誰が為に冥霊は吼える

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 私の目の前に置かれたビール瓶が突然弾ける。甲高い破砕音と共に中身をブチ撒けて、黄金色の液体が辺りに飛散した。続けてカクテルの注がれたグラスや、ウーロン茶の入ったコップが次々と湿っぽい悲鳴を上げていく。
「な――」
 あまりに突然の事に短く声を漏らして私は硬直した。
 卒業論文の発表を無事終了し、その打ち上げにと私が幹事を務める飲み会。乾杯して一時間ほど経ち、盛り上がりがピークに近づいてきたところで場の空気が急変した。
 静まりかえった十畳ほどの宴会会場。私達の貸し切った部屋の外から、他の客のざわめきが聞こえてくる。まるで遠い世界の歓声のように。
 それほど今の雰囲気は周囲から隔絶されていた。
「こ、コップが……!」
 思い出したように同級生の一人が声を上げる。ソレを皮切りに悲鳴は急速に伝播していった。その間も天井に吊された電球が爆ぜ、インテリアの鏡が割れて、混乱の渦をより深刻なモノにしていく。
「みんな、逃げ――!」
 ようやく復活した思考に従い私が悲鳴混じりの声を発した時、目の前を同級生の一人が横切った。
「嘉木堂(かぎどう)!」
 廊下を走り、店を出ようとする彼の背中に声を掛けるが、振り向かないまま曲がり角へと姿を消す。
 この場にいるのは危険だと感じて真っ先に逃げ出したのならば、それは正しい判断だ。しかしアイツはそんに俊敏な判断と行動の出来るヤツではない。私の母性本能と保護欲を鷲掴みにしてやまない嘉木堂は、もっとトロくさくて情けない男のはずだ。
 だが、さっきアイツが見せた横顔。
 獲物を狙う鋭い目つき。悔しそうに鼻に寄せた皺。ギリ、という音が聞こえてきそうな程きつく噛み締めた歯。
 どれも初めて見るアイツの顔だった。
「おい、早く逃げろ! 嘉木堂に続け!」
 未だパニック状態から抜け出せない他の同級生に活を入れ、私は早く店から逃げ出すように促す。
 いったい何が起こったのかは知らないが、とにかくこの場所に留まるのは危険だ。
 全員が立ち上がって逃げ始めたのを確認し、私も嘉木堂を追って外に出た。途中、店員に呼び止められたが今はそんなモノに構っている余裕はない。
 金なら後で払ってやる。勿論、苦情付きでな。
「嘉木堂!」
 地下にある居酒屋を抜け、私は階段を二段飛ばして駆け上がって嘉木堂の名前を呼んだ。
 まったく、とんだ災難だ。せっかくこれから酔いに任せて、嘉木堂とゆっくりお喋りでもしようと思っていたのに……。
 だが彼の姿はどこにもなかった。
 夜を彩る煌びやかな電飾が、辺りを昼のように明るく染めている。夏の到来感じさせる生ぬるい夜風が頬にまとわりついた。
「お、おい。藍原(あいはら)。いったいどうしたんだ」
 私は後ろから名前を呼ばれ、素早く振り向く。
 そこに立っていたのは私達の研究室の教授だった。シブめの小顔で、顎髭が侍系の男性を演出している。
 確か仕事がまだ残っていて、少し遅れて参加すると言っていた。今来たばかりなのだろう、少し広い額には汗が浮かんでいる。
「先生、今中に入るのは危険です」
「何かあったのか?」
 恐怖に顔を染めた他の生徒達を見ながら、教授は眼鏡の位置を直す。
 私はとりあえず起こった事をそのまま話してみた。
「そんな馬鹿な……」
 その一言で片付けられるなら、私だってそうしたい。だが事実なのだ。紛れもなく。証人は沢山いる。
 教授はしばらく考え込んでいたが、すぐに大きく頷いた。私はこんな下らない冗談を真顔で言えるほど器用な人間ではない。
「で、警察にはもう連絡したのか」
「いえ、まだです」
 短く答えた私に、教授は得心したように力強く頷いた。
「そうか、分かった。とにかくお前らはもう帰れ。あとの事は俺に任せろ」
 さすが教授だ。卒論発表でツッコんで来るのは鬱陶しいだけだが、こういう時は頼もしい。
