間違いだらけの手毬歌、してくれますか?

第二話『いや、色々と意味が分からない』

◆黒岩菊華の『バカとハサミと変態は使いようですわ』◆
 ああ、もう。思い出しただけでも腹の立つ。
 院長め……人を見下しきった言い方をしてくれて……。仮にもグループトップの娘に対して失礼だろう。いや、それ以前に人への接し方というところから問題がある。
 何なんだあの爬虫類のような目つきは。何なんだあのゴキブリホイホイのような嫌味は。

『お嬢様のお気遣いは大変有り難いのですが、大人しく勉学に励まれた方がよろしいかと。ああそうそう。最近ちまたでは、一単位十万円くらいが相場らしいですよ。ご参考までに』

(馬鹿にしてますわ!)
 裏取り引きしなければ留年するとでも言いたいのか。下らない。
 三年になるのに必要な学業はもう全て修めた。スポーツだって大体はこなせる自信がある。人脈だって要不要を無駄なくより分けて、後悔などない物に仕上がっているはずなんだ。
 それを自分の病院の経営すら立て直しきれない院長などに――
(い、いけませんわ……)
 際限なく膨らんでいく黒い思考に、菊華は自分で待ったを掛けて顔を上げた。
 一階ロビー。天井が総ガラス張りとなり、温かな陽光が差し込んでくる明るい空間。半円形をしたカウンターの向こう側では、ナース達が朗らかな笑顔を振りまきながら業務に励んでいる。
 彼女達も当然、嫌なことくらいあるだろう。
 職場の人間関係、度重なる残業、上がらない給料。
 だが、そんなことは全く表情に出さず、ああして誠心誠意患者への対応を続けている。
 是非、見習わなければならない。
 少しくらい嫌味を言われただけで、感情を高ぶらせているようではダメだ。もっと自分をコントロールしないと。できるだけ一人でやっていくためには自制は不可欠だ。
(落ち着いて。もっと冷静に、客観的に……)
 そう。院長があんな言い方をしたのも、ある意味ではしょうがないことなんだ。
 実際に経営の側に立ったことのない小娘などに何が分かるというんだ。この忙しいのに、わざわざ時間を作って面会してやっただけでも有り難いと思って欲しい。そうやって聞いてやった話の内容が、今自分が最も頭を痛めていることとなれば、嫌味の一つや二つ言いたくもなるさ。
 院長の立場になって考えてみれば、彼の言動は極めて自然なんだ。
 そして二度とこんな下らないマネをさせないためには必然ですらある。

『まぁ、病院という施設柄、誰かから身に覚えのない恨みごとを買うのは致し方ないことかもしれませんな。ひょっとすると、手術などが上手く行かずに亡くなってしまった方の悪霊や怨霊が関与しているのかも。例えば、いつ誰が考えたのかは知りませんが、七不思議なんていう物がウチにはありましてね――』

 一つ。療養病棟七〇八号室からは、夜な夜な人外の声が漏れ出てくる。

 二つ。この病院の地下は戦時中に死亡した兵士達の共同墓地になっており、夜耳を澄ますと時折銃声が聞こえる。

 三つ。霊安室には開かずの箱があり、そこには手術で失敗した人の体を継ぎ接ぎして生み出された不死者が眠っている。

 四つ。夜の十二時、一般病棟旧館の三階にある女子トイレで鏡をみると、自分が死ぬ時の顔が映し出される。

 それ以上は口にしなかったが、あれは恐らくコチラの顔色を見てもう十分だと判断したんだろう。あの時、自分で一体どんな表情をしていたのかは分からない。だが、薄く細めた目でニンマリと嗤っていた院長を見れば大方の予想は付く。
 多分、見ていたらトラウマになるかもしれないくらい、情けない顔になっていたんだろう。もしかすると一生物の汚点を心に刻んだかもしれない。
 認める。ああ、認めるさ。
 自分はオバケとか幽霊とか、そういうオカルトの類が苦手だ。頭に超特大が付くくらい苦手だ。とにかくダメなんだ。理由は分からないが生理的に受け付けないんだ。考えただけで体温が下がっていくのが分かるくらいに拒絶反応を示すんだ。
 そのことを院長に見抜かれてしまった。いや、ひょっとするとあらかじめ知っていたのかもしれない。それでいきなりあんな話を。平気な人間にとってみれば、『そんな下らないことを言っているから経営が傾くんだ』と付け入る隙を与えかねないような話を。
(舐められたものですわ……)
 強ばった頬の筋肉を無理矢理動かして口の端を上げ、菊華はソファーから立ち上がって大きく息を吐いた。そして黒いロングスカートの皺を伸ばし、シルク製のリボンブラウスの胸元を正す。
 まったく、軽く見られたものだ。たかが一度くらい弱点を突いただけで、あんな勝ち誇ったような顔をされるなど。そのくらいのことで引き下がるとでも思っているのか?
 逆だ。全くの逆効果だ。院長は自分の闘争本能を千尋の谷へと突き落としてしまった。
 面白い。ちょうどいいじゃないか。
 どうせ遅かれ早かれ、乗り越えなければならない壁だったんだ。
 克服してやる。今すぐに。たった一人で。絶対に誰の手も借りずに。それが必須なんだ。
(真宮寺太郎様……)
 彼のようになるためには。
 明日は月曜日。昼間は大学に行かなければならない。
 自分は単位を取るために講義を受けているのではない。己を高めるために出席しているのだ。
 となれば、この病院に来るのが夜になるのは自明の理。
 おあつらえ向きだ。舞台設定は整っている。全ては自分にとって追い風となってくれている。
 ……とはいえ。
(今日も当然頑張りますわっ!)
