キミの口から腹話術、してくれますか?

★天深憂子の初恋★
 憂子が太郎を強く意識し始めたのは小学三年生の時だ。
 太郎と家族ぐるみでつきあい始めたあの頃、憂子と太郎の家族は一緒になって山にキャンプに行った。
 当時まだ小学一年生だった太郎は今とはまったくの別人で、とても人なつっこく素直で、女の子のように可愛らしい顔立ちをしていた。二つ年上の憂子の言うことは何でも聞いて、いつも後ろを付いて来た。
『わたしが今とってる花を、いっぱいあつめるのよ』
 憂子は完全にお姉さん気取りで太郎に命令した。
 太郎は憂子に言われたとおり、熱心に紫色の花を摘んでくれた。
 これで太郎や自分の両親に花の冠を作ってあげようと、憂子はできるだけの沢山の花を集めた。二人はどんどん山の奥に入り、両手で持ちきれないほどの花を摘んだ。
 気が付けば陽が大分傾いていた。
 背の高い木々に光は遮られ、辺りは殆ど真っ暗だった。
『おねぇちゃん、もぅかえろうよ』
 太郎が憂子に言った。憂子自身、そうしたいのは山々だった。
 しかし、帰り道が分からない。
 どこをどう歩いてココまで来たのかサッパリ分からなかった。
 目の奥が熱くなって、鼻の中がむずがゆくなって、憂子はいつの間にか泣いていた。
 本当は自分がしっかりしなければならないのに。太郎を安心させて、両親のところに戻らなければならないのに。
 憂子は父と母の名前を呼びながら、ただただ大声で泣き続けた。自分はココで死んでしまうんだと根拠もなく思いながら、憂子はひたすら泣きじゃくった。
『……こっち』
 もう何も考えられなくなった憂子の手を太郎が握った。
 憂子は大好きな食べ物の名前を叫びながら、太郎の後ろを付いて歩いた。
 真っ暗な深い茂みの中、太郎は何も言わずに自分の手を引いて無言で進み続けた。途中、憂子はしゃくり上げながら太郎に帰り道を知っているのか聞いたが、太郎は何も答えてくれなかった。
 暗闇と死の恐怖に呑み込まれ、不安で胸が締め付けられて息をすることすら難しくなってきた。
 あの時、ふてくされたように何も言ってくれない太郎に、酷く腹が立ったのをよく覚えている。自分に大きな責任があることも忘れ、死んだら太郎のせいだと決めつけて憂子は歩いた。
 足が痛くなって、泣き疲れて、眠くなって。
 このまま倒れて楽になってしまおうと思った時、両親達のいるキャンプの明かりが見えた。憂子は太郎の手を振り払って駆け出し、コレまで以上に大声で泣きながら母親に抱きついた。
 母の胸の中に顔を埋め、急激に広がった安堵と共に憂子は眠りについた。
 次の日、両親から太郎にお礼を言うように言われた。
 一晩たって大分落ち着いた憂子は、昨日の自分の失態を心から恥じた。そして太郎に素直に謝り、お礼を言った。
 太郎は憂子を責めるどころか笑顔で返してくれた。
 結局、太郎が憂子の前で涙を見せることはなかった。
 それから、憂子と太郎の立場が逆転した。憂子の方から太郎に付いて歩くようになった。
 今思えば、あれが憂子の初恋だったのだろう。
 あれ以来、憂子は毎日のように太郎のことばかり考え、どんどん太郎の存在が自分の中で大きくなって行くのを感じた。
 なんとかして恩返しをしたいと思った。
 あの山でのキャンプの時、助けて貰ったお礼を言葉だけではなく行動でしたい。
 そう思って憂子は太郎の身の回りの世話をし始めた。
 勉強を教えたり、運動を教えたり。誰かにイジメられているのを助けてあげたり、一緒に秘密基地を作ったり。太郎が見つけた沢山の捨て猫をコッソリ神社で飼ったり、太郎が学校裏で捕まえてきた野ネズミを生物部で飼育して貰えるように先生を説得しに行ったり。
 太郎のためにできることなら何でもやった。
 しかし、小学二年生にして太郎は憂子よりも遙かにしっかりしてた。
 勉強や運動はコツさえ掴めば一人でどんどん上達していったし、相手が三人以下のケンカならまず負けることはなかった。秘密基地を作る時の人手は殆ど太郎が集めて来たし、彼らを使って神社に大きな穴を掘り、見事に沢山の捨て猫の隠れ家を作って見せた。
 野ネズミを生物部で飼育できるようになったのも、太郎の巧みな話術のおかげだ。あの時から太郎はすでに、相手の失言を誘ったりカマ掛けを成功させたりする能力に長けていた。
 太郎に恩を返すために世話をしたい。しかし太郎は憂子の助けをそれほど必要としていない。太郎はいつも憂子に『ありがとう』と言ってくれていたが、そのたびに自分の無力さを痛感させられた。
 そして憂子が小学五年生、太郎が三年生の時、学校で火事が起こった。
 その時の事件以来、太郎は心を閉ざしてしまった。
 これまでのように明るい顔はしなくなり、笑うことを忘れてしまったかのようだった。
 憂子は太郎の心を解きほぐすため、これまで以上に親しく接するようにした。しかし憂子が近づけば近づくほど、太郎は離れて行った。
 休みの日、太郎の家に遊びに行っても入れてすら貰えなかった。両親に頼んで太郎の家族と一緒に海に行こうとしたが、どうしても太郎が行きたがらなかったので計画は白紙になった。通学路で待ち伏せて一緒に登下校しようかと思ったが、憂子は太郎の走りに追いつけなかった。
