ちょっとだけ成仏、してくれますか?

 暗い自室で一人、俺はベッドに寝そべって天井を見つめていた。
 体の底から蟲がわき出してくるような苛立ちを覚えて、壁に拳を叩き付ける。痛みで自制心を奮い立たせながら、俺は大きく息を吐いた。
「……俺は、何でも一人でやってきた。誰の手も借りずにココまで来た」
 穴が開くほどに中空を睨み付けながら、俺は自分に言い聞かせる。
 色葉はあと二週間で消える。だが、このわだかまりは消えない。恐らく一生。
 直接色葉の口から聞いた訳じゃない。確証があるわけでもない。
 しかし、筋は通る。そう考えれば納得できる。勿論したくはないが。
 過去未来手帳……そもそもあんなモン見たのが間違いだった。見てなければこんな下らないこと思い出さなかった。夜水月に付いて行かなかったら、あんなわざとらしいヒント聞かずにすんだ。色葉がバカ正直な反応しなけりゃ、気のせいだで済ませてた。
 けど……もう後の祭りだ。
 あんな……バカに、俺は……。
 鼻に皺を寄せ、奥歯をきつく噛み締める。
 認めれば楽になるかもしれない。誰かに相談すれば少しは気が紛れるかもしれない。
 けど、死んでもそんなことはしない。
「俺は一人、だ……。コレまでも、コレからも」
 誰も寄せ付けてはならない。ずっと一人でいなければならない。
 いつからだろう、そう思い始めたのは。もう随分前のことで、何がキッカケだったのかも思い出せない。
 思い出せない?
 また、嫌な予感が胸中をよぎる。
 もう寝よう。こんなことをいつまでも考えてるなんざ俺らしくない。
 とにかくあと二週間だ。あと二週間我慢して、色葉が消えたら元の生活が戻る。そうすれば何もかも元通りになる。いや、元通りにしてみせる。
 神経を落ち着けるために何度か深呼吸をして、俺は静かに目を閉じた。

 明晰夢ってのがある。夢の中にいながら、コレは夢だと自覚できる夢のことだ。
 そして夢には、ある程度深層心理が反映されるらしい。
 とは言え、何もこんな最高のタイミングで俺の心を映してくれなくてもいいもんだと思うが。
「コレがガキの頃の俺か。面影ねぇな」
 ――苦笑する俺の目の前にいるのは、まだ幼稚園の時の俺だった。他のガキ共と一緒に公園の砂場で山を作ってる。
 髪は当然黒だし、この頃はストレートだった。勢いよく回転すればカッパの皿みたいになって他の奴らが笑ってくれるから、気持ち悪くて吐きそうになるまで回り続けてた。
 憂子ともよく遊んだ。ママゴトしたら、なぜか俺の方がお母さん役だった。その時はまだ憂子の方が力も強くて、背も大きかったから逆らえなかった。しかもアイツは、女の子みたいな顔だった俺に、母親の所からくすねてきた口紅とかファンデーションとかでデタラメな化粧して、リボンとかも付けて遊んでやがった。
「まぁ、その後見つかって泣くまで怒られてたけどな」
 ――夢の中で俺の目に映る、ガキの頃の俺が少し大きくなった。
 この服装は小学生の頃の制服だ。
 小学校に上がってからは、憂子とは家族ぐるみで付き合うようになった。キャンプとか遊園地にもよく連れて行って貰った。
 アイツはお節介やきで、えばりんぼうだったら、口癖みたいに『わたしのやるようにやるのよ』って俺に言ってた。
 山に行った時、『わたしが今とってる花を、いっぱいあつめるのよ』って言われて、俺は素直に名前も知らない紫色の花を集めた。二人で日が暮れれるまで花を集めて、辺りが真っ暗になったんで親の所に帰ろうとしたら道が分からなくなってた。
 父親と母親の名前を大声で泣き叫ぶ憂子の手を引いて、俺は歩き続けた。すぐに脚が痛くなって俺も泣きたくなったけど、絶対に泣かないと心に決めてひたすら歩いた。
 方向なんて分からない。ハッキリ言って勘だ。
 どのくらい歩いたのかは忘れたけど、靴の中で汗だか血だか分からない生暖かい何かでぐちゅぐちゅ言い始めた時に、テントの明かりが見えた。
 俺を抱きしめてくれた父親の胸の中で、泣き疲れるまで泣きじゃくって寝た。
「……ま、ガキの頃にしちゃ上出来、か」
 まだ小学校一年の時だ。
 けど、これがキッカケで俺と憂子の立場が逆転した。身長も追いつき始めた。
 ――夢の中の俺が少しだけ大きくなった。小学三年くらいだ。
 平日は学校で友達と遊び、休みの日は憂子の家族とどこかに出かけた。剛一狼も一緒に連れて行ったことが何度かあった。
 毎日が充実してたが、一つだけ致命的に嫌なことがあった。
 それが『太郎』という呼び名だ。
 このあまりにシンプルで呼びやすい名前のせいで、俺にはあだ名が付かなかった。
 他の奴らは色々と変わった特徴的な呼び方をされているのに、俺を呼ぶ時は揃いも揃って『太郎』だ。
 親は勿論、憂子も、その親も、友達も、先生も全員。
 太郎、太郎君、太郎ちゃん。
 この三つのどれか。
 響きが可愛い。言い易い。耳に残る。
 そんな下らない理由で俺は『太郎』と呼ばれるのが嫌でしょうがなかった。
 あの時はまだ、みんなと一緒でいたかったから。みんなと同じようにあだ名で呼ばれたかったから。
 我ながらオメデタイ時期もあったもんだ。
 今はただ許せないだけ。免許証や保険証の見本に書かれているような、あくびが出るほどありきたりな名前でなど、滅多なことでは呼ばせない。
 そう、呼ばせない。俺が許したヤツ以外には、絶対に――

