キミの口から腹話術、してくれますか?

★天深憂子の母性愛★
 いない。
 どこを探しても孔汰がいない。
 トレイに行ってくると言って出て行ったきり、もう二時間も戻ってこない。
(あぁ、もぅ! ホントに世話やかせてくれるんだから!)
 殆ど客足のなくなった境内を探し回りながら、憂子は胸中で悪態を付いた。
 店の方は父と母に任せてある。コレくらいの参拝客なら、二人だけで十分対応できるだろう。
(コレなら元の昴君の方がよっぽど大人しいわ!)
 昴は人見知りを全くせず、どんな事態にも動じない非常に順応力のある男の子だ。落ち着いていて、孔汰のようにチョロチョロしない。
 さらに純粋で可愛らしく、母性本能をめった切りにする愛くるしさを持っている。
 ただちょっとマセていて、かなりスケベなところが珠に傷なのだが。
(ま、今回はソレで助かってるんだけど)
 楓の豊満なバストを持ってすれば、一週間や二週間、昴の心を縫い止めておくことなど造作もないだろう。寂しがるどころか、帰りたくないと言うかもしない。
「あぁ!」
 神社の出入り口になっている大きな朱鳥居。
 石でできた狛犬(こまいぬ)の影に隠れるようにして、孔汰は立っていた。白いフリースを胸の前できつく握りしめ、クリクリとした大きな目で許しを請うような視線をこちらに向けている。
「アンタ! どこ行ってたのよ! 心配したでしょ!」
 肩を怒らせながら、憂子は地響きすら聞こえそうなほどの大股で孔汰に近寄った。
「ごめん、なさい……」
 孔汰は声を沈ませて呟く。
「どこ行ってたのよ。まさか太郎のトコじゃないでしょーね」
 憂子は屈んで孔汰と目線を会わせ、睨み付けながら言った。
「あの、憂子さん……」
「なによ」
 オドオドとした物言いに苛立ちながら、憂子は不機嫌そうな声を発する。
「ぼ、僕をもう一度……ココで働かせてくださいっ……」
「は?」
 それは全く何の脈略もなく、予想だにしなかった言葉。
『私からもお願いするわ、憂子さん。孔汰さんにもう一回チャンスをあげて』
 弁天町の口をパクパクとさせながら、孔汰は腹話術で言う。
「な、なによ。いきなり。どーしたってのよ」
 孔汰の素直すぎる態度に、憂子は完全に毒気を抜かれた。
「僕は、憂子さんと一緒に、いたい……んです……」
 消え入りそうなほど小さな孔汰の声。
「ダメ……ですか……?」
 体を震わせながら、孔汰は言い切った。
(あれ?)
 憂子は妙な違和感を覚える。
 孔汰とは毎日のように話をしてきたはずなのに、なんなんだろう。この新鮮な感じは。
 まるで初対面の人と喋っているかのような……。
(あ、そっか……)
 初めてだ。
 孔汰が腹話術も使わず、暴走気味にもならず、面と向かって自分の気持ちを伝えてくれたのは。
 憂子は体の力が抜け落ちたかのように息を吐き、微少を浮かべた。
「はいはい。考えといてあげるから。ソレよりもまずは体が元に戻らないとね」
 優しい口調になり、憂子は孔汰の頭を撫でてやりながら言う。
 一体何があったのかは知らないが、取りあえずいい傾向だ。
 孔汰は元々根は真面目でよく働く。弁天町で憎まれ口を叩いたり、暴走して襲いかかったりしてこなければ、世話好きの憂子の欲求を満たしてくれる。
「それと、アタシの方こそ昨日はゴメンネ。キツイこと言っちゃって」
 太郎のことをしつこく言われ、ついカッとなって叫んでしまったが、元はと言えば酔って喋ってしまった自分が悪かったのだ。
『大丈夫。孔汰さんもそんなに気にしてないわ。それより真宮寺さんがもうすぐ昴君連れて来るはずだから。祈祷殿に行ってましょう』
「え? 何なの、ソレ?」
 太郎が昴を連れてくる? 何かあったのだろうか?
『例の儀式をやって欲しいのよ。あまり時間がないの』
「そりゃ時間がないのはアタシも知ってるけど……。どうすればいいか……」
 叔母が帰るまで時間がない。ソレは分かっている。
 だがどうすることもできない。正直、みんなに全部話すしかないと思っていた。
『時間がないの意味が違うの! とにかく成功するまで何回もやるのよ!』
「え、ちょっ、それってどういう……」
 言い終わらないうちに、孔汰は憂子の手を引いて祈祷殿の方に走り出す。何だかただ事ではない慌て方だ。
「分かった、行くわよ。行くからちゃんと説明して」
 鳥居から賽銭箱へと続く石畳を外れて走り、憂子達は本宮の横手を抜ける。
『なんか孔汰さんの心が昴君の体に馴染んできてるみたいなの!』
「はぁ?」
 砂利の敷き詰められた裏参道に入り、別宮の前までたどり着いた。
「ど、どういう意味よ?」
『だからそのままの……!』
 そして別宮の裏手にまわり、小鳥居の前にさしかかろうとした時、何かが叩き割れると音と同時に視界が一気に下がる。
「っひぃ……!」
 一瞬の無重力感。
 目の前が暗転したと思った直後、足とお尻に鈍痛が走った。
「ぃたたたたたた……」
 憂子はきょろきょろと辺りを見回す。
 横は黒い土で出来た壁でぐるりと囲まれ、上からは割れた板の間から陽光が差し込んでいた。
 信じたくはないが、どうやら誰かが掘った落とし穴に落ちてしまったらしい。しかもかなり深い。憂子の身長では背伸びして腕を目一杯伸ばして、上の口に手が届くかどうかといったところだ。
「ねぇ、ちょっと大丈夫?」
 憂子は孔汰の姿を探しながら、声を掛けた。
「……ぅん、大丈夫……」
 左からした弱々しい孔汰の声の方に顔を向ける。
 顔やフリースは泥だらけになっているが、見たところ怪我はなさそうだ。
「そう、よかった。ホント何なのよ、これ。何でこんな物が……」
 言いかけて憂子は、この落とし穴を掘った主に思い当たった。
「太郎……」
 そうだ。思い出した。
 自分達がまだ小学生の頃、捨て猫をこの神社でコッソリ飼うために大勢で穴を掘った。土の中なら冬は暖かく、夏は涼しい。しかも穴を塞いでおけば外敵からも護れるし、他の大人達からも見つからない。
 太郎達は捨て猫の数が増えるごとに穴を大きくして、最後にはハシゴを掛けないと出入りできなくなるくらいまで深く掘ったのだ。
 それから捨て猫達の引き取り手を丸一年掛けてみんなで探した。努力の甲斐あり、捨て猫はみんな引き取られていった。
 そして不要になったこの穴は封印された。
 封印の時には憂子は一緒にいられなかったので、その方法までは知らなかった。だからてっきり、穴を埋め直したのかと思っていた。
 普通ならそうするだろう。
(アイツが……普通のことするはずないもんね……)
 確認するべきだった。
 まさか手を抜いて、穴を塞いだ板の上に土を被せただけだとは思わなかった。
 しかし、この上を憂子が通ったのは今日が初めてではない。
 確かに祈祷殿に続くこの道は、年の始めにしか通らない場所ではあるが、昨日も一昨日もこの道を歩いていた。その時は別に抜け落ちなかった。
 それが今日、腐食に耐えきれなくなって、ついに抜け落ちたのか、それとも孔汰と一緒に乗ったから抜け落ちたのか。二つの内どちらかは分からないが――
(それだけ、アタシの運気が落ちてるってことなのよね……)
 今年の強力な『ケガレ』を体に宿しているせいで、憂子の運気は落ち続けている。そのせいで自分だけではなく、孔汰まで巻き込んでしまった。
「ゆ、憂子、さんこそ……大丈夫……?」
 孔汰は小さな声で言いながら憂子の方に歩み寄る。
「アタシは大丈夫。さ、早く出ましょう」
 穴の口は高いが、多分つま先立ちになれば何とかなるだろう。
 こういう時ほど、自分の背の低さを呪ったことはない。
「……っ」
 しかし立ち上がろうとした憂子の右足に鈍い痛みが走った。堪らず体勢を崩し、地面にもう一度尻餅を付く。
「ゆ、憂子さんっ……」
「大丈夫。大丈夫だから。心配しないで」
 辛うじて笑顔で返しながら、憂子はもう一度立ち上がろうとした。左足に全体重を乗せ、両手でバランスを取りながらフラフラと体を持ち上げる。そして片足だけでつま先立ちになり、真上に手を伸ばした。
「ぁ……っよ、と……」
 危なっかしく体をヨロめかせながら、憂子は割れた板の端に手を掛けようとする。二度三度と指先が空を切り、五度目でようやく手が掛かった。
「よっし、と……」
 指に力を込め、自分の体を引き寄せるように腕を曲げようとした時、
「っぁぁああああああ!」
 板は更に大きく割れて、憂子の体を地面に叩き落とした。
「憂子さん……っ」
「っつつつー」
 心配そうに駆け寄る孔汰に、さすがの憂子も痛そうな顔を向ける。
 最初、落ちた時にぶつけたお尻をまた打ってしまった。確実にアザにはなっているだろう。右足も一段と酷く捻ったみたいだ。あまり動かさない方がいい。
「あーもー。ホント最悪……」
 はぁ、と溜息をつき、憂子は両足を投げ出して後ろ手に体を支えた。
