間違いだらけの手毬歌、してくれますか?

第三話『ヒントは手毬歌の中に……か?』

◆東雲昴の『よく分からないけど、よく分かったのです』◆
(遅いのです……)
 小梅の病室の外でひたすら待ちながら、昴は何十回目かの溜息をついた。
 あれからどのくらいの時間が経ったのだろうか。
『せやからエエかげん離せやボケー!』
 あれからどれくらいこの汚い声を聞いただろうか。
『あっ、ご、ごめんなさいっ、そんなボク、ホンマ冗だ――アーッ!』
 あれから何回くらいクチバシのヒビ割れ音がしただろうか。
(遅いのです……)
 長くなった八重歯で下唇をザクッと噛み締め、昴は窓の外を睨み付けた。
 菊華に席を外してくれと言われ、病室から追い出されてすでに三十分。
 その間、目視で確認できた福乳が三人、パイズアイを用いてさらに五人、ガンオブザイヤーまで拡張してさらに三人。
 だが、そのどれも小梅や菊華には及ばない。
 特に小梅! 彼女は近年まれに視る超大型の福乳だ! パンゲア大陸さえも一瞬で席巻(せっけん)できるパイケーン“コウメーナ”! 規模にして実に八千万ヘクトパイカル! あの伝説の守護霊女神に追いつけ追い越せブッチ切れの勢いだ!
 とても十七、八歳の女性が持つ成熟度合いとは思えない。それはまるで何十年も掛けて丹念に丹念に育て続けてきたかのような――
(とにかく、なのです)
 このままお預けをくらっていたのでは精神が持たない。
『ちょ、おま、アァーッ!』
 このままだと、いつ西九条の頭蓋骨が粉砕されてもおかしくない。そうなる前に何とかしないと――

『うーしみーつどーきにーはめぇさーませー』

(ん……)
 この歌声……手毬歌は、昨日聞いた……。

『わしがひーだり、すーみがみぎー。はーしらーせ、はーしらーせ、のーろうのなー』

 小夏が歌っているのか。今まさに、病室の中で。
(やっぱり……綺麗なのです)
 美しい音階は勿論のこと、その中にほんの少しだけ混じる戸惑いや迷いといった感情が、若干のもの悲しさを演出していて歌に深みを出している。
 もっと近くで聞きたい。小夏の表情を見ながら聞き惚れたい。
 こんなところで黒い汚物を、焼け焦げたポップコーンよろしく握り締めていないで――
「あーなんだいなんだい。昼間っから一人オーケストラたぁ大したご身分だねぇ」
「昼間っから酒の匂いさせてうろついてる地縛霊も相当なご身分だと思うのです」
 何の前触れもなく真下から伸び上がってきた女性の声に、昴はジト目を向けながらボヤいた。
 浴衣を地肌の上に一枚まとっただけの妖艶な姿。それは男を誘い、取り込み、食らい尽くす女郎を彷彿とさせる。
 長く艶やかな黒髪。水晶のように深い色合いの瞳。瑞々しく張りのある完璧なボディライン。
 だが触れない。揉めない。むしゃぶりつけない。
 缶切りのないキャビア缶詰のごとき致命傷。
 本当に何とかならないものか。もし、彼女に触れることができれば……。
「で? アンタはこんなトコで何してんだい? その子の羽根、いい加減なくなっちまうよ?」
 右手で髪をなまめかしく梳き上げがら通天閣は聞いてくる。
「人待ちなのです」
「この部屋のお嬢ちゃんをかぃ? 物好きだねぇアンタも。まあそこが良いトコなんだけどさ」
「百年に一度の福乳なのです」
「ま、恋に一途な男ってのは嫌いじゃないけどさ。やめときな、この子は。ヤバイから」
 気怠く息を吐きながら言い、通天閣はどこか面白そうに眼を細めた。
「どういう意味なのです」
「そのまんまの意味さ。ヤ・バ・イ。言っとくけどこの子、アタシよりずっと年上だよ?」
 そして試すような視線をこちらに向けてくる。
 ヤバイ、だと……? 小梅が通天閣より年上……?
 何を馬鹿なことを。あんな無邪気で無垢で純粋な少女を掴まえて何が危険だというんだ。
 全くこの酔っ払いが。言って良いことと悪いことの区別……がつくような地縛霊ではないな。確実に。
「ほら、聞いたことあるだろ? 猫又だとか九尾の狐だとかさ。みょーに長生きした動物は、ごくたまーにああなっちまうのさ。妖怪ってヤツ? 多分この子も似たような部類だよ。だからあんまり関わり合いにならない方が――」
 手毬歌が止んだ。
「……ッ!」
 通天閣の表情が大きく歪む。
「痛っ……! あィタ! タタタタッ!」
 そして全身をよじらせて苦痛に身悶えし始めた。
「ど、どうしたのですか?」
「分かった! 分かったよ! アタシが悪かったよ! 帰りゃいいんだろ帰りゃ!」
 昴の声には返さず、通天閣は病室の方を睨み付けながらまくし立てる。そのまま部屋の前から離れ、壁をすり抜けて窓の外に出て行ってしまった。
「お日様の光は、痛くないのですか……?」
 自分でもワケが分からないことを口にし、昴は通天閣が消えていった方向を呆然と見つめる。
 一体何だったんだろうか、突然。二日酔い……? 昼間に出てきたものだから酒が一気に回って悪酔いした……? ああなるほど。そういうことなら納得いく。やれやれ、昨日は何人が潰されたのだろうか。お付き合いも楽じゃない。
 けど――
(まさか……)
 目が無意識に小梅の病室へと向き、
「あら」
 病室の扉が横にスライドし、菊華が姿を現した。
 研ぎ澄まされた刃物のような光沢を持つ長い漆黒の髪。魂を持って行かれそうなほどに鋭く見開かれた双眸。高い視点からこちらを見下ろす様子は無慈悲な断罪者のようで、身に纏う張りつめた雰囲気は自ら生命を刈り取る死神のようですらある。
 黒岩、菊華……。強く、あの世送り的な――
(なるほど)
 ポンと手を打つ。
「何を納得したのか知りませんが無性に腹が立ちますわ」
 腕を組み、目元を細かく痙攣させて菊華は言った。
「で、もう話は終わったのですか?」
「ええ、まぁ……」
 なぜか疲れた声で返す菊華。
「それで何か分かったのですか? 院長のメガ・スキャンダル。個人的には婦長との泥沼カップリングがオススメなのですが」
「まぁ、何と言いますか……。そういう系統の方がずっとお気楽だったと申しましょうか……」
「じゃあもっと下なのですか!? 二十代!? ひょっとして婦長の娘さん!?」
「いや、そういうのでもなく……」
「まさ幼女!? お孫さん!?」
「ですから……」
「分かったのです! フィギュアなのです! あの変態院長! 変態繋がりで嗜好が魔王と同――」
「取り合えず鳥さんを解放してあげた方がよろしいかと思いますわ」
 かかとを脳天に深々と撃ち込み、菊華は冷めた口調で言った。
「……お、落ち着いて話し合うのです」
「結構ですわ」
 流血に体温を奪われていきながら、昴は深呼吸して気持ちを抑えつける。そしてすっかり下ごしらえの済んだ西九条から手を離し、咳払いを一つして菊華に顔を向けた。
「屋上に行きましょう。あそこならきっと誰もいませんわ」
 言い終え、菊華は昴の返答も待たずに歩き始める。
「えっ? でも、小梅さんは……」
「何のためにあなたに席を外していただいたと思ってますの?」
 こちらに振り向くことなく返した菊華に、昴は不満そうに呻き声を漏らした。
「それに雛守さんは少々お疲れのようです。彼女は病人であり、今回の私達の面談は成り行きに任せた非正式な物だということを忘れてはいけませんわ」
 良く通る声ですらすらと述べる菊華に、昴は何も言い返せない。彼女が口にしているのは全てが正論であり筋が通っている。本来なら病院から追い出されてもおかしくないようなことを自分達はしているのだ。今回は院長の気まぐれか何かで、大事にならずに済んでいるというだけで。
「……分かったのです」
 小声で呟くようにして言い、昴は菊華の後に続いた。
 人気のない白い廊下を二人縦に並んで歩く。窓から降り注ぐ陽の光を浴びながら、大きな自販機の横を通り過ぎた。そしてエレベーターホールへと続く曲がり角を右に折れて――
(ん?)
 何か黒い物体が視界の隅を横切った。反射的に顔がそちらに向く。
(シルク、ハット……?)
 今一瞬、確かに黒い筒状の帽子が見えたような……。いやでも、こんな場所で……。
「東雲さん。こちらですわ」
 右手から菊華の声が掛かり、昴は顔を向け直す。
「あ、はいなのです……」
 それに曖昧に返し、昴は菊華を追ってエレベータホールへと向かった。

