魔術書は喚ぶ、みんなの魔王をででーんと
Level.1 『お前らは一体何なんだ!』
『寝込みをありえない物体に不意打ちされた。コマンドを選んでください』
○泣き叫ぶ。
○気絶する。
⇒○隣のバカを締め上げる。
「起きてレヴァーナ! レヴァーナ起きろ! いいから起きろ! 頼むから起きてくれ! とっとと起きろっつっとんじゃコラアァァァァァァ!」
アタシは目と鼻と喉と耳が痛くなるくらいに大声を撒き散らし、それでもぐーすか眠りこけている大馬鹿野郎の胸ぐらを掴み上げた。
「何だこんな夜更けに」
目の前の闇から聞こえるハッキリとした喋りに、少しだけ恐怖感が消える。そしてアタシは反射的に彼の首筋へと力一杯抱きつき、
「で、で、で! ででで、で、出た……! 出たぁ!」
「小さい方か? 大きい方か?」
「ちゃうわボケエエェェェェ!」
みぞおちに膝を叩き込んだ。
「ゆ、ゆゆゆゆ、ユーレイ! ゆーれい! お化けが……!」
「添い寝でもしてくれたのか?」
「ビンゴビンゴオオオオォォォォォ!」
顔面に頭を打ち付けた。
「……キミは暴力行為をはたらかんと会話もできなくなったのか?」
「だ、だって! だってだって……! だってぇ……」
鼻の奥にツンとした物が生まれ、自分の声に湿っぽい物が混じってくるのが分かる。でもコレばかりはもうどうしようもない。恐いものは恐いんだ。
アタシはレヴァーナの胸元に顔を埋め、彼の背中に手を回して力一杯抱き寄せた。
もう何も見たくない何も聞きたくない何も感じたくない!
こうなったら朝になるまでずっとこうしててやる!
「心配するな。もう大丈夫だ。何もいない」
アタシの頭に大きな手が添えられる。そして髪を優しく撫でてくれた後、両肩を包み込むようにして支えてくれた。
「ほ、ホント……?」
レヴァーナを抱き締めていた腕を少しだけ緩め、アタシは彼の体から顔を離す。きつく閉じていた目の力を抜くと、瞼ごしに光を感じた。きっとレヴァーナが部屋の照明をつけてくれたんだろう。
「嘘など言わん。自分の目で確かめてみろ」
言われてアタシは少しだけ目を開け、極力ゆっくり振り返る。
明るくなった視界に映ったのは、フリル付きの大きな枕と清潔そうな真っ白いシーツ、そして楕円形をしたポータブル型のゲーム機だけ。
ついさっきまでアタシの真横にいた、血の涙を流した女の姿はどこにもない。
「どうだ?」
「ぅ……うん」
レヴァーナの声に、体中の緊張が一気にほぐれていくのが分かる。
よかった……どこかに行ってくれたみたい……。ホント……助かった……。
自然と力が抜けていく。そして胸の奥から大きく息を吐き、
「あ、ありがと、ね……レヴァ――」
彼の方に向き直って、
「気にするな。俺はキミのパートナーだか――」
「ぃああぁぁぁぁぁぁぁ!」
血みどろの凶相に拳をめり込ませた。
事の発端は今から一週間ほど前だ。
私の住んでいるこのジャイロダインの館に、突然非科学的生命体が発生するようになった。原因は不明。目下捜索中だ。
最初の頃は大したことはなかった。
誰もいないはずの場所から物音がしたり、ちょっと肩を叩かれたような気がしたりする程度だった。
しかし二、三日もすると見えてはならない物が見え始め、聞こえてはならない音が聞こえるようになった。そして更に日が経つとソイツらが昼間でも堂々と闊歩しだし、挙げ句の果てにはエントランス・ホールで賭けポーカーなんぞをやっていやがった! しかも白スーツ共まで一緒になって!
『金がない? なら、負け分はキッチリ体で払って貰おうか』
『もう二十年も前の肉ですが……』
『腐りかけを食うのがツウってモンよ』
『お腹こわしても知りませんよ?』
『“腐食ツウ(腹痛)”なだけに?』
『兄さん上手いねこのー』
『『あっはははははー』』
とかゾンビと和やかに漫才やってんじゃねーぞコラ!
「メルム。朝からそんなにプリプリしても、プリンプリンになるワケではないぞ」
「何がだ」
正面から掛けられたレヴァーナの声に低く返し、私はサラダに突き刺したフォークをぐりぐりとねじった。
全面水晶張りの半球ドームに燦々と降り注ぐ陽光が腹立たしい。丸テーブルに掛けられた純白のテーブルクロスが目障りだ。特別ルームか何か知らんが、私に黙って館の屋上にこんな物を造りやがって。実に不愉快だ。
「ソレを俺の口から言わせる気か」
「言ってみろ。特別に許可してやる」
「むね……」
レヴァーナの頬に紅い筋が一本引かれた。
「許可すると言ったではないか」
「看過するとは言ってない」
代わりのナイフをバスケットの中から取り出し、私は朝食を運ぶ手を黙々と動かし続ける。
全く、毎回毎回懲りもせず飽きもせず、同じことを何度も何度も。実に不可解だ。
大体お前が別に“コレ”で良いと言ったんだろーが。全く気にしないと。十三の時に止まってしまった、この病的になだらかな……。
……クソ、自分で言ってて悲しくなってくるぞ。
「で? アッチの方はどうなった?」
「キミが昨日見舞ってくれた顔の傷は全治一週間だそうだ」
「例の化け物共の掃除はどうなったかと聞いている」
私はスープ皿の上にスプーンを置き、ナプキンで口元を拭きながらレヴァーナの方を見た。
針金のように鋭く尖った黒髪。攻撃的に吊り上がった逆三角形の瞳。立てば百八十は下らない長身のおかげか、黒いフォーマルスーツを完璧に着こなせている。相手を正面から見据えて持ち前の低い声を発すれば、ソレなりの威厳と風格は滲み出るだろう。
顔が崩れていなければ、の話だが。
昨夜未明に起こった不慮の事故により、今はあちらこちらに青アザやら引っ掻き傷やらが刻まれている。先程できたばかりの生傷が特に痛々しい。
