死を招き旅館へようこそっ

第三話『こう見えて二人分は生きてます』

神無月二日 友引

 相も変わらず客が入らぬ。どうしたものかと物思ひに耽つてみるも、妙案は浮かばず。やはり相も変わらず中庭にて山菜いじりの毎日。実につれづれなり。ゐと哀しきことかなと溜息つきたるも、漏れ零れるは情け無き己の愚声のみ。涙はとうに尽きてしまつた。

霜月廿八日 仏滅

 冬の冷たさと静けさが身に染みゐる日々。曾孫より便りが届きたる。内容は忌々しきものなり。旅館の権利を委譲せよとのこと。言語道断、唯我独尊なり。破り捨て、細切れにしたるも我の怒りは収まらず。きゃつの狙ひは明々白々なり。旅館権限委譲、これ則ち咲耶水を委譲せよとのこと。非常識ここに極まれり。

師走十日 先負
 
 本日、陽が南天に登る頃。玄孫(やしゃご)より通信きたる。声聞かぬ、顔見ぬようになりて久しき存在。ゐと愛ほしき。さりとて内容は憤慨幻滅。曾孫と同一のことを口にし、我の怒りを激しく掻き立てる。あのような物で得た金銭になど興味はなし。明治元年より続く我が潮招旅館を大きく育てる事、これこそが潮招一族の役割と何故気付かぬ。はなはだ不快なり。

睦月三日 大安

 やはり客は来たらず。旅館の補修費のみが積み重なつてゐく。特に地下室の維持費が甚大なり。しかしなほ経営が破綻せぬは、かつての栄華が残した遺産と、咲耶水が築ゐた少なからぬ金銭ゆゑ。使う目的こそたがへど、咲耶水もたらしたる恩恵はもやは無視できぬ。

如月十六日 赤口

 孫の吠乃介より妙案持ち出される。息子が死に、唯一残された我が同胞。二人のみの潮招旅館作業員の片割れ。『口コミ』とゐふものを利用してみてはどうかと忠言を受けた。思へば老舗の看板にあぐらを掻き、宣伝とゐう物に全くの無頓着であつたことは否めない。決意する。千種の手を用ひてでも、我が旅館を世に再度知らしめると。


「で、まんまと利用されに来たのがあたし達というわけか」
 飛ばし読みしていた日記帳を閉じ、伊紗那は小鼻を鳴らして顔を上げた。
「随分と遅かったじゃないか。暇つぶしにと思って開いたお前の日記、もう全部読み終わってしまった」
 そして肘掛け椅子から立ち上がり、薄く開いた猫目で相手を見据える。
「残念だったよ。同類かと思っていたが……なんだこういうオチか」
 持っていた日記をコンソールパネルの上に放り投げ、軽く顔を振りながら息を吐いた。
「五十丸」


 第三話『こう見えて二人分は生きてます』


「……人の日記を盗み見るのは少々常識に欠けるのではありませんか? 川蝉様」
 薄暗い部屋。
 無数の液晶モニターが放つ朧な光に照らされ、五十丸はちょんまげを小刻みに揺らしながら伊紗那を睨み付ける。
「なら、客にこんな真似をするのは常識的だと?」
 コンソールパネルに軽く腰掛け、伊紗那は慣れた手つきでキーを操作していく。
 緩やかに湾曲する壁に、多段で埋め込まれた沢山の液晶モニター。その一つがナイトモードに切り替わり、モニター内の暗闇を緑色に染め上げた。
 そこには涙やら涎やら鼻水やらを撒き散らし、意味不明な電波ソングを歌いながら、華麗にヒップホップダンスを決める神人の姿があった。
「見ろ! 完全にこの人類史上最も哀れな姿を惜しげもなく晒す愚従兄を!」
「いや……それおやつたのはあんたなのでわ?」
 モニターを手で指して力説する伊紗那に、吠乃介がげんなりしながらツッコム。
「可哀想に……完全に自我が崩壊しているではないか」
 目頭を押さえて言いながら、伊紗那はボタンの一つを無造作に押した。ピ、と機械音がして、神人の映っているモニターの右上に『●REC』と映し出される。
「金、電気と来たからなぁ。次は食料かぁ?」
 クック、と伊紗那は黒笑を浮かべながら、神人の財布から抜いた一万円札を指先でぴらぴらと揺らした。
 神人はこの二人のどちらかが盗んだと思い込んでいるようだが、それは違う。宿代が払えず、それで万が一外に出られでもしたら、今回の計画が台無しになってしまうのだから有り得ない。
 それに五千円だけ残すのも妙な話。あれは一人分の宿代しかない状況で、神人がどんなリアクションをするのか伊紗那が観察したかっただけだ。
(やはりさすがは神にぃだ。私の期待を裏切らない)
 不安げな芝居も打ってみたが、その必要もなかったかも知れない。そんなことせずとも、神人は自分を守ろうとしてくれただろう。
「どうしてこんなことを……いや、どうしてここが分かった」
 歯がみして言いながら僅かに体を前傾させる五十丸。そして彼の視線が僅かに吠乃介の方へと流れ――
「おっと変な動きはするなよ。ウィルス感染の準備は整っている。感染すればここのシステムは完全にダウンだ。リカバリープログラムはあたしにしか組めない。はったりかどうか、試してみるか?」
 エンターキーの上で小さな人差し指を滑らせながら、伊紗那は得意げに片眉を上げて見せた。
「く……」
「どうすんだ爺さん。ヤルのか?」
 言いながら膝をたわめる吠乃介。
「何が目的だ」
 それを腕で制し、五十丸は険しい顔付きで聞く。
「“爺さん”、か……。そうそう。二人の時はそう呼ばれているんだったな、五十丸。あの時もそうだった」
 神人と厨房に忍び込んだ時、廊下を歩いてくる二人の会話。

