一緒に孤立、してくれますか?

◆春日亜美の疑念◆
「えーっと……」
 大学の生命科学図書館。主に医学部や薬学部が使用する図書館で、豊潤な資金をつぎ込み、極めて綺麗な造りになっている。正六角形の外壁は純白に塗り上げられ、丸い窓ガラスが金色の枠にはめ込まれていた。ちょっとした近未来的な外観だ。
 目の前に立っているボロい理学部棟が崩壊寸前なのではないかと思うほど輝かしい勇姿だった。
 中は完璧な空調が心地よい涼しさをもたらし、静かな館内が落ち着いた雰囲気を演出している。特に用が無くとも、ここで時間を潰す生徒は少なくない。
 その最上階である五階に亜美はいた。
 先程の線形代数の授業を途中で抜け出して来たのだ。手紙の主の顔を生で確認するために。
「どこかしらー、いませんわー……」
 窓に張り付き、数十キロ先まで見渡せる超高性能双眼鏡を覗き込みながら、人目もはばからずに黒岩剛一狼を探している。スカートの裾を押さえながら窓際の台に足をかけて更に身を乗り出した。
 そんな事をしなくても倍率を上げればいいだけなのだが、気が焦っている亜美には思いつかない。

『好きです。水比良公園の噴水前のベンチに、今日の九時に来てください。お願いします』

 文面は昨日貰った手紙と全く同じだった。しかし、唯一にして最大に違うのは差出人の名前が書かれていたということ。
 ――黒岩剛一狼。
 確か同じ文学部のクラスメイトの名前だ。ちゃんと亜美の『彼氏候補リスト』の中にも入っている。いつか声を掛けようと思っていたのだが、コレまでにフッてきた男達が何人も彼の周りにいるので声を掛け辛かったのだ。
 しかし向こうの方から声を掛けてきてくれた。これ程の幸運はない。
 そして恐らく、いや間違いなく昨日手紙をくれたのも彼だ。昨日はやはり何かの事情で来られなかったのだろう。だから今日もう一度、わざわざ机の中に忍ばせて置いてくれた。今度はきちんと名前まで付けて。
(もぅ、そう言うことでしたら早く言ってくださればいいのにっ)
 名前を明かしたことから、絶対に来るという意気込みが伝わってくる。
(そんなにワタクシに会いたいのかしら)
 亜美は昨日にも増して有頂天だった。自然と顔がほころんでいくのが分かる。昨晩てっきり、からかわれたと思っていただけに、相手が本気であると分かった時の喜びは一塩だ。
(やっぱり照れ屋さんなのかしら)
 最初から今回のように名前を書いて置いてくれれば、こちらから行っても良かったのだ。だが匿名で、しかも手紙で呼び出しという古風な作戦を採ることから極度の上がり性なのかもしれない。
 ならばコチラとしても気を遣ってやる必要がある。
 今夜は夜が明けるまで待っても良いかもしれないと、亜美は本気で思い始めていた。
「いましたわ!」
 周囲の視線が釘付けになるにも関わらず、亜美は一人快哉を上げて食い入るように双眼鏡を覗き込む。
 理学部棟の一階。亜美の事を財布としか見なかった男達に囲まれて黙々と授業を受けていた。ガッシリとした逞しい体。丸みを帯びた可愛らしい顔つきと、無限の可能性を感じさせる猫目。クラス写真よりも実物の方が遙かに良かった。
 彼氏候補としてあげた男性の一日のスケジュールはほぼ把握している。剛一狼は確か今受けている授業で、今日は終わりだったはずだ。
 ということはコレが終われはすぐに帰って、亜美との待ち合わせの準備を始めるのだろうか。
(ああー、九時になるのが待ち遠しいですわー)
「けどよー、黒岩の奴もえげつない事やるよなー」
 亜美が人生で初めて受ける告白に胸をトキめかせていると、背後からまさに渦中の人物の名前が聞こえてきた。無意識に耳に神経が集中する。
「昨日と同じ賭けもう一回やろうなんてよー」
「どーせ自分が一人勝ちしたモンだから味しめたんだろー」
(昨日? 賭け? 何のことですの?)
 亜美は会話をしている二人を刺激しないように、背中を向けたまま耳をそばだてる。
「春日が水比良公園でどれだけ待てるかってやつだろー? 昨日なんか三十分過ぎても帰んねーんだもんなー。完全に黒岩の一人勝ち。アホらし」
「そーそー、いくら何でも何時間も待つなんて思わねーもんなー。アイツ見かけに寄らずギャンブラーで逆に感心したよ、俺は」
 自分の名前を出され、亜美の体に冷たい物が走った。背中を氷壁に押しつけられているような感覚さえする。そしてこれ以上は聞くべきではないと、直感が亜美に囁きかけていた。だが氷の根が足にまとわりついたように硬直して動けない。
「今日は春日が本当に来るかどうかってところから賭けの対象だな」
「ま、とりあえず来るんじゃねーの? あの女寂しがり屋だし、黒岩の名前出してるし。信じるっしょー」
「じゃ、俺は来ないに千円な」
「しらねーよ、俺」
 意地悪そうな笑い声と共に、悪魔の声が亜美の鼓膜を叩く。
(賭け、ですって……? ワタクシが来るかどうかが、賭け? そんな物のために、ワタクシは落ち込んだり、喜んだり……)
 信じられなかった。一見温厚そうな黒岩剛一狼の本性が、そんなにもドス黒い物だったなんて。
 しかし決めつけるのは時期尚早だ。根も葉もない噂かもしれない。
「けど黒岩の奴、名前出してどーすんだろーな。春日財閥に復讐されるぜ」
「さーな。大方、巧い言い訳でも考えてんだろ」
「じゃ、次はこの賭けがどれだけ続くかって事自体、賭けの対象か?」
「問題は春日がどれだけ浮世離れしてるかってとこだな」
 真に受けていれば怒りで卒倒しそうな会話を聞きながら、亜美はゆっくりと肩越しに振り返った。そして本当に倒れそうになる。
 さっきから話しているのは、剛一狼とよく一緒にいる二人だった。コレで会話の内容が一気に信憑性を帯び始める。
 聞くところによると彼らも『賭け』に参加していたらしいが、首謀者は剛一狼のようだ。さっきまでの幸せだった気分は一気に吹き飛び、代わりに言いようのない怒りが込み上げてきた。
(バカに……してますわ!)
