貴方に捧げる死神の謳声

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五『狂気の夜に終焉を』


◆龍閃の宿す狂気 ―仁科朋華―◆
 朋華の目の前であまりに一方的な殺戮が繰り広げられていた。
 左脚を潰され、動きの取れない麻緒に向かって龍閃が悠然と歩み寄る。
「こ、のおおぉぉぉ!」
 気合いで自分を鼓舞し、麻緒は果敢にも力の発生点である『爪』を龍閃に埋め込もうと右手を挙げる。しかし乾いた音が聞こえたのとほぼ同時に、麻緒の右腕がダラリと垂れ下がった。
「あ、ああ……」
 肘の辺りであり得ない方向に折れ曲がった自分の右腕を、驚嘆の顔つきで見ながら麻緒は怯えたような表情を龍閃に向ける。
「麻緒!」
 遠くの方からする久里子の叫び声。麻緒の体を抱きかかえて久里子がその場を大きく離れたと思った次の瞬間、龍閃を中心に半径十メートルほどが爆炎で覆われた。久里子の力の発生点である『瞳』から離れた広範囲無差別攻撃。
 天を焦がすような膨大な熱量が、周囲の木々を巻き込んで龍閃の生命を奪い取ろうと猛威を振るう。
「ぬるいなぁ……」
 だが炎の中心から、全く気にした様子もない龍閃の声が聞こえる。その声は決して大きな物ではなかった。だが、否応なく聞く者の鼓膜を浸食する音。そして、まるでその声に鎮火能力でもあるかのように炎は姿を小さくしていった。
(勝てない……このままじゃ二人とも死んじゃう……)
 龍閃の力は圧倒的だった。必死に応戦している久里子と麻緒がまるで子供扱いだ。龍閃が少しでも本気を出せば勝負は一瞬で決まるだろう。だが、今この時を楽しむかのように、龍閃は愉悦に顔を歪ませたまま戦いを終わらせようとはしない。二人を死なない程度に痛めつけ、顔に張り付いた苦悶の表情を自分にとっての快楽として受け入れている。
 指一本動かせず、言葉を発することさえ出来ない状態で、朋華はあまりに悲惨な戦況をただ見守ることしかできなかった。
 龍閃に何かをされた。それは確実だ。そして『復元』を無理矢理行使させられた。そのせいで『死神』は深い眠りにつき、今朋華の中で気配すら感じない。
(荒神さん……助けて……)
 龍閃は冬摩が来るのを待つと言っていた。そして冬摩の目の前で、ゆっくりと『死神』を、朋華を喰らうと。嬉しそうに語った龍閃の顔を思い出すだけで卒倒しそうになる。
 龍閃から玲寺の裏切りについて聞かされた。最初は信じなかったが、これまでの早過ぎる展開を思い返し、朋華の中で徐々に真実味を帯びてきた。そして久里子と麻緒の側に玲寺が居ないのを見て確信へと変わる。
 今頃、冬摩と玲寺はどうなっているのだろうか。どちらが勝っても負けても、味方が傷つく事に変わりはない。龍閃の思うつぼだった。
『勝つのは冬摩だ』
 玲寺のことを語った直後、龍閃は何故か冬摩の勝利を宣言した。それも嬉しそうに。冬摩を殺すのは自分の役目だと言わんばかりの表情だった。
(荒神、さん……)
 会いたい。無性に冬摩に会いたい。
 冬摩の顔を見られなくなってから三週間。朋華は龍閃の恐怖を紛らせるため、ずっと冬摩の事を考えていた。何故か他の人の顔は思い浮かんでこなかった。脳裏に描かれるのは数少ない冬摩との会話。
 ――『死神』も制御できないようなヘタレヤローがよ。
 最初は優しさなど欠片もなかった。相手を思いやるなど愚か者のする事だと、冬摩の不遜な態度が雄弁に物語っていた。
 ――生まれたときからに決まってんだろーが。お前も知ってんだろ。俺は魔人の息子だぜ。元々、人間共とは仲が悪いんだよ。
 冬摩が神主を殺した直後。いつからそんなに非情になったのかという朋華の問いに対する答え。
 すぐに嘘だと分かった。冬摩が生まれた時は、龍閃が人間との共存を提唱した後のことだ。魔人と人間との間に生まれた子供。ソレはまさしく、敵対していた二つの種族が和議を結んだ事の象徴とも呼ぶべき存在だ。
 冬摩は元々非情だったのではない。非情に成らざるを得ない状況に追い込まれたのだ。龍閃によって。
 ――生きていたいか?
 だが、そんな冬摩が少しずつ変わり始めた。その事に冬摩自身、戸惑いを隠せない様子だった。
 ――じゃあ俺が一緒に居てやる。
 回りくどい表現などとはほど遠い、極めて直接的な言葉。それだけに朋華の鼓膜にいつまでも残り、強烈な印象を伴って記憶に灼き付いた。
 あの時からだった。冬摩を過剰に意識し始めたのは。
 もっと冬摩のことを知りたいと思うようになった。それは『死神』の記憶の影響だったのかもしれない。だが、それも単なるキッカケに過ぎない。
 今ならハッキリと分かる。朋華は惹かれていたのだ。冷徹な冬摩の中に垣間見えた、ほんの僅かな温もりに。冬摩の本来の性格に。
 『死神』の毒気にあてられた二人の釣り人を冬摩が殺さなかった時は本当に嬉しかった。自分のようなちっぽけな存在でも、強大な力を有する冬摩に少なからず影響を与えることが出来たのだと、肌で感じ取れた瞬間だった。
 すぐには無理かもしれないが、これから時間を掛けていけば必ず冬摩は優しくなってくれる。そんな事を考えていた矢先だった、龍閃が現れたのは。
 ――龍閃が見つかりゃ、ンなもんは反故だ反故。いいから、どけよ。マジでブッ殺すぞ。
 一緒に居てやる。その約束をアッサリと放棄し、冬摩の頭の中は龍閃で一杯になった。
 あらゆる思考や感情を呑み込み、龍閃を殺すことが何よりも優先される。
 冬摩が何故そこまで龍閃を憎むのか。その理由を龍閃自身の口から聞かされた。
『未琴の肉は旨かったぞぉ』
 狂気的なモノを双眸に宿し、躰の芯から震えが来る様な笑みを浮かべる龍閃の顔が思い出される。
 龍閃は冬摩の恋人である未琴を喰らった。それも冬摩の目の前で。
 いかに実の父親とはいえ許せるわけがない。冬摩の直情的な性格考えれば、龍閃の名前を聞いただけで激昂するのは当然だ。
 だが、龍閃の話はそこで終わらなかった。
『しかし、あの女の肉はもっと旨かった……』
 あの女の肉。それを喰らうために龍閃は『死神』を欲していたのだと言う。その後、肉の感触と味わいを延々と聞かされ、最後に朋華の肉はどんな味がするのかを、コレまでの自分の経験から予測して語り続けていた。
 まるで生きた心地がしなかった。いつ喰い殺されてもおかしくない状況に置かれているという事実は、朋華の精神を異常に疲弊させ、精気を根こそぎ奪って行った。例え体の自由が戻ったところで動ける気力など残っていないだろう。
『安心しろ。貴様を殺すのは冬摩の目の前でだ。出来の悪い愚息に、未琴の時味わった苦渋もう一度舐めさせねばな』
 二百年前、龍閃は冬摩によって瀕死の重傷を負わされた。それもいくら時間を掛けても完治しないほどに深く。
 『死神』への渇望と、冬摩へ憤り。今のところは後者が勝っているようだが、いつ逆転してもおかしくない。それほど龍閃の精神状態は危うかった。
 今の戦いぶりを見てもソレがよく分かる。
 久里子と麻緒はすでに大地に崩れ落ち、抵抗らしい抵抗は出来ない状態となっていた。
 だが、龍閃は攻撃の手を止めようとはしない。
 龍閃が体のどこかを動かすたびに、二人から呻くような声が上がった。抗う術を全く持たない弱者を、圧倒的な力を持つ強者が玩具で遊ぶようにいたぶっている。思わず目を背けたくなる光景。だが、ソレも今の朋華には許されない。
 ただ待つしかないのだ。一筋の光明が訪れるのを。
 冬摩がここに到着するその時を。

◆月夜に響く死神の謳声 ―荒神冬摩―◆
 山の麓に広がる、なだらかな傾斜。薙ぎ倒され、燃え尽きて灰と化した無数の木々が、ついさっきまで繰り広げられていたであろう激戦を物語っていた。 
「遅かったではないか、冬摩」
 大きな切り株の一つに腰掛け、龍閃は金色の瞳で冬摩を見据えた。以前纏っていたマントは身につけていない。隆々と盛り上がった厳つい体つきからは、溢れんばかりの力が吐け口を探して胎動しているように見えた。
「我の準備はとうに出来ている。さぁ来い」
 月明かりに煌々と照らされて、紅い光を反射する長い髪。見る者に鮮烈な印象を与えるソレを揺らしながら、龍閃は泰然とした所作で立ち上がった。その足下には二人の人影。どちらも紅黒い絨毯の上に寝かされている。
「久里子……麻緒……」
 冬摩の口から自然と言葉が零れた。
 二人が居るのは絨毯の上などではない。それは二人の体から流れ出た血。土に染み込んで暗い影を生み出している。
「貴様が来るまでの退屈しのぎにはなった」
 低く重厚な声で言って、龍閃は麻緒の体を足で仰向けにした。
 綺麗だったブロンドは血でベッタリと額に張り付き、体中にまんべんなく開けられた銃痕のような傷跡からは細く血が滴っている。両手の指は第一関節と第二関節、そして根本を丁寧に折られ、掌には大きな穴が開いていた。足は一定の間隔で厚みが無くなり、紙のように薄く引き延ばされている。
 小さな胸が痙攣にするように上下していることから、辛うじて生きていることを分かるが、『生かされている』という表現の方が適切だった。
「貴様にも聞かせてやりたかった。この者の上げる心地よい啼き声。実に甘美であったぞ」
 恍惚とした表情を浮かべ、龍閃は唇を舌で舐め取った。麻緒をいたぶっている時の事を思い出し、『悦び』を感じているのだろう。
「テ、メェ……!」
 考えるよりも先に感情が先行していた。大地を力強く蹴り、怒りにまかせて拳を振るう。失った左腕からの『痛み』は十分に残っている。だが渾身の力を込め、甚大なエネルギーが宿っているであろう右拳は龍閃の左手で軽々と受け止められた。
「二百年……実に長かったぞ」
 龍閃の双眸が怪しく光る。
(ヤバい!)