「なんでアタシがこんな目に遭わなきゃなんないのよ……」
 全ては今年の変な『ケガレ』のせいだ。まったく、一体ドコのドイツが発生源になっているのやら。
「……ごめんなさい。僕が、変なこと言ったから……」
 憂子のそばで項垂れながら、蚊の鳴くような声で孔汰が呟いた。
「あ、べ、別にアンタのせいじゃないわよ。全部太郎が悪いの。ったく、自分で掘った穴くらい自分で始末しなさいよねー」
「でも……僕が、ココに連れてこなかったら……」
 しかし孔汰は顔を悲壮に染めて、自分を責める。
「何言ってんのよ。どーせアタシは祈祷殿に来る予定だったんだから。落ちるのがちょっと早くなっただけよ」
「けど……」
「ほーら、男の子でしょ。しっかりしなさい。弁天町はどうしたのよ。あの子に元気付けて貰いなさいよ」
 憂子の言葉に孔汰は真上を向いた。つられて憂子も上を見る。
「……ひょっとして、落ちた時に放り出しちゃった、とか?」
 孔汰は小さく頷いた。
 どうやら弁天町は穴の外らしい。
(コレもアタシのショボい運気が関係してるのかしら)
 だとしたら孔汰は本当に自分の不運に巻き込まれただけだ。自分の方こそ謝らなければならない。
「まー、心配しなくても大丈夫よ。もうすぐ太郎が来てくれるんでしょ?」
 憂子が安心しきった顔でそう言うと、孔汰はなぜか小さく体を震わせた。
 別宮のあるこの辺りは、全くと言っていいほど人気がない。しかし孔汰の話では太郎が昴を連れて祈祷殿に来るらしい。なら絶対にこの道を通るはず。その時に助けて貰えばいい。
「それより、また太郎のトコなんか行って何してきたのよ」
 眉を軽く上げながら憂子は聞いた。どうせ太郎が来るまで時間がある。さっきの話しも途中で終わってしまっていたし丁度いい。
「僕……」
 孔汰は憂子から目線を逸らし、落ち込んだように三角座りをして小さくなった。
「もー別に怒んないわよ。太郎との付き合いだって長いんだから。アタシがアイツのこと好きだったなんて今更バレても、極端にギクシャクしたりしないわよ」
 カラカラと陽気に笑いながら喋る憂子。それを聞いて孔汰はまたビクリ、と体を震わせる。
「ねぇ、ひょっとして寒いの?」
 穴の中とは言え外は真冬の気温だ。孔汰はちゃんと着込んでいるように見えるが、ひょっとしたら風邪でも引いているのかも知れない。
「僕は……最低のこと、してたんです……」
「へ?」
 遠慮がちに視線をコチラに向け、孔汰は泣き出しそうな顔になって続けた。
「僕は、憂子さんに幸せになって欲しくて……。だから、その……真宮寺さんに言って、憂子さんとお付き合いを……」
 一瞬、目の前が白くなったような気がした。顔が熱くなってくるのが分かる。
「バッ……バッカねー。なに変な気ぃ利かせてんのよ。アイツには色葉さんがいるじゃない。あの人はいい人よ。とっても。アタシなんかが入り込む隙間なんてないわ」
「それでも、僕は、自分でできることをしたかった……。憂子さんのために……。僕が自分でできないなら、真宮寺さんに何とかして貰うしかなかったから……」
 心臓の鼓動が大きくなる。
「けど、憂子さんの気持ち全然考えてなくて……。もし僕が憂子さんの立場だったら、そんなことされても、ちっとも嬉しくないのに……」
 胸の奥が痛いくらいに締め付けられた。
「本当に、スイマセンでした……」
「ねぇ」
 三角座りのまま深々と頭を下げる孔汰に、憂子は柔らかい笑みを浮かべながら声を掛ける。
「どうして、アタシためにそこまでしてくれるの?」
 そう言えば、一度も聞いたことがなかった。
「そ、それは……憂子さんの……ことが……」
「アタシのことが?」
 普段の孔汰自身の口から、ハッキリと。
「……す、き……だから、です……」
 何だろう、この気持ち。太郎のことを考えていたときとは全く違う……。
「どうして、アタシのこと好きなの?」
「それは……」
 孔汰は少しずつ自分のことを話してくれた。
 由緒ある家庭で生まれ育ったこと。常に兄達と比べられていたこと。母が死んだこと。お酒のこと。市町人形のこと。
 そして――憂子が母に似ているということ。
「そぅ……」
 全てを聞き終え、何となく分かった気がした。
 自分が最初から孔汰に抱いていた感情が。
 それは母性。
 頼りなくて物覚えが悪くて足ばかり引っ張って。しかしだからこそ守りたくなる。効率が悪くても諦めることなく、人一倍頑張ろうとしてくれるからこそ世話をしたくなる。
 それは太郎に対しては抱こうにも抱けなかった感情。
 太郎はしっかりし過ぎている。一人で何でもできる。根拠のない自信に溢れている。あらゆることに前向きで、全てを自分のペースに引きずり込んでいく。
 そんな彼がごくたまに見せる不器用さ。憂子はそこに惹かれていた。そこに自分の入り込む余地があると思っていた。だが、楓に先を越された。
 楓は太郎に、自分の方が遙かに不器用であることを見せつけて太郎を安心させた。これまで完璧であり続けた太郎に、失敗しても何度でもやり直せばいいということを教えた。
 それは恐らく、憂子では決して与えられなかった抱擁。
 憂子は太郎の不器用さを補うことはできても、包み込むことまではできない。その不器用な部分以外の面で、自分は格段に太郎に劣るということを自覚してしまっているから。
 だから告白できなかったのかも知れない。もし受け入れられたとしても、常に劣等感と戦っていなければならないから。自分の入り込む余地を、自分でも世話のできる隙を、常に探していなければならないから。
 誰かの世話をしたいということは、その人に必要とされたいということ。自分を頼って欲しいということ。
 不器用で、要領が悪くて、失敗ばかりで、でも一生懸命で、一途で、ひたむきで、真面目で。
 それは憂子になくて楓にある魅力。
 そして太郎になくて、孔汰にある魅力。
 楓と孔汰は根底の部分で似ている。
「ねぇ、色葉さんってステキだと思わない?」
「え?」
 いきなり話題を変えられて、孔汰は面食らったような声を発した。
「あの人ってさ、他の人のこと絶対に悪く言わないのよ」
「……でしょうね。あまり話したことありませんけど……何となく、そんな気がします」
「貴方もね」
「へ?」
 孔汰はさっきより更に一オクターブ高い声を上げる。
 初めてだった。憂子の身長のことを『慎ましい』なんて表現してくれたのは。
 これまでずっとチビだとか幼女だとか言われ続けてきた憂子にとっては、初めての褒め言葉だった。それが例え酔っ払って言ったセリフであったとしても。いや、酔っていたからこそ本音が出たとも言える。とにかく嬉しかった。
 出会ってたった三日目で孔汰に関節技を使う気になったのは、きっとそのせいだ。
 関節技の効果はテキメンだが、使うには相手の体に密着しなければならない。
 だから太郎のようによほど親しい相手か、学生の時に陰湿な嫌がらせをしてきたクラスメイトのようによほど憎たらしい相手にしか使わないことにしている。
 孔汰も最初は竹箒だった。しかし知らないうちに母性をくすぐられ、気が付けば関節技を使っていた。
「ホント、貴方くらいのものよ。これだけ手間が掛かるのも、こんなに早くアタシに関節技使わせるのも」
「す、スイマセン……」
(それから、アタシの幼児体型を褒めてくれたのもね)
 含み笑いを漏らしながら、憂子は孔汰の頭を撫でた。孔汰はくすぐったそうに目を細める。
「それにしても遅いわね、太郎のヤツ。何やってんのかしら」
 また、孔汰が体を震わせた。本当に寒いのだろうか。
「ぼ、僕が上ってみますっ……」
 孔汰は少し強い口調で言うと、立ち上がって土の壁に手を掛けた。
「え、ちょ、やめときなさいよ。危ないから」
 憂子の身長がいくら低いとは言え、今の孔汰よりは高い。穴は自分でも届くか届かないかと言った高さにあるのに、孔汰が何とかできる訳がない。
「ぼ、僕だって、男ですからっ……」
 孔汰は土の壁を素手で掘り、手足を掛ける場所を作って体を持ち上げる。そしてさっきまで手の置き場であったところに今度は足を掛け、さらによじ登って壁の上を目指した。
(男だから、ねぇ……)
 そんな孔汰の姿を微笑ましそうに見つめながら、憂子は柔和な笑みを浮かべる。
(ちゃんとヤル時はヤルじゃない)
 孔汰の手がもう少しで穴の口に掛かろうとした時、足場にしていた土の壁が突然はがれ落ちた。
「――!」
「危……!」
 孔汰は声を上げる間もなく、高い場所でバランスを崩して一気に下まで落下する。そして地面に激しく腰を打ち付けた。
「大丈夫!?」
 憂子は這いながら孔汰のところに近寄る。痛そうに片目を瞑りながら、孔汰は腰をさすった。
「や、柔らかい土を踏んだみたいですね……ちょっと、運が悪かったみたいです……」
 運が悪い? また自分の運気のなさが孔汰にも影響している?