『なあ爺さん。これでいいのか? 本当にいいのか?』
『何を今更。臆病風にでも吹かれたか』
『でもじいさん。これつて間違つたらイヤガラセだろ?』
『大丈夫、そうならないように最後は種明かしをする』
『種明かしつて……誰も信じんだろ』
『ワシの姿こそが証拠だ』

 あの会話と厨房の前で引き返したリアクションから大方の想像がついた。
 あの時、なぜ中に自分達がいると断定できた。
 張り紙を破り取り、そのままどこかに行ってしまったかも知れないではないか。中には入ったが、すでに出てしまった可能性だってあり得る。
 ならば取り合えず中を調べるべきなんだ。鉢合わせして、こちらに不都合があったとしても向こうには全くない。
 だが自分達との接触を避けた。張り紙の内容をゆっくりと考えさせるために邪魔しなかった。中に自分達がいるという確証があった。
 それは何故か。
 何らかの監視システムが敷かれているからだ。恐らくは赤外線探知系の何かが。
 勿論、最初はかなり飛んだ発想だとは思った。だがそういう風に考えると腑に落ちることが他にもあった。
 急に荒れ始め、いつまで経っても回復の見込みがない悪天候。にもかかわらず乾燥しきっていた室内。そして窓や扉に施された必要以上の板打ち。
 このおかしな現象もこう考えれば説明がつく。
「今日も相変わらず良い天気なのか? 爺さん」
 嵐など来ていない。この旅館の外は丁度良い小春日和だ。
 窓に映った風景は単なる録画映像。はめ殺しになっている窓の外に薄い液晶モニターを貼り付けて、土砂降りの映像をループ再生しているだけだ。だから室内は乾燥している。だから外の様子を知られないよう、念入りに板打ちをしてある。
 そうなると雷の音や、時折感じる揺れは全部人工的に生み出した物ということになる。
 ならば相当大がかりな設備が組まれていると考えるのが妥当だ。
(まぁ、この部屋と日記を見るまでは確信できなかったが)
 一体どれほどの投資をしたのかは知らないし、もっと別の方法でも外敵から身を守ることは出来ただろうが……。
(そんなことはどうでもいい)
 このオモチャのおかげで、色々と“実験”ができる。
(楽しい楽しい人体実験が、な)
 コンソールから一旦身を離し、伊紗那は肘掛け椅子に座り直す。
「さて」
 そして流れるような動きでキーを叩き始めた。
「お、おぃ。結局何が目的なんだっ」
「お前達に協力してやる」
 焦った様子で言ってくる五十丸に、伊紗那は喜色を孕んだ声で返した。
「……は?」
「お前達に協力してやると言ったんだ。要するに神にぃを恐がらせてここの旅館の印象を強く植え付け、そのことを他でも吹聴させるのがお前らの目的なんだろ? 口コミで旅館宣伝するのが」
「い、いやそれはそうだが……。恐いだけだと悪い印象しか……」
「心配するな。悪いようにはしない」
「良くする気もないだろ! 絶対!」
「江戸時代生まれのジジイのくせに細かい奴だ」
「関係ないだろ!」
「おい吠乃介。貴様に任務を与える」
「無視すんな!」
「何おすればいいんですかぃ、お嬢」
「お前もひざまづくな!」
「さぁて。楽しい楽しいパーティーの幕開けだ」
「ここはワシの旅館なのにいいいいぃぃぃいぃぃぃぃ!」
 五十丸の絶叫がコントロールルーム内に轟いた。

