ロスト・チルドレン〜Slaves of the Nightmare〜

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4th floor in underground.
Laboratory Block. Aisle .
PM 8:53
View point in アミーナ=リーマルシャウト.

 ユティスの体がおかしい。この1ヶ月、ゴルから報告を受けているだけでも5回も発作を起こしている。それに今回のあの感じは……。
 私はヒールを鳴らしながら足早に資料室へと向かった。
 胸騒ぎを覚え、少し苛立ちながらT字の通路を曲がる。その直後、正面に見える資料室の扉をとらえた私の視界の隅で何か小さな物が動いた。
 気のせい……?
 足を止めて辺りを見回す。
 白く塗られた金属製の壁。等間隔に並んだオートロック・ドア。真っ直ぐに続く通路の先には資料室の入り口。そして、飾り気のない空間をわずかに和ませる観葉植物。
 その観葉植物の裏に小さな人影を見つけた。 
「ねぇ」
 私はゆっくりと近づいて声をかける。小さな人影は見つかったことにビックリしたのか、慌てて逃げ出そうとした。しかし、すぐに足がもつれて転んでしまう。
「あ、大丈夫?」
 私は言いながら彼の元に駆け寄り、優しく抱き起こした。
 それはまだ小さな男の子だった。肩口で切りそろえられた金色の髪の毛は軽くウェイブがかかり、エメラルド・グリーンの瞳は宝石のような透明感がある。丸みを帯びた顔は、あどけなく、少し昂奮しているのか小鼻をぷっくりと膨らませながらこちらを見つめていた。
「お名前は?」
 私は彼を安心させるために、微笑みながらそう聞いた。
「……ターシャ」
 消え入りそうな声で彼はそう答えた。首から足下までをスッポリと包み込む白い服を、胸元でギュッと握りしめながら、不安気な眼差しで私の方を見る。
 この服装はバイオドール全員が着せられる制服のような物。遠くからでも実験サンプルであることが一目で分かるように。
「ねぇ、ターシャ。こんなところで何をしていたの?」
 私の問いにターシャはしばらく何も答えず、もじもじと両手を合わせながら上目遣いに視線を送ってくる。
 私は急がせることなく、笑いかけたままターシャの言葉が紡がれるのを待った。
「……草を見てたの」
「草って、あの観葉植物のこと?」
 大きな鉢に鎮座している、青々とした常緑の低木に視線をやりながらターシャに聞く。彼が小さく頷いたのを確認して私は言葉を続けた。
「植物に興味があるの?」
 再びターシャが頷く。
「ボク、ね……大きくなったら、お外でいっぱい、花とか草とか木とかに触りたいの。それでね、いろんな事をお勉強して、みんなにすごいって言われたいの……」

『ねぇママ。ボク、大きくなったらママを守れる強いヒーローになるよ! そしたらきっとパパもボクのことすごいって、ほめてくれるよね!』

 ユティス……。
「そぅ……それじゃあ、沢山お勉強しないとね」
「うんっ」
 ターシャは屈託無く笑う。まるで、無邪気だった頃のユティスと同じように。
 私は自然にターシャの頭を撫でていた。柔らかなブロンドが、サラサラと指の間を通り抜ける。その感触を楽しむように、何度も何度も同じ場所を往復した。そうされることが嬉しいのか、ターシャは目を細めながら、くすぐったそうに笑う。その表情を見た瞬間、目の奥でターシャとユティスの顔が重なった。
 昔はユティスにもよくこうしてあげたっけ。そしたらあの子、本当に幸せそうな顔して……笑って……。
「おばさん?」
 ターシャの心配そうな声で私は我に返った。
「どうして泣いてるの?」
 彼のその言葉に私は慌てて目元に手を当てる。その拍子に暖かいモノが頬を伝った。
 私は、泣いていた……?
 意思とは全く無関係な体の反応に、戸惑いながらも慌てて涙を拭う。そして無理矢理、笑みを浮かべた。
「だ、大丈夫よ。ちょっと、目にゴミが入っただけだから。気にしないで」
 ターシャは何も言わずに小さく頷いた。
「ねぇ、おばさん。また、お話しできる? 今日はもうすぐお薬の時間だから、すぐに戻らないといけないんだけど」
 『お薬』という言葉に、私は一瞬で現実に引き戻された。まるで全身に冷水を浴びせられたように急激に体温が下がっていくのが分かる。
 バイオドールはその行動すべてを監視、管理されている。自由時間だと言われて与えられている今の時間ですら、人工的に植え付けた感情の慣らし運転に過ぎない。すべては優秀なロスト・チルドレンへと生まれ変わるための布石でしかないのだ。
「え、ええ、勿論よ」
 私は、なんて残酷なのだろう。
 彼の感情レベルはすでにかなりの完成度を迎えている。おそらく数日後には手術を受けることになるだろう。そして、すべてを失う。
「ホント? それじゃ、約束っ」
 そう言ってターシャは右手を高々と掲げた。私にハイタッチを求めているようだ。
 約束なんて出来ない。出来るはずがない。私には約束なんて果たせる自信も、結ぶ資格もない。

