間違いだらけの手毬歌、してくれますか?

第四話『なんか黒いヤツ来た』

◆黒岩菊華の『どうやら受け入れるしかなさそうですわ』 ◆
 心斎橋に取り寄せて貰った、雛守小梅の戸籍謄本の写し。
 白雨病院の近くにある――いや、かつてあった『雛守』という名字の住所。それが本籍の欄に記された紙に、『小梅』の名前は確かにあった。
 もしここに記されている出生日が本当だとすれば、小梅の年齢は七十二……。
 彼女の老化が止まったのが十七、八だとして、そこから不老という病気に気付くのに五、六年……それから五十年前後入院していたとすれば……。
(合ってますわ……)
 丁度整合性が取れるくらいの数字だ。
 小梅は五十年もの間、あの病院にいた。彼女の言っていたことは本当……。
 正直まだ信じられない。そんなことが起こり得るなんて……。
 だが今は小梅の年齢以上に気になることがある。それは――
「お嬢様、到着いたしました」
 運転席から声を掛けられ、菊華は戸籍謄本の写しから顔を上げた。
「分かりましたわ」
 それを茶封筒にしまい、隣りで自動的に開いたドアから外に出る。コンクリートで綺麗に舗装された歩道に降り立ち、見上げた先には高くそびえ立つ白い建物。百年近くの深い歴史を刻んだ古い病院。
「お嬢様、帰りはいつ頃お迎えに上がりましょうか」
「またワタクシの方から連絡いたしますわ。どうもありがとう」
 リムジンの中からの声に少し緊張した様子で返し、菊華は白雨病院に歩を進める。そして車が走り去る音を背中で聞きながら、大きな自動扉の前に立った。
(『小夏』……)
 左右に分かれて開く透明の出入り口をくぐり、薬品の匂いがする院内へと足を踏み入れる。夕日の光をリノリウムの床が反射し、淡い茜色に染まった閉鎖空間。血を連想させる色に満ちたこの場所はただただ不気味で、そして鮮烈だ。
 第六感に訴えかけてくる何かが体にまとわり付くかのように……。
 もうすぐ日が完全に落ちる。夜の帳が病院を覆い尽くす。そうなれば今よりもずっと……。
 だが怖じ気づいてなどいられない。あの小憎たらしい院長に、そんな情けない姿を見せるわけにはいかない。
 この先、春日グループを背負う者として、胸を張り堂々としていなければ。そして真宮寺太郎のように、一人で何でもできるようにならなければ。
 今回のことは一つの試練だ。恐怖を克服し、弱点をなくすための。常識に捕らわれない考え方をし、懐を広げるための。
(勝負、ですわ……!)
 女豹のように鋭く理知的な瞳を大きく見開き、菊華は高いヒールを鳴らしてロビーを横切る。長い黒髪を靡かせ、赤いフォーマルスーツから気品と風格を放ちながら颯爽とカウンターに向かった。
 まずは昴と会わなければ。そして確認しなければ。
 どうして小梅のことを小夏と呼んだのか。どうしてその名前を知っているのか。
 その返答次第で、事は余計にややこしくなる。
 オカルトなどを信じているわけではないが、今回だけは――
「すいません、ちょっとお伺いしたいですわ」
 緩やかに湾曲しているカウンターの前に立ち、ナースセンターの中にいる看護婦に声を掛ける。
「はーい。何でしょう」
「東雲昴という清掃員はどこにいらっしゃるか、ご存じでしょうか」
「ああ、それなら」
 対応してくれた看護婦は言いながら自分のすぐ後ろを指さし、
「あそこに」
「へ?」
 指の先を目で追いながら菊華は振り返る。
 が、誰もいない。いつも通り、黒いソファーの立ち並んだロビーホールが広々と――
「……違うのです。そうじゃないのです……」
 ――いや、何かの声が微かに。
「僕が求めているのは精神美。内面の強さ、美しさ……。外見は二の次、2.1の次、2.2の次、2.25の次……」
 どこだ。声はすれども姿は見えず。
「ですが……僕は……」
 さっぱり場所が掴めない。検討もつかない。
「あああああ! やっぱり捨てられない! おっぱ――」
「ごきげんよう、ですわ。東雲さん」
「――いたいのです。菊華さん」
 昴の眉間にヒールを突き刺したまま、菊華は朗らかな表情で昴と挨拶を交わした。
「全く、観葉植物と一体化するとか、そんな子供じみたマネやめてくださる?」
「無意識なのです。昨日の夜からの記憶が途切れ途切れなのです。困ったような、嬉しくてたまらないようななのです」
 適当に切り揃えた黒髪をボリボリと掻き、昴はうーむと呻り声を漏らす。
「取り合えず今はどうでも良いですわ。あなたに一つお聞きしたいことがあります」
 どぉぽんっ、とヒールを抜き去り、菊華は昴を正面から射抜いた。そして咳払いを一つし、心の準備を整えて――
「雛守……“小夏”さんについてなんですけど……」
「思い出したのです!」
 菊華の言葉を遮り、昴は灰色のつなぎから脱皮しそうな勢いで飛び上がった。
「今日もお話する約束だったのです! すっかり頭の中がおっぱ――」
「まぁ落ち着けですわ」
「――いまの言葉、そっくりそのまま返すのです」
 爪先で持ち上げていた昴の胸ぐらを解放し、菊華は黒髪を梳いて続ける。
「東雲さん。あなた今、『“小夏”さんと“お話しする”』。そうおっしゃいましたね?」
「……言ったのです」
 睨み付けるような視線を向けられた昴は、少し気まずそうにしながらもハッキリと返した。
「では小夏さんとはどこでお知り合いになったのですか?」
「……勿論、この病院でなのです」
 聞かれている意味がよく分からないといった様子で呟く昴。
 やはり……事態はかなりややこしいことに……。
「あなたは『小夏』という名前をどこでお聞きになりましたか?」
「どこっ、て……。そりゃ自分で名乗っ――あ」
 そこまで言って昴は短音で言葉を呑み込み、
「ちっ、違うのです! 小梅さんなのです! 断じて小夏さんじゃないのです! 紛れもなく小梅さんなのです!」
「……そうやって本人から口止めされたんですの?」
「小梅さんなのです! 療養病棟七〇八号室にいるのは雛守小梅さんなのです! 年齢は十七、八で、小物が好きで、背が高くて、でも心は繊細で、セミロングが似合ってて、歌声がとっても綺麗で! まず十中八九の確率で小梅さんなのです!」
 まるで言い訳でもするかのように昴はまくし立てる。
 相変わらず正直な人間だ。こちらが罪悪感さえ覚えるほどに。
「とにかく身長以外は菊華さんと共通点がないから、心配しなくても大丈ブ――!」
 恐らくそれは小夏の体型だ。どういうわけかは知らないが、昴の目には小梅ではなく小夏の姿が映っている。そして小夏は小梅と違い、喋ることができる。昴には彼女の声が聞こえる。
(ふぅ、ですわ……)
 割れた昴の後頭部から踵を引き抜き、菊華は悩ましげに柳眉を曲げて溜息をついた。
 ――小梅の身辺を調査していたら小夏の名前に辿り着いた。
 昴がそう答えてくれたなら、どれだけ気が楽だっただろうか。今回ばかりは少々卑猥な単語が出たとしても聞き逃すつもりだった。
 しかし現実は甘くなかった。昴は本人から聞いたと言った。小夏を見たと言った。小夏の声を聞いたと言った。そして彼がウソの付けない人間だということはよく分かっている。
(しょうが、ないですわ……)
 いいさ。これも試練の一つだ。真宮寺太郎に近付くための儀式の一環だ。受け入れよう。
 オカルトは存在する。幽霊は存在する。そしてそれが見える人間がいる。聞こえる人間がいる。
 これは事実だ。言い逃れのできない事実。
