貴方に捧げる死神の謳声

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弐『黄泉からの来訪者』


◆緋色の悪夢 ―荒神冬摩―◆
 躰が染まっていく。紅く紅く。どこまでも紅く。生暖かい鮮血が腕を伝い、腹を這い、脚に根を張って下に溜まりを作っていく。
 自分の血ではない。腕に抱いた女性から流れ出た血だ。
 腹部には黒い穴が開き、身に付けた白い服を異色に染め上げていく。水銀を流し込んだかの様な虚ろな視線を中空に投げだし、手足を蔦の様に弛緩させて絶命していた。腕の中で徐々に体温を失っていく彼女と、目の前でその肉を食らう男。二人を泣き出しそうな顔で交互に見ながら、冬摩は自失していた。
 ――どうして。
 口から言葉が零れ出る。
 ――どうして、こんな事を。
 目から熱いモノが流れ出た。
 困惑し、怒りに震える冬摩を見ながら、男は喉を震わせて低く笑った。それはすぐに薄ら笑いになり、明確な嘲笑へ。そして耳をつんざく哄笑へと変わった。
 ――どうして未琴を……。人間と共存しようって言ったのはアンタじゃないか!
 怒気を孕ませた冬摩の叫び声。しかし男は答えない。冬摩の抱いた女、未琴の肉を旨そうに喰らいながら愉悦に顔を歪めている。
 ――何とか言えよ! 父さん!

「――ッ!」
 自分の上げた叫声で冬摩は目を覚ました。
 ベッドに上半身だけを起こす。頬を伝う嫌な感触。汗を拭おうと額に手をやると、信じられないくらいぐっしょりと濡れていた。視線を落とすと発達して引き締まった胸や腹の筋肉にまで汗が浮き出ている。
「ちっ!」
 舌打ちを一つし、シーツを強引に引き剥がして乱暴に汗を拭った。それを丸めて部屋の隅に放り投げると、ダルそうに頭を掻きながらベッドから出た。
 時計を見る。朝の六時。まだ早い。もう一度寝直そうかと思った時、樫の木で作られた豪勢な彫り細工の扉が乱暴に開け放たれた。
「どうしたんじゃ冬摩!」
 続いて耳元でシャギーカットに切りそろえた薄紅の髪を揺らせ、二日前に来たばかりの女が顔を覗かせる。
 仁科朋華だ。十鬼神『死神』を保持し、その力に覚醒したばかりの女性。『死神』を制御し切れていないせいで本人の人格と『死神』の人格が混在している。
 今声を上げたのは『死神』の人格だろう。
「なんでもねぇよ」
 不機嫌そうに吐き捨て、冬摩は追い払うようにシッシッと手を振った。
 しかし『死神』は動かない。彫像のように立ちつくしたまま目を大きく見開いて顔を紅く染めている。
「冬摩……」
 そしてどこか憂いを帯びた視線で熱い吐息を漏らした。冬摩は訝しげに眉間に皺を寄せるが、すぐに得心したように頷く。
 冬摩は今、何も身に纏っていなかった。寝る時にはいつもそうしている。昔からこのスタイルは変わらない。
「お子さまには刺激が強すぎるってか?」
 半眼になって、からかうように鼻を鳴らす。
「なんじゃ冬摩。お主がその気なら妾はいつでもいいぞ?」
 『死神』は唇を妖艶に曲げ、上着のボタンに手を掛けた。
「い、いい加減にして下さい! 『死神』さん!」
 その手がピタリと止まり、なんとか主導権を取り戻した朋華は半狂乱になって叫ぶ。
「お、お邪魔しました!」
 後ろを向いて叫び、朋華は慌てて部屋を出て行った。
 乱暴に閉められた扉を嘆息混じりに見つめながら、冬摩は「やれやれ」と長い黒髪をかき上げる。
(ちょっとは制御できるようになってきたか?)
 嘆息して一瞥をくれ、部屋に備え付けのバスルームで軽くシャワーを浴びて汗を流した後、漆の光沢を放つワードローブから適当な黒シャツを取り出して袖を通した。続いてトランクスとデニム素材の黒いジーンズをはき、シルク製のカーテンを開ける。高さ三メートルはある巨大な一枚ガラスのはめ込まれた窓から陽光が室内に差し込んだ。
(最悪の寝起きだ……)
 さっき見た夢を思い出す。
 冬摩のかつての恋人――未琴が、父親であり最強の魔人でもある龍閃に喰い殺される光景。視界を彩るのは、ただ紅、紅、紅。狂気的なモノさえ感じさせる濃密な緋の色。千年という気の遠くなるような年月を経ても未だ色褪せない。いや、正確には色褪せそうになるたびに、冬摩が強烈な刺激でもって強制的に繋ぎ止めているのだ。
「未琴……」
 想い人の名前を呟く。冬摩が愛した最初で最後の人間。
 魔人が退魔師との争いで疲弊し、種の滅亡を色濃く感じていた時、龍閃は人間との共存を打診した。そしてソレが言葉だけの偽りではないことを証明するために、女性の退魔師を妻としてめとり、冬摩を生んだ。冬摩は龍閃の教えにより、人間を『食料』としてではなく自分達と同じ存在として受け入れた。
 やがて冬摩に興味を示す女性、未琴と出会い、二人は自然と恋に落ちた。四人の家族で過ごす平穏な日々。しかし、それも長くは続かなかった。
 龍閃の妻の死。死体は見るも無惨なほどに切り裂かれ、人間としての原形をまるで留めていなかった。
 肉塊――そう呼ぶに相応しい妻のなれ果ての前で龍閃は悲嘆にくれ、一日中泣き沈んでいた。それから龍閃は変わった。人間との共存を、その提言者である龍閃自らが破棄し、次々と人間を喰い殺していった。そして龍閃の変貌より一週間たった日、冬摩の目の前で未琴を殺した。
「クソッ!」
 吐き捨てるように言いながら荒っぽく袖をめくり上げ、あらためて左腕を見る。傷跡は見られるものの、ほぼ完治しており健康そうに脈打っていた。
 冬摩はベッドの横に置かれている高級な一枚板で作られたサイドテーブルの前まで行き、上にあるジャックナイフを取り上げた。そしておもむろに左腕に突き刺す。
「く……」
 目の下を小さく痙攣させ、呻き声を漏らすも、全く躊躇うことなくナイフを自分の方に引いた。鮮血が下に用意された水差しの中に注がれていく。二十センチにも渡る大きく深い裂傷を刻んだところで、ようやくナイフをサイドボードに戻した。
 左腕が自らの血で紅く染まって行くのを見ながら、冬摩は満足そうに唇の端をつり上げる。そして大きく息を吐き、ベッドに腰を下ろした。
(忘れるな。絶対に。アイツに付けられた傷を。未琴を殺された恨みを……!)