 暗い公園で独りぼっちで待ち続ける自分の姿を、剛一狼は笑いながら見ていた。
(どれだけ寂しかったかも知らないくせに。どれだけ期待していたかも知らないくせに……!)
 財布ではないにしろ、所詮自分は誰かに弄ばれる運命なのだろうか。この先どれだけ努力しても、持って生まれた方向性は変えられないのだろうか。
 そんな黒い感情が亜美の心を塗りつぶして行った。
(だったら、貴方達のその賭けを無茶苦茶にしてあげますわ!)
 真相が分かれば、その裏をとる方法はいくらでもある。お金にモノを言わせるのは気にくわなかったが、この際関係ない。鬱憤が晴れるまで思う存分暴れるだけだ。

 夜の九時。
 水比良公園にコッソリとやってきた亜美は戸惑いを隠せなかった。
(どういう、ことですの?)
 剛一狼がベンチに座っている。賭けをするならば当然隠れていなければならない。
 今の亜美のように。
「お嬢様、ターゲットはあの男ですか?」
 頭に暗視ゴーグルを付け、右手に麻酔弾の込められたエアガンを持ったダークスーツの男が隣で亜美に確認する。彼は実戦経験もある元スナイパー。そして今は春日財閥に雇われた腕利きのガードマンだ。
 亜美は彼に頼んで、賭けを楽しみに来た連中を片っ端から眠らせてもらい、恥ずかしい写真でも撮ってやるつもりだった。しかし様子がおかしい。
「お待ちなさい、心斎橋」
 短く言ってガードマン・心斎橋に待ったをかける。
 暗闇の中で邪悪にほくそ笑む剛一狼の顔を予想していた。ニヤニヤと身の毛もよだつようなイヤらしい笑いを思い描いていた。しかし剛一狼は神妙な顔つきで俯いたまま、じっと何かに耐えるようにベンチに座っている。まるで自分の順番を持つ死刑囚のようだ。
(さっぱり状況が飲み込めませんわ)
 高速のまばたきをしながら、亜美は顔中にハテナマークを浮かべる。何かの演出かとも考えたが、姿を見せてしまっていては賭けなど成立しようがない。
(趣向を変えたのかしら。例えば、彼の告白が成功するがどうか、とか……)
 そしてもし亜美が受け入れれば、ドッキリの様にネタ晴らしを始めるのかもしれない。
 猜疑心に包まれる中、目の前の状況が変わり始めた。
(アレは……!)
 剛一狼に誰かが歩み寄ってくる。それは亜美も良く知った人物だった。

◆黒岩剛一狼の決意◆
 九時十分。
 亜美は来ない。
 だが関係ない。自分にはいつまでも待たなければならない義務がある。受けなければならない報いがある。
 亜美は昨日十二時前まで待っていた。ならば自分は夜明けまででもココにいるべきだ。亜美が来てくれるその時まで。
(春日さんは昨日、こんな気持ちだったスか……)
 湿気を帯びた生ぬるい夜風が剛一狼の足下を走り抜ける。犬の遠吠えがどこからか聞こえてきた。背後で揺れる枝葉のざわめきが不気味な気配を生み落とす。
 ――寂しい。
 大学に入ってから、今のようにたった一人でいることは滅多になかった。常に友達が何人か側にいてくれたし、剛一狼も進んでその状況を作りだしてきた。そうでもしないと大学のキャンパスはあまりに広大すぎる。一人でいると得体の知れない恐怖が足下から這い上がってくる。
 ソレはこの公園も同じだった。
 地区マラソンのスタート地点にもよく使われる水比良公園の敷地は、東京ドームに匹敵する。
 まるで全てから見放され、一人だけ世界に取り残されたような錯覚。
 誰かに話しかけて欲しい。誰でも良いから会話がしたい。
「よぉ、剛一狼」
 そんな思いが天に通じたのか、下を向いて孤独に耐えていた剛一狼の頭に低い声が掛かった。
「し、真宮寺君」
 慌てて顔を上げた剛一狼の視界に飛び込んできたのは真宮寺太郎だった。
 首に銀製のクロスをかけ、Tシャツの上に黒のジャケットを羽織っている。ファッション的な穴の開いたジーンズのポケットに両手を突っ込み、斜に構えて太郎は立っていた。
 長身で均整の取れた体つきに、彫りの深い秀麗な顔立ち。
 テレビに出てくるアイドルと肩を並べるほどの容姿だが、Tシャツにプリントされた、巨大な注射器を持って笑うナース服の女性キャラクターが全てを台無しにしている。
「誰か待ってんのか?」
 剛一狼の隣りに腰を下ろして長い脚を組み、太郎は取り出したタバコをくわえた。
「ま、まぁ……その……」
 懲りずに昨日と全く同じ方法で亜美を呼び出した。
 まるで成長のない自分を知ったら太郎は何と思うだろう。面と向かって告白しろと、きつく言われるかもしれない。そう思うと無意識に言葉を濁していた。
「春日の奴なら来ないぞ」
 だが、太郎の口から出たのは予想を遙かに上回る衝撃的な言葉だった。
「え? な、なんで……」
 どうして亜美への告白を太郎が知っている。どうして亜美が来ないと言い切れる。
 紫煙をくゆらせる太郎に、剛一狼は懐疑的な視線を向けた。
「今日、タマタマ最後の授業をサボりたくなってな。で、ナントナーク図書館行ったんだよ。そしたらグーゼンくだらねー会話を聞いちまってな。そいつらがお前の事、人の不幸見て喜ぶ最低人間扱いしてたんだよ。わざわざ春日に聞こえるようにな」
 誰かが自分の悪評を亜美に知らせた。ソレを信じて亜美は来ない? あまりに唐突すぎる話ではないか。
「お前、昨日春日の前に出ていかなかったろ。そのこと誇張して喋ってたんだよ、そいつらは。春日がどんだけ待ってるかに金賭けてたってな」
 脳髄に直接劇薬を流し込まれた様な衝撃が走った。亜美がその話を聞いていた? 最悪の展開にも程がある。それでは来てくれるはずなどない。
「明日、面と向かって春日に言うんだな。賭けなんてやってませんって」
「……やってたッス」
 呻くような声で言った剛一狼の言葉に、太郎は少し目を大きくして顔だけをこちらに向けた。しかし溜息と共に半眼になり、首を戻す。
