間違いだらけの手毬歌、してくれますか?
第一話『決めた! たった今そう決めた!』
◆黒岩菊華(くろいわ きくか)の『やるって言ったらやるんですわ!』◆
尊敬する人、『真宮寺太郎』。
嫌いな人、『黒岩亜美』。
「はい。剛一狼さん、あ〜んですわー」
どれだけ同じことを確認すればいいんだろう。
「あ、あーんッス」
どれだけ同じことを確認させるんだろう。
「美味しいですかー?」
「お、美味しいッス。でも、ちょっと恥ずかしいッス……」
「愛は最高のスパイスですわー」
この先、どれだけ同じことを繰り返して――
(く……)
口元まで持ってきていたベーコンソテーを皿に戻し、菊華は椅子を引いて席を立った。
「あら、どうしましたの? 具合でも悪いんですの?」
「……はい、そんなところですわ。お母様」
黒い絨毯の敷かれた円形のダイニングホール。シルバークロスの掛けられた丸いテーブルの向こう側。自分の正面に座っているワインドレスの女性を一瞥し、菊華は軽く頭を下げる。
正面。すなわち、自分からは最も遠い席にいる母親に。
「まぁそれは大変ですわ。すぐに主治医を。心斎橋!」
「大丈夫です。少し休めば良くなりますわ。“いつものこと”ですから」
言葉の最後を気持ち強めに言い、菊華は耳に掛かったロングストレートの黒髪を掻き上げた。
「そう、ならいいんですけど」
「ええ、“いつものこと”ですから」
もう一度繰り返す。
「菊華、あなた恋はしていますか? 愛する人ができれば体は驚くほど丈夫になりますわよ。寝ている時間が狂おしいほどに勿体なくなりますから。ねー? 剛一狼さーん」
「そ、そうッスね」
(……未だ自覚ゼロ、か)
長い睫毛を伏せて息を吐き、菊華は白いカットブラウスの胸元を正した。そして小さな唇をきつく結び、改めて二人を見る。
父親である剛一狼の方は別に良い。清潔なカジュアルシャツの上にグレーのジャケット。不快にならない程度に切り揃えられた猫毛の黒髪に、人の良さそうな猫目。体格は大きくやや脂肪が余り気味だが、ソレは貫禄とも包容力の表れとも取れる。
真宮寺太郎ほどではないが、父のことはそれなりに尊敬している。
だがその隣り。母の方は……。
(どこのハイクラスパーティーに出席されるおつもりですか……)
完璧にトリートメントされた髪は、窓からの光を受けて美しい天使の輪を描き、純銀製の髪留めでアップに纏められている。瞼にはラメ入りのアイシャドウ。唇には薄紅のグロスルージュ。肩を露出させたワインドレスにはダイヤの輝きが散りばめられ、履いているヒールは超気合いの十五センチ。
もう四十過ぎなのに三十代前半でも十分通じる若々しさはさすがだか、朝からこの手の込みようは……。そして結婚してもう二十年が経とうというのに、まるで恋に落ちたてのようなバカップルぶりは……。
(お腹いっぱいですわ……)
やりすぎだ。明らかに。
当主がこんなことだから、春日グループの経営が、今……。
「心に命じておきますわ、お母様」
背筋を伸ばし、菊華は高い位置から透明感のある声で言った。父親譲りの長身が際立ち、その一挙手一投足からは威風が漂っている。ソレは生まれながらにしてリーダーとなった者の――いや、ならざるを得なかった者としての品位と風格の表れだった。
「うっへぇ! ハラ減りすぎ!」
大きな声と音を立ててプラチナ素材の扉が開き、ダイニングホールの中に誰かが入り込んでくる。
「春牙、お行儀悪いですわよ」
「はっ! 申し訳ありません! 隊長!」
「……姉様で結構です」
「了解であります! お姉様隊長!」
「……早く食べなさい」
「イェッサ!」
剛一狼の隣りに腰掛ける高校生の弟を、菊華は溜息混じりに見つめる。そして開け放たれたままの扉に向かい、ホールを出ようとして、
「じゃ! アタシ朝練、行って来るから!」
誰かが顔だけを覗かせて叫んだ。
「夜鈴、朝の挨拶くらいちゃんとなさい」
「ハッ! 黒岩夜鈴! 十六歳! ただ今よりダウジングの部活動にいそしんで参ります!」
「……ケガには気を付けなさい」
「了解であります! 隊長殿!」
「……“殿”は男性の呼称ですわ」
「イェッサ!」
風となって走り去っていく妹の後ろ姿を、菊華は疲れた表情で見送る。そして扉の前でもう一度両親の方に向き直り、軽く頭を下げて――
「隊長おはようございますであります!」
「おはようございますですわ〜、たいちょ〜」
背中から溌剌とした声とゆるい声が飛んできた。
「……おはようございます。御剣、鞘菜。朝食の時間はもう過ぎてますわよ」
「昨夜遊戯に没頭するあまり! 時間の概念を失念しておりましたであります!」
「みつるぎといっしょですわ〜」
「……次から気を付けなさい」
「了解であります! 隊長!」
「りょ〜か〜い」
きびきびと円卓に向かう中学二年生の弟と、とてとてと危なっかしい足取りでその後ろを付いて行く小学五年生の妹。二人が席についたのを見届け、菊華は今度こそホールから出て行――
『隊長!』
見事にハモった三つの声が行く手を遮った。
「お休みの日でもちゃんと早起きしてきたよ? エライ?」
「みんなで起こし合ったよ? エライ?」
「昨日は九時に寝たよ? エライ?」
小学二年生の三つ子、朝霧、真昼、夕凪、が誇らしげな顔付きでコチラを見上げていた。菊華は少しぎこちない笑みを浮かべながら、三人と目線の高さを合わせ、
「ええ、偉いですわよ。じゃあ今度はあと三十分、頑張りましょうね」
『はーい! 隊長!』
頭を撫でられたことにはしゃぎながら、まだ幼い三つ子は両親の元に駆け寄って行った。
(お、終わり、ですわよね……?)