『約束だよ、ママ? ママは絶対にボクの味方だって』

 ぱぁん、と小気味良い音が周りの空気に溶けて消える。私の右手に小さな掌の感触がわだかまった。一呼吸の後、それはゆっくりと腕を伝って体に浸透し、遠い昔に置いてきた罪悪感という名の古傷を痛いほどに刺激する。
「それじゃーね! バイバーイ!」
 ターシャは嬉しそうに言うと、私の隣を走って通り過ぎた。首だけを後ろに向けて、彼の背中を追う。途中何度か転びそうになりながらも、ターシャは通路の角を曲がって視界から消えた。
 はぁ、と深く溜息をついて立ち上がる。体が鉛のように重い。もう今日はこのまま、熱いシャワーでも浴びて眠ってしまいたい誘惑に襲われた。
「溜息なんてついてると、幸せ逃げちゃいますよ?」
 突然後ろからした声に、私は大きく体を震わせて後ろに向き直る。さっきまでの疲労感が一気に吹き飛んだ。
 そこに立っていたのは、よく知った顔。
「フェ、フェルア。いつからそこに?」
「えーっと、アミーナさんがあの子とハイタッチした時からですかね」
フェルアは肩まで伸ばした紅い髪を大げさな仕草でかき上げながら、視線を上にやった。彼女は組織の中にいる、数少ない女性の友人だ。
 28歳という若さでメカニック系のサブチーフとして抜擢されたフェルアは、オイルの匂いの染みついた作業服をいつも通り普段着のように着ていた。女性の少ない組織の中ではそのフランクな性格が受け、男性には結構人気がある。
「そ、そう」
 よかったわ。見られていたのは最後の方だけだったみたい。
 私は胸中で安堵の溜息をもらした。
「ちょ、丁度良かったわ、今から呼び出そうと思っていたところだったの。前から頼んでいた件、どうなってる?」
 私は唾を飲み込んで強引に自分を落ち着かせると、早口でそう言った。
「あー、バッチリですよ。今から見せに行こうと思ってたところですから」
「そう、それじゃとりあえず資料室に行きましょう。他に確認したいこともあるし」
「オーケー」

