玲寺は見た!

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参『本心を出さない』


◆歪められた時間 ―嶋比良久里子―◆
 麻緒が電話越しに慌てふためいているのを聞いて、“ひょっとすると”と思った。
 冬摩の方は大体予測が付いたが、麻緒の方はすぐには思い当たらなかった。
 ここ二、三年で色々有りすぎたし、もう昔の事だったから殆ど忘れかかっていた。しかし明らかにおかしな麻緒の言動が過去の記憶を掘り起こさせ、閉じていた蓋を開けてくれた。

 ――見られたら困るモンとかあるか?

 トッド君の事を意識して聞いてみた。
 効果はテキメンだった。

『あ、ああ! うん! そ、そうだね! ボクも色々と持ってたからさ! 今から行くよ! だから絶対に入らないでね! 本とか絶対に探しちゃダメだよ!』

 そして確信した。
 麻緒はトッド君を何とかして隠したがっている、と。
 見られると困る物。
 自分がそう言えば、麻緒は成人向けの何かを暗示していると思い込むだろう。当時小学生とは言え、そういう事に興味を持っていたとしても何の不思議も無い。
 予想通りそう考えた麻緒は、ソチラに自分の目を向けようとした。本当に隠したいのなら『本を探すな』などと言うはずがない。つまりコレは一種のカムフラージュ。本命は他にある。
 麻緒が今すぐにでも何とかしたい物。自分の目に触れさせたくない物。
 それは壁の傷や窓ガラスのひび割れといった、一見してすぐに分かる物ではない。そんな物であればとっくに見付かっている可能性が高いから、諦めるか開き直るかする。
 逆に引き出しに入るような小物でもない。リフォーム時に室内の家具を持ち出すと言っても、細かい物をいちいち外に出すような事はしない。そのまま運んでしまう。だから過剰に反応する事なく、知らないフリをしておけば発覚しない確率の方が高い。
 つまり麻緒が心配しているのは、手の平サイズの物ではないが、部屋のどこかにはしまい込める大きさの物。
 例えば、クローゼットの中とか。
 麻緒が来る前に確認できた。
 頭が焼け焦げて無くなってしまったトッド君が。
 しかしそんなに驚きはしなかった。被害の状況までは知らなくとも、トッド君に何かがあった事くらいは随分前から分かっていた。なぜならある日を境に、麻緒の体から甘い匂いがしなくなったから。
 きっとずっと抱いて寝ていたんだろう。以前はトッド君の残り香が色濃く感じ取れていた。
 だが敢えて聞きはしなかった。麻緒を教育する一環として、自分から謝りに来てくれるのを待った。幼くして親元から引き離してしまった以上、彼の面倒を見なければならないのは自分なのだから。
 そう、だから……。
(ちゃう……そんなん、ちゃう……)
 ピンク色のアームチェアに腰掛け、久里子は机の上に置かれたアクリル製のフォトフレームに目を落とす。
 透明のディスプレイに入れられているのは、五人の男女が身を寄せ合っている写真。
 その中で一人だけ、妙にぎこちない表情で写っている。
 唯一、まだ中学生だった頃の久里子だけが。
 コレは家族写真。父と母と、そして一回り近く年の離れた弟と妹が写っている、たった一枚の写真。新しい家族が三人も増えた時の記念として残した記録。
 今となってはもう後悔しかない。反省などいくらしたところで意味がない。
 自分は決して取り返しの付かない事をしてしまったのだから。

 ■□■□■

 小学校を卒業した直後、母親は死んだ。死因は癌。
 胃を半分と腸の三分の一切除したがそれでも転移は収まらず、余命一年を告げられてから二年後に他界した。
 父親は勤勉な男だった。一人娘だった自分を大事に育ててくれた。優しくて、力強くて、頼りがいがあって。本当に少し恐くなるほど理想的な父親だった。
 亡くなった母親の事も自分の事も大切に思ってくれて、二階建ての広い家に二人で居ても寂しさなど殆ど感じなかった。
 今は父親が自分を支えてくれているけれど、いずれは自分が父親を支えて、お互いに支え合って、片親になってしまった分、密度の濃い時間を過ごして行くんだと思っていた。
 なのに――