「もう一度……」
 言いながら立ち上がろうとした孔汰の体を、憂子は後ろから抱きしめた。
「ゆ、憂子、さん……?」
「いいから。太郎が来るまでじっとしてなさい。骨でも折ったらどうするの。その体、貴方のじゃないのよ」
 憂子は、痙攣するかのように体を震わせる孔汰をさらに強く抱きしめる。
「真宮寺さん、が……。そうですね。僕じゃ、力不足、ですよね……」
「別にそんなこと言ってないでしょ。ただ貴方に怪我させるわけにいかないじゃない」
「そ、そうですよね……。昴君の体、ですもんね……」
 ハッキリと分かるくらい、孔汰の声が沈んでいった。
 ここに来てようやく気付く。孔汰が体を震わせていた原因に。
 太郎と比べられることに過敏に反応していたのだ。
 太郎ならこんな状況あっと言う間になんとかできる。だが自分にはできない。太郎と違って力不足だから。
 そう思い込み、太郎に劣等感を感じて孔汰は震えていた。
 我ながら無神経すぎた。
 自分のことを好きだと言ってくれている男の前で、想いを寄せていた別の男の名前を口に出すなど。太郎に劣等感を感じるという意味では自分も同じだ。孔汰の気持ちはよく分かる。
 それに孔汰は小さい時から優秀な兄達と比べられてきた。だからそういうことに関しては、非常に敏感なのだろう。
「いい、アタシは貴方のことが心配だから言ってるの。変な誤解しないで」
 孔汰の体を包み込むように抱きながら、憂子は少し怒ったような声で言う。
「……心配ばかりかけて……スイマセン……」
 ダメだ。
 一度悪い方向に考えてしまうと際限なく落ち込んで行く。お酒も弁天町もないと、こうまで脆いのか。
(ホント、世話がやけるんだから)
「そう言えばさっき、『時間がないの意味が違う』とか言ってたけど、アレってどういう意味なの?」
 苦笑ながら憂子は別の話題を振った。
「あ、ああ……ソレなんですけど。なんか僕、この体に馴染んできてるみたいで……」
「馴染む? どういうこと?」
「あの……真宮寺さんの推測なんですけど……」
 小声で話す孔汰に、憂子は何も言わずに耳を傾ける。
 そして全てを聞き終え、思わず吹き出してしまった。
「貴方それ、太郎にからかわれたのよ」
「え……?」
 まったく。この男はどこまで真面目なのだろう。太郎の話など適当に聞き流してしまえばいいのに。
「昴君は元々人見知りもしないし、凄く落ち着いてるの。まぁ、ある意味大物ね。だからちょっと大人っぽく見えることもあるのよ」
「で、でも……僕と入れ替わった時はあんなに泣きわめいて……」
「ああ、あれは単に頭ぶつけて痛かっただけでしょ。そーゆーところは子供っぽくて可愛気があるんだけどね」
「それじゃ……」
「そ。別に貴方の体に昴君が馴染んでるからとかそんなんじゃないわ」
 憂子の言葉に孔汰の体から力が抜けていった。
「じゃあ、何のためにあんなことを……」
「それは……」
 言いかけて憂子は口を閉じる。
 孔汰は太郎にハッパを掛けられたのだ。このまま放っておくと、いつまで立っても孔汰の口から大切な言葉が出そうになかったから。
(あのバカ……)
 いつも無神経で、非常識で、他人の不幸が自分の幸せとか言っているヤツのなのに、変なところで憎たらしいくらいに気が利く。そういうところも太郎の魅力かも知れない。
「きっと貴方への嫌がらせじゃない?」
「……そんなところでしょうね」
 孔汰は深く溜息をつくと同時にガックリと項垂れる。
 太郎の力を借りたことを知れば、また落ち込むだけだ。真相は伏せておいた方がいい。
「何やってんだ? お前ら」
 突然、真上から声がした。太郎の声だ。
 見上げると不敵な笑みを浮かべた紅髪の男と、ほわほわとした柔らかい雰囲気を纏うポニーテールの女性。そして二人の間から、長い髪のオタクっぽい青年がコチラを除き込んでいた。
「よーやく来たわね、このバカ。いいから早く助けなさいよ。アンタが掘ったんでしょ、この落とし穴」
「ソレは別にかまわんが……お前らちょっと見ない間に随分と進展したな」
 言われて自分が孔汰を思いきり抱きしめていることを改めて認識する。
「ちっ、違うのよ! こ、この子が何か寒そうにしてたから……! それで……!」
 一瞬、孔汰を突き飛ばそうとしたが、慌てて思い直し、憂子は座ったまま自分の体を離した。
「最近の若いモンは元気があってよろしいですなー。もう下半身を痛めるような激しいことをしたようですよ、楓さん」
「あらあらー」
「バ……! 何言ってんのよ! この変態! そんなことする訳ないでしょ」
「足のことだ。下半身からお前はいった何を連想したのかなー?」
「ク……!」
 ハメられた。
 太郎お得意の下ネタ誘導尋問。
「そうか。『ハメられた』、か……。なるほどなぁ」
「あらあらー」
「心を読むな口に出すな納得するな!」
 うんうん、と何度も大きく頷く太郎に、憂子は顔を真っ赤にして声を張り上げた。
「ま、そんな下らんことはどーでもいい。別に憂子のイマジネーションを否定するつもりはないしな」
「否定しろ!」
 ダメだ。太郎の言うことにイチイチ付き合っていては、向こうにペースを持って行かれるだけだ。
「いいから、そんなところでボーッと見てないで早く助けてよ」
「うむ。じゃあシッカリ見ててやるから早く上がってこい」
「見んでいい!」
 だ、ダメだ。コレがこの男のやり方だ。落ち着かないと。
「まったく情けないヤツだ。空中浮遊もできんとは」
「できるか!」
「楓はできるぞ」
「はいー」
 太郎の言葉に楓は嬉しそうに宙に浮いた。
(こ、コイツら……)
 いつの間にか災狂のコンビが誕生しつつある。
 憂子は目元をヒクつかせながら、両手を強く握りしめた。
「……ア、アタシには出来ないから、いい加減助けてくれないかな」
「人間諦めたらそこでお終いだぞ。なに、簡単なことだ。片足を上げてソレが地面に付く前に、逆の足を最初より高く上げればいい。あとはソレを繰り返せば空中を歩ける」
「そ、そうか……なるほど……」
「せんでいい!」
 立ち上がって足を上げようとした孔汰に、憂子は大声で怒鳴りつける。
 だからどうしてコイツは太郎の言うことを真に受けるのだ。これも劣等感の成せる技なのか。
「ね、ねぇ太郎。見て分かると思うんだけど、アタシ今は調子悪いの。だから早く助けてくれない?」
 こめかみに血管を浮かび上がらせ、憂子は怒気を孕ませた声で呻くように言った。
「そうか、ソレは悪いことをした」
 ようやく通じたのか、太郎がすまなそうな顔つきで言う。
「だが『あの日』のことを俺に相談されても助けてやれんぞ」
「貴様ー!」
 叫び声と共に憂子は近くに落ちていた石を太郎に投げ付けた。
 石は光速で射出され、太郎の頬を浅く削って虚空へと姿を消す。
「ふ……さすが我が家の異次元トラップをかいくぐっただけのことはある」
 頬を伝って傷口から流れ落ちる血を舐め取りながら、太郎はどこか満足げな笑みを浮かべた。そして指をパチンと鳴らす。それに呼応して、憂子の座っている地面が小刻みに揺れ始めた。
「な、なに……?」
 次の瞬間、まるでエレベーターにでも乗っているかのように、憂子の視界が徐々に上がって行く。
「じ、地面が、盛り上がって……」
 孔汰の呟き通り穴はどんどん深さをなくして行き、一分と立たないうちに完全に塞がってしまった。
 憂子と孔汰は太郎の足下で呆然としながら、さっきまで穴だったところをキョロキョロと見回す。
「この前知り合った土の妖精さんに頼んで塞いで貰った。これで文句なかろう」
 腕組みしながらコチラを見下ろし、アッサリと言ってのける太郎。彼を見上げ、憂子は重い頭痛を感じた。
「たーくん、最近色んなところに顔利くようになったんですよー。凄いでしょー」
 ふよふよと空中に浮きながら、楓がゆったりとしたテンポで言う。
 太郎も太郎なら、楓も楓だ。どうしてこの異常事態に平然としていられるのだ。
「昴君、大丈夫? 改造手術とかされてない?」
「どういう意味だ」
 太郎の言葉を無視して憂子は片足で立ち上がり、二人の間でニコニコしている昴の元に跳びながら駆け寄る。
「全然へーきだよ」
「そう、よかっ……」
 ホッ、と胸をなで下ろした憂子の体に、何か重くのし掛かる物があった。
(こ、コレって……)
 今までにも似たような物を感じたことがある。だがソレとは比較にならない。
 胸の奥にシコリのような物が生まれ、息苦しさを覚えるほどの圧迫感。鼓動が早くなり、顔に血液が集中していく。
「どうした憂子。発情期か?」
「違うわ!」
 太郎の横やりを一蹴して、憂子は信じられないといった眼差しで昴を見た。
 長い髪をしたオタクっぽい孔汰の顔で、ニコニコと無垢な笑顔を浮かべる昴。しかし彼の後ろにハッキリと黒いわだかまりが見えた。
(『ケガレ』……)
 絶望的になりながら憂子は胸中で呟く。
 昴は今、体から『ケガレ』を発していた。それもただの『ケガレ』ではない。普通よりもかなり強力な物だ。
(それじゃ……)
 今年の『ケガレ』がいつもと違うのは昴のせい? でもなぜ急に? 少し前までは全く感じなかったのに。
 前と今の大きな違い。
 それは体が入れ替わったことしか考えられない。だが入れ替わった直後は何も感じなかった。それに『ケガレ』の様子が変わり始めたのは昨日から。
(まさか……)
 穴の中で孔汰に言われたことを思い出した。
「ねぇ太郎。アンタ、昴君の精神が今の体に馴染んで来てるって言ったんだって?」
 孔汰は太郎に言われたらしい。昴の精神が昨日、今日で急激に成長してきている、と。それは『ケガレ』が強力になり始めた時期と一致する。
「ああ、言ったな」
「それってホントなの?」
「本当だ、と言いたいところだが実はウソで、と――見せかけてその逆で、さらに『ウサギがカメに勝った』という現象を掛け合わせた挙げ句、自分の心を鏡に映して向き合い、一年後に地球が破滅するという確率を考慮に入れればおのずと答えは導き出される。さて、どっちでしょう」
「無きにしも在らずってことね」
「……なんか寂しいんですけど」
 落ち込んで楓に慰められる太郎を無視して、憂子はもう一度昴に向き直った。
 昴の中で邪悪な何かが成長してきている?