『これから神経浸食[ニューロハック]を開始する。大事な記録だ、しっかり撮れよ』
 資料室にある一番奥の個室。そこに私とフェルアの二人で籠もりながら記録映像を再生した。中空に映し出されたモニターの中では私の夫、ジュレオン=リーマルシャウトが部下達に的確な指示を出している。
『手術、開始します』
 映像が映し出した場所は、最下層部にある強化実験室だった。五重層殻の強化ガラスに囲まれた半径5メートルほどの巨大な球状空間。その中で10歳位の男の子が手術台の上で死んだように眠っている。
 そしてその周りを囲むようにして、白衣を着た数人の研究者達が居た。彼らの一人が少し離れ場所にある端末から何かを打ち込む。それに呼応するようにして男の子の頭を、半球の金属がスッポリと呑み込んだ。
『バイオチップ、インサート』
 端末を操作していた男がそう言うと、男の子の体がビクン! と大きく跳ね上がった。
「なんですか? コレ?」
「コレはね。バイオドールをロスト・チルドレンへと変える手術。そして、その失敗例よ」
 今、男の子の頭には無数の探査針が打ち込まれているはず。探査針はまんべんなく脳の血脈に刺さると、その先からナノレベルのバイオチップを注入する。そして、それは脳を支配した後、全身へと行き渡り、体内で安定的に融合することで彼をロスト・チルドレンへと変貌させる。人間性と引き替えに。
『ジュ、ジュオレン博士! 痙攣が収まりません!』
 研究者の一人が、悲鳴を上げるようにそう叫んだ。
『ええぃ! 取り乱すな! すぐに安定する!』
 男の子は、全身を大きく震わせ、腹部に出来た異常な膨らみに振り回され続けていた。その膨らみは、まるで意志を持っているかのように彼の体を上下左右に揺り動かす。ジュレオンは彼から目を離すことなく、他の研究員に落ち着くように命令した。ここまで来たら、こちらの出来ることは何もない。後は運を天に任せるしかないのだ。
「ひっ……」
 隣でフェルアが小さく悲鳴を上げて、画面から目をそらした。
『くそっ、失敗か。適当に処分しておけ』
 ジュレオンは忌々しげにそう言うと、部屋から出ていく。
 球状空間の中では、男の子の腹部がまるで中から喰い破られたように無惨に引き裂かれていた。それを見ていた画面の中の研究員達も、紅く染まった凄惨な光景に顔をしかめている。バイオチップが全身に均等に行き渡らず、一ヶ所に滞ることによって発生する現象だ。
 やはり似ている。単なる思い過ごしではない……確かめなくては。
 私は溜息をつきながら記録映像を消した。
「フェルア、もう大丈夫よ」
 両手で目を覆いながら小さく震えているフェルアに、私は出来る限り優しく声をかけた。
「ほ、ホントですか……?」
 少しずつ手をどけ、さっきまで映像が映し出されていた場所を見る。そしてそれがすでに消えていることを確認すると、安堵の息をもらした。
「はーっ、ビックリした。いきなりあんな物見せるんだモン」
「ごめんなさいね。ちょっと確認したいことがあったものだから」
「でも、バイオドール達全員がロスト・チルドレンに成れるわけじゃないんですね」
 そう言ってフェルアは手を口に当て、何かを考えるような仕草をした。
「ああ、でもね。最近はかなり安定してきたのよ。成功率だって8割を越えているわ」
「知ってます。それでジュレオン博士も機嫌、良いんですよね」
「そう、ね……」
 多分、違う。彼はもうそんなこと位で上機嫌になったりはしない。それにジュレオンは完璧を求める人だから。
「そういえばね、最近あたしロスト・チルドレンになった子と会ったんですよ」
 フェルアはまるで、昔の友達にあった様な感覚で話し始めた。私はその口調に違和感のような物を感じる。
「手術を受ける前までは結構一緒に喋ったり、1回だけですけどご飯とかも食べたりしたんですよ、その子と。元々そんなに明るい性格じゃなかったんですけど、手術後は完全に無口になっちゃって……顔見ても何考えてるのか全然わかんないし」
 違和感が徐々に濃さを増し、おぼろ気だった形が具体性を帯び始めた。
「やっぱり『失った子供達』ってジュレオン博士が命名しただけありますよねー」
 フェルアは感心したようにそう言った。
 ロスト・チルドレンとなった者達は感情、思考、動作、記憶等の人間性を犠牲にして強力なサイキックフォースを発現する。
「まーその子も、つい最近、政府軍と戦って死んじゃったんですけどね」
 発現したサイキックフォースは、そのほとんどが強力無比なものだ。巨大な炎を生み出す、パイロキネシス。一瞬で絶対零度を生む、クライオキネシス。厚さ100ミリの超合金を手も触れずにねじ曲げる、サイコキネシス。
 バイオドールはロスト・チルドレンへと生まれ変わった次の瞬間から兵器と見なされ、即実践へと投入される。すなわち、政府との抗争に。
「それで思ったんですけどぉ、バイオドールを人間の赤ん坊みたいに最初から育てれば、強いロスト・チルドレンができるんじゃないんですか?」
 ロスト・チルドレン達にはある傾向があった。それは、失う人間性が大きければ大きいほど、強力なサイキックフォースを発現するということ。
 でもそれは……。
 私はフェルアに感じた違和感が何なのかをはっきり自覚することかできた。
「例えできたとしても、創るのに時間がかかりすぎてしまうわ。兵器は強力であると同時に量産できなくちゃ意味無いのよ。それに……」
 バイオドールとは言え、それだけの年月をかけて育てた存在を、実験サンプルとして見られるかどうか……。
 フェルアはその辺りの境をキッチリ付けている。恐らく、今のこの状況ではソレが正常なのだろう。バイオドールやロスト・チルドレン1人1人に、感情移入なんてしていたらすぐに精神が参ってしまう。私も4年ほど前まではそうだった。
 けど、今は少し違う。今の私は研究者である前に――。
「アミーナさん?」
 私はフェルアの声で我に返った。
「どーしたんですか? 急に、しかめっ面になっちゃって。そんな顔してると、すぐにローストベーコンみたいに皺だらけになっちゃいますよ?」
 そう言って明るく笑う。
 彼女は強い。今の私には無い強さを持っている。多分自覚はしてないだろうけど……。
「で、『それに』の続きは何ですか?」
 快活な笑みを浮かべたまま、フェルアは私の言葉を促した。
「え? あ、ああ。それに、ね……」
 先程までの会話を何とか頭の中で再生し、私は続ける。
「K値の問題もあるのよ。この値が高すぎると、いくら強力なロスト・チルドレンが出来ても実用性に乏しいの」
「ふぅん……よく分からないんですけど、K値って何なんですか?」
 うーん、と小首を傾げ、顎に人差し指をあてながら可愛い仕草で聞き返してくる。何となく彼女が男性に人気を博する理由が分かったような気がした。
「K値って言うのはね正確にはKind値って言って、ロスト・チルドレンの本質を意味する言葉なの。この値がサイキックフォースを使用した時に体にかかる負荷の大きさを示しているのよ。
 つまり、K値が小さければ小さいほど、強力なサイキックフォースを何度でも連続で使用できるって訳」
 そして負荷が蓄積され、限界を超えた時、ロスト・チルドレンは例外なく壊れる。
「例えば、同じ量のガソリンを補充しても小型の車の方が燃費が良いでしょ?」
 いまいち納得のいかない顔をしていたフェルアも、この例えでようやくピンと来たようだった。指をパチン、と鳴らして何度も大きく頷く。
「なるほどー、じゃあK値が低いほど燃費がいいってことなんですね。ということは、あの子はK値が高かったのかな?」
 そう言って昔を思い出すフェルアの顔に悲壮感はない。まるで昨日のディナーのメイン・ディッシュが何だったのかを思い出しているかのようだ。
 今の私には到底、真似できそうにもない。彼女の強さが本当に羨ましい。
 それとも私が弱くなった? いや、違う。これで正しいはず。私は、もう二度と同じ過ちを繰り返さない。だからこそ、確かめなければならないことがある。
「ねぇ、フェルア。ユティスの体を調べられる方法って無いかしら?」
「え? どーしたんですか? 突然」
 私の言葉にフェルアは目を丸くして聞き返した。
「うん。あの子の体にね、アザが無いかと思って」
 あの子の発作……一度だけ側で見たことがある。あの痙攣は異常だった。それにジュレオンのユティスに対する態度の変化。
 もし私の推測が正しいとすれば、あれはバイオチップへの軽い拒絶反応……。だとすれば、体のどこかに内出血した跡ができるはず。
「ああ、それなら有りましたよ、紫色の跡が。背中とお尻と……あとお腹にもいくつか」
「え?」
 私はあっさり返ってきたその言葉に、思わず間の抜けた声を上げた。
「ど、どうしてそんなこと知ってるの?」
 私の声にフェルアは「しまった……」といった表情を浮かべて口を手で押さえる。彼女は反射的に逃げ出そうとするが、ココは狭い個室の中だ。出入り口はすぐに私が塞いだ。
「さぁ、素直に話して貰いましょうか?」
 私は仁王立ちになり、フェルアを見下ろした。