だがしょうがない。全ては不可抗力というヤツだ。呼吸もせずに生きられる人間がいるか? ソレと同じことだ。
「残念ながら目立った成果は上げられていない」
「なぜだ」
私は椅子の背もたれに体を預けて腕組みし、好ましくない報告に聞き返した。
「そうだな。大きな理由の一つとして……」
言いながらレヴァーナは優雅な仕草でティーカップに口を付け、
「すでに馴染んでしまったというのがある」
「ほぅ」
鋭い表情で切り返してきた脳味噌イカれ野郎に、私は冷たい視線と声を送る。
「では重ねて聞こうか。なぜだ」
「互いに友情が芽生えたからな」
私は溜息をついてヴァーナから視線を外し、雲一つない真っ青な空を見上げた。
いい天気だ。本当に、何もかもがどうでも良くなるほどの快晴。
白い衣服を纏わぬ光の神は、自らの恵み惜しげもなく大地に分け与え、ソレを受けた木々は遙か眼下で青々と生い茂っている。
私が今いる水晶の卵は白い一点のみを中心に宿らせ、何も言わずただ静かに佇む。まるで、空を見上げる玲瓏な瞳のように――
「……で? 何だって?」
「ドールを用いた武力行使は感心しないな」
剣型ドールを白刃取りし、レヴァーナは真顔のまま平然と続けた。
「友情は宝だ。例え相手が誰であれ、築けるのであれば大切にしろと皆には言ってある」
「では、お前はこの世でたった一人の妻の願いよりも、不特定多数の不死者共との友情を重んじるというわけだな」
剣を握る手に力を込め、私はレヴァーナに顔を寄せる。
「そうは言っておらん。ただ彼らを一方的に悪だと決めつけ、有無を言わさず排除する姿勢はどうかと問うておるのだ」
「ゾンビやゴーストを放し飼いにしているアホがどこにおるか!」
「ココにいるではないか」
「お前以外にだ!」
「館の大半」
「この館にまともなヤツはおらんのか!」
「皆、愛に満ちてる」
「おんどりゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
自分でもよく分からない何かの叫び声が、喉の奥底から迸った。激しく揺れる視界と、全身を苛む鈍痛。
気が付けば銀製の食器は散乱し、テーブルクロスはビリビリに破れて床に落ちていた。
息は乱れ、頭の中では嫌な音がワンワンと鳴り響いている。
馬鹿だ! どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ!
このクサレ馬鹿を筆頭に……! いや! このドカス馬鹿を筆頭にしているから!
こんな怪電波野郎がジャイロダイン派閥のトップなんぞに立ってしまったから!
一人だけでも十分過ぎたのに! 一人だけでも手に余ったのに!
コイツ……! 一人、だけだったから、良かったのに……。
レヴァーナだけだったから、まぁいいかと……。
「気は済んだか、メルム」
見計らったように頭の上から声が掛かる。
「……ふん」
私はソレに鼻を鳴らして返し、地面に這いつくばるような格好のまま溜息を付いた。
「もういい」
そして床の上であぐらを組み、レヴァーナに背中を向けて紫色の長い髪を梳く。
一通り暴れたせいか気持ちは不思議と落ち着いていた。白のケープコートに付いた埃を落としながら、私は目線を少し上げてまた溜息を付く。
何を今更、だな……。
達観、そして奇妙なまでの開放感。背後で足音がして、レヴァーナの気配が近付いてくる。
このバカのバカは今に始まったことではない。ずっと前から、ソレこそ生まれた時からバカなんだ。そんな真性バカの超バカっぷりをバカバカしいくらいに見せつけられて、私は何だかどうでも良くなってしまったんだ。真面目に考えて真剣に悩んで、そして果てしなく落ち込んでいた自分の方が本当のバカみたいに思えてきたんだ。
コイツみたいに心の底からバカをやれたらどんなに幸せだろう。
そう、思うようになってしまった。
「私も悪かった」
立ち上がり、アタシは皺の寄った薄紅色のプリーツスカートを整える。シルク地のカットソーを少し下げ、開いた胸元から取り出したクロスネックレスをケープコートの上から掛け直した。
コレはレヴァーナがアタシに買ってくれた服とアクセサリー。
もう白衣もモノクルもしなくなった。元々アレは自分の歪んだ自尊心を満たすためだけの小道具だったし、お世辞にもファッション性があるとは言えない。
「最近ちょっと寝不足気味だったから、イライラしてたみたい」
背中まで伸ばした紫色の髪を手櫛で真っ直ぐにし、アタシは軽く深呼吸する。
「ソレはすまない。キミの期待に沿えず、俺の方こそ申し訳ない限りだ」
「いいのよ。アナタはそのままで」
自然と笑みがもれる。コレもきっとバカの包容力というヤツだろう。
そんなバカだからこそ、アタシはコイツに惹かれた。あけすけで、馬鹿正直で、表裏など全くない性格だからこそ、好きになった。常に真っ正面から本音で接してくれたからこそ、惚れてしまったんだ。
不覚にも。
そしてアタシは、メルム=シフォニーからメルム=ジャイロダインになった。
「アナタから愛とか友情とかを取ったら何も残らないからね」
その時きっとアタシもバカになったんだろう。バカと一緒になってバカがうつった。だからどれだけバカなことを言われてもされても、こうやってすぐに受け入れられる。バカはバカをバカだとは思わないから。
「キミの俺に対する理解には、いつものことながら頭が下がる」
背中が温もりに包まれる。
「アタシはアナタのパートナーだからね」
胸の前に回された彼の腕に自分の手を沿え、アタシは返した。
そう、もう納得したんだ。心に決めたんだ。
「そうだなキミは最高にして最愛のパートナーだ」
この先ずっと、レヴァーナと一緒に――
「あ……」
頬に触れる柔らかい感触。
そしてすえたような甘い匂、……い?