 太郎との距離が開いたまま、憂子は中学校に進学した。太郎と一緒にいられる時間が激減した。そして憂子自身、新しい環境に慣れるために自分のことで手が一杯になっていった。
 憂子が中二の夏。今度の休日にどこに行こうか友達と話していた時、その中の一人が少し笑いながら憂子に言った。
『天深はいいよなー。お前なら幼稚園料金でタダだもんなー』
 勿論冗談で言ったんだろう。しかし憂子には冗談に聞こえなかった。
 それは自分が最も気にしていたこと。最大のコンプレックス。
 背が低くて童顔。さすがに幼稚園児には間違えられないが、小学生扱いされることは日時用茶飯事だ。
 その時憂子は、ただ苦笑いを浮かべるしかなかった。
 憂子が中三の時。太郎は都外の中学に進学した。ますます距離が開いた気がした。
 高校になると、周りには付き合い始める男女も出始める。そう言う話題には敏感な年頃だ。憂子も太郎のことを考えながら、休み時間には友達と恋愛の話で盛り上がった。
 高一の冬。憂子は同じクラスメイトに告白された。
 素直に嬉しいと思った。だが、自分にはすでに好きな人がいる。憂子はできるだけ相手を傷付けないよう配慮して断った。しかし――
『バーカ! 冗談に決まってんだろ! 誰がお前みたいな小学生相手にすんだよ! マジになんなよ! シャレだシャレ!』
 彼は捨てゼリフを吐いて憂子の前から消えた。
 あの時の言葉が本心からの物なのか、それともフラれて照れ隠しに言った物なのか。今となっては分からない。
 ただ次の日から、憂子はみんなに『小学生』と呼ばれるようになった。
 誰が広めたのかは明白だった。
 腹立たしさと、悔しさと、惨めさで涙が出そうになった。
 だが憂子は泣かなかった。ここで泣いてしまってはあの時と変わらない。小学生の時、太郎に助けて貰ったあの時と。
 憂子は歯を食いしばって、いわれのない仕打ちに耐え続けた。
 ――太郎のことを考えて。
 きっとあの時、太郎もこんな気持ちだったはずだ。
 自分が悪いわけでもないのに山奥で迷子になり、こんな事態を引き起こした張本人を助けるために涙も見せずに黙って歩いた。
 あの時自分は、心の中で太郎を責めていた。全くの筋違いだというのに。
 自分にフラれた男が、今していることと同じだ。
 そう思って憂子は、太郎への贖罪の意味も込めて何も言い返さずに耐え続けた。
 高二の春。学校から帰る電車に乗ろうとした憂子の体を誰かが押した。もう少しでホームと電車の隙間に足を挟むところだった。
 振り返ると、よく知った顔が立っていた。
 少し前、憂子がフッた男だ。彼はガラの悪そうな友達と一緒にコチラを見下ろしながら、嘲るように言った。
『ワリィワリィ。あんま小さかったから見えなかったよ』
 明らかに憂子への嫌がらせだった。フラれたことをまだ根に持っているらしい。
 憂子が睨み付けると体格のいい男達が前に出た。
 普通の女性の平均よりも遙かに体の小さな憂子が、力で彼らにかなうはずもない。
 憂子は黙って我慢するしかなかった。
 しかしそんな嫌がらせが半年も続いた頃、憂子は決心した。
 絶対にやり返してやると。
 腕力がなく、体の小さな憂子でも十分使える格闘術が一つだけあった。
 それが関節技だ。
 関節を本来とは違う方向に曲げられた時の痛みは、打撃とはまた別の苦痛をもたらす。どんな強打であっても打撃系の接触時間はほんの僅かしかない。我慢しようと思えばできる。対して関節技はコチラが止めない限り永続的に続く。我慢し続けることは、ほぼ不可能だ。
 憂子は独学で関節技を身に付け、彼らの嫌がらせに備えた。
 そして空気が大分冷たくなってきた頃、その成果を試す時が来た。
 彼らは憂子の帰宅路の途中で、待ちかまえるようにして立っていた。そして憂子のフッた男が無造作に近づいてくる。
 互い距離が縮まり、すれ違い際、彼が憂子を転ばせようと足を出してきた。
 憂子はその足を抱き込むようにして飛びかかると、彼の踵を脇と腕で固める。そして股で相手の太腿を挟んで固定し、全身の力を込めて時計回りに捻った。
『――ッ!』
 悲痛な叫び声が上がった。
 頭の中で何度もイメージトレーニングし、繰り返し練習してきた技だ。解けるはずがない。しかし――
『調子乗ってんじゃねーぞチビ!』
 別の男が憂子の脇腹を蹴り上げた。
 堪らず憂子は手を離し、大きく咳き込む。
『テメェ……まだ俺に恥じかかせる気か。あぁ!?』
 憂子の関節技から解放された男は、怒声を上げて凄んだ。
『チビはチビらしく隅っこでじっとしてりゃいいんだよ!』
『同感だ』
 憂子を更に蹴り上げようとした男の体が宙に舞った。
『そーやって隅で一生土下座してろよ、チビ』
 後ろに立っていたのは憂子が子供の頃からよく知っている男だった。
 自分に嫌がらせをしている男達よりも一回り大きく、背も頭半分ほど高い。
 真宮寺太郎。憂子の初恋の相手。
 太郎は彼らをアッサリ血祭りに上げると、つまらなさそうに憂子を見た。
『ちっさいと色々不便だな、憂子』
 久しぶりに太郎と話した気がした。
『ま、ロリ属性ってのは俺的にポイント高いけどよ。二次元ならな』
 とにかく嬉しかった。
 さっきの奴らに蹴られたことなどスッカリ忘れてしまっていた。