 私も出来ればこんな場所からはさっさと離れたかった。せっかく嘉木堂のために磨き上げてきた私の美貌に傷でも付いたら大変だ。
「それじゃお願いします。あと嘉木堂を見かけませんでしたか?」
 彼は真っ先に出て行った。教授とばったり出会っていてもおかしくはない。
「いや、見なかったが。もう逃げ帰ったんじゃないのか?」
 教授は額の汗をスーツから取り出したハンカチで拭きながら小さく首を横に振った。
「そうですか……」
 確かに教授の言うとおり帰ってしまったのかもしれない。まぁ、同じ研究室なんだ。どうせ明日大学で会う。
 出来れば今日、一緒に帰りたかったのだが……。
 あまりの恐怖で泣き叫び始めた同級生をなだめながら、私は胸中で最悪の卒論打ち上げ会に幕を下ろした。

 さすがに昨日の夜はなかなか寝付けなかった。
 家に帰った途端それまで押さえつけていたモノが一気に吹き出し、しばらく立ち上がることさえできなかった。自分の意志とは全くの無関係に震える足は、思った以上に不愉快な代物だ。
「おはよう」
 私は黒い染みの付いた木製の扉を開け、馴染みの研究室に朝の挨拶をする。すぐに元気な友人の声が返ってきた。三角フラスコに入った試薬と、手元のストップウォッチを交互に見ている。まだ早いせいか彼女一人しか部屋にいない。
 発表も終わったというのに研究熱心なことだ。しかも彼女は昨日大泣きしていたはず。たった一晩で吹っ切ることが出来るとは、なかなか図太い精神の持ち主のようだ。
「教授は来ているのか?」
「さぁ、見てないなぁ。わたしらのお守りも終わったし、どっかで羽根伸ばしてんじゃないの?」
 来てないのか。残念だな。昨日、あれからどうなったのか聞きたかったのだが……。
「それにしても昨日は災難たっだな。打ち上げはまた別の機会にでもするか」
 鞄を実験台の上に置き、私が無理に明るく作った声で話しかけると彼女は訝しげな表情で見返してきた。
「昨日? わたし昨日は早く帰ってずっとテレビ見てたよ? 災難って、春海(はるみ)の方で何かあったの?」
 なかなか面白い冗談じゃないか。よし、座布団を一枚やろう。
「昨日の飲み会だよ。コップとかがいきなり割れて大騒ぎになったじゃないか」
 私の言葉に彼女は三角フラスコとストップウォッチを実験台に置き、眉間に皺を寄せて下から覗き込んでくる。
「春海……アンタ頭、大丈夫?」
 その言葉そっくり返すよ。
「だから――」
 かみ合わない会話に少し苛々しながら開いた口を、私は慌ててつぐんだ。
 いや待て。もしかするとあまりの恐怖に一時的な記憶障害を起こしているのかもしれない。だとすれば思い出させるのは危険だ。彼女の精神に甚大な負担が掛かる。
「ああ、何でもない。私の勘違いだ」
「そう……。春海も疲れてるのね。卒論発表頑張ってたもん」
 うーむ、逆に心配されてしまった。まあいい。
 私は研究室を出て、廊下にあるロッカーから白衣を取り出して袖を通す。鉄製の扉に備え付けられている鏡を見ると、目の下にうっすらとクマの浮かんだ自分の顔が映っていた。
 毎日手入れを欠かさない自慢の黒髪は腰まで伸び、埃の積もった蛍光灯の光を反射して眩い輝きを放っている。二重の大きな黒目、通った鼻筋、形の良い唇。鋭角的な輪郭と相まって、彫りの深い私の顔立ちはどこか攻撃的に見える。
 が、そこがまた魅力的。こんな美人に想いを寄せられているというのに、全く気付かない嘉木堂は不感症なのかもしれない。
「おはよーさん」
 私が自分の美顔に酔いしれていると、隣から声を掛けられた。
「ああ、おはよう。昨日は大変だったな。よく眠れたか?」
「全くだぜ。昨日ほど最悪な日はなかったよなー」
 自分のロッカーに荷物を置きながら、彼は不満を漏らす。
「論文読んでたら、その紙で手ぇ切っちまってよ。あれ痛んだよ」
 待て。その指の傷は、グラスの破片で切ったモノじゃないのか?