 本能的に危機を感じ、体を引こうとするが右拳を掴まれて身動きがとれない。
「だが、ようやく手に入れた。『死神』を」
 腹部に激烈な衝撃が走る。何とか左足を挟んでガードするが、それでも熱い塊が腹と口から流れ出てくるのが分かった。直後に右拳が解放される。急速に龍閃が視界の中で小さくなったかと思うと、背中を圧迫されて呼気と共に口から鮮血が舞った。
(意識、が……)
 叩きつけられた大木に背中をあずけながら何とか起きあがり、気を抜けば飛びそうになる意識を気力で繋ぎ止める。
 あまりにも出血が多かった。今夜が紅月でなければ、とうに気を失っていてもおかしくない。いくら『痛み』を多く抱えていても、それを振るうだけの力が殆ど残っていなかった。
「何をしている冬摩。もっと我を悦ばせろ。でなければ、この女が死ぬことになる」
 冬摩の目が大きく見開かれる。
 いつの間にか龍閃の隣りに一人の女性が立っていた。
「仁科、朋華……」
 だが、冬摩の知っている朋華ではなかった。肩からは力が抜け落ち、生気を感じさせない目つきで虚空を見つめている。龍閃に肩を抱かれても嫌がる素振りすら見せず、口を真一文字に結んだまま人形のように立ちつくしていた。
「テメェ……そいつに何しやがった」
 苦しそうに呻きながら、冬摩は右手で腹からの出血を押さえ、寄りかかっていた木から離れる。
「元のままでは『復元』を使えそうになかったのでな。少々強引に力を引き出してやった」
 朋華は『死神』の力を完全に引き出しきれてなかった。故に『復元』を使えない。例え使ったとしても微細な回復力だ。致命傷すら全快させる真の力にはほど遠い。その『復元』を強引にでも引き出す方法。考えられるのは一つしかない。
 朋華を龍閃の召鬼にしたのだ。
「素晴らしいぞ『復元』は。二百年前、貴様が我の核を傷つけてくれたおかげで遅々として癒えなかった傷口が一瞬で……。これだ、これこそ我の求めていた力だ」
 核は魔人に取っての心臓部。圧倒的な身体能力を生み出す無限機関。ソレが傷つけば当然、回復力も激減する。だから二百年という年月を経ても龍閃の傷は癒えなかった。しかし、ソレすらも『死神』の『復元』は一瞬で治した。
 朋華の命を削って。
「オオオォォォォ!」
 咆吼を上げて背後の大木を蹴り、冬摩は水平に跳んで龍閃に肉薄する。
 躰の最深から沸き上がる、憤怒、焦燥、殺意。ありとあらゆる激情が冬摩の精神を灼いていった。
 ――助けたい。
 龍閃の目の前の地を蹴り、大きく上に跳ぶ。
 ――アイツを助けたい。
 右腕に力を込め、ため込んだエネルギー塊を真下にいる龍閃めがけて射出した。
 ――仁科朋華を助けたい。
 余裕の笑みすら浮かべながら、龍閃が右腕を眼前にかざすのが見える。そして大地を揺るがす爆音と共に、派手な煙が周囲に立ち上がった。
 ――仁科朋華を、この手に……!
 視界が覆われ、数センチ先も見渡せない。だが、『死神』の気配は確かにそこにある。
 上にエネルギー塊を打ち出して落下速度を速めると、冬摩は殆ど音も立てずに着地して前に跳んだ。そして『死神』の気配を頼りに右手を大きく伸ばす。
「冬摩。ガッカリさせるな」
 重みのある龍閃の声。伸ばした冬摩の右腕が横から差し出された手によって、嘘のように硬直する。直後に暴風が撒き起こり、煙はあっけなく霧散した。
「それでも我の血を引いているのか」
 言いながら龍閃は冬摩の右腕を掴み上げ、体ごと軽々と持ち上げる。
 龍閃が喜悦を顔に浮かべたのを見た次の瞬間、視界が急速に落下する。続いて体中に走る痺れにも似た衝撃。地面に叩き付けられながらも、冬摩は顔だけを上げて龍閃を睨み付けた。
「いい顔だ。だが、まだ足りない」
 パチン、と龍閃は指を鳴らす。ソレを合図にしたかのように、横で棒立ちしている朋華の体がビクンと大きく震えた。そして何度がまばたきした後、キョロキョロと辺りを見回す。龍閃が自分の召鬼から解放したのだろう。これから起こる惨劇を朋華に見せるために。その時に恐怖に歪む朋華の顔を見るために。泣き叫び、悲鳴を上げる朋華を楽しむために。
 朋華の目が冬摩と合う。眦が裂けんばかりに目を大きく見開き、朋華は口を開いた。
「荒神さん!」
 叫ぶ朋華の両腕を、龍閃は左手だけで後ろにねじり上げて拘束する。
「良い声で啼け」
 龍閃の右手が、す、と朋華の頬を撫でた。だがそれだけで頬に紅い筋が走り、流れ出た血が重力に引かれて縦の線を次々と朋華の白い頬に刻んでいく。朋華は何が起きたか分からず、斬られた頬に視線を泳がせた。
 痛み、恐怖、悲嘆、混乱。数々の負の感情をない交ぜにして朋華の顔が引きつっていく。その顔を見た龍閃の口の端が異様につり上がり、怖気を感じさせる凶笑を浮かべた。
「龍……閃!」
 奥歯を噛み締め立ち上がろうとするが、自分の体を押さえつけた龍閃の脚はびくともしない。それどころか更に力を加えられ、ミシミシと骨が悲鳴を上げていくのが聞こえた。
「冬摩。未琴は旨かったぞぉ? あの軟らかい肉、濃厚な血、喉を通る時のとろけるような感触。今でも忘れられん」
 冬摩の体に冷たいモノが走った。
 自分の手の中で紅く染まっていく未琴の姿が、鮮明な輪郭を伴って頭に惹起される。
「この娘はどうかな。未琴の時はアッサリ殺しすぎた。女の悲鳴は食事をより甘美なものにしてくれる。それに、お前の憎しみに満ちたその顔もな」
 体が奮える。もはや言葉などでは言い表せない絶大なまでの憎悪。
 ようやく龍閃が朋華を生かしておいた理由が分かる。龍閃の目的は朋華を人質にすることなどではない。冬摩の目の前で朋華を喰らうために、そして『死神』を自分の物にする瞬間を見せるつけるために、わざわざ生かして置いたのだ。
「だが、コレまでで一番旨かったのは我の妻だ。あの女以上に豊潤な味わいを持った女は他にいない」
「喋るな」
 冬摩は通る声で短く言った。そして右腕を地面に突き、渾身の力を込めて大地を押す。背中を押さえつけていた龍閃の脚が徐々に持ち上がり始めた。
「冬摩ぁ。貴様も喰ってみるか? 貴様の大切な、この女の肉を」
「喋るなっつってんだろうガアアアアァァァァ!」
 裂帛の獣吼と共に一気に腕を伸ばす。龍閃の脚を押しのけて、冬摩は腕の反動だけで立ち上がった。僅かに後ろによろけた龍閃の左腕――朋華を拘束しているその太い腕めがけて右拳を叩き付けた。
「そうだ冬摩。そう来なくてはつまらん」
 龍閃の声が僅かに震えていた。溢れんばかりの『悦び』を何とか押さえ込もうとしている気配が伝わってくる。
 冬摩の拳は確かに龍閃の腕に突き刺さっていた。だが、ビクともしない。
(脚に、力が入らない……)
 コレまで気力で誤魔化してきたが、止まることを知らない左肩からの出血は、その気力をも呑み込もうとしていた。
「フハハハハハ! 楽しいな冬摩! もっと我を憎め! もっと抗ってみろ!」
 龍閃の右手が冬摩の首めがけて伸ばされる。バックステップでなんとかソレをかわし、着地と同時に重心を低くして再び龍閃に向かって跳んだ。
「人間との共存などやはり馬鹿げた話だった! 我の妻を、貴様の母親を喰らった日もこんな狂おしいまでの光を放つ紅月の夜だったよ!」
