『月詠』の言の葉、儀紅の片想い

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 『月詠』と一緒に併走し、オレは街道から大きく外れた山道を疾駆していた。
 狙うは荒神冬摩。
 誰もが知るスッゲー直情馬鹿だ。
 一緒に居た草壁のネーチャンは最初からブッチ決めこんでやがるのか、それとも単なるヘタレなのか、どっちかは知らないが冬摩の奴を追っては来ない。オレがヤルしかない。
「『月詠』! 危ないからキミは待ってろ!」
 衣のように羽織った白装束の裾を翻しながら、『月詠』はオレと変わらない速さで木々の合間を縫って走っている。まったく器用な事をする女性だ。
 本当はもっとスッゲー速く走れるのかも知れない。スッゲー簡単に冬摩に追いつけるのかも知れない。だがそんな事はさせられない。
 『月詠』はオレの大切な女性だ。これからあの馬鹿とドンパチやらかそうってのに、巻き込むわけにはいかない。
「…………」
 しかし『月詠』は悲しそうな顔で首を横に振る。
 オレだけを危ない目には遭わせられない。
 彼女の目がそう言っている。
 しゃーねぇ。今は『月詠』を説得してる暇なんか無い。冬摩の攻撃が『月詠』に向かないように、間違っても『月詠』がオレを庇ったりしないように、とっととケリ付けるしかない。
「救急如律令! 霊符よ! 大地の力持ちて彼の者の足枷となれ!」
 詞を早口で叫び、オレは直衣の袖元から二枚の霊符を取り出して投げ付ける。白い燐光を放つ霊符は直線的に飛来すると、前を走る冬摩の足首へと絡みついた。直後、一瞬だけ冬摩の走る速さが落ちる。が、またすぐに元に戻ってしまう。
 さすがは魔人。
 ま、いくらオレが才気溢れる天才陰陽師だったとしても、使う霊符が安物だとこんなモンか。
 だが一瞬で十分だ。一瞬あれば追いつける。
 オレは足にさっきと逆の効果を込めた霊符を巻き付け、力強く地面を蹴った。前から来る風の抵抗が異常な程に増す。しかしソレを強引に突っ切り、オレは冬摩の前に回りこんだ。おかげでお気に入りの烏帽子が脱げてしまったが、そんな物に構っている時ではない。
「はーい、しゅーりょー。龍閃にスッゲー闘志燃やすのはいいけど、今はヤッベーから自重してねー」
 毛先の辺りで少し内側に巻いている黒髪を揺らし、オレは両手を広げて肩をすくめて見せる。
「邪魔すんな! ブッ殺すぞチビ!」
 龍の髭が解けてしまい、バラバラになった長い髪を振り乱しながら冬摩は歯を剥いて叫んだ。そして勢いを殺さないままオレの方に拳を打ち出してくる。
「人が気にしてる事をスッゲーサラッと言ってくれるねー。この御方はよー」
 オレは半身引いて拳の火線上から体をズラし、冬摩の力を空振りさせた。そして後ろに流れていく冬摩の背中に、上等の霊符を貼り付ける。
 コイツのスッゲー馬鹿力をまともに受けるほどアホじゃない。そして拳と拳で語り合うなんていう暑苦しいマネをするつもりもサラサラ無い。牙燕じゃあるまいし。ついでに言えばまともに戦うつもりも、口で説得するつもりもスッゲー全く無い。
「これでも頭一つ分はデカくなったんだぜー?」
 十年前よりは。
「何、しやがった、テメー……!」
 急激に鈍くなった自分の動きに顔を歪めながらも、冬摩は腰を落として力を溜めた。そして脚力を爆発させて殴りかかってくる。
「おー! スッゲー魔人! 魔人スッゲー!」
 オレは最高級の賛辞でもてはやしながら、一発目と同じようにして身を引き、冬摩の拳撃をかわした。そして二枚目の上等霊符を背中に貼り付ける。
「こ、の……! ガキ……!」
 冬摩の動きが更に鈍くなった。だがまだ完全には抑えられない。
 今俺が使ってるのは『傀儡符』という名の霊符だ。文字通り貼り付けた相手を人形にできる。
 かなり便利な霊符なんだが、一枚作るのにスッゲー時間が掛かる上に、材料費がスッゲー高い。しかも一回使い捨て。エコじゃないね。
 ホントは冬摩じゃなく龍閃に使いたかったんだが、今さら言ってもしょうがない。それに冬摩相手にこの程度の効果じゃ、龍閃だともっと薄いかも知れない。改良の余地アリってトコだな。
「アンタの気持ちは分かるよ? 十年ぶりに龍閃が出てきたってのにハッてた都市はスッゲー的外れ。けど今から行ってももう遅いって。もう出羽は壊滅してる」
 十年前、唐突に龍閃が始めた都市破壊。僅か一年足らずで、主要都市は殆ど壊滅させられた。このまま全国の都市全てを葬り去るつもりなのかと思われた。しかし、どういう訳か龍閃は再び姿を眩ませた。
 だがまた必ず現れる。
 水鏡魎はその時のために備えて、オレ達を何人かで一組にして全国に散らせた。
 龍閃が現れた時、迅速に対応するために。
 ――と、いう建前を振りかざして。
 オレに言わせればこんなの作戦でも何でもない。ただの考え無しのスッゲーデタラメな行動だ。
 ちょっと考えればすぐに分かる。この国にいったいどれだけの都市があると思ってんだ? ソレを高々十人ちょっとの人員で守りきれるはずがない。しかもあの龍閃相手に。
 さらにこの作戦の立案主は十中八九、裏で龍閃と繋がってる水鏡魎だ。
 従うのはまさにスッゲー自殺行為。
 だがオレは従っている。正確には従うフリをしている。
 理由は簡単。ソッチの方が面白いからだ。
「そんなモンは関係ねーんだよ! ブッ殺すって決めたらブッ殺す! 邪魔すんならテメーもブッ殺す!」
