貴方に捧げる死神の謳声

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壱『終わりの始まり』


◆悪意の視線 ―仁科朋華にしなともか―◆
(また、だ……)
 いつも通りの通学路。車の多い大通りに面した歩道を、仁科朋華は頼りなさげな足取りで歩いていた。
 時々後ろを振り返る。自分と同じ朝霧高校の制服を身につけた生徒達が、他愛もない話に花を咲かせて登校していた。
(誰……いったい誰なの……)
 下唇をギュッと噛み、俯いたまま朋華は歩を進める。
 二週間ほど前からだった。背中に刺すような視線を感じ始めたのは。
 最初は気のせいだと思っていた。自分は感覚が鋭い方ではない。他人の気配や視線を感じたことなど、これまで一度としてなかったのだ。だから放っておけば、そのうち気にならなくなるだろうと思っていた。
 しかし視線はどんどん強くなり、やがて明確な悪意を感じるようになってきた。
 自分に害意を持った者が常に見張っているという感覚は、朋華に名状しがたい嫌悪感と不快感を与えていた。
「おい! 走れ! あと五分でチャイム鳴るぞ!」
 校門前で体育の教師が声を張り上げているのが見える。いつもは何かにつけて生徒を怒鳴りつける嫌な存在だが、この時ばかりは頼もしく見えた。
 朋華は視線を拭い去るように他の生徒に混じって全力で走る。
 校門の前に着いた時には、さっきまでの視線を感じなくなっていた。
「ほら、仁科! 休んでないで走れ走れ!」
 動きやすいジャージに身を包んだ体育教師が、さらに朋華をせかす。
「あ、はい」
 朋華はホッと胸をなで下ろし、校舎の中に入った。

 朋華が教室に着いた時、まだ担任の教師は来てはいなかった。
 窓際の真ん中。いつもの席に朋華は腰を下ろし、鞄から教科書を取り出す。窓に映った自分の顔を見て乱れた髪を手櫛で整えた。肩口で切りそろえた栗色の髪の毛がサラサラと手を伝って行く。
「おー、すまんな遅れて」
 二分ほどして担任の教師が入ってきた。その隣には見知らぬ男子生徒が仏頂面でそっぽを向いている。背中まで伸ばした黒い髪の毛をうなじの辺りでくくり、つり上がった目で教室の隅を見ていた。
「転校生だ。荒神冬摩こうじんとうま君。さっ、自己紹介して」
 教壇の前を開け、担任の教師はその男子生徒にスペースを譲った。
「あー、初めまして。荒神冬摩といいます。ヨロシク」
 あくびを噛み殺し、面倒臭そうに頭を掻きながら荒神冬摩と名乗った男子生徒は軽く頭を下げた。低く、重みのある声だ。
「今日からこの二年C組の生徒になった。みんな仲良くやってくれよ」
 教室の一角からは友好的な声があがるが、殆どは訝しげな視線を冬摩に注いでいる。
 当然だろう。年度の始まりでもない、こんな中途半端な時期に転校してくるなど、好奇の目で見てくれと言っているようなものだ。
 ふてぶてしい態度と、しっかりとした体つき。そして左手から見え隠れする包帯の白い影が、彼の素行を何よりも雄弁に物語っている。
 問題児であることは誰の目から見ても明らかだった。
「えーっと、そうだな。それじゃ荒神君の席は……」
 担任の教師が空いている席を探している間、冬摩は視線をゆっくりと教室に這わせる。廊下側から真ん中、窓際の後ろを経て最後に朋華の元へ。
(え……)
 そして冬摩の顔に少し驚きが浮かんだと思った次の瞬間――僅かに笑った。
 口の端をほんの少しつり上げただけの微笑だったが、確かに朋華と目があった時に笑った。
(あ……この感覚……)
 今朝、登校時に感じた視線。まるで獲物を狙っている凶鳥のように強く鋭い意思。それが今再び、朋華の体を見えない縛鎖となって捕らえる。
「よーし、じゃ。真ん中の一番後ろが開いてるな。あそこに座ってくれ」
「へーい」
 冬摩はダルそうに声を上げ、言われた通りの席に向かった。その顔はどこか満足そうにすら見える。捜し物を、ようやく発見した時のように。

「あ、あの、鷹宮君。はい、コレ。どうも有り難う」
 昼休み。朋華は自分と同じ窓際の席の、一番後ろにいる鷹宮秀斗たかみやひでとに借りていたMDを渡した。
「え? ああ。どうだった? 結構よかったでしょ、この曲」
「うんっ。ボーカルの声が最高っ」
 いつになく、はしゃいだ声を上げる朋華。それもそのはず。鷹宮秀斗は朋華の意中の人だからだ。
 短く切りそろえた黒髪。人の良さそうな穏やかな顔立ち。利発さを際だたせる黒縁の眼鏡。柔らかい物腰と、温和な性格はすべてを包み込んでくれるような慈愛を内包している。
 朋華だけではなく、秀斗に想いを寄せる女子生徒は少なくなかった。
「あの、ね――」
 『お昼、一緒に食べない?』
 高校一年の時から朋華が何度も言うとした言葉。しかし、いつも喉までは来るのに口から発せられることはない。
(言わないと。ちゃんと言葉に出して言わないと伝わる分けないのに……)
 奥手な自分を精一杯勇気づけ、朋華が言おうと決意した時、背中に視線を感じた。
 恐る恐る振り向く。そこでは先程の転校生、荒神冬摩が目だけを自分の方に向け、購買で買ったサンドイッチを口に運んでいた。朋華に気付かれたのを知ると、ゆっくり視線を別な方向に逸らす。
(やっぱり。あの人だ)
 今朝のように刺すような不快感はなかったが、獰猛そうな野性味が感じられた。朋華は二週間前から自分を見張っていた人物が冬摩であると確信する。
(直接聞いた方がいいのかな。でも恐いし。乱暴されたらどうしよう……)
 犯人が分かっても、それを何とかする手段が今のところ朋華には無い。
「仁科さん?」
 何かに怯える朋華を見て不思議に思ったのだろうか。秀斗の優しい声が朋華の背中に掛かる。
「え? あ、はぃ!」
 ビックリして振り返り、朋華は目を丸くして秀斗の顔を見た。
「どうしたの? 顔色悪いけど」
「ああ……うぅん。何でも、ないの。ちょっと風邪気味で」
 ハハハ、と作り笑いを浮かべながら朋華は言葉を濁す。悩み事がまた一つ増えた。
「それじゃあ、とっとと保健室でも行って来なさいよ。鷹宮君に風邪うつったらどうするの?」
 横手からした高圧的な声。悩み事の一つが朋華に災厄を振りまきに来た。
 胸中で溜息をつき、声のした方に視線を向ける。
「穂坂、さん……」
 切れ長の目を更に細め、棘々しい目つきで穂坂御代ほさかみよは朋華を睨み付けていた。
「何よその顔は。文句でもあるの」
 頭の両端で束ねた艶やかな黒髪を自慢げに見せつけ、御代はさらに悪態を付く。彼女の声に反応し、いつもグループになっている他のメンバーが集まってきた。その数五人。
 十二の目で無言の重圧をかけられ、朋華は尻込みしながら頭を垂れる。
「言いたいことあるんならハッキリ言いなさいよ。ほら。アンタのそーゆートコがイラつくのよ」
 何も言わない朋華に業を煮やしたのか、御代は乱暴な口調を叩き付けた。
 周囲からは同情と侮蔑の視線が注がれるが、声をかける者は誰一人としていない。秀斗も突然自分の周りに出来た人だかりに、ただただ苦笑を浮かべるだけだ。
「……ごめんなさい……」
 ようやく朋華が発した言葉は許しを請うものだった。
 弱者が強者に理由もなく従うように、何に対しての謝罪なのか明確にしないまま、朋華はその言葉を言った。
「『ごめんなさい』? アンタってホント、バカね。気持ち悪い。仁科菌が感染するわ」
 自分の肩を大袈裟な仕草ではらいながら、御代は強く鼻を鳴らしてその場を立ち去る。それを追うように取り巻きの五人も姿を消した。
 朋華の中で張りつめていた何かが急激に弛緩する。
 情けないことは自分でもよく分かっていた。しかし、どうすることも出来ないのだ。言いたいこともろくに言えないまま、これまで朋華は過ごしてきた。ただひたすら我慢して自分の周りから嵐が過ぎ去るのを待ち、空気のような存在として生きていく。
 そして恐らくはこれからもずっとこのままなのだろう。
 よほど大きな、きっかけでもない限りは――