「雛守さんは院長先生が直接診ておられるようです。そして院長先生を嫌っています。この二点は確実ですわ」
 屋上。
 背の高いフェンスが周囲に張り巡らされたオープンスペース。足元にはフローリング処理が施され、木の温もりと香りが和やかな気分にさせてくれる。
「ただ残念ながら、彼女から直接“何か”を聞き出すことはできませんでした」
 その一角にある緑化区画。胸くらいの背丈の常緑樹に囲まれた木製のベンチに腰掛け、菊華は険しい顔付きで続けた。
「ですが一つだけ手掛かりになることを教えて下さいました。それがこの手毬歌ですわ」
 言いながら黒いロングスカートのポケットから、小さく折り畳まれた数枚の紙を取り出す。そこには小夏自身が歌っていた歌の内容が書きつづられていた。ただし全てが平仮名で、歌詞が何を意味しているのかはいまいち分からないが。
「この手毬歌に院長先生を追い詰める何かが隠されているかも知れないと、雛守さんはおっしゃられておりました」
 そしてもっと分からないのが……。
「なのであなたにはこの手毬歌の意味を考えていただくのと、この病院の患者や職員の出入りを調べていただきたいんですわ。誰が辞めて、誰が異動してきて、誰が退院して、誰が入院したのか。その調査をお願いしたいんです」
「キッパリ話が見えてこないのです」
 菊華の言っていることだ。
 小梅は院長のお気に入り。小梅は院長が嫌い。
 ここまでは分かった。ここまでは理解できるし納得も行く。しかしその次からはチンプンカンプンだ。
 なぜいきなり手毬歌が出てくる。院長とどう関係がある。
 患者と職員の出入りもそうだ。そもそもそういう数字を調べるのは、春日グループに属している菊華の方が得意なのではないのか?
「っえー、確かにそうですわね……。少し説明を端折りすぎたかもしれませんわ」
「なのです」
「実はこの手毬歌、院長先生のお袋さんが夜なべして作った可能性があるという話なのですわ」
「たった今思い付きました感が満載なのです」
「この歌が夜な夜な口ずさまれるせいで患者や職員達も嫌気が差し、みんなして出ていったかもしれないという噂ですわ」
「とんでもないストライキがあったものなのです」
「……本当のことを言いますわ。この手毬歌の謎を解いた者には世界一の富が授けられるという伝説があって、各国の首脳達が雛守さんを狙ってますの。それを保護しているのが院長先生で、最初の頃は純粋に使命を全うしていたんですけれども、だんだんと欲に目が眩んできて逆に狙う立場になってしまったんですわ」
「もう院長の弱点とか関係ないのです」
「その反逆を抑えようと患者や職員達が一致団結して立ち上がったものの、院長の力や強し。返り討ちに合ってしまいどんどん数を減らしてきているらしいですわ」
「もう減ってるの分かってるのです。調査いらないのです」
「……手毬歌の伝説にはまだ続きがありますわ。かつてその内容を解読してしまった者はなぜか無欲になってしまったらしいですわ。その理由は……」
「絵本作家になった方が良いのです」
「じゃあどうすれば納得していただけるんですの!?」
「どうしてもっとマシな作り話で納得させてくれないのですか!」
 大声でまくし立て合い、ぜーはー、ぜーはー、と息を切らして互いに見据える。
 沈黙。
 そして舞い込む一陣の風。さらに二陣目……三陣目……四、五、六……十二陣目。
 先に目を逸らしたのは昴の方だった。
「もういいのです。本当のことが言えないなら別に無理して聞こうとは思わないのです」
 投げやりに言い、昴は菊華に背中を向ける。
「ちょ、ちょっと! どうするおつもりですの!?」
 焦った声で叫んでくる菊華に顔だけを向け、昴は後ろ頭を掻きながら溜息をついた。
「手毬歌の意味はちゃんと考えるのです。考えながらみんなに色々と聞いて回るのです。それで文句ないのですね?」
 灰色のつなぎのチャックを一番上まで上げ、表情を真剣な物に変えて付け加える。
「え……ま、まぁ……それは、勿論……ですわ」
 今度は菊華の口から漏れる納得のいかない声。昴は胸中で笑いを零し、屋上の出入り口へと向かった。
 元々自分は聞いてはいけない話だったんだ。この場に小梅がいないからといって、その中身を詳しく教えて貰えるとは思っていない。だから菊華が隠そうとするのは自然なことだし、こちらもある程度のところで引き下がるのは当然のことだ。
 それに自分は最初から小梅のために動くつもりだった。しかし院長から自白が得られず、次にどうすればいいのか分からなかった。それを菊華が決めてくれたのだと思えばいい。
 ああいう目をしている女性に悪い人はいない。言っている内容は無茶苦茶でも、信じて行動するに値する。まだ会って数時間しか経っていないが、この判断には自信がある。
 鮎平姫乃もそうだったから。
 勇気を振り絞り、自分も犯人調査に協力すると言ってきた姫乃も同じ目をしていた。だから菊華も、きっと……。
 ただ欲を言うなら、もう少し上手く説得して欲しかったが。
 まぁ裏を返せば、根が正直で嘘の付けない性格だということなんだろう。ずる賢くて裏読みばかりする奴よりは余程いい。
「し、東雲さん!」
 出入り口のノブを回したところで、走ってきたのか息の切れた声を菊華が掛けてきた。 
「も、勿論ワタクシも同行いたしますし、一緒に考えますわ」
 白いリボンブラウスの胸元に手を当て、菊華は呼吸を整えながら言う。
「二人固まっていても効率が悪いのです。じゃあ僕は一階から上がるので、菊華さんは下りながら聞き込みをして欲しいのです」
「わ……分かりましたわ」
 昴の提案に得心したのか、菊華は何も言い返すことなく受け入れた。
 効率が悪いのも勿論そうだが、こういうことは古参の人間に聞いた方が早い。例えば通天閣や婦長だ。となれば一人で聞いた方が気が楽だし、通天閣の場合は普通の人の目には映らないからややこしくなるだけだ。
「あっ、手毬歌。手毬歌の歌詞。まだお渡ししてませんわ。すぐにコピーを取ってきますから、少しお待ちいただいて――」
「もう覚えているから大丈夫なのです」
 慌てて後ろから言ってくる菊華の言葉を遮り、昴は迷いなく言い切る。
「覚えて、る……?」
「あの美しい歌声は一度聞いたら忘れないのです」
 そのくらい心に響いた純声だった。
「そう、ですの……」
 だがいまいち腑に落ちないのか、菊華は顔に疑問符を浮かべる。
「なんだったら歌うのです。うっしみっつどっきにーはめぇさーませー、わしっがひーだり、すっみがっみぎー。はーしらーせ、はーしらーせ、のーろうのなー……? んぁ? なんか違う感じなのです。やっぱり小夏さんには遠く及ばないのです」
 あははー、と誤魔化し笑いを浮かべ、昴は再び病院内へと踏み入れる。もう菊華から声は掛からなかった。
(さて、と、なのです……)
 どちらからいくか。