「……あれ?」
 暗闇の中、一階廊下で一人ままごとに没頭していた神人は顔を上げた。
「今……人の声が……」
 そして少しだけ闇に慣れた、どろりと病んだ目で辺りを回す。
「は、はははー……気のせいかー……。そーだよねー……。ここにはペレストロイカねーたまと、白刃取りかーたましかいないもんねー……」
 が、またすぐに自分の世界へ引きこもると、危ない笑みを張り付かせて電波を垂れ流し始める。
「さーて、じゃー次は将棋オセロトランプでもして――」
 バツン! という音がして周囲に光りが戻った。
「うおっ! まぶし!」
 不意に飛び込んできた光量に、神人は反射的に目を瞑る。が、元々薄暗かったのを思い出して、ゆっくりと目を開けた。
「ななななななな何でござるか。いききききききなり電気が付いたアル」
 逆立ちの状態で体を持ち上げ、神人は改めて周囲に視線を向ける。
「ぬ……」
 誰かがいる。
 階段の近くで真っ直ぐにこちらを見据えてきている。上下逆転した視界の中で、自分と同じ体の向きを――
「へ……?」
 天井に張り付いたヤクザ顔の老人が、
「吠乃介さん!?」
 右手に何かを持って――いや抱えて――誰かを抱えて――
「な……」
 見覚えのあるパンダ柄の靴下――
「伊紗那ちゃん!」
 神人が立ち上がるのに合わせるようにして、吠乃介も廊下に着地する。はっぴにつつまれた細長い左腕には、こちらに臀部を向けた体勢で伊紗那がだらりとぶら下がっていた。
「伊紗那ちゃん!」
 もう一度名前を呼び叫ぶと同時に神人は膝のバネを爆発させる。そして一回の跳躍で吠乃介との距離を詰め、伊紗那の体に手を伸ばす。
 が――
「こちらです」
 声は上からした。
 いつの間にか二階階段の手すりに飛び移っていた吠乃介は、高い位置から視線を落としてくる。
「おい待て!」
 そして神人が廊下を蹴るのと同じタイミングで、吠乃介が二階奥へと姿を消す。
(絶対つかまえる!)
 四段飛ばしで階段を一気に駆け上がると、そのまま勢いを殺すことなく吠乃介の背中に狙いを付けた。
「伊紗那ちゃあああああぁぁぁぁぁん!」
 老人の腕の中で激しく上下する伊紗那の顔。それを視界の隅に収め、神人は廊下を駆ける。一歩踏み込むたび、足の裏の皮がそげ落ちそうな感覚に襲われるが痛みはない。
 今はそれよりも。そんなことよりも――
「返せえええええぇぇぇぇえぇぇぇぇぇ!」
 絶叫と共に神人は爪先に全体重を掛けた。体を前傾させ、床を抉り抜く勢いで蹴り脚を振り切る。重力から解き放たれて宙を舞う神人の体。緩やかな放物線を描き、伸ばした腕が吠乃介の肩に触れ――
「ッ!?」
 吠乃介の体が突然視界から消える。
「っ、ぅわ……!」
 まるで支えでも失ったように全身が泳ぎ、そのままバランスを崩して壁に激突する。
「痛ッ、……!」
 反射的に体を丸めて腕を庇ったが、肩の関節が外れたと錯覚する程の激痛がわだかまった。
「クソっ……」
 それでも何とか立ち上がり、神人は辺りを見る。
 吠乃介の姿はどこにもない。だが痕跡は残っている。
 ――はっぴが部屋の前に置き去りにされている。
 自分達の宿泊部屋の前に。
「……」
 どう考えても脱げるはずのない物体が置かれている。
 しかも綺麗に畳まれて。
「何なんだ……」
 逃げたいのか、それとも追ってきて欲しいのか。
 ヒントなのか、そとれも罠なのか。
 恐らくはどちらも後者だ。
 あの吠乃介の素振りはこちらを誘っていた。そして誘われた先には罠がある。そう考えて間違いない。そう考えて油断することなく進むしかない。
(伊紗那ちゃん……)
 自分が目を離したせいでこんなことになってしまったんだ。どんな危険を冒してでも彼女を救う義務がある。
「よしっ!」
 バターン! と神人の気合いに合わせて横手から轟音が上がった。
「あああああゴメンナサイ御免なさいごめんなさいいいぃぃぃぃいいいぃぃいい!」
 条件反射的に音のした方に猛謝罪する神人。
 肩の痛みも忘れて土下座し、その状態から恐る恐る顔を上げて――
「へ……?」
 壁がない。
 いや正確には壁はあるが、目の前に壁はない。
 さっきまで壁だった場所には、平然と廊下が続いている。
「二重、壁……?」
 そんな言葉が本当にあるのかどうかは知らないが、自分がタックルした壁は床に横たわり、その更に奥にもう一枚の壁が現れていた。そして左右には部屋が一つずつ――
「これって……」
 ある種のひらめきを抱き、神人は倒れた壁を越えて左側の部屋に入った。全く同じ間取りの部屋。一階の部屋もそうだった。
 だがこの部屋には一つだけ他の部屋とは決定的に違う点がある。
 それはあらかじめ知っていなければ決して気付くはずのない、小さな小さな相違点。だが知っている者にとっては、絶対的とさえ称せる程の致命点。
「あっ、た……」
 年代物の木彫りの熊。
 その額に付いた微小な凹み。沢山ある古い傷とは明らかに一線を画する、しかし注意して見ないと分からない些細な変化。 
「ここが最初の部屋なんだ」
 誰に言うでもなく、神人は独り言のように呟いていた。
 さっきまで自分達の宿泊部屋だと思っていた場所は、一つ隣りの部屋。内装が違って当然だ。
「僕達の泊まっていた部屋……。二階の“一番奥”……」
 そう。その程度の認識しかなかった。
 決して、“手前側からいくつ目の部屋”という覚え方はしていなかった。
 だから一部屋くらい減ったとしても気付かなかった。壁に一番近い部屋が自分達の部屋なんだと思い込んでいたから。だから新しく壁ができると、その手前が宿泊部屋なんだと勘違いする。
 気付いてしまえばあまりに単純なトリックだ。
 少々大がかりだということを除けば。
(まぁ……)
 廊下がルームランナーよろしく動き出すような旅館だ。別にこのくらいのこと何でもないのだろう。
(そんなことよりもどうして部屋が変えられたのかだよ)
 当然何か狙いがあってのことなんだろう。
(五十丸と吠乃介の目的……)
 具体的に何かは分からないが、大雑把に考えて三つ。
 単に混乱を招きたかったのか、それとも元の部屋に戻したくなかったのか、あるいは新しい部屋に導きたかったのか。
 だが混乱を招くにしては分かりにくすぎる。
(となると二つ……)
 どちらかは分からないが、新しい部屋の前に吠乃介のはっぴが置かれていることを考えると――
「まぁ、そうだよなぁ」
 やることは当初の予定と全く変わらない。この旅館の異常性が更に浮き彫りになったということくらいしか違いはない。いや、異常なんだとはっきり認識できたおかげで少し落ち着いた気がする。開き直れた。
 ここから先、多少おかしなことが起こったとしても、それがこの旅館内での出来事であるならば対処できる。受け入れられる。
「『中庭』、か……」
 恐らく、待っているのはそこ。
 そこに伊紗那がいる。五十丸と吠乃介も。
「よしっ」
 気合いを入れ直し、神人ははっぴを踏み越えて部屋の扉を開けた。