扉の外に顔を出してきょろきょろと見回しながら、菊華は辺りを警戒する。何十メートルも長く長く続く廊下には人の気配はない。
まだ幼稚園生の弟と妹達が四人いるのだが、彼らはぐっすり眠っているようだ。しかし起きたらやはりこの調子で……。
「みんな菊華に懐いてくれて本当に大助かりですわ。あなたは長女の鏡ですわね」
後ろから、喜色に弾んだ母親の声。
「ワタクシが退いた後は、よろしくお願いいたしますわ。あなたになら太鼓判たくさん押して、春日グループを任せられますわ。ねー? 剛一狼さんっ」
「やー、ボクらがこんなしっかり者の娘に恵まれるとは、思ってなかったッスよー」
「ホントですわー」
「ホントッスー」
あははははー、と脳天気な笑いを惜しげもなく振りまく二人。バックにはピンクのハートタイフーンが吹き荒れているようにすら見える。
(あなた達の子供だからこうなったんですわ……)
片や、のし掛かってくる精神疲労と戦いながら、ダークオーラをまとわりつかせる菊華。
毎日のようにこんな平和な光景を見せつけられたのでは、不安を覚えるなという方が無理な話だ。おかげで春日グループの業績は、今や先代の半分近くにまで落ち込んでいる。なのに何も手を打とうともせず、日がな一日ぼっへーと幸せそうに過ごしている。先代、すなわち自分の祖父も、一人娘が可愛いのか何も言おうとしない。会長の座に留まってはいるものの完全に任せっきりだ。
だからこそ自分が何とかしないと。しっかりしないと。
こんな早朝から深夜まで延々と愛を語らって時間を潰しているのではなく、もっと効率的に、効果的に、直接的に――独善的に。
グループのトップとは、本来そういう人間でなければならないんだ。結局最後は一人で決断しなければならないんだ。だから、例えばあの人のように。
「ただ、菊華」
何でも一人でやってきた。どんなことでも一人で乗り越えて、そして解決してきた、
「彼のことを調べるのはあまり感心いたしませんわ」
あの――真宮寺太郎のように。
「あの人を英雄視するのは勿論あなたの勝手ですが、あまり深入りすると身を滅ぼしますわよ。もう何回も言ってることですが」
小さな頃、母親からも父親からも聞かされてきた。
常識の破綻しきった驚異的な自由人がいる、と。ソレはありとあらゆる法則を自分の色に塗り替えることができ、万物の破壊と創生と個人意思で行えてしまう、いわば『始まりと終わりの力』を有している者である、と。
「それにもう特定の相手がいます。探して会ったところで、がっかりするだけですわ。色んな意味で。あの人の嗜好はワタクシ達では到底理解しかねますから」
すなわち神。それも極めて性根のクソねじ曲がった破滅神である、と。
「ワタクシ達が学生だった頃と今とでは、彼の力も格段に違いますわ。昔はまだ紛いなりにも人間の雰囲気を持っていましたが、今は活動範囲を銀河系の外にまで広げているとか。五年くらい前に宇宙開発事業部の人間が、シャトルの外に人影を発見したとか言ってましたから、多分アレは真宮寺のことですわ。睨まれただけで航路軌道が変わってしまって、修正するのにエライ苦労したとか言ってましたわ」
サンタクロースを信じていたのは十歳の時までだった。スーパーマンを信じていたのは十三歳。そしてキョンシーを信じていたのが十五歳までだ。
だが、真宮寺太郎だけは未だに信じ続けている。
耳に入ってくる情報は突拍子もない物ばかりだが、語り手の口調が真に迫っている。信じたくはないが、信じざるをえない。全員が全員、どこかそういう切迫した表情をしている。
勿論、自分の両親も含めて。
「強い刺激はたまに受けるから良いのであって、長く続くと毒になりますわ。ワタクシは心配です。自分の大切な愛娘ともなると、なおさら心が痛みますわ」
多分、そうやって牽制しているつもりなんだろう。しかし全くの逆効果だということに気付いていないのだろうか。いつものことながら母の鈍感ぶりには頭が下がる。
「ご忠告ありがとうございます。お母様のご期待に添えるよう、善処したいと存じますわ。では、失礼いたします」
直立の姿勢から斜め四十五度の角度で上体を前傾させ、菊華は慇懃に礼をする。そして右足を半歩引いて体を半回転させ、
「菊華」
また、声を掛けられた。
今度は父親の方から。
「今日もまたどこかへ視察に行くッスか?」
「はい。午後、白雨(しらさめ)病院の方に」
「白雨、病院……」
春日グループが出資しているに機関の一つで、緩やかにではあるが確実に経営が傾き始めている。自分が生まれる前は傾き度合いがもっと酷かったらしく、その時と比べると回復しているのかもしれないが、年々収益が減少していることだけは確かだ。
近くの医療機関が同じ傾向にある訳ではないことから、患者数そのものが減っているというわけではない。白雨病院自体に何か問題があるのだ。
ソレが何かを突き止めて、立て直さなければならない。そのためにまずしなければならないことは現場視察だ。紙の上で数字と睨めっこしていても、得られる情報などたかが知れている。脚を使って調べなければ。できれば一人で。
「菊華、気を付けるッス」
「はい?」
猫目を薄く見開き、父はいつになく鋭い眼光でコチラを見る。
「あの病院、本当に“出る”らしいッス」
「は、ぃ……?」
掠れた声。湿り気を帯び始める目元。
