紗羅は子育てという物の苦労を殆ど味わう事がなかった。だから子供時代の冬摩の姿は、極めて短期間しか見られていない。それだけに小さい冬摩への想いは、一層ふくらんだ。
「では次に産まれてくる子供は、お前の血を濃く受け継ぐと良いな」
「そうねー。冬摩は弟と妹、どっちがいい?」
「どっちもいらねーよ」
 露骨な苛立ちを顔に浮かべながら、冬摩は平和な会話に耽る二人から目を逸らす。
「まー、可愛い。自分が構って貰えないからって、ふてくされちゃって。大丈夫よ。冬摩にもちゃんとおっぱいあげるから」
「っだー! いらねーよ! そんなモン!」
 自分の隣りに座って頭を撫でてくる紗羅の手を払いのけ、冬摩は顔を紅くして叫んだ。
「それよりもっと飯!」
「あらま、あれだけ食べてまだ足りないの。ホント、しょーがない子ねー」
 高い声で言いながら、紗羅は立ち上がる。
「それじゃちょっと買ってくるわ」
 軽い口調で言い残すと、彼女は板戸を開けて外に出て行った。軽い足音が家の外で徐々に小さくなっていく。
「聞きたい事があんだけどよ」
「何だ」 
 紗羅の足音が完全に消えたのを確認して、冬摩は静かにお茶をすする龍閃に声を掛けた。
「陰陽寮に紫蓬の奴が居やがった。何でだ」
「さぁな。アイツもそれだけ人間の生活に溶け込んだという事ではないのか?」
 溶け込んだ? では陰陽師達と仲良くやっているというのか? 魎だけではなく紫蓬までもが、魔人の牙を抜かれてしまったというのか。そういえば紫蓬は離殿に居た女の名前を知っていた。ではかなり前からあそこに?
「……俺には理解できねーな」
「していたらあんな馬鹿な真似はしなかっただろうからな」
 言い終えて龍閃は湯飲みを床に置く。そして威圧的な光を帯びた金色の双眸でコチラを見据えた。
「いいか冬摩。今回は大事には至らなかったようだが二度目はないぞ。今後、人間に拳を振るう事を禁止する。些細な喧嘩も駄目だ。苛立ちが積もるなら我にぶつけてこい。いつでも受けて立ってやる。分かったな」
 低く野太い声。聞く者に否応なく恭順の意を刷り込む。龍閃の腰に巻かれた力を封じる法具は、冬摩が身に付けている物より遙かに強力らしいが、それでも発する声だけで力の差を感じさせられる。
(化け物め……)
 龍閃から放たれる殺気に耐えきれなくなり、冬摩は目を逸らした。
「わーってるよ。もうしねーよ」
 取り合えずしばらくは。
 未琴との戦いでかなり気は晴れた。龍閃にやられて寝込んでいる間に紅月は過ぎ去った。今のところ鬱憤は溜まっていない。
 だが、また次の紅月が近づけばどうなるか分からない。その時はその時だ。今回だって龍閃に殺されてもいいから、思いきり暴れたいという衝動を優先させた。だから恐らくは次も……。
「いや、お前の言葉は軽い。信じるに値しない」
「ならどーすんだよ。頭丸めて仏門にでも入れってか?」
「監視を付ける」
 意地の悪そうな笑みを浮かべて、龍閃は即答した。
「監視ぃ?」
「何、今までとそうは変わらんさ。ただ少し、程度を強めるだけだ」
 遠回しな龍閃の言葉に、冬摩は背筋から蟲が這い出るような怖気を覚える。
「あー、私もそんなに暇ではないのだが。龍閃の頼みとあらばしょうがないな。それに今回の騒動は冬摩の行動を読み切れなかった私にも責任があるからな」
「テメェ!」
 いつの間にか後ろに立っていた黒衣の男――魎に向き直って冬摩は声を上げた。
「どっから入りやがった!」
「あー、気配を絶って裏口から、な。母親の前ではなかなか子供っぽい顔をするじゃないか」
 広い額を撫でながら、魎は鷹揚に笑う。
「その時居なかっただろーが!」
「私の気配絶ちをそんじょそこらの物と一緒にして貰っては困る。極めれば誰かの目に映ってもソコに居ないものとして認識させる事が可能なのだよ。あー、ま、夜這いを何度もしているうちに自然と身に付いた技なのだが」
「そういう事だ。魎は初めから同席していた」
 それがさも当然であるかのように、龍閃は言葉を挟んだ。
 何という事だ。こんな鬱陶しい奴に四六時中付きまとわれたら、紅月などに関係なく鬱憤が溜まっていく。まさに身の破滅だ。
「あー、ま。私の姿が見えないからといって油断はしないようにな。私は常にお前の後ろに居る」
 冬摩の中で大切な何かが音を立てて崩れていった。