『ま、《貴様の力などブタに等しい》で恐怖の記憶植え付けてやったから、二度とちょっかい出さねーだろ。最近覚えた技も試せたし、お前のおもりからも解放される。今回の手間賃はソレでチャラってことにしといてやるよ』
 恐らく、前から憂子のことを見ていてくれたのだろう。そして今回は目に余ったので助けてくれた。
 以前のように素直ではなかったが、根は変わっていないと確信できた。
 強くて、カッコよくて、そして優しくて。
 それから憂子はまた、太郎と話す機会が増えた。さすがに一緒に遊んではくれなかったが、露骨に拒絶されることはなくなった。
 憂子が高三になり、太郎が高校に上がった時。太郎の両親が海外に移り住んだ。しかし太郎は付いて行かなかった。
 本当に嬉しくて、思わず涙が出た。もう太郎に会えなくなると思っていたから。
 そして太郎の両親がいなくなったことで、彼の家に遊びに行くいい口実ができた。
 親の代わりに太郎の身の回りの世話をする。
 休日は部屋の掃除をしに行ったり、手料理を食べさせたりした。太郎はいつも邪魔だと言っていたが、本当に嫌そうな顔はしていなかった。
 これまでより遙かに毎日が充実していた。そして太郎への想いも、さらに大きく膨らんで行った。
 告白しようかと思ったことも何回かあった。だができなかった。
太郎は本当に自分を必要としてくれるのだろうか。幼馴染みだから仕方なく付き合ってくれているだけではないだろうか。強く言わないだけで、心の中では自分のことを鬱陶しく思っているのではないだろうか。
 そう思うと恐くて告白などできなかった。
 フラれて今の関係が壊れてしまうくらいなら、このまま幼馴染みとして接していた方がずっといい。太郎の性格からして他の女性を求めることはまずないだろう。それどころか、あらゆる人間関係を拒否している。ならば太郎のそばに、当たり前のようにいられるのは自分だけだ。
 それに他にも、自分だけに許された権限がある。
 それは太郎のことを『太郎』と呼べること。
 太郎は昔から自分の単純な名前にコンプレックスを持っていた。だから他の誰かに、決して『太郎』とは呼ばせなかった。もし呼べば血の雨が降った。
 だが憂子だけは例外だった。
 幼い頃からそう呼んでいたおかげで、憂子だけは『太郎』と口にすることが許された。
 太郎のそばにいられ、しかも彼を下の名前で呼ぶことができる女性。
 その特別扱いだけで憂子は満足だった。
 短大を卒業して巫女の修行に打ち込み始め、太郎と話す時間が減ってきても、憂子は遠くから想っていられるだけでよかった。そしてこのまま、太郎にも自分にも特定の相手ができず、ずっと憎まれ口を叩きながら二人で年を取っていくのだと思っていた。
 しかし――そこに色葉楓が現れた。
 彼女は太郎の守護霊であり、小学校の時の担任であり、そして太郎の初恋の人だった。
 太郎は楓がかつて自分を救うために行った命の献身を思い出し、彼女に惹かれた。そして同居を始めた。
 どうせ長続きしないと思っていた。あの人間嫌いな太郎が、誰かを四六時中そばに置いておくはずがない。それは自分ですら許されなかった。
 だが、二人の関係は良好なまま三年が過ぎた。二次元にしか興味を示さなかった太郎が、楓だけには女性として興味を持った。乱暴で意地っ張りで素直じゃなかった太郎が、楓だけには優しく接した。そして憂子が入り込む隙などないくらい親密になった。
 羨ましかった。妬ましかった。
 今自分がこうして神社で掃除をしている間も、太郎が楓と楽しい時間を過ごしていると思うと、居ても立ってもいられなかった。嫉妬心が強すぎて、体調を崩した時もあった。太郎から楓を引き剥がそうかと思った時期もあった。
 しかし、そんなことはできなかった。
 楓のおかけで太郎は少しだけ昔の太郎に戻った。よく笑うようになった。それはコレまで自分に見せていたのとは全く種類の違う笑顔。愛しいと思う人にだけ向ける至福の表情。
 小学三年生の時に凍結してしまった太郎の心を、楓は見事に溶かしてくれた。憂子が十年以上かかってできなかったことを、たった三年でやり遂げて見せた。
 楓には感謝こそすれ、恨みを持つことなどできなかった。
 楓はいい人だ。同性の憂子から見ても魅力的だと思う。優しく、底知れない包容力。一緒にいると癒され、和む。要領が悪くズルをできない性格だが、何に対しても一生懸命で、見ているコッチまで頑張ろうという気にさせられる。
 きっと太郎も楓のそんなところに惹かれたのだろう。
 だから――

「アタシはね、二人の邪魔をする気なんてないの」
 憂子は自分の部屋で孔汰を正座させ、荒い呼吸を整えながら言った。
 自分はとんでもない失態を犯してしまった。いくら酔っていたとは言え、誰にも聞かれたくなかったことをよりによってコイツに喋ってしまうとは……。
 まだ孔汰が太郎に話す前だったからよかったものの、乱入するのがあと数分遅れていたらどうなっていたか分からない。自分の気持ちが太郎に伝われば、コレまでのように気楽に会えなくなるだろう。相手のことを変に意識してしまう。ソレはイヤだ。
 ずっと太郎のそばにいられないまでも、せめて幼馴染みとして気さくに話し合えるくらいの関係は保っていたい。