「ここ一年くらいで、空き部屋からのナースコールとか、手術室からの笑い声とか、霊安室からの物音とかが急増しているらしいッス」
ドンヨリと落ち沈んだ喋りで、父親は恐怖心を煽るかのように言った。そして――
「ま、菊華はまだ大学生なんスし。あんまり肩肘張らずにのんびり過ごすのがいいと思うッス。人間、気楽に幸せに過ごすのが一番ッス」
「ですわよねー、剛一狼さーん」
あはははははははー、とまた軽い笑いをバラまく二人。
(ハ……)
なんだ。そういうことか。
要するに怖じ気づかせて、経営者の真似事など止めさせて、自分達のペースに引き込もうというわけだ。なぁなぁで適当にやろうというわけだ。
ハッ、そうはいくか。そういう風にはならないと決めたんだ。
ちゃんと自分だけの美学と信念を持って、明確な目標に向かって進むと決めたんだ。できれば一人で。
母親にしろ父親にしろ。自分に火を付けるのが本当に上手い。
やってやる。必ず白雨病院の経営悪化原因を探り当ててみせる。
幽霊? 心霊現象? バカバカしい。今更そんな子供だましなオカルト、誰が引っかかるというんだ。そんな物、敬愛する真宮寺太郎に掛かれば、宇宙でミジンコを孵化させるようなものだ。簡単簡単、チョーカンタン。
「では、行って参ります」
「あれ? 今、午後に行くって……」
「善は急がば回れ回れメリーゴーランドですわ、お父様」
「そう、ッスか……」
(待ってなさい白雨病院!)
「隊長ー! ブリキ人形の物マネうめー!」
(今! 霊もろともブチ壊してあげますわ!)
◆東雲昴の『やると決めたらやるのです!』◆
白雨病院。一階ロビー。
三人掛けの革張りソファーが、まるで墓石のように整然と並べられたフロント・エリア。
明かりといえばナースセンターの辺りの簡易照明と、非常口から漏れ出す不気味な薄緑色の光だけ。人の気配はない。
そろそろ日付が変わろうかという時間帯。完全無欠の深夜。
なのに……。
「へーぃフルハウス!」
「ざーんねんフォーカード!」
「ああああぁぁぁーッ!?」
『脱ーげ! 脱ーげ! 脱ーげ!』
どうしてこの人達は脱着ポーカーなんだろう。
「おおおおぉぉォォオオなのです!」
どうして自分も混ざって盛り上がってるんだろう。
「さっすが通天閣のアネさん! 真っ先にブラとは粋だねー!」
「そのくらいしないと盛り上がらないだろー? そ・れ・に。若い子も見てくれてることだしねー。サービスサービス」
レース付きの黒いハーフカップブラをヒラヒラとさせながら、通天閣はソファーの背もたれの上でつま先立ちになる。そして腰の辺りまで深くスリットの入った魅惑的なチャイナドレスから、長く白い脚を覗かせた。
本来なら『ごっつぁんです!』とか叫びながら、おっぱい目掛けて飛びかかってもおかしくないのだが……。
(なんだ……)
この虚しさは。
まるで透明の檻の中に入れられて、その周りを下着姿のおねーさん達が大行進しているかのような……。パイズアイが進化して、テレビの中の人でも福乳かどうか判断できてしまった時のような……。色葉楓をただ指くわえて眺めているだけのような……。
欲しい物はすぐ近くにある。なのに手が出せない。
吐血モノのお預け拷問プレイ。
(いや……)
違うな。きっと心が大人になったんだ。ただ福乳だけを盲目的に追い求めてきた一年前までの自分からは卒業して、もっと中身を重視するようになったからだ。そう、ちょっと難しい言葉で言うと、『精神美』ってヤツを重要ポイントに据え置くようになったからなんだ。
「やれやれ、またアタシの負けか」
心の綺麗な人や強い人。そういう女性に惹かれるようになったからなんだ。
『脱ーげ! 脱ーげ! 脱ーげ!』
だからもうおっぱいは――
「じゃあ次はこのドレスを……」
「お姉様ああああああぁぁぁぁぁぁ!」
がばぁっ! と通天閣に向かって飛びかかり、
「ぶ……!」
盛大に床とキスを交わした。
「痛いのです……」
涙目になりながら昴はその場に突っ伏す。そして生まれたての仔馬のように身を起こし、灰色のつなぎから埃を払い落として、
「東雲さん?」
横手から声を掛けられた。反射的にソチラに顔を向ける。
立っていたのはこの病院の婦長だった。ピンク色のナース服に身を包み、沢山のカルテを両手に抱えている。年は四十過ぎくらいだろうか。残念ながら福乳ではない。
「今の奇声、あなた?」
いぶかしげに顔をしかめ、婦長はザーマス眼鏡を光らせながら近付いてくる。
「一人で何やってるのか知らないけど、ちゃんと仕事してよね。お金払ってるんだから」
「ご、ごめんなさいなのです……」
少し長目に伸ばした黒髪を揺らしながら頭を下げ、昴は掃除用具の詰め込まれたワゴンを自分の方に引き寄せた。
「まったく、昼間は昼間で経営者気取りのお嬢様が我が物顔で歩き回ってくれるし。ひょっとして本人はバレてないつもりなのかしらねー。スンゴク背が高いから目立つのよ。あの子。目つきも悪いし。性格も悪そうだし。東雲さんは絶対あんな女と一緒になったらダメよ。きっと一生アゴで使われるわ」
ワゴンから清掃員の帽子を取ってかぶり直し、昴は表情を見られないように俯いて顔をしかめた。
(ヤバいのです……)
この人の愚痴は長い。ナースの間でも有名だ。
看護婦歴二十五年の大ベテランらしいが、未だに独身という事実が長広舌の理由を雄弁に物語っている。
一年前、頭のイカれた変質者にナイフで切り刻まれ、その時この人に色々とお世話になったのだが……何かキッカケがなければ延々と続く。相手が患者であれ職員であれ関係ない。自分が満足が最優先だ。
