間違いだらけの手毬歌、してくれますか?

第六話『このまま思い通りに行くと思うなよ』

◆黒岩菊華の『この解釈で間違いないはずですわ』◆
 一夜が明け、次の日の夕方。
 大学での講義を受け終え、心斎橋の運転するリムジンに揺られて三十分。
 白雨病院の前で下りてすぐ、菊華は呆れ顔で納得したように頷いた。
(そういうことですの)
 ヒールを鳴らしてそれに近付き、腕組みして真上から見下ろす。
 純白のスーツドレスを完璧に着こなし、女豹の視線を高い位置から投げかけるその様子は、最後通告を言い渡しに来た執行人のようですらあった。

 六つ、『満月の夜、屋上に一人で行くと白い扉が見える。その扉に入ると次の朝、路上にて死体となって発見される』

 確かにこれは死体だ。
 見事に酔いつぶれた泥酔体だ。
 出入り口横にある芝生の上で無遠慮に寝転がり、夕日のスポットライトを浴びている。だらしなく開けられた口から間抜けに覗く八重歯と、白いカーターシャツに落ちた涎のシミが、芸術的な脱力感を醸し出していた。
(情けない)
 はぁ、と溜息を一つつき、菊華はヒールの爪先で昴の頭を小突く。
「たくひゃん、なのでーす……おっひゃいが、たくしゃーん……」
 ううーん、と身をよじらせながらうわごとを口にする昴。
 ダメだ。完璧に落ちている。酒が全て抜けるのは明日以降になりそうだ。
(男のクセに、だらしがないですわ)
 一人でここまで歩いてきたのか、通天閣達が運んだのかは知らないが、これで七不思議の正体がまた一つ判明した。昨日二つ聞き出せたから合計で四つ。一晩で半分まで分かったことになる。なかなかのハイペースだ。

 二つ、『この病院の地下は戦時中に死亡した兵士達の共同墓地になっており、夜耳を澄ますと時折銃声が聞こえる』

 これは戦争経験者の年輩幽霊達が、地下一階に設置されているボイラー室を根城にしていて、そこで夜な夜な“将棋”を指していることに由来しているらしい。駒を置く時の音がハンパなく大きいため、それが人によっては銃声に聞こえたりするんだろう。
 早い話がコタツで談笑と同じレベルだ。
 今夜にでも確認しようかと思っていたが、昴のこの姿を見て妙な確信を得てしまった。多分、通天閣の話で間違いないだろう。

 三つ、『霊安室には開かずの箱があり、そこには手術で失敗した人の体を継ぎ接ぎして生み出された不死者が眠っている』

 これは……思い返すのもバカバカしいというか、微笑ましい内容だったのだが……。
 とあるところにとっても仲の良い男の子と女の子の幽霊がおりました。ところがその様子をいつも遠くから見ていた別の男の子幽霊が嫉妬して、女の子幽霊の大切なお人形さんを取ってしまったのです。それを知ったもう一人の男の子幽霊は怒り、人形を取り返そうとケンカを挑みました。一時間にも及ぶ大乱闘の末、男の子幽霊はなんとか取り戻したのですが、悲しいことに人形はボロボロになってしまいました。そこで男の子は人形の髪や服を元に戻すべく、こっそり手術室に入り込んでは床に落ちている髪や布きれを掻き集め、人形を修復しようとしたのでした。そんな涙ぐましい努力のかいもあり、人形はどんどん姿を変えていきました。そして最初はフランス人形のはずだったのに、知らぬ間に髪は黒く長く伸び、ドレスは十二単へと変わり、原形を留めなくなってしまったのです。焦った男の子は人形を隠し、その場所に鍵を掛けて封印してしまいましたとさ。めでたしめでたし。
 ……。
 ……まぁ、髪は人の体の一部だし、術衣を誤ってメスで切ってしまうこともあるかもしれない。人形なんだから不死者といえば不死者だし、鍵を掛けてしまえばその場所は開かずの間となるワケで……。
(笑点かって話ですわ)
 決して座布団はあげられない。
 とにかく真相を聞き終えて疲れがどっと襲ってきた。確かにオカルトはオカルトなんだが、七不思議として伝えられている内容が無駄におどろおどろしいというか。手品のタネを知ってしまった時の、安心感と落胆感というか……。
 知らない方が良いことは世の中に沢山あるのだということを改めて認識した。いくらなんでもそのオチはないだろうっていう……。
 通天閣が言うには、髪が伸びたり、着ている服が一枚ずつ多くなっていく呪い人形は、ここに由来しているとか。本質的な内容は変わらなくとも、それを表現する文言は今と昔で全然違うことがあるらしい。
 ……まぁ何にせよ、色んな意味で知らない方が良いのは確かだ。
(幽霊の正体見たり枯れ尾花、ですわ……)
 胸中で芭蕉の俳句を吟じ、菊華は深い溜息を一つついた。
 四つの中で今のところオカルトらしいオカルトは一つだけ。つまり小夏の手毬歌のみ。
 この分では残りの四つも、今回のようにバカバカしいものである可能性が高い。こんなことで院長の真の企みが分かるのかどうかは甚だ疑問だが、手掛かりらしい手掛かりがこの七不思議と、あともう一つ……。
「東雲さん、東雲さん」
 ヒールの先を昴の耳の穴に入れながら、菊華は彼の名前を呼ぶ。
「う〜ん……グルグル回るのですぅ〜……」
 が、まともな反応は返ってこない。これは尋常じゃない量のアルコールが残っている。
 最初の頃は自分よりもかなり遅いペースで飲んでいたと思ったのだが、後半で一気に上げたのだろうか。
 昨日の夜。
 あれから一時間ほど、通天閣に七不思議のことを教えて貰っていた。勿論その間、勧められるままに焼酎を飲んでいたのだが、やたらと水っぽいし、美味くないし、どれだけ飲んでも気持ちよくなどならないし。
 最初は幽霊用の酒だから、人間には意味がないのかと思っていた。だが、いつの間にか復活して輪の中に入っていた昴を見て、そうではないことが分かった。
 実に幸せそうだった。通天閣のふくよかな胸元に顔を埋めて、どれだけ大量出血しても全く痛そうではなくて、むしろ気持ち良さそうで。コチラが聞いてもいないことを、一人で勝手にベラベラベラベラベラベラと。
 何か無性に悔しかったので、一升瓶を一気に飲み干したりもしたが、お腹が膨れるだけで感情的な変化は全くなかった。まさか自分だけ水を飲まされているのかとも思い、昴のコップを奪って飲んでみたが、それでも変化はなく……。
 きっとみんな酒に酔っているのではなく、場の雰囲気に酔っているのだろうと結論付けたところで携帯が鳴った。
 母親からだった。

『菊華? あなた、今盛り上がっているところですの? もし本当に本気で大まじめに盛り上がっているのでしたら、少しくらい遅くなっても大丈夫ですわよ。けどそんなに盛り上がっていなくて、でもあなたがまだいたいというのなら、それでも延長を認めますわ。恋は紆余曲折があった方が燃え上がるんですのよ』