 だから今のままでいいのだ。太郎と楓が幸せそうにしているのを見守っている今のままで。
「あの二人はいいカップルなんだから。アタシは割って入る気も、太郎を奪い取る気もないの。だからさっきアンタが聞いたこと、絶対に太郎に言っちゃダメよ。分かった?」
 今回は大丈夫だったが、このまま放っておけばいつ爆弾発言をするか分からない。ここで強くクギを差しておく必要がある。
『で、でも、このままハンパな気持ちを持ち続けるのは辛いことだわ。忘れられないにしても、一度告白して向こうの気持ちもハッキリ聞いといた方がいいと思うの』
「う、うるさわねっ! 別にどうしようとアタシの勝手でしょ! 太郎とは今のままでいいのよ!」
 弁天町の言うことは確かに正論だ。しかし告白するにはもう手遅れ。明らかに負けると分かっている戦いを挑むほど、憂子もバカではない。だったら決着つかずのまま放って置いた方が楽だ。
『……憂子さん。あの真宮寺って男のこと、そんなに好きなの?』
「な、なんでアンタにそこまで言わなきゃならないのよ。ほらほら、子供はさっさとお母さんの布団に戻って寝なさい」
『お願い聞かせて、憂子さん。自分の気持ちを犠牲にしてでも相手の幸せを考えられるくらい、好きなの?』
 気持ちを犠牲に? そんな格好いい物じゃない。ただ単に勇気がなかっただけだ。
「あのね、アタシ疲れてるの。アンタを戻す方法なんとかして見つけなきゃなんないし、今年の強い『ケガレ』どうするかも考えないといけないわ」
『彼が幸せでいられるなら、自分はこのままずっと辛くてもいいって覚悟できるくらい、好きなの?』
 覚悟? そんなものあるわけない。これが一番いいんだって何度も言い聞かせて、自分を騙し続けるだけだ。
「あ、いいこと思いついた。アンタその市松人形、貸しなさいよ。見た感じ相当古いみたいだから、きっといい祓い道具になるわよ。それに『ケガレ』集めたらあとは神炎で燃やすだけだから、わざわざ祓う必要もなくなって楽だわ」
『そうやって何も言い返せないくらい、彼のことが好きなのね』
「うるさい!」
 堪らず憂子は枕を孔汰に投げ付けた。
「だから何!? アタシが太郎好きでアンタに迷惑掛けた!? アタシ達のこと何も知らないクセに知った風な口きかないでよ!」
 顔を枕に埋めながらも、孔汰は弁天町の口を動かして言う。
『……ごめんなさい。確かに言いすぎたわ。反省してる。お休みなさい』
 そして静かに立ち上がると、枕を顔に張り付かせたまま孔汰は部屋を出て行った。
「もぅ……何やってんのよ、アタシ……」
 深く溜息をつき、憂子は大きく肩を落として床に座り込んだ。

★九羅凪孔汰の焦燥★
 一月四日。
 三が日を過ぎて初詣客も大分落ち着き、憂子の業務自体かなり軽くなってきていた。しかし店に並ぶ客の列はなかなか短くならない。憂子が心ここにあらずといった様子で接客しているからだ。
 渡す品を間違えたり、オツリを多く返してしまったり、時には客を完全に無視することもあった。
 昨日の疲れがまだ抜けきっていないこと。孔汰と昴の体を元に戻す方法を考えなければならないこと。例年より強い『ケガレ』に何とかして対処しなければならないこと。
 そして、太郎のこと。
 原因は山積みだ。
 憂子をそばで見ているだけで胸が締め付けられる。少しでも彼女の苦悩を取り除いてやりたい。
 だから孔汰はトイレに行ってくると言って憂子の目を盗み、太郎の家に来た。せめて最後の悩み事をなんとかするために。
『真宮寺さん。折り入って頼みがあります』
 太郎邸のリビング。
 楓に案内されて入って来たそこで、太郎は昴の精神が入っている孔汰の体と一緒に、等身大のフィギュア作りにいそしんでいた。
 昴は甚平ではなく、温かそうな毛糸のセーターを着せられている。まぁ、甚平一枚でいられたのは、酔っ払って体が熱かったからなのだから当然と言えば当然だ。
「スーちゃんは、もっとおっぱいおっきい方が好きだよ」
 昴は新聞紙の上に置かれた巨大なフィギュアを腕組みして見ながら、その胸元に視線を集中させる。
「そうか。一理あるな。ではパテをもう少し重ね塗りしてみるか」
『真宮寺さん』
 こちらに振り向きすらしない太郎に、弁天町はもう一度声を掛けた。
「コレでき上がったら、スーちゃんはワイシャツ着せたいな」
「ほぅ、裸にワイシャツか。なかなかオツだな。よし採用」
「わーい」
 昴は両手を上げて満面の笑みを浮かべる。
『真宮寺太郎さ……!』
「『真宮寺様』と呼べと言ったはずだが」
 顎下から太郎の声がした。
 いつの間にか懐に入り込んでいた太郎は、フィギュアの整形に使っていたカッターナイフの刃先で孔汰の喉をつつく。そして、さっきまで自分の見ていた太郎の姿が一瞬ブレて消えた。
『ざ、残像……』
「何の用だ。俺は今忙しい」
 太郎は孔汰から離れると、ソファーに腰掛けてタバコに火を付ける。
『折り入って、頼みたいことが御座……』
「あー! スーちゃんの体だー! ねぇ元気だったー!?」
 弁天町の言葉を遮って、昴が声を上げた。
「この体貸してくれてありがとー! おっきいっていいねー! スーちゃんもー、一人で色んなことできるようになったよ!」
 昴は無邪気に言いながら、分厚い眼鏡の位置を直す。