『たーくん』

 頭に直接響く懐かしい声。
 ああ、思い出したよ。思い出したくもないのに思い出しちまったよ。クソッタレ。

『たーくん。先生も一緒に遊んでいーい?』

 ――場面が校庭に切り替わる。俺はみんなとドッジボールをしていた。
 そういや一人だけいたな。俺をそんなあだ名で呼んでくれたヤツが。
 新任の教師で、初めて担当したのが俺達のクラスで。ド天然で、俺よりもガキっぽくて。授業で間違ったこと教えるわ、テスト中に居眠りするわ、堂々と遅刻してくるわ。
 全然、先生らしくねーんだよ。
 そのくせ妙に真面目なトコがあるから、なにをするにもカラ回りだ。イジメを見つけた時なんか、授業ほっぽり出して丸一日説教してた相手がイジメられてた方だったり、プールの授業で足つって溺れそうになったヤツ助けに行ったら、水飲んで自分も溺れそうになったり、大掃除で張り切ってたら、課題工作だったみんなの花瓶全部落として割っちまったり。

『たーくん、ごめんねー。先生バカだから分かんないー……』

 ――場面が教室になった。
 俺が意地悪して灘中の入試問題解いてって頼んだら、一週間かけて悩んでたな。で、結局分からなくて、涙だーって流しながら俺に問題集返してきたっけ。
 他の大人が持ってた、変なプライドとは無縁の先生だった。精神年齢がガキだから、物の見方や態度もガキと同じだったんだろーな。

『あらあらー、たーくんもこの道通るんだー。先生と一緒だったんだねー』

 ――いつも通ってた通学路が映し出された。
 朝、偶然出くわしたこともあったな。それからは一緒にいる時間が結構増えたんだ。色んな話をした気がする。俺があそこまでうち解けたのは、俺のことを『たーくん』って呼んでくれたのが大きかったんだろう。
 それだけで俺にとっては特別な存在になってた。
 ……だから、くだんねーこと考えちまったんだよ。

『俺、絶対に先生をお嫁さんにする!』

 ――小三の頃の俺が、放課後の職員室に押し掛けて叫んでいた。
 おいおい……こんな場面まで見せんのかよ。ココまで来ると悪夢だぞ。

『あらあらー、ソレは楽しみねー。でも、ちょーっと年が離れすぎてなーい?』
『大丈夫! 十年くらいたったら先生に追いつくから!』

 本気じゃなかったけど……本気だったな。

『そうねー、それじゃ先生、楽しみにしてるわねー。たーくん』

 あー、クソ。見てて怖気が走るな。我が人生唯一にして最大の汚点だ。
 まさかこの俺様が告白した相手が、あの色葉楓だなんて末代までの恥だぞ。出来ることなら、目の前で満面の笑み浮かべて満足してるガキを、しばき倒してでも更生したい。

 ――視界が突然真っ赤に染まった。やかましく鳴り響く非常ベルに混ざって、悲鳴や泣き声が沢山聞こえた。
 これは、例の火事か……。
 理科準備室から火が出て、他の奴らが血相変えて避難している。けど、俺だけが校舎の中に入って行った。
 この辺りは記憶にない。どうして戻ったのか覚えていない。
 ガキの俺は誰もいない廊下をひたすら走って、黒い煙が漏れている理科準備室の隣り――理科室の前で急停止した。そして勢いよく扉を開け放つ。