 酔っ払っているのですかお母様。
 そうツッコミたかったが、すんでのところで言葉を呑み込んだ。昴が乱入して来たおかげで通天閣ともまともに喋れなくなり、丁度良いキッカケだったので取り合えずその日は戻ることにした。
 そして次の日。何事もなく講義を受け終え、白雨病院にやって来たのだが……。
「東雲さん、起きなさいですわ。あなたにも聞きたいことがあるんですのよ」
 昴がこんな状態とは……。きっとこれが俗言う二日酔いというヤツなんだろう。かなり苦しいらしいが、自分には全く分からない。
「東雲さん、起きないとどんどん奥に入れますわよ」
 言いながら菊華はヒールの部分に力を込め、
「う〜、おっきしないと奥には入らないのですぅ〜……」
 覚悟は決まっているらしい。
「みギャあああぁぁぁぁぁぁぁ!」
 大気を揺るがす断末魔と共に、昴は飛び起きた。
「目が覚めたようで何よりですわ。ところで昨日の続きなんですが――」
 が、すぐにまたぺたんと座り込んでしまう。
「あ、あれ……?」
「東雲さん。取り合えずそのままでよろしいですわ。昨日あなたがワタクシにおっしゃって下さったこと、覚えてますか?」
「き、昨日……?」
 耳からの流血を顔を傾けて戻しながら、昴は上擦った声で返す。
「小夏さんの力と、黒い少年のこと、それから――」
 そこまで言って菊華は一旦言葉を切り、
「『呪い歌』について、ですわ」
 言葉を慎重に選ぶように、そのフレーズを恐る恐る口にした。
 酔いも手伝って昴の口から飛び出した内容は、にわかに信じられるものではなかった。もし自分がまだ幽霊の声を聞けず、姿を見ることができなかったのであれば、またいつもの狂言かと軽く流していただろう。
 だが今なら、“有り得ない話ではない”くらいまでは受け入れられる。
 常識を見事に覆されてまだ二十四時間足らずだが、幽霊が存在して、彼らが人間と同じように生活していて、空中浮遊や物体透過といった不可思議な力を使うことはこの目で確認済みだ。
 なら彼らと同質、あるいはそれ以上の存在がいたとして、手も触れずにインテリアを破壊したり、半透明の蛇を大暴れさせたり、その蛇を素手で掴み取ったりといった芸当も、あるいは現実として起こりうるかもしれない。
 それに七〇八号室の惨状は、網膜にハッキリと焼き付いている。あれを見た時から人外が関与しているとは思っていた。何か常識を遙かに越えた力が、自分のすぐ近くで暴れているんだとは思っていた。
 だから――
「こ、小夏さんじゃないのです……小梅さん、なのです……」
 立ち上がろうとして座り込むといった動作を繰り返しながら、昴は許しでも乞うような口調で言った。
「もうよろしいんではないですか? 小夏さんのことは、昨日あなたがご自分で喋っていたことですわ」
 小梅と小夏が姉妹関係にあること。小夏はすでに亡くなっていて、小梅の体に取り憑いていること。二人は感情を共有していること。
 そして小夏のせいで小梅の声が出なくなり、不老の体となってしまったのであろうということ。
 呂律が回っておらず、内容自体も断片的ではあったが、聞く人間が聞けばちゃんと把握できる程度には喋っていた。多分、本人から聞かされたんだろう。昴の性格からして、仮説や推論を無闇にバラまくとは思えない。
 そして昴は、小梅と小夏の関係についても打ち明けられていたようだった。
 小梅と小夏は本当に仲の良い姉妹だった。
 背丈があり、病気知らずで活発な小夏。華奢で生まれつき体が弱く、家の中で大人しくしていることの多かった小梅。
 性格も体格も正反対の二人は、それゆえに互いの持っていない部分を補い合い、喧嘩らしい喧嘩など一度もすることなく毎日を過ごしていた。
 小夏は小梅の繊細さと周囲への気遣いの丁寧さをならい、小梅は小夏の勝ち気で何事にも積極的な姿勢を見習った。二人とも両親からの沢山の愛情に恵まれ、いつしか雛守家は理想の家族として周囲からも親しまれてきた。
 平和で、何不自由ない暮らし。温かい家族の団らん。
 しかし小夏が十七、小梅が十四の時、突然の転機が訪れた。
 小夏の死亡。
 朝、いつもなら一番最初に起きているはずの小夏が茶の間に来ないので、母親が様子を見にいくとすでに事切れていた。警察が呼ばれ、清々しいはずの朝は一気に騒然としたものになった。 
 そしてそんな慌ただしい様子を、小夏は真上からずっと見ていた。
 叫んでも誰も気付いてくれず、すがりついても触れられず。それでも小夏は訴え続けたが、自分の意思とは関係なく状況が進み、葬儀が行われ、体は焼かれ、埋葬された。
 自分は死んだんだ。
 その時になってようやく小夏は自分の身に起こったことを自覚した。なぜ死んだのか。どうして死ななければならなかったのか。肝心の理由が分からないまま、先に受け入れられる余裕ができてしまった。
 では自分は幽霊になったのだろうか。これからどうなるのだろうか。どうすればいいのだろうか。
 小夏は不安に覆い尽くされ、絶望に駆られ――そして小梅の体の中にいた。
 気が付くと小梅の肉体に取り憑いていた。
(ここで、彼女の記憶が飛んでるんですわ……)
 昴が小夏から聞いたことを忘れている感じではなかった。不安定な喋り方ながらも、途中で考え込む仕草は見せなかった。
 だから小夏が本当に記憶を失っているのか、あるいはその部分だけ故意に話さなかったのか……。
 今の段階ではどちらかは分からない。
 しかし昴が言うには、小夏には何かしらの目的があるのだという。強い気持ちに裏付けされた重大な目的が。その目的を果たすために小梅の体に何十年も居続け、何十年も歌い続けているのだという。
 だがその目的は小夏自身にも分からない。ただヒントは、小夏がいつも歌っている手毬歌に隠されているかもしれない。
 黒い少年とやらが言うところの『呪い歌』に。なぜか頭に残っていて、ずっと歌ってきたから。小梅の声が出なくなり、不老になった頃からずっと……。
(何か、変ですわ……)
 何だろう。何か根本的で基本的なことを忘れている気がする。違和感を覚えるべき場所を見過ごしているような気がする。
 小夏は自分が死んだ時のことと、小梅の体に入り込んだ時のことを覚えていない。しかし生前の頃のことや、手毬歌の内容、そして小梅と一緒になった以後のことは全部覚えている。
 何か、“都合が良すぎる”気がする。
 作為的な物を感じる。
 小夏の記憶のことだけでなく、もっと全体的に……。
 そう言えば心斎橋に手毬歌の出所を調べて貰ったのだが、何も引っかかってこなかった。もし小夏がいた時代で歌われていたのなら、それに関する情報が少しくらい残っていてもいいはず。なのに全く出てこなかった。まるでそんな物は最初から存在していなかったかのように……。
(ダメですわ……)
 昨日から同じことをずっと考えているのだが、一向に答えは出ない。何かもう少しキッカケでもあれば、頭の中の霧が晴れそうな気がするのだが……。
「東雲さん。ワタクシ、手毬歌の内容について少し深く考察してみましたの。これから説明いたしますから、あなたのご意見をいただけますか? 静かな場所で」