「アイツらはお前が主犯だって言ってたぜ。本当か?」
「ち、違うッス! 僕はそんな……!」
「わーってるよ。お前にンな事が出来る訳ねーだろ」
 必死に抗弁しようとした剛一狼の言葉を遮り、太郎はタバコを足でもみ消して面倒臭そうに言った。
「どーせお前は、そそのかされただけだろ。で、そんなクソみたいな事でも断り切れなかった。美しくも儚い友情とやらのためにな」
 皮肉めいた口調で言う太郎に、剛一狼は何も言い返せなかった。
 全くその通りだった。最低だと分かっていても拒否できなかった。のけ者にされるのが、一人だけ別の選択をするのが恐かったから。
「しっかし姑息な手ぇ使いやがる。すべてではないが一部事実ではある、か。もし春日に問いつめられても全力で否定できねーな」
 剛一狼が主犯ではない。しかし賭けに参加していたのは事実だ。最低で、愚かしい行為。間違いだと分かりつつも自分は受け入れた。ソレを無かったことには出来ない。
「何でそんなクズみたいな奴らとツルんでるんだよ」
 声のトーンを下げ、太郎は苛立たしげに言った。
「それ、は……」
「もう分かってんだろ。春日にツマンねーこと吹き込んだ奴らが誰か」
 分かっている。賭けのことまで知っているとなれば彼らしかいない。
 だが、信じたくなかった。彼らは今まで剛一狼にとって――
「お前の友達だよ」
 その瞬間、何かが崩れていった。
 沖の見えない深い海の真ん中に連れてこられ、突然手を離される恐怖。依り所を失い、どちらに進めばいいかも分からない。
「どうして……」
 どうしてこんな事に。どうしてこんな事を。
 今までずっと仲良くやって来たのに。これからも友達で居続けられると思っていたのに。
「これでよく分かったろ。アイツらにとっちゃお前はからかい甲斐のあるオモチャだったんだよ。抵抗しないから遊ばれる。遊ばれてる事に気付かないから余計加速する。ガキでも分かる簡単な図式だ」
 頭の後ろで両手を組み、ベンチに深く座り直して太郎は嘆息した。
 オモチャ――自分はそんなに安っぽい存在だったのか。いつも笑ってくれていたのは嘲笑だったのか。優しい言葉の裏は愚弄で塗り固められていたのか。
 最初、法学部別棟の教室で剛一狼の恋愛を手伝うと言ってくれた時、本当に嬉しかった。彼らとの距離が縮まったのだと思った。しかし、それも彼らにしてみれば暇つぶしでしかなかったのだろうか。
「ま、自業自得だな。悪気はないとはいえお前も春日をからかったんだ。せいぜい頭冷やして反省しな。で、あんな奴らとはさっさと縁を切るんだな」
 彼らの言うことに従っていれば間違いないと思っていた。いや、間違ったとしてもみんな一緒に間違えたのであれば恐くない。一人ではない。悩むのも苦しむのも分かち合える。一人で下した判断に身を委ねるよりはずっとリスクが少ない。
 そう、思っていた。中学二年のあの時から。
「でも僕は……友達と一緒にいる方が……寂しく……」
 剛一狼は途切れ途切れに、口の中で小さく言葉を紡ぐ。
 一人は嫌だ。孤独は恐い。寂しい思いをしたくない。誰かと一緒にいたい。
「っかー! ホントに情けねー奴だな。あー、マジでイライラしてきた」
 紅い髪を乱暴に掻きむしり、太郎は憤りを隠そうともせずにベンチを強く叩いて立ち上がる。
「いいか、最後に一つだけ忠告して置いてやる。ガキの頃からお前を見てきた奴の勝手な言い草だ。適当に聞ぃとけ」
 鋭い目つきで剛一狼を睨み付けながら、太郎は口早に続けた。
「お前、『寂しい』んじゃなくて、『寂しいヤツ』って思われるのが嫌なだけだろ。そんで誰かに金魚のフンみたいに付いてって、友達多いぞーってミエ張ってるだけなんだろ」
 脳天を痛みに似た鋭い刺激が駆けめぐる。勢いよく放たれた太郎の言葉が、自然と思い当たる昔を思い起こさせた。
 小学校から友達は多い方ではなかった。ただ太郎とだけはずっと付き合ってきた。他の友達と遊ぶこともあったし、遊ばないこともあった。一人で絵を描いている時もあった。そうしていても何も思わなかったし、別に『寂しく』もなかった。
 妙な『寂しさ』を感じ始めたのは、やはり中学二年のあの事件以降だ。彼女のようになりたくなくて必死だった。周囲に溶け込んで空気のような存在になりたいと思った。
 そのためにはどうすればいいか。単純なことだ。徹底的に誰かに合わせてしまえばいい。そして合わせる数が多ければ多いほど目立たなくなる。
 何をするのでも誰かと一緒。例え向こうが気付いてくれなくても構わない。勝手にコチラが合わせるだけだ。自分の中で、一人ではないという満足感があればソレで良かった。
 気が付けば、ソレが『寂しさ』を紛らせていると思いこんでいた。
「その点、春日はお前よりもずっと強い。アイツは寂しがり屋だけど、きっと自分で納得するまで孤立してるよ。言っとくけどな、自分より弱い奴に女が惹かれるわけ無いぞ」
 言い返せなかった。何も。何一つとして。
 その通りだと思った。今の自分では亜美を振り向かせることなど出来はしない。軽くあしらわれるのが関の山だ。
「じゃぁな。『モンキー・耳ちゃん』の再放送あるから、俺帰るわ」
 剛一狼に背中を向け、太郎は右手をヒラヒラと振りながら離れていく。少しずつ小さくなっていく太郎の後ろ姿を見ながら、剛一狼は悔しそうに奥歯を噛み締めた。

 昨日、太郎が言ったように亜美は来なかった。
 日が再び顔を見せるまで公園で悩んだ後、剛一狼は文字通り肩を落として家路についた。そのまま一睡もせず、いつも通りに来た大学のキャンパス。
 そして、いつも通り『彼ら』と一緒に歩いていた。