「ほーらキャスリン。ほおずり、ほおずり」
『へっへへへ……アネサン、こりゃどーも』
「貴様あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
拳に固い手応えが伝わったかと思うと、青白い皮膚をただれさせたゾンビの頭が部屋の隅に吹っ飛んだ。
「ああっ! キャスリン! 何てことを!」
「妻の柔肌を他の男に触れさせるなー!」
キャスリンの後を追うレヴァーナの後頭部に蹴りを入れ、そのまま腐肉と熱烈な口付け交わさせてやる。
「彼を一目で男と見抜くとは! うむ! あっぱれ!」
「地獄に堕ちろおおおおぉぉぉぉぉぉ!」
笑うキャスリンの頭を肩に乗せ、どこから取り出したのか扇子を広げて大威張りするレヴァーナにアタシは剣型ドールを投げ付けた。
が、レヴァーナの眉間に突き刺さる直前で剣の刃先は方向を変え、弾かれたように宙を舞って床に落ちる。
「愛は勝つ!」
そしてキャスリンと一緒に高笑いするレヴァーナ。
――ドールマスターと個人契約を交わした者にドールの力は行使できない。
レヴァーナと私の契約は今でもまだ生きている。だから私がどれだけ強大なドールの力を振るおうとも、レヴァーナには傷一つ付けられない。
……まぁ、だからこそ遠慮なく暴れられるのだが。
「レヴァーナ! 今日こそはどちらの主張権が強いかハッキリさせるぞ!」
「よしこい! 望むところだ!」
そして、彼とこうして戯れている時は他のこと全てがどうでも良くなる。嫌なことが跡形も残さず吹っ飛ぶ。得体の知れない輩の存在など、取るに足らないことのように――
「な……!?」
視界が上下に大きく揺れる。突然全身を襲った振動に、私は大きく前につんのめった。ソレを即座に駆け寄ったレヴァーナが支えてくれて、
「……メルム。アレはさすがにちょっと反則じゃないか?」
呆れたような諦めたような声を漏らす。
「何がよ……」
レヴァーナの腕の中で彼を見上げ、その視線が向けられている方へと顔を動かして、
「な――」
絶句した。
第一から第四まで、四本のストリートが全て交わった一点。街の中心部にあたる噴水広場。教会との抗争が終結し、つい最近復元工事が完了したばかりのその場所に、凶悪な巨大生命体が圧倒的な質量を顕現させていた。
アレは、まさか……神話の中に出てくる……。
「ドラ、ゴン……?」
自分で口にした言葉がコレほど胡散臭く聞こえたのは初めてかもしれない。
地上二十メートル以上の高さにあるこの水晶ホールよりもなお高く、翼を広げた巨体は王宮の建物をそのまま呑み込んでしまいそうだ。陽光を反射して黒光りする硬質的な鱗、金属のように磨き上げられた鋭い無数の牙。
瞳孔が縦に開いた爬虫類的な双眸には殺戮の光が炯々と輝き、指先に備わった鉤爪からは漆黒のオーラが不気味に漂っている。
竜の形を模したドールなら今まで何度も見てきたが、ソレとはまるで比較にならない。次元が違う。
大きさも、威圧感も、そして感じる恐怖も。
「メルム、いくら何でもあのドールは危険すぎると思うんだが」
「馬鹿! あんなモン知るか! 私のではない!」
あんな大きな物……! 一体誰がどうやって!
「坊ちゃん! 大変ですぜ! 坊ちゃ……!」
床の一部が跳ね開いたかと思うと、切羽詰まった声が飛び込んで来る。
「……ヲ、ヲヤヲヤ。こいつぁお楽しみのところ、申し訳ない」
へっへっへと下品な笑みを浮かべ、腹の出た中年男は太い眉毛を掻いた。
「アレは何だ。状況を説明しろ、リヒエル」
動じず、毅然とした態度で言いながらレヴァーナは私の肩を抱き寄せ……って、え?
「いや、ソレがですな……」
「とっとと離れんかコラアアアァァァァァァァァ!」
レヴァーナの鼻先に、革製のブーツの踵がめり込んだ。
「……抱きついてきたのは確かキミの方からだと思ったが」
「巨大な勘違いだ!」
「そうか」
レヴァーナは陥没した鼻を軽く揉みほぐすと、何事もなかったかのようにリヒエルの方に向き直る。
「説明を」
そして目つきを険しくして言った。
「は、はぁ……」
リヒエルは躊躇いがちに声を漏らし、勝手気ままに跳ねたの黒髪を頭皮に撫でつける。ベルトの緩んだスラックスを上げ、カッターシャツの胸ポケットから取りだした皺くちゃのハンカチで汗を拭きながら続けた。
「いや、まぁ。大したことは分かってないないんですがね。取り合えず被害状況はあそこの噴水、それから王宮の鎧兵が数名負傷」
「死者は」
「今のところは」
「そうか」
短く言うと、レヴァーナは肩に乗っていたキャスリンの頭を胴に戻し、リヒエルが入ってきた床の出入り口に向かう。
「あ、あの。坊ちゃん、どこへ……?」
「止めてくる。アレは危険だ」
そして螺旋階段を下りて行き、
「ちょおおぉぉぉっと待ったあああああぁぁぁぁぁぁ!」
アタシはスライディングでレヴァーナの胸に飛び込んだ。
「メルム、言っておくが……」
「止めないわよ! どーせ『努力と友情に重きを置き! 勇気と正義を胸に抱き! 勝利と愛をモットーとしていれば、例え相手が誰だろうと話し合いで解決できる!』とか言うんでしょ!」
彼の首に腕を回して離れないように固定し、アタシはレヴァーナの言葉を遮って叫び散らす。
「分かっているではないか。さすが我が最大の理解者にして最愛の妻」
「行くわよ!」
満足そうに笑ってアタシをお姫様抱っこし直すレヴァーナに顔を寄せ、彼の逆立った黒髪をひっ掴みながらビシィ! と前を指さした。
「色々とおアツいこって……」
引っこ抜いたキャスリンの頭をリヒエルに投げ付け、アタシ達は猛烈な勢いで螺旋階段を下りて行った。
全くもってワケが分からない。
一体何だと言うんだ。
「メルム! どう思う!?」
「何がだ!」
断片的な思考をなんとかまとめようと努力しながら、私はレヴァーナの腕の中で叫び返した。上下の振動と共に急速に後ろへと流れていく景色が目障りでしょうがない。
「なぜ竜が消えた!」
「知るか!」
中央広場の方を睨み付けたまま、私は八つ当たり気味に怒鳴り付ける。
黄緑石で綺麗に舗装された第三ストリート。両サイドには広大な敷地面積を持つ豪邸がいくつも建ち並び、等間隔に植えられた朧光樹と相まって優美な景観を生み出している。
そんなのどかな風景を一瞬にして消し去ることのできる存在が、この先にいたはずだった。
ついさっきまでは。
だが今はいない。この街のどこにいようと絶対に見落し得ない巨大なドラゴンは、影も形もない。
「誰かが倒したのか!?」
「なワケあるか!」
的外れで短絡的なレヴァーナの発言を即否定し、私は考えを巡らせる。
可能性として一番高いのは、あのドラゴンがドールであるということ。
あの巨体はドールの真実体で、ソレをドールマスターが封印体に戻した。だからいなくなったように見えた。
しかしあれ程の大きさを誇るドールはいまだかつて見たことがない。
――いや、一つだけあったか。
教会が神を生み出すために創った、逆裏世界という名の黒いドール。ドールを喰い、そして人間を喰って成長し続ける異様な能力を持った……。
とするとあのドラゴンも教会が……?