『ビリケン!』

 ああ、そうか。生物部で俺が飼ってたネズミだ。理科室が部室代わりだったから、ビリケンを助けるために俺は戻ったのか。
 ガキの俺は隣の部屋がどうなっているのかなんて気にも掛けずに、ひたすらネズミ探しに没頭している。ビリケンが入っていたはずのケージは床に落ち、出入り口が開いていた。
 この火事は地震でコンセントが漏電して、その時に出た火がアルコールランプに燃え移ったはずだ。多分、最初の地震でケージが落ちたんだろ。
「おいおい、マジかよ……」
 呆れた声を出す俺の目の前で、ガキの俺はあろうことか理科準備室に方に向かって行った。
 理科室と理科準備室は教室の中でも扉で繋がっている。理科室にいなければ、そっちにいると思ったんだろう。
 ビリケンの名前を叫びながら、ガキの俺は半開きになっている理科準備室への扉を開けた。
 中は悲惨だった。
 棚に並べられていた有機溶剤が、地震で落ちて床にブチまけられ、火の通り道を見事に作っていた。炎の海とはまさにこのことだ。いつ棚が焼け崩れてきてもおかしくない状況だった。
 にもかかわらず、ガキの俺は腕で顔を庇いながら、中に入って行きやがった。たかがネズミ一匹のためにココまでするなんざ、熱で頭がイカれたとしか考えられない。
 返事なんかするはずもないのに、ビリケンビリケンと呼びかけながら、ガキの俺は炎のない場所を通って理科準備室をねり歩く。
 この後の展開は分かった。
 だから見たくなかった。目を覚まそうと自分の顔を殴ってみるが、ただ痛いだけで今の光景が消えてくれる気配はない。夢では痛みを感じないなんて、最初に言ったのはどこのどいつだ。

『たーくん! そこにいるの!?』

 俺がビリケンを探す声を聞きつけてか、色葉が準備室の扉を開けた。
 やっぱり来たか……。
 ガキの俺は色葉の声に反応して、出口の方を覗き込む。ソレを見た色葉が、俺を助け出そうと準備室に入ったところで木棚が崩れ落ちた。その振動を受けて、いままでギリギリ持ちこたえていた棚が一斉に倒れ込んできた。
 火は一気に燃え上がり、あっと言う間に出口を覆ってしまう。ガキの俺はようやく見つけたビリケンを胸の前で大事そうに抱えて、入ってきた色葉に駆け寄った。

『大丈夫よ、先生が絶対に助けてあげるから』

 ……勘弁してくれ。何でこの俺様がお前に助けられねばならんのだ。
 俺は何でも一人で出来る。何でも一人でしなければならない。滅多なことで人の力を頼ってはいけない。
 多分この頃にはもう、その自覚があったはずだ。
 理科準備室は二階だ。窓から飛び降りても捻挫か骨折くらいですむ。だから色葉にすがるようなことだけは止めてくれ。
 俺は不安げな表情をしているガキの自分を睨み付けながら念じた。
 この後、俺は色葉に助けられる。ソレはもう分かっている。ムカツクけどな。
 問題は俺が男らしく色葉を助けようとしたか。それと、色葉がどうやって俺を助けたか、だ。

『たーくん、すぐに外にいる人達が助けてくれるからね。もうちょっとの辛抱よ』

 色葉はガキの俺を炎から守るように抱きかかえながら、ハンカチを口に当てて煙をしのいでいた。

『熱いよ……先生……』

 情けない声がガキの俺の口から漏れる。
 ソレを見ている俺の中で、怒りに似た焦燥が急速に膨れあがっていった。

『助けて、先生。死にたくない。お願い助けて』

 やめろ。それ以上言うな。

『ねぇ、先生なんでしょ? 大人なんでしょ? 何とかしてよ』

 やめろ……やめてくれ。

『俺まだ死にたくない! 何とかしてよ!』

「俺のクセに女々しいことヌカしてんじゃねー!」
 情けない。情けない情けない情けない。
 いくらガキの頃とは言え情けなさ過ぎる。仮にも好きになった相手の前でなんだ、このザマは。命に代えても守るくらい言えねーのか。極限状態に追い込まれて本音が出りゃ、所詮俺もこんなモンって訳か。しかもあの色葉相手に?
 悪夢どころの騒ぎじゃねー。このまま夢の中で死んで、二度と目覚めたくない。本気でそう思う。

『はいはーい。コンニチハですデス。お困りのよーデスねー』

 後ろから聞き覚えのある声がした。振り向くと黒一色で服装を固めた、幼稚園児くらいのガキが一人。夜水月だ。
「……何の用だ」
 俺は露骨に不機嫌な声で言った。しかし夜水月は俺を無視して、色葉の前まで浮遊していく。
 ああ……この夜水月は火事の時に現れたヤツか。だから俺のことは見えてないんだな。
 って、おい。まさか……。

『あ、あなたは……?』
『色葉楓さんデスね。ボクは幽霊スカウトの夜水月と申しますデス。時間があまり無いので要件だけを伝えますデス。そちらの真宮寺様をココから救いたければ、今すぐ守護霊になるのがお得デス』
『しゅ、守護霊?』
『はい。今、幽霊界は人手不足でして、一人でも多くの働ける幽霊が必要なんデスよ。もし貴女が守護霊職に就いていただけるなら、本当はいけないんですがボクの特別権限で真宮寺様を救って差しあげますデス。いかがデスか?』