 そんなこと考えたくもなかったが、悠長なことを言ってる時間はなさそうだ。理由はともあれ、昴の中で『ケガレ』が増大していっているのは確か。そしてキッカケが体が入れ替わったことであるのもほぼ確実だ。
 今は憂子や孔汰だけで済んでいるが、放っておけばそのうち他の人の運気にも影響を及ぼし始める。そうなる前に体を元に戻さなければ。
「昴君、それと貴方。一緒に来て」
 憂子は足を引きずりながら、孔汰と昴の手を取って祈祷殿に向かった。
 賭けるしかない。穴の中で思いついた方法に。それで儀式が再現できることに。

 祈祷殿の中央。
 鈴懸草の炭で書かれた円方陣の中心に正座し、憂子は膝の上に孔汰を乗せた。
「太郎、ソッチの準備はいい?」
「大丈夫だ。『凶洗脳』は完了した。俺が合図すればコイツは躊躇なくドタマから突っ込む」
 眼の光を失い、顔面を蒼白にして体を震わせている昴を確認して、憂子は小さく頷く。最初の時に気絶するまでこの儀式を繰り返したため、今の昴に言うことを聞かせるにはこれしか方法がなかった。
「それじゃ、行くわよ」
 憂子は細く息を吐き出して精神を集中させる。そして弁天町を不安げに抱きかかえている孔汰の体を、後ろから優しく抱きしめた。
「降魔滅砕、万物浄化、我が身に宿る聖なる力。彼の者が内包せし邪悪を祓い、清めたまえ。光、砕、浄、滅……」
 『ケガレ』を清めるための詞を丁寧に紡ぐ。
(お願い……)
 憂子は目を瞑り、心の中で祈りながら孔汰を抱く手に力を込めた。そして自分の胸が孔汰の背中に密着するほどに引き寄せ、願い込めて儀式を進めていく。
 最初、叔母に頼まれて昴のお祓いをしようとした時にあった物。そして孔汰と昴の体を元に戻そうとした時にはなかった物。
 要因はいくつも考えられた。それら全てを試したが効果がなかった。
 そして穴の中で孔汰と話し、彼の本音を聞き、その体を抱きしめた時に新たに気付いた物。
 それは思いやり。
 祓う者のことを想い、心の底から治してやりたいという感情。憂子にとっての母性愛。
 あの時はそんな物はなかった。
 いくら世話好きの憂子とは言え、あの時の孔汰のふるまいは度を超していた。邪魔者だとばかり思い、余計な手間を増やす厄介者だとしか考えていなかった。
 だからこんなにも強く抱きしめなかったし、頭の中は昴のことでいっぱいだった。
 しかしそれでは再現したことにならない。まず孔汰のことを第一に考えなければだめだ。孔汰を治してやることを念頭に持って来なくては。
 今なら――ソレができる。
「……蓬、籠、麗」
 詞が最後まで終わった。
 直後、体の内側を優しく包み込む温かい感触。憂子のイメージ通り、小さな光球は波となって肌を覆い、巫女服の内側が青白い燐光を放ち始める。
 光は更に明るく温かくなり、緩慢な変遷を経て青から黄になって行った。
 そして憂子は顔を上げ、目で太郎に合図する。
 太郎は小さく頷いて、自失している昴の耳元に口を寄せた。
「……死……悦び……目覚め……」
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 何を吹き込まれたのかは知らないが、昴が半狂乱になりながらコチラに突進してくる。
 そのあまりに凄惨な形相に、孔汰が腕の中で体を震わせた。
「大丈夫。アタシを信じて」
 憂子は孔汰の不安を払拭するために、彼の頬に自分の頬を重ね合わせる。子供特有の柔らかく、温かい感触。そして――
「ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……ぁ!」
 ご、という鈍い音が祈祷殿に響いた。
 勢いよくダイブした昴の頭が、孔汰の頭に僅かにめり込んでいる。
「ど、どう……?」
 しゅー、と頭から煙を立ち上らせる二人を憂子は心配そうに見つめた。
「う、ん……」
 最初に目を覚ましたのは、自分の腕の中にいる昴の体だった。
「ふぇ……?」
 眠そうな目で辺りを見回しながら、彼は憂子の方に顔を向ける。
「ゆーこタン……?」
「昴君?」
 戻った? それとも……。
「スーちゃんはおっぱいおっきい方が好きだよ?」
 彼は憂子の胸を無遠慮にぺたぺたと触りながら、生命の危機に直面したかのような深刻な表情を浮かべた。
「貴様ー!」
 思わず反射的に手が出る。
 彼の手から弁天町がこぼれ落ち、体は宙を舞って楓の腕に吸い込まれて行った。
 そして孔汰の体に視線を移そうとした時、憂子の目の前が一瞬大きくブレる。
「え……」
 音が消える。
 色が褪せて行く。
 まるで自分だけが切り取られた空間に置き去りにされたような錯覚。
 何か叫ぼうともう一度口を開けた時、憂子の視界が開けた。
 さっきまで澱のように沈殿していた重い何かが取り去られ、体が精神的に解放されて妙にハイな気分になって行く。
(そんな……)
 しかし自分の体に起こったことを理解した時、憂子は絶望に包まれた。
『ЦЯ┗、┝ЪЩ――Ж┯╂』
 背後から何かの異音が聞こえる。
「『ケガレ』!?」
 冷や汗すら浮かべながら、憂子は後ろを振り向いた。
 今確かに自分の体に溜め込んでいた『ケガレ』が外に排出された。それは本来、憂子が解放の儀式をしない限り起こり得ないこと。
「コレは……」
 自分の後ろで腕を組み、悠然と佇んでいる者を見て憂子は無意識に後ずさった。
 蒼い光を放つ垂直に立ち上った髪。紅い地肌の上に着た白の貫頭衣。やせ細った華奢な体つき。彫刻のように整った秀麗な顔立ち。
 こんな『ケガレ』今まで見たことがない。今までは人型など取らず、もっと醜い不定形態だった。
「ほぅ、酒呑童子か……。なかなか奇妙な巡り合わせだな」
 背中で太郎が呟くように言う。
「しゅ、酒呑童子!?」
 そんなバカな。それでは叔母の言っていたことが……?
「多分さっきまで九羅凪孔汰ってヤツの体に、昴ってガキの精神と一緒に入ってたんだ。話を聞いた限りじゃ九羅凪孔汰の体はアル中なんだろ? けど俺の家にいる間、禁断症状みたいなモンは出てなかった。まぁ可笑しいとは思っていたがなぁ、ゲーラゲラゲラゲラゲラ!」
「ちっとも可笑しくない!」
 この異常事態にまったく動揺することなく、冷静に状況を分析して高笑いをあげる太郎。つくづくこの男の思考回路には着いて行けない。
「それで何なのよ! コイツ!」
 太郎が酒呑童子と言った物の怪の方を油断なく見ながら、憂子は怒鳴るように叫ぶ。
「だからお前がさっき変な儀式をした時に出て来たんだろ。九羅凪孔汰の体から。ガキの精神と一緒に。そんで今度はお前の体に入り込んだ。で、お前の中の『ケガレ』取り込んでやる気満々になったから外に出て来たって訳……む!」
「ど、どうかしたの!?」
 急に真剣な表情になって視線に力を込める太郎に、憂子は焦った声で聞き返した。
 まだこれ以上悪い知らせがあるというのだろうか。
「『ヤル気満々』『体に入り込み』『ゲカレる』……。大変だ憂子! あとはもぅ泣き寝入るしか……!」
「お前が寝てろ!」
「まぁ唯一の救いは『外出……」
「脳ミソ腐ってんのかああぁぁぁぁ!」
 紅髪をキザっぽく掻き上げ、ニヒルな笑みを浮かべて鼻を鳴らす太郎に、憂子はこれまで生きてきた中で最大の怒声をぶつけた。
「ったく……」
 ぜぃぜぃと肩で息をしながら、憂子は改めて酒呑童子の方を見る。
(じゃあ何? 今年の『ケガレ』がおかしかったのって全部コイツのせい?)