 朋華を左手に抱きかかえたまま、龍閃は右手だけで冬摩の下からの攻撃をいなしていく。だが冬摩は最後の力を振り絞り、命を燃やして右腕一本にすべてを掛けた。
「あの日の夜、妻は何をしたと思う? 夕食の準備中に切れた指を、我に見せたのだよ! 紅月の夜を向かえた魔人に血を見せたのだ! そんなことをされて我慢できると思うか!? 天が我に告げたのだ! 本能のままに生きよと! だから喰らった! 貴様が一人で洞穴に閉じ籠もっている紅月の夜に!」
 紅月の日、魔人の血がもたらす圧倒的な殺戮衝動で未琴を傷つけないためにも、冬摩は一人で洞穴に閉じ籠もる事が多かった。龍閃はいつも強靱な精神力で欲望を押さえつけていた。しかし、ついに歯止めが利かなくなる日が訪れたのだ。
 冗談かと思えるほどの馬鹿らしい理由で。
「旨かった! 実に旨かった! 躰が叫ぶのだ! もっと喰えと! もっともっと女の生き血をすすり、肉を貪れとな!」
 冬摩が帰って来た時、龍閃は泣いていた。だが、それは妻を殺された事への悲嘆の涙などはなかった。何年も経ち続けた人間の肉の味を噛み締め、歓喜のあまり流れ出た涙だったのだ。
「未琴も旨かった! だがまだ足りない! 我の妻の味わいにはほど遠い! だから探し続けた! 妻を越える肉を! あの至福の一時を!」
 龍閃の表情が倒錯的な欲望に歪んでいく。自分の語る昔話に酔い、『悦び』に身を任せる龍閃から繰り出される攻撃は、どんどん力強さを増していった。
「だがな、喰らえど喰らえど不味い肉ばかりだ! ならば! もう一度、妻を黄泉還らせて喰らえばいい! だから『死神』を欲したのだ! 『復元』で黄泉還った妻を喰らうためにな!」
 狂っていた。完全に狂っていた。
 そんな矮小な目的のために他の魔人を敵に回してまで、自分の肉体を傷つけてまで『死神』を欲していたのか。
「あの肉をもう一度喰らえるのならば、我の命などいくらでも差し出してやる! このまま悠久の時を生き抜くよりも、『復元』を使って美肉を堪能する! 何度でも! 何度でも! 我の命が尽きるまで何度でもな!」
 それはもはや狂人と言い表すことすら生ぬるい。
 自らが提起した、人間との共存による種の保存という高尚な思想を放棄し、魔人の血の欲望に負けた男のなれ果て。行き着くところまで堕落し、ただ肉欲を懇願するだけの餓鬼。最強の魔人と言われ、種族を問わずに畏怖され続けてきた天上人の存在感は影もない。
「フハハハハハ! 楽しいなぁ、冬摩! だが、楽しい時間の過ぎ去るのは早いモノだ!」
 冬摩の脳天に痛烈な衝撃が走る。
 これまでよりも遙かに強い力で振り降ろされた右拳が、再び冬摩を地面にひれ伏せさせていた。
「荒神さん!」
 朋華の悲鳴混じりの声。だが躰が動かない。限界など、とうの昔に越えている。立つことは愚か、意識を保ち続けているだけでも不思議だった。
「さぁ冬摩。貴様は特等席で見させてやろう。我がこの女を喰らう様をな」
 醜悪な笑みを浮かべて龍閃は朋華を口元に抱き寄せ、舌を伸ばして顔を舐め取る。そのあまりのおぞましさと、想像を絶する恐怖に朋華は声すら出せない。
「にし、な……と、もか……」
 諦めるわけにはいかない。この手を下ろすわけにはいかない。
 約束したのだ。側に居てやると。
 だが、力の差は歴然としていた。コレではもし傷が全快していたとしても一人で勝てる見込みは少ない。
「ククク……」
 兇悪な笑みを浮かべて、龍閃が朋華の頬に牙を立てる。
 その時、空気を切り裂く鞭声のように甲高い音と共に、細長い何かが朋華と龍閃の間に割って入った。
「何!?」
 突然食事の邪魔をした物体を追い、龍閃は顔を上げる。
 そこに浮遊していたのは体長五メートル程の龍だった。蒼い鱗に月光が反射し、煌びやかに光り輝いている。鰐のように面長な顔の下にある三本爪の両手には、久里子と麻緒が握られていた。
「『青龍』か!」
 十二神将『青龍』。玲寺が『貴人』の他に宿すもう一つの式神だった。
 『青龍』は黒いたてがみを夜風に舞わせて高速で龍閃に迫る。そして攪乱するように螺旋を描いて目の前を飛んだ後、去り際に尻尾をふるって龍閃の手から朋華をはたき落とした。
「オノレ!」
 龍閃が怒りの形相で叫ぶ。さっきまでの『悦び』は完全に霧散してた。
(玲寺のヤロー、無茶しやがって……)
 あの傷だ。印など組めるはずもない。代わりに精神力を削って強引に喚び出した。不完全な召喚で、本来の巨躯の十分の一もない『青龍』を。
 だが、それでも龍閃に隙を作ることは出来た。そして、もう底を突いたと思っていた冬摩の気力を絞り出すことも。
(まだ、動く……)
 辛うじて神経は繋がっている。朋華を救うのは今しかない。
 予想外の闖入者を掴み殺そうと龍閃が左手を伸ばしたのを見計らい、冬摩は素早い動きで立ち上がった。そして龍閃に向かって跳び、すれ違いざまに朋華を右腕で抱きかかえる。
「貴様! まだそんな力が……!」
 灼怒に顔を染め、龍閃の憎々しげな視線が叩き付けられるのが分かった。
 そして『青龍』が久里子と麻緒を連れて龍閃から離れていくのを後目に、冬摩は樹海の中を全力で走った。
「待たせたな」
 自分の首筋に抱きついている朋華に向かって、冬摩はぶっきらぼうな口調で言う。
「荒神さん……! 腕が! 腕が!」
 未だに勢いよく流れ続ける左肩からの鮮血に触れ、朋華は半狂乱になって叫んだ。
「自分でやったことだ。一週間もあれば再生する」
 突き放したような答えに朋華はこっちが落ち込みそうなほどの泣き顔になり、目を伏せながら言った。
「……すいません。また、迷惑掛けちゃって」
「気にするな。お前から目を離した俺も悪かった」
 冬摩の口から出た言葉が意外だったのか、朋華は顔を上げて目を丸くし、言葉を失っていた。
「なんだよ」
「いえ……何でも。でも、これからどうするんですか?」
「逃げる。この傷じゃ勝てん」
 必要最低限の事だけを短く言い、冬摩は樹海を駆け抜けていく。
 ちょっとでも気を抜けは脚がもつれそうになる。龍閃の力の波動に気を配る余裕すら無くなっていた。ただ、さっきの場所から少しでも離れる。そして樹の中に身を隠し、何とかやり過ごさなければならない。
「仁科朋華」
 朋華とは目を合わせることなく、次々と迫り来る闇色に染った木々を避けながら冬摩は言った。倒れた巨木を飛び越え、着地時に少しでも衝撃が無くなるよう脚のバネでショックを吸収する。それは明らかに朋華に対する気遣いだった。
「な、何ですか?」
 それでも真っ暗な闇の中を人知を越えたスピードで疾駆しているという恐怖からか、上擦った声で朋華が返す。
 聞きたいことが沢山ある。言っておきたいことも。
 だが、どれ一つして口から出てこない。
「……何でもない」
 結局、それら全てを呑み込んで冬摩は少しでも速く走ることだけに専念した。
「コレが初めてですね」
「何が」
 突出した枝を身を低くしてやり過ごながら、冬摩は短く言う。
「面と向かって私の名前、呼んでくれたの」
 そうだったか。そう言えば、そうかもしれない。
「それがどうかしたか」
 だが何だというのだ。自分が仁科朋華の名前を呼んで、何か不都合なことでもあるというのか。
「いえ……ちょっと、嬉しくなっただけです」
 分からない。名前を呼ばれただけで何故嬉しくなれる?