 色葉はこの時に守護霊に……。

『先生助けて……』

 反吐が出そうなガキの俺の哀願に、色葉は笑顔で頷いた。

『分かりました。守護霊とかはよく分かりませんけど、たーくんを助けてくれるなら何でもします』
『どうも有り難うございますデス。助かりますよ。焼死体では完全に成仏してしまって働けない幽霊になってしまいますデスから。ではこの契約書にサインを。サインが終わったら、貴女はちょっとだけ成仏して守護霊になります。いいデスね?』
『はい』

 色葉は差し出された紙に、胸ポケットのボールペンでサインをした。多分、夜水月が説明したことの一割も理解していないだろう。なのにコイツは、ガキの俺を助けるためにアッサリ要求を受け入れた。夜水月が俺を助ける保証など、どこにもないのに。
 俺の見ている前で、色葉の体がだんだん透けていく。なのに色葉は全く動じることなく、むしろ安堵に満ちたような顔でガキの俺の頭を撫でていた。色葉の体が完全に消えると、支えを失ったガキの俺は前のめりになって床に突っ伏した。

『オメデトウございますデス。コレで貴女も今日からボク達の仲間入りデス』

 いつの間にか色葉の体は元通りになって、夜水月の隣で浮かんでいた。これで守護霊になったのだろう。

『あ、あの、たーくんを! 早く!』
『ああ、もうやってますデスよ』

 夜水月の言葉に応えるように、廊下への出入り口を塞いでいた棚が吹き飛ぶ。続いて炎が床に吸い込まれるようにして消えた。
 ガキの俺は放心したような顔つきで辺りをきょろきょろと見回していたが、逃げられることが分かると弾かれたように部屋を飛び出していった。色葉がいなくなっていることなど気にも掛けていない。
 色葉は守護霊になった。彼女に関する記憶は誰にも残っていない。勿論、ガキの俺にも。色葉は最初から『いなかった』ことになったのだ。

『あー、よかったですー。たーくんが無事でー』
『では行きましょうか、色葉楓さん。今日からボクの下で働いて貰いますデスよ』
『はいー。あ、でも私全然分からないんですけどー』
『まぁ最初は誰でもそうデスよ。色々説明しなければならないことがありますデスから、取りあえず幽霊界に行きましょうか』

 そして二人の姿は俺の前から消えた。
「コレが、あの時の顛末(てんまつ)、か……」
 深く溜息をつきながら、俺は冷めた声で呟いた。
 名状しがたい嫌悪感ってのはまさにこのことだな。自分に吐き気がする。結局、俺は色葉に頼りっぱなしで生き延びたんだ。
 そして、俺は色葉のことを忘れた。色葉の存在自体を忘れた。だから火事の現場に戻ったことも、どうやってそこから逃げ出したのかも忘れた。色葉には最初から会わなかったことにするために。
「クソッ……」
 ……ああ、そうか。思い出した。
 この後だったんだ。何でも一人でしなければならない、出来なければならないって思い始めたのは。色葉のことは忘れたけど、何か大切な物を失ってしまったって思いは忘れていなかったんだろうな。だから俺はいつも一人でいたんだ。誰か俺の近くにいると、色葉みたいにいなくなってしまいそうだったから。
 それからだ。それから、俺が『太郎』を嫌う理由が変わったんだ。
 俺は誰も寄せ付けてはならない。人とは違っていなければならない。好かれるよりも、毛嫌いされるくらいでなければならない。誰かから優しくされるなんて論外だ。
 だから変なところで意地になってたんだ。覚えやすいとか、言いやすいとかいう理由で『太郎』なんて名前、呼ばせてはいけない。親しむキッカケを与えてはならない。
 俺は他人と距離を取った。
 休み時間になっても図書館に一人でこもってたし、給食もみんなと席を付けることなく一人で食べた。
 中学での修学旅行は仮病を使ってサボったし、文化祭の出し物は一人で占いの館とかやってたな。
 とにかく、必要以上に誰かと接さなかった。最初は疲れたけど、十分やっていけると確信してからは、逆に誇りみたいになってた。他の奴らが何を言おうと俺の方が正しいんだと、根拠もなく思えてきた。
 高校に上がった時、父親がアメリカの本社に栄転になった。勿論俺は付いていかなかった。あの頃には、親とも距離を置きたいと思っていたから好都合だった。
 唯一憂子だけが心配して、たまに飯を作りに来てくれたりもしたけど、俺が作った方が断然美味いと分かってからは来る回数も徐々に減っていった。
 俺が大学に入った時に憂子が短大を卒業して、巫女の修行とやらに専念し始めてからは更に会う回数が減った。
 理想的な環境だった。
 何でも一人で出来る能力と、自分の行動への絶対の自信。
 この二つを武器に、俺は充実した人生を送って大往生するんだと信じて疑わなかった。不安など全くなかった。
 けど――そこに色葉が現れた。