 言う事を聞かない体を引きずるようにして、冬摩はオレの方に詰め寄ってくる。
 ……この馬鹿は、今居る土佐(現在の高知県)から出羽(現在の秋田県)までどんだけ掛かると思ってやがんだ。お前の足でも丸二日寝ずに走り続けて辿り着けるかどうかってトコだぞ。
 大体、狼煙(のろし)の情報がココまで伝わってきた時点でスッゲー時間経ってるってのに、今から頑張ってどーにかなるわけねーだろ。ちったぁ頭働かせろよなー。
「止めときなってー。今スッゲー無駄な労力使うくらいなら、次のために溜といた方がいいって な?」
 もっとも、冬摩の望む機会が来る可能性は極めて低いだろうが。
「ウッセーんだよ! チビ!」
 目の前まで来た冬摩が、怒声と共に固く握り込んだ拳を打ち下ろす。オレはソレを横に跳んで難なくかわし、背後を取って更にもう一枚の傀儡府を背中に貼り付けた。
 いや、大した物だ。まさか三枚目を使うハメになるとは思わなかった。
 しかしコレでさすがにもう動けないだろう。冬摩は自重に耐えかねたかのように、四つん這いになって蹲っている。
「俺は……! 今すぐ龍閃を、ブッ殺す!」
 そして下を向いたまま吐き捨てた。
 その件に関してはオレも大賛成だ。だが、龍閃を殺す為と言って無闇に暴れられるのは困る。
 今、龍閃を討ち倒すために他の国の奴等が結託し始めている。国取りを止めて団結しようという気になってきている。なのに冬摩が国境やら何やらを無視して暴走しまくったら、ソレが台無しになる恐れがある。
 この馬鹿はきっと今みたいなノリで『邪魔する奴はブッ殺す!』とかホザいて、目に入る物は手当たり次第イテコマシて行くつもりだろう。そんな事をすれば間違いなく、オレ達がまた国取りを始めたのだと思われる。そして人間同士の争いに、もっかい火がつく。
 ソレはヤバい。
 今はそんなイカれた事してる場合じゃない。だから何としても冬摩に暴走させるわけにはいかない。
「さー、冬摩ちゃん。今日は大人しくお家に帰りまちょーねー」
 オレは霊符を介して冬摩を操り、その場に立たせる。そして土御門の屋敷の方へと歩かせようとした時、
「……ッの! ガキイイイィィィィィ!」
 裂帛の叫声が放たれたかと思うと、符術の型式が一気に吹き飛んだ。
「マジかよ!?」
 信じられない。三枚もの『傀儡符』が一瞬でパアだ。コレが魔人の底力ってヤツか。
「死ねオラアアアアァァァ!」
「ち……!」
 力任せに放たれた冬摩の裏拳が、咄嗟にしゃがんだオレの頭上を通り抜けて太い樹の幹に突き刺さる。拳は易々と巨木の体内に呑み込まれ、胴にデカい穴を穿たれたソイツはくぐもった音と共に倒れ込んで来た。
「ヤッベーヤッベー! スッゲーヤッベー!」
 オレは身を低くしたまま後ろに跳び、冬摩から距離を取る。
 『傀儡符』が効かない。コレはとんだ誤算だ。魔人の力を舐め過ぎてた。反省だ。後悔はしてないが。
「逃がすと思ってんのか!」
 冬摩は猛禽類のような鋭い眼光でコチラを睨み付け、かなり広がった距離を一瞬にしてゼロまで詰めてくる。
 どうやら龍閃よりオレを先に殺す事にしたらしい。
 龍閃の方はもう間に合わないと諦めたのか、単に頭に血が上りきって目の前しか見えないだけなのか。まぁ別にどっちでもいいが、取り合えず足止めには成功したようだ。
「まぁまぁココは一つ話し合おうよ」
「その前に死ね!」
 ンな無茶な。
 胸中でツッコミを入れながら、オレは冬摩の拳撃を軽い身のこなしで華麗にかわしていく。スッゲーオレ。
 懐に入られたとはいえコイツの攻撃は直線的だし、予備動作が大きいから見切りやすい。だが――
「やれやれ」
 いつの間にか裂けていた頬からの血を、オレは舌を伸ばして舐め取った。コレ一回やってみたかったんだ。
 『鬼蜘蛛』を宿してるせいで冬摩の攻撃範囲は広がっている。紙一重で避けていたのでは、何もしないで突っ立ってるのと変わらない。かなり余裕を持って体を離す必要がある。しかし冬摩相手にいつまでもそんな事してられない。
 魔人と人間とでは体力に差がありすぎる。長期戦は明らかに不利だ。
 どうするか、な……。
 今持っている霊符の種類を頭に思い描いて次の作戦を組み立てていた時、視界の隅に白い衣が映った。『月詠』の羽織っている白装束だ。
「いつまでも逃げてんじゃねぇ!」
 冬摩の集中は完全にオレに向いている。だからその隙にコイツの後ろに回り、オレを援護しようとしているのだろう。
 だが何をするつもりだ? 『月詠』には攻撃系の能力は備わっていない。
「打ってこいコラァ!」
 地面を深く抉って真下から伸びてきた冬摩の蹴撃を、体を大きく後ろに反らしてやり過ごし、流れに逆らう事無くそのまま連続後方回転で間合いを取る。四回転したところで上に飛び、木の枝にぶさらがって空中静止した。直後、視界の下で大地が爆ぜる。
 相変わらずスッゲー馬鹿力だな……。まともに食らったらと思うとゾッとする。
 オレは蹴上がりの要領で枝の上に立つと、ソコから次々に別の枝へと乗り移った。細い足場はオレが離れるとほぼ同時に、冬摩によって破壊されていく。
「ウザってーんだよ!」
 そして十本目の枝が大破した時、『月詠』が完全に冬摩の背後を捕らえた。
 まさか――
 オレの見ている前で『月詠』の体が一直線に冬摩へと向かう。
 ――直接的な『精神干渉』?