 目の下に濃いクマを作り、危なげな足取りでレンガの埋め込まれた大通り歩く。そんな剛一狼を見て彼らはどうかしたのかと言って来た。一見、剛一狼の容態を心配してくれているかのように聞こえる。しかし彼らの顔をよく見ると、どこか楽しげな笑みを口の端に張り付かせていた。
 まるで計画が思い通りに運んだ時のように。
「シロイワー、俺ちょっと眠いから図書館行ってくるわ。代わりにノートとっといて」
 彼らの一人がダルそうに言うのが耳に入る。
「分かったッス」
 殆ど反射的に言葉が出ていた。
 今までに何度もやってきたやり取り。そして、これからも続くだろうやり取り。
 一晩中悩み抜き、剛一狼は一つの結論を出していた。
(やっぱり、僕にはコレがお似合いッス……)
 諦め。
 結局、自分を変える勇気は持てなかった。
 太郎のように孤独を楽しむことも、亜美のように孤独と戦うことも出来ない。
 今までで一番真剣に自分と向き合った。そして何度も自問自答を繰り返した。その結果出した結論だ。後悔は、無い。
 だが亜美の事は好きだ。せめてこの気持ちだけは大切にしようと思う。そしてもし――もしいつか自分に告白する決心ができて、その時亜美に恋人がいなかったその時こそは……。
「ですからワタクシにそんなこと言われても知りませんわ」
 保留を心に決め込んだ時、凛と張った鈴のような声が前から聞こえてきた。
 聞き間違えようもない。春日亜美。自分よりも遙かに強い心を持った女性。
「だっておかしいだろ。『魚』と『肉』をバランスよく食べなさいって言うけどよー、『魚』って正確には『魚の肉』のことだろ?」
 そして亜美のすぐ近くでする太郎の声。
 殆どキャンパスの大通りでは見かけない意外な二人の組み合わせに、剛一狼達だけではなく彼らを知っている周囲の視線が自然と後を追う。
「ですから貴方は何が言いたいんですの?」
「うむ。よくぞ聞いてくれた。つまり、だ。『魚』と『肉』ではなく、『魚』と『牛か豚か鶏』をバランス良く食べなさいと修正すれば万事解決だ」
「……じゃあ、馬刺しはどうなりますの?」
「ぬぉ! しまった! こいつは盲点!」
 まるで誰かにアピールするかのように声を張り上げる太郎。亜美もまんざらではない表情を浮かべている。
 二人とも楽しそうに見えた。まるで……そう、まるで……。
(……恋人同士みたいッス……)
 胸中で力無く思う。
 正直、羨ましかった。だが関係ない。今の自分にはもう遠い世界のことだ。亜美に合わせる顔など無い。
「おいっ、シロイワ。どこ行くんだよ」
 一緒にいた誰かが自分のことを呼んでる。
 気が付くと、足が太郎と亜美の方に向いていた。何度か人にぶつかりながら、それでも確実に二人の方に近づいている。
(僕は、何してるッスか……)
 そんな剛一狼に気付いたのか、太郎と亜美が足を止めてコチラを見た。いや、正確には太郎が亜美に立ち止まるように言ったようだ。亜美は納得のいかない表情で、訝しげに眉を顰めている。
(もう諦めたはずッス……。春日さんのことは、もぅ……)
 なのにどうして足が動く? 自分はいったい何をしようとしている?
(ああ、そうか。謝らないと……。まだちゃんと謝ってなかったッス)
 一昨日の夜、亜美を一人で何時間も待たせてしまった。その事を自分の口から謝罪していない。このままでは亜美に失礼だ。
「春日さん……」
 自分は今、どんな表情をしているのだろう。やはり情けない顔をしているのだろうか。
「なん、ですの」
 警戒のこもった眼差しが剛一狼を射抜く。
 ――スイマセンでした。
「もう一度だけチャンスをください」
 違う。そうではない。
 ――貴女を呼び出すなんて、僕なんかがやっちゃいけないことだったんです。
「今夜の九時に、昨日と同じ場所で待っています」
 コレも違う。そんなことを言いたかったんじゃない。
 ――これでもう二度と、貴女に話しかけたりしません。
「貴女と二人だけで話したい事があるんです」
 違う違う違う!
 ――言い訳をするつもりはありません。悪いのは全部僕です。
「もう一度だけチャンスをください。お願いします」
 そして、時間が止まった様な静寂が辺りを包む。
 剛一狼を見ている者達は、皆何も言わずに驚愕の眼差しを向けていた。中でも一番驚いていたのは剛一狼本人だ。
 耳鳴りがする、喉がカラカラだ。焦点が定まらない、地に足が着いている気がしなかった。
(僕、は……何を……)
 気が付けば口が勝手に喋っていた。睡眠不足で頭がおかしくなってしまったのかもしれない。
 亜美に向けるはずだった謝罪の言葉は、いつの間にか全く逆の内容にすり替えられ、暗示にでも掛かったかのように淀みなく飛び出していた。
「わ、分かりました、わ……」
 そして亜美からも信じられない言葉が紡がれる。尻窄みに返答し終え、亜美は顔を真っ赤に染めて恥ずかしそうにうつむいた。
「おいおいー、勘弁してくれよー。ナウなヤングはバカアツってかー」
 隣りで太郎が口笛を吹いて茶化したのを合図に、亜美は慌ててこの場を走り去る。
「おやおや、照れちゃってまー」
 そんな亜美の後ろ姿を見ながら、太郎は晴れやかな笑顔を浮かべて剛一狼に歩み寄る。
「やりゃデキんじゃねーか。見直したぜ」
 剛一狼の厚い胸板に拳を軽く打ち付け、太郎は包み隠すことのない賛辞を送って来た。
 胸の衝撃でようやく我に返り、剛一狼はさっき自分が言った内容を頭の中で反芻する。
「ぼ、僕は何て事を……!」
 そして目の前を火花が散る様なショックが剛一狼の体を駆けめぐった。
「か、春日さんに謝らないと!」
「はぁ? 何言ってんだよ、お前。アイツはオッケーしてくれたじゃねーか。今夜の九時だろ。頑張って来いよ」
 オッケーしてくれた? 今夜の九時に来てくれる? 
