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ファントム・クライム

■Viewer Name: 神薙秋雪 Place: マンション自室 AM10:25■
 ――沙耶の様子がおかしい。
 ソレを確信したのが二日前だ。
 沙耶と一緒に外食に出かけた時、マンションの廊下でなぜか倖介とばったり出くわした。秋雪の住むマンションはバイオ・メトリクスで管理されており、住人以外は入ることが出来ない。だがどうやら倖介は、三年前に作った秋雪の生体情報入りエンコーダーをまだ持っているらしい。
 しかし、気に留めるべきはそんなことではない。そんなどうでも良いことではない。
 そんな下らないことよりも驚愕すべき事件が起きた。いや、起きなかったというべきか。
 沙耶が倖介に何もしなかったのだ。
 洋服姿を笑われ、絶対根に持っているはずなのに何もしなかった。
 拳を入れるでもなく、股間を蹴り上げるでもなく、卑猥な言葉責めをするでもなく。
 ただ眼中にないといった様子で、秋雪と手を繋いだまま立ちつくしていた。そして「い、行きましょうか?」と声を掛けると「うん」と素直に頷いて、血を見ないままマンションを出られてしまった。
 おかしい。
 絶対におかしい。
 自分でさえ腹が立つくらいなのに、笑われた張本人である沙耶が倖介を五体満足で帰すなど。
 悲嘆にくれる喪主の目の前で爆笑コントを披露して、集まった人達から大絶賛を浴びるくらいおかしい。
 今思えば、沙耶の行動がおかしくなり始めたのはもっと前からだった。
 沙耶はこの一週間、一度も『ナイン・ゴッズ』をやらなかった。少なくとも自分の見ている前では。あれだけ『真の覇者』に固執していたはずなのに、突然興味がなくなったかのように端末に近づくことさえしなくなった。それどころか、ニコニコと気持ち悪いくらいの愛想を振りまき始めた。
 そして笑顔で、『肩でも揉んでやろうか?』『喉は渇いておらんか?』『ワシが何か楽しい話をしてやろうか?』など、ドーム崩壊の前触れかと思わせるくらいの豹変ぶりを見せつけてくれた。
 しかし沙耶は筋金入りの気分屋だ。その時のノリ次第では、バックに壮大な花を咲かせたり、黒いオーラを纏わせたりすることもある。
 だから全く有り得ない話という訳ではない。何か全然関係のないところで良いことがあって、知らない間に機嫌を直してくれたのかもしれない。
 最初のうちはそう思っていた。
 楽しそうな顔をする沙耶を見て、自分も幸せな気分になれた。
 しかし、気がかりなことはあった。
 シロキーだ。
 沙耶とシロキーの気持ちは殆どシンクロしているようなもの。シロキーの機嫌が悪い時は沙耶も仏頂面になるし、沙耶がナチュラルハイの時はシロキーも金切り声を上げまくる。
 ……どちらにしろ迷惑なことに変わりないのだが。
 だが、この一週間だけは違っていた。
 沙耶が上機嫌なのに、その頭に乗っているシロキーはずっと落ち込んだままなのだ。
 まるで言いたくても口にできない不満を抱えているかのように、鳴くこともせず、爪を立てるでもなく、ただただ沈黙したまま訴えかけるような視線をコチラに向けている。
 初めのうちはそれほど気にしていなかった。
 たまにはこういうこともあるかと、軽くとらえていた。
 しかしその状態が三日、四日と続くとさすがに違和感を覚える。しかも沙耶の表情に無理が読みとれ始めた。
 笑顔が引きつりだし、溜息が漏れてきたのだ。
 そもそも沙耶が二日以上、同じ気分でいたことなどそうそうない。些細なファクターの介入であっさりと方向転換する沙耶の気持ちは、まさに一寸先は七色。全くもって読めない。
 それでも長い間同じ気分を保ち続けているとすれば、それはムキになった時だ。
 そしてムキになった沙耶は必ずと言っていいほど嘘を付く。
(もっと、早く気付くべきだった……)
 マンションの自室に戻って来た秋雪は、自分の不甲斐なさに呆れを通り越して怒りさえ感じていた。
 今日は平日。しかし二日前に水鈴に連絡を取って休暇を申請している。
 今朝は仕事に行くフリをして部屋を出た。そしてしばらく時間をおいて戻って来た。
 沙耶が自分のいない時に何をしているのかを確かめるために。
 分かっていた。十中八九間違いないという確信があった。そしてソレは見事に的中した。
「おいで、シロキー……」
 片膝を付いてしゃがみ、秋雪はシロキーの名前を呼びながら軽く手を差しのばす。ニー、と小さく鳴いて沙耶の膝の上から飛び降りたシロキーは、小走りにコチラへとやってきて頬を秋雪の手の平にすり寄せた。
 そのままシロキーを抱き上げ、秋雪はソファーで何も言わずに座り込んでいる沙耶に近づく。
 目の前のテーブルにはノート型のログイン端末。そして頭にはアクセスバンド。
 沙耶は今、『ナイン・ゴッズ』にアクセスしている。そしてクエスト『真の覇者』に挑戦しているはずだ。
 先週一週間。秋雪の目を盗んで、ずっとそうしてきたように。
 自分に見られたくないからなのか、一人で集中してやりたいからなのか。
 いったい何を思って沙耶がこんなことをしているのかは知らないが、とにかく過剰な負担を掛けてしまったことは確かだ。
 自由に『ナイン・ゴッズ』に行けない。そして憎き相手をうち倒すことが出来ない。
 今まで、やりたいことをやりたい時にやりたいだけやっていた沙耶がこうむっていた精神的疲労は計り知れない。
 取り除いてやらねばならない。今すぐに。どんな手段を使おうとも。どんな罵声を浴びせられようとも。
 それに自分自身、もう我慢できない。限界だ。
「スイマセンね。沙耶……」
 秋雪は沙耶の隣りに腰掛け、自分の膝の上にシロキーを置いた。そして沙耶のオカッパ頭を撫でてやりながら、白いタートルネックの胸ポケットからペン型のログイン端末を取り出す。
 ペンの腹を押してテーブルの上に置くと、立体ホログラムのモニターとコンソールが音もなく浮かび上がった。そして仕事用のバックパックからアクセスバンドを取り出して頭に付けると、慣れた手つきで十六桁のIDを打ち込んだ。
 フォールスノーのIDではなく、管理者レノンザードのIDを。
《管理者IDを確認しました。五秒以内に第一パスワードを入力してください》
 端末からの音声案内に従いながら、秋雪は横目に沙耶のモニターを見る。
 そこにはクエスト『真の覇者』の決勝ラウンドが映し出されていた。相手はやはり、あのガラックとかいうハンドルネームの男だ。
《第一パスワード確認。五秒以内に第二パスワードを入力してください》
 ダウンロードを封じられているのか、沙耶は持ち込んだデバイスだけを駆使して立ち向かっている。
《第二パスワード確認。五秒以内に第三パスワードを入力してください》
 しかし相手にダメージは与えられない。
 どれだけ裏を掻こうとも、どれだけ奇策を講じようとも。
 ガラックのライフポイントは全く減らない。
《マスターキーを入力してください》
 当然だ。
 相手は管理者補佐システム・エージェント。一般プレイヤーである沙耶がなんとかできる相手ではない。
 だが、それでも沙耶は諦めない。必死の形相でがむしゃらに攻撃を繰り出す。イヤらしい薄ら笑いを浮かべるガラックを何とかうち倒そうと、何度も何度ももがく。
 何度も何度も。
 見ているのが辛くなるくらい何度も。
《……照合完了。ようこそ、管理者レノンザード様》
 睡魔にも似た虚脱感に襲われ、秋雪は静かに目を閉じた。
(沙耶、おしかりは後でたっぷり受けますから)
 そして秋雪の意識は『ナイン・ゴッズ』へと誘われた。

 ――On Line――
 目の前にそびえ立つのは、黒光りする外壁で構成された正六角柱の塔。無機質なその表面は威圧するかのようにコチラを見下ろしている。
 そしてこのバトルタワーに用意された唯一の出入り口である鉄製の門扉には、頑丈そうな南京錠が掛けられていた。まだこのクエストが行われている最中であり、エントリーを受け付けていない証拠だ。
 だが、そんな物は関係ない。
 冷めた視線を南京錠に向け、秋雪は思考具現化端末デモンズ・グリッドを立ち上げる。

【マスターキーを用いて上位からシステムにアクセスします。
 コマンド・シェル解除。システム・エージェント解除。セキュリティ・デーモン解除。
 オメガ・マトリックスを離脱します。
 アナザー・メソッド:ブラック・スキームを使用。
 クエスト・プログラムのセッティング・コードを解析……完了。書き換え開始……完了。
 プログラムを強制リセットしました】

 一秒足らずの極めて短い時間、黒い半透明のモニターが現れたかと思うと、南京錠は空気に溶け込むようにして消え失せた。そして周りに居合わせた他のプレイヤー達が奇異の視線を投げかける中、秋雪は無造作な足運びでバトルタワーに入る。
 一度目に来た時と同様、意識すら呑み込まれそうな漆黒の闇の中、秋雪の体にスポットライトが浴びせられた。

【ハンドルネーム:レノンザード
 思考具現化端末デモンズ・グリッドランク:S
 保持デバイス:ALL
 ライフポイント:∞】

 秋雪のステータスが読み上げられると同時に、周りの色が紅く染まる。

【種別『管理者』。不適合と見なしクエストへの参加を許可できません】

「黙れ」
 低い声で短く言い、秋雪は視線に力を込めて思考具現化端末デモンズ・グリッドを走らせた。

【オメガ・マトリックスのエリア指定。N−96WYフォルダへ移行します。
 フォルダ内容展開。
 多次元関数解析プログラム "Evil_Eyes" を常駐。
 管理者権限でのアクセスを確認。プログラムの限定解除。
 セキュリティー・ホールの拡大……完了。書き換え開始……完了。
 クエストへの擬似許可を確認しました】

 視界が一転して紅から蒼に変わる。『真の覇者』への参加許可が下りたらしい。 
 管理者はクエストには参加できない。強引に踏み込めばすぐに他の管理者へと通報が行く。しかし、一部の者しか知らない特別な手順を踏んでやれば、あるいは……。
 正直、分の悪い賭けだった。久遠が設定していた管理システムから少しでも変わっていれば、通報されていただろう。
 だが別にそれでも良かった。他の管理者全員を敵に回そうとも。IDを二つとも取り上げられ、ドーム内で生活できなくなったとしても。
 それ程までに他のことなどどうでも良くなっていた。
 沙耶の負担に気付いてやれなかった自分と、飽きもせずに沙耶をいたぶり続けるガラックへの怒りで。