(雛守……小夏……)
 その名前をもう一度胸中で繰り返し、菊華は脇に挟んでいる茶封筒に目を落とした。
 『小梅』の名前が書かれた戸籍謄本。その中に『小夏』の文字も記されていた。
 続柄は『長女』。
 すなわち、小夏と小梅は姉妹。
 だが別にこのこと自体は何ら特筆すべき物ではない。ただ小梅に姉がいたというだけのこと。
 ここで最も重要な事実は、小夏が“六十年以上も昔に亡くなっている”ということだ。
 小梅の言っていた通り、両親は三十年ほど前に他界していた。年齢から推察するに、寿命とみてほぼ間違いないと思われる。しかし小夏の方は全くの原因不明。
 朝、起きてこないので部屋に行ってみると、すでに冷たくなっていたらしい。
 外傷はなく、毒物などの反応も出なかった。小夏は誰かに怨みを買うような人柄ではなく、妹思いの優しい姉だった。生まれつき体が弱かった小梅のことをいつも気遣っている様子が目撃されていた。だから死因は発作的な心臓麻痺による自然死とされ、特に大きな捜査は成されなかった。
 最初、心斎橋から連絡を受け、彼の口から『小夏』の名前が出た時には本当に驚いた。小梅の本当の年齢と小夏との関係。この二つが同時に分かってしまった。
 だからなのかもしれない。少し昂奮気味になってしまって、余計なことまで調査を……。
「まぁそうですわよね。単にワタクシの聞き間違いか、あなたの言い間違いですわよね。小梅と小夏なんてよく似た名前ですわ」
「そ、その通りなのです……」
 菊華の言葉に、昴は心底安堵した表情を浮かべてせっせと止血を始めた。
 今の反応で十分だ。
 昴は小夏の姿が見える。小夏と会話することができる。
 そこまでハッキリすれば十分だ。これ以上深く聞き込む必要はない。
 昴のためにも、そして小梅のためにも。
 小梅はきっと昴のことが好きなんだ。だから自分の秘密を知られたくない。
 もし本当は声が出ないと分かってしまったら、気味悪がられると思っているから。もし本当は七十二歳のお婆さんなんだと分かってしまったら、離れて行ってしまうと思ってるから。
 もっとも、東雲昴という男はそんな些細なことを気にする人間ではないと、根拠のない自信を持って言えるのだが、小梅にしてみれば切実な問題なんだろう。
 多分、五十年ぶりに他の人間と会話できたのだろうから。
 もし自分が同じ期間だけ隔離された後、好意を寄せてくれる人間が突然現れたなら、どんな手を使ってでもその人を繋ぎ止めようとする。絶対に離すまいとする。
 彼が自分を見てくれる、唯一の人間ならば、絶対に……。
「ところで、昨日はあれから何か分かりまして?」
 声のトーンを少し変え、菊華は血色を取り戻し始めた昴に聞いた。
 自分の目的は小梅と昴の仲を割くことでも、小梅のことを詳しく調べることでもない。
 この病院の経営を立て直すことだ。そのためには院長とまともに会話できる材料を集めなければならない。
 この病院の職員や患者の出入り、もしくは手毬歌の正しい解釈を。
「へ? あ、ああ! そうなのです! 喜んでほしいのです! 貴重なデータがおっぱり手に入ったのです!」
「“あっさり”ですわ」
 めり込む踵。
「これなのです!」
 再び開いた傷口を全く気に掛けることなく、昴は晴れ晴れとした顔付きでポケットの中から何かを取り出した。
 それは小さなUSBメモリ。表面には可愛らしい丸文字で『私物』と書かれたテプラシールが貼られている。
「これは?」
「みんなの出入りなのです。ここ二十年の物らしいのです。中身はまだ見てないのです」
 USBメモリを昴から受け取り、菊華は手の平サイズの記録媒体をじっと見つめた。
 過去二十年間ものデータ? そんな物、一体……。
「どなたの物ですの?」
「ふちょ……府庁の真下に埋まっていたのです!」
 なんでやねん。
 きっと婦長からも口止めされているんだろう。全く、正直なのはいいことだが、これでは自分もうかうか秘密を打ち明けられないな。こちらの動きが昴経由で院長に漏れないよう気を付けないと。
「それは大変ご苦労さまでしたわ」
「て、徹夜仕事だったのです……」
 ゲッソリと下手な芝居をする昴を軽く流す菊華。
 何だかだんだん扱いに慣れてきた。
「あっ、そういえば菊華さんどこにいたのですか? 探しても見付からなかったのです」
 USBメモリをフォーマルスーツの胸ポケットにしまい、菊華は一瞬だけ昴から視線を逸らす。
「あなたは府庁まで行って徹夜で発掘していたのでしょう? 会えるわけありませんわ」
「そ、そうだったのです……。睡眠不足すぎて頭が回ってないのです……」
 額に手を当ててクラクラとわざとらしい仕草をする昴。
 ご親切にあらかじめ墓穴を掘っておいてくれて助かった。
 まさか言えるわけがない。
 小梅の周りを詳しく調べていたなどと。
 自分が今しなければならないことは、この病院の経営を立て直すこと。
 それは分かっている。分かっているのだが……どうしても好奇心を抑えられなかった。恐い物見たさと言ってもいい。あるいはオカルトを必死に否定したかっただけなのかもしれない。
 とにかく昨日、小梅のことを更に詳しく調べ上げてしまった。
 小梅の出生、親類関係、学歴といった基本情報から、入院当時の様子、担当医、病床番号、処方された薬の内容といった診断履歴まで。
 プライベートに深く関わる物まで手を出そうとしてしまった。
 しかし幸か不幸か、診断内容の方は殆ど情報が残されていなかった。いや、どちらかというと“残さなかった”といった印象の方が強い。恐らく院長が意図的にそう仕向けてきたのだろう。そして患者や職員の出入りに関するデータも、裏で改ざんしているはずなんだ。
 外から不審に思われないように。小梅のことを隠すため。
 だから生の声を集める必要があった。
 もしこのデータの作成者が婦長なのであれば、すでに院長の手が加わった物である可能性が高い。とはいえ今すぐにでも中身を確認したい。どこか落ち着ける場所で。今後の出方を決めるためにも。
「東雲さん、今お時間ありまして? データの検証をしたいんですが」
「えっ……? 今から、なのですか……?」
 菊華の問い掛けに、昴は口の端を引きつらせて返した。
「お仕事の時間ですの?」
「え、えーっと、今日はお休みの日なのですが……。ただもーちょっと聞き込みをしたい気分というか……その、手毬歌の方もドMのままなのでちょっと……」
 昴はしどろもどろに言いながら、壁の高い位置に備え付けられた時計をチラチラと見る。
 全く、またしても分かり易すぎる反応だ。
 だがこちらとしても丁度良い。データが予想通りの内容だった場合、その解釈を正直に伝えるわけにはいかない。適当な言い訳を考えなければならない。もし一人で見られるのであれば、その心配をしなくてすむ。
「分かりましたわ。ご都合が悪いようですからワタクシ一人で見させていただきますわ。後で結果だけご報告いたします」
「た、助かるのです……」
「また後で合流いたしましょう。これ、ワタクシの番号ですわ」
 菊華はスーツパンツのポケットからプラチナボディーの携帯を取り出し、自分のナンバーを表示させて昴に見せる。
「あ、了解なのです。じゃ僕のも」
 言いながら昴は自分の携帯を操作し、こちらの番号にワンコールして切った。そしてディプレイに表示された数字は、
(081081117081……?)