 正直信じられなかった。太郎がつまらない嘘を付くような性格でないことは知っているが、あまりに受け入れ難い。なぜなら自分は亜美に最低の事をしたのだから。
「か、春日さんは許してくれたッスか?」
「さぁな、自分で直接聞けよ。今のお前ならできんだろ、ソレくらい」
 今の自分なら出来る。
 太郎の言葉が山彦のように剛一狼の耳元で何度も鳴り響いた。
 言った。とにかく言ってしまった。言えてしまった。亜美に面と向かって告白の約束を取り付けてしまった。
 まだ頭が理解していない。ただ心の中で事実を列挙して行っているだけだ。しかしその位で丁度良いのかもしれない。下手に考えを巡らせるよりは、さっきのように思ったままの言葉を並べた方が旨く行くような気がしてきた。
 間違いない。今のが自分の本音なのだ。
 太郎と亜美が親しげ話すのを見て嫉妬し、何かが弾けた。ここで言わなければ一生後悔する様な気がした。
 ひょっとすると太郎はわざと親密なように振る舞ってくれたのだろうか。昨日も公園にまで来てくれたのは、自分を吹っ切らせる為なのだろうか。
「……真宮寺君、ありがとうッス」
「あん? 俺は別に礼言われる事なんかしてねーよ」
 太郎は眉間に皺を寄せ、面倒臭そうな顔つきになって返した。
「それより、他にやることあるだろ?」
 半眼になり、視線を剛一狼の背後にやる。つられて後ろを振り向くと、険悪な雰囲気でコチラを睨み付けている『彼ら』がいた。
「……わかってるッス」
 もう、迷いはない。もう、恐くはない。
 すでに心は決まっている。

「どういうことなんだよ、シロイワー」
「シャレになってねーぞ、アレ。からかうんじゃなかったのかよ、春日のこと」
 工学部棟にある古い食堂の裏。従業員達の休憩所として用いられているプレハブ小屋の影で剛一狼と『彼ら』は対峙していた。
 その数七人。
 皆、剛一狼を下からねめ上げるように睨み付けている。もっとも、身長差で自然とこうなってしまっているだけなのだが。
「あれはウソッス。僕は春日さんのことが好きッス」
 まったく物怖じすることなく、剛一狼はキッパリと言いきった。
 自分よりも強い心を持った女性、春日亜美。剛一狼はそこに大きく惹かれた。だからこそ告白する気になった。
「シロイワちゃーん。聞こえなーい。もう一回言ってー?」
「何度でも言うッス。僕は今夜春日さんに告白するッス。それから僕は黒岩ッス」
 頭に思い浮かんだ言葉を何も考えることなく吐露する。
 もう他人にどう思われるかなんてどうだって良い。今までそんなつまらないことばかり考えて来たんだ。少しくらい我が儘になったところでバチは当たらない。きっと自分は間違っていない。これで彼らに嫌われるのであれば、そこまでの関係だったということだ。
「……ヤベェ。俺、ムチャクチャむかついて来たんだけど」
「俺もー」
 剛一狼はコレまで一度たりとも彼らの意向に逆らったことはなかった。そんな事、恐くて出来なかった。いつも彼らの顔色を窺い、自分の意見など押し殺し続けてきた。
 そんな剛一狼が今、真っ向から刃向かっている。彼らにしてみれば腹立たしいのは当然だろう。嫌われるのは間違いない。だが、そんな事はどうでも良かった。
(僕は、絶対に春日さんに告白するッス)
 強く、何よりも強く心誓う。あらゆる犠牲を払ってでも実行する。
 それがコレまでのウジウジしていた自分への決別の証となるのだから。
「なー、シロイワー。あんま俺ら怒らせんなよ。痛い目見たくねーだろ」
「黒岩ッス」
 思い通りにならない物は力ずくででも言うことを聞かせる。彼らとは一年以上付き合ってきたのだ。最後に暴力に走るのは十分予想できた。
 しかし、今剛一狼の中にあるのは妙な爽快感だけだった。彼らに付き従っていた時には決して得られなかった充実した気持ち。
 間違いない。これでいい。殴られても痛いのは少しの間だけだ。だが、何物にも代え難い晴れ晴れとした気持ちはこの先ずっと続く。彼らと縁を切れば、ずっと。
「黒岩、本気なんだな」
 低く発せられた彼らの一人の声で、さっきまでのふざけた雰囲気が霧散する。
「当たり前ッス」
「じゃあケジメ付けねーとな!」
 一番近くにいた一人が拳を握りしめ、高く振り上げるのか見えた。思わず目をつむり、歯を食いしばる。
 しかし顔面を襲うはずだった衝撃はいつまで立っても来ない。恐る恐る目を開けてみると、見慣れた紅い髪の後頭部が見えた。
「まー、この辺で示談と行こうや」
 剛一狼に向けて振り下ろされた拳を左手でスッポリと包み込み、平然とした顔で太郎は言った。
「テメーには関係ねーだろ! お前もボコられたいのかよ!」
 声を荒げながら掴まれた拳を引く。更に凄もうとする彼の前に、太郎はどこに持っていたのか無言でスケッチブックを突き出した。
「なん、だぁ?」
 何かが書かれているのか、鬱陶しそうな顔をしながらも反射的に彼は読み上げていく。
「『二十にもなって堂々とオタクしてるってだけでもイタいのに、”太郎”なんてどこにでも転がってるよーな安っぽくてダサイ名前つけられてよく生きてられんな。ったく親の顔が見てみてーぜ』……?」