◆『死神』を持つ少女 ―荒神冬摩―◆
「とりあえず『死神』は確認できた。保持者の名前は仁科朋華。そっちでも情報を集めてくれ」
 放課後。人気の無くなった校舎の屋上で、冬摩は携帯電話に向かってぶっきらぼうな口調で話しかけていた。
『ほんで、召鬼の方は?』
 ハスキーな女性の声が返ってくる。
「いや、そっちはまだだ。朝に一瞬だけそれらしい気配を感じたんだが、それからは全然尻尾を出さない。仁科って女と違って完全に力を制御できるみたいだぜ」
 下校して行く生徒を何気なく見下ろしながら冬摩は続けた。
「まー怪しいヤツは居たけどな」
『怪しいヤツ?』
「名前は穂坂御代。さっき言った仁科朋華って女を目の敵にしてる陰険女だよ」
『穂坂御代、ねぇ。よっしゃ。ほしたらとりあえず、この二人をウチの方で調べてみるわ』
「ああ、頼んだぜ」
 通話を切り、二つ折りの携帯を折り畳む。
 龍の髭で縛ってた髪を解き、頭を軽く振った。長い黒髪が風に乗って黄昏の空に舞う。
「ついに来たぜぇ。クソオヤジ……」
 顔を禍々しく歪め、冬摩は一人呟いた。
「待ってろ。すぐにブッ殺しに行ってやるからよー」
 兇悪な笑みを顔に張り付かせ、冬摩は声を押し殺して笑う。そして包帯を巻いてある左腕を制服の上から強く握りしめた。
 冬摩の目的は二つ。一つは古来より伝わる闇の使い魔、十鬼神じゅっきじんの一人である『死神』を保持する少女を無事保護すること。もう一つは彼女の持つ『死神』を狙っている召鬼が誰かを特定し、そいつに冬摩の知りたがっている情報を吐かせることだ。
(とりあえずあの女を囮にして様子を見るか)
 冬摩達、退魔師が古より敵対している鬼。現代では魔人と呼ばれ、自分の体の一部を人間に埋め込むことで忠実な下部を生み出すことが出来る。そうして生まれた存在が召鬼だ。
 召鬼の能力や性格はベースとなった人間に依存するが、獰猛で攻撃的な性質のモノが多く、たとえ平和的なモノであっても主である魔人には絶対服従であるため、退魔師とは常に敵対関係にある。
 今回、冬摩達が目を付けた召鬼は、二週間ほど前に力を外部に漏出させた事から足が着いた。そして冬摩が派遣されたのである。
(俺が退魔師だと勘づきやがったか……今日一日まるで力を感じなかった)
 錆び付いた古い鉄製のフェンスにもたれかかり、冬摩は目的の人物が下校していくのを確認した。
 仁科朋華――覚醒までは至っていないが『死神』を受け継いだ少女。保護して巧く仲間に引き込めば貴重な戦力になる。
(それにしても似てる)
 視界の遙か下で気弱げに歩く朋華の顔を見ながら、冬摩は目を細めた。今朝、朋華の顔を初めて見た時、思わず声を上げそうになった。
未琴みこと……)
 それはかつて冬摩が愛した人の名前。荒野にたった一輪だけ咲く花のように可憐で繊細、そして強靱な意志を兼ね備えた女性だった。
 ――だが、殺された。冬摩の父親に。
(死んだ者は二度と生き返らない)
 自分の中に生まれかけた妙な感情を、冬摩は溜息と共に一蹴する。そして髪を掻き上げ、校門から出ようとする朋華を半眼になって睥睨した。
(未琴の仇を取る。それだけを考えればいい)
 そのためには召鬼から情報を聞き出さなければならない。
「さて、と」
 長い髪の毛を再び龍の髭で縛り付け、冬摩は屋上のフェンスから身を躍らせた。

 冬摩が朝霧高校に転校してから一週間がたった。
 相変わらず召鬼に動きはない。こちらの行動を用心深く観察しているのか、転校初日に僅かに力を漏らしただけで、それ以降は微塵も感じさせない。
(くそっ……!)
 二限目の休み時間。冬摩はイライラしながら頬杖を付き、仁科朋華の方を見た。肩口で切りそろえたストレートヘアーをヘアバンドで少し上げ、意思の弱そうな視線で次の授業の教科書を見ている。
 こっちは相変わらず召鬼に狙って下さいとばかりに『死神』の力の波動を周囲に飛散させていた。
 彼女のことを調べて貰ったが典型的なイジメられっ子という以外、至って平凡な人生を送っている。
「仁科さん、ちょっと邪魔」
 ツインテールに纏めた髪の毛を尻尾のように振りながら、穂坂御代が朋華にきつい言葉を浴びせる。
 この一週間毎日のように見てきた光景だ。
 穂坂御代については興味深い経歴があった。彼女は母子家庭。古いアパートで母親と二人暮らし。貧乏な生活をネタにイジメられた経験がある。今の姿からはとても想像も出来ない。
(やっぱアイツが召鬼じゃねーのか?)
 面倒臭そうな視線を御代に向ける。冬摩が見ている限り、朋華に積極的に関わっているのはあの穂坂御代くらいしか居ない。もし召鬼が『死神』を奪い取るチャンスを伺っているのだとすれば、彼女は限りなく黒に近いことになる。
(一発ぶん殴れば済む話なのによー。ったく、こんな回りくどいことさせやがって)
 二日前、冬摩は実際に電話でそのことを提案した。死なない程度に痛めつけてやれば、召鬼ならば反撃してくるだろう。例えハズレだったとしてもコチラの正体が召鬼にバレている以上、辻斬りを続けていれば何らかの行動を起こすに違いない。
 冬摩にしてみれば、極めて合理的な『作戦』だった。
『アンタ、アホか! 何のために裏金回して転校させた思ってんねん! 一般人に気付かれんよーに、穏便にコト運ぶためやろ! ちょっとは頭使えや!』
 しかし帰ってきた返答は勿論ノー。火が出るような勢いで頭ごなし怒鳴られてしまった。
久里子くりこのヤロー。えっらそうに言いやがって。大体、俺がいつまでも穏便にしてられるわけねーだろ!)
 胸中で悪態を付き、冬摩は御代を睨み付ける。
(いつまでもこんな観察続けてても埒があかねー。よーし……)
 不敵な笑みを浮かべ、冬摩はどこか面白そうに片眉をつり上げた。

 穂坂御代が一人で居る時を見つけるのは簡単だった。
 彼女はいつも一人で下校する。一緒に帰ろうと誘われても、すべて拒絶していた。恐らくは自分のボロい家を取り巻き達に見られたくないからなのだろう。
(イジメられるのか嫌で、イジメる側に回ったってとこか)
 そんなことを何気なく考えながら、冬摩は気配を絶って御代の尾行を続けた。
 大通りから路地裏に入り、人気のない公園の通って近道をする。それが御代の登下校のルートだった。
(召鬼であれば俺の力に何らかの反応を示すはず)
 御代が公園に入ったのを確認して制服の左袖をまくり、包帯を巻いた腕を露出させる。乱暴にタダ巻き付けただけのソレを解くと、無数の裂傷が走った左腕が露わになった。
 そして何の躊躇いも無く、傷の癒えきっていない腕を太い電柱に打ち付けた。
 傷口が開き、紅い鮮血が冬摩の腕を伝う。その時生じた『痛み』に顔を歪めることなく、冬摩は右腕に力を込めた。『痛み』が力へと変換され、右腕に収束していくのが分かる。
(そぉら、喰らえ!)
 右の手の平にさらに力を凝縮させ、冬摩はエネルギー塊を御代の真横にある樹に向かって打ち出した。
 一般人には不可視の力の奔流が荒れ狂い、太い樹の幹に着弾する。轟音を上げながら樹皮が捲り上がり、膨大な熱波が吹き荒れた。そして大樹は殆ど御代の真横に横たわる。
「なっ、何!?」
 巨木が何の前触れも無く倒れ込むという異常な事態に、御代は戸惑いの悲鳴を上げた。そして目を大きく見開いて、根本から無惨に折れた樹を凝視する。
(ハズレ、か……? いや、まだ分からねぇ!)
 さっきと同じ要領で、冬摩は御代の足下にエネルギー塊を打ち込んだ。コンクリートが低い悲鳴を上げ、派手な爆風が御代の体を僅かに持ち上げる。
「え……ちょ――」
 あまりに突然の惨事に御代は吃音のような声を途切れ途切れに紡いだ。そして黒い煙を上げる樹と、目の前の地面に穿たれた穴を、焦点の定まらない目で交互に見比べる。
「いや……」
 御代の体が今更思い出したかのように震え始めた。信じられないといった表情で顔を小さく左右に振り、呆けたように口が開く。
「い、いやああぁぁぁぁぁ!」
(や、やべぇ!)
 狂ったように泣き叫ぶ御代を見て、冬摩は慌てて彼女に駆け寄る。いくら人気がないとはいえ、あれだけの爆音だ。すぐに人が集まってくるだろう。警察が絡んでくると話はややこしくなる。久里子の憤怒の形相が冬摩の脳裏をよぎった。
(さすがに無計画すぎたか。しっかし随分と演技派の召鬼だぜ。まーだ一般人を装ってやがる)
 根拠のない自信で完全に御代を召鬼だと決めつけ、冬摩は右腕に力を込めなおした。
「はあああぁぁぁぁぁ!」
 気合いと共に人間離れした跳躍を見せ、上空から御代に襲いかかる。
 そして鉤状に折り畳んだ指を御代の顔めがけて突きだした。
「……あれ?」
 御代の鼻まであと一ミリと言ったところで冬摩は拳を止める。相変わらず反撃は無い。それどころか気を失っているようだった。
 ココまで来るとさすがに演技とは考えにくい。一歩間違えれば、死への傾斜を転がり落ちることになる。
(コイツ……召鬼じゃない?)
 ようやく冬摩の頭にそんな考えが浮かんだ。
「おーい、こっちだ! こっちで爆発があったぞ!」
 その時だった。遠くの方で大勢の人の声がする。どうやら気付かれたらしい。
「ちっ! 面倒クセーな!」
 舌打ちを一つした後、冬摩は御代を抱きかかえてその場を後にした。