【ハッキング・モードへ移行。ブラック・スキームの書き換えを開始……完了。
 クエスト『真の覇者』。各バトル・ステージをバイパス。決勝ラウンドに強制介入します】

 そして、秋雪の視界が一気に開けた。
 ソコは障害物も何もない、ただひたすらに広い大平原だった。よく見ると所々に暗い穴が口を開けている。恐らく穴同士がどこかで繋がっているのだろう。ソレを隠れ蓑に使う趣向のステージのようだった。
「っはぁ!」
 遠くの方から喜声が届く。
 続けて轟音、悲鳴。

【エンハンス・デバイス"Quick_Drive"[クイック・ドライブ]を起ど……】

 そちらに顔を向けた時には、すでに体は動いていた。頭は知らない間に速度倍加指数を設定し、気が付くと景色が変わっていた。
 目の前にあったのは爆炎の塊。沙耶を狙って打ち出されたであろう紅蓮の暴君を、秋雪は躊躇うことなく身を挺して受け止める。
「な……な……な……」
 吃音のような呟きが、すぐ後ろで紡がれた。
「やぁ沙耶。こんな所で遭うなんて奇遇ですね」
 秋雪は柔和な笑みを浮かべて振り返り、尻餅を付いている沙耶に向かって軽く手を振って見せた。
「テ、メーは……」
 爆炎によって生み出された粉塵が晴れ、目の前の景色が徐々にクリアになっていく。
 以前会った時と同じく、迷彩模様の繋ぎに身を包んだ男、ガラックが呆然と立ちつくしてコチラを見ていた。
「よぉ、久しぶりだな」
 口の端をつり上げて好戦的な笑みを浮かべ、秋雪は下からガラックを睨み付ける。
「なんで、テメーが……なんで……ココに入って」
 本来一対一のバトルであるはずの『真の覇者』。ソコに突然乱入してきた秋雪に、ガラックは目を大きく開いて信じられない物を見るような視線を向けた。
「別に驚くことじゃないだろう。お前と同じことをしただけだ」
 腕を真横に広げておどけて見せ、秋雪は小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「同じ……じゃあテメーも……」
 ガラックはソコまで言って言葉を句切り、眉間に皺を寄せながら不愉快そうに頷いた。
「そーかい、そーゆーことかい。ナルホド。俺だけじゃ不安ってことかい。お前の最初の演技は様子見ってことか。あのネーちゃんも芸が細けーじゃねーか。お払い箱ってんなら一言そう言ってくれりゃいいのによ」
「何のことだ? 気でも触れたか?」
 ガラックの漏らす戯言に、秋雪は相変わらず嘲るような表情のまま言う。
「とぼけんなよ。確かに俺ぁちょっと調子に乗りすぎたからな。このクエストの評判落としたらすぐ別んトコ行くつもりだったんだけどよ。ソッチのチビみたいな雑魚共がムキになって掛かって来やがるから、気分良くなって遊びすぎた。ったく、通報できねーよーに、あのネーちゃんが庇ってくれてたからまだ大丈夫かと思ってたのによー。せっかくいいストレスのはけ口ができたと思ってたのに、あーあーヤレヤレだ」
 大袈裟に肩を落として嘆息してみせるガラックに、秋雪の目つきが変わった。
 相手を挑発するどこか投げやりな目から、獲物を狙う肉食獣の視線へと。明確な殺意を双眸に宿し、秋雪は思考具現化端末デモンズ・グリッドを立ち上げる。
「おーぃおい。お互い管理者補佐システム・エージェント同士、仲良くやろーぜ。この前の件なら謝るよ。はいはい俺が悪かった。そんでココの担当もお前に譲ってやるよ。居心地いいぜー、ココは。お前も試しに後ろのチビいたぶって……」
 ガラックの言葉はそれ以上続かなかった。
 平原に一陣の風が舞い降りたかと思うと、重い音を立てて何かが落ちる。
「簡単には殺さない。お前が今まで沙耶に与えてきた苦痛、たっぷり味あわせてやる」
「テ、メェ……」
 右腕を削ぎ落とされ、鋭利な断面を晒している肩を見ながらガラックは忌々しげにコチラを睨み付けてきた。
管理者補佐システム・エージェント同士争っても疲れるだけだと思ってたけどよー……見たことねー新人だから大目に見てやろーかと思ってたけどよー……気が変わったぜ。あのネーちゃんに気に入られたのか何か知らねーげとよ。ポッと出のペーペーが生意気な口叩くんじゃねぇ!」
 そして憤怒の形相でガラックも思考具現化端末デモンズ・グリッドを立ち上げる。厚みを持たない黒い半透明のモニターに、白い文字で記されていくコマンドラインがはっきりと見えた。
「最初みてーにイタブリ殺してやるぜ!」
 叫び声と同時にガラックのコマンドが完成した。そしてソレが発動すると同時に、秋雪の思考具現化端末デモンズ・グリッドにもコマンドラインが走る。
 
【サブ・マスターキーを用いたシステムの強制介入を確認。遮断します。
 メイン・メモリーからのオート・アクション。
 全属性遮断プログラム"Ultimate_Defense"[アルティメット・ディフェンス]Run】

「今、何かしたのか?」
 冷徹な視線でガラックを見据えながら、事もなげに言う秋雪。
「へっ! 強がんなよ! これでもうテメーはダウンロードできねぇ! 圧倒的不利ってヤッだ!」
 叫びながらガラックは秋雪から距離を取った。そしてまた新しいプログラムを走らせ、失われた右腕を再生していく。
「ならなぜ逃げる。どうして掛かってこない」
「誰が逃げるか!」
 地面を蹴り、ガラックは元に戻った右腕で握り締めた長槍を突き出してきた。しかし、秋雪の目の前に生み出された琥珀色の盾が軽々とソレを受け止める。
「アルティメット……ディフェンス……」
「お前、僕のコマンドラインが見えてないな」
 驚愕に目を見開くガラックに、秋雪は悪魔的な冷笑を浮かべて続けた。
「つまりソレは僕とお前との力の差を表す。どうだ? これまでと全く逆の立場に立たされた気分は?」
「ふざッけんじゃねぇ!」
 怒声と共に身を引き、ガラックは頭上に巨大な氷柱を生み出す。その鋭い矛先を秋雪に向け、高速で射出した。

【メイン・サーバー『アピス』へのダイレクト・アクセス。
 最上級火炎ソーサリー "Galfes_Ilter[ガルフェス・イルター]" Run】

 思考具現化端末デモンズ・グリッドにコマンドが走った直後、秋雪を守るようにして生み出された獄炎の囲いが一瞬にして氷柱を溶かして蒸発させる。
「最上級の……高速発動……まさか」
 絶望的な表情で漏らしながら、ガラックは力無く後ずさり始めた。
 ようやくコチラの正体に気付いたらしい。どうやらハンドルネームすら見えていなかったようだ。
「お前でも僕のコマンドラインを閲覧できるようにセキュリティ・レベルを落としてやるよ。よく見てろ」
「う……」

【マスターキーを用いて最上位からシステムを読み込みます。全限定解除。
 思考具現化端末デモンズ・グリッド・エミュレーション・プログラム "Chaos_Spell" [カオス・スペル]Run】

「うわあああああぁぁぁぁぁ!」
 忘我したかのように無様な悲鳴を喚き散らしながら、ガラックは秋雪に背中を向けて敗走する。しかしすぐに無数の黒いモニターが、彼を包囲するように丸く展開した。
 秋雪が生み出した思考具現化端末デモンズ・グリッドのレプリカ。スペックは多少オリジナルから劣るものの、管理者補佐システム・エージェント風情の思考具現化端末デモンズ・グリッドなど足元にも及ばない。
 草原に開いた穴の中に潜り込み、何とかして逃げようとするガラックの体が周囲の土を巻き込んで中空へと浮かび上がる。そして彼を取り巻くカオス・スペルに白い文字でコマンドラインが打ち込まれた。
 次の瞬間、黒いモニターから圧倒的な光量を持つ白柱が突き出したかと思うと、空気を焦がす程の速さでガラックの体に呑み込まれる。
 音と風の消失。
 そして、ガラックの体の内側から連続的に爆発が撒き起こった。

【超巨大規模プログラム "Dragon_Lore"[ドラゴン・ロアー] のサブユニットを併用、常駐しました。
 "Chaos_Spell" [カオス・スペル]とのコンバイン完了。
 効果範囲を拡大します】

 秋雪の思考具現化端末デモンズ・グリッドに一瞬だけコマンドラインが走った。
 直後、爆発の規模が激的に増大し、ガラックの全身が直径二キロメートルはある光球に埋め込まれる。広大な草原が一瞬にして白い世界へと染め上げられていく中、秋雪と沙耶の立っている場所だけが切り取られたように元の景色を残していた。
(こんなところか……)
 ゆうに数分間は続いた超爆発の跡地を、秋雪は悠然と歩いてガラックに近寄る。仰向けに倒れ込んだ体の方々から黒い煙を上げ、ライフポイントを限界まで削られたガラックが憎々しげにコチラを睨んでいた。
「言え。お前は誰の管理者補佐システム・エージェントだ」
 凍える物を両目に灯して言う秋雪に、ガラックは唾を吐き捨てて焦げた迷彩模様のつなぎを破り捨てる。
「けっ。なんでテメーの言うことなんざ聞かなきゃなんねーんだよ。知りたかったら自分で調べろよ。え? 管理者様よー」
 そしてふてぶてしい態度で嘲るように言った。
「お前の口から聞いた方が早いんでね。それに、こんな下らないことしてる理由も聞きたいしな」
「さっき言っただろーがよ。俺は楽しいからやってんだよ」
「管理者から指示されたことを洗いざらい喋って貰おうか」
「イヤだね」
 へっ、と小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、ガラックは秋雪から視線を逸らす。
 そういう態度を取ると思っていた。
 そう、それでいい。そう来なくては面白くない。
 口の端をつり上げ、秋雪は思考具現化端末デモンズ・グリッドを立ち上げた。
「おいおい。拷問でもするつもりか? 言っとくけど無駄だぜ」