 読みながら何かを感じたのか、最後の方は小声になりながらゆっくりとフェードアウトしていった。
「貴様……言ってはならんことを……」
 地響きのような低い声で呻く様にして言いながら、太郎の体が小刻みに震え始める。後ろで見ていても鬼の形相になっていく気配がハッキリと感じ取れた。
「ちょ、ちょっと待て! お前が言わせたんじゃねーか!」
「言い訳は見苦しいぞ」
 両手を前にかざし、必死になって抗弁していた彼の顔が何の前触れもなく跳ね上がる。ゆうに二呼吸ほどの滞空時間を経て、ボロ雑巾の様になった体が地面に叩き付けられた。
「ま、待てよ! なんなんだよお前! 俺らがお前に何したってんだよ!」
「言いたいことはそれだけか」
 冷たく言った太郎の右腕が一瞬ぶれたように見える。それだけで、半裸状態になるまで服を切り刻まれた二人が地面に這いつくばっていた。
「に、人間業じゃねー……」
 残った四人が後ずさる。恐怖に支配された彼らに悠然と近寄りながら、太郎は髪を掻き上げて言った。
「俺様は高二まで本気でカメハメ波を撃とうとしていたんだ。ま、修行の成果ってやつだな」
「こ、高二まで……何てイタい奴……」
 本当に痛そうに顔をしかめる彼らに、太郎は気取った口調で続ける。
「心配するな、痛いのは最初だけだ」
「え? じゃ、じゃあ優しくしてくれるのか?」
 もはや逃げられないと悟ったのだろう。恭順の意を示すべく、彼らの一人が低頭しながら許しを請う。
 そんな彼に太郎は小さく鼻を鳴らした後、カッと開眼して叫んだ。
「あまりの激痛に、すぐに何も感じなくなる!」
「そんなああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 そして四人分の絶叫が昼前のキャンパスの響き渡った。

◆春日亜美のハッピーエンド◆
 馴染みのカフェテリアにある屋外テラス。亜美は授業をサボってそこで一人、二十五回目の溜息をついていた。
 燦々さんさんと照りつける真夏の陽光を、白い丸テーブルに備え付けられたパラソルの影でやり過ごす。授業中なだけあって周りに人は殆どいなかった。
「はぁ……」
 二十六回目の溜息。その吐息混じりの自分の声が、遠くの方から聞こえてくる叫び声によってかき消される。先程、慌ただしくココを離れていった人達の話では、工学部棟の方で特撮の練習をしているらしい。
 内容は七人の勇者が、血塗られた紅髪を持つ魔王に打ちのめされるという物。演出がかなりリアルらしく、どういう仕掛けになっているのか魔王の手が眩く輝いたり、目から怪光線を出したり、空中遊泳したり、大地をかち割ったりするそうだ。
 いつもなら気分転換にと亜美も覗きに行くところだが、今はとてもそんな気分になれない。
 ――貴女と二人だけで話したい事があるんです。
 ついさっき、剛一狼が亜美に言った言葉。
 その時の彼の顔があまりに真剣で、そして誠実だったため、気が付いたら了承してしまっていた。
(本気……なのかしら……)
 二日前、剛一狼は亜美を呼び出した。しかし彼は来なかった。それどころか賭けの対象として亜美を弄び、侮辱した。
(けど……)
 今こうして冷静に考えてみると、果たして剛一狼にそんなことが出来るのだろうか。あれほど純真な目つきを出来る人が、他人を陥れてソレを嘲笑うなどという低俗な真似が出来る物なのだろうか。
 あの目は以前にも見たことがある。四年前、少しの間付き合っていた、あの北条一弥がしていた目だ。純真で実直で不器用で、頭に馬鹿が付くほどの正直者。
 二度目の手紙など良い例ではないか。
 単純に待ちぼうけを食らわせたいのであれば、わざわざ実名を明かす必要など無い。匿名の方がバレた時のことを考えると、ずっとリスクが少ないのだ。そうしない理由は自分の事を亜美に伝えたいから以外に思いつかない。裏に何か卑しい打算があるとは考えにくかった。
(それに昨日……あの人は本当にワタクシを待っていた……)
 図書館で偶然聞いた話が本当ならば、剛一狼が姿を現して良いはずがない。どこかに潜んでいなければ賭けは成立しないのだ。
 太郎との会話は遠すぎて聞き取れなかったが、見ている限り悪巧みの相談には見えなかった。そして彼が帰った後も剛一狼は一人項垂れたまま、ずっと待ち続けていた。結局、亜美は日が変わったところで心斎橋によって強引に帰らされたが、剛一狼が朝まで待ち続けていたとの報告を受けた。
(分かり、ませんわ……)
 剛一狼が本当は何を考えているのかは分からない。だが、一つだけハッキリしている事がある。
(とりあえず、これで五分と五分ですわ)
 亜美も待ちぼうけを食らったが、それは剛一狼も同じだ。負わされた傷は変わらない。いや、剛一狼の方が朝までいた分深い。
 ならば――
(騙されたつもりでもう一回行ってみるのも、良いかもしれませんわ……)

 八時半。待ち合わせの三十分前に亜美は水比良公園に足を踏み入れた。
(しょ、勝負ですわ……!)