◆召鬼、現る ―仁科朋華―◆
 朋華は溜息混じりに教科書を鞄にしまった。
 今日も辛い一日だった。大分慣れてきたとは言え、毎日のように続く御代からの嫌がらせにはウンザリしていた。彼女の上履きの足跡が付いたノートを悲しげな視線で見ながら朋華はソレを鞄にしまう。
(どうして私がこんな目に……)
 自分は御代に対して何か悪いことでもしたのだろうか。これまで何度も考えてきたが答えが出ることはなかった。ただ疑念と鬱屈だけが際限なく蓄積されていく。
「はぁ……」
 もう一度溜息をつき朋華が顔を上げた時、目の前に一人の男子生徒が居た。
 黒縁眼鏡をいじりながらニコニコと優しげな笑みを浮かべている。
「た、鷹宮君?」
 沈んだ気分があっという間に晴れやかなものへと昇華した。
「仁科さん。よかったら僕と一緒に帰らない?」
 そして発せられる信じられない言葉。残っていた女子生徒達の視線が一瞬にして朋華達の所へと集中する。
「え、あの、その……」
 突然舞い降りた不測の出来事に頭の回転が追いつかない。
(た、たたたた、鷹宮君が私と一緒に? そ、そんなことって……)
 まるで熱病に浮かされたように顔を紅潮させ、朋華は視線を泳がせた。
「迷惑、かな?」
「そ、そそ、そんな! 迷惑なんてとんでもない! か、帰らせていただきます!」
 自分でも驚くほど声を張り上げで訴えかける。こんな大きな声が出せたのかと、妙なところで感心してしまった。
「そぅ。よかった」
 朋華にとっては天使のような秀斗の笑顔。
 最近変な転校生に目を付けられたりとツイてなかったが、ここに来てようやく運気が向上し始めたのだと朋華は思った。
 女子生徒達が羨望の眼差しを向ける中、朋華は高鳴る胸を押さえつけて教室を出た。

 秀斗と一緒に居る時間は本当に楽しいモノだった。
 目に映る物すべてが光り輝いて見え、今の幸せな気持ちを一人でも多くの人に伝えたいと心から願った。昨日見たテレビや好きなタレント等、他愛のない事について楽しく談笑する今が永遠に続いて欲しいと懇願しながら、朋華は精一杯自分をアピールした。
(さ、最初で最後のチャンスかもしれない)
 そう思うと余計に力が入る。少しでも秀斗との仲を近づけたかった。
「この辺りでいいかな」
 人気のない路地裏。秀斗はそこで足を止めた。大通りからかなり離れてしまったのか、車の音がまるで聞こえない。周囲には空き地が多く、人の気配すらしなかった。
「え?」
 秀斗の言葉の意味が理解できず、朋華は顔に疑問符を浮かべてみせる。
 上の空で秀斗について歩いていたため、どこをどう通ってココまで来たのか覚えていない。
「鷹宮君の家ってこの辺りにあるの?」
「まぁね」
 微笑しながら秀斗は頷いた。そして朋華の正面に向き直って秀斗はハッキリと言う。
「仁科さん。僕のこと、好き?」
 まるで高圧の電流を直接流させれたような衝撃が朋華に走った。目の前が一瞬白く染まり、脳髄が麻痺する感覚に襲われる。
「え、え……?」
「僕は仁科さんの事、好きだよ」
 『好きだよ』――そのフレーズが山彦のように朋華の頭の中で何度も何度も響き渡った。耳朶を溶かすような甘い響き。夢にまで見たシーンが今現実のモノになっている。
「ほ、本当に?」
 早い間隔でまばたきしながら、朋華は上擦った声で返した。
 秀斗の目を見る。意志の強そうな眼差しが朋華の目を射抜いた。
(鷹宮君、本気だ……)
 元々、朋華の知っている鷹宮秀斗はこんな事を冗談なんかで言う人間ではない。それは分かっているのだが、あまりに唐突な展開に頭も体もついていけないのだ。
「仁科さん、ゴメンネ。時間がないんだ」
 真剣な表情になり、秀斗は朋華を抱き寄せる。そして唇を寄せてきた。
(え……ええ!? う、嘘!)
 ――おかしい。いくら何でもおかしすぎる。
 ついさっきまで、ただの友達だった。いや、単なるクラスメートの一人に過ぎなかったのかもしれない。それがいきなり告白され、今まさにキスされようとしている。
 だが秀斗は朋華の体をしっかりと捕らえ離そうとはしない。それどころか身動き一つ出来ない。まるで何かの魔力で拘束されてしまったかのように、指一本動かせなくなってしまっていた。
「た、鷹宮、君……」
 辛うじて動く唇で精一杯の抵抗を試みる。
 だが秀斗の顔は着実に近づき、互いの息が掛かる距離まで接近していた。そして――
(あ……)
 唇に伝わる柔らかい感触。続けて口腔内に生暖かい軟体生物が侵入してくる。それが秀斗の舌だと理解するまで数秒を要した。
 朋華の舌を、歯茎を、そして喉を。信じられないくらいに伸びた秀斗の舌が朋華の口内を蹂躙していく。
 先程までの甘くトロけそうな心境は完全に霧散し、代わって言いようのない汚物感が朋華を支配していった。まるで巨大な蛭が口の中で暴れ回っているような感覚。体中の神経が目の前の存在――鷹宮秀斗を拒絶していた。
 自分と秀斗の唾液が絡み合い、むせ返るほど溢れてくる。呼吸を続けるためには異常な量の唾液を嚥下するしかなかった。
「ク、ククク」
 秀斗はようやく朋華を解放し、喉を震わせて低く笑う。未だかつて見たことのない表情。口は三日月の形に歪み、狂気的な光を双眸に宿して朋華を見下ろしていた。
(この、目……)
 二週間ほど前から感じていた背筋を凍らせる視線。邪悪な息吹を撒き散らし、朋華の心を黒く染める。
(そん、な……鷹宮、君……?)
 いったい何が起こっているのか。自分の身を冒している事象を理解出来ない。脳がソレを根本から拒絶している。
 つい数分前まで当たり前だった日常が、足下から音を立てて崩れていった。意識が朦朧とし、思考が茫漠とした物に変わる。何も考えられない。何も知りたくない。
 自分の想い人が醜悪な笑みを浮かべた映像を最後に、朋華の意識は奈落へと転落していった。