 傷口を振って大袈裟にアピールしてくる彼の横顔を見ながら私は眉を顰めた。
「お前にとっては飲み会での事より、そっちの方が大事件だったわけだ」
 いや、きっと勘違いだろう。切り傷なんて私も昔はやんちゃして山のように作っていた。
「飲み会? なんだよ、昨日飲み会なんてあったのかよ。誘ってくれよなー、冷たい女だぜ」
 思わず耳を疑う。
「お前……本気で言ってるのか?」
 目を大きく見開き、私は怒りすら込めて彼を睨み付けた。
「な、なんだよ……。何か気に障ることでも言ったか?」
 私の気迫に押されてか、彼は少し後ずさりながら気まずそうな笑みを浮かべる。
 冗談で言っているわけではない。どういう訳か知らないが忘れてしまっている。
 私は舌打ちをして、白衣を着たまま研究棟を飛び出した。ガラス扉の前にある喫煙スペースに、同じ研究室の友達が一人いた。
「おい、昨日の夜、何をしていた!」
 まるで容疑者を追いつめる刑事のような口振りで追及する。あまりに突然のことに面食らっていたが、彼は紫煙を吐き出すと戸惑いながらもハッキリ答えた。
「お、遅くまで研究室で実験してたけど……」
 馬鹿な! お前は事件があった時、真っ先に声を上げた張本人じゃないか!
「くそっ!」
 私は憤りも露わに、昨日居合わせた同級生を探してキャンパス内を奔走した。
 食堂、生協、図書館、共通棟。
 二人ほど見つけたが、誰からも期待した答えは返ってこなかった。
「どうなってるんだ……」
 当てもなく廊下を歩きながら途方に暮れる。
 誰も昨日の事を覚えていない。みんな綺麗サッパリ忘れている。私一人だけが騒いで馬鹿みたいだ。
「あ……」
 チッ、と舌打ちして顔を上げた時、私は偶然中庭にいた想い人と目があった。切羽詰まった状況にも関わらず、先程の下品な行為を見られてしまったかと懸念する。
「嘉木堂!」
 すぐに目を逸らそうとする彼の名前を大声で呼び、私は中庭に駆け込んだ。そしてベンチで所在なさ気に座り、ジュースを飲んでいる嘉木堂を真っ正面から見据える。
 中学生だと言い張っても十分通じる幼い顔立ち。目が隠れてしまう程に伸びた栗色の前髪、その下で息づくつぶらな瞳。丸みを帯びた頬は赤ん坊のように朱に染まり、口からは愛嬌のある八重歯が覗いている。百六十センチあるかないかの低い身長に、抱きしめれば壊れてしまいそうな華奢な体つき。
 どれをとっても私のストライクゾーンに直球ストレートで三者凡退といった感じだ。
「ちょっと、聞きたいことがあるんだ……」
 無意識のうちに嘉木堂を逃がすまいと、彼の両肩をしっかり押さえ込む。その拍子に嘉木堂の手から紙コップが逃げ、中のジュースがレンガ造りの地面にこぼれ落ちた。
「すまない。後で一番高い飲み物を買って返すから聞いてくれ。とても重要なことなんだ」
「……な、何?」
 おどおどした様子で、嘉木堂は警戒を強めた瞳で私を見る。
 いつもなら彼に嫌われることを怖れてこれ以上の会話は遠慮するところだが、今はどうしても聞きたいことがあった。
「昨日、飲み会の時に起きた事件……覚えているか?」
 あの時、嘉木堂が見せた普段とは全く違う顔が頭に浮かぶ。あれは何かを知っている顔だった。きっと嘉木堂なら何かを――
「……藍原さんの行った飲み会で、何か事件があったの?」
 足下から何かが崩れていく。
 高所からの失墜に似た悪寒。目の前の空気が白み始め、意識を茫漠としたモノへと貶めていく。
「いや……何でもない」
 私は力無い足取りでふらふらと立ち上がる。
 そうか……おかしいのは私の方か。昨日は飲み会など無かったし、異常現象も起こらなかった。きっと私は夢の中の出来事を現実と勘違いしたのだろう。
「藍原さん?」
 心配そうに覗き込んでくる嘉木堂。私が彼に引きつった笑みを返そうとしたその時、さっきこぼれたジュースが突然暴発した。
「え――」
 コンクリートでできた地面を大きく抉り、黒い煙が立ち上っている。私の白衣はいつの間にか、まるで鋭利な刃物で削ぎ落とされたように切られて風に舞っていた。
「くそ!」
 次の瞬間、嘉木堂の顔つきが変わる。
 柔和な微笑を浮かべたどこか頼りなさげなモノから、明確な意志の垣間見える男の貌へと。
 水色のカッターシャツを翻し、嘉木堂は鋭い視線を辺りに向けた。
 あの時の目だ。昨日、飲み屋で見せた獲物を狙っているような目つき。
「上か!」
 嘉木堂が叫んで上を向いた直後、故障で明かりが灯ったままの街灯が破裂した。中から細く白い帯が、鞭のようなしなりを見せて嘉木堂に襲いかかる。
「危ない!」
 腕に強い衝撃があり、私は横に大きく跳ね飛ばされた。尻餅をついた体勢で見上げると、嘉木堂は華麗なバックステップで次々と迫り来る白い鞭をかわしている。
 なんだ、これは……いったい何が起こっている?