◆黒岩菊華の『まずは裏を取るところからですわ』◆
 重い金属音を立てて閉まった屋上の出入り口をじっと見つめながら、菊華は昴の歌を思い返していた。
 確かに、自分が小梅から教えて貰った手毬歌の歌詞に間違いない。ちゃんと出だしの歌詞は合っている。多分、あの調子だと最後まで頭に入っているのだろう。しかし――
(リズムと、音階……)
 分かるはずがないんだ。五線上に書かれた音符でも見ない限りは。
 小梅は失声症。歌など歌えない。
 ならさっきのは自分で適当にメロディーを付けただけなのか? だが昴は“あの美しい歌声”と言っていた。つまり小梅本人から歌を聞いている……。もし、彼が嘘を付いていないんだとすれば……。
(嘘は付いて、いな、い……と、思いますわ)
 さっき出会ったばかりだが、昴がサラッと嘘を吐くような人間だとは思えない。今だって、特に深く事情を聞かずに行動してくれている。自分でもあれはないと思えるくらいのお粗末な説明で、納得した気になってくれている。
 びっくりするほど素直な性格だ。それに何より嘘を付く必要性がない。小梅が喋れないことにするのであればともかく、その逆となると……。
 だとすれば嘘を言っているは小梅の方なのか?
 あれは単に“フリ”をしているだけ? 本当は声が出せる? だとすれば何のためにそんな芝居を?
 声を出さない理由、あるいは出したくても出せない理由……。
 何だそれは? 
 あれだけ謎めいたことを真顔で伝えてくる人間だ。他にも秘密の一つや二つ、あってもおかしくはない。例えば――“小梅”と“小夏”。
(どっちですの……)
 最初は言い間違えたのかと思っていた。

『さっき“小夏さん”の手を握ったのが何よりの証――』

 院長と言い争っていた時、昴は小梅のことを『小夏』と呼んでいた。そしてさっきも……。
 小梅と小夏。確かに呼び方が似ていなくもないから、たまたま間違ってしまったとしてもおかしくはない。だがそれが二回も続いたとなると、単なる偶然では済ませられない。ニックネームだなどとは考えられない。
 まさか二人いるのか? 小梅と小夏、二人の人間が存在する? それとも二重人格? 自分の時は『小梅』で昴の時は『小夏』だった? そして『小夏』は声が出せる?
(頭がごっちゃんごっちゃんになりそうですわ……)
 ただでさえ今日は常軌を逸した出来事が立て続けに起きているというのに。
 先程、小梅から聞いた話。小さなスケッチブックに書かれた文字。