 昼間は手を抜くということではない。早期に解決するのであれば、それが最も好ましい。
 昨日はこの建物の中を可能な範囲で実際に歩き、人や設備の配置、医者と患者の割合、職員の患者への接し方、構造物の老朽具合、掲示物の読みやすさ分かりやすさ、料金体勢を確認した。そして現状と問題点を把握した。
 出た答えは“ベッドの数は余っている。しかし人の数は足りていない”だ。
 ネームプレートの掛かっていない病室が百六十部屋あった。この白雨病院のベッド数は約四百床だから、全て個室だとしても三分の一以上は無人という計算になる。特に空き部屋は療養病棟に集中していた。
 しかし職員の数は八十名程度。内、二十名は医師だから、看護師は最低でも一人で四人もの患者の面倒を見なければならない。
 明らかに負担が大きい。
 そうなれば心に余裕がなくなり、サービスは悪化し、患者は離れていく。小学生でも分かる理論だ。
 恐らく経営が悪化している理由はこれだけではないだろうが、たった一日見て回っただけで諸悪の片鱗が見えてきた。もう少し突っ込んで見れば、まだまだ埃は出てくるはず。
 それら全てを洗い出し、次はどうしてこうなってしまったのかを明確にしなければならない。その上で院長に話を持っていけば、今よりはまともな議論になるだろう。
(よしっ、ですわっ)
 胸中で自分に活を入れ、菊華は女豹のように鋭角的な瞳を大きく見開く。
 今日は患者や看護師から生の声を聞き出したい。一人一人とフランクに会話して、正直なところを聞いてみたい。特に不満点を重点的に。
(さて……)
 誰にしようか。人の数が少ないとはいえ、四百床も抱える大病院だ。ざっと見回しただけでも十数人は目に入る。
 待合いのソファーで編み物をしている高齢の方。走り回る子供を叱りつける母親。床にモップを掛けている清掃員。カルテを持って走り回っているナース。そして――
(ちょ……)
 何だ。アレは。
 いや、“何だ”というか、どこのゴキブリストーカーだ。
 カウンター横の円い柱。比較的死角の多いスペース。背の高い観葉植物と一体化するようにして隠れ……ようとしている努力は認めるのだが、血走った眼光と荒い息遣いのせいで、本当に今にも一体化しそうなのが逆に恐い。
 怪しい儀式の真っ最中なのか、あるいは発情しているのか、それとも光合成できないことが不満なのか。
 何にせよ怪しさ超新星爆発級であることに変わりはない。
 あまりの変質者ぶりに、きっと誰も近付きたがらないのだろう。この病院は警備員もろくに置いていないのか。こういう輩を野放しにしているから、経営を立て直しきれないんだ。傾斜が一時期より緩やかになっただけで、下がる一方なんだ。精神衛生の確保など、最低限守られていなければならないことだというのに。
「ちょっと、あなた」
 腕を組んで胸を張り、菊華は高い位置から不審者を見据えて近寄る。が、反応はない。
「あなた。あなたに言ってるんですのよ」
 カッ、とブーツヒールの踵を鳴らして立ち止まり、菊華は男に高圧的な声を掛けた。
 充血しきった瞳に、ひっひっふーという呼吸法、それに異様に伸びた犬歯を除けば、至って普通の成人男性だった。
 程良い長さに切り揃えられた黒髪。灰色のつなぎに包まれた、取り立てて特徴のない体つき。背丈は自分よりも低い。脚はやや長めかもしれないが、自分よりは短い。
 全くもって“普通”の範囲だ。
(ハッ、こんなもの……)
 オバケに比べれば、ゴキブリの団体さんほどの凄みもない。楽勝だ。
「聞いてますの? あなたがこれから何をしようとしているのか知りませんが、ドきっぱり言って汚らわしいですわ。早急にその態度を改めなさい」
 しかし反応はない。
 彼はただじっと一点に視線を集中させたまま、肉食動物のような呻き声を漏らしている。
(生意気ですわ)
 自分の言葉など聞く価値なしということか。院長といい、この男といい、人を馬鹿にするにも程がある。
「返事くらいなさい! この変態!」
「おっぱいなのです!」
 パァン! という小気味良い音が、ロビーホールに響き渡った。
 右手にわだかまる熱い感触。涙目になってこちらを見つめる変態。
「痛いのです……」
 自分は……一体何を。しかし今さっき、公衆の面前で卑猥な言葉が大声で……。
「そんな、“静かにしてくれ”と“おっぱい”を言い間違えたくら――」
 パパァン! という連続音。変態は両頬を押さえ、涙を流しながら訴えかけてくる。
「い、いきなりヒドいのです……」
「酷くなんてありませんわ! あなた! 自分で何をおっしゃっているのか分かってますの!? 異常ですわ! 悪質ですわ! 外道ですわ! そんな……そんな言葉をよくも……。信じられませんわ……」
 ズキズキと痛み始める頭を押さえながら、菊華は侮蔑の眼差しで変態を睨み付けた。
「あのー、院内ではお静かに願いたいんですけどー……」
 と、横手から声を挟まれ、菊華はハッと我に返ってナースの方を見る。
 いけない。またつい感情的になってしまった。
「も、申し訳ありませんわ。ワタクシとしたことがつい……」
 そうじゃないんだ。もっと自制しないと。物事を冷静に判断するために。できるだけ一人でやっていくために。母親のようにならないために。真宮寺太郎のようになるために。
「と、とにかく。あなたも馬鹿なマネはやめて、帰るなり大人しく待つな――」
 いない。
 さっきの変態がどこにもいない。
 ちょっとナースの方に目を向けた隙に消えてしまっている。
(そんな……)
 だって数秒前までは確かに目の前で……。
「あの、東雲さんでしたらあらちに……」
 ナースが手で指してくれた方に目を向ける。カウンターの前を通り抜け、療養病棟へと続いている廊下の突き当たり。三機のエレベータが立ち並んだ小ホールの手前に、例の変態の姿はあった。
(いつの間に……!)