 まるで呪文のように何度も胸中で繰り返し、何もない空間を鋭い視線で睨み付ける。魔人の血のもたらす尋常ならざる回復力と、冬摩の宿した十鬼神『鬼蜘蛛』の影響で、よほど深い傷でない限り半日もあればほぼ全快する。
 冬摩が自分の左腕を痛めつけるのは殆ど日課と言っても良かった。
 勢いよく血の流れ出る傷口を水差しの横に置いてある包帯できつく巻き付けて強引に止血し、袖を元に戻すと冬摩は部屋を出た。

 冗談じみた大きさを誇る大ホール。丁度その中央に鎮座する縦長のテーブルは五十もの椅子に囲まれ、ホールの主が如き風格を醸し出している。一番奥にある椅子の後ろには巨大なステンドグラス。それが二階の天井ほどの高さに備え付けられた豪勢なシャンデリアの光を反射して、上品で柔らかい光をホールに落としていた。
 朝食を取りに来た冬摩は、すでに来ていた先客達に目を向ける。
「よー、久里子。相変わらず早いな。昨日はグッスリ眠れたか?」
 殆ど人の居ないホールに冬摩の声が響く。クック、と悪戯っぽい笑みを浮かべて見せ、冬摩はホールの出入り口から一番近い椅子に腰掛けた。材質の良いクッションが冬摩の体重を分散させて受け止める。
「あー、おかげさまでな。どこかの誰かさんがアホみたいに暴れてくれたおかげで、徹夜で事後処理や」
 冬摩の左前に座りコーヒーカップを傾けている女性、嶋比良久里子しまひらくりこは愛用のサングラスの位置を直しながら毒づいた。
 背中まである軽くウェイブのかかった黒髪。サングラスのため瞳は見えないが、通った鼻筋と形の良い唇からかなりの美人であることがうかがえる。なにより紺のニットシャツの下から大きく押し上げる豊満なバストは万人の注目を集めることは間違いない。
「よかったじゃねーか。ダイエットになったろ?」
 冬摩は目の前の果物籠からリンゴを取り出し、大きく口を開けてかぶりついた。
「……ケンカ、売ってんのか?」
 白のカジュアルパンツを履いた脚を組み替え、久里子は声を低くして言う。冬摩は彼女の剣呑な眼差しを涼しげな顔で受け流し、そのすぐ後ろで肩を小さくして座っている人物、仁科朋華を指さした。顔が異様に紅い。今朝のことがまだ影響しているのだろうか。
「こんなに早くから本性見せんのはまずいんじゃねーか?」
 茶化すような冬摩の言葉に久里子は悔しそうに鼻に皺を寄せ、一度朋華の方を見た後で再び冬摩に向きなおる。
「まーそー目くじら立てんなよ。『死神』連れてきてやったんだからチャラにしようぜ。な?」
「龍閃の居場所の方はどうすんねん」
「俺に言うなよ。召鬼を殺したのは、『死神』なんだからよ」
 早くも芯だけなったリンゴを銀のトレイに投げ捨て、冬摩は高い背もたれに体を預けた。
 冬摩が朋華の学校に転校した目的は二つ。一つは十鬼神『死神』を保持する少女、仁科朋華の保護。そしてもう一つは召鬼から最強であり最後の魔人である龍閃の居場所を聞き出すこと。しかし『死神』が覚醒と同時に召鬼を葬ってしまったため、二つ目の目的は遂行不可能となった。
「すいません……」
 久里子の後ろで紅い顔を青くして朋華がうなだれる。華奢な体が余計に小さく見えた。
「あー、トモちゃんは気にせんでええねん。全部この直情バカが悪いんやから」
 陽気な声で笑いながら、久里子は朋華を気遣う。
「けどそんなことよりホンマに、このアホの言うとおり行方不明って措置でええんか? 親御さん、今頃えらい心配してんで」
 冬摩に背中を向けたまま押っ立てた中指を押しつけ、久里子は言う。
 結局、朋華からの強い希望もあって、土御門つちみかど財閥の力により、彼女は例の事件で行方不明という事になっている。そのために髪の毛を紅く染め、髪型もボーイッシュなショートシャギーに仕立て直して少しでも本人と分からなくしていた。
 土御門財閥は陰陽道の権威、安倍清明の子孫である土御門家が作り上げた大財閥だ。千年以上の大昔から現代まで、退魔師の活動を豊潤な資金と人材でバックアップしてくれている。今、冬摩達が居る巨大な洋館を人里離れた場所にひっそりと建てることが出来るのも、経歴不明な冬摩を朝霧高校に転校させることが出来たのも、ひとえにその資金力のおかげだった。
「はい……。一緒にいたら知らない間に傷つけてしまいそうで……」
 消え入りそうな声で朋華は呟いた。
 朋華は『死神』を自由にコントロールしきれていない。むしろ今は『死神』の方が主体的に行動できるようにさえ見える。
 恐らく『死神』が鷹宮秀斗を殺したときの事を考えているのだろう。間違っても自分の両親をあんな目に遭わさないために、朋華は土御門財閥の屋敷に身を置くことを決意した。
「愁傷な心がけじゃねーか。ま、せいぜい頑張ってあの高飛車女を手なずけるこったな」
「なんじゃ冬摩。お主は淑やかな方が好みか?」
 急に朋華の口調、そして雰囲気が変わる。
「出やがったな……」
 半眼になり、冬摩は『死神』を見返した。
「お主が強く望むのであれば考えてやってもよいぞ?」
 隣で久里子が口を開けて呆けている。当然だろう。『死神』とはコレが初対面なのだから。自信なさげだった目はつり上がって高圧的な視線を放ち、口の端を不敵に歪めている。
 明らかに他者を上から見下ろした態度。朋華の人格とは似ても似つかない。
「ア、アンタ……誰や」
「おー、そーじゃった。貴様とは初対面じゃのう。妾は十鬼神が一人『死神』。今後とも世話になるぞ」
「しに、がみ……って」
 酸欠の金魚のように口をパクパクさせ、久里子は『死神』に顔を近づけた。
 久里子も退魔師だ。かつて安倍清明が使役していた十二神将じゅうにしんしょうの一人『天空』を保持している。十二神将は十鬼神と並ぶ強力な使い魔。元々、魔人達が十二神将に対抗するために同族の命を犠牲にして作り上げた闇の使い魔、それが十鬼神だ。数こそ違えど力や性質は酷似している。
 久里子は『天空』からの記憶の逆流により『死神』の事は知っていても、『死神』に体を奪われた人物を見るのは初めてなのだろう。千年以上生きている冬摩も初めてなのだから当然だ。
「と、冬摩! どないなっとんねん!?」
 久里子の切迫した声に冬摩は「あー」と面倒臭そうな声を上げ、朋華の覚醒が不完全であることを告げた。
「ンなアホな……。制御しきれてへん事は知っとったけど、こんなん……」
「何じゃ貴様。初対面の相手に向かって阿呆とは無礼な。万死に値するぞ」
 信じられないといった視線を向ける久里子に、『死神』は不満も露わに睨み返す。
「そもそも目隠しも取らずに相対するとは何事じゃ」
 言いながら『死神』は久里子のサングラスに手を伸ばした。そして素早く奪い取る。
「お……」
 妙に上擦った『死神』の声。
 サングラスに隠された久里子の目を見たせいだろう。冬摩も以前に同じ事をやったことがある。その時に見た彼女の瞳は完全に光を失っていた。焦点が抜け落ち、自分の体の遙か遠方を見つめている。
 久里子の能力は『千里眼』。力の発生点は『瞳』。十二神将『天空』覚醒時の力が強すぎて盲目となったが、代わりにそれ以上に見える『眸』を身につけている。
 かなり離れた距離からでも相手の力を感じることの出来る能力。ソレが『千里眼』だ。通常はよほど近づかないと分からないような微細な力をも嗅ぎ分け、相手の保持する使い魔の種類をも見抜く。この能力により数ヶ月前から『死神』の存在は知っていた。保持者が覚醒すれば記憶の逆流で自然と自分の使命に気付くため放置していたのだが、召鬼の力を側に感じ取ったので冬摩がカタを付けることになったのだ。
「えっ、あの、えっと……。スッ、スイマセンでした!」
 キョロキョロと戸惑ったように周りを見回しながら、朋華は久里子に深々と頭を下げる。そして、そのままの体勢で手に持ったサングラスを差し出した。
 『死神』と入れ代わったのだろう。やはり今のところ主導権は『死神』に有るようだ。
「あ、ああ。別に気にせんでええわ。トモちゃんが悪いわけやないし」
 苦笑しながら久里子はサングラスを受け取ってかけ直す。
(調子のいいヤロウだ)
 自分勝手なところは俺とよく似ている、と冬摩が思っていると白いスーツを上品に着こなしたウェイターが朝食を運んできた。そして流麗な動作で持ってきた鉄板を音もなく冬摩の目の前に置く。
 血が滴った分厚いステーキ。ソレが冬摩のいつもの朝食だった。ナイフで小分けにしようともせず、フォークを突き刺して持ち上げると歯で強引に引きちぎった。
「相変わらず朝っぱらから、そんな重いモンを……」
 げんなりとした表情で冬摩を横目に見た後、久里子は視線を朋華に戻す。
「さて、と。ほんなら今日は何しよか」
 ニッコリと人の良さそうな笑みを浮かべて久里子は朋華に聞いた。
 今のところ久里子は朋華の教育係のような位置づけになっている。少しでも早くこの環境に慣れ、戦力として参加して貰うためだ。確か昨日はこの屋敷の中を案内していた。
「あの、他の退魔師の方はいらっしゃらないんですか? 出来ればご挨拶したいんですけど……」
「えーっとな、他に二人おんねんけど、今どっちも仕事で出かけてんねん」
「二人って……それじゃ嶋比良さんと荒神さん合わせてたった四人しか居ないんですか?」
 目を大きく見開き、驚愕の表情を浮かべて朋華は聞き返す。