「あんなぁ久里子……。お父ちゃん、再婚しようか思うんや」
 中学に入学して一年と半年が経った時、夕食中に突然そんな話を聞かされた。
 いつになく静かで、ずっと押し黙ったまま箸を動かしていたから、何かあるんだろうとは思っていたが……。
「再、婚……?」
 最初、何を言われたのかよく分からず、久里子は父の言葉を繰り返した。
「あぁ……。もうちょっともつか思ーててんけど、ちょっと、な……。最近、寝ても寝ても全然疲れ取れへんようになってきてな。目眩はするわ、頭痛はするわ、吐き気はするわ……。ほんで、鏡見たら目ぇ真っ赤っかや。一発で目ぇ覚めるくらいにな……」
 茶碗を持ったまま弱々しい口調で言い、父は乾いた笑いを小さく漏らす。
 ソレは今までに見た事の無い父親の姿。体つきも、そして心も大きく、いつもどっしりと構えていた父からは想像も出来ない姿。
 口を半開きにして、焦点の合わない瞳を食卓に落とす様子からは、脆くて儚い雰囲気しか伝わってこない。
「アイツがおらんようになって出来た穴は、小さならんとデカなってきとる。朝起きたらまずアイツが横におらん。仕事場で昼飯食ってても当然アイツの味なんかせぇへん。帰ってきてもアイツはおらん。風呂から上がっても、晩飯食っても、布団ん中入っても、ほんでまた目ぇ覚めても。頭ん中ずーっとアイツの事だけや……」
「せ、せやったら、なんで再婚なんか……」
 母の事をそれ程までに深く想っているのなら、どうして別の女などと……。
「穴埋めや」
「穴、埋め……?」
 聞き返した久里子に父親は浅く頷く。
「俺は多分……最悪に自分勝手な事考えてるんやと思う。極端な言い方したら、アイツの代用品が欲しいだけなんや……。アイツの事考えんでええように、他のモンで気ぃ紛らせたいだけなんや……」
 苦しげに、血でも吐くかのように父は言った。
 代用品……? 母の事を頭から押しやるために?
 そして、母の事を、忘れるために……?
 間違っている。そんな事は絶対に間違っている。忘れるなんて。大切な気持ちを忘れてしまうなんて、間違ってる……。けど……。
「せやからな、お前の思ーてる事、正直に聞かせてくれ。そんなんアカンて、ハナから否定するんでもかまわん。俺がやろうとしてんのは、その場しのぎの応急処置や。しかも効くかどうかはやってみんと分からん。何も変わらんかも知れん、今より悪なるかも知れん。ホンマ、最悪の事しよーとしてるんや思う」
 まるで懺悔でもするかのような父の言葉。自分の言っている事に自信が無く、必死に救いを求めてきているようにさえ聞こえる。
 もう、限界まで追いつめられているのだ。あの剛胆な父がここまで弱音を晒すなど……。
 気付かなかった。言われるまで全然気付かなかった。
 父は今までどれ程の無理を強いられていたのだろうか。自分に心配を掛けまいと、どれだけ強気な演技をしなければならなかったのだろうか。
 支えて貰っているとは思っていた。父に甘えているという自覚はあった。しかし、まさかコレ程までとは……。
「お前かて、いきなり家族が増えるとか言われても意味分からんやろ。俺がお前の立場やったら、ンなモンふざけんなゆーてる思う。そんな我が儘極まりない理由で押しつけられたらたまったモンやない。どつき回す思うわ。せやから正直にゆーてくれ。お前がアカンゆーたら、俺は綺麗サッパリ諦める。諦めがつく。この話は無かった事にする」
 顔を引き締め、胸を張り、父は声に力を込めて言った。だが、そこにはもうかつての迫力は無い。どんな言葉にも強い説得力を持たせられていた、威厳と風格のある父の姿はどこにも無い。
 諦める? ここまで弱気になっておいて……そこまで本心をさらけ出しておいて、自分が否定したらソレを受け入れる?
 そんな事出来るはずない。だって出来なくなったから、こうして打ち明けてるんじゃないか。
 しかし、それでも父はやろうとするだろう。これまで以上の無理を背負い込んで、精神に綻びが生じようともやり通そうとするだろう。
 自分が知っている父はそういう男だ。そういう不器用で真っ直ぐな男だ。だからこんなにも追いつめられているのに、まだ人の心配をしてしまうんだ……。
 再婚したい。再婚して今の苦しみを少しでも和らげたい。しかしその事が娘の負担になるのならばやりたくない。絶対にやらない。
 きっとどちらも本音だ。どちらも偽る事のない本心だから、決断する事が出来ない。もう一人ではコレ以上先に進む事が出来ない。
 だから、こうして話した。自分に最後の判断を委ねるために。
(そんなん、ズルいわ……) 
 箸を置き、茶碗を置き、下唇をきつく噛み締めて久里子は俯いた。
 そんな大切な選択なら、尚更父にして欲しかった。父がこうしたいと決断してくれたのなら、自分は何の不安も抱かずにソレに従う事が出来た。新しい環境も受け入れる自信があった。
 しかし……。
「久里子、ホンマにスマン。けど、頼むわ……」
 この先も父と二人で暮らしていきたい。
 ソレが自分の本音だ。
 だが衰弱していく父の姿など見たくない。
 コレも本音だ。
 どちらも自分の本当の気持ち。同じくらいに大切な事。
 しかし、そのいずれかを選ばなければならないとすれば―― 
「お父ちゃん、あんなぁ……」
 いや、考える余地など最初から無い。この話を持ちかけられた時からすでに答えは決まっていたんだ。
 いずれこういう事になるかも知れないとは思っていた。ただ、思っていたよりずっと早かったが……。
「ソレ、ちゃんと相手がおってゆーてんねんやろーな。タヌキの皮算用ゆー訳やないんやな?」
 テーブルに頬杖を付き、久里子は半眼になって言いながら片眉を上げる。
「ま、こーんなエエ年した頑固オヤジの貰い手なんか、そうそうおらん思うけど。それでもなんとか捕まえられたんやったら別にええで。こら見物やな。どんなん連れてくるか楽しみやで」
 続けて茶化した声で言い、椅子の背もたれに体を預けて見下した。
 沈黙。
 さっきまでの緊迫した重苦しい空気が、徐々に霧散していくのが分かる。
「おまっ……」
 そして父の口から呆れたような呟き漏れ、
「ゆーたな! 大口叩きおったな! ええやんけ! どんだけ美人か目にモノ見せたるわ!」
「ほー、そらホンマ楽しみやなー。ウチのお眼鏡にかなうかどうか。さー、オモロなってきたでー」
「会った初日から『お母様』呼ばしたるわ!」
「へーへー、中年男の誇大妄想はカッコ悪いで」
「妄想ちゃう! 真山さんはホンマに美人なんやで!」
 真山……ソレが自分の義理の母親となる女性の名前。
(ホンマに、もうおるんやな……)
 胸中で苦笑し、久里子は茶碗を手に取り直した。