 あんな所までどうやって。殆ど音も立てることなく。
 ――って。
「東雲、さん……?」
 今、そう言わなかったか? このナース。
「はい。ウチで清掃員のバイトをしてくれてる方なんです。ちょっと変わってますけど、素直でとってもいい人ですよ。ただ深夜清掃担当で、あまり会えないのが残念ですけど」
 “ちょっと”変わってる、だと? これがか? 五十メートル以上もの距離を一、二秒で駆け抜ける超駿足がか? しかも気配を無にした忍び足で。
「仕事もすんごく良くできて。深夜清掃は彼一人なんですけど、一晩でちゃんと全部回ってるみたいなんですよ。療養の方は昨日からかな? 凄いですよねー。私も見習わないと。ここ、ただでさえ忙しいから」
 もはや洗脳されているとしか思えない。四百床規模の清掃を一人で、一晩で……? 
 そんな非常識な行動、普通の人間ができるはずな――
(いや……)
 待て。違う。そうじゃない。一人だけ思い当たる人間がいる。
 四百だろうが、千だろうが、一億だろうが。数や広さに関係なく、いかなる束縛をも受け付けない。突然目の前で恐竜が盆踊りを始めようが、浮上したムー大陸から徳川埋蔵金が発掘されようが、太陽と月が逢い引きして結婚適齢期が引き下げられようが、そんな物は関係ない。興味もない。見向きもしない。呼吸もしない。いないいないサンタクロース。
 そう。非常識の名を欲しいがままにした、スーパーマンもキョンシーも信じていない自分が唯一――
(まさか……)
 脚が勝手に動き出す。一歩踏み出すごとに歩幅が大きくなる。
 じっとなんかしていられない。確認しなければ。今すぐに。
 彼を追い掛けて聞かなければ。あなたは――
「真宮寺た……!」
 消えた。
 跡形もなくなった。
 コンマ数秒前まで視界の中にあったはずの彼の姿が、今どこにも。その代わりに、
「それ以上言うな」
 自分の口を押さえているこの手は――
「死にたくなかったらな」
 この低い声は。
「今から手を離す。が、さっきの続きは地球が崩壊しても言うな。でないとこの世の存在その物が崩壊する。いいな」
 殆ど条件反射的に菊華はコクコクと何度も頷く。
「よし……」
 そしてゆっくりと、慎重に手は離れていき、
「や、やー、ビックリしたのです。まさか滅びのコトバを知ってる人がこんなトコに……。あー、今ので確実にひひひ孫までの寿命が半分になったのです」
 軽く平和な声が後ろからした。
 もう何が何だか訳が分からず、菊華は顔をしかめて呻きながら後ろを向く。
 立っていたのは例の変態だった。しかし先程までのアブない雰囲気は微塵もなく、愛嬌のある八重歯を覗かせて笑う好青年がそこにいた。
「とにかく、どこで知ったのかは知らないですが、そんな危ないコトバはさっさと忘れてしまうのです。まっとうな大人になれないのです」
 顔の前で人差し指を立て、彼は柔らかい物腰で言う。
(別、人……?)
 そう見まごうほどの豹変ぶりだった。では少し前まで自分が目にしていたのは何? ひょっとして凄くよく似た双子の……。
「せっかくいいおっぱいをして――」
 バシィ! とけたたましい破砕音がロビーホールに響き渡り、変態はエレベーターの方まで吹っ飛んだ。
 最低だ。最低の最悪の最憎の最汚らわしいだ。
 こんなゴキブリ以下の人種が、息をしているということがまず信じられない。自分と同じ体の作りをしていると思うだけで吐き気がしてくる。
 あんな、あんな言葉をよくも平然と……!
「――っは! こんなことをしてる場合じゃないのです! しまったなのです!」
 突っ伏した体勢から額の力だけで起き上がり、変態は上の方を睨み付ける。
「やっぱりなのです!」
 そして舌打ちしながら叫ぶと、エレベーター横にある階段を駆け上がって行った。うおおおおおおぉぉぉぉぉぉ! という雄叫びが尾を引いて階上へと呑み込まれていく中、菊華は放心したようにそちらを見つめ、
「東雲さん、いっつも元気ですよねー。私も見習わないとっ」
(……は!)
 いつの間にか隣りにいたナースの声で現実に引き戻される。
「まっ、待ちなさい!」
 硬直しきっていた体を強引に動かし、菊華は変態の後を追って階段へと駆け込んだ。
(逃がしませんわ!)
 まだ言いたいことが沢山あるんだ。聞きたいことが沢山あるんだ。
 病院内でのマナー、白昼堂々のふしだら発言の訂正、正しい光合成についての知識、そして真宮寺太郎のこと。
 逃がすか。絶対に逃がしてなるものか。
 ひょっとしたら、彼自身が真宮寺太郎かもしれないのだから……!