 差し込む日の光がまぶた越しに突き刺さり、俺は薄く目を開けた。どうやら昨日の夜、カーテンも閉めずに寝たらしい。服もそのまま。最悪の寝起きだ。
 頭痛と吐き気と目眩がするっていうのに、夢の内容だけはしっかり覚えてやがる。迷惑な話だ。
 自嘲めいた笑みを浮かべて、俺はベッドの上に体を起こした。
 時計を見る。八時半。昨日の夜は九時頃には寝たから半日近く眠っていたことになる。
 辺りを見回す。四十型のプラズマテレビに、四台のゲーム機、無数のソフト、綺麗にディスプレイされたフィギュア・コレクション、壁に貼られたB0サイズの巨大ポスター、隅で丁寧に折り畳まれているのは萌えキャラがプリントされたTシャツ。
 部屋の中は白々しいくらい昨日と同じだった。俺はたった一晩でこんなにも変わってしまったというのに。
 ……取り合えず朝飯でも作ろう。このままじっとしてたら際限なくヘコんじまいそうだ。
 俺は楽な服装に着替えて部屋を出ると、リビングに向かった。そしてキッチンへの扉を開けたところで食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐる。
「……なに、やってんだ。お前」
 ガスコンロの前でフライパンを振っているのは、俺のエプロンを身につけた色葉だった。
 ガラステーブルにはすでに、ご飯とみそ汁、そして鮭の切り身が並んでいる。
「あ、おはようございますー、真宮寺君ー。今起こしに行こうと思ってたところなんですよー」
 色葉は隣りに来た俺に微笑みかけながら、大皿にスクランブルエッグとベーコンソテー、プチトマトを盛りつけていった。
 色葉の顔を見た俺は、堪らずすぐに目をそらす。殆ど条件反射的な反応だった。
 クソッ……なんだってんだ。
「さ、食べましょー」
 脳天気な口調で良いながら、色葉は大皿をガラステーブルに運んで自分も席に着く。
 昨日のことをまるで気にしていないかの如く振る舞う色葉に、俺は妙な苛立ちと痛烈な罪悪感を感じた。
 コイツは、俺を助けるために……。
「どうしたんですかー? 真宮寺君ー? お腹でも痛いんですかー?」
「……別に」
 下から覗き込むように様子を窺ってくる色葉から顔を背け、俺は嘆息しながら席に座った。
 情けない。本当に情けない。コレは俺なのか? ひょっとしてまだ夢の続きでも見てんじゃねーのか?
「真宮寺君ー、早く食べないと冷めますよー」
 ……コイツは人の気も知らずに。
 俺は深呼吸を一回して、色葉の顔と料理を交互に見ながら箸を取った。
「随分まともそうな料理じゃねーか。本当に食えるんだろーな」
 違う。そんなこと言いたいんじゃねーだろ。
「あーひどいですー。そりゃーまぁ、失敗作は沢山できましたけどー……」
「そんなこったろうと思ったぜ。やっぱお前はやることなすことカラ回りする、鈍くさい女なんだよ」
 だから違う。もっと他に言うべきことがあるだろーがっ。
「あぅー、コレでも一生懸命やってるのにぃー……」
「あー止めろ止めろ。お前が落ち込むとコッチまで暗い気分になる」
 何でこんな憎まれ口しか叩けねーんだよ、俺は!
「はいー、すいませんー……」
「ったく、少しはしっかりしろよ。元教師だろ、お前」
 俺の言葉に、色葉はビックリした顔で見返してきた。
「ガキの頃、火事で俺を助けた時のお前は、もっとビシっとしてたろ」
「真宮寺君……どうしてソレを」
 俺だって出来ることなら単なる悪い夢で済ませたかった。本当は理科準備室になんか行ってなくて、色葉楓なんて教師最初からいなくて、今の俺の性格は生まれつきだと信じたかった。
 けど、もう無理だ。思い出しちまった。
「守護霊になるとソイツに関する記憶は消える。ゼロ歳からの記憶がある俺が、何故か忘れちまってることがある。お前は昔の俺を知ってたから異動してきた。しかも『たーくん』なんて呼んでた。これだけ情報が揃えばバカでも分かる。まぁ、まさかあの火事の時にお前が守護霊になったとは思ってなかったけどな」
「……そんなことまで」
 色葉は放心したまま呟く。
 これで夢の内容の裏が完全にとれたな。
「何で今まで黙ってた」
 俺は箸を置いて溜息混じりに聞く。
「そ、それは守護霊は守護対象者に自分の正体を明かしてはならないのというのがルールですからー……」
 そんなところか。ま、最初から言われたところで信じるわけねーけどな。
「でも……どうして思い出したんですかー? 私のことは完全に忘れるはずなのに」
「こっちが聞きてーよ。俺だって思い出したくて思い出した訳じゃねー」
 色々と不幸な事故が重なって思い出しちまったんだよ。