 『月詠』を体に宿し、力の作用点を介して行う間接的な『精神干渉』ではなく、具現体その物を対象の体に潜り込ませて行う直接的な『精神干渉』。もし成功すれば、冬摩の精神を乗っ取って内側から操る事も可能だが――
「――ッ!」
 冬摩の動きが止まった。オレから集中が外れ、枝の上から地面に降り立って自分の背後を見る。
 しまった! 『月詠』を見過ぎた! アイツ、オレの視線を追って……!
「チョロチョロしてんじゃねぇ!」
 『月詠』の接近に気付き、冬摩は怒鳴り声と同時に右手から力の塊を打ち出す。完全に不意を突かれた『月詠』は、それでも体をひねって直撃を免れた。だが肩に被弾したのか、焼けただれた白装束から白い煙が上がっている。
「……オイ」
 オレの中で思考が急速に書き換えられていく。
 さっきまで組み上げていた静的で遠回りな物から、動的で一切の無駄を排除した攻撃重視の物へと。
「良いツラ構えになったじゃねぇか!」
 叫びながら冬摩は再びオレの方に向かって跳ぶ。
 だが避けない。
 オレは両手に持った霊符に複雑な術式を編み込んで行き――
「あー、お前らこんなトコで何やってんだ」
 やる気のない声が頭上から降ってきた。
「どけオラァ!」
「あー、まぁそういう訳にもいかんだろ」
 オレと冬摩の間に割って入るように現れた黒衣の男――水鏡魎は、冬摩の拳を左手だけで受け止める。そして右手で広い額を撫で上げながら、面倒臭そうに大きく息を吐いた。
「あー、冬摩。お前、最近は言う事を良く聞いてくれるようになったと思っていたのに……。私は悲しいぞ」
 くぅぅ、とわざとらしい嗚咽を上げ、魎は目元に指を持っていく。そして悲しそうな表情で顔を軽く左右に振った。全て後ろに回して固めた長い黒髪がソレに合わせて揺れる。
「テ、メェ……」
「ま、お前がそういう性格だからからかい甲斐もあるんだが」
 拳撃の勢いを殺されて脱力していく冬摩に、魎は底意地の悪い笑みを向けた。
 魎の保持する使役神鬼『無幻』の『情動制御』。ソレは冬摩の有り余る闘意すら一瞬で呑み込んでしまう。
「あー、手間取らせたな、儀紅。お前の判断は素晴らしく正しかったぞ」
「……そりゃどーも」
 胡散臭さスッゲー超爆発の調停者に、オレは冷めた視線を送りながら呟いた。
「随分と図ったようなご登場ですこと。さっすが水鏡っち。スッゲースッゲー」
 そして渾身の皮肉を乗せて枝の上から飛び降り、『月詠』の元に駆け寄る。傷は大した事なさそうだ。オレの中で少し休めばすぐに治るだろう。『月詠』はできるだけ具現化しておきたいが、今はそんな事言ってる場合じゃない。彼女の痛々しい姿など見たくない。
 オレは一旦『月詠』を体に戻し、平和そうな顔でモメている冬摩と魎の方を見た。
 ……にしても、マジで素晴らしく早い対応だ。魎は確か武蔵(現在の東京都)で待機していたはず。オレ達よりは早く龍閃出現の報告を受けただろうが、いくら魔人の足とは言え今この時この場所に現れるのは殆ど不可能と言っていい。
 ――ま、こうなる事を最初から予測していたとすれば話は別だが。
 そもそも何故龍閃の所に行かずにココに来る? 大体、オレ達と龍閃の場所をここまでスッゲー見事に突き離してくれた事自体なーんか変なんだよ。
 とにかく全ての結果が、龍閃と魎の繋がりを明示している。
「テメーはいつまでも俺をガキ扱いしやがって! いい加減ブッ殺すぞ!」
「何を言ってるんだね冬摩君。たかが四百歳そこそこの君なんか私に言わせればまだまだ子供だよ。あっはっは」
 ――ま、その事に全く気付いていない馬鹿も居るが。
 魎はオレが疑ってる事を知っている。いや、俺だけじゃない。他にも怪しいと思ってる奴らは何人か居る。なのにあえてこんな事をするってのは試してるのか?
 何かおかしいと思いつつも、今は自分に付いてくるしか道がないという事を刷り込んでいる? そして裏切り者が出ないかを観察している?
 だとすれば、今やっている事は本番の時の為の伏線? 絶対に失敗できない場面で全員が自分の思い通りに動くよう、地盤固めをしている?