 息を切らせ、意識を切らせ、命を切らせかけて、菊華は脚を止めた。いや止まった。止まってしまった。止めざるを得なかった。
(な、情けっ……ない、ですわっ……)
 ひぃはぁひゅぅ、と荒く呼吸しながら、菊華は廊下の壁に手を付いて肩を上下させた。喉の奥が張り付いているのが分かる。目の焦点がいつまでたっても合ってくれない。完全に酸欠だ。 
 そもそもブーツヒールとロングのタイトスカートで、階段を走り上がること自体間違っている。ヒールが折れなかったことが奇跡的だ。心は今にも折れそうだが……。
 一体どのくらい上まで来たのだろうか。窓の外を見る。かなり高い。踊り場近くに掲示されている階層案内図を見る。
(七階……)
 アクリルボードに入れられたポスターサイズのフロアマップには、薄紅色の数字で「7」と書かれていた。
 確か、あの変態の声がこの辺りで横に移動したと思ったのだが……。
 しかし一階や二階分くらい間違えていたとしてもおかしくない。なにせ自分が階段に脚をかけた時には、すでに五階くらいは上にいたのだ。信じられない身体能力だ。例え血液がニトログリセリンになったとしても、あの瞬発力は生み出せないだろう。
(やはり……)
 彼の正体は――
「ついに決定的現場を押さえたのです!」
 いきなり聞こえた大声に思考を中断し、菊華は顔を上げて前を見た。
 いる。このフロアにいる。間違いなくいる。
 あのゴキブリ並の隠密能力と、ゴキブリ並のダッシュ力と、ゴキブリ並の生命力と、ゴキブリより遙か下の変態能力を持った最低変態がこの近くにいる。
「もうお前の好き勝手には触って揉んでむしゃぶりついてなのです!」
(こっちですわ!)
 声の上がった方に向かって駆ける。
「何かね、君は。警察を呼ぶぞ」
(近い!)
 更に駆ける。
「僕は一生の女性を探してさまよう精神美のスナイパーなのです!」
「……精神病患者か」
(そこか!)
 も一つ駆ける。
「とにかく彼女は僕の大切なおっぱいなのです!」
「キイィィィィエエエエェェェェェィ!」
 そして埋め込んだ。
 ヒールを。根元まで。
(……は!)
 そして気付く。自分のしてしまったことの重大さに。
(い、いけませんわ、ワタクシとしたことが……。こんなお下品な言葉遣い)
 ああ、何ということだ。生まれてからずっとお嬢様教育を受けてきたというのに……。しかもこんな公共の場で、豪快にドロップキックをかましてしまうなんて。春日グループの跡継ぎであり、黒岩家の長女として、末々々々代までの恥だ。
「いっそ死んでしまった方が……」
「トドメをさされてたまるかなのです」
 倒れていた黒い影が起き上がったかと思うと、こめかみからだぁーぼとぼとぼとと血を垂れ流しながら恨めしい声で言ってくる。
「ヒィ……!」
 裏返った声で悲鳴を上げ、菊華は近くにあった物陰に身を隠した。
「な、なななナナナナななナ何なんですの……!?」
「それは僕のセリフなのです」
「いや、私の台詞だ」
 耳の奥にこびり付いた声が、昨日の嫌な記憶を掘り起こす。
「誰かと思えば、春日グループのお嬢様ではありませんか。上流貴族階級であるあなた様が、日頃このような立ち振る舞いをされていることをお母様がお知りになったら……さぞかし悲しまれることでしょうなぁ」
 肩越しにこちらを振り返り見ながら、隠れ蓑にしていた男はイヤらしく顔を歪めて言った。
「院長……先生……」
 血反吐でも吐くかのように苦々しく言い、菊華は後ずさって身を離す。
 小さな頭を覆う髪は全てが白。額、頬、目尻、口元、顔の至るところに深いシワが刻まれ、老眼鏡の奥からは堪らず反感を覚えてしまうような視線が漏れ出している。
「昨日のアポなしミーティングもそうでしたが、病室での暴力行為はそれを遙かに凌ぐ非常識さだ。春日の品位も落ちたものですな」
 ネクタイの位置を直し、綺麗にアイロン掛けされた白衣の裾を手で払いながら院長は言った。
「とにかく二人とも出ていきなさい。不謹慎極まりない行為だ。今回だけはご令嬢の顔に免じて不問とするが、次同じようなことがあった場合はそれなりの措置を取らせて貰う。いいね」
 背筋を伸ばし、眼光を鋭くして剣呑に言い放つ院長。とても九十歳を越えるご老体には見えない。自分より頭一つ分は低い背丈のはずなのに、妙に大きく感じる。
「そ、それは……大変、申し訳ありませんでしたわ……」
 院長から五歩ほど離れたところで、菊華は言葉を詰まらせながら頭を下げた。
 悔しいが今回ばかりは彼の言うことが正しい。体の悪い人がいる前で暴れるなど言語道断だ。しかし元はと言えばこの男が――
「謝るのはお前の方なのです!」
 この、男が……。
「夜だけでは飽きたらず昼間まで侵入してくるとは! 職権乱用なのです! 福利厚生なのです! 助平親父なのです!」
 この、変態ゴキブリが……。
「さっき小夏さんの手を握ったのが何よりの証――」
 この……変態、流血ゴキブリ、が……?
「イッテェなのです! 邪魔するな西九条なのです!」
 後頭部から入ったクチバシが額まで突き抜け、それでも変態は元気一杯に鳥の首を締め上げる。ギャワーッ! ギョワーッ! とつんざくような鳴き声を病室内に轟かせ、黒い鳥は変態の手から逃れようともがいた。
 あの鳥は、一体どこから……? あの窓際の大きな鳥かごから……? けど、かごの出入り口は閉まったままなのに……? え……? 通り抜けられるほどの隙間なんてないのに? え? え……?