「それで最近また人が異動になっちゃってね。せっかく教えてもすぐいなくなるんだから。こうポンポン飛ばされちゃたまったモンじゃないわよ。ホント何考えてんのかしらウチの院長。大体さー、あの年でまだ現役ってどうなの? もうすぐ九十よ? 九十。ジジイは縁側で茶でも飲んでなさいっての。あの元気はどこから……」
「あー! 僕まだ回ってないところがあったのです! 早くすませないと帰れないのです!」
ぽーん、と手を打って思い出したかのように言った昴に、婦長は眉間に皺を寄せて睨み付けてきた。
「まだ終わってなかったのー? っとに、ちゃっちゃと仕事しなさいよねー。いくら深夜勤務希望の人が他にいないからって、あんまサボってるとクビちょんされちゃうわよー?」
「ご、ごめんなさいなのです。今すぐに頑張ってくるのです」
八重歯を覗かせて愛想笑いを浮かべながら、昴は婦長に何度も頭を下げる。
「ま、まぁ別にいいけどね。いつも一生懸命やってくれてるから」
ぷいっ、とそっぽを向き、拗ねたように言う婦長。
「じゃあ、僕はこれで……」
「待ちなさい」
ワゴンを押して去ろうとした時、後ろから呼び止められた。
「あなたには今日から療養病棟も担当して貰おうかと思って。ソレを伝えに来たのよ。勤務時間は増えるけど、時給の方にはそれなりに色を付けさせて貰うわ。どうかしら?」
「ホントなのですか!?」
スピンターンで振り返り、昴は婦長のもとに駆け寄る。
元々この病院で清掃員のバイトを始めたのは、時給があまりに魅力的だったからだ。特に深夜勤務は日中勤務の倍近い額が支給される。以前働いていたレンタルビデオショツプの『洋風屋』などとは比べ物にならない。
一年前の入院中。院内を散歩していてバイト募集の張り紙を見付けた時には、思わず目から怪光線が飛び出しそうになった。
……まぁ、少し漏れて一部焼いてしまったのだが。
とにかく怪我が治ったら速行で『洋風屋』から退去。すがりついてくる店長を仁王立ちで踏みつけて悦ばせた後、白雨病院のバイトに申し込んでその日から働いた。
この大きな病院には、毎日沢山の人が出入りしている。患者も職員も色んな人がいる。理想の女性探しにはもってこいだ。
また、鮎平姫乃のような女性と出会うことができれば……。
「じゃあ返事はオッケーってことでいいわね。手続きとかは私の方でやっといてあげるわ。今より高いお金出すんだから、ちゃんとソレに見合った仕事しなさいよね」
「分かったのです! ありがとうございますなのです!」
「かっ、勘違いしないでよね。別にあなたのためにやったんじゃないのよ。他に人がいなかっただけなんだから。それからココはロビーだからいいけど、基本的に大きな声は出さないこと。みんな寝てるんだから。分かったわね」
「分かったのです!」
「あーのーねー……ぇ? 東雲……さん?」
渋面になって詰め寄ってきた婦長の顔付きが一変する。そしてカルテを片手に持ち直し、ザーマス眼鏡のフレームを上げて、
「ソレ……何……?」
「へ?」
自分の左肩に注がれている視線の先に昴も目をやって、
「手……ええええええぇぇぇぇぇぇ!?」
ばさばさばさー! と派手な音と共にカルテを撒き散らし、婦長は療養病棟の方に走り去ってしまった。
「あのー……どうしたのですかー?」
呆けた表情で一人立ちつくす昴。
「やれやれ。人にデカい声出すなって言っといて自分がアレじゃあ世話ないね」
耳のすぐそばで通天閣の声が響く。
お団子に纏めた髪をポンポンと叩きながら、胸の谷間を強調するデザインのボディコンを見せつけてきた。
「わぁ、おっぱーい」
視線を一点集中させ、どこか白々しく昴は言う。
形、色、大きさ、張り、艶、そして福乳度合い。どれを取ってもかなりのハイレベルな代物だ。だから良いおっぱいであることに間違いはなのだが、致命的に残念なことが一つだけある。
ソレは――
「まー、やっと解放されてよかったじゃないか。アタシに感謝しなよー、す・ば・る。普通の奴に手ぇ見せるだけでも結構バテんだからさー」
彼女が幽霊であるということ。
故に触れない。揉めない。むしゃぶりつけない。
(くっ……)
たまらなくストレスが溜まる。見えない方がまだましだ。だがソレはもう許されない。
パイズアイを進化させてしまった以上、コレは受け入れなくてはならない宿命なんだ。どうせいずれはこうなっていた。早く苦しむか、遅く苦しむかの違いだけだ。
今まではある程度、眼精疲労が蓄積しないと霊を視るなどといった芸当はできなかった。『疲れ』が力の源だった。
腕が疲れれば文字通り鉄腕と化し、脚が疲れれば瞬足が得られた。コレは幼少期、魔王の元で生き抜くために肉体が獲得せざるを得なかった特殊能力。そして魔王から解放された後も、自分はこの力を磨き続けた。
その結果、『疲れ』がなくとも服の上からおっぱい利きができる、パイズアイを手に入れた。だが、自己進化は留まることを知らなかった。
もっとよく見える眼が欲しい。もっと良く聞こえる耳が欲しい。例えどれだけ離れていても、理想の女性を見つけだせる力が欲しい。
そう願い続け、ここまで能力を高めた。高めてしまった。
すなわち、見てはならない物が視え、聞こえてはならない物が聴こえる力。