 知らなかったわ、ユティス……。ママの知らないところで、もう立派な大人になっていたのね。しかも一回りも年の離れた女性と……。
 ハァ、と溜息をつきながら球状記録媒体[オーブ]の映像を消し、私はベッドに腰掛けた。そしてサイドテーブルに置いてある写真立てを手に取る。そこには、私とジュレオン。そしてまだ幼いユティスが写っていた。
「昔はみんな仲良かったのにね……。何でも話せて、隠し事なんて何にもなくて……」
 最近昔の事を思い出すことが多くなった。
 ユティスが生まれた時に見せたジュレオンの笑顔。
 ユティスが初めて自分の足で立った時は、あの人ちょっと泣いてたっけ。
 ユティスが熱を出したときなんか、研究を放り出して、2人で一晩中看病してた。
 朝起きる時も、ご飯を食べるときも、お風呂にはいるときも、夜寝るときも。3人一緒だった。喜びも悲しみも全部3人で分け合って、本当に幸せだった。
 でも、バイオドールの研究が巧く行き始めてあの人は変わった。
『アミーナ! 凄いぞ、この技術は! この荒廃した世界を変えることが出来るかもしれない! そうなればこのジュレオン=リーマルシャウトの名前が歴史に残るんだ!』
 子供のようにはしゃくあの人の姿に、その時は一緒になって喜んだ。でも、今思えば狂気の炎はあの時からすでに宿っていたのだろう。
 あの人は、人が変わったように研究に没頭し始めた。私も彼の熱にあてられたかのようにのめり込んでいった。ユティスを置き去りにして……。
 しかし、あの人の研究成果は政府のトップに認められなかった。そればかりか、『悪魔の行為』と罵られ、研究所から追放された。
 それから、ユティスへの風当たりはますます強くなった。
 家庭内暴力が日常茶飯事のように行われ、私はユティスを庇いながら希望のない生活を強いられた。
 ある日、どこかの組織からスカウトの声がかかった。
『ジュレオン=リーマルシャウト博士の研究成果を我々は高く評価している。是非力を貸して欲しい』
 ジュレオンはほとんど疑うこともせず、その提案に飛びついた。
 研究結果を活かす場がある。
 それは、ジュレオンにとってまさに垂涎の環境だった。その組織が、反政府のテロ組織だと知ったのは、正式に加入した後のことだった。
 ジュレオンの活き活きとした姿を見られるのは私にとっても喜ばしいことだった。彼を支えるために私は必死だった。
 そして、ユティスはますます1人で居ることが多くなった。