「ええぃ、細かい奴なのです。分かったのです。僕が悪かったのです」
 自分の頭から鳥を引っこ抜いてかごの中に戻すと、変態は咳払いを一つして院長を睨み付け直す。
「そんなわけで小梅さんは今日から僕が守るのです! もう大丈夫なのです小梅さん!」
 そしてベッドの方に顔を向け、力強く宣言した。
 そこにいたのは小柄で可愛らしい少女だった。ボブカットの黒髪を揺らし、小動物のような愛くるしい瞳で変態と院長を見比べている。
 元々気弱なのか、ただ圧倒されているだけなのか、上半身をベッドの上に起こした体勢のまま何も言えずに小さくなっていた。口元に当てた手は完全に袖で覆われ、パジャマを着ているというよりは、“着られている”といった印象が強い。
 どうしてこんな大きめの服を着ているのかは知らないが……保護欲を掻き立てられるのは間違いない。
「君は……」
 院長が呟いた声に、昴は豆鉄砲を食らったように振り向いた。
「いや、何でもない……」
 口の中で薄く笑い、院長は言葉を呑み込む。
 ……何だ? 急に大人しくなって。何か聞き捨てならないことでも――
「今更謝っても遅いのです! だから今、更に謝るのです! そして誓うのです! もう二度と小梅さんに手を出さないと!」
「君は、なかなか面白い男だな」
 喉を鳴らして愉快そうに笑い、院長は老眼鏡を取って白衣のポケットにしまった。
「雛守君のそんな表情は久しぶりに見たよ。いつもあんなに冷たい顔をしているのに、君には何か特別な感情を抱いているようだ」
「結ばれるために生まれてきた仲なのです!」
 迷うことなく断言した変態に、院長はまた低く笑う。
「そうかそうか。若さとは素晴らしいな。元気がいいのは何よりだ。その調子なら、君が雛守君を護れるかもしれないな」
 何かを確かめるようにゆっくりと言いながら、院長は何度か浅く頷く。そして老眼鏡を掛け直し、出入り口の方へと向かった。
「まだゴメンナサイを聞いてないのです!」
「私はこの五十年、自分が間違いを犯したと思ったことは一度もない」
「なら今がまさにその時なのです!」
「多分この騒ぎでナースか看護士達がここに向かっているだろう。彼らには私から言っておくよ。何もなかったとな」
「ゴメンナサイするのです! 小梅さんのおっぱ――」
「チョワァ!」
 爪先に確かな足応え。
 変態の顎が跳ね上げられ、中空で綺麗な放物線を描いて床に吸い込まれていく。ゲェゥ! と、ゴキブリを食べたカエルが潰れたような音がして、前衛的なデザインのオブジェが完成した。
(……は!)
 な、何ということを……。
(また、やってしまいましたわ……)
 一度ならず二度までも。自分としたことが、学習もしないなんて……。もうこうなったら――
「あなたを殺してワタクシも出家しますわ!」
「繋がってないのです!」
 額の力だけでゴワバァ! と跳ね起き上がり、変態は凄絶な視線でこちらを睨み付けた。
「さっきから何なのです! こっちは取り込み中なのです! いいところなのです!」
「あなたこそ何なんですの! そんな表面張力を利用した詐欺行為みたいに怪しいことを連発して!」
「表面張力は偉大なのです! あの盛り上がり感はたまらんのです!」
「そんなこと聞いてませんわ! 大体あなたみたいに非常識を型に流し込んでゴキブリと一緒に冷まして固めたみたいな変態――」
 そこまで言って菊華はハタと思い出す。自分がこの変態をここまで追ってきた理由を。
 そうだ。確認しなければ。そのために七階まで階段で追い掛けてきたのだから。そのためにこの七〇八号室までやってきたのだから。
 菊華は静かに身を引いて変態と距離を取り、乱れたストレートの黒髪を手櫛で整える。そして深呼吸を二回して気を落ち着け、力のこもった瞳で変態を射抜いた。
「ズバリお聞きしますわ」
「すとおっぷぃ!」
 が、声は途中で遮られる。
「もし、今口にしようとしているのが例の人のフルネームなら、僕はそれを全力で阻止するのです。ただし名字だけなら問題ないのです。なわけで僕から逆に聞くのです。あなたが今、僕に尋ねたいのは、真宮寺、という生命体についてなのですね?」
 一つ一つ言葉を選ぶようにして、変態は丁寧な口調で聞いてくる。
 顔面は蒼白で、声は超音波並に震えているが。
「……ええ、そうですわ」
 何だか納得がいかないが、言っていることに間違いはないので頷いておく。
「まず、僕は、あの人では、ないのです。僕は、東雲、昴。しがない、清掃員なのです」
 ただの清掃員がどうして高速隠密移動できたり、超回復能力を持っていたり、額にバネが仕込まれていたりするんだ。
「だから、二度と、僕の近くで、その名前を、言わないで、欲しいのです」
「……言ったらどうなりますの?」
「死ぬ」
 急に真顔に戻り、東雲昴という名の変態はシブい声で言った。
「消える」
 そして付け加える。
「存在核を破壊される」
 更に付け加える。
「とにかく、それは、滅びのコトバ、なのです。誰から、中途半端な、情報を、聞いたのかは、知らないのですが、忘れるのが、一番、なのです」
 また気弱な表情に戻り、昴は短いフレーズをいくつも並べて言葉を作り上げた。
 忘れろと言われて素直に忘れる人間がどこにいる。ますます気になってしまったではないか。
 だが取り合えずこの男は真宮寺太郎ではなさそうだ。いや、真宮寺太郎のはずがない。絶対に真宮寺太郎であってはならない。
 コイツは真宮寺太郎に心底恐怖している。あれは演技などではない。つまり別人ということだ。
 安心した。自分が理想としている人間が、こんな情けない奴だったら絶望に打ちひしがれて出家するところだった。
 しかし、真宮寺太郎のことを何か知っていそうなことは確かなようだ。
 母親に聞いても、調査機関に依頼しても、漠然としたまま何も分からず、ただこちらの好奇心をイタズラにこねくり回すだけだった、あの真宮寺太郎という存在を。この東雲昴という人間の着ぐるみを被った変態は知っている。
 聞き出さなければ。何としてでも。財産をなげうってでも、地の果てまで追いかけ回してでも、針のむしろに正座させて煮えた油を飲ませてでも、三ヶ月断食させた後に軍人キャンプの筋トレを強いてでも、生肉を全身に巻き付けてピラニア水槽に放り込んででも――
(……は!)