《私はこの病院に五十年前からいます。でもご覧の通り、見た目はこうです。私は五十年以上も前から、ずっとこの姿のままです》

 意味が分からなかった。到底理解できなかった。あまりにも現実離れしていた。
 からかわれているんだ。すぐにそう思った。

《きっと今、自分はからかわれているんだ。そう思いましたよね? 無理もありません。ですが本当です。こんな特異体質だから、私は院長から目を付けられています》

 考えていることを読まれていた。そして決して見過ごせない文字が書きつづられた。

《院長は不老の体を手に入れたいんです》

 不老。それは不死と並んで、時の権力者が追い求めた甘美な響き。院長は小梅の体を研究することで、その秘密を探ろうとしている。

《この病のせいで、私は周りに沢山迷惑を掛けました。原因が分からず、入院費だけが膨らんでいって、父と母の生活を無茶苦茶にしました》

 病……確かにそうだ。不老など、望まざる者にとっては病気以外の何物でもない。周りがどんどん老いていく中で自分だけが取り残され、奇異の視線を集めるだけなんだ。
 人の目が恐くなり、必要以上に怯え、友人を作ることもできず、誰かに話し掛けることもできず、外に出ることもできなくなる。
 不老は精神的な病となって体を蝕み、ベッド生活を強要する。そしてその費用が生活に重くのし掛かる。

《だから私は前々から院長に持ち掛けられていた提案を飲みました。治療費と入院費を病院で負担して貰う代わりに、私の体を調べてもといいと》

 それは実質上のモルモット。もっと極端な言い方をすれば人体実験を受け入れたということだ。両親の負担を見かねて、自分から……。

《病院が父と母に何と説明したのかは聞いていません。ですが二人とも院長を信頼しきっていて、とても嬉しそうにしていました》

 考えられるのは無利子の入院支援金か、特定疾病認定による国からの援助金。どちらにせよ金策に行き詰まった者に取ってみれば、天の救いに見えたことだろう。院長は神の使者の如く映り、それ以降は何の疑念も抱かなくなった。もはや洗脳されたに等しい。

《ですがこの病気は何年経っても治りませんでした。私はずっと昔の姿のままです。父と母は三十年も前に亡くなりました。ずっとずっと育てて貰ってきたのに、私は何も応えることができませんでした》
 
 彼女が院長から一体どのような扱いを受けてきたのかは知らない。こればかりは、とてもではないが聞けない。しかし苦悩と汚辱にまみれた日々だったということは、容易に想像できる。そして耐えてきた努力が全く実らないとなると……。

《院長は私の病気を調べてくれています。治そうとしているのかは分かりませんが、原因を突き止めようとしてくれています。ですが私は院長が嫌いです。なので黒岩さんがあの人を何とかして、この病院を立て直したいのであれば協力します。ですが――》

 もし今ここで小梅が胸の内を全て吐露し、それを院長に突き付けてやれば、恐らく彼は病院を去らざるを得なくなるだろう。その後でもっと優秀な人材を院長のポジションに置いてやれば、経営は一気に回復するかもしれない。
 だがそれは自分にとって都合の良いことであって、小梅が望んでいるのはそんなことではない。

《その前に私の体を何とかして欲しいんです。私の体のことを一番知っているのは院長です。私はあの人以外に診て貰ったことがありません。私の情報は全て院長が持っていると思います。院長は絶対に治す方法を知っています。きっとそれを隠しているだけです》

 五十年間もの長期間に渡って診療を続けておきながら、全く改善がないなどということは有り得ない。進歩がないにも関わらず、金を投じて入院させているなどとても考えられない。普通は諦めて別の人間に任せる。
 だが院長の目的が小梅の治療ではないとすれば。できるだけ長引かせて不老の秘密を暴き、さらにその情報を使って何か別のことに利用しようとしているのだとすれば。
 院長は治療法を知っていながら適用しない。
 私欲のために。
 小梅はそう考えている。
 今までずっと待ち続け、モルモットのように扱われながらも耐え抜いて来た小梅にとって、それは愚弄に等しい。

《ですから黒岩さんにお願いしたいんです》

 院長が小梅の体を治すように仕向けることを。治療法を公開させることを。
 それがこの病院の出資者である春日財閥のオーナー、その娘である自分に頼みたいこと。

《そうしていただければ、私も全面的に黒岩さんに協力します》

 つまり早い話が、院長のスキャンダルと不老治療を交換ということだ。
 確かに小梅の言っていることも分からなくはない。しかしそういうことなら先にスキャンダルの方を渡して貰えれば、それを院長にかざして言うことを聞かせ、小梅の体を治させるという選択肢もあるはずなんだ。しかし――

《院長から治療法を聞き出すのが先です。でなければこちらも情報はお渡しできません》

 多分、まだ信用されていないんだろう。それはそうだ。オーナーの娘だというのも自分の口から言っているだけで、小梅に取ってみれば疑わしい情報なんだ。手の内を完全に晒す訳にはいかない。
 それはこちらとしても同じこと。
 作り話にしては妙に説得力があったが、全てを素直に受け入れるのはさすがに無理がある。不老の肉体で、この病院に五十年間もいるなどと一体誰が信じるだろうか。
 自分がもし真宮寺太郎や東雲昴のことを知らなかったら、鼻で一蹴しているところだ。
 とにかく彼女に関しては謎の部分が多すぎる。まずは戸籍謄本でも取って調べてみないことには……。

《身勝手な頼みだということは重々承知しているつもりですが、どうかお願いできないでしょうか》

 少しだけ考えた。だが悩むほどのことではなかった。
 すぐに小梅の条件を受け入れた。
 どちらにせよ院長は何とかするつもりだったし、そのために自分でも彼の汚点を見つけ出す予定だった。小梅からのお願いは、それと並行しながらでも十分こなせる。というよりゴールの先にあるんだから、達成した時の満足度が倍になったと思えばいい。
 それにもし仮に小梅の言っていることが本当だとすれば、一つの仮説が成り立つ。仮の話の上の仮説だからいまいち信用ならないが、少し光が見えただけでもありがたい。
 昴が思い通りの情報を持ってきてくれると良いのだが……。
 