 液晶モニターの前。
 肘掛け椅子に浅く座って脚を組み、伊紗那は自分のほっぺを揉みほぐしながら満足そうに頷いた。
「どうだ? 貴様の予想とはすでに大分違ってきているのではないか?」
 そして隣で呆然と立ちつくしている五十丸に、意地悪な口調で声を掛ける。
「なん、なんじゃ……あの身体能力は……」
 地の喋りを隠そうともせず、五十丸はクリクリの双眸を大きく見開いてモニターの一つを見つめていた。
 それはさっきまで吠乃介と神人の激走が映し出されていた五台目のモニター。二人の動きが速すぎて、カメラ五台掛かりでようやく捉えられたのだ。
「別人ではないか……。吠乃介が振り切るので精一杯、じゃと……?」
「ドーピングしているのは貴様らだけではないということだ」
 お団子に纏めた髪を一旦ほどき、また結い上げ直して伊紗那は得意げに言う。
「……ど、どういうことじゃ? まさか、あの若者も咲耶水を……」
「サクヤスイ? ああ、コノハナサクヤから取ったのか。日本書記に出てくる、日本で最初に米から酒を造った女神だな。神の酒ということか。なるほどなるほど」
 耳たぶを伸ばしては放し、伸ばしては放しを繰り返しながら、伊紗那はモニターの中で部屋中を物色している神人を機嫌良さそうに見つめた。
「まさかお前が調合……」
「神にぃは優秀な人間なんだよ」
 五十丸の言葉を遮り、伊紗那は続ける。
「あたしが今まで出会って来たどの人間よりも素晴らしい資質の持ち主だ」
 それはまるで我が子を誇るような喋り方で――
「類い希な才能を秘めている」
 それはまるで慈しむような喋り方で――
「あたしと最高に相性がいいい」
 それはまるで愛おしい人を――
「最高のモルモットだ」
 笑みが真横に裂けた。
「凄いんだぞ、本当に。私が何をしても壊れないんだ。紙の切れ味をどこまで増せるかの試し斬り素材にしても、目覚まし時計の音量を五百倍に改造しても、全身の毛穴に植毛してみても、消し去りたい過去を一ヶ月睡眠学習させ続けても」
「いや、あの……」
「三半規管を局所麻酔してみても、ソーラーパネルの電気刺激で筋繊維を収縮運動させてみても、それで強制的に十キロ全力疾走させてみても、睡眠時無呼吸症候群のギネス記録に挑戦させてみても!」
「あの、ですね……」
「初恋の相手がキモオタデブとイチャついている現場を見せつけても! そのキモオタデブが他のモデル級美人と二股かけている事実を見せつけても! そのモデル級美人がなぜか神にぃの顔写真をガムの包み紙専用紙にしている証拠を見せつけても! 実は全て神にぃの精神を抉り壊すためにあたしが仕組んだ罠だという真実を突き付けても!」
「あんた鬼ですか」
「神にぃは壊れないんだよ……」
 中空に熱の帯びた視線を投げだし、伊紗那はほぅと桃色の息を吐いた。
「いや、そんな恋する乙女の瞳で恐いこと並べ立てられても」
「とにかく、神にぃは強いぞ」
「まぁそんだけ特殊訓練強いられればね」
 五十丸はすでにどこか投げやりだ。
「あとな」
 紅潮したほっぺを軽く叩いて伊紗那は椅子に座り直し、
「納得して受け入れた神にぃは、さらに強いぞ?」
 瞳を僅かに潤ませながら言ってパネルのボタンを押した。