 菊華はその場に片膝を付いて昴と目線を合わせ、おもむろに指を鳴らした。
 昴の直感を信じるのであれば、今のところそのキッカケとして一番近いのは手毬歌だ。最初に違和感を覚えたのが小夏の過去に関してなのならば、小夏の目的を知れば綺麗に繋がるかもしれない。
「『うしみつどきにはめをさませ』。“うしみつどき”は“丑三つ時”。つまり午前二時から三時くらいの間と考えて間違いないでしょう」
 大きなエンジン音と共に上から垂れてきた縄バシゴを掴み、菊華は昴に立つよう促す。
「『わしがひだり、すみがみぎ』。これは星座を指しているものと思われます。“わし”は恐らくそのまま『わし座』の意味で、夏の大三角形の一つとして有名な星座ですわ。午前二時から三時くらいの時間帯には西の夜空に位置します」
 縄バシゴの高度が上がり始めても昴は一向に起きようとしないので、取り合えず足首を適当に縛っておく。
 ……ひょっとすると三半規管まで届いてしまったのかもしれない。
「“すみ”に関してはそのまま当てはまる星座はありません。ですのでこの“すみ”は“角”、すなわちツノのことだと思われますわ。夏の星座でツノと関係のありそうな物は『いて座』と『や座』。ただし『や座』の方は四等星の集まりで非常に暗く、さらに『わし座』と密接し過ぎているので判別が色々と難しいと思われますわ。ですので『いて座』が正解かと。そして『いて座』は丑三つ時には南西の方角にありますから、このフレーズの意味は『西を左手の方向に、南西を右手の方向に』ということ。つまり『東北東』の方角を向けという意味に取れますわ」
 昴の声が急速に引っ張られていくのを聞きながら、菊華はその身を上空千メートルまで移動させる。
「『はしらせ、はしらせ、のろうのな』。この一番最後の“のろうのな”。これがネックになっておりました。ですがあなたから『呪い歌』という言葉を聞いて分かりましたわ。この意味は“呪うの名”。つまり呪いたい人の名前だと考えられますわ。そして“はしらせ”は“知らせ”の意味。“は”は掛け声か、あるいは歌のテンポを崩さないための合いの手のような物かと。ですのでこのフレーズの意味は、『呪いたい者の名前を知らせろ』となるかと思われます」
 上空二千メートル付近でヘリは上昇を止め、ホバリングでその場に停滞した。
「『ふせるな、ふせるな、ひのわがでるまで』。“ふせるな”は“伏せるな”。“伏せる”にはうつむけにするなどの意味以外にも、“隠す”といったニュアンスもありますわ。そして“ひのわ”は“秘の話”。『言葉』を『言の葉』と表現したりするのと同様のことを適応させているのかと思われます。“でる”はこの辺りの昔の方言で、“できる”を省略した物であると分かりました。つまりこのフレーズは『秘密の話ができるようなことになるまで隠すな』と解釈できます」
 心斎橋の腕に引かれ、菊華はヘリの内部へと乗り込む。昴も何とか引っ張り上げようとしてくれたが、コックピットからの不自然な体勢では難しく、諦めることにした。
「『すずめがないたら、わしとばそ』。これも前の繋がりからすると星座の話かと。ただし『すずめ座』という星座はございませんから、形として最も近いのが『はと座』ですわ。これは冬の星座です。よってこのフレーズは『夏が去り、冬まで続けろ』という意味にとりました」
 菊華は両手をメガホンの形にして口元に持っていき、強い風に晒されてぶーらぶらと揺れる昴に向かって少し声を張り上げる。
「『あさめしまえには、ねんさらせ』。“あさめしまえ”はそのまま“朝飯前”かと思われますわ。ただここでの意味は、“簡単に、楽に”と考えました。“ねんさらせ”は“念を晒せ”かと。次のフレーズと合わせると“思いを晒せ”と読めますわ。ですのでこのフレーズは『気を楽にして思いの丈をそのまま晒せ』と考えました」
 ほぼ大の字になって風に弄ばれる昴。さっきからごきん、がきんと嫌な音が聞こえてくるのだが……縛ったのが片足だけというのはまずかったか?
「『ゆめがうつつに、おもいがかなう。いいこのとこにはふくきたる』はそのまま読めますわ。ですから『思っていたことが現実になる。誠実に遂行し続けた者は幸せになる』となります」
 昴の全身が病的なまでにだらーんとなる。片足逆さ吊り状態で高速回転をくわえると、さすがの彼も参ってしまうようだ。一つ勉強になった。
「もう一度最初から通しで説明いたしますと『午前二時から三時の間に目を覚まし、東北東の空に向かって呪いたい者の名前を叫びなさい。その者への思いを隠すことなく、全て正直にさらけ出しなさい。決して気負うことなく、気持ちを楽にして、その行動を夏から冬まで続けなさい。そうすれば思っていたことが現実となるでしょう。思いが叶い、幸せになるでしょう』ですわ。一応それらしい意味にはなったかと思いますが、どこかおかしいと思われたところはありますか?」
 昴に意見を求めるが返事はない。
「東雲さん! 聞いてますの!?」
 もう一度大声で確認する。
 が、やはり無反応。
 しょうがない。ならば彼が絶対に目覚める言葉を。
「返事しないと真宮寺た――」
「ボクが手伝いましょうデスか?」
 真下から声が聞こえ、菊華は言葉を途中で呑み込んだ。
 視線だけ下げて声の主を確認する。
 黒い少年だった。黒いシルクハット、黒いスーツ、黒いネクタイ、黒い革靴。
 小学校に上がるか上がらないかくらいの男の子が、微笑を湛えたままヘリの裏面に立っていた。
 逆さまの格好で。
「東雲様をこんな広い場所にご案内して頂けたのデスから。せめてものお返しでございますデス」
 下からこちらを見下ろしながら、黒い少年は胸に手を当てて慇懃に礼をする。
「……あなたが、夜水月、ですの」
「おや、驚かないんでデスね。これはこれは」
 顔を上げ、芝居がかった様子で驚いて見せながら、夜水月は黒い目を輝かせた。
「東雲さんから聞いてますから」
「ボクがどういう存在なのかも?」
「そんな物、あなたを見れば分かりますわ」
「これはこれは。大変に肝が据わった方でいらっしゃるデス。感心いたしましたデス」
 丁寧な中にもどこか毒を含ませたような喋り。
 こういう奴は嫌いだ。
「では、ボクはお連れの方とお話がありますデスので――」
 言いながら夜水月はヘリの底を蹴り、宙へと身を投げ出した。
 直後、さっきまで彼のいた場所を、誰かの腕が横払いに通り抜ける。
「もう逃がさないのです!」
 そしてその向こうから昴の怒声が響いた。
「逃げたとは幽霊聞きの悪い。あれは交渉を一時中断しただけデスのに」
「どっちでもいいのです!」
 叫びながら昴もヘリのボディーを蹴り、夜水月を追って手を伸ばす。しかし指先が黒いネクタイを掠め、そのまま虚しく空を薙いで――
「捕まえたのです」
 捉えていた。
 小指と薬指だけで夜水月のネクタイをしっかりと。
「これはこれは」
「ここなら小夏さんはいないのです! 遠慮なく行けるのです!」
 夜水月の小さな体を自分の方に引き寄せ、腕で抱え込むようにして捕らえ直す。そして逆の拳をためらうことなく夜水月の顔面に叩き付けた。