《ありがとうございます。本当に嬉しいです。あの、それであと一つだけよろしいですか? もう一つだけ、知っておいていただきたいことがあるんです》

 そこまで書き終えて小梅が取り出したのは、枕元にあったお手玉だった。それを一つスケッチブックの隅に乗せ、再びペンを走らせた。
 書き上げられたのは例の手毬歌。

《こんな手毬歌、誰からも聞いたことありませんでした。私の声が急に出なくなった後、自然と聞こえてきたんです。それから――》

 最初は何を唐突にと思った。今の話の流れとこの手毬歌に何の関係があるのだと思った。しかし――

《年を取らなくなったのも、この歌が聞こえてきた時からでした》

 つまり何か関係あるかもしれない。直接的にしろ間接的にしろ、小梅の病を治す方法に繋がる物が隠されているかも知れない。この手毬歌の歌詞の中に。
 もしそれが分かって小梅が普通に戻れば、彼女から院長のスキャンダルを聞き出せる。脅しのネタが手に入る。経営を立て直せる。
 ……もっとも、小梅が五十年間考え続けて分からなかった難問が、今日明日で解けるとは思えないが。
 仮説の上の仮説。意味不明な手毬歌。
 果たしてどちらが先に実を結ぶのかは分からないが、進むべき方向が決まった以上、とにかく後は精一杯頑張るだけだ。

《あの、今話したことはくれぐれも東雲さんには言わないで下さいね。私の体のことは、絶対に。手毬歌の内容だけは別にいいですけど、体との関係は、絶対に》

 ただ、昴には全てを話せない。理由は何となく分かる。それだけに絶対に、だ。
 調査を手伝って貰っているのに、少々心苦しいがこればかりは仕方ない。まぁ当の本人も『小梅のため』ということで納得してくれているようだし、取り合えず良いだろう。
 しかし小梅……失声症だけではなく幻聴までとは……。こちらの方もできれば治してやりたいのだが……。
 勿論、彼女が嘘の症状を言っていなければの話だが。
(まずはそこからですわね)
 ロングスカートのポケットに手を入れ、菊華は携帯を取り出す。そして親指一本で素早くナンバーを呼び出し、耳元に当てた。母親お抱えのスナイパーボディーガード弁護士に頼めば、戸籍謄本の閲覧くらいすぐに終わらせてくれるだろう。
「ああ、心斎橋? ワタクシですわ。ちょっとお願いしたいことがありますの」

◆東雲昴の『願い続ければ叶うのです』◆

『うしみつどきにはめをさませ。
 わしがひだり、すみがみぎ。
 はしらせ、はしらせ、のろうのな。
 ふせるな、ふせるな、ひのわがでるまで。
 すずめがないたら、わしとばそ。
 あさめしまえには、ねんさらせ。
 ゆめがうつつに、おもいがかなう。
 いいこのとこにはふくきたる』