「まぁ、今んところウチらの世代の覚醒者はそんだけやな。ホンマ人手不足やねん。せやから冬摩みたいなアホを使わなあかん。けどな、トモちゃんで五人目や。立派な退魔師になってや」
「あ、そっか……」
 久里子に言われて初めて自分も退魔師になったのだと気付いたのか、朋華は間の抜けた声を上げた。
玲寺れいじさんの方が今日中に帰って来るゆーとったから、とりあえず挨拶は……」
 ブッ! と久里子の言葉を遮って冬摩の口から噛み砕かれた肉片が飛び出す。激しくむせかえり、水差しから直接水を飲み込んで何とか落ちついた。
「だ、大丈夫ですか、荒神さん」
 心配そうな声を掛けてくる朋華に、冬摩は下を向いたまま軽く手に振り、気にするなという仕草をする。
「あー、玲寺さんってな、ちょっと変わってんねん。ま、冬摩の弱点や」
 底意地の悪そうな笑みを浮かべ、久里子は話題を元に戻した。
「で、どーする? 今日は一日構ってられるで」
 とりあえず今の所、召鬼はもちろん巨大な悪霊や怨霊の話は無い。朋華が一日でも早く『死神』を使いこなせるようになるためには実戦での訓練が最適なのだが、大きなモノはすでに玲寺ともう一人の退魔師がこなしている。
(じゃー作ってやるか。事件をよ)
 最後の肉を胃に流し込み、冬摩は小さく鼻を鳴らす。
「とりあえずその辺ブラついてこいよ。都会育ちのお嬢さんがこんな辺鄙な場所にいつまでも居たら息が詰まるだろ?」
 冬摩の提案に久里子が青い顔をして振り向いた。
「アンタ……!」
 何か言おうとした久里子の口を強引に塞ぎ、朋華に視線を向ける。
「いーから行って来いよ。ほら、コイツのサングラス持って行きな。結構デカイから正体もバレねーって」
 冬摩の胸の中でモガモガと呻き続ける久里子から乱暴にサングラスを取り上げ、朋華に放って渡した。
「え……でも」
 ソレを受け取り、戸惑いの表情を浮かべる朋華の顔つきが自信に満ちた物へと変わる。
「なるほどのぅ冬摩。ではな、行ってくるぞ」
 『死神』は冬摩と視線を合わせて軽く頷くと、堂々とした足取りでホールを出ていった。後ろで重厚な音を立て、城門の様な扉が閉まるのを肩越しに確認した後、冬摩は久里子を解放する。
「……っは! はぁっ! ――の、ダッアホ! 殺す気か!」
 呼吸を荒げ、肩で息をしながら久里子は激しい語調で叫んだ。焦点の存在しない目で冬摩を射抜いた後、すぐに朋華を追おうするが、その手を冬摩が掴む。
「もう遅い」
 視線を窓の外に向ける。『死神』が”飛んで”行くのが見えた。久里子の脚では到底追いつかないだろう。
「どないするつもりや!」
 憤りを露わにして追及してくる久里子に半眼を向けながら、冬摩は食後のワインを一気に飲み干す。
「チンタラやってても、しょーがねーだろ。習うより慣れよだ。ま、『死神』がついてんだ。死にゃしねーよ」
「……冬摩。あんま、いちびっとったら、玲寺さんに『お仕置き』してもらうで」
 久里子の言葉に冬摩はワイングラスを落とした。澄んだ音を立てて、クリスタル製のグラスが大理石の床の上で粉々になる。
「わ、わーったよ。イザとなったら俺がフォローすりゃいいんだろ」
 拗ねたような口調で、投げヤリに言いながらポケットから取り出した龍の髭で髪を束ねる。
「言っとくけど、またウチの仕事増やすような事はすんなや」
 念を押してくる久里子に冬摩は大袈裟に何度も頷いて見せ、
「ああ、心配すんな。もうこの前みたいな『面倒臭い事』はしねーよ」
 意味深な言葉を吐いたのだった。

◆『死神』の波動 ―仁科朋華―◆
 すすきが風に煽られて涼やかにそよぐ。横には底をハッキリと覗くことの出来る程、澄みきった川のせせらぎ。川縁の草むらから時折覗く、蜻蛉とんぼ飛蝗ばったが秋の匂いを運んでくれる。
 土御門財閥の洋館が建っている鬱蒼と生い茂った密林から”飛ぶ”こと二十分。元々人口が少なく、自然の匂いを濃く残したこの場所は街中と言ってもかなり閑散としていた。どちらかと言えば村に近い。建物の作りも古く、昭和時代に逆行したような錯覚さえ覚える。
(お父さん……お母さん……心配してるだろうな……)
 駄菓子屋の横を通り過ぎ、朋華は足下の小石を蹴っ飛ばした。舗装されていない道路を音も立てずに転がる石ころ。それを追う目の奥が熱くなっていくのが分かる。
(寂しい……)
 離れてたった二日だというのに無性に会いたい。両親に、仲の良かった親戚の子に、そしてクラスメイトに。少し前まで当たり前だった日常を思い描く。
 毎日せっせと水をやって綺麗な花で埋め尽くした学校の花壇。飼育室で病気だったウサギは朋華が引き取って看病し、先生の許可で家族の一員となった。母親と一緒に作ったバースデーケーキ。毎週楽しみにしていた月曜夜九時からのドラマ。三ヶ月分のお小遣いを全部つぎ込んで買ったお気に入りのパジャマ。そして寝る時にはいつも考えていたあの人――
 そこまで考えて朋華は激しく頭を振った。
 今の自分にその資格はない。取り返しのつかないほど大きく変わってしまった。鷹宮秀斗をこの手で殺したあの時から。
(違う……)
 寂れた神社の前で立ち止まり、朋華は心に落ちた黒い染みを思い出した。かつて体験した暗い記憶。いつまで立っても拭い去ることの出来ない罪悪感。
 『変わってしまった』のではない。朋華は『変わりたい』と思っていたのだ。だからこうなってしまった。以前にも似たような事を経験したことがある。
 ――朋華が人を殺したのは、コレが初めてではない。
(私、どうなるんだろ……)
 時間が経つごとに確実に摩耗していく自責の念。まるで燃えさかる蝋燭が背を低くしていくかのように、少しずつ朋華の中の常識が刮ぎ落とされていく。
 普通の女子高生としての自分から退魔師として自分へ。十鬼神『死神』を保持する者の本来あるべき姿へと。
(恐い……)
 恐い。深層心理から沸き上がる恐怖。底の見えない暗く深い穴が自分を呼んでいる。早く楽になれと甘言を耳元で囁いている。だがそれに屈してはいけない。
(私は帰る。使命を終えて、必ず)
 『死神』が覚醒した時点で朋華に植え付けられた絶対的な遺志。すなわち――
(龍閃を、倒す……)
 ソレにはすでに抗えない。生き残った最後の魔人を倒し、千年以上続いた退魔師と魔人の抗争に終止符を打つ。そうすれば、きっと解放される。
 根拠など無い。それどころか自分の世代で終わる保証などどこにもない。だが、そうやって自分を繋ぎ止めて置かなければ、すぐにでも狂気の傾斜を転げ落ちそうだった。
「あ――」
 不意に左肩を掴まれる。見ると袴姿の神主らしき人物が、俯いて朋華の肩に手を置いていた。そしてようやく自分が神社の前で考え事に耽っていたことを思い出す。
「ご、ゴメンナサイ。じゃ、邪魔ですよね」
 申し訳なさそうに作り笑いを浮かべながら移動しようとした時、神主の手がきつく朋華の肩を締め付けた。
「痛っ!」
 声を上げてその手を振り払う。それに触発されたかのように神主の顔が上げられた。
「ひっ……!」
 喉の奥から悲鳴が飛び出す。顔が強ばっていくのが分かった。本能的に脚が後退する。
 神主は白目を剥き、口から涎を滴らせて低い唸り声を上げていた。そして猛烈な殺気を迸らせ、朋華への敵意をむき出しにする。
「な、な……」
 吃音のような声を発しながら朋華が後ずさりしたのを合図に、神主は跳びかかってきた。口を大きく開け、朋華の首筋に歯を立てようと肉薄する。
「――ッ!」
 視界が大きく揺らいだ。そして自分の意思と関係なく手が動く。
『さぁ、仁科朋華。力の使い方を体で覚えるのじゃ』
 下から突き上げた右手が神主の下顎を捕らえ、強制的に口を閉じさせた状態で『死神』は言葉を発した。
『まずは退路を断たんとな』
 口の端がつり上がる。『死神』は身を低くして神主の懐に飛び込み、脇の下を通り抜けて後ろに回った。その直後、再び視界が揺らいで体の自由が戻る。
 前方には神主、後方には神社。逃げ場は後ろにしかない。
「い、いやああぁぁぁぁぁぁ!」
 絶叫を上げ、朋華は自ら袋小路に飛び込んだ。

 僅か十メートル四方の、高い塀に囲まれた空間。その中央に建つ約五メートル立方程の社を除いた場所が朋華の逃げられる範囲だった。積もった深い落ち葉の層が朋華の足をすくい、朽ち木が何本も目の前に立ち塞がる。
『何を逃げ回っておる。さっさと殺さんか』
 這うようにして逃げる朋華の頭に直接『死神』の声が響いた。
「そんな……! どうして! あの人どうしてあんな風に……!」
 どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか、朋華はまるで理解できない。まだこの土地に来て二日。街に出てきたのは初めだ。あんな形相で追われるような事をした覚えはない。
『分かっとらんようじゃのぅ。アヤツは妾の毒気にあてられたのじゃよ』
 その言葉が朋華の足を止めた。
「どういう、こと……」
 社の軒下に潜って身を隠し、朋華は聞き返す。腹這いになって前方を見た。神主の袴がゆっくりとコチラに向かってくるのが見える。
『貴様は妾を制御し切れていない。つまりは十鬼神の持つ闇の波動が周囲に垂れ流しという訳じゃ。覚醒に至っていなかった頃ならまだしも、今の波動は強力じゃぞ? それに長く晒されていれば心の脆弱な者は精神に異常をきたす。さぁて困ったのぅ』
 と、『死神』はまったく困った様子もない口調で言った。
(私の、せい……?)