考えられなくはない。一年前の抗争で生き残った教会の残党が、組織を再興するために『神』となりうる存在を創り出した。そしてその力を街中に知らしめ、恐怖支配によって信者を集めようとしている。
頭のイカれた連中が考えそうなことだ。
そうなると当然、私達とは真っ向から対立することになる。またあの時と同様の抗争が始まってしまう。いや、あの時よりも間違いなく大規模になる。
様子見などなしで、最初からドールとドールの総力戦だ。一体どれだけの人間がソレに巻き込まれるというんだ。
駄目だ。絶対に駄目だ。
始まる前に必ず食い止める。話し合いで決着を付ける。
できるさ。きっとできる。私一人では無理でも、コイツと一緒ならどんなことだってできる。今までだってずっとそうだったんだ。なら今回だって――
「見えたぞ!」
レヴァーナの叫び声に思考を中断し、私は全身を緊張させた。
中央広場にあったはずの噴水は無惨に破壊され、原形を留めていない。地下から吹き出す水は行き場を失い、辺りに虚しく撒き散らされていた。
ソレを受けながらも微動だにすることなく、王宮の鎧兵達は何かを取り囲むようにしてて円陣を組んでいる。
きっとその中心にいるのだろう。巨悪なドールマスターと、絶対的な破壊力を秘めたドールが。
「とぅ!」
レヴァーナの気合いの声と同時に、体が宙を舞う。銀色の光を放つ鎧兵達を眼下に収め、私達は一気に円陣の中へと躍り込んだ。
さぁご対面だ!
私は全神経を限界まで張りつめさせ、
「あらあらー」
間延びした声に弛緩させられた。
「また新しいのが出てきたな」
続けて溜息混じりの面倒臭そうな声。
「お前らが騒ぎの元凶か! 何のつもりかは知らんがこのレヴァーナ=ジャイロダインが来たからにはもう安心だ! のんびり桃缶の残り汁でも酌み交わしながら来世に思いを馳せ参じようではないか!」
「……電波か」
小さく鼻を鳴らし、腕を組んで斜に構えていた紅髪の男が馬鹿にしたように呟く。
「ケンカを売るつもりなら買ってやる。何なら、この辺りを一瞬で蒸発させてやろうか?」
そして鋭い眼光でコチラを射抜き、口の端を邪悪に吊り上げた。
「もー、たーくんダメですよー。そんな恐いことばっかり言っちゃー」
「……ふん」
しかし隣りの女が平和的な口調で言うと、男はバツが悪そうにそっぽを向く。
何なんだコイツら。何か違う。何か異様だ。
発している雰囲気も勿論そうなのだが、特に目を引くのはその外見だ。
男の方は長身で細身。彫りが深く、目が覚めるほどに整った顔立ち。クセの強そうな紅い髪は燃え盛る炎のようで、無駄など全くない均整の取れた体つきは、神話中の人物を彷彿とさせる。
だが、着ているシャツに描かれたあの絵は何だ。
顔の三分の二を占める巨大な眼はキラキラと光り輝き、おねだりでもするかのように上目遣いの視線を向けている。さらに軽く握り込んだ両拳を口元に寄せ、大きめのカッターシャツを地肌の上に直接まとい、体を小さくして全身から媚びオーラを発していた。
そしてあの頭から生えているネコの耳は何だ、尻にあるのはネコの尻尾は何のつもりなんだ。
理解できん。全く未知のキメラ体だ。
いや、男の方はまだいい。シャツ以外は普通のジーンズに普通のスポーツシューズだ。気持ちの悪い絵に目を瞑れば、極々普通の成人男性だ。
しかし女の服装は何だ。
頭には表面が白、裏面が赤の奇抜な帽子。体には胸元に何か文字のような物が書かれた白い服。サイズが小さめなせいか、ムカツクほどに豊満なバストがこれでもかと強調されている。そして下には逆三角形の黒いパンツ。生地が殆どないせいで、白く肌艶の良い足が露わになっていた。アレはまさか下着じゃないだろうな……。
いったいどこの民族衣装なのかは知らないが実に卑猥だ。男を誘っているようにしか見えん。
「よーし、ではまずお近づきの印に名前を聞いておこうか」
「はいー。私ー、色葉楓と申しますー」
レヴァーナの問い掛けに、女の方が頭を下げながら返した。
イロハカエデ? また妙なイントネーションの名前だな。聞いたことがないぞ。どこの国の連中なんだ?
「それでー、コッチがー……」
「真宮寺だ」
イロハカエデの言葉を遮るようにして、男が言う。声にさっきまでとは異質の殺気が込められているように感じるのは気のせいだろうか。
「イロハカエデとシングウジか。うむ、良い名だ」
レヴァーナは感銘を受けた様子で、大きく頷きながら返す。
……分かってんのか? コイツ……。
「では次の質問に移ろう」
「いいから消えろ。すぐに終わる」
シングウジがコチラを睨み付け、低く威圧的な語調で言ってきた。
「ほぅ、何がだ?」
「言う必要はない」
「なら消えろという申し出を受けるわけにはいかんな」
「そうか」
そして空気が一変した。
息苦しささえ覚えるほどの重圧。皮膚が裂けたかと錯覚するまでの殺気。ソレらは否応なく原始的な恐怖を喚び起こし、見る者の魂を凍り付かせる。
この男は危険だ。
本能的な感覚が私の中で叫声を上げていた。
「だからダメですってばー」
が、途端に柔らかい雰囲気に戻る。
「危ないことはメッ、ですよー」
イロハカエデは少し眉を寄せて人差し指を立て、シングウジの目の前に突き出して言った。
「……ったく」
そしてシングウジはまたそっぽを向く。不機嫌そうな表情ではあるが、もうさっきまでの破滅的な威圧感は微塵もない。
コイツら……一体どういう関係なんだ? 恋人同士、なのか……?
男の方が随分と女の尻に敷かれているように見えるが……。
「あのー、えっとー。私達ちょっと探し物をしていましてー」
「ほぅ。探し物、とな?」
「はいー、ねく……なんとかっていう書物なんですけどー」
「ネクナントカ?」
「『ネクロノミコン』だ」
「ネクロノミコン、だと?」
付け足すように言ったシングウジの言葉に被せるようにして私は聞き返した。
聞いたことはある。数々の邪悪な呪法が書き記されている魔術書だ。中でも不死者の召喚に関する記述の量は異常だとか。
「はいー。ソレがー、この世界にー、あるらしいんですー」
「“らしい”じゃなくてあるんだよ。間違いなくな」
「お前ら、ソレを見つけてどうするつもりだ」
「さぁー?」
私の問い掛けにイロハカエデは顎先に人差し指を当て、小首を傾げてやる気のない声を出す。
「さぁ、って……」
「私達は蘭乱さんに頼まれただけですからー。見つけてこいってー」
ランラン……ソイツが首謀者か……。
「ぃよっし! 話はよく分からんがよく分かった!」
突然、レヴァーナが何か閃いたように大声を上げる。
「我々もそのネクロノミコンとやらを探すのに協力しようではないか!」
ちょ……。
「なぁに、ジャイロダイン派閥の力を結集すれば、そんな本の一冊や二冊! 朝飯前のトレイの紙のような物だ!」
「拭いちゃダメですよー」
鼻息荒く意気込むレヴァーナに、イロハカエデがどうでもいいツッコミを入れた。
――って、オイ!