 いったいどうやって今の状況を納得させたのかは知らないが、取りあえずココで生活するのに問題はないようだ。寂しがって母親の元に帰るとダダをこねられていたら、かなり厄介な事態になっていた。
「昴。ちょっと外で楓と遊んでこい」
「はーい、スーちゃんおっきいおっぱい大好きだよー」
「……最初みたいにワシ掴みにしたら殺すぞ」
「じゃあタカ掴みにするー」
「……昴。また『凶洗脳』されたいのか?」
「スーちゃん、いい子にしてまーす」
 引きつった笑みを浮かべながら、昴は楓と一緒に部屋を出て行った。
「で、何だって?」
『その前に『凶洗脳』ってなに?』
「教育の一環だ。気にするな」
 ふー、と太郎は長く紫煙を吐き出す。
 とにかく自分の体にかつてない危機が迫っているということだけは分かった。 
『真宮寺様。折り入って頼みたいことが御座います』
「憂子に俺を忘れさせろって言うんなら断るぞ」
『いいえ……』
 孔汰は膝を付き、額を床に押しつけて頭を下げた。
『憂子さんと、お付き合いしていただけませんか』
 土下座の体勢のまま、弁天町は絞り出すような声を発する。
「意味が分からんな」
『憂子さんは貴方のことが本当に好きなんです。今はそれを無理矢理押し殺しています。貴方の幸せを邪魔しないために。そんな健気な憂子さんを見ているのは、苦しい……』
「知ったこっちゃない」
 薄情な太郎の言葉に、孔汰はガバッ! と勢いよく顔を上げた。
『それが幼馴染みの言葉ですか! 憂子さんはどれだけ貴方のことを……!』
「それで憂子が喜ぶと、本気で思ってんのか? お前」
 冷たい視線で見据えられ、孔汰は言葉を詰まらせた。
「俺には楓がいる。それは憂子もよく知ってる。自分が二股掛けられてるって最初から分かってんのに、喜ぶヤツはいねーよ」
『ですが……!』
「分かんねーな」
 タバコをもみ消し、太郎はガラステーブルに足を投げ出して孔汰を見下す。
「お前、憂子こと好きなんだろ? なんで俺とくっつけよーとすんだよ。普通逆だろ」
『憂子さんのことを好きだからこそ、です』
 憂子のことを好きだから、誰よりも幸せになって貰いたい。ソレが自分でできないのであれば、悔しいが頼らざるを得ない。確実に憂子を幸せにしてくれる者を。
「お前……なんでそんなに憂子のこと好きなんだよ。内容によっちゃ、何とかしてやらんこともない」
 新しいタバコに火を付けながら、太郎は片眉を上げて言う。
 孔汰が憂子を思う気持ち。できれば人には言いたくなかった。だが仕方ない。彼の力を借りるためには。
 孔汰は顔を引き締め、弁天町の口を動かした。
『……笑わないで聞いてくれますか?』
「ゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!」
『まだ何も言ってない!』
 いきなり腹を抱えて笑い出した太郎に、弁天町は怒声を上げた。
「俺は人の嫌がることをするのが好きだ」
『いばるな!』
 最低の一言を胸を張って言った太郎に、孔汰は非難の目を向けるが、全く気にした様子もなく彼は紫煙をくゆらせる。
(く……! 憂子さんはどうしてこんなヤツのことを……!)
 恋は盲目とはよく言ったものだ。
 勿論、その言葉は自分にも当てはまるのだが。
『孔汰さんは、三人兄弟の末っ子なんです』
 目を瞑って気を落ち着かせた後、孔汰は自分のことを弁天町の口から喋り始めた。

 孔汰には二人の兄がいた。
 長男は国際弁護士。今は自分の事務所を構え、世界中を飛び回りながら多忙な日々を過ごしている。
 次男は一級建築士。コチラも自分の事務所を持ち、百人以上の従業員を養っていた。
 二人とも非常に優秀で、古くから続いた良家である九羅凪の名に恥じない経歴を築き上げていった。
 しかし唯一、孔汰だけは違った。
 何に対しても消極的。奥手で言いたいことは殆ど言えず、周りに甘えながら流されるままに育ってきた。やる気に満ちた上の二人とは対照的だった。
 趣味は幼少の頃よりしつけられた、書道、華道、日本舞踊。よほどのことがない限り外に出ることはなく、いつも部屋に閉じこもって本を読んでいた。
 そんな孔汰にとっての唯一の話し相手。それが弁天町だった。
 孔汰が幼い頃、母が誕生日にプレゼントしてくれた物だ。
 孔汰は母の膝の上に乗り、弁天町を抱いて日向ぼっこをするのが大好きだった。母は孔汰の頭を撫でながら、美しい声色で歌を歌ってくれた。それを子守歌のように聞きながら、孔汰はよく昼寝をしていた。
 しかし孔汰が七歳の時、母は他界した。病死だった。
 弁天町は孔汰にとって、母の形見となった。
 孔汰はしばらく学校にも行かず、弁天町を抱いて母の遺影の前に座り込み、一日中泣いて過ごした。
 最初は皆、色々と配慮してくれたが、いつまで立っても悲嘆にくれ続ける孔汰への風当たりは徐々に強くなっていった。
 九羅凪の名を継ぐ者は人望、器量、身体、全てに秀で、社会に多大な貢献をしなければならない。
 それは先祖が残した家訓。
 上の二人の兄はそれを立派に実行するため、見事に母の死を乗り越えた。
 しかし孔汰には、どうしてもできなかった。三人の中では一番母親に甘えていた孔汰だ。孔汰の中で母の存在は絶対的な物になっていた。母の香りが残る弁天町を抱いて、暗い毎日を送った。