 初めて見る並びだ。だが純然たる殺意が沸き上がってくるのはなぜだ?
「ではまた、こちらから連絡いたしますわ」
 ナンバーから目を逸らすようにして携帯を閉じ、菊華はポケットに戻しながら言う。
「分かったのです。期待通りであることを祈っているのです」
 そして一旦昴と分かれた。

◆東雲昴の『小梅さん黒い幼児で蛇がどっかんの西九条なのです!』◆
 療養病棟七〇八号室。
 雛守小夏……いや小梅の病室。
「小梅さーん、東雲なのですー」
 昴はドアを軽くノックし、中から返事が来るのを待った。
「は、はいっ。ど、どんぞー」
 そして清らかな声が聞こえると同時に、ドアをスライドさせて部屋に入る。
「ゴメンナサイなのです。ちょっと遅れてしまったのです」
 白いカッターシャツの襟元を改めて直し、昴は申し訳なさそうに頭を下げた。その拍子にヘアーワックスでセットした前髪が、瞼の辺りにパラパラと落ちてくる。
 身だしなみを整えるのに少し時間を取られてしまった。乳液という言葉は、響きその物が悪魔の囁きだ。もし通天閣が出てきていたら更に時間を食っていた。以後、気を付けなければ。
「そ、そんな。ワラシは……東雲さんが来てくれるだけで十分なんじゃ」
 ベッドの上で慌てて首を横に降る小梅に、昴は微笑しながら近付く。そして彼女の隣りに置かれている丸椅子に腰を下ろし、ブラックジーンズの裾を少し引き上げた。
「今日も大変元気そうで何よりなのです」
「東雲さんも……ちょっと目のクマが大きくなった気が……?」
「生まれつきなのです」
「そ、そっか。生まれつきなら、しょんがねぇの」
 セミロングの黒髪をもじもじと触りながら、小梅は気恥ずかしそうに俯いた。
(初々しいのです……)
 恐くなるくらいに新鮮な反応だ。別に今まで見てきた女性を否定するわけではないが、かつてない胸の高鳴りを覚える。これはやはり――
「運命の人なのです」
「はェ!?」
 唐突な昴の言葉に、小梅は仔リスのように愛嬌のある目を白黒させる。
 おっと、考えていることがつい口から。千冬のクセがうつってしまったのかもしれない。
 だが別に問題はない。体の底からの本心なのだから。むしろ丁度いい。
「小梅さん」
 昴は声に力を込めて言い、小梅の方に少し身を乗り出す。
「今、小梅さんのために淫蝶の弱みを探しているところなのです。もうすぐあの卑猥な出涸らしから救ってあげられるのです。綺麗な体で退院できるのです。もし、その時が来たら――」
 そして小梅の白い細腕にそっと両手を添え、
「僕と、お付き合いして欲しいのです」
 彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて言い切った。
 小梅は何も返さない。白地に桃色の水玉が入ったパジャマから伸びる彼女の腕。そこに被さっている自分の両手。その二つを交互に見比べながら、大きな双眸をさらに大きく見開いている。
 ……少し、冒険し過ぎただろうか。
「えっ、えーっと……そ、そういえばーあの手毬歌ー、もう一度聞きた――」
 苦しい言い逃れと共に手を離そうとした時、昴の腕を温もりが包み込む。
「へ……?」
 視線を下げる。
 小梅の手だった。
 今度は小梅の方から昴の腕を掴み、何かを試すように何度も何度も触ってくる。時にはこちらの手を取って自分の腕に添え、それはまるで夫婦が愛し合うかのような……。
(だっ、大胆なのですですですぅ……)
 予想だにしなかった小梅の反応に、昴は血液温度が急上昇していくのをハッキリと感じ取った。
 そしてスイッチが入る。
(好機)
 今を逃す手はない。こちらが手を握り、向こうからも握り返してきてくれた。
 つまりはオッケーサイン。オッケーコサイン。オッケーコカイン。おっけー股間イン。おっぱい――
 今のこの胸の高鳴りをおっぱい感度に変えて。
(参るぞ皆の衆)
 敵は変能寺にあり。いざ、かまくらで尋常に情事を。我が性涯に一片の悔いなーし!
(もらったぁ!)
『オイこらワレ』
 耳の裏で雑音が。
『調子クレとんちゃうぞボケ』
 愚かな……。
『早よ手ぇ離せや』
 幽霊のおっぱいすらも触って揉んでむしゃぶりつけるようになってしまったこの肉体。『ガンオブザイヤー』の進化型。名付けて『タッチパイ練る』を手に入れた自分に意見しようなどとは……。
(片腹痛し) 
 生きながらにして冥府魔道を彷徨う腐餓鬼と化すがよいわ!
(食らえ! 必殺『品乳が最も希少』!)
「西九条」
 冷たい響きを持った声。
「アンタが離れぇ」
 続けて小さな破砕音。
『痛ッテぇ!』
 そして西九条の叫び声が後ろに飛んでいく。
(へ……?)