「レヴァーナ! そうじゃないだろ!」
「よーし! では俺に付いてこい! 丁重に振る舞い倒してやろうではないか!」
「コイツらは騒ぎの元凶だぞ! 何を考えているか分からん! 危険すぎる!」
「ならこれからゆっくり話し合って打ち解ければいい。しかしこんな所で立ち話ではシャクだろう。どうせなら美味い物でも食べながら互いに自画自賛し合い、良いところを見つけていけばそれぞれの主義主張を理解できるというもの。そして芽生える友情! 愛! 完璧! 完璧だぞメルム! このレヴァーナ=ジャイロダインの横隔膜に狂いはない! ふははははははは!」
く……ダメだ。もう完全に暴走し始めている。こうなってしまっては止められない。
確かに、話し合いでの解決は望むところだ。しかし得体の知れない者を館に招き入れるなど……。しかもあの邪本の捜索まで……!
本気なんだ。コイツはいつでも本気なんだ。そしてその馬鹿馬鹿しいくらいの本気で何とかしてきた。どんな大問題も、コイツに掛かって何とかならなかったことは一度も……。
……クソ!
「おい! 勘違いするなよ! 私は別にお前らに気を許したワケじゃないからな!」
「ツンデレか」
「よく分かったなシングウジ! キミとは心で分かり合える気がするぞ!」
「お前は出てくるな!」
あーもー! どーにでもなれ! 私は知らん!
「どーでもいいついでに言うが、お前はいい加減その男から下りた方が良いんじゃないのか? 言葉に迫力がない」
「えー、いいじゃないですかー。せっかくお似合いで可愛いのにー」
二人の会話で自分の状態を再確認する。
「いつまで抱いとるんじゃー!」
そして私の拳がレヴァーナの顎下に突き刺さった。
「見たかシングウジ! コレが生ツンデレの“ツン”だ!」
「なら“デレ”は次に二人きりになった時だな」
「その通り!」
「あらあらー」
「いいから放せー!」
気に入らん! 実に気に入らんぞ! なんでこんな展開になってるんだ!
ええぃクソ! 本当に知らんぞ! 私はどうなっても……!
……って、コイツ。さっき私の心を読まなかったか?
館のエントランス・ホールから真っ直ぐ進んだ場所にある、接客用のセレモニー・ルーム。
室内にはハーブ系の香りが立ちこめ、壁の一部がガラスでできているために自然の光が部屋全体を明るく照らしてくれている。四つの隅には鷹の剥製や装飾用の盾が置かれ、厳(おごそ)かでいて落ち着きのある雰囲気を演出していた。
「……で、何でお前らまでいるんだ?」
部屋の中央にある大きな楕円形のテーブル。白亜製の出入り扉から一番離れた席に座ったレヴァーナの隣りに腰掛け、私は頬杖をついてジト目を一人と一匹に送った。
「いやー、偶然とは恐ろしいな。途中でばったりとは。ま、食事は大勢でした方が何かと楽しいから大歓迎だが」
私のボヤキに、レヴァーナが無駄に高笑いしながら言う。
「ど、どーもー」
軽くウェイブがかったセミロングの銀髪を靡かせ、ルッシェは私の正面で軽く頭を下げた。トレードマークであるチェック地の大きなリボンが、その動きに合わせて揺れる。
「つーか俺は元々ココの住人なんじゃね?」
「黙れ裏切り者」
ルッシェの着ているウシ柄のポンチョに身を沈め、短い足を組み替えながら偉そうに言った黄色の角鳥――ハウェッツに、私は声を低くして言い返した。
私よりもルッシェのそばの方が居心地良いらしく、最近はもっぱら彼女の家に入り浸っている。全く、人間らしすぎるドールというのも考え物だな。
大体あの密着度合いは何なんだ。ずっと一緒にいた私にすらあんなに懐いたことはないのに。ルッシェにしっかり抱いて貰って、体震わせて喜びやがって。当てつけか。ったく……。
ルッシェのダブルフェイスっぷりに愛想を尽かして戻って来ても、絶対に迎え入れてやらんぞ。
「俺なりに色々気ぃ利かせてやってるんだがなぁ」
「鳥に気遣われるほど落ちぶれてない」
「ま、オメーが考えてることと逆のこと言うのは知ってるからよ。褒め言葉として受けとっとくぜ」
「新鮮な鳥肉が手に入ったとシェフに伝えておくよ」
「……目がマジだぜ、メルム」
「血抜きは死後硬直が始まる前にシッカリしておかないとなぁ」
私の冷たい言葉に鳥肌立たせて大きく震えるハウェッツ。
「は、刃物はやめようぜ……刃物はよ……」
全く、いきなり合流してきたコイツもコイツなら、何も言わずにあっさり引き下がった鎧兵達も鎧兵達だ。
ジャイロダイン派閥が持つ権力の成せる技かもしれんが、どうして何も言わない! 引き留めようとしない! 街の治安を守る者としてのプライドはないのか!