 重い自責の念が朋華の精神を蹂躙していく。また一歩、日常から大きく退いた気がした。
(私が居るだけで周りに迷惑がかかる。そこにいるだけで……)
 そう言えば昨日、久里子に屋敷内を案内して貰った時、誰もいない部屋ばかり通された。たまたま人が居ないのかと思っていたが、それは違った。あえて避けたのだ。久里子や冬摩のように、大きな力を持たない人達が『死神』の毒気にあてられないように。
(私は存在しては行けない人間なの……?)
 このままでは龍閃を倒しても家には戻れない。学校に行くことなんて出来ない。親やクラスメイトをあの神主のようにしてしまうのならば。
(嫌……そんなの嫌!)
 いつか必ず元の日常に戻ること。それが今の朋華にとっては唯一の支えなのだ。それを失ってしまっては、近いウチに自分は発狂してしまうかもしれない。
 その時、背後で砂利が踏みしめられる音がした。あまりに近くでした音に朋華は我に返り、恐る恐る後ろを振り向く。
 狂気に顔を染めた神主が、頭だけを突きだして朋華の方を覗き込んでいた。喉を震わせて低くうねり声を上げながら、朋華の黄色いヨットパーカーを掴もうと触手のように伸ばした腕が何度も空を切る。
「……いや」
 あまりの恐怖に、熱い物が頬を伝う。
「いやああぁぁぁぁぁ!」
 そして知らず知らず両腕を前に突きだしていた。
 スッ、と体の力が抜け落ち、何かが生まれる感覚。朋華の眼前の空気に断層が生じ、真空の刃が神主に向かって飛んだ。それが神主の指を数本吹き飛ばして空気に熔け込む。
 自分の涙以外の暖かい何かが、朋華の顔を軽く叩いた。指で拭い取る。社の影で黒く染まった液体。ソレが血であることを理解した時、体が勝手に動いて軒下から這い出していた。
『そうそう、その調子じゃ。じゃが一枚だけとはのぅ。情けない』
 『死神』の苦言も今の朋華には届かない。恐怖と焦燥、そして罪悪感に駆られ日の当たる場所に出る。だが正確には罪悪感は感じていなかった。感じようとしていただけだ。以前の自分ならこんな時、きっと謝罪の念でいっぱいになっていただろうと思いながら。
 外に出たところで神主と目があった。右の親指と人差し指、そして中指がない。鋭利な断面を晒してる指の付け根からは、鮮血がしたたり落ちていた。しかし、それを気にした様子もなく神主は朋華に手を伸ばす。
(逃げなきゃ……!)
 今、自分の背後には石造りの階段が広がっている。その下には朱色の鳥居。逃げ出せるはずだ。
 しかし後ろを向こうとした時、視界が大きく揺らいで脚が言うことを聞かなくなった。
『しょうがないのぅ。今一度、妾が手本を見せてやろう』
 朋華の口が笑みの形に曲げられる。そして悠然と右手を神主にかざした。
 次の瞬間、神主の左手の指がすべて吹き飛ぶ。続けて左腿から血しぶきが上がり、神主はその場に片膝を突いた。
『思い出せ仁科朋華。貴様は鷹宮秀斗に体を乗っ取られていた時、あの冬摩をも圧倒するほどの力を出していたはずじゃ』
 学校の屋上で冬摩を空中に縫い止め、無数の真空刃で蜂の巣にしていた光景が鮮明な輪郭を持って脳裏に蘇る。
『あとは気持ちの問題じゃ。殺すことに最初は抵抗があるかもしれんが、じきに慣れる』
 神主の体中から血が吹き出す。不可視の攻撃を避けるだけの力を彼は持っていなかった。このまま、なぶり殺されるだけだ。
(ダメ……)
 また死ぬ。自分の手で、また一人死んでしまう。
(ダメ、ダメよ……)
 そして、こんな事を続けていくウチに『死神』の言うように抵抗が無くなり――
「ダメェェェェェェ!」
『何じゃと!?』
 狼狽した『死神』の声が頭に響く。視界が揺らぎ、体の自由が朋華の物となった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
 肩で荒く息をしながら、朋華は右手を降ろす。そして血まみれになった神主に近づいた。
(よかった。まだ息がある)
 浅く呼吸しているのを確認して安堵の息をもらし、誰か人を呼ぼうと後ろを向けたその時、背後で立ち上がる気配を感じた。
「え……」
 顔だけを後ろに向け、肩越しに返り見た朋華の視界に映ったのは、鬼のような形相で歯を剥く神主だった。その歯が朋華の白く細い首筋めがけて接近し――
 神主の腹から手が生えた。
「なぁに詰めの甘い事してやがんだ。このバーカ」
 やる気の無さそうな声が神主の後ろからした。彼の腹から手が引っ込む。支えを失った神主は重力に引かれ、体をくの字に折り曲げて地面に倒れ込んだ。
「荒神、さん……」
 呆然として、朋華は突然現れた冬摩を見つめる。
「さぁて、死体の処理をしないとな」
 冬摩は朋華からの視線を気にすること無く、両手で複雑な印を組み始めた。そして右手を地面に押しつけて叫ぶ。
「使役神鬼『鬼蜘蛛』召来!」
 冬摩が手を置いた周囲の落ち葉が突然強風に煽られたように翻り、黒い光の柱が立ち上った。光は収束しながら丸みを帯びた物体を形取り、徐々にその正体を露わにしていく。
 大小二つの黒い玉を繋ぎ合わせたような巨躯。玉からは硬質的な外殻に覆われた八本の脚が伸び、しっかりと地面を捕らえている。
 中から現れたのは巨大な黒い蜘蛛だった。だが、蜘蛛と唯一にして最大に違うのは頭部。ワニのように大きく裂けた口から覗くのは無数の棘。まるで割れたガラスの破片を肉に埋め込んだかのように、大きさがバラバラの巨大な牙からは獲物を求めて唾液が滴っていた。
「ほらよ、喰っちまいな」
 まるで誰か親しい人に食べ物を勧めるような軽い口調。その声に呼応して『鬼蜘蛛』が神主へと跳びかかる。巨大な顎を、縦一直線になる程にまで開き、地面を抉って砂利や落ち葉ごと神主の体を丸飲みした。
 後には何も残らない。ついさっきまで、そこで生きていた神主の気配は影も形もなくなっていた。
「よーし、いいぞ。戻れ」
 冬摩が『鬼蜘蛛』の体に触れる。その手に吸い込まれるようにして、確かな質量を持っていた存在は黒い粒子となって消え失せた。
「危なかったな。もうちょっとで殺されてたぜ」
「なんて、ことを……」
 愕然とした表情になって、朋華は呟く。
「何て事をするんですか、貴方は……」
「あぁん?」
 感謝どころか不満の声を上げた朋華に、冬摩は不機嫌そうな表情になって返した。
「どうして……どうして、そんなに簡単に人を殺せるんですか……」
「馬鹿かお前。俺が居なきゃお前が殺されてたんだぞ」
「それでもいい……。人殺しになるくらいなら、殺された方がましです」
 何も包み隠さない、朋華の本音だった。