 今、何が起きた? さっきまで自分の肩に乗って、ブツブツと文句を垂れていた黒い物体が突然、何かに弾かれたように……。
「す、すまんのぉ東雲さん。エラい口の悪い九官鳥で。気ぃ悪、したかのぅ……」
 西九条の方に向きかけた視線を小梅の声で戻され、昴は少し硬直した表情を浮かべる。
「すまんのぅ……。まぁあれでも、ワラシのお友達じゃけぇ……」
 が、息苦しそうに顔を伏せる彼女の反応に、慌てて作り笑いを浮かべた。
「い、いや! そんなの全然気にしてないのです! 男の子はあれくらいで丁度良いのです! 元気なのが一番なのです!」
「まぁ、一応メスなんじゃけどな……」
 メ……。
「き、肝の据わっている鳥なのです! きっと安産型なのです! オメデタイのです!」
「まだ一回も、卵生まんのじゃ……。オスを足蹴にしてもーて……」
 足……。
「え、偉そうな鳥なのです! 女王様タイプなのです! 菊華さんと仲良しなのです!」
「菊華……」
 昴が口にした名前に反応し、小梅は何かを考え込むようにじっと見つめてくる。しかしその表情はすぐに柔らかく綻び――
「あの人は、いい人じゃぁ。綺麗で、優しくて、すごい話しやすい人じゃぁ。きっと男の人は、放っておかねぇんじゃろなぁ……」
 どこか遠くの方を見ながら小梅は独り言のように呟いた。
「ワラシみたいな田舎モンじゃぁ、比べモンになんねえんじゃろなぁ……」
 そして少し悲しげな笑みを浮かべ、浅く溜息を付く。窓から射し込む西日が照らし出す小梅の横顔。
 昴は殆ど無意識に立ち上がり、今度はしっかりと小梅の手を握り締めて、
「全然そんなことはないのです」
 精一杯の想いを込めて言った。
「小梅さんはとっても素敵な女性なのです。僕はきっと小梅さんに出会うために、ここでバイトをしていたのです。小梅さんを元気にして、お付き合いするためにここに来たのです」
「お、お付き合、い……?」
 昴の言葉に顔を紅潮させる小梅。初めて聞いたかのような反応。
 どうやら最初の告白は耳に入っていなかったようだ。別にいいさ。何度でも言ってやる。
「そうなのです。僕は小梅さんに初めて会った時に好きになってしまったのです。あの美しい歌声に惹かれてこの部屋まで来たのです。一目惚れしたのです。ぜひ、お付き合いして欲しいのです」
 病的なまでに顔を赤くしたまま、小梅は何も言わない。が、嫌がっている様子もない。ただ放心したまま、焦点の合わない瞳をこちらに向けてきている。これはきっと現代社会において絶滅が危惧されている、“恥じらい”というヤツだ。
(いけるのです)
 かつて無い手応え。心身共に充実している。そして西九条からのツッコミもない。近付いてくる気配もない。あんなでも一応、小梅の言うことは聞くようだ。
 さっき飛ばされたように見えたが、自分から進んで離れたんだろう。鳥頭のクセに肝心なところではちゃんと気を利かせてくれるじゃないか。塩での味付けは勘弁してやろう。
「小梅さん」
 昴は小梅の手を握る力を少しだけ強め、
「ずっと僕のそばで、あの歌を歌っていて欲しいのです」
「そんなに気に入りましたデスか? あの呪い歌」
 空気の質が変わった。
「あの手のおまじないは、いつの時代、どこの場所でも普通に転がっている、子供のお遊戯デスよ」
 悪寒が背筋を走り抜け、全身が総毛立つ。
「こっくりさん、花子さん、怪談話、七不思議。形は変わっても似たような内容で伝わるデス。何度かは見たり聞いたり、実際に体験されたりしたデスでしょう?」
 黒いシルクハット、黒いスーツ、黒いネクタイ、黒い革靴。
「東雲昴様」
 上から下まで黒一色に染め上げられた五歳くらいの幼児は、出窓の枠に腰掛けたまま自分の名前を呼んだ。
「また出おったな……」
「まぁまぁそう恐いお顔をなさらないでデスよ。せっかく東雲様が褒めて下さったのに台無しデスよ、雛守様」
「ワラシはあんたと行く気なんかねぇかんな」
「何もそう決断を焦らなくとも。幽霊界もそんなに悪いところではありませんデスよ? ま、その話はおいおいするとして――」
 子供特有の高い声で言い、小さな黒ずくめはふわりと床に降り立った。
「初めまして東雲様。ボクは幽霊界からの使者として参りました、夜水月と申しますデス。以後、お見知り置きを」
 そしてシルクハットを取って胸の前で抱え、深く頭を下げて慇懃に礼をする。
「初めまして、なのです……」
「東雲さん、こんな奴相手にせんでええ。気分悪くなるだけじゃ」
 夜水月の挨拶に返した昴に、小梅は不快感を露骨に滲ませながら言った。
「おやおや、たった一日で随分と嫌われてしまったようデスね」
「ワラシはあんたなんかに用はねぇ。とっととけぇれ」
「申し訳ありませんが、本日は雛守様ではなく東雲様に用があって参ったのデスよ」
「東雲さんに……?」
 シルクハットをかぶり直し、夜水月は短い足でヨチヨチと近寄ってくる。
「東雲様、守護霊に興味はございませんデスか?」
 また空気が変わった。
「夜水月ぃ!」
 冷たく張りつめた物から、荒々しい殺気に満ちた物へと。
「ええ加減にせんかぁ!」
 病室内に響く叫声。だがそれが誰の口から出ている物なのか分からない。
「おやおや、そんなに怒られてはお体に障りますデスよ?」
「やかましぃわぁ!」
 空気をつんざく怒声と同時にサイドテーブルの花瓶が破裂した。続けてカーテンが細切れとなり、テレビが真ん中から二つに割れる。
(こ、これは……)
 何か不可視の力によって次々と破壊されていくインテリア。一体何が起こっているのか理解できない。ただ立ちつくすしかない。
「雛守様、何度もいいますデスがボクは東雲様とお話がしたいのデスよ」
 周囲で撒き起こる破裂音に動じることなく、夜水月は平然とした声で言う。
「黙らんけぇ! 東雲さんには触れさせんわぁ!」
 小梅に掛かっていたシーツが千切れ飛び、人影が宙を舞った。
「おやおや」
「いねやぁ!」
 浮いた体勢から小梅は両腕を強く前に突き出す。それに呼応して何かの奔流が夜水月を呑み込み――
「病人は大人しく、デスよ」
 パァン! と空気が弾けたような音が轟いた。
「これでもかつては守護課の課長を務めておりましたデス。落ちぶれたとはいえ、七十年そこそこの新人候補者に後れをとるようなことはないデスよ」
「喋りなやぁ!」
 凄まじい剣幕で夜水月を睨み付ける小梅の体を何かが覆っていく。それは半透明の太いチューブ。まるで巨大な蛇が、彼女を守護するかのように螺旋を描いて立ち上った。
「これはこれは。こんなにもハッキリした形で力を扱えるとは。将来有望デスね」