 遠回しで周りくどいのが好きな魎の考えそうな事だ。
「あー、どうした儀紅。難しそうな顔して。悩み事があるなら相談に乗るぞ?」
 よくもまぁヌケヌケと……。
「んー、そうねー。たまには水鏡っちと酒でも飲みながら腹割ってスッゲー本音で話し合うってのも悪くないかもねー」
 落ちた烏帽子を拾い上げ、オレは土を払ってかぶり直す。
 ここらで一つ探りを入れておくのも手だな。
「あー、そうしたいのは山々なんだが、生憎と子供に酒を飲ませる程非常識じゃないんでね」
「……言っとくけどオレ、今年でもう十九なんだけど」
「まーたまた冗談をー。ちょっと前まで『つきよみー、おふろ入れてー』とか言って真っ裸ではしゃいでいたじゃないか」
 ……何でコイツはオレが五歳の時の話知ってんだ。
「年食うと一年なんてあっちゅーまってゆーからねー。そーいや水鏡っちて今、軽く二千歳越えてんだったっけ? じゃー十年や百年くらい『ちょっと前』になっても無理ないかー。あーヤダヤダ、スッゲーヤダ。ジジイにはなりたくないねー」
 イヤミったらしく、ねちっこい口調で言ってやる。
「フ……ソレで反撃したつもりか? ま、お子様が私のような『味』を出すなど土台無理な話なんだが」
「ソレって知ってるー。『年の功』ってヤツだよねー。スッゲー。オレには無理だなー」
 魎の顔から少し余裕が消えた。
「そうじゃない。コレは私のように選ばれた者だけが、自ら才能と過去の経験を巧みに組み合わせて生み出す事のできるある種の『芸術』なのだよ」
「ま、平たく言うと『老練な技』ってトコだよねー」
 魎の薄ら笑いが止む。
「いいかね、儀紅君。ただ年を取れば良いってモンじゃないんだよ。数多の苦難と試練を乗り越え、その先にある甘美な成果と結果を手にした時に初めて降臨する神からのお告げを聞いた者だけが、私のように『完成された大人』になるのだよ」
「じゃーもー、水鏡っちの才能ってヤツはとっくに『頭打ち』って訳だ」
 魎の表情が硬質的なモノへと変貌した。
「これだから語彙力の貧弱な者は……。『高見を極めた者』と言って貰おうか」
「つまり『その道のジジイ』って事だね」
「儀紅」
「へーぃ」
「今日は朝まで飲み明かすぞ」
「おーぅ」
 そう言う事になった。

 武蔵の国にある土御門の屋敷まで戻る道。
 その途中、東海道に沿った場所にある宿場街。
 二階、木造建ての宿にオレ達は泊まる事になった。
 老舗を思わせる落ち着いた佇まい。木の匂いが部屋の中に満ちていてスッゲー癒しを運んでくれる。オレ的にかなり良い感じの宿だ。
 ……まぁ、冬摩は『勝手にやってろ!』と怒って先に帰ってしまったが。
 どーしてアイツは生活にメリハリってモンを付けられないかねー。どんなに気張っても、次に龍閃が現れる場所なんかスッゲー正確には分かんないのにさー。
 ――ま、水鏡魎なら別なんだろうが。
「あー、で、儀紅。お前はどこまで読んでる?」
 夜。
 提灯をひとつ灯しただけの薄暗い部屋。細く開けた障子の隙間から夜気が入り込み、湯浴みで火照った体を程良く落ち着かせてくれる。
「九割方ってところかな」
 『月詠』に濡れた髪を拭いて貰いながら、オレは肘置きに体を預けて盃を傾けた。よく冷えた上質の酒が喉を通っていくのが分かる。
「あー、具体的に聞かせて貰っていいか?」
「アンタは龍閃と組んでいる。アンタは機会を見定めている。自分の力を最大限に発揮できる絶好の機会を待っている」
 少しはだけた浴衣の襟元をイジリながら、オレは単刀直入に言った。
 今言った事は何か裏付けがあるわけではない。証拠も何もない。だが確信だけはある。
「あー、さすがは真田家初代当主ってところだな。まぁ立場上、私の口からソレが正しいかどうかは言えないが、もう一つだけ聞かせてくれ」
 オレと同じ柄の浴衣を着て正面に座っている魎は、あぐらを組み直して続ける。
「仮にそうだとして、どうしてお前は何もしない?」
「面白いからさ」
「ほぅ?」
 即答したオレに、魎はとっくりをコチラに差し出しながら片眉を上げて見せる。魎からの酌を受け、オレはソレを一気に飲み干した。
「さっき言ったろう? 『九割』だって。あとの一割がまだ分かっていない。アンタが最終目的がな」
 魎は機会を窺っている。ソレは分かる。
 だが、その機会を利用して何をしたいのかがイマイチ掴めない。
「随分と年季の入った呪針を土佐の都の真下で見つけた。あの成長度合いから行くと確実に三百年以上は経ってる。けど呪針がその力を最大限に発揮するためには、周りに人気があるとまずい。人の邪気が怨行術の型式を崩してしまうからな。だからアンタは寂れた僻地に呪針を埋めるよう指示した。コレってどういう事だ? おかしいだろ」
「全くだ」
 魎はどこか楽しそうに口の端を吊り上げながら、盃をあけた。空になったソコに、今度はオレの方から酌をしてやる。
「例えば、今順調に埋めて行ってる呪針は目眩ましなのかもな。本命は逆を付いて埋めてる都市部の呪針で、そこから目を逸らせるために今の作業をしているのかもな。回りくどい事をして本筋から注意を外させる。アンタの得意技だろ?」
 オレは『月詠』に酒を注いで貰いながら、自信に満ちた口調で言った。
「ひょっとすると、龍閃がしてる都市破壊は本命の呪針の力を引き出すための行為なのかもな。狙っている機会に合わせて、アンタが龍閃を動かしているのかもな」
「どうして、そう思う?」
「今の龍閃の行動が龍閃の意思だけでしてる物だとは思えないからさ」
 魎から目を逸らす事なく、オレは酒を口に含んだ。
 やはり『月詠』に注いで貰った酒が一番美味い。
「龍閃の凶暴な性格からして、破壊活動を途中で止めるなんて考えにくいんだよ。四百年前の和平の時みたいに追いつめられてたんならともかく、大した理由もなく自分の本能を抑えられるほど器用な魔人じゃない」
 ソレは『月詠』から受け継いだ記憶からも明らかだ。和平前の龍閃の凶暴さは、常軌を逸していた。
 何十日もの間、休むことも眠ることもせず、たった一人で何百人も陰陽師を喰い殺し続けた。月を背中に負い、雄叫びと哄笑を上げながら殺戮の限りを尽くしてきた。
 死と破壊の化身。