 これ以上自分の手を血に染めて、そのことに何も感じなくなって行くくらいならば、今ここで殺された方が楽になれる。
「はぁ? ったく、寝言は寝てから言えよ。嫌いなんだよ、そういう笑えない冗談は」
「冗談なんかじゃない。冗談なんかじゃありませんよ。そうやって誰かを平気で傷つけるような人に私はなりたくない」
 声に熱が帯びてくる。冬摩の目を真っ正面から見据えながら、朋華はハッキリとした口調で断定した。
「そう言うお前だって、こないだ召鬼を殺したじゃねーか。さっきの俺みたいに腹貫いてよ」
 冬摩のその言葉が、まるで冷たい手となって朋華の心臓を鷲掴む。あれは『死神』がやったことだが朋華にとってはどちらでも同じだ。自分の手で鷹宮秀斗を死に至らしめたことには変わりない。
「そうです。だからこそ、これ以上誰も傷つけたくない」
「綺麗事ばっか言ってんじゃねーよ。殺らなきゃ殺られる。俺達がいる世界ってのはそういう世界なんだよ。学校の先生は教えてくれなかっただろーけどな」
 皮肉めいた口調で揶揄する冬摩。だが朋華は引き下がらない。
「私は荒神さんとは違う。荒神さんのようにはなりたくない」
「なれるわけねーだろ。『死神』も制御できないようなヘタレヤローがよ」
「『死神』さんはコントロールします。絶対に」
 強い決意の元、宣言する。ソレが気に入らなかったのか、冬摩は乱暴に頭をかきむしり、
「あーそーかいそーかい、そーですか。じゃー勝手にしろよ。今度お前が今みたいな目にあってても俺は見殺しにすっからな」
 目線を上げてぶっきらぼうに言った。そして朋華に背中を向ける。
「荒神さんはいつからなんですか」
 跳躍しようとした冬摩が朋華の声で止まった。
「いつから、そんな風になったんですか」
「生まれたときからに決まってんだろーが。お前も知ってんだろ。俺は魔人の息子だぜ。元々、人間共とは仲が悪いんだよ。今はたまたま利害が一致してるから手を組んでやってるだけだ」
 吐き捨てるように言い残し、自分の身長の何倍もある塀を跳び越えて冬摩は姿を消した。
(やっぱり、あの人とは住む世界が違う。きっと価値観も何もかも……)
 目の前の大きく抉れた地面。さっきまで神主のいた場所に目を這わせ、朋華は大きく溜息をついたのだった。

◆大切な女性ひと ―荒神冬摩―◆
「クソッタレ!」
 土御門財閥の屋敷への帰り道。鬱蒼と生い茂る木々に囲まれ、冬摩は忌々しげに右拳を太い幹に叩き付けた。重い手応えと共に肘までが樹の中にめり込む。そして腕を真横に引き抜き、さらに少し上の幹を殴りつけた。メキメキと大樹が悲鳴を上げ、轟音と共に大地に崩れ落ちる。
(雑魚のクセに、口だけは達者なヤローだ)
 両目に壮絶なモノを宿し、冬摩は中空を睨み付けた。その凄まじい殺気に煽られて、木々で羽を休めていた鳥達が一斉に飛び立つ。
 ここは土御門財閥が張った結界の中。洋館が一般人に見つからないようにするために張られた結界。特定のルートを通って帰らない限り、いつまで立っても同じ場所を歩かされる。
(クソッ……変なところに来ちまったか)
 それは強大な力を持つ冬摩とて例外ではない。激情を沈めるため、自然破壊を繰り返しながら気の向くままに歩いていたらこの場所に来てしまった。
(あの馬鹿がくだらねぇ事言いやがったせいだ)
 ――荒神さんはいつからそうなんですか。
 強い意志を持って放たれた言葉。何の打算もない純粋な疑問。自分とは正反対の価値観。
 朋華とよく似た人物を冬摩は知っていた。
 彼女の名前は未琴。強い意志を持ち、裏表など無い人間だった。思ったことはハッキリと口にする。そんな彼女に惹かれ、未琴の寿命が終えるときまでずっと添い遂げるつもりだった。
 魔人の血を引いた冬摩の寿命は人間とは比べ物にならないくらいに長い。魔人は自分の身を守るため、僅か一年ほどで赤子から最も力の充実した成人にまで成長する。それからは一気に遅くなり、人間の約千分の一ほどの早さで年をとっていくのだ。
(未琴……)
 その日の食材と言って必要以上に動物を狩った冬摩に、未琴はいつもきつい口調で自制を強要した。最初は煩わしくもあったが、真剣な表情で生命の重さを説く未琴に結局根負けして、いつしか冬摩も自分の空腹を満たす分量しか狩らなくなっていた。
 そしてその事について褒められた時、冬摩は言いようのない達成感を噛み締め、未琴への強い想いを再確認した。これからも未琴から様々な事を学び取り、彼女の笑顔を沢山見ていきたいと心の底から思った。
 しかし未琴の死と同時に生まれた龍閃への憎しみが、冬摩の中で定着しつつあった人間性を一掃した。
 邪魔するヤツは排除する。本能の命令に殉じた単純で短絡的な思考。迷いなど生まれない。生んではいけない。未琴の仇をとるまでは。そう、固く誓ったはずだった。
(どうして『死神』の保持者は、いつも俺を狂わせる。あんな十年そこそこしか生きてない奴の言葉に惑わされるなんざ……)
 頭を軽く振り、自嘲めいた笑みを浮かべる。
 朋華だけではない。コレまでに出会ってきた『死神』の保持者はどこか未琴の顔立ちに通ずる物があった。中でも朋華は特によく似ている。
 目といい鼻といい、そして価値観といい。
 『冬摩。いつまでもそのままで良いと思っているのか?』
 未琴の言葉。人間との共存を誓った以上、考えを改めなければならないと諭された時の言葉だ。
 ――荒神さんはいつからそうなんですか。
 同じ様な韻を踏んだ朋華の言葉が耳について離れない。
(いつから、だと?)
 少なくとも生まれた時からではない。龍閃は人間の女性を愛することで、人と共存の道を歩んでいくことを身をもって他の魔人達に知らせた。勿論、冬摩にも。
 二ヶ月に一度訪れる紅月の日は魔人としての血が騒ぎ、殺戮衝動を押さえ込むために一人で洞穴に籠もったりしていたが、それ以外の時は未琴を始めとする多くの人間達と普通に接してきた。
 そんな平和な日々を蹂躙した龍閃の突然の裏切り。
(あれから全部おかしくなっちまったんだ……)
 再び人間と敵対し始めた龍閃は、退魔師達だけではなく同族である魔人までをも歯牙にかけ始めた。理由は不明。
 たった一人ではあっても、最強の魔人と呼ばれた存在だ。次々と他の魔人や退魔師を殺し、最終的には十鬼神のうち四体と、十二神将のうち三体は龍閃の物となった。しかし、そんな龍閃も二百年前に致命的な傷を負うことになる。それ以降、龍閃は冬摩達の前から姿を消し、尻尾を掴ませなくなった。
(余計なことは考えなくていい。あのクソオヤジを見つけだして、ブッ殺す為だけに俺は今まで生きてきた。未琴の仇をとるために……!)