◆『死神』覚醒 ―荒神冬摩―◆
 人気のない工事現場。もう今日の作業は終了したのだろう。無人の重機に見下ろされながら冬摩は堆く積まれた土砂の影に身を隠し、御代を降ろした。
「おい、起きろよ」
 軽く頬を叩き、冬摩は気を失った御代の意識を揺さぶる。
 三度同じ事を繰り返した後でピクリとも動かない御代に業を煮やしてか、冬摩は近くに生えていた雑草を御代の鼻に突っ込んだ。
「ックシュ!」
 異物を除去するための体の防衛本能のおかげで御代はようやく目を覚ます。ゆっくりと瞼が持ち上がり、奥の瞳が僅かに見えたと思った次の瞬間、目が急に大きく開かれた。そして上半身だけを速い動作で起こす。
「キャ……!」
 大声で叫びぼうとする御代の口を冬摩は強引に塞いだ。
「いいから静かにしろ。俺だ。転校生の荒神冬摩だ」
 御代の視線が冬摩の顔を伝って下に向かい制服を確認する。そして安堵したように溜息をついた。叫ばなくなった事を確認して冬摩は御代の口からの手を離す。
(クソッ! こりゃあ完全に召鬼じゃねーな。しくったか、早くあの仁科朋華って女を見張らないと)
 今取ったリアクションで冬摩は御代が白だと確信した。これだけの至近距離だ。召鬼なら寝たふりをして冬摩を攻撃して来るはず。このチャンスを活かさなかったのではなく、活かせなかったと考える方が自然だ。
 立ち上がり、御代を置いて行こうとした時、冬摩の制服のズボンを御代が掴んだ。
「なんだよ」
 顔面を蒼白にし、ガタガタと震えている御代に冬摩はぶっきらぼうに声を掛ける。
「わ、私……殺されるんだわ。だって、さっきテロにあったもの!」
 冬摩を見上げ、半ば錯乱状態に陥りながら御代は必死に何かを訴えかけてきた。
「心配すんなよ。いいから黙ってこのまま家に帰れ。で、寝ろ。明日になったら綺麗サッパリ忘れてるさ」
 自分のやった事に対してまるで責任を感じた様子もなく、冬摩は御代に掴まれたズボンを引っ張って手をどけさせる。するとそれに反応したように、今度は両手で冬摩の脚を掴んできた。
「ねぇ! 荒神君! さっきあなたが助けてくれたんでしょ!? お願い! 一緒に家までついて来て!」
 両目に涙すら浮かべながら、御代は冬摩にすがる。
(あーもー、メンドくせー! 仁科朋華といい、コイツといい、なんで女って生き物はこうもウジウジウジウジウジウジしてんだよ!)
 胸中で身勝手な悪態をつき、冬摩が御代の手を強引に引き剥がそうとしたその時、頭上に明確な殺意を感じた。
「危ねぇ!」
 殆ど反射的に御代を抱え込み、冬摩はその場を跳躍して離れる。
 一瞬後、さっきまで冬摩のいた位置が大きく抉れ、クレーター状になっていた。粉塵が舞う中、冬摩は少し離れて着地する。
「ちっ!」
 砂煙の向こうから黒い影が高速でこちらに向かって飛来して来るのが分かった。右手は御代を抱え込んでいるためすぐには動かない。仕方なく冬摩は左手一本で突然現れた敵の攻撃を受け止める。
「ぐ、あぁ……」
 関節が軋む。筋肉が断裂し、ブチブチと悲鳴を上げるのが伝わってきた。そして『痛み』が冬摩の体を駆けめぐる。
「オラァ!」
 御代をその場に落とし、冬摩は『痛み』から変換された力を右腕に乗せて目の前の人物に叩き付けた。しかしその攻撃は虚しく空を切る。
 ソイツはクレーン車の上に舞うように降り立ち、悠然とコチラを見下ろしていた。
 袖口に無意味なほどのゆとりを持たせた白い上着と赤い袴。巫女装束に身を包んだ女性は、焦点の定まらない目で冬摩を睥睨する。長い黒髪を煌びやかなかんざしでまとめ上げ、扇子で口元を隠す様子は気品に満ちた神々しさ感じさせた。
「この感じは……あいつが『死神』か……」
 朋華の体で眠っていた十鬼神『死神』。術者によって召喚され、自律的な行動が可能となった具現体が今、冬摩の目の前で敵意もあらわに屹立している。
(あの女が覚醒した? ……訳ないよな)
「クソッタレ!」
 悔しそうに奥歯をきつく噛み締め、冬摩は拳を地面に叩き付けた。
(召鬼のヤローにやられた! 仁科朋華に接触しやがったんだ!)
 そして恐らくは体を乗っ取られた。召鬼は仁科朋華の体を操って『死神』を無理矢理具現化させ、冬摩に刺客として送り込んできた。召鬼は自分の力が冬摩に及ばないと判断したのだろう。だから冬摩が朋華から離れるのを息を潜めてじっと待った。そして今日、絶好の機会が訪れた。
(どうする、どうすればいい……!)
 様々な思考が冬摩の頭を駆けめぐる。だが、その中から最良の選択肢を選び出せるほど冬摩の神経は繊細に出来ていない。
「あーもー、メンドくせー!」
 自分の邪魔をする奴はブッ殺す。そして召鬼から情報を聞き出す。
 結局いつも行き着くところは単純で短絡的な思考だった。
 冬摩の叫び声をきっかけに『死神』が”飛んだ”。跳んだのではない。羽でも生えたかのように飛翔して冬摩の頭上まで来ると、そこから一気に急降下してくる。
「おおおおおおおお!」
 気合いと共に冬摩は左腕を盾のように突き出し、右腕でソレを固定した。
 冬摩の視界の中で急速に大きさを増していく『死神』が、広げた扇子にそっと息を吹きかけるのが見えた。次の瞬間、扇子から剥がれ落ちるようにして、ソレと全く同じ形をした真空刃が冬摩に降り注ぐ。
「何!?」
 最初の一発のように力任せに攻撃してくることを予測していた冬摩は、完全に不意をつかれ狼狽の声を上げた。そして慌てて顔を両腕で庇う。皮を割いて肉を断ち、真空刃は冬摩の全身をくまなく切り裂いた。
「イッテーな、っのアマァ!」
 自分の血を周囲にまき散らせ、満身創痍になりながらも冬摩はむしろ喜々として右腕を『死神』に突き出す。微かな手応え。小指が『死神』の右肩を僅かに掠めていった。
 肩で息をしながら冬摩は、右へと回避した『死神』を見る。右肩から黒い蒸気の様な物を立ち上らせ、ソレを流出させまいと左手で押さえつけていた。
「へ……ヘヘ……。ざまぁみやがれ」
 全身が『痛い』。『痛み』が体中から吹き出してくる。そしてソレが冬摩の右腕へとさらなる力を与える。
「死ねぇ!」
 咆吼を上げ、冬摩は大地を蹴った。たった一歩で十メートル近くあった間合いがゼロにまで圧縮される。右手を鉤状に曲げて横につきだし、スピードに乗せて下からすくい上げるように『死神』に叩き込んだ。
 ソレを『死神』はバックステップで辛うじてかわす。だが最初ほどのスピードはもう無い。これならば今の冬摩でも充分追いつくことが出来る。
「っはぁ!」
 哄笑を上げ、冬摩は巨大な顎のように両腕を開いて『死神』に肉薄した。左腕の下顎で『死神』の胸ぐらを掴み上げ、右腕の上顎が頭部を噛み砕かんばかりに振り下ろされる。
 しかし、致命傷を与えうる攻撃はまたもや空を切った。
「ッヤッロー! チョコマカと!」
 イライラしながら冬摩は『死神』の力を追って辺りを見回す。だが、それらしい気配はどこには感じることが出来なかった。
「馬鹿な……」
 逃げた? だがどうやって。いや違う。今のはそういう感じではなかった。かき消えたのだ。蝋燭の炎が風に吹かれて姿を消すように、『死神』の気配もろとも消え去ってしまった。
「ちっ」
 敵が居なくなってしまっては興醒めだ。さっきまで熱く脈打っていた血潮が急激に引いていくのが分かる。自分の失態といい中途半端の戦闘といい、苛立ちだけが積もっていった。
「何なんだよ! クソが!」
 叫びながら力任せに右拳を地面へと打ち付ける。冬摩を中心として膨大な土砂が空へと舞い上がり、僅かな間をおいて黒い雨のように降り注いだ。それに触発されるようにして遠くの方で誰かのか細い笑い声が聞こえる。
 声の主は御代だった。冬摩は舌打ちと共に嘆息し、呆けた表情で座り込んでいる御代の方を見る。彼女は全身をだらりと弛緩させ、あさっての方向を見ながら乾いた浮かべていた。
(ったく、しょうがねぇな。まぁ俺にも責任はあるわけだし)
 完全に冬摩の責任なのだが、相変わらずの横柄な態度で彼女の前に戻った。
「あ……あはは。ね、ねぇ、荒神君……どうしてあなたが私の夢の中にいるの……?」
 冬摩の方には顔を向けることなく、抑揚のない口調で現実逃避の発言をする。
 『死神』は見えていないはずだ。力のない者には見えない仕組みになっている。だが、冬摩の戦いぶりは見えただろう。常軌を逸した非人間的な動き。獰猛な野獣と見まごうスピードとパワー。受け入れられないのも無理はない。
(とりあえず後で久里子の奴に電話すっかな……)
 烈火の如く怒声を浴びせる久里子の姿が目に浮かんだ。
「おい! お前! 今ココで何があった!?」
 これからの予定を思案していると、何人かの男の声が遠くから聞こえて来た。土で汚れた作業着を着ているところからすると、まだ近くに残っていた工事現場の人間が戻って来たようだ。
(おいおい、またかよ……)
 自分の格好を見る。制服は見るも無惨なほどボロボロになり、出血はすでに止まっているものの服にこびりついた赤黒い染みが重傷さを演出していた。一方、御代はアッチの世界に行ったまま帰ってこない。
 捕まれば事態がややこしくなることは目に見えていた。
「しょうがねぇな!」
 冬摩は御代を背負うと、全力でその場を後にした。