「ぇおぇはえわフううぅぅぅぅぅぅぅン!」
 情けない声を裏声混じりに上げ、神人は天井に後頭部を強打した。
 押入の奥をもう一度探していた時だった。また電気が消えたのだ。一瞬、外から襖を閉められたと勘違いして動揺してしまった。
(……けどまぁこの旅館じゃ普通か)
 もう突然の停電くらいでは驚かない。
 すでにそう理解したのだから。
「っと……」
 迷い巫女侍『ヨーグレッチョ』の決めヨガポーズを解きながら、神人は何事もなかったかのように押入から出て――
「お」
 電気が復旧した。
「何だったんだ……」
 そして襖を閉めようと振り向いた時、影の中に別の影を見付けた。 
(何だ……?)
 それはさっき頭をぶつけた天井。暗がりの中にもう一周り濃い色を持つ闇がポッカリと口を開けている。
(入口……)
 屋根裏部屋への。綺麗な円形に打ち抜かれていることから、明らかに人の手が掛かっていることが窺える。軽く触れたくらいでは動かないが、強く叩けば外側に抜け出る仕掛けになっていたのだろう。
(誘ってる)
 偽の壁でこの部屋に誘導し、そして今度は――
(『中庭』に)
 停電も勿論偶然ではない。どこかで誰かが操作しているんだ。いつまで経っても先に進まない自分に待ちくたびれたのだろう。
「……よし」
 相手の思い通りに動くというのは危険極まりない行為だが、今はそんなことを懸念している場合ではない。伊紗那の命が掛かっているかも知れないのだ。自分の不注意のせいでこの事態を招いてしまった以上、その収集に自分の命を掛けるのは当然のこと。
(真っ暗だね……)
 屋根裏への入口に上半身を突っ込み、辺りを見回すが当然視界は閉ざされたままだ。 
「っぬ、くっ、と……」
 入口の縁に両腕を付き、渾身の力を込めて上体を持ち上げる。そのまま爪先を何とか縁に引っかけ、たわめていた脚を精一杯伸ばして闇の中に全身を放り込んだ。
「ぜぇっ、はっ……ひぃ、ほぇー……」
 不格好ながらも屋根裏によじ登り、神人は改めて周りを見た。
(どっちに行けば……)
 今居る場所は真下から差し込んでくる明かりで多少視界はあるが、一歩踏み出せば完全な闇だ。携帯のディスプレイをランタン代わりにしても、せいぜい手元くらいしか照らせない。
(となれば――)
 迷い巫女侍『ヨーグレットチョ』の得意技。
「ドスコイ当て勘!」
 股を開いて重心を低く構え、
「明日はどっチョぉ!」
 右脚を高々と持ち上げてしこを踏んだ。
(見えた!)
 屋根裏の全景が。
 純白の光で煌々と照らし上げられた、メタリックな景観が。
「目が! 目がぁ!」
 眼球に突き刺さった圧倒的な光量に、神人は身をよじらせてもんどり打つ。
(おのれぇい! あえてバランスを崩したしこを踏み、その時右足の薬指が向いていた方向が正解ルートというヨーグレッチョの画期的な打開策をぉ!)
 自分の気合いに沸騰水を差され、気持ち悪く悔しがりながらも神人は目を見開く。さっきまでは完全に白んでいた視界が少しずつ色を取り戻し始めている。
「なに、ここ……」
 そして視力が半分ほど回復した時、神人が見たのは近未来の映像風景だった。
 三メートル程の高さの天井には、両端に整列するようにしてLED電球が並んでいる。その真下には金属で補強された溝が列をなし、流れる水が光を反射して煌びやかに輝いていた。
「秘密結社の隠し部屋……?」
 恐らく通り道だろう“歩道”は金属で整備され、水の流れと同じ方向に矢印がマーキングされている。そこかしこに配置されたカメラはそれぞれが赤いレーザー線を放ち、こちらを監視するかのように見下ろしていた。
「いや、いやいやいや……」
 困惑しつつも“歩道”に立つ神人。直後、モーター音が低く鳴り響いたかと思うと、ベルトコンベアーのように動き出して神人を運んでいった。
「いやー……」
 もう驚かない。このくらいでは驚かない。
 この動く歩道はすでに体験済みだ。だから驚くに値しない。
 例えその先がエレベーターに繋がっていて、一階に下ろされたとしても。草の香りが鼻腔をくすぐり始めたとしても。水の流れが集約し、巨大な金属掘に流れ込んでいたとしても。
 そして――
「吠乃介……」
 その前に野性の極道が仁王立ちになっていたとしても。
「ようこそ神の庭へ。雨虎様」
 腕組みを解き、吠乃介は三白眼を更に鋭くして言った。
「伊紗那ちゃんはどうした」
「別室で眠つておられます」
「返せ」
「ただでという訳にわ」
「金か」
「いえいえ……」
 口元を笑みの形に曲げ、吠乃介は首の骨をゴキンゴキンと鳴らす。
 はっぴの下に着ていた白いシャツ。そのシャツが一瞬、内側から盛り上がったように見えた。
「力ずくで、ということでわいかがでしょうか」
 顔全体が喜色に満ちる。これから始まることを想像して、悦びを隠しきれないと言わんばかりに。
「ご老体にムチ打つようなことは止めた方がいいのでは?」
「なに」
 シャツを脱ぎ捨て、吠乃介は上半身を露わにする。一瞬、無数の傷や厳つい刺青を想像したが、そんなものは一切ない。その代わり、しなやかに引き締まった筋肉が吠乃介の骨格を覆っていた。
「まだまだ若い者にわ負けません」
 腕を震わせ、力を込めるたびに膨らんでいく肉の鎧。表面に走る血管は躍動するかのように脈打ち、エネルギーの塊が通っているのではないかと思わせるほど生気に満ちあふれている。
「神の水より得た宝。身をもつて味わつて頂きましょうぞ」
 言い終わるや否や、吠乃介が頭から突っ込んでくる。
「ちょっ……!」
 五メートルはあった間合いを一息で詰められ、堪らず声を漏らす神人。それでも反射的に後ろに飛び退き、正拳突きの直撃を避ける。
「ガッ……!」
 だが間髪入れずに飛来した回し蹴りが右頬をとらえる。衝撃で金属の床に叩き付けられる。が、両手足を使って衝撃を吸収し、跳ねるような動きで距離を取った。
「なかなか動けますな、雨虎様。さすがお若い」
「あんた、その老人の皮早く取った方が良いよ」
 口の中に広がる血の味に顔をしかめながらも、神人は軽口で返す。
「いえいえ」
 鼻から息を抜いて吠乃介は軽く頭を振り、 
「人とわ生まれ、時経て老い、最後にわ死ぬが定め。その流れに背くような真似わしたくないのですよ」
 眼光が深みを増した。
(やばっ……!)
 咄嗟に横転してその場から離れる。そのまま動きを止めることなく、身を屈めて前に飛び出す神人。
 直後、背中のすぐ近くを空気の塊が通り抜けていった。
(かわした!)
 別に吠乃介の動きが見えていた訳ではない。だがとにかく相手の攻撃を空振らせることが出来た。
(なら今度は……!)
 僅かに生じた隙にこちらの拳を――
「げぅ……!」
 脇腹を踏みつけられ、金属床に縫い止められる。
「くっ……」
 それでも相手のくるぶし目掛けて肘を打ち出すが、先読みしていたかのように脚が放れた。
(なんて反射神経……)
 踏みつけにしても、その後の引きにしても。
 体内にわだかまる鈍い痛みに顔を歪ませながら、神人はその場にゆらりと立ち上がった。
「手加減しているとわいえ、なかなか頑丈ですな。雨虎様」
 軽くジャンプしてリズムを刻みながら、吠乃介は小さく感嘆した。
「……そりゃあ、返して貰わないといけないからね」
 レンズにヒビの入った眼鏡を掛け直し、神人は薄く笑みを浮かべる。
「じゃないと僕は僕を許さない!」
 両拳に力を込めて神人から仕掛ける。正面から、しかしジグザクな動きで吠乃介の視界を揺さぶりながら。
 相手は動かない。ただ一定の振幅で体を上下させて――
(ここだ……!)
 吠乃介の足が地面から離れたのを狙い、神人が一気に間合いを詰める。
「ああああぁぁぁぁあ!」
 絶叫と共に右拳を繰り出す神人。その一撃は着地した吠乃介の胸部に吸い込まれ――そして着弾した。
(手応えアリ!)
「こんな非力でわ」
 悠然とした声が振ってくる。 
「私の大胸筋お貫くことなどできませんよ?」
 そして頭上から衝撃が突き刺さった。