 聞かなければならない事が、また一つ増えた。
 とにかく今は逃げ延びなければならない。何も分からないまま死ぬのだけはゴメンだ。
 立ちはだかる巨石を右に避け、やり過ごそうとした時、地面が大きく揺れた。
「何だ!?」
 あまりの振動に大地そのものが悲鳴を上げているかのようにさえ感じる。走ることも出来ない。今の冬摩では立っているだけで精一杯だ。
 怯えて自分にしがみつく朋華を抱き返しながら、冬摩は後ろを――龍閃が居た方角を振り返り見た。
「あれは……」
 冬摩の目に飛び込んできたのは、あまりに巨大な『花の蕾』だった。
 中心にある大きな雌しべの周りに七枚の花弁が張り付いている。樹海の木々を突き破って山の中腹にまで背を並べた蕾が、紅月の光を受けてゆっくりと開いていく。
 そして全容を明らかにした。
「龍閃の、本体……」
 紅月が最頂点に上った時の光を全身に受け、仮の姿である人型から本体へと移行する。龍閃のみが所持する真の姿。最強の魔人と呼ばれる所以。エネルギーの消費が激しいために、傷を負った状態で本体を晒すことは自分の身を削ることになるが、『復元』で最盛期の力を取り戻した今の龍閃ならば――
「こ、荒神、さん……アレ……」
 冬摩の腕の中で震えている朋華の目の前で『蕾』が開ききった。
 花弁と思われたのは七匹の禍々しい蛇だった。細長い体躯を不気味に蠢動させながら、それぞれが違った色でぬめり輝いている。龍閃が保持していた四体の神鬼と三体の式神。それら使い魔を象徴する色は呼吸するように明滅を繰り返し、流動的な動きで蛇の体を這い回っている。
 七匹の蛇の無貌な頭部に十字の亀裂が入った。次の瞬間、粘着質な音を立てて『口』が開かれる。縦と横に口を裂き、四枚の小さな花弁を開かせた蛇は、内蔵された鋭い牙を剥いて咆吼を上げた。
「クソ!」
 見とれている場合ではない。逃げなければ。
 確かに紅月の光は冬摩の体を徐々に癒してはくれるが、あのバケモノ相手にどうにか出来る状態にはほど遠い。とにかく傷を全快させて、人型の龍閃と戦うしかない。
 しかし、その場を離れようと一歩踏み出した冬摩の眼前を白熱の光線が灼ききった。
『トウマ……』
 まるで地獄の釜が開いたかのような低くおぞましい響きが、地鳴りを伴って冬摩の耳に届く。不意に沸き上がってくる得体の知れない本能的な恐怖を辛うじて押さえ込み、冬摩は舌打ちをした。
「逃がさねえってか」
 もう一度龍閃を見上げる。
 七本の蛇の中心にある巨大な龍。ただでさえ大きな蛇のさらに数倍はある龍は、頭部に埋め込まれた醜悪な一つ目で完全に冬摩を捕らえていた。
『そのオンナを……ヨコセ……』
 冬摩に顔を寄せるように巨躯を前傾させ、蛇と同様十字に口を割って威嚇の声を上げる。
「やだね」
 鼻を鳴らして言い、その場を飛び退く。
 さっきまで冬摩のいた場所を数条の白い閃光が通り抜けていった。
「荒神さん……」
 朋華は冬摩の胸に顔を埋め、何か思い詰めた様な表情でギュッと下唇を噛んでいる。
(この女は助ける)
 龍閃に『死神』を渡さないため? ――違う。
 未琴に守れと言われたから? ――違う。
 自分の欠けた部分が何を聞き出したいから? ――違う!
(助けたいから助ける! それだけだ!)
 冬摩の思考が行き着く場所はいつも同じ。
 単純で短絡的で直情的。自分がそうしたいから、それに殉じる。それ以上でもそれ以下でもない。
「っく!」
 蛇の口から放たれた閃光が冬摩の左脚を灼ききった。バランスを崩して着地したところに次の閃光が肉薄する。真横に倒れ込むことで何とかやり過ごすが、続けて俊敏な動きは出来そうにない。
『トウマ……』
 中心の龍の口が開く。そして一際太い白光が冬摩の体に迫った。
 右腕は朋華を抱えているために使えない。左脚で踏ん張ることも出来ない。右脚だけでは跳べない。せめて、左腕があれば……!
「クッソオオオォォォォ!」
 絶叫を上げながら、無意味とは分かりつつも冬摩は左肩から伸びていたはずの腕を地面に叩きつけた。
 硬い手応え。
 その衝撃で冬摩の体は宙に浮き、辛うじて直撃をかわした。
「え……?」
 着地する。さっき灼ききられたはずの左脚に痛みは、無い。それどころか全身に力が漲ってくる。
 冬摩はハッとして朋華に目を落とした。
「テメェ……!」
 そこでは苦しそうに喘ぎながら、冬摩の胸に手を当てて意識を集中させている朋華が居た。彼女の両手が淡い光を放っている。
 ――『復元』を使っているのだ。
「何してやがる!」
 さっきまでの鉛のような体が嘘のように軽い。まるで背中に羽根でも生えたかのように俊敏に体が動く。
「荒神、さん……」
 力無くずり落ちる朋華の体を、右腕と復元された左腕でしっかりと抱きかかえながら、冬摩は閃光の合間を縫って華麗にかわしていく。
 まるで当たる気がしなかった。
「私、を……殺して、ください……」
 視界の隅で炎が上がる。閃光に触れた木々が思い出したかのように炎上し始めた。
 その光に照らされて、朋華の頬に光の筋が引かれるのが見えた。
「バ……! つまんねーこと言ってねーで、『復元』を止めろ! 死んじまうぞ!」
 朋華はすでに一度龍閃に対して『復元』を使っている。龍閃の傷は致死には遠いものの、それでも朋華の命はかなり削られたはずだ。その上で今の冬摩の傷を治すとなれば、間違いなく――死ぬ。
「九重君が……言って、ました。少ない命を、刈り、取って……多く、の命、を……助けるのも……退魔師としての仕事……」
「麻緒の戯言なんざ聞き流せばいいんだよ! とにかく止めろ! もう十分だ!」
 右に左にと閃光を避けながら、冬摩は怒声に似た声を上げて朋華に叫んだ。
「荒神さんが……『死神』さん、を……手に入れれば……きっと、龍閃に、勝て……ます。だから、私、を……殺し、て……」
 神鬼や式神の保持者を殺せば、その使い魔は殺した者に受け継がれる。
 朋華を殺せば当然、『死神』は冬摩のモノになる。だが――
「バカヤロー! 人を傷つけるなって! 殺すなって俺に言ったのはお前だろーが! いつまでも、ふざけたことぬかしてやがるとブッ殺すぞ!」
「あは……言ってる、事……むちゃ、くちゃです……」
 冬摩の胸に当てていた朋華の手が徐々に下がっていく。それは命の蝋燭が背を低くしていく様に見えた。
「荒神、さん。私の……命で、他の……沢山の命が、救えるんなら……それはきっと、悪い事じゃ……ないん、ですよ……」
「悪いとかそう言う事じゃねーんだよ! 俺が死ぬなって言ったら死ぬな! 雑魚は黙って言うこと聞いてろよ! お前には聞きたいことが山のようにあるんだからな! とにかく『復元』を止めてくれぇ!」
 心の底から冬摩は懇願した。
 このままでは朋華が死んでしまう。失いたくない。側にいて欲しい。
 なんだこの感情は。いったい何なんだコレは。朋華に出会った時から、時折湧き出てきて冬摩を悩ませる。
「やっぱり……荒神さん、って……本当は、『優しい』人、なんですね……」
 『優しい』? 
(俺が『優しい』……?)
 欠けていた何かが、パズルの最後のピースが見つかったような気がした。
「荒神さん……早く。もぅ……目が、見えな……」
 掠れた朋華の声。ソレはあまりにか細く弱々しい。
 最期の時が、間近に迫っていた。
「この、バカ……」
 もう後戻りは出来ない。ココまで来たら『復元』を止めたところで朋華は間違いなく死ぬ。朋華と現世との繋がりが希薄なものになり、微かに残った生気が抜けていくのが腕を通して伝わってくる。
 未琴が土に還った時と全く同じ感覚。無力感、虚無感、絶望感、脱力感。おぞましい腐臭さえ放つ混沌とした感情が冬摩の中を駆けめぐり、目元に熱い塊を生み出す。
「最後に……荒神さん、が……大嫌いな、面倒、臭いこと……押し、つけちゃって……ゴメン、ナサイ……」
 最後の力を、本当に最後の力を振り絞って、朋華は笑って見せた。
 コレまで何人も殺してきた。それこそ数えるのが馬鹿らしくなるくらいの人間を。
 だが、誰一人として死に際に笑った者など居なかった。こんな晴れやかな表情を見せた者など、たったの一人として……!
「ガアアアアァァァァ!」
 指先に伝わる生暖かい感触。軽く震える朋華の華奢で、小さな躰。
 その重みが全て冬摩の腕にのし掛かり、そして――
 力が流れ込む。
『ウオオオオォォォォォォ!』
 喉の奥から獣吼を上げた。
 大地に膝を突き、天を仰いで、悲嘆の啼き声を樹海中に轟かせる。
(『痛い』! 胸が『痛い』!)
 力無く四肢を垂らす朋華の躰を抱きしめ、冬摩は喉が枯れんばかりに声を上げ続けた。
(傷なんか無いのに! 体中が『痛い』! こんな『痛み』! 今までに……!)
 肉体的な痛みではない。朋華の死が精神的な刃となって、冬摩の心をズタズタに引き裂いていく。
 かつて味わったこと無い苦しみ。相手の死を何とも思わず、邪魔者を力で排除していた時には考えすらしなかった。
 龍閃に未琴を殺され、復讐の業火に身を投げ出した時に燃え尽きたはずの『優しさ』が朋華によって再び掘り起こされ、ソレが朋華の死を引き金に冬摩の精神を蹂躙していく。
 ――守ってやれ『死神』の保持者を。
 未琴が最期に残した言葉。
 出来なかった。守ってやれなかった。それどころか、自分の手で……!