 夕焼けで茜色に染まった世界を冬摩は溜息をつきながら歩いていた。背中では御代がグッタリとして冬摩の背中に体重を預けている。何とかまともに喋れるようにはなったが、腰が抜けて一人では歩けなかった。
「ゴメンネ、迷惑かけて」
 川を土手沿いに歩きながら、冬摩は背中からした声に顔を後ろに向けた。
「お前、アレ見て俺が恐くねぇのか」
 意外そうに目を細めて聞き返す。
「恐いよ。あんな……お化けみたいで、人間離れしてて……。頭の中グチャグチャ……」
 いつも高飛車な御代からは想像できないほどしおらしい声。冬摩の背中を当てた手が微かに震えている。
「でも、逃げる気力なんて残ってないし……それに、助けてくれたし……」
 別に助ける気など微塵もなかった。結果として、そうなっただけのことだ。しかしその勘違いのおかげで暴れないのなら、そういうことにしておくかと冬摩は思った。
「荒神君って、ひょっとして宇宙人なの?」
 思わず吹き出しそうになる。
「当たらずも遠からずってとこだ」
 曖昧な答えを返しながら御代を背負いなおした。
「あんなに酷かった傷……もう治ってる。どうして?」
「宇宙人だからな」
 遠くの方から電車が鉄橋を走る音が聞こえてくる。川に近い広場で子供達が野球に夢中になっているのが見えた。
「……恐いよ。気が変になりそう」
 震えた声で言い、鼻をすすらせる。どうやら泣いているようだ。緊張の糸が切れて、自分の境遇を哀れむだけの余裕が出てきたのだろう。
(ったく、泣きたいのはコッチだぜ。『死神』は完全に召鬼の手中だな)
 これで二つあった冬摩の目的の一つが達成不可能になった。
(まぁいいや。やっちまったモンはしょーがねぇ。とりあえず『死神』の実力は今日、確認できた。あれなら召鬼と一緒でも多分何とかなるな)
 仁科朋華には悪いが見捨てさせて貰う、と決める。場合によっては殺すことになるかもしれない。久里子は怒るだろうが聞き流しておけばいいだけのことだ。それならば慣れている。元々『死神』は冬摩にとってメインの目的ではないのだ。
「なぁお前、何で仁科朋華を虐めてたんだよ」
 これから延々と弱音を吐かれても辟易するだけなので、とりあえず身近な話題を振ってみる。それに御代が朋華を虐めていたせいで冬摩が召鬼だと勘違いし、今回の事件に巻き込まれたのだ。あながち関係の無い話しでもない。
「だって、あの子見てるとイライラするんだもん」
「昔の自分にソックリだからか?」
 背中越しに驚愕の気配が伝わってきた。
「どうして……知ってるの?」
「宇宙人だからな」
 こう言えば今の御代はそれ以上は突っ込んでこないだろう。なかなか便利な言葉だと冬摩は思う。
「あんま、くだらねー事してんなよ。そいつのせいで俺は――」
 無駄な労力を使ってしまった。敵に塩を送るというオマケ付きで。
「『俺は』?」
「こんな目にあってんじゃねーか」
 『死神』との戦いでほどけた長い髪の毛が川からの風に煽られてバラバラと舞う。固まった血液の残滓が埃のように飛散した。
「それってどういう……。私が仁科さんをイジメるのと、荒神君が怪我するのって関係あるの?」
 『死神』や十鬼神の話をしても通じないだろうし、話すつもりもない。一般人には出来るだけ情報を漏らさないのが退魔師の間での暗黙の了解だが、冬摩の場合は単に面倒臭いだけだ。
「あ、そっか……」
 何か閃いたように、御代が声を上げる。
「きっとバチが当たったんだ。でも荒神君が助けてくれた。そのために転校してきたの? 宇宙から」
「……その通りだ」
 勝手に自己完結してくれれば、それに越したことはない。面倒事が一つ片付いた気がした。
「何てね、冗談よ。そんな訳ないじゃない」
 つくづく人をバカにした女だと思う。
「でも冗談の通じる人で良かったわ。ほんの少しだけ恐くなくなった」
 それはなによりだ、と胸中で独りごちた。
「ところで、どうして私の家の方向知ってるの?」
「……宇宙人だからな」
「もう面白くないわよ」
 それほど便利な言葉でもないようだった。

(どうなってやがる……)
 朝礼が終わり、一限目の授業。壊れた携帯を机の下で弄びながら冬摩は窓際に座っている朋華に視線を向けた。目を半分ほど開け、寝ぼけたような表情で黙々とノートを取っている。
 朋華が生きていることに関しては予想の範囲内だった。十鬼神を宿す者を殺せば、その力は自動的に殺した者に移行される。召鬼が手っ取り早く『死神』を手に入れたければ朋華を殺せばいいだけの話だ。しかしソレをしないということは召鬼に『死神』を受け入れる適性が無いということ。だから朋華の体を支配して間接的に『死神』を操るのだろうと予想していた。しかし――
(召鬼の気配じゃねぇ。仁科朋華はまだ支配されていない)
 朋華から感じるのは人としての気配。魔人や召鬼の匂いはしない。
(訳分かんねぇな)
 こんな時、久里子と連絡が取れれば彼女の能力『千里眼』で、もう少し確かな情報が手にはいるのだろうが昨日の『死神』との戦いで唯一の連絡手段である携帯電話を壊されてしまった。
(まぁ、説教させずにはすんだわけだが)
 内心苦笑しながら、冬摩は原形をとどめないまでになった携帯を机にしまい込んだ。
(本人に聞くのが手っ取り早いんだが、あの女が素直に質問に答えてくれるかどうか……)
 昨日の放課後、朋華の身に何かがあったことは間違いない。冬摩が朋華から離れる絶好のチャンスを召鬼は今まで待ち続けていたのだ。そして昨日、朋華に近づき『何か』をした。
(あんまりチンタラしてらんねーな。力ずくででも吐かせるか)
 右手に力を込め、物騒なことを考えながら冬摩は口の端をつり上げる。
「じゃあ、次。仁科。ここのパラグラフを訳してみろ」
 英語の教師が朋華を指名する。しかし朋華は応じない。相変わらず虚ろな顔のままノートに目を落としている。
「おい、仁科。聞こえなかったのか?」
 催促の声。しかし朋華は反応しない。後ろの生徒が朋華の背中をつついて合図を送るが無反応のままだ。
「コラ、にし――」
 教師が大きな声を上げようとしたその時、朋華の体が大きくぐらついた。そのままバランスを崩し、重力に引かれて崩れ落ちていく。派手な音がして朋華は床に倒れ込んだ。
 教室内が一瞬で騒然となる。近くにいた女子生徒が朋華の元に駆け寄り、抱き起こした。
「先生! 凄い熱です!」
 荒い呼吸を繰り返す朋華の額に手を当てながら女子生徒は叫ぶ。
 結局、彼女に付き添われて朋華は保健室に行くこととなった。
(力のオーバーロードか。『死神』が覚醒しつつあるな)
 ざわめきの収まらない室内で冬摩だけが冷めた視線を朋華の背中に向けていた。二人の女子生徒に両脇から支えられ、朋華は教室を後にする。完全に気を失っているようだった。
 恐らくは召鬼のもたらした急激な覚醒に体がついて行けないのだ。
(覚醒してくれれば話は早い。けど――)
 朋華が『死神』の力を使いこなせるようになってくれれば『死神』の記憶は朋華の物になる。そうなれば話しは早い。自然と共通の目的に目覚めるからだ。仲間に引きずり込むのも楽だろう。しかし召鬼がそれを放って置くとも思えない。何らかの対処を取るはず。
(後手に回るとロクな事がない。強引にでも昨日接触した人物を聞き出す)
 朋華を囮として泳がせる作戦はすでに一度失敗している。同じ事をすれば同じように裏をかかれるだけだ。
(だいたい姑息な作戦は性に合わねーんだよなー)
 指の関節を小気味良く鳴らし、冬摩は「腹が痛い」と言って教室を出た。

 校舎の一階にある保健室。二階へと上る階段の影に身を隠して出入り口を観察し、冬摩は朋華に付き添った二人が出てくるのを待った。数分後、扉が音を立てて横にスライドする。
「でもビックリしたよねー」
「アレなんじゃないの。恋熱ってヤツ?」
 出てきた女子生徒達は他愛もない会話をしながら、冬摩とは逆の方向に向かって歩いて行った。完全に姿が消えたのを確認し、冬摩は保健室の扉を開く。
 鼻孔をつく消毒液の匂い。体が拒絶反応を示すかのように全身が鳥肌立つ。
 白を基調にした清涼感溢れる室内に白衣を纏った女性が座っていた。
「どうしたの? 貴方もどこか具合悪いの?」
 保健医の先生なのだろう。眼鏡を下にずらしてコチラを見ながら、面倒臭そうな声で冬摩に話しかけた。
「さっき運ばれてきた女と話がしたい」
 ズカズカと無遠慮に室内に入り、辺りを見回す。スチールフレームに白い布を被せた仕切りが二つ。仕切りの向こう側にはベッドが見える。そして奥のベッドに敷かれたシーツが僅かに盛り上がっていた。
(あそこか)
 朋華の位置が分かると無言でそちらに足を向ける。
「ちょ、ちょっと待ちなさい。あなた仁科さんと同じクラスのなの?」
 女医の声を気にもとめず、冬摩は奥のベッドの前に立った。
 顔を紅潮させ、喘ぐような呼吸を繰り返しながら仁科朋華は眠っている。気絶していると言った方が適切かもしれない。
「おい、起きろ」
 乱暴な口調で言い、冬摩は軽く朋華の頬を叩いた。眉間に皺を寄せ朋華は苦しそうに小さく呻く。だが起きる気配は無い。
「ちょ……! 貴方! 何てコトするの! どこのクラス!?」
 後ろでヒステリックな声がするが関係ない。女医の手が冬摩の肩に置かれ、朋華から引き剥がそうと後ろに引かれるがビクともしない。まったく意にも介さず、冬摩は朋華の体を揺さぶり、叩き、耳元で叫んで覚醒を促した。
「おい、やめとけよ」
 突然、背中に男の声が掛かかる。そして女医とは比べ物にならない力で冬摩を引っ張った。うるさそうに冬摩は肘を突き出すが、残念ながら空振りに終わる。
「あぁん?」
 朋華が起きない事に苛立ち、自分の攻撃がかわされた事に腹を立てて、冬摩は後ろの男を睨み付けた。
「さすがに素行が悪いな。前の学校もこうやって退学させられたのか?」
 眉に少しかかる程度で切り揃えられた黒髪。太く黒い縁の眼鏡。目鼻の輪郭がハッキリ整った顔立ち。いかにも優等生といった外見の男は、意志の強そうな目でコチラを睨んでいた。
 どこがで見たことがある。
「鷹宮君!」
 予期せず現れた救世主に女医は高い声を上げる。
「鷹宮?」
 目を細め、冬摩は自分の邪魔をしに来た男を鬱陶しそうに見た。
「同じクラスメートの顔も覚えていないのか?」
「どーでもいい物は目に入っても記憶に残らないんだ。覚えとけよ雑草君」
 身長は冬摩の方が僅かに高い。冬摩は秀斗を見下ろしながら挑発的な視線を向ける。
「仁科さんは今、病気なんだ。見て分からないのか?」
 怯むこと無く秀斗は強い口調で言い捨てた。
「俺にも事情ってモンがあってね」
 まったく取り合わずに冬摩は朋華の方に向き直る。
「ヤメロって言ってるだろ。仁科さんを起こして何をしたいんだ」
 秀斗は朋華を庇うようにして冬摩の前に回り込み、絶対に行かせないという意思を見せつけるかのように両腕を真横に伸ばした。
「怪我したくなかったら、どきな。こんな所でカッコつけても損するだけだぜ」
 殺気を孕ませた低い声で冬摩は凄む。その気迫に圧されたのか、秀斗は僅かに顔をしかめて唾を飲み込んだ。
「なぁ、ソレは仁科さんじゃないと出来ないことなのか? 僕じゃ力になれないのか?」
 さっきまでの気丈さは薄れ、秀斗は服従の意すら感じさせる提言をする。
(くだらねぇ。こんなもんか……)
 冬摩はつまらなそうに秀斗から視線を外し、後ろの朋華に向けた。荒い呼吸を繰り返し、悪夢の中を彷徨っているのか額に汗を浮かべて寝返りを打っている。
(クソッ! 起きるまで待つしかねぇのか)
 胸中で舌打ちし、冬摩は溜息をついた。恐らく『死神』の力に体が慣れるまで朋華は目を覚まさないだろう。本来ならば何年もかけて徐々に体を慣らしていくのに、召鬼によって強制的に力を解放させられた。体に生じた負担は計り知れない。この先、一生目覚めない可能性すら考えられる。
(ダメもとでコイツに聞いてみるか)
 仮に目を覚ましたところで、この容態では覚えているかどうかも怪しい。それ以前に冬摩に対して素直に話してくれるかどうかも分からないのだ。
「おい。この女が昨日の放課後、クラスの中の誰と会っていたか知ってるか?」
 唐突な冬摩の質問に秀斗は目を丸くした。質問の意味が飲み込めなかったのか、数秒ほど無言でまばたきを繰り返した後、何か思い出したように小さく声を上げた。
「仁科さんなら一人で帰ったよ。学校を出た後、誰と会ったかは知らないけど」
「そうか……」
 秀斗の言葉で急にやる気が削がれる。ソレが本当だとすれば冬摩の大嫌いな退屈で面倒臭い作業をしなければならない。
(クラスの奴ら一人一人に聞いて回るのがてっとり早い、か……)
 急がば回れ。そんなことを考えながら冬摩は肩を落として保健室を後にした。