 確かに綺麗な人だった。
 三十代前半にしか見えない肌艶。線が細く、小さな顔の輪郭。陽光を煌びやかに反射し、透明感のある黒髪。そしてグレーのハイネックセーターと、足首辺りまで伸びるベージュのフレアスカートを上品に着こなす、落ち着いた淑女的な雰囲気。
 最初、どこのファションモデルを連れてきたのかと思った。
 がさつな父親には絶対に釣り合いのとれない、いや釣り合わせようとする事自体、宇宙の法則を書き換えるに等しい禁忌なのに……。
 一体何故。どういう筋道を辿ればこの結末に行き着くのか。
 まぁ、ソレは後でゆっくり聞くとして……。
「あの、な。お父ちゃん」
 久里子は小声で言いながら、隣で誇らしげに胸を張る父の脇を小突く。
「おぅ、どや。綺麗な人やろ」
 客人を通す畳の間の中央。二枚重ねにした座布団の上で父は満足そうに返してきた。
「初めまして、久里子さん。真山美里と申します」
 自分達の正面で正座した彼女は、奥ゆかしい声で言いながら深々と頭を下げる。
「あ、はぁ。はい、どうも……。この不肖の父親の娘の久里子です、一応……」
 ソレにしどろもどろになりならがら返し、久里子も同じようにして額を低くした。後ろで三つ編みにした髪が垂れてきて畳に着地する。セーラー服の後ろ襟が後頭部に掛かって鬱陶しい。
「オイ、“不肖”ゆーんは自分に付けんかい。それに“一応”ってな何や」
「鳶がコンドル生んでんから別にええやろ」
「コンドルぅ? ハゲ鷹の間違いやろ」
「自分の未来予想図、ウチに当てはめんといて」
「俺はお前、Mっパゲの路線やぞ」
「どっちでもええわ」
 今はそんな下らない事よりも――
「ふふっ」
 口元を隠し、美里が小さく笑い声を漏らした。
「あ、ご、ゴメンナサイ。あんまり可笑しかったものだから。でも本当だったんですね。関西の方は日常会話が漫才だっていうのは。おっかしい」
 ツボに入ってしまったのか、美里は身を小さくして肩を震わせた。
 正直、自分にしてみれば今のドコに笑いのポイントがあるのかすら分からないのだが……。
「ねーねーママー。なんでわらってるのー?」
「どこがおもしろかったの?」
 全くもってその通り。この二人の……この、二人の……。
「あんなぁ、お父ちゃん」
 美里にすり寄っていく二人を見つめながら久里子は冷めた声を発し、
「ウチ、お父ちゃんが再婚するーゆートコまでは聞いとったわ。その人が美人やゆー事も。けどな――」
 そしてジト目を隣の大雑把野郎に向け、
「二児の母親とは聞いとらんぞ」
 ドスを利かせた声で言って睨み付けた。
「あ、あっれー? そうだったかなー? もうてっきり話したものだとー」
「気色の悪い喋り方すんなや」
 尻の肉を力一杯つねり上げ、悲痛な声が呑み込まれるのを聞きながら久里子は視線を戻す。
 未だに笑いの収まらない美里の体に抱き付き、二人は可愛い声を出しながら甘えている。
 年は同じくらいに見えた。まだ小学校には上がっていないだろう。二人とも女の子のような顔立ちだが、服装と髪型からするに片方は男の子のようだ。
「あっ、あ、ゴメンナサイ。ホントにゴメンナサイね。すいません。この子達の紹介がまだでしたもんね」
 コチラの視線に気付いたのか、美里がようやく顔を上げて座り直す。そしてその両側に陣取った二人の肩に手を置き、
「こっちが長男の武流(たける)、それからこっちが長女の結菜(ゆいな)です。ほら、お姉ちゃんにご挨拶して」
 子供達の名前を言う。
「はじめましてっ。まやまたけるでっす。四さいでっす」
「……ゆいな」
 男の子の方は元気良く、そして女の子の方は美里にすがり付いたたまま、恐る恐る自己紹介した。
「あ、え、えーっと。わ、私は嶋比良、久里子、です。よ、よろしく頼んますさかいですわ、ホホホ」
 ソレに歪な言葉の羅列で返す久里子。
「……お前、ごっつキモいぞ」
「やかましい、だーっとれ」
 そんな事わざわざ言われなくても分かっている。
「お前、アレやろ。今、“お姉ちゃん”ゆー言葉に反応したやろ」
「せやからだーっとれ」
 分かってると言っているだろう。
(“お姉ちゃん”……)
 久里子は反芻するように胸中で呟く。そして高々と右腕を上げている短髪の少年と、怯えた視線をコチラに向けてくるセミロングの少女を交互に見つめた。
 父とこの綺麗な女の人が結婚すれば、自分は二人の姉となる。今までずっと一人っ子だったのに、急に弟と妹が出来る。十も年の違う、血の繋がりの無い……。
「久里子さん、仲良くしてあげて下さいね」
 出来るだろうか。いきなりそんな事言われて。自分は、二人の姉らしく……。
「おぃ久里子、返事は」
 この三人と、家族として……。
「久里子て」
「分かっとるわ!」
 分かっている。分かっているさ。
 やらなければならない。最初は不慣れでも、出来るだけ早く家族にならなければならない。そうでなければ、また父に負担を掛けてしまう。どんどん追い込んでしまう。失った物のあまりの大きさに押し潰されてしまう。
 そうならないための再婚だ。母を忘れたいからではなく、母を深く愛するが故の再婚。
 そういう事なら賛成だ。反対する理由など全く無い。これ以上、苦しみもがいている父を見るくらいなら……。
「お、おぉ。それやったら、別にええねん……」
 角刈りにした頭を気まずそうに撫でながら、父は小さな目を大きくして言った。
 自分は今、どんな顔をしているのだろうか。
 戸惑っているのだろうか、怒っているのだろうか、すましているのだろうか、それとも――泣いているのだろうか。
 もう頭の中も胸の中も一杯過ぎて、何が何だかさっぱり分からない。
 駄目だ。こんな事では。もっとしっかりしないと。無理矢理にでも平気に振る舞わないと。父に心配を掛ければ、また気苦労を増やす事になる。ソレでは何をやっているのか分からない。
 今まで支えて貰ってばかりいたんだから、今度は自分が父を支え返さないと。だから――
「……自分、ツッコミ甘いで。『どない分かっとるんや!』くらい気ぃ利かして言ってくれな、ボケられへんやんか」
 だから――
「お前……初日から飛ばし過ぎやぞ」
「関西人は舐められたらしまいや」
「せやからなんでそんなテンション高いねん」
「生まれつきや」
 だから――
「まぁ、お前は自分で掻き分けて出てきたからなぁ」
「“掻き分けて”て、生々し過ぎや。小さい子おんのに」
「そう思うんやったら気ぃ利かせてツッコまんかい」
「アンタがゆーな」
 だから――
「ふふふっ」
「あ、美里さんスンマセン。口の悪いアホな娘で」
「いいえ、とんでもないです。でも良かったぁ。久里子さんも楽しそうな女の子で。今からの生活が凄く楽しみになってきました」
「そ、そらどーも……」
 だから――
「ほんならまぁ、形式張ってやるのも何ですけど。これから何卒ヨロシクお願いします」
「よ、よろしくお願いします……」
「はい。こちらこそ。どうぞ末永くよろしくお願い致します」
 しばらく、サヨナラや。お母ちゃん。