 左腕を先程倒した巨木の断面に叩き付ける。ささくれ立った鋭利な木の棘に腕が埋没し、今朝の癒えきっていない傷口がひらいた。ジワリ、と袖から染みでて来る鮮血を舐め取り、冬摩は息を吐く。そして頭の中から朋華の顔を振り払った。
「よし……」
 少し気分が晴れた気がした。だが今屋敷に戻ると仕事を終えた玲寺と鉢合わせしてしまう可能性がある。いったん街に戻って時間を潰そうと冬摩が後ろを振り向いた時、背後に気配を感じた。
「誰かは知らねぇが不意打ちは止めた方がいい。俺は今すっげー機嫌が悪いんだ」
 もう一度振り返ろうともせず、冬摩は荒っぽい語調で後ろの気配に言う。
「冬摩」
 透き通り、凛と張った声。自信に満ちあふれ、揺るぎない力を感じさせる。
「何の、冗談だ?」
 ゆっくりと顔を後ろに向ける。声が震えているのが分かった。
「冬摩、逢いたかった」
 腰まで伸びた長く艶やかかなストレートの黒髪。その一本一本が磨き上げられた絹糸のように光輝いて見える。大きな二重の目と鋭角的な顔つきが醸し出す意志の強そうな雰囲気。微笑をたたえた唇からは成熟した女性の優美さと童女のような可憐さが漂っている。新雪のように白い肌は、触れれば吸いついてきそうなほど瑞々しく、曇り一つなかった。
「未、琴……」
 まるで精巧な人形のように整った顔立ち。幽玄な空気を身に纏い、かつての冬摩の恋人、未琴は静かに佇んでいた。
(俺は、夢でも見ているのか……)
 未琴の遺体は冬摩自身の手で葬った。間違いなく。生きているわけがないのだ。
 しかし冬摩の困惑を余所に、未琴は脚まで覆い隠す白い衣――死装束を翻して近づく。
「よるんじゃねぇ! テメェ、ブッ殺すぞ!」
 気が付くと声を荒げていた。右腕を前に出し、それ以上来れば攻撃すると暗に秘めて威嚇しながら冬摩は一歩後ろに下がる。
「冬摩……信じられないのも無理はない。でも私は黄泉還った」
 柳眉を伏せ、悲しげな表情で未琴は言葉を紡いた。
「龍閃様の手によって」
 まるで鈍器で頭を殴られたような衝撃。
 龍閃――その言葉が冬摩の血を逆流させ、膨大な熱を体に産み落とす。
「私は龍閃様の召鬼。眠っていた私の体に龍閃様の体組織を埋め込むことで、仮初めの肉体を手に入れ再び生を受けた」
 冗談としか思えなかった。冗談だとは思えなかった。
 否定と肯定。拒絶と享受。矛盾する二つの思考をない交ぜにして、冬摩は更に一歩後ずさる。
「冬摩、もう一度私と一緒にいたくないか? 私と一緒に、この先ずっと幸せな時間を過ごしたくはないか?」
 未琴が冬摩に与えてくれた物は大きかった。血や肉を欲しなくとも、これ程充実した日々送れるものかと身をもって知った。昼間は談笑し、未琴の作ってくれた料理に舌鼓を打ち、夜は互いの体を求め合う。
 出来ることならばもう一度、もう一度取り戻したい輝かしい時間。
 だが――違う。
「未琴は死んだんだ。もう二度と生き返らない」
 反魂の術。不老不死の霊薬。時の権力者達が求めた悠久の時間。しかし、どれとして成功したという事例はない。
「ならば今、お前の目の前にいる私は何だ」
「龍閃の召鬼。それ以上でもそれ以下でもねぇ。死体から生み出された召鬼は肉体が不完全なはずだ。長持ちはしない。完全に出来るなら、とっくに俺がやってる」
 冬摩も半分とは言え魔人の血を引いているのだ。自分の召鬼を生み出すことだって出来る。未琴を召鬼として復活させる。何度もやろうとした。だが、それは死者の冒涜に他ならない。冬摩は苦渋の末、自分の心の中で未琴を永遠に生かしておくことに決めたのだ。
「それが完全に出来る方法がある、と言えばどうだ?」
「何ぃ?」
 未琴の言葉に冬摩は訝しげに眉を顰める。
「お前の近くに『死神』の保持者がいるだろう」
 仁科朋華のことだ。どうして未琴がそんなことを知っているのかは知らないが、大方、朋華が『死神』の波動をばら撒き過ぎたのだろう、と深くは追及しなかった。そんなことよりも――
「『死神』がどうした」
「奴の能力『復元』を使えば、私の体は完全な物になる」
 『復元』――唯一『死神』だけがもつ圧倒的な修復能力。回復にある程度の時間を有する『治癒』や『再生』と違い、致死的な傷でも一瞬にして全快にまで回復する。だが、ソレを行使するには代償が必要だ。術者の命、すなわち寿命を大きく削ることになる。
 二百年前、龍閃を瀕死にまで追いつめた戦いで冬摩も致命的なダメージを負った。いくら魔人の血を引いているとはいえ死を覚悟しなければならなかった。しかし、当時の『死神』の保持者が『復元』を使ってくれたおかげで冬摩は生き延びることが出来た。代わりにその保持者は死んだ。自分の命を燃やして相手の命をつなぎ止める。『復元』とはそれ程までに凄まじい生命の授受を強いられるのだ。
「無理だな」
 だが、冬摩は未琴の提案を一蹴した。
「あの女は『死神』をこれっぽっちも使いこなせちゃいねー。そんな状態で『復元』何て大技、まともに出来るわけねーよ。そんなことより龍閃の居場所を教えろ! 知ってんだろ、アイツの召鬼なら!」
「お前が保持すればいい」
 しかし未琴は冬摩の質問には答えず、口を真一文字に結んで真剣な表情で続ける。
「お前が『死神』の保持者を殺して、『死神』を奪い取ればいい。お前なら十分に使いこなせる」
 十鬼神や十二神将といった強力な使い魔の受け渡し方法は大きく二つ。一つは、子を成した時に自然と第一子に受け継がせる方法。そしてもう一つは保持者を殺し、強引に奪い取る方法。龍閃はこの方法で大量の使い魔を手に入れたのだ。
「俺が、『死神』を……?」
 今の未琴は瀕死ではない。加えて冬摩の甚大な生命力。冬摩が未琴に『復元』を使ったとしても、寿命が五十年程縮まる程度で即死ぬことはまず無いだろう。
「冬摩、今の私には時間がない。もってあと七日。それまでにお前が『死神』を手に入れてくれなければ、私は再び土に還る」
 それだけを言い残し、未琴は風に溶け込むようにして消えた。
「あ、おい! ちょっと待てよ!」
 追おうにもすでに姿は見えない。恐らく、この世との繋がりが薄いために、さっきの様に実体化して話をしているだけでも辛いのだろう。こうやって空気と一体化している状態こそが、今の未琴の本来の姿なのだ。
「クソ!」
 拳を地面に叩き付ける。僅かに生じた地響きで、小動物が慌ただしく逃げだして行った。
(どうすれば、どうすればいい!?)
 冬摩は今まで未琴の仇を取るために生きてきた。だがその未琴を黄泉還らせる方法を手に入れられるかもしれない。しかし、今の未琴は仇である龍閃の召鬼。
 矛盾だらけだ。
(クソッタレ! とにかく、ややこしく考えるのはヤメだ。本能のままに生きればいい。今までだってそうしてきた)
 フラフラとした足取り立ち上がり、冬摩は屋敷へと帰るルートを探し始めた。

◆冬摩の過去 ―仁科朋華―◆
「あーん! トモちゃーん! 無事やったんかー! ホンマ良かったわー」
 屋敷に戻った朋華を待ちかまえていたのは久里子の篤い包容だった。人目もはばからずに、玄関ホールで豊満なバストに朋華の顔を埋めさせる。
「むー! くる……! 嶋比良っさ、ん……!」
 バタバタと手を動かして悶える朋華を見てか、ようやく久里子は解放した。
「あー、スマンスマン。いやー、アンタの無事な顔見たら急に緊張の糸がな……ハハハ。ところで冬摩は?」
「え? まだ帰ってきてないんですか?」
 ゲホゲホと咳き込みながら、朋華は意外そうに聞き返した。冬摩のあの並はずれた身体能力から考えても、自分より遅くなると言うことは考えにくかったからだ。
「ま、どっかで道草食ってんねんやろ。ほっといても、そのうち帰ってるわ。で、それはそうと紹介するわ。篠岡玲寺ささおかれいじさん。ウチらの中で一番頼りになる退魔師や」
 そう言って右手を広げ、隣にいた男性の前に持ってくる。
「初めまして、篠岡玲寺と申します。嶋比良から話は聞いてますよ。貴女が『死神』の保持者なんですか?」
 耳の上で切りそろえた黒い短髪の直毛。女性的な雰囲気さえ持つ、秀麗で端正な顔立ち。顔のパーツの一つ一つが驚くほどに整い、彫刻の様な造形美を感じさせられた。くっきりとした二重の目を朋華に向け、玲寺はそっと手を差し出す。
「え? あ、は、はいっ。はじ、初めましてっ。に、仁科朋華と言いますっ」
 握手を求めて来たのだということを少し遅れて理解し、朋華は慌てて自分の手をのばした。
「そんなに緊張なさらずに。これからは同志ですから。お互いに頑張っていきましょう」
 そう言って朗らかに笑う。
「あ……」