 保健室から少し歩いた場所で知った顔にあった。艶のある長い黒髪をツインテールにし、ソレを左右に振りながら冬摩の方に歩いてくる。
 穂坂御代。昨日、冬摩が召鬼と勘違いして厄介事に巻き込んだ女だ。
「なんだよ。お前もここに何か用なのか?」
 軽く首を横に振り、御代はどこか嬉しそうに微笑む。
「用があるのは貴方に、よ。荒神君」
「俺に?」
 教室に戻る廊下を歩きながら冬摩は意外そうに返した。昨日あれだけ恐い思いをしたというのにまだ懲りていないらしい。思ったよりも図太い神経の持ち主だ。
「こんな早く恩返しが出来るとは思わなかったわ」
 冬摩に続いて階段を上り、御代は後ろから話しかける。
「恩返しだぁ? 何だよそれ」
「昨日、仁科さんが誰と一緒に帰ったか、知りたいんでしょ?」
 御代の言葉に冬摩の足が止まる。どうやら保健室での話を立ち聞きしていたらしい。何故、授業中にそんな場所にいたかは知らないが、冬摩にとってはどうでも良かった。
「知ってるのか!?」
 体が一気にやる気を取り戻す。一緒に帰った人物が一人だとすれば、ほぼ間違いなくそいつが召鬼だ。
「知ってるも何も。もう、かなりの噂よ。仁科さんが鷹宮君と一緒に帰って、キスまでしたって」
 冬摩の体に冷たい物が走った。
 鷹宮秀斗。さっきまで保健室に一緒にいた。
(アイツが、召鬼……)
 秀斗が保健室に来たのは朋華を心配してではない。朋華に近づいた冬摩を見て焦り、様子を見に来たのだ。
「私の友達が鷹宮君のこと大好きでね。邪魔してやろうと思って仁科さん達の後つけてたらしいの。そしたらなんと、鷹宮君の方からキスを迫ったんだって。分からないモンよねー」
「クソ!」
 階段を駆け下り、今来た廊下を全速力で引き返して行く。
 召鬼は昨日、朋華を何らかの方法で支配し、『死神』を冬摩に送り込ませた。しかし思ったより『死神』の力が強く、支配が解けてしまったのだ。
(昨日、『死神』が途中で消えたのはそのせいか!)
 かと言って強い力を使い、無茶をすれば冬摩に気付かれる恐れがある。召鬼は時間を掛けて朋華を支配しようとした。だが予想以上に朋華との噂が流布されているのを知り、冬摩にバレるのも時間の問題と見て予定を変更したのだ。
(感じる! 『死神』の気配の隣にもう一つの力! 間違いなく召鬼だ!)
 一階の廊下を疾駆する。耳元で風がうねりを上げ、周りの景色が急速に後ろへと流れていった。冬摩の視界の中で劇的に大きさを増していく保健室の扉。ようやく、その前までたどり着いた冬摩は荒々しく扉を開けた。
 最初に目に飛び込んできたのは血の海に沈んだ保健医。腹部から臓器をのぞかせ、ガラス玉のように虚ろな視線を天井に向けている。死んでいることは誰の目に見ても明らかだった。
「召鬼!」
 朋華が眠っていた場所に顔を向ける。
 そこには忌々しそうにコチラを見据える秀斗の姿があった。ベッドの上に朋華の体を抱き起こし、その唇を吸っている。秀斗が顔を上げた拍子に、朋華との唇に銀色の橋が架かった。
「もう少し……時間が有れば……」
 朋華の体を横に置き、秀斗は口の周りの『唾液』を拭う。
「なるほど、ソレがテメーの『力の発生点』って訳か」
 魔人や召鬼、そして十鬼神を始めとする強力な使い魔の保持者には力の発生点と作用点が存在する。冬摩の場合、発生点は『痛み』、そして作用点は『右腕』だ。体に感じる痛みが強ければ強いほど右腕が行使できる力が強くなる。
「『唾液』を介さないと力を出せないのか。どおりでチンタラしてるわけだぜ」
 もし『視線』や『声』が発生点なのであれば、朋華の支配も早かっただろう。日常生活を送りながら少しずつ進めていけばいいからだ。しかし『唾液』となるとそうはいかない。かなり特殊な状況を作り出す必要がある。
「観念するんだな。お前が召鬼だと分かった以上、俺はどんなことがあっても絶対にお前を逃がさない」
 自信に満ち満ちた言葉。召鬼の回りくどい行動から考えても、冬摩の方が実力的に上回っていることは明らかだ。
「紅月の夜、ちょっと気を緩めただけでこんな目に遭うとはな。最初にお前を見たときは焦ったよ」
「そういう文句は久里子の奴に言ってくれ」
 紅月――能力者にしか見えない紅い月。二ヶ月に一度の周期で紅く染まる満月は、魔人や召鬼に多大な影響を及ぼす。精神昂揚と殺戮衝動。理性という檻を本能が内側から壊し、血と肉を異常に欲するようになる。
 そして自分を抑えきれなくなった召鬼の力を、久里子の能力『千里眼』で見つけだした。
「俺はもっと力を付ける。こんなところで死んでたまるか!」
 叫んで召鬼は保健室のドアを突き破り、廊下に跳び出る。
「逃がさねえっつってんだろーが!」
 最初から敗走を始めた召鬼を冬摩は喜々としながら追った。前回『死神』と戦った時、不完全燃焼のまま燻っていた闘争本能が再燃し始める。
(死なない程度に痛めつけてやる。簡単に弱音吐くんじゃねーぞ)
 悪魔的な笑みを浮かべ、冬摩は召鬼の力を追った。
(上か!)
 異常なまでの跳躍を見せ、冬摩は廊下を覆っている屋根に飛び乗る。下から御代の声が聞こえるが気になどしていられない。どうせ召鬼とのカタが付けば、この学園を離れることになる。今までみたいに周囲に気を使う必要はない。事後処理は久里子の担当だ。
 二階から三階へ。召鬼を追って冬摩は屋根伝いに移動していく。そして別棟の屋上に上がったところで召鬼の背中を捕らえた。
「おらぁ!」
 渾身の力を込めた右腕を前に突き出す。その攻撃を読んでいたのか、召鬼の体が下に沈んだ。そして勢いのついた冬摩の脚が払われバランスを奪い取られる。しかし冬摩は焦ることなくコンクリートに一度両手をつき、そこを支点に体を縦に半回転させた。回転し終わったところで左手を強く突き離し、今度は体を横に半回転させて目線を下に向ける。
 スピードを殺すことなく体勢を建て直した冬摩は、給水塔の土台を蹴って再び召鬼へと迫った。
「もらった!」
 召鬼の方は未だに立ち上がれていない。殆ど不意打ちに近い冬摩の攻撃を避けられるはずもなく、召鬼の左の脇腹から鮮血が上がった。
「がぁ!」
 短い悲鳴を上げつつ、それでも召鬼は高く跳躍する。紅い雨が冬摩に降り注いだ。そしてソレが肌に触れた瞬間、膨大な熱量を帯びて冬摩の体を浸食し始める。まるで強酸でも浴びせられたように皮膚が黒く焦げていった。
「コイツは……!」
 読み間違えた。召鬼の力の発生点は『唾液』ではない、『体液』だ。
 だが――
「しゃらくせぇ!」
 左手を掲げて頭上を覆う。召鬼の血の雨を一身に受けた左腕から『痛み』が伝わってきた。そして右手に力を込め、エネルギー塊を給水塔へと打ち出す。
 低く鈍い破砕音に続いて、莫大な量の水が冬摩に降り注いだ。それが体に付着してた血液を洗い流していく。