名付けて『ガンオブザイヤー』。その貫通力は当社比でパイズアイの約三倍。いたこさんも真っ青のあの世交信力だ。
飽くなき探求心がどこまでも自分を高めていってしまう。何か一つのことを極めんとするのは、これ程まで過酷な道なのかッ……。
「どうしたんだい? そんな触って揉んでむしゃぶりつきたいみたいな顔して」
「触って揉んでむしゃぶりつきたいのです」
「じゃあアンタもさっさとコッチに来るんだね」
「行かなくてもイケる方法を探すのです」
「幽体離脱とかかい?」
「女体脱着なのです」
「犯罪じゃないか」
「半裸なのです」
「好きにしな」
「いただきまっす!」
がばぁ! と通天閣に襲いかかり、
「……痛いのです」
床と二度目のディープキスを交わした。
「ホント見てて飽きないバカだねぇー、アンタは」
カラカラと上がる通天閣の笑い声を聞きながら、昴は身を起こしてカルテを見つめる。
多分、今頃困っているだろう。あの様子だと向こうから取りに来るのは明日の朝になりそうだし、それでは人目に付いてしまう。届けてあげた方がよさそうだ。こうなった一因は自分にもあることだし。
(さらにお給料も上がるかもしれないし)
そんなことを考えながら、昴は床に散乱したカルテを掻き集める。クリアフォルダに入れられた重要書類を、一つ一つ重ねながら拾い上げていき、
(ん……)
半分ほど回収したところで手が止まった。
妙に古いカルテだった。紙が変色して薄茶色になっている。こんな暗がりでさえはっきり分かる程に。他の物と比べるとフォーマットも少し違う。日付は……。
(五十年前……)
間違いなく最長老だ。最近のカルテと一緒になっているということは、まだ入院しているのか? それともコレは全部保存用?
「雛守小梅(ひなもり こうめ)、ねぇ。可愛らしい名前のおばあちゃんじゃないか」
後ろから通天閣がカルテを覗き込みながら言ってくる。
「だっ、ダメなのです! 個人情報なのです!」
「股間情事?」
「僕はおっぱい派なのです!」
「知ってるよ」
「よかったのです」
……で、何の話だったか。
「ぷ、プライバシーなのです!」
「プラプラさせてるモンをバシーってかい?」
「ドMは店長だけで十分なのです!」
「聞いてるよ」
「よかったのです」
……で、何の話だったか。
「と、とにかく見ちゃダメなのです!」
「アンタねぇ、アタシゃ幽霊だよ? そんなモン、その気になればいっくらでも拝めるってぇの」
「それでもダメなのです!」
「はぃはぃ。真面目だねぇ、アンタも。じゃあアタシはそろそろ退散するかね。何か用があったらいつでも霊安室に来なよ。みんなで歓迎してあげるからさ」
ウィンクして投げキッスをよこし、通天閣はお供達を連れて床下に消えて行った。
(全く、油断も隙もおっぱいもあったものじゃないのです。これだから最近の幽霊は……)
ブツブツと独り言を零しながら、昴は残りのカルテを腕の中に入れた。そして逆の手でワゴンを押し、婦長が去っていった療養病棟の方に向かう。
(幽霊、か……)
もし、触れられたのなら……揉みしだけたのなら……むしゃぶりつけたのなら……。
(ああ、違うのです)
自分が求めているのは精神美。肉体美はその次だ。
(でも……)
惜しい……惜しすぎるッ! 狂おしいくらいに惜しい!
絶対に……! 絶対に何とかしないと!
療養病棟の作りは一般病棟と殆ど変わらなかった。
ほの明るい光が照らしているのは、白い壁、白いドア、白いリノリウムの床。ただドアとドアの間隔がどれも一定で狭いことから、ココには相部屋という物はないらしい。まぁ長期滞在者を対象としているのだから、そのくらいの計らいは必要か。
(さて、と)
ワゴンの中から雑巾とスプレー洗剤を取り出し、昴はさっそく窓拭きを始める。周りに誰も人がいないから、ぶつかる心配などはしなくて良いが、時間が時間なだけに音には気をつかう。患者の睡眠を邪魔しないように、細心の注意を払わないと。
(にしても……)
どうするか。この先もずっと生殺しの状態が続くのでは身が持たない。何とかして霊体に触れられる方法を考えないと。こういうのはやはり専門家に聞くのが一番手っ取り早いんだろうか。
天深憂子。
水比良神社を切り盛りしているロリ巫女な彼女に相談すれば、何か良い知恵を貸してくれるかもしれない。この仕事が終わって適当に仮眠を取ったら行ってみよう。
ただ問題は話の持って行き方だ。正直に、触って揉んでむしゃぶりつきたいからと言っても当然拒否されるだろう。いや、断られるだけならまだいいが、お祓いと称して思考その物を抹消されるかもしれない。
彼女もだてに魔王と長く付き合っていない。祓え櫛から繰り出される多種多様な退魔術と、音速を越えるツッコミの手は十分に人外の域だ。ロリな外見に油断していると、指パッチンで魂を持っていかれかねない。だから言葉は慎重に選んで、穏便に事を運ばないと……。
(例えば――)
こういうのはどうだろう。
今バイトしている病院で幽霊騒動が起こっていて、何とかソレを鎮めたい。自分は幽霊の姿が見えるし、声も聞こえる。しかも幽霊が活発になる夜の時間帯にバイトをしている。あとは触れることさえできれば、いざという時に力ずくで排除できる。
自分がやらねば誰がやる! 病院内の平和を乱す奴は許せない! この愛と正義とおっぱいの使者、東雲昴が明るい病院ライフを約束します! 困った時はすぐにパイーダイヤル! 081081−117−081まで!