【簡易結界プログラム"Black_Snow"[ブラック・スノー]を読み込みます。半径一メートルに展開】

 秋雪とガラックを包み込むようにして、黒い小型の半球が形成される。それ自体が放つ燐光で中は照らされているが、周りの景色は全く見えない。
「おいおい。今さらこんなモン出してどーすんだよ。俺ぁ別に逃げも隠れもしねーって。思う存分痛めつけてやってちょうだいよ」
「こういう光景は沙耶に見せたくないんでね。教育上よくない」

【ソード・デバイス"Bloody_Queen[ブラッディ・クイーン]"を常駐、顕現します。
 オメガ・マトリックスのエリア指定。W−16XTフォルダへ移行。
 フォルダ内容展開
 痛覚付加プログラム "Endless_Pain[エンドレス・ペイン]" を常駐。
 コンバイン完了】

 無慈悲に言う秋雪の右手に、狂気的な緋色の輝きを持つ歪な形の剣が出現した。ソレはまるで血塗られたように鈍く光り、時折表面を脈動させている。
「ソイツでトドメって訳かい。ならさっさとやってくれよ。アンタがご丁寧にもログアウトできなくしてくれたおかげで、こっから出るには死亡判定しかなくてね」
「なら、お望み通り」
 錐のように目を細め、秋雪はガラックの太腿に朱色の剣を突き刺した。
「――!」
 さっきまで薄ら笑いを浮かべていたガラックの表情が一変する。そして感情が決壊したように口から絶叫が迸った。
「どうした? そんなに痛くした覚えはないぞ?」
 剣を抜き、秋雪は冷笑を浮かべてガラックを睥睨する。
 空気が漏れるような音を立てて、か細く呼吸するガラックの顔には、さっきまでの余裕など微塵もない。ただ焦燥と恐怖だけで染め上げられていた。
 『ナイン・ゴッズ』では痛みを感じない。だからガラックは追いつめられても強気を保てた。この仮想世界で拷問などしても全くの無意味だとたかをくくっていた。
 しかし、『ナイン・ゴッズ』を細部まで知っている秋雪ならそんな物いくらでも覆せる。管理者権限を使って痛覚インジェクションの上限を解いてやれば、更なる激痛を与えることも容易い。
「さて、次はどこがいいかな」
「ま、待ってくれ! 話す! は、話すから! だからやめてクレ……!」
 再び剣を振り上げた秋雪に、ガラックは無様にも涙と涎を垂れ流しながら懇願してくる。
「最初からそう言ってろ」
 つまらなそうに嘆息し、秋雪は剣を消失させた。そして自分達を外界から隔離している黒い覆いをなくす。
「お前を使っている管理者の名前は」
「ティ、ティレイユ」
 静かな口調で聞く秋雪に、ガラックは痛みに顔を歪めながらも素直に答えた。
「どういう指示をされた」
「と、とにかくこのクエストの評判を落とせって。多分、俺以外の管理者補佐システム・エージェントも似たようなことやらされてる」
「何のために」
「し、知らねぇ! コレは本当だ! 俺はそれ以上聞かされてない! 嘘じゃねぇ! 信じてくれ!」
「管理者も管理者補佐システム・エージェントも『ナイン・ゴッズ』で不正が行われないように管理するのが仕事だろう。ソレに反すようなことをする管理者に疑問を持たなかったのか、お前は」
「あ、あのネーちゃんはいつもこんな感じなんだよ! 根暗で、陰湿で、何考えてるのかサッパリ分かりゃしねぇ! 聞いても教えてくんねーんだよ!」
 そんなヤツが管理者を務めているなど問題だ。
 任命したのは倖介だろうが、いったいどういう基準で選んでいるんだ。
(まさか九綾寺さんの時みたいに、その場の思いつきじゃないだろうな……)
 あり得る。大いにあり得る。

『自分、ごっつ可愛いなー。よっしゃ、ほんなら管理者にしたろ』

 そんな倖介の不純な動機が聞こえてきそうだ。
「いいか。次に同じようなことをしたら、こんな軽い痛みじゃ済まないからな。管理者にはこういうこともできるんだということをよく覚えとけ」
「わ、分かりました! もう二度としません! とゆーか管理者補佐システム・エージェントを辞めさせていただきます! 一般プレイヤーに戻ります!」
 威圧的に言う秋雪に、ガラックは何度も頭を下げて謝り続けた。
「謝る相手が違うだろ」
 低い声で言い、秋雪は遠く離れた場所にいる沙耶に目線を向ける。
「土下座してこい。あと、お前が今持ってるデバイスを全部渡してこい」
「ぜ、全部ですか!?」
「なんだ。嫌なのか」
 反論を許さない声で凄みを利かせる秋雪に、ガラックは首を大きく横に振った。
「さ、捧げさせていただきます!」
 涙声で叫ぶようにして言うと、ガラックは痛む太腿を押さえながらおぼつかない足取りで沙耶の方に近寄る。そして秋雪に言われた通り地面に額をこすりつけて平謝りした後、手の平に拳大の水晶を生み出した。
 あそこにガラックの保持しているデバイスの情報が記録されているのだろう。
 水晶はガラックの手から離れて浮遊すると、沙耶の胸の中に吸い込まれるようにして消えた。
 デバイスを渡し終えたガラックと、まだ何が起こったのか分からずに呆然と立ちつくしている沙耶の所に秋雪はゆっくりと近寄る。
「言わなくても分かってると思うが、ココで見たことは全部忘れろよ」
「は、はぃ!」
「じゃあ消えろ。もうログアウトできるようにしておいた」
「あ、ありがとうございます!」
 秋雪に頭を何度も下げて遠くに離れると、ガラックは思考具現化端末デモンズ・グリッドを立ち上げる。ソコにログアウトの文字が現れ、彼の体から光の粒子が弾け飛んだかと思うと姿は消えていた。
 草原の真ん中で沙耶と二人きりになった秋雪は、どこか気まずそうに銀髪を後ろ頭に撫でつける。そして咳払いを一つして取り合えず落ち着いた気分になると、ぎこちない笑顔を浮かべて明るい声を出す。
「いやー! さすがですねー沙耶! クエスト・コンプリートおめでとうございます! にっくき相手に土下座までさせて、大量のデバイスを勝ち取った気分はどうですかー!?」
 沙耶の口元にマイクでも当てるかのように拳を移動させ、秋雪は「あっはっはー」と引きつった笑みを張り付かせた。
 しかし沙耶は何も言わない。ただ焦点の合わない目で、あさっての方向を見つめている。
「沙耶さん? 沙耶さん? どうかしましたかー? フリーズですかー?」
 沙耶の目の前で軽く手を振りながら、秋雪は声を掛け続けた。しかし反応は全くない。
(ヤバい……)
 どうやら相当怒っているようだ。
 このクエストに乗り込んで来た時から覚悟は決めていたが、いざその時になってみると得体の知れない暗い感情が心を埋め尽くしていく。そして恐怖が限界にまで達し、
「すいませんでした!」
 秋雪はガバッとその場にうずくまり、ガラック以上に情けない土下座を始めた。
 こういう時は怒られる前に謝るに限る。今まで積み上げてきた下っ端キャリアがそう言っている。
「秋雪……」
 頭上から沙耶の虚ろな声が振ってきた。そして次に続くだろう言葉に狂気的な悪寒を感じ、秋雪は身を小さくする。
「仕事は、どうした……」
「へ?」
 しかし、沙耶の口から漏れたのは予想していたどんな罵声とも違っていた。
「今日は、ちゃんと仕事に行ったのではなかったのか……?」
 顔を上げる。
 沙耶は相変わらず前を向いたまま、人形のように立ちつくして呟いていた。
「それが、その……。沙耶の様子がおかしかったものですから、様子を見ようと休暇を……」
「いつらから、気付いておった……」
「一週間くらい前から。でも確信したのは二日前です」
「そうか……。最初からか……。やはり、秋雪に隠し事などするものではないのぅ……」
 元気のない声で言う沙耶に、秋雪は戸惑いの表情を浮かべながら立ち上がる。そして沙耶が視線を向けている先に回りこみ、少ししゃがんで目線の高さを合わせた。
「あの、沙耶……?」
「なんじゃ……」
「怒ら、ないんですか?」
「怒る……? 何を……?」
「いやだって、僕は沙耶の言いつけを破って手伝いを……」
 してしまった。
 沙耶があれだけ自分一人でやると言っていたのに、我慢しきれなくなってついつい横ヤリを入れてしまった。怒鳴られて、足蹴にされて、『頭グシャグシャのキー』の刑に処されてもおかしくないことをしてしまった。
「秋雪は優しいからなぁ……。まったく困ったヤツじゃ。しかし秋雪に隠し事をしていたワシも悪い……。お互い様というヤツじゃな……」
「え……」
 沙耶の口から飛びだした低姿勢な言葉に、秋雪は口に手を当てて数歩ヨロヨロと後ずさる。
 信じられない。有り得ない。考えられない。起こりうるはずがない!
 ドームが大爆発しても、『ナイン・ゴッズ』が崩壊しても、宇宙が開闢し直しても!
 アンビリーバボー、インポッシィブル、マーベラス、パンドラボックス!
 “あの”沙耶がこんなことを言うなど!
「さ、沙耶! ひょっとしてさっきの衝撃でバグってしまいましたか!? 頭大丈夫ですか!? まさか僕みたいに二重人格になってしまったとか!?」
 沙耶の両肩をワシッ! と掴み、力強く何回も前後に揺する秋雪。
「こ、コラ……」
「スイマセン僕が至らないばっかりに! どうすればいいですか!? どうすれば元に戻りますか!?」
「や、やめんか……」
「どうすればあのわがままで、分からず屋で、気分屋で、トンチンカンなことを胸張って言える沙耶に戻ってくれますか!?」
「やめろと……」
「あの頑固で意地っ張りで小さくて手足が短くて座敷わらしな沙耶はどこに行ってしまったんですかー!?」
「言っとるんじゃー!」
 沙耶の前蹴りが見事に秋雪の顎を捕らえた。
 秋雪の体は宙を舞い、空中で一回転した後、顔から地面に叩き付けられる。
「さっきから黙って聞いておれば言いたい放題言いおって! ワシのどーこがチビで短足で座敷わらしでチンケな妖怪じゃー!」
「だ、誰もそこまでは……」
 震える手で体を起こしながら秋雪は力なく、しかし嬉しそうな顔で言った。
「そうか! そんなにワシに怒ってもらいたいか! ならば望み通り『頭グシャグシャのキー』の上に『目ンたまグルグルのパー』の刑じゃ!」
「ちょ……い、いくらなんでもダブルは……」
 喜びから一転して青ざめた表情になり、秋雪は両手を前に出して遠慮のポーズを取る。
「やかましー!」
 しかし沙耶は奇声を上げて跳びかかると、秋雪の銀髪を歯で掻きむしり始めた。