……まぁ、単にレヴァーナの扱いを心得ているだけかもしれないが。ジャイロダイン派閥のトップに立ったせいで、コイツの公衆電波発生局っぷりは今や街中に知れ渡ってるからなぁ。実に嘆かわしいことだ。
……私まで同列の扱いを受けてないだろうな。
「さて、食事が運ばれてくるまでに、いくつか聞きたいことがあるんだが」
針金のような黒髪を掻き上げ、レヴァーナはいつになく真剣な口調で話を切り出した。
「シングウジ、あの竜は何だ? キミ達とどう関係がある?」
そうだ。まずはソレをハッキリさせないと。そしてコイツらのどちらがドールマスターかを見極めなければ……。
「…………」
だがシングウジは答えない。レヴァーナの正面で静かに腕組みし、違う場所に目線を向けて、
「偶然、ね……」
小さく笑いながら零したかと思うと、彼の手元が一瞬ブレたように見えた。
刹那、銀色の閃光が走る。
『あびゃああぁぁぁぁぁ! いーてててててて! おーいーててててててててて!』
そしてレヴァーナの後ろから濁った声が轟いた。
シングウジを除いた全員の視線がソチラに向けられる。
見ると半透明の白いシーツが宙に浮かび、風もないのにゆらゆらと揺れていた。
「おおっ! チャッピー! こんな所でどうした!」
痛そうに皺を寄せるゴーストの名前を呼び、レヴァーナは席を立ってチャッピーの元へと駆け寄る。そして彼の額(?)に刺さった銀製のフォークを抜いてやった。
……今、何が起こった? あのフォークはシングウジが? そんな、まさか……。
……いや、間違いない。彼の前にはナイフだけしかない。フォークがなくなっている。
何だコイツは。一体何者なんだ。あのドラゴンといいネクロノミコンといい、本当に何を企んでいるんだ。
「楓、後はお前に任せる」
「へっ?」
言い終えて席を立ったシングウジに、イロハカエデが間の抜けた声を発した。
「ネクロノミコンはこの館の中にある。ソイツらに探して貰え」
「な……!?」
あまりに唐突な彼の発言に私は椅子を蹴って立ち上がる。
「ふざけるな!」
ネクロノミコンが……! あの邪悪な魔術書がこの館にあるだと!? 一体何を根拠に!
「信じる信じないはお前らの勝手だ。まぁアイツらとこの先仲良くやるって言うんなら、別にソレでもいいさ」
言いながらシングウジは、チャッピーを介抱をしているレヴァーナを指さす。
「あのゴーストがどうし……!」
と、そこで私の言葉は止まった。
ゴースト、ゾンビ、不死者……。ネクロノミコン、邪悪な魔術書、特に不死者の召喚を……召喚?
オイ。まさか……。
「アイツらが出てきた時期と、その辺りで何か『特別なこと』をしなかったか思い出してみるんだな」
アイツらが出てきたのは大体一週間前。その時にしたこと……何か、特別な――本。
「レヴァーナ!」
「おぅ!」
私の呼び掛けに応え、レヴァーナはチャッピーを抱いたままムーンサルトジャンプで目の前に降り立つ。
「あの本! アンタが持ってきた白紙の! アレどうしたの!?」
「心配するな! 巨乳になったキミの姿を妄想して描き殴ったりなどはしていない!」
「そんなことは聞いとらん!」
「度重なるイメージトレーニングの末! 何事もバランスが非常に大事だということがよく分かった!」
「せんでいい!」
「メルム! 俺はありのままのキミを愛しているぞ!」
「話が進まんのじゃボケエエエエエェェェェ!」
レヴァーナの背中に拳の形がくっきり浮かび上がるほど深く腕を埋め込み、私は喉の奥から叫び出した。
体を“つ”の字に折り曲げ、レヴァーナは派手な音を立てて背中から壁に激突する。
「キミのは……貧乳、ではなく……品乳……スレンダー、な、だけ、だ……ガクッ」
全く! このバカは毎回毎回! 私を怒らせるのがそんなに楽しいか!
「ま、心当たりがあるんならソレから当たってみるんだな」
その横でシングウジは他人事のように言うと、どこからか取りだした白い筒を口にくわえて指先で火を付ける。そして煙を吐き出しながら白亜の扉の方に向かった。
コイツもコイツで怪しげな技ばかり使いおって。変態は十分すぎるほど間に合っているというのに!
私は呼吸を整えながら、首周りを暑く締めるケープコートを少し緩めた。そして両手を後ろに回して髪の下に入れ、一度大きく舞い上げて風を取り入れる。
落ち着け、落ち着くんだ。こんな時こそ冷静にだ。胸のことはもう別にどうでもいい。今考えなければならないのはコイツらのことと例のドラゴン、そしてネクロノミコンだけだ。まず、一番簡単そうなのは……。
「あー、たーくーん」
人の気力を根こそぎむしり取るような抜けた声で、イロハカエデがシングウジを呼び止める。
「あのー、たーくん今回は放置プレイですかー?」
彼女の不安げな言葉にシングウジは肩越しに振り返り、
「俺は他にやることができた。ま、気楽やれよ。そんなナリでも一応人妻らしいからな。本はココにあるんだ。失敗はない」
悪戯っぽい笑みを浮かべて自信満々に言い切った。
……ところで今、なにげに全く関係のないことを挟まなかったか?
「そうですかー。分かりましたー。がんばりますー」
「あぁ」
部屋を出ていくシングウジの背中を強い眼差しで見つめ、イロハカエデは両手を固く握りしめる。
「よしっ、がんばろーっ」
そして自分に言い聞かせるように声を出して気合いを入れた。その拍子に、私の体には致命的に欠如している物が大きく揺れる。
こ……! コイツらぁ! どいつもこいつもバカにして! 私だってそれなりに気にしているんだぞ! なのにズケズケと!
「それじゃあメルムさんー。一緒にがんばりましょー」
「頑張って一緒になるくらいならとっくにそうなってるわよ!」
「はいー?」
ああ……もう駄目だ……。
アレは一ヶ月以上も前のことだ。
レヴァーナが私の所に一冊の本を持ってきた。かなり古い物なのか、角はことごとく潰れており、所々に鋲が打たれ、さらに刃物で裂かれたような跡もあって、とにかく全体的にボロボロだった。
何かと思って見てみると表紙にはタイトルも何も書かれておらず、中を開いてみても白紙のページがずっと続いているだけ。
ただ表紙の裏には酷く乱雑な書体で、古代文字が書き連ねられていた。
余程長い年月を経てきたのかインクは掠れて薄くなり、一部しかまともに読み取ることができなかったが、そこにはこう書かれていた。
『己が堕欲に流された時、大いなる絶望が降りかかるだろう』
大いなる絶望。言葉の響きからして、あまり関わり合いになりたくない。こんな怪しげな本は即刻封印するに限る。
だがレヴァーナからの頼みとなればそう無下に扱うわけにもいかない。
どこでこんな物を見つけたのかと聞くと、ラミスの遺品の中に紛れていたと返ってきた。
なるほど、と思った。
彼女が生きていた時には分かり合える時間を持てなかった。互いの素直な思いを打ち明けられないまま死別してしまった。
だからせめてラミスの遺品から彼女のことを感じ取りたい。そう思うのは至極当然のことだ。ラミスのことをより深く理解できれば、墓に添える品の種類も、手向けの言葉も豊富になるというもの。そういうことであれば、私は協力を惜しむつもりはなかった。
腰を据えてじっくり調べた。
白紙のページに文字を浮かび上がらせるにはどうすればいいのか。特殊な光を当てるのか? 暗闇の中で発光するのか? それとも時間によって表れたりするのか?