 あの時、私は母親ではなく、妻であることを選んだ。 

 ある日、ユティスが泣きながら私の所に来た。『パパが……パパが……』としきりに繰り返しながら、ユティスは私の足元にすがりついた。ほっぺたが赤くなっているのを見てジュレオンに殴られた事はすぐに分かった。
 あの人は、自分の言うことを聞かないユティスを、教育だといって何度も暴力を振るっていた。
 私がジュレオンに抗議しに行こうとした時、彼の方から私の前に現れた。
『探したよ、アミーナ。聞いてくれ、K値が200台のバイオドールが生まれたんだ』
 Kind値……バイオドールとしての本質、そして利用価値を意味する言葉。ロスト・チルドレンとなり、サイキックフォースを使った際の負荷値。
 その値が小さければ小さいほど、優秀なバイオドールであると見なされる。
『ママ……』
 ユティスが不安そうな声を出して私の方を見た。
 私の白衣の裾を小さな手でぎゅっと握りしめ、目には涙を浮かべながら、何かを訴えかけてくる。
『ユティス』
 私はしゃがんでユティスの頭を優しく撫でた。わずかにユティスの顔がほころぶ。
『ちょっと待っててね。すぐに戻ってくるから』
 そして、ユティスから表情が消えた。
 心が痛んだ。でも自分の欲望に抗えなかった。