 一度だけではなく、二度三度と連続で拳を繰り出し続ける昴。片足で宙吊りとなり、振り子運動を続けながらも昴は手を休めない。力の入った声を上げながら、夜水月に次々と感情をぶつけていく。
(だ、大丈夫、ですの……?)
 そんな一方的な暴行を眼下に収めながら、菊華は胸の奥に痛みを覚えた。
 あの昴がここまでムキになるということは、夜水月という少年は小夏に相当なことをしたんだろう。それはよく分かる。
 だが、そこまでする必要が本当にあるのか?
 夜水月が普通ではないことは分かっているが、まだ年端もいかない子にあそこまで……。
「――ッ!」
 昴から無音の声が上がる。続けて夜水月は解放され、中空に立って昴の方に目を向けた。
 何事もなかったかのように。
「東雲様のご意見、ボクも全くの同意デス」
 シルクハットの位置を直しながら、夜水月は楽しそうに言う。そして空を歩きながらゆっくりと昴の方に近付いた。
 何があったのかは分からない。
 ただ客観的に言えることは、夜水月の顔には傷など一つもないということと、昴が拳から出血しているということ。
「デスが、“遠慮なく”来てこの程度ですか?」
 そしてもう一つ。
「その程度では霊体であるボクを傷を付けることなど、到底不可能デスよ?」
 自分の認識が甘すぎたということ。
「うるさいのです……」
 あの外見に騙されてはいけない。あそこにいるのは少年などではない。
「僕は今――」
 通天閣のように気さくな幽霊でもなければ、昴のように力の使い所を間違えたバカでもない。
「『疲れ』果てているのです!」
 人の姿をした化け物だ。
「あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 咆吼を上げ、昴が跳ぶ。
 振り子運動からのエネルギーを自分の加速に変えて、拳を突き出す。力の乗った一撃が夜水月の鼻先の打ち抜き、しかし見えない何かに受け止められ――
 昴の腕がブレたように見えた。
「どちくしょオオオォォォォォォォ!」
 絶叫。そして鈍い音。
 昴の腕が振り抜かれると同時に、黒い物体が跳ね飛ばされていく。それは綺麗な放物線を描き――
「やったのです……」
 そのまま落下して――
「……クソ」
 止まった。
 点にまで小さくなったそれは、しかし次の瞬間一気に大きさを増し、あっという間に昴の眼前に舞い戻る。そして口の端を挑発的に吊り上げ、
「まぁ、及第点」
 落ち着き払った口調で夜水月は独り言のように呟いた。
「――と、言いたいところデスが。正直がっかりデス」
 が、すぐに子供っぽい表情に戻ると、ネクタイを締め直しながら続ける。
「あいつの関係者だから用心するに越したことはないと警戒していたのデスが……潜在能力は雲泥の差デスね。東雲昴、お前はあいつの髪一本にすら遠く及ばない」
 嘲り、見下しきった物言い。何か汚い物でも見るかのような顔付き。 
「誰と比較されているのか大体の想像はつくのですが……そもそも比べること自体間違っているのです。微生物がどんなに一生懸命努力したところで恐竜にはなれないのです」
「そうみたいだ。あの程度が全力なんじゃ連れて行く価値もない。素材としては、お前なんかよりあっちの方がずっとマシだ」
 鼻を鳴らし、夜水月は乱暴な調子で吐き捨てるように言う。
「素材? あの人をそんな風に呼べるのは、この世のどこにもいないし、未来永劫絶対に現れないのです」
「いつまであのクソ野郎の話をしてるんだ?」
 言いながら夜水月は視線を落とし、横目に昴を流し見て、
「まさか……!」
 昴の顔色が変わった。
「“取り引き”はあの女とする」
 夜水月の体が半透明になったかと思うと、背景と同化するようにしてかき消えた。
「待て!」
 叫び、昴は自分の脚に巻き付いている縄バシゴを解こうと足掻く。が、すぐに苛立たしげな声を上げると、両手で強引に引きちぎった。
 支えを失った昴の体はそのまま重力に引かれ――
「な……」
 菊華の口から短音が漏れ出て――
「夜水月いいいいいいいぃぃぃぃぃぃ!」
 一呼吸のうちに姿が見えなくなり、昴の声は完全に呑み込まれてしまった。
 遙か二千メートル下の白雨病院へと。
「そんな……無茶……」
 掠れた声が口から零れ、菊華は全身を脱力させてその場にへたり込んだ。
 いくらなんでも無茶だ。昴が人間離れした生命力の持ち主なのは知っているが、こんな場所から飛び降りたのでは……。
 体がバラバラになってしまっては、どんなに最新の医療技術を適応したとしても蘇らせられない……。小夏のことでムキになっていたとはいえ、これでは無駄死――
(違いますわ……!)
 そこまで考えて菊華は自分の思考を振り払った。
 さっきだってそうだったじゃないか。
 夜水月のことを外見で判断してしまった。分かったつもりで分かっていなかった。
 出会ってまだ数日の昴のことだって、きっと何も分かっていない。
 だからきっと大丈夫だ。根拠なんて何もないが、あのゴキブリ並にしぶといバカのことなんだ。後先は考えてなくても、真ん中くらいはきっと考えているはず……! きっと! 絶対に……!
「まぁそんなに青い顔しなくても大丈夫だよ。大酒豪のお嬢ちゃん」
 耳元で聞こえた声に、菊華はビクンと体を震わせて振り返った。
「通天閣、さん……」
 そこには地肌にシースルーの和服を纏った大人の女性。長い黒髪はアップに纏めてかんざしで止めている。
「堅苦しいねぇ、呼び捨てでいいよ。一緒に飲み明かした仲だろ?」
 胸元をはだけさせ、谷間を強調しながら通天閣は菊華の前に回りこんだ。
「あの子のことなら大丈夫さ。あんたにゃここからじゃちょっと見えにくいかもしれないけどさ、ホラ」
 言いながら通天閣は昴が落ちていった方を指さす。つられて菊華もそちらに目を向け、
(何、ですの……?)
 言われてみれば薄ぼんやりと何かが見える。
 それは雲のようでもあり、光の乱反射のようでもあり、目の錯覚のようでも……。
「な……」
 人間だ。
 いや、幽霊だ。幽霊の集合体だ。
 昴の落ちていった軌道をなぞるようにして、何十人もの幽霊達が寄り集まっている。そんな皆が皆、一様に何か達成感に満ち足りたような……。
「昴が落ちていくの、あいつらがちょっとずつ受け止めて緩めてるから。死にはしないさ。まぁ派手にやらかしたとこで、あの子なら大丈夫だしねぇ」
 ケラケラと陽気に笑いながら、通天閣は細くなった目で下を見つめる。
 そうか……そういうことか……。あの人達が見えていたから昴はあんな無茶を……。確かに、通天閣の言う通りならきっと昴は大丈夫だろう。いや、間違いなく大丈夫なはずだ。そうでなければ困る。
 まだ、聞きたいことが残っているのだから……。
「ま、ホントはこんなオマケじゃなくて派手にやらかしたかったんだけどねぇ……」
 少し遠い目をしながら物憂げに言う通天閣を、菊華は何気なく見つめ、
(は……!)
 ハタと我に返る。
「心斎橋! ヘリを急降下させなさい! ランディングは屋上でよろしいですわ!」
「は。かしこまりました、お嬢様」
 菊華の怒鳴り声に、抑揚もなく淡々と返す心斎橋。
「……動じませんわね、心斎橋」
「おそれいます」
 ヘリは真っ直ぐに下りて行った。