(コレなのです!)
完璧! 完璧だ! コレなら憂子を説得できる! 間違いない! バスト59センチのサイズに掛けて!
『……うーしみーつどーきにーはめぇさーませー』
「ん……?」
遠くの方から誰かの声が聞こえたような気がして、昴は雑巾を動かす手を止めた。
(何なのです……)
耳を澄ます。しかし何も聞こえない
おかしい。確かに誰かが歌っているような……。
『わしがひーだり、すーみがみぎー。はーしらーせ、はーしらーせ、のーろうのなー』
聞こえた。やはり空耳ではない。
誰かが病室で歌っているんだ。でも……。
(こんな時間に?)
どこから聞こえてくるのかは知らないが、廊下にまで漏れ出ているんだ。周りにいる人に迷惑なんじゃないのか?
ナースに言って注意して貰った方が良いんだろうか。しかし単なる清掃員でしかない自分がそこまでするのは出しゃばり過ぎのような気が……。
『ふーせるーな、ふーせるーな、ひーのわーがでーるまーで』
さっきよりも大きく聞こえる。歌っているうちにテンションが上がってきたのだろうか。ポップな感じの曲調からするに、子守歌ではなさそうだが……。
『すーずめーがなーいたーら、わーしとーばそー』
それにしても……。
『あーさめーしまーえにーは、ねんさーらせー』
(綺麗な声なのです)
思わず聞き惚れるくらいに。まるで日溜まりの中で、うたた寝でもしているかのような気分にさせられる。そして所々に混じる物悲しい音調が気を静めてくれる。
するとやはりコレは子守歌なのだろうか。
『ゆめーがうーつつに、おーもいーがかーなうー』
気が付けば脚が勝手にそちらへと向いていた。声が大きくなったのではなく、自分が近付いていたようだ。歌の方に吸い寄せられていく。
『いいこーのとーこにーはふーくきーたるー』
こんなに美しい歌声の持ち主なんだ。コレは間違いなく――
(福乳なのです!)
そしてきっと素晴らしい精神美の持ち主だ。
分かる。なんとなく分かる。単なる直感と言ってしまえばソレまでだが、このインスピレーションは初恋に通じるものがある! あの胸キュンが今再び!
(ココなのです!)
鼻息を荒くし、昴は廊下の突き当たりを左に折れたところで立ち止まった。
ずらりと並んだ病室の一つ。曇りガラスのはめ込まれた、白い金属製の扉の向こうから歌声は聞こえてくる。
コレを開けて中に入って、取り合えず顔見知りになって、軽く世間話でもしながら仲を深めて、福乳と美しい心の持ち主であることを確認したら、後は一気に……!
(完璧! 完璧な計画なのです! 緻密かつ穏便な行動なのです!)
では入る前に一度大きく深呼吸! そしておもむろにネームプレートをチェック! 今日の目標は彼女を下の名前で呼ぶところま……で……?
「へ……?」
喉の奥から甲高い声が出た。
【雛守小梅】
扉のすぐ横に取り付けられたプレートには、そう書かれていた。
(ど……ドど、どう、どういウいう……こ、ト……)
汗が流れ落ちてくる。たまらず全身が震え始める。うっかり瞳孔が開きそうになる。
破壊的に動揺を禁じ得ない。
(おばぁ、ちゃん……?)
この声が? この若々しく美しい声が? 初恋の胸キュンと初キッスのレモン味と初夜のピンクオーラを欲しいがままにした、あの……?
さっきカルテで偶然見た、この病院に五十年以上も居続けているというご高齢の方?