「死なんけぇ!」
 小梅の絶叫と共に蛇は顎を高々と持ち上げ、真上から夜水月へと急迫する。圧倒的な質量が大気の海を掻き分け、小さな黒い体を捉えた。
「しょうがないお人デスね」
 薄ら笑いすら浮かべ、夜水月は短い片腕を掲げる。そして衝突する凶悪な牙と赤子のような指先。
「少し、痛いかもしれませんデスよ?」
 夜水月は不動のまま蛇の突撃を受け止め、爪をその体内へと潜り込ませた。
「――ッ!」
 小梅が落ちる。
 ぼろぼろにささくれ立ったベッドに受け止められ、彼女は体を丸めて小刻みに痙攣を始めた。
「ご自身の幽霊体を直接使われたのは大した勇気だとは思いますデスが、あなたはまだまだ不完全だ。ですが素養は十分でいらっしゃいますデス。幽霊界にいらして修業を積めば、さぞかしご立派な守護霊となられることでしょう」
「やかま……しぃ、わ……!」
 突っ伏したまま顔だけを上げ、小梅は夜水月を射抜く。
 何だ。これは何なんだ、突然。
 黒い少年が現れて、小梅が怒り出して、部屋が無茶苦茶になって。
 半透明の蛇とか、幽霊界とか、守護霊とか。
 何が何やら訳が分からない。
 本当に殆どの訳が分からないが――
「今すぐ小梅さんを解放しろなのです」
 決断するより先に体が動いていた。
「おやおや、東雲様まで実力行使デスか? あまり感心いたしませんデスね」
 ネクタイを掴み上げられながらも、夜水月は余裕を含んだ声で言ってくる。
「早くそれを離せなのです」
 声と手に力を込め、昴は夜水月の体を目の高さまで持ち上げて凄んだ。
 こいつが誰なのか。何の目的でこんな所にいるのか。小梅とどういう関係なのか。
 そんなことは知らない。分からない。
 だが別にどうでもいい。
「やはり見えておられるようデスな。そして微塵も動じない。さすがでございますデス」
「離せ」
 小梅が苦しんでいる。こいつが小梅を苦しめている。
 それだけ分かっていれば十分だ。自分がやるべきことはただ一つ。
「では東雲様、ボクと取り引きをいたしましょう」
「小梅さんを離せ!」
 声を上げると同時に昴はネクタイから首へと手を移す。そして直接夜水月の首を締め上げて――
(く……)
 指が食い込まない。皮膚の内側に鉄板でも入っているかのような堅さだ。
「これは大変失礼いたしましたデス。ボクの方も説明が不十分だったデスね。東雲様を困らせるのは本意ではございませんデスので、こちらはご要望通りに」
 無垢な笑みさえ浮かべて見せながら、夜水月は蛇から手を離す。
「――くっ……! はっ……」
 背後で聞こえる小梅の苦しそうな声。解放された蛇は床を這うようにして小梅の体に戻り、そして跡形もなく消え去った。
「東雲様。できればボクの方も手を離していただきたいのデスが」
 自分の首を掴んでいる手を指で軽く小突きながら、夜水月は柔和な口調で言ってくる。
「約束しろなのです。二度と小梅さんに手を出さないと」
「それは東雲様のご返答次第で御座いますデス」
 挑発的で、そしてどこか小馬鹿にしたような口振り。
「さっきの取り引きがどうとかいう話なのですか」
「ご察しが良くて大変助かりますデス」
 夜水月はシルクハットの位置を直しながら浅く頷く。首を掴まれたままだというのに、苦しそうな素振りは全くない。
 こいつ……。
 小梅の力も驚いたが、こいつはあれを易々と……。
 非常識なことには慣れているつもりでいたが、あの人のような能力の持ち主がまだ他にも……。
 慎重に行かなければならない。だが事を上手く運べる器用な交渉力があるわけでもない。なら、思ったことをそのまま実行するだけだ。
「分かったのです」
 低い声で返し、昴は夜水月の首を掴む手を緩める。
「っとっと」
 片足で着地し、おどけた仕草で飛び跳ねて見せる夜水月。
「さっさと言うのです。小梅さんには手を出さないと約束するのです」
「まぁそう慌てずに。まずは取り引きに移る前に一言申し上げておきますと、彼女は“小梅”ではなく“小夏”。小梅の姉で御座いますデス」
「よ……み月……ぃっ」
 背中からの声と同時に巨大な気配が立ち上がる。
「おやおや、元気な方デスねぇ」
 そして夜水月の右手が歪みを伴って動き、
「やめろ!」
 喉の奥から空気の塊が飛び出した。
「取り引きはする。だから手を出すな」
 夜水月を見下ろしながら睨み付け、昴は短い言葉で言い切った。
「東雲、さん……やめ、て……」
 啼くようにか細い小梅の声。だが昴は振り向かない。
「言えなのです。取り引きの内容を」
「話が早くで大変助かりますデス」
 にぃ、と口元をイヤらしく曲げ、夜水月は満足げに頷いた。
「ですが今回は取り合えずそのお返事さえいただければ結構でございますデス。また誰も邪魔がない時にごゆっくりと」
 言いながら夜水月は一歩下がり、胸に手を当てて頭を下げる。続けて遠くの方から聞こえてくる何人かの足音。
「呪い歌……ああいや、手毬歌でございましたデスか。内容が理解できると良いデスね。心よりお祈り申し上げておりますデス」
 そして夜水月は床を蹴り、吊されたように宙で静止して、
「では、失礼いたしますデス」
 消え去った。
 景色に溶け込んだかのように。一片の痕跡も残さず。
「大丈夫ですか!? 開けますよ! いいですね!?」
 夜水月の消失と入れ替わるようにして、ノック音と声が同時に聞こえる。そしてこちらの返事を待つことなく、私服の警備員が二人なだれ込んできた。
『うわっ!』
 同時に似たような反応を示す二人。当然だろう。病室が一変してしまっているのだから。
 改めて見回す。思い描いていた物よりずっと酷かった。
 花瓶、スケッチブック、お手玉、置き時計。小梅のそばにあった小物はことごとく割れ散り、まるで原形を留めていない。シーツやカーテン、ハンガーに掛かっていたシャツなどは荒々しく引き裂かれ、壁に至っては大きくへこんで崩れかけている。
 まるで巨人が爪痕や足跡を残して去っていった後のような光景だった。
「これは……」
 警備員の一人がこちらを見る。その視線に込められているのは批難と怯えの光。
 しょうがない。
 部屋の中にいるのは自分と小梅だけ。そして小梅は病人。
 疑われるべき人間は一人しかいない。
「ち、違うっ、ワラシっ……。やったのは、ワラシ……っ」
「う、動かないで。動かないでよ。今警察呼ぶから。いい? ぜ、絶対に動くなよ」
 警備員は両手を前に出してこちらを制し、目を離すことなくポケットから携帯を取り出す。
「き、聞いてっ……。ワラシっ、ワラシが……!」
「動かないで、近寄るなよ……」