◆東雲昴の『あれが、ヒント……?』◆
 急げ! 急げ急げ急げ!
 もっと! もっと速く! もっと前に! もっと……! もっと……!
 邪魔だ! 全部邪魔だ! 目に映る物全て邪魔だ!
 自分のせいだ! 全て自分の責任だ! 自分が離れたりするから……!
 間に合え! 頼むから間に合ってくれ!
 小夏の部屋はこの角を曲がってすぐの所に……!
「小夏さん!」
 力一杯ドアをスライドさせ、昴は小夏の病室に飛び込んだ。そしてベッドの方を凝視して――
「東雲、さん……」
 目を丸くした小夏が驚いたようにこちらを見返していた。
 上半身だけをベッドの上に起こし、いつもと変わらずあどけない表情のまま。
「小夏、さん……」
 もう一度彼女の名前を呼び、昴は自分の声から力が抜けていくのをハッキリと感じる。
「良かった……」
 本当に良かった。
 もし、あのまま夜水月に連れていかれてしまったら……。
「そういえば最初に会った時も、君はこういう風に入ってきたね」
 男の声。それも聞いたことのある、耳障りな雑音。
「院長……」
 背の低い白髪の老人を睨み付け、昴は低く呻るような声で言った。
「何をしているのですか」
 警戒心と敵愾心を隠すことなくそのままぶつける。
「医師が患者のもとを訪れるのは自然なことだと思うが」
 しかし院長は気にした様子もなく、深いシワをさらに深くして笑みを浮かべた。
「お前は小夏さんに嫌われているのです。いない方が小夏さんの健康のためなのです」
「言うじゃないか。確かに、あるいはそうかもな」
 小夏のベッドの隣りで腰掛けていた椅子から立ち上がり、院長は白衣のポケットに手を入れる。
「だが、今回はどうだろうな」
 そして取り出した老眼鏡をかけ、院長は面白そうな視線で横目に小夏を見た。
「私がここにいて、よかったのかも知れないな」
「ハッ」
 院長の言葉を鼻で笑い飛ばし、昴は小夏を守るようにして間に押し入る。
 全く、突然何を言い出すかと思えば。
「そんな非常識な妄想にひたるのは、あの人だけで十分――」
「その通りなんじゃ、東雲さん……」
 後ろからした声に昴は言葉を途切れさせ、顔だけを小夏の方に向けた。
「……え?」
 顔の筋肉が緩んでいくのが分かる。情けない笑いを張り付かせて、立ちつくしている自分の姿がハッキリと思い浮かぶ。
「え……?」
 何? 今、何と言った? 小夏は今、何と……。
「さっき、夜水月がまた来おった。けれど、院長が、追い返してくれた……」
「……え?」
 分からない。言っていることが理解できない。
 追い返した? 夜水月を? 院長、が……?
「ど、どうやって……」
 こんな普通の一般人が。こんな非力そうな老人が。そもそも触ることすら、いや見ることさえも怪しい人間が、どうやって……。
「それは……」
 俯き、口ごもる小夏。
「小夏さん……」
 昴は彼女の名前を呼び、ベッドの方に一歩近付いて――
「私から説明しようか」
 院長の声が横から入ってきた。
「あまりに突然のことで雛守君も混乱していることだろう。状況がまだよく掴めていないはずだ。まぁ君とは少し腰を落ち着けて話してみたかったところだから、私としては同意してくれると助かるんだが」
「お前と話すことなんか何もないのです」
「もし――」
 昴の言葉に被せるようにして院長は続ける。
「夜水月が来た時、私がここにいなかったら彼女は連れて行かれていたかもしれないな。もし、君が自分の力だけで夜水月をなんとかできたのであれば、こんなことにはならなかったのかもしれないな。もし、今後も君一人で雛守君を守れる自信があるのなら、確かに君は私と話すことなど何もないな」
 回りくどく、含みを持たせた言い回し。直接言うのではなく、裏に示した内容をこちらに読み取らせて、自分の意思で同意したかのような錯覚に陥らせるための……。
「賢明な選択肢はどちらなのか。それはもっと後になってみなければ分からない。一年後か、それとも十年後か、あるいは死後なのか。何が正しくて何が誤りかということは我々が決めることではない。時代が決めることなんだよ。だから遠慮などせず、君が好きな方を選びたまえ」
 こちらから一旦目を逸らし、院長は老眼鏡を外して丸椅子に腰を下ろした。そして目を閉じ、細く息を吐いて沈黙する。
 考える時間をやる。
 そういうことなんだろう。だが……。
「東雲さん……」
 囁くような声で小夏が呟く。セミロングの黒髪で隠された顔には影か落ち、弱々しく、儚げな――
「もう、ワラシに関わらねぇでくれ……」
 俯いたまま、目を合わせようともせず、小夏は独り言のように漏らした。
 それは飾り気も何もない、ただただ真っ直ぐな気持ち。自分の中にある本当の言葉。
「……分かったのです」
 おかげで吹っ切れた。完全に迷いが晴れた。
 元々、選択肢はこれしかなかったんだ。
「院長、話を聞いてやるのです」
「え!?」
 昴の返事に小夏は勢いよく顔を上げ、信じられないといった視線をこちらに向けてきた。
「ど、どうして……何で……」
「確かにもう小夏さんは関係ないのです。ここからは僕自身の問題なのです。こんな格好悪いまま終わったんじゃ、あの人に何されても文句言えないのです。僕だって胸張って生きていけないのです。だから僕が納得行くまで勝手にやらせて貰うのです。小夏さんには絶対に迷惑かけないって約束するのです」
「けど……」
「やはり、面白いな。君は」
 小夏が何か言おうとするのを遮り、院長は喉で低く笑いながら立ち上がった。
「実に若者らしい。情熱に満ちあふれている。私にも君のような時があった……かな? もう昔のことで良く覚えていないよ」
 そして院長は病室の出入り口に歩を進める。
「着いてきたまえ。君を院長室に招待しよう」
 それだけ言い残し、院長はこちらの返事も待たずに部屋を出ていってしまった。
 場所を変える……? つまり小夏には聞かせられないような内容ということ……。
 面白いじゃないか。ますますやる気が出てきた。
「じゃ、行ってくるのです」
 明るい声で言い、昴は院長の出ていった後を追って――
「あの……! 東雲さんは……!」
 小夏に呼び止められた。
 足を止めて振り向き、彼女が何か言ってくるのを待つ。だがすぐに言葉は返ってこない。
「……何でも、ねぇのじゃ」
 三呼吸ほど間を空け、小夏は絞り出すような声でか細く言った。そしてまた顔を逸らし、下を向いてしまう。
「行ってくるのです」
 それ以上は何も言おうとしない小夏にもう一度同じ言葉を繰り返し、昴は病室を後にした。