(うぅむ、なのです……)
 一階ロビー。
 三人掛けのソファーに一人で座り、昴はじっと虚空を見つめながら腕組みしていた。
 さっきから手毬歌の内容を考えているのだが、さっぱり糸口が見えない。そもそも誰が、いつ、何のために歌ったのかも分からないのだからノーヒント状態だ。
 しかし小夏はこの歌の意味を知りたがっている。ここに院長を追い詰めるヒントがあるかもしれないから、解いて欲しがっている。院長退治のために必須のアイテムが隠されている。
 そして謎を解いた後病室に行けば、きっと心のこもった歌声を聞かせてくれる。それを妄想しただけで、やる気が濁流のように押し寄せてくる。
 幸い今は人気が少ない。陽が落ち始めたせいかもしれない。自分の周りには集中力を乱す輩はいない。
 婦長は忙しそうで、とても話し掛けられるような雰囲気ではない。通天閣は霊安室に籠もってしまって出てこない。聞き込み調査は後回しだ。
 なら今はこれに専念するしかない。
 しかしさっきから必死に脳内漢字変換を行っているのだが、さっぱり意味が通じない。
 まず最初の節は『丑三つ時には目を覚ませ』で間違いないだろう。夜中の二時くらいには起きろという意味だ。が、次からがもう分からない。『わしが左、すみが右』?
 わし……儂が……自分が左にいるから、スミさんは右にいてくれ……。
(誰?)
 スミさんって。
 スケベ・ミステリーの略? なら“右”は“右手”という意味で、左手が恋――
(違うのです)
 小夏がそんな卑猥な歌を歌うはずがない。そうじゃない。ええぃクソ、次の節だ。
 『走らせ、走らせ、鈍うのな』、か……。ここはしっくり来るな。いかにも昔っぽい表現だ。『走れ走れノロノロするな』といったところなんだろう。
 で、次が『伏せるな、伏せるな、火の輪が出るまで』……。微妙だがそれ以外に候補が思い浮かばない。『火の輪が出てくるまでビビってんじゃねーぞコラ!』って感じか? じゃあこれはサーカスの調教師の物語?
 “調教”、ね……。“調教”……。
(違うのです)
 小夏がそんな卑猥な歌を歌うはずがない。よし次の節だ。
 『雀が鳴いたら鷲飛ばそ』。鷲で雀を捕まえる? じゃあ鷲匠の物語か。鷹匠は聞いたことがあるが、昔は鷲匠の方が主流だったのか? ちょっとマニアックな感じだが……マニアックな、鷲匠……鷲攻め……マニアックプレイで鷲――
(違うのです)
 小夏がそんな卑猥な歌を歌うはずがない。えー、次は、と。『朝飯前には寝んさらせ』? 朝食前にベッドイン……つまりモーニングセッ――
(――トなのです。違うのです)
 小夏がそんな卑猥な歌を歌うはずがない。で、後は『夢が現に思いが叶う。良い子のトコには福来たる』、であっているだろう。
 つまり最初から通して解釈すると、足の遅い欲求不満男が尻叩かれて火の輪くぐりを強要され、鷲にプレイされて散々な目に遭うんだけど、朝方にやっと満足できて夢が叶いましたとさ。めでたしめでたし、と……。
 ……。
(なるほど!)
 たった今凄まじくスッキリ筋が通った気がする。
 何時間もずっと考え続けてきた甲斐があった。多分、脳味噌に『疲れ』が蓄積して、それが爆発して閃きに繋がったんだろう。
(これなのです!)
 もはや疑う余地はない。ポップな音階の中にも、どこか沈んだ思いが込められていたのはこのためだ。今すぐに小夏の部屋に行って結果を伝えなければ。
 あなたが歌っておられた歌は、ドMが童貞を卒業する――
(……違うのです)
 一気に熱が引き、昴はいつの間にか高々と掲げていた腰をソファーの上に下ろし直した。
 違う。そうじゃないんだ。これは小梅が口にしている歌なんだということ忘れてはならない。彼女が卑猥で、黒くて、後ろ向きで、人生の負け犬的な歌を歌うはずがない。
 そう、例えば心が磨き上げられるような。
 彼女はまさに童て……道程の途中に慎ましく存在する憩いの宿。人生の荒波に揉まれて、揉んで、揉みしだかれて、ザラザラにささくれ立った心を真っ平らにしてくれる。ゆっくりと時間を掛けて、心を込めて、砥石でピカピカに。表面はまるで濡れたような光沢を放ち、見る者を萎縮させ平常心を奪い去る。残されたのは血と恐怖と絶望が渦を巻く暗黒パラダイス。それはさながら死の旅先案内人が担いだ大鎌のように――
(菊華さんじゃないのです)
 今考えているのは小夏のことだ。断じて菊華ではない。
 大体どうしてここで彼女が出てくるんだ。もしこんなことを妄想しているのがバレたりしたら、ヒールの鎌にして首を断じられてしま――
「東雲さん」
「動脈はダメなのです! 再生に時間が掛かるのです! 肩から下が望ましいのです!」
 反射的に身構え、昴は全身の神経を緊張させる。
「……何言ってるの?」
 目の前に立っていたのは、ピンク色のナース服に身を包んだザーマス眼鏡の熟女。スレンダーなボディが、針金でも差し込まれたかのように直立している。
「……なんだ、婦長さんだったのですか」
 長く伸びた八重歯を戻し、昴は心臓の筋肉を弛緩させてソファーに座り直した。
「なんだじゃないでしょ。さっきからあなたが不気味な一人ダンスしてるから、患者さんが怯えて帰っちゃうじゃないの」
「不気味な一人ダンス?」
 何だそれは? とんだ言いがかりだ。
 確かに周りにあるソファーには誰もいないし、受け付けカウンターに母親と並んでいる子供がこちらを指さしてきているし、自販機の影から警備員とおぼしき男の厳つい視線を感じるが、それ以外はこれと言って変わり映えのしない日常的な風景ではないか。
 きっと婦長の考えすぎだ。
「ところでいいの? 寝てなくて。今夜も深夜勤務でしょ?」
 カルテの束を胸元に抱えて腕組みし、婦長は呆れたような視線を向けながら言ってくる。
「心配ないのです。目的のためには睡眠時間は選ばず、貫徹で一週間は軽いのです」
「そぅ、若いって良いわね」
 微笑を浮かべ、感心したように頷く婦長。
「そうそう、ちょうど婦長さんに聞きたいことがあったのです。今ちょっとお時間大丈夫なのですか?」