 龍閃に関する記憶を見せられ、オレが最初に持った印象がソレだ。
「じわじわと相手を嬲るのも龍閃は好きだぞ?」
「ならどうして十年も間を空ける? 嬲るなら半死半生の状態に追い込むのが普通だろう。コレは推測だが、龍閃は待っていたのかもな。自分の破壊した都市が回復するのを」
「何のために?」
「さぁ、どうしてだと思う?」
 オレは意味ありげに残し、ソコで言葉を切った。
 魎と龍閃は繋がっている。そして龍閃は魎から何かの提案を持ち掛けられて実行している。ソレが都市破壊だ。龍閃の行動が妙なのも魎が指示しているからだと考えれば納得できる。 
 機会を窺うために。
 都市を徹底的に壊さず、一部だけに抑えて本筋から目を逸らさせるためだと考えれば頷ける。
 ――辛うじてだが。
 オレが今考えている事は全て憶測の域を出ない。
 魎が最終的に何をしたいのか。
 ソレがハッキリしない限り、断定的な物言いはできない。
 だからできれば聞き出したい。魎の本音を。
「お前がさっき面白いと言ったのはそういう事か」
「そぅ」
 魎は龍閃と組んでいるのだろうが、恐らくその龍閃さえも騙している。
 いや、龍閃だけじゃない。オレ達も、他の国の奴等も。魎は自分以外の者全員を騙している。
 面白い。
 実に面白い。
 ソコまでして何をしたいのか、心の底から興味が沸く。
「いいのか? そんな理由で静観していても。今のうちに何か打つべき手があるんじゃないのか?」
「手ならもう打ったさ。たった今、な」
 『月詠』の温かく柔らかい体にもたれ掛かりながら、オレは耳を隠すくらいに伸びだ自分の巻き毛を梳いた。
「どうして、オレがココまで喋ったと思う? どうして、こんなスッゲーヤバい内容をアンタに伝えたと思う? ヘタすりゃアンタに殺されかねないのに。自分の計画を邪魔するかもしれない奴を消す事くらい、アンタなら平気でやるのに」
 オレの言葉に、魎は手酌で盃を満たしながら鼻で笑い、
「私への牽制、か? お前がその気になればいつでも計画を台無しにできる。例えお前を殺したとしても、今の事情を説明している他の奴等が壊してくれる。だから私はお前を殺せない。そう言いたいのか?」
「まぁそんなところさ」
「表向きは、と言いそうだな」
 ……なるほど。
 読んでいるのはオレだけじゃないって事か。
 それでこそ水鏡魎だ。そう来なくては面白くない。
「少し本音を言うとすれば、オレはアンタみたいな奴とこうやって腹の探り合いをしてるのも悪くないって思ってる。みんな仲良しこよしで両手繋いでホイサッサってのも良いけど、疑心暗鬼に捕らわれながら前に進むのもまた一興さ」
「『少し』、か……。とことん食えんな、お前は」
「アンタも本音で喋ってくれたらオレも話すよ。等価交換だ」
 言われて魎は少し考え込むように顔を俯かせ、
「いや、止めておこう」
 自嘲めいた笑みを浮かべて続けた。
「笑われそうだ。あまりに子供じみてるってな」
「何だそりゃ。人の事スッゲー馬鹿にしておいて」
「そうだったな。謝るよ。すまなかった」
「……ヤッベーくらい気持ち悪いからヤメテくれ」
 少し笑いながら互いに酒を注ぎ合い、魎は座布団の上に、オレは『月詠』の膝の上に座り直す。
「あー、今回色々と鋭い意見をぶつけてくれた儀紅君に一つ聞きたい」
 そして魎は改まった様子で口を開いた。
「龍閃に勝てる見込みはどのくらいあると思う?」
「ぶっちゃけ三割」
 『月詠』の両腕を自分の前に回して抱きかかえて貰いながら、オレは即座に返す。
「ほぅ。詳しく聞こうか」
「オレの中じゃ、水鏡っちは敵でも味方でもないちゅーとはんぱの宙ぶらりんさん。だから色々引っかき回される事を考えると三割。もし、冬摩と水鏡っちが純粋に協力できれば五割。オレがその時まで生きていたとすれば七割。さらに『業滅結界』を完全な形で発動させて、龍閃にそのままぶつけれれば八割」
「残りの二割は……?」
「出たとこ勝負。どこかの誰かさんが吹っ切っていつも以上の力を出せれば、九割五分ってトコかな」
「あー、大体私の計算と同じだな」
 魎も気付いている。
 いつまでも成長し続ける冬摩の力を。
 まだまだ未熟だが、それ故に限界が分からない。そんな冬摩の力を引き出すために、魎は色々と策を弄しているところがある。
 冬摩に迷いを捨てさせるために。その悩みすら力に変換させるために。
 荒神冬摩……。思えば哀れな奴だ。
 強靱な肉体と野獣のような戦闘勘を持っているが、その反面精神が酷く脆い。何百年も生きているクセに、『自分』という物を確立できていない。
 いや、何百年も生きているからこそ、か……。
 未琴という女性を何百年も愛し続けているから憎しみが晴れない、自分を許せない。だから何が正しいのか決められない。龍閃を殺し、仇を討った時に初めて冬摩の人生は始まる。
 オレは本当に人間に産まれて良かった。何百年も苦しみ続けるなんて冗談じゃない。
 だからこれでいい。ほんの数十年の時間を『月詠』と共に過ごす事ができればソレで満足だ。
「『月詠』、キミもどう? 一杯くらい」
 オレは『月詠』の膝から降り、新しい盃ととっくりを両手に持って差し出した。
「…………」
 しかし『月詠』ははにかんだような笑みを浮かべて、首を振る。
 スッゲー残念な事に『月詠』はお酒に弱い。一口飲んだだけで顔が真っ赤になってしまう。だから『月詠』はいつも静かにオレの話を聞いて、微笑んだり相づちを打ったりしてくれるだけだ。まぁ、それでも十分に幸せなんだけど……。
「あー、儀紅。前から気になってたんだが、『月詠』は口がきけんのか?」
「アレ? 何で水鏡っち知らないの?」
「あー、『月詠』を紫蓬が持っていた時はそんな事はなかった。人間の手に渡ってからは、お前みたいに具現化させ続けている奴は居なかった」
「ふぅ、ん」
 オレは曖昧に返して取り合えず頷いた。そしてまた『月詠』を見る。
 畳一枚を覆い隠すくらいに長く伸びた黒髪。透き通り、彫刻のように整った顔立ち。薄く開かれ、どこか憂いを帯びた双眸は翡翠のような輝きを灯し、形の良い唇は紅を引いたかのように鮮烈な朱色に染まっている。無駄など一つもない細身の体型を、新雪のように純白の衣が覆っていた。