 昴の体から孔汰の体に乗り移って昴の精神と一緒に成長し、強い『ケガレ』をまき散らせていたというのか? さらに自分が溜め込んでいた『ケガレ』まで取り込んで大きく成長した?
「冗談じゃないわよ……」
 バカバカしい。
 そんな話があってたまるか。あんな叔母の戯言が当たっているなど。そんな非常識な……。
 そこまで考えて、憂子ははたと気付く。
 そうだ。いるではないか。もっと非常識な奴が約一名。
「太郎!」
「おう」
「コイツを何とかしないさい!」
「ヤダ」
 即答した太郎に、憂子は目を丸くして信じられないといった表情を向ける。
「何でよ!」
「彼は俺が親しくしている土の妖精さんのオジイさんが大事にしていたカナブンにゾッコンのカブトムシを捕まえて来た近所のガキのハトコの遺影の前に三年前座っていた坊さんの弟子に当たる」
「力一杯他人じゃない!」
「よく言うだろ? 『他人のフリして我が不利直せ』ってな」
「言うか!」
 もの凄い剣幕でまくし立てる憂子に、太郎はおどけたように肩をすくめて見せた。
「やれやれ。じゃあちょっと話を付けてみるから待ってろ」
 楓の胸の中でイヤらしい笑みを浮かべている昴を叩き落とし、太郎は酒呑童子の前に歩み寄る。
「┣┘┌ыЧ┫╋┝┝ЁБ」
 そして人間では決して発音できない声で酒呑童子に話しかけた。
『ΘΓ――╋Ыэ┃┏┏┨┥зёё╋┻』
 酒呑童子が難しそうな顔で答える。
「┷┐┬┤ЖЁЁЛ┯┰θΘ∬∠。あっはっは」
 何故か笑い声をあげる太郎。
『……♀╂┿¥$╂╂£⊃┝⌒‰‡┝┸∈╂℃╂┿┏┓』
 しばらく考え込んだ後、真剣な顔で答える酒呑童子。
「┿┿、┿♯∽∬╋┠⊇∪∩ζ┓┳┝┝┸」
 太郎は共感するように何度も頷く。そして憂子の元に帰って来た。
 果たして交渉は上手く行ったのか。
「どうだった?」
「貧乳な女より男の方がマシ、だそうだ」
「何の話をしとるか!」
 じゃあ何か? 昴や孔汰の体は居心地よかったけど、自分の体は気に入らないから出て行ったとでも言うのか?
「上等じゃない……」
 こんなホモ野郎に舐めらたままでは、巫女業などまっとうできない。
 憂子は凄絶な目つきで酒呑童子を睨み付け、祓え櫛を構えた。
「……ぅ、ん……」
 ようやく気絶から立ち直ったのか、孔汰の体から声が聞こえる。
『……ゆ、憂子さん? あ、な、何コイツ!?』
 そして近くに落ちいた弁天町を拾い上げ、彼女の口から叫んだ。
 どうやら体の方は無事元に戻ったらしい。スケベ度の増してしまった昴のことは少し気がかりだが、あとはコイツを祓ってしまえば全てが丸く収まる。
「死ねええぇぇぇぇぇぇ!」
 気合いと共に憂子は床を蹴った。しかし右足の怪我から来る痛みが、憂子の突進の勢いを大きく削ぐ。
『┿¥╂╂⌒‰┏┓‡┝∈╂┿!』
 酒呑童子は憂子からの大振りの一撃を難なくかわし、険しい表情でコチラを睨み付けた。
「どうやら売られたケンカは買うらしいぞ」
 太郎の通訳を聞きながら、憂子は痛みを我慢して祓え櫛を構え直す。
 今の体勢では圧倒的に不利だ。いきなりのことだったから、祓え櫛以外にまともな武器がない。しかも足を怪我している。
 だがやるしかない。コイツをこのまま野放しにすれば、誰にどんな厄災が及ぶか分かったものではない。
『ゆ、憂子さん。なんかよく分からないけど微力ながら助太刀するわ!』
 長い髪を揺らし、分厚い眼鏡の位置を直しながら孔汰が隣りに立った。
「素人は引っ込んでなさい! 怪我するだけよ!」
 憂子は叫ぶと同時に左足に体重を乗せ、倒れ込むようにして前に跳んだ。そして祓え櫛を上から大きく振り下ろす。
『Θ┃┏┥з╋ё!』
 何か言いながら真横にかわす酒呑童子。憂子は祓え櫛の軌道を途中で変え、彼の体を追うように薙いだ。
 直撃はしない。
 しないが、祓え櫛の先に付いた紙垂が僅かに酒呑童子の体に触れる。
『∽Å≪┓┣┫Θ┃╋ё!』
 ジュ! という液体を急激に蒸発させたような音を立てて、祓え櫛は振り抜かれた。紙垂の触れた酒呑童子の体の一部が焦げたように黒くすすけている。
 祓え櫛は元々『ケガレ』を祓うための神聖具だ。これまで毎日、体と一緒に清め続けてきた。酒呑童子か何か知らないが、対抗するには十分な武器になる。
『┠┃эю!』
 酒呑童子は奇声を上げ、憂子に突進してきた。そして爪を長く伸ばし、鋭く突き出してくる。
(避けられない!)
 一瞬で判断すると、憂子は攻撃を受けとめるために祓え櫛を両手で持って前に固定させた。
「憂子さん!」
 悲鳴じみた孔汰の声。
 直後、憂子の視界が真横に大きく振れた。
 風になびくように浮かび上がった憂子の髪の毛を、酒呑童子の爪が数本削いでいく。
「ちょ、ちょっと! 危ないって言ったでしょ!」
 孔汰のタックルで庇われ、床に押し倒される形でなんとか酒呑童子の攻撃を避けきった憂子。しかしすぐに次の爪撃が、憂子の眉間に狙いを定める。
「くっ!」
 孔汰の背中に祓え櫛を回し、何とか一撃目を弾く。
 また液体の蒸発する音。
 紙垂に振れただけでも酒呑童子を僅かながらに傷付けられるのだ。祓え櫛を直接当てれば、それ以上の殺傷効果がある。
 しかし酒呑童子は怯むことなく、憂子の喉元を狙って爪を連続で繰り出してきた。
「いつまで被さってるの! 早くどいて!」 
 憂子はそれらを何とかさばきながら、孔汰を怒鳴りつける。
「は、はぃ!」
 孔汰は横に転がって憂子の体から離れた。そして憂子の注意が一瞬だけ孔汰に向けられる。
 僅かにできた空白の時間。
 その隙を逃すことなく、酒呑童子の爪が憂子の喉に伸びた。
「きゃ……!」
 慌てて祓え櫛を上げ、ソレを何とか弾く。
 だがとっさに防御したため、持つ手に力が入りきらない。爪から伝わる衝撃に耐えきれず、祓え櫛は大きく弾かれて床に転がった。
「しま……!」
 酒呑童子の口が裂けたようにつり上がり、酷薄な笑みを浮かべる。
 勝利を確信し、酒呑童子はゆっくりと憂子に歩み寄って来た。
「このぉ!」
 しかし憂子に向かってくる酒呑童子の腹に、孔汰の蹴りが突き刺さる。
『ёёй!』
 短く悲鳴を上げ、後ろに飛ばされる酒呑童子。
「ゆ、憂子さん!」
 孔汰は必死の表情で落ちた祓え櫛を拾い上げると、憂子の元に駆け寄った。
「あ、ありがと……」
 祓え櫛を受け取り、孔汰の手を借りて憂子は立ち上がる。
「ってまだいたの!? 危ないから向こう行ってなさいよ!」
 床に転がった酒呑童子から目を離すことなく、憂子は大声で孔汰に言った。コレは自分の仕事だ。これ以上孔汰を巻き込む訳にはいかない。
「そ、そんなことはできません」
 しかし孔汰は震える声で、だが迷いのない言葉で憂子に言う。
「ぼ、僕は、憂子さんの役に立ちたいんです」
 憂子は孔汰の目を見る。
 分厚い眼鏡の奥で覗く、真摯で真っ直ぐな瞳の輝き。
 本気だ。
 孔汰も酒呑童子の攻撃は見たはず。ヘタをすれば死ぬかもしれないのに、それでも自分の力になりたいと言ってくれている。
「教えてください。どうすればアイツをなんとかできるんですか」
 弁天町の口は借りず、孔汰は自分の口で憂子に解決策を聞いた。
「……正直、このままじゃ難しいわ」
 彼は真剣だ。真剣に自分へと向けてくれている想いを、無下に扱うわけにはいかない。
「本当は、この祓え櫛で弱らせて何かに封印できれば楽なんだけど……」
 よろよろと起きあがり始めた酒呑童子を睨み付け、憂子は眉間に皺を寄せて言った。
 いつも憂子が『ケガレ』を祓う時は、特殊な方陣の中で実体化させ、祓え櫛で滅する。
 しかし今はその方陣もなければ、祓え櫛の力も足りない。まだ『ケガレ』を清めるには時期が早すぎたのだ。しかもあの酒呑童子はいつもより強力な『ケガレ』を宿している。
 このまま正攻法で攻めていても勝つのは難しい。
「封印……?」
「そうよ。特殊な媒体を使えば『ケガレ』をその中に封印できるの。多分、あの酒呑童子とかいうヤツもね」
 酒呑童子には祓え櫛が効いた。ならば本質的な部分は『ケガレ』と同じはず。
 大霊樹や古神木などの媒体に封じ込めるのは恐らく可能だ。