 ――Off Line――
■Viewer Name: 九綾寺水鈴 Place: 秋雪のマンション前 AM11:45■
 緩やかなカーブを描く湾曲フォルムで形作られたマンション。外壁は穏やかな光を発するエメラルド・グリーンの蛍光塗料で覆われ、最新鋭のセキュリティ設備が整えられた五十五階建てのマンション。
 ここの最上階には秋雪が沙耶と二人で暮らしている。
「ココにいるんですね」
 真紅のエアカーから体全体で風を切るように出た水鈴は、眼前にそびえ立つ見慣れた建物に視線を向けた。
「ああそうや。間違いない」
 続いて助手席から、倖介が複雑な表情を浮かべておりてくる。
「どや。俺の管理者管理も大したモンやろ。ちゃーんと役に立っとる」
「そうですね……」
 倖介を呆れたように一瞥した後、水鈴はヒールを鳴らしてマンションのエントランスに向かう。移動歩道の両サイドには、自分達を案内するように擬似観葉植物が植えられていた。
 二日前、倖介が会って話をしていた管理者。ソレが今回の事件の犯人。
 倖介に脅迫メールを送りつけ、『ナイン・ゴッズ』で様々なトラブルを起こし、政府の管理している公共設備を乗っ取り、掲示板に卑猥な書き込みをした人物。
(ティレイユ……)
 そのハンドルネームを持つ管理者のリアル体がココにいる。
 場所はすぐに分かった。倖介の電子手帳に記されていたから。
 ――スリーサイズやその他の個人情報と共に。
 ようは倖介が追いかけ回していた女の一人だったというわけだ。
「しっかしよー分からんわー。何でティレイユが。物わかりのええカワイ子チャンやのになー」
 水鈴の隣りに追いついて歩き、倖介は腕組みして大袈裟に首を傾げる。
「そうですか? 私はバーチャル体でしか会ったことはありませんが、いつ見ても暗い顔して何考えてるのか全く読み取れない子でしたよ。犯罪に走ったとしてもそれほど不思議とは思えませんけどね」
「そらまたエライ偏見やでー。あーゆー、気弱なお嬢様は周りに遠慮して、思ったこと口にでけへんのや。どっかの誰かさんみたいに言いたいことズバズバゆーて、気にいらんかったらすぐ手ぇ出るよーな凶暴な性格とちゃうんや。奥ゆかしさっちゅーヤツやな、アレは。そんな身も心も華奢な乙女には、俺みたいな力強いナイトが必要なんや」
「今すぐ再起不能になりたいんですか? ナイト様?」
 涼しげな淡蒼色の空気で満たされたエントランスの前に立ち、水鈴は冷たく言った。そしてすぐに頭を下げた倖介を後目に、バイオメトリクスの内蔵されたセンサーの前に移動する。
 このセンサーに住人の生体情報を読み取らせない限り、エントランスのドアが開くことはない。しかし――
「夜崎さん、出番ですよ」
 マンションの住人になりすまして何度も出入りしていた倖介なら、中に入る手段を持ち合わせているはずだ。
「……お前、俺のこと便利な道具かなんかと勘違いしてるやろ」
「道具の方が何も言わない分使い易いですよ。さ、早くして」
 高圧的に言う水鈴に倖介はブツブツと不満を漏らしながらも、カッターシャツのポケットからキューブ型の物体を取り出した。
「それは?」
「エンコーダーや。昔、色々あって秋雪の生体情報記録したことあってな。いやー、ティレイユがここ住んでるって知った時はホンマビックリしたわ。絶対に神様が俺ら引き合わせてくれた思ったなー。デカイ障害が一瞬でなくなってしもーた。コレが俗に言う愛の奇跡っちゅー……」
 自分の口舌で悦に浸る倖介からエンコーダーをひったくると、水鈴はセンサーの前にかざす。

《お帰りなさいませ。神薙秋雪様》

 抑揚のない機械音声が告げられ、エントランスの強化ガラス扉が上下に分かれて開いた。
「で、何号室ですか」
「……お前、俺のことドームの最高責任者やゆーこと忘れてるやろ」
「何・号・室ですか」
「……四〇二五号室です」
 相手に有無を言わさない水鈴の雰囲気に、倖介は不満げに顔をしかめながらも小声で呟く。そして気を引き締めてマンションの中に入る水鈴に続いて、やる気なさそうに背中を丸めながら倖介が続いた。
(コレで、解決するはず……)
 横並びに五機配置された太い円筒状の物体の前に立ち、水鈴はスーツの襟元を正した。そしてタッチパネルに手をかざして、エレベーターを呼び出す。
 ティレイユが犯人であることは、ほぼ確定だ。だが動機が分からない。そして最終的な目的も。まさか本当に『ナイン・ゴッズ』を崩壊させるつもりなのか? それにしてはやり口が子供じみている。自分が管理者であることを匂わせるような証拠を残すなど……。
(まぁ、いいわ)
 目の前に到着した卵型の巨大カプセルに乗り込み、水鈴は思考を中断した。
 全て本人に聞けば分かることだ。今さら考えてもしょうがない。
 体を包み込む浮遊感。数秒の後、水鈴と倖介を乗せたエレベーターは四十階に到着した。そして外に一歩踏み出したところで――
「え?」
「九綾寺、さん……?」
 予想外の人物と出くわした。
「神薙、君……。どうしてこんなトコに……」
 黒いタートルネックとラフなジーンズに身を包んだ銀髪の男が、目を大きくしてコチラを見つめている。
「そりゃ、ココは僕のマンション、ですから……。九綾寺さんこそ、どうして……」
 確かにその通りだ。ココは秋雪の住むマンション。彼がいたからといって何の不思議もない。むしろココの住人ではない自分達がいることの方がおかしいのだ。
「えーっと、ね……何て言えばいいのかしら……」
 秋雪には今まで隠し通してきた。だからまさか『ナイン・ゴッズ』でトラブルを起こした犯人を突き止めてココまで来たなんてバカ正直に言うわけには――
「『ナイン・ゴッズ』でトラブル起こした犯人突き止めてココ来たんや」
 水鈴のヒールが倖介の額に埋め込まれた。
「トラブル……って、この前言ってたヤツですか?」
「え、えーっと、まぁ、そうなるわね」
 だくだくと頭から血を流して沈んでいる倖介を足蹴にしながら、水鈴は秋雪から目を逸らして曖昧に返す。
「そ、そんなことより神薙君は? 沙耶ちゃんと一緒にいなくていいの? も、もしかしてまだケンカの最中とか?」
「い、いや、僕の方もちょっと色々ありまして。こ、これからちょっとした知り合いに会いに行くんですよ」
 ぎこちない口調で聞く水鈴に、秋雪も銀髪を後ろに撫でつけながら、どこか気まずそうに言葉を濁した。
「あ、あーらそう。それじゃ頑張ってね」
 紅い絨毯の上に横たわっている倖介の首根っこを掴み上げ、水鈴はその場を去ろうと歩を進める。しかし――
「ど、どうしたの? 神薙君?」
 秋雪は自分から離れるどころか、ピッタリと後ろに付いて来ていた。
「いや、あの……僕の知り合いもソッチに……」
「そ、そう。それは奇遇ね」
 二人は無言のまま並んで灰色の廊下を歩く。大理石のように磨き上げられた超硬質の床が、二人分と足音とズルズルという湿った音を返していた。
 そして数十秒後、水鈴と秋雪は同じ部屋の前で足を止める。
 鈍色の輝きを持つ平坦な扉の上には、監視カメラと赤外線センサーが取り付けられていた。
「神薙君、知り合いっていうのは嘘よね」
「ええ。さっき『ナイン・ゴッズ』のメイン・サーバーをハッキングして初めて知ったホームアドレスですから。まさか自分のマンションにいるとは思いませんでしたが」
「ハッキング、ね。でもまぁいいわ。今回だけは大目に見てあげる。貴方がそこまでするってことは、それなりの事情があるんでしょ」
「話の分かる上司で助かりますよ」
 扉の方を向いたまま目を合わせることなく、水鈴と秋雪は極めて冷静な口調で言って同時に頷いた。
 どういう経緯があったのかは知らないが、秋雪もティレイユの起こしたトラブルに巻き込まれていたのだろう。全く愚かしい話だ。こんなことなら最初から秋雪と協力して捜査すれば良かった。下らない意地など張らず、お互いに支え合って――
(ああ、そっか……)
 また一つ、自分が秋雪に抱いていた感情の正体が分かったような気がする。
 自分は秋雪に安住の地を見出している。いざという時は秋雪が何とかしてくれるという安心感を抱いている。そうやって彼に依存していると同時に、どこかで支えてやりたいと思っている自分もいる。
 ソレはある種の母性愛のような物なのかもしれない。
 自分の子供に対して持つ特殊な感情。決して叶わない恋心。相手の成長に喜びを感じ、その充足感がまた自分を変えていく。
 支え、支えられている間柄。
 自分と秋雪は今まさにそのような関係なのかもしれない。
(ま、取り合えずそういうことでいいわ。ソレよりも今は……)
 他にやるべき重大なことがある。ここまで来てミスをするわけには行かない。
 水鈴は細く息を吐いて気を落ち着かせると、扉に取り付けられたコール・センサーに手を伸ばした。
 素直に自分が犯人だと認めればソレで良し。だが、あくまでも白を切り通すというならば……。
 そして水鈴が意を決してセンサーに触れようとした時、
「……どうぞ」
 あるべき支えが突然消失して、大きく前につんのめった。
「……いつ来られても、おかしくないと思っておりました」
 内側からロックが外されて扉ごとなくなり、その向こうに立っていたのはソバージュがかったブロンドの女性だった。目の下まで深く覆っている前髪のせいで、酷く暗い印象を受ける。
「貴女は……」
 彼女を見て水鈴は大きく目を見開いた。
 見たことがある。確か今朝、このマンションの前で倖介と二人でイチャついていた……。
「ティレイユー! 会いたかったでー! 寂しかったやろー!? なー! なー!」
 いつの間にか復活を遂げた倖介は歓喜の悲鳴を上げながら、その女性――ティレイユに抱きつこうと飛びかかる。しかし彼女はレースの付いた白いブラウスを翻して身を引くと、倖介の突進を奇麗にかわした。更にドコからか取り出したショックガンを倖介の背中に押し当て、躊躇うことなくトリガーを引く。
「ぎにゃあああぁぁぁぁ!」
 全身を襲う高圧電流に、品のない濁音をまき散らせる倖介。黒い煙を上げながら悶絶して倒れ込む彼をわざわざ踏みつけて、ティレイユは部屋の奥に足を運んだ。
「……どうぞ」
 そして眠そうに薄く開いた瞳をコチラに向け、中に案内するように手を差し出してくる。
「行きま、しょうか……」
 水鈴と秋雪はお互いに顔を見合わせて頷き、戸惑いながらも倖介の上を通って部屋にあがった。