 シックなブラウンを基調とした、落ち着いた雰囲気の部屋だった。
 縦長の間取りの一番奥に横幅の広いデスクが鎮座し、その上には一台のPCと数冊の分厚い本が置かれているだけで他には何もない。デスクを囲うようにして配置された本棚には、ぎっしりと書物が詰め込まれており、部屋の主を守護するように見下ろしていた。
「まぁ掛けたまえ」
 デスクの向こうにある高い背もたれの椅子に腰掛け、院長は組んだ両手に顎を乗せながら言ってくる。
「長居するつもりはないのです。早く本題に入るのです」
 デスク手前にあるソファーの脚を軽く小突き、昴は着席を拒否した。
「せっかちだな、君は。まぁいい」
 口の端を吊り上げて薄く笑い、院長は溜息混じりに続ける。
「ここに君を呼んだのは監視の目から逃れるためだ。まぁ、向こうがその気になれば関係ないのだがね。一種のおまじないみたいな物だよ」
 この状況を楽しむかのようなふざけた喋り。
「監視?」
「雛守君の飼っている九官鳥のことだよ。あれが夜水月と繋がっている」
「な――」
 九官鳥……西九条が? あの口の悪い鳥が……?
「その様子だと全く気付いてなかったようだね。まぁ後でゆっくり思い返してみると良い。要所要所で君と雛守君の繋がり断とうとし、夜水月寄りの発言をしているはずだ」
 確かに、言われてみれば西九条にはいつも良いところで邪魔されていた気がする。それにこの前だって、自分が小夏の代わりに夜水月と取り引きをするようにと……。
「あれは夜水月が雛守君に付けた監視役。雛守君に変な輩が絡んでいかないか、そして私がちゃんと“雛守君を守れているか”を夜水月に報告するための連絡役だ」
 院長の発した言葉に怖気の走るような違和感を覚え、昴は眉間に皺を深く刻んだ。
 もう、小夏から直接聞いている。今まで院長にされてきたことを。
 朝から晩まで、毎日休みなく検査に付き合わされたと。医療費免除を振りかざされ、決して口にしたくないプライベートなことまで深く聞かれたと。ろくな説明もないまま、色んな薬を投与されたと。院長が直接体に触れることはなかったものの、人体実験に近い行為を強要されてきたと。
「実に予想通りの反応だな。君は素直で分かり易い。なかなか好感の持てる青年だ」
「お前なんかに言われても全然嬉しくないのです」
「だろうなぁ」
 殺気のこもった昴の言葉を平然と受け流し、院長は椅子の背もたれに体を預けた。そしてデスクの下で脚を組み、床を軽く蹴って椅子を半回転させる。
「今は九官鳥の格好をしているが、その前は猫だった。その前はリス。その前は……何だったかな。もう忘れたよ。まぁ全部私が雛守君に買い与えた物だ。あの監視役……西九条とか言う名前だったかな? その依り代として。夜水月からの依頼だったからな」
 椅子から立ち上がり、棚から何冊かの本を抜き取ってまた戻る。
「年経た動物には普通とは違う力が宿るらしいね。人間の言葉を話したり、おかしな妖術を使ったり。最初はその類かと思っていた。まだオカルトをかじりたての頃、雛守君がリスや猫と楽しそうにお喋りしているのを見てね。出ないはずの彼女の声を、妖力をもった動物なら拾えるのかと考えていた。だが、そうじゃなかった。もっと根本的で、もっと単純なことだった」
 数冊の本をデスクの上に放り出し、院長は椅子に深く腰掛けた。
「『雛守小梅』君の体には『雛守小夏』という霊体が住み着いている。そして小夏君が動物と会話していたんだ。同じく、動物の体に住み着いた西九条とね。ほら、あるだろう。英語を毎日毎日繰り返し聞いていたら、ある日突然鮮明に聞こえるようなったという話が。あれと同じさ。私にもある日突然聞こえたんだよ。二人の会話が。だがね、誰でもそれができるというワケじゃない。オカルトの存在を認めている者でなければダメなんだ。人から噂という形で伝聞されたのではなく、実際に“そういう存在を”自分の目で見た人間でなければね」
 怪しげなタイトルの書かれた本のページをパラパラと捲りながら、院長は語調を少し弾ませて続ける。
「もぅ、三十年くらい昔のことだな。夜水月が初めて私の前に現れたのは」
 両手で本を閉じ、それをデスクの上に置いて院長は脚を組み直した。
「単なる偶然か、あるいは私の行為が彼の目に余ったのか。まぁ後者だろうがね。夜水月は私を止めに来た。これ以上雛守君に手出しはするなと。もし続けるようであれば、私の魂を刈り取ってやると。笑えるだろう? 何せ彼の外見は、その時も今と全く同じなんだからね。最初は勿論、脳発達の未熟な子が戯言を口にしている。そう思ったよ。けどあいつは“実演”してみせた。自分の力を。触れただけで草木を枯らし、死体に口をきかせ、髪を槍のようにを伸ばして物を破壊してみせた。認めざるを得なかった。物の怪、妖怪、幽霊、怪異。色んな言葉で表現されているオカルトの類をな。それから、あいつはこんなことも言ってきた」
 脚を組み替え、院長は試すような視線をこちらに向けてくる。
「『お前のように雛守の特異体質に興味を示す者から雛守を護れ』とね」
 そして少しおどけたような口調で言い、軽く両腕を広げて見せた。
「『もし次に会う時まで雛守の身に何もなかったのであれば、お前を不老不死にしてやる』とも言っていたな」
 脚の上で両手を組み、院長は小馬鹿にした笑みを浮かべて続ける。
「面白いおとぎ話だろう? こんなこと、仮にも大病院のトップが口にしているのだと知れ渡ったら信用問題だ。医師会でも議題として取り上げられるかもしれないな。“白雨病院の院長、痴呆には敵わず白昼夢にうなされる”、か? これじゃスポーツ誌の下らない三面記事だな」
 口の中で小さく笑いながら、院長は何度か浅く頷いた。
 院長は夜水月のことを知っていた。三十年も前から。
 そして小夏のことも。彼女のことを知っていながら知らないフリをし続けて……。
「雛守君の不老はオカルトによるものだった。雛守小夏君の姿が見え始めて、そのことがほぼ間違いないと思った。落胆したよ。あの時の落ち込みぶりは、随分経った今でも鮮明に思い出される。医学が真っ正面から否定されてしまったんだからね。オカルトなどという多分の不確定要素を孕んだ物に。私は、雛守君の不老因子を解き明かすことが、医学会の大いなる前進に繋がると信じて疑わなかった。彼女を研究することこそ、私に課せられた使命なんだと確信していた。だが……」
 深い溜息を付き、院長は僅かに俯いて首を横に振る。
 そのまましばらくの沈黙が続き、昴が何か言おうとした時、院長は突然顔を上げた。
「だが……だがな。私は思ったんだよ。雛守君が不老であることに変わりはない。オカルトだろうと何だろうと、その客観的な事実だけはねじ曲げられない」