 クソ……。まぁ最初に過去未来手帳見たのが始まりなんだから、自業自得っちゃあソレまでなんだけどよ。
「ところでよ。お前、なんであの時、夜水月の条件アッサリのんだんだよ」
 思い出したモンはもう仕方ねー。いや、よくないけど……心を整理するためにも今は他に聞くことがある。
「あの時?」
「火に囲まれて、夜水月が出てきて、お前が守護霊になって、俺を助けた時のことだよ」
 殆どやけっぱちになって、過去の事実を列挙していく。
 色葉は目線を上げて何かを思い出しながら、「ああ」と間の抜けた声を発した。
「えーっと、ホントはよく分かってなかったんですよー。ただ、真宮寺君を助けることで頭が一杯でー」
 やっぱりそうか……。
「私がちょっと死んだみたいなことになったって知ったの、しばらくしてからですしねー。あははー」
 『あははー』じゃねーだろ。だから何やってもカラ回りなんだよ、お前は。
「で、それから色んなヤツの守護霊とか恋愛霊とかやって、最後に俺のトコに来たって訳か」
「はいー。やっぱり真宮寺君のことが気になったものでー」
「でもサボってばかりだったんだろ」
「だってぇー、真宮寺君ってば私が何にもしなくても全然危険な目に会わないんですものー。恋愛なんてまったく興味ないみたいですしー。私やることなくなっちゃうと、すぐに眠くなるんですよー」
「じゃお前が俺にしたことってのは、寝返りで迷惑掛けたくらいか」
「ま、平たく言えばそうですねー」
 開き直ってんじゃーねーよ。
 こんなヤツが命の恩人なんて、ホントに情けなくて目からうどんが出てくるぞ。
「でも守護霊として久しぶりにあった時はビックリしましたー。真宮寺君、昔と全然違うんですものー」
 ああ、そりゃあな。お前がキッカケで俺は変わったからな。
「あの時みたいにー、みんなで一緒に遊んだりしないんですかー?」
 しねーよ。もぅ、二度としないって決めたからな。
「真宮寺君ー。私、バカだから難しいことよく分かんないんですけどー。嫌なこと思いだした時は、楽しいこといっぱいした方がいいですよー」
 色葉はニコニコと幸せそうな笑みを浮かべながら、的の外れた励ましの言葉を掛ける。
「嫌なことって……。言っとくけどな、俺が思いだしたのはお前のことなんだぞ」
「だって、真宮寺君は私のこと嫌いなんでしょー?」
 ……このバカは。死んでも治らんな。
「でも大丈夫ですよー。あと二週間もすれば、私は消えていなくなりますからー」
 ――ッ!
 そうか。そう言えばそうだったな。
 あと、二週間、か……。
「お前、消えるってどういうことか分かってんのか?」
「さぁー? でも私一度死んでますからー。多分痛くはないと思いますよー」
 コイツは、また適当なことを……。なんで自分のことなのに深く考えようとしないんだ。
「どうしてそんなに難しい顔してるんですかー? 私がいなくなっても幸せにならないんですかー?」
 小首を傾げながら、色葉は不思議そうな顔で俺を見つめた。
 お前なんかとっとと居なくなれって、お前が来た昨日の朝からずーっと思い続けたさ。けどな、今はちょっと事情が違うんだよ。ソレくらい察しろよなー。クソッ!
「お前さ、大体なんで俺を幸せにしたいんだよ。恋愛霊も兼務してるからか? けど俺が一人でいるのが好きってのはもう分かってんだろ?」
 言われて色葉は初めて気付いたように、大袈裟に目を丸くして見せた。
「さぁー? そう言えばそうですねー。でも、私バカだからよく分からないですー」
 コイツは……。
 ああクソ。調子狂うな。こんな時まで自分より他人優先で考えやがって……。何なんだよ。
「色葉……」
 俺は細く息を吐きながら、意を決して言った。
「お前、もう一回人間に戻りたいか?」 
 色葉はなぜかキョロキョロと不審な仕草で辺りを見回す。自分に向けられた言葉なのかを確認しているようだった。
「……え?」
「あんな訳の分からないまま守護霊なんかになったんだ。当然不満だらけだろ。だから聞いたんだよ。もう一回人生やり直したいだろって」
「え、えーっと……ソレを聞いて真宮寺君はどうするつもりなんですかー?」
「今は俺が質問してるんだ」
 目の前で組んだ両手で顔の下半分を隠し、下からねめ上げるようにして睨み付けながら強い語調で言った。
「そ、それは……その……」
 言えよ。やり直したいって。そうすれば俺も悩まなくてすむんだ。きっちりケジメ付けて、キレイサッパリ終われるんだよ。
「わ、私は、今のままで結構満足してますよー」
 ……そう簡単にはいかねーか。
「そうか」
 短く言って再び箸を持ち、俺はすっかり冷め切った料理に手を付けた。