 こざっぱりとした部屋だった。
 秋雪の部屋のように目を楽しませてくれるインテリアがあるわけでもなく、倖介の仕事部屋のように無駄な物でごった返しているわけでもない。
 リビングには空調カーペットが一枚敷いてあるだけで他には何もなく、キッチンには埋め込み式の四次元フードクーラーと、備え付けのクッキングマンシがあるだけだ。
 ドアが閉まってるので見えないが、きっとベッドルームも必要最低限の就寝器具が揃っているだけなのだろう。
「――というわけで、貴女が犯人だと思ったわけ」
 これまでのいきさつを簡単に説明し終え、水鈴は出されたミネラルウォーターを一口含んだ。秋雪と自分の話を俯いたまま聞いていたティレイユは、浅く頷いて顔を上げた。
「……素晴らしい、捜査力ですね。そしてレノンザードさん……。まさか通報もさせずに、管理者権限でクエストに乗り込まれたのは誤算でした……。昔、紅坂さんの右腕として働いていただけのことはありますね……」
 小さく消え入りそうな声で呟くようにして言った後、ティレイユは正座した姿勢のまま百八十度回転して背中を向け、
「ガラックのアホが、あっさりゲロしやがって……後でシバく……」
 胸に抱いていた巨大ガマガエルのぬいぐるみの腹に拳を叩き付けながら、低い声で呻く。
「それじゃあ認めるのね? あの脅迫メールも、『ナイン・ゴッズ』のトラブルも、リアル世界でのトラブルも。全部貴女がやったって」
「はい……」
 水鈴の問いにまた百八十度回転してコチラに向き直り、ティレイユはか細い声で言って首肯した。
「でもどうしてこんなことを? 九綾寺さんの方のトラブルと僕の方のトラブルとどう結びつくんだ?」
 自分の隣りに腰を下ろしていた秋雪が、納得のいかない表情で聞く。
 確かに、ソコが自分にも分からない。
 ティレイユがこんな無茶苦茶な犯行に及んだ動機、そして最終目的。それらが何なのか。
「……そう、ですね。話せば長くなるのですが」
 思い出すのもおぞましいのか、ティレイユは巨大ガマガエルの目玉をぐぐぅ、と押し込みながら重い口を開いた。
「……そもそも始まりは、あの人のストーカー行為でした」
 ブロンドの奥に息づく茶色掛かった双眸の先にいたのは、未だに気絶から立ち直れていない倖介だった。
「ストーカー、ね……」
 倖介に蔑んだ視線を落としながら、水鈴は溜息混じりに漏らす。
 女の尻をよく追いかけ回しているとは思っていたが、そこまで発展しているとは知らなかった。
「……最初は、『ナイン・ゴッズ』の中だけだったのですが。いつの間にか私のホームアドレスを調べられていたみたいで……リアル世界でも……」
 ソコまで言ってティレイユはまた半回転し、
「どれだけ殺してやろうかと思ったことか……息の根を止めてやろうと思ったことか……」
 怨嗟の念を吐くとこちらに向き直って続けた。
「……でも、私、奥手でなかなかイヤだって言い出せなくて。……ズルズルやってるうちに夜崎さんが上手くいってるって勘違いし始めて……」
 口元に手を当ててしおらしく言うティレイユを、水鈴は半眼になって胡散臭そうに見つめる。
「……だから私、思ったんです。この人を止めるにはイヤガラセしかないって……」
 どこをどうすればそんな発想に結びつくのか水鈴には理解できないが、ティレイユは『ナイン・ゴッズ』で顔を合わせていた時から精神病を患っているように見えた。
(この根暗女だけはホント何考えてるのか分かんないわ……)
 どうして倖介が彼女を管理者に選んだのか、後で問い詰める必要がある。
「で、そのイヤガラセっていうのが最初の脅迫メールなわけ?」
 水鈴の問いに、ティレイユは小さく頷く。
「……最初は、ホントに出来心だったんです。……ちょっと嫌な思いをさせてやろうって思って、即席でID作って。……夜崎さんに直接メール飛ばす方法は、本人から教えられていたので」
 呆れて物も言えない。
 ドームの最高責任者が、トップシークレットのセキュリティ情報を軽々と。
「じゃあ取り合えずイヤガラセができればソレでよかったから、別に紅坂久遠のIDとかパスとか、『ナイン・ゴッズ』の崩壊とかには興味なかったのね?」
「……はい。……マスターキーのことを言わなければ素人だって思われるだろうし、……『ナイン・ゴッズ』の崩壊なんてそう簡単にできるはずないことは、ちょっと内部の事情知ってる人なら誰でも分かると思って。……少なくとも管理者が疑われるはずないって、そう思ってたんです」
 最初の方の倖介の推理は、まさにティレイユの思惑通りだった。
 無知な一般プレイヤーの愉快犯だと思い込んでいた。
「それでやっと理解できたわ。おかしくなった思考具現化端末デモンズ・グリッド、おかしくなったクエスト、おかしくなったデバイス。ぜーんぶ夜崎さんへの当てつけってわけね」
 巨大ガマガエルのぬいぐるみをきつく抱きしめながら、ティレイユは頷く。
 一部のエリアで調子が悪くなった思考具現化端末デモンズ・グリッド。そのエリアというのは倖介の管轄していた場所だった。コンプリートしたのにコンプリート扱いにならないクエスト。そのクエストは倖介が作った物だった。内容が変わってしまうデバイス。そのデバイスの配布元は倖介だった。
 全ての接点が倖介に収束していたので、何かあるとは思っていたがこんな下らないことだったとは……。
「……それに、紅坂さんの名前を出して、ブラック・スキームの変換を匂わせておけば、真っ先に疑われるのはブラッドという管理者補佐システム・エージェントだと思ったんです」
 葛城那緒のハンドルネームを出され、水鈴は眉間に皺を寄せて言葉を詰まらせた。
 倖介だけではなく、自分の推理まで読まれてしまっている。
 このティレイユという女性、存外頭がキレるのか? それにしては……。
「神薙君。沙耶ちゃんも運が悪かったわね。その『真の覇者』ってクエストも夜崎さんが作った物よ」
 水鈴はやはり思考の読めないティレイユから秋雪に視線を移し、気分を落ち着かせるように明るく振る舞って言った。
「……ようやく納得行きましたよ」
 床でのびている倖介に恨めしそうな視線を向けながら、秋雪は鬱陶しそうに後ろ頭を掻く。
 とにかく、ティレイユは倖介が関わっている物全ての評判を落としてイヤガラセをしたかったのだ。陰険で悪質ではあるが、遠回りな分ティレイユに直接結びつくような証拠は残りにくい。
 しかし――
「でも、二つ目のアレ。どうしてあんなことしたの?」
 思い出すのもはばかられるような下劣なイヤガラセ。
 ソコには知性のかけらもない。犯人を特定する情報だって多く残されていた。
「例の裸踊りの件ですね。確かにアレは僕もビックリしました。まさか本当に起こりうるなんて。あの時ばかりは自分が神なのではないかと思いましたよ。ああ……」
 やたら目を輝かせて力強く言い、秋雪は自分の胸に手を当ててなぜか悩ましげな顔付きで唸る。
 たまに彼もどこかおかしくなるから困る。
「……アレ、は。……しょうがなかったんです」
 苦々しい顔付きで言い、半回転するティレイユ。
「……あのボケが。……調子乗りやがって。……なーにが『お前のおかげで俺のプライベート充実しっぱなしやー』じゃ。……情報引き出すために怖気の走る演技するコッチの身にもなれや。……マジでコロスぞ」
 巨大ガマガエルのぬいぐるみの大きさが十分の一くらいになるまで両腕で圧縮し、ティレイユは恨みがましい声で吐き捨てる。そして暗い顔でコチラに振り返り、
「……だんだん、夜崎さんの行為がエスカレートしてきて。……何十回も電話してくるし、何百通もメール送ってくるし。……それで、だんだん我慢できなくなって」
 同情を誘うような視線をブロンドの下から覗かせながら、ティレイユは泣き声になって言った。
「それで貴女のイヤガラセもエスカレートしてきたってわけね」
「……はい」
 理性による謀略よりも、感情による激憤が上回ってしまい、より直接的なイヤガラセに出た。そして致命的な証拠を残してしまった。
(私も、いつか神薙君の前で自分らしくないことするようになるのかしらね)
 感情が理性を呑み込んでしまった自分を想像し、水鈴は瞑目して息を吐いた。
「で? 今朝の掲示板への書き込みは? アレもまた酷かったけど。特にあの時、夜崎さんに送ったメールが決定的だったわね。ひょっして、またレベルが上がったの?」
「……はい。……だって一昨日なんて、マンションの中ずっとウロウロしてるし、……恐くなって閉じこもってたらひたすらエンストランスでコールしてくるし、……しょうがなく出ていったら夫婦みたいにベタベタされるし。……その時に上機嫌で言ってたんです。今誰と一緒に捜査してるかって」
 哀愁を漂わせながらソコまで言った後、ティレイユはまた半回転して、
「……まぁ、まさか罠だったとは思わなかったがな。ちっ……クソッタレが」
 巨大ガマガエルのぬいぐるみの口に、肘まで腕を突き入れながら地鳴りのように漏らす。
 ……なるほど。コレで話は繋がった。
 そしてティレイユの動機、目的も全て分かった。後は彼女の処遇をどうするか……。
「あの、さ。一昨日って、二日前ってことだよね」
 水鈴の思考を中断するように秋雪が口を挟む。ソレに頷くティレイユ。
 何を突然当たり前のことを。 
「倖介のヤツは君を追ってこのマンションに出入りしてたわけで、だから別に同じマンションに住んでいる僕や沙耶が倖介と鉢合わせしても不思議ではないわけで」
 よく分からないことを言う秋雪に、ティレイユは不思議そうに首を傾げている。水鈴にも何を言いたいのかサッパリ分からない。
「ちなみにさ。参考までに聞きたいんだけど、倖介のヤツが君に付きまとい始めたのはいつ頃から?」
「……二ヶ月くらい前からです、けど」
「そーかそーか、二ヶ月前か。つまり、その頃からマンションの外をウロウロし始めていてもおかしくないわけだ。このバカは」
 静かに紡ぐ声の中に確かな怒りと殺意を内包させ、秋雪は幽鬼の如くゆらりと立ち上がって倖介見下ろす。
 そして彼の頭の横に、厚みを持たない半透明の黒いモニター――オリジナルの思考具現化端末デモンズ・グリッドが現出した。
「ちょ、神薙君こんなところで……!」
「沙耶の洋服姿を笑い飛ばし、そして『ナイン・ゴッズ』に没頭させて僕とのコミュニケーションを奪い、あまつさえ絶対にコンプリートできないクエストでストレスを与え続けたのは、全てこのバカの女癖の悪さが招いた悪夢というわけか」
 ククク、と喉を鳴らして低く笑い、秋雪は双眸に凄絶なモノを宿して悪魔的な笑みを浮かべる。
 いけない。あの目は本気だ。秋雪は沙耶が絡むとあっけなく理性が吹き飛ぶ。
「九綾寺さん。ティレイユさんは悪くないですよ。『ナイン・ゴッズ』のトラブルも、リアル世界のトラブルも、全てコイツが元凶。コイツが諸悪の根元。ですよねぇ?」
「み、神薙君! お願いだから我慢して! こんなトコで暴れないで!」
「……な、ななな、なんなんなんなんですかぁぁぁぁ!? この人おおおぉぉぉ……!」
 秋雪を中心として吹き荒れ始めた爆風に、水鈴とティレイユは腕で顔を庇いながら身を低くした。
『夜崎倖介。今から貴様に死よりなお深く、絶望よりなお暗い混沌の闇の与える』
 二重にブレて聞こえる秋雪の声は、もはや魔王のその物だ。何もこんな所で神の力を出さなくても……!
 どうする。どうすればいい。どうすれば秋雪を止められる。
 こんな時、こんな時沙耶なら……!
『さらばだ』
 そしてオリジナルの思考具現化端末デモンズ・グリッドに、白い文字でコマンドラインが走り、
「秋雪いいいいぃぃぃぃぃぃ!」
 水鈴の絶叫が轟いた。
 次の瞬間、ピタリと風が止む。
「ゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイ! スイマセンもうしません! お願いですから許してぇ!」
 代わりに怒濤のような秋雪の土下座が繰り広げられた。
 そんな嘘みたいな展開に、水鈴の両肩から一気に力が抜ける。と、同時に言いようのない怒りが込み上げてきた。
「秋雪君! 立ちなさい!」
「はいぃぃ!」
 水鈴の言葉に従って背筋を伸ばして直立する秋雪。
「貴方は私の何!?」
「秘書です!」
「違う言葉で!」
「奴隷です!」
「もっと!」
「犬です!」
「よろしい!」
「ありがとうございます!」
 一息にまくし立て、水鈴は万感の思いを込めて息を吐いた。
 しかしすぐにハッと我に返り、顔を恥ずかしそうに赤らめて秋雪から逸らす。
(な、何やってんのよ! 私!)
 いつもの自分からは考えられない行動。
 今のが理性を感情が呑み込んでしまった瞬間なのだろうか。 
(あ、『秋雪君』なんて呼んじゃって……!)
 とっさのこととはいえ初めて下の名前で呼んでしまった。何という失態。顔が羞恥の熱で焼けただれてしまいそうだ。
(ったく、何てこと言わせんのよ。コイツはっ……)
 顔を赤くしたまま、水鈴は拗ねたような視線で秋雪を見上げる。気を付けの姿勢になっているせいか、いつもより大きく見えた。
「ほ、ほら。いつまでそうやってるのよ。楽になりなさい」
「イエス! ボス!」
「それはもういいから……」
 ピンと伸ばした片手を頭に添えて敬礼する秋雪に、水鈴は軽くめまいを覚える。
(まったく……母親なのか恋人なのか上司なのか、私はどれになればいいのよ……)
「やー、おめっとさん」
 水鈴がかつてない悩みに苛まれていると、後ろから脳天気な声が聞こえてきた。
 さっきの騒動でようやく倖介が目を覚ましたらしい。
「やっと起きたんですか、夜崎さん。もう全部終わっちゃいましたよ」
「らしいのー。やー、二人がそこまでの関係になっとるとは知らんかったわ。こら俺らも頑張なあかんなー、ティレイユー」
 ティレイユに寄り添っていきながら、意味深な笑みを浮かべる倖介。
「い、言っときますけどね。さっきのは言葉のアヤというか、その場の勢いというか……」
「そんなん遠慮することないやん。さっきみたいにもっと、どーどーとしとったらええねん。『ちょ、神薙君こんなところで……!』『み、神薙君! お願いだから我慢して! こんなトコで暴れないで!』『ほ、ほら。いつまでそうやってるのよ。楽になりなさい』。んー、若いってええなー、ティレイユー」
『死ねドアホオオオオォォォォ!』
 三人は声をはもらせて、この事件の真犯人に鉄拳を打ち込んだ。