「でも喋んなくたって『月詠』が何考えてるか、オレスッゲーすぐに分かっちゃうよー」
 朧気な笑みを浮かべている『月詠』に、オレは最高級の笑顔で返した。
 自慢じゃないがオレは生まれてこのかた、『月詠』の声を一度も聞いた事がない。だが『月詠』が今どんな気持ちなのか、何をして欲しいのか、どうしたいのかなど、ちょっとした仕草や表情からすぐに分かる。
 五歳の時、オレは『月詠』に覚醒し、彼女の記憶の一部を受け継いだ。
 龍閃についての記憶、使役神鬼についての記憶、魔人と人間との争いについての記憶、そして『月詠』が周りの者に抱いている感情についての記憶。
「あー、やはり『月詠』は人間には使いこなせない、か……」
「魎、『月詠』を物みたいに言うのは止めろ」
 背中に届いた魎の言葉に、オレは鋭い目つきで奴を睨んで低く言う。
「これは失敬」
 魎は広い額を撫で上げながら髪を押しつけると、視線を逸らして盃を傾けた。そして手酌で注ぎ直す。
 『月詠』の能力『精神干渉』は元々、対象の精神を完全に支配して、その体を内側から操る直接的な力だった。召鬼とも違う完全な傀儡。見た目にもはっきりと分かる操り人形。
 だが、人間ではそこまでの力を引き出せなかった。力の作用点を介した間接的な『精神干渉』でしか、『月詠』の能力を発揮できなかった。心を読むという、他の人には分かりにくい力しか表に出せなかった。
 その結果、『月詠』の保持者は得体の知れない人間として扱われ、明言はされないものの暗に周囲から疎外されてきた。
 ――もしかしたら自分の考えている事を読まれているかも知れない。
 そんな周りからの疑念が、『月詠』の保持者を孤立させていった。
 ソレを避けるために歴代の『月詠』の保持者達は、彼女をの存在を隠匿し、拒絶し、否定し続けた。
「昔のヤロー共がスッゲー馬鹿ばっかだったんだよ。こーんなスッゲー綺麗な人を側に置いとかないなんてさ。オレには考えらんないね」
 『月詠』の膝の上で彼女の艶やかな黒髪を撫でながら、オレは深々と溜息をついた。
 そういう大昔のスッゲー下らない葛城の奴等のせいで、『月詠』は心に深い傷を負った。
 最初から不要の物として扱われ、どんどん自分の存在意義が希薄なモノになっていった。そして『月詠』は自分への自信の無さと、拒絶される事への恐怖から言葉を失ってしまった。
 おかしな事を言って今以上に保持者から嫌われないように。本来知り得ない事を口にしてこれ以上変な目で見られないために。
 『月詠』は自ら心を閉ざしてしまった。
 だからソレを解くために、オレは『月詠』を具現化させ続けている。
 彼女の存在をより身近に感じるために。彼女を必要としている人間が目の前にいるという事を伝えるために。
 周りの連中は、オレが他から煙たがられないように、わざと『月詠』を具現化させ続けて、心を読んだり記憶を変えたり出来ない事を知らしめているんだと思っているようだが、スッゲー的外れな考えだ。
 そんな器の小さい奴等なんかにシカトこかれたところで痛くも痒くもないし、今さらソイツらにご丁寧に説明してやるほどオレも暇じゃない。そんな時間があれば、少しでも沢山『月詠』と会話していたい。
 ――心で。
「あー、『月詠』は五十の魔人の核を使い、十鬼神の中で一番最後に生み出された神鬼だ。私の手によってな」
 前から聞こえてきた魎の唐突な言葉に、オレは訝しげに目を細めた。
 コイツか生み出した? 『月詠』を?
「あー、何をそんなに驚いているんだ? 十鬼神の内、五体は龍閃が、四体は私が、残りの一体は紫蓬が創ったんだぞ?」
「で、四体の中の一人が『月詠』って訳」
「『月詠』は少々特殊でな。保持者の精神と同調すればするほど力が増していく。まぁ分かり易く言えば、お互いに精神依存が強ければ強いほど、『月詠』はお前の気持ちに応えてくれるというわけだ。それだけに扱いが難しい。今までの保持者達が扱いきれなかったのは、人間の能力が魔人より劣るという事もあるんだろうが、最初から『月詠』を悪者扱いしていたから余計なんだろうな」
 力、ねぇ……。
 『月詠』の力、『精神干渉』。
「いらないよ、そんなの」
 オレは悟ったような口調で言う。
「ん?」
「オレは別に『月詠』に力を使って欲しい訳じゃない。一人の女の子としてオレの側に居てくれればそれで良い」
「あー、あのな、儀紅。大変言いにくいんだが、この場合の力が増すという事は、肉体精神の健康状態が良好になるという事でもある。つまり――」
「まぁーッた!」
 嫌な予感が脳裏をよぎり、オレは思わず大声を上げていた。
 『月詠』はオレと同調すればするほど、気持ちが通じ合えば通じ合うほど力が増す。心身共に元気になる。
 しかし『月詠』は喋ってくれない。つまり心が癒えていない。という事は――
「じゃ、じゃあ何!? オレはまだ『月詠』の事、理解しきれてないって事!? 知らない内に『月詠』の嫌がる事してるって事!?」
「あー、そうじゃない。お前の方は多分問題ないんだろうな。だが精神依存は一方通行では意味がない。恐らく、『月詠』の方に何か一歩踏み出せない理由があるんだろう。お前から一方的に愛情を注いでも、『月詠』の方は重荷になっているかも知れないという事だ」
「そ、ソレって一番イタイじゃん……」
「あー、私が思うのに、お前は世間一般で言うところの『良いお友達』というヤツだ」
「ま、マジすか……?」
 オレは目を丸くして『月詠』を見上げる。
 否定してくれ! そうじゃないと言ってくれ『月詠』! 魎の言ってる事なんかウソっパチの戯れ言だと!
「…………」
 しかし『月詠』は何も言わず、曖昧な表情を返しながらいつものように頭を優しく撫でてくれる。
 コチラの言葉が通じていない訳ではない。理解できない訳ではない。
 おかしい。いつもなら顔を見ただけで何を考えているか分かるはずなのに、今は『月詠』の思いが読みとれない。
 意図的にそうしているのか。それとも、オレが未熟だからなのか……。
 いや違う! コレは魎のアホんダラがデタラメな事を言ってるだけだ! 断じて『月詠』はオレの事を……! オレの事を……!