 昼過ぎ。
 俺は誰もいない広いリビングで一人、ソファーに寝転がっていた。カーテンも閉め切り、明かりも付けず、薄暗い室内でタバコの山を淡々と灰皿に築いていく。

『助けて、先生。死にたくない。お願い助けて』

 思い出しただけで腹が立ってくる。

『ねぇ、先生なんでしょ? 大人なんでしょ? 何とかしてよ』

 俺は、あんなにも情けなかったのか。

『俺まだ死にたくない! 何とかしてよ!』

 あんなにも自分のことしか考えられないヤツだったのか。
 俺より遙かに頼りない色葉に抱きついて、すがって、助けを求めて。挙げ句の果てに、色葉の命を犠牲にしてのうのうと生き延びてるようなヤツだったのか。
「やっぱ納得、いかねーよ……」
 誰に話しかけるでもなく、一人呟く。
 コレまで俺は一人で何でも出来るって思ってた。他の奴らが数人掛かりで出来ないことも、俺なら一人で出来ると思ってた。
 誰かに頼るなんて心の弱いヤツがすることだ。効率がいいとか、一人で出来ることなんて限られてるとか、もっともらしい大義名分かざして、最初から自分で何もしようとしないだけだと見下してた。
 けど、俺もそんな奴らの一人だった。いや、色葉の人生を犠牲にしてる分、俺の方がタチが悪い。
 思い出さなければ良かったと言ってしまえばソレまでだが、思いだした以上責任が生じる。昨日、色葉が出てきたのも偶然ではないかもしれない。ツケがようやく回って来たのだと考えれば辛うじて納得行く。
 命での献身には命で報いなければならない。
 このままグダグダ考えて、俺が俺でなくなっていくよりはマシだ。
 ――決めた。
 夜水月に会いに行く。多分あそこに行けば会えるだろ。
 二十五本目のタバコを灰皿でもみ消し、俺はソファーから立ち上がった。
「ぃやっはー。太郎いるー?」
 その時、玄関の扉が開く音が聞こえて、威勢のいい声が飛び込んできた。続けて無遠慮にドタドタと廊下を歩く音がして、ガチャリとリビングの扉が開いた。
「あら、太郎。アンタ昼真っからこんな暗い部屋で何してんの?」
 入ってきたのは見た目小学生、実は俺より年上の女。童顔、オカッパ頭の憂子だ。
 神社の手入れは今日は休みなのか、巫女服ではなくピンクのTシャツに水色のサロペットといった服装だった。小学生を通り越して幼稚園児にすら見える。背中に背負った小さめのリュックが年齢低下に拍車を掛けていた。
「あーもータバコ臭い! ちょっと何なのよ、そこの不健康青年! 良い天気なんだから若者は外でスポーツでもしなさい!」
 機関銃のようにまくし立てながら、憂子はカーテンを開け、窓を開け、換気扇をつけて、部屋の空気を怒濤の勢いで入れ換えていく。
「……お前、何の用だよ。何で玄関の鍵開いてんだよ」
 見事に出鼻をくじかれ、俺は肩を落としてタバコに火を付けた。
「色葉さんに言われたのよ、アンタが珍しく落ち込んでるから何とかしてくれって。鍵はおばさんに合い鍵貰ってるから。って、コラ! タバコはもう吸わないの!」
 憂子は俺の口からタバコを取り上げると、灰皿ごと隣室のキッチンに持って行ってしまった。
 あークソ。世話やき憂子の降臨だよ。それにしても色葉のヤロー、さっきからいないと思ったら憂子呼びに行ってたのか。家が隣同士ってのが災いしたな。ぎりぎり十メートル以内だったのか。
「別に落ち込んでねーよ。ちょっと考え事してただけだ」
 ダルい仕草で後ろ頭を掻き、俺はソファーに座り直した。
「それじゃ今考えてること、正直に全部包み隠すことなく洗いざらい自白しなさい。この憂子おねーさんが適切なアドバイスしてあげるから」
 憂子は険しい表情で俺に詰め寄ると、すぐ隣りに腰掛けた。
 あーもーウゼェ。暑くるしー。子供は外でセミ取りでもしてなさいって。
「お前なー、俺とどんだけ付きあってんだよ。そーゆーの嫌いなの知ってるだろー?」
「知ってるわよ。だから放っておけないんじゃない」
「ああー? 何でだよ」
「アンタの気持ちが分かるからに決まってるでしょ」
 憂子の言葉に、俺は不快感を隠すことなく言い返す。
「気持ちが分かる? 俺の? おいおい、随分軽く言ってくれるな」
 人が何考えてるかなんて分かるわけないし、分かる必要もない。そっちの方が変に悩まなくてすむし、気が楽だ。それに、世の中知らない方が良かったってことがごまんとあるんだよ。さっき身に染みて分かった。
「分かるわよ……だって、あの時と同じ顔してるもん。その顔は一人で全部抱え込んで何とかしようとしてる顔でしょ」
 悔しいが、すぐに言葉を返せなかった。
 『あの時』――聞き返すまでもなく、小学校であった火事のことだ。俺が、今の俺に変わるキッカケとなった事件。
「……悪いかよ」
 絞り出すようにしてようやく出た言葉がそれだった。