いや違う。そんなはずがない。
きっと孫が病室に遊びに来て、そのまま時間を忘れて話し込んで、せっかくだからおばあちゃんを寝かしつけてあげようという流れになって、でも年のせいで寝付きが悪くて、何時間も歌い続けているとか、きっとそういうオチだ。
つまりこの声の主は雛守小梅ではない。
(よし)
オチ付いた。
そうと分かれば恐い物など何もない。最初の計画通り、慎重に話を進めるだけだ。
昴は右手を目線の高さまで持ち上げ、病室の扉を軽くノックする。
歌が止んだ。歌の主がコチラに気付いた。
「し、失礼するのです」
口の中で小さく言い、昴はドアを横にスライドさせて中に一歩踏み入れた。
「誰じゃ!?」
すぐに中から警戒の声が飛んでくる。暗い室内には窓から月明かりが差し込み、パイプベッドの上に人のシルエットを浮かび上がらせている。
「そ、そんな大きな声を出さなくても大丈夫なのです。決して怪しい者じゃないのです」
死ぬほど怪しい。
が、今の昴にはバクテリアの毛穴ほども自覚がない。
「お、大きな、声……?」
シーツを胸元まで引き上げ、彼女は少し戸惑ったような様子で聞き返してくる。
つい張り上げてしまった声に、自分で狼狽しているのだろう。
「あんた、何モンじゃ」
強い訛りを含んだ喋り。
が、やはり若い女性の声だ。そして思った通り、真っ赤に熟した福乳。
あとは顔さえ拝めれば……。
「僕はココの病院で清掃員のバイトをしている者なのです。東雲昴というのです。とっても綺麗な歌だったのです。もっと近くで聞きたくて、ついつい来てしまったのです」
「き、綺麗じゃと? く……口さ上手いのぅ」
「思ったことを正直に言ったまでなのです」
言いながら昴はすり足で近寄っていく。
(もう少し……)
あともうちょっとで逆光が関係なくなる位置まで辿り着ける。
「ところでお名前をお聞きしてもよろしいのですか?」
「……雛守」
「よろしければ下のお名前も」
「……小夏(こなつ)」
(オラきたボケェ!)
予想通り雛守小梅のお孫っさんッ!
「あぁ! いや! こ、小梅じゃ! まちごうた! ワラシの名前は雛守小梅じゃ!」
が、すぐに言い直す。
しかしそんなことはもうどうでもいい。
(可愛いのです……)
確認してしまったのだから。
ベッドに上半身だけ起こし、コチラを睨み付けるようにして見ている彼女の顔を。
頬下あたりで切り揃えたセミロングの黒髪。何かを訴え掛けてくるような力を持った大きな瞳。丸みを帯び、まだあどけなさの残る顔立ち。
どう見ても十七、八だ。お婆さんなどという立ち位置からは、あまりにかけ離れている。
「小夏さん、ココで会ったが百年目の歴史。万里の長城はだいたい千六百里、千枚通しはせいぜい五十枚しか通せないので、コレも何かの縁なのです。僕とお友達になっては頂けないのでしょうか」
「わ、ワラシと、お友達……?」
昴の申し出に小夏は声を上擦らせ、左手で口元を覆い隠す。
なんと初々しい反応。日本の古き良き時代を感じさせてくれる。
経験してないけど。
「はいなのです」
深く頷き、昴は改めて小夏を見つめた。暗闇に目が慣たのか、凝視によって『ガンオブザイヤー』が活性化したのかは分からないが、入ってきた時よりは辺りが明るく感じる。
白地に桃色の水玉模様が鮮やかな、可愛らしいデザインのパジャマだった。袖口が肘先の辺りで切れており、小さめのサイズの着こなしがオシャレ感溢れてグッドだ。
ベッド横のサイドテーブルには、B6くらいのスケッチブック。小夏が扱うにしてはやや小さいように感じるが、とっても省スペースで場所を選びそうにない。枕元にある五、六個のお手玉。妙にこぢんまりとしているが、ひょっとして指先で扱う物なのだろうか? その真下の床に置かれているスリッパ。若干窮屈そうな印象を受けるが、本人は気にならないのかもしれない。
(素晴らしいのです)
女性は小さい物を好む傾向が強いとは聞いたことがあるが、ここまで徹底している人は初めてかも知れない。『小さいは可愛い』という方程式が、余程強く根付いているのだろう。立てば自分と同じくらいの背丈になると思われる彼女が、このサイズにこだわり続けるには並大抵の思い入れでは叶わない。
自分も何か一つの物を極めんとする者の端くれ。ストレートに共感できる。是非とも見習わなくてはならない。
「で、でんも。いきなりそんなこと言われても、困るけぇ……」
「何も恐がることはないのです。千里の道も一歩から。歩幅を五十センチとすれば約八百万歩。一歩一秒で歩いたとすれば、約二千二百時間。たったの三ヶ月貫徹で歩き続ければ終了なのです。大したことはないのです」
「わ、ワラシは頭弱いから、難しいことは理解できんのじゃ」
「つまりドラマを初回から最終回まで見終われば、打ち解けられるということなのです」
「そ、そうか……。なるほど……。ソレだったら、出来るかもじゃ」
「決まりなのです」
小夏の言葉に被せるようにして言いながら、昴は一歩近付いて頷く。
「今度は昼間に遊びに来るのです。もし、小夏さんのご都合がよろしいようでしたら、話相手になって頂けると大変嬉しいのです」
「わ、ワラシも、嬉しいのじゃ」
もじもじと手を組んだり開いたりしながら、小夏は恥ずかしそうに俯いた。
(いい感じなのです)
苦節二十三年。
魔王との出会いで人生を大きくドロップアウトしてしまった感があったが、ようやく人並みの幸せを掴む時が来たかもしれない。このまま順調に小夏と仲良くなって、互いのことを知っていけば――
『いねやボケ!』
突然、羽ばたき音と共に後ろから罵声を浴びせられ、昴はそちらに振り返った。
「静かにせぇ! 西九条! 近所迷惑じゃろが!」
直後、またも後頭部に叫び声が突き刺さる。
いや、あの……あなたの声の方が遙かに大きい気がするんですが……。