■Viewer Name: 神薙秋雪 Place: マンション自室 PM01:34■
 うららかな午後の昼下がり。
 秋雪はリビングのソファーに深く腰掛け、沙耶特製の水だし麦茶をすすっていた。
(静かだ……)
 ほぅ、と感慨深い息を吐いて、秋雪は膝の上で大きなあくびをしているシロキーの毛並みを整えてやる。
 先程までの喧噪が嘘のよう。今ココは誰にも邪魔されることのない、秋雪だけのプライベートスペースとなっている。アンティーク物の振り子時計だけが、緩やかに時を刻んでいた。
(コレで取りあえずは一件落着、か……)
 ガラックからティレイユの名前を聞き出し、メイン・サーバー『アピス』にハッキングを掛けて彼女のホームアドレスを割り出したところまでは順調だった。しかし部屋に向かう途中、水鈴と倖介に遭遇した。偶然ではなく、必然的に。
 今思い返せば、全ての出会いがそうだった。
 二ヶ月前、洋服を着た沙耶と一緒に散歩している時に倖介に笑われたのも、一週間前、『ナイン・ゴッズ』でのトラブルについて水鈴から相談を受けたのも、『ナイン・ゴッズ』でガラックと戦ったのも、そしてティレイユのリアル体と出会ったのも。
 全ては必然だ。
 夜崎倖介というこの世の最害悪がもたらした。
 彼が今後ティレイユにどのような処罰を適応するかは分からないが、恐らくそれ程重い物ではないだろう。最悪でも管理者を辞めさせられて、ランクAプレイヤーに降格となるくらいだ。
(あのスケベ大王が……)
 今でも倖介のイヤらしい顔がハッキリ思い浮かぶ。

『まぁ、ティレイユがこないなことしたんは俺にも責任があるからな。せやからティレイユだけに罰与えるんは不公平や。俺も半分、いや三分の二は持つでー。ま、困った時お互い様や。持ちつ持たれつで今後も仲良ーやっていこーや。なははっ』

(ま、あの分だとティレイユの方から管理者を辞退するだろーな……)
 とは言え、本来ならばドーム追放になってもおかしくないくらいの重罪を犯したというのに、こんな軽い刑罰で済むなど異例中の異例だ。もしあの時、ティレイユが素直に罪を認めずに言い逃れを続けていたとしたら。もしあの時、上手く倖介を巻き込んでいなければ。ティレイユは今頃、虚数空間のまっただ中に放り出されていたかもしれない。
(ひょっとして、僕は言わされたのか……?)
 全ての原因が倖介にあることを。
 こういうことは例え事実であっても犯罪人の口から出たのでは説得力がない。見苦しい言い訳にしか聞こえない。なぜならどれだけ倖介が原因を作ったからとは言え、実際に動いていたのはティレイユ本人なのだから。今回のトラブルはイヤガラセの範疇を明らかに越えている。普通に考えれば、罪は全てティレイユが償うのが筋なのだ。
 しかし、第三者が倖介のことを言えばまた別だ。しかもソレがティレイユから被害を受けた人間となれば、彼女の罪は一気に軽くなる。敵を弁護するということは、罪を容認したことに他ならないのだから。
 もし、これらのことを全て計算してやっていたのだとしたら。例えそうではなかったとしても、無意識にそういう方向に持って行ったのだとしたら。
(女の人って、ホント恐いよな……)
 そんな器用なまね自分には到底できない。
 お前が悪い! と決めつけられればソレでお終いだ。自分にはそれ以上反論できない。
 そして一番恐いのは、ストーカー行為を受けたくらいで公的機関を麻痺させるような大問題にまで発展させてしまうことだ。『くらい』などというと、猛反論を買いそうだが。

『女ってね、ホント些細なことで怒ったり意地になったりするものなのよ。でも些細なことだからって軽く見ちゃダメ。放っておくと取り返しが付かないくらいこじれてるかもしれないわ。だからできるだけ早く気付いて、原因を取り除いてあげて』

 一週間前、水鈴に受けたアドバイスが耳の裏で蘇る。
 まさしくその通りだ。男はたかがこのくらいと思っていても、女の人にとってみれば重大な事件となっているのだということを身に染みて感じさせられた。
 女は恐い。
 ティレイユは勿論。