 ……オレってイタイ子なのかなぁ。
 ヤッベー……結構ヘコんだ……。どーしよー……。
 いや、でも……でも別に良い! オレの想いが一方通行だろうと三つ又だろうと立体交差だろうと! オレが『月詠』を大事にしたいという気持ちは変わらない!
 例え重荷になろうともオレは自分の熱い魂を貫き続けるぜ!
 ――って牙燕かよ! 
 ノリツッコミ、みたいな。イェ〜。
 ……やっぱイタイのかなぁ。あぁイタイなぁ……はぁ。
「あー、っはっはっは。まぁ儀紅。今日は飲め。な?」
 同情の視線の中に、どこか嘲るようなからかうような光を混ぜ込んで声を掛けてくる魎。オレは確かな殺意を胸に、浴衣の中から最高級の霊符を取り出した。

 武蔵の国にある土御門の屋敷。
 城下町を見下ろす形で、切り開いた山の中に建てられた平屋造りの武家屋敷。
 二日後、オレは『月詠』と一緒にようやくその前に立っていた。魎は歩く速さが合わないからと言って、一人で先にさっさと帰ってしまった。
 まぁそれもしょうがない。一日で歩ける距離を、その倍の時間掛けて戻って来たのだから。つーか、ソレが限界だった。
 ……ヤバい。スッゲーブルーだ。
 長旅ごくろーさんオレ、って事でちょっと休もう。
 オレは肩を落としながら、自分の身長の倍以上はある巨大な木の門の押し開く。内側に呑み込まれるようにして移動した門の奥に広がっているのは枯山水。
 白く丸い砂利が敷き詰められ、ソレらが複雑な波紋を描いて穏やかな海を表現している。
 オレは砂利の上に敷かれた平岩の上をとぼとぼと歩きながら、屋敷の入口へと向かった。
 と、後ろから肩を叩かれる。振り向くと『月詠』が心配そうな顔でオレの方をジッと見ていた。
 ――大丈夫だぜベイベー。
 オレは右の親指をグッと力強く立て、極上の笑みを『月詠』に返す。
 本当はこんな情けない姿、『月詠』には一番見せたくないのだが、ちょっとソレは無理というモノだ。かといって『犯人はお前だ!』なんて、岩の裏にあるダンゴムシの死骸を運ぶ蟻に狙いを付けたサナダムシに寄生している微生物のフン以下のマネをするわけにはいかない。男として人間としてこの星から恵みを受けている者として時を刻み続ける者として失格だ。
 愛は十年にして成らず。
 この年でなんだか偉大な事を悟ってしまったような気がする。
 とにかく『月詠』がオレに心を開いてくれるのを辛抱強く待つしかない。
 そしてオレが武家屋敷の玄関口に立った時、また後ろから肩を叩かれた。
 ――問題ないよハニー。
 オレが先程と同じく、奇跡の僥倖の表現した顔付きで振り向くと、
「オラァ!」
 脳天の巻き毛を数本かすめ取って、拳撃が通り過ぎた。
 あ、アブネー! 反射的にしゃがんだから良いものの、まともに食らってたら世紀の美形が台無しになってるところだった。
「へっ、よく避けたじゃねーか」
 好戦的な笑みを口の端に張り付かせ、両拳の関節をボキボキと鳴らしているのは、歩く直情型戦闘オタク――荒神冬摩だった。
「あんときゃ魎の馬鹿のせいで有耶無耶になっちまったからなぁ。きっちりケリ付けよーじゃねーか」
 袖部分をはぎ取り、動きやすいように仕立てた狩衣をさらに捲り上げながら、冬摩は固く握り込んだ拳をオレの前にかざす。すでにやる気満々といった様子だ。
「ワリ……オレ、パス」
 しかしオレは華麗にスルーを決め込むと、屋敷の中に入る。板張りの床から、ヒノキの香りが漂ってきた。
 まったく……何が悲しゅーて、このシンドイ時にシンドイ奴の相手なんざせにゃならんのじゃ。
「テ……! 待てコラァ!」
 オレが草履を脱いで上がろうとした時、強い力で肩を掴まれ外に引っ張り出された。
「そんなんで逃げられっと思ってんのか! 俺はテメーのそういうトコが前から気にくわねーんだよ!」
「暴れたいんなら水鏡っちに頼めばいいじゃん。また龍閃の出そうな都市教えてくれるよ」
 その都市から一番離れた場所をね、とオレは胸中で付け加える。
「まずテメーが先なんだよ!」
 冬摩は敵愾心を剥き出しにして怒声を上げ、オレの直衣の胸ぐらを掴み上げた。
 ……ったく、どーしてこの馬鹿はこうも力がありあまってんのかねー。ほらほら『月詠』がハラハラしてコッチ見てんじゃん。だーめだよ、彼女に負担掛けちゃ。しゃーねーなー。
「冬摩……」
 オレは急に神妙な顔付きになり、自分を宙吊りにしている冬摩の拳に軽く手を添える。
「やる気になりやがったか」
「実はな、ココに戻る途中……実家に寄ってたんだよ」
「あぁん?」
 唐突に始まった俺の話に、冬摩は怪訝そうな声を上げた。
「真田の実家でな、不幸があったんだ。ソレで少し手間を取って、帰るのが遅れた……」
「何、だよ、それ……」
 冬摩の手が緩み、オレの足が地面に付く。そして冬摩は怒ったような戸惑ったような複雑な表情でオレを見た。
 ホントに単純な思考回路してやがる。
 オレの実家は北陸奥(現在の青森県)。ココに戻る『途中』にあるわけねーだろ。
「母さん、奇麗な顔してたなぁ……。寝てるみたいでさ、ホント、信じられなかったよ……」
 鼻を啜りながら、オレは深く落ち込んだかのように俯いて見せる。
 ちなみにオレのオフクロは奇麗というより奇形だ。美人薄命とは良く言ったもので、ありゃ二百までは生きるな……。
「実家の屋敷にさ、芳鳴(ほうめい)っていうオレの叔父に当たる奴が居るんだけどさ……オレは、ソイツが母さんを殺したんじゃないかって思ってる」
「……何でだよ」
 顔と性格がムカツクから。
「色々と、悪い噂持ってる奴でさ。金と権力と女に目がないんだ……」
 これホント。
「多分、母さんを寝取って、自分が真田家の実権を握ろうとしたんだと思う」
「何だよ、そのクソ野郎は」
「ああ、本当にクソ野郎さ……」
 ガキの頃のあだ名は『お漏らし君』だったらしい。
「オレは、ソイツが母さんを殺したっていう証拠を集めて、復讐しなければならないんだ」
「復讐……」
 自分の今の状況と重ね合わせているのか、沈痛な思いを込めた冬摩の声が降ってくる。
 ヤベェ……。超ウケるんですけど。
「けど、今は、まだちょっと……。お前なら、分かるだろ……?」
「あ、ああ……まぁ、そりゃよ」
 今、顔上げて冬摩と目ぇ合わせたら、間違いなく呼吸困難になるくらい笑い転げる。
「何だよ、泣いてんのかよ……」
 チゲーよ! 爆笑したいのスッゲー我慢してんだよ! だから肩震えてんだよ!