 そして孔汰への風当たりは強くなり続けた。
 孔汰が高一の時、悪友から無理矢理お酒を飲まされた。
 合コンの頭数を合わせるためにと、半ば強引に誘われた酒の席だった。最初はウーロン茶でも飲んで適当に話を合わせてくれるだけでいいと言われたが、時間が経ち、酒が入ってくると、全く飲んでいない孔汰に何とかして飲ませようとしてきた。
 みんなふざけて孔汰を押さえ付け、「一気一気!」と叫びながらビールを口に流し込まれた。
 生まれて初めて味わうアルコール。
 苦く、冷たい液体が喉を通り、胃にたどり着く。
 そして孔汰は変身した。
 意味もなく高笑いを上げ、自分でも驚くほど饒舌になり、何の根拠もない万能感を抱くことができた。
 生まれて初めてのアルコールは、生まれて初めての体験を孔汰にもたらした。
 それから瞬く間に孔汰はアルコールの虜になった。
 ことある毎に酒を飲み、これまでの暗い人生を取り戻すかのように明るい青春を謳歌した。周りからの風当たりは緩くなり、全てが上手く行き始めた。
 そして――弁天町は忘れられていった。
 大学に入った時には、孔汰は立派なアルコール中毒者となっていた。飲まない時間が長くなると手が震え、言い知れない恐怖に襲われた。アルコールへの耐性も上がり、中途半端な量では全く酔わなくなった。さらに酔い始めるまでに時間を必要とするようになった。
 酔うには沢山飲まなければならない。飲んでもなかなか酔えない。酔っても長続きしない。だからまた飲まなければならない。終わりのない悪循環。
 孔汰は次第に素面でいる時間が長くなっていった。
 そしてまた、閉じこもることが多くなった。
 母の影を求め、孔汰は再び弁天町を手に取った。久しぶりに見た彼女の顔は、どこか寂しそうに見えた。
『ごめんね』
 孔汰は自室で一人、弁天町に話しかけた。
 ――大丈夫。気にしないで。
 そんな声が聞こえた気がした。
『僕は、どうしてこんなにダメなんだろ……』
 立派すぎる上の二人の兄と比べると、自分は遙かに見劣りしてしまう。
 アルコールがなければ何もすることができない。自分の行動に自信が持てない。次にどうしていいのか分からない。誰かに教えて貰いたい。誰か自分を導いて欲しい。
 幼い頃、母がそうしてくれたように。
 ――ガンバって。私が付いてるから。
 また、声が聞こえた気がした。
 もう誰でもいい。自分を支えてくれるなら。自分を慰めてくれるなら。自分のそばにいてくれるのなら。
 母のように。母のように。母のように――
『いつまでもそんなに落ち込んでないで』
 気が付くと、弁天町の頭を動かしながら孔汰は呟いていた。
『私がずっと一緒にいるから』
 まるで弁天町が話しかけてくれているようだった。
『貴方のそばにいるから』
 まるで、母が還ってきたようだった。
『ありがとう』
 孔汰がそう言うと、弁天町は笑ったかのように見えた。
 それから孔汰は、弁天町を肌身離さず持ち歩くようになった。
 大学での講義中も、電車やバスに乗る時も、トイレに入る時も、お風呂に入る時も。
 口を動かせるようにした弁天町を使って、自分で自分を鼓舞し続けた。
 当然周りからは変な目で見られたが、孔汰にとっては些細なことでしかなかった。
 母を感じさせてくれる弁天町と二人だけの世界に籠もることで、孔汰はまた明るい毎日を送ることができた。お酒を飲まなくても、弁天町の口を介してなら堂々と発言できるようになった。そして弁天町が自分の口から喋っているように見せるため、腹話術は自然と上達していった。
 常に周りからは浮いていたが、楽しい時間を過ごすことができた。弁天町に言葉を代弁して貰い続けたせいで、以前にも増して自分の口から何も話さなくなったが、片時も弁天町を手放さない孔汰にとってはどうでもよかった。
 だが、厳格な父はそれを許さなかった。
 孔汰が大学三年生の時、すでに独立していた二人の兄達と比べられ、いつまで人形遊びに興じているつもりだと激怒された。九羅凪家の男として恥ずかしくないのかと罵られた。
 そして大学卒業と同時に、無理矢理見合いをさせられた。
 所帯を持てば嫌でもしっかりしなければならなくなる。子供ができて父親になれば、今の自分のしていることがどれだけ幼稚で愚かしいか分かるようになる。
 そう考えての強引すぎる結婚話だった。
 勿論、孔汰は断った。
 家の名誉を守るためなどいう下らない理由で結婚させられてはたまったものではない。
 酒の力を借り、弁天町の力を借り、孔汰は断り続けた。
 ならば自分で結婚を前提とした女性を見つけてくるまで、九羅凪家の敷居をまたぐな。
 二十三にして、孔汰は勘当同然で家を追い出された。
 自分の銀行口座には祖母がこっそりお金を入れてくれたから、なんとか生活はできた。
 孔汰は安いカプセルホテルを転々としながら、途方に暮れた。
 毎日弁天町と話し合い、自分と向き合い、色んなことを考えた。
 どうして自分はこうも兄達と違うのか。どうしてこんなにも引っ込み思案なのか。どうして自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。どうして弁天町と話すことを悪いことだと決めつけるのか。そしてどうして、母は自分を残して死んでしまったのか。