『秋雪いいいいぃぃぃぃぃぃ!』

 水鈴も。

『言い訳は聞きたくない!』

 そして沙耶も。
 気が付くと、どんな女性にも頭が上がらなくなってしまっているのではないだろうか。
 そんな不安と恐怖に駆られる。
 そういう意味では、どんなに酷い扱いを受けても全くへこたれず、むしろソレまで以上に精力的な行動に出られる倖介は、ひょっとすると尊敬に値する男なのかもしれない。
「ああ、シロキー。今の僕を癒してくれるのはお前だけだよ」
 気弱な声で言いながら、秋雪はシロキーを両手で持って頭上に掲げる。
「む! お前メスか!」
 しかしすぐに戦慄を感じ、強ばった顔で彼女を膝の上に戻した。その時の衝撃が強すぎたのか、シロキーは機嫌悪そうに全身を総毛立ててフーッ! と鼻息を荒くする。
「ああー、ゴメンナサイゴメンナサイー……」
 そして殆ど条件反射的に謝ってしまう秋雪。
 コレはもう病気だなと項垂れた時、室内に来客を告げるコール音が鳴り響いた。

《来客者です。女一名。心拍数正常。武器反応無し。音声を繋ぎます》

『秋雪ー、ワシじゃー、沙耶じゃー。開けてくれー』
 抑揚のない機械音声に続いて、甲高い幼女の声が届く。
 沙耶だ。三十分ほど前に一人で出て行ってしまい、いつ帰ってくるのだろうと心配していたところだった。
「はいはい。今開けますからねー」
 壁に埋め込まれたディスプレイで沙耶の姿を確認し、秋雪はパネルに自分の生体情報を入力する。

《声紋確認。指紋確認。網膜パターン一致。マンション・エントランスの施錠を解除します》

 ディスプレイの中で小走りにマンションの中へと入る沙耶。
(ん……?)
 紅い着物の脇に何かを挟んでいたようだったが、それが何なのかまでは確認できなかった。
(買い物、か……)
 事件も無事解決し、ガラックから『ボティ・エクスチェンジ』を始めとする大量のデバイスを奪った沙耶。秋雪としては、一緒に『ナイン・ゴッズ』にログインしようと言い出してくれるのを心待ちにしていたのだが、沙耶は『ちょっと出かけてくる。絶対に付いて来るでないぞ』と残して、何かを隠しながらそそくさとどこかへ行ってしまった。
 そして言われたとおり、シロキーと一緒に待っていたのだが……。
(女の人って、分からないなぁ……)
 そんなことを思っていると、再び室内にコール音が響いた。
 この部屋の前に到着したのだろう。
 秋雪はソファーから立ち上がり、沙耶を出迎えるためにエントランスに向かう。
「今帰ったぞー!」
 そして扉を内側からスライドさせると、元気な声と共に沙耶がオカッパ頭を揺らして部屋に駆け込んできた。
「どこに行ってたんですか? 沙耶」
「ショッピング・モールじゃ」
 やはり買い物のようだ。
 沙耶はソファーの上にいるシロキーを自分の頭に乗せて座ると、持っていた物をテーブルの上に置いた。
「アクセスバンド、ですか……」
 一つは黒いバンダナ状のツール。『ナイン・ゴッズ』にログインするために必要なアクセスバンドだった。そしてもう一つは透明感のある白いケース。大きさは沙耶が片手で十分持てるくらいだ。それ程大きな物ではない。
「何を買ってきたんですか?」
「洋服じゃ。この前、秋雪が買ってくれた物と全く同じ柄の洋服じゃ」
「へ……?」
 沙耶の口から飛びだした予想だにしない言葉に、秋雪の目が点になる。
 自分が買った洋服? あの全体でヒマワリを表現した? どうしてそんな物を? 何のために? いやソレよりも……。
「それは、高かったんじゃないですか? そんなクレジットどこから……」
 あの洋服は秋雪の一ヶ月分の給料全てをつぎ込んだ高級品だ。どんなサイズの物を買ったのかは知らないが、それなりに値は張るはず。
「うむ。じゃからこの前のデバイスを金に換えた。なかなか良い値で売れたぞ、あの『ボティ・エクスチェンジ』とかいうデバイス」
「は……?」
 点になった瞳が消失し、秋雪は白目になって声を上げた。
 売った? 『ボティ・エクスチェンジ』を売った?
 ソレはいったいどういうことだ? 沙耶は『ナイン・ゴッズ』で体型を変えて洋服を着てくれるのではなかったのか?
「まったく良い世の中になった物じゃ。あのバカから巻き上げたデバイス全部売ったらちょっとした小金持ちになってしまったわ」
 わはは、と上機嫌で笑いながら、沙耶は指先でアクセスバンドをくるくると器用に回した。
 保持デバイスの情報はアクセスバンドに記録されている。だからリアル世界でデバイスの売買をする時は、アクセスバンドをショップに差し出してやり取りをしなければならない。
(売った……ガラックから奪ったデバイスを全部、売った……)
 仮にも管理者補佐システム・エージェントが持っていたデバイスなのだ。当然、非売品や超レアデバイスもあっただろう。ソレを持っていれば『ナイン・ゴッズ』でのクエスト攻略が格段に楽になるというのに。
「そ、それで同じ洋服を買って、どう使うんですか?」
 自分では到底考えられないような行動を平然ととる沙耶に激しく動揺しながらも、秋雪は極力平静を装って聞いた。
「うむ。お揃いにしようかと思ってな。ワシ一人では恥ずかしくて着れんが、同じ物をもう一人が着てくれていれば平気じゃ。それもワシが信頼しておる相手となればなおのこと」
「そ……」
 秋雪は感極まってそれ以上言葉を続けられなかった。
 まさか沙耶がそんなことを考えくれていたなんて。
 間違っていたのは自分の方だ。沙耶は正しい。『ボティ・エクスチェンジ』を売って正解だ。
「沙耶、ありがとうございます。そんなに気にしてくれていたなんて……」
「いや、変に気遣いするのはもうヤメじゃ。アレは疲れる。ワシの性にあっとらん。じゃからワシはワシのやりたいことをやりたいだけヤル」
 機嫌良さそうに言いながら、沙耶はテーブルの上から白いケースを取り上げて自分の膝の上に乗せる。そして蓋を開け、中に入っていた洋服を取り出して広げた。
 ソレは確かに秋雪が買ってきた物と全く同じ柄だった。
 ただ……。
「えっと、沙耶……?」
 あまりに小さすぎる気がするが。
 沙耶が片手で持てるくらいのケースに入っていただけあって、洋服のサイズもそれ相応。恐らく沙耶ですら着るのは難しいだろう。とてもではないが自分では袖すら通せない。
「ほーらシロキー。コレでワシとお揃いじゃー」
「へ……?」
 戸惑う秋雪をよそに、沙耶は頭からシロキーを下ろして持っていた洋服を着せてやる。シロキーは嫌がりもせず、沙耶に身を任せて頭を通し、前足を通して洋服を身につけた。
 かくして、白と黄色の色合いが眩しい太陽の猫が完成する。
「あの、沙耶……? 信頼している相手って……?」
「シロキーとワシは一心同体。コイツが同じ格好をしていてくれれば『猫に小判』じゃ」
 慣用句の間違った使い方をして胸を張る沙耶に、秋雪はただ呆然と白い視線を注ぐしかなかった。
「で、秋雪。この前ワシにくれた服は今どこにある」
「え?」
 服を着たシロキーを大事そうに胸に抱き、クリクリとした愛くるしい瞳を輝かせる沙耶に、秋雪は素っ裸で極寒の地に放り込まれたような錯覚を覚える。
 ない。
 今、手元にはない。
 大枚はたいてバーチャル化してしまった。
 全ては自分の愚かしい早とちりが原因だ。
 どうする。どうすればいい。この状況を切り抜けるには何と言い訳すればいい。
 水鈴ならどうする。堂々と正直に話すだろうか。
 倖介ならどうする。のらりくらりと関係のない話にもって行くだろうか。
 できない。自分にはそのどちらもできない。
 水鈴のような勇気はない。倖介のように不誠実にはなれない。
 どうすれば――
「秋雪」
 動揺を隠すことさえできず視線を宙に泳がせる秋雪に、沙耶は嘆息しながら声を掛けてきた。
「またワシに隠し事をしておるじゃろう」
 そしてギロン! とつり上がった半月状の目つきで睨み付けてくる。しかしコチラが言葉を詰まらせていると、すぐに強ばりを解いて諦めたような同情するような目を向けてきた。
「まったく分かり易いヤツじゃ。すぐ顔に出おる。ワシも秋雪も飾るのは不得手のようじゃのぅ」
「す、スイマセン……」
 それ以外の言葉が思い浮かばず、秋雪は頭を下げて謝罪する。
「じゃが、秋雪はその不器用さが良いところでもある。秋雪がワシにする隠し事は、きっとワシのためを思ってしてくれておるんじゃろう?」
 はにかむような笑みを浮かべながら、沙耶は優しく言った。
「ワシもそうじゃ。ワシも秋雪にコレ以上いらぬ迷惑を掛けまいと、隠れて『真の覇者』をしておった。まぁすぐにバレてしまったがの」
 そしてシロキーの頭を撫で、沙耶は尊大な口調で続ける。
「と、いうわけでじゃ。これからは相手のことを思っての隠し事は許可する。ありがたく思え」
「は、はぁ……ありがとうございます」
 沙耶の偉そうな態度にも、体が勝手に動いて礼を述べてしまう秋雪。この先一生、今の関係は変わらない気がする。
「で、ワシの服はどうした」
「そ、ソレは、その……」
 急に話を戻され、秋雪は思わず言い淀む。
「秋雪がワシのことを思って何かしてくれているのは分かっておる。別に怒らんから言ってみよ」
「そ、それじゃ……」
 少し怯えを残しながらも、秋雪はバーチャル化してしまった洋服のことを包み隠さず話した。
「……では何か?」
 全てを聞き終え、沙耶は不機嫌そうに眉をつり上げる。
「ワシの幼児体型ではどんな服を着ても似合わんと言うか」
 沙耶の後ろで黒い炎が燃え盛っているように見えた。
「べ、別にそんなことは一言も……!」
「やかましー! 頭グルグルのキーの刑じゃー!」
「怒らないって言ったのにー!」
 飛びかかってくる沙耶に、秋雪は両手で頭を庇って身を低くする。
 直後、首筋に掛かる座敷わらしの全体重。沙耶はこなきジジイのように自分の頭に抱きついた。しかし、それ以上は何もしてこない。
「沙耶……?」
「よいか秋雪。ワシは秋雪のことが好きじゃ。大好きじゃ」
 頭にのし掛かったまま、沙耶は独り言のように漏らす。
「秋雪も当然、ワシことが好きじゃな?」
「え、ええ。そりゃ勿論」
 唐突な質問に驚きながらも、秋雪は自信満々で即答した。
「そうか。ならワシは今まで通り、わがままを言いたい放題言う。『お互いに好き合ってるんなら、相手に甘えるのは愛情表現の一つみたいな物』らしいからのぅ」
「そ、そうですか……」
 誰がそんなことを吹き込んだのかは知らないが、金一封でも贈りたい気分だ。
 沙耶はソレで良い。ソレでこそ沙耶だ。
 自分に変な気を遣ってよそよそしくされるより、例えわがままで無茶苦茶であっても、今のように思っていることを包み隠さず前面に押し出してくれている方が沙耶らしい。よっぽど気が楽だ。
「今回のことでよく分かった。ワシは隠し事が下手クソじゃ。我慢するのが苦手じゃ。次に例のクエストみたいなことがあったら、何も考えずに秋雪を頼るから覚悟しておけよ」
「ええ、それはもう大歓迎ですよ」
 コレはガラックとティレイユ、あと次点として倖介に感謝だ。
 沙耶に頼られるのは悪い気分ではない。むしろ自分の存在意義が見出せるような気さえして安心できる。活力が沸いてくる。
 沙耶は、自分にとって元気の源なのだから。
「そうじゃ! その顔じゃ!」
「へ……?」
 頭の上から顔を覗かせ、逆さまになってコチラを見て叫ぶ沙耶に、秋雪は素っ頓狂な声で返す。
「秋雪はワシがわがままをいうと、いつもそうやって嬉しそうな顔をするのぅ。ひょっとしてマゾというヤツなのか?」
「ど、どこで覚えてきたんですか! そんな言葉!」
「さぁーて、ドコじゃったかのぅ」
「隠し事はしないんじゃなかったんですか!?」
「秋雪のためを思えばこそじゃ」
「意味分かりません!」
 ケラケラとからかうように笑う沙耶に、ムキになって声を荒げる秋雪。
 そんな自分達を見ていたシロキーが退屈そうにあくびをしたかと思うと、室内に来客を知らせるコール音が鳴り響いた。