 山を二つ越え、川底に一刻ほど潜り続けて谷を抜け、いくつもの村に立ち寄って都に戻って来た後、碁盤の目状に走る大路を縦横無尽に駆けめぐったが、魎を巻く事は出来なかった。
 常に誰かの視線を感じる。自分が意識しすぎているだけなのか、それとも魎が意図的にある程度の気配を漏らしているのか。どちらにせよ決して逃れられないという事はよく分かった。
「魎、居るんだろ。出てこいよ」
 大路の曲がり角に生えている大きなクスノキの木陰に入り、陰陽寮の正門を遠目に見ながら、冬摩は誰も居ない空間に声を掛けた。
「あー、もぅ追い掛けごっこは終わりか? で、次はまたよからぬ事でも考えてるのか?」
 頭上で声がする。
 見上げると、太い枝の一本に腰掛けて魎は欠伸を噛み殺していた。
「お前、未琴って女、知ってるか?」
「そりゃ勿論。あそこの守護巫女だろ。かなりの霊符の使い手らしいぞ。陰陽寮の中庭を掃除するのが日課らしい。相当の美人なんだがなかなかにキツイ性格でな。男に興味がないのか、いくら歌を送っても返事が来ない。私に唯一黒星を付けた女だよ」
 冬摩の横に下り立ち、魎は聞いてもいない事を饒舌に語った。普段はのんびりとしているのに、女が絡んだ途端にコレだ。
「あの女に聞きたい事がある。どうすれば話せる」
「ほぅ、冬摩はああいうのが好みなのか」
「そんなんじゃねーよ。なんで俺の事を上の奴らに報告しなかったのか、それを聞きたいだけだ」
 ソコだけが腑に落ちない。
 あの時も他の陰陽師達を呼んでいれば、自分だけが傷付かずに済んだ。なのにわざわざ結界を張り、外部との接触を遮断した。あれだけ大きな音を立てていたのに、紫蓬しか気付かなかったのだ。音すら外に漏れないようにしていたと考えるべきだろう。
 だから余計に理由が分からない。他の誰かに知られては困るような事でもあったのか? 自分だけで処理しなければならない事情が。
「あー、そうだな。ここは紫蓬の顔が利くからアイツに言えば取り次いで貰えるんじゃないのか? まぁ未琴が会ってくれるとは思えんが」
 紫蓬の名前が出て、冬摩は驚いたような顔を魎に向ける。
「お前、知ってたのか。おい、何でアイツはこんなトコに居るんだよ。敵の陣地のど真ん中によ」
「何でって……お前知らないのか?」
 さも意外にそうに魎は目を丸くした。
「何だよ。その言い方は」
「あー、いや。まぁ、別に、だな。知らないなら知らないでいいんじゃないのか? どうせその内分かる事だしな」
「もったいぶった言い方すんじゃねーよ。隠してねーで教えろよ」
「じゃあ本人に聞くんだな。私は紫蓬から喋っても良いようには言われていない」
 本当に随分と持って回った言い方をする。まるで一生懸命気にして下さいと言わんばかりに。
「そんじゃそーすっから、とっとと呼び出せよ」
 冬摩は苛立たしげに短髪を掻きむしりながら、吐き捨てるように言った。
「やれやれ、人に物を頼む態度を知らない奴だな」
 呆れたような表情で肩をすくめ、魎は溜息をつく。そして口に指を沿えて、細く息を吐いた。
「何やったんだ?」
「知らないのか? 指笛だよ」
「音出てねーじゃねーか」
 訝しげに眉を顰める冬摩。
「だから紫蓬を呼び出したいんだろ? なら紫蓬だけが『知覚』できる音域を出した方が分かり易い」
 ああ、そういう事か。
 冬摩は半眼になって軽く頷いた。
 紫蓬の保持する十鬼神の一体『虹孔雀』。その能力は『超知覚』。自分や他人の知覚感度を操作できる。そして彼女の力の作用点は『歯』。
 陰陽寮を襲った時、紫蓬に首筋を噛まれて気を失ったのは、自分が体が認識できないまでに知覚感度を下げられたせいだ。
「ほら、冬摩。アネさんの登場だ」
 言われて目を細めると、向こうから桃色の物体が陰陽寮の屋根伝いに近づいてくるのが見えた。十二神将『朱雀』の『瞬足』を使っているのか、紫蓬の姿が視界の中で激的に大きさを増していく。
「二人揃って何の用ぞ。食事中に」
 まばたき一回する間に目の前に降り立ち、紫蓬は口の周りに付いた飯粒を舐め取りながら、憮然とした表情で言った。
「あー、その、な、紫蓬。それは今日何度目の食事だ?」
「十二回目だがそれがどうかしたか」
 紫蓬が平然と返した直後、陰陽寮の方から太鼓の音が八回響いてくる。
 未の刻。まだ昼を少し回ったところだ。
「あー、紫蓬。多分お前の周りはみんなそうだと思うから取り立てて言う必要もないと思うが……貴族の食事は基本的に朝と夕の二回だぞ?」
「で、ワシに何の用ぞ」
 魎を無視し、つり上がった目でコチラを鬱陶しそうに見上げながら、紫蓬は小さな胸の前で腕組みした。
「用は二つだ。何でお前がココに居る」
「答える必要はない。で、もう一つは」
 冬摩の単刀直入な質問に即答し、紫蓬は目で続きを促す。
「未琴って奴が居るだろ。ソイツと会わせろ」
 最初から素直に答えてくれるとは思っていなかったのか、むきになって突っかかる事もなく冬摩は二つ目の要求を口にした。
「会ってどうする」
「この前のヤツ、どうやって無かった事にしたのか聞きたい」
「ワシでは駄目なのか」
「アイツに聞きたい」
 冬摩は紫蓬から目を逸らす事なく、短い言葉でやり取りを進めていく。
 未琴には他にも聞きたい事がある。確認したい事がある。
「少し待ってろ。だが未琴が拒絶した場合は知らんぞ」
「ああ。分かってる」
 紫蓬は冬摩の言葉が終わると同時に大きく跳躍し、来た時と同じように羽衣の裾をなびかせて屋根を伝って行った。
「あー、冬摩。お前、本気で会ってくると思っているのか?」
「さーな」
 魎の言葉に冬摩は曖昧に返す。
 普通は会おうなどと思わないだろう。自分を殺そうとした奴だ。また何をされるか分かったものではない。他の陰陽師と共に大挙して攻め掛け、冬摩の命を奪いに来るのが普通だ。
 しかし、未琴は普通とは少し違う。納得のいかない行動が多すぎる。なら、今回もあるいは――
「冬摩」
 気が付くと目の前に紫蓬が立ってた。
「ぉわ……!」
 何の前触れもなく現れた紫蓬に、冬摩は思わず情けない声を上げた。いくら考え事に耽っていたとはいえ、何の気配も感じさせずに突然出てくるなどという真似……。
「テメーも魎と同じクチか」
 魎だけの小賢しい特技かと思っていたが、紫蓬も身に付けていたのか。
「何を勘違いしているのかは知らんが、ワシはただ不安そうな顔で待っているヌシが『哀れ』に見えただけぞ」
「このガキ……」
 紫蓬の力の発生点は『憐憫』。相手を哀れに思う気持ちが強ければ強いほど力を発揮できる。ソレで『朱雀』の『瞬足』を『空間跳躍』にまで高めたのだろう。
「ふざけんな! 俺は別に不安でもないし、お前みたいなチビに哀れまれるほど落ちぶれてもねーんだよ!」
 冬摩は歯を剥いて激昂した後、大きく舌打ちをして紫蓬に背を向ける。
「何ぞ冬摩。帰るのか」
「だったら何だよ!」
 さっきの紫蓬の言葉で未琴が面会を拒絶したのは明か。ならこれ以上ココに居てもしょうがない。嫌な気分になるだけだ。
「それは残念だな。せっかく未琴から快い返事を貰ってきたというに」
「……は?」
 快い返事? 何の事だ?
「未琴もお前と話がしたいそうだ。是非、とな」
『……は?』
 今度は魎の言葉も重なった。