 あの時、私は母親ではなく、研究者であることを選んだのだ。

 それから、私とユティスの距離は急速に離れて行った。
 私の研究が忙しくなったこともあって、会う機会が減り、会話をすることもほとんどなくなった。
 ――今の研究が一段落したら。
 ずっと自分にそう言い聞かせ、そして研究に没頭した。
 バイオドールの生産効率の上昇。ロスト・チルドレンへの安定的移行。失う人間性とサイキックフォースの関係。
 それらの課題をほぼクリアした頃には、すでに5年が過ぎていた。
 
 ユティスが13歳になった年のある日。あの子は無表情で私にこう言った。
『アミーナ。もう、お前の飯は不味くて食えない』
 アミーナ……母親である私の事をユティスはそう呼んだ。綺麗だったブロンドを真っ黒に染め、目の色もカラーコンタクトで紅く変えていた。それは間違いなく、私たちの血を引いていることへの拒絶の意思。
 私とユティスの距離は、思っていた以上に開いていたのだと言うことを痛いほどに実感させられた。
 どうすればいい? どうすれば、昔のように『仲のいい家族』に戻れるの?
 私はこの4年間、必死にその答えを探し求めた。研究に身が入らす、初歩的なミスを繰り返すことも少なくなかった。
 ユティスと話す機会をできだけ多く持ちたかった。でも、そうしようとすればするほどユティスは私から離れていく気がした。
 ユティスはもう二度と私のことを母親としては見てくれないかもしれない……。
 そう考えただけで胸が締め付けられるようだった。
 ジュレオンにも何度も相談した。けど、あの人の答えはいつも決まっている。
『アレはもう立派な大人だ。親が教育してやる年でも無い。自分のやりたいようにさせるさ。私は基本的に放任主義なんでね』
 放任主義……違う。ただ、無責任なだけ。私たちはあの子に親らしいことをしてやれなかった。だからあの子はあんな風になってしまった。
 もう過ちは繰り返さない。
 私は今、妻でも研究者でもない。母親だ。
 他の何よりも優先して、ユティスには母親らしいことをしてあげなくてはならない。 
「ユティス、ママが必ず守ってあげるからね……」
 ユティスが幼かった時に愛情を注がなかったことが私の罪……。罪は償わなければならない。すでに手遅れかもしれないけれど、それでも私は今できる限りのことをしなければならない。
 そして、そのことを考えれば考えるほど、研究への意思が鈍っていく。
 バイオドールはいわば私たちが生み出した子供のような存在だ。例え人工的であったとしても。彼らはロスト・チルドレンに成るためだけに生み出され、様々な実験を繰り返される。そして愛情を受けることなく成長していく。まるで、ユティスのように……。 
「はぁ……」
 私は写真立てをサイドテーブルに戻し、小さく溜息をついた。目をつぶり、先程まで再生されていた映像を思い出す。
 最近、ジュレオンの様子がおかしい。あれだけ無関心だったユティスに対して接触し始めている。ゴルの話では、特に身体に異常がないかを気にかけているそうだ。
 最初はユティスとの関係を修復しようとしているのだと思っていた。けど、その考えは甘かった。
 今のあの人の目からは、相変わらず父親としての感情が読みとれない。あの目は研究者がサンプルを観察しているときの目だ。
 そして、ユティスの発作の事をゴルから聞いて私の推測は確証へと変わった。だが、まだ証拠がない。今、推測だけで議論してもジュレオンには通じないだろうし、何より私が勘づき始めていると言うことを知らせたくない。
 何か決定的な証拠を押さえるためにも、私はフェルアに頼んでジュレオンの行動範囲に可能な限り盗撮機器を仕掛けてもらった。もちろん発覚した場合に彼女には被害が及ばないように手も打ってある。
 さっきその映像を確認したけど今のところ怪しい動きや言動はない。
「ジュレオン……あなたは間違っているわ」
 もう、あの人は私の夫ではない。私から大切なユティスを奪おうとする狂人だ。必ず私が……。
 ドオォォォォォォン!
 突然響いた膨大な音量に私はハッとなって顔を上げた。このシェルター装甲の地下研究所が揺れている。ただ事ではないことはすぐに分かった。そしてその原因を作った人も。
「ジュレオン!」
 私は叫んで、部屋を飛び出した。




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