古代文字が書かれているということは過去の遺物なのか? 単に著者の演出なのか?
そもそも著者は誰なのか。何の目的でこんな物を作ったのか。
ひょっとしてラミスが自分で何かを書きつづったのか? それともどこから購入したのか? あるいは教会から持ち出したのか……。
ありとあらゆる可能性を考え、組合せ、なんとかしてこの本の中身を読み取ろうとした。ラミスがコレを所持していたことの意味を探ろうとした。
だができなかった。
作業は遅々として進まないまま、時間だけが虚しく流れていった。
そして三週間ほどがたったある日。
私は気分転換にとドール達と会話していた。可愛い自分の子供達と楽しい時間を過ごすことで、インスピレーションを高めるつもりだった。
私は何気なく亜空文字を展開し、犬型ドールを真実体に戻そうとした。その時、不意に手に何かが当たった。
ソレは本当に偶然だった。常に肌身離さず持ち歩いていたというのもあるだろうが、偶然亜空文字の端がレヴァーナから預かった本に触れた。軽く、ほんの掠った程度に。
何か劇的な変化があったわけではない。
しかしドールマスターであれば誰でも知覚できる、ある種の鼓動。生命の息吹を感じさせる胎動。
一瞬、何が起こったのか信じられず、私は殆ど無意識に繰り返していた。
より強い亜空文字を、より確実に本に触れさせて――
間違いなかった。はっきりと確信できた。
コレは単なる本ではない。
ドールなのだと。
本の姿を封印体に持つドールなのだと。そう、明確に認識できた。
だが残念ながら真実体にはならなかった。何か特殊なプロテクトが掛かっていた。
解こうと思えば多分できただろう。何と言っても私は天才ドールマスターだ。そして私の体と精神の半分はドール。その気になればドールその物と心を通わせることだってできるはず。
それに分かり易いヒントだってある。
『己が堕欲に流された時、大いなる絶望が降りかかるだろう』
多分、この文章を深く読み解いていけば自ずとプロテクトを解除する方法が分かるはずなんだ。
しかし私はそのヒントがあったからこそ、それ以上は踏み込まないことにした。
大いなる絶望。
恐らく、真実体となったこのドールはソレを体現する。何らかの方法で私達に絶望を味あわせる。そういう危険な存在。
だからラミスはあの抗争の時に使わなかった。
彼女はあの時、力を欲していた。完璧にこだわり続ける彼女は、確実に教会を潰すことのできる絶大な力を求めていた。だからこのドールが自分の助けになるのであれば、惜しみなく使っていたはずなんだ。
しかしラミスはそうしなかった。
なぜか。理由は単純。
このドールの生み出す絶望とやらが、敵だけではなく味方にも降りかかる可能性があったから。
そんな諸刃の刃となりうる兵器を戦力に入れて作戦を考えるわけにはいかない。味方の血を進んで捧げてまで勝利を掴み取りたいとは思わない。
彼女はきっとそう考えたんだろう。
なら、ソレで良いではないか。本当は別の考えがあったのかもしれないが、今はそう思いたい。勝手な解釈だったとしても、そちらの方がレヴァーナのためだ。
もう本に用はなかった。
私はレヴァーナにこの本がドールであり、ラミスがどんな思いを抱いて持っていたのかを伝えた。彼は満足そうに笑い、ソレ以上は何も言わなかった。
我ながら美しく、心温まる内容にまとめ上げたと思う。そして話はコレで終わるはずたった。
なのに――
「無くしたですむと思っとんかあああああああぁぁぁぁぁぁぁ!」
深夜。
ラミスが生前使っていた部屋に、私の魂の叫びが響き渡った。
「うーむ。確かココに置いたはずなんだが……」
綺麗に整理整頓されたオーク樹製の机の上をまじまじと見ながら、レヴァーナは腕組みして呻く。
「早く探せ! いいから探せ! とっとと探せ! 探せ探せ探せえええぇぇぇぇぇ!」
動こうとしないレヴァーナの後ろ頭を蹴り倒し、私はその反動で部屋の隅に飛んで本棚の前にかぶりついた。
ああクソ! こんなヒラヒラしたスカート邪魔なだけだ! ケープコートも暑い! ネックレスなどちゃらちゃらしてて鬱陶しいことこの上ないぞ!
「で、間違いないのか、メルム。あの本がそのネクロノミコンとやらで、あの世からの友を次々と喚び出してくれているというのは」
「友って言うな! 『くれている』って言うな! 勝手に不法侵入してきた不死者共だろーが!」
「大丈夫、キミならすぐに仲良くなれるさ。共通の話題もあることだしな」
「何よソレ!」
「例えば“薄い”ところとか……」
レヴァーナの顔面が絵画の世界に入り込んだ。
「さっさと探せ!」
彼の頭をまた足場にして跳躍し、天井近くまで積み上げられた小物棚の頂点まで一気に上り詰める。
全く! 成長という言葉を知らん奴だ! 脳味噌が腐っとるとしか思えん! ゾンビの方がまだましだぞ!