「それで、どうするんですか?」
「あとは神炎で燃やすだけ。楽でしょ? ま、そんな媒体なんてそうそう転がってるモンじゃないんだけど」
 『ケガレ』を封印するための媒体は、長い年月を経てきた神聖な物に限られる。そして古ければ古いほど強力な封印媒体となる。殆ど数のない、非常に貴重な物だ。
 憂子の家にもいくつかはあるが、勿論今は持っていないし、取りに戻ることを許してくれそうな相手にも見えない。
「媒体、ですか……」
 何か考え込むように孔汰が呟いた。
「とにかく手持ちの武器でやれるところまでやるしかないわ。ま、いざとなった太郎が何とかしてくれるでしょ。アレでも一応、幼馴染みだから」
「っ……」
 憂子の言葉に孔汰の体が震える。
「あ、ご、ごめんなさい……」
 憂子も自分の失言に思わず口を押さえた。
『┛┳┘┘┘ыыыыы!』
 しかし突然の酒呑童子の叫び声に憂子は全身を緊張させる。
「来るわよ!」
 そして祓え櫛を前に出して構えた。
 酒呑童子は腕を大きく広げて宙に浮かび上がり、奇声を上げ続けながら憂子達を睨み付ける。
 どうやら孔汰に蹴り飛ばされたことがよほどこたえたらしい。
「お気に入りの体に裏切られてショックだそうだ」
 冷静に通訳する太郎。
 肉体的なダメージよりも、精神的なダメージの方が大きかったようだ。
『┨┥┥сфщъθΗΘΘ!』
 酒呑童子は叫び声を上げながら、憂子達に急降下してくる。その勢いに乗せて拳を繰り出してきた。
「ひぁ!」
 これまでとは比べ物にならない重い一撃。
 何とか祓え櫛で力の方向を変えてやり過ごすが、コチラが攻撃する前に酒呑童子は再び宙に上がってしまう。そしてまた勢いを付けて拳撃を放ってきた。
「ゆ、憂子さん!」
「何よ!?」
 二発、三発と連続で仕掛けてくる酒呑童子の降下攻撃を必死に受け止めながら、憂子はヤケ気味に叫んだ。
「こ、コレ! 使ってください!」
 孔汰は頭を低くして言いながら、何かを憂子に差し出して来る。
 それは孔汰が大切にしている市松人形、弁天町だった。
「で、でもソレ……わはぁ!」
 酒呑童子からの攻撃がどんどん重くなっていく。もうあと数撃も受け止められない。
「前に言ってましたよね!? この市松人形がいい祓い道具になるって!」
「それは……」
 言った。確かに言った。

『アンタその市松人形、貸しなさいよ。見た感じ相当古いみたいだから、きっといい祓い道具になるわよ』

 孔汰に自分が太郎のことをどれだけ好きか問いつめられた時、無理矢理話題をねじ曲げようとして出てしまった言葉だ。
「僕も! 憂子さんの役に立ちたいんです!」
 激しさを増していく酒呑童子の攻撃に、片目を瞑りながら孔汰が叫ぶ。
「で、でも……」
 弁天町は孔汰にとって心の支えであり、会話するための手段であり、なにより死んだ母の形見でもある。
 そんな大切な物を封印媒体にするなど。
「早く!」
「わ、分かったわ!」
 このままやられてしまったら、形見も何もあったものではない。
 憂子は自分にそう言い聞かせ、孔汰から弁天町を受け取った。そして飛来してくる酒呑童子の動きに合わせて、力強く突き出す。
「引、光、封、烈! 魔の者よ、此の傀儡の躰に今生の棲み家を見出すがいい!」
 憂子の詞が終わると同時に、弁天町の体が陽炎に包まれたかのようにぼやけ始めた。
『ΛΞΞΥ!? ┃┓┓┣・тф!』
 何か悲鳴のような物を上げ、降下を止めようとする酒呑童子。
 だがもう遅い。
「破邪!」
 腹の底から念を込めて発したとどめの詞。
 直後、酒呑童子の体が霧のように薄くなり、弁天町の体に吸い込まれていった。
「くっ!」
 弁天町を支える肩に甚大な圧力が掛かる。ここまで強力な『ケガレ』は未だかつて体験したことがない。片足では踏ん張りきれない。
「憂子さん、しっかり!」
 震える憂子の体を孔汰が後ろから支えてくれた。大きな手が肩に触れ、その温もりが伝わってくる。そして妙な安心感に包まれた。
(いける……!)
『сййёжФЧввввввв!』
 断末魔の声を上げる酒呑童子。
 もう彼の体は半分以上、弁天町の中に吸い込まれている。もう少しで全体が入る。もう少しで――
「――!」
 突然、目の前が閃光に包まれた。
 圧倒的な光量は憂子の目を灼き、視界を白く染め上げる。
「な、なに!?」
 弁天町から発せられた光はすぐに収まったが、視力はすぐには回復しない。
「ちょ……!?」
 片目を痛そうに瞑りながら、憂子は薄く目を開ける。
 徐々に霧が晴れ、回復し始めた憂子の目に映った物は……
『ж┏┗┗ыЁοπ!』
 尻餅を付き、灼怒に顔を染める酒呑童子だった。
(そんな……)
 絶望に目を見開く。
 封印できなかった。『ケガレ』で力を付けた酒呑童子を封じるには、弁天町では容量が足りなかった。
(けど……)
 憂子の手には、ずっしりと重さを増した弁天町。
 完全に封印はできなかったが、かなり力を弱めることはできた。酒呑童子の中にあった『ケガレ』は殆ど弁天町に取り込まれ、さっきまでとは比べ物にならないくらい力が衰えている。
 これなら何かとなるかも知れない。
「やああぁぁぁぁぁ!」
 祓え櫛を上段に構え、憂子は気合いと共に酒呑童子に振りかぶった。
 が――
『ψб┛┣!』
 酒呑童子が座った状態で憂子の右足に蹴りを放つ。
「ぁぐ!」
 最大の弱点を的確に突かれ、憂子は大きくバランスを崩した。
 これまでの戦いで見破られていた。自分が右足をケガしていることを。
 憂子はそのまま酒呑童子の方に倒れ込む。そして長く伸びた爪が、喉元めがけて光速で飛来した。
(やられる)
 死の恐怖を伴う悪寒。
 避けられない。ガードすることも、弾くこともできない。
 酒呑童子の爪が憂子の喉に吸い込まれ――
「やれやれ」
 その爪が根元から切り落とされた。
「この辺りが限界か」
 いつの間にかそばに立っていたのは、巨大な剣を肩に乗せて溜息をついている太郎。
『┫─ьэθ!』
 酒呑童子は顔を驚愕に染めて、太郎を見上げる。
「ん? コレか? これは『エクスカリバー』という聖剣だ」
『εΠΥΘ! κλЖл┃┗┫┫!』
「まあそう言うな。閻魔大王には俺からちゃんと話を付けて置いてやる。心おきなく逝ってこい」
 太郎は不敵な笑みを浮かべ、躊躇うことなくエクスカリバーを酒呑童子に振り下ろした。
『┫┣ффффффффф!』
 まさしく声にならない声を上げ、真っ二つに斬られた酒呑童子は霧となって消え去る。あとには何も残らない。衣服の切れ端も、気配さえも。酒呑童子がいたという痕跡を全て葬ってしまった。
「な……な……な……」
 あまりに唐突な出来事に、憂子は床にへたり込んだまま吃音を発して太郎を見つめた。
「さーて、終わったな。よし、帰るぞ。楓。こんな下らんことに付き合ってたから未解決の依頼が山積みだ」
「はいー」
「ちょっと待ったあああぁぁぁぁぁぁぁ!」
 何事もなかったかのように立ち去ろうとする太郎に、憂子は手を伸ばして叫ぶ。
「どうかしたか?」
「『どうかしたか?』じゃない! なんなのよ! いきなり乱入してきて! それでアッサリと!」
「いきなり乱乳かぁ。いや、お前はアッサリ風味の貧乳が似合うと思うぞ」
「誰がそんな話をしとるか!」
 剣で肩をトントンと叩きながら平然と言う太郎に、憂子は人差し指でビシィ! と指さした。
「どーしてもっと早く助けてくれなかったのよ! できるんじゃない!」
「なぁに。コチラにも色々事情があってな」
「事情って何よ!?」
 言われて太郎はフッと鼻で笑った後、カッと開眼して力強く叫ぶ。
「俺は人の嫌がることをするのが好きだ!」
「いばるなああぁぁぁぁ!」
 憂子の叫び声が、祈祷殿に虚しく響き渡った。

 夜。
 祈祷殿の前。
 憂子は孔汰と二人で、目の前でパチパチとはぜる白い炎を見ていた。
 酒呑童子は完全に消え去り、昴と孔汰の体も元に戻った。だが、まだやるべきことは残されていた。
 御神木を燃やして作りだした神炎。そこに弁天町を投げ入れなければならない。