「お、おい。マズいじゃろ。いくらなんでもこれはマズいじゃろ」
 薄暗いコントロールルームでおろおろとしながら、五十丸は身動き一つしない伊紗那に焦りの声をぶつけた。
「まぁ、手こずっているな」
「吠乃介は手加減しとるんじゃ! けど雨虎様が諦めないから……! いつか本気になるぞ! そうなったら……!」
「五十丸」
 少し体を揺らし、伊紗那は椅子ごと体を回転させて五十丸の方を向いた。そして唇を尖らせて眉間に皺を寄せ、心底不思議そうな表情で続ける。
「どうしてお前が神にぃの心配をするんだ」
「客人の心配をするのは当然だろーが! ってかお前が真っ先にしろよ!」
 顔を紅潮させ、まるで外見通りの子供のように五十丸は口調を荒げる。
「落ち着け茶坊主」
「誰が茶坊主だコラァ! とっとと吠乃介止めろよ! もう危険だっつの!」
「神にぃは――」
 また椅子を回転させて液晶モニターの方に向き直り、伊紗那は含み笑いを浮かべて神人の姿を見つめる。
 虚しく空を切る攻撃。浴びせられる数多の打撃。
 しかし、それでも――
「雨虎神人という人間はな、あたし以上に変わり者なんだよ。考えてもみろ。こんな頭のおかしい天才児様にずっと付き合ってくれているんだ。まともな神経の持ち主な訳がない」
「は、ぁ? お前何言って……」
「唯一の存在なんだ。あたしにとって。唯一、あたしという人間を理解してくれる変態なんだよ。神にぃは」
「だ、だったら尚のこと……!」
「嬉しいんだよ、あたしは」
 打たれても打たれても何度も何度も立ち上がって。
 どこにいても同じだ。彼は何も変わらない。自分と一緒にいる時でも、いない時でも。ずっと同じ姿でいてくれる。
 他の人達と違い、最初から全く変わらない。表裏なく、バカ正直で、分かり易い。
 今だって、どうしてあんなに必死になってくれているのか。
 それに比べて自分は――
「だからこそ。唯一だからこそ。こういう形でしか伝えられないんだ」
 それを最初に教えてくれたのは両親だった。
 彼らにとって自分は唯一の、たった一人の娘。ただし普通とは違い、知能指数208という異常値を叩き出した娘。
 可愛い気のない発言、行動。年不相応な口調、表情。行きすぎた知性、感性。
 全てが周りとは不釣り合いで、異様で、奇怪で。どうしても世間の流れに沿うことが出来なかった。
 努力はしたが、残念ながら芝居の才能は備わっていなかった。
 初めての子育てを彼らは“失敗した”と思った。
 小学校に上がった時くらいから感じていた後ろめたい視線、感情。常にこちらを気遣い、うかがい、本心を包み隠し続ける生活。
 歯がゆかった。
 両親にそうさせてしまう自分が。
 憎かった。
 どうして両親がそうなってしまったのか分かる自分が。
 しかしある時、急に別の理解が浮かんだ。
「あたしの気持ちは歪みきっているからな」
 それが彼らの愛情表現の仕方なのだと。
 気遣い、うかがい、距離を置き、他人の娘のように接する態度こそが、自分を想ってしてくれていることなのだと。そうすることがお互いの傷を最小限で済ませられる方法なのだと。
 ただ、唯一の。
 たった一つの。
 そう思った瞬間、急に気持ちが楽になった。軽くなった。
 別に良いではないか。この広い世の中、色んな種類の愛情表現があったとしても。
 自分独自の愛情表現。きっとその方が深く染み渡る。深く分かり合える。
 両親は自分達も傷付き、そしてその傷をこちらにも分け与えることで絆を深めようとした。同じ傷を負うことで太い心の繋がりを持とうとした。
 きっとそうだ。そう理解した。
 なら自分と神人とだって同じことができるはず。全く同じではないが、互いに傷を負いながらもそれを良しとし、受け入れ続けられるはず。受け入れ続けてくれるはず。
(まぁ、今はまだ、随分と片寄っているが……)
 自分がもう少し強くなったら――
「それとな」
 首だけを動かし、肩越しに五十丸の方を見ながら伊紗那は柔和に微笑む。
「手こずっていると言ったのは神にぃの方だぞ?」