 それから、五人となった家族での新生活が始まった。
 美里は第一印象と変わらず、おっとりしていて優しく朗らかな人だった。自分ともそんなに壁を作る事なく、積極的に話し掛けてくれてきて、少しでも早く本当の家族になろうとしているのが伝わってきた。
 武流は見た目通りの快活な男の子だった。わりとすぐに懐いてくれて、休日は一緒に外で遊ぶ事が多かった。ただ、状況がいまいちよく呑み込めていないのか、『いつまでココにお泊まりするの?』と美里に聞いているのをたまに見かける。自分の事も、“姉”というよりは、“よく相手をしてくれる年上の女の人”としか見てくれていない印象が強い。
 結菜とは半年近く経った今でも数えるくらいしか会話がない。人見知りが激しいのか、目すらまともに合わせてくれない。いつも美里か武流の後ろに隠れて、自分から逃げるようにおどおどしている。それでもようやく、朝『おはよう!』と声を掛けると、聞き取れないくらいの小声で何か返してくれるようにはなった。
 三人から受ける刺激は新鮮であり、楽しくもあり、そして――苦痛でもあった。
 この半年間、自分ではない自分を演じ続けてきた。仲の良い家族を演出するために、周りに気を遣い、無理に明るく振る舞い、相手を必死に理解しようと努めてきた。友達と過ごせる時間も大きく削られ、気が休まるのは寝る時くらいしか無くなっていた。
 精神的には随分参ったと思う。弱音を自分で認めるのは悔しいが、コレばかりは事実なのだからしょうがない。心が環境に慣れてくれるのを待つしかない。
 だが救いはあった。自分の心労を補って余りある、大きな救いが。
 ソレは父の姿。
 今までに増して晴れやかで、そして満たされた父の表情。
 毎日が充実している。言葉にせずとも、久里子の耳にはそう聞こえた。
 再婚は正解だった。武流とプロレスごっこをしている姿や、逃げる結菜を奇声混じりに追い掛けている姿、そして美里と二人きりで楽しそうに会話している姿を見ると、父の選択は本当に正しかったのだと実感できた。
 今までずっと一人で我慢していた物が洗い流されたのだろう。そんな明朗な父を見られただけで報われる。これからもっと頑張っていこうという気になれる。
 そう。自分が頑張らなければならないんだ。弱音なんか吐いている場合じゃない。もっと、ちゃんと家族らしく――
「……っ」
 突然、部屋のドアをノックする音が聞こえて、久里子は見ていた写真をノートの下に隠した。
「久里子ちゃん、お母さん。入っていい?」
 そして慌てて数学の教科書を開き、シャーペンを右手に持つ。
「は、はーいー。どうぞー」
 返事と同時にドアが開き、盆を持った美里が入って来た。
「お勉強、頑張るのねー。お夜食にと思って」
 盆に乗せられていたのは、おにぎり二つと野菜ジュース。出来たてなのか、おにぎりの方は少し湯気が立っている。
「あ、ああー。まーなー。中三最初の定期考査やから。気合い入れんと」
「もう行きたい高校とかは決まってるの?」
「一応、西女に……」
「西女って、西園寺女子高校? すっごーい。あそこって偏差値七十近いトコでしょう? 久里子ちゃんてホント頭良いのねー」
 大袈裟に驚いて言いながら、美里はおにぎりと野菜ジュースを机の上に置いてくれる。
「お、おおきに……」
 少しくすぐったい物を覚え、決まり悪そうな笑みを浮かべて久里子は返した。
「頂きます……」
 そしておにぎりを一つ手に取り、口に運ぶ。ふっくらとした食感と程良い塩加減、そして海苔の味が一緒になって、絶妙の美味しさを生み出していた。
 彼女の作る物は何でも美味しい。父も毎日のように絶賛している。けど、やっぱり自分は……。
「どう? 美味しい?」
 横から覗き込むようにして見ながら、美里は聞いてくる。
「あ、ああ。モチロンや。ごっつ美味いわ」
「ふふっ。よかったー」
 童女のように幼い笑みを浮かべて言い、美里は自分の後ろに立った。
「ねぇ久里子ちゃーん。お夜食作ってきた代わりと言っては何なんだけどー。ちょっと頼みたい事があるのー」
 そして鼻から抜けているような甘えた声を出す。
「な、なんや?」
「髪、触らせてくれない?」
 またか……。
 胸中で嘆息しながら、久里子は少し疲れた顔付きで頷いた。
 もうコレで何度目になるだろう。カレンダーのチェック印が月に十個を越えたあたりで、正確に把握するのが恐くなって数えるのを止めた。
「別にええけど……。飽きませんなー」
「うんっ。飽きないっ」
 弾んだ声で嬉しそうに言いながら、美里は久里子の後ろ髪を下から持ち上げる。
 こういう言葉遣いが妙にしっくりくるのは、多分この人だけの特権だろう。彼女の事を知れば知るほど年齢不詳になっていくのは、この世の不条理の一つと言ってもいい。
「髪の毛って女の子の命だからねー。言ってみれば分身。大切に大切に、丁寧に丁寧に扱ってると、なんだかその人ともすぐに仲良くなれる気がしない?」
 つまり、美里なりのコミュニケーションの一つという事か。こういう気遣いは本当に嬉しいんだが……。
「結菜の髪もカットからセットまで全部私がしてあげてるのよー? 良かったら今度、久里子ちゃんも混ざらない? きっと楽しいわよー。久里子ちゃんてストレートも可愛いけど、ちょっとウェイブ掛けてみてもいい気もするのよねー。どうどう? 試してみない?」
「い、いや。遠慮しときますわ」
 楽しそうに言ってくる美里に、久里子は半笑いの声で返す。
 そこまでは、まだ、ちょっと……。
「そう? ざーんねん」
「あの……今、結菜と武流は?」
 話題を変えようと、久里子はオープンシャツの第一ボタンを止めながら聞いた。
「あの人が寝かしつけてくれたわ。相変わらず結菜は駄目みたいだけど」
 ふふっ、と小さく笑いながら美里は言う。
 泣きそうな顔で父を見る結菜と、そんな結菜の顔に泣きそうになっている父を思い浮かべているのだろう。でも結菜が美里の所に逃げてこないという事は、少しずつ二人の距離が縮まっているという事。最初の頃に比べれば、かなり大きな進歩だ。
「そう、ですか……」
 ソレで良い。ソレで良いんだ。そうやって、父が明るい表情を見せてくれるのであれば……。
「久里子ちゃんも一緒に寝る?」
「へ?」
 髪をアップにしながら言った美里に、久里子は裏返った声を出した。
「一度くらい、家族五人でっていうのも良いと思うんだけどなー。いっつも一人足りないんだもん」
 父と美里、そして武流と結菜の四人は同じ部屋で寝ている。元々、武流と結菜はココに来る前から美里と一緒に寝ていたし、そこに父が加わる事に美里と武流は賛成だった。結菜も声に出して反対はしなかった。もの凄く嫌そうな顔はしていたが……。
 しかし自分はその輪の中に加わった事もないし、恐らくこれからも加わる事はない。
 唯一、気を抜く事が出来る時間を無くすわけにはいかないから……。
「い、いや。ウチは、ちょっと……」
「そっかー。じゃー、私がココで寝ちゃおっかな」
「ふぇ?」
 美里の突飛な提案に、久里子は更に声を裏返らせた。
「ふふふっ。嘘よウソ。じょーだん。久里子ちゃん、そんな子供じゃないものね」
 ようやく髪を解放し、美里は隣にあるベッドに腰掛けながら言う。
 とても冗談とは思えなかったのは、自分の考え過ぎではないはずだ。
「あら可愛い」
 枕元に置かれている小さなクマのぬいぐるみを手に取り、美里はソレを膝の上に乗せた。
「武流もね、こういうの大好きなのよ」
「武流が? 結菜やなくて?」
「そう。結菜は服とかアクセサリーとかの方が興味あるかな。マセてるでしょ?」
「へぇ……」
 コレは意外だ。武流がぬいぐるみを。それに結菜はファッション系の方がいいのか。良い事を聞いた。物で気を引くというのは少し卑怯な気もするが、今度試してみよう。ソレが距離を縮めるキッカケになってくれれば、自分のためにも、そして父のためにもなる。
「で、どう? 武流と結菜は」
 クマの手をパタパタと振りながら美里は聞いてくる。
「どう、って……?」
「仲良くやって行けてるのかなぁ、って。正直な所、負担になってないかなぁって思って」
 はにかんだような表情で言った美里に、久里子は心音が少し大きくなるのを感じた。
「ゴメンナサイね、急に三人で上がり込んじゃって。迷惑してない訳ないわよね」
「そ、そんなん全然っ。大体ウチ、子供好きやし、弟とか妹とか欲しいって思ーてたくらいやから」
 沈んだ声で続ける美里に、久里子は両手を激しく動かして否定する。
 どうしてだろう。顔には出さないようにしていたのに。ちゃんと『仲の良い家族』をやっていけてると思っていたのに。どうして……。
「有り難う。そう言ってくれると、嬉しいな」
 まだ足りないんだろうか。気持ちの入れ方が弱いんだろうか。もっと、自分に言い聞かせなければ――
「久里子ちゃんてホント優しくて、しっかりしてて、面倒見が良くて。大人、って感じよね」
 そうだ。自分は大人なんだ。だからもっと大人らしくしなければ。自分の気持ちをコントロールしなければ。自分の事よりも、今は父親の事を最優先に考えなければ。
「でも、ね。あんまり無理しちゃダメよ? 私が久里子ちゃんくらいの時は、沢山我が儘言って、嘘とかも一杯ついて、やりたい放題やってたんだから。久里子ちゃんもそのくらい気楽に、ね」
 大丈夫。自分は大丈夫だ。ちゃんとやってける。完璧にやり通してみせる。
 それに嘘ならもう特大のをついている。今まで生きてきた中で間違いなく一番の大嘘をついている。そしていつかこの嘘を、嘘かどうかも分からなくなって、自然に演じる事が出来るようになれば……。
「あ、ゴメンナサイね。お勉強の邪魔しちゃって。そろそろ退散するわ。それじゃあ、あんまり遅くならないようにね。お肌に悪いから。あ、でも久里子ちゃん若いから全然問題ないかな」
「ああ、大丈夫や」
 立ち上がり、ドアの方に行く美里に久里子は頷きながら返す。
 そうさ。大丈夫だ。大丈夫に決まってる。
「じゃあ、お休みなさい」
「お休み」
 ドアが締まり、美里の足音が離れて行く。そして階段を下りる音が聞こえてきたところで、久里子は机の方に向き直った。
(無理せんように、か……)
 オープンシャツの前ボタンを全て外し、大きく息を吐いて久里子は体の力を抜く。
(アンタがゆーな、って感じやけどな……)
 眼を細め、シャーぺンを指先で回しながらノートを閉じた。