 そうすることで初めて『ケガレ』が浄化される。
「……あの、もうコレしかないんですよね……」
 引きつったような笑みを浮かべながら、孔汰は憂子に聞いてくる。
「ごめんなさい……」
 憂子にはそう返すことしかできなかった。
 『ケガレ』はずっとこのまま人形の中に留まっているわけではない。いつか必ず封印を破って外に出てくる。
 明日なのか、一ヶ月後なのか、一年後なのか。
 ソレは分からないが出てくることは間違いない。そして出てきた時は今よりも確実に強力になっている。『ケガレ』はまだ封印されているだけであって、滅びたわけではないのだ。月日と共に力を蓄え、封印の力を打ち破って周りに被害を及ぼす。それは運気の減少などと言う生易しいモノではなくなっているだろう。
 たがらそうなる前に神炎で浄化しなければならない。
「……あ、いや。別に憂子さんが謝ることなんか……。僕からお願いしたんですから。憂子さんの役に立ちたくて……」
 ははは、とぎこちない笑みを張り付かせて、孔汰は寂しそうに言う。
「まぁ結局、また真宮寺さんに助けられちゃいましたけどね……」
 そして深く溜息をついた。
「何言ってるのよ。太郎は最後にちょっと出てきただけでしょ。私を助けてくれたのは間違いなく貴方よ」
 ソレは慰めでも気遣いでもなく、憂子の本当に気持ち。
 落とし穴に落ちた時も、孔汰は憂子を助けようと一生懸命になってくれた。さっきも体を張って酒呑童子から憂子を守り、大切な母親の形見まで差し出してくれた。
 不器用で要領が悪くて結果に結びつかなくて、それでも真摯すぎる行動には胸を打たれる。
 孔汰は体が元に戻っても何も変わらない。昴の体にいた時と同じだ。
 純心でまっすぐで一生懸命で、でも後先を考えていなくて、どこか抜けていて頼りなくて。
 いや、体が大きくなった分、子供っぽさをより強く感じる。そして子供みたいな大人ほど、世話をやかせる者はいない。
「ありがとう。すごく助かったわ」
 暗闇の中、白い炎で浮かび上がった孔汰の顔をじっと見つめながら、憂子は優しい声で言った。
「すごく、カッコよかった」
 憂子の言葉に孔汰はびっくりして顔を紅く染め、丸くした目でコチラを見る。
 今思えば、太郎は孔汰の見せ場を作るために立ち回ってくれていたのかも知れない。
 昴の精神が孔汰の体に馴染んできていると言ったのは、単に真実を喋ったというだけではなく、やはり孔汰を自分にけしかけるという意味合いも含まれていたのだろう。
 穴から助ける時も、孔汰が何かするまで待っていたのかも知れない。
 酒呑童子が現れた時に下らない会話をしていたのも、孔汰が目を覚ますための時間稼ぎだとも考えられる。
 それに何より、酒呑童子との戦いで最後の最後まで助けてくれなかったのは、本当は全て孔汰に自分の手助けをさせたかったのかも知れない。
(ま、買いかぶりすぎってこともあるけどね)
 だが十分に考えられる。
 あの勘のよすぎる変態は、妙なところで気が利くのだ。
「あ、あはは……。憂子さんに、そう言って貰えると、僕も弁天町も救われますよ……」
 照れたように後ろ頭を掻き、孔汰は恥ずかしそうに俯く。そして右手に持った弁天町に微笑みかけた。
「ありがとう、弁天町。キミのおかけで憂子さんに褒められたよ」
『やったじゃない孔汰さん! 大快挙よ! コレで一歩前進! このまま努力していけば、いつかきっと報われるわ!』
 弁天町は不自然なほど明るい声で孔汰を励ます。
「あはは……どうかな。でも、頑張ってみるよ……」
 孔汰は少し涙声になりながら、言葉を尻窄みに小さくしていった。
『泣かないで、孔汰さん……。お別れの時は笑顔が基本よ』
「うん……分かってるよ、弁天町……」
 鼻を啜らせながら、孔汰は小声で呟く。
「今まで、本当に色々ありがとう……。これからはキミなしでもハッキリ喋れるように……努力するよ……」
『その意気よ……孔汰さん。最後に孔汰さんの……その言葉、聞けて、もう思い残すことなんて……ないわ。さぁ……私の体を炎に投げて……憂子さんの役に……立ててあげて』
 もう弁天町の言葉も小さくなり、途切れ途切れにしか出てこない。
「うん……」
 孔汰は無理矢理笑顔を浮かべ、右手から弁天町を外した。
 さっきまで生き生きと喋っていた弁天町の頭がカクン、と落ち、物言わぬ人形に戻る。
「サヨナラ、弁天町……」
 孔汰が別れの言葉を言い終え、弁天町を神炎に投げ込もうとした時、その手を憂子が遮った。そして孔汰から弁天町を奪い取り、自分の手にはめる。
『あ、ひ、一つ言い残したことがあったわ。私はもういなくなっちゃうけど、こ、これからは憂子さんがずっといてくれるから。い、いつまでもお幸せにねっ』
 憂子は弁天町の口をパクパクさせながら早口で言い切り、押しつけるように孔汰に返した。
「へ……? ゆ、憂子、さん……?」
 孔汰は流れ落ちる涙を拭くことも忘れて、唖然とした表情で憂子の顔を見つめる。
「い、言っとくけどアタシ、メチャメチャ世話やきで、すんごくヤキモチ妬きなんだからね! きっとイヤになるくらい付きまとってアレコレ命令するんだから! ちゃんと覚えといてよ! じゃないとアンタの関節、二度と戻らないようにするから!」
 憂子は顔を真っ赤して孔汰から視線を外し、怒鳴りつけるように言った。
 太郎の時は告白しなかった。そのせいで、ずっとつらい気持ちを持ち続けることになった。
 だから今回はちゃんと告白した。
 もう二度と、後悔しないために。
「すごいよ弁天町。信じられないことが起こったよ。奇跡だよ。ありがとう、本当にありがとう……。だからこれからもずっと、見守っててね……」
 孔汰は弁天町を胸の中でキツク抱きしめ、そして――
 ――炎の中に投げ入れた。

 ――孔汰さん、今まで大切にしてくれて、どうもありがとう。とっても楽しかったわ。

 そんな弁天町の声が、憂子の耳にも聞こえた気がした。


「――と言うわけだから。この人、今日からココで住み込みで働かせたいんだけど」
 一月五日。
 全てを終えた次の日。
 憂子は孔汰と一緒に、社務所にいる父の前に来ていた。そして平然とした表情で、孔汰との同居を申し出る。
「憂子……?」
父親は文字通り目を点にして、自分と憂子の額に手を当てた。
「熱はないし、酔っ払ってもいないし、アブないクスリもやってないわ」
「ならん!」
 父親はダン! と大きな音を立てて勢いよく立ち上がると、猛獣のように鋭い視線で孔汰を射抜く。
「その男! 我が愛娘に不埒なことをし続けて解雇した狼藉人ではないか! そんな者との同居など父は断じて許さんぞ!」
 敵愾心を剥き出しにして、父親は烈火の如く怒鳴り倒した。
「でもこの人、アタシの関節技に耐え抜いたのよ?」
「九羅凪君とか言ったかな。いや、一目見た時から君は大物だと分かっていたのだよ。是非、娘と末永くよろしく頼む!」
 憂子の一言に、父親は優しい顔つきになって爽やかな笑みを浮かべると、孔汰の両手をワシッ! と強く握りしめて感慨深そうに言う。
「まったくウチのジャジャ馬ときたら最近ますます手が付けられなくなってなぁ……。頼みの綱の太郎君は別の女性と一緒になってしまうし、本当にどうしようかと頭を悩ませていたのだよ。見た目はともかく年も年だしなぁ。いや、憂子に関節技を掛けられるほど認められて、尚かつそれに耐えうる強靱な肉体の持ち主であれば文句の付けようもない! 大いに結構! ワシからもヨロシク頼むぞ!」
 がっはっは! と豪快に笑いながら、父親は憂子と孔汰の背中をバンバン! と叩いた。
「は、はぁ……。僕の方こそヨロシクお願いします……」
 少し咳き込みながら孔汰は頭を下げる。半眼になって呆れた表情を浮かべながら、憂子は溜息をついた。
「ま、ウチの親なんてこんなものよ。さ、次は母さんに挨拶に行きましょうか」
「はぁ……」
 曖昧に返事する孔汰を連れて社務所の出入り口を開けた時、待ちかまえていたかのように一組のカップルがコチラを見ていた。
「あのー、お守りとかってまだ売ってますか?」