 私の混乱を余所に、今度は中庭の池に設置された噴水のモーターが爆発した。そこから白い触手が何本も生え、後ろから嘉木堂に急迫する。
「ちぃ!」
 避けきれない。
 前から来ていた白い鞭は姿を消していたが、重心が完全に後ろに傾いている。前方に身を投げ出す前に、触手に絡め取られるのは明らかだった。
 しかし触手が嘉木堂の背中に迫り、シャツに軽く触れたと思った時、突然現れた上からの重圧によってそれらは地面に叩き付けられる。
「な、な……」
 ソレは冗談じみた大きさの『腕』だった。
 道路整備用のローラーほどもある巨大な腕は異常に発達した筋肉の鎧で覆われ、浅黒い皮膚の上で血管が脈打っている。まさに力の塊としか形容のしようがない一本の腕が、池の水面から突出して白い触手を押し潰していた。
 ぐちゃぐちゃと嫌な音をたてて触手は内包された紫色の体液を巻きちらし、腕と共に空気に熔けて消える。後に残ったのは悪夢のような光景。無惨に破壊された池と『腕』が地面に穿った爪痕が、無情にも現実に起こったことの名残として鎮座していた。
 何を見ているんだ私は……何が起こっているんだ。
 昨日から何かおかしい。いや、おかしいなんて生っちょろい言葉で片付けられるような事ではない。異常だ、不可解だ、面容だ、非現実的だ、形而上の世界だ。
 知りうる限りのあらゆる単語が現状を表現しようと脳内で渦を巻くが、それらのどれにも当てはまらない。それほど今目の前で起こっている事態は常軌を逸していた。
「何だよ、コレ……」
 物音を聞きつけてか、通りかかった見知らぬ男子生徒が放心したように口を開け、その拍子にくわえていたタバコが落ちた。刹那、空を漂っているタバコの先から細長く白い糸が伸び、嘉木堂の顔面を左からねらい打つ。
「っく!」
 僅かに反応が遅れた嘉木堂の頬を掠め、白い糸は更に線を細くして消えた。
 身を低くし、私の方に向かってくる嘉木堂。近くに止めてあったエンジンかけっぱなしの車のボンネットが弾け飛び、太く白い鞭が嘉木堂の背後から肉薄する。
 空気を叩いて迫り来る鞭を、電話ボックスから生まれた『腕』が遮った。
「じっとしてて!」
 嘉木堂はそのままスピードを落とすことなく私を抱きかかえると、お姫様だっこの状態で運んでいく。
 これがもっとロマンチックな場面だったら、どれほど幸せな気分になれただろう。
 すでに現実逃避を始めた私の思考は、どうやら限界のようだ。
 願わくば、目が覚めた時に嘉木堂が側にいてくれますように。

 風に乗って鼻腔をくすぐる花の匂いで私は目を覚ました。
 うっすらと目を開けると、すぐ側で心配そうに覗き込む嘉木堂の顔があった。
 小動物の可愛さらしさと、籠鳥の可憐さを兼ね備えた華奢な体つきの男の子。それが私の中にあった嘉木堂のイメージだ。
 今はそこに肉食獣の獰猛さが付加されてしまったが。
「大丈夫?」
 とりあえず目覚めと共に嘉木堂と顔を合わせるという願いは聞き入れられた。
 私は上半身だけを起こして辺りを見回す。
 見渡す限りの原っぱ。色とりどりの花が咲き乱れ、近くにある巨大な人工池からは涼やかなせせらぎが聞こえてくる。
 ここは確か大学が緑化促進運動のためにと、偽善的に作りだしたグリーンスペース。寝ころべば気持ちよさそうな芝生の隣りに立入禁止の札が掛けられているのは、おあずけを食らった気分だとよくみんなで話していたのを覚えている。