 必死に絞り出す小梅の言葉など最初から聞こえていないかのように、警備員は彼女を無視して携帯に耳を当てた。が、まだ番号を押していないことに気付いてすぐに離す。
「お願いだから……!」
 何とかボタンを押そうとする警備員。しかし指先が大きく震えているせいで狙いが定まらない。
「聞いて……!」
「やめておけ」
 部屋の外から別の声が聞こえてきた。それは落ち着き払い、齢を重ねた老猾な響き。
「無能な公僕などに知らせる必要はない。騒ぎが無駄に大きくなるだけだ」
 警備員から携帯を取り上げ、進み出てきたのは白衣に身を包んだ白髪の老人。
「し、しかし院長……」
「病院に警察が出入りしているとなれば、いわれのない邪推が飛び交う。周りはゴシップネタに飢えている程度の低い愚民どもだ。そんな奴等をわざわざ煽ってやる必要はない」
 不安げに言う警備員とは逆に、院長は自信に満ちた声で返した。
「で、ですが、これは……」
「私の知り合いに優秀な人間がいる。この件は私が直接処理する。全責任は私が持つ。だからお前達は下がれ。ここで見たことは全て忘れろ。いいな」
「そ、それは……」
「これだけ長生きすると色んな場所に顔が利いてね」
 納得のいかない様子の警備員に、院長は下から鋭くねめ上げ、
「どこかのお嬢様ほどではないにしろ、お前らを社会的に消すことくらい造作もない」
 冷笑を張り付かせて鼻を鳴らした。
 それは弱者を虐げる暴君の眼光。反論を許さない強制力。
(嫌いだ)
 こいつのこういうところが最悪に気に入らない。こいつも夜水月も、絶対に小梅には近付けない。髪の毛一本触れさせない。
「わ、分かり、ました……」
 雰囲気に呑まれ、射すくめられ、二人の警備員はほぼ同時に声を出した。そして一歩身を引き、院長から離れる。
「素直なのが一番だ。明日、自分達の口座を確認してみるといい。きっと幸せになれる」
 警備員の一人に携帯を投げて返し、院長は浅笑を浮かべながら手払いした。
『しっ、失礼します!』
 それに警備員達は声を揃えて大きく返事し、逃げるようにして去って行った。
「たかがバイトの人間に口答えされるとは。年は取りたくないものだな」
 くっく、と自嘲めいた笑いを零しながら、院長はゆっくりと近付いてくる。
 昴は無言で彼の前に立ち、小梅を庇う形で院長を睨み付けた。
「君は本当に面白い男だ」
 喉の奥で低く笑い、院長は白衣の胸ポケットから老眼鏡を取り出して掛ける。
「まさかここまでやってくれるとはな」
 そして惨状を晒している室内を愉快そうに見渡し、驚く様子など欠片も見せずに再び目を合わせてきた。
「雛守君のことが大切かね」
「当たり前なのです」
 不意の質問に昴は即答する。
「どうあっても守りたいかね」
「当たり前なのです」
 同じ言葉。
「社会的に消されたとしても?」
「当たり前なのです」
 迷わずに繰り返す。
「そうかそうか」
 昴の返答に院長は小さく笑みを浮かべながら、何度か軽く頷き、
「なら、しっかり守ってやってくれ。どうやら私では力不足のようだからね」
 老眼鏡を外してこちらに背を向けた。
「今回の始末は私がしておく。跡形も残らないようにな。だからこれからもその調子でやってくれたまえ。遠慮などするなよ? 何が正しくて何が誤りかということは我々が決めることではない。時代が決めることなんだよ」
 そしてドアの方にゆっくりと向かい、院長はそれだけ言い残して去って行った。
 静まりかえる病室。先程までの大騒ぎが、どこか遠い場所での出来事であるかのように……。
(何なのですか……)
 院長が去っていった後をじっと見つめたまま、昴は細く息を吐いた。
 あの院長の反応、態度、対応。
 どれを取っても違和感がある。おかしすぎる。何か裏があるからそれを探ってくれと言っているようなものだ。
 きっと院長は小梅の力を知っているんだろう。そして以前にも一度これと似たようなことがあったんだ。でなければあの冷静沈着さは異様だ。
 あるいは、院長も小梅と似たような力の持ち主? だから動じない?
 分からない。分からないが、一つだけハッキリしていることがある。
「小梅さん」
 昴は小梅の名前を呼び、愛嬌のある八重歯を覗かせながら笑顔を向けて、
「無事で、本当に良かったのです」
 ベッドの上で憔悴している大切な女性に声を掛けた。
「……っ」
 驚いたように双眸を大きく見開く小梅。その瞳がすぐに弱々しく萎え、まなじりが潤みを帯び始めて――
「ごめ……な……」
 嗚咽混じりの声と共に泣き崩れた。

◆黒岩菊華の『また色々とややこしくなってきましたわ』◆
 やはり思った通りだった。自分の予想は的中していた。
 昴が婦長から貰ったというデータの中身。そこにはどこに所属していた職員がいつ、どこに異動になったのか、あるいは辞めてしまったのか。そしてどの部屋にいた患者が、いつ、どの病室に移ったのか、もしくは退院していったのか。
 そういった内部情報が事細かく記されていた。外から調べた物とはまるで違う、裏の統計数値が。
 予想通り改ざんされていた。虚偽の報告がなされていた。そしてそんなことが出来るのは、最終確認者である院長を除いて他にいない。
 ならこれは間違いなく婦長が独自に調べ上げた物だ。院長の息は掛かっていない。掛かっていればこんなに生々しく、そしてあからさますぎるデータを残しておくはずがない。
 小梅に関わった医師や看護士。全員が長くとも二年以内には異動か退職になっている。例外はない。
 そして彼女の病室である七〇八号室の周りにいた患者達。彼らにいたっては二、三日で別室に移されている。比較的長期間の介護や看護を行うはずの療養病棟においては、異常に短い期間だ。多分、どうしてもベッドが足りなかった時に、一時的な受け皿として使っているだけなんだろう。そして他が空けば……いや、無理矢理にでも空かせてそこに移す。この数字はそういうことだ。
 ここ数年に関しては、そもそも療養病棟への患者の受け入れを拒否している様子さえある。特に七階。小梅のいる階はガラガラだ。
 基本的に患者は入院させない。治療が終わったら極力他の病院に移す。やむを得ない場合は短期で退院させる。一般病棟で済ませる。どうしても長期が必要な時は療養病棟に受け入れるしかないが、七階には殆ど招かない。
 そして医師や看護士は白雨病院での仕事に慣れる前に、飛ばすか辞めさせる。職員は常に不慣れで、全体を把握できている人間がいないから連携が取れない。ただでさえ少ない人員が余計貧弱に見える。
 だから“ベッドの数は余っているにもかかわらず、人の数は足りていないんだ”。