 冬摩が通されたのは陰陽寮の奥殿。以前、未琴と会った離殿のように殺風景な部屋ではなく、唐からの舶来物らしき金糸の織り込まれた小袖や、唐絵の描かれた屏風が飾られ、陳皮や欝香(じゃこう)を用いた香が薫(た)かれていた。
 部屋の広さは四畳ほど。二人で会話するには広すぎも狭すぎもしない適度な空間だ。
 ココには魎や紫蓬の姿はない。冬摩と二人だけで話がしたいと言い出しのたは未琴の方からだった。そして部屋の八角には結界符。この前と同じく、音や声を外に漏らさないようにするための物だろう。
「傷はもう大丈夫なのかよ」
 どこか居心地悪そうに後ろ頭を掻きながら、冬摩は未琴を横目に見て言った。
 ゆったりとした大きさの巫女装束を着ているせいかもしれないが、体に傷が残っているようには見えない。
「紫蓬様に治していただいた」
 背筋を伸ばして正座し、凛と張った声で未琴は返す。
 紫蓬が『六合』の『治癒』か『再生』を使ったのだろう。そうでなければ人間である未琴が今ここに座っていられはずもない。あの時に負った傷は殆ど致命傷だったはずだ。
「よぉ。何で紫蓬はココに居るんだよ」
「それが私に聞きたい事か?」
 透き通り、潤いを帯びた声で未琴は聞く。
「ああ、いや……。そうじゃねぇ」
 あまりに真っ直ぐな視線をコチラに向けてくる未琴から目を逸らし、冬摩は僅かに口ごもった。
「お前に聞きたい事は、だ。どうやってあの事を揉み消したかって事だ」
 相手の様子をうかがうかのようにチラチラと未琴の方を見ながら、冬摩は躊躇いがちに聞く。
「実に簡単な事だ。私が帝に報告しなかった。ただそれだけだ」
「何でだよ」
 そこが分からない。どうして自分の命を奪おうとした者を庇うような真似をする。
「私にも色々と事情があってな。恥ずかしい話だが失態を公にする訳にはいかんのだ。自分以外にも迷惑を被る者が居るのでな」
「ふん……」
 未琴の返答に、冬摩は小さく鼻を鳴らした。
「結局、保身に走っただけって訳か。くだんねー」
 だから結界を張った。だから応援を呼ばなかった。だから一人だけで何とかしようとした。全ては事を内々に収めるために。
 実につまらない理由だ。
「そうだな。その通りだ」
 はっきりと言われて、未琴は苦笑しながら視線を下げた。しかしすぐに戻すと、射抜くような視線でコチラを見据えて続ける。
「だが、私にはこうするしか方法がない。私には守るべき者がある。例え命をなげうってでもだ」
「守るべき者、ねぇ……」
 未琴の言葉を繰り返し、冬摩は小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「だからあんなにボロボロになっても刃向かって来たってか? 死んでも周りに知られたくないから? 勝てなくても諦める訳にはいかないから? 馬鹿か、お前は」
「そうだ」
 揶揄するような冬摩の喋りにも、未琴は全く意思の揺るがない強い口調で言い切る。
「私は馬鹿だ。だが、それで良いと思っている。私は不器用だからこんな生き方しかできない」
「……けっ」
 何の迷いもなく言う未琴から、冬摩はまた目を逸らした。
 この女と喋っているとどうも調子が狂う。どうしてそこまで自分を信じられる。どうして疑念が混ざらない。その『守るべき者』とかいうヤツのおかげなのか?
「冬摩、私からも一つ聞きたい」
「何だよ」
 あぐらをかいた自分の脚に頬杖を付き、冬摩は機嫌悪そうに言った。
「お前はあの時、どうして私を殺さなかった」
「はぁ?」
 意味の分からない質問に、冬摩は素っ頓狂な声を上げる。
「どうして私に止めを刺さなかったと聞いている」
「お前がちょこまか逃げ回るからだろーがよ。じっとしてりゃいいのによ」
「それは違うな」
 声の裏にこの上にない自信と確信を乗せ、未琴は断定的な口調で決めつけた。
「お前がその気になっていれば私がどんなに抵抗しようと殺せたはずだ。あの時、お前には迷いがあった。だから拳が鈍った。違うか」
 怜悧な輝きを双眸に灯らせ、未琴はコチラの心中を見透かすかのように目を細める。滝のように流れ落ちる長い黒髪と相まって、どこか神秘的な雰囲気を帯びているようにも見えた。
「なわけねーだろ! 何で俺が食料相手に変な気起こさなきゃなんねーんだよ!」
 気を抜けば呑まれそうになる神聖なる気配。ソレに抗うかのように冬摩は声を荒げた。
「魔人にも色々いるのだな。紫蓬様に魎殿、そして冬摩。皆、私が知っている邪悪な存在とはかけ離れている」
「あんな腰抜け共と一緒にすんじゃねーよ! なんなら今すぐにでも喰ってやろうか!」
 叫声と共に立ち上がり、冬摩は鉤状に曲げた右手を未琴の喉元に当てる。
「あー、よしよし。どーどー。冬摩、そこまで、そこまでだ」
 そして爪を食い込ませようとした時、結界で封印されているはずの障子が音もなく開いた。
「未琴、コヤツをあまり挑発するでない。ヌシは買いかぶりすぎぞ。冬摩は正真正銘、単純思考の馬鹿以外の何者でもない」
 魎と紫蓬は、それぞれ冬摩と未琴を引き剥がしながら落ち着いた口調で言う。
「テメー! 魎! 離しやがれ! ブッ殺すぞ!」
「あー、腰抜けの腕をふりほどけないようでは、お前は腰抜け以下だな」
「コノ……!」
 大きく開眼して魎を睨み付けるが、激しい憎悪は一瞬にして霧散した。
「あー、頭に血が上ると相手の力すら忘れてしまう癖、いい加減なおした方が良いぞ」
 『左腕』一本で冬摩を後ろから束縛しながら、魎は眠そうに言う。『無幻』の『情動制御』。コレにはさすがの冬摩も抗えない。
「さて、面会はこれにて終了ぞ。どれ、冬摩。正門前まで送って行ってやろう」
 魎の腕の中でもがき苦しむ冬摩に『哀れみ』の視線を向けながら、紫蓬は嘆息した。