 なかなか嘉木堂も大胆なコトするじゃないか。
 禁断の地で愛おしい人と二人きり。後はさっきの事が夢であれば……。
「多分、ここならヤツの攻撃は来ない。それに来たとしても、あれだけ大きな池が近くにあれば十分対処できる」
 ……という願いは、どうやら却下されたようだ。
「ちゃんと、説明してくれるんだろ?」
 切り取られた白衣の裾を見ながら私は腹を決めた。
 そう、あれは紛れもなく現実のこと。この身に降りかかった厄災。そしてこれからも続くであろう大災害。
 ならば対処しなければならない。アレが何であるのかを知った上で。
「本当は、藍原さんも忘れるはずだったんだ。なのにさっき、昨日のことを僕に聞いてきた時には……正直驚いた」
 苦悶に満ちた嘉木堂の横顔。ソレも初めて見る彼の顔だった。
「昨日の飲み会で、僕達は冥霊(めいりょう)の襲撃を受けた。だから僕が迎え撃った。自分の冥霊を使ってね」
 メイリョウ……初めて聞く言葉だ。だが妙に懐かしい響きだと感じるのは何故なのだろう。
「冥霊っていうのは冥霊界に棲まわせている自分の影。使役する者の意思を通わせられる特定の物質や性質を介して、僅かな時間だけこっちの世界に喚び出すことが出来る。例えば昨日、グラスや電球が弾けたのは僕や敵が冥霊を喚んだせい。喚び出しに使った物は例外なく破壊されるからね」
「ああ、つまりなんだ。私達が今いる世界とは別に冥霊界ってのがあって、嘉木堂は二つの間にトンネルのような物を作り出せる、と。一瞬だけ。で、作ったトンネルはすぐに壊れてしまう。こんなイメージで良いか?」
 私は出来るだけ頭の中を整理しながら、嘉木堂の説明を噛み砕いていく。
「そう、そんな感じだよ。さすがに理解が早いね」
 お前にそんなことを言われると照れるじゃないか。
「で、嘉木堂。お前は何でトンネルを作るんだ?」
 特定の物質や性質を介して冥霊を喚び出すと言っていた。ならば嘉木堂の介しているのは何だ。
 嘉木堂は一瞬言葉に詰まり逡巡する気配を見せたが、やがて大きく息を吐いて続けた。
「僕の媒介体は『鏡』さ」
 それは囁くような小声だった。言いながら周囲をしきりに気にしている。やはり攻撃の源なだけあってあまり知られたくないのだろう。ましてや敵には。
 だが嘉木堂は私に教えてくれた。何だか妙な優越感に浸ってしまう。
「昨日グラスを割ったのは、お酒やガラスを鏡代わりに使ったからなんだ」
 ああ、それで池か。これだけ大きな池を鏡として使えば、嘉木堂も迎撃しやすいのだろう。鏡が大きければ大きいほど、出せる力も大きくなるというのはなんとなく想像が付いた。
「ただ気になってる事があってね。昨日、割れたグラスの数が僕が媒介体として使った物より多いんだ」
「じゃあ……」
 嘉木堂以外で冥霊を使うのは襲って来た敵しかいない。
「敵の媒介体はその辺りに関係あるのかもしれない」
 嘉木堂と同じく鏡か、それとも液体か、ストレートにガラスという事も考えられる。そう言えば電球もガラスで出来ている。
「さっきジュースが弾けたろ? それから攻撃が始まった」
「ならば液体か?」
「うん、僕もそう思ったんだけど。どうもそんな単純な物じゃないみたいなんだ。その後の攻撃の発生源を考えるとね」
 街灯、噴水のモーター、タバコ、車のボンネット。
 これらに共通する物……何だソレは?