 い、いけない。こんな下品な思考を……。
 どうしてだろう。この男のことになると、やたら攻撃的になるというか。別に何をしても死にそうにないから妙に安心というか……。
「で、どれがいいんですの?」
「何がなのです」
 訝しげな顔付きで聞き返してくる昴。
 い、いけない……。自分ともあろう者が、現実世界と思考世界を混同してしまった。 
 これは一度頭を冷やす必要がある。取り合えず一旦この話題から離れよう。自分が自分でなくなっていく感覚を抱えているのは、決して心地よい物ではない。
 この男の名は東雲昴。白雨病院で深夜清掃員のバイトをしている。
 それだけ把握できていれば十分だ。ただでさえ目立つんだから、次にまた見つけ出すのも簡単だろう。いや、簡単に違いない。その点に関しては自信がある。
「あなたは誰がどこからどう見ても不審者ですわ。この病院の関係者として見過ごすわけにはいきません。病院の品位に関わってきます。よって今から尋問致しますわ。黙秘権はございませんから、聞かれたことに正直に答えるように」
「けど僕はそんなことしてる暇――」
「真宮寺……」
「分かったのです! 何でも言うのです! 趣味、趣向、性癖、好きなおっぱいの形――」
「聞かれたことのみに答えろですわ」
 ヒールの踵で昴の額を割り、菊華は険しい表情で腕組みしながら言う。
「わ、分かったのです……」
「あなたが院長を付けていた理由は何ですの?」
 どっくんどっくんと惜しげもなく溢れ出る血を拭う昴に、菊華は冷たい声で聞いた。
「あの変態は小梅さんにとって有害なのです。だから排除しなければならないのです」
「どう有害ですの?」
「例えばおっぱ――」
「どうやって排除するつもりですの?」
 ヒールの爪先で昴のみぞおちを抉り込み、菊華は質問を続ける。
「と、とにかく、二度とこんなことはしないと、お……胸のふくらみに掛けて誓わせて……」
「甘いですわ」
 ドキパっと言い切り、その場にうずくまって、えうぅぅと呻き声を漏らす昴を見下ろした。
「そんなことくらいで人を悪事を止められると思ったら大間違いですわ。ましてや相手はあの院長。表と裏と真表と真裏の顔を使い分けることくらいワケないですわ」
「で、ではどうしろと……」
「弱みを握る。これが一番手っ取り早い方法ですわ。不正の現場を押さえ、物的証拠を掴み、それを完膚なきまでに突き付ける。反論の余地はありませんわ」
「そ、それならさっき、アイツが小梅さんの手を握って……」
「ぬるいですわ」
 ハンっと鼻を鳴らして嘲笑を浮かべ、菊華は昴の頭をヒールで踏みつける。
「そんなの触診の一言ですませられますわ。そもそも手を握るくらいじゃ、いかがわしい行為に入りませんわ。もっと致命的で、もっと破滅的な行い、あるいはそれを十分に証明できうる論理的で信頼性の高い情報。そういった物を入手しない限り、あの院長を堕とすことは不可能ですわ」
 くっく、と口の端に不敵な微笑を浮かべ、菊華は目つきを鋭くして虚空を射抜いた。
 そうさ。その通りだ。自分の言葉ながら説得力がある。
 あの院長が一筋縄で行かないことは、昨日のミーティングでよく分かった。いきなり天守閣を攻めてもダメなんだ。もっと地盤を固めないと。院長を動揺させて、冷静さを奪い去って、こちらの傀儡にできるくらいのスキャンダルを掴まないと。
 あるはずんだ。絶対に。この病院の経営をここまで傾かせた原因がどこかに。一部の者だけが知っていて、必死に隠そうとしてる何かが。
 見付け出さねば。暴かねば。
 春日グループ現オーナー、黒岩亜美の長女の名に掛け――
(……は!)