 あれ以来、体の調子がおかしい。
 心の奥底で何か得体の知れない物が燻り続けている。ソレは冷たくもなく熱くもなく、恐くもなく楽しくもなく、かといって望んでいるわけでも拒絶したいわけでもない。ただ朧気で明確に出来ない物が、常に体のどこかで淫蕩(たゆた)っている。
 毎日何をするでもなく、ただ漫然と過ごした。食って寝て、紅月が近づけば苛立ちを龍閃にぶつけて半死半生になり、気を失ったまま紅月当日をやり過ごした。
 そして何もやる気が起きない時は、これまでのように雑木林の中の神社ではなく、陰陽寮の方に足が向かっていた。
 そばにある背の高いクスノキに上り、中庭を掃除している未琴の姿を見続けた。不思議と飽きる事はなかった。時々向こうがコチラに気付き、手を振ってきたりしたが、取り合う事はなかった。
 そう言えばあの時、もう一つ聞きたい事があった事を思い出した。
 それは未琴だけではなく、他の陰陽師達も似たような強さを持っているのかという事。皆、『守るべき者』を持っていて、そのためならどこまでも自分を高めていけるのかという事。
 だが、幾日も陰陽寮を観察していてソレを聞く必要もない事が分かった。
 殆どの人間は屑同然だ。顔付きを見れば分かる。やる気がなく、覇気がなく、生気すらない者が大勢居る。そういう輩と未琴を比べると、内面から発せられる力の差は歴然だ。
 勿論、中には気概に満ちた者も居る。恐らく彼らは保持者だ。使役神鬼を体に宿している。力を持っている。
 しかし、戦おうという気は起きなかった。
 龍閃にきつく言われたから? 魎が見張っているから?
 違う。そうではない。
 もっとそれ以前の、根本的な部分で何かが引っかかっている。