 胸中で自分に活を入れ直し、シルク素材の白いイブニングドレスの胸元を正す。純白の生地の表面には至るところに極小のダイヤが散りばめられ、街灯の光を無数に乱反射させて煌びやかに輝いていた。
 ストレートの黒髪はヘアーアイロンで強めにカールを掛け、ボリュームを持たせてアップに纏めている。目元は殆どノーメイクだが、代わりに厚く引かれた真紅のルージュが濃厚な妖艶さを演出していた。もともと顔立ちの良い亜美だからこそ出来る、メイクギャップを利用した荒技だ。
 長く細い足は何も覆わずに瑞々しい白を惜しげも無く晒し、銀色のハイヒールの高さは気合いの十センチ。
 いったいどこの御曹司に招待されたのだと聞きたくなるような豪勢な出で立ちで、亜美は約束の場所である噴水前のベンチにやって来た。
「あ……」
 そこに剛一狼はいた。
 まだ時間まで随分あるというのに、そわそわと大きな体を落ち着き無く揺すりながら剛一狼はベンチに腰掛けていた。
(ひょっとして、緊張してるのかしら……)
 それは亜美も同じだ。まさか三十分前に来た自分よりも先に待っているとは夢にも思わなかったので、亜美の方は心の準備が出来ていない。ソレをなるべく悟られないよう注意しながら、亜美は胸を張って堂々と剛一狼に歩み寄った。
「早いお着きですのね。良い心がけですわ」
 ヒールを鳴らし、亜美は片手を腰にあてた威圧的な格好で剛一狼の前に立つ。
「え? か、かか、春日、さん……ッスか?」
 目の前まで来てようやく気が付いたのか、剛一狼は驚いたような顔つきで亜美を見上げる。と言っても長身の剛一狼は座った状態でも僅かに顔を上げるだけで、立っている亜美と目線が合うのだが。
「貴方、自分が呼び出した人の顔も覚えていませんの?」
「い、いや、その……大学で見た時と、大分変わってたもんッスから……」
 言われて不覚にも納得してしまう。確かに、今の亜美は外を出歩くような服装ではない。紅い絨毯の敷かれたパーティー会場でグラスを傾けるのがよく似合っているだろう。
「そ、そんなに、変ですの?」
 やり過ぎてしまったかと不安に駆られ、亜美は反射的に聞き返す。
「と、ととと、とんでも無いッス! す、凄く綺麗ッス!」
 ぶんぶんと首を激しく横に振りながら、剛一狼は大声で叫んだ。その言葉に顔が甚大な熱を帯びていくのが分かる。
(き、綺麗って……ひょっとして、ワタクシの、事?)
 すぐに言葉が出なかった。
 咄嗟に出た剛一狼の言葉は、他の同年代のどの男性から言われたモノよりも真実味を帯びていた。
「ア、リガト……ですわ」
 顔を真っ赤にして俯き、呟くような声で小さく言う。
 そして恥ずかしかったのは剛一狼も同じだったようで、彼もまた亜美と同じように紅潮させた顔を伏せた。
「で、は、話って何ですの」
 数分間そうしていたが、何度も深呼吸を繰り返してようやく立ち直った亜美が先に口を開く。
「あ、そ、そうッス!」
 剛一狼が思い出しように声を上げた。
「実は、その……一昨日の手紙、アレ出したのは僕ッス」
「あ、あら、そうでしたの」
 勿論知ってはいたが、あえて知らないフリをする。
「春日さんに迷惑を掛けてしまって、本当に申し訳なかったと思ってるッス……」
 震える声で言って深々と頭を下げた。芝居などではないことは一目で分かる。心からの謝罪だ。やはり間違っていなかったと今更ながらに確信する。
 剛一狼は誰かを騙すような事が出来る人間ではない。きっと一昨日のことも何か事情があったのだろう。
「もぅ、いいですわ。そんな昔のこと」
 柔らかい口調で言って、亜美は剛一狼の隣りに腰掛けた。
「ワタクシも昨日来ませんでしたし。お互い様って事で水に流しましょう」
 横目で剛一狼の方を見ながら小さく笑う。
「あ、有り難うございまッス!」
 妙なイントネーションで言いながら、剛一狼は大きな体ごとこちらに向けて、ベンチに額がくっつくほどに深く頭を下げた。
 素直、そして生真面目。これまで亜美が告白してきた殆どの男達が持ち合わせていなかった物だった。こんな風にかしこまられてしまうと、なんだかコッチが悪いことをした気分になってしまう。
「そ、それで? 話って、これだけですの?」
 いつまで立っても頭を上げそうにない剛一狼に、亜美は上擦った声で話しかけた。
 勿論コレで終わりということはないだろう。本番はこれからなのだ。
「い、いや……もうちょっとだけ、あるッス」
 掠れた声で言いながら剛一狼は顔を上げ、照れたように亜美から視線を外す。
「あ、あの、もし嫌だったら、はっきり言って欲しいッス。これから言うのは、その……僕の凄いワガママなんッス……」
 何を言おうとしているかは、とっくの昔に予測できている。後はその言葉が剛一狼の口から紡がれるのを待つだけだ。
「じょ、冗談半分で聞いてくれてもいいッス……聞いた後に、殴り倒してくれてもいいッス」
 分かった。分かったから早く言って欲しい。こちらもさっきから心臓がバクバクいっていて、呼吸しているのがやっとなのだ。
「蹴っ飛ばしてもいいッス……簀巻きにして東京湾に沈めてくれてもいいッス……大学中に言いふら……すのはちょっと勘弁して欲しいッス……」
 だんだんイライラしてくる。恥ずかしさと緊張に焦燥が混ぜ合わさり、気を抜けば意識が飛んでしまいそうだった。
「も、勿論、聞く前に断るのもありッス……一番の拒否権は春日さんにあるッスから、だから……」
「ああもぅ! 早く言いなさい!」
「す、好きッス!」
 積もりに積もった苛立ちが爆発し、亜美が強い口調で叫んだ。そしてその声に触発されるようにして剛一狼も叫ぶ。
 愛の言葉を。
 二人の間に耳の痛くなるような静寂が訪れた。まるでこの噴水前のベンチだけが周囲の空間から切り取られたように浮き上がり、世界から隔絶されたような錯覚に陥る。
 そんな不思議の世界から最初に戻って来たのは剛一狼だった。
「あ、あのー……」
 申し訳なさそうに猫目を薄く開き、上目遣いでこちらを窺ってくる。
 だが、今の亜美にはその声もどこか遠くの方から聞こえてくるようだった。