 美里からの情報は本当に役に立った。
 確かに武流は、自分の持っていたぬいぐるみに対して過剰なまでの反応を示してくれた。可愛いとかカッコイイとか言いながら、本当に興味津々といった様子だった。おかげで部屋によく遊びに来てくれるようになって、武流との距離は一気に縮まった気がした。その代わり、自分の持っていたぬいぐるみは殆ど持って行かれてしまったが……。まぁ、幼稚園の頃に使っていた物で、もう自分には必要の無い物だろうし、次世代が有効活用してくれるのであれば、そちらの方が望ましい。
 そして結菜は――
「お姉ちゃん……。コレ、きれいだね……」
 駅前の総合デパート。九階にあるアクセサリー売り場。
 繋いでいた自分の手を引いて立ち止まり、結菜はショーケースの中を覗き込みながら言った。
「ん? ああー、そうやなー。綺麗やなー」
 そして久里子もソチラに顔を向け、結菜の目線の高さに顔を持って行く。
 結菜が見ている先にあった物は、大きなエメラルドのはめ込まれたブローチ。台座部分とチェーンが純金で出来ており、値札カードにはゼロが六個ほど並んでいた。
「ユイ、ね……。大きくなったらこういうのほしい……」
 呟くような小声で言いながら、結菜は宝石に魅入られたようにじっと見つめている。
「ああ、せやなー。ほんなら金持ちのエエ男見付けて、ソイツしっかり捕まえとかんとなー」
 体を起こし、苦笑混じりに言った久里子に結菜は首を横に振り、
「ううん。ちゃんとユイのお金で買うの。じゃないと、きっと大切って思えないから……」
 エメラルドから目を離す事なく、少しだけ声を大きくして言った。
(ええ子や……)
 ホロリ、と胸中で涙を零し、久里子は結菜の手を強く握り返した。
 きっかけは武流の場合と同じだった。自分が小さい頃に着ていて、大切に取っていたお気に入りのワンピースを結菜にプレゼントしてみたのだ。
 最初はやはりおどおどしていて、受け取る事を躊躇っていた。だが欲しがっているのは一目瞭然だった。体は引いていても目がずっと服の方を見つめているのだ。だからもう一押し、『要らなければ捨てるだけ』と言葉を付け加えてみた。
 効果はテキメンだった。