「どうした! これでお得意の攻撃も効果薄だな!」
 『唾液』にしろ『体液』にしろ液体であることに変わりはない。これだけの量の水の前では一瞬で薄まってしまうだろう。
 半壊した給水塔の上で片膝を付き、苦悶の表情を浮かべながら左の脇腹を押さえている召鬼に向かって冬摩も跳ぶ。
「何!?」
 その時、右から飛来した真空刃が冬摩の頬を掠めて通り過ぎた。
「ふん……ようやく来たか」
 召鬼の顔に僅かだが余裕が生まれる。中空に静止して、虚ろげな目線をこちらに投げているのは仁科朋華だった。
「完全な支配は出来ない。だが一時的ならば……!」
 召鬼の声に応えて朋華が両手を横に広げる。それをゆっくりと前に突き出した次の瞬間、無数の真空刃が冬摩を襲った。空中にいるため何かを蹴って避けることも出来ない。覚悟を決めて冬摩は両手両足を折り畳み、顔と体を庇って歯を食いしばる。
 右手、左肩、両肘、左太腿、右膝。体中のありとあらゆる箇所が悲鳴を上げ、冬摩に『痛み』をもたらす。だが攻撃が止む気配はない。冬摩の体を宙に浮かせ続ける程の打撃を与えながら、急所を狙って真空刃が的確に飛んでくる。
(ちぃ、コレが『死神』の実力か……)
 十鬼神は具現体として召喚し、自律的に行動させることも出来る。しかしそれはあくまでも補助的な使い方でしかなく、本来の力を出せない。今の朋華のように体に宿して発現させるのが力を最大限に引き出す方法なのだ。
「おおおおおおぉぉぉぉぉ!」
 周囲の空気を鳴動させるような咆吼を上げ、冬摩は閉じていた体を開いた。その隙を逃すことなく、真空刃が冬摩の左胸に狙いを定め接近する。冬摩は右手に力を込め、それを素手で受け止めた。
「ぐっ……!」
 真空刃は掌を突き抜けることなく空気に溶け込む。『痛み』のせいで頑強性が増していなければ心臓を貫かれていただろう。真空刃を受け止めおかけで冬摩を空中に縫い止めていた打撃の均衡が崩れ、ようやく落下し始めた。
 給水塔の上を見上げる。召鬼の姿はすでになかった。
(あそこか!)
 力を追って視線をグラウンドに向ける。体育倉庫の裏側。身を隠すようにしながら召鬼は遁走を始めていた。
「このガキ!」
 憤怒に顔を染め、冬摩は屋上のフェンスから身を翻した。それを追って朋華も飛ぶ。
 地面に着くまで数秒。
(この体で避けきれるか!?)
 『痛み』はかなりある。朋華を殺すことは簡単だろう。校舎の壁を蹴って、右腕を叩き付ければいいだけのことだ。しかしそれは最後の手段。召鬼に完全に支配されていない以上、十鬼神の適性保持者を殺すわけには行かない。『死神』の確保は今回の目的の一つでもある。
 朋華の手がゆっくりと水平に弧を描く。針のように細い真空刃が生まれ、冬摩の頭蓋を狙って飛来した。
「けっ!」
 冬摩は右腕を思いきり校舎に突き立て、強引に落下速度を落とす。先程とは違い、ここは完全な空中ではない。すぐ近くに壁という絶好の足場がある。
 足下を真空刃が過ぎたのを確認し、冬摩は腕を抜いて三階の屋根を真上に蹴った。重力加速度に跳躍速度を加算して、冬摩の体が急速に落下していく。
(あと一秒……)
 目の前までグラウンドの砂が見えた時、それに覆い被さるようにして朋華の顔が現れた。先回りして下で向かえたのだ。
「そう来ると思ったぜ!」
 すでに予測していたのか、あらかじめ撓ていた脚で校舎の壁を蹴り、真横に飛んだ。直後に脚の隙間を真空刃が通り抜けていく。
 そして、冬摩は朋華の後ろ十メートル程の場所に降り立った。そのまま勢いを殺すことなく召鬼を追う。朋華はすぐには追いつけない。空中戦では飛翔できる朋華に分があるが、地上戦となれば爆発的な瞬発力を持つ冬摩が有利だ。
(捕らえた!)
 校庭の裏門。そこに召鬼はいた。鉄の門扉に体を預け、こちらに背中を向けている。
「もらった!」
 口の端をつり上げて兇悪な笑みを浮かべ、冬摩は右手を振り上げる。そして最後の踏み込みをしようと召鬼の手前の地に足をかけた瞬間、高圧電流が体に流れたような衝撃が全身に走った。
「ッ! がああぁぁぁぁぁ!」
 足下に視線を移す。そこには紅い線――すなわち召鬼の血で方陣が描かれていた。それが不可視の呪的な鎖となって冬摩を捕縛する。
「逃が、さねぇ……って、言ってんだろーが!」
 カッ、と目を大きく見開き、冬摩は自分の左腕の動脈を右手で掻き切った。蛇口の壊れた水道のように大量の紅い水が辺りに降り注ぐ。それが召鬼の血と混ざり合い、薄めていった。
「さぁ、追いつめたぜ……」
 肩で息をしながらも目には爛々と輝く狂気を宿し、冬摩は弱くなった方陣から脱け出した。
「果たしてそうかな?」
 召鬼の顔に笑みが浮かぶ。そして彼を守るようにして朋華が冬摩との間に割って入った。召鬼にしてみれば、ほんの少し時間稼ぎが出来れば良かったのだ。そうすれば朋華が追いつき相手をしてくれる。その間にまた逃げればいい。
 堂々巡り。そんな言葉が冬摩の頭に浮かぶ。
「邪魔する奴はブッ殺す!」
 それは冬摩の理性を断ち切るには十分すぎた。もう『死神』だろうと誰だろうと容赦はしない。目的を遂行するのに余計な存在はすべて消えてもらう。短絡的で直情的な思考が冬摩を支配した。
 朋華が召鬼の元に一歩寄り添う。今まで無表情だった顔に愉快そうな笑みを浮かべ、右腕を振り上げた。そして――
「な……」
 冬摩の目が驚愕に見開かれる。
 朋華の白く細い腕が、後ろにいる召鬼の胸を貫いていた。
「よくも妾の唇を二度も奪ってくれたのぅ。万死に値するぞ?」
 高飛車な口調で朋華は呟き、召鬼の方に向き直って手を背中から貫通させる。
「あ……あぁ……」
 絶望と恐怖に召鬼の顔が歪んだ。朋華は鼻を鳴らして冷笑すると、貫いた手に持った心臓を握りつぶす。血のこびり付いた肉片が周囲に飛散した。
「待たせたのぅ冬摩。二百年ぶりか? まさか龍閃りゅうせんの息子とこんな形で再び邂逅する事になろうとは。長生きしてみるものじゃ」
 すっ、と目を細め、朋華は艶笑を浮かべて手に付いた血を舐め取った。
「お前……『死神』、か?」
 朋華の雰囲気とは似ても似つかない。他人を馬鹿にしたような高圧的な視線と、ふてぶてしい喋り方。工事現場で初めて会った『死神』に雰囲気がそっくりだ。
「何を呆けておる。まぁ詳しい説明は後じゃ。とりあえず騒ぎが大きくならんうちに逃げるぞ」
 言われてハッとし、冬摩は後ろを振り返った。
 別棟の屋上から流れ続ける大量の水。半壊した屋上。穴の開いた校舎の壁。さらに保健室とココには学校関係者の死体がある。
「しゃーねーな、じゃあ俺の部屋に行くぞ」
「綺麗なんじゃろうな」
「久里子が用意した部屋だ。文句ならソイツに言ってくれ」