 置かれた境遇にただ絶望し、孔汰は無意味な日々を漫然と過ごした。
 そんな状態が一年も続き、あてもなく歩いていた時に見かけたのが憂子だった。
 一気に目が覚めた。
 彼女はまさに弁天町の生き写し。母の残した形見にそっくりだった。
 この人しかいないと直感した。
 それは今まで常に誰を頼り続けてきた孔汰が、初めて自分だけで下した決断だった。
 孔汰は居ても立ってもいられなくなり、アルコールの勢いに乗せて憂子に近づいた。そして開口一番叫んだ。
 『結婚してください』と。
 当然の如く拒絶されたが、絶対に引く気はなかった。だから神社での仕事をしたいと申し出た。
 憂子と一緒に働き、想いは更に深まっていった。
 孔汰が憂子を好きになったキッカケは容姿に一目惚れしたからだ。弁天町を、そしてどこか母を感じさせてくれるその外見に。
 だが、憂子の魅力はそれだけではなかった。
 面倒見がよく、次に何をすればいいのか明確に指し示してくれた。
 神社での仕事内容を丁寧に説明してくれ、物覚えが悪く何度も同じことを聞く孔汰に呆れながらも、ちゃんと最後まで付き合ってくれた。
 神社の構造から、各建物の名称、役割。神木にまつわる逸話や初詣客への接客のしかたまで。
 あまりに酷い失敗をすれば竹箒で殴られたり、関節技をきめられたりすることもあったが、それでも憂子は孔汰を見捨てることなく世話してくれた。
 まるで孔汰の母親のように。
 孔汰は憂子の役に立ち、一人の男として認められようと必死に頑張った。そしてより積極的に、より熱烈に言い寄るためにアルコールの力も借りた。
 弁天町とアルコール。この二つの力を持って、全力で憂子の心を射止めるつもりだった。
 だが、ソレが完全に裏目に出た。
 午前中、まだアルコールが回りきっていない時。弁天町の力を借りて会話し、一生懸命仕事をしていた時はまだよかった。憂子も優しく接してくれた。
 しかし午後になって酔っ払い始め、本能の命ずるままに憂子を求めた時は激しく拒絶された。だが拒絶されてもさらに言い寄った。午前中は弁天町の口からしか会話できず、全く自己主張できなかった孔汰にとっては、自分の口から憂子と話せるだけで嬉しかった。
 神社で働き初めて五日目の午後。
 この頃には、関節技を掛けられることさえもそれほど苦ではなくなっていた。
 社務所で一人、おみくじを書いていた憂子の背後から忍び寄り、孔汰は抱きついた。
 その拍子に墨がこぼれ、初詣客用のおみくじを何十枚も台無しにしてしまい、ついに孔汰はクビになった。

『それでも孔汰さんは憂子さんのことを諦めきれず、祈祷殿まで追っていって事故に遭い、今の体になってしまったというわけです』
 弁天町は全てを話し終え、太郎の方を見上げる。
 太郎は足の小指を器用に使って、鼻をほじっていた。
『……あの、聞いてました?』
「まぁ、つまりなんだ。根暗マザコン・アル中がロリ巫女の関節技にマゾとしての悦びを見出したって訳だな」
『変な意訳するな!』
 大きく伸びをして体中の関節を小気味よく鳴らす太郎に、弁天町は激しい抗議の声を上げた。
「ところでお前、どのくらい酒断ちできるんだ?」
『な、なによ。いきなり……』
 全く違う話題を振られ、弁天町はドモった上げる。まさか『酒断ち』と『逆立ち』を掛けて、変なことを言うつもりなのだろうか。
「そうか。逆立ちしても一日が限度か」
『心を読むな!』
 正確に自分の限界を言い当てた太郎に、弁天町は思わず怒声を発していた。
「で、その体だと平気なのか?」
『だ、だからさっきから何だって言うのよ……』
 いまいち言っていることの真意が見えない。
 確かに、今は昴の体に入っているので禁断症状は出ない。だが代わりに自分の体に入っている昴の方にその症状が現れているはずだ。
「まぁいい。で、お前の好きな憂子を幸せにするために俺の力を借りたい、と」
 ダルそうに半眼になり、急に話題を戻す太郎。
 さっきの会話にどんな意味があったのか気にはなるが、今はそんなことよりも憂子のことの方が大切だ。これ以上話題を逸らされないためにも、聞き直すわけにはいかない。
『そうよ……』
 タバコに火を付けながら言う太郎に、孔汰は神妙な顔になって頷いた。
「もう一回だけ言ってやる。俺は憂子と違って面倒見なんざよくないから、こまくの穴開くくらい磨き上げてよーっく聞いとけよ」
 溜息混じりに紫煙を吐き出し、太郎は孔汰に蔑んだような視線を向ける。
「俺が憂子に好きだって言ったとしても、激怒買って終わるだけだ」
『だからそれはやってみたいと……!』
「分かる。お前が憂子のこと好きだからこんな下んねーマネするってんなら、なんで憂子は俺と楓に遠慮してんだよ。そんなのお前が一番よく分かってるはずだろーが」
 言われて孔汰は大きく目を見開いた。
 同じだ。
 憂子は太郎の幸せを思うからこそ身を引いている。そして自分も今まさに、憂子のために身を引こうとしている。
 もし自分が太郎や憂子から同情され、無理矢理憂子と付き合うように仕向けられたら、いくら孔汰だっていい気はしない。そんな物は偽りの愛情でしかない。
 憂子が太郎を想う気持ちは、自分が憂子を想う気持ちと同じ?