『ま、待って。お姉ちゃん……』

 あの時、結菜が言ってくれた言葉は今でもはっきり覚えている。
 お姉ちゃん。
 その一言がどれだけ心に染み渡ったか。武流も自分の事を“お姉ちゃん”と呼んではくれるが、少しニュアンスが違う。武流の場合は多分まだ“年上の女の人”としてしか見てくれていない。だが結菜の口から出たものは、まさに“姉”のソレだった。
 人の感情というのは意外と言葉に表れる。まだ幼くて自分を正直にしか表現できない人間であれば尚の事。だからその時に確信できた。
 そして今――いや、あれから毎日のように再確認している。
 結菜はプレゼントしたワンピースを本当に気に入ってくれた。あの日からずっと、結菜はその服だけを着てくれているのだから。
 透明感のある薄いピンクの生地。首元と裾部分に白いフリルがあしらわれたデザイン。自分もコレを着ている時は、まるでお姫様のような気分になったものだ。
「じゃあ、お洋服、見に行こ……」
 アクセサリーを見るのに満足したのか、結菜は手を引いて歩き出す。ソレに従い、久里子も結菜の歩幅に合わせて歩き始めた。
 とにかくこのワンピースのおかげで、結菜の自分に対する警戒心は一気に解けた。好きな物の感覚が同じで安心したんだろう。話してみれば気が合うかも知れないと思ってくれた。今まで何をやっても冷たく接され続けてきただけに、この喜びは一塩だった。
 それからは色んな洋服店を見て回った。色んな小物店を探し回った。一回行っただけの店もあった。何度も通った店もあった。そうやって結菜と二人で出かけるたびに、色んな話が出来て仲良くなれた。本当の姉妹に近付けているように思えた。
 今は夏休み。自分も結菜も基本的にずっと家に居る。だから自由に出かけられる。ソレは実に喜ばしい事だった。
 ただ、勉強に割ける時間は確実に減っているが……。
「なぁ、結菜ちゃん。なんか新しいの買ったろか? 服やったら一着くらい、別にええで」
 十階へと続く階段を上がりながら、久里子は隣りを歩く結菜に聞く。
「ううん。いい……。ちゃんとユイが買うから。今は、見てるだけで……」
 コチラに顔を向け、可愛く微笑みながら返す結菜。
(ええ子やぁ……)
 彼女の手を握っているのとは逆の手で拳を作り、久里子は天を仰ぎながら感動を鼻から吸い込んだ。
 もう何十回もこうして店に足を運んではいるが、結菜が何かを買って欲しいと言った事は一度も無い。ただ見ているだけでいいようだ。
 自分はまだ中学生。自由に使える金銭はそんなに多くはない。だから最初はそういう事に配慮してくれているのかと思っていたが、どうやらそうではないようだ。
 ちゃんと自分でお金を溜めて買う。
 何度も買ってあげようかと聞いたが、返ってくる答えは毎回同じだった。
 この年でこの堅実さ、恐れ入る。きっと将来は財布の紐の堅い、しっかり者になる事だろう。
 しかしソレはもう少し後でいい。もっと大きくなってからでいい。
「まぁまぁそう言わんと。お姉ちゃんに何かプレゼントさせてーな。そのワンピースずっと着てくれるんは嬉しいけど、たまには他のも着たいやろ?」
 だから今は少しくらい甘えて欲しい。お姉ちゃんらしい事をさせて欲しい。
 そうすればきっともっと親密度が上がるはず! そんな気がする! 多分! なんとなく!
「ううん、いい……。ユイ、この服大好き。お姉ちゃんは、いっしょに居てくれたら楽しいから」
 が、結菜はやはり断り、一生懸命足を動かして階段を上って行く。
(ホンマ可愛いわぁ……)
 自分が気に入っていた服を着ているというのもあるんだろうが、ソレ以上にこのチワワのぬいぐるみのような顔立ちが母性本能を悩殺してくれる。所構わず、ぎゅぎゅっと力一杯抱き締めたくなる。とにかく全てが愛くるし過ぎる。
 まぁ突然そんな事をすると、怯えてまた口を聞いてくれなさそうだからやらないが……。
 とにかく、サラサラツヤツヤの黒髪とか、クリクリのオメメとか、微妙に低い小鼻とかもまたポイント高い。もういっその事、生きた着せ替え人形とかにしてしまいたい程に――
「ユイは、ママと違うから……」
「……へ?」
 結菜の口から漏れた異質な言葉に、久里子はメルへンの世界から一気に引き戻された。
「無駄遣いとか、しないから……」
「ソレって、どういう……?」
 十階の洋服フロアを歩きながら久里子は聞く。しかし結菜は俯いて押し黙ったまま、何も返そうとはしない。
 二人は無言のまま、夏服や水着が色鮮やかに陳列された店内を歩き回り、
「お姉ちゃん……」
 一番外側の通路に沿って一周したところで、結菜がコチラを見上げて声を掛けてきた。
「ユイとずっといっしょに居てね」
 ――痛み。
(なんや……)
 胸の奥で生じた疼痛。ソレはどこか、罪悪感にも似た……。
「お、おぅ! 当たり前や! ウチらは家族なんやからな! いっつも一緒におるんは当然の事や! な!」
 力強く言い切った久里子に、結菜はぎこちない表情で笑った。
「うんっ……」
 そしてまた結菜は久里子の手を引き、フロアを見回しながら歩き始める。さっきまでよりは、ほんの少しだけ大きな歩幅で。
(そら、色々あるわな……)
 結菜の小さな背中を後ろから見つめながら、久里子は息苦しそうに顔をしかめる。
 結菜にも父親が居たはずなんだ。ひょっとすると武流以外の兄弟が居たかもしれない。
 しかし今は母親と兄の三人だけになって、見た事もない家で会った事もない二人と一緒に生活をしなければならなくなった。
 負担になっていないはずがない。精神的な傷を負っていないはずがない。
 結菜だって自分と同じだ。親の都合で無理を強いられた。少なからず自分の気持ちを殺さなければならなくなった。
 いや、同じではない。年が十も離れているんだ。結菜の方が辛いに決まっている。自分はまだ理屈でなんとか納得出来るが、結菜はそうはいかない。
 ただ黙って、じっと耐えるしかない。自分ではどうする事も出来ない不条理を、ただひたすら我慢するしかない。こんな、小さな子が……。
 まだだ。まだ足りない。自分はもっと大人にならなければならない。
 もっと自分の事より周りの事を優先的に考えて、結菜や武流から重荷を取り除いてやらなければならない。
 ソレが“姉”としての努めだ。義務なんだ。
 今の環境を受け入れると決心した以上、そのくらいの事はやり通さなければならない。
(よっしゃ!)
 なんだか元気が出てきた。気合いが漲ってきた。絶対にやり通せる自信が出てきた。
 自分達は家族になる。血の繋がりは無くとも、ソレ以上に濃い絆で結ばれた家族になる。必ずなってみせる。
 もう迷いは無い。微塵だって――