「相手は自分の媒介体が分かりにくいように攻撃の場所を選んできている。けど僕の方はそうはいかない。最悪、もうバレてる可能性だってある」
 嘉木堂は飲み会で鏡も使っていた。それにさっきの池や、電話ボックス。おおよその見当をつけられていてもおかしくない。
「相手の目的は私なのか?」
「分からない。飲み会の時は明らかに藍原さんを狙ってた。けど、さっきは僕だった」
 標的も、攻撃の媒介体も分からない。
「これじゃあ、いくら嘉木堂が『腕』を喚んでも苦しいか……」
 私が何気なく漏らした一言に、嘉木堂はハッとして目を見開いた。
「見えたの……? 僕の冥霊が……」
 長い前髪の奥に潜む双眸が、驚愕の色に染まっていく。
 なんだ? アレは見ちゃダメな物だったのか?
「あ、ああ。こんなに太い腕が、池とか電話ボックスから生えて……それて、白い鞭みたいなやつを、ぐしゃーって……」
 身振り手振りで先程の状況を再現しながら、私は言葉足らずな部分を補っていく。
「敵の冥霊も……。そっか、見えたのか。それで……納得いった」
 どこか諦観したような嘉木堂の表情。口の端に薄ら笑いを浮かべ、溜息混じりに肩を落とした。
「何だ? いったい何が納得いったんだ?」
「冥霊が関わった事っていうのは普通は覚えていないんだ。だから藍原さん以外で飲み会にいた人達は覚えていないし、さっきの事も多分、異常気象か何かで片付けられる。腕や鞭なんで最初から見えてないし、みんな何の疑問も抱くことなく生活に戻る。普通はね」
 そう言えば私も昨日の飲み会では何も見えなかった。嘉木堂の冥霊も、敵の冥霊も。なのに、さっきはハッキリと見えた。
「けど、同じ冥霊使いなら話は別だ」
 まさか……。
「藍原さん。君も冥霊使いだ」

 あれから別に生活が一変した訳じゃない。
 いつも通り大学に通い、卒論をまとめ、不備のある実験をやり直し、友達と一緒にご飯を食べたり楽しく談笑したり、教授の悪口とか言い合ったりして、極々平凡な日々を送っていた。
 ただ、それでも大きく違う点はある。
「かーぎーどー。図書館行こうっ」
 それは嘉木堂と一緒にいられる時間がずっと増えたこと。
 以前は何を話しかけても適当にあしらわれ、会話らしい会話もろくに出来なかった。しかし冥霊使いという共通の力が、私達の距離を一気に縮めてくれていた。
 最初の頃は緊張しっぱなしで疲れもしたが、一週間、二週間と敵からの攻撃が全く来ないと自然に弛緩していく。梅雨が明け、連日続く気持ちのいい快晴も私達を祝福してくれているかのようだった。
「でさ。教授も嘉木堂はさっさと逃げ出したと思ってたみたいで。まさか敵を迎え撃ちに行ったなんて絶対に考えないだろーな」
「……悪かったね。臆病者で」
 図書館へと続くキャンパス内の道を歩きながら、私が最初に冥霊に目覚めた時の話に華を咲かせる。
 なにせ嘉木堂と親密になるキッカケとなった事件だ。何度話しても飽きることはない。
 あの時、私は敵の冥霊から影響を受け、冥霊使いとしての力に目覚めた。それは自分の身を守るための防衛本能。
「そう言えば嘉木堂はいつ冥霊に目覚めたんだ?」
 冥霊がどうして使えるのか、理由は分からない。ただ嘉木堂の話では冥霊使いは生命の危機に瀕した時に覚醒することが多いという。
「昔、交通事故で死にかけてね。その時に」
「左目が悪いのはそれが原因か?」
 間髪入れない私の指摘に、嘉木堂は目を丸くして見返してくる。
 ふふん、私が知らないとでも思ったのか。お前のことは入学当時からずっと見てきたんだ。殆どストーカーだな、私は。
 自尊と自嘲の入り交じった笑みを浮かべ、私は長い髪を左手で梳きながら片眉を上げ見せた。
「お前は左からの反応が鈍い。この前の白い鞭のような冥霊も、左から来た攻撃はよけ損なったろう」
「……よく、見てるね」
 お前のことなら何だって知ってるさ。