とにかく全ての元凶があの本、ネクロノミコンという邪悪な魔術書であることは間違いないんだ。
私が本をレヴァーナに返したのが丁度一週間前。そしてゾンビ共が出始めたのもその頃。
つまり、コイツがあの本に何かしたんだ。封印体のプロテクトを解くような何かを。
そして『絶望』が降りかかってきた。
不死者共だけではなく、あのシングウジという男もそうだ。
最初から危険な奴だと思っていたんだ。人の皮を被った得体の知れない化け物だと。
まさにその通りだった。
アイツは――ドールだった。
今のアイツの姿は封印体、そして朝方に見たあのドラゴンが真実体だ。リヒエルの事後調査、そして十五時間も掛けてのんびりのんびりのんびりのんびり喋ったイロハカエデの話の内容を繋げるとこうだ。
朝、時空のトンネルより二人が現れる。
……いや、勿論デタラメだということは分かっている。しかしイロハカエデの言葉をいちいち真剣に考えて真面目に理解しようとすると、自分がとてつもなく哀れに思えてくるから敢えてそのままだ。だってレヴァーナなんかよりずっと非常識なんだモン……。だから重要な所以外は全て適当に聞き流した。
……話を戻そう。
しばらくして、見回りの鎧兵と二人が遭遇する。あの奇抜な格好だ。彼は当然職務質問した。しかし男の方は無愛想に構えているだけで何も喋ろうとしない。女の方は妙に心の和む笑顔を浮かべているのでキツイ言い方もできない。
その後、鎧兵達が何人か集まり、どうするべきか会話を始めた。
『取り合えず上に報告した方が良いんじゃないのか?』
『でもなー、俺あの人の顔見んのも嫌なんだよー』
『だーから言っ“たろ”? “う”えの奴らとは――』
そしてドラゴンが現れた。キッカケは未だに不明。
だが、ココで重要な事実はシングウジが亜空文字の補助もなく真実体になったということ。つまり、ヴァイグルやリヒエルと同じく、彼はドールによって生み出されたドール。亜空文字の代わりに自分の感情を糧にして、肉体を部分的に、あるいは全体的に真実体化する能力を持っている。体の腐敗を代償に。
更に言うなら極めて高い確率で教会の残党だ。ソレも桁外れの力を秘めた。
悪い予感ほど的中するとはよく言ったものだ。最初に考えていたことが現実になってしまった。
アイツをこのまま野放しにするわけには行かない。必ず抗争の火種になる。そうなれば街中に『絶望』が広まる。ソレは絶対に避けなければならない。
今、常に監視を付けて見張らせている。シングウジは勿論のこと、イロハカエデもだ。
私の直感では彼女も恐らくドールだ。シングウジと同等か、それ以上の力を持った。ああいうノホホンとした輩は信用ならん。きっとルッシェと同じくダブルフェイスなんだ。
取り合えず今のところは二人に異変はない。大人しくしている。が、今後少しでもおかしな動きを見せれば……。
「メルム。もし、あの本を見つけたとしてどうするつもりだ?」
机の引き出し一つ一つ開けながら、レヴァーナがコチラに背を向けたまま聞いてくる。
「決まっているだろう。当然、破壊する」
頭を軽く振って髪を整え、私はきっぱりと言い切った。
ゾンビやゴーストに関しては、あの本が関与していると考えて間違いない。別にシングウジの言葉を信じて、アレがネクロノミコンだと決めつけたワケではないが、不死者が出てきた時期に行っていた特別なことというのが、あの本の解明以外に思い当たらない。ゾンビやゴーストの大行進という非常識な事態を説明する物として、アレ以外に考えられない。
だが、シングウジとイロハカエデに関しては正直まだグレーだ。
ヴァイグルやリヒエルという前例がある以上、ああいうドールが存在していても何ら不思議ではない。不死者達と違い、まだ常識の範囲内で認知できる。『絶望』の中に含まれていないかもしれない。
だから例えあの本を壊したとしても……。
「破壊すると、彼らはどうなる?」
「何がだ」
後ろからした声に、私はソファーベッドの下を覗きながら返した。
「消えてしまうのか? キャスリンやチャッピーは」
「だと助かるんだがな。まぁ少なくとも今以上に増えることはなくなるだろう」
「そうか……」
どこか気落ちしたレヴァーナの声。
全くコイツは……。
「なぁメルム」
「何だ」
「彼らもなかなか気さくな性格でな。湿っぽい見た目とは裏腹に、カラッとした気持ちのいい奴等なんだ。やはり人を外見で判断するのは良くない。そのことを改めて思いしらされたよ」
「だから何だ」
「うむ、まぁその、なんだ。キミは嫌がるかもしれんが、これも異文化コミケの一つとして……」
「おかしな略し方をするな」
「シングウジにコチラの方が一般的だと教わったのだが」
コイツは……本当に誰彼構わず仲良くなろうとしやがって……。
まぁ、別に今に始まったことではないから咎めるつもりもないが……もう少し節操という物をだな……。
……いや、ソレではコイツらしくないか。
「何というか、もうほんの少しだけ視野を広げてみるのも面白いのではないかと……」
「いいから探せ」
「メルム……」
「とにかく、シングウジやイロハカエデよりも先に見つけるんだ。アイツらの手にアレが渡るのはあまりに危険だ。きっとキャスリンやチャッピーも消されるぞ」
「メルム!」
と、不意に全身を無重力感が襲った。
「やはりキミは最高だ! 最高のパートナーだ! 俺は幸せ者だ!」
ソレが後ろから抱き上げられているのだと理解するのに数秒の時間を要す。
「こ、コラ! 早く探せと言ったばかりだろうが!」
「おぉ探す! 探すとも! 明日からは館中の人材を総動員しての大捜索だ!」
「分かった! 分かったら下ろせ!」
「ダメだ! 下ろさん! こうやってキミと抱き合っている時が俺にとっての至高の時間だ!」
「あっ、こ、コラ! 変なトコを……!」
「よし! 今日はこのまま就寝だ! 明日に備えて体力を温存するぞ!」
「だからスカートが……! アッ! ちょ……! ひいいいぃぃぃああああぁぁぁぁぁぁぁ!」
顔に大量の風が押し寄せたかと思うと、ぼふんっ、と柔らかいクッションが体を受け止めた。
「おやすみメルム! 我が愛しき人よ!」
「アタシは抱き枕じゃなあぁぁぁぁぁぁぁい!」
叫び、もがき、身をよじり、あらゆる抵抗を試みるがレヴァーナの拘束は外れない。それどころかどんどん強くなってきている気がする。
クソ! この馬鹿力! 大体何でコイツはこんなに行き当たりばったりの出たとこ勝負なんだ! しかも勝手に暴走してひたすら良いように考えて! これじゃあホントにアイツらを消せないじゃないのよ! まったく! この……!
「……バカ」
アタシは何とか体を反転させ、両手でレヴァーナをほっぺたをつねって、み゛ーんと真横に引き延ばす。マシュマロのように柔らかい彼の肌は、アタシの指に吸い付いて面白くらいに伸びた。
「もぅ、寝た……?」
くーくー、と可愛らしい寝息を立てるレヴァーナをつつきながら、アタシは小声で言う。
反応はない。あの一瞬で寝入ってしまったようだ。
「ちゃんと歯、磨かないとダメでしょ。虫歯になっても知らないわよ……?」
金属を通したように固く逆立ったレヴァーナの黒髪をいじりながら、アタシは一人で呟いた。
「まったく、いっつもいっつも世話掛けてくれちゃって。アタシがいないと何にもできないクセに……」
まぁ、ソレはアタシも一緒なのだが、と心の中で付け加える。
「おやすみ……レヴァーナ」
そして彼の顔を抱き返し、アタシは目を閉じた。
とにかく明日になって、本を見つけて、ソレを何とかすれば事は良い方向に進むはず。このバカが何とかしてくれるはず。
そう、明日になれば、きっと……。
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