(どうすればいい! どうすればこの『痛み』は収まる!)
 分からない。この『痛み』には酔う事が出来ない。今まで味わってきた物とは種類が違う。ケタが違う。
 解放されたい。この『痛み』から一刻も早く。
「お前か……」
 顔を上げる。龍閃の口から巨大な閃光が放たれるのが見えた。
「お前のせいか……」
 もう何も考えられない。考えたくない。
 忘れてしまいたい。全てを。痛みも憎しみも悲しみも全て。全てをぶつける。目の前にいるコイツに。ソレで解放される。 
「龍――セエエエェェェェェン!」
 白光が迫る。だが避けない。ココには朋華が居る。彼女の躰をこれ以上傷つけるとは許さない。
 左手を前に差し出す。そして力を込めた。
「オオオオォォォォォォ!」
 膨大な熱量が冬摩の左手に収束していく。右腕で左腕を固定し、冬摩は脚を踏ん張って龍閃の攻撃を真っ正面から受け止めた。
「テメェは、許さねえ……」
 朋華が復元してくれた左腕。
 肉体的な『痛み』からの作用点は右腕。ならば、精神的な『痛み』からの作用点は――
「オラァ!」
 気合いと共に冬摩は左腕を真横に振るった。絶大な力はそちらに方向を変え、無数の木々を呑み込んで大地に着弾する。
「コッチだ!」
 叫んで冬摩は”飛んだ”。『死神』の能力『飛翔』。
 今の冬摩の体には『死神』が宿っている。朋華から受け継いだ力が。
『キサマが『死神』を……ソウカ、ならばハナシは早い』
 冬摩を殺せば『死神』が手に入る。手間が省けた、と龍閃から『悦び』の気配が伝わってきた。だが、そんな事はどうでもいい。
 龍を取り巻く蛇の一体が冬摩の躰を喰い千切らんと急迫する。ソレを避けることなく、冬摩は正面から迎え撃った。蛇の口が大きく開かれ、冬摩の体ほどもある顎を押しつけて来た。完全に冬摩を呑み込む体勢に入った蛇の口。しかし、その口が閉ざさせることはなかった。
「こんな、モノ……!」
 両手で二つの上顎を、両足で残った二つの下顎を押さえつけ、冬摩は自らの体をつっかえ棒の用にして蛇の突進を止めた。自爆を怖れ、ゼロ距離から閃光を放つ事を蛇が躊躇う気配を感じる。
 その一瞬の逡巡を逃すこと無く、冬摩は両腕に力を込めた。手に突き刺さった蛇の牙が肉体的な『痛み』を冬摩にもたらす。
 躰が奮えた。目を大きく見開く。
「うおおおおおぉぉぉぉぉぉ!」
 両腕に蓄積された膨大な力に任せて、上顎を真横に引き裂いた。
 蛇から耳をつんざくような絶叫が響き渡り、物理的な衝撃波さえ生じさせて大気を激震させる。
 粘着質な体液を撒き散らせながら、ブチブチと異音を上げて分断されていく上顎。そして、蛇の背後にあった景色が冬摩の視界に映った。
 そこにあったのは狂気的な輝きを生み出す紅い満月。
 ソレを見た瞬間、冬摩の意識が白くなった。
「っはぁ!」
 ドクン、と心臓が跳ね上がる。圧倒的な力が奔流となって荒れ狂い、冬摩に血と殺戮への渇望をもたらした。頭の中で狂葬曲が鳴り始める。両腕に集結した甚大な力を惜しむことなく外に吐き出し、両腕を真横に伸ばしきった。
 蛇の頭部に走った亀裂はやがて躰に伝播し、あっと今に根本に達する。真っ二つに裂かれた蛇は黒い粒子を残して消え去り、そして冬摩の躰に新しい力が宿った。
 十鬼神『獄閻』――龍閃が保持していた、強固な守りを持つ神鬼。
 真の姿になった龍閃は、式神や神鬼を宿らせる媒体として蛇を召喚した。ならば蛇はそれぞれの使い魔を宿した単一の生命体。蛇を殺せば、そいつが所持していた使い魔は冬摩の物になる。
「次ぃ!」
 精神昂揚が加速的に増していく。だが、それさえも上回り、呼吸が出来なくなるほどに胸を締め付ける『痛み』。
 こんな物ではない。こんな物では気が収まらない。
 仁科朋華を失った苦しみは全く癒えない。
 二匹目の蛇に向かって飛び、その頭部に馬乗りになる。そして渾身の力を込めて眉間に左腕を突き刺した。分厚い皮膚を裂き、肉を潰し、易々と頭蓋へ到達する。その下にあった何かを力任せに握り込み、咆吼と共に引きずり出した。
 冬摩を狙って左右から二匹の蛇が肉薄する。左手の汚物を投げ捨て、冬摩は左右の腕を一本ずつ蛇にかざした。
「オオオオオオォォォ!」
 右腕に黒いモヤがまとわりついたかと思うと、それが掌の前で一瞬にして琥珀色の正六角形になる。『獄閻』の能力を具現化させた盾は蛇の突進を見事に遮断した。不可視の檻の中でもがく蛇に一瞥をくれると、今度は左腕に神経を集中させる。
(『死神』! お前の力を貸せ!)
 朋華に宿っていた高飛車で高圧的な人格。だが、同時に酷く脆い一面も持ち合わせていた。
 ――妾を、もう一度妾を守ってくれ。
(悪かったな)
 ――たった一人で土の中に閉じこめられるのはもうたくさんじゃ。龍閃の物になどなりたくない。いっその事、お主の中に……。
(これからは嫌でも一緒にいるからよ、それで勘弁してくれ!)
 頭の中にイメージした真空刃が左手の前で具現化する。
 それは冗談じみた大きさを持つ半月。数千メートルもの径を持つ半円は、弧の一番下の部分で大地を抉り取りながら、目の前まで来ていた蛇を両断した。
『オノレ! トウマ!』
 すぐ横で体を振動させるような声が響く。直後に右の方で何かの破砕音が聞こえた。
 『獄閻』の盾を強引に突き崩した右の蛇が冬摩めがけて伸び、兇悪な牙を剥き出しにして顎を開ける。冬摩は目を細めると馬乗りになっていた蛇の脳を脚で深く踏み抜いてトドメを刺し、そこから身を翻した。
 右の蛇からの直撃は免れたものの、回避の回転に乗り遅れた右腕に蛇の凶牙が喰い込む。
「そのまま離すなよ」
 右腕が蛇の口腔で潰されていくの感じながらも、冬摩は構うことなく力を込めた。
 右腕に生じた『痛み』が力に変換され、直接右腕に注がれていく。視界に紅月を捕らえながら、冬摩は溜まりきったエネルギー塊を蛇の口内で暴発させた。
 急激に高まった内圧に耐えかね、蛇の口がダラリと開く。そのままの状態で支えを失ったように落下し、黒い粒子となって消えた。
 いつもなら今のような戦い方はしない。わざと喰わせて、内部爆発までさせた右腕はすでに原形をとどめておらず、骨格に赤黒い血肉がこびり付いただけの状態になってしまっている。コレではいくら物理的な『痛み』があっても、その作用点である右腕を満足に振るえない。
 だが、それでも良かった。
 少しでも肉体的な『痛み』で気を紛らせないと、発狂してしまいそうだった。それにコレくらいの覚悟など、朋華の物に比べたら足下にも及ばない。
 冬摩の右腕は時間を掛ければ再生する。もしかしたら紅月の影響で今夜中に振るえるようになるかもしれない。『復元』を使えば間違いなく一瞬で治る。
 しかし、朋華は二度と戻らない命を自分に差し出した。
「足りねぇよ、龍閃」
 中空に浮かびながら、冷めた目つきで龍閃を睥睨する。
 龍閃の呼び出した蛇は、すでに三匹しか残っていない。それはつまり、龍閃の保持していた神鬼や式神のうち四匹を冬摩が取り込んだことを表す。
 龍閃に余裕はない。故に『悦び』を感じることは出来ない。 
 龍閃にとって最も誤算だったのは冬摩の秘められた力。左腕に発生した新たな力の作用点。その威力は右腕の比ではない。紅月の日を選んだのが完全にアダとなっていた。
『ガアアアアァァァァァ!』
 龍閃が咆吼と共に極太の白色光を放つ。それが体に接触する前に冬摩は高速で飛行して難なく避けた。明らかに焦って放たれた一撃だ。
 冬摩はそのまま龍閃の横を通り過ぎ、後ろに控えていた五匹目の蛇に迫る。幾条もの閃光が吐き出されるが、どれも明確な指向性を伴っていない。本体である龍閃からの焦燥が蛇にも伝わっているようだった。
 ――私、を……殺して、ください……。
(殺すなって、お前が言ってたくせに! ようやくソレが分かりかけてきたってのに!)