 肩で息をし、顔を腫らしながらも神人は立ち上がった。
「……ろう、した? ひょんな……フラついれ……」
 口の中が切れているせいか、痛みで喋りづらい。脳を揺らされて呂律が回っていないことも拍車を駆けている。
 しかしそれでも薄ら笑いすら張り付かせ、神人は体をふらつかせながらも一歩前に進む。
「な、なぜ……」
 両腕をダラリと下げ、吠乃介は一歩引いて距離を取った。
 何か打撃を受けたわけではない。神人の拳は一度も吠乃介に届いていない。
 だが疲労は蓄積する。それは全身から吹き出す大量の汗と、目を血走らせて呼吸を荒げる様からも明らかだ。
 吠乃介はもう両腕を持ち上げることすらできない。立っているだけでやっとだろう。
「ろうして、こんな打たれ強いのかっひぇ……? ほりゃあ……鍛へ、られれるかひゃ、ね……」
 伊紗那に。
 肉体的にも精神的にも。
 あれだけ色んな“実験”に付き合わされ、それに耐えたり逃げ回ったりしていれば否が応でも体力が付く。打たれ強くもなる。
「さぁ……返ひて、貰ふ……」
 それまでは絶対に倒れることはできない。そんなことは許されない。
 そう決めたんだ。そう勝手に約束したんだ。 
(僕は途中で逃げ出さない)
 昔からもやしっ子で、何でも中途半端で、いつもヘラヘラしていて、周りに合わせて、合わし切れなくて疲れて、傷付いて。
 そんな自分でも誰かの役に立てるのだと教えてくれたのは伊紗那だった。
 自分だけに笑顔を見せてくれた伊紗那。初めて体験した奇妙な優越感。
 叔母も言っていた。