「悪いわよ、悪いに決まってるでしょ。アンタがそんな顔してたら見てるコッチまで気使うじゃない」
「別に頼んだ覚えはない」
「頼まれなくったって心配するのよ。ちゃんと言葉にしてくれないと一緒に悩んであげられないじゃないの」
「余計なお世話だ」
「もー、ホントに何スネてんのよ」
「これは俺の問題だ。幼稚園児は着せ替えゴッコでもしてろ」
 俺の冷たい言葉に憂子の顔が怒りで染まっていく。
 怒る、だろーな。当然だ。そうなるように仕向けたんだから。
 けどソレで良い。捨てゼリフ残してとっとと帰りな。あと一時間足らずで俺のことなんか全部忘れてるからよ。
「太郎……そんなのアンタらしくないよ。なんで守護霊になんかになっちゃうのよ……」
 しかし憂子はか細い声で、力無く漏らした。
 チッ……色葉のヤツが喋りやがったのか。さすがの鈍感でもそのくらいの察せるみたいだな。
 そう、俺は色葉の代わりに守護霊とやらになってやるつもりだ。俺が色葉の後継幽霊になれば、色葉は完全な人間体に戻れるらしい。なんだか夜水月の筋書き通りで気にくわないがもう決めたことだ。コレが俺なりのケジメの付け方だ。
「知った風な口利くな。コレが一番俺らしい選択なんだよ」
「違うわよ。アタシの知ってる太郎は、もっと自意識過剰で、我が儘で、無鉄砲で、面の皮が厚くて、誰かの不幸を影で見守りながらほくそ笑むような嫌らしいヤツだったじゃない」
 なんだよ。随分な言い方だな。
「アンタが部屋にこもって二次元ポスターと一日中会話してたことや、一日中鏡見て自分の顔に酔いしれてたことや、一日中タバコで積み木遊びしてたことや、一日中自叙伝執筆してたことも知ってるんだからね」
 コイツ、いつの間に監視カメラ仕掛けたんだ。
「なのにそんな変に潔くて、『自己犠牲』なんてアンタの辞書から真っ先に消されたような言葉引っ張り出してきて、明らかに論理のすり替えじゃんって感じの屁理屈もこねないで、女の子キャラクターのシャツも着てないアンタなんか太郎じゃないわ! アンタ誰!?」
「だー! ウッセーな! なんで巫女ロリ属性しか取り柄のないようなオカッパ座敷ワラシ小娘にそこまで言われなきゃなんねーんだよ!」
「なーによ! アタシにだって他に取り柄くらいあるんだからね! 着せ替えゴッコ上等! してやろーじゃないの!」
 威勢良く啖呵を切ってリビングを飛び出す憂子。
 何しよーってんだ。アイツは。
「た、太郎! コレを見なさい!」
 数分後、コレまで見たこともないような格好をした憂子が、顔を真っ赤にして戻って来た。 憂子の服装はさっきまでのガキっぽい物ではなく、紺のブレザーにミニスカート、黒のハイソックスというお嬢様的な物。その格好で憂子は、ミニスカートを僅かにたくし上げて白いフトモモ――絶対領域を強調し、口元に手を持っていく。さらに上目遣いで恥じらいながら俺の方を見て、
「センパイ……」
 と儚げに呟き、憂いを含んだ視線で流し目を送って来た。そしてどこか弱々しい、けなげな仕草で立ち去りながら、障害物など何もない床で転ぶ。
「……お前、頭大丈夫か?」
 俺は一連の寸劇を見終え、最大出力で憐憫の視線を憂子に送る。
「な、なによ! アタシだってこんなこと、やりたくってやった訳じゃないわよ! 昨日アンタがやって欲しそうに言ってたからでしょ!」
 ……ああ、そういやそんなことも言ったかなぁ……。よー覚えとらんわ。
「あーもー! 恥ずかしい! アタシがココまでやってあげたんだから、二度と守護霊になるなんて言うんじゃないわよ! アンタがいないとアタシも張り合いないんだから! 分かったわね!」
 凄まじい勢いでまくし立てると、耳まで真っ赤にして憂子はリビングを出ていった。続けて玄関の扉が激しく閉まる音がする。
 お前、その格好で外に出るのはまずいんじゃないか? 色々と……。
「何だったんだ、アイツ……」
 ポリポリ、と後頭部を掻きながら俺はタバコを探す。しかし憂子がキッチンに持っていったことを思い出して諦めた。
「まさか、アレで元気付けたつもりだったのか?」
 自然と笑みが零れる。
 バカなヤツだ。俺もかなりキテるかと思っていたがとんでもない。思わぬ伏兵がすぐ近くにいた。
「ック……ククク……」
 あんなカラカイ甲斐のあるヤツがいたんじゃあ、おちおち成仏もできねーな。
 毒気を抜かれたとはまさにこのことだ。いつの間にか暗い気分が払拭されて、体も軽くなった気がする。
「さて、と」
 ま、どっちにしろケジメはつけねーとな。
 いつも通り自信に満ちた笑みを浮かべて、俺はソファーから立ち上がった。




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