 心臓を握りつぶされるような『痛み』と共に、左腕に力が生み出される。そして左拳を蛇の喉笛にめり込ませた。
 軽々と、殆どなんの抵抗もなく肘までが蛇の体内に埋まる。その手を力任せに真上に引き抜いた。四枚の花弁に分かれていた蛇の頭部に、五枚目の花びらが生じる。
 さらに断末魔の絶叫を上げる蛇の眉間に、重ねて右拳を振り下ろす。
 殆ど骨格だけとなった右腕。砕けても良いと思っていた。だが、肉体的な『痛み』と紅月の影響で硬質化した右腕は蛇の皮膚を喰い破り、内包された汚汁を噴出させた。そして、黒い粒子が風に熔けて消える。
 ――荒神さんが……『死神』さん、を……手に入れれば……きっと、龍閃に、勝て……ます。
(ちゃんと聞いてたか『死神』! あのバカの覚悟を!)
 目の前の景色が歪んだ。視界が不自然に切り取られて、次々と連続性を欠いていく。
 真空刃を全身に纏い六匹目の蛇に向かって飛んだ。眼前で蛇の口が大きく開き、喉の奥に白い光が見える。次の瞬間、それは眩い閃光となって冬摩に放たれた。
「邪魔っくせぇんだよ!」
 叫びながら左腕を目の前にかざし、その体勢のまま白い世界へと突っ込む。左腕に白光からの膨大な熱量が集中した。だがその盾によって白の奔流は二つに割れ、後ろにある体を避けるようにして流れ去っていく。まるで白い海を切り裂くようにして、冬摩は強引に突き進んだ。
 ――私の……命で、他の……沢山の命が、救えるんなら……。
(だからお前はバカなんだよ! そんな、くだらねー事ばっかり考えてやがるから!)
「オオオオオォォォォォォ!」
 気合いと共に加速する。そして左腕に加わる確かな質量の感触。
 気が付くと視界が開けていた。それが蛇の口蓋を突き破り、脳髄を破壊して向こう側に出たのだと理解した時には最後の蛇の前に立っていた。
 ――やっぱり……荒神さん、って……本当は、『優しい』人、なんですね……。
(『やっぱり』? 『やっぱり』ってなんだ!? 答えろよ! このクソバカ女!)
 冬摩の動きに反応しきれていない蛇の頭部にそっと左手を乗せる。そして溜まりに溜まったエネルギー塊を打ち出した。
 脳天から付け根まで。蛇の胎内に産み落とされた暴君は最後まで怒りを沈める事無く、蛇の全身が灰になるまで荒れ狂い続けた。
 ソレを見届けた後、冬摩はゆっくりと龍閃の本体に向き直った。
「おさまんねぇよ、龍閃」
 ――痛い。
 痛い! 
 痛い痛い痛い痛い!
 全身を駆けめぐる激痛は引きを見せるどころか、どんどん強くなっている。それに呼応して左腕が大きく胎動した。まるで、全てを龍閃にぶつけろと言わんばかりに。
『コ、ンナ……』
 龍閃から、ありありと動揺の気配が伝わってくる。それはすぐに焦燥へと転化し、恐怖にまで昇華した。
 ――恐怖。
 『悦び』を力の発生点とする龍閃に恐怖を与えている。その事実が僅かに冬摩の『痛み』を緩和させた。だが、まだ足りない。完全に収めるには、こんな物では足りない。
「龍閃……」
 細く、深く息を吸って呼びかけるような口調で小さく呟く。
「龍、セエエェェェェェェェン!」
 視界の中で龍閃の一つ目が急激に大きさを増した。自分の体の三倍以上もある巨大な瞳に左腕を突き刺す。湿った音と、不気味なほどに柔らかい手応え。耳元で龍閃の絶叫が木霊した。
 左腕を肩まで埋めたまま、その掌から真空刃を射出する。内部から肉と骨を切り裂いて、無数の刃が闇夜に飛び出した。しかし刃は消えることなく半回転すると、再び龍閃の胎内へと潜り込んでいく。
(まただ! まだ足りねぇ!)
 際限なく増え続ける真空刃。龍閃の体の至る場所から紅い鮮血が噴出した。それがまるで土砂降り雨のように冬摩の体に降り注ぐ。髪に染み込み、頬を伝って来た血を、伸ばした舌で舐め取り嚥下した。
「……ック」
 喉を震わせる。
「ック、ククク……」
 口が僅かに開く。
「クック、クハハハ……」
 頬の筋肉が強ばり、目が徐々に大きく見開かれる。
「ハーハッハッハッハッハッ!」
 無意識に哄笑が上がっていた。
 右腕に力を込める。欠失していた肉が盛り上がり、皮が張られ、一瞬にして『復元』した。真空刃を制御して、自分の体を切り刻む。肉体的な『痛み』と同時に右腕に生じた力を龍閃の顎先に叩き付けた。そこがまるで爆発でも起こしたように粉々になって砕け散る。その破片を浴び、冬摩の笑い声は更に大きくなっていった。
(コレだ!)
 胸中によぎる、ある種の確証。
(この感じだ!)
 今まで澱のように溜まっていた黒い異物が次々と消滅していく。
 千年間、溜め続けた復讐という名の黒い感情が。
 目の前で細切れになり、どんどん小さくなっていく龍閃。
『ト、ウマ……ヤメテ、クレ……』
 龍閃のその言葉で、冬摩の口に兇悪な笑みが浮かぶ。
「止める!? バカ言うな! こんな気が狂うくらい楽しいことをよ!」
 真空刃の数が倍加した。
 それが龍閃の肉を抉り取り、骨を断ち切って臓物を露出させる。はみ出た内容物を、右腕から放ったエネルギー塊が灼いた。
 赤黒く染まった龍閃の眼球に、紅月の光が反射する。それを受けて冬摩は、だらしなく開ききった口の中へと飛んだ。
「っはぁ!」
 喜悦に顔を歪ませて、立ち並ぶ牙を一つずつへし折っていく。ある牙は左手で握りつぶし、ある牙は脚で踏み抜く。そして一番奥にある最後の牙を右手で引き抜いた後、側にあった舌に右腕を突き刺した。その腕を固定したまま、渾身の力を込めて外側に飛ぶ。
『ア……ガ、ガ……』
 龍閃の長い舌が更に長く伸びて引きずり出されていく。棘のようにささくれ立った舌の表面を介して、龍閃の喉の奥からブチブチと小気味良い感触が伝わってきた。
「オラァ!」
 そして気合いと共に舌を一気に引き抜く。
 紅く、生ぬるい温泉が龍閃の口内から噴き出した。
「まだ死ぬんじゃねーぞ」
 全身を紅く染めて低い声で言い、冬摩は急速に下降する。真空刃によって見る影もなくなった龍閃の体。そこから顔を覗かせている臓器を片っ端から引きちぎり始めた。
 龍閃が激痛にのたうつ様子を楽しむように一つずつ、少しずつ、細かく、丁寧に。
 冬摩の上げる哄笑が狂笑へと変わる。
 全身に真空刃を纏い、体ごと龍閃の胎内へと潜り込んだ。そしてゆっくりと上昇を始める。目の前で次々と細切れになっていく肉片を目を細めて楽しみながら、喉に到達した所で外に出た。
 龍閃の巨体が傾き始める。もはや自重を支える力すら残っていないようだった。
「そろそろお休みの時間か?」
 冷笑を浮かべ、龍閃の潰れた目に高さを合わせる。
(未琴……)
 千年前、龍閃に喰われた大切な女性。だが龍閃に召鬼として黄泉還らせられ、永眠を妨げられた。
 彼女が自分の目の前で龍閃に喰い殺された時、冬摩の中にあったのは怒りと戸惑いだけだった。あの時、この『痛み』を感じていれば。この力が有れば……。 
(仁科朋華……)
 ほんの少し前まで、十鬼神『死神』の保持者だった女。冬摩の心に深く入り込み、消し去ることの出来無くなった存在。しかし、冬摩自らの手で葬ることになった。
 大切な女性を。冬摩にとって大切な二人目の女性を、この手で殺した。そしてその事実が、未だかつて無い『痛み』を冬摩にもたらした。
「仇は、とった……」
 両腕を頭上高く振り上げ、今あるありったけの力を込めて龍閃の頭部に振り下ろした。生じた振動が龍閃の体中に伝達していく。
 夜風が凪ぎ、時間が止まったかのような静寂が訪れる。
 そして――血の華が咲いた。
 龍閃の体だったモノがバラバラと落ちていく様を冷めた目つきで見ながら、冬摩は息を吐く。
 千年間凍結していた時間が復讐という縛鎖から解き放たれ、再び動き始めた瞬間だった。

「終わったぜ、仁科朋華……」
 眠ったように瞳を閉ざしている朋華の前に立ち、冬摩は沈んだ声で話しかけた。
「お前のおかげだよ。お前がキッカケをくれたんだ」
 精神的な『痛み』から来る左腕の力。それに気付かせてくれたのは朋華に他ならない。
「アリガトよ」
 朋華の側の草むらに腰を下ろし、冬摩は溜息混じりに言った。
「光栄に思えよ。俺がこんな事言うなんざ千年ぶりだぞ」
 他人に対する心からの感謝。何の抵抗もなくその言葉を言えたのは未琴以来だった。
「なぁ、何とか言えよ……」
 そっと朋華の頬を撫でる。
 冷たい感触。静謐と停滞、そして濃密な死の香り。
 ――私を、他の退魔師さんの所に案内してくれませんか?