『あの子が初めて口にした言葉ってね、“かみにぃ”なの。パパでもママでもなく、かみにぃ……』

 寂しそうな表情で、消え入りそうな声で。
(けど、僕は嬉しかった)
 初めて胸を張れることができた気がした。伊紗那の存在が自分を救ってくれる気がした。伊紗那が自分の価値を生み出してくれる気がした。
 一周り近く年の離れた女の子にそんなことを求めるなど情けないが、それでも。
(それでも嬉しかった)
 だから勝手に決めた。
「昔っかやの、自称……親友なんれね……」
 これまで、追い掛けられることは何度もあっても、追うことは一度もなかった。
 追い続けて、馬鹿みたいに追い掛け続けて、それで追い付くことができたら。
(“自称”が取れるかな……)
 一回り成長できるかも知れない。
「返ひて、貰ふ……」
 拳を握る。
「返ひて……」
 一歩、また一歩と距離を詰める。
「返へ……」
 吠乃介の顔が徐々に大きくなり――
「伊紗那ひゃん、ほ……」
 足に力を込め――
「返……」
 崩れ落ちた。

「吠乃介はその咲耶水とやらで筋力を保っていたんだろう。だが老化を止めることは望まなかった。外見の老いは内臓の老い。だから心肺機能は衰えていた」
 モニターの中でほぼ同時に倒れた神人と吠乃介。二人を後目に椅子から立ち上がり、伊紗那は五十丸に顔を見られないようコントロールルームを壁沿いに歩く。
「心臓の老化は血液循環の機能を弱らせ、血液の老化はヘモグロビン濃度を下げて酸素運搬効率を落とし、肺の老化が酸素供給効率そのものを衰退させる。強い力を行使するにはそれに見合った土台が必要だ。奴は筋力を持ってはいたが体力がなかった。まぁ自ら拒絶した結果だがな」
「お、おい、どこに……」
「……言う必要があるか?」
 少し鼻をすすりながら、伊紗那は壁のパネルに手を叩き付ける。フシュー、と空気が抜けるような音がしたかと思うと、さっきまで何もなかった壁に縦線が走り、左右に分かれて出入り口となった。
「お前……」
「まだ実験が足りんようだ。この程度のことで力尽きて貰っては困る。神にぃにはもっと過酷な試練を与えねばならないようだ」
 LEDの光を浴び、小さな肩を振りながら伊紗那は出ていく。
「もっと、キツいやつを、な……」
 ぽつり、と一言残して。








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