「え? わ、私に?」
 昴の問い掛けに、婦長はナースキャップの位置を直して表情を固める。
「な、何かしら」
「実は今、この病院の患者さんや職員さんの出入りを調べているのです」
「出入り?」
「何人の患者さんが入院して退院して、何人の職員さんが入ってきて辞めていったのかということなのです?」
「……そんなこと調べてどうするの?」
「知らないのです」
「知らない?」
 即答した昴に婦長は怪訝そうな表情で聞き返す。が、すぐに何か思い当たったような顔付きになり、
「春日のお嬢様ね?」
 目を細めて露骨な嫌悪感を滲ませながら吐き捨てた。
「ったく困るのよねー。お子様が人の迷惑考えずにチョロチョロ動いてくれちゃあさぁ。昨日も言ったでしょぉ? あの子デカいから目立つのよ。勿論見たわ。今日も。あなたと一緒に療養の方で何かやってるの。患者さんの部屋で大声出してるって報告があったから注意してやろうかと思ったのに、なんか院長が『別に良いんだ』とか言ってくれるし。ホントにストレスだわぁ。ジジイはすっこんでなさいっての」
 始まってしまった……。お得意の愚痴ショーが。看護婦歴二十五年、四十路過ぎ、独身女性のオンステージが。
「東雲さんも変なのに目ぇ付けられちゃったわねぇ。何だったら私から言ってあげましょうか? ウチの職員に手を出さないでくださいって。あれじゃ立派な業務妨害よ。裁判起こしても間違いなく勝てるから安心して。で、それはともかく今度はこの病院の内実を調べに来てたってワケ? そんな数字、お嬢様なら調べようと思えばいくらで調べられるんじゃないですかって話よ」
 ……まぁ、その点に関しては同意だが。
「けど――そんないくらでも改ざんできる数字じゃ信用できない。そう考えたワケよね、お嬢様は」
 婦長の声のトーンが落ちる。
 嘲りの中に何か面白がるような色が混じり、ザーマス眼鏡がキランっと鋭い輝きを放った。
「思ったよりヤルじゃないの。春日のお嬢様も。ここに来てたったの二日で、そこまで辿り着くなんて。どんな情報網持ってるのか知らないけど、まるっきりお子様のゴッコ遊びってワケでもなさそうね」
 フフフ……と口元を鎌状に曲げ、婦長はどこか遠くを見据えた。その視線の先でヒィィ! と観葉植物の悲鳴が聞こえてくる。
(な、何のですか……)
 この底知れない闘気と邪気は。院内に棲んでいる霊達が怯えているのがハッキリと分かる。
 とにかく婦長は菊華の考えていることを理解したようだ。菊華本人から聞けないのであれば、婦長から――
(……ダメなのです)
 途中まで考えて昴は思考を中断した。
 菊華が隠そうとしているということは、そこに何か意味があるはず。自分には教えたくない、あるいは知って欲しくない何かが隠されているはずなんだ。それを無理に聞き出そうとするのは良くないし、他人の推論を元にあーだこーだ考えるのも良くない。
 やはり菊華が自分で話してくれるのを待つのが一番だ。そう、それが一番良い。ベストな条件……なのだが……。
(……知りたいのです)
 正直な欲求もある。
 が、この世には知らない方が幸せなことも沢山ある。
 例えば魔王の正体とか、魔王の本体とか、魔王の真の姿とか、魔王の本気とか――
「東雲さん大丈夫? 顔が真っ黒よ?」
「エっ!?」
 言われて初めて血管の中で血が固まり始めているのが分かる。
「とっ、とにかく、できれば教えて欲しいのです。皆さんの出入りを……」
「んー……」
 血を溶解させながら発した昴の言葉に、婦長は視線を上げて考え込み、
「いいわよ」
「本当なのですか!?」
 返ってきた快い返事に、昴は目を星で埋め尽くした。
「別にこれは公式な数字ってワケじゃないし、私が勝手に調べて勝手にまとめてたってだけだしね。だから私の独り言を、東雲さんがたまたま聞いてたってことにしてくれれば問題ないわ」
「するのです! 大いに盗み聞きするのです! そういうのは大得意なのです! 今ならターゲットから十キロ離れていても聞き取れる自信があるのです!」
「……まぁ、犯罪はほどほどにね」
 よっし! これで一歩前進! この情報がどうやって小夏の助けに繋がるのかは知らないが、どうやってかは繋がるんだろう! 聞いたら取り合えず菊華と合流して――
「ただし」
 狂喜に暴走する昴を抑えるように、婦長は立てた人差し指を向けてくる。
「一つ条件があるわ」
「条件?」
 聞き返す昴に婦長は頷き、
「こ、今夜の見回り、私が当番なの。一緒に手伝ってくれないかしら?」
 少し照れた表情を浮かべて言った。
「手伝う? 見回りを、なのですか?」
「夜中に変なことしてる患者さんがいないかとか、苦しんでる患者さんがいないかとか、そういうのを見て回るのよ。ま、まぁ別に一人でも楽勝なんだけど、二人で見回った方が見落としもないかなーって思ってね」
「それは構わないのですが……」
 どうせ掃除で回るんだし、そのついでだと思えば。けど……。
「そんなお礼でいいのですか?」
 婦長がどの程度調べてくれているのかは知らないが、本来なら何人にも聞き込みをしなければ得られない情報を纏めてくれているのだ。それとの交換にしては、少々安すぎる気がしなくもないが……。
「べっ、別にいいのよ。私の方だって“わざわざ”やってあげたワケじゃないんだから」
 まぁ本人が納得してくれているんなら、これ以上は何も言わないが……。
「データの方は見回りが終わったら渡してあげるわ。じゃ、ま、また今晩、ね」
 早口で言い残すと、婦長はそのまま立ち去ってしまった。そして他のナース達を押しのけ、ナースセンターの奥へと入って行く。
(うーむ、なのです……)
 取り残された昴は、首筋辺りまで伸びた後ろ髪を掻き、釈然としない表情で彼女が消えた方を見つめた。
 何を考えているのかはよく分からないが、とにかく力にはなってくれるようだ。二つの仕事のうち早くも一つが片付いてしまった、あとは手毬歌の意味さえ分かれば……。
(ま、何にせよなのです)
 そろそろ菊華と合流して、得た情報を交換しあった方がいいかもしれない。