「じゃ、そういう事だから……」
 オレは込み上げてくるモノを必死になって堪えながら、屋敷の中に入った。
 冬摩はもう追い掛けてこない。あんな直情馬鹿でもコッチの『事情』を察せるくらいの頭は持ち合わせているらしい。いや、直情馬鹿だからこそ、か。
 ま、ともかく面倒事を回避できた上に、冬摩をからかってちょっとは気も晴れた。
「『月詠』、明日はホントに実家帰って、しばらくハネ伸ばそっか」
 冬摩に見えない所でしたオレの提案に、『月詠』は困ったような表情で苦笑するだけだった。

 ◆◇◆◇◆

「静かだねぇ……」
 屋敷の中庭に面した縁側に座り、水鏡魎は見事な枯山水を見ながら昼間から一人で盃を傾けていた。
 待機していた殆どの陰陽師達は、龍閃の出現に備えてまた各地に散っている。
 この屋敷に居るのは魎、冬摩、草壁、そして十数人の使用人くらいのものだ。
「成熟まであと、四百年くらい、か……」
 独り言のように呟く魎の元に、地鳴りのような騒音が近づいて来た。
「おぃ! 魎! テメェ、何のんびりしてやがんだよ!」
 荒神冬摩だ。
 いつもの如く攻撃的な声で、怒鳴りつけるように叫んでくる。
「あー、冬摩か。まぁたまにはこういうのも良いんじゃないか? 緊張しっぱなしじゃ疲れるだろ。飲むか?」
 言いながら魎の差し出した盃を、冬摩は片手で払って飛ばした。
「あー、勿体ない。せっかくの美味い酒と美しい景観が台無しだ」
「テメェはやる気あんのかよ! 龍閃のクソ野郎をブッ殺すんじゃねーのかよ!」
「あー、無闇やたらと動いてもしょうがないさ。時には待つ事も戦術の一つだ。お前も少しは儀紅を見習ったらどうだ?」
 とぼけたような口調で言って、魎は二回手の平を叩く。程なくして、代わりの盃が盆に乗せられて運ばれてきた。
「けっ! 何で俺があんなクソガキを……!」
「あー、儀紅は想像以上に頭が切れるぞ。お前も知らない内に操られてたりしてな」
「馬鹿な事言ってんじゃねぇ! あのカギのくだらねー術なんざ効かねーんだよ!」
「あー、まぁ、そういう事じゃないんだが……」
 言葉を濁しながら魎は盃に酒を注ぐ。そして口に含むように軽く傾けた。
「それに、アイツはまだ本気を見せちゃいない。力も頭もな。案外、龍閃より厄介だったりしてな」
 魎は目を細め、思慮深げに言葉を紡ぐ。
「訳分かんねー事ばっか言ってんじゃねーよ! それより目星付いてんだろ! 龍閃の野郎が出てきそうな場所のよ! 教えろよ!」
「あー、どうしたんだ冬摩。昨日は『儀紅を一発ぶん殴ってからだ!』って言ってたのに。もう我慢できなくなったのか?」
「もう済んだんだよ!」
「ソレはおかしいな。今朝、アイツが出ていった時は殴られた跡なんか無かったがな」
「ンなモン知る……!」
 と、ソコで冬摩は言葉を止め、
「出て行った?」
 顔をしかめて聞き返した。
「あぁ、なんか実家の方で色々と揉め事が起きたらしい。今朝、式符の文鳥が来てたからな。多分アレが伝えに来たんだろ」
 魎は静かに言って三回手を叩く。すぐに使用人の一人が、新しいとっくりを盆に乗せて持ってきた。
「実家……?」
「あー、北陸奥にな、アイツの実家が……」
「知ってんだよ! ンな事はよ!」
「……何怒ってんだ、お前は」
 急に声を荒げた冬摩に、魎は少し驚いて言う。
「別に、何でもねーよ……」
 何か思い詰めた表情で、冬摩は呻くように言いながら魎に背中を向けた。
 いつになくしおらしい態度の冬摩に、魎は訝しみながらも瞳の奥に悪戯っぽい光を小さく宿す。
「あー、どうした冬摩。龍閃の件はもういいのか?」
 そしてどこかわざとらしく聞いた。
 冬摩は魎の言葉に少し背中を震わせて反応したが、そのまま何も言わずに立ち去って行く。
 そよ風に乗ってどこからか桜の花びらが舞い込み、魎の盃に腰を下ろした。
「おかしな奴だ」
 視界から消えてしまった冬摩の影に、魎は嘆息しながら漏らす。
 しかしすぐ面白そうに口の端をつり上げると、
「祭りの匂いがする、な……」
 桜の花びらごと酒を飲み干して、ゆっくりと腰を上げた。





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