《来客者です。サービスロボット一台。武器反応無し。音声を繋ぎます》

『ご注文の品、お届けに上がりました』
「来たようじゃの」
 秋雪の頭から飛び降り、沙耶は壁に埋め込まれたディスプレイの前まで行くと、大きくジャンプしてタッチパネルに自分の手を叩き付ける。

《指紋確認。マンション・エントランスのギフト・シュートを解放します》

 そして数秒後、部屋のエントランスに一瞬だけ黒い穴が開いたかと思うと、そこから白いケースが飛び出して来た。ソレは一瞬だけ不自然に浮かんで落下の勢いを止めると、音もなく床に置かれる。
「沙耶、何ですか? ソレは?」
 送られてきたケースへと駆け寄る沙耶の背中に、秋雪は疑問の声を投げかけた。
 ケースの外観は沙耶が最初に持ってきた物と同じだが、大きさが全く違う。沙耶が両腕を目一杯広げても持てるかどうかと言ったところだろうか。
「秋雪! 目をつむれ!」
「は、はぃ!」
 命令口調で言われ、秋雪はきつく目を閉じる。
 視界が闇に閉ざされ、音だけが鮮明に耳へと届いた。
 ケースを開けているのだろうと思われる、無機質な乾音だけが室内に響く。そしてシロキーが、にゃーと一声鳴いたかと思うと、
「もう良いぞ」
 沙耶のお許しが出た。そして秋雪は恐る恐る目を開く。
「どうじゃ?」
 飛び込んできたのは、ヒマワリのように明るい色彩の洋服だった。袖の部分にフリルがあしらわれ、花弁を表現している。
「コレ、は……」
「秋雪の分じゃ。デバイスを売った金で買ってきた」
 洋服を両手で持って広げ、背伸びしてコチラに差し出しながら沙耶は声を弾ませた。体が洋服で完全に隠れてしまい、まるでヒマワリが喋っているようにも見える。
 ガラックから奪ったデバイスを全部売ったのはコレを買うため……。サービスロボットに届けて貰ったのは、沙耶一人では運べないから。そして自分を驚かせたかったから。
「あ、ありがとうございます……」
 悲嘆からの生還。
 一度大きく肩すかしを食らっただけに、改めて感じ取る喜びは一塩だ。
「でも、沙耶……」
 秋雪は申し訳なさそうな表情で沙耶から洋服を受け取り、全体がよく見えるように広げて続ける。
「コレ、女の人向け、ですよ……?」
「な、なにっ!?」
 秋雪の言葉に目を大きく見開く沙耶。
 これだけ可愛らしさを意識してフリルがあしらわれているのに、いくら何でも男性用ということは考えられない。間違いなく女性向けの洋服だ。
「な、なんという盲点……」
 わなわなと両手を振るわせながら、沙耶は秋雪が持っている洋服を凝視する。そして拳を固く握りしめて、「くぅー!」と悔しそうに呻くと、
「なら返品じゃ! 今からもう一度店に行って男物と取り替えて貰うぞ!」
「このデザインは女性用しかありませんけど……」
 鼻息を荒くして激昂する沙耶に、秋雪はハハ、と乾いた笑みを漏らしながら小声で言った。その言葉に沙耶は「キー!」と甲高く叫んで頭を掻きむしると、自棄気味になって吐き散らす。
「ならばソレを着よ! もう女も男も関係ないわ!」
 そんな沙耶に秋雪は柔和な笑みを返し、
「分かりました」
 迷うことなく着ていたタートルネックのセーターを脱いで洋服に袖を通した。
「秋雪……」
 ぽかん、と呆けたように口を開けて沙耶はコチラを見つめる。命令した本人の方が驚いているというのは、何ともおかしな光景だ。
 この洋服を見た時から分かっていた。こういう展開になることは。沙耶がムキになって『着ろ!』と言ってくることは。
 だから秋雪にしてみれば別に驚くことでも不思議がることでも、ましてや嫌がることでもなかった。沙耶からの贈り物を拒絶するなどという行動は、自分の脳にはプログラムされていないのだから。
「似合いますか?」
 洋服を着終えて両腕を広げ、秋雪はいまだ目を丸くしている沙耶に聞く。
 少しきつく袖先が足りないが、着られないということはない。
「う、うむ。よく似合っておる」
 なぜか照れたように言いながら、沙耶は秋雪の足下に近寄って両手を上に伸ばす。
 肩車をしてくれという合図だ。
 秋雪はしゃがんで自分の頭を沙耶の股下に通すと、ふらつかないように気を付けながら立ち上がった。
「さすがは秋雪じゃ。ワシを喜ばせるツボを心得ておる」
「お褒めにあずかり光栄です」
「うむ。ではこのままワシの分も買いに行くぞ」
「……へ?」
 上機嫌で提案してくる沙耶に、秋雪は素っ頓狂な声を上げる。
「どうした秋雪。なに、心配するな。金ならまだ残っておる」
「い、いや……そういうことじゃなくて……」
 動揺を見られないように秋雪は俯いた。
 この格好で外に出る? さすがにソレはヤバい。ソッチ系の趣味の人と間違えられる。
 部屋の中だけじゃダメなのか? 部屋の中で着ているだけじゃ満足してくれないのか?
「さぁ出発じゃ! 秋雪!」
 その掛け声に応えるようにして、シロキーが自分の背中を駆け上がって沙耶の頭に乗った。二人とも行く気満々だ。断れるような雰囲気ではなくなってきた。
 しかし……。
「秋雪、さっき言ったろう。ワシは遠慮せず思う存分甘えると。言いたい放題わがままを言うと。そっちの方がワシも楽じゃし、秋雪も笑ってくれる。ワシがわがままを言うのはワシのため、なにより秋雪のためじゃ」
 秋雪の戸惑いを察したのか、沙耶は柄にもなく諭すような口調で声を掛ける。
 わがままを言って、気に入らないことにはダダをこねて、機嫌が悪いとすぐに癇癪を起こす。
 ソレこそが沙耶の自然体。ありのままの沙耶の姿だ。
 そんな沙耶を見ているのは楽しいし、元気も出てくる。沙耶のお願いをきくのは好きだし、ずっとこうしていられればと思う。
 確かに、沙耶の言うとおりだ。
「分かりました」
 沙耶の言うことは正しい。こうしているのが正しい。
 お互いのために。お互いが幸せになるために。
「行きますか」
「うむ」
 そしてシロキーの鳴き声に押されるようにして、秋雪は沙耶を肩車したままエントランスに向かった。
 扉の内側に連れられたタッチパネルに触れて施錠を外し、秋雪が部屋の外に一歩踏み出した時、
「お――」
 良く知った顔が目の前にあった。
 次の瞬間、秋雪の全身が氷の彫像と化す。
「今回は、なんやお前にもエライ迷惑……掛けた、みたいやから、詫びにー思ーて何か、した、ろ……」
 なぜか自分の部屋の前に立っていた倖介は、必死に何かを堪えながら言葉を紡いだ後、
「あの、な、レノンザード……」
 俯いて肩をふるわせ、
「何じゃその格好! 変態サーカス団かい! 女装トーテムポールかい!」
 ギャハハハハハハハ! と品のない超爆笑を飛散させ、文字通り腹を抱えてコチラを指さした。
「ワはレ自分! オほモロイやんけ! あ、あかん……! 死ぬ! 死んでまうフ! 笑い死ぬうふふふふふ!」
 立っていることすら難しくなったのか、倖介は地面を転げ回りながら号泣する。
「沙耶……」
 秋雪は焦点の合わない目を中空に投げ出しながら、独り言のように呟いた。
「何じゃ……」
「沙耶がコイツに笑われた時の気持ち、えげつないくらい伝わってきました」
「分かってくれたか」
 どこか達観したように言う秋雪に、沙耶は深い情念を込めて返す。 
「何だか、沙耶との心の繋がりがより強くなった気がします」
「喜ばしいことじゃ。おかげでワシにも今秋雪が何を考えておるのかはっきり分かるぞ」
「別にいいですよね」
「全くもって問題ない」
 沙耶の頷きに続けて、シロキーも一際高い音域で賛成の声を上げた。
 秋雪は呼吸困難に陥りかけている倖介を虫ケラのように見下ろし、
「僕はティレイユみたいに、立体ホログラムなんて使わないからな」
 オリジナルの思考具現化端末デモンズ・グリッドを立ち上げた。

 The End...

 ...of Kosuke's life.
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