 長い栗色の髪の毛をアップに纏めた女性が、覗き込むようにしてコチラを見ながら聞いてくる。
「あ、はーいはーいはーい! まだまだ売ってますよー! どーぞどーぞこちらの方に!」
 後ろからスキップで現れた父親が、上機嫌で二人を売店の方に案内して行った。
「よかったね一弥さんっ。『安産祈願』のお守り二十個くらい買わなくちゃ!」
「いや、柚木。まだ子供ができたと保証された訳じゃ……」
 一緒にいたシャープな印象の男性が、短い黒髪をいじりながらボソボソと言う。
「子供はネー、最低でも三人は欲しいかナー。一弥さんに似てしっかり者のお兄ちゃんと、私に似て想像力豊かなお姉ちゃん、それで甘えん坊の弟か妹。あっ、やっぱ両方欲しいナー。じゃあ四人かー。私達はご飯もお風呂も寝る時もいつも一緒で、大きくなっても変わらなくて、平和な日々が続いたかと思えば、いきなり一番上のお兄ちゃんが私の魅力に気付いて禁断の恋に陥ったりとハプニングを抱えつつも、最後は家族みんなでお酒とか飲みながら、『昔は良かったねー』なんてジジ臭いこと言いながら、幸せな毎日を送って一緒のお墓に入るの。どぅ!? 完璧な人生設計じゃない!?」
「うん、いいと思うよ。保証はしないけどね」
「もー! 一弥さんったら照れ屋さんなんだから!」
 だんだん小さくなっていく二人の怪話を、憂子と孔汰は呆然と立ちすくみながら聞いていた。
「……あの女の人、凄い妄想力ね」
「お、男の人の方も、よく平然と受け答えできますね」
 世の中には変わった人が多い。

 憂子と孔汰が母親のいる居間にたどり着いた時には、叔母が帰り支度をしているところだった。孔汰のことを母親に話すと、特に何を言うでもなく『あの人がいいって言うんなら別にいいんじゃない? 私はその人のこと積極的で好きよ』とコタツで週刊誌を読みながら、せんべい片手に呑気にお茶をすすっていた。
「それじゃあね、ゆーこタン。長い間どうもありがとう。ほら、昴も挨拶して」
 叔母は頭を下げ、昴の背中をトンと軽く押す。昴は憂子の顔を下から見上げ、愛くるしい視線を向けてきた。
「ゆーこタン! 巨乳への道は険しいよ!」
 そしてグッ! と親指を立てて、昴は白い歯を輝かせる。
「きょ……」
 心を削岩機で抉るような言葉に、吃音を漏らす憂子。
「あ、あーらゴメンナサイネ、ヲホホホホホ! この子ったら何か急にハッキリ喋るようになっちゃって!」
 昴の脳天に拳を突き立てながら、叔母は口に手を当てて笑う。
「アーンタに似てきたんじゃないのー?」
「何ですって!?」
 母親の冷めたコメントに叔母はキッと睨み付けるが、すぐに憂子達の方に向き直った。
「でもまぁ、取りあえずお酒の量は減ったからよしとするわ。お祓いありがとうね、ゆーこタン」
「え? 『減った』?」
 叔母の言葉に憂子は思わず聞き返す。
 そもそもの元凶であった酒呑童子は完全に滅ぼしたはずだ。だから昴の体は元に戻ったはずなのに……。
「そーなのよ。聞いて聞いて。何か最近ね、一升瓶たったの一本で酔っ払うようになっちゃって。前は全然平気な顔して飲み続けてたのに、大した進歩よねー」
「あ……」
 何か思い当たることがあるのか、孔汰が隣で小さく声を上げた。
「そう言えば僕が昴君の体にいた時……なかなか酔えませんでしたし、すぐ醒めました」
 あの時だ。儀式を再現する手がかりがなくなり、ヤケになって飲んでいた憂子の部屋に孔汰が入ってきた時。
 あの時の孔汰の喋り方。確かに酔っ払っている時の口調だった。
 酒呑童子は昴の精神と一緒に孔汰の体に移った訳だから、孔汰の精神が入っていた時の昴の体には酒呑童子はいなかったはずだ。
 なのに酔いづらく、醒めやすいということは……。
(最初から、酒豪だったの……?)
 それを酒呑童子の力が更に増強していた。
 そうとしか考えられない。
「とにかく色々お世話になっちゃったわね。お礼の意味も含めて、はいお年玉」
 ニコニコと屈託のない笑みを浮かべながら、叔母は憂子に可愛らしいキャラクターの描かれたお年玉袋を渡した。
「これでロリロリな服でも買って、その男の子悩殺しちゃってねっ」
「あのね……」
 叔母のストレートな物言いに呆れた声を出す憂子。しかし孔汰は隣で、顔を耳まで赤くして俯いている。
 反応がまるで小学生だ。
 昴が孔汰の体にいて大人っぽくなった分、昴の体にいた孔汰は逆に子供っぽくなってしまったのかも知れない。
(まぁ、その方が可愛気があっていいけどね)
 恥ずかしそうにモジモジとしている孔汰を見ながら、そんなことを思う。
「じゃあね、ゆーこタン。こーたクン。それからついでに義姉さん」
 叔母はカバンを肩に掛け、一人一人の顔を見ながら別れの言葉を言う。最後の一言は声のトーンを激しく落として。
「もー、とーぶん帰ってこなくていいわよ」
「またゴールデンウィークに遊びに来るわ」
 叔母は母親の言葉に即答し、昴を連れて居間を出た。
 憂子と孔汰は、二人を玄関まで送る。
「ここでいいわ。それじゃまたお盆にね」
「じゃあな、ゆーこタン、おにーちゃん。お幸せにね」
 中指と人差し指を揃えてピンと伸ばし、気取ったように顔の前で振ってみせる昴に、憂子と孔汰は苦笑するしかなかった。
 二人はもう一度頭を下げ、玄関から出て行く。
「ねーねー。俺、お酒の美味しさ分かってきたよ」
「あらそー。それじゃ帰ったら、『ででれけぐぐんぱ』おつまみに珍しい地酒たっぷり飲ませてあげなきゃねー」
 締められた扉の向こうから、そんな会話が聞こえてきた。
「何とか無事、終わりましたね……」
「そうね」
 体が入れ替わってしまったことは誰にも知られることなく、昴を帰すことができた。これでようやく肩の荷が下りる。
「それであの……僕は今日から何をすれば?」
「え? そうねぇ……」
 もう一番忙しい時期は過ぎてしまった。次は夏祭りまで基本的にすることはない。せいぜい境内の掃除をして、神社を綺麗に保つことくらいだ。
「あ……」
 だが孔汰には何よりもまず取り組まなければならないことがあるのを思い出した。
「まずは、貴方のアルコール中毒を少しずつ取り除くところから始めましょうか」
 孔汰の体は今はお酒に蝕まれている。丸一日お酒を飲まないと禁断症状が出るらしい。
「いきなり酒なしはさすがにキツイでしょうから、ちょっとずつ減らしていってね」
「あ、は、はい。頑張ります……」
「声が小さーい!」
「が、頑張ります!」
 背筋を伸ばし、素直に大声を出す孔汰に憂子は微笑する。
「心配しないで。アタシがイヤって言うほど貴方のお酒、管理してあげるから」
「あ、ありがとうございます!」
「うん、その調子よ」
 また大きな声で返事する孔汰に、憂子は満足げな笑みを浮かべた。
「その調子で、一緒にやっていきましょう」
 憂子は孔汰の前に立ち、彼の顔を見上げる。
「きっと弁天町も見守ってくれてるわ」
「そう、ですね……」
 孔汰も、はにかんだような笑みを浮かべた。
「さ! それじゃ早速今日から特訓開始よ! まずはお酒、三分の二に減らしましょう!」
「は、はぃ!」
 拳を上げて気合いを入れる憂子に、孔汰は直立して答える。
「さらにお酒の欲求を断ち切るために毎日五キロのマラソンをすること!」
「はぃ!」
「朝は六時起きに起きて神社の掃除をすること!」
「はぃ!」
「ご飯は家族で一緒に食べること!」
「はぃ!」
「それから、一日に少なくとも三時間は素面でアタシとお喋りすること!」
「は……! ぃ……?」
 最後の指令に孔汰は途中で言葉を詰まらせて、困ったような表情で憂子の顔を見た。
「へ、返事は!?」
「は、はぃ! 喜んで!」
 憂子の強引な問いかけに、孔汰は軍隊のような敬礼で返事をする。
(アタシだって色々と知りたいモン、貴方のこと。コレから先、長くやっていくためにはね)

 ――憂子さん、孔汰さんをよろしくね。お幸せに。

 嬉しそうな弁天町の声が、またどこからか聞こえた気がした。

 〜おしまい〜





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