 夜。
 肌色の小さな光が、病院の廊下を朧気に浮かび上がらせる丑三つ時。二人分の足音だけが妙に大きく響く静寂の空間。
 結局、菊華とは会えずじまいだった。病院内を隅々まで探したのだが、どこにも見あたらなかった。多分、運悪くすれ違ってしまったのだとは思うが……。携帯のナンバーを聞くのを忘れていたことが怒濤のように悔やまれる。
 明日は平日。彼女は恐らく学生だろうから昼間は会えないだろう。どこに通学しているかも分からないから、こちらからは迎えに行けない。大人しく向こうから接触してくれるのを待つしかないか……。
「知ってる? 東雲さん。この病院の七不思議」
 療養病棟を一階から回り始め、ようやく七階まで来た時、婦長が隣で突然そんなことを言い出した。
「まぁ、聞いたことくらいは……」
 小型のフロアワイパーで廊下を磨きながら、昴は曖昧に返す。
 一応、一年前からここに勤めているんだ。そんな話をナース達とすることもたまにある。
 満月の夜に屋上に一人で行くと白い扉が見えて、そこに入ると次の朝路上で死体となって発見されるだとか。
 夜勤明けに病院の入口の前で願い事を言うと、必ずその逆のことが叶うだとか。
 殺したい人の名前を紙飛行機に書いて三階の窓から飛ばすと、夢の中で殺せるようになるだとか。
「その中で一つだけ、妙に具体的な物がなかった?」
「具体的?」
 他の七不思議で具体的な物といえば……看護婦長となる女性には、常に黒いスキャンダルが付きまとうだとか。夜中の二時に作ったカップ麺は、何故か異様に甘い味がするだとか。納得のいかない人事が異様に多いだとか……。
 ああ、あと、『七不思議』なのに、どう少なく見積もっても十個以上はあるだとか。
 多分どこかの誰かが勝手に言いふらしているだけなんだろうが……。
「ひとーつ……療養病棟七〇八号室からは、夜な夜な人外の声が漏れ出てくるー……」
 声を震わせて言いながら婦長はその場に足を止め、こちらに顔を向けてニタぁっと笑う。
 そんなことをするとシワが目立つというのに……自虐的な……。
「あなたと、それから春日のお嬢様が関わってしまった少女のいる部屋よ」
 七〇八号室……確かにそこは小夏のいる病室だ。
「東雲さん……悪いけど、もう手遅れよ。あなたは彼女の呪いに捕らわれてしまったわ」
「呪い、なのですか……」
「そう。あの声にはね、聞いた人を死に至らしめる作用があるらしいの。だからあの病室の周りには患者さんが入っていない。みんな不可解な死を遂げてしまったからぁ……」
 ザーマス眼鏡の奥の両目をギラつかせ、ゆらぁと体をくねらせながら言ってくる。
 まるでお好み焼きの上で踊るかつお節のように。
「ここからでも耳を澄ませば……ほら、聞こえてくるわ」
 言われて昴は『ガンオブザイヤー』の感度を高める。昨日から殆ど寝ていないから、疲労は十分だ。
「不思議でしょう? だって彼女は喋れな――」
「あ、ホントなのです」
「へ?」
 婦長の声のトーンが変わった。
「うーん、いつ聞いても素晴らしい歌声なのです」
 今日の夕方。菊華を探して近くを通りかかった時も、この手毬歌を歌っていた。せっかくだったのでお邪魔して、調査が順調に進んでいることを伝えると、晴れやかな笑顔で応えてくれた。そして決意を新たにできた。
 やはり彼女にはこんな白い牢獄は似合わない。お天道様がさんさんと降り注ぐ明るい場所で、快活に振る舞ってもらわないと。そして自分と清らかなお付き合いを……。
 その時までには必ず手毬歌の解釈を、『ドM、男となる!』から別の物にしておきますから。
「し、東雲さん……そんなこと言って逆に恐がらせようとしても、だ、だだダ、だメよ?」
 上擦った声で言いながら、婦長は空笑いを張り付かせる。
「うーしみーつどーきにーはめぇさーませー、わしがひーだり、すーみがみぎー。はーしらーせ、はーしらーせ、のーろうのなー。どうなのです? 僕もなかなか上手くなってきたのです」
 そして引きつり返った。
「なっ、なっ、何。なに、よ。それ……」
「何って……小夏さんが歌っているのです」
「歌っ……。ご、ゴメンナサイね、東雲さん。ちょ、ちょっと悪ノリしすぎたわ。私が悪かったわ。患者さんをあんなふうに言うなんて、ナースとして失格よね。二度としないわ。だから、ね? も、もうやめましょう……? は、ハハハハ……」
 膝をカクカクと痙攣させて涙声で言う婦長に、昴は不思議そうに小首を傾げる。
「どうしたのですか? 急に。僕が何か変なことでも――」
 そこで昴の言葉が止まる。
「あれ……」
 あの後ろ姿は、確か……。
「婦長さん、この病院に黒いシルクハットかぶって、黒いスーツ着て、黒い革靴を履いた小学生くらいの子っているのですか?」
「く、黒……?」
「ホラ、あそこ」
 言いながら昴が指さした先には、こちらに背を向けて廊下を歩く少年。
「え……ぇ……?」
 今、曲がり角を曲がって見えなくなってしまった。
「前にも一回、チラッと見たのです」
 あれは確か今日の昼間……。菊華と一緒に屋上に行こうとした時……。
「し、ししの、しの東雲さんんん……。も、もぅやめま――」
「あ」
 婦長の言葉を途中で遮る形で短音を漏らし、
「歌が、止んだのです……」
 ドタン、と目の前で重い音がした。
「あれ?」
 見ると婦長が白目を向いて、廊下で横になっている。
「すごい落ち方なのです」
 きっと凄まじいハードワークをこなしてきたんだろう。一週間貫徹後に気を抜いた時の自分と、全く同じ症状だ。
「あーあー、ったく情けないねぇ。ミイラ取りがゾンビになっちまったよ」
 と、真上から声か聞こえたかと思うと、バニー服姿の通天閣が真横に降り立った。
 胸を半分以上露出させた挑発的なデザインもさることながら、両手首のカフスと目の粗い網タイツ、そして真紅のヒールの支援効果がポイント高い。
「トドメはまたアタシがって思ってたんだけど、先越されちまったかぁ。参った参った」
 バニーの黒耳をぴょこぴょこと動かしながら、通天閣は機嫌良く言う。
「まぁあんま怒んないであげなよ。あの年で中学生みたいなことしてくれるじゃないか、この女」
 そしてキシシ、と歯を見せて笑いながら、通天閣は嬉しそうに何度も頷いた。
「見た目は年食ってても心は純情、か。あの子とは正反対だねぇ」
 が、その目が途端に冷ややかな物になると、廊下の曲がり角の方に視線を向ける。
「いいかい昴。ホントにあの子には気をつけな。外ヅラはあんなでも、中身は六十、七十のおばあちゃんなんだ。アンタなんかよりずっと人生経験豊富でしたたかなんだよ。アンタみたいなお人好し、あっと言う間に騙されて良いように使われてお終いさ」
 多分……いや間違いなく、小夏のことを言ってるんだろう。
 一体何の怨みがあってそんなことを……。 
「人があんな風に長生きするとどうなるか知ってるかい? 幽霊界との繋がりが強くなっちまうんだよ。霊格ってヤツが上がるんだ。それで生きながらにして妙な力持っちまう。あの子がその気になれば、アタシを消すことなんざワケないのさ。猫や狐なんかとは格が違うんだ。そのことをよく覚えておきな」
「うるさいのです……」
「あのねぇ、他の奴等がアンタみたいな平和な頭してるなんて考えるんじゃないよ。力ってヤツは人を変えちまう。ここの院長も同じさ。アンタみたいなのは珍しいもいいトコなんだよ」
「うるさいのです!」
 大声で叫び、昴は通天閣の胸ぐらを掴み上げて――
「へ……?」
「はれ……」
 掴み、上げて……。
「これは……」
「なんと……」
 揉み上げて。
「おっぱいなのです……」
「おっぱいだねぇ……」
 ――触れてしまった。
 通天閣に。幽霊に。
 見えて聞こえるだけではなく、手を触れることが――




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