 全ては小梅の秘密を死守するため。
 小梅の特異体質を他に知られないための大胆な対策。
 あの院長は医師会でも強い権限を持っているから、誰かがおかしいと思っても指摘できない。そんなことが五十年も前からずっと続いてきた。
 経営が傾いて当然だ。むしろ今までよく成り立たせてきたものだと感心する。
(……いや)
 違う。成り立たなかったんだ。
 新人同然の職員ばかりでは、やはり無理が生じたんだ。そして経営が大きく傾いた。
 自分が生まれるよりも前の時に。
 それは今よりずっと致命的で、さすがに何か手を打たなければならなかった。病院が潰れてしまっては、小梅を囲い込むこともできない。どうしても統括できる人員が必要だった。現場を仕切る人材が必要だった。
 そのために育てざるをえなかった。
 婦長のポジションに付く人間を。
「心斎橋」
「はい、お嬢様」
 ノート型のPCから顔を上げ、菊華はヘリの操縦席に座っている使用人に声を掛ける。
「白雨病院の婦長の勤務年数、分かりまして?」
「は。二十五年ほどと記憶しております」
「ありがとう」
「恐縮です」
 そうだ。やはりそういうことなんだ。
 院長は彼女を育てたんだ。そして経営の傾き度合いを今の緩やかな物まで回復させた。
 一通りの仕事を覚えて自分の物にするまでの期間が約三年であることを考えると、おおよその時期が合致してくる。
 自分が生まれる前は急傾斜で、それに危機感を感じた院長が婦長を育てた。その効果が三年後から徐々に現れ始めて、今は下がり傾向にありつつも窮地からは遠くなった。
 おかげで小梅を白雨病院に置き続けることができた。
 しかし病院の異常な内情を婦長に知られてしまった。
 小梅が不老であることを受け入れているのか、あるいは特異体質とだけ認識しているのか、それとも単に経営悪化の理由が小梅にあると睨んでいるだけなのかは知らないが、婦長が雛守小梅という人物に主眼を置いていることだけは確かだ。
 なぜならこのデータがすでに小梅に焦点を当ててまとめられているから。しかも二十年も前から。つまり――
(五年、ですわ……)
 たったそれだけの期間で異変を察知し、こんなデータを自主的に集め始めるなど。やはり婦長となる人材と見込まれるだけあって、いろんなことに敏感なんだろう。
 自分なら……どうだろうか。
 もし五年、小梅と一緒にいたとして、彼女が普通とは違うことに気付けるだろうか。何か特別な扱いを受けているだとか、年を取らない体だとか――
(年を取らない……五年、で……?)
 自分の頭に浮かんだフレーズに、菊華は妙なひっかかりを覚える。
 五年。もし五年。自分がずっと小梅と一緒にいたのなら、彼女に変化があるかどうかなど逆に分からないだろう。多分婦長が気付けたのも、ごくたまにしか療養病棟の七階に立ち入らせてもらえなかったから、小梅に異質な何かを感じ取れたんだ。
 例えば母親の体型が五年前とは違っていたとしても、毎日顔を突き合わせて会話していたのでは変化には気付けない。
 ましてや二十四時間、ずっと一緒にいなければならない“自分の変化”などには。

《こんな手毬歌、誰からも聞いたことありませんでした。私の声が急に出なくなった後、自然と聞こえてきたんです。それから――》

 小梅の病室で話を聞いた時、スケッチブックには確かにこう書かれていた。

《“年を取らなくなったのも、この歌が聞こえてきた時からでした”》

 なぜ分かる。
 年を取らなくなった時期が、声が出なくなって手毬歌が聞こえてきた時期と同じだとどうして分かる。
 不老は五感に分かり易く訴えかけてくる物ではないはずだ。
 小梅の外見年齢は十七、八。女性の成長期はもう過ぎている。毎日見続けている自分の顔や体が数年間変化なかったとしても何ら不思議ではない。それ以降、身長が伸びなかったとしても、体つきが変わらなかったとしても、大きな疑問は抱かないはずなんだ。
 仮に小梅が婦長のように敏感で、五年経った頃に変調に気付けたとしても、始まりが五年前だとは断定できない。声が出なくなって手毬歌が聞こえた時期と同じだなどと、言えるはずがないんだ。
 しかし彼女はあの時確かにそう書いていた。
 つまり小梅は何らかの方法で察知できた。
 自分の身に何かおかしなことが起こったことを。当時はすぐには分からなかったかもしれないが、今になってみれば不老の身になったのはあの時だと、半ば確信できる何かがあった。
 そんな分かり易いキッカケが小梅にはあった。
(そういう、ことですの……)
 それなら納得できる。一応話の筋は通る。
 まだかなり強引だが。
「ふぅ……」
 菊華は溜息を付き、職員や患者の出入りが記されたデータシートを閉じた。
「いかがなされましたか、お嬢様」
「何でもありませんわ、心斎橋。ホバリングの調子はどう?」
「は。白雨病院上空にて不動体勢を保っております」
「そう。さすがですわね」
「恐縮です」
 明かりが灯り始めた夜景を上空二千メートルから見下ろしながら、菊華は長い黒髪を軽く梳いた。
 オカルト的な思考を受け入れるとすれば、これまでの事実からして小梅と小夏は体を共有している。そして自分の目には小梅が、昴の目には小夏が見える。多分、昴がゴキブリ特異体質なせいだろう。
 小梅は小柄で華奢な女性、小夏は背の高い繊細な女性。小梅は失声症だが、小夏は声を出せる。小夏と小梅は姉妹で、小夏は六十年以上前に死亡している。つまり小夏が幽霊で小梅の体に取り憑いている。
 そして小梅と小夏は意識や感覚も共有している。
 なぜなら小夏が昴に抱いている好意を、小梅も感じ取っていたから。
 小梅は自分の体のことを打ち明けてくれた後で、絶対に昴には言わないようにと口止めしてきた。あれは昴がそのことを知って、小夏を気味悪がらないようにとの配慮。
 手毬歌にしても、小夏から小梅に自然と伝わったんだ。それを小梅は“聞こえてきた”と表現した。小夏の存在を隠すために。全ては姉である小夏のことを思ってのこと。
 だがあまりにそのことを意識し過ぎたがために行動が不自然になり、こちらにヒントを与える結果となってしまった。
(雛守、小梅さん……)
 小梅は同じ時期に声が出なくなり、手毬歌の内容を知った。
 この二つはそうなった時がすぐに分かる。瞬時にして体感できる。
 だが不老は別。しかし三つ全ての原因が同じ要素に起因しているとすれば。
 例えば、“小夏に乗り移られたがためにそうなってしまったのであれば”。