「ま、そーゆー訳だから自分で何とかするんだな。俺が見た感じ、お前はまだまだ脈アリだからよ」
『脈アリ、ですって? 変な慰めはやめてよね。昨日、最低な嫌われ方しちゃったのに……』
「お前、憂子の関節技受けたの、あそこで働き始めてどのくらいからだ」
『……は? 関節技?』
 また唐突に訳の分からない質問をされて、弁天町は戸惑いの声を上げる。
「いいから答えろよ。憂子と初めて会って何日目できめられた」
『よ、よく覚えてないけど……三日目、くらいかしら』
「俺の知る限りじゃ最短記録だな」
『だ、だからそれがどうしたってのよ!』
 太郎の言いたいことがサッパリ見えてこない。
「憂子のおばさんがいつ帰るって言い出してもおかしくないんだろ? だったらこんなトコで油カス売ってないで、とっとと憂子のトコに戻るんだな。ガキの体でしか稼げねーポイントもあるからよ」
「う……」
 そうだ。憂子のことで頭が一杯になってスッカリ忘れていた。
 文献にはこの体を元に戻す方法は記されていなかった。だから憂子の叔母が九州に帰る前に、自力で解決策を見つけなければならない。
 もしそれができない場合はみんなに全てをうち明け、この非常識な事態を受け入れて貰わなければならない。納得してくれれば人手は多くなり、解決しやすくなるだろう。だが生活面には間違いなく多大な影響が出る。
 昴の体をした孔汰。孔汰の体をした昴。
 果たして憂子の叔母はどちらかを選んでくれるのだろうか。
 事態を受け入れられず、どちらも選べなくなった場合、最悪自殺という選択肢もありうる。
 悪い方に考え始めたらキリがない。とにかく叔母が帰る前になんとか決着しなければ。そのためにはあの儀式を何度も繰り返すしかない。元に戻るまで、何度も何度も。
「ああ、ちなみにな。別の意味でも時間なくなってきてるから」
 のん気な口調で言いながら、太郎はクセの強い紅髪を掻き上げた。
「俺の見た感じ、昴ってヤツの精神、お前の体に大分馴染んできてるぞ」
『……は?』
 太郎はスパー、と楽しそうに紫煙を吐き出した。
「考えてもみろ。五歳児が三日も母親と離れてるのに、あれだけ明るくしていられるはずないだろ。寂しくなって泣き叫ぶのが普通だ」
『そ、それは貴方の『凶洗脳』とか言うヤツの効果なんじゃ……』
「『凶洗脳』は一時的に破滅級の悪夢を見せる技だ。永続的に続くモンじゃない。まぁ現状の方がマシってことを優しく受け入れさせるためのクッションのような物だな」
 優しく、なのか……?
 果てしなく疑問に感じた孔汰だったが、恐いのでそれ以上ツッコまなかった。
「あのガキの精神は昨日、今日で急激に成長してる。なにせ『勝負パンツ』とか『明るい家族計画』の意味をすでに知っていたからな」
 成長、なのか……?
 いったいどんな会話をしているのか聞いてみたかったが、恐いので止めておくことにした。
「つまり、だ。アイツがお前の体に入って大人になってるってことは、アイツの体に入ってるお前の精神はガキになってる可能性がある。身に覚えはないか」
 分からない。
 素面の時の自分が子供っぽいせいか、変化らしい変化は感じない。
 だがアルコールを飲んで憂子の部屋に行った時、言われてみれば大人しかった気もする。いつもの自分なら、いくら憂子が酔っ払っていたとは言え、こちらも酔いの勢いに任せて襲っていてもおかしくなかった。あの時は憂子の気迫に押されたのだと思っていたのだが……。
 そういえば、憂子が太郎のことを好きだと聞いてからすぐに行動を起こしたことや、今もこうして太郎に憂子を幸せにしてくれと頼み込んでいること自体、以前の素面の自分ではできなかったことかも知れない。
 気弱かと思えば、感情的で強引な部分がある。後先考えて動かない。
 気のせいと言われればそんな気もするが、子供っぽくなったと言われればそう思えるふしはあった。
『あの……ちなみに今のままでいると?』
「恐らく完全に同化するだろうな。今は同化するのに導火しているところだと思えばいい。あと憂子に貸してた銅貨。実は以前、国道から離れた場所にある茶道華道の教室で恫喝されて、二度羽化させた雛鳥を銅化させて作った物なのだが、本当に要るのかどうか聞いてみてはどうかと思うが、同感かな? ところで今、何回『どうか』って言ったと思う?」
『知るか!』
 とんでもないことになった。
 憂子の叔母がどうのとか言っている場合ではない。このままでは本当に幼稚園児から人生をやり直さなければならなくなる。
 弁天町が分からなくなるかも知れない、母親のことを忘れるかも知れない、そして――憂子への想いが薄れていくかも知れない。
 それは嫌だ。
 まだちゃんと告白していない。
 自分の口から。素面の状態で。
 こんな大切なことをやり残したまま、自分の心を失っていくなんて嫌だ。
『お願い! 昴君、神社に連れて来て! 憂子さんに例の儀式やってもらうから!』
「お前はどうするんだよ」
「僕は……!」
 孔汰は自分の口で何か言いかけるが、それ以上言葉が出てこなかった。
『孔汰さんは孔汰さんのできることをするわ!』
 弁天町の口からそう叫び、孔汰は太郎の家を飛び出した。
 憂子の叔母のこと、昴のこと、今の自分の体のこと。
 確かに優先させるべきモノは沢山ある。
 しかし、それでも頭の中は憂子のことで一杯で――





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