 ま、まただ。またしてもやってしまった。知らない間にテンションが妙な方向に上がってしまう。きっとこれもこの変態のせいだ。この変態が気弱で自信のないゴキブリのような視線を向けてくるから……。
「と、とにかく。あなたの目的がそういうことでしたら、ワタクシも協力してあげてもいいですわ」
 コホン、と咳払いして昴の頭から足をどけ、菊華は一歩引いて腕を組み直した。
「ワタクシも院長先生にお願いしたいことがありますの。ただそのためには、あなたが今から掴もうとしている情報が必要ですわ」
 彼は小梅というこの病室の患者を救うために院長を何とかしたい。自分はこの病院の経営を立て直すために院長を何とかしたい。
「今のところ利害は一致しているはず。いかがかしら?」
 ストレートの黒髪を右手で梳き、菊華は試すような視線を昴に送る。
 本当は一人で何とかするつもりだったが、まぁいい。志を同じくする協力者がいてくれれば、効率的に事が運ぶのは間違いないんだ。
 それにこの男の変態的な力、最初見た時はドン引き物だったが、今はもうすっかり慣れてしまった。我ながら恐ろしい適応力だ。まぁ母から聞いていた真宮寺太郎の力よりは、遙かに常識的だったからかもしれないが。
 とにかく使えそうだ。
 調査を進める上で、どうしても力押ししなければならない部分もあるだろう。行き詰まった時、壁を力ずくで壊さなければならないこともあるだろう。誰かを洗脳したり、記憶を消したり、操り人形にしなければならない場合もあるはずなんだ。
 だからそういう時にはきっと役に立つ。
 それに真宮寺太郎のことも、ゆっくり聞き出さなければならない。
 なにより夜の病院も歩き慣れているだろうから、お供としては丁度良い。これで少しは幽霊とかオバケとか、そういう物から恐怖を紛らせることが――
(……は!)
 な、何を言ってるんだ自分は。べ、別に幽霊とかオバケとかはどうでもいい。ただ暗がりでの道案内役として打って付けだと思っただけだ。本当は一人でもできる作業なんだ。ただ効率を考慮すると、やはり二人の方が……。
「分かったのです」
 前からした昴の声に菊華は思考を中断し、そちらを向いた。
「確かにあなたの言う通りかもしれないのです。僕は一刻も早く小梅さんを自由にしてあげたいのです。そのためなら何だってするのです」
 八重歯を覗かせながら爽やかに笑い、昴は真っ直ぐな視線でこちらを見つめてくる。
(き、キラキラしてますわ……)
 さっきまで卑猥な単語を連呼していた人間とは思えない純粋さだ。よほど小梅のことが大切なのだろう。もしかして二人は恋人同士なのだろうか。
「それに、あなたは僕のことを上手くコントロールしてくれそうなのです。なんというか、その……あなたは、まるで……」
 言いながら昴は戸惑いの表情を浮かべる。
(な、何ですの……)
 この急な展開は。まさか、その次に続く言葉というのは――
「お母さんみたいなのです」
 おか……。
 軽く目眩。
「いやーははははは。昔はこうやってよく流血したものなのです」
 どんな家族だ……。
「そういえばまだ名前を聞いてなかったのです」
「……黒岩、ですわ」
「黒岩……さすが納得の強そうな名前なのです!」
 納得すんな……。
「けどさっき院長が“春日グループのお嬢様”って言ってたみたいなのですが……」
「春日は母の旧姓ですわ。今は――」
 年中無休二十四時間営業のラブマシーン。あの馬鹿共が……。
「なるほどー。ちなみに下の名前は何というのですか?」
「……菊華、ですわ。菊の華で菊華。華は難しい方の漢字ですわ」
「菊華……さすが納得のあの世送り的な名前なのです!」
 墓への供え物だと言いたいのか……。
「じゃあさっそく行動開始なのです! とっととあのエロ淫蝶を亡き者にしてくれるのです!」
 鼻息を荒くし、地団駄を踏みながら全身でやる気を見せる昴。
 色々と納得のいかない部分はあるが、まずは少し置いておこう。頭を冷やした後、真宮寺太郎のことと一緒に問いただせばいい。
 そんなことよりも今は――
「雛守小梅さん、ですわよね」
 今までずっと静かにしていた、ベッドの上の患者を見て言う。
「いきなり大人数で押し掛けて大暴れして、大変申し訳なかったと思っていますわ。病人の前であるまじき行為だったと、深く反省しておりますわ。全ての非はこちらにあります。配慮が足りませんでしたわ。すみませんでした」
 前で手を合わせ、菊華は背筋を伸ばして深々と頭を下げた。そのままの体勢を数秒保持した後、ゆっくりと頭を上げる。
 再び視界に収めたベッドの上では、小梅がボブカットの髪を振りながら両手を何度も交差させていた。
「小梅さんは心が広いのです」
 その隣で昴がうんうんと頷きながら言う。
 どうやらそれほど気分を害しているワケではなさそうだ。とはいえ非常識な行為であったことは事実。
「二度とこのようなことがないように気を付けますわ」
 言いながら菊華はもう一度頭を下げた。
「それで、このような無礼をはたらいた後で図々しいお願いなのですが……」
 そして顔を戻しながら表情を引き締め、
「院長について、少しお話をお伺いしたいのです」
 目に力を込めながら語調を強めて言った。
 小梅の小さく幼い顔に陰りが差す。可愛らしいマスコットのような顔付きから、まるで汚物を見るような険しい相貌へと。
 露骨に嫌悪感を示す小梅には悪いが、この反応を見てますます聞かなければならなくなった。
 元々、看護師や患者からは話を聞こうと思っていた。この病院の感想、不満点、そして院長についての情報を。それを元にして、人手不足以外に何か悪い点がないかを洗い出すつもりだった。