 その目には危ない光。大きく見開かれ、どこにも焦点の合っていない双眸には狂信者の輝き。
「オカルトで不老の体が得られるのなら……オカルトで医学界に貢献できるのなら、それを受け入れてやればいい。何も医学や科学にこだわる必要はない。理論的に証明できる物だけに固執することはない。オカルトを医療に適応させてやれば良いだけのことだ。オカルトという呼び名ではなく、心霊医学とでも言って融合させてやれば済む話だ。いつの時代でも、ブレイクスルーとはこういう突飛な発想と思想から生まれてきた。その時代には受け入れられなくとも、いつか必ず評価される時代がくる。偉人の多くは死して名を馳せてきた。私がしようとしていることも、まぁ似たような物さ」
 自分の言葉に酔いしれるようにして、院長は不気味な笑みを頬に張り付かせた。
「私はどうしても、もう一度あいつに会う必要があった。夜水月から雛守君のことを聞き出す必要があった。どうすればいいのか。どうすれば不老になれるのか。何が関係しているのか。体質か、体格か、性別か。年齢か、生まれた土地か、あるいは月齢か。不老の身となる条件を、あいつから聞き出さなければならなかった。だが、夜水月はいつまで経っても現れなかった」
 そこで一旦言葉を切り、院長は椅子に座り直して間を空ける。そして静かな表情に戻り、またゆっくりと口を開いた。
「こちらから呼び出す方法はあった。最初にあいつが現れたのと同じ理由を作ってやればいい。つまり、雛守君への“研究”を再開すればいいだけのことだ。だがそんなことは当然できない。私は夜水月に言われた通り、雛守君を護らなければならない。私は彼との“取り引き”を飲んだんだからね。無論、彼の話を全て信じたワケじゃないが、雛守君の特異体質の秘密を知っていることだけはほぼ間違いない。それだけで十分だった。不老の正体を突き止めるために……。考えたよ。このまま十年先も二十年先も夜水月が現れなかったらどうしようかとね。私はいつまで雛守君から人避けをし続けていればいいのかとね。だが答えなどどこにもない。どの文献にも載っていない。誰も知らない。どの自称霊能者も金だけ取ってデタラメを植え付けるばかりだ。やはり、こちらから何か行動を取らなければならない。そこでだ、一つのアイディアを思い付いたんだ」
 言いながら院長はデスクの引き出しを開け、中からクリアファイルに入れられた紙を取り出す。
「私が“研究”できないのであれば、誰か別の人間がしてくれればいい。雛守君のことを怪しいと思い、興味を持ち始める人間が現れてくれればいい。雛守君のことを詳しく知られないために、今までは人払いには気を遣ってきた。私自身が人事を組んで、色んな人間を出入りさせてきた。だが残念なことに一人だけ、例外が出てしまったんだ。長くここにいた彼女は自然と雛守君のことを不審に思い始め、独自に調べ始めた。勘の良い彼女はすぐに答えに辿り着き、最近ようやくこの本物のカルテと御対面できたというワケだ」
 クリアファイルを無造作にデスクの上に置き、院長はこちらに目配せして確認するよう促してくる。
 それは小梅のカルテだった。ほんの数日前、婦長が通天閣に驚かされ、ロビーホールでバラ撒いた中に混ざっていた。他のカルテとはフォーマットが違う、茶色く変色した古い用紙。
「いやまったく、私がこんなつまらないケアレスミスをしてしまうとはな。長く続けていて緊張感が薄れてしまったんだろう。それに病院の経営もなかなか致命的なところまで来てしまっていてね。立て直すにはどうしてもベテランを育てる必要があったんだ。これはまさにやむを得ない事故というものだよ。君もそう思うだろう?」
 まるで芝居でも楽しむかのように、院長は片眉を上げながら言ってくる。
 つまり、この病院は全てこいつの願望を叶えるための道具でしかなかったということか。病院の経営も、病院で働いている人達の生活も、彼らの気持ちも全て。
「そろそろ来る頃だと思っていたんだ。私の時も二十年だった。もう、いつ来てもおかしくない時期になっていた。そしてついに来た。三十年前と全く変わらない姿で。いや、少しやつれたようには見えたかな。彼も色々と苦労しているんだろう。仕方ないさ。君のような人間に出てこられたのではね」
 そこまで言って眼を細め、院長は含み笑いを漏らした。
「君には感謝している。夜水月は君が連れてきてくれたようなものだ。私には雛守小夏君の姿が視えている。だがぼんやりとだ。しかし君は小夏君“だけ”しか視えていないようだね。霊感の強さという意味合いでは君の方が遙かに上なんだろう。昔、余程のことがあったみたいだね。君のような人間に雛守君のそばでウロチョロされたんじゃあ、夜水月もたまったものじゃなかっただろう。『小夏、小夏』と連呼されては、いつおかしなことになっても不思議じゃない。西九条も相当焦ったんじゃないかな。君と雛守君が接触してすぐに夜水月が現れたからね」
 自分が、連れてきた……? 今、院長以上に小夏を苦しめている、あの黒いチビ死神を?
 じゃあ、元を正せば、自分が……小夏を……。
「そして君のおかげで夜水月のことも色々と見えてきた。守護霊だとか、取り引きだとか、色々と興味深いことを聞き出してくれた。君には本当に感謝しているよ」
 ふざけるな……誰が、そんなこと……。
「まぁその礼というワケではないんだが、夜水月の追い払い方だったな。君が今、最も興味があるのが」
 夜水月を追い払う……。院長がいたから、夜水月は小夏に手出しできなかった。あっさり引き下がった。いったい、どうやって……。
「私は君のように不思議な力が使えるワケじゃない。視えて、聞こえはするが、それ以外は極々普通の一般人だ。だが、ここは少し違う」
 言いながら院長は指先で自分のこめかみを軽くノックする。
「夜水月はどうして雛守君を私に護れと言ったのか。どうしてすぐに連れて行かないのか。今、あいつには誰も力では勝てない。ならこんな回りくどいことをしなくとも、いざとなれば強引に連れ去ればいい。君が現れ、そのことが雛守君にとって有害だと判断した時点で行動に移してもいいはずなんだ。本来ならば。だが夜水月はそうしない。なぜか。私は今のところ二つの理由があると考えている。まず一つ目は、君と雛守君とを天秤に掛けているからだ」
 天秤……? 確かに、夜水月の口振りからして、自分の力を推し量っているような雰囲気はあったが……。
「多分、彼の中ではどちらを選択しようか決めあぐねているんだろう。雛守君は今までずっと目を付けてきた人材なんだろうが、小夏君の姿がすでにハッキリ視えていた君にはそれ以上の可能性を感じたんだろうな。その『守護霊』というのには君の方が適任かもしれない。そう思い始めた」

『東雲様、守護霊に興味はございませんデスか?』

 初めて夜水月と会った時、彼はそう言ってきた。

『申し訳ありませんが、“本日は”雛守様ではなく東雲様に用があって参ったのデスよ』

 “本日は”。
 つまり、それ以前は小夏に用があった。その日を境に自分を守護霊候補に入れた。
「だがね。そうするとまた別の疑問が浮かんでくるんだ。なぜ一人でなければならない? なぜ二人とも連れては行けない? 守護霊とやらにするのに、何か一人でなければならい理由があるのか? 例えば“取り引き”をしなければならない、とか」
 “取り引き”。
 院長の言葉に、昴の頭の中で過去の台詞か再生される。

『では東雲様、ボクと“取り引き”をいたしましょう』

『ワレ“取り引き”して小梅の代わりになるんとちゃ――』

『“取り引き”はあの女とする』

 すでにも何度も聞いてきた。夜水月の口から、西九条の口から。
 取り引き。一方的に押しつけるのではなく、何か対価を支払わなければならないから、夜水月は強引な行動に出ることができない……?
「この場合は対象者の『同意』ということなんだろうな。『契約』と言い換えても良いかもしれない。私が読んできた本の中にもよく出てきたよ。悪魔との契約には気を付けろ、とな。私が初めて夜水月と会った時も、あいつは力で私を脅して雛守君を護るように言うことだってできたはずだ。しかし交換条件を持ち出してきた。つまりあの時点で、私とあいつの間で契約が発生してしまったということなんだろう。とにかくそういう風に考えると大体の辻褄は合ってくる。夜水月が今まで雛守君を連れていけなかったのは、取り引きをする材料がなかったせいだろう。夜水月が出てきた時には、彼女の両親はすでに他界していたし、彼女のことを当時のまま知っている人間はいなくなっていた。つまり失う物がない。下賎な言葉で表現すれば、“弱味につけ込めない”ということさ。取り引きとは本来そういう性質の物だからな。だが、ようやく弱点となりうる人物が現れた」
 そして院長は狡猾そうな視線をこちらに向け、
「君だよ」 
 どこか嬉しそうに言い切った。 
「多分、夜水月はこう考えているはずだ。もし雛守君を連れて行くのであれば、君を人質にとって首を縦に振らせる。もし君を連れて行くのであればその逆。だから一人しか連れていけない。夜水月が雛守君の病室に来た時、あいつは彼女を連れて行こうとしていたんじゃない。彼女をエサにして君の真の力量を試そうとしていただけだ。人とは土壇場になると、実力以上の力を発揮できる生き物だからな。現に血相を変えて飛び込んできた君の殺気は凄まじい物があった。何か“大きな間違い”があってもおかしくない雰囲気だった。つまり、私は特別なことをして夜水月を追い払ったワケじゃない。『ここで必要以上に挑発すると、後々の取り引きに響くことになりかねない』。ただそう言っただけさ。あいつは計算高い奴だ。自分にとってメリットが少ないと判断したら迷わない」
 これが夜水月を追い払った方法。力ではなく、理屈で納得させて……。
 夜水月は最初から小夏を連れて行くつもりなどなかった。ただ自分の限界を見定めるために。
 もし、院長がいなかったら、自分は夜水月の思惑通りに……。いや、最悪――
「君が私にもたらしてくれた功績は大きい。おかげで私もゆっくり取り引きができそうだ。止まっていた時間を君が動かしてくれんだよ、東雲昴君」
「お前の、ために……」
 奥歯を噛み締め、昴は苦渋を堪えるかのように声を紡ぐ。
「お前、なんかのために、やったんじゃ、ない……」
 途切れ途切れに。濁り、籠もり、掠れさせながら。
「雛守君を助けたいんだろう?」
 息が詰まる。呼吸ができなくなる。
「君が連れてきたんだろう?」
 胸が圧迫される。心臓が止まりそうになる。
「私には君のような力はない。だが知恵はある。もし君が今まで通り、いや今まで以上に、夜水月を相手取って暴れてくれるというのであれば、私は惜しみなくこの知恵を提供しよう」
 白衣のポケットから取りだした老眼鏡を掛け、院長は視線を鋭くしてこちらを射抜いてくる。
「今まで、通り……?」
 今、そう言ったのか?
「当たり前だ。お前なんかに言われなくても、僕は小夏さんを……」
「そうか。ならいい。実に結構な返事だ。では、私の方も知恵を貸すとしよう」
 ……どういうことだ。自分と夜水月がぶつかってくれた方がいい? 院長の目的が夜水月と取り引きをすることであるなら、その邪魔をするような行為は避けたいはずなんじゃないのか?
「あの『呪い歌』の解釈だが、君達はどこまで進んでいるのかね? ちゃんと意味は通ったかな? おっと『手毬歌』と言った方がピンとくるかな?」
 ――呪い歌。
 その言葉に昴は思考を中断し、いつの間にか逸れていた目線を院長の方に向け直した。
 小夏がいつも歌っている手毬歌。そこには小夏が求めている物がきっと隠されている。切れ切れになってしまった小夏の記憶を喚び起こすキッカケになってくれる。
 しかし、夜水月はその歌を『呪い歌』と表現した。
「今まで気にも掛けてこなかったが、夜水月が口した時点で私にとっては重要な取り引き材料だ。しかも奴は雛守君に、この内容を思い出すよう仕向けているふしがあった。わざわざヒントまで残して。なら、不老に関与しているとも考えられる。実に興味深い謎解きだったよ」

『呪い歌……ああいや、手毬歌でございましたデスか。内容が理解できると良いデスね。心よりお祈り申し上げますデス』

 言われてみれば、あの言葉は念を押しているようにも取れる。だがヒント……?
「時代と共に表現形態が変わったとしても、結局意味しているところは同じ。そんな内容のことを、彼は言ってなかったかね?」

『あの手のおまじないは、いつの時代、どこの場所でも普通に転がっている、子供のお遊戯デスよ』

 そう言えば……。

『こっくりさん、花子さん、怪談話、七不思議。“形は変わっても似たような内容で伝わるデス”。何度かは見たり聞いたり、実際に体験されたりしたデスでしょう?』

「“まじない”とは“呪い”と書く。思いを遂げる者はまじなわれ、思いを掛けられる者は呪われる。どちらを主体として見るかの違いだけだな。諸説ある『かごめかごめ』の歌の解釈には、夫を寝取られた妻が浮気相手の女を殺すために歌ったという物もあるらしい。この手のまじないは他にも沢山あるだろう。有名な例を挙げるとすれば、『丑の刻参り』がそれにあたるか。つまり、今も昔も人の本質は変わらないということさ。憎しみという観点に置いては特にね」
 同じ……言葉は違っていても、伝えたい内容は同じ……。
 手毬歌……呪い歌……おまじない――
「七不思議。この病院にも色々あるだろう。あれが呪い歌を解くためのヒントだよ」




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