 考え事をする時は後ろ髪をいじることや、くしゃみは必ず奇数回すること。学食では入り口から一番遠い席で食べることや、食べる前にはちゃんと手を合わせて「いただきます」をすること。綺麗な貝殻を集めるのが趣味であることも、大学に住み着いた野良猫にエサをあげていることだって知っている。
「お前とはよく目があうからな」
 嘉木堂とは目が合うことが多かった。私からの熱い視線を察してくれたのかと思うほどにだ。初めて目が合った時、私の直感が告げた。
 彼が将来の花婿だと。
 以来、何度も話しかけたが相手にされず、私は嫌われるのを怖れて少し距離を取った。そして嘉木堂の事をずっと見てきた。
 頭がいいわけでもないのに、たった一人で勉強を頑張ってなんとか単位を取っていく姿や、体力があるわけでもないのに、棄権もせず最後までマラソン大会を走り抜いた姿。器用でもないのに、一人で遅くまで繊細な実験を続けて雀の涙ほどの結果を出した姿、お酒に強いわけでもないのに私が企画した飲み会には毎回出てくれている姿。
 最初は一目惚れだったが、今では嘉木堂の人間性全てが私の母性を剥き出しにさせ、保護欲を沸騰させる。
「嘉木堂。お前、好きな人とかいるのか?」
 私の発した言葉に、嘉木堂は何もないアスファルトで躓き大きく前につんのめった。
 うーん、そんなベタな反応もグッドだ。嘉木堂。
 私は胸中で力強く親指を立てた。
「な、何をいきなり」
「私は、お前が好きだぞ」
 嘉木堂の血色の良い頬が、病的なまでに紅く染まっていく。毛細血管が破裂寸前まで広がっているようだった。
 私にとってこの二週間は実に有意義な物だった。他の友達は卒業旅行とかで海外に行ったりしているが、ちっとも羨ましくない。毎日研究室に顔を出して、嘉木堂と喋っている方がずっといい。研究室には殆ど人が居ないから貸し切り状態だ。愛を育むにはまさに打って付け。
 近づけなかった四年間を一気に取り戻した気がする。
 冥霊様々と言うヤツだ。
「き、緊張感、な、いね……なんか、さ」
 関節をカクカクといびつに動かしながら、抑揚の無い口調で嘉木堂は言ってきた。
「確かにな。しかし敵が誰だか分からない、全く襲ってこないでは、無くなっても仕方ないな」
 相手の狙いが何なのかは知らないが、私達は向こうから手を出して来てくれないと対処のしようがない。
 私も冥霊とやらを使えるらしいが、喚び出す媒介体が何なのかすら分からない。嘉木堂のように自在に操るには、さらなる刺激か時間が必要みたいだ。
「それより嘉木堂。お前、好きな人いるのか?」
 微妙にズレた話題を戻すために、もう一度同じ質問をする。
 私が見ている限り、嘉木堂は特定の女性どころか男友達もろくにいないはずだ。実に不謹慎だとは思うが、喜ばしいことだった。周りからの誘惑が殆どないと言うことなのだから。
「あ、と、図書館……! ほ、ほら、図書館だよ!」
 上擦った声で言いながら、嘉木堂は大分近くまで来た図書館を指さした。
 なんだ、その未知の遺跡を発見したような仕草は、嘉木堂。
「あ、そ、そーだ、読みたい論文があったんだー! 早く行かなくちゃー!」
 棒読み丸出しだぞ、嘉木堂。
「じゃあ、僕先に逝ってるねっ!」
 漢字が違うぞ、嘉木堂。
 同じ側の手足を揃えて、ぎこちなく走る嘉木堂の背中を見ながら、私はそんな姿にも萌えられることを見い出した。今度は躰を使って誘惑してみると面白いかもしれない。
「ま、ゆっくりやるさ」
 もうすぐ私も嘉木堂も社会人だ。さすがに就職先まで同じにすることは出来なかったが、別に遠くに行くわけではない。お互いに今一人暮らしをしている部屋から通う。ならば休日に会うこともそれ程難しくないだろう。
「ん?」
 足下に僅かな陰りがさし、私は空を見上げた。
 雲が出てきている。空気は乾燥しているから雨雲ではないが、太陽は徐々に隠れつつあった。




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