 小梅は院長が直接足を運んで診ているようだ。つまりある程度は特別な扱いを受けていることになる。接触する機会も多いだろう。となれば貴重な情報を持っている可能性が高い。
 そして小梅が院長に悪い印象を抱いているという事実も大きい。
 やはりこの際、弱みの一つや二つは握っておきたい。それが後々、病院の経営立て直しに繋がるのであれば。
「……」
 だが小梅は何も言わない。どこか気まずそうに自分と昴の顔を交互に見ている。
「ワタクシの母がオーナーを務める春日グループは、この病院に相当な額の出資をしております。この病院の経営が悪化すればグループにも打撃が出ます。その傷が深くならないうちに何か対策を講じたいのです。ワタクシはそのために視察に参りました。ワタクシは病院の経営が悪化した理由を院長が隠していると踏んでいます。何とかして院長に話を聞いて原因を明らかにし、経営を立て直したいのです。そのためには彼が興味を持ってくれそうな情報が必要です。ご協力頂けないでしょうか」
 こちらの目的をできるだけ端的に話し、菊華は言葉を結んで小梅の反応を待った。
 重い沈黙。
 狭い個室に三人も集まっているというのに、皆相手の出方を窺うかのように何も言わない。そのまま静寂の時間が経過し――
「ま、まぁー今日はこのくらいにして引き上げるのです。また日を改めてくるのです」
 昴がカラ笑いを振りまきながら言った。緊張が一気に解ける。
「そう、ですわね……」
 頷き、菊華も体から力を抜いた。
 ここは昴の判断が正しい。大体こんな込み入った話、警察でもない一般人が初対面の人間にすることからしておかしいのだ。
 昴の言う通り、また後日時間がある時にでも……。
「……っ」
 首を横に振った。今、小梅が否定の意思を示してこちらを見た。そしてその目は何かを訴えかけるように昴の方へと――
(まさか……)
 菊華の頭の中である種の閃き。
「東雲さん」
「はいなのです」
「ちょっと、席を外してくださいますか? 雛守さんと二人でお話がしたいのです」
「二人で、なのですか……。どうしてまた急に」
 こんな言い方をされれば当然そう聞きたくなるだろう。だができればそこは察して欲しかった。
「どうしても、ですわ」
 腕組みしながら強く言い、菊華は無言の圧力を込めて昴を見据えた。返ってくる純粋な眼差し。無垢な疑問符。
 そして――
「分かったのです」
 素直な返事と深い頷き。
 昴はそれ以上は何も言わずに立ち去り、
『ギャワー! ギィヨェー! ギョータッシャー!』
「ぃやかましいのです! そんな関西弁恐くも何ともないのです! もっと恐い体験をエベレスト山のようにしているのです!」
 鳥かごの中にいた黒い鳥を鷲掴みにして出て行った。
 そこまで気を利かせなくても……まぁ別にいいが。
「雛守さん。これでこの部屋には正真正銘、ワタクシとあなたしかいませんわ」
 言いながら菊華はベッドに近寄り、そばにあった丸イスに腰掛ける。
「話して、下さいますか?」
 そして諭すような口調で付け加えた。
 後ろめたい期待と莫大な不安を胸に抱いて。
「……」
 小梅は無言で頷き、サイドテーブルからスケッチブックとボールペンを取り上げる。小さい手には少し余り気味のペンを走らせ、何かを書きつづっていった。
(この子……)
 ひょっとして口が利けないのか? さっきからやけに大人しいとは思っていたが、まさか声を出そうにも出せないのか? 失声症? それがこの療養病棟にいる理由?
「……」
 ペンを止め、小梅はスケッチブックを立ててこちらに見せた。
《これからお話しすることは決して東雲さんには言わないと約束して下さい》
 白い紙には達筆な文字でそう書かれていた。 
 やはり……。
 声が出せないのは間違いないようだ。そしてもう一つの考えも……。
《今からお話しする内容は、黒岩さんがちゃんとした情報さえ持っていれば、あの院長に対しても強い発言をできると思うから言うことです》
 自分が春日グループオーナーの娘だから……。
「分かりましたわ。絶対に他言いたしませんわ」
 小梅の大きな瞳を見つめて菊華は迷いなく頷く。  
 やはり、そういうことか……。てっきり昴が一人で勘違いしているのだと思い込んでいたのだが……。そうあって欲しかったのだが……。
 小梅は、あの院長から……。そしてそのことを明るみにしようと……。
 年々増え続けている性犯罪。しかし実際は公表されている数字の何倍もの被害者がいるという。なぜなら自分の恥部を社会に知られたくないから。そんなことになるくらいなら、泣き寝入りしていた方がマシだから。
 しかし、小梅は勇気を振り絞って……。
(ボコボコに懲らしめてやりますわ)
 もはや絶対に許すことはできない。あの変態院長を。真宮寺太郎の名に掛けて。
《私はあの院長からモルモットのような扱いを受けていました》
(くっ……)
 信じられない。まだ十七、八の子を。とんだロリコン院長だ。
《院長は何とかして私の体のことを知りたいのです》
 ふざけるな。ふざけるなフザケルナふざけるな。
 許されない。許されるはずがない。そんなこと。断じて。
《私は》
 そこで小梅の筆が止まる。筆先が小さく震え出す。
 これからその内容を書こうとしているのだろうか。しかしなかなか踏ん切りが付かないのだろう。無理もない。もし自分が小梅の立場だったら、とても……。
「……」
 が、小梅は唇をきつく結んで再び筆を動かし始める。
 凄い勇気だ。尊敬する。なら自分も小梅の気概に応えなければならない。
 耐えどんな酷い内容だろうと、目を逸らさずに直視して――
《この病院に五十年前からいます》
「……へ?」
 間の抜けた声が漏れ出した。




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