 きっと小梅はそう考え、すでに確信にまで至っているんだ。五十年の中でずっと考え抜いてきたんだろうから。だからあの時、迷うことなく『同じ時期だ』と言い切れたんだ。
 そして恐らくその考えは当たっている。
 もし違うのであれば、きっと院長が何らかの措置を取っている。医学で解明できる物なのであれば、五十年も掛ければ何らかの成果は出るはず。その成果を利用することが院長の目的だったはずなんだから。
 しかし何の結果も出ずに、あるいは出ているのに表に出すことなく、なおも院長がこだわり続けているということは、“医学以外の何か”が関与していることに“気付いている可能性がある”。
 院長がどれだけの情報を握っていて、どこまで隠しているのかは知らないが、今ここで重要なことはそちらではない。
 不老の原因が小夏であることを“小梅が知っている”ということだ。
 知っていてなお、小夏のことは口にしないで不老を治してくれと頼んできている。
 つまり彼女が望んでいることは、ただ単純に不老を治療すればいいというものではないんだ。
 “小夏を取り除く以外の方法で”不老を治したいんだ。
 小夏が原因だと分かっているなら、試しに神社にでも行けばいい。そこでお祓いをして貰えば、ひょっとするとあっさり治るかもしれない。
 だがそうすると小夏が消えてしまうかもしれない。そのことを小梅は恐れている。
 小夏と離れたくないから。一度生き別れてしまった姉と離れたくないから。
 だから医学にしがみついてきた。オカルトに頼ることなく、医学的に体を元に戻して欲しかった。そしてそのまま五十年が過ぎた。
 しかし先が見えない。どれだけ待っても院長は何かをしてくれる気配がない。
 そんな時に自分と出会った。
 院長と対等に話せそうな人間である、春日財閥オーナーの娘が現れた。しかも彼女は院長のスキャンダルを欲しがっていた。そして自分は院長と五十年の付き合いがある。
 小梅は賭けに出た。
 この黒岩菊華という人間を上手く使うことができれば、院長から情報を引き出せるかもしれない。自分が彼女の欲しそうな情報を握っている“フリ”をして見せれば、思い通りに動いてくれるかもしれない。
(また推測の域を出ませんが……)
 小梅は多分、院長のスキャンダルなど握っていない。
 最初は『信用されていないからだ』と考えていた。あの時は小梅が五十年も入院しているなどとは信じていなかったから。だが本当に五十年目にしてようやく巡ってきたチャンスならば、そんなことは言っていられない。出し惜しみなどせず、できうる限りのことはするはず。
 しかしそれをしないということは、“しない”のではなく“できない”からだ。
 小梅はこちらと交換しうる情報を持っていない。恐らく……。
 だから苦し紛れに手毬歌のことを教えてきた……?
 何か昔っぽいことを仄めかしておいて、自分の言葉に説得力を持たせたかった……?
 手毬歌が手掛かりになるかもしれないというのは全くの嘘で、単なるハッタリ? 実は声が出なくなった時期や不老となった時期とも違っていて、昔は当たり前のように歌われていた? なら小夏に聞くまでもなく小梅は知っていて……?
(こんがらがってきましたわ……)
 また溜息を付き、菊華は額を押さえながら頭を軽く振った。
 いけない。思考がループし始めている。こういう時は初心に帰らなければ。
 自分の目的は病院の経営を立て直すこと。そして経営悪化の原因は、どうやら院長の傍若無人な人の扱いにあるらしいことが分かってきた。まずは職員を定着させ、婦長のような職歴の長い人間を沢山作れば改善できそうだ。すぐには効果は表れないだろうが、五年後くらいにはなんとか――
(あら……)
 もう達しているではないか。自分の当初の目的はすでに九割方達成できている。
 なら、これ以上この病院に関与する必要はない……? 自分の本業は学問を修めること。今しているのは、あくまでも将来的なことを考えての……。
(ち、違いますわっ)
 危ない。忘れるところだった。
 目的はまだあった。
 まずは幽霊を克服すること。
 せっかくの機会なんだ。あの院長に言われた七不思議とやらを調べてやろうじゃないか。どうせ下らない噂でしかないんだ。この手の話はみんなその程度の物だ。いつの間にか広まって、いつの間にか収束している。一時的なお祭り騒ぎみたいなものだ。
 確かに、少し前まではそう思っていたが……。
 そう言えば父が、白雨病院で“出る”ようになったのが一年くらい前からだと言っていた。丁度いい。今後の病院経営に響いてくるかもしれないから、先に何か手を打っておこう。
(そして!)
 何より真宮寺太郎の情報を昴から聞き出さなければならない。
 自分が目標とし尊敬している憧れの人物。どんなことでも一人でできた人間。春日グループの総力を上げても調べられなかった人物。
 そんな特別極まりない人間のことを、あの東雲昴という男が知っている。少なくとも母よりは新しい情報を持っている。
 それを聞き出さなければならない。聞き出すためにはもっともっと恩を売らなければならない。恩を売るためには小梅の力になってあげなければならない。
 なんだ。まだまだしなければならないことは沢山あるじゃないか。
 全く、終わったと思っていたのにこんなにも残っていたとは。これは先が思い遣られる。学業に専念できないではないか。困った物だ。随分と厄介なことに首を突っ込んでしまった。本当にそう思う――
(なのに……)
 どうして――
(ワタクシ、ホッとしてますの……?)
 なぜ、終わらなかったことに安心している? 山積みの課題を前に、こんな……。
(雛守、小梅……)
 不老の体を持つ少女。すでに七十以上の齢を重ねた。
(否定は、できませんわ……)
 確かに、少なからずそれはある。不謹慎だとは分かっているが、どうしても掻き立てられてしまう。
 小梅のことを調べれば調べるほど、彼女への興味が強くなってきている。その裏にある真相を知りたくなってしまう。好奇心か頭をもたげてくる。
 そしてもう一人……。
(ば、バカな考えですわ)
 一瞬頭に浮かんで消えた顔を振り払い、菊華はノート型のPCを閉じた。そして赤いフォーマルスーツの内ポケットから携帯を取り出し、あの男のゴキブリナンバーを呼び出す。
「心斎橋」
 携帯に耳を当てながら、菊華はスナイパーガードマン弁護士パイロットに声を掛け、
「は」
「この手毬歌、ちょっと調べていただきたいんですけど」
 指先に挟んだスケッチブックの切れ端を差し出した。




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