(つ、ついに告白されましたわ……。告白されてしまいましたわ……。今まで二十年間生きてきた中で最初の告白。『好き』……ああ、なんて甘美な響き。そう言えばワタクシも男性にこの言葉を使ったことがありませんでしたわ。誘い文句はいつも一緒。『付き合ってみませんか』。『付き合う』と『好き』は似てるけど、全然違うモノ……。やっぱり『好き』の方がストレートに来ますわー。こぅ、何て言いますか、胸がきゅーんと締め付けられるような。苦しいけど心地良いと言いましょうか、目の前は白くなるけど意識はピンク色と言いましょうか……。ああー、雲に乗ることが出来たのならこんな感じなのかしらー。ステキですわー。ステキすぎますわー。『好・き』。人類が生み出した中で間違いなく最上位クラスの言葉ですわー……)
「あのー、春日、さん?」
「ぅわぁ!」
 近くでした剛一狼の言葉で、亜美はようやく不思議の世界からの帰還を果たした。
「大丈夫、ッスか?」
 心配そうに見つめてくる剛一狼。目があった瞬間、亜美は慌てて顔を逸らせた。もはや今の亜美にはまともに剛一狼の顔を見ることすら出来ない。
「そ、それじゃ、今度の日曜日に迎えに行きますから、ちゃんと予定開けて置いてくださいね」
 そして顔を背けたまま拗ねたような表情で早口にまくし立てる。
「へ? こ、今度の日曜日ッスか……。そりゃ、僕は暇ッスけど……でも……」
「『でも』、何ですの?」
「さ、さっきの、答えは、オッケーって事でいいんッスか?」
 さっきの答え? 何のことか亜美には思い当たらない。
「僕の、その……告白……」
 訝しげな顔をしていると、剛一狼が付け加えるように口の中でごにょごにょと言う。
「あ、あら……ワタクシ、まだ返事していませんでしたか?」
 ようやく思い出し、半笑いになりながら返した。
 不思議の世界で答えたので、現実世界でもとっくに答えたと思い込んでしまったのだ。
 亜美はオホン、と咳払いを一つして剛一狼に顔を向ける。
「わ、ワタクシの方こそ、ヨロシクお願いします、わ」
 そして少し頭を下げて、ハッキリと言った。
「ほ、本当ッスか!?」
 鼓膜を激震させるような大声を上げ、剛一狼は信じられないと言った顔で口元を緩めた。まるで子供のように幼く、あどけない表情。それが剛一狼の純真さを何よりも雄弁に物語っている。
 無邪気にはしゃぐ剛一狼を見ながら、亜美の脳裏に一つの心配事がよぎった。
「で、でも貴方の方こそ大丈夫ですの? お友達と気まずくなりませんか?」
 剛一狼がいつも一緒にいるのは、みんな亜美が拒絶してきた男達ばかりだ。もし剛一狼が亜美と付き合っていることがバレれば、いい気分はしないだろう。
「何でしたら大学にいる時は今まで通り別々に……」
「一緒にいたいッス」
 だが、妥協案を持ち掛けた亜美に、剛一狼は僅かな逡巡もなく言い切った。
 この案は今まで付き合ってきた別の男達にも打診してきた物だ。筋違いではあっても亜美は多く男から恨みを買っている。誰だってそんな奴らに目を付けられたくないだろう。下手をすれば完全に孤立してしまうことになる。だからこれまでの男達は皆、この案を呑んできた。
 しかし剛一狼は違った。
「他の人達に気を遣うよりも、僕は春日さんに気を遣いたいッス」
 何も包み隠すことのない剛一狼の本音。それは亜美の心に深く響いた。
「それに……実を言うと、あの人達とは昼間に縁を切って来たッス。だから全然気にする必要無いッス」
「縁をって……そんな。大切な友達だったのでしょう?」
 剛一狼が彼ら以外と一緒にいるところを見たことがない。彼らと縁を切ったという事は、大学内で剛一狼は亜美と二人だけになってしまう。果たして自分にそんなことまでさせる権利があるのだろうか。
「それはちょっと前までの話ッス。今は、その……春日さんの方が大事ッス」
 温かい。ああ、何て温かい。
 誰かの言葉でこれほど胸がいっぱいになった事は今まで無かった。
 剛一狼にはすでに覚悟が出来ているようだ。例え周囲から孤立しても、亜美と一緒に居続ける。その想いが痛いほどに伝わって来た。
 亜美は目元に熱いモノが生まれるのを感じながら口を小さく開く。
「そぅ、ですの。それじゃ、その……ワタクシのどんなところが良かったん、ですの?」
 ならば聞いてみたい。自分のどこに惹かれたのか。
「強いところッス」
 意外過ぎる答えに一瞬言葉の意味が分からなかった。
「強い? ワタクシが?」
 強い、なんて言われたのは初めてだ。
「そうッス。僕みたいに寂しさを紛らせるんじゃなくて、一人でも堂々としているところが凄いッス。強いッス」
 彼は絶対に勘違いをしている。自分は強くなど無い。必死に涙をこらえて、ギリギリの所で耐えているだけだ。相手に弱みを見せまいと、気丈なフリをしているだけだ。
(でも……もうそろそろ良いかもしれませんわ……)
 最初からお金抜きで自分のことを見てくれる黒岩剛一狼という男にならば、コチラも少しくらい最初から弱みを見せても良いかもしれない。
 そうやって徐々に理解して行って欲しい。そしていつか頼れる男になって欲しい。身も心も、全て委ねられるくらいに。
「ワタクシは貴方が思っているような女じゃないかもしれませんわ。それが分かっても、一緒にいてくれますか?」
「も、勿論ッス! か、春日さんも、僕の情けない姿見て幻滅しないで欲しいッス」
 思わず笑いが零れる。
 大丈夫。きっと大丈夫だ。この人となら、きっと旨くやっていける。
 殆ど確証に近い想いが亜美の胸一杯に広がった。
「それじゃ今度の日曜日、電車で遊園地に行って巨大観覧車に乗りますわよ。きっと沢山人がいるでしょうから長い時間並びますわ。覚悟しておいてくださいね」
「た、体力なら自信あるッス!」
 大丈夫。絶対に大丈夫だ。例え孤立したとしても、この人と一緒にいれば気にならなくなる。楽しい時間が過ごせる。
(二人きりで孤立、かぁ……)
 それもいいかもしれない。
 そんなことを考えながら、亜美はそっと剛一狼の腕に手を伸ばしたのだった。 

 〜おしまい〜




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