 冬摩が朝霧高校の近くに借りたマンションで朋華が発した言葉。思えば、それが朋華が最初に見せた強い意志だった。
 ――荒神さんはいつからなんですか。いつから、そんな風になったんですか。
 あっさりと神主を殺して見せた冬摩に物怖じすること無く、朋華はハッキリと自分の意志を伝えた。
 ――貴方を、みすみす死にに行かせるような事だけはしたくないんです。
 初めて受けた配慮。瞳の奥に感じた強烈な力に押されて、本気で躊躇いそうになった。
 ――約束してくれたじゃないですか。私の側にいてくれるって。
 言った。確かに言った。だから、その約束を果たすために冬摩はココまで来た。だが……。
「お前が死んでどうするんだよ。バーカ」
 朋華の髪を軽く持ち上げる。指の間を抜けてサラサラと頬にこぼれ落ちた。
 声が聞きたい。話しをしたい。不器用でも的外れでも何でも良いから、自分に喋り掛けて欲しい。
 頭の中で数多の思考が渦を巻き、冬摩に囁きかける。
 昔の自分は止めておけと言う。未琴に誓ったはずだと。死者を冒涜するような真似は絶対にしない。千年間、それを貫き通した。そのために要らない感情を捨て去った。もう二度と感じることはないと思っていた。
 だが、朋華がそれを掘り起こした。
 彼女が冬摩にもたらした物。それは『優しさ』と『寂しさ』。
 誰にも頼らずに一人で生き抜き、戸惑う事無く敵に止めを刺すには、どちらも必要のない感情だった。この二つを放棄することで、冬摩は無類の強さを手に入れた。
「…………」
 朋華から目をそらし、俯いて目を瞑る。
 掘り起こされたのであれば、また埋めればいい。そうすれば楽になれる。さっきの『痛み』はまだ残っているが、それもすぐに無くなる。
 捨て去れば。『優しさ』と『寂しさ』を心の奥深くに埋め、感情から完全に廃絶してしまえば元に戻れる。捨て去ることが出来れば。
 ――捨てたくない。
 どこかで声が聞こえる。どこかで今の状況の受け入れようとしている自分がいる。
 もはや決して忘れ去ることが出来ないほど、冬摩の中に浸透した朋華の気持ち。その場の雰囲気に流されて、大きく揺れ動く不確定な心境。昔の自分なら感じ取れない――感じようとしない。昔の自分なら理解できない――理解しようとしない。
 だが今は朋華に触れていたい。もっと朋華を掴みたい。心の底からそう思う。
 それは邪魔な物は全て拒絶して排除していた自分では絶対に出来ない事。
 以前の自分には、戻りたくない。
「……やっぱ、ダメだわ」
 力無く言い、冬摩は自嘲気味に笑って顔を上げる。
 左の二の腕を右手の指で強く掴み、そこの肉を引きちぎった。そして自分の小さな肉片を、朋華の胸にある傷口に押しあてる。冬摩の肉はまるで意志を持ったかのように蠢き、朋華の体に入り込んだ。
 魔人の体細胞を埋め込まれる事で生を受ける存在――すなわち、召鬼。
 だが、死体から生み出した召鬼の体は不完全であり長くは持たない。
「わりぃな、俺の都合でこんな事しちまってよ」
 朋華の体にそっと手を置く。そして意識を集中させた。
 ――『復元』を使えば、私の体は完全な物になる。
 以前、未琴が言っていた言葉。
 もしそれが本当ならば、朋華は完全な体で黄泉還る。
「けど俺をこんな風にしたのはお前なんだからよ。お前にも少しは責任あるよな」
 自分に言い聞かせるように独りごち、冬摩は『復元』を始めた。
 なんだか悪戯を見つかって言い訳しているみたいで、妙に可笑しかった。
 朋華の体が柔らかい光に包まれる。同時に冬摩の体を睡魔にも似た脱力感が襲った。
 どの位そうしていただろう。数秒? 数分? 朋華を包んでいた光が少しずつ晴れ始める。そして、瞳がゆっくりと開かれた。

◆日常への回帰 ―仁科朋華―◆
 教室の窓から差し込む西日を浴びながら、朋華は口元を緩めた。
 学校生活へ復帰してから一週間。つい二ヶ月ほど前の事が嘘のように平和な時間がゆったりと過ぎ去っていく。まるで母胎の羊水に浸っているかのような安心感。その幸せをかみしめ、朋華は茜色に染まっていく放課後の校舎をぼーっと見ていた。
(帰ってきたんだ……)
 一週間経った今、それがようやく実感として湧いてくる。もしかしたらコレは幸せな夢で、すぐにまた非日常的な現実に引きずり戻されるのではないかと思っていた。
 だが違う。間違いなく帰ってきたのだ。朋華が居るべき場所に。
 初めて冬摩がここに来た時のことを思い出す。鋭い目つきと、獰猛な気配。
 冬摩が半壊させた別棟は修復が進みつつもあるものの、未だ爪痕を大きく残している。久里子ら土御門財閥の暗躍により、小規模なテロ事件と世間には知らされていた。つい一ヶ月ほど前に授業を再開したばかりの校内には、警察や自衛隊の関係者らがそこかしこに見られるが、この先彼らの出番はないだろう。
 物々しい雰囲気の中、ぎこちなく進む学校生活に皆戸惑いの色を隠せないでいたらしいが、行方不明扱いになっていた朋華の帰還により若干空気が和らいだようだった。
 最初のうちは警察に呼び出されて事情聴取などを受けたが、久里子が裏でまた動いてくれたのだろう。それも二、三日で行われなくなった。親や友達にはとりあえず犯人の隙をついて逃げ出したと言ってある。そのことに触れて欲しくないという態度で傷心していれば、さすがに周囲が朋華を気遣って、それ以上聞き出したりはしない。我ながら図太くなった物だと、変なところで感心してしまう。
 この事件は恐らく迷宮入りになるだろう。土御門財閥の手によって闇に葬られ、いずれ世間の記憶からも消えて無くなる。
「あら、まだ居たのね」
 教室で独り、物思いに耽っていると不意に声を掛けられた。
 懐かしい声。少し前までは大嫌いだったのに、今や日常に戻って来た事への象徴とも言える。
「穂坂さんこそ。こんな遅くまで生徒会の仕事?」
「まぁね」
 黒く艶やかなツインテールを尻尾のように揺らして、二ヶ月前まで朋華をイジメていた女子生徒、穂坂御代が近寄ってきた。以前のような険悪な雰囲気は影もない。
「早く帰った方がいいんじゃないの? 体の方、まだ本調子じゃないんでしょ?」
 御代はまるで人が変わったように朋華のことを気遣ってくれるようになった。取り巻き達にも、朋華にはちょっかいを出さないように言ってくれているようだ。
「うん。でも、冬摩さんを待ってるから」
 幸せそうな笑みを浮かべて言う朋華に、御代は大袈裟に溜息をついてみせる。
「『冬摩さん』ねぇ。あーあ、私も狙ってたのになぁ。荒神君も仁科さんにしか興味ないみたいだし。入り込む隙もないのよねぇ」
 朋華が冬摩の事を名前で呼ぶようになったのは、冬摩本人からそう呼ぶように言われたからだ。最初のうちは照れくさかったが、今はもう大分慣れた。
「べっ、別に! 私達はまだそんな関係じゃ……!」
「『まだ』なんでしょ? はいはい近いうちにそうなるってことね。お熱いこと」
 掌でパタパタと顔を仰ぎながら、御代は茶化す。
 御代もそうだが、クラス全員が妙に明るくなった。きっと無理にでもそうやって振る舞っていないと、際限なく沈んでしまうからだろう。
 今回の事件で死者が二名も出た。保険医の先生と、同じクラスメイトであった鷹宮秀斗。
 テロの被害者として扱われている彼の机には花が飾られている。それを見るたびに暗くなりそうな気持ちを紛らせるため、皆必要以上にはしゃいでいた。逆にそんな彼らを見るたびに朋華の胸は締め付けられる。
 鷹宮秀斗を自分が殺したのだという暗い思いは未だに払拭できない。だが、それで良いと思う。極めて常識的な反応だ。罪悪感。それは自分が自分であることの証。
「仁科さん。貴女、随分変わったわね」
 少し声のトーンを落として、御代は言った。
「変な奴らに捕まってる間に荒神君と何があったのか知らないけど、ちょっとカッコ良くなったかもよ」
 クスクスと小さく笑いながら、御代は近くの机に腰掛ける。
「カッコ良いかは知らないけど……確かに変わったと思う」
 自分でも分かる。前みたいにオドオドしなくなったし、言いたいことはハッキリ言えるようになった。相手の為につく嘘ならば、躊躇うことなく平気で言えるようにもなった。
 平たく言えば、粗雑で面倒くさがりになってしまったのだろう。
 あの、冬摩のように。
「あっ……」
 冬摩の事が頭をよぎった時、朋華は何かに反応して席を立った。御代が不思議そうにコチラを見つめている。 
「どうかしたの?」
「冬摩さんだ。もうすぐ来る」