 朋華の中で何かが弛緩していくのを感じた。無条件でこの上ない安心感を与えてくれる、この篠岡玲寺という男性になら色々相談できるかもしれない。久里子は朋華に親身になってくれるが、若干刺々しい性格と攻撃的な喋り口調が、朋華が心をうち解けるのに二の足を踏ませていた。
「それではお近づきの印に昼食でも一緒に取りましょうか。丁度、時間帯も頃合いですし」
 白のタートルネックの首元を直し、胸に下げたクロスをいじりながら玲寺は玄関ホールの奥にある食堂の扉を開けた。そして朋華達を誘い入れるように、上に向けた掌をそっと開いた扉にかざす。
「玲寺さん、それグット・アイディアやでー。ウチも心配しすぎで腹ぺこやー」
 軽い声を上げて久里子が食堂に入った。
(荒神さんの事、色々聞いてみよう……)
 『死神』から受け継いだ記憶以外に何か知っているかもしれない。紳士的な立ち振る舞いでニコニコと笑顔を浮かべている玲寺の横を通り、朋華も食堂へと入った。

 食後のコーヒーを一口含み、玲寺は瞑目したまま頷く。
「なるほど。冬摩の凶暴性、ですか」
 ソーサーにカップを置き、玲寺は静かに目を開けた。
「私、いつか自分もあんな風になっちゃうんじゃないかと思うと、恐くて……」
「それは心配いりませんよ。彼の性格は、魔人の血が濃いせいでしょう。加えて冬摩は龍閃に多大な恨みを抱いている様子。何があったかは知りませんが、それが彼の凶暴性に拍車を掛けているんでしょうねぇ」
「でも、私どんどん罪悪感が無くなっていくような気がするんです。今朝の神主さんだって……。篠岡さんはどうなんですか? やっぱり、その……平気で誰かを殺したりするんですか?」
 初対面の男性に対して失礼だと思う。だがそれでも聞かずにはいられなかった。玲寺のように温厚そうな人間でも、戦いになれば何の呵責もなく殺してしまうのだろうか。
「平気……というわけではありませんが。必要とあらば躊躇はしませんよ。妖魔の類に情けを掛ければ自分の身が危険にさらされることになりますから」
 ――殺らなきゃ殺られる。俺達がいる世界ってのはそういう世界なんだよ。
 冬摩の言葉が、朋華の脳裏で渦を巻く。
(やっぱり、そうなんだ……)
 絶望に似た諦観。冬摩のように極端な性格にはならないにしても、いずれ自分も玲寺のように割り切って考えるようになるのだろう。
「私、昔同級生を殺した事があるんです……」
 突然の告白に、久里子が目を剥いて朋華を見るのが分かった。
「中学生の時、定期考査で私はいつも二番目でした。二番でも、親や先生は凄く褒めてくれて、それは嬉しかったけど、私は一番になりたかった。スポーツもヘタで、友達付き合いも巧くなかった私の取り柄と言えば勉強くらいでしたから。必死になって勉強したけど、それでも一番になれませんでした……」
 沈んだ声のまま、朋華は俯いて胸の内を吐露し続けた。 
「『あの子さえ居なくなれば』って思いました。何度も何度も。それが間違っていることは分かっていたけど、嫌な感情はどんどん積もっていきました」
 そしてある日、事件は起きる。常に学年トップをキープしていた子が交通事故で死んだのだ。赤信号で強引に飛び出してきた車に跳ねられて。
「私のせいだって思いました。私があんな事考えたから……」
 勿論、朋華は関係ない。完全な事故死だった。だが、頭では理解できても感情がソレを許さない。それから朋華は崩れた。順位は一位どころか瞬く間に下がり、一時期最下位にまで落ちそうになった。
「でもトモちゃん、ソレ考えすぎやん。トモちゃん全然悪ないのに……」
 久里子が気遣うように声を掛けてくれる。だが伝えたいのはこの後なのだ。
「あの時、私は自分が壊れるんじゃないかと思いました。直接関わったわけでもないのに、もの凄い罪悪感を感じたんです。でも、今は……」
 鷹宮秀斗をこの手で殺しておきながら、殆ど罪悪感を感じていない。そのことが恐いのだ。これから、この考えがどんどん加速して行くのではないかと思うと恐怖で押しつぶされそうだった。
「それだったら、きっと大丈夫ですよ」
 玲寺が掛けてくれた明るい言葉に朋華は顔を上げた。
「十鬼神『死神』を保持していながら、未だそういうお考えを持ち続けていられるのであれば、決して誰かの死を無下に扱うような人間にはなりません。貴女は強い。私が保証します」
 強い……私が? そんな言葉、朋華は今まで一度も言われたことはなかった。
「貴女も知ってるとは思いますが、十鬼神は何人もの魔人の集大成。私や嶋比良が宿している十二神将とは比べ物にならないくらい邪悪な存在なのですよ」
 十鬼神は魔人達が安倍清明の式神、十二神将に対抗するために生み出した使役神鬼だ。魔人の心臓部である核をいくつも集めて結晶化し、意思を与えた。退魔師達に押され、種の滅亡を感じ取った魔人達は、その時にいた最強クラスの魔人十人に生き残りを託し、他の魔人は十鬼神となったのだ。
「本来、『死神』の覚醒と共に凶悪な性格になったとしても何の不思議もないのに、貴女は元のままだ。もっと御自分に自信を持たれてはいかがですか?」
「良かったやんかー、トモちゃん。玲寺さんのお墨付きやでー。何せ、この人は十二神将を二体も持ってんねんからなー。玲寺さんが強いゆーたんや、アンタは強い。なっ?」
 朋華の背中を軽く叩きながら、久里子は陽気な声を張り上げて笑う。
(私は、強、い……?)
 ピンとこない。全く。さっきだって、神主が殺されるのを黙って見ているしかなかった。『死神』もまともに制御できていない自分が、どうして強いなんて言われるのだろう。力なんて冬摩の足元にも及ばない。誰かの役に立つどころか、周囲を巻き込んで足を引っ張っているだけだ。
「あの……」
 朋華が何か言いかけた時、玄関ホールの方から澄んだ鈴の音が響く。誰かが帰ってきたのだ。
「冬摩の奴、よーやく帰ってきおったか。ったく、どこほっつき歩いて……」
「冬摩っちゃーんっ!」
 久里子の声を遮って隣からピンク色の声が上がった。
「え……」
 思わず朋華の目が点になる。内股になって小走りに食堂の出入り口に駆け寄る玲寺を無意識に視線が追った。彼の姿が食堂から消えた後で久里子に目を戻す。
「いや……何も言わんといて。言いたいことは、よー分かっとるから」
 目を瞑り、眉間に寄った皺を揉みほぐしながら久里子は嘆息していた。
「玲寺さんも、あの病気さえなかったらエエ男なんやけどなぁ……」
「ひょ、ひょっとして、篠岡さんって、コレ、なんですか?」
 目元をひくつかせながら、朋華は右手の甲を左頬にあてる。
 沈痛な面もちでゆっくりと久里子が頷いたのを見て、朋華も一緒に重い息を吐いたのだった。

 朋華の自室。屋敷の最上階にあり、天窓から採光できる造りになっている部屋で、朋華は一人沈んでいた。勿論、玲寺の事だ。
(まさか……男色だったなんて……)
 柔らかいベッドに体を沈ませ、枕をぎゅっと抱きかかえる。
「おい、居るか。入るぞ」
 天窓からぼんやりと空を見上げていた時、ドアの向こうから声がして、ほぼ同時に扉が開けられた。
「こ、荒神さん!?」
 思わず声が上擦る。予想外の来訪者に朋華は飛び上がり、髪を整えて出迎える。
「よぉ、寝てたか」
 いつも以上に不機嫌そうな顔でぼやく冬摩。両方の頬に付けられたキスマークがその理由だろうか。首筋で結っていたはずの髪はほどけ、指向性を失った毛先があらぬ方向に跳ねていた。
「あ、いいえ。ちょっと、考え事を……」
「そうか」
 短く言って冬摩は朋華の部屋に無遠慮に足を踏み入れた。そしてフランス製の椅子に腰を下ろす。ギシ、と木製の脚が不満をもらした。
「あ、あのー。やっぱり、怒ってます、よね……」
 神社で言った自分の生意気な言葉を思い出し、恐る恐る聞く。だが冬摩は何も答えない。底冷えするような鋭い視線で朋華を射抜いたまま、沈黙している。朋華は扉の前に縫いつけられたまま一歩も動くことが出来なくなっていた。
(ど、どうしたんだろ……。様子が、変……)
 視線は確かに鋭い。しかし、いつもなら同時に纏っているはずの肉食獣のように獰猛な気配がない。それどころか誰かに救いを求めているようにさえ感じられる。これではまるで精一杯の虚勢をはった小動物だ。
「荒神、さん?」
 重い脚を引きずるようにして朋華は体を動かした。朋華が左に行くと冬摩の視線も左へ。右に行くと右へ。確かに冬摩は自分を見ている。そして自分に何かを重ね合わせ、答えを求めて出口の見えない迷宮を彷徨っている。そんな風に感じられた。
 朋華が思案していると突然、冬摩が勢いよく立ち上がった。そのまま何も言わずに部屋を出ようと朋華の横を通り過ぎたその時、視界が大きく揺らぐ。