 夏の日は長い。
 六時過ぎまでウィンドウショッピングを続け、帰宅して五人で仲良く夕飯。沢山歩いたし、心の迷いも晴れたしで、久しぶりに料理の味をゆっくり楽しむ事が出来た気がする。
 食後、少し休憩してから入浴。結菜も誘ったのだが、やんわりと断られてしまった。裸の付き合いをするには、まだ早いようだ。
 そして風呂上がり後の自室。冷蔵庫にあったフルーツ牛乳を飲みながら机の前に座る。
 昼間の疲れで少し眠いがそんな事は言ってられない。
 自分は受験生。本来なら寝る間も惜しんで勉強に励まなければならない。甘い事は言ってられない。
「よっしゃ!」
 フルーツ牛乳を飲み干して机の隅に置き、ステンレス製のブックスタンドから英語の参考書を抜き取る。そしてポータブルのCDプレイヤーを引き出しから取り出した。
 自分はどうもリスニングが苦手な気がする。あの力の籠もっていない喋りが好きになれないせいか、定期考査や模試ではいつもこの分野が足を引っ張っている。
 この教科はとにかく聞き慣れるしかない。CDを何度も何度も聞いて、耳の音域を英語の波長にまで持っていくしかない。
 イヤホンを耳にセットし、CDをスタートさせる。すぐに流れ出してくる英語独特の発音と発声。
(気合いや!)
 久里子は意識をその声に集中させ、頭の中で英文を構築していく。問題文を聞き取り、正解と思われる選択肢にチェックを付ける。その作業を五題分ほど繰り返し、
(ん……?)
 視界の隅に何か動く物を見付けて――
「ちょ……!」
 イヤホンを乱暴に外して椅子から立ち上がった。
「武流!」
 久里子の声にビクッ! と体を震わせ、クローゼットの中を物色していた武流は恐る恐るコチラを振り向く。
「お、オッス! オレ武流!」
「……ンなこたわーっとる」
 シュタッ! と直立し、右腕を高々と掲げて叫んだ武流に、久里子は半眼を向けながら近付いた。
「アンタ、何しとんねん」
「も、もっち部屋掃除だぜぃ! ねーちゃんなってねーからなぁ」
 短い腕を組んでうんうんと頷く武流に、久里子は両腕をゆらりと伸ばし、
「人のモン、勝手に、触んな、ゆーてる、やっ、ろっ!」
「あだだだだだだだだだだだだだだだだ!」
 握り込んだ拳から中指を少しだけ立たせ、武流の脳天に押しつける。身をよじって逃げようとする武流のいがぐり頭を逆の手で押さえつけ、久里子はそのまま五秒ほど拷問を加え続けた。
「いってー! いってー! もー何なんだよー!」
 ようやく抜け出し、武流は頭を痛そうに押さえながら涙目を向けてくる。
「そらコッチのセリフや。人の部屋で何コソコソしとんねん」
「コソコソなんかしてない! 堂々とあさりに来たのさ!」
「口でゆーても分からん奴は、体で分からせるしかないよーやな」
 両手の骨を鳴らす動作をしながら、久里子はまたゆっくりと武流に近付いた。
「あー! タンマタンマー! ちょっとタンマー! だってだって! ねーちゃんに言っても何も言わないんだもん!」
「ったく……」
 クローゼットの中にすっぽりと身を隠し、ダンボールの一つに入り込んだ武流に、久里子は諦めたように溜息を付いた。
 まぁ、イヤホンをしていて聞こえなかった自分にも少しは落ち度があるか。どうやらちゃんと断りは入れていたようだから、今回のところは許してやろう。
「どーせまた、ぬいぐるみやろー? アンタが今入っとる箱に何個かあるわ。好きなん持っていき」
 そしてもう一度椅子に座り直し、少し水気を含んだストレートの黒髪を掻き上げた。
「うっひょー! あんがとー! ねーちゃん話せるー!」
「……どこで覚えてくんねん、そんな言葉」
 活き活きとした表情でダンボール箱の中身をひっくり返し始める武流を見ながら、久里子は机に片肘を付いて体の力を抜く。
 武流は最初からずっと変わらない。初めて会った時から明るくて、元気が良くて、ちょっと調子乗りで、やんちゃで、でも家の中で遊んでいるのが好きで……。
(この子は、どない思ーとるんやろ……)
 親同士の都合で一緒に暮らす事になった、自分や父親の事を。今のこの環境を。
 もう一年が経つ。
 辛くはないんだろうか。無理はしてないだろうか。必死に耐えようとしてないだろうか。
 それとも、まだ理解していないんだろうか。
 まだ、家族になったという認識はないんだろうか。ただ単に、人の家に長期滞在しているとしか……。
「なぁ、武流……」
「んー?」
 クローゼットの中から適当な声が返ってくる。ぬいぐるみを探す事に夢中で、他の事はどうでもいいといった様子だ。
「あん、なぁ……」
「なにー?」
 条件反射的に返してくる武流。しかしどうしても言葉が続かない。
 なんと言えば良い。どういう聞き方をすれば、自然に答えてくれるというんだ。
 お前は自分の置かれている状況をどう捉えている? 一年前、自分の母親と知らない男が結んだ契約を理解しているのか? もう元の家には戻れないという事を、ちゃんと分かっているのか?
 ……駄目だ。そんな無神経な質問、とても出来ない。
 もっと軽く。もっと普通に聞くには。
 この家は好き? お父さんと遊ぶのは楽しい? 自分の事を、どう思っている?
 ……無理だ。言えない。そんな事をして、武流から答えを聞くのが恐い。
 もし一年前と何も変わっていなかったら。もし自分がこの一年してきた事が無意味だったと分かってしまったのなら……。
 これから先、ひょっとしたら頑張る事が出来なくなるかも知れない。どうせ無駄なんだからと手を抜くかも知れない。
 ソレは駄目だ。そんな考えでは家族になれない。本当の家族には、決して――
「ぬいぐるみで遊ぶん、おもろいか……?」
「うんっ。そりゃもうサイコーに!」
 だとしたら、本当の事を知ってしまうのは酷かも知れない。
 自分にとっても、そして武流にとっても。
 必要な嘘はある。今を幸せに過ごすために、つかなければならない嘘は確実にある。
 もし武流が真実を知らないで……知らないからこそ、こうして楽しく過ごせているのなら、ソレは決して邪魔するべきではない。少なくとも他人の口から本当の事を知らせるべきではない。
 もう少し時間が経って、自ら現状を認知した時、もし支えが必要なのであれば手を差し伸べる。きっと自分はそういう立場を守るべきなんだ。
 だから今は、そんな難しい話はしないのが正解なんだ。
 武流にとっても、そして自分にとっても。
「ぬいぐるみってさ、何も言わないんだよ」
 やっと目的の物を見付けられたのか、武流は両手にアヒルとペンギンのぬいぐるみを持ってクローゼットから出てきた。
「自分の好きにできるんだ。何しても文句言わないんだ」
「好きに……?」
 無邪気に言う武流に違和感を覚え、久里子は聞き返す。
「そうっ。夜に話しかけたりしても文句言わないし、一緒にトイレに付いて行ってもらっても文句言わないし、ずっと見張り役させてても文句言わないんだ。ぬいぐるみサイコー!」
 なんだ、そういう事か……。少しでも変な想像をしてしまった自分が情けない。
 武流は根は良い子なんだ。若干配慮に欠けるところがあるが、まだ五歳。少し我が強いくらいで丁度良い。
「あとね、オレぬいぐるみにお話考えるのが好きなんだ」
「お話?」
 自分のすぐ側まで来て得意げに見上げる武流に、久里子は柔らかい声で返した。
「そうっ。コイツはわるい王様だとか、コイツはビンボーだけどガンバってる奴だとか。女のフリしてホントはヤクザだとか。アタマの中で色々考えて、それで戦わせたりするとスンゴク楽しいんだ」
「ぷっ」
 澄んだ目を輝かせて楽しそうにまくし立てる武流に、久里子は思わず小さく吹く。
「……なんだよー」
「あー、スマンスマン。別にバカにするとかそーゆーんやないねん。ただアンタ、オモロイやっちゃなぁ思ーてな」
 そうやって喋っている間にも笑いはどんどん込み上げてくる。あまりに微笑ましすぎて。
「悪い奴はシケイだよ。クビ切りしちゃうよ」
「あー、ホンマすまんすまん。まぁそんなぬいぐるみで良かったら、いくらでも持ってってくれ。なんやったら武流の好きなん、一個くらい買ったろか?」
「ホント!?」
 何となく言ってみた久里子の言葉に、武流は顔を喜色に染め上げて身を乗り出してくる。
(こらまたエライ素直なこって……)
 奥ゆかしい結菜とは真逆の反応だが、コチラの方が年相応に見える。やはり女の子の方が精神年齢が高いのだろうか。
「あ、あー。ゆーとくけど、そんな高いんはアカンで。まぁ二、三千円くらいまでのにしといてや」
「うんっ! やったー! 前はねー、ママがいっぱい買ってくれたんだけど、今は全然になっちゃってたから! イツ行く!? すぐ!? 今日!? 今!?」
「い、今からはさすがになー。ほんなら明日、一緒に見に行こか?」
「うっし!」
 身を屈めてガッツポーズを取り、武流は全身で喜びを表現する。
 まぁこんなに喜んでくれるんなら、少しくらいの出費は十分目を瞑れるか……。
 そんな事を考えながら、久里子は武流のいがぐり頭を優しく撫でた。