『お前はあの時、どうして私を殺さなかった』

 やけに気になる。未琴の言葉が。
 自分はあの時、本当に未琴を殺すつもりがなかったのか? 真剣に躊躇っていたのか?
 もしそうだとしても、どうしてそれだけで未琴は許す? どうして憎もうとしない? 
 命を奪おうとした相手を。

『私には守るべき者がある。例え命をなげうってでもだ』

 その人物のためなのか? 『守るべき者』のために自分を押し殺しているのか?
 自分を憎み、戦いを挑めば今度こそ命を落とすかも知れない。そうなってしまえば、『守るべき者』を守る人間が居なくなる。だから平和的な解決策をとった?
 分からない。いくら遠くから未琴を見続けても理解できない。
 かといって直接話す気も起きない。彼女と話していると、またあの真っ直ぐで迷いのない視線に呑まれてしまいそうだから。

 暇さえあれば未琴の事を考えるようになってきた頃、冬摩は魎の監視から解放された。気が付けば、あれから何ヶ月もの歳月が流れていた。何ヶ月も、問題を起こす事なく過ごした。
 未琴の事で頭が一杯になると時が経つのを忘れる。いくら時間があっても足りない。

 未琴の事を考え始めると……。

 ◆◇◆◇◆

 そして今夜も又、冬摩はクスノキの上から陰陽寮を見下ろす。

 何をするでもなく。ただ、未琴へと思いを馳せて。

 宵の空。冴え渡る月光。冷たく佇む夜気。

 玲瓏な気配を漂わせる都の一角に、異形の放つ瘴気が混じる。

 今宵は小鬼の祭り、妖魔の宴、獣の晩餐。

 すなわち――百鬼夜行。

 澄んだ鈴の音を響かせて、荒ぶる魂は雄叫びを上げる。

 その中に魔人の匂いが微かに――……。





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