『龍閃に接触したか?』
 高圧的で挑発的な声。『死神』の声だ。また朋華の体が自分の制御を離れて動き出す。
『それとも、龍閃の召鬼あたりに何ぞ吹き込まれでもしたか?』
 冬摩は立ち止まり、きつい視線を『死神』に叩き付けた。
『妾の力を奪ってこい。そう言われたのではないか?』
 スッと目を細め、『死神』は試すような視線を冬摩に向ける。
「お前、どうして知って……」
『なんじゃ本当じゃったのか。お主は本当に分かり易いのぅ。うい奴よ』
 腕を組み、『死神』は喉を小さく震わせて笑った。カマを掛けられたことを知った冬摩が激昂する前に、『死神』は冬摩の首筋に腕を絡ませる。そして胸に顔を埋めた。
『冬摩、後生じゃ。妾を守ってはくれんか』
「どういうことだよ。お前、何を知っている」
 いつになく真剣でしおらしい『死神』の様子に毒気を抜かれたのか、冬摩は戸惑ったような口調で返す。
『龍閃の狙いは妾じゃ。二百年前の最後の戦いで、アヤツは妾を執拗に狙っておった。あの時、お主が庇ってくれねば妾は龍閃に取り込まれておった』
 龍閃に致命的な傷を負わせた二百年前の抗争。龍閃の暴走を止めるために人間と手を組んでいた魔人達はその時にすべて殺された。そして『死神』を保持する退魔師に向けられた龍閃の凶牙を冬摩は身を挺して庇った。死に行く冬摩が吐いた理由は単純だった。
 ――かつての恋人の面影があったから。
 だが戦闘能力では冬摩の方が圧倒的に勝る。そう判断した当時の『死神』の保持者は『復元』を使って冬摩を復活させた。そして疲弊していた龍閃に深い傷を負わせることが出来た。
 だがその代償として『死神』は誰にも受け継がれることなくその場に留まり、微弱な地霊の力を吸って生き延びた。二百年もの年月を経て、『死神』が眠った大地の上には朝霧高校という建物が建った。『死神』はその中からようやく見つけた適格な人間の体に宿り、そして覚醒した。
「何で、お前を欲しがったんだ」
『ソレは分からぬ。じゃが現に今回も狙ってきた。お主を使って。どうやってお主を誑かしたかは知らんが、乗れば龍閃の思うツホじゃ』
 理由は分からない。だが自分を狙っているのは確か。しかし冬摩は小さく舌打ちしして、『死神』を引き剥がした。
「守るなんざ俺のガラじゃねーんだよ。玲寺にでも頼んだらどうだ。気持ち悪いヤローだが、俺と互角以上に渡り合える力を持ってやがる」
 自分で言った言葉が気に障ったのか、言い終えて冬摩は渋面を浮かべた。
『アヤツではダメじゃ。冬摩、お主の力が必要なのじゃ。魔人に対抗できるのは魔人の血を引く者だけじゃ』
「知らねーよ。俺は俺のやりたいようにやる。龍閃がお前を狙ってるなら、せいぜい囮として利用させて貰うまでだ」
 辛辣な冬摩の言葉に『死神』は肩を落として、うなだれる。しかし、すぐに顔を上げて冬摩の体にすがり、か細い声で言った。
『囮でも何でもかまわん。妾を、もう一度妾を守ってくれ。たった一人で土の中に閉じこめられるのはもうたくさんじゃ。龍閃の物になどなりたくない。いっその事、お主の中に……』
 あまりに弱々しい『死神』の声。それ程、二百年の孤独は辛かったのだろう。
「チッ!」
 困惑の表情を浮かべていた冬摩は舌打ちを一つして『死神』を振りほどくと、来た時と同様、荒っぽく部屋を出ていった。
『冬摩……』
 寂しそうに崩れ落ちる『死神』。遠くの方から、自分のその姿を見つめている朋華は、何も声を掛けることが出来なかった。

◆心変わり ―荒神冬摩―◆
(どいつも、こいつも! 面倒な事を人に押しつけやがって!)
 憮然とした表情で冬摩は屋敷を抜け出し、密林地帯へと踏み入れた。
 風に揺られて乾いた音を立てる枝葉。木漏れ日に照らし出される花々。小鳥のさえずる声。
 それら目に入る物、耳に聞く物すべてが腹立たしく思えてくる。思い切り力を解放して、この辺り一帯を死の大地にしてしまいたい衝動に駆られた。
「ッ!」
 冬摩の足が止まる。目の前の大木の影。まるでそこから生み出されるようにして、玲瓏な雰囲気を纏った女性が姿を現した。
「冬摩。出来なかったのだな」
「出やがったな」
 沈んだ表情で呟く未琴に、冬摩は不敵な笑みで返す。
「あの娘の事。私より大切なのか?」
「そうじゃねーよ。龍閃の召鬼の言いなりになるなんざ、ありえねーって思っただけだ」
 不機嫌そうに言いながら、乱れた髪をうなじの辺りで縛り付ける。
「お前の中では、私は未琴である以前に龍閃様の召鬼であるという訳か」
「ややこしいこと言ってんなよ。未琴は死んだ。『死神』は龍閃のエサとして使う。それだけだ」
「なるほど。実にお前らしい考えだ。ならば仕方ない」
 未琴は光沢のある黒髪を掻き上げ、白い死装束の裾を後ろに靡かせながら冬摩に近づいた。
「お前が出来ないのならば、私がやるしかない」
 そして目も会わせぬまま冬摩の横を通り過ぎる。
「止めとけよ。龍閃の召鬼っつっても、『死神』を手に負えるわけがないだろ」
 鷹宮秀斗がそうだったように召鬼風情では十鬼神を制御することなど不可能だ。
「やってみなければ分からん」
 しかし未琴はにべ無くはねつけ、歩を進める。
「やめとけって! 今、屋敷には玲寺の奴も居るんだぞ!」
 未琴を止めるため、冬摩は彼女の肩に手を置いた。
 その途端、まるで泥細工のように未琴の肩が崩れ落ちる。付け根を失った腕が落下し、湿った音立てて地面に張り付いた。さっきまで未琴の腕だった物は今や黒い塊と化し、腐臭をまき散らせて熔けていった。
「え……」
 あまりに唐突な光景に冬摩は唖然となる。
「これが、今の私の体だ」
 振り向かないまま、未琴はどこか達観したような口調で言う。
「冬摩。お前の考えは正しい。私は未琴である前に龍閃様の忠実な下部だ。あの方の意向には逆らえない」
 愁いを帯びた声。達観などではない、これは諦観だ。自分を突き放し、自虐的な思考をする未琴の顔が一瞬垣間見えた。
「近い内に必ず『死神』を貰いに来る。せいぜいあの娘から目を離さないことだ」
 そう言い残し、未琴は肉体を風に溶け込ませた。
 不愉快な感情が澱のように冬摩の胸中に鎮座する。怒りではない。悲しみでもない。この感情はいったい何と言ったか。もう随分昔に置き忘れ、そのまま放置してしまっていたような気がする。
「クソッ!」
 煮え切らない。体の最深で小さく光を放つ何かが、出口を求めて冬摩の躰の中で蠢動している。
(龍閃を殺す……!)
 ただそれだけ。この千年間、何度も繰り返し自分に言い聞かせてきた言葉。
 それ以外に何も考えることなど無い。ただ、その目的のために有効な手段は利用させた貰うだけだ。

 屋敷戻るとすぐに朋華を探した。部屋には居なかった。長い廊下を歩いていると、久里子の部屋から朋華が出てきた。部屋の中に向かって軽く会釈し、扉を閉めたところで冬摩と目が合った。
「よぉ」
 疲れた顔で冬摩は軽く手を上げる。
「あ、荒神さん……」
 どこか気まずそうな視線。だが、それもしょうがない。原因は自分にある。
「お前に一つ聞きたい」
「な、何でしょう」
 キッパリとした冬摩の口調に朋華はたじろぎながら視線を泳がせる。
「死にたくないか?」
「は?」
 素っ頓狂な声。部屋の前での問答を不信に思ったのか、扉が開いて久里子が顔を覗かせた。
「この先、生きていたいかと聞いたんだ」
 これ程、何の脈絡もない質問はないだろう。朋華が呆けたように口を開けて、痙攣するかのようにまばたきするのも無理はない。
 だが、冬摩にとっては至極重要な質問なのだ。
「生きていたいか?」
 念を押すようにもう一度聞く。
「は、はい……」
 小さな声で遠慮がちに朋華は返答した。
「そうか」
 その答えに冬摩は頷き、息を大きく吸って続けた。
「じゃあ俺が一緒に居てやる。どうもお前は狙われて居るみたいだからな。けど勘違いするなよ。お前が死のうがどうなろうが、俺にとっちゃどーだっていいんだ。ただ、お前の側にいれば龍閃の方から仕掛けてくれるようなんでな。だから利用させて貰うだけだ。いいか、もう一度言うぞ。これから俺がお前の側にいるのは、お前を守る為じゃない、龍閃をおびき出すエサとして使うだけだ。いいな、わかったな、もう決めたんだ。拒絶は許さんからな」
 一息にまくし立て、冬摩はバツが悪そうに朋華から視線を逸らした。
 朋華は相変わらずポカン、としたままだ。
「ホンマ、素直やないんやから……」
 くっく、と意地悪そうに笑う、久里子の声だけが閑散とした廊下に響いたのだった。




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