 それからも結菜と武流との距離は、驚く程順調に縮んでいった。
 武流はたびたび自分の布団に潜り込んでは一緒に寝たいと言ってくれるようになったし、結菜は誘えばお風呂に付き合ってくれるようにまでなった。
 美里は相変わらず気さくで、いつもニコニコしていて親しみが持てる。そして何より父と本当に仲が良く、武流と結菜を寝かしつけた後に二人で談話している姿を見かけたりすると心が和む。ちゃんと父を支えてくれているんだと実感できる。そして父も、母を失った苦しみから徐々に解き放たれているのが分かる。
 ソレは少し寂しい事ではあるけれど、父がずっと抱えたままでふさぎ込んでしまうよりは余程良い。
 だからコレで良いんだ。このまま円満な家庭を築き上げ、そしてこの先ずっと維持していくんだ。
 全ては順調だった。
 自分の成績の事を除けば。

『なぁ、嶋比良。お前の家の事情は先生も聞いとる。色々あったんや思う。せやから別にお前を責めるとか、そーゆーつもりは一切無い。ただ、な。西女は難しいんちゃうか? 志望校のランク、下げた方がええんちゃうか?』
 
 考えてみれば当たり前の事だ。他の人達に比べて、勉強量が圧倒的に足りなかった。
 夏休みは殆ど毎日のように武流や結菜と過ごしていた。美里が勉強の邪魔をしてはいけないと二人に言ってくれたが、それでも自分は二人と過ごす事を選んだ。穴を開ける事で、また二人の気持ちが離れていってしまうのではないかと思うと恐かった。
 だからコレは当然の結果だ。
 そのまま受け入れられて、何の疑問も抱かずに納得できる至極当然の結果。
 冬休み前になっても成績が戻らない自分を見かねて、先生が生徒指導室に呼び出してくれたのも、極めて自然な事だ。そして先生の忠言通り、志望校を身の丈にあった物に変えるというのが賢い選択なんだろう。
 だが、絶対にそんな事はしたくなかった。
 成績が下がった原因を家族のせいになどしたくなかった。
 そんな事をすれば、これからどんどん自分に言い訳してしまう。アレが出来なかったのも、コレが出来なかったのも、元を正せばみんな家族が悪いという事になってしまう。
 一度の甘えは、一生を滅ぼす。
 だから久里子は志望校を変えなかった。
 家族と過ごす時間を変える事なく、睡眠時間を削って勉強にあてた。登下校中は勿論の事、風呂場やトイレでも。とにかくありとあらゆる所から時間を捻出して勉強につぎ込んだ。
 そして西園寺女子高等学校に挑んだ。
 結果は、不合格だった――







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