 根拠は何もない。ただ揺るぎない確証だけがある。冬摩が今屋上から校内に戻り、階段をゆっくりと下りてくるのが分かった。
「……? 足音もしないわよ?」
 御代には分からないのだろう。当然だ。それは朋華にのみ分かる冬摩の気配。
 冬摩の召鬼となった朋華だけが感じることの出来る、生命の胎動。
 三分ほどの静寂の後、遠くの方から足音が聞こえてきた。御代がビックリした顔で、覗き込むようにして朋華を見つめている。
 しばらくして教室のドアが乱暴に開けられた。
「よー、朋華。いたか。帰るぞ」
 うなじで纏めた長い髪を面倒臭そうに掻き上げながら、冬摩はぶっきらぼうな口調で言った。服装は朝霧高校の制服だ。
 どんな風の吹き回しか知らないが、冬摩も朋華と共に学園生活を送ることになった。
 本人曰く、やることが無くなって退屈だから、らしい。
 千年間も生きる目標としてきた龍閃への復讐。それが成し遂げられた今、冬摩に残ったのは膨大な時間。後何千年生きるかは分からないが、気の遠くなる程の時間が用意されているのは確かだ。
「以心伝心ってわけ。こりゃ勝負にならないわ」
 おどけたように肩をすくめて見せて、御代は足早に教室を出た。それと入れ替わるようにして冬摩が近づいてくる。
「なんだ、あいつ?」
「冬摩さんのこと、好きみたいですよ?」
 言われて半眼になり、冬摩は「ふーん」と気のない返事を返しながら頭を掻いた。
「ま、今のところ俺が興味あるのはお前だけだけどな」
 何の臆面もなく発せられた冬摩の言葉に、顔が急激に熱くなっていくのが分かる。
 別にコレが初めてではないが、呼び名と違ってコッチは何度言われてもなかなか慣れることが出来ない。朋華と学園生活を共にするようになってから、冬摩はずっとこの調子だった。
 『お前に興味がある。お前のことをもっと教えてくれ』
 きっと冬摩にしてみれば、自分の思った事を包み隠すことなくさらけ出しているだけなのだろう。だが、朋華にとっては十分すぎるほど強い刺激だった。男性からここまで積極的に言われたことなど生まれてこの方、一度としてないのだから。
「なんだよ。変な顔して。熱でもあんのか?」
 冬摩の手が朋華の額に伸びる。
「だっ、大丈夫ですから!」
 叫びながら慌て後ろに飛び退いたため、ロッカーに腰をしたたかにぶつけてしまう。
「バカだろ。お前」
 溜息混じり呟く冬摩。朋華は痛そうに腰を押さえながら、何とか立ち上がった。
「まったく初よのぅ。少しは妾を見習ったらどうじゃ」
 突然、冬摩の背後から巫女服を纏った妙齢の女性が姿を現した。
 十鬼神『死神』。今や冬摩の使役神鬼となった彼女は、蠱惑的な笑みを浮かべながら朋華を高圧的な視線で見下ろしている。
「し、『死神』さん!?」
「久しぶりじゃのぅ、仁科朋華」
 『死神』は龍閃に『復元』を使ったせいでずっと眠ったままになっていた。だから話をしたくても出来なかったのだが……。
「あー、さっきようやく目が醒めたらしくてな。頭ん中で、ギャーギャーわめくモンだから召喚してやったんだよ」
 どこか投げやりな口調で言う冬摩の首筋に、『死神』は後ろから腕を回して、しなだれかかる。
「つれないことを言うでない冬摩。晴れて身も心もお主の物になったのじゃ。さぁ、今宵は濃密な契りを交わそうぞ」
 言いながら艶麗な手つきで冬摩の体をまさぐった。
 辟易とした表情になった冬摩の指がパチン、と鳴る。次の瞬間、『死神』の体は白い粒子を残して消え去った。
「帰るぞ」
 短く言って朋華に背を向け、冬摩は教室を出る。
 扉の閉まる音を聞いて初めて朋華は我に返り、急いで冬摩の後を追いかけた。

 黄昏の空に浮かんだ夕日が、ビルの合間にゆっくりと身を沈めていく。
 夜の息吹を感じさせつつある街中の大通りを、冬摩と朋華は何も言わずに並んで歩いていた。
「そう言えば、嶋比良さん達はどうしてるんですか?」
 どことなく気詰まりな空気を解消するため、朋華は何気ない話題を冬摩にふった。
「久里子も麻緒も元気だよ。龍閃につけられた傷は一つも残っちゃいねー」
 龍閃によって半死半生の状態にまで追い込まれた久里子と麻緒。二人の体は土御門財閥の屋敷に戻っていた。恐らく玲寺の『青龍』が運んでくれたのだろう。
 冬摩の『復元』により、久里子と麻緒の傷は完治した。そのせいで寿命が百年ちょっと縮んだらしいが、冬摩の寿命と見比べると誤差に等しい。
「玲寺のヤローは相変わらず、どこ行ったのか分かんねーけどな」
 自分の強さを確認するために、冬摩達を裏切って龍閃についた玲寺。今思えば、そんな玲寺の心の弱さに龍閃がつけ込んだのかもしれない。
 冬摩と戦い、満身創痍だったはずの玲寺の姿は樹海のどこにも見あたらなかった。あの傷ではそう遠くに行けるはずはないのだが、土御門財閥の総力を挙げても発見できなかったのだ。この先、気まぐれで向こうから姿を現すのを待つしかないだろう。
「そう、ですか……」
 空気が重い。この一週間、ずっと冬摩と一緒に帰って来たが、今日は雰囲気が違った。近くで聞こえる車のクラクションや、女子高生達の話し声が、妙に白々しく聞こえる。まるで自分達だけが街に溶け込むことなく浮いているようだった。
「それより……悪かった、な」
 朋華の方を見ることなく、前を向いたまま冬摩は小さな声で言う。
「何がですか?」
「お前の体を、勝手にそんな風にしちまったことだよ」
 冬摩は視線を一瞬だけコチラによこすが、すぐにまた前を向いた。
 ようやく冬摩の様子がいつもと違う理由が分かる。そのことに朋華は、内心安堵の息を漏らして言った。
「なんだ、そんな事ですか」
 軽い調子で言った朋華に、冬摩が目を丸くして顔を向けて来る。
「そんなことって、お前……分かってんだろ? 俺の召鬼になったって意味が」
 今、朋華の体には冬摩の体細胞が息づき、いったん生命活動を停止したはずの肉体を魔人のもたらす甚大な生命力によって強引に突き動かしている。そして死者に体細胞を植え付けた場合、本来ならば無理が生じて一定期間しか続かない命の営みを『復元』により半永久的に稼働させていた。
 つまり――
「俺が死なない限り、お前も死なないってことなんだぞ」
 朋華の中にある冬摩の体細胞が死滅しない限り、朋華は生き続ける。年をとることもなく。この先、何千年と。両親や級友、自分よりずっと年下の従姉妹が天寿を全うしたとしても、朋華だけは変わらぬ姿のまま生き続けのだ。それはいわば魂の牢獄。解放されることなく、悠久の刻に身を委ねなければならない。
「知ってますよ。勿論」
 だが、朋華は明るい声で言った。
「私、生き返らせてくれたことには凄く感謝してますよ。だって、またお父さんやお母さんや、みんなと会うことが出来たから。またココに、帰って来られたから」
 もしかしたら二度と戻ることが出来なかったかもしれない日常。だが、今確かに朋華はココにいる。平和という名の至上の時間を謳歌してる。
 この先どうなるかなんて分からない。だったら今を精一杯楽しまなければ損だ。そうやって割り切って物事を考える刹那主義。間違いなく、朋華は冬摩の色に染まりつつあった。
「それに――」
 小走りに冬摩の前に回り込み、朋華は上目遣いで甘えたように話しかける。
「冬摩さんは、ずっと一緒に居てくれるんでしょ?」
 驚いたような顔で冬摩は言葉を詰まらせた。
 これからもどんどん染まっていくだろう。そして染まってみたいと思った。
 冬摩の事をもっと知りたい。自分の事ももっと知って欲しい。そのための時間はたっぷりある。ゆっくり歩み寄っていけばいい。
「今度、さ……」
 珍しく照れたように頬を掻きながら、冬摩は髪を纏めていた龍の髭を解いた。そして気合いを入れ直すように再びきつく縛り付ける。
「未琴の墓参りに行かないか? 俺もケジメってヤツをつけたいし、お前にも一回は会っておいて欲しいしよ」
 街灯が薄闇を照らし始める。急に立ち止まった朋華達に迷惑そうな視線を向けながら、道行く人達が避けて通って行った。
 朋華は一瞬、冬摩の言葉に呆けたように口を開けていたが、すぐに嬉しそうな顔になった大きく頷いた。
「それじゃ私、お弁当作って行きますねっ」
「いや、それはちょっと違うような……」
 日が沈み、冬の息吹を感じさせる冷たい風が舞い降りる。
 寒くなっていく周囲とは裏腹に、二人の心には暖かい物が生まれたのだった。

 【終】




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