◆日常への別れ ―仁科朋華―◆
 血が落ちない。何度洗っても、右腕にこびりついた血が落ちてくれない。
(私、は……)
 シャワーを頭から浴びながら、朋華は必死になって右腕を擦り続けた。
 すでに泥や血は綺麗に洗い流され、きめの細かい肌を露出させている。だがそれでも、朋華は腕を洗うことを止めなかった。
 ――鷹宮秀斗を殺した。
 その事実が朋華に重くのし掛かる。今、朋華の精神を苛んでいるのは初めて人を殺した事への恐怖ではない。逆だ。
(どうして? 私どうかしちゃったの? 鷹宮君を殺したって言うのに……)
 罪悪感を感じない。むしろ達成感が上回る。長年敵対してきた最強の魔人、龍閃の生み出した召鬼を倒したという結果が朋華に言いようの無い悦びを与えていた。
(召鬼とか、魔人とか、私どうしてこんな事知ってるの?)
 『死神』の覚醒に伴う記憶の逆流。今、朋華は『死神』が持っていた記憶をすべて受け継いでいた。意思や考え方もすべて。
(私は仁科朋華……引っ込み思案で言いたいこともろくに言えない、臆病者。だったら……!)
 もっと怯えてもいいはず。それどころか自殺してもおかしくない。なのにどうして、こんなも平然としていられる。人を一人殺しているのに。
(違う。これはきっと一時的な物。しばらくすれば脚が震えて立っていられなくなる。だって私は鷹宮君を殺したんだよ!?)
 自分が自分であるために、朋華は何度もその事実を言い聞かせる。そして頭と体が恐怖で萎縮していくのを待った。だが、その時はいつまで立っても来ない。
 シャワーから流れ出る無機質な音だけが室内に響いていた。
(人殺し……私は人殺しなんだ。一生消えない罪悪感と戦い続けないといけない)
 罪悪感――気を抜けばソレがどんな物だったかすら忘れそうになる。
 右腕を更に強くこする。それは血を落とすというよりも、消えないように塗り込めているように見えた。
 蛇口を絞る。キュッ、と高い音がして流水が止まった。
 栗色の髪の毛から滴る水を何気なく見ながら、朋華は自分の躰を見下ろした。十七年間ずっと見てきた躰。
(よかった……元のままだ)
 当たり前の事に心から安堵の息を吐く。気が付いた時には化け物になっているかもしれない。そんな疑念がいつの間にか朋華の頭を巡っていた。
 重く溜息をついてバスルームを出る。
 白地にブルーのストライプが入ったカッターシャツに、ジーンズ。そして女性用のショーツが置いてあった。いつの間にか用意されていた着替えに、朋華は虚ろな視線で袖を通し脱衣所から出た。
「よー、女の長風呂は今の昔も変わんねーのか?」
 朋華の姿を見て冬摩が読んでいた雑誌から顔を上げる。制服を脱ぎ捨て、黒のTシャツと朋華が身につけている物と同じジーンズをはいていた。
 あれだけ酷い傷を負っていたのに、少なくとも朋華の視界に映る範囲内では完治しているように見える。
「……どうも。色々、ご迷惑をおかけしました」
 実際に話すのはコレが初めてだ。だが、大昔から知っているような気がしてならない。いや、事実知っているのだ。『死神』の記憶が朋華に教えてくれた。転校生、荒神冬摩ではなく、魔人の血を引く者、荒神冬摩のことを。
「全くだぜ。あれだけ無駄なエネルギー使わされたあげく、勝手に召鬼をブッ殺されちまったんだからよー。おかげで龍閃の居場所もパァだ。おまけに、女モノの下着まで買わせやがって」
 召鬼とは魔人から生み出された存在。つまり魔人と深い繋がりがある。今回冬摩は召鬼から龍閃の居場所を聞き出したかったのだろう。
「スイマセン……」
 朋華は気弱そうに頭を下げて目を伏せた。
「まー、別にもー良いけどよー。やっちまったモンはしょうがねぇ。で、『死神』のヤツは今眠ってんのか?」
『なんじゃ、妾と話したかったのか? うい奴め』
 朋華の意思とは関係なく声が出る。手足や顔の筋肉が勝手に動き、不敵な笑みの形に唇を曲げて腕組みしていた。まるで自分の体を遠くから見ているような錯覚に襲われる。
「バーカ。いいからお前は寝てろ。さっさと仁科に代われよ」
『まったく、つれないヤツじゃのう。せっかく二百年ぶりに逢えたというのに……』
 その言葉が終わるか終わらないかのところで、体の制御が再び朋華に戻った。
「わ、私……どうなるんでしょうか?」
 目を伏せ、朋華は不安げな声を上げる。
「さぁな。とりあえず『死神』を自分でコントロールできるようになるんだな」
 面倒臭そうに頭を掻きながら、髪をうなじで纏めている龍の髭を解いた。
「でもソレはどうすれば」
「知らねー。お前みたいに十鬼神が優位になるような、精神力のヘタレな奴は今まで見たことねーからな」
 突き放したような口調で冬摩は冷たく言う。
 はぁ、と重い息を吐いて朋華は腰を下ろした。殆ど起毛の寝ていない絨毯の感触が脚に伝わってくる。質素なワンルームだった。今回の事件が終わればすぐに引き払ってしまう仮の住まいなのだろう。食事はすべて外食なのか、パイプベッドと必要最低限の衣類、それに数冊の雑誌くらいしか置かれていなかった。
「まぁ、まずは気持ちの整理でもするんだな。『死神』とよく話し合ってよ」
 長い髪を弄びながら、冬摩は視線を合わせぬまま言う。朋華は黙ったまま頷いた。
(顔は見られているかもしれないけど、あんな異常な事件に私が絡んでいるなんて多分誰も思わない。きっと気のせいで済まされるはず。学校もあの状態じゃ当分はお休み。とりあえず家に帰って、それから――)
 そこまで考えて朋華は愕然となった。
 なぜ、こんなにも冷静でいられる? なぜ、これ程までに客観的に物事を判断できる?
(違う! こんなの私じゃない!)
 変わりたいと思っていた。毎日繰り返されるイジメに嫌気がさし、もっと強い自分でありたいと願っていた。しかし――
(こんなの違う! 人を殺しても平気な顔して、自分のこと考えてるなんて……!)
 朋華は今日だけで二回もの死を目の当たりにしている。保健の先生と、鷹宮秀斗。そして鷹宮秀斗は自分の手で殺した。
(私は、もう人間じゃないのかもしれない……)
 根拠のない邪推。しかしそれが確信じみた思いとなって朋華の心を駆けめぐる。
(きっと私は、もう普通の生活は出来ないんだ)
 両親の顔が浮かぶ。優しかった父と母。小さい頃はイジメられて帰ってくるたびに、朋華が泣きやむまでずっと側にいてくれた。今だってよく話を聞いて貰う。暗い話なのに文句も言わず最後まで熱心に耳を傾けてくれていた。
 穂坂御代の顔が浮かぶ。朋華をイジメていた張本人。何度も離れたいと思った。数え切れないくらい疎ましいと思った。けど、今は逆だ。イジメられててもいい。普通に戻りたい。当たり前だった日常を取り戻したかった。
 鷹宮秀斗の顔が浮かぶ。朋華の想い人。高校一年の時、初めて同級生から優しくされた。重い荷物を一緒に持ってくれた。ただ、それだけだった。それだけで朋華は秀斗に惹かれた。しかし、それは偽りの優しさ。秀斗は朋華ではなく、朋華の保持する『死神』が目的だった。そのために近づいた。明るく掛けてくれた言葉も朋華に対してではなかったのだ。
 『死神』――多くの魔人の命を犠牲にして生み出された十鬼神の一人。そして朋華の中に別の人格として居座る存在。彼女の影響により、朋華の人格が毒されているのは間違いなかった。
(私の居場所はどこにもない。私はもう、誰からも必要とされなくなる。『死神』が私の体にある限り……私は他の人と一緒にいる資格なんて無いんだ。私みたいな化け物……!)
 今でもまだハッキリと残っている。秀斗の胸を貫いた感触が。奇妙なほどに柔らかくて、不気味な程に生暖かい。腐敗して僅かに熱を帯びた汚泥に腕を突っ込んだような感覚。
「荒神、さん……」
 意を決して朋華は口を開いた。
 こんなにすぐに決心が付いたのは生まれて初めてかもしれない。不完全ではあっても『死神』の覚醒が朋華にもたらした物は、コレまでの人生観を一変させるほど大きな効力を持っていた。
「なんだよ」
 相変わらず不機嫌そうな声が返ってくる。
 荒神冬摩――千以上の齢を重ね、最強の魔人、龍閃の血を引く退魔師。誰かを傷つけること、殺すことにを何の躊躇いもなく、自分の目的のためには手段を選ばない。そんな人物に、自分もいつかなってしまうのだろうか。
 ならば、しょうがない……。
「私を、他の退魔師さんの所に案内してくれませんか?」
 冬摩は訝しげに眉を寄せた後、小さく鼻を鳴らして片眉を上げた。
「ああ、いいぜ。俺としても、そっちの方が手っ取り早くて助かる」
 魔を狩る者、退魔師。古来より鬼と敵対し、常人離れした力を振るう者達。今、自分の居場所があるとすればソコしかない。
「じゃあ早速荷物まとめな。なぁに、心配すんなよ。お前を行方不明扱いにするなんざ、久里子にかかりゃちょろいもんよ」
 こうして、仁科朋華は日常から離れ、別の人生を歩み始めた。




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