「すまんのー、東雲さん。堪忍じゃ。口の悪い九官鳥での。ワラシはなーんも教えとらんのに、ガラの悪い言葉使いよる」
「はぁ……」
もう一度目を凝らして前を見つめる。天井から吊られたかごの中で、目つきの悪い黒鳥が片足立ちになって威嚇していた。
小夏のペットということか。にしても関西弁自動翻訳機能付きとは……。最近の生態系の変化の速さには目を見張るものがある。
「鳥目じゃけぇ、急に東雲さん出てきたみたいに見えて、びっくらしたんじゃ思う。堪忍な。昼間は多分、大丈夫じゃ思うきに」
「了解なのです。僕は全然気にしてないのです」
『おどれのことはどーでもええ。もう来んなやボケェ』
「西九条!」
『チッ……』
舌打ちし、そっぽを向く西九条。そしてコチラに向けた片足を、貧乏揺すりでもするかのように痙攣させる。
「今晩よーにゆーて聞かせとくから。気ぃ悪せんとまた明日来て貰えんかの?」
「勿論なのです。必ず来るのです」
『生きとったらなー』
かっちかっちとクチバシを鳴らして、イヤらしく言う西九条。
『ガンオブザイヤー』を殺生目的で使用するのは気が引けるが、有事の際にはしょうがない。正当防衛も成り立つ。
――邪魔者には死、あるのみ。
「ではまた明日ー。楽しみにしてるのですー。お休みなさいなのですー」
「お休みじゃけぇ」
自己ベストのスマイルを浮かべ、昴は軽く頭を下げてドアの方に向かい、
「あっ! そ、それと! ワラシの名前は小梅! 雛守小梅じゃ! 間違えんでねぇぞ!」
慌てた様子の大声が背中に飛んできた。
「分かったのです、小梅さん。では、また」
開きかけたドアをしっかり閉め直し、昴は小声で返した。
感情豊かなのは良いことだが、彼女は気持ちが昂ぶると周りが見えなくなるタイプのようだ。自分と真っ直ぐ向き合い、心清らかに邁進できている証拠。
嗚呼、青春。素晴らしい。
あとは他の人の迷惑になっていなければ、言うことはないのだが……。
(いない、か……)
小梅の病室から顔だけを外に出し、昴はきょろきょろと周りを見回す。
頼りない明かりでぼんやりと照らされた廊下には、自分以外誰もいない。更衣室覗き中のように静まりかえっている。
(よし、なのです)
確認して部屋から抜けだし、昴は後ろ手に扉を閉める。
どうやらさっきの騒ぎは外に漏れなかったようだ。部屋の防音性能が優れているんだろう。さすが療養病棟。一般病棟とは訳が違――
「東雲さん?」
横手から声がして昴はそちらに顔を向ける。見ると曲がり角の影から、ナース服を着たザーマス眼鏡がこちらを見ていた。
やばい……婦長だ……。
「は、はい。僕なのです。べ、別にサボっていたわけじゃないのです。もう少しでサボろうとしていただけなのです。未遂なのです。セーフなのです。テストで言うところの三十二点くらいなのです。赤点ギリギリなのです」
「静かになさい」
ギラン、とザーマス眼鏡が鋭い輝きを帯び、コチラの神経を射抜く。たったソレだけで昴は膝カックンでもされたかのように体の自由を奪われた。
「あなたが今立ってる部屋から、鳥の声がうるさいってナースコールがあったの。何か聞こえた?」
後ろ……小梅の病室から……西九条の声……。
ちなみに焼き鳥は塩派だ。
「さ、さぁ……? 僕は何も聞いてないのです。ずっと近くで掃除をしていたですが、特に気になることはなかったのです」
別に悪いことをしたわけではないのに、口が勝手に言い訳してしまう。コレがザーマスビームの威力というヤツなのか……。
「そう。ならいいのよ。じゃあ早く仕事に戻りなさい」
「わ、分かったのです」
冷や汗を掻きながら昴は婦長の隣りを通り抜け、
「ああそうそう、東雲さん」
通り過ぎようとしたところでまた声を掛けられた。
「今日のことはカルテ拾ってくれたお礼に不問ってことにしといてあげるけど、その子には近付かない方が良いわ」
まるでコチラの内面を底まで見透かしたかのような、浸透性のある声。
「クビ、切られるわよ? その子絡みで辞めさせられた人とか、飛ばされた人とか、大勢見てきたから」
ソレは忠告のようでもあり、逆に煽っているようでもあるミステリアスな響き。そして――
「その子、院長のお気に入りだから」
エロティック。
(お、お気に入り……)
見た目は齢九十のご老体。しかしその正体は、性欲を持てあました『ガンオブザ股間』。永遠の若さを手に入れるため、夜な夜な少女の甘い蜜を求めて院内をさまよい歩く。その姿、まるで淫蝶のごとし。さぁ今宵はどの華が美味そうか。どの華を散らしてくれようか。
(おのれ……)
羽根をもがれて飛べぬ鳥はもはや鳥ではない。焼き鳥だ! 汗という名の塩味と絡めて、美味しく丸ごといっただっきまっす!
(ぅおのれぃ!)
貴重な福乳が老害の魔の手に! 断固として阻止せねばならん!
「だからあなたは大人しく掃除を……」
「邪魔者には死、あるのみ」
「へ?」
「感謝するのです、婦長さん。大変貴重な情報、ありがとうなのです」
迷いはない。
決めた。たった今決断した。
この件が解決するまで、病院から出ない。
小梅の身の安全が保証されるまで、一歩たりとも外に出ない。なんとしてでも守り通す!
(『ガンオブザおっぱい』の名に掛けて!)
ギィン! と、窓の外を睨み付け、昴は固く決意した。
「あーはっはっはっはっは! 来るなら来い! 魔王直伝の変質技を見舞ってくれるわなのです! ゲーラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!」
「ちょ……! バカ……!」
大きく開けた口に拳を突っ込まれ、昴はスライド移動でその場を後にした。
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