遠い記憶の彼方に
暑い日だった。
照りつける太陽が地面に陽炎を生み、雲一つない青空からは容赦ない陽光が降り注ぐ。
私は墓石の前に立ち、静かに手を合わせた。
そして裏へと周り、そこに刻まれた名前をそっと撫でる。
――如月 琴美。
私の恋人だった女性の名前だ。
目を閉じると彼女と過ごした日々がまるで昨日のように再現される。
彼女の顔を除いて――
神社の境内。落ち葉を集めてイモを焼いた記憶。真っ黒に焦げた焼き芋を苦そうに食べていた彼女の顔……思い出せない。
スキー場。雪だるまを作った記憶。巧く滑れないとふくれっ面をしていた彼女の顔……思い出せない。
お花見。二人きりで夜桜を見た記憶。余りお酒に強くない彼女の上気した顔……思い出せない
夏祭り。一緒に手をつないで夜店を回ったときの記憶。金魚すくいにはしゃいでいた彼女の横顔……思い出せない。
思い出せない思い出せない思い出せない。
まるで黒の濃淡だけで塗り分けられたような記憶の映像はあまりにも不鮮明で、細部を想起させるには遠く及ばない。彼女の顔に至ってはそこだけを白いペンキで塗りつぶしたかのように、すっぽりと抜け落ちてしまっていた。
「暑いな……」
強い日差しを片手で遮りながら、私は呟いた。
彼女が死んだのも、こんな暑い夏の日だった。それはあまりにもあっけなく、突然の死だった。
彼女の死因は――
「四宮さん。ここにいたんですね」
不意に声をかけられ私は後ろを振り返った。
少し大きめの帽子を風で飛ばないように右手で押さえながら、にっこりと微笑む女の顔を見て、私は驚愕に目を見開いた。
すらりと伸びた足に履かれた茶色の革靴。それは土の色。琴美の趣味は園芸だった。彼女はお気に入りの花には名前までつけて大切に育てていた。
涼しげな白のワンピースの腰周りには黄色いベルト。それはヒマワリの色。琴美が最も愛した太陽の花。
小さ目の顔に映える淡い紅の唇。それは夕焼けの色。昼と夜を分かつ僅かな時間。儚い黄昏の刻(とき)――それは琴美があの世へ旅立った時間。
意識が逆流し、今までモノクロだった記憶の一枚一枚に彩りが添えられていく。
「琴美……!」
そして彼女の顔全体が視界に収まった時、頭の中でパズルの最後のピースがはまった。
そうだ! 彼女だ!
「琴美……」
私はもう一度名前を呼んで、彼女の姿をまじまじと見た。黒く艶のあるストレートの髪。少し茶色がかったノーブルな瞳に、小さめの鼻と唇。ワンピースから露出した肩や手足はまるで白磁のよう。
どれをとっても琴美にそっくりだった。
だが何故? 琴美は死んだはず……。
「四宮さん……」
琴美の姿をした彼女は悲しげに首を振った。
……ああ……そうか……。
私はようやく理解した。何度同じ事を繰り返すのだろう。
私は結局、琴美とは結ばれなかった。琴美は別の男性と結婚し、幸せな家庭を築いた。しかし、私はそれでも良かった。琴美が幸せならば。
それに何より、今は琴美にそっくりな彼女が、琴美本人の満たせなかった私の隙間を満たしてくれる。
「いい天気ですね」
柔らかな笑みを浮かべ、彼女はそう言った。
ああ、本当にいい天気だ。琴美の好きだったヒマワリも嬉しそうな顔をしているだろう。
「おばあちゃんもきっと喜んでいますよ。こんな良い日に四宮さんが来てくれて」
彼女の死因は――老衰だ。
享年八七歳。
昼寝中にあっけなく逝った。全く苦しむことなく、安らかな寝顔のまま。大往生だ。
「なぁ、美樹ちゃん。おばあさんの若い頃の写真、見せて貰ってもいい?」
「またですか? それじゃあ、今度焼き増ししてあげますよ」
私も今年で九〇歳。